日本人と漢詩(038)

◎中島敦、土岐善麿と高啓


 今回は、すこし、堀辰雄から離れて、中島敦(彼は漢詩の実作もあるし、小説「山月記」に漢詩の引用があり、 https://ameblo.jp/meijishoin/entry-12125333711.html )その訳は、堀辰雄の杜甫訳とは、いささか違った趣があるようだ。
 高啓は、明初の詩人、中国の詩人の刑死は、遠く中国・南北朝の時代にはあったようだが、時代が下ると流石に少なくなくなる。しかし、高啓は、友人に連座して非業の最期を遂げた。ここでは、同じような主題の詩を、中島敦訳と土岐善麿訳をそれぞれに一首づつ。
・高啓作
宵の雨   はや霽《あが》りしか
悟桐《きり》の葉に 月影ほのか
窓あかり   書《ふみ》読む声は
さし並《な》みの 隣家《となり》の童《わらべ》
ふるさとに 待つ児もなくて
草枕    旅に病む身は
小夜ふけの 幼き声に
心傷《こころやぶ》れ 未だも いねず
・臥病夜聞鄰兒讀書 高啓
月淡梧桐雨後天 月は淡く梧桐《ごとう》 雨後の天
咿唔聲在北窗前 咿唔《いご》(書を読む)の声 北窓の前《さき》にあり
誰知鄰館無兒客 誰《たれ》か知らん 隣館《りんかん》児なきの客
病裏聽來轉不眠 病裏《びょうり》聴き来《きたり》転《うたた》眠らず
・妻のことば 高啓
夫《せ》ありと 誰《たれ》かいう
われ棄《すて》てて みまかりましぬ
誰《たれ》かいう 子《こ》なしと
生《い》き写《うつ》し かこい女《め》の子《こ》ぞ
子《こ》は書《ふみ》読《よ》み われは麻《あさ》ない
寝屋《ねや》さびし 夜夜《よよ》の朝鳥《あさどり》
子《こ》は名《な》を得《え》 吾《わ》はとつがねば
かくり世《よ》に 安《やす》らえ わが夫《せ》や
張節婦詞 高啓
誰言妾有夫
中路棄妾身先殂
誰言妾無子
側室生兒與夫似
兒讀書妾辟纑
空房夜夜聞啼鳥
兒能成名妾不嫁
良人瞑目黄泉下
参考)
・中島敦全集第1巻(ちくま文庫)
・土岐善麿「鶯の卵ー新釈中国詩選」
図は、一海知義編著「漢詩の散歩道」

日本人と漢詩(029)

◎夏目漱石と森鴎外


並び称される「文豪」だが、両人の漢詩の趣きには相当違いがあるようだ。特に晩年には両人のスタンスは大きなずれとなっている。漱石が、「修善寺の大患」で、大量吐血したあとの詩。
淋漓絳血腹中文 淋漓《りんり》たる絳血《こうけつ》(深紅の血) 腹中の文《ぶん》
嘔照黄昏漾綺紋 嘔いて黄昏を照らして 綺紋《きもん》を 漾《ただよ》わす
入夜空疑身是骨 夜に入りて空しく疑ふ 身は是れ骨かと
臥牀如石夢寒雲 臥牀 石の如く 寒雲を夢む
使われた詩語のうち、「腹中の文」というのが、キーワードの気がするが、逆に解りにくいというか、多義的に思える。まだ、描き足りない小説や彼の思いのように取れるし、「絳血」の末にたどり着いた彼の新境地のようにも思える。その後、明暗の執筆と同時に、「無題」と称する七言律詩の連作が続き、大岡信の言うように、「漱石は、…律詩の詩形の中で、まっすぐに彼自身の感慨を吐露し、自己自身を広漠たる詩の世界に解き放つことに成功した。」そしてその最後の漢詩は、「日本近代の詩の中で、最上級に列するものであった。」それが、後に「則天去私」という「教説」によって語られることはあったとしても、そうした解釈からも充分にはみ出ていると感じる。
http://yoshiro.tea-nifty.com/yoshi…/2012/08/post-6c15.html
他方、鷗外は少なくとも漢詩の分野では、過去の回想や儀礼的な贈答詩に終始した。
その中の「回頭」詩から二首
囘頭 森鴎外
囘頭湖海半生過 頭《こうべ》を回《めぐ》れせば湖海に半生過ぐ
老去何妨守舊窩 老い去って何ぞ妨げん旧窩を守る
替我豫章留好句 我に替《かは》つて豫章《よしょう》好句を留む
自知力小畏滄波 「自《みずか》ら力の小《せう》なるを知り滄波《そうは》を畏《おそ》る
豫章=宋の詩人・黄庭堅「小鴨」
その元は、唐の詩人・杜甫「舟前鵝児」「力 小にして滄波に困《くる》しむ」
題譯本舞姫 小池堅治囑
世間留綺語 世間に綺語《きご》を留《とど》め
海外詠佳人 海外に佳人を詠ず
奄忽吾今老 奄忽《えんこつ》吾今老いたり
囘頭一閧塵 頭《こうべ》を回《めぐ》らせば一閧《いっこう》塵
一閧塵=多くの馬がけたたましく走り去るあとの土ぼこり
以前の森鴎外の漢詩についての投稿

の持っていた「みずみずしい叙情性」と比較のこと
参考)
大岡信「詩歌における文明開化ー日本の古典詩歌4」
鷗外歴史文學集 第13巻
夏目漱石の漢詩 : 修善寺大患期を中心として(上篇) https://core.ac.uk/download/pdf/223201466.pdf
写真は鷗外の第二首目にある独語訳「舞姫」と漱石「倫敦塔」
追記)二日前に当方も、胃カメラの検査を受けた。生検が二箇所、さてどんな結果が帰ってくるだろうか?

日本人と漢詩(028)

◎絶海中津と明・洪武帝


彼が、入明時にときの皇帝・洪武帝との応酬の詩。
釈絶海
制に応じて三山《さんざん》を賦《ふ》す
熊野峰前 徐福の祠《ほこら》
満山の薬草 雨余《うよ》に肥ゆ
只今海上 波濤《はとう》穏《おだやか》なり
万里の好風 須《すべから》く早く帰るべし
明・洪武帝
御製 和を賜《たま》う
熊野峰は高し 血食《けっしょく》の祠
松根の琥珀《こはく》も也《ま》た応《まさ》に肥《こ》ゆべし
当年徐福 仙薬《せんやく》を求め
直《ただ》ちに如今《じょこん》に到って更《さら》に帰らず
 その頃の明では、日本というのは、徐福が流れ着いた東の国というのが共通認識であったようだ。
 日本の中世では、徐福到達の地、紀州南部から、補陀落信仰の機運が生まれ、幾人かの僧が渡海を試みた。Wikipedia(https://w.wiki/3TDi) 以前熊野の地を訪れた際、彼らの行跡に、とても興味深く感じた。写真は、その航海に使った船の模型。
 実は、徐福が紀州に着いたのは、往路であり、補陀落渡海は、徐福が中国に帰った復路をたどった見果てぬ航海だったのかもしれない。そうすると、絶海中津と洪武帝の詩の応酬も別の趣きを持ってくるだろう。
参考)石川忠久「日本人の漢詩ー風雅の過去へ」(大修館書店)

日本人と漢詩(026)

◎新井白石


政治権力の中枢にいた詩人といえば、まず菅公が挙げられようが、その後は長らく輩出していなかった。新井白石は、その政治家と漢詩人を兼ねていた稀有な例と言えるだろう。加藤周一は、その文学的質の高さを評価していた。白石自身は、「白石」を「王安石」に擬していたのは、吉川幸次郎氏の言うように、「新法」に批判的であったらしく、穿ち過ぎだろうが。藤沢周平の「市塵」では、主に後期の白石について描き、幾首かの漢詩を引くが、ここでは、不遇ともいえた青年期から壮年期の「陶情詩集」という、陶淵明にちなんだ叙情的なネーミングの集から3首。
新井白石
病中書懐 病中懐《おも》いを書す 七言律詩
春來患肺獨憑床 春來 肺を患《わずら》いて 獨《ひと》り床に憑《よ》る
靜裡飽暗書味長 靜裡《せいり》 飽暗《ほうあん》 書味の長きを
竹影揺金檐日轉 竹影 金を揺《ゆる》がして 檐日《えんじつ》轉じ
松花飜粉午風香 松花 粉を飜《ひるがえ》して 午風香る
輕陰林外聽鳩婦 輕陰 林外 鳩婦《きゅうふ》を聽き
困思枕頭夢蟻王 困思 枕頭 蟻王《ぎおう》を夢む
賴有茶功醒病骨 賴《さいわ》いに 茶功の病骨を醒《さ》ます有り
車聲煎作遶羊腸 車聲 煎《い》作《な》して 羊腸を遶《めぐ》る
大意)
春になっても肺のわずらいで臥床していたとき静かな周りに書見を堪能した
竹の影がきらめき日差しも移りゆき風に吹き上げられた松の花粉が香ばしい
暗い森から聞こえる鳩の鳴き声、夢の中では蟻国の王。
煎茶で体はシャキとして、また茶葉を煎る。
郊行 郊行 五言律詩
野濶殘山斷 野濶《ひろ》くして 殘山斷《た》え
天長積水浮 天長くして積水浮ぶ
麥黃難得犢 麥 黃にして 犢《こうし》得難く
江碧只知鷗 江 碧《みどり》にして 只だ鷗《かもめ》を知るのみ
林罅出幽寺 林《はやし》罅《すき》ありて 幽寺出《い》で
川廻蔵小舟 川廻《めぐり》て 小舟を蔵《ぞう》す
晚來何處笛 晚來 何《いずれ》の處《ところ》の笛なるぞ
數曲起前州 數曲 前州に起《おこ》る
(大意)
広い野に山並みと水平線。
麦秋なので同色の子牛を見極め難く、緑の川面で目につくのは白いかもめ。
林のすきまのむこうのひっそりしたお寺、川は湾曲し小舟もみえず。
日暮れときの笛の音はいずこから、中洲で何曲かが響いてくる。
小齋卽時 小齋卽時 七言律詩
小齋新破一封苔 小齋新たに破《やぶ》る 一封《いっぷう》の苔《こけ》
不厭野翁攜酒來 厭《いと》わず 野翁の酒を攜え來《きた》るを
挟冊兎園聊自得 冊を挟《さしばさ》む 兎園 聊《いささ》か自得し
畫圖麟閣本非材 圖を畫《えが》く 麟閣 本《もと》より非材
定巢梁燕啣泥過 巢を定《さだ》む 梁燕 泥を啣《ふく》んで過《よぎ》り
醸蜜山蜂抱蕊囘 蜜を醸《かも》す 山蜂 蕊《しべ》を抱いて囘《めぐ》る
却有散人功業在 却って散人の功業の在る有り
繞欄終日數花開 欄を繞《めぐ》りて 終日 花の開《さ》ける數《かぞ》う
(大意)
ささやかな書斎に酒の差し入れ、才なき身には月並みの読書、軒下にはツバメの巢、かたわらにミツバチも蜜つくりにいそしむ、欄干を行きつ戻りつ花の咲いているのを数えるのも意外な「ひまつぶし」。
語句のいちいちの典拠は省略するが、周囲の儒学者での傾向であった「盛唐偏重」というドグマからは、白石は比較的自由であり、多くは、唐も中唐以降、その後の宋詩を基にしている。また、藤沢周平には「市塵」という題名には、「詩人」という連想が働いたのかもしれない。
(補足)
不遇時代に、白石は俳諧にも親しんでいたようだ。その中から
「白炭やあさ霜きえて馬の骨」
灰となった炭を例えて「馬の骨」(その当時から、「どこの…」という言い回しがあったようだ。
「貧学やきらずの光窓の雪」
きらずは貧相なおかず、おからのこと
当時の心情が垣間見えて興味深い。
白石の第3首にちなんで、写真は、近くの駅の防犯カメラの上で巣食う燕、先日、親燕が巣を作ったと思いきや、もうひな燕が4羽、雁首を並べていた。
参照)一海知義・池澤一郎 「新井白石」 日本漢詩人選集5 研文出版