読書ざんまいよせい(097)

巖窟王(下 その9)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
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Youtube 【原作朗読】モンテ・クリスト伯(巌窟王) 114「ペッピーノ」

巖窟王 : 二六五 斷末魔・一

蛭峰がつんのめる樣に歩み寄つた其戸口の番人さへも呆氣に取られて居る、彼は戸を開けて好いか開けぬが好いかをさへ知らぬ、けれど蛭峰を遮る勇氣は無い、あわてゝ戸を開いた、蛭峰は出で去ツた。

後で裁判所の混雜は一方ならぬ、今まで魔睡した樣に成つて居た傍聽一同、初めに徐々に、次は急に、最後は海嘯つなみの推寄せる程の勢で、目が覺めた、眞に意外な、恐ろしい裁判で有ツた、イヤ裁判には成らずに止んだ、けれど此樣な事を見た事が無い、口々に驚きや訝かりや樣々の事を語り合ひ初めた、かなへの湧く景状ありさまである、流石の判事一同及び裁判長までも蛭峰の去つて暫しの間は、唯だ顏を見合せて、唖の状であツた、けれど遂に氣が附いて裁判長は宣言した「今日の裁判は之で延期と致し、次囘の開廷期へ讓ります、其間に必ず豫審の調べ直しと爲り、爾して裁判官の人を替へ更に裁判するに至るでせう」吾々は最早斯樣な裁判は取扱ひ得ぬとの意を含んで居るのだ、裁判長が是れほど迄に云ふは前後に殆ど類が無い、陪席判事も陪審員も、無言で有るけれど、再び斯樣な恐ろしい裁判に關與たづさはり得ぬとの事は同感らしい。

傍聽人の言つて居る事柄などは千状萬態で茲に一々記す事は出來ぬけれど「被告辨太郎は何うなるのだらう」と云ひ「蛭峰の舊惡には驚いた」と云ひ「親が子を論告して、反對に子より舊惡をあばかれるとは全く天のするわざだ」など云ふのは多かツた、併し大抵の人が辨太郎は眞逆に死刑には成らぬだらう、情状を酌量して終身刑に處せられるだらうと云つた可なり法律に通じた人も無論爾さと云つて居た。

其れはて置き、戸を開いて出た蛭峰の状は見ものである、彼は帽子を冠る事さへ知らぬは勿論の事、其身が足で歩して居るか頭で歩して居るかをも辯ぜぬ容子である、夢遊病の患者が歩む樣にフラ〳〵と歩み石廊に出て走つた、茲には入後れた傍聽人や、他の裁判の室へ出入りする人などが蟻集ぎしふして居る、此人々は、一人中から出て來る者の有る度に取圍んで中の容子を爭ひ聞くので、直に蛭峰の周圍まはりへ馳寄つた、けれど一目蛭峰の顏を見て飛び退いた。

實に蛭峰の顏は誰とて飛び退かぬ事の出來ぬほど物凄い、筋と云ふ筋には悉く血がみなぎつて隆起して居る、血走つたまなこの光り、引痙ひきつつた頬のゆがみ、怒れる虎よりも恐ろしい、誰が此前に立つことが出來やう、全く蛭峰は無人の境地を行く如く群衆の中を通り裁判所の出口まで出た、幸茲に居合せたのが彼の馬車である、彼は誰の馬車とも見分けずに之に乘つた、馭者は問ふた「お歸りですか」蛭峰は返辭をせぬ、返辭の無いのは歸るのだらうと馭者は氣を利かせて家の方へ馬車を向けた、全く蛭峰の身には、今裁判所の中で力の盡きた反動が出て來た、死人の樣に見えて居た彼の顏は火の樣になツた、震へて居た齒の根は切齒はぎしりする樣に堅く結ばれた、手は手のひらへ爪の立つ程に握り詰めた、爾して腦髓も電光の如く忙しく動き初めた、けれど腦髓が動けば動くほど益々逃れる道の無い其身の末運が合點が行くのだ、此後を何うして好いか思案が浮ばぬ、彼は考へて又考へた、何うしても思案の無い苦しさに又叫んだ「考へるだけ無益だ、無益だ、本統に、神の手で罰せられたもの、何としたとて逃れる事が出來る者か」

叫びつゝ狼が檻の中を見廻す如く馬車の中を見廻したが膝の脇なるしとねの上に一本の扇子の有るのが目に留まツた、是は今朝彼の妻が自分で乘つて用逹ようたしに出る積りで外の品と共に入れたのをツイ取殘して置いたのだ、此小さい一物が大なる動機である。

初め彼、心も無く之を取上げたが、手に置いて見直すと共に、忽ち妻の事を思ひ出した、彼は不意に痛みを受けた樣に叫喚した、あゝ彼は家を出る時其妻に何と云ツた、家の恥辱を雪ぐ爲め毒藥を以て自殺せよと命じた、退引のつぴきの成らぬ樣に鐡案を宣告した、今は何うである、妻に此樣な宣告をする資格が有るだらうか、妻が家名を汚さぬうちに自分が家名を汚したのだ、妻の汚し方よりも幾倍重い、其れも事實を云へば今の妻を迎へぬ先に汚して居たのだ、今は唯だ其事を露見したと云ふに過ぎぬ、此樣な身を以て妻に家名を汚すなとは何うして云つた、妻を死なせるならば自分が先に死なねば成らぬ妻には毒害せねば死刑臺に上されるぞとの意を繰返し〳〵言つておどして、アヽ死刑臺は自分の方が當然に上る可きである、此樣な者の妻となつたればこそ所天をつとの心中に潛んで居る極惡が妻の身に感染したのだ、此樣な者の妻となつて、誰だとて惡人と成らずに居られる者か、鬼の妻に鬼神と云ふは是である「アヽ何うしても妻を死なせては成らぬ、斯うなれば最う破れかぶれだ、妻を引連れ世界の果へまで出奔しやう」惡人の後悔は善人の後悔とは違ふ、善人は後悔して善に還り、惡人は惡を遺して逃れるのだ、惡を遂げるとは此事である、彼は全く其氣に成つた、何でも妻と逃れる外は無いとは云へ妻は猶だ活て居るだらうか、先刻鐡案を宣告して家を出てより未だ二時間とは經ぬ、毒を呑んで死ぬるにしても後に殘る兒供の手當や、其外にも用意が有らう、急いで歸れば未だ死なぬ所へ行く見込は有る。

斯う思ふと共に、彼は突然 かうべを馬車の窓の外に出し、馭者に令した「早く家へ、早く、早く」

やがて家には着いた、飛ぶ樣に内へ入り妻の室に馳せ附けた生憎戸に錠が卸りて居る、アヽ遲かツたかと彼は胸を突かれる樣に感じた、けれど叩いて見ると、中で何だか物音がする、有難や猶だ活て居るのかと思ひ「開けろ、開けろ」眞に聲を限りである、けれど開けぬ、彼は全身の重さを以て幾度も戸に突當り、漸くに戸を破り得た、爾して轉がる如くに中に入れば妻は室の隅に立て居る、けれど最う遲過ぎた、今までは未練な心で死にも得せずに居たけれど所天をつとの戸を叩く荒々しい音を聞き愈々逃れぬ時が來たと知り、戸の破れると同時に最後の毒藥を仰ぎ呑んだ、立て居たのは是から倒れんとする所で有ツたのだ、「オヽ」と叫んで蛭峰が近づくと同時に呑み乾て空になツた硝子瓶が力の無い手から落ちた。

巖窟王 : 二六六 斷末魔・二

苦しみの時間は短くても長い、一夜の間に頭が全く白髮しらがになる人さへ有る、此樣なのは、一夜に人生の五十年の苦しみを仕つくすのだ、蛭峰が裁判所から我家へ歸る馬車の間は、時間にすれば極短かツた、けれど苦しみは長かツた、彼に取つては殆ど五年十年にも向ツた。

彼は其間に、浸々しみ〴〵と自分の惡人と云ふ事を感じた、惡を懲らす天の裁判が今は自分の身に降ツたと知り、幾度と無く、「天の裁判」と云ふ言葉を口走ツた、其れのみで無い、自分が妻の惡事を咎めるのが無理と云ふ事も思ひ、何うしても妻が自殺せぬ間に歸らねば成らぬとあせり、引續いては息子重吉の事にも思ひ及ぼし、斯うなる上は妻と二人で重吉を連れて他國へ逃げ、夫婦とも善人に歸り、唯だ子を慈しむ愛の一心を以て餘命を幸ひに送られる樣に思ふた、彼の心は唯だ此一念に集注し、妻の室の戸を破ツて其中へ轉がる如く入つた時は、他の事は何にも思はなかつた。

轉がり込んで、中に立つて居る妻の姿を見た時には唯だ安心した、妻の手から空瓶の落ちた事も知らぬ、其立つて居るのは之からたふれるのだと云ふ事も知らぬ、單に未だ活て居る者と思ふ嬉しさの爲に、彼は有難涙を埀らした、今まで怒漲して居た滿面滿身の神經が、又悉く一時に茲で弛まうとした、彼は兩手を擴げ「オヽ、妻か、未だ生きて居て呉れたのか」と叫び、殆ど抱き附かうとしたが、此時に初めて氣が附いた。

勿論多量の毒藥を呑んで、今死んで倒れんとする許りの人だから相格に違ツた所が有る、彼が先ほど裁判の室から蹌踉よろめき出て、廊下に滿ちて居る人々を驚かせ逃去らせた時の顏と今彼の見る妻の顏と何方どつちが恐ろしいだらう、彼は裁判所の群衆が彼から逡巡しりごみした如く今妻の身から踟蹰たぢろいだ、妻は倒れ伏さうとして、彼が退くだけ進み出で、最早や此世の聲では無い聲で「お言葉の通り、自分で、自分の身を裁判しました是れで貴方は御滿足でせう」無限の恨みを帶びて云ひ、戸口の所まで蛭峰を追ふて倒れた、是れが四人まで人を毒害した蛭峰夫人の最後である、人を殺す毒藥が最後に身を殺す事とは爲つたのだ。

蛭峰は倒れた妻の身にしがみ附く所だけれど、今見た景状ありさまの物凄さと自分の罪の恐ろしさに其勇氣が無く、唯だ「あつ」と叫んで逃げて彼は何處へ行く、何處とも知らず自分の室に走り入らんとしたが、直に又思ひ出した、妻は死んでも息子重吉が殘つて居る、重吉を連れて逃亡せねば成らぬ、嗚呼重吉は何處に居る「重吉、重吉」と呼立つる聲は空な家中に山彦の如くに響いた、今は下女下男も逃去ツて返辭する者が無い、彼は三度叫んだ「重吉、重吉は居ぬか、重吉は何處に居る」自分の聲が直に自分の身へ襲ひ返る樣に感ぜられて恐れは益々加はるのみである、遂に一人此問に返辭した者がある、其れは隱居所なる野々内彈正の傍に使はれて居る下男である、「若樣は先刻奧樣がお呼びになり、奧樣のお居間へ入つて其れ切出ていらツしやらぬ樣です」其れでは今妻の死んだアノ室の何處かに重吉も居たのか知らん。

既に血眼に成つて居る蛭峰は、まなこから火焔ほのほを射て又も妻の室に飛んで行つた、此室に入るのは恨を帶て戸口に倒れて居る妻の身を跨ぎ越えねば成らぬ、鬼胎の極に逹して居る彼の神經には其れ丈の勇氣が無い「重吉は居るか」と又叫んだが答へが無い、今度は恐る〳〵にかうべを差延べ、室の中をのぞいて見た、一方の隅に在る長椅子に、有難や重吉は眠ツて居る、イヤ眠つて居るのだらう、横に成つて頭のみ見えて居る「オヽ重吉、居て呉れたか」と云ひ、嬉しさに我知らず妻の死骸を飛び越えて其傍に行き、膝を折つて重吉の背に手を當て、「オヽ何にも知らずに眠ツて居る汝の可愛さ、コレ重吉、父は若い頃からの不心得の爲め、汝をまでも母の無い子にして了つた、許して呉れ、許して呉れ、其代り、今から、此父が汝を遠い所へ連て行つて可愛がツて遣る、父は最う汝の外に、此世に可愛と思ふ者は無い、氣を紛らせる者さへ無い、サア父が抱いて遣る、目を覺せ、目を覺せ、いたはツて抱き上げた、其身體は早冷え切つて石の如しである、眠ツて居ると思ツたのは死んで居るのだ、「エ、エ、エ」と蛭峰は三聲三樣に叫び分け、其頬に顏を當てた、けれど生氣は殘つて居ぬ「、何うして死んだ、誰が殺した」死骸の上に俯伏うつぶして正體も無い程に見えたが、暫くして跳返される樣に立ち、室中を見廻すと、初めて目に付いたは卓子てーぶるの上の手紙である、此れは妻の書置きなのだ、取上げて讀むと文は短い「私は善き母にて候、重吉の爲に四人まで人を殺し候、今は貴方の裁判に服し候、爾れど善き母は子を捨て去る者に之れ無く候、重吉引連れて此世を立去り候」唯だ之だけである、妻が其身よりも先づ重吉を殺したのだ、四人死んだ其上に妻、其上に又子、全く蛭峰の家の種は盡きた。

彼は泣くに涙も無い、何うして善いか其れも分らぬ、最う何でも生て居る顏を見ねば自分の心が消え入つて了ふ、誰にでも好いから一言慰めて貰ひ度い、茲が即ち人間最後の弱點と云ふ者であらう、悲しみ極まれば誰かに慰めて貰ひ度い、下僕しもべにでもい、飼犬にでも構はぬ、彼は斯る窮地に逹した、誰に慰めて貰はうか、誰にとても最う全身不隨の野々内彈正の外に此家には人は無い、口の利けぬ相手でも好い、未だ活て居る其人の顏を一目見るだけでも、死に顏から得た感想の幾分かを埋合す事が出來るだらう、彼は再び妻の身を踏越え逃げ、隱居所に入つた、あたかも獵夫の懷に入る窮鳥の状である、此隱居所で彼を迎へたのは誰れぞ、彼は彈正の外に誰も居ぬ事と思つてゐた、所が他の人が來てゐた、其れは伊國いたりやの暮内法師である。

巖窟王 : 二六七 斷末魔・三

世には蛭峰の不幸ほど甚だしい不幸のためしが有るだらうか、自分の舊惡は露見した、而も巴里中の紳士貴婦人の集まつて居る裁判所で、其舊惡の活た證跡とも云ふ可き私生兒に罵られて名譽ある大檢事席から引降ろされ逃げて我家に歸つて見れば、妻は死んだ、息子は死んだ、一家一族の種が盡きて了つた、最早誰でも好い、活た人の顏を見たい、活た人の聲を聞き度い、爾無くば發狂して了ふ、イヤ最うなかば發狂して居るかも知れぬ、彼が父彈正の隱居所へ飛び込んだ容體は殆ど發狂人の状である、顏の色、目の色、前額ひたひの筋、口の歪み、人ならずば鬼、鬼ならずば狂人である、彼は此状で暮内法師に出會でつくはした「ヤ、ヤ、貴方は何うして此家に」と叫んだ。

法師も彼の物凄い顏には流石に驚き、思はず背後うしろへ退かんとしたが、直に踏留まり、其上に裁判所の一條をも見て取つた、最早法師も自分の本性を露出むきだして、彼に宣告する時が來たと思ふた、法師の目は忽ち輝いた、其柔和忍辱の相はにはかに侵し難い程の嚴重な相に變じた、爾してきつと蛭峰の顏を睨み附くること凡そ二分間にも及んだが、やがて熱い熱い息を蛭峰に吹掛つゝ大喝した「蛭峰さん能くお聞き成さい、今日こんにち私が茲に來たのは、最早貴方天罰が加はツたと思ひますから、其天罰の譯を言ひ聞かせて上る爲です」今度は蛭峰の方が逡巡しりごみした「エ、私に天罰、其樣な事を云ふ貴方は誰です、法師では無いのですか、確に其聲は」法師「ハイ聞覺えの有る筈です、此顏を御覽なさい」云ひつつかしらから頭巾を取捨て、顏に施した樣々の假相を拭ひ捨つれば、黒い艷ある髮の毛が額に懸ツて、法師は變じて巖窟島伯爵の姿が現はれた、蛭峰は驚いたけれど退きはせぬ、身を引延ばす樣にして伯爵の顏を熟々つく〴〵見「さては、さては、昨日迄も怪しい奴と見込を附け、調に調を盡して見た巖窟島伯爵」伯爵「サア巖窟島伯爵が、巖窟島伯爵と見えますか、猶其前に遡ツてお考へ成さい」蛭峰「前に遡れば、確かに何處かで見覺えある其顏、聞覺えのある其聲」伯爵「爾です見覺え聞覺えは、今から二十四年前です、馬耳塞まるせーゆに於てゞす、貴方が米良田伯爵家の令孃禮子と結婚した頃の事をお考へ成さい」蛭峰「さては其頃の戀のかたきでゞも」伯爵は「戀のかたき、戀の敵」といやしむ樣な口調で繰返して冷やかに笑ひ「ハハ戀のかたきが是ほど執念深い者でせうか戀と云ふくらゐの事で人を恨む者が、一生涯を復讐の爲に捧げませうか」人を冷殺し又熱殺するとは此口調である、蛭峰の胸には怪しさが滿ちて居たが今は恐ろしさと爲ツた、彼は身を震はせた「エ、戀のかたきで無い、暮内法師で無い、巖窟島伯爵で無い、何者です、何者です、一生涯を復讐に捧げるとは餘ほど」伯爵「ハイ餘ほど深い恨みには違ひ無いのです」蛭峰「其れ程に此蛭峰が、貴方に殘酷な事でも仕たのですか」伯爵「せずば此樣な天罰が貴方に加はる筈が有りません、貴方は此頃の引續く不幸の數々を天の怒りとは思ひませんか、人間業で此樣な事が出來ませうか、貴方の罪惡は天の咎めを招いたのです、貴方は既に忘れましたか、自分で氣が附かぬと云ふのですか、曾て自分の野心の爲に、罪の無い者を罰した事が有りませんか、貴方は人をして生きながら地獄の責苦を受しめました、斯く云ふ私の生涯を犧牲にし、私の父をまで死なせ――」蛭峰「誰です、誰です、貴方の本の名は何と云ひます」伯爵「誰でも無い幽靈です、唯だ恨みを晴らし度いのみの爲に、墓の中から貴方を目掛て生返つて來た骸骨の樣な者です、泥阜でいふの土牢に十四年の間、恨を骨髓に刻附け、漸く天の助けを得て貴方の舊惡を調べ上げ、今初めて本名を名乘る事の出來る場合と爲つた復讐の使です」蛭峰は合點が行つた「エ、エ、泥阜でいふ要塞の土牢に、十四年、爾して墓の中から生返つて」伯爵「ハイ水葬された海の底から生返つた團友太郎は私です、團と云ひ友太郎と云ふ名さへも貴方の記憶には無いのですか」

蛭峰は氣絶せぬのが不思議である、多分は最う、先刻から續き續いた打撃の爲に神經が麻痺したのだらう、若し日頃だけの正氣が有れば氣絶せずには居られぬ所だ、彼は呆れて目を開き、更に悔しげに身をもがいて「エヽ、團友太郎と云ふ名前が先日來の取調中に、目にも映り心にも浮かんだのは幾度と云ふ數も知れぬ、其れが爲に特別の詮議を加へたけれど、彼は確に死んだ者と多くの證跡が有つた爲め、自分で自分の疑ひを掻き消して居たが、矢張貴方が團友太郎、爾う云へば成ほど顏も薄々思ひ出しました」伯爵「團友太郎と分ツて見れば、是ぐらゐの復讐は無理は無いでせう、團友太郎の恨みを思ひ知りましたか」蛭峰は伯爵の顏を見さへ得ぬ、太陽に晒される土もぐらの樣に、かうべを埀れ目を閉ぢて段々 背後うしろへ退いたが、其うちに今まで其身に振降ツた不幸の數々が明かに思ひ知られたと見える、爾して又も悔しさが沸き返ツたと見え「エ、エ、何を復讐、オーチウルの事、辨太郎の事、今日の裁判所での大打撃、其上に、妻まで、子まで、是れを復讐と云へば餘り仕方が甚過ぎます」と云ひつゝ彼は身を躍らせて伯爵に飛び掛り、爾して伯爵の手をしかと捉へ「では貴方の復讐の結果を見せて上げます、サアお出で成さい、此方こちらへお出で成さい」とは伯爵を引立てる樣にするは何の爲ぞ、全く正氣を失ツた沙汰では有るまいか。

巖窟王 : 二六八 斷末魔・四

蛭峰は伯爵を引立てゝ何處へ行く積りだらう、荒々しく伯爵の手を取つて唯だ無性に引く状は殆ど狂人の所爲である、けれど伯爵は逆らはぬ、引かるゝ儘について行つた。

やがて蛭峰は己が妻の室に至り、唯だ「御覽なさい、御覽なさい」と云つて指さすは妻の死骸及び子の死骸である、伯爵はハツと驚いた、彼の妻、彼の子まで斯く無慘の死を遂げたとは知らなんだ、蛭峰は又叫んだ「是れが貴方の復讐ですか」今が今まで伯爵は自分が神の助けを得、神の意を奉じてゐるとのみ思つてゐた、けれど此状を見ては、神の意よりも猶ほ一歩踏越して、我が殺生の過ぎたことを見て取つた、全く伯爵の顏色は變つた「オヽ、斯くまでは思はなんだ」叫ぶが否や室の中へ飛び入つて重吉の死骸を抱き上げた。妻の方には充分の罪があるから伯爵は其死を以て悼む可しとはせぬ、唯だ息子の死に至つては全くの罪の無い者にまで復讐を及ぼしたに當るから、何うしても之を蘇生させねば成らぬとと決した如く、あわただしく其心臟を撫で、又 あわただしく其目蓋を開きなどして猶ほ一點でも生氣の存して在るや否やを檢めたが、最う事切れた後である「エヽ殘念だ、手後れとは」と得も云へぬ絶望の聲を發した、けれど猶ほ捨つるには忍びぬと見え直に其死骸を抱き上げ、しかと自分の身に添へたまゝ立つて走り、再び彈正の隱居所に走り入つた、蛭峰は伯爵が何をするやを合點し得ぬ、唯だ伯爵の後に從ひ同じく隱居所に行つたけれど早伯爵が戸を締め切つた後である、續いて入る事は出來ぬ。

凡そ廿分ほども經て伯爵は又も重吉の死骸を抱いたまゝ出て來た「最う何としても此世へ呼返す事の出來ぬのは殘念だ」と云ひ再び蛭峰夫人の室へ其死骸を持つて行き、口に祈祷を唱へつゝ夫人の死骸と枕を並べて之を寢臺ねだいの上に置き白い布を其上に當て「此樣な思ひをするも全く復讐が過ぎたのだ」と殆ど後悔に堪へぬ如く呟いて茲を出たが、其れにしても蛭峰其人は何處へ行つたか影さへ見えぬ、其處此處と見廻すうち、隱居所に雇はれて唯一人此家に殘れる下僕しもべの姿を認めたゆゑ、たゞちに之に手招いて「蛭峰氏は何處へ行つた」下僕「裏庭の方へ行かれた樣です」たゞちに裏庭へ出て見ると、蛭峰は鍬を以て芝生の上を掘返し「重吉は何處へ行つた、何でも此邊に違ひ無い」と口走ツて居る、其容子、其顏、最早疑ふ所は無い、全く發狂したのである、伯爵は恐ろしさに堪へず、身を震はせつゝ傍に寄り「蛭峰さん、蛭峰さん」蛭峰は見向きもせず「ナニ、此邊へ隱れたのだ、重吉、重吉、最う出て來い、ヤ、ヤ、未だ出て來ぬぞ、來ねば何時でも斯うして掘るのだ」聲まで聞くに堪へに程の恐ろしい響きを帶て居る、伯爵は最早踏留まる勇氣が無い、又其必要も無い、直に此家を走り出で、逃ぐる如くに我家に歸つた。

我家には森江大尉が獨り退屈に堪へぬ如く此室彼室と經廻つて居る、直に伯爵は之に向ひ「今夜の中に巴里を立去りませう」大尉は嬉しくも悲しくも感ぜぬ、最う此世の事を思ひ絶つ状である、單に「爾ですか」と云ひ、更に又「巴里で最う成さる事は有りませんか」と問ふた、伯爵「ハイ、する事は仕過るほどに仕ましたから早く立去る一方です」

* * * * *

  告別

此日の夕方、伯爵は大尉の妹なる江馬夫人の家に行つて其夫婦に分れを告げた、此外には誰に言葉を殘す可き用も無い、勿論夫婦が名殘を惜んだことは一方ならぬ程で有つたが其れを然る可く亞慰めつ、大尉の手を引いて茲を出ると、外には四頭立の馬車が待つて居る、馭者は彼の黒奴 ありーである、伯爵は亞黎ありーに向ひ「先刻の手紙を老人に渡したか」「老人は瞬潑まばたきしたか」「其傍には春田路が介抱して居たか」など重ねて問ひ亞黎ありーが一々「然り」と點首うなづくを見て獨ひとりごとの樣に「アヽ老人が承知したなら安心だ、其中に春田路が安全に供して來るだらう」と呟き直に馬に一鞭あてた。

馬車は矢の如くに走り初め、巴里の全市が蒼茫たる暮色の中に沒する頃、早や馬港まるせーゆに行く街道に出でビレヂフのをかの頂上に登つた、茲からかうべを廻らせば、巴里の全市は大なるパノラマを擴げた如く目の下に見ゆるのである、伯爵は馬を止めて身を降り立て巴里を見返つたが、廣く限り無きやみの中に、星の海かと疑はるゝ如く千燈萬燈のきらめいて、所々に火焔ほのほの立昇るかと疑はるゝほど明るく見ゆる所みある、之に對して伯爵の胸には何の樣な感慨が起つたゞらう、いくさに勝て凱旋する將軍が、千軍萬馬に踏躙ふみにじつて戰場を振向いて見る時の心持も此樣だらうか、やゝ久しく無言で眺め入つて居たが、遂には「嗚呼」と嘆息して大地に伏し、生た人に物言ふ如く巴里に向つて「嗚呼巴里よ、大なる巴里よ、我れ神の意に導かれて汝の巷に入りてより茲に半年、今は天の使命を逹して汝に別れを告ぐるなり、餘が使命の何なりしやは唯だ神の知るのみなれば汝も知らじ、餘は汝の巷を去に臨み心にやましき所無しと雖も何ぞ多少の悔恨無きを得んや、巴里よ、巴里よ、餘は深く汝の肚裏とりを探りて、得べきを得、爲す可きを爲し得たるも、其間に一點私慾の念をさしはさまざりしは、天の照覽に開かなり、餘は汝の肚裏とりに隱るゝ深き罪惡を拔き去りて、今は汝に恩怨無し、再び神に導かれて汝の巷を去に臨み、唯だ汝が餘の行動を妨げざりしことを謝して告別す、巴里よ、さらば巴里よ、さらば」言葉はたいらかでも心は深い、唱えへる聲は天風に吹き散じて大空に上ツて消えた、天漠々、夜寂々、何處いづこへ再び伯爵の身は現はれて出るやら。

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