中井正一「土曜日」巻頭言(07)

◎集団は新たな言葉の姿を求めている ー九三六年十月二十日

 人間が四つの足から二本で立ち上ることを覚えるには数万年を要したのである。
 人間が言葉を覚えるにもまた数万年の歴史が絶えざる努力を要したのである。
「言う言葉」から「書く言葉」をもつようになるにも人問はどんなに苦労をしたことか。
 かくして、人間は、生きることを合理化し、動物としては、この宇宙的星辰の中に、唯一の、星の秩序を読み取ることのできる存在として生きつづけてきたのである。
 この存在の中に、存在のみずからの働きの中に、合理的なものを見出すことのできること、みずからの生活を合理化できること、これが、この数千万年を辿りきた人間の誇りである。
 人間が滅びることが、敢えて誇りとなるほどの、地球上の不思議な事実である。
 このことが「文化」ということなのである。人類は地殻の上において孤独であるのみではない。この無限である時間と、空間の上において、孤独である。
 この獲きたった合理的な営みを、わずかな人間たちの暴力の中に、争いの中に、破波に堕すには余りにも歩みきたった生活は苦しかったはずである。
 常に新しい文化を、新しいみずからの生活の合理を発見してゆくこと、これが生きているということにほかならない。
 言葉が、「書く言葉」から「印刷する言葉」を発見したとき、人々はそのもつ効果に驚きはしたが、それをみずからのものとしたとはいえない。
 その発見は、数百万人の人間が、数百万人の人間と、ともに話し合い、唄い合うことができることの発見であった。
 しかし、人々は、話し合いはしなかった。一般の新聞も今は一方的な説教と、売り出し的な叫びをあげるばかりで、人々の耳でもロでもない「真空管の言葉」もまたそうである。ますますそうである。
 今人々は集団において、建啞的である。
 この『土曜日』は、今新しく、すべての読者が執筆者となることで、先ず数千人の人々の耳となり、数千人の人々の口となることで新たな言葉の姿を求めている。
 数千の人々が数千の人々と話し合うことのできる、新たな話し声を発見しつつある。人間の発見しなければならないのは、機械と装置ではない。人間の新たな秩序への行動である。
 この『土曜日』の数千の人々の話し声は、やがて数万人の、数百万人の、数千万人の、お互いの話し声となることがどうしてないといえよう。何故ならわれわれは、集団的な言葉を獲つつある聾啞者であったからである。

編者より】
 〚土曜日』の多彩な執筆陣に、小説家加賀耿二がいた。治安維持法で検挙され、保釈された加賀(石川県)出身の小説家と言えば?(戦後、彼は日本共産党の代議士となって活躍する。)図は、1936年7月4日・創刊号に載った彼の小説である。

数千の人々が数千の人々と話し合うことのできる、新たな話し声を発見しつつある。(が、)人間の発見しなければならないのは、機械と装置ではない。人間の新たな秩序への行動である。

 昨今の、AI や SNS だけで容易に扇動される、世情を見ていると、戦前の話とは到底思われない。

図の二次使用は著作権もあるのでご遠慮ください。

正岡子規スケッチ帖(014)

八月四日

①翠菊 エゾキク
伊予松山ニテハ江戸菊
又ハ「タイメンギク」トイフ
又「タイミンギク」(大明菊カ)トモイフ
仙台辺ニテハ朝鮮菊トイフトゾ

②同日夕刻
石竹《セキチク》

木下杢太郎「百花譜百選」より(016)

◎すぎごけ 杉苔
付き】「京阪聞見録」(随筆集「荒庭の観察者」より

昭和十八年九月廿六日 軽井沢

参考】 Wikipedia スギゴケ

京阪聞見録
 予も亦明晩立とうと思う。今は名古屋に往く人を見送る為めに新橋に来ているのだ。待合室は発車を待つ人の不安な情調と煙草の烟とに満たされて居る。
 商標公報という雑誌の綴を取り上げて見る。此に予は一種の実用的な平民芸術を味う事が出来て大に面白かった。殺鼠剤の商標に猫が手帕で涙を拭って居る図は見覚えのあるものであるが、PARK公園などと云う石鹼は余程名に困った物と見える。それでも二つの概念を心理学的に乃至芸術的に聯絡させてゆくと、俳句などとは違ったまた一種の興味あるのを知るに至る。其他化粧品に菖蒲と翡翠との組合せがある。怪しい洋人の移写したような字で「サムライ印」とかいた騎馬武者の木綿織物の商標は、予をして漫ろに横浜のサムライ商会の店頭の装飾を想起せしめた。是れ亦確かに西洋人に映った日本趣味の反射であろう。「桜山」と云う清酒がある。「吉野」というのがある。こう云うのはよく今迄他の人が附けずに置いたものだと感心する。道中姿の華魁の胸から腰にかけて「正宗」とやったのは露骨であるが奇抜である。BacchusとVenusと双方を神性にする西洋の思想に対照して考えると更に一段と面白い。鶫麴漬というのは何と読むのかしらむ。電車の全形を図案に仕組むなどは素人は大胆なものだ。
 天明頃の「江戸町中喰物重宝記」という本を見た事がある。その中の屋号や紋所や簡単な縁を附けた広告を思い出す。当時有名だったというおまん鮨などの広告を見ると一種懐しい妙な心持になる。神社仏閣に張る千社札を三巻の帖に集めた好事家の苦心に驚かされた事があったが「日本広告画史」などを完成するようなのん気な時代はいつ来る事やら。そう云えば立派な浮世絵史さえまだ碌々に出来て居ないでは無いか。(三月二十九日、神戸にて。)
 昨夜神戸に入る前に日中京都で暮した。けれども今何も目に残って居るものとては無い。あれば唯河原の布晒し位のものだ。庚申橋とかいう橋の下に大小紅紫いろいろの友禅の半襟を綱に弔るして居たのが、如何にも春らしく京都らしく好い気持であった。も一つは黒田清輝さん流のコバルト色の著物の男が四斗樽へ一ぱい色々の切を入れて、それをこちこちと棒でかき廻して居たのを見た。背景に緑を斑入れにして灰色の河原の石の上に、あちらこちらに干されたる斑らに鮮かな色の布。こんな景色は沢山見られた。然し京都では、たとえば一人の人が河原に仕事をしていて、五六の人が惘然とそれを眺め入って居る所も、油絵のようには見えないで、却って古い縁起ものの絵巻物の一部を仕切ったように見えるのである。京極の方から迷い込んで何とかいう長い市場の通りを歩いたが、その両側の家の、たとえば蒲鉾屋の淡紅淡緑、縞入りの蒲鉾、魚屋の手繰りものの小鯛、黒鯛、鰺、魴鮄の類はいかにも綺麗に並んで居るが、然し決してカンヴァスとテレビンで取扱う事の出来るものでは無い。やはり祐信、春信等の趣味である。
 だから三条四条辺の町でよく見られる骨董店の英山、歌麿の類は、今の東京で見るより、こちらで見た方がいかにも当然で、居る可き所に居るように見えるのである。
 灯が点いてから三条から四条へ出る河沿の通りを歩いて見た。「未墾地」のネシュダノフ(1)がロココ趣味の老夫婦が家に入る時の心より更に不思議な情調に捉えられた。もう柳の間から水に映る灯が見られた。
 いろいろの人を訪ねたが誰にも会うことが出来なかった。其晩神戸に入った。(三月二十九日、神戸にて。)
 こっちへ来る前にHYと君の居る桶屋さんの家を訪ねたが生憎お留守で残念であった。その前にもひとりの人と三人で中沢弘光氏の工房を尋ねて、それから君の処へ行ったのである。
 京都見物の前に中沢さんの所で「京都の予感」を、実は味おうと思ったのだが、生憎京都のスケッチはみんな板彫の方に廻って居たので見る事が出来なかった。僕等は決して自然の景情を絶対的な自分の眼というもので見る事が出来ないのだ。余程其時代を支配している大家に便って居るのだ。たとえば春さき灰緑に芽ぐんで来る佃島の河沿の河原の草などを見る時分には、どうしても黒田さんの様風を想い出さずには居られない。東京の自然界で黒田さんと広重との配調を味うのを、京都で祐信と中沢にしようと思ったのだが、中沢さん情調を吹きかけられる事の出来なかったのは遺憾であった。
 其代り氏の温泉スケッチの類集は見る事が出来た。温泉というものは官能的にも固より愉快なものだが、更に絵画の標準に換算しても亦面白いものでなければならぬ。白い裸体と紫色に澄んだ泉の表面とを主調とした色彩画派的の色彩諧調は思い出した丈でも食欲をそそる。
 氏は油で浴泉図をかくのだと云って居られた。丹前風呂(2)とか羅馬の浴場とか云うものは、蓋し爛熟せる文明の窮極である。然し凡ての平俗を嫌って珍奇を求めるDegas(3)の非情なる観察眼が今の此国にも許されるならば、この種の画題はむしろ町の生活に於て取られた方が面白かろうと思わずには居られなかったのである。纖弱い肩胛骨は彫刻にも效果のある者である。更に温く曇った水蒸気の中に「白の調和」は一層善く、色彩画家のカンヴァスに向くと思う。清長の珍らしい浴泉図は二枚あって、その一枚がドガアの手に入っていると云う事は上田柳村(4)先生の「渦巻」で承知してめずらしい事と思った。(三月二十九日、神戸にて。)
 二十九日、三十日、雨。三十日の午過ぎに始めて空が霽れて来たから人と神戸市中を見物したが一向つまらなかった。横浜にはまだ所々予の所謂「異人館情調」が残って居るけれども、神戸にはそれすら一向に無い。市中所見の物象は鉛直に非ざれば水平、水平に非ざれば四十五度六十度角で人の目の前に迫って居る。近く見える西洋館から遠くの船舶の檣、港の起重機、桟橋上の鉄道荷車、各種の煙突、正午報知台等が皆それである。色彩の方では煉瓦、屋根の瓦、ペンキ塗の羽目板、偶々はポプラスの繁り、それからそれらの凡てに亙っている金属的灰色の空気の調子である。街上の美人と称す可き人相にも出くわさない。立派な店を張っている家の主人や番頭の顔もまだ都会化せられて居ないで、獰い植民地的の相貌を呈して居る。看板の東京風とか江戸自慢とかいう形容詞がいかにも田舎臭くて不愉快である。
 東京ことば、大阪、京都、伊勢、中国辺の方言の雑ぜ合せにドス、オマス、ナアなどという語尾を附けると略神戸の言葉に近くなる。
 奇事奇談というようなものにもあまり出遇わなかった。ただ昨日神戸兵庫間の電車の試運転があって栄町は人立がしてそれを眺め入った。神戸などは高い異人館があっていかにもハイカラらしいが、こういう光景を見ると、明治初年の清親、国輝(5)などの名所絵を見るようで馬鹿馬鹿しくてならぬ。
 昨夕も近所の湯にいったら電車の噂で持ち切りであった。汽車には踏切番というものがあるが電車にはそれが無いから、子供等には危険だと一人の男がいうと、番台の女房が「ほんにそうどすな」と相槌を打っていた。(三月三十一日朝、神戸にて。)
 昨日は大阪へ来て一日暮した。それまでは毎日雨で芥舟学画篇だの沈氏画塵(6)だのを読ませられて大分支那情調になって居た所を、昨日一日で全く洗い落して仕舞った。その日の午前中はそこのあらゆる賑かな通り、河岸、橋梁等の光景を見て歩いた。予は都会の形態的標準は橋梁に存すると思う。京町から平野橋、それから今迄の道に直角に歩いて思案橋、博物館、農人町、住吉町の通りから道頓堀に出て、それから中の島まで引返した。大阪の河岸の印象は東京とは大分違うようだ。ちょっと話した丈ではこの細い官能的印象の相違は伝えられない。
 大阪の河岸は夏は黄ろい羽目板と簾とで持ち切って居るのであるが、それでも、たとえば尼ケ崎橋から上下を見通した所のように白壁の土蔵も少くは無い。東京のように煉瓦は多くない。白壁には小さい窓が二つ乃至四つ五つ附いて居て、それが多少暗示的な何物かを持っている。白壁にはよく酒の銘が塗り上げられてある。屢見るのは福翁、白鶴、金霞、○○正宗、それに波に日の出の朝日ビール。
 尼ケ崎橋に立って不図東京の今川橋に居るような気になった。あの橋の手前の河岸縁の家にまさきか何かむくむくと繁った常緑の樹があって、それに夏からの風鈴が雨に濡れたままに弔されて居た事を記憶している。ここは両側の家、今の倉庫を除けば河に面した両側には主に玻璃障子を立てた家が並んでいる。それに小さい欄干の附いた出窓が張り出て、松や万年青や檜などの盆栽が置かれてある。赤い更紗の風呂敷(これは今は東京ではめったに見られない、風呂敷として染めて重に赤地へ黒と白との模様があるもの)それから襁褓というようなものが軒下に干されてある……というような錯雑した景色の後ろに──大阪風に棟数の多いごたごたした屋根の群の上に遥に聳やぎ立つ物干が見える。物干には幾聯となき手拭がひらしゃらと風に揺れている。今川橋でも同じ様なものが見られた。而も三代目かの広重の絵にも取られてある所を見ると、昔の鳴海の宿の鳴海絞りを懸け弔す店と同じく、少し絵心のある人の心を惹くものと見える。
 堀は東京より水が綺麗だ。材木の舟筏、肥料桶の舟などが悠々として櫂で橋下を漕ぎ抜けてゆく。橋の上でスケッチなどは到底出来ない。大阪の橋は皆西洋工学以前の代物と見えて、鉄の欄干の橋でさえ、一の車、一の馬力が来る毎に気味の悪い程ぐらぐらと揺れるのである。
 京屋町から平野橋に行く例の狭い賑かな通りの、或古本屋の表に浮世絵の広告が出て居たからはいって冷かして見た。多分飜刻物であるが、中の一枚の春信(のであったか)の行水を使って居る女の肉附は素敵であった。後に衝立を立ててそれに着物が懸けてある。その前で例の春信型の線の細い輪郭の、例の顔容の女が盥で湯を使っているのであるが、その線は写実的であったから不快ではなかったが、ロダンやマネの素描の知的な冷たさに代えて、柔かく、唯単に肉体の輪郭を仕切るという必要以外の艶冶を見せようという作意の為めに、全体がやや浮世絵的官能的になったのはやむを得ない。
 外に歌麿や湖龍斎(7)の板画があったがつまらなかった。皆十年許り前の独逸行の飜刻物であるようだった。ああいう絵はそれで沢山だのに、それでもなお原物を求めたがるのは、希有を崇ぶという外に何かわけの有る事だろう。──江戸の浮世絵は現に大阪に於ては東京に於けるよりも似つかわしい。それから又大阪を漫歩するのは京都を歩くより愉快だ。京都は常に多くの漫遊者を扱い慣れて居るから、旅人として向うに気が付かせずに、その横顔を覗き込むということは出来ない。そして画家の目を牽く光景に舞子と異人というような粗い対照も少くは無い。夫れに反して大阪はいかにも古風の老舗の如く、古いままで固まっている。
 道は気にかかるほど狭く、それに応じて屋根も低い。蒲鉾屋は例によって紅緑の色蒲鉾を並べ、寿司屋の鮨の配列、鳥屋の招牌の澪標、しるこ屋の行灯、饂飩屋の提灯までもみな草双紙の表紙のような一様の趣味から出来ているのである。
 南区のある通りには紅で塗った質屋の格子戸の外に「心学講話、藤沢老先生経書御講義」などという札さえ見られた。
 昨日は曇天が燻銀の色調であった。神戸から大阪までの平原の間に、枯草と青草との心臓を冷すように気持のいい色の調和を見た。(四月二日、大阪図書館(8)にて。)
 昨日大阪へ来たらちょうど医学会大会というのがあったから、こっそり忍び込んで此厳粛な光景を眺めた。大沢老博士(9)が、短い白髪に黒のフロックコオトと云う扮裝で、三千の聴衆の前に現今の生理学の進歩を講演せられて居る所であった。
 それからそこを出て復大阪の市街を歩いた。大阪通の君が一緒に居たら、更に、視感以上の大阪に侵入することが出来て愉快であったろう。
 大阪にはうち見る所一種類の階級しかない。と云うと余り誇張に流れるが、兎に角ここが町人の町であるとは普通の意味で云う事が出来る。だからして此町の店頭に浮世絵が似付かわしく、義太夫が今も尚此市の情緒生活にintime(10)になるのだと思う。電車などに乗っても乗合は角帯の商人で無ければ、背広の会社員である。人の話に、官吏なども大阪へ来ると往々商売人に化ってしまうと云う事である。
 京都を歩いて居ると無用のものが多く、だだ広くて直きに可厭になるが、大阪に至っては街区のどの一角を仕切り取っても活潑な生活の断片を摑む事が出来るように感ぜられる。京都は──恰もそこの芸子舞子のように──偏えに他郷人の為めに市の計を為しているように見えるが、大阪は、また其一見不愛想な商人の如く、他には構わないでひたすら自家の為めに働いて居るのである。だから千日前でも道頓堀でも、束京の浅草、京都の京極其他などに見られない一種の面白味がある。生活が手軽で実用的なのだ。たとえばその街区の数多き飲食店の如きも大阪見物の他郷人よりも同じ町の人の気散じに便利に出来て居るように見える。且東京とは違って遊楽の街区が略一箇所に集中しているからして、この市の鳥瞰は東京のように散漫でなくって、一つの有機体としての大阪市の形態及び生理を味わしめる。
 灯が点いてから千日前の雑沓を、旅人の──他郷人の心持でなくこの市の一市民としての親しみを以て歩く事が出来た。そしてここの雑沓と、この褻雑なる興行物がどんな必要を持って居るかと云う事を知る事が出来た。
 汚い戯場と視官を刺すような色斑らな看板絵──大阪にはまだ浅草のように安いペンキ絵は入って居ない──三味線、太鼓及びクラリオネット、かくて春日座の「兵営の夢」、第一大阪館の「河内次郎」、栄座の「住吉踊、稲荷山」、日本館の活動写真、常盤座の「忠臣蔵宣伝」、女義太夫竹本春広、其他釣魚、落語の類が人間の需要の反射として更に行人を誘惑して居るのである。
 短い時間で成る可く広く大阪を見ようと云う欲望から、一刻も休まず歩き、出来るだけ興行物と云うようなものを覗いてみた。播重という寄席も、嘗つて君に話を聞いた事もあったから一時間許り入って見た。表の看板には「全国女太夫、修業発表機関」という今様の云いまわしの大文字が書き付けられてあった。まだ顔の輪郭も固らない、世の中の事も碌に知らない十四五から十七八の女が、複雑な浄瑠理の文句、またその内の芸術化せられた情緒情熱に関して深い理会のあるのでもなく、──差し迫った何等かの芸とは全く別の必要からして──それでも愁嘆場の文句なんぞは多少の自覚した表情と、及び発声の困難からの苦面とで、同じく調子の合わぬ絃に伴われて歯を剝き目をつぶるのを見るのは真に可憐である。而して同時にこの生理的誇張が聴衆の特殊の興味を惹起すると云う事を知ると世の中の機関に対して頗る楽天的な観相を抱かしめられるのである。
 然し首の習作のモデルとして見る場合には又別種の面白味がある。ロダンの「泣く女」のような表情は罕ならず遭遇する所である。若し夫れ皮肉なるドガアの画題を捜し出すと云う事は既に予の領分外である。それはもっと深い透徹を要する。予は君の短篇の類集に待たねばなるまい。
 此間に予は突然濁った太い声に驚かされたのである。「竹ちゃん、竹ちゃん、待ってましたあり──」という言葉が其瞬間に理会せられた。人はみな忽ち其方へ視線を転じた。蓋し予定喝采者の類であったろう。余りに年の寄った銅色の顔の老爺が火鉢の縁を指先で撫でながら何も知らぬように俯いていた。其対照が既に滑稽以上であったからして、転じられた視線は予期に反した弛緩の感じを以て再び旧に戻るように見えた。
 予は芸術を⊿Illusion+⊿Connaissance(11)というものの極限として観相しようと常々思っているのである。旧の美学は唯芸術の仮感の極限の場合をのみ論じて居るように見える。肉声が織る曲節、曲節の底を漂う肉声──たとえば斯くの如き二つの軸の間を動揺する所に芸術鑑賞の心理作用が求められねばならぬ。或は此くの如きは完成せる──人を幻影の境に引いてゆく芸術を有せざる時代の人の思想ではないかと反問せられたなら予も亦返答に窮するであろう。芸術感及び実感の交錯は芝翫の八重垣姫、茜屋のお園(12)の演伎の際、屢々東京座(13)や歌舞伎座の大入場の喧噪として現われたものである。
 今の場合に於ても若し多少美しい女の太夫が、義太夫声に雑る実の女の鼻がかる音声で「これまで居たのがお身のあだ……」と云いながら軽く右手の扇子で左の掌を打ち、膝の上に身を立たせるようにして目を不定につぶりながら、何かを回想するような表情で滑なタンポオ(14)で唄うと云うような事があれば、多くの見物人は必ず其感動を拍手か意味のない呼び声に現わすのであった。何となれば此は全く慎という事から放たれて居た場所であったから。若し一個の芸術的洞察者があるならばロダンの依って名声を博した所のものを又日本の材料から作り出す事が出来るのは勿論である。
 道頓堀へ出たら弁天座の前が大変賑かだったから又はいって見たくなった。中々幕が開かなかった。開いたら大阪の観客に媚びる東京芝居の仕出しで一向つまらなかったから直ぐそこから出た。
 「まあまあ高麗屋(15)が一でしょうな。」
 「左団次もようがっせ。」
 「どっちとも云えまへんな。」と云うような会話を聞きながら──。ここの出方は紋付の縞の着物を着た女だった。これらの女に使用せらるる大阪言葉は揮発的で、その語勢は油の流れるようだった。
 昨日午後道頓堀の通りを何か化粧品の広告の囃が通った。それが柳か何かの佐和利(16)の節を鐘や太鼓でちんからころりとやって行く所は、流石は大阪と大に感心した。萌葱の短い前垂の女中が後ろを振り返ってそれを見入り、銕丹染の風呂敷の番頭はんも足を停め、茶屋の前で二三人の女中が手を組み合わせて眺める所は、宛然として浪華風俗画巻の題目であった。
 肩衣を売る店を市中で屢見出したが、その際予は未だ嘗つて知らなかったところの「市中漫歩者の情調」に襲われた。唯それ丈でも大阪は好である。況んや汽車に乗り合わせる人、煙草の火を借せる人が、みんな芸事の話の分らないのがないに於てをや。(四月二日、大阪図書館にて。)
 今日の午過ぎ大阪の図書館へ入って見た。借りようと思った本は皆、ちょうど特別の陳列の為めに出ているので見られないのは遺憾であった。それから「松の落葉」というのも元禄の小唄を集めたのではなくて、例もの藤井何とかいう人の随筆集であった。
 後に無理に陳列室の内へ入れて貰ったら、手に触るる事の出来ない玻璃の陳列棚の中に「浪華歳時鏡」「新板豊年抜参宮」「道頓堀出がはり姿なにはのみそ(?)いせのおしろい」「新町根里毛農姿番組」「なにはぶり」「浪華青楼志」「大阪新町細見図」「淀川両岸勝景図会」「画本四季の友」というような風俗画の画本が並べられてあった。かかる種類の本は、安永天明から天保の頃にかけて江戸には汗牛充棟も啻ならざる程あるが、京阪には比較的少いようである。元禄時分のは多少あるかも知れぬ。
 この暗い部屋の中で偶然上方の粋という言葉と江戸の意気という言葉とに考え付いて、前者が心理的なるに対して後者の著しく外形的(形態的)であると云う事に気がついた。西鶴、近松の類と洒落本、草双紙の類と比較して両都のそのかみの文明を推論したならば面白い事だろう。(四月二日夜、神戸行電車中。)
 昨日の午飯は兼ねて人に聞いて置いたから梅月とかいう天麩羅屋で食った。いつもなら純粋の大阪人をここに見られるそうであるが、今日は時が午より遥かに遅れて居たから「だす」「おます」の言葉で相場の噂も聞く事が出来なかった。
 それからもう遅かったが文楽へ行って見た。君の印象記での覚えもあり、一年有半で読んだ事もあり、何かしら大へんの所だと思って居たが、あまり予の胸にはしっくりと来なかった。はじめの「釈迦誕生会」などは近松の作だと云うが愚なものである。実は予は東京では間に合わなかったから印度王の原稿を今度一緒に持って来たが此芝居を見て焼いてしまいたくなった。然し二番目の摂津大掾の阿波鳴門の出語り(17)は予に一種の「整復の音の感味」を味わしめたように思われた。然し予のこの感じがどれ丈までトラジシオンによって来て居り、どれ丈まで自家の理会及び感情投入から来ているかは定かに云う事が出来ぬ。予は予の音楽の「耳」をあまり信頼して居ない。故に呂昇の壺坂(18)を感心したのが本当に感心す可き所にしたのか、将た今また摂津の芸術にやや窮屈な圧迫を感じたのが予の耳の罪であるのかも分かつ事が出来ぬ。
 唯摂津の年齡と優雅なる其容貌及び絃の広助の顔などが、予に一種のロマンチックな崇敬の心をこの芸術家に対して抱かせたと云う事は事実である。眉毛の長い七十の翁の温藉なあの表情はそれまでの長い間の芸術的生活が刻んだものだと思う毎に一種のサンチマンタアルな情操の動くのを感ずるのであった。この際予が為した二つの首のスケッチは幸いに隣席の客の賞讃を買い得た。
 予の隣の桝は東京の客だった。一人は五十に近い、町家の主婦らしく、道徳的な而もやや意気な顔付をして居る女であった。予はその人から大阪見物の感想を聞くことを得たが、大阪へ来ると自分はもう隠居しようと云う気は全く無くなって、人は死ぬまで働かなければならないと思うようになると云って居たには妙な感じを抱かさせられた。意外な、処にも似付かわぬ、いやに道徳的な感想であるが、その連れの三十過ぎの同じく商人体の男がその註解をしてくれたので会得する事ができた。東京から大阪へ来ると東京の商業はまるで子供の悪戯だと云うような気がするという事から説き起して、大阪の人の時を愛しみ、金を崇ぶ事を語り、(不幸にして折角の名を逸したが)或大阪の(恐らく日本一だろうと云われている)一老株屋の店の印象を語った。予の今覚えて居る処は、そんな大きい店なのにも拘らず家は狭く汚く、主人も粗服だと云う事を賞讃したことである。東京では随分大きい仲買所でも仕払を多少ずつ遅れさす、即ちそれ丈人の金を融通しておくのである。大阪に至っては厘銭の微もきちんきちんと始末し尽くすと云う事である。若し東京の人が大阪へ出て商売するような時には極めて正直にしなければならぬ。少しでもずるい事があったなら、その点には鷹のように鋭い眼を持って居る大阪人は直ぐ観破して決して相手にしない。而もそう云う事にかけての団体力は支那人のように強いからどうにもならないと云うような事を語っておった。
 「あれですからねえ」と前の桟敷に指さして、「御覧なさい。こう云う所へもああやって家から瓶に入れて酒を持って来るんです。そして火を取って自分で暖めて飲むんです。貴方、あの座蒲団なんぞも風呂敷へ入れて家から運んで来たんですよ。」と云った。
 予は、大阪の演芸類の見物の廉価であると云う事を以て之に応じた。現に文楽などでも、後ろの方は十二銭出せば一日聴いて居られるのである。又劇場には東京の如く一幕見というものが無く、東京の大入場にあたる所がその代り十銭か十五銭である。
 「大阪人はまた実にのんきなものですな。あんな所で一日幕合の長い芝居を不服もなく見物しているんですね。」とその男が云った。
 其間舞台では、強く誇張された人相を刻まれたので、其為めに一方には頗る漫画的に見えるが、同時に、巧みなる人形遣の為めに隙間なく動かされるので、却って其不安定な動的の表情が運動の眩惑を助ける所の人形が怒ったような顔で泣いて居た。
 何処の所だったか、摂津が「お前と手分して尋ねようと思うて云々」と語ると、桟敷のそこここで忽ち多くの手帕が眼にあてられたのであった。黄ろい貧血的の、やや老女に似る顔容の印象を呈している絃の広助までも、泣き顔になって一生懸命に三味線をかじくって居た。予は此時近くの人の「広助はんの絃じゃ到底追い付けまへんな」というような批評を聞いて、本当にそうなのかなどと思いながら例のIllusionとDésillusionとの世界を彷徨して居たが、唯予の前の桟敷に居た六七歳の男の子は、何と思ったか、ずっと背伸びをして、惘然と不可思議の眼を睜って、かの未だ知らざる情緒海のあなたを眺め入るように見えた。
 「アイ、笈摺もな、両親のある子やゆえ両方は茜染……(19)」の一段になって、予も始めて、はっと幻想の世界に落ち込んだような心持がした。今迄概念的に味わって居た十郎兵衛住家の悲劇も、両親があるから笈摺の両縁が茜染だという特殊の事実の描写が、阿片のように瞬間的に予の自覚を濁らしたと見える。手ずから本物に触るような芸術的実感を味わう事が出来たのである。それから「からげも解かず、笈摺も掛けたなり」と云う処で、また小さいショックを感じた。再びありありと、労れ切った小さい順礼のむすめが眠るという有様が想像せられたのである。
 折角の処だったが時間の制限があるから外へ出たが、何か自分でも支配する事の出来ないような腹立たしさが湧いて居たのに気が付いた。
 その夜神戸に帰って床に就いた後に、久し振で聴官の幻覚に襲われた。ついぞ、こういう事は十四五歳の後には味わった事が無かったのに、暗く交睫みつつある心の表に突然三味線が鳴り出したり御詠歌が聞えたりするのを、半ば無意識に聞くという事は、然し兎に角愉快な事であった。(四月三日、京都にて。)
 急用が出来て今夜の急行で東京へ帰らねばならぬようになったのは尠からず残念である。せめて今夜までの時間を京都で暮そうと思って今朝この市に入った。奈良、堺などはどうでも可いがもっと深く大阪を味わいたかった。少くとも鴈治郎の芸を東京座の花道や猿之助との一座などでなく、大阪のあの旧式な劇場の空気の中で見物したいものであった。東京の芝居で見られない何者かをそこで捜しうるに相違ない。なんといったって上方の文明は三百年の江戸の都会教育よりずっと根柢が深いのであるから、大阪人は江戸東京人よりももっと人生ということを知っている筈だ、粋というような言葉が江戸でなく上方で作られたのは偶然の事ではないだろう。
 京都へ入っては先ず第一に停車場で坊主にあった事を異様に感じた。そこから四条へ出るまでに真鍮の蠟燭台を売る暗い店、大牛、河の柳、数多き旅館及び古風の橋などが視感を動かした。是等の景物に寺、塔、舞子のだらり及び人力車上の西洋婦人などを加えれば、略京都の情景を想像することが出来る。
 黒田清輝氏の「小督物語」は偶然路上に遭遇した人群から暗示を受けたというが、僧侶、芸子及び舞子、嫖客(20)、草刈の少女等は真に京都的のElémentsである。而も其布局が昔の絵巻物の風俗画を思わしめ、その思付が謡曲によくある物語の風(たとえば道成寺の前のシテの白拍子が後のシテなる──事実上は時間的に以前の──蛇を暗示するというが如き)で直接歴史的風俗画を避けて尚或情趣を添えるという点で更に意味あるものとしたのである。而も其純絵画的観相がまだ西洋臭いという対照があの絵をまた一層面白くしたのだと思う。
 今の京都の生活から、然し一枚の風俗画を作り出そうとする場合には西洋人は欠く可からざる一要素であるといわねばならぬ。横浜神戸はさる事ながら、京都と異人とは、今はもう切っても切れない中となったのである。
 三十三間堂の暗い中に数多き金色の観音が立ち並んでいる。天井の大きい灯籠がそこに定かならぬ光明の輪を画いている。「人皇は七十七代後白河天皇御建立、……千一体のうちに三万三千三百三十三体の観音様が拝まれます……」と唄う案内の小僧のねむたい曲節の中にも、色斑らな女異人の一行があまり似付かわしくもなく見えるのである。
 博物館で鎌倉から信長の時代へかけての色々の縁起物の絵巻物を見た。浮世絵に次いでは是等の風俗画が大に予の心を喜ばしめる。如何なる時代でも平民の生活及びその芸術化ほど予の心を惹くものはない。
 大谷光瑞師(21)の寄贈にかかるという、支那トルキスタン庫車内トングスバス(22)発掘の塑像仏頭という土の首は予の心臓を破らむほどに美しかった。(四月三日朝、京都にて。)
 今、人と四条橋畔のレストオランに居る。都踊の始まるまでの時間を消す為めに、一つには自ら動く労なくして、向うで動いて呉れる京都を観る為である。
 中には始めから二人の西洋人が居た。直ちに独逸人であるという事のわかる重い発音で会話している。それからその連れらしいのがまた二人来た。
 この背景としての窓の下の四条橋下の河原では、例のコバルト色に見える人の群が、ずらりと並べ干された友禅ムスリン(23)を取込むのに忙殺せられて居る。
 面の平でない玻璃の為めに、水浅葱に金茶の模様が陽炎を透かしての如くきらきらといかにも気持よく見える。一列の布の上に、遥かに黒き、其輪郭は広重的に正しい梅村(?)橋が横わって居る。草はもう不愉快に日本的に黄ばんでるが、その側に、明紫灰色の小石の上に干された黄や紫や浅葱の模様の幾列かの布との間に、一種の快き色彩の諧調を作り出して居る。河原の水際には渋紙で貼った行李が二三箇積まれてある。そのそばで話しながら二三の人が仕事をして居る。或者は何かしらん歯車仕掛のものを頻りと廻して居る。或者は黒いズボンのままで川へはいって樺色の長い布を引摺出してくる。或者はまた懸け弔るした浅葱の友禅を外して二人で引張っては、それから互に相近づき、更に元より近く相離れ、更に復近づいて、かくて二つに畳まれたものは四つに、四つのものは八つに畳まれ十六に畳まれて石の上に置かれる。そして竿の間に張られた綱に隙間が生じて来ると川からの人が、更に色の変ったムスリンをだらりと弔るすのである。
 京都や大阪の町、及びそこの形態的生活は友禅的に色斑らに、ちょうど抱一が画いた菊の花弁のように綺麗である。然しここの生活だけは乳金、代赭、群青の外にエメロオド、ロオズマッダア(24)等を納れ得るのである。あの布を干す二三人の群を目の粗いカンヴァスに取ったら嘸愉快の事だろう。
 もとよりその外に祐信や清長の見方が出来る。祐信の絵本に、炬燵にあたって居る女の傍に小鍋立のしてある絵があった。門の外は降りつむ雪で、ちょうど男が傘をつぼめた所である──河沿いの低い絃声のする家の窓から河原の布晒を見るのは此の趣味であろう。然しこう云う事をかくと予自身に此遊仙窟に対する憧憬があるように思われて不利益である。”Olentiinfornice(25)”はホラチウスの領分であるように「祇園冊子」は吉井勇君の縄張である。
 目の下に見える四条の橋を紹介しよう。「鴻台」という酒薦の銘が大形に向河岸の屋根を蔽うている。そこに赤い旗があって白く「豊竹呂昇」と染め抜いてある。まだ灯の点かぬ仁丹がものものしげに屋根の上に立つ。欄干の電灯の丸い笠は滑石の光沢で紫色に淀んで居る。その下を兵隊が通る。自動車、人力、荷車、田舎娘の一群が通る。合乗に二人乗った舞子の髷が見える。かみさんの人が下女を連れて芝居の番附を沢山に手に持っているのが通る。二人の女に、各一人の男が日傘を翳しかけてやっているのが通る。あれは祇園の家々の軒を「ものもお、ものもお」と紙を配りながら大声で誰とかはんのお妹はんが云々と呼んでゆく人達であろう。青色の橋の欄干に女異人が二人立つ。もう少し日が暮れたなら正にウィッスラア情調中の人となる可きものであろう。
 京都の女の相貌は複合写真の美しさのように思われる。深い刻みや、個人性が消えてぼっとしたMorbidezza(26)がお白いの下から覗く。
 ああ河岸に始めて灯が点いた。予等は之から歩かねばならぬ。
 「おお、ねえさん、それじゃ勘定!」(四月三日、京都にて。)
 二つ三つ妙な光景を見た。君は予が京都でピエエル・ロチイ(27)的の見方をするのを喜ばぬかも知れないが、京都というものの伝説から全く自由な予は、どうしてもかくの如き漫画派的羅曼的に見ないわけにゆかぬ。たとえば都踊の中の茶の湯なんかは実に此の見方から愉快の場所だ。殊に異人が此滑稽のアクサンを強くしてくれる。
 僕等には到底我慢の出来ない七面倒くさい儀式で茶が立てられた。身なり、動作に対応せぬ童顔の小さい女達が茶を配るとき第一の大きな茶碗が最端の年とった異人の前に置かれた。
 それに対した側には色斑らな上衣及びスカアトの西洋婦人の一群が好奇の目を睜って「チャノユ」の珍妙の手続を見て居たが、今第一の茶が同邦人の前に配せられた時一斉に手を叩いた。老いたる異人は顔を赤めて快活に笑った。
 兎に角女異人(その対照として黒の裝束の男達も可いが)と舞子の群は、その共にでこでこした濃厚の装束で西班牙のスロアアガ(28)の画もかくやと思われる美しい画面を形造るのである。それに蠟燭及び電灯の光が一種の雰囲気を供給して居る。
 一人の慾張りなばあさんが近隣の二三の人から団子の模様のついた素焼の菓子皿を貰い集めた。するとその近くの西洋人の一群が、自分のも皆んなそのばあさんにやらねばならぬと思ったと見えて、その方へ運びためたので、少時にしてばあさんの卓の上には十数個の皿や食い掛けの饅頭が集って、堂内は忽ちどっと一斉に起る笑声の海となった。意味を解しない異人達は自からも赤い顔になって笑ったのである。
 若し夫れ是等の雑沓中で、いやに通を振り廻す気のきかない一大阪人を巧みに描写したならば、確かに、膝栗毛以上のニュアンスの芸術を作り出す事が出来るだろう。この余りに粋でも意気でも無かった大阪人は、大都会の人という自慢と、恣なる言行とで、屢多くの人の反感と嘲笑とを招いて居った。たとえば、茶の湯の法式に通じて居るとも見えない彼は、この雑然たる群集及び小さい茶を配る女達から「礼式」を要求しようと欲するが如くであった。そして大声で罵った。膝栗毛は方言及び細かな動作の観察がある故、今に貴いと思う。「京都に於ける大阪人」は、蓋し作者の精緻なる理解、微妙なる関係を捕捉する機巧及びSenspournuance(29)(Taineの標準)に向っての好試金石であると思う。僕等はあまり多い粗削りの芸術に倦きて居る。もっと仕上鉋のかかったものが欲しいのである。予が所謂自然派の作品のうちで徳田秋声氏を尤も好むのも此純芸術家的の見地からである。
 都踊と云うものはもとより一向下らないものであった。ああいう数でこなす芸術は目と耳とを労らせるだけで土産話の種より外には役立たぬ。板を叩くような三味線とチャンチャンなる鐘、それに「ハアッ」とか「ヨオイイ」などという器械的の下方の拍子の間に、間のびの「つうきいかあげえの……傾く方は……」って云うような悠長な歌で体操するのであるから面白くないに極まって居るのである。(四月三日夜半、汽車中。)
(一九一〇年二五歳)

注】
1[ネシュダノフ]ツルゲーネフの一八七七年の小説『未墾地(処女地)』の登場人物。
2[丹前風呂]江戸初期、湯女を多数置き遊客で繁盛した町風呂。
3[Degas]エドガー・ドガ。フランスの画家(一八三四─一九一七)。娼婦・浴女をしばしばモチーフに描いた。
4[上田柳村]上田敏。詩人、翻訳家(一八七四─一九一六)。「渦巻(うづまき)」は一九一〇年刊の上田の自伝的小説。
5[国輝]二代目歌川国輝。浮世絵師(一八三〇─七四)。
6[芥舟学画篇…]『芥舟学画篇』は清代の画論書(沈宗騫述)。『沈氏画塵』は明末清初の画家・沈顥の画論を江戸時代の文人・木村蒹葭堂が編纂したもの。
7[湖龍斎]礒田湖龍斎。江戸時代の浮世絵師(一七三五─九〇?)。
8[大阪図書館]現在の大阪府立中之島図書館。
9[大沢老博士]大沢謙二。医学者(一八五二─一九二七)。
10[intime]仲がよい。
11[Connaissance]知識。
12[八重垣姫…]それぞれ歌舞伎・浄瑠璃の演目「本朝廿四孝」「艶容女舞衣」の登場人物。
13[東京座]一九一六年まで水道橋にあった歌舞伎劇場。
14[タンポオ]テンポ。15[高麗屋]歌舞伎俳優松本幸四郎一族の屋号。ここでは七代目松本幸四郎(一八七〇─一九四九)。16[佐和利]浄瑠璃などの聞かせどころ。
17[摂津大掾の…]竹本摂津大掾(一八三六─一九一七)は義太夫節の名人。「阿波鳴門」は世話物の浄瑠璃「傾城阿波の鳴門」。出語りは、浄瑠璃の演奏者(太夫や三味線)が舞台に姿を見せて演奏すること。
18[呂昇の壺坂]豊竹呂昇(一八七四─一九三〇)は女性の義太夫師。「壺坂」は世話物の浄瑠璃「壺坂霊験記」。
19[アイ…]「傾城阿波の鳴門」内の台詞。
20[嫖客]遊廓に出入りする男。21[大谷光瑞]西本願寺の僧(一八七六─一九四八)。中央アジアの仏蹟を発掘調査した大谷探検隊を率いた。
22[トングスバス]現在の中国新疆ウイグル自治区内の地名。
23[ムスリン]モスリン。木綿や羊毛などの薄手の織物。
24[エメロオド…]エメロオドはエメラルド(青みがかった緑)。ロオズマッダアはローズマダー(紫がかった朱)。
25[Olentiinfornice]古代ローマの詩人ホラティウス『談話集』内の一節。
26[Morbidezza]柔らかさ。
27[ピエエル・ロチイ]ピエール・ロティ。フランスの作家・軍人(一八五〇─一九二三)。日本滞在時に現地妻と同棲した経験を小説「お菊さん」に著した。
28[スロアアガ]イグナシオ・スロアガ。スペインの画家(一八七〇─一九四五)。
29[Senspournuance]微妙な違いを察知するセンス。後出のTaineはフランスの哲学者・批評家のイポリット・テーヌ(一八二八─九三)。

編者より】
木村蒹葭堂と木下杢太郎との細い糸が、これで繋がった!

中井正一「土曜日」巻頭言(06)

◎ポーズに気づいた瞬間に行動は空虚になる ー九三六年九月十九日

 みっちりしたボー卜の練習をしているとき、漕いでいる者がフト岸を気にし出したとき、敏感な舵手にはそれがわかるものである。
 自分のフォームを人が見ていると思い、また見せようと思った瞬間、一本一本水に切り込んでいる櫂先から、スーッと力がさめるように消えてゆくものである。
見てくれ<傍点>のこころ、これでどうだのこころ、こうしているんだよ、のよの字<傍点>。それは切っても切っても流れる水のように、こころの底に溢みくる湿気である。
見てくれ<傍点>のこころはそれがどんなにかすかであっても、マネキン人形のもつ硬さをもっている。それは単なるポーズである。行動はこわばり、止まり、やがて他のものに転換してゆく。とんでもないものに移りゆく。
 このベルトに一端を喰われたら、どんなにもがいても、あせっても、あばれても、それはユックリその道を辿って、マネキンがそうであるように、喰い込まれ、きざまれて、売り物になってゆく。レッテルの貼られた何物かが、その腕から下げられる。
この見てくれの自分のポーズの下をかい潜って、身を翻して、行動みずからの真実の中に拶入することは、チョトやソットの困難ではない。
 自分が未だつかんでいない真実を主張して議論が前のめりになっているとき、周囲の見透しのないのに、見ろ<傍点>と身構えて見るとき、いつもポーズは変装して、こころの底で道化ている。
 ポーズはそれが悪意であるときよりも善意であるときにしのび込んでくる悪戯者である。何故なら賞められる<傍点>ということの中に糜爛剤を落してゆく奴なんだから。
 そしてポーズをなくするということにこだわれば、またニヒリズムのポーズとして、彼はくっついてくるのである。それは人間を行動より奪い取る一つの思想の真空である。
 見ること<傍点>にだけ終始するものは、この見られる<傍点>ことを、気にすることは永遠に断ち切ることができない。嬰児のごとく、卒直に欠乏に泣き欠乏に手をさしのべる行動<傍点>こそが、はじめて嬰児のごとく自然の前に險を閉じ、自然をも万人をもまた彼の前に無限の愛をもって眼を閉じしむるのである。
 われわれの機構の中に何が欠乏しているか、それに卒直に手をさしのばすことは、ポーズに手渡すには余りに厳かな必要である。
『土曜日』はあらゆるポーズを脱るる半日である。

編者注】
 写真は、「土曜日」第34号(昭和12年・1937年6月5日号)に掲載された、淀川長治氏の投稿。この号はさしずめ、映画「失われた地平線」(Wikipedia)特集号のようだ。反ファシズムの「牙城」ともいうべき「土曜日」は、このように多彩な執筆陣を備えていた。淀川長治氏なども、その気骨ある一人である。

 画像の二次利用はご遠慮ください、

日本人と漢詩(114)

◎木村蒹葭堂、伊藤若冲と売茶翁

 今回は、中村真一郎の本の頁数を少し飛ばして…
 京都の福田美術館が、伊藤若冲の画を海外から買い戻したと、2024年11月10日号の、赤旗日曜版に記事があった。2025年1月まで展示しているとのことなので、機会があれば観に行きたいものだ。
 蒹葭堂(1736‐1802)と若冲(1716~1800)は、ほぼ同時代なので、交流があったように思うが、蒹葭堂の交遊録には、若冲の名前は出てこない。間接的には、若冲が師と仰いだ、売茶翁(高遊外)や、同輩・僧大典などは、蒹葭堂開館当時に知っていたので、彼らを通じて若冲の評判は聞いていたかもしれない。このうち大典は、前回紹介した宇野明霞に儒学を学んだとある。
 売茶翁は、肥前(佐賀県)の人。各地で、禅僧として修行するも、「釈氏の世に処《お》る、命の正邪は心也。迹には非ざる也。(人の評価は、ただ行跡にとどまることなく、内なる命が大事である)」として、茶を売ることで飢えをしのぐようになった。それも、「茶銭は黄金百|鎰《いつ》一鎰は二十両ーより半文銭まではくれ次第、ただのみも勝手、たゞよりはまけまうさず」と貼紙がしてあったという。表裏千家の茶道とは違った、洒脱というか、自由なお茶の楽しみ方を目指したようだ。お茶の後は、若干の歌舞音曲と楽しい談笑が待っている、江戸時代中期、生産力もあがり、人々の需要層も量的に、質的にも高まってきたようだ。
 若冲と売茶翁との交流は、NHKの2021年正月TVドラマ「ライジング若冲 天才 かく覚醒せり Wikipedia」 にあったとおりである。
 その売茶翁の詩から
錢筒二題ス
隨處開茶店 ー鍾是ー錢 随処二茶店ヲ開ク、ー鍾《シヨウ》(一杯の意)、コレー銭。
生涯唯箇裏 飢飽任天然 生涯タダコノ裏《ウチ》、飢飽天然二任《マカ》ス

煎茶日々起松風 醒覺人間仙路通 煎茶日々、松風ヲ起ス。醒覚ス、人間《ジンカン》仙路通ズルヿ《コト》ヲ。
要識盧仝眞妙旨 傾愛先入箇錢筒 盧仝《ロドウ》(中唐の詩人。隠棲して仕官しなかった)真妙ノ旨ヲ識ラント要セバ、囊ヲ傾ケテ先ヅ箇《コ》ノ銭筒二入レヨ。

参考】
中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」(新潮社)

中井正一「土曜日」巻頭言(05)

◎どんな小さな土の一塊でもよい、掌に取って砕こう 1936年9月5日

 ドストエフスキーの『カラマゾフの兄弟』の中に忘れられない一つのシーンがある。ミーチャが検事の訊問の後、疲れの後に夢見る場面がある。何処か荒涼たる曠野を旅行しているらしい。霙の中を馬車は走っている。妙に寒い感じである。
 直ぐ近くに小さな村があって、何軒かの真黒な百姓家が見えている。百姓家の大半は焼払われて、ただ焼残った柱だけが突立っていた。村に入ろうとすると道の両側に大勢の女達が並んでいる。みんな瘠せさらばっって妙に赤ちゃけた顔をしている。
 一人の女が手に泣き叫ぶ赤ん坊を抱いている。彼女の乳房はもう乾上って一滴の乳も出ない。赤ん坊は寒さのために土色になった。小さな露出しの掌を差伸ばしながら声を限りにないていた。
 ここで、ミーチャは印象的な問を繰返し出すのである。そして、「いいや、いいや」……「聞かせて呉れ、何故焼出された母親達がああして立っているんだ。何故人間は貧乏なんだ。何故餓鬼は不幸なんだ。何故真裸な野っ原があるんだ。何故あの女達は抱合わないんだ。何故接吻しないんだ。何故喜びの歌を歌わないんだ。何故黒い不幸の為に斯んなに黒くなったのだ。何故餓鬼に乳を飲ませないんだ?」
 彼は心の中で斯ういう事を感じた。自分は愚かな気違じみた訊き方をしている。けれども自分は何してもこういう訊き方をしたいのだ。何うしても訊かねばならないのだ。彼はまた斯うも感じた。今まで一度も経験した事のない感激の中に泣き出したい様な気持にさえなった。そしてもうこれからは決して餓鬼が泣かない様に、萎びて黒くなった餓鬼の母親が泣かない様にしてやりたい。そして此の瞬間からしてもう誰の目にも、涙のなくなる様にしてやりたい。何んな障害があろうとも一分の猶予もなく……。
 ドストエフスキーのこんな場面とその感じは、夢よりももっと痛切な現実である。感じだけに立止まればそれは夢である。しかし、人間がみんなでこの不幸の状態に自らを導いたのだと気付いたとき、この不幸を耕す鋤を腕に感じた時、そこに招くが如き新しい光がさし来り、刺す様な現実として醒め来るのである。どんな小さな土の一塊でもよい、掌に取って砕けばよい。その行動は、この感じと夢が、どんなに困難であるかということと、命を賭ける値ある悦びであるかということを知らしめるであろう。

編者注】
 かろうじて残っていたFacebook ノートより。戦前の良質なドストエフスキー受容がそこにはあると思う。

 この八月に、学生時代の芝居仲間の、F君が亡くなった。能登への地方巡業(「ドサ回り」と称していた)の時、酒を飲み夜遅くまで騒いでいた時、F君がぬっと現れ、「夜は寝るもんや!」と言われたことを今でも鮮明に覚えている。彼のK高校在学中、彼なりに「激動の時」を経験し、大学入学後は学部は違ったが、芝居でも、役づくりに真剣で、彼の生真面目なところが魅力的だった。卒業後、久しぶりに「政治的」な話をしたところ「学生時代のあの頃と変わらんな!」と返してきた。
 自分では、変わったつもりであり、その言葉に一時的には厶ッとしたが、今考えれば褒め言葉だったかもしれない。ありがとう、F君!「これからは決して餓鬼が泣かない様に、萎びて黒くなった餓鬼の母親が泣かない様にしてやりたい。そして此の瞬間からしてもう誰の目にも、涙のなくなる様にしてやりたい。何んな障害があろうとも一分の猶予もなく」という自分の心にあるミーチャの思いは変わらないのだよ!

読書ざんまいよせい(050)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(018)
「題材 ・ 断想 ・ 覚書 ・ 断片」から(続き)

編者より】
 チェーホフの最晩年の三作、「谷間」「僧正」「いいなづけ」は、どれをとっても、珠玉の作品である。
 ただ、前二作は、「いいなづけ」が「希望」の兆しが垣間見られたが、作品は、少しニュアンスが違う。「谷間」では、ロシアの田舎でも、「資本主義的な蓄積」がその開始時期も過ぎ、生産資本として成り立ってゆく時代の人物群像である。その代表である商人ツィブーキン家の次男の嫁、アクシーニアは、本格的な工場経営に乗り出す。その上で、長男の嫁リーバの幼子を、やや悪意を持って死なせてしまう。チェーホフは、その子を毛布にくるんで家路をたどるリーバの描写が物悲しく描いている。「僧正」では、幼い頃に別れた母親が、聖職者になった僧正ピョートルの礼拝の時も、名乗りをあげられない。その時は、ピョートルが、死の床にあった最期の時間に手を握りしめた一瞬であった。二作品で、チェーホフは、未来への展望は、一切語らない。チェーホフ的な「ペーソス」の極地であろうか?
 筆致や人物造形はまったく違うが、バルザックの、前者は、貴族階級の没落をテーマとした「農民」に、後者は、聖職者としての出世が思うようにいかなかった僧侶の寂しい晩年まで描いた「ツールの司祭」にシチュエーションが似ていることが興味深く感じた。

ーーここからーー

 彼は己れの卑劣さの高みから世界を見おろした。

 ――君の許嫁は美人だなあ!
 ――いやなに、僕の眼にはどんな女も同じことさ。

 彼は二十万円の富籤をつづけざまに二度抽き当てることを夢想していた。二十万ではどうも少ないような気がするので。

 Nは退職した四等官。田舎に住んで、齢は六十六である。教養があり、自由主義で、読書も好きなら議論も好きだ。彼は客の口から、新任の予審判事のZが片足にはスリッパを片足には長靴を穿いていることや、何とかいう婦人と内縁関係を結んでいることを聞き込む。Nは二六時ちゅうZのことを気にして、あの男は片足だけスリッパを穿いて、他人《ひと》の細君と関係しているそうですな、とのべつに彼の噂話をしている。そのことばかり喋っているうちに、挙句の果には奥さんの寝間へでかけて行くようにさえなる(八年この方なかったことである)。興奮しながら相変らずZの噂をしている。とうとう中気が出て、手足が利かなくなってしまう。みんな興奮の結果である。医者が来る。すると彼をつかまえてZの話をする。医者はZを知っていて、今ではZは両足とも長靴を穿いているし(足がよくなったので)、例の婦人とも結婚したと話す。

 あの世へ行ってから、この世の生活を振り返って「あれは美しい夢だった……」と思いたいものだ。

 地主のNが、家令Zの子供たち――大学生と十七になる娘――を眺めながらこう思う。「あのZの奴は俺の金を贓《くす》ねている。贓ねた金で贅沢な暮しをしている。この学生も娘もそれ位のことは知ってる筈だ。もしまだ知らずにいるのなら、自分たちがちゃんとした風をしていられるのは何故かということを、是非とも知って置くべきだ。」

 彼女は「妥協」という言葉が好きで、よくそれを使う。「私にはとても妥協は出来ませんわ。」……「平行六面体をした板」……。

 世襲名誉公民のオジャブーシキンは、自分の先祖が当然伯爵に叙せられるだけの権利のあったことを、人に納得させようといつも懸命である。

 ――この途にかけちゃ、あの男は犬を食った(通暁しているの意)ものですよ。
 ――まあ、まあ、そんなこと仰しゃっちゃ駄目よ。家のママとても好き嫌いがひどいの。
 ――私、これで三度目の良人《おっと》なのよ。……一番はじめのはイヴァン・マカールィチって名でしたの。……二番目はピョートル……ピョートル……忘れちゃったわ。

 作家グヴォーズヂコフは、自分が大そう有名で、わが名を知らぬ者はないと思っている。S市にやって来て、或る士官と出逢う。士官は彼の手を長いこと握りしめて、さも感激したように彼の顔に見入っている。Gは嬉しくなって、こちらも熱烈に手を握り返す。……やがて士官がこう訊ねる、「あなたの管絃楽団《オーケストラ》は如何ですか? たしかあなたは楽長をしておられましたね?」

 朝。――Nの口髭が紙で巻いてある。

 そこで彼は、自分がどこへ行っても――どんなところへ行っても、停車場の食堂へ行ってさえ尊敬され崇拝されてるような気がしたので、従っていつも微笑を浮べながら食事をした。

 鶏が歌っている。だが彼にはもはや、鶏が歌っているのではなくて、泣いているように聞える。

 一家団欒の席で、大学に行っている息子がJ・J・ルソオを朗読するのを聴きながら、家長のNが心に思う、「だが何と言っても、J・J・ルソオは頸っ玉に金牌をぶら下げちゃいなかったんだ。ところが俺にはこの通りあるわい。」

 Nが、大学に行っている自分の継子を連れて散々に飲み歩いた挙句、淫売宿へ行く。翌る朝、大学生は休暇が終ったので出発する。Nは送って行く。大学生が継父の不品行を咎めてお説教をやり出したので、口論になる。Nがいう、「俺は父親としてお前を呪うぞ。」「僕だってお父さんを呪います。」

 医者なら来て貰う。代診だと呼んで来る。

 N・N・Vは決して誰の意見にも賛成したことがない。――「左様、この天井が白いというのはまあいいとしてもですな、一たい白という色は、現在知られているところではスペクトルの七つの色から成るものです。そこでこの天井の場合でも、七つの色のうちの一つが明るすぎるか暗すぎるかして、きっかり白になってはいないという事も大いにあり得るわけです。私としては、この天井は白いという前に、ちょっと考えて見たいですな。」

 彼はまるで聖像みたいな身振りをする。

 ――君は恋をしていますね。
 ――ええ、まあ幾分。

 何事がもちあがっても彼は言う、「こりゃみんな坊主のせいだ。」

 Fyrzikov.

 Nの夢。外国旅行から帰って来る。ヴェルジボロヴォの税関で、抗弁これ努めたにも拘わらず、妻君に税をかけられる。

 その自由主義者が、上着なしで食事をして、やがて寝室に引き取ったとき、私は彼の背中にズボン吊を認めた。そこで私には、この自由主義を説く俗物が、済度すべからざる町人であることがはっきり分った。

 不信心者で宗教侮蔑者を以て任じているZが、こっそりとお寺の本堂で聖像を拝んでいるところを誰かに見つかった。あとでみんなからさんざん冷やかされた。

 ある劇団の座長に四本煙突の巡洋艦という綽名がついている。もう四度も煙突をくぐった(身代限りをした)ので。

 彼は馬鹿ではない。長いこと熱心に勉強をしたし、大学にもはいっていた。だが書くものを見るとひどい間違いがある。

 ナーヂン伯爵夫人の養女は段々と倹約《しまり》屋になって行った。ひどく内気で、「いいえ」とか「はい」とかしか言えない。手はいつもぶるぶる顫えている。或るとき、やもめ暮らしの県会議長から縁談があって、彼のところへ嫁に行った。やっぱり「はい」と「いいえ」で、良人にびくびくするばかりで、少しも愛情が湧かなかった。或るとき良人がとても大きな咳をしたので、彼女は動顛して、死んでしまった。

 彼女が恋人に甘えて、「ねえ、鳶さん!」

 Perepentiev《ペレペンチェフ》君。

 戯曲。――あなた何か滑稽なことを仰しゃいな。だってもう二十年も一緒に暮らしてるのに、しょっちゅう真面目なお話ばかりなんですもの。あたし真面目なお話は厭々ですわ。

 料理女が法螺を吹く、「ワタチ女《チョ》学校へ行ったのよ(彼女は巻煙草をくわえている)……地球がまんまるな訳だって知ってるわよ。」

 「河船艀舟錨捜索引揚会社」。この会社の代表者が、何かの紀念祭には必ず現われて、N気取りのテーブル・スピーチをやる。そしてきっと食事をして行く。

 超神秘主義。

 僕が金持になったら、ひとつ後宮《ハレム》をこしらえて、裸のよく肥った女どもを入れとくね。尻っぺたを緑色の絵具でべたべた塗り立ててね。

 内気な青年がお客に来て、その晩は泊ることになった。不意に八十ほどの聾の婆さんが灌腸器を持ってはいって来て、彼に灌腸をかけた。彼はそれがこの家のしきたりかと思ったので、大人しくしていた。翌る朝になって、それは婆さんの間違いだと分った。

 姓。Verstak《ヴェルスターク》*.
*長い腰掛。

 人間(百姓)は愚かであればあるほど、その言うことが馬にわかる。

「題材 ・ 断想 ・ 覚書 ・ 断片」(終了)

日本人と漢詩(113)

◎木村蒹葭堂と宇野明霞


 前回までの「脱線」を修正し、「木村蒹葭堂のサロン」に沿って、取り上げられた漢詩人を紹介してゆく。木村蒹葭堂を取り巻く人達は、その豊富さを誇る。重複しているのを厭わずに言うと、第一に、小説、漢詩、俳句、絵画などを得意とした、文人のグループ。第二に、その周辺にいた、コレクター、第三に、懐徳堂をはじめとする儒学者、さらには、第四に、名前も知られない市井の人々。また、師弟関係の「系統樹」をたどると、その頃の日本、部分的には、世界と繋がっていたと言えるのではまいか。
 まず、蒹葭堂と直接の師弟関係はないが、漢詩人の結社「混沌詩社」の指導者、片山北海の師匠筋にあたる、主には儒学者たる宇野明霞から。
 中村真一郎は、「明霞は詩才に乏しい」と断言するが、それでも数首、彼の詩を引く。このあたり、中村の守備範囲の広さがうかがえる。比較的佳作とする詩から、三首ほど。

咏秋海棠
海棠秋睡熟 含露倚籬根
曉風吹不覺 初日滿前園
(海棠、秋、睡り熟シ、露ヲ含ミテ、籬根二倚《ヨ》ル。暁風吹キテ覚エズ、初日、前園二満ツ)
「朝起きてみると、前庭のシュウカイドウのピンクの花が、朝日に照らされて咲いている。」のような意味か?

偶作
靜窓驚遠梦 忽爾還千里
也知客夜中 幾處鄕心起
(静窓、遠夢二驚キ、忽爾トシテ千里還ル。マタ知ル、客夜ノウチ、幾処、郷心起ルヲ)
「これなどは、天才的とは言えないが、小さな成功を見せていて、好意が持てる。」と中村は書く。

謝ー壑禪師見贈庭花
竹院春深少往還 庭花折贈市塵間
數枝紅白看無厭 也得浮生幾日閑
(竹院、春深ク、往還少ク、庭花、折り贈ラル、市塵ノ間。数枝ノ紅白、看ルニ厭フナク、マタ得ル、浮生、幾日ノ閑)

必ずしも、順風満帆でなかった、己の人生もようやく落ち着いたところに落ち着いたという感慨であろうか?

図は、宇野明霞の七絶の筆跡、繊細なタッチで、どこか物悲しく感じる。

中井正一「土曜日」巻頭言(04)

◎星を越えて、人間の秩序は、その深さを加える 一九三六年八月一日

 星が数字を知っているかぎり、人の世が誤差のみを辿ることはできない。
 分秒を違えずに、日触の時間があらかじめわかることは、何でもないことのようだが、不思議なことではないか。別に人間の理論に天体が従ったわけではない。悠久の古えより、物質が辿る秩序を、人間がさぐりあてたのである。
 誰にも命令を受けない物質が、みずからの本源のカと力の組み合いの中に、ゆれながら、ふるえながら、みずからの位置を辿っているのである。そして、その地上に生きる者にまでわかるほどの秩序が、そこに沈んでいるのである。
 数千万年を土の中にうずもれている物質が、自ら自らの結晶の秩序を忘れないのはどうだ。顕微鏡の下に 一分の謬りのすきをも見せないこの細かな感覚はどうだ。人間がダイヤモンドに驚異を感じたのは、今人々 が見ている様な憎むぺき感情のもとに於いてではない。強靱なこの秩序に対する畏れよりしてである。恥し いのは人間である。
 互に組合うぺき秩序より、ひそかに脱落し辿るぺきさながらの位置より、みじめにも遁走し、更に敢えて 人々の友愛と知惹をかきみだし、人々の明日への希望を打砕いているのは誰であるか。外でもない、自分逹自らである。
 星を見れば恥じ、水を見れば恥じ、花を見れば恥じ、石を見れば恥じなければならない物が人間である。
 しかし、重大なことが残っている。
 星がいかに怜悧でも、結晶がどんなに巧緻でも、人間のこの激しい秩序への動揺は、知らないのではないかということである。
 人間にとって、人間の中に棲む自然と秩序は老いている。若い人間がそのふるえている手を取らなくてはならない。手を借さなくてはならない。
 人間の尊厳とは星のそれではなく、花のそれでもなく凡ての謬りを機みとして、新しい真実の中に、自らを押し上げ、試み、切展いて行く行動の中にある。 この重い動きと強靱な秩序への見透しの中に人間の厳かさがあるのである。
 星を越えて、秩序はその深さを加える。
 星が大きいとて、この闘いに比すれば愚直である。星が数字を知っているとて、この闘いに比すれば静謐である。人間の滅ぴることは、この闘い故に、悠久の徴しとなるのである。
 憩いと想いはこの尊厳と悠久の帰り棲む場所である。

『土曜日』第十三号

編者注】図は、『土曜日』から「藤井大丸」の広告。叔母は、少々「しぶちん」だったので、デパートに連れてもらった時は、よく京都駅前の藤井大丸にでかけた。河原町の高島屋などは、値が張るのが、一つ、西洞院五条から河原町までより、京都駅前までのほうが、歩いて近かった(もちろん、西洞院通りを走る、明治以来の路面電車には乗せてもらえなく、四停留所分くらい歩かされ、子どもの身にとっては辛かった。)が二つ。藤井大丸の食堂で、オムライスだったかな?食べさせてもらった時、叔母曰く「ようけ歩いたから、お腹へって、おいしんやで!」。それ以来、オムライスは私のソウルフードになった。付け加えると、広告にあるように、蒸し暑い夏の京都で、冷房完備をうたった店舗だったせいかもしれない。幼少時の想い出の一つである。

正岡子規スケッチ帖(013)

①八月二日
日日草《ニチニチサウ》
②八月三日
瞿麦《くばく》 なでしこ
花売リノ爺ハ之《これ》ヲ
とこなつトイㇷ