読書ざんまいよせい(076)

◎巌窟王(巖窟王)(上 002)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 一一 宛名は誰れ

呼出された友太郎の入つて來る迄に、蛭峰檢事補は自分の事を考へた、イヤ考へるともなく自分の身の上が胸に浮んだ。

尤も胸に浮ばずには居られぬ際である、米良田めらだ家といふ樣な勢力ある貴族の婿になれば追々出世の道も開けるに極つて居る、其れに妻たるべき姫君禮子は顏も心も美しい上に六萬圓の婚資を持つて居る、六萬圓といへば檢事補の月給の幾十年分にも當るだらう。

此樣なことまで急がしく腹の中で計算するは嬉しさの滿々て居る爲である、婚資の外に、禮子の父が死ねば、其財産が廿萬圓、之も禮子の物になる、母が死んでも凡そ其れに近い財産が矢張り禮子に轉がり込む、禮子の物は我物である、唯一つ氣に掛るのは自分の父の野々内が今以て革命家か謀反人かの樣に世間から疑はれて、其れがやゝもすれば自分の出世の邪魔になる一事である、此の一事を除けば自分の前途は晴々と晴れて居る。

此樣な考へが未だ充分には了らぬ所へ友太郎が這入つて來た、蛭峰はあわてゝ自分の顏から嬉しさの色を取退け、職務相當の眞面目な面持を現はした。

友太郎を連れて來た捕吏の長は先づ蛭峰の傍に來て小聲で以て捕縛の次第を報告し、さうして蛭峰から、其掛引の宜しきを得た事を賞讚せられて立去つた、後には蛭峰と團友太郎と唯二人の差向ひである。

蛭峰は先づ友太郎の顏を見るに全くの美少年で、少年の正直と、少年の熱心とがおもてに現はれて居る、仲々恐ろしい國事犯とは思はれぬ、其れに先刻禮子から云はれた優しい慈悲深い言葉も耳の底にだ殘つて居るから、此人の今までに殆ど例のないほど柔和な聲を出して「貴方が團友太郎ですか」

友「ハイ」蛭「年は」友「十九歳」蛭「何の樣な所から拘引されました」友太郎はいさゝか力を込めて「オヽ私は、婚禮の席から拘引せられたのです、三年まへから許婚に成つて居る女と、今日 愈々いよ〳〵婚禮することになり、式場へ臨む前に、知人しりびとを饗應して居ますと其席へ捕吏が踏込んで參りました」何と自分の境遇に能く似た事ではあると蛭峰は又 いさゝか同情を深くした。

同情は好いけれど只此同情が何時まで續くかゞ疑問である、蛭「其れから、サアもつと言葉を續けなさい」友「此外に何も續けていふ事がありません、お聞下されば何事でも」尤も千萬な答へではあるが、何の意見も何の罪もないのに捕へられたのだから言立てることは一つもないのだ。蛭「貴方は横領者に使はれた事はありますか」

横領者とは拿翁なぽれおんの事である、王の位を横領したと云ふ所で王權黨は皆斯ういふのだ、友太郎が若し拿翁なぽれおん黨の者なら此言葉に幾分不快を感ずる所だけれど、彼れは何とも感ぜぬ「ハイ水兵になる願書を出したことはあります」蛭「貴方の政治上の意見は」友太郎は呆れた顏で「何で私に政治上の意見などがありませう、年が若くて未だ政治のことなど少しも分りません」蛭「政治上でなくとも、平生何か意見を持つて居ませう」友太郎は少し考へ「ハイ、父を大切に思ひます、雇主森江氏を敬ひます、さうそて許婚のお露を可愛いと思ひます、是れが若し意見ならば、平生の意見は唯だ是丈これだけです」

殆ど婀娜あどけない程の返事である、蛭峰は益々感心して決して此男は罪人で無いと思ひ、此樣なのは放免する方が却つて上長に贊成せられて自然自分の出世の端にもなり禮子にも喜ばれると思つた、おほやけには長官のお襃めを得、わたしには美人に嬉しい顏をされるは決して蛭峰の喜ばぬ所ではない、蛭「貴方は誰かに怨まれてゞも居るのですか」友「少しも怨まれる心當りは有りません」蛭「しか廿歳はたち未滿で船長にも成るといふのは異數の出世ですから、怨まぬ迄も羨む人はあるに違ひない、常に能く其邊氣を注けて居ねば何の樣な害に逢ふかも知れません」

尋問ではない寧ろ相談が忠告の樣である。

友「ハイ氣を注けましても、別に私を怨む人は決してないと思ひます」蛭峰は全く友太郎の清淨な事を信じた。「フム、貴方は全く正直な少年らしい、私も極寛大に、常の規則からは外れますけれど、ソレ是れを見せて上げます、此手紙を誰が書いたか心當りはありませんか」斯う云つて差出したのは彼の段倉が左の手でしたゝめた例の密告状である、友太郎は受取つて讀んだけれど、勿論わざと筆蹟を變へて書いて有るのだから心當りのある筈がない、友「誰が書いたか少しも分りません」蛭「しかし此手紙に書いてある事柄は事實ですか」友太郎はいさゝか眉根をひそめつつ「ハイ何うして此樣なことを知つた人がありますか、全く、餘ほど事實に近いのです」何たる有體ありていな返事だらう。蛭「では事實を有の儘に言つて御覽なさい」友太郎は森江氏に語つた通り、船長呉氏の死際に拿翁なぽれおんの居るエルバの島へ立寄つて、是をベルトラン將軍に渡せと小包を托せられた事を語り、「船長の言葉は總て命令と聞かねばなりませんから、私は其通りに致しました、さうしてエルバの島へ上陸し將軍に面會を求めますと容易に許される容子はなかツたのですが、若し面會が六かしい時は是を示せとて、一個ひとつの指環を渡されて居ましたから、其れを出して示しますと直に一室ひとまへ通されました」とて、面會の一部始終を述べ、最後に至り森江氏にさへ明かに言はなかつた祕密まで話し「船長の言葉には此小包さへ渡せば多分將軍から巴里へ送る手紙を托されるで有らうから、直に其手紙を持つて巴里へ行き、直々に宛名の人へ手渡しせよ、決して何人にも見せ、又は聞かせてならぬと言はれました、果して其言葉通り、面會の終る時に將軍から手紙を托されました故私は今日こんにち婚禮が濟めば明日直に其手紙を以て巴里へ立つ積でした、イヤ今も其積りです」

蛭峰は呟いた「アヽ貴方は無意識に國事犯の道具に使はれ掛けたのです、勿論貴方には罪はないのです、直に放免の手續きを運んで上げます」もとより直に放免せられるものとは期して居たけれど友太郎は眞實に感謝した「貴方の御親切はきもに銘じます」蛭「將軍の渡した其手紙といふは巴里の黨員と何事をか打合すものだらう、其手紙を私へお渡しなさい」友「う捕吏に取上げられました、其の貴方の卓子てーぶるの上に在るのが其の手紙です」蛭「オヤさうですか、巴里の誰れあに當たものか知らん」と蛭峰は呟いて卓子てーぶるから其手紙を取上て上封の宛名を見た。

若し雷が頭上に落ちても蛭峰は斯う迄は驚かぬであらう、彼は宛名を見て全く震へ上つた、何うだらう「ヘロン街十三番地にて野々内殿」とある、野々内とは自分の父なのだ。
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