読書ざんまいよせい(097)

巖窟王(下 その10)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
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Youtube 【原作朗読】モンテ・クリスト伯(巌窟王) 114「ペッピーノ」
Youtube 【原作朗読】最終回・モンテ・クリスト伯(巌窟王) 117「十月五日」

巖窟王 : 二六五 斷末魔・一

蛭峰がつんのめる樣に歩み寄つた其戸口の番人さへも呆氣に取られて居る、彼は戸を開けて好いか開けぬが好いかをさへ知らぬ、けれど蛭峰を遮る勇氣は無い、あわてゝ戸を開いた、蛭峰は出で去ツた。

後で裁判所の混雜は一方ならぬ、今まで魔睡した樣に成つて居た傍聽一同、初めに徐々に、次は急に、最後は海嘯つなみの推寄せる程の勢で、目が覺めた、眞に意外な、恐ろしい裁判で有ツた、イヤ裁判には成らずに止んだ、けれど此樣な事を見た事が無い、口々に驚きや訝かりや樣々の事を語り合ひ初めた、かなへの湧く景状ありさまである、流石の判事一同及び裁判長までも蛭峰の去つて暫しの間は、唯だ顏を見合せて、唖の状であツた、けれど遂に氣が附いて裁判長は宣言した「今日の裁判は之で延期と致し、次囘の開廷期へ讓ります、其間に必ず豫審の調べ直しと爲り、爾して裁判官の人を替へ更に裁判するに至るでせう」吾々は最早斯樣な裁判は取扱ひ得ぬとの意を含んで居るのだ、裁判長が是れほど迄に云ふは前後に殆ど類が無い、陪席判事も陪審員も、無言で有るけれど、再び斯樣な恐ろしい裁判に關與たづさはり得ぬとの事は同感らしい。

傍聽人の言つて居る事柄などは千状萬態で茲に一々記す事は出來ぬけれど「被告辨太郎は何うなるのだらう」と云ひ「蛭峰の舊惡には驚いた」と云ひ「親が子を論告して、反對に子より舊惡をあばかれるとは全く天のするわざだ」など云ふのは多かツた、併し大抵の人が辨太郎は眞逆に死刑には成らぬだらう、情状を酌量して終身刑に處せられるだらうと云つた可なり法律に通じた人も無論爾さと云つて居た。

其れはて置き、戸を開いて出た蛭峰の状は見ものである、彼は帽子を冠る事さへ知らぬは勿論の事、其身が足で歩して居るか頭で歩して居るかをも辯ぜぬ容子である、夢遊病の患者が歩む樣にフラ〳〵と歩み石廊に出て走つた、茲には入後れた傍聽人や、他の裁判の室へ出入りする人などが蟻集ぎしふして居る、此人々は、一人中から出て來る者の有る度に取圍んで中の容子を爭ひ聞くので、直に蛭峰の周圍まはりへ馳寄つた、けれど一目蛭峰の顏を見て飛び退いた。

實に蛭峰の顏は誰とて飛び退かぬ事の出來ぬほど物凄い、筋と云ふ筋には悉く血がみなぎつて隆起して居る、血走つたまなこの光り、引痙ひきつつた頬のゆがみ、怒れる虎よりも恐ろしい、誰が此前に立つことが出來やう、全く蛭峰は無人の境地を行く如く群衆の中を通り裁判所の出口まで出た、幸茲に居合せたのが彼の馬車である、彼は誰の馬車とも見分けずに之に乘つた、馭者は問ふた「お歸りですか」蛭峰は返辭をせぬ、返辭の無いのは歸るのだらうと馭者は氣を利かせて家の方へ馬車を向けた、全く蛭峰の身には、今裁判所の中で力の盡きた反動が出て來た、死人の樣に見えて居た彼の顏は火の樣になツた、震へて居た齒の根は切齒はぎしりする樣に堅く結ばれた、手は手のひらへ爪の立つ程に握り詰めた、爾して腦髓も電光の如く忙しく動き初めた、けれど腦髓が動けば動くほど益々逃れる道の無い其身の末運が合點が行くのだ、此後を何うして好いか思案が浮ばぬ、彼は考へて又考へた、何うしても思案の無い苦しさに又叫んだ「考へるだけ無益だ、無益だ、本統に、神の手で罰せられたもの、何としたとて逃れる事が出來る者か」

叫びつゝ狼が檻の中を見廻す如く馬車の中を見廻したが膝の脇なるしとねの上に一本の扇子の有るのが目に留まツた、是は今朝彼の妻が自分で乘つて用逹ようたしに出る積りで外の品と共に入れたのをツイ取殘して置いたのだ、此小さい一物が大なる動機である。

初め彼、心も無く之を取上げたが、手に置いて見直すと共に、忽ち妻の事を思ひ出した、彼は不意に痛みを受けた樣に叫喚した、あゝ彼は家を出る時其妻に何と云ツた、家の恥辱を雪ぐ爲め毒藥を以て自殺せよと命じた、退引のつぴきの成らぬ樣に鐡案を宣告した、今は何うである、妻に此樣な宣告をする資格が有るだらうか、妻が家名を汚さぬうちに自分が家名を汚したのだ、妻の汚し方よりも幾倍重い、其れも事實を云へば今の妻を迎へぬ先に汚して居たのだ、今は唯だ其事を露見したと云ふに過ぎぬ、此樣な身を以て妻に家名を汚すなとは何うして云つた、妻を死なせるならば自分が先に死なねば成らぬ妻には毒害せねば死刑臺に上されるぞとの意を繰返し〳〵言つておどして、アヽ死刑臺は自分の方が當然に上る可きである、此樣な者の妻となつたればこそ所天をつとの心中に潛んで居る極惡が妻の身に感染したのだ、此樣な者の妻となつて、誰だとて惡人と成らずに居られる者か、鬼の妻に鬼神と云ふは是である「アヽ何うしても妻を死なせては成らぬ、斯うなれば最う破れかぶれだ、妻を引連れ世界の果へまで出奔しやう」惡人の後悔は善人の後悔とは違ふ、善人は後悔して善に還り、惡人は惡を遺して逃れるのだ、惡を遂げるとは此事である、彼は全く其氣に成つた、何でも妻と逃れる外は無いとは云へ妻は猶だ活て居るだらうか、先刻鐡案を宣告して家を出てより未だ二時間とは經ぬ、毒を呑んで死ぬるにしても後に殘る兒供の手當や、其外にも用意が有らう、急いで歸れば未だ死なぬ所へ行く見込は有る。

斯う思ふと共に、彼は突然 かうべを馬車の窓の外に出し、馭者に令した「早く家へ、早く、早く」

やがて家には着いた、飛ぶ樣に内へ入り妻の室に馳せ附けた生憎戸に錠が卸りて居る、アヽ遲かツたかと彼は胸を突かれる樣に感じた、けれど叩いて見ると、中で何だか物音がする、有難や猶だ活て居るのかと思ひ「開けろ、開けろ」眞に聲を限りである、けれど開けぬ、彼は全身の重さを以て幾度も戸に突當り、漸くに戸を破り得た、爾して轉がる如くに中に入れば妻は室の隅に立て居る、けれど最う遲過ぎた、今までは未練な心で死にも得せずに居たけれど所天をつとの戸を叩く荒々しい音を聞き愈々逃れぬ時が來たと知り、戸の破れると同時に最後の毒藥を仰ぎ呑んだ、立て居たのは是から倒れんとする所で有ツたのだ、「オヽ」と叫んで蛭峰が近づくと同時に呑み乾て空になツた硝子瓶が力の無い手から落ちた。

巖窟王 : 二六六 斷末魔・二

苦しみの時間は短くても長い、一夜の間に頭が全く白髮しらがになる人さへ有る、此樣なのは、一夜に人生の五十年の苦しみを仕つくすのだ、蛭峰が裁判所から我家へ歸る馬車の間は、時間にすれば極短かツた、けれど苦しみは長かツた、彼に取つては殆ど五年十年にも向ツた。

彼は其間に、浸々しみ〴〵と自分の惡人と云ふ事を感じた、惡を懲らす天の裁判が今は自分の身に降ツたと知り、幾度と無く、「天の裁判」と云ふ言葉を口走ツた、其れのみで無い、自分が妻の惡事を咎めるのが無理と云ふ事も思ひ、何うしても妻が自殺せぬ間に歸らねば成らぬとあせり、引續いては息子重吉の事にも思ひ及ぼし、斯うなる上は妻と二人で重吉を連れて他國へ逃げ、夫婦とも善人に歸り、唯だ子を慈しむ愛の一心を以て餘命を幸ひに送られる樣に思ふた、彼の心は唯だ此一念に集注し、妻の室の戸を破ツて其中へ轉がる如く入つた時は、他の事は何にも思はなかつた。

轉がり込んで、中に立つて居る妻の姿を見た時には唯だ安心した、妻の手から空瓶の落ちた事も知らぬ、其立つて居るのは之からたふれるのだと云ふ事も知らぬ、單に未だ活て居る者と思ふ嬉しさの爲に、彼は有難涙を埀らした、今まで怒漲して居た滿面滿身の神經が、又悉く一時に茲で弛まうとした、彼は兩手を擴げ「オヽ、妻か、未だ生きて居て呉れたのか」と叫び、殆ど抱き附かうとしたが、此時に初めて氣が附いた。

勿論多量の毒藥を呑んで、今死んで倒れんとする許りの人だから相格に違ツた所が有る、彼が先ほど裁判の室から蹌踉よろめき出て、廊下に滿ちて居る人々を驚かせ逃去らせた時の顏と今彼の見る妻の顏と何方どつちが恐ろしいだらう、彼は裁判所の群衆が彼から逡巡しりごみした如く今妻の身から踟蹰たぢろいだ、妻は倒れ伏さうとして、彼が退くだけ進み出で、最早や此世の聲では無い聲で「お言葉の通り、自分で、自分の身を裁判しました是れで貴方は御滿足でせう」無限の恨みを帶びて云ひ、戸口の所まで蛭峰を追ふて倒れた、是れが四人まで人を毒害した蛭峰夫人の最後である、人を殺す毒藥が最後に身を殺す事とは爲つたのだ。

蛭峰は倒れた妻の身にしがみ附く所だけれど、今見た景状ありさまの物凄さと自分の罪の恐ろしさに其勇氣が無く、唯だ「あつ」と叫んで逃げて彼は何處へ行く、何處とも知らず自分の室に走り入らんとしたが、直に又思ひ出した、妻は死んでも息子重吉が殘つて居る、重吉を連れて逃亡せねば成らぬ、嗚呼重吉は何處に居る「重吉、重吉」と呼立つる聲は空な家中に山彦の如くに響いた、今は下女下男も逃去ツて返辭する者が無い、彼は三度叫んだ「重吉、重吉は居ぬか、重吉は何處に居る」自分の聲が直に自分の身へ襲ひ返る樣に感ぜられて恐れは益々加はるのみである、遂に一人此問に返辭した者がある、其れは隱居所なる野々内彈正の傍に使はれて居る下男である、「若樣は先刻奧樣がお呼びになり、奧樣のお居間へ入つて其れ切出ていらツしやらぬ樣です」其れでは今妻の死んだアノ室の何處かに重吉も居たのか知らん。

既に血眼に成つて居る蛭峰は、まなこから火焔ほのほを射て又も妻の室に飛んで行つた、此室に入るのは恨を帶て戸口に倒れて居る妻の身を跨ぎ越えねば成らぬ、鬼胎の極に逹して居る彼の神經には其れ丈の勇氣が無い「重吉は居るか」と又叫んだが答へが無い、今度は恐る〳〵にかうべを差延べ、室の中をのぞいて見た、一方の隅に在る長椅子に、有難や重吉は眠ツて居る、イヤ眠つて居るのだらう、横に成つて頭のみ見えて居る「オヽ重吉、居て呉れたか」と云ひ、嬉しさに我知らず妻の死骸を飛び越えて其傍に行き、膝を折つて重吉の背に手を當て、「オヽ何にも知らずに眠ツて居る汝の可愛さ、コレ重吉、父は若い頃からの不心得の爲め、汝をまでも母の無い子にして了つた、許して呉れ、許して呉れ、其代り、今から、此父が汝を遠い所へ連て行つて可愛がツて遣る、父は最う汝の外に、此世に可愛と思ふ者は無い、氣を紛らせる者さへ無い、サア父が抱いて遣る、目を覺せ、目を覺せ、いたはツて抱き上げた、其身體は早冷え切つて石の如しである、眠ツて居ると思ツたのは死んで居るのだ、「エ、エ、エ」と蛭峰は三聲三樣に叫び分け、其頬に顏を當てた、けれど生氣は殘つて居ぬ「、何うして死んだ、誰が殺した」死骸の上に俯伏うつぶして正體も無い程に見えたが、暫くして跳返される樣に立ち、室中を見廻すと、初めて目に付いたは卓子てーぶるの上の手紙である、此れは妻の書置きなのだ、取上げて讀むと文は短い「私は善き母にて候、重吉の爲に四人まで人を殺し候、今は貴方の裁判に服し候、爾れど善き母は子を捨て去る者に之れ無く候、重吉引連れて此世を立去り候」唯だ之だけである、妻が其身よりも先づ重吉を殺したのだ、四人死んだ其上に妻、其上に又子、全く蛭峰の家の種は盡きた。

彼は泣くに涙も無い、何うして善いか其れも分らぬ、最う何でも生て居る顏を見ねば自分の心が消え入つて了ふ、誰にでも好いから一言慰めて貰ひ度い、茲が即ち人間最後の弱點と云ふ者であらう、悲しみ極まれば誰かに慰めて貰ひ度い、下僕しもべにでもい、飼犬にでも構はぬ、彼は斯る窮地に逹した、誰に慰めて貰はうか、誰にとても最う全身不隨の野々内彈正の外に此家には人は無い、口の利けぬ相手でも好い、未だ活て居る其人の顏を一目見るだけでも、死に顏から得た感想の幾分かを埋合す事が出來るだらう、彼は再び妻の身を踏越え逃げ、隱居所に入つた、あたかも獵夫の懷に入る窮鳥の状である、此隱居所で彼を迎へたのは誰れぞ、彼は彈正の外に誰も居ぬ事と思つてゐた、所が他の人が來てゐた、其れは伊國いたりやの暮内法師である。

巖窟王 : 二六七 斷末魔・三

世には蛭峰の不幸ほど甚だしい不幸のためしが有るだらうか、自分の舊惡は露見した、而も巴里中の紳士貴婦人の集まつて居る裁判所で、其舊惡の活た證跡とも云ふ可き私生兒に罵られて名譽ある大檢事席から引降ろされ逃げて我家に歸つて見れば、妻は死んだ、息子は死んだ、一家一族の種が盡きて了つた、最早誰でも好い、活た人の顏を見たい、活た人の聲を聞き度い、爾無くば發狂して了ふ、イヤ最うなかば發狂して居るかも知れぬ、彼が父彈正の隱居所へ飛び込んだ容體は殆ど發狂人の状である、顏の色、目の色、前額ひたひの筋、口の歪み、人ならずば鬼、鬼ならずば狂人である、彼は此状で暮内法師に出會でつくはした「ヤ、ヤ、貴方は何うして此家に」と叫んだ。

法師も彼の物凄い顏には流石に驚き、思はず背後うしろへ退かんとしたが、直に踏留まり、其上に裁判所の一條をも見て取つた、最早法師も自分の本性を露出むきだして、彼に宣告する時が來たと思ふた、法師の目は忽ち輝いた、其柔和忍辱の相はにはかに侵し難い程の嚴重な相に變じた、爾してきつと蛭峰の顏を睨み附くること凡そ二分間にも及んだが、やがて熱い熱い息を蛭峰に吹掛つゝ大喝した「蛭峰さん能くお聞き成さい、今日こんにち私が茲に來たのは、最早貴方天罰が加はツたと思ひますから、其天罰の譯を言ひ聞かせて上る爲です」今度は蛭峰の方が逡巡しりごみした「エ、私に天罰、其樣な事を云ふ貴方は誰です、法師では無いのですか、確に其聲は」法師「ハイ聞覺えの有る筈です、此顏を御覽なさい」云ひつつかしらから頭巾を取捨て、顏に施した樣々の假相を拭ひ捨つれば、黒い艷ある髮の毛が額に懸ツて、法師は變じて巖窟島伯爵の姿が現はれた、蛭峰は驚いたけれど退きはせぬ、身を引延ばす樣にして伯爵の顏を熟々つく〴〵見「さては、さては、昨日迄も怪しい奴と見込を附け、調に調を盡して見た巖窟島伯爵」伯爵「サア巖窟島伯爵が、巖窟島伯爵と見えますか、猶其前に遡ツてお考へ成さい」蛭峰「前に遡れば、確かに何處かで見覺えある其顏、聞覺えのある其聲」伯爵「爾です見覺え聞覺えは、今から二十四年前です、馬耳塞まるせーゆに於てゞす、貴方が米良田伯爵家の令孃禮子と結婚した頃の事をお考へ成さい」蛭峰「さては其頃の戀のかたきでゞも」伯爵は「戀のかたき、戀の敵」といやしむ樣な口調で繰返して冷やかに笑ひ「ハハ戀のかたきが是ほど執念深い者でせうか戀と云ふくらゐの事で人を恨む者が、一生涯を復讐の爲に捧げませうか」人を冷殺し又熱殺するとは此口調である、蛭峰の胸には怪しさが滿ちて居たが今は恐ろしさと爲ツた、彼は身を震はせた「エ、戀のかたきで無い、暮内法師で無い、巖窟島伯爵で無い、何者です、何者です、一生涯を復讐に捧げるとは餘ほど」伯爵「ハイ餘ほど深い恨みには違ひ無いのです」蛭峰「其れ程に此蛭峰が、貴方に殘酷な事でも仕たのですか」伯爵「せずば此樣な天罰が貴方に加はる筈が有りません、貴方は此頃の引續く不幸の數々を天の怒りとは思ひませんか、人間業で此樣な事が出來ませうか、貴方の罪惡は天の咎めを招いたのです、貴方は既に忘れましたか、自分で氣が附かぬと云ふのですか、曾て自分の野心の爲に、罪の無い者を罰した事が有りませんか、貴方は人をして生きながら地獄の責苦を受しめました、斯く云ふ私の生涯を犧牲にし、私の父をまで死なせ――」蛭峰「誰です、誰です、貴方の本の名は何と云ひます」伯爵「誰でも無い幽靈です、唯だ恨みを晴らし度いのみの爲に、墓の中から貴方を目掛て生返つて來た骸骨の樣な者です、泥阜でいふの土牢に十四年の間、恨を骨髓に刻附け、漸く天の助けを得て貴方の舊惡を調べ上げ、今初めて本名を名乘る事の出來る場合と爲つた復讐の使です」蛭峰は合點が行つた「エ、エ、泥阜でいふ要塞の土牢に、十四年、爾して墓の中から生返つて」伯爵「ハイ水葬された海の底から生返つた團友太郎は私です、團と云ひ友太郎と云ふ名さへも貴方の記憶には無いのですか」

蛭峰は氣絶せぬのが不思議である、多分は最う、先刻から續き續いた打撃の爲に神經が麻痺したのだらう、若し日頃だけの正氣が有れば氣絶せずには居られぬ所だ、彼は呆れて目を開き、更に悔しげに身をもがいて「エヽ、團友太郎と云ふ名前が先日來の取調中に、目にも映り心にも浮かんだのは幾度と云ふ數も知れぬ、其れが爲に特別の詮議を加へたけれど、彼は確に死んだ者と多くの證跡が有つた爲め、自分で自分の疑ひを掻き消して居たが、矢張貴方が團友太郎、爾う云へば成ほど顏も薄々思ひ出しました」伯爵「團友太郎と分ツて見れば、是ぐらゐの復讐は無理は無いでせう、團友太郎の恨みを思ひ知りましたか」蛭峰は伯爵の顏を見さへ得ぬ、太陽に晒される土もぐらの樣に、かうべを埀れ目を閉ぢて段々 背後うしろへ退いたが、其うちに今まで其身に振降ツた不幸の數々が明かに思ひ知られたと見える、爾して又も悔しさが沸き返ツたと見え「エ、エ、何を復讐、オーチウルの事、辨太郎の事、今日の裁判所での大打撃、其上に、妻まで、子まで、是れを復讐と云へば餘り仕方が甚過ぎます」と云ひつゝ彼は身を躍らせて伯爵に飛び掛り、爾して伯爵の手をしかと捉へ「では貴方の復讐の結果を見せて上げます、サアお出で成さい、此方こちらへお出で成さい」とは伯爵を引立てる樣にするは何の爲ぞ、全く正氣を失ツた沙汰では有るまいか。

巖窟王 : 二六八 斷末魔・四

蛭峰は伯爵を引立てゝ何處へ行く積りだらう、荒々しく伯爵の手を取つて唯だ無性に引く状は殆ど狂人の所爲である、けれど伯爵は逆らはぬ、引かるゝ儘について行つた。

やがて蛭峰は己が妻の室に至り、唯だ「御覽なさい、御覽なさい」と云つて指さすは妻の死骸及び子の死骸である、伯爵はハツと驚いた、彼の妻、彼の子まで斯く無慘の死を遂げたとは知らなんだ、蛭峰は又叫んだ「是れが貴方の復讐ですか」今が今まで伯爵は自分が神の助けを得、神の意を奉じてゐるとのみ思つてゐた、けれど此状を見ては、神の意よりも猶ほ一歩踏越して、我が殺生の過ぎたことを見て取つた、全く伯爵の顏色は變つた「オヽ、斯くまでは思はなんだ」叫ぶが否や室の中へ飛び入つて重吉の死骸を抱き上げた。妻の方には充分の罪があるから伯爵は其死を以て悼む可しとはせぬ、唯だ息子の死に至つては全くの罪の無い者にまで復讐を及ぼしたに當るから、何うしても之を蘇生させねば成らぬとと決した如く、あわただしく其心臟を撫で、又 あわただしく其目蓋を開きなどして猶ほ一點でも生氣の存して在るや否やを檢めたが、最う事切れた後である「エヽ殘念だ、手後れとは」と得も云へぬ絶望の聲を發した、けれど猶ほ捨つるには忍びぬと見え直に其死骸を抱き上げ、しかと自分の身に添へたまゝ立つて走り、再び彈正の隱居所に走り入つた、蛭峰は伯爵が何をするやを合點し得ぬ、唯だ伯爵の後に從ひ同じく隱居所に行つたけれど早伯爵が戸を締め切つた後である、續いて入る事は出來ぬ。

凡そ廿分ほども經て伯爵は又も重吉の死骸を抱いたまゝ出て來た「最う何としても此世へ呼返す事の出來ぬのは殘念だ」と云ひ再び蛭峰夫人の室へ其死骸を持つて行き、口に祈祷を唱へつゝ夫人の死骸と枕を並べて之を寢臺ねだいの上に置き白い布を其上に當て「此樣な思ひをするも全く復讐が過ぎたのだ」と殆ど後悔に堪へぬ如く呟いて茲を出たが、其れにしても蛭峰其人は何處へ行つたか影さへ見えぬ、其處此處と見廻すうち、隱居所に雇はれて唯一人此家に殘れる下僕しもべの姿を認めたゆゑ、たゞちに之に手招いて「蛭峰氏は何處へ行つた」下僕「裏庭の方へ行かれた樣です」たゞちに裏庭へ出て見ると、蛭峰は鍬を以て芝生の上を掘返し「重吉は何處へ行つた、何でも此邊に違ひ無い」と口走ツて居る、其容子、其顏、最早疑ふ所は無い、全く發狂したのである、伯爵は恐ろしさに堪へず、身を震はせつゝ傍に寄り「蛭峰さん、蛭峰さん」蛭峰は見向きもせず「ナニ、此邊へ隱れたのだ、重吉、重吉、最う出て來い、ヤ、ヤ、未だ出て來ぬぞ、來ねば何時でも斯うして掘るのだ」聲まで聞くに堪へに程の恐ろしい響きを帶て居る、伯爵は最早踏留まる勇氣が無い、又其必要も無い、直に此家を走り出で、逃ぐる如くに我家に歸つた。

我家には森江大尉が獨り退屈に堪へぬ如く此室彼室と經廻つて居る、直に伯爵は之に向ひ「今夜の中に巴里を立去りませう」大尉は嬉しくも悲しくも感ぜぬ、最う此世の事を思ひ絶つ状である、單に「爾ですか」と云ひ、更に又「巴里で最う成さる事は有りませんか」と問ふた、伯爵「ハイ、する事は仕過るほどに仕ましたから早く立去る一方です」

* * * * *

  告別

此日の夕方、伯爵は大尉の妹なる江馬夫人の家に行つて其夫婦に分れを告げた、此外には誰に言葉を殘す可き用も無い、勿論夫婦が名殘を惜んだことは一方ならぬ程で有つたが其れを然る可く亞慰めつ、大尉の手を引いて茲を出ると、外には四頭立の馬車が待つて居る、馭者は彼の黒奴 ありーである、伯爵は亞黎ありーに向ひ「先刻の手紙を老人に渡したか」「老人は瞬潑まばたきしたか」「其傍には春田路が介抱して居たか」など重ねて問ひ亞黎ありーが一々「然り」と點首うなづくを見て獨ひとりごとの樣に「アヽ老人が承知したなら安心だ、其中に春田路が安全に供して來るだらう」と呟き直に馬に一鞭あてた。

馬車は矢の如くに走り初め、巴里の全市が蒼茫たる暮色の中に沒する頃、早や馬港まるせーゆに行く街道に出でビレヂフのをかの頂上に登つた、茲からかうべを廻らせば、巴里の全市は大なるパノラマを擴げた如く目の下に見ゆるのである、伯爵は馬を止めて身を降り立て巴里を見返つたが、廣く限り無きやみの中に、星の海かと疑はるゝ如く千燈萬燈のきらめいて、所々に火焔ほのほの立昇るかと疑はるゝほど明るく見ゆる所みある、之に對して伯爵の胸には何の樣な感慨が起つたゞらう、いくさに勝て凱旋する將軍が、千軍萬馬に踏躙ふみにじつて戰場を振向いて見る時の心持も此樣だらうか、やゝ久しく無言で眺め入つて居たが、遂には「嗚呼」と嘆息して大地に伏し、生た人に物言ふ如く巴里に向つて「嗚呼巴里よ、大なる巴里よ、我れ神の意に導かれて汝の巷に入りてより茲に半年、今は天の使命を逹して汝に別れを告ぐるなり、餘が使命の何なりしやは唯だ神の知るのみなれば汝も知らじ、餘は汝の巷を去に臨み心にやましき所無しと雖も何ぞ多少の悔恨無きを得んや、巴里よ、巴里よ、餘は深く汝の肚裏とりを探りて、得べきを得、爲す可きを爲し得たるも、其間に一點私慾の念をさしはさまざりしは、天の照覽に開かなり、餘は汝の肚裏とりに隱るゝ深き罪惡を拔き去りて、今は汝に恩怨無し、再び神に導かれて汝の巷を去に臨み、唯だ汝が餘の行動を妨げざりしことを謝して告別す、巴里よ、さらば巴里よ、さらば」言葉はたいらかでも心は深い、唱えへる聲は天風に吹き散じて大空に上ツて消えた、天漠々、夜寂々、何處いづこへ再び伯爵の身は現はれて出るやら。

巖窟王 : 二六九 結末・一

伯爵と大尉とを載せた馬車は、夜の明くるまで馬耳塞まるせーゆを指して走り續けた、其間にも伯爵は唯だ自分の復讐が罪の無い人にまで及びはせなんだか、慘酷に過はせなんだかとの疑ひに責られて氣も結ぼれ、深く考へ込むのみで有つたが其身よりも大尉のふさぎ方が更に甚いので、慰めねば成らぬとの心を起し、馬港まるせーゆの間近くまで行つた頃、初めて口を開き「大尉よ貴方は私と共に巴里を立ち去つたのを後悔しますか」と問ふた、大尉は答ふるさへ蒼蠅うるさしとの容子がある、「ハイ巴里には華子が埋まツて居ます、其土地を立去るのは再び華子に分れる樣な氣がしまして」伯爵は笑ツた「其れは考へが足らぬ、華子の身體は巴里の墓地へ埋まツても、其魂は貴方の胸の中へ埋まツて居ねば成らぬのです、私などは眞に、自分の愛する友と胸の中に埋めて有つて」大尉は聊か感じた、「貴方にも其樣な友がお有りせしたか」伯爵「ハイ第一が自分に生を與へた父母、次には知識と心力を與へた師です」師とは昔 泥阜でいふの土牢で數限り無き恩を受けた梁谷法師を謂ふのだらう「斯樣な人は常に胸の中に居ますから、私は何處へ行くとも、之を分れる樣な心地もせず、事ある度に自分の胸中を探つて教へを請ひます」大尉は漸く悟つた容子で「成るほど私も今から其樣に思ひませう、長い事は無い、十月の五日迄ですから、ネエ伯爵」念を推す腹の中は哀れである。

やが馬耳塞まるせーゆに着いた、大尉は幾日かの間此土地に留まり度いと思ふて居る、此土地は彼の故郷である、父の墓も茲に在る、他の土地よりは最も心を紛らせる便りが多い、直に其旨を伯爵に告ぐると伯爵は點首うなづいた、けれど未だ大尉を離さぬ、馬車から降りた其足で、港の波止場の所へ行き出船入船を見廻すは何か搜し度い心だらう、併し大尉の方は何事よりも昔自分の最も心を動かした事柄を思ひ出し「伯爵、丁度此所ですよ、貴方が下さツた巴丸が不意に入港して、父が喜んで、短銃ピストルを捨て走つて來て、爾して天の助けだと歡呼したのは、其時私は父に從ひ今立つて居る此石の上へ立つたのです、其時の景状ありさまばかりは幾年經つたとて、有の儘に覺えて居ます」伯爵も暫し自分の用事を打忘れた状で「爾々、其時私は彼處あすこの物見臺の蔭に立ち、父上や貴方の喜ぶ状を見て居ました」眞に兩者とも昨日有つた事の樣に覺えて居て、其れから其れと話は盡きぬ。

やゝ有つて伯爵は千船百船ちふねもゝふねの一をゆびさし「貴方はの船を何と思ひます」大尉「軍人の目には直に分ります、阿弗利加へ軍噐軍人を送る兵船です」云ひつゝ其甲板を打眺めて「アア甲板の上に手巾はんけちを持つて、陸の方へ向いて打振り、誰かに分れを告げて居る士官が有ります、初めて此國を出る少尉ですね」伯爵「少尉です、而も貴方の友人です」大尉「私の友人とは誰です、貴方には顏まで分りますか」伯爵「ハイ幼い頃から航海に慣れたお蔭で、通例の人が望遠鏡を掛けたほど能く分ります、けれど其誰かと云ふ事は船を見るよりおかを見る方が近道です、彼處あすこを御覽なさい」と云ひ、見送り人や出迎へ人の群集して居る水際の岸の上を指した、大尉は言葉に從つて其方を見ると、此方こちらにも一人同じく手巾はんけちを揚げ向ふに應じて打振つて居る婦人が有る、多分は母と子との分れだらうと思へば何と無く氣の毒にも思はれたが、更に能く見て大尉は驚いた「ヤ、ヤ、れは衣みなりこそやつれて居れど、野西子爵夫人では有りませんか、アノ少尉は武之助でせうか」伯爵「爾です、武之助が阿弗利加へ立つのだから、母御が見送つて居るのです」大尉「實に世の中は變る者です、けれど不名譽な榮華を捨て自分の力で出世しやうとする其奮發は感心です」伯爵「ハイ、私も此奮發を見屆けて安心しました、數年の中に此母子には必ず名譽ある榮華がかへツて來るでせう」

巖窟王 : 二七〇 結末・二

武之助の出發を見屆けて伯爵が安心したのは無理も無い、實は武之助が少尉となり得たのも内々伯爵が運動した結果である、其れだから伯爵は此 馬港まるせーゆへ來るに付けても、何うか彼の出發の間に合ふ樣にと殊更馬車を急がせて、着するが否や直に此波止場へ來たのだ。

是で武之助母子の身には再び花咲く春のかへつて來る見込が附いた、最早伯爵は我が信切の屆いた者と思つて好い、けれどまのあたりに母子が別れの悲しげな状を見て、又氣の毒な情に堪へず、我が復讐が甚過ぎたかとの疑ひが犇々ひし〳〵と身にこたへて來る、此疑ひは何うすれば解く事が出來るだらう、アヽ其れには、昔の我身の蒙つた災難を詳しく思ひ出して復讐の度合と比べて見るが然る可しである、昔我身の蒙つた災難と云へば、泥阜でいふの要塞に行き土牢を跡を見るが好い、爾うだ直に泥阜でいふへと、日頃何事にも思案に富んだ胸の中で咄嗟の間に思ひ定めた。

あゝ、此人にして再び彼場所をふとは、何れほどか心の動かさるゝ事だらう、唯だ泥阜でいふの名を思ひ出しただけで、早胸の騷ぐ樣に覺えた、けれど何氣無くよそほひて先づ大尉に向ひ、「是から小舟で海へ出て見ませんか」と誘へば、大尉「イヤ私は此土地には種々の思ひ出す所が有りますゆゑ、其れ等をば見廻り、且父の墓へも參り度いと思ひます、暫く茲で分れませう」さては此世の名殘として、幼ななじみの場所などをも見、父の墓にもいとまを告げる爲とは見えた、伯爵は輕く「成るほど父上のお墓へ」と言ひ掛けたが、後の語は口から出ぬ、之が父の墓ぞと目指す事の出來る樣な墓の有るのは此身に比べて何れ程の幸ひだらう、我父は此身が土牢に居る十四年の間に餓死して共同墓地へ葬られは仕たけれど、此身が出て來た時には一本の杭さへも立つては居ず、何處が墓、何れが碑と指をさす目標めじるしも無くなツて居た、果して何處に其骨が朽て居るやら今以て詣でたいにも詣づべき當度が無い、此樣な恨みが、年月經つとも忘れることが出來るだらうか、我知らず思ひにくれた、大尉は爾とも知らず「貴方も墓參は成されませんか」伯爵「ハイ墓參を――其墓參を――イヤ後ほど致しませう、四時か五時頃には墓地の方へ行きまして」大尉「では墓地で貴方をお待受け致しませう」此言葉を殘して大尉は分れ去ツた。

後に伯爵は目を屡叩しばたゝきつゝ、雇ふ可き小舟は有るまいかと見廻したが、其目先に留ツたのは、今しも息子武之助を見送り盡して悄々しを〳〵と立去る露子夫人の姿である、イヤ泥阜でいふに行くは後にして此夫人を住居すまゐまでけて行き、せめては慰めの言葉でも與へて遣らうと、フト心を變へ、見え隱れに其後を隨ひ初めた、夫人の方は爾とも知らぬ、足の運びは遲いけれど、埀れたかうべ傍目わきめも振らず、歩み歩んで漸くに着いたのは、昔此伯爵が父と共に住んで居た彼のメラン街の小さい家である、ては此身の言葉に從ひ、庭に埋めた金を掘出し、其れを以て此後の生くらしにも當る覺悟で居るのかと思へば、唯だ不便を増すのみで、暫しが程は入り兼て控へたけれど、何時まで控へても居られぬから漸く思ひ切つて歩み入つたは凡そ十分も經てからである。

成るたけ物音をさせぬ樣、夫人を驚かさぬ樣と靜かに戸を開き、靜かに歩みて、茲が夫人の室と思はるゝ一間をのぞくとかすかに聞ゆるは忍び泣く聲である、又も跼足ぬきあしして中に入れば、室の隅にかうべを埀れて居た夫人は、膝の邊に落つる人影に驚いて顏を上げ、伯爵を一目見て「エ、エ、貴方が」と叫んだ、伯爵「ハイ、武之助君が阿弗利加へ立つ所を餘所よそながら見送りまして」夫人はこらへかねて泣聲を放ツた「私は最う此世に只一人と爲りました」伯爵「イヤ其れが氣の毒ゆゑ、お詫やら又慰めても上げ度いと思ふて來たのです、ナニ夫人悲しむのは今までの事で最う是からは運の開ける許りです、武之助君が立派な軍人と爲つて尊敬せられるに至るのも二年か三年の中ですから」夫人「イヤ爾は思ひますけれど、何分にも――」伯爵「何分にも今の現在がお淋しい、御尤もです、其れと云ふのも總て私の所爲から出た事ゆゑ、定めし私は恨まれて居る事かと思ひまして、其れ故お詫も申さねばと」夫人は聲に力を込めて「何で貴方を恨みませう、武之助の命を助けて下さツたのも貴方では有りませんか、斯うして私が茲に居られるのも貴方の爲です」伯爵「其でも貴女が此樣な境遇に成つたが、總て私の復讐から、イヤ私は復讐が甚過ぎたかと今では自分で疑ふ所も有りまして」夫人「イエ爾では有りません、貴方の爲すツた事は神の御心です、何も彼も惡いのは私です、私は其昔何故に貴方の歸るまで待つて居る事が出來なんだでせう、又先頃貴方が巴里へ現はれたとき、團友太郎だと知つたのは唯だ私一人でしたのに、何故私は其時に貴方に謝罪あやまらなんだでせう、所天をつとが天罰を受けたとき、何故私は其天罰を所天をつとよりも先に自分へ降る可きであると思はなんだでせう、何故私は所天をつとに惡事の有るは妻の注意の足らぬ爲だと思はなんだでせう、又何故に所天をつとの耻を身の耻とし所天をつとと共に死なんだでせう、今思へば私のした事は初めから終りまで間違つた事ばかり、其果が此樣な境遇に成ると云ふのも矢張り皆天罰です、貴方の復讐が第一に加はる可き此私に加はらなんだ爲め――復讐が足らなんだ爲め――天が私に思ひ知らせるのです、貴方の身に天の御心に添ふて居る事を最う誰が疑ひますものか」と、只管ひたすら身を責めて悲しむは全く天の降す應報とも云ふ可きだらうか、伯爵は慰めに來て却て深く悲しませるのを當惑に感じた。

巖窟王 : 二七一 結末・三

慰めに來て却て悲しませる程ならば初めから來ぬ方が好かツたのだ、來たからには何うか慰めて遣り度いと伯爵は是より樣々に説いて、殆ど有らん限りの言葉を盡した、けれど遂に露子夫人の心を説き得なんだ。

「此樣な深い罪の私に何うして此後の安樂が有りませう、いつそ死ぬるが増だとも思ひますけれど、未だ苦しみが足らぬと見え神がお膝許に引取つて下されませぬ、此上は尼と爲つた心で祈祷に生涯を盡す許りです」と云ふのが、伯爵の言葉を聞終ツた時の夫人の返辭であツた、何と云つても此決心を動かす道は無い、伯爵は詮方なくて空しく分れを告ぐる事と爲り「併し此後に又お目に掛る時が有りませう」と云へば、夫人は涙の乾かぬ目を上げて空を眺めた、之は死んだ後に天で逢はんとの心でゞもあらうか、爾して最早座に得堪へぬ状で身を起し、逃る樣にして二階に登り去つた、伯爵も「あゝ」と嘆息して茲を立ツた。

伯爵の心は愈々重い、唯大地を見詰めたまゝ先刻の港の方へ歩み去つたが、幸ひ岸の邊に、雇ふに手頃な一艘の小舟がある、直に舟子を呼んで之を卸させ、其身も乘つて港の外に漕ぎ出させた、指して行く先は當年の泥阜でいふ要塞である、海のおもてに風は無くとも胸の波は高く立ち、耳に其音の聞ゆるかと疑はる、やがて舟は西國村すぺいんむらの沖に差掛ツた、昔其身が捕はれて此樣な小舟に乘せられ憲兵と護衞卒との前後を擁せられて此所を漕いで過ぎた時、やみの中に一點の燈火見え、是がお露の家であらうと幾度か振向いて見た其家は今 何處いづこに在るや、荒涼たる漁村の景色昔の面影は留めずと雖も、變り果たる人の身に比ぶれば、とこしなへにみどりなる水と共に恨のも深くして盡きず、悵然ちやうぜんかうべを埀れて思ひに沈むこと幾時、忽ち聞く舟子の聲「サア旦那、泥阜でいふの下に着きました」

驚いてかうべを擧ぐれば、目の前にこつとして聳つは泥阜でいふの崖である、眞に伯爵は之を見て、不倶戴天の仇が我前に立塞がつた樣に感じた、今まで露子夫人の憐む可き境遇や、蛭峰一家の無慘な最後などを思ひ、我が復讐が強過ぎたかとひそかに氣遣ふて居た心の弱みも早やなかば消え、かたきを目掛けて飛び掛るほどの見脈けんみやくで舟を降り、直ぐ崖の上に登つた、見廻すと建物などの景状ありさまが其昔とは大いに違ひ、殊に牢屋は多くこぼたれて、囚人は他へ移され、殘れる幾棟は密輸入者を見張る税關官吏の出張所に充てられて、二三の番人が預かつて留守居せる外には人の影とてみ見えぬ、却て心安う見物の出來るを喜び伯爵はたゞちに番人の室へ行き、其 かしららしい一人に就き、見物する許しを得て、先づ其者を連れ出し、境内を見囘りながらも、昔其身の囚はれて居た土牢が何うなツたかとの事のみ氣に掛る故、其れと無く言葉を設けて問ふに、番人「イヤ最う政府が度々變りますので、或は兵營にするとも云ひ、或は燈臺を建るとも云ひ、牢屋の廢せられたと共に大抵の建物は取毀されましたつけれど土牢だけは未だ掘返しもせず、昔の儘に成つて居ます、今は見廻る官吏も有りませんから、蝙蝠でも住んで居ませう」伯爵「土牢の事は種々のお話にも傳はつて居るから、何うか其中を見せて貰ひ度い」無論案内料を澤山に呉れる客だらうと番人は見拔いて居る、譯も無く此言葉に從ひ、「時々其樣な事を仰有る方が有りますけれど、大抵は入口の石段を半分降ツて、顏をしかめて逃て了ひます」伯爵「其れは臆病な人だからよ、ナニ私はズツと中までも見て行き度い」間も無く番人は伯爵を其石段の所まで連れて行き、底の薄暗い穴道を指示し「御覽の通り氣味の惡い所です、是でも下まで降りますか」全く氣味の惡い所である、之れに付けても其頃の我身の境遇が今更の樣に思ひ出され、何とも知れぬ感慨が胸に滿ちた伯爵「降らうとも、茲からのぞいて見た丈では何の話にも成らぬ」と云ひつゝ中に降り入つて「成るほど物凄い所も有る者だ、此樣な中に入れられ何うして辛抱する事が出來るだらう」番人は嘲笑あざわらふ樣に「誰だとて辛抱は出來ませんけれど逃出す事が出來ぬから止むを得ず閉込められて居ますのさ、されど悶え死ぬる人や發狂する者が隨分有つたと云ふ事です」伯爵「如何にも其樣なものも有るだらう」番人は浮々と釣込まれ「今でも話に遺つて居ますが廿七號と卅四號などは實に不思議な囚人で有つた相です」伯爵は悸乎ぎくりとした、廿七號とは其頃の梁谷法師、爾して卅四號は自分である「エヽ廿七號と卅四號不思議な囚人とは何の樣な」強ひて何氣なくよそほふて問ふた。

巖窟王 : 二七二 結末・四

番人は足をとゞめて話出した、勿論伯爵の知らぬ事では無い、卅四號の囚人と廿七號の法師とが地の下に穴を穿うがちてひそかに交通して居た事から、其法師の死ぬるに及び卅四號が死骸と爲つて袋に入り海に投込まれた次第までを殆ど自分で見た樣に語り終つた、伯爵は餘所事の如く「袋の儘で海へ投入れられた其卅四號とやらは若し生返りはせなんだらうか」番人は又嘲笑つた「何うして其樣な事が出來ますものか、先逹ても巴里の政府で何か取調べる必要が有るとて其卅四號の事を尋ねに來ましたよ、矢張り貴方と同じ樣に若し蘇生よみがへつた疑ひは有るまいかなどとお問でしたが、崖の高さや水の深さまで測量し、成るほど是では活返つた恐れは決して無いと鑑定して歸りました」さては是が彼の蛭峰から出た事であるのだ、彼が巖窟島伯爵を若しや團友太郎かと疑ツて取調べて見たけれど友太郎は死だに相違無い事を見屆けて更に見當の附かぬ事に成つた旨は彼の自ら云つた所で分ツて居る、其れにしても崖の高さや水の深さを測量する迄に綿密に調べたとは思はなんだが、其樣にまで仕たとすれば實に此身に取り險呑な次第で有ツた、少しの事で本性を見顯みあらはさるゝ一髮の間際まで押寄せて居たのだと伯爵はひそかに身顫して且は又蛭峰の憎さをも感じつゝ直に語を繼いで「シタがお前は其頃此監獄に勤めて居たのか」と問ふた、番人「イヤ私は其少し後に雇はれましたけれど、今では私が一番古いのです、其れに私の來た頃は卅四號を海に投込だ人足や、其土牢を預ツて居た安頓あんとんと云ふ番人などが皆揃つて居ましたから私は其者共から直接に聞きました、少しも事實に間違ひは無いのです」爾うだ爾うだ、成るほど其時の番人は安頓あんとんと云ふ男であつたと伯爵は其名を思ひ出すと共に其容貌から其我身を取ツた状をまで歴々あり〳〵と思ひ出し、しや我が復讐が甚過たにしても、咎められる所は無いと云ふ樣な氣が起つた、此上に若し其卅四號の室を見れば、愈々以て心の咎めは薄らぐ樣に思ひ「何うぞ其囚人の居た室を見せて貰ひ度い」と請ふた。

併し伯爵は其室を見たいと云ふのは單に自分の氣の咎めを消し度いのみの爲では無い、心の底に深い深い懷舊の情が湧き、唯だ何と無く見度いとの念に堪へぬ、番人「貴方さへ恐れねば、茲まで來たから見せて上げませう」言葉と共に穴の樣な暗い廊下を奧へ奧へと入り「サアこゝです」とて但有とある入口を指示した、伯爵は其入口を見る丈で愈感激を深くして唯だ其身が十有四年の間、此樣な所に生存へ得たのをいぶかしく思ひ、天の意と神の助けに加はるに非ずば何うして今日の日が有る者ぞと、只管ひたすら神に感謝する心が湧き出た、併し猶ほ室の中にまで入ツて見たい、唯だ戸口には古い閂木かんぬきが、石に錆附いた鐡の棒などと共に殘り、人の入るを遮る樣に成つて居るので自ら手を掛けて是等をはづし開くと番人は驚いて「貴方は此中へお入り成さるか」伯爵「折角來たのだから入るらねば話に成らぬ」番人「だツて此暗い中へ、とても入る事は出來ずし入ツたとて何にも見えはしませんよ」伯爵「ナニおれの眼は暗がりでも能く物を見る事が出來るから、大丈夫だ」番人「では貴方のお目は丁度卅四號の囚人の樣ですね、彼は此暗い所で針の樣な細い物をでも見分ける事が出來たと云ひます、けれど旦那、私の目は爾では有りませんから、少しお待ちなさい提燈らんぷと取つて參りませう」伯爵「イヤ其れは御苦勞だ」とねぎらひつゝ握らせたは廿 ふらんの金貨である。

喜び勇んで番人の去つた後で伯爵は直に卅四號室の中に入つたが、我眼力は少しも其頃に比して衰へて居ぬ、初めの程こそ多少の暗さを感じたれ、間も無く殆ど針ほどの物をも見分け得る樣になり、先づ室の總體を見廻すに我身が輾轉反側てんてんはんそくした其 寢臺ねだいさへ未だ存して居る、之を見ると實に舊友に廻り會つた樣な氣持がして一種の懷かしさが胸に溢れた「オヽ汝は、永年汝と添臥した此情夫の返つて來た事も知るまい、浮世の浪風に心も勞せず、一旦置かれた自分の位置を何時までも守つて居る汝こそ仕合せなれ」と云ひ更に其 背うしろのぞけば廿七號の梁谷法師と往通ふた穴の道には、石が詰り、其形跡だけ殘つて居る、其れも此れも心を動かすの種のみであるのに、又飜へツて一方の壁を見れば、茲には又 一入ひとしほの記念が澤山にある、第一に何かの數取の如く刻附けた凹い筋は初めの程、月日を忘れぬ爲に規則正しく記した心覺えである、此れを頼りて父の年、お露の年、又我身の逢ひ見ぬ年月を數へて居たのだ、又少し一方に寄れば血の跡が有る、此れは我身が絶望の極、頭を碎いて死なうと思ひ、前額ひたひを打附けた跡と分る、アヽ此身は此ほど迄の虐待を受けて居た、之に對しては何れほど殘酷な復讐を遂げたとて足る者か、是れさへあるに猶だ此上に其れよりも亦恐ろしい跡が有る、伯爵は是等の記念を見較べる中に心が殆ど其頃の景状ありさまかへツて了ひ、やみの中にまなこは物凄く光り初め、口は恐ろしい呪語を洩らして、「エヽ復讐が過ぎはせぬ、未だ足らぬと云つても好い、既に彼の段倉の如きは、此身の力で辨太郎を以て、其家の名譽を破壞させ、名譽よりも更に大事として居る財産をも失はせ、巴里に居る事の出來ぬ樣にして放逐したけれど、彼猶ほ五百萬 ふらんと云ふ此身の受取證を以て居る、其れを羅馬の銀行で正金に引替て此上又何の樣に再擧するかも知れぬ、あらかじめ其邊の命の盡くるまでは攻附けねばけぬ、天意が猶ほ此身に添ふて居るならば、必ず其通りに運ぶだらう」と充分の確信を呼起しつゝも悔しげに呟いた。

巖窟王 : 二七三 結末・五

壁に殘つて居る數取の筋や、血のあとなどは、いづれも伯爵に犇々ひし〳〵と昔の事を思ひ出させる種とは成つたけれど、之にも増して更に伯爵の心を動かした記念が、同じ壁に存して居る。

其れは伯爵が鍋の柄の金を以て壁に書附けた文字である、其句は單に「嗚呼神よ、我をして記憶の力を保存せしめよ」と云ふ短い言葉に過ぎぬ、他の人が之を見れば何の意味かと云ふ事をさへ合點し得ぬだらうが伯爵に取つては眞に千百卷の書にも優るのだ、血の文字か、火の文字か、唯此一語を見て全身の血液が煮え返る樣に感じた、そもそも此文字は伯爵が全く悔しさの極に逹した時、最早自分で發狂するだらうと思ひ若しも發狂の爲め今日こんにちの此悔しさを忘れる樣に成つては成らぬ、此悔しさを覺えて居れば何の樣な復讐でも出來ぬ事は無いと思ひ、單に自分の記憶だけを失はぬ樣に仕度いとて書附けた者である、人生に此樣な慘い境遇と此樣な悲しい語が又と有らうか、伯爵は之を讀んでこぶしを握り詰め「アヽおれは殆ど此語にそむき我が記憶を失ひ掛けて居た、我が蒙ツた損害と苦痛とは何れほど甚かツたか、記憶さへ失はずば、爾だ少くも此度の復讐を後悔する所は無い」と呟き、巴里を出て以來多少弛み掛けて居た心が又張切れると思ふ程に張詰めた。

此處へ彼の番人が提燈らんぷを持つて歸つて來て「旦那樣、貴方は間違ひを爲されましたよ、唯今戴いたおあしは銀貨では無く金貨でした」伯爵「金貨でも好い、取つて置け、猶だ是から廿七號とやらの室にも案内して貰ひ度いから其れ位の案内料は當り前だ」番人は直に廿七號へ案内した、茲にも見る物は總て伯爵の感慨に高くするのみである、番人は今の金貨を有難げにひねり廻し「何うも此樣に澤山に戴きましては」と納めかねる容子で有つたが、何か思ひ出した樣に「此お禮には廿七號の囚人の遺留かたみの品を差上げませう」伯爵は飛び立つ樣に、「エヽ遺留かたみの品、其れは何の樣な」番人「ハイ私は廿七號に事を聞いた後に、何でも一個ひとつの室に廿年も居た囚人が何か遺留かたみを遺して無い筈は無いと思ひ、此室を、壁から床から綿密に叩き調べて見ましたが、果して壁に一ヶ所床に一ヶ所、物を隱す場所が有りました、其處を開いて其れは〳〵精巧に出來た樣々の小道具を幾色と無く取出しましたが、いづれも何うして牢の中で此樣な出來たかと怪しまれる樣な品ばかりです、其等は其後、見物に來る人にも土産の樣に分けて遣り又目ぼしい品は政府の監獄博物館などへも納め、今は大方盡きましたけれど、一個ひとつ大變な品を殘して有ります」伯爵「何だか知らぬけれど、其品を貰ツて行き度い者だ」とて又同じ金貨を一枚出し、辭退するのを無理に渡した、併し斯樣な無理は受ける方で餘り腹が立たぬと見え、辭退はしたけれど遂に受取ツて去つたが、やがて急いで持つて來た品物を見ると兼て伯爵の心に掛ツて居た梁谷法師の獄中の著書「伊國統一論」である、伯爵は思はず推戴いた、更に其表紙を見ると「汝雲間に翔る龍の牙を拔け、野に狂ふ荒き獅子を踏殺せ」と云ふ古語を書附けてある、是れだ、是れだ、龍の牙を拔き獅子を踏殺す勇氣が有らば人間世界に又何の恐れる所が有らう、何の難い事業が有らう、法師は常に持してゐたのは此勇氣で我身とても之に引立られたのだ、我身は命も、財産も、何も彼も總て此法師から與へられた者だけれど此勇氣こそ何よりも大切な賜物なれと、再び法師に廻り逢ふた樣に喜び、又更に幾度か其書を推戴いた。

最う是れで長居する用は無い、番人には別に又 許多あまたの紙幣を包み「私の立去ツた後で之を開いて見よ」と言聞け、靜かに茲を立出でて、又も崖下に待たせてある舟の所へ行き、之に乘ツて馬港まるせーゆへ引返した、此時は最う午後の五時である、森江大尉に約束した時刻だから直に上陸して墓地に行つたが、大尉は言葉をたがへずに待つて居る、先づ大尉の父なる森江良造の墓に詣で、終つて大尉に向ひ、今夜直に此地を立たうと云へば、大尉は三四日逗留したいとの返事である、然らば十月の四日にバスキヤの港に行きエラウス號と云ふ舟を尋ねよ其舟の船頭に委細の事を言含めて置く程に、森江大尉と云ふ名を細語さゝやけば直に乘らせて、モンテ、クリストの島へ、十月五日の朝迄に漕行いて着けて呉れるで有らう、十月五日は兼て約束の如く大尉の死生が決する日だから此身は早朝より其處に待受けて居やうとの言葉をつがへ、伯爵は獨り又港に行き伊國いたりやを指して舟に乘た、今度は雇ひ舟で無い、自分の遊船である、早く伊國いたりやに行つて彼段倉に追附かねば成らぬのだ。

巖窟王 : 二七四 結末・六

昔鐵道の開けぬ頃、彿國ふらんすより伊國いたりやに行く客は、多く扶府ふろれんすからストルタの丘までの凸凹道を馬車に乘ツた、爾して其丘に登ると、最う羅馬の立派な町が目の下に見えるので、早や目的の地へ着いた樣な心地がして馬車の中で胸を躍らせるが常であツた。

丁度巖窟島伯爵が森江大尉に分れ、舟で馬港まるせーゆを出たのと同じ日の午後である、彿國ふらんすの紳士と見受けらるゝ一人の旅人が彼の凸凹道を馬車で來て、遂にストルタの丘の上に着いた、けれど彼は胸を躍らせる樣子も無く、馬車の中で靜かに四邊あたりを見廻して、誰も窓からのぞき込む者の無いのを見定め、聊か安心した面持で、今度はソツと胴卷から何やら紙切を取出した爾して其表面の文字を一目見て「アヽ猶だ無事だ、是さへ有れば、ナニ、何處へ行つたとて安心だ」と呟き、再び其れを胴卷に納めて莞爾につこと笑んだ、そもそも此客は誰れ、其檢めた紙は何。

此人は先づ馬車を名高い富村銀行の店先へ着けさせた、最う夜に入つて銀行の時間は終つて居るけれど、何か特別の約束でも有ると見え、直に其頭取の室に通され、先刻丘の上で檢めた彼の紙切を取出して渡すと頭取はとくと見て「確です、拂ひ渡しませう」と云ひ會計に命じて此人に驚く可き大金を拂ひ渡した、其額は五百萬 ふらんである、一萬 ふらんの大紙幣を五百枚、かさは爾ほどでも無いけれど、此樣な大銀行ですら、一時に之ほどの取引をする事は稀である、客は流石に斯ほどの大金を受取る丈け、日頃から斯る事には慣て居ると見え、反古を扱ふ樣に其紙幣を扱ひ、旨く身體の何處へやら納めて了ひ、何氣なく又元の馬車に乘つた、併し馬車の中では自ら笑顏のくづれ出るを制し得ず、口の中で「アヽ若しも警察の手が廻つて居たなら何うしやうかと心配した、先づ警察もおれの用心には叶はなんだ、有難い有難い、是だけあれば何處へ行つたとて銀行の王に成れる、愈愈明日にはヴエニス市を經て澳京びんなに向ふのだ、澳京びんなならば東西兩邦の財産を握るにも都合の好い所だから十年と經ぬうちに又巴里の銀行家を平伏させる事が出來る」と呟き自分で自分の智慧に感心した容子である、勿論自分の智慧よりも猶だ上を越す智慧が他に有ツて遙に自分を狙ツて居るだらうなどとは思ひも寄らぬ。

今度は馬車をパストリニに旅館に着けさせた、茲は先年野西武之助と毛脛安雄とが泊ツて、初めて巖窟島伯爵に逢つた其家である、客は室も定まり食事も濟んだ後で主人を呼び、明日正午にヴエニスに向けて立つ故、其れまでに馬車などの用意を調へて置けと命じて床に就いた「アヽ今日まで四夜眠ると云ふほど眠つた事は無い、色々心配はしたけれど、おれ伊國いたりや方面へ落ちたとは誰も知る者が無く、若し有るならば其れは巖窟島伯爵一人だが、ナニ伯爵とても他の人と同じく、おれ白耳義べるぎーの方面へ行つた者と思つて居やう、爾う思はねば成らぬ樣に萬事を仕組んで置いたのだから、警察だとて白耳義べるぎー方面をこそ搜し居れ、今の銀行の容子で見ても此邊へ少しも目を付けて居ぬ事は分る、今夜こそ緩りと寢やう、何うしても十時間は眠らねば累日の寢不足が取返せぬ、斯う成つては愈々健康が大事だから」と大なる未來を持つて居る人の樣に獨語ひとりごとして眠つて了ツた。

此頃、羅馬の宿屋で、十二時に出發の用意をと命じて置けば三時で無くては出發する事が出來なんだ、總て時間に掛値が有つた、此客も午後の三時過に初めて出發する事が出來た馬車は二頭立で、しや凸凹道でも餘り震動を感ぜぬと云ふ上等の作りである、けれど見掛ほど早くは無く、殊に町をはづれてから一層歩みが遲くなつた樣で、日が暮て餘ほど後に至つても猶ほ人里の見えぬ樣な所を徘徊してゐた、客は空腹を感じたから、窓より首を出して行く手を見やうとすると荒々しい御者の聲で「此邊で頭を出すと、立木に打附ぶつかつて碎けますよ」とおどす樣に言聞けられた、夜は既に八時になつた、餘り不審だから時計の磁石を手のひらに置き、燐寸マツチを摺つて見るとヴエニスの方へは向かずに反對に羅馬の方へ馳せてゐる、のみならず晝間見た羅馬の外郭の高い塀が何うやらやみの彼方に見えてゐる樣にも思はれる、何だか不安心だから「コレ御者元の道へ引き返してゐるのでは無いか」御者は益々横柄だ「最う少しで約束の所へ着くから、安心して無言だまツてお出なさい」愈羅馬の外郭と思はれる所へ着いたが、馬首は更に右の方へ轉じて山手を指して進み、其中に坂道を上り初めた樣である、茲に至ツて客は怪しみが驚きと爲り、若しや噂に聞く山賊の馬車へ乘せられたのではあるまいかとの念が初めて起ツた「少し馬車を止めて呉れ」御者「最う少しで約束の所へ着きますよ」客「何でも好いから止めろと云ふに」御者「最う少しで約束の所へ着きますよ」何と云つても御者の返辭は一つである。

巖窟王 : 二七五 結末・七

愈山賊に捕はれたに違ひ無しと、彼の馬車の中の客は思ふた、羅馬の山賊が何の樣な事をするかは兼て旅人の話に聞き、其頭領の名が鬼小僧とやら云ふ事と共に知つてゐる、嗚呼警察の目を逃れて、山賊の巣に落入るとは水に逃れて火に投ずる樣な者ではあるまいか。

眞に彼の客は齒の根も合はぬほどに驚いた、餘り勇氣のある人では無いと見える、併し其れは少しの間で、暫くすると自分の地位を考へる事が出來る樣に成つた、何うしても此儘ではゐられぬ、今の中に窓を開いて、飛び出して逃げやうかやがて彼は窓の戸に手を掛けた、すると直に例の御者の聲が聞えた「お客樣、窓から頭を出すと打附ぶつつかつて碎けますぞ」さては外から一擧一動を見張つてゐるのだ、何うしたら好いだらうと、いたづらに自分の心を苦しむること何十分に及んだが、其中に馬車が止まり、窓は外から開かれて、客は荒々しい手で引出された、出て見ると四人の男が前後左右に取圍んでゐる。「何だツておれ一人に四人も世話を燒く」と客は叫んだ、併し四人は答へる必要を認めぬ、此憫む可き人を無言で引立て、やみの中を何處へか連れて行く、愈々茲がサン、サバシヤンの山洞さんどうとやら聞いた穴である、地盤が初めは上り坂に成り次には下り坂に成つて居る、此取附がほらの入口の所だらう、左右に番卒が立つて居る事が薄暗く分る、爾して其番兵の聲が「誰だ、其處へ行くのは」と咎めるが聞えた、四人は口々に「兄弟分だよ」と答へて茲を過ぎたが、是から坂の道を曲る毎に同じ樣な番卒が同じ事を問ひ四人が同じ事を答へて進んだ、何丁ほど入つたか知らぬが漸くにして薄暗いらんぷの點つて居る邊へ出た、見れば全く荒果てた古寺だ、サン、サバシヤンに相違ない、らんぷの下には多分頭領の鬼小僧と云ふ奴だらう、机にもたれて何か讀んで居たが、四人の者を打見遣り「旨く連れて來たか」四人の中の兄分らしい一人「ハイ」と答へた鬼小僧「人違ひでは有るまいなおれに言附けた人に相違無いだらうな」今の一人斷乎として「ハイ相違ありません、確かに巴里の段倉銀行の頭取段倉喜平次殿です」此名を聞いて安心する頭領よりも客の方はびつくりして尻餠をかぬ許りであツた。

眞に全く此客は段倉喜平次なんだ、彼は巖窟島伯爵から得た五百萬 ふらんの受取證を持ち、之で巴里の慈善協會へ債務を果す可きを、爾はせずして羅馬へ逃て來、他日墺國の首府へ行き再擧を計ると云ふ目算で富村銀行で其證書を金に替へたのだ是れ迄は何事にも旨く行つたのに、茲に至ツて山賊の手に落るとは何事ぞ、天意だらうか、そもそも誰れか人間の差圖だらうか頭領は又命じた「どれ、念の爲だ、其顏を能く見せろ」四人の中の一人は直に明松たいまつを段倉の顏に差附けた、實に其差附け方も邪慳である、若し段倉があわてゝ首を引かなんだら眉の毛までも燒かれる所であつた、勿論段倉の顏は血の色も無い、全く恐れの爲に灰色になツて居る、頭領は點首うなづいて「イヤ餘ほどお疲れの御容子だ、直ぐに寢ねまへ御案内して上ろ」言葉ばかり丁寧にするとは餘り馬鹿にした仕打だと段倉は恐れの中にも悔しかツた。

直に案内せられた其寢間と云ふは、さきに野西武之助から直接に聞いた通り崖に掘つた横穴で、云はゞ一種の土牢である入口も牢の通り鐡の閂木かんぬきが横たはり、床と云ふのは天然石の上に羊の皮を敷いてある、其下には多少の藁や枯草も散つて居る、とても寢間などと名に附けらる可き所で無い、けれど茲に寢る外は無いのだから、段倉は羊皮の上に腰を置き、足を延ばして見たが、少しも心が落着かぬ、全體何うして我が姓名を知つて居たゞらう、警察さへも知らぬのに、流石に茲が山賊の技倆か知らん、併し姓名の知れて居るが却て幸ひかも知れぬ、巴里第一流の銀行家として知られて居る者を、眞逆に無下に扱ふ事もせぬだらう、アア分ツた、丁度武之助が命ぜられた通りに身請の金を取られるのだ、爾して放免せられるのが明日の中だらう。

斯う思ひ初めると聊か心も休まツた、確武之助の身請金は四千 ふらんで有つた樣に聞いて居る、おれは名高い丈に其倍は取るだらう、イヤ一萬法でも好い、或は其十倍の四萬法でも背に腹は替られぬのだなどゝ呟き、先づ胴卷を探つて見ると富村銀行で受取つた五百萬法も無事である、外に巴里を出る時洗ひさらへ持つて來た五萬法の金も殆ど手附かずである、好し、是ならば武之助のに十倍する程の身請金を拂つた所で、大事の資本へは手が附かずに目的の地へ行かれると、漸く高をくゝつて見ると、未だ癒え切らぬ旅の疲れが出て羊の皮の上に眠つた、知らず翌朝は何の樣な境涯に目が覺めるだらう。

巖窟王 : 二七六 結末・八

翌朝段倉は、昨夜敷いて寢た羊の皮の上に目を醒ました、太陽の光は屆かぬ穴の中から時刻は分らぬ、併し夜は明けて居る。

第一に彼は所持の大金を檢めたが胴卷の儘で無事である、是れが何よりも安心だ、之さへあれば、後ほど身請の金を拂ふて、茲を出去る事が出來るだらう、次に彼は時計其他の身に着く品を檢めた、いづれも同じく無難である、愈々以て此山賊の目的は分ツて居ると彼は思ふた、流石に他國へまで名の響いて居る程の大賊だから詰らぬ細い盜坊どろばうはせぬ、身請金を取さへすれば滿足するのだ、何でも細かな物をば少しの油斷に乘じて盜む樣な奴は到底大賊に成れぬ筈だと、腹の中に盜賊の哲學とも云ふ樣な事を考へつゝ、て時計を見ると朝の六時少し前である、番人は何處に居るのだらう、其れとも逃る處の無い土牢の樣な所だから番人無しにはふつてあるのか知らんと思ひ、入口の鐡の閂木かんぬきの間から少し顏を出して見ると横手の方に臺を置き、其れに腰を掛けて一人の男が嚴しく頑張てゐる、能く其男の顏を見て段倉は呆れて了ツた、一昨日其身が扶府ふろれんすから乘つた馬車の御者である、ては此身は一昨日をとゝひから既に山賊の手に陷つてゐたのだ、斯う思つてゐる中に、又一人の男が來て「サア六時だ、交代の時が來た、之から二時間はおれが預るのだ」と云つて代つた、其新しい顏を見ると此奴は其又前日の馬車の御者である、益々以て驚く可しだ、全體此山賊等は何れほど廣く網を張つてゐるのだらう、ナニ平生から爾う廣く網を張つてゐる譯では無い、特に段倉に對してのみ其樣に手配てくばりをしたのだ。

併し今に誰か頭立た奴が來て身請金の事を云ひ出すだらう餘り恐れて居る容子を見せては却つて足許を見られるから、大膽に構へるが好いと、傲然として石の床の上に足を投出し四五時間も待つて見た、けれど音沙汰が無い、再び番人の方をのぞいて見ると今度は見知らぬ奴がゐて、薄黒いぱんと葱の煮たので、食事の用意をしてゐる、眞逆におれに食はせるのではあるまい、の樣な臭い物が巴里の紳士の口の傍へ寄せ附けられる者かと顏をしかめて殆ど鼻を蔽はぬ許りにして此方こつちへ引込んだ。

けれど天然の規則は妙な者だ、幾等巴里の紳士でも時が立てば腹が空く、午後の一時頃の及んでは、先ほどの葱の匂ひでも好い、プンと風に送られて來て呉れゝばと鼻で小呼吸こいきをして見る樣に成つた、最う何か食事を運んで來さうな者だ、身請金を取らうと云ふ大事の客を爾う苦しめる筈は無いと、自分の身體へ値打を附けて、待つ事凡そ二時間にも及んだが音沙汰が無い、全く臺所の方で大切の客のある事を胴忘どうわすれして居るらしい、其うちに又葱の香が匂つたから、又ソツとのぞいて見ると、今度は今朝初めて見た番人が又來て居る、先刻のと同じ樣な黒いぱんを、旨ま相に口の中へ詰込んで、湯氣の立つ肉汁すつぷを咽を鳴らして吸ふて居る、之れを見ると共に一ひとしほ又空腹を感じ、咽喉を通る者なら何でゞも好いと云ふ氣に成ツた、最う何うしても我慢が出來ぬ、けれども餘まりもじ相に見られるのも厭だから何氣無く構へて輕く番人を呼び「コレ〳〵、茲の主人あるじは何時までお客に腹を空させて置く積りだ」と少し笑ひを帶びて問ふた、番人は此上も無く恭々しく「アヽお客樣御空腹になりましたか」段倉「おゝ空腹とも本統に空腹だよ、何か早く出來る者を持つて來て貰はう」番人「ハイお客樣に差上げるには土地第一等の料理番を雇ふて有りますから、何でも出來ます、雛鳥の丸燒に魚味を加へた汁などは如何でせう」段倉「結構、結構、何でも早いが好い」番人は心得て退いたが間も無く制服を着けた給使と共に來た、給使の手には式の通りに雛の丸燒を皿に入れて持つてる「成るほど巴里の料理屋に行つた樣だ」と云ひつゝ手を出して受取らうとすると、番人が遮ツて「少しお待ち下さい、茲では食ふ物の代價を總て前金に戴きますから」段倉は急いで衣嚢かくしを探り「好し」と云つて手に觸ツた一ルイ(廿法)の金貨を出して與へ「此土地は鳥が安い所だから丸燒で十二錢か十五錢もするだらうが、釣錢はお前等二人で分るが好い」一皿の丸燒を廿法とは全く何れの國にも無い大びらな拂ひ方である、斯うして再び皿を受取らうとすると、番人は又遮り「猶だ少し足りません」段倉「何だ雛一羽のに對し、廿法で足らぬと云ふのか」番人「ハイ此山洞では此一皿が十萬法即ち五千ルイですから、最う四千九百九十九ルイ戴きませねば」段倉は笑談ぜうだんだと思ツた、併し一刻の猶豫も辛いほど腹が空いて居るので、たゞちに又一ルイを取出して「サア」と投與へた、番人「ハイ、最う四千九百九十八ルイ戴きませねば」笑談ぜうだんでは無い極めて眞面目である、段倉は怒ツた「人を馬鹿にするにも程がある」番人「イヽエ、私の方から強て賣附けるでは有りません代價をお拂ひ成さらねば品物を差上げぬ迄の事です」と云ひ捨て人も皿も退いて了ツた、餘り癪に障る仕方だから「ナニ食はずにこらへて居れば好い」段倉は男らしく呟いて、之れより凡そ卅分ほどは我慢して居たが、其卅分が全く一世紀ほど長く感じた、今度は何うにもこらへられぬことに成つたから又番人を呼び「先刻お前逹のべて居た樣な黒いぱんで好い」たゞちに最前の給使が又更に盛つて黒いぱんを持つて來た、段倉が受取らうとすると番人「イヤお客樣、先刻二ルイ丈けは前金で戴いて有りますから殘る四千九百九十八ルイを戴きまして、品物は其上でお渡し申します」段倉「其れは雛のでは無いか」番人「ハイ何でも一品賣は十萬法づつです」

巖窟王 : 二七七 結末・九

腹の空くと云ふ事が、何れほど恐ろしいかは誰でも知つて居る樣であるが實は知らぬ、イヤ其知つて居る處より十倍も百倍も辛いのだ、空腹の極點は死亡に在る、其死亡までに、時々刻々少しの絶間も無しに身體が内側からけづられる、顏の肉も手足の肉も胴の肉も、少しづつ胃の腑へ落ちて行つて消えて了ふ、實に慘酷な譯である、若も自分の身體が外から一皮づつ剥かれけづられると云へば誰でも其痛さを知るだらう、恐れて身顫ひするだらう、併し外からけづるのも内からけづるのも大した違ひは無い、外からけづれば血が出たり肉が切れたり其 むごたらしい樣が目に見えるから餘計痛い樣に思ふけれど、内からけづるのは苦しみが長い、長い苦しみを絶間無く味はつて居ねば成らぬ、之が爲には眠りも消える、總ての機關がこはばツて來る、餘り辛くて發狂する者も有る、到底人間の力で否生物の力でこらへられる者では無い、けれど死ぬまではこらへて居ねば成らぬ、是れが本統の嬲り殺しと云ふ者である。

段倉の餓ゑたのは唯一日だけれど、一日の餓が最う何うにもこらへられぬ程に成つて居る、死んでも好いから何か食度い食はねば生も死もする事が出來ぬ、何と我慢の仕樣も無い、彼は叫んだ「一品賣が十萬法、其れなら一度の食事は幾等取る」番人「矢張り一品づつ勘定します、十皿 たべれば百萬法です」段倉「其樣な大金を持つて居ぬ、何うして爾う拂ふ事が出來るものか」番人「イヤお持合せの五百萬法の中で拂へば宜しいのです、詰り貴方が五十皿と半分だけの食事をする資力があるのです」笑談ぜうだんの樣な此一語で、段倉は全く敵の巧の深さを知つた、自分の懷中をまで讀み盡して居るのだ、最うもがいても無益である、兎も角も一皿はべ、少し胃の腑を落着かせて其上で能く考へて見ねば成らぬ「仕方が無い、さあ雛の丸燒を持つて來い」と云ひ五千ルイ投出した、番人は「ではお釣りです」とて先刻のニルイを返して退いたが、直に雛の丸燒を持たせて給使を寄越した、無論段倉は貪り食ツた、けれど次の用意にと思ひ骨や屑などを取つて置いて皿だけを返した。

翌日は取つて置いた骨と屑とで朝を凌いだが、今度は咽喉の渇きを催して耐へられぬ、一杯の葡萄酒を請ふたが矢張り十萬法である、夫ならば水をと云へば之も同じあたひである、餘り無法な仕方だから番人に向ひ「貴樣には分らぬ、頭分かしらぶんを茲へ連れて來い」と怒鳴つた、番人は憎らしいほど柔順すなほである、唯々として退いたが、引違へて頭かしらぶんらしい者が來て「私が此山洞の主人あるじ鬼小僧と云ふ者です」と名乘つた、段倉は商賣の談判に能く慣れた日頃の口調で「幾等の借金を出せば私を放免して呉れますか」向ふも簡單な商賣口調で「五百萬法です」段倉は白刄を差付けられた樣な氣がした「五百萬法、其れ丈取られるは命を取られる樣な者です、一文無しになつて了ひます、一思ひに殺して下さい」鬼小僧「イヤ此山洞で血を流す事は禁じられて居ますので」段倉「貴方が主人だと云ふでは有りませんか、誰が禁ずるのです、血を流すも流さぬも總て貴方の隨意でせう」鬼小僧「イヽエ私は此山洞の主人でも猶だ私に差圖する大將が外に有ります」段倉「エヽ大將が――シテ其大將が私を此樣に取扱へと貴方に命じたのですか」鬼小僧「ハイ其通りです」段倉「では百萬法出しますから許して下さい」鬼小僧「いけません」段倉「では二百萬法、オヤ未だいけませんか、三百萬法、其れでも、エヽ仕方が無い思ひ切つて四百萬法まで出しませう」鬼小僧は何か親切な事をでも云ふ樣な調子で「貴方は爾う贅澤に言葉を使ツたり腹立てたり成さツては不經濟です、其れだけ餘計にお腹が空きますから、一品十萬法もする所では餘ほどお言葉から儉約して掛らねばエ、爾でせう、何度繰返しても五百萬法と確定してゐるのですから」段倉「だツて一品十萬法づつ取られると、何うせ饑る時が、遠からず來ますから」鬼小僧「ハイ其は遠からず來るのでせう」段倉「其時には饑死させるのですか」鬼小僧「私の方で手を下しては殺しませんが、食費が盡きて貴方が自然にお死になさるのは妨げません」饑死ぬれば其後で五百萬法を唯だ取られるのだ、何うしても逃れぬ場合とは悟つた、けれど逃れぬ場合にも猶ほ逃れ道を探すのが段倉の本來の根性である彼は思ふた、何な何でも長く我が金と我が命とを保存する一方である、其中には何う云ふ事で助かる場合が現はれて來るかも知れぬ、或は伊國いたりやの政府で山賊の害を認め、イヤ既に其害は充分認めてゐるだらうから、憲兵を派して驅立を初めぬとも限らぬ、金と命を蓄へて其樣な不意の助けを待たねば成らぬ、我慢の出來る丈は我慢しやうと、堅く決心して咽喉の渇いたのを又耐へた。

巖窟王 : 二七八 結末十

こらへるとて何時までこらへられる者か、成るほど長い内には何の樣な助けが來るかも知れぬけれど、其れは當に成らぬ事却つて饑の方は寸刻の油斷も無く推寄せて來る、のみならず一刻は一刻よりも急に、明日は今日よりも必ずきつい、其 きつさの増すに連れ、段倉は疑ひ初めた「鬼小僧と云ふ此山洞の主人の外に猶だ大將があるとは、何の樣な大將なのだらう、外の捕はれ人は皆身請金さへ出せば許さると云ふのに、何故此身だけは身請金を出しても許されず、此樣に苦しめられるだらうイヤ身請金を出せば許して呉れるけれど、其金額が五百萬法何故斯くも高いだらう、決して此身は此山賊から普通の取扱ひを受けて居るのでは無い、特別の、無類の、甚い〳〵處分を受けて居る、何か其大將が此身に對して深い恨みでも持て復讐を企てゝ居るのか知らん。

苦し紛れに大方、事の眞相に推量が屆き掛けたけれど、是より上は考へる事が出來ぬ、考へたとて到底分らぬ、其うちに彼の心に、死ぬと云ふ恐ろしい觀念が見えて來た、此樣にもがいたとて我慢したとて、何處からも助けの來る見込は無い、全く此まゝ死なねば成らぬのか知らん、饑が此身を冥途へ追立て號令か知らん、爾うだ、何うも死ぬ外は道が無い樣だ。

誰とて死の恐ろしく無いは無い、けれど段倉の如きは、曾て武士の教訓を受けた事も無く、死を輕んずるなど云ふ念は一度も起した事が無いから、命の惜さが又格別である、幾度び彼は此山洞から逃出す道は有るまいかと考へて見たかも知れぬ、けれど其道は決して無い、地をくゞ土龍もぐらとても此室の三面を圍んで居る天然の石の壁を貫いて去ることは出來ぬ、唯だ一方だけ開いて居る戸口には鐡の閂木かんぬきが嵌ツて居る上に嚴めしい番人が立つて居て、夜晝の區別が無い、逃やうなどとは、柔かな指先で天然の岩石へ隧道とんねるを掘らうと云ふ望みである、望むだけ、自分の心を苦しめる丈け、損である、茲に到ツて最早何うにも仕樣が無い、矢張り驚く可き大金を出して、食物を買ふ一方である、末は何うあらうとも、食はねば直に命が續かぬ、總身を削られる樣なきつい饑を我慢が出來ぬ。

彼は眞正に餓鬼の景状ありさまとはなツた、是れは彼のみで無い、誰でも彼と同じ境遇に立てば同じ景状ありさまは免れぬのだ、遂に彼は食事の爲に百萬法までの大金を取られて了ツた、其れは只彼が鬼小僧に逢つてから二日目である、全く少し位の食物では、却つて空腹の感じを鋭くする樣な場合と爲つたのだから此世の思ひ出に腹一ぱいべて見たい、爾すれば後の持こたへも却つて手易からうと此樣に思ふて、殆ど未來永久の食溜と云ふ心で充分にべた、本統に腹が出來た、アヽ是れならば最う幾等饑たとて心は挫けぬと呟いた。

けれど此時の饑に耐へぬ人が、此よりも甚い此次の饑に何で耐へる事が出來やう、生憎彼は胃の腑が健康だ、少し時が立つと、直に腹が空く、爾して其空き方が鋭利だ、メリメリと音がして身體が萎びて行く樣に感ずる、一度又一度、之れが本統の食ひ納めだと思ツては、金を取られ、到頭十二日目には五百萬法を悉く取られ、只五萬法だけの蓄へとは爲ツた、斯うなると此五萬法を全く命よりも惜い、最う之れを出したとて一皿の食を得る事が出來ぬ、茲の定價に從へば唯だ半皿である、半皿の肉を食ふたとて何に成る者か、一皿ですらと少く盛つて有つて腹を滿たさうとするには十皿ぐらゐべねば足らぬのだもの、何うせ饑る者ならば、此五萬法だけは保存して饑ねば成らぬ、アア五萬法、五萬法、何が何でも是れだけは助けねばと、必死に五萬法を守る事には成ツた。

昔團友太郎が泥阜でいふの土牢で絶望の極に逹した時には、唯だ自分の記憶だけを保存したいと神に祈ツた、此時の段倉が殆ど其れである、彼は日頃神に祈つた事などは無いけれど此時ばかりは熱心に祈つた、アヽ神よ我をして無事に此五萬法を保存せしめ給へと、此だけの金さへ有れば助かつて世に出たとき、未だ何事かの商賣をする事が出來る、身を支へる足場を得て、何とか再擧の峰に攀づる事も出來やう、是れが無くては無一物である、茲を出たとて道路で餓死ぬる外は無い、即ち此金が命である、命の盡るまで金を捨てぬ。

此決心に彼が執着した忍耐は聊か感ず可きであツた、惡人にもせよ流石に貧賤から身を起して巴里第一流の銀行家と爲り出た丈の事は有る、頬は落ち目の凹んだは無論の事、眩暈めまひがして心も取紊とりみだれ、殆ど何事をも考へ得ぬ程に至ツてすらも猶ほ五萬法の事は考へて居た、此樣なのが死んでもしかと金だけを抱締て居る人なんだらう。

巖窟王 : 二七九 結末・十一

死んでも五萬法の金は放さじと、段倉は決心してから、一日、二日、三日、四日、とは經つた、何うして彼の剛情が斯くまで續き得たかは殆ど不可思議である。

彼は全く餓鬼の境遇を通り過ぎた、最う自分で自分の身を動かす力も無い、死人の如く床の上に横臥よこたはつて時々苦しげな呻吟うめきの聲を發して居たが、果は其聲さへも出無くなつた、最う死をること唯一歩である、併し此樣な場合に至つても餓の苦痛は止まぬ、イヤ身體が弱れば弱る丈け益々募つて來る募り募つて何うにも耐へることが出來無く成つた時なんだらう、彼は室中を轉がつて、床の上に若しや前にべたぱんの屑でも落てはゐぬかと探した、探して唯だの一粒でも見當れば急いで口に入れた、斯うなまじか口に入る者が有ると其に刺激せられて餓の度が又強くなる、次に彼は、最う何にも口に入れる者のない辛さに、床にある羊の皮を齧り初めた、斯る極點に至ツては人と禽獸との差別は無い、眞に犬よりも甚だしい景状ありさまである、能く世の人が石を噛むの土を食ひ附くのと云ふが、全く其樣な時が來たのだ。

流石の剛情も茲に至ツてつひに挫けた、彼は或日の夕方其 せて疲れた身を戸口の所までひきづて行き、番人に向ツて「一萬法の金を遣るから、何うかお前の喰殘しのぱん屑片かけらでも骨の餘りでも呉れまいか」と請ふた、凡そ何れほど嚴重な牢番でも一萬法の賄賂に動かぬは無い筈だのに、此番人ばかりは動かぬ、全く段倉の泣き聲が耳に入らぬ振である、段倉は消え入る樣な聲で「コレ、コレ、お前だとて人間では無いか、此通り同じ人間が、饑の爲に最う今夜にも死ぬと云ふ所まで迫つてゐるのに、知らぬ顏で見殺しにするとは餘り甚い、何うか此こつちを向いて私の言葉を耳にだけも入れて呉れ」之れだけ云ふて氣力が盡き床の上に俯伏にたふれた、最う彼の最後であらう、此上に耐へる事も生存へる事も出來ぬ、其は身體が許さぬのだ、物質の規則が許さぬのだ。

たふれたけれど又起き直つて最後の聲を發した「頭分かしらを、頭分かしらを、鬼小僧とやらを」此方こなたでは此聲を待つてゐたらしい、直に鬼小僧が現はれた「私をお呼び成さツたのは何の御用です」段倉「助けて下さい、助けて下さい、最う身請をする金もなし、茲に五萬法殘ツてゐるから、之を差上げます、何うか命だけは助けて、私を此山洞の奴隸に使ふなりと何うなりとハイ何うか命だけ、命だけ」到頭五萬法も思ひ切つた、是れで見ると段倉に取つて、五萬法よりは命の方が流石にわづかばかりは重いと見える、鬼小僧「隨分辛いと見えますね」段倉「辛い、辛い、死ぬるよりも辛い、殘酷です、無慘です」鬼小僧は少しも心の動かぬ聲で「けれど世には貴方よりも辛い目に逢つた人が有ります、饑てつひに死んだ人さへ有るでは有りませんか」段倉「其樣なのは極稀です、夫は何かの天罰です」鬼小僧「貴方は天罰だと思ひませんか」段倉は顫ふ力さへない身ながら恐ろしげに顫ふた、爾して「天罰ならば最う充分に受けました、今日こんにちまでの苦しみは如何なる天罰にも優ります[」]此とき鬼小僧の背後うしろに當り、と嚴重な聲が有ツて「では此苦しみで充分に後悔しますか」何だか聞覺えに有る樣に思はれる、段倉は最う視力さへ大方盡きた目をいたづらに見開いて其人を認めんともがきつゝ「後悔とは何を」其人「今まで行ふた惡事の數々を」段倉「ハイ全く後悔しました、今までの事の爲に此樣な天罰が下るのなら、私は幾等後悔しても足りません」誰だとて此樣な場合まで推寄せて後悔の念無しに居るられる者か、其人「愈後悔したのなら赦して上げます」と云ひつつ進み出て鬼小僧よりも前に立つた、段倉は其姿を見て、「エ、エ、巖窟島伯爵」と打叫んだが、唯驚いた許りでは無い、眞に身のすくむほどの恐れを催した、今までの饑の辛さよりも今の恐れの方が烈しい、彼の落ち込んだ目にも血の氣の無い唇にも、削られた樣な兩の頬にも悉く恐ろしさが現はれた、伯爵「イヤ、私は巖窟島伯爵では有りません」段倉「では誰です」伯爵「サア誰でせう、誰ですなどと問ふよりも貴方は自分の記憶を探つて思出しませんか、貴方の生涯の中で、最も深く損害を加へた人を考へて御覽なさい」段倉は唯戰慄するのみである、伯爵「今より廿四年前、貴方が商船巴丸の荷物監督方を勤めて居た頃に立戻ツて能く私の顏を御覽なさい、貴方の爲に父をも饑死にさせ、許嫁の妻をも失ひ、生命をも財産をも、生涯の快樂をも、總てなくして、爾して貴方が今受けて居る丈の苦しみを、十四年の間、泥阜でいふの土牢で忍んで居た團友太郎が私です」段倉は此力の盡た身體の何處に此樣な聲が籠つて居るかと疑はるゝ程の鋭い聲で「アヽ」と長く打叫んだまゝたふれた、爾して氣絶して了ツた。

嗚呼段倉に對する伯爵の復讐は之で逹した、伯爵は最う自分の復讐が餘り度に過るを宜しからぬ樣に思つて居るから此上を追窮せぬ「アヽ、三人の仇の中で、次郎は死に、蛭峰は發狂した、死ぬるよりも甚いと云ふ者、此二人に比ぶれば段倉の方は未だ仕合せだ」云ふ中に段倉は呼吸いきを吹返した。

巖窟王 : 二八〇 大團圓

段倉は息を吹返したけれど起き直る力はなく、わづかに其 かうべを擧て伯爵の顏を見た、伯爵は之れに向ひて嚴重に「貴方は折角持逃げした五百萬法の金を奪はれ、定めし失望に至りでせうが、の金は貴方の物ではなく、慈善協會へ拂ひ渡す可き者でせう、巴里の貧民幾千幾萬人の死活がの金に繋がツて居るのです、其れを盜んで自分が不思議の富貴を計る資本として濟みますか」と叱り附け、更に「併し邪は終に正に勝ちません、の金は既に私から巴里の慈善協會へ送り屆ける手續きを運びました」段倉は又驚いて、漸く呟いた言葉は「貴方は眞に神の樣です」と云ふに在ツた、伯爵は此上は追窮せぬ「貴方に對する懲らしめは猶だ輕いかも知れませんけれど是れで最う許して上げます」と云ひ、更に傍に立つ鬼小僧に向ひ「腹一ぱい食事をさせて、其上で放免せよ、彼が殘して居る五萬法の金も、最う取るに及ばぬ、彼の物として持たせて遣れ」と言渡した、是れ全く大赦にもひとしい言葉である、今までの段倉ならば歡天喜地と云ふ可き程に躍り上ツて喜ぶ所だらうけれど、彼は此伯爵が昔の團友太郎と知り、今までの事が總て復讐に出たと知つて餘りの驚きに喪心の景状ありさまと爲り、深くは喜ぶことさへ知らぬ、唯だ運命の、わづかに人間を支配して、善にはつひに善を報ひ、惡には遂に罰を來す無量の力あることを現實に身に感じて空恐ろしく思ふのみである。

命令を遺して伯爵の去つた後で、鬼小僧は其通り段倉に立派な食事を與へ、五萬法の金を身に着けたまゝ放免した、此時は夜に入つた後である、段倉は山洞の門をさまよひ出て、幾時か歩んだけれど、路も分らず、且は充分の氣力も無い、木の根に身をもたせたまゝ夜の明けるまで休んだ、やがて日の出る頃と爲り、咽喉の渇きを覺ゆる爲め、かたはらに流るゝ谷川に行き、俯向うつむいて水をすくふたが、此とき流れに寫る我姿を見て驚いた、あゝ彼れ山洞に捕はるゝことわづかに廿日ばかりで有ツたのに、天の力は早や彼を見る影も無い老人にして了ツた、之れを發狂した蛭峰に比べて見ると何方どつちの苦しみが重かツたゞらう、雙方とも唯だ相當と云ふ外は無い。

* * * * *

斯る間に愈々十月の五日が來た、之れは伯爵が大尉森江眞太郎に約した死の日である、大尉は約束の刻限にモンテ、クリスト島に着く積でバスチヤの港から舟に乘つたけれど、風波の爲に遮られ、漸く其日も終りに入つて八時過ぐる頃、島に着き、直に巖窟の中へ案内せられたが、中の立派な景状ありさまは驚く可きである、けれど茲を自殺の場所と思ひ、遲くも今夜の十二時までが其刻限と思へば、巖窟の中に何故斯る宮殿の如き住居すまゐがあるやなど怪しむいとまがない、直に伯爵に向ツて「私は華子の後を追ひ、冥府に入る時の來たのを歡びます、貴方は十月の五日まで待てと仰有いましたけれど、今日と爲つては最う私の心を慰める手段は有りますまい、イヤ私は冥府に行つて華子に逢ふのが、此上もない樂しみです」

何たる絶望の言葉で有らう、若し能く此絶望を掻き消して大尉に此世の幸福を得させたならば、眞に廣大無邊の功徳と云ふ者で、今まで我身が復讐の種に重ねた許多あまたの罪も亡びるだらうと、伯爵は堅く信じて、ハイ爾まで貴方が思ひ詰て居ては人間の力で慰める事は出來ませんから、せめてもの心盡しに、私は貴方の死際を安樂にして上げませう、短銃ピストルで自殺するのは種々の不快を伴ひますから、兼て私の祕藏する一種の靈藥をお呑み成さい、之れならば身體も傷つかずに快よく眠る如くに息が絶え、天國に入つて目が覺めます」毒藥に死するもつるぎ又は銃に死するも敢て選ぶ所はない、大尉「ハイ仰せに從ひませう」と云ひ、間もなく伯爵が持出した美しい噐の中から、何やらんかんばしい緑色の濃い液を大匙に溢るゝほどすくふて呑んだ。

果して靈藥と云ふ可きである、大尉は何時ともなしに夢幻の境に入り、やがて天國に目覺めた心地がして、傍にはと美しい女一人、來りて我身を介抱する樣にも思はれ、能く見れば其顏が段々華子の顏に見えて來る「オヽ華子、天國で待つて居て呉れたのか」と云へば唯頬笑むのみで返辭はない、其うちに又伯爵の姿も現はれ華子と何か話して居る、其言葉も夢かうつゝか次第に明かである。

華子「此御恩は忘れません、伯爵」伯爵「イヤ恩などと云ふ事は有りませんが唯だ何うか、行末までも鞆繪姫を貴女の妹としていたはツてお遣り下さらば」華子「妹とも姉とも互に最う思ひ合つてゐますけれど、貴方が何時までも姫を保護してお上げなさるのに」伯爵「イヤ私は何時死ぬる身かも知れず、又何處へ立ち去るか知れませぬゆゑ――」何だか此世に最早望む所なくして死を決した人の樣にも見える、「オヤ貴方は私一人を殘して何時死ぬるかも、何で其樣な悲しい事を仰有います」と忽ち伯爵の背後うしろから叫ぶ者がある、伯爵は振向いて鞆繪を認め、「オヽ和女そなたは、和女は、若し此方このはうがゐなくなれば――」鞆繪は恨めしげに「其樣な事をお問ひなさるは、華子さんに、若し森江大尉がゐなくなればとお問なさるも同じ事です」一語で何も彼も分ツてゐる、、伯爵は鞆繪の手を取り「オヽ許して呉れ、此方が惡かツた、此方が知らなんだ、此世に最う何の用事も何の樂しみもなからうと思ふた爲め、森江大尉が世をはかなんだ如く、此身も世をはかなみ、今まで重ねた罪の報いとして、此身を神に捧げねば成らぬと思ひ、覺悟を極めて居たけれど、唯だ和女の心を知らなんだ、未だ、未だ、死なれぬ、此身にも幸福が有る、神が其幸福を和女の愛と云ふ形を以て此身に與へて下さるのだ、オヽ神の恩、神の恩、猶だ生存へて和女を幸福にし、和女の幸福から此身の幸福を溢れ出させねば成らぬ」とて暫し相擁して神に謝し又相擁して退いた。

大尉は是等の景状ありさまを夢路に見、怪しいとも思はぬ、未だ華子の顏が猶も我が傍に輝いて居るを喜ぶ、夢ならば醒めな、天國ならば長く長く天國の儘にあれとのみ思ふたが、翌朝は天國が、此世と爲ツた、此世に目は覺めたけれど、華子は依然として傍に居る、何うしてだらう之を怪しみ問ふ心も出ず、唯だ伯爵の力に違ひ無いと知るのみである、直ぐに起きて手を引合ひ、雲よりも柔かな絨氈じうたんの上を浮か浮かと歩みて廻るうち、洞門を開けて居たと見え、何時しか巖窟の外に出で、水際のやゝ高い所へ行つて見ると、一天晴渡ツて海のおもてを射る日影もまぶしいほどである、斯る所へ、何處からか一人の舟子ふなこが來て「此手紙を伯爵がお殘しでした」とて一通を差出した「エ、伯爵が手紙を」と大尉は受取つて開き讀んだ。

「大尉よ、華子よ、水際の小舟を見よ、此手紙を預かれる其舟子ジヤコボが何も彼も心得居るゆゑ、御身等二人乘りてレグホーンに上陸せよ、其所には病氣のなかば直りてほゞ歩行の自由を得たる野々内彈正が孫娘の婚禮を祝せんとて待てるなり、巴里の餘の家、モンテ、クリスト島の巖窟及び、其財寶、通貨一切、凡そ一億法の價格を、御身等二人に讓るなり、大尉よ、一億の資本は此世に於て高き尊き事業を遂ぐるに足らん、御身等餘に謝する勿れ唯だ餘が爲に神に祈れ、四十餘年、安樂の何たるを知らずして煩悶せる不幸の男子も、御身等の祈りと、鞆繪の愛とに安んずる所を知るを得んか、大尉よ、華子よ、幸福に生を得よ、人生は茫々たるも自ら神の指さして渡る可き津頭しんとうを示し給ふ時あらん、其時までは唯樂しみて而うして待て、待つと樂しむと是れ人生最大の良智なり」

讀み終津て大尉はジヤコボに問ふた「伯爵は今何處に居る」ジヤコボは沖合を指さして「今朝早く姫樣と共に東方へ向けて出帆なされました、アレの船においでです」大尉と華子とは、かうべを擧げて水天髣髴の際を見ると、かもめかと思はれる樣に白帆の影が見えて居る、最早呼んだとて屆かぬ、大尉「最う伯爵に逢ふ事は出來ぬだらうか」華子「伯爵のお言葉の通り樂しみて待ちませう」

「巖窟王」下卷
(終り)

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