日本人と漢詩(023)

◎菅原道真
また時代をさかのぼって、菅原道真(845-903)の生きていた平安時代へ。
讃岐への国司赴任の時の作。
中途送春    中途にて春を送る
春送客行客送春  春は客行《かくかう》を送り 客《たびびと》は春を送る
傷懐四十二年人  懐《こころ》を傷《いた》む 四十二年の人
思家涙落書斎旧  家を思はば涙落つ 書斎は旧《ふる》びたらんかと
在路愁生野草新  路に在らば愁ひ生ずれど 野草は新たなり
花為随時餘色尽  花は時に随ふ為《ため》に餘色尽き
鳥如知意晩啼頻  鳥は意《こころ》を知るが如くに 晩啼頻《しきり》なり
風光今日東帰去  風光 今日東に帰り去る
一両心情且附陳  一両の心情 且かつ附《ふ》し陳《の》べん
語釈と訳文は、
以下の杜甫の有名な漢詩「春望」に直接的な影響を受けたと、大岡信さんは川口久雄氏を引いて述べていますが、十分説得力があります。
國破れて 山河在り
城春にして 草木深し
時に感じて 花にも涙を濺ぎ
別れを恨んで 鳥にも心を驚かす
峰火 三月に連なり
家書 萬金に抵る
白頭掻いて 更に短かし
渾べて簪に 勝えざらんと欲す
讃岐滞在中には、社会性の強い作品を完成させます。このあたりも杜甫の直接的な影響なしには考えられないかもしれません。加藤周一氏は、「庶民の飢えと寒さをうたったのは、憶良の「貧窮問答」以後、平安時代を通じて、ただ道真の詩集があるだけ」と述べています。
寒早、十首のうち、その四。
何人寒気早  何《いづれ》の人にか 寒気早き
寒早夙孤人  寒は早し 夙《つと》に孤《こ》なる人
父母空聞耳  父母 空しく耳に聞く
調庸未免身  調庸《てうよう》 免《まぬ》かれざる身
葛衣冬服薄  葛衣《かつい》 冬服薄く
疏食日資貧  疏食《そし》 日資《につし》貧し
毎被風霜苦  風霜に苦しめらるる毎《ごと》に
思親夜夢頻  親を思ひ 夜に夢みること頻《しきり》なり
寒早十首の語釈・訳文は以下を参照のこと
写真は、道真を祀る京都市・北野天満宮拝殿(Wikipedia より)。生家からは、やや遠方だったのであまり記憶にない。受験前に連れ出されたかな?。近年では、娘と孫の居住地(上七軒)のすぐそばだったので、かすかな記憶が蘇ったかもしれません。
参考
大岡信「歌謡そして漢詩文」より「詩人・菅原道真」

日本人と漢詩(022)

◎絶海中津


少し、室町時代までさかのぼって…京都五山と呼ばれた寺院在籍の僧侶が中心となった「五山文学」。といっても現在まで「伝統」と受け継がれているかといえばそうでもない。いろいろ原因はあろうが、「新・日本古典文学体系」での入矢義高さんの解説によれば、当時の日本の禅宗にあった、一家相伝主義(丸山真男流にいえば「蛸壺文化」)の影響で、それぞれの僧侶・詩人にあったはみ出た詩的感覚が、削ぎ落とされたことに求められるだろう。その中では、絶海中津(1334-1405)には、感性鋭く、佳品が多い。ネットに掲載されていた七言絶句を一首…
綠陰
綠樹林中淨似秋 綠樹の林中  淨《きよ》きこと秋に似て,
更憐翠鎖水邊樓 更に憐れむ 翠《みどり》 鎖《と》ざす  水邊の樓
乘涼踏破蒼苔色 涼《りゃう》に乘《じょう》じて 踏破《たふ は》 す  蒼苔《さうたい》の色
撩亂袈裟上小舟 撩亂《れうらん》たる袈裟《けさ》  小舟に上《の》ぼる
晩春から初夏での風景であろうか、解説や語訳は以下を参照のこと。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~shici/shi4_08/jpn385.htm
写真は、絶海中津ゆかりの、京都・相国寺。子ども時代に何度か、祖父に連れてもらった記憶がある。

日本人と漢詩(021)

◎毛有慶(亀川盛棟)


日本人であるかどうかは微妙ですが、「琉球処分」により琉球王朝が消滅しようとしていた時代、彼は、清国に救援を求めに渡ったが、琉球に帰ったところ、投獄されたとあります。
「日日王城を瞻望《せんぼう》し、悲歎《ひたん》に勝《た》えず、偶《たま》たま書す」 毛有慶(亀川盛棟)(1861-1893)
城古《ふ》りて転《うた》た蒼茫たり
城荒れて草木長ず
龍楼《りゅうろう》龍《たつ》既に脱し
鳳闕《ほうけつ》鳳《おおとり》猶お翔《と》ぶ
本《もと》簫笙《しょうしょう》の殿《でん》を以て
変じて剣戟《けんげき》の倉《くら》と成す
一朝《いっちょう》一《ひと》たび首を翹《あ》げ
愁断《しゅうだん》す 九廻《きゅうかい》の腸
首里城での詩歌管弦の御殿も、今や武器庫となっていると嘆くところは、現在の沖縄基地の重圧につながるように感じます。
最近、Youtube のじゅんちゃんの哲学チャンネルで、関西学院大学の冨田先生との対談を聴きました。富田先生は、丸山真男を援用しながら、日本の近代から現代にかけては、「他者」をきちんと対象化しながら、対峙してこなかった弊害について述べられていました。それは、実際の対話も欠落していたし、自己の内側でも、なおさらそうであったとしています。琉球に根付いた文化は、狭い意味での「日本」にとって他者であることを、彼の漢詩は示してくれます。(本場中国の漢詩では、いくたびの亡国の際に、その感情表現が昂ぶることが多いように思われます。)
彼の漢詩は、以下の琉球大学アーカイブで読むことはできますので、ゆっくり読んでみたいと思っています。
https://core.ac.uk/download/pdf/59152852.pdf
写真は、焼失前の首里城です。
参考】
・石川忠久「日本人の漢詩」琉球の詩人たちより

日本人と漢詩(020)

◎頼山陽と江馬細香


文化十年(1813年)暮に山陽は細香の住む美濃を跡にして、翌年新春に梨影という女性を娶ります。大垣を去るにあたって
「重ねて細香女史に留別す」
宿雪《しゅくせつ》漫々《まんまん》として謝家《しゃけ》を隔《へだ》す
離情《りじょう》述《の》べんと欲《ほっ》して 路程《ろてい》賒《はる》かなり
重ねて道藴《どううん》に逢ふ 何処《いづこ》に期《き》せん
洛水《らくすい》春風《しゅんぷう》 柳花《りゅうか》を起《おこ》す
とまた京都で逢うことを期待している一方で
蘇水《そすい》遙々《ようよう》 海に入りて流る
櫓声《ろせい》雁語《がんご》 郷愁を帯ぶ
独り天涯《てんがい》に在りて 年暮れんと欲す
一篷《いっぽう》の風雪 濃州《のうしゅう》を下る
と傷心の胸裡も述べます。
翌年春2月半ばに細香と再会、嵐山に花見遊山し、
山色稍《やゝ》暝《くろう》して 花《はな》尚《》お明《あき》らかなり
綺羅《きら》人散じて 各々城に帰る
渓亭《けいてい》に独り 吟詩の伴《とも》有り
共に春燈《しゅんとう》を剪《き》 水声《すいせい》を聞く
暮《く》れて帰《かえ》る 旧《むかし》を話し 歩み遅々たり
鬢《びん》に挿す 桜花 白一枝
濃国《のうこく》に 相逢《あいあ》ふ 昨日の如し
記す 君が雪を衝《つ》きて 吾を訪《おとず》れし時
江馬家蔵「山陽先生真蹟詩巻」よりとあるので、細香に直接贈ったのでしょう。
でも、『山陽詩鈔』では、次のように七絶に改作
「武景文細香と同じく嵐山に遊び旗亭に宿す」
山色稍《やゝ》暝《くろう》して 花《はな》尚《》お明《あき》らかなり
綺羅《きら》路を分ちて 各々城に帰る
詩人故《ことさら》に人後に落ちんと擬《ほっ》す
燭を呼んで 渓亭《けいてい》に 水声《すいせい》を聴く
といろいろ経緯を巡って憶測を呼ぶようになったのです。
写真は、京都・嵐山(Wikicommon より)
参考】
・門玲子「江馬細香」