テキストの快楽(015)その1

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(10)


【編者より】
 底本にある岩波文庫「シベリアの旅」には、その他、短編小説「グーセフ Гусев」「女房ども Бабы」「追放されて В ссылке」が収載されていますが、青空文庫「チェーホフ」にありますので、参照してください。未完に終わった「シベリアの旅」は今回の神西清による解題で終了です。全編は、「シベリアの旅」タグで御覧ください。ご愛読に感謝します。
 全編を通じて、ふりがなは ruby タグ を、傍点は、b タグを用いました。また、より小さな活字体では、font タグを用いたところもあります。
 昭和九年という、日本が暗い世相の予兆から、それが現実になりつつあった時代でこそ書き得た、神西清の全霊を込めたというべき、名解説です。

解題

 ーハ九〇年は、チェ—ホフの作家的生涯に於て重要な轉機をなしてゐる(チェーホフ三十歲)その外向的なあらはれは、 言ふまでもなくシベリヤを橫斷してサガレンへの大族行である。本集はこの旅行から比較的直接に齎らされた藝術的所產を中心にして、當時の彼に見られる幾つかの動向を捉へようと試みた。

       

 サガレン旅行がチェーホフの藝術の進展のうへに演じた役割は、 從來稍ゝもすれば單なるー插話としてその價値が見失はれがちであつたに拘らず意外に大きく、ここに基點を置いて自覺せるチェーホフの出發を記念することは極めて妥當である。その意味は先づ、これに先立つ二三年のあひだに彼を度つた激しい危機と密接に關聯させて考へられなければならない。その危機の釀成は固より非常に複合的であるが、次の二三の事實はこれに就いて幾分の豫備知識を與へるものと思はれる。
 何よりも先づ眼につくことは、チェーホフか文筆生活の開始に當つて極めて不幸であつた事である。彼が一家の生計を支へるためにモスクヴァの滑稽新聞に寄稿し始めたのは、まだ醫科大學に在學してゐた一八八〇年のことに屬する。この卑俗なヂャーナリズムの泥沼に彼を引き入れたについては、 若年の彼が持つてゐた皮相な滑稽的天分も當然ー半の責を負ふべきであるにせよ彼カこの境地に自足してゐたと考へることもまた謬りである。この時期の彼を「陽氣で無帰気なー羽の小鳥」と見、彼のユーモア短篇に今なほ安易なー瞬の愉樂を求める人々に禍あれ。彼等はその「小鳥」の次の絕叫をも聽くべきである。
  「私は奴等の仲間にゐる。奴等と一緖に働き、握手し合つてゐる。遠目にはどうやらーかどの詐欺師に見えるさうだ。ああ腹が立つ。だが晚かれ早かれ緣切りだ。」(一八八三年)
  「もし私の裡に尊重に値する天分があろとすれば、私はこれ迄それを尊重して來なかつたことを自白します。色んな新聞を渡り步いてゐたこの五年のあひだに、私は自分の文學的『下らなさ』に對する世間の眼に泥んでしまひ、自分の仕事を卑めて見ることに慣つつこになりました。」(一ハ八六年)
 この悲慘な墮落は、それが彼の曇らぬ良心の面に歷然と意識されてゐるだけ、ー層眼をそむけさせるものがある。「私はあまり多作はしません。一週間にせいぜい短篇が二つか三つです」(八六年、 スヴォ—リン宛)と怖るべき吿白をしながら、ー八八〇年から一ハ八七年末までに彼が書きなぐつた作品の數は、 よしその大部分が主として片々たる短篇(まれに雜文)の類であるにせよ、 總數五百五十を超えてゐる。かかる沈湎の境に、 その懸命な身もがきにも拘らず長く彼を引留めてゐた一素因として、當時所謂八〇年代のロシャ社會の退嬰無比な倦怠の色が思ひ浮べられる。未曾有の反動の重壓の下、文學にも科學にも訪れるのは預気力な灰色の日々でしかなかつた。あらゆる希求も美への僮憬も悉く凋萎させずには措かぬ小市民生活の泥沼、その中にあつてチェーホフも亦、ある時期のあひだトルストイの無抵抗の敎義に取り縋つた。
 かうした環境と心境とが、 やがて人を自滅の深淵に臨ませることは必然的であろ。出口のない悲慘と墮落の自意識、濫作の末の疲勞困憊、題材の涸渴、無興味、自己嫌忌、やがて完膚ない破滅……。戯曲は『イヴァーノフ』Ivanov Иванов<ロシア語は編者追加>(一八八七年)の主人公が目らを過勞の極困憊した勞働者に譬へ、退屈な話』Skuchnaja istorija Скучная история<ロシア語は編者追加>(一ハ八九年)の老敎授が精神的虛脫者であるのに何の不思議もない。この二つの作品は、右のやうな諸要素及びその發生するあらゆる有機毒素の累積に孕まれた危機の深さを殘りなく反映しつつ、彼に於ける一時期の終結を記すものに他ならない。この意味から、先全な自傅小說と呼びうるこの二作品は、彼が進んで遂げた自滅の記念碑と解することが出來る。彼は饐えきつた自己及び環境の一切を舉げて火に投じ、その屍灰から起ち上るかも知れぬ新しい生命を見守つたのでもあらう。
  「この二年の間、別にこれと言つた理由は何もないが、私は印刷になつた自分の作品を顧る興味を失くしてしまひ、評論にも文學談にもゴシップにも、 成功にも失敗にも、髙い稿料にも無關心になりました。――つまり、私はまるつきり馬鹿になつたのてす。私の魂には一種の沈滯が生じたのです。私はこれを自分の個人生活の沈滯に歸してゐます。私は失望もしてゐないし、疲勞も沮喪もしてゐませんが、ただ突然何もかもが今までほどに面白くなくなつたのです。自分を振ひ起たせるために何とかしなけれはなりません。」(ーハ八九年五月、スヴォーリン宛)
 この何氣ない手紙の一節が、右のやうな危機の深さの端的な表白として改めて讀み直さるべき時期の來てゐることは明かである。チェーホフはー八九〇年の初め頃、たまたま試驗準備をしてゐた弟ミハイルの刑法・裁判法・監獄法などのノオト類をふと眼にして、「足下から鳥の立つやうに」サガレン族行を思ひ立つたといふ。丹念に彼の傳記を調べて見たとしても、或ひはこれがその唯一の「眼に見えた」動機であるかも知れない。そして、實はそれで十分ではないか。あらゆる抑壓の下に形體は自壊しつつ、しかも獨特の何か不可思議な生活力の烈しさによる抵抗熱が身裡に鬱積された極みにあつては、 一行の文字のふとした衝擊に逢つてすら、 忽ち瓣ははじけ飛ぶのである。

 これを機緣として、久しく彼の待ち望んだ一つの情熱が彼の裡に燃え上つた。彼は「一日ぢゆう本を讀み、抜書を作つてゐる。私の頭の中にも紙の上にも今ではサガレンしかない。憑物だ。サカレン病 Mania Sachalinosaだ」(一八九〇年二月、プレシチェーエフ宛)と言ひ、 全く憑かれた人のやうになつてサガレン島に關する文獻に沒頭した。その興味はとりわ、罪囚たちの悲惨な生活の上に凝つた。
  「私達は幾百萬の人間を牢獄に朽ちさせたのです。徒らに、分別もなく、野蠻な遣ロで朽ちさせたのです。私達はー萬露里の寒氣の中を、手械をはめた人々を驅り立て、シフィリスに感染させ堕落させ、みすみす罪囚の數を殖やしたのです。しかも、これら總ての責を、赤鼻の獄卒に轉嫁してゐるのです。」(ー八九〇年三月、スヴォーリン宛)

 然しこのやうな罪囚に封する異常な執心が、或る衝動的な性質を帶びてゐることは蔽ふべくもない。ここで圖らずも、 私達は彼の生活樣態のー特徴に思ひあたるのである。それは彼獨特の潑刺たる勤勞愛であり、苦行愛である。ではあるが彼が、「私は懶惰を軽蔑する。精神の動きの虛弱さや不活潑さを輕蔑すると同様に」といひ、「舊制度と和解せずに、たとひ愚かしからうと賢明であらうと、とにかくそれと闘つてこそ健康な靑春と呼びうる」と語るとき、 少くもその放射面が現實であり社會である限り、そこに働いてゐるのは彼自身の心性ではなく、何者かがその裡に巢喰つてゐて、時に彼の心性をしてこの叫びを上げさせてゐる樣な感想を、私達は受けるのを常とする。饑饉時や疫病時に際して彼のあらはした獻身的な努力、僻地の學校圖書館に豊かならぬ財囊を割いて圖書を寄附する彼――その眞撃さは疑ひもなく、これを見て感激せぬのは鬼畜であるかも知れないが、しかもこれらの行動は、彼の生活量の總體から考量するとき、常に何かしら間歇的であり無花果的であり、 受身的な積極性の相を帶びるのを常とする。そしてここで、 彼の良心的な感性の鋭さを考慮に入れながら、かかる衝動を喚び起す奥底の刺戟として一種の「苛責」に想到することは極めて自然である。のみならすこれに關しては、彼の書簡集から幾つかの證據を拾ひ出すことさへ可能である。日く、等閑に附して來た醫者としての務めに對する自責。日く、藝術の自由性乃至藝術上の制作の實踐的無價値に對する執拗な反省。……これらの不安は、恐らくその全生涯を通じて彼の心裡に巢喰ひつづけ、絕えず迸出の機會を窺ふ魔であつたのである。
 この地に絕えず追はれ、突き轉ばされるとき、彼が悲慘極りない孤獨者の悲劇を露呈することは何としても否定し難い。實際彼ほどに、倨傲ならぬ純粹の個性の殉敎者はあまり見當らぬであらう。この敎養深い孤獨人は、「連帶性とか何とかいふ囈語は、取り所や政治や宗敎などに就いてなら私にも分る」乃至「仲間の助けになりたいなら、先づ自分の個性と仕事を尊敬することだ」といひ、一切の共働を拒否し、階級を認めず、勞働者を知らず農民を信ぜず、 インテリを憎悪しブルジョアを蔑視した。固より、かうしたあらゆる集團的階級的なるものへの彼の拒否を取り上げて、これを指彈し非難することは今日となつては常識以外の何物でもない。その故に最早彼を棄て去ることも亦、各人の隨意である。然しながら忘れてはならぬことは、この個性の悲劇が實は彼の近代的全悲劇の中核に極めて接近してゐること、 或ひは中核そのものであることである。しかも彼にあつては、これは常に意識された悲劇であつた。(彼の親友メンシコフは興味ある插話を齎らしてゐる。チェーホフの仕事机の上には銅印が置いてあり、その銘に「孤獨者にとつて世界は沙漠だ」とあつたといふ。)
 チェーホフは絕えず土地や人的環境や風物の新鮮さを好んだ。健康が許すあひだ殆ど間斷なしに國內を旅行し、その足跡が外國へ及んだことも一再ではない。それが矢張り右に見た魔の所業であり、 それが絶えず彼の裡に「遠方の招きに牽かれる心」を、「居に安んぜぬ徒心」を搖すつてゐたことは否定すべくもないのである。そのあらはれが、假借することのない勞力と時間の浪費――つまり一種の苦行の相を呈することも屢ゝであつた。その意味から言つて、彼のシベリヤ及びサガレンの旅を、かかる苦行の相なるものと呼び得る。それは彼に餘りにも高價に値した。彼の早死の原因をなした胸の痼疾も、その源をこの辛勞多い旅に歸せられてゐる。
 右のやうに、チェーホフをこの旅行に驅リやつた衝動的素因を瞥見した上は、 更にこの衝動を强化し支持した謂はば潛在的動因に眼を轉じないでは濟まされない。實をいふと、前に見たやうに突然彼の激しい興味が向けられた對象が偶々罪囚の生活であつたといふことは、ここで更に彼の作家的內奧の動向と微妙な契合をなしてゐるのである。それは、彼の危機の深さを如實に反映する『イヴァーノフ』及び『退屈な話』などの祕かな根底をなしてゐる特徵――すなはち自他の病患、世紀末のロシヤ社會を蔽ふ怖るべき變態的事象に對する異常な凝視である。この二作あたりを轉機として、彼の作家的視線は漸く病的、變態的な方面――彼の鋭敏な感性には人一倍强く映ずるあらゆる醜惡さに注がれはじめた。作家チェーホフの內部に、かかる病患・變態によつてのみ初めて創造欲をそそられる、一種の傾向が漸く形成され、それが次第に强まりつつあつた。勿論自他の病患を正視しようとする彼の眼光は、彼が徒らな笑ひの性格を喪ふにつれ、 また久しきに亙る混濁生活の間に、徐徐に養はれ鍛へられてゐたとはいへ、この期に於て充分に鞏固であつたと言ふことは出來ない。それはまだ、何かしら潜在的何かしら無意識的な作家的本能の生成でしかなかつた。だがこの様な瞬間に、ふとした衝動によつてサガレン島がロシア的悲痛の完全な軆現者或ひば象徵として眼底に映’じたとすれば、チェ—ホフが勿心ち全身全靈を舉げて共處へ牽引されたのは極めて當然である。この場合、彼の作家的本能の趨向は、 突發的な一つの衝動が指し示した方向と完全に合致して,その衝動を支持し强化し、やがてこれに取つて代るべき役目を見事に果たしたのである。
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テキストの快楽(014)その3

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(09)

 もし道中の景色が諸君にとってどうでもよい事でないならロシヤを出てシべリヤに旅行する人は、 ウラルから工ニセイ河までの間ずっと退屈し通すに違ひない。寒い平原、曲がりくねつ白樺、 溜り水の沼、ところどころに湖、 五月の雪、そしてオビ河の諸友流の荒涼とした淋しい岸。――これが、 最初の二干露里が記憶に殘すものの全部である。他國人に崇られ、わが國の亡命者に尊ばれ、遠からずシべリヤ詩人にとつて無盡藏の金坑ともならう自然、比類ない雄大な美しい自然は、 やつとエニセイに始まる。
 かう言ふとくヴォルガの熱心な讚美者たちに對して非禮に當るかも知れないが、私は生れて以來エニセイほど壯大な河を見たことがない。ヴォル力を小意氣で內氣て憂ひを含んだ美人に普へればエ二セイはそのカと靑春の遣り場に困つた力强獰猛な勇士であらう。人々はヴォルガに對するとき、最初は奔放に振舞ふけれど、遂には歌謠と呼はれる呻吟に終る。明るい金色の希望は、ヴォルガにあってはやがて一種の無力感に――ロシヤのペシミズムに變ずる。エニセイにあっては先づ呻吟に始まる代りに私逹が夢にも見たことのない奔放さに達する。少くとも私だけは、 宏大なエニセイの岸邉に立つて荒びた北氷洋めがけて奔る凄まじい水の疾さとカとに貪るやうに見入りながらさう考へた。エニセイにとってその兩岸は狹苦しのだ。高くない浪のうねりが互ひに追ひ合ひ、押し合ひへし合ひ、螺旋狀渦を卷く有様を見てゐると、この强力男がまだ岸を崩さず‘底を穿ち通さずにゐるのが不思議に思はれて來る。こちら岸には、シベリヤを通じて一番立派な美しい町クラスノヤ—ルスクが立ち、對岸にはさながらコーカサスを思はせて煙りわたる、夢幻的な山獄が連なる。私は佇立して心に思った――今にどんなに完全な聰明な剛毅な生活がこの兩岸を輝かすことであらうか。私はシビリャコフ*を羨んだ。私の讀んだところでは、 彼はエニセイの河口に達するため遥々ペテルブルクから汽船で北氷洋へ乘り出したのだ。私はまた、大學がクラスノヤ—ルスクではなく、卜ムスクに開かれたのを殘念に思った。さまざまな想念が湧いて來て、それが皆エニセイの河波のやうに押し合ひ縫れ合つた。そして私は幸福だった。……
 エ二セイを越えると間もなく、有名な密林帶タイガーがはじまる。これに關しては色々と宜傳も記述もされて來たが、そのため反つて實際とは遠い姿を期待してゐた。最初はどうやら多少の幻滅感をさへ抱く。松、 落葉松、樅、白樺から成る變哲もない森が、道の兩側に間斷なく續いてゐる。五抱へとある木は一本もなく、見上げると眼まひのするやうな喬木もない。モスクヴァのソコーリニキイ*の森に生えてゐる樹に此べて、 少しも大木といふ感じはしない。密林帶には鳥の啼聲もなく、そこの植物には匂ひがないといふ話だった。で、さう覺悟してゐたが、密林帶を行くあひだ絕えず小鳥の歌が聞え、蟲の嗚聲がした。太陽に溫められた針葉は、强い樹脂やにの臭ひで空氣を滿たし、道傍の草原や林の緣は淡靑や薔薇色や黄色の花々に掩はれて、これも眼を愉しませるだけではなかつた。大密林の記述者たちは春來て見たのではなくて、明らかに夏の觀察なのであらう。夏ならばロシヤの森にすら 、鳥は啼かずす花も匂はない。
 密林帶の迫力と魅力は、亭々と聳える巨木にあるのでもなく、底知れぬ靜寂にあるのでもない。渡鳥でもなければ恐らく見透せまい、その涯しなさにあるのだのだ。はじめの一晝夜は氣にも留.めない。二日目、三日目になると段々驚いて來る。四日目、五日目になると、この地上の怪物の胎內からは、何時になっても脫け出せまいといふやうな氣がしだす。森に蔽はれた高い丘に登って、東のかた道の行手を眺める。見えるのはすぐ眼下の森林、その先に第三の丘、かうして限りがない。一晝夜の後また石に登つて見渡すと、 又しても同じ眺めだ。……道の行方には、 とにかくアンガラ河がありイルクーツクがある筈と心得てゐる。だが道の兩側に南と北へ連なつてゐる森林の向ふには何があるのか、 この森林の深さは何百露里あるのかは、 密林帶タイガー生れの馭者も農夫も知らない。彼等の空想は私達に比べて一層大膽である。その彼等ですら密林帶の奧行を輕々に決めようとはせず、 私達の質間に答へて「りはなしでさ」と言ふ。彼等の知ってゐるのは、冬になると密林帶を越えて遙か北の方から、何とかいふ人間が馴鹿に乘ってパンを買ひに來ることだけだ。が、 この人達が何者なのか、何處から來るのかは、 老人も知らない。
 見ると松林の傍を、 樺皮の袋と銅を背負つた脫走人がよたよた步いて行く。彼の悪行も苦難も彼自身も、この巨大な密林に比べるとき、何と小さくつまらぬものに見えることだ。よし彼がこの森林のなかで消えて無くなったとしても、蚊が死んだも帀然何の意外さも何の畏怖も感じられまい。人口が稠密にならず‘密林帶の威力を征服しえぬあひだは、 此處ほどに「人は萬物の靈長」といふ文句が力無く洞ろに響く場所は、何處にもあるまい。今シベリヤ街道に沿って住む人間が皆寄って、密林を取拂はうと申し合はせて斧や火を持ち出した所で、 海*を焼かうとした四十雀の話の二の舞を演じるに過ぎないだらう。時には山火事で森が五露里も燒けることカある。が、全軆としてみれば焼跡は殆ど氣附かぬ程度で、しかも二三十年もすると焼けた埸所には前よりー層密に茂った若森が生える。或る學者が東岸地方に滯在中ほんの粗忽から森の中で火を失した。一瞬にして見渡す限りの綠の森は炎に包まれた。この異常な光景に戰慄した學者は、自分を「怖るべき災禍の因」と呼んでゐる。しかし巨大な密林帶にとって、 高々數十露里が何だらう。今日ではきっと、その火事の跡は人迹の及ばぬ森になって、 熊が安んじて橫行しなし大松鶏おおらいてうが飛んでゐるに違ひない。その學者の爲業は、 彼を怯え上らせた怖るべき災禍どころか、 反つて大きな功績を大自然の中に印したのだ。密林帶では 、人間音通の尺度は役に立たない。
 また密林帶は、どれだけの祕密を藏してゐることだらう。樹々の間に傍道や小徑がこつそり忍び入り、喑い森の奧に消える。何處へ行くのだらう。秘密の酒造場へか、 地方警視も評議員もその名を曾て聞いたこともない村へか、それとも放浪者仲間がひそかに見附けた金坑へか? この謎めいた小徑からは、 何といふ無分別な、唆かすやうな自由の氣が吹いて來ることだ。
 馭者の話では、密林には熊や狼や大鹿、黑貂や野生の羊が棲むといふ。沿道の百姓たちは、 仕事の暇には幾週間も林の中で獣獵をして暮らすさうだ。この土地の狩獵術は至極簡單だ。つまり鐵砲から弹丸が出れば儲け物だし、 不發たったら潔く熊に喰はれろである。ある獵師が、 自分の鐵砲は五度續けて引いても駄目で、飛びだすのはやつと六度目からだと零してゐた。この珍寶を提げて、 刀も逆茂木もなしで獵に行くのは、危險千萬なことである。輸入した銃は粗悪でしかも高價住だ。だから街道沿ひの町村で、銃の製作までする殿治屋を見掛けるのは珍しくない。一般に鍛冶屋は多藝多才なものだが、 他の才人の群のなかに姿を沒する懼れのない密林帶では、殊にそれが日立つのである。必要があって或る鍛治屋と僅かのあひだ接近する機會を持ったが、馭者が彼を推薦した言葉はかうであった。――「そのお、大名人なんで。鐵砲まで作りますだ。」その馭者の口調や顏附は、私達が有名な藝術家に就いて話す時の樣子に彷彿たるものがあった。實は私の旅行馬車が毀れたので、修繕の必要があったのだ。馭者の紹介で宿場にやって來たのは痩せた蒼白い男で、その神經質な動作といひ、义あらゆる兆候に徵しても、才人凡つ大洒飮みに違ひなかつた。興味のない病氣を扱ふのが退屈でならぬ名開業醫のやうに、彼はこの族行馬車にちらつと横目を吳れて簡單明瞭な診新を下すと、ちよつと默想し、 私には物も言はず物臭ささうに路上を漫步してから、振返って馭者にかう言った。――
 「どうしたね! ひとつ鍛治場まで引つ張って來て貰ひましよ。」
 馬車の修繕には四人の大工か彼の手傳ひをした。彼はさも厭々らしい怠慢な働き振りを示した。鐵の方で彼の意に反して色んな形を取るかの樣でもあった。彼は屢屢煙草をふかし、何の必要もないのに鐵屑の堆のなかをがさがさやり、私が急いで吳れと言ふと天を仰いだ。藝術家も歌や朗讀をせがまれると、やはりかうした様子を見せるのである。時たま、まるで媚態の一種か,それとも私や大工達の度膽を拔かうとしてか、高々と槌を振りかぶって火の子を八方に散らし、 一撃の下に複雜極まる難問を解決する。鐵砧かなしきも碎けよ、 大地も震動せよとばかりに打ち下ろした粗大なー撃で、 輕い一枚の鐵板は、蚤からも文句が附くまいほどの申分ない形になる。手間賃に彼は五ル—ブル半受取った。その内五ル—ブルは自分が取つて、半ル—ブルを四人の大工に分けてやつた。彼等は禮を言って馬車を宿場まで引いて歸った。恐らく内心には、己れの價値を主張し傍若無人に振舞ふ才人(それは密林帶でも都會でも變りはない――)を羨みながら。

* シビリャコフ(アレクサンドル、一八四九――?)シベリヤの社会事業家。シべリヤ大學の開設に巨資を捧げ、探檢隊の後援をなすなど貢獻が大きい。彼がシベリヤの航海路の發見に協力したのは一八七五・七六年のことである。弟二コライも同じくシベリヤの恩人として知られる。
* ソコーリニキイの森 モスクヴ北郊にある有名な遊園地。
* 海を燒かうとした四十雀の話 四十雀が海を燒いて見せるぞと大言壮語したので、海神の都に恐慌を起して、鳥獸や獵師まで見物に集まったが、勿論泡ひとつ立たなかつた話。クルィロフ『四十雀』と題する寓話詩に基く。

テキストの快楽(013)その2

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(08)

     

 シべリヤ街道、 これは世界ぢゆうで一番大きな道だ。また一番單調な道かも知れぬ。チュメーンからトムスクまでは、それでもまだ我慢が出來る。と言っても決して役人のお蔭ではなく、この地力の自然的條件の賜物である。この邊は森林のない平原で、 朝降った雨も夕方には乾いてしまふ。若しまた五月の末になっても雪解がやまず、 街道が氷の小山で蔽はれてゐるやうなら、 勝手に野原を突切って廻り路も出來るわけである。トムスクから先は大密林と丘陵の連續だ。こつでは地面はなかなか乾かず、 廻り路などはしようと思つても出來ない。厭でも街道を行くことになる。そこでトムスクを過ぎると旅行者が急にロ喧しくなって、 不平帳にせつせと書き込むやうになるのだ。役人諸君も几帳面に彼等の不平を讀んで、 一々「詮議に及ばず」と書いて行く。書くなんて餘計な手間だ。支那の役人ならとつくに印判スタンプにしてゐるだらう。
 トムスクからイルク—ツクまで、 二人の中尉と軍醫が一人道伴れになった。中尉のの一人は步兵で、 毛むくじゃらな毛皮帽を被つてわる。もう一人は測量將校で總肩券アクセルバンド附けてゐる。宿場に着くたびに、 馬車ののろさと動搖とでくたくたになった上に泥だらけで、びしょ濡れで、 睡くてならぬ私達は、早速長椅子に轉がって不平を連發しだす。――「やれやれ、 何て汚ない何てひどい道だい。」すると驛の書記や各主がかう答へる。――
 「これ位はまだ何でもありませんよ。まあ見てゐて御覽なさい、コズーリカ越えはどんな工合だが。」
 トムスクから先は、宿場に着くたびにこのコズーリカで威かされる。書記たちは謎みたいな笑ひを浮べ、行き合ふ旅人は意地の悪い笑顏で、 かう言ふ ――「私は越して來ましたよ。今度は君の番ですね。」あまり威かされるので、化舞には神祕なコズーリカが嘴の長い綠色の眼をした。鳥になって、夢にまで現れて來ろ。コズーリカといふのは、チェルノレーチェンスカヤとコズーリカの兩驛間二十ニ露里の道を指すのだ(これはーノチンスクとクラスノヤールスク兩市の間に當る)。この怖ろしい場所の手前二三驛あたりから、旣に豫言者が出現しはじめる。行き合った一人は四度も顚覆したといふし、 もう一人は車の心棒を折ったと零すし、三人目は難しい顏をして物も言はない。道はいいかと訊いて見ると、かう答へる,「いやはや結構の何のって。」とりわけ私を見る人々の眼は、死者を悼む眼附に似てゐる。何故なら私の馬車は自腹を切って買った車だからだ。
 「きっと毀して、泥んこの中へはまりますよ」と、 溜息まじりに言って吳れる、「惡いことは言はない、 驛馬車になさい。」
 コズーリカに近づくにつれて、豫言者は次第に物凄くなる。程なくテェルノレーチェンスカヤ驛といふ邊で、道伴れの乘つた馬車か引繰り返つた。夜だった。兩中尉も軍醫も、 トランクや包みや碁石やヴァイオリンの函もろとも、泥んこめがけて飛んでしまつた。その夜中には今度は私の番だった。愈ヽチェルノレーチェンスカヤ驛といふ間際になって、 私の車の軸釘が曲ったと急に版片が言ひ出した。(これは車臺の前部と軸部とを結ぶ鐵のボルトだ。だからこれが曲ったり折れたりすると、車體は地面に腹這ひになってしまふ。)宿場で修繕がはじまる。むかつくほど大蒜にんにくや玉葱の臭ひをさせる馭者が五人掛りで、泥んこの車を横倒しにして、曲った軸釘を金槌で打ち出しはじめる。まだ何とかいふ橫木も割れてゐる、何やらの舌も她んでゐる、ナットが三本も飛んでゐるなどと、彼等は口々に吿げる。が私には何ひとつ分らない。また分りたくもない。……暗いし、寒いし、退屈だし、睡い。……
 宿場の部屋に簿暗いランプが燃えてゐる。石油と大蒜と玉葱の臭ひがする。長椅子の一つには毛皮帽の中尉が橫になつて眠ってゐる。もう一つの長椅子には何やら髯の長い男が坐つて、て、大儀さうに長靴を穿いてゐる。今しがた電信の修理に何處やらへ行けと命令を受けたのだが、睡いので出掛けたくないのである。總肩章の中尉と軍醫とは卓に向つて、重くなった頭を兩手に支へて居睡りしてゐる。毛皮帽の舟聲が聞え、外では金槌を打つ音がする。
 馭者の話聲も聞える。……かういふ宿場の話といふと、 街道ぢゆうを通じて話題は一つだ、 つまりその土地土地の役人の月旦と、道路の惡口とである。遞信關係の業務はシベリヤ街道に沿ひ謂はば君臨してゐるだけで、別に政治を布いてゐるわけではないのに、天の憎みを蒙ることが最も甚だしい。イルクーツクまでまだー千露里以上の道程を扣へながら、 すでに困憊し切ってゐる旅人の耳には、 宿場の物語は唯々凄まじく響く。何とかいふ地理學會の會貝が、細君を伴っての旅行中に二度も自分の馬草を毀し、とどのつまりは森の中で一夜を過ごさなければならなかった話、何とかいふ貴婦人があまり搖れが酷いため頭を割ってしまった話、何とかいふ收稅吏が十六時間も泥濘のなかに坐り績けて、たうとう百姓に二十五ルーブルやって引張り出して貰ひ、宿場まで送り屆けられた話、 自用の馬車は一臺として無事に驛まで行き通した例しがないといふ話。かういふ話がみんな、まるで不吉な鳥の啼聲のやうに胸に響き返るのである。
 さうした話から推すと、 最も苦勞の多いのは郵便であるらし.い。もし篤志な人があって、ペルミからイルクーツクに至るシベリヤ郵便の動きを丹念に追って、 その印象記を書きとめるなら、さだめし讀者の淚を誘ふやうな物語になるだらう。それは先づ、宗敎、敎化、商業、 秩序、金錢などをシベリヤに齎らすこれらの皮製のこりや叺の總てが、怠惰な汽船がいつも汽車との連絡に;..!にはいといふだけの理由で、空しく幾晝夜かをペルミに停滞するところから始まる。チュメーンからトムスクまでは、春も六月に入るまで、郵便も河川の凄まじい氾濫と這ひ出ることも出來ぬ泥濘と闘ふ。氾濫のお蔭で、ある宿場にー畫夜ちかく待たされたことがあった。郵便もやはり待つてゐた。重い邺便物を小舟に積み込んで、河や水浸しの牧地を渡す。その小舟が顚覆を免れるのは、シベリヤの郵便夫のため、その母親が恐らく熱い祈りを捧げてゐればこそである。さてトムスクからイルクーツクまでには、コズ—リカだのチェルノレーチェンスカヤだのといふ難所が數知れずあって、郵便馬車は十時間乃至二十時間づつも泥濘の中に立往生する。五月二十七日に或る宿場で聞いた話では、郵便物の重みでカチャ川の橋が落ちて、馬も郵便も危く沈んでしまふ所だつたといふ。こんなことは普通の事故で、シベリヤの郵便はもうとうに慣れつこになつてゐるのだ。イルクーツクを發って先へ進む途で、六晝夜の間もモスクヴァからの郵便に追ひ抜かれなかったことがある。つまり郵便が一週間以上も遲れてゐた譯で、まる一週間何かの事故に引き留められてゐたことになる。
 シベリヤの郵便夫は殉敎者だ。その負ふ十字架は重い。彼等は英雄だ。祖國が頑迷にも認めようとしない英雄だ。彼等ほどに勞働し自然と鬪ふ者は、他にはゐない。時には堪へられぬほどの苦勞も嘗める。しかも、 彼等が免職され解雇され罰金を課せられる度數は賞與を受ける度數に比して頗る頻繁だ。諸君は彼等の月給の額を知つてゐるだらうか。諸君は生涯に一度でも、 郵便夫が褒章を着けてゐるのを見たことカあるだらうか。「詮議に及ばす」と書く人達などより、 彼等はずっと有用かも知れぬ。だが見るがいい。彼等が諸君の前に出ると、どんなに怯えたち、どんなにおどおどしてゐるかを。……
 だが、やっと修繕が出來たと言って來た。これで先へ進める。
 「起き給へ」と、軍醫が毛皮帽を起す、「呪はれたコズ—リカなんか、 さっさと越してしまふのが一番だ。」
 「いや皆さん、 繪で見るほどに惡魔は怖くないと言ひましてね」と、 長髯の男が慰める、「なあに、コズーリカだって、他の宿場よりちつとも惡いことはありません。それにもし怖けりや二十二露里ぐらゐ步いたつて譯はありませんや。」
 「さう‘泥んこに陷りさへしなけりやね……」と、 書記が言ひ添へる。
 空が朝焼けけに染まりはじめる。寒い。立場たてばの構內を岀もせぬうちから、もう馭者が言ふ、 ――「何て道だね、やれやれ。」最初は村の中を行く。……車輪を沒するどろんこの泥道があるかと思ふと、 今度はからからな丘になる。かと思ふと粗朶や棧道を渡した卑濕地に出る。それもどろどろの糞を被ってゐるうへに、丸太が肋骨のやうに突き出て、渡るとき人間の魂は反轉し、馬車の前は摧ける。……
 だが村が盡きた。怖るべきコズ—リカに差し掛る。成る程ひどい道てはあるが、といつてマリインスクや例のチェルノレ—チェンスカヤあたりの道にくらべて、 別段惡いとも思へない。幅のひろい森の切通しかあってそれについて幅五間足らずの粘土と塵芥の堤が、ずつと續いてゐると想像して見給へ。これがつまり街道だ。この堤を横から眺めると、 樂器の蓋を外した胴みたいにオルガンの太い心棒が地上に突き出て見える。その兩側には溝がある。心棒の上には、深さ一尺以上もある辙の跡が何本も走り、またこれを橫切る夥しい轍がある。從って心棒全軆は一群の山脈狀を呈し、それなりにカズベック*もあればエリブルース*もある。山巔は乾いてゐて車輪に突き當るし、麓の方はまだ水をはねかす。よつぽど巧みな奇術師でもなければ、 この堤の上に馬車を平らに据ゑることは難しいだらう。先づ大抵、 馬車はまた慣れぬ諸君が「おい馭者 、引繰り返るぢやないか!」と、 思はす一分毎に怒鳴り出すやうな位置をとる。右側の車輪が二つとも深い轍に陷り込み左の車輪が山巔に突き立つかと思ふと、二つの車輪が泥濘にめり込み、第三の車輪は山巔に、第四は空に廻ってゐる。……馬車の位置が千變萬化するにつれて、諸君が頭を抱へたり横腹を抱へたり、四万八方へお辭儀をしたり舌を嚙んだりする傍では、トランクや箱が大騒動をして、互ひに重なり合つたり諸君の上に被さったりする。だが版者を見給へ。この輕業師は何と上手に馭者臺の上に坐ってゐることだ。
 もし誰かが私達を橫から眺めたら、 あれは馬車で行くのではない、氣が觸れたのだと言ふだらう。少し先の所で、 私達は堤から離れようと思ひ、 棧道を探しながら森の緣を辿った。だがそこにも轍があり、小山があり、肋骨があり、棧道がある。暫く行くと馭者は車を停めた。ちよつと考へてゐたが、やがて、さあ愈ヽ愚劣千萬なことをやりますぞと言ふやうな表情で力無く咳拂ひをすると、堤の方へ馬首を轉じていきなり溝へ乘り掛けた。物の爆ける音がする。前の車輪ががちやんと行き、次いで後の車輪もがちやんと行く。溝を越すのである。それから堤へ乘り上げるときも、 矢張りがちやがちやんと鳴る。馬から湯気が立つ。梶棒が裂ける。尻帯も頸圈も橫へずれてしまふ。……「ほうれ、大將」と、馭者は力一ぱい鞭を振りながら叫ぶ、「ほれさ、御兩人。ぼやぼやするなってば!」十步ほど馬車を引きずつたかと思ふと、馬は停つてしまふ。幾ら鞭をやらうが、喚かうが、今度は動かうともしない。仕方がない。また溝を乘り越えて堤を下りる。また抜道を探す。それからまた逡巡して、車を溝へ向ける。りがない。
 かうして乘って行くのは辛い。實に辛い。だが、 このみつともない痘痕あばただらけの地の帶、この黒痘痕が、ヨ— ロッパとシベリヤを繫ぐ殆ど唯一の動脈であるのを思ふ時、心は一層暗くなる。人々は一軆、 どの動脈を通ってシベリヤへ文明が流れ入ると言ふのか。如何にも、 彼等の喋々する所は實に多い。だがこれを若し、馭者なり郵便夫なり、それともヨーロッパ へ茶を送る荷車の列の傍で泥濘に膝まで潰かつて、びしよ濡れに泥を浴びてゐる農民なりが耳にしたとしたら、彼等のヨーロッパ及びその誠意に對する感槪は果してどんなものであらうか。
 序でに荷車の列を見て置き給へ。四十臺ほどの車が茶箱を積んで、 堤の上に續いてゐる。……。車輪は半ば轍の深みに隱れ、瘦馬が一齋に頸をのばす。……車の傍には運搬夫がついて行く。足を泥濘から引つこ抜いたり、 馬に力を借したりで、精も根もとつくに盡きてゐる。……列の一部が停ってしまった。どうしたのだ。一臺の車の輪が碎けたのだ。……いや、もう見ない方がいい。
 へとへとになった馭者や郵便夫や運搬夫や馬を、まだ嘲弄し足りないのか、誰やらの差圖で煉瓦の碎片かけらや石塊が道の兩側に盛り上げてある。これは、 間もなく道がもっと酷くなるぞといふことを、 瞬時も忘れさせぬためである。シベリヤ街道に沿ふ町や村には、道路修繕の名で月給を取る人間がゐるといふ。これが若し本當なら、どうそ修繕には及びませんと、月給を上げてやらなければなるまい。彼等の修繕に逢ふと道は益ヽ惡くなるばかりだから。百姓の話では、 コズーリカなどの道路修繕は次のやうにするのだといふ。六月の末から七月の初めにかけては、 この土地の「埃及のわざはひ*」として殼物につく蚊の盛んに發生する季節だが、 その頃になると人人を村から「驅り出し」て、指の間で擦り潰せる程からからな枯枝で、 乾いた轍や穴を埋めさせる。修理の仕苦は更か終るまで續く。すると雪が降って船醉ひを起させるほど搖リ上げ搖り下ろす世界無類の穴ぽこが、 道路一面に出來る。それから春の泥濘が來る。また修理が始まる。これが連年の行事である。
 トムスクの手術で或る評議貝と知合ひになって、 三二驛のあひだ一緖に行ったことがある。私達が、とあるユダヤ人の農家に坐って鱸のスープを食べてゐると百人頭がはいって來て、何處共處の道略がすつかり損じてゐるが‘そこの請負人が修理をしようともしないと、評議員に報告した。……
 「ここへ呼んで來い」と評議貝は命じた。
 暫くすると頭の毛のもぢやもぢやな小男の土百姓が、 顔を歪めて這人って來た評議員は威勢よく椅子を起つて、百姓めがけて突進した。……
 「この恥知らず奴。何だって道を修理せんのか」と彼は泣聲で呶鳴りはじめた。「道は通れん、 頸つ玉は折れる、 知事の報吿は飛ぶ、 何もかもこの俺の罪になる。ええ、この惡黨め。呪はれたこのへちゃむくれ奴。――それでいいと思ふか、ああん。何たる貴樣は穀潰しだ。明日はちゃんと通れるやうにして置け。明日引き返して來て、萬一まだ直ってゐなかつたら、 しやつ面ひん吳れるぞ。ちんばにして吳れるぞ。出て行け!」
 土百姓は眼をばちくりさせて、 汗だくになった。益ヽ歪んだ顏附をして、扉から消え失せた。評議員は卓子に歸って來ると、 坐るなりにやにや笑ってかう言った。――
 「左様、そりや勿論ペテルブルグやモスクヴァの後ぢや、 ここの女はお氣には召しますまい。だが、じっくりと捜して見れば、ここにだって娘はをりますで……」
 土百姓が明日までに間に合つたかどうか知りたいものだ。この短い間に一體何が出來るだらうか。シべリヤ街道にとって幸か不幸かは知らないが、評議員は長くその椅子にとどまらない。その交送は頻繁である。こんな話も聞いた。――ある新任の評議員が持場に着くや占や、百姓を驅り出して道の兩側に溝を掘らせた。その後を襲つた男がまた、前任者の奇行に負けまいと、百姓を驅り出して溝を埋めさせた。三人目は持場の道路に、.厚さ一尺餘の粘土を敷かせた。それから四人目、五人目、六人目、七人目も思ひ思ひに、せつせと蜜を蜂巢へ運んだ。……
 一年中を通じて道路は通行に適しない。春は泥海で、春は小山と穴と修理で、冬は陷し穴で。嘗てヴィーケリや、後れてはゴンチャローフの息の根をとめたと言はれる疾走は、今日では冬、雪の初路ででもなければ想像し得ぬところだ。現代の作家も、シベリヤを术ばす壯快さを書いてにゐる。だがこれは、苟もシベリヤに來て、よし空想でなりと疾走の壯快を味はないでは、 引つ込みがつかぬからである。……
 コズーリカが軸棒や車輪を毀さなくなる日を待つのは、空頼みも甚たしい。シベリヤの役人たちがその生涯に、道路が改善されるのを見たことがあらうか。この儘の方がお氣に召すらしい。ド平帳も通信記事も、シべリヤ族行者の批評も、修理に計上される金額と同様、道路には殆ど利目がない。……
 コズーリスカヤ驛に着いたときは、 もう日が高かった。道伴れには先へ行つて貰つて、 私は馬車の修繕に殘つた。

【注】
カズベック コ—カサスの高峯。氷のピラミッドをなし、高さ一萬六千五百呎。
エリブル—ス コーカサス主山脈め最高峯。東西の兩峯があって、ともに一萬八千呎を超える。
埃及の災 エホバが、十の災(血に化する水・蛙・蚤 蚋、獣疫、腫物、雷雹、蝗、暗黑、長子の死)をエジプトに降した說話。『出埃及記』第七章――第十二章。
ヴィーゲリ 『囘想錄』の著がある。(一七八七―一八五六)
ゴンチャローフ 『オブローモフ』の作者(一ハ一ニ―九一)が提督ブーチャチンの祕書として、海路遙々日本を訪問したのは一八五三年(嘉永六年)である。その翌年彼はシベリヤを橫斷して歸つた。

テキストの快楽(008)その3

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(06)


     

 ドゥブローヴィノで馬車が備へた。それで前進する。トムスクまであと四十五露里といふ所で、 今度はトム河が氾濫して牧地も道も水浸しだから、先へは行けないと言ふ。また舟で渡らなければならない。そこでも、クラースヌィ・ヤール のときと同じ目に逢った。舟は向ふ岸へ行ってゐるが、 かう風が强く波が高くては、とても戾っては來られない。……仕方がない、待たう。
 朝になると雪が降りだして、二寸以上も積った(それが五月十四日である)。ひる頃からは雨になって、すっかり雪を洗ひ流した。夕方、太陽が沈むころ岸に出て、こちらの岸へ漕ぎ渡って來る舟が水流と鬪ふ有樣を眺めてゐると、霙まじりの雨に變った。……そのとき、雪や寒氣とまるで合はない現象が起った。私ははつきりと雷鳴を聞いたのである。敝者たちは十字を切って、これで暖かになるといふ。
 舟は大きい。先づ八九十貫からの郵便物を積み、 それから私の荷物を積んで、濡れた筵ですっかり覆ふ。……郵便夫は背の高い老人で、梱の上に腰をかける。私は自分のトランクに腰をおろす。私の足もとには、雀斑だらけの小さな兵隊が席を占める。外套は搾るばかり、 軍帽から襟頸へ水が流れる。
 「神よ、祝福あれ。さあ綱を解け!」
 柳の叢林のほとりを流れに沿うて下る。今しがた十分ほど前に馬が二頭溺れ、荷車の上にゐた男の子だけは柳の藪につかまつてやっと助かった、と橈子たちが話してゐる。
 「漕げ、漕げ、みんな話はあとでも出來るぞお」と、舵取がいふ 、「頑張れよう。」
 川を掠めて、雷雨の前によくある早風はやてが颯々と吹く。……裸かの柳が水面に糜いてざわめく、忽ち川は暗くなり、不規則な波が立ちはじめた。……
 「みんな、藪の中へ向けろよう。風さやり過すだ」と楫取が靜かに言ふ。
 舳は柳の藪の方を向いた。が橈子の一人がそのとき、荒れ模樣になると夜通し藪の中にゐなければならなくなる、それでも矢張り溺れるのは同じことだから、先へ進まうぢやないかと言ひ出した。多數決できめることになって、 やはり先へ進むことにする。……川はますます暗くなる。烈しい風と雨が橫なぐりに吹きつナる。岸はまだまだ遠く、萬ーの場合には縋りつける筈の柳の藪は、後へ遠ざかつて行く ……長い生涯に色んな目に逢つて來た郵便夫は、默り込んで、凍りついたやうに身動きもしない。橈子たちも默ってゐる。……小さな兵隊の頸筋が、 見る見る紫色に變る。私の胸は重くなる。もし舟が顚覆したらと、 そればかり考へる。……先づ第ーに半外套を脫がう。それから上衣を、それから……。
 だが、岸が次第に近くなつて、橈子にも元氣が出てきた。沈んだ胸も次第に輕くなる。岸まであと三間半の上はないと分ると、 急にはればれして、もうこんな事を考へる。
 「さてさて臆病者は有難いものだ。ほんのちょつぴりした事で、これほど陽氣になれる。」

[注記]底本中の、ふりがなは、ruby タグを用いた。

テキストの快楽(007)その3

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(05)


     

 何といふ氾濫だらう!コルイヴァニでは驛馬車が出ないと斷られた。オビ河畔の牧地が水浸しでとても行けないといふ。郵便までが差止めてあつて、特別の指圖を仰いでゐる所だといふ。
 驛の書記は、 私に次のやうな道を取れと勸めて吳れた。自前の馭者を傭って先づヴィユンとか云ふ所へ行く。それからクラースヌイ・ヤールへ行く。クラースヌイ・ヤールで小舟に乘って十二露里行くと、ドナブローヴィノに出る。そこなら驛馬車が出る筈だといふ。で、敎へられた通りにする。先づヴィユンへ行き、それからクラースヌイ・ヤールへ出る。……そこでアンドレイといふ百姓の家に連れて行かれる。彼は舟を持ってゐるのだ。
 「はあ舟かね、舟はあるでさ」とアンドレイが言ふ。彼は亜麻色の鬚を生やした、五十歲ほどの瘦せた百姓である。――「舟はあるでさ。今朝がた早く、議員さんとこの祕書の人をドゥブローヴィノへ乘せて行きましたが、追っつけ戾りましよ。ま、待つ間に茶なりと召上れ。」
 お茶を飲んで、 それから羽根蒲圍と枕の山に攀ぢ登る。……目が覺めるたびに舟のことを訊く。――まだ歸って來ない。寒くないやうにと、女房たちが座敷の煖爐を焚いて、序でに皆でパンを焼く。座敷の中が暑いほどになり、パンはすっかり燒け上ったが、舟はまだ歸らない。
 「とんだ野郎に漕がせてやりましただ」と,主が頭を振り振り歎息する、「まるで女みたいに愚圖な奴で、 風が怖くて船が出せんと見えます。まあ御覽なされ、吹くこともえらう吹きますわい。もう一杯茶なりと上りなされ。さぞ退屈でがせう。……」
 ぼろぼろの羅紗外套を着た跣足の馬鹿が一人、雨にぐしょ濡れになって、 薪や水桶を入口の檐下に引摺り込んでゐる。彼はひっきりなしに座敷の私の方を盜み見する。櫛を入れたこともなささうなもぢやもぢやの頭を覗かせて、何か早口に言ふかと思ふと、犢のやうにもうと唸ってまた隱れる。そのびしょ濡れの顔や瞬かぬ眼を眺め、 その聲を聞いてゐると、自分までが間もなく何か馬鹿なことでも言ひ出しさうな氣がする。
 晝過ぎになると亭主のところへ、とても背の高いひどく肥った百姓がやつて來た。幅のひろい頸筋はまるで牡牛のやうで、大きな握り拳をしてゐる。どうやら脂肪ぶとりのロシヤの酒場男に似てゐる。ピヨ —トル・ペトローヴィチと呼ばれるこの男は隣村の住人で、弟と一緒に五十頭の馬を持ってゐる。自前の馭者をしたり、宿場の卜ロイ力を請負ったり、百姓をしたり、家击の賣買をしたりしてゐるが、今日は商用でコルィヴァ二まで行くのだといふ。
 「旦那は,ロシヤからですか」と彼が私にきく。
 「左樣。」
 「一ぺんも行ったことがないでさ。この邊ぢやトムスクへ行つて來ただけでも、まるで世界じゆう廻って來でもしたやうな顏をしてゐまさ。新聞で見ると、 もうぢき此處まで鐵道が敷るそうですが。旦那、そりやー體どういふ工合のものですかね 機械が蒸氣で動く――ここまではよく分ります。たが、 假にまあ村を通ることになつたとすると、百姓家を壊したり人間を壓し潰したりはしませんかね。
 で說明してやると、謹聽しながら時々「へえ、そんなもんですか」といふ。話してゐるうちに、この脂肪ぶとりの男はトムスク へもイルクーツクへもイルビートへも行ったことがあり、女房持ちではなく、獨學で讀み書きを覺えたことが分った。トムスクへしか行ったことのない亭主に對しては一種鷹揚に構くて、厭々なかん聽いてやるのだといった風を見せる。何かお撮みなさいとか、ひとつ如何ですなどといはれると、「いやお構ひなく」と慇懃に答へる。
 亭主と客がお茶の卓に坐る。この家の嫁と見える若い女方が、お茶を盆にのせて出し恭ゝしくお辭儀をする。二人は茶碗を取って默つて飲む。傍の暖爐のほとりにサモヴァルが沸ってゐる。私はまた羽根蒲團と枕の山に攀ぢ登り、横になって本を讀む。それから下に降りて書く。長い長い時が過ぎる。が若い女房は相變らすお辭儀をして、 亭主と客は相變らずお茶を飮んでゐる。
 「ベ、バア」と、表の檐下で馬鹿が叫ぶ’。「 メ、マア!」
 だが舟は歸らない。外は暗くなり、座敷には牛蠟がともされる。ヒョートル・ペ眺め、 その聲を聞いてゐると、自分までが間もなく何か馬鹿なことでも言ひ出しさうな氣がする。
 晝過ぎになると亭主のところへ、とても背の高いひどく肥った百姓がやつて來た。幅のひろい頸筋はまるで牡牛のやうで、大きな握り拳をしてゐる。どうやら脂肪ぶとりのロシヤの酒場男に似てゐる。ピヨ —トル・ペトローヴィチと呼ばれるこの男は隣村の住人で、弟と一緒に五十頭の馬を持ってゐる。自前の馭者をしたり、宿場の卜ロイ力を請負ったり、百姓をしたり、家击の賣買をしたりしてゐるが、今日は商用でコルィヴァ二まで行くのだといふ。
 「旦那は,ロシヤからですか」と彼が私にきく。
 「左樣。」
 「一ぺんも行ったことがないでさ。この邊ぢやトムスクへ行つて來ただけでも、まるで世界じゆう廻って來でもしたやうな顏をしてゐまさ。新聞で見ると、 もうぢき此處まで鐵道が敷るそうですが。旦那、そりやー體どういふ工合のものですかね 機械が蒸氣で動く――ここまではよく分ります。たが、 假にまあ村を通ることになつたとすると、百姓家を壊したり人間を壓し潰したりはしませんかね。
 で說明してやると、謹聽しながら時々「へえ、そんなもんですか」といふ。話してゐるうちに、この脂肪ぶとりの男はトムスク へもイルクーツクへもイルビートへも行ったことがあり、女房持ちではなく、獨學で讀み書きを覺えたことが分った。トムスクへしか行ったことのない亭主に對しては一種鷹揚に構くて、厭々なかん聽いてやるのだといった風を見せる。何かお撮みなさいとか、ひとつ如何ですなどといはれると、「いやお構ひなく」と慇懃に答へる。
 亭主と客がお茶の卓に坐る。この家の嫁と見える若い女方が、お茶を盆にのせて出し恭ゝしくお辭儀をする。二人は茶碗を取って默つて飲む。傍の暖爐のほとりにサモヴァルが沸ってゐる。私はまた羽根蒲團と枕の山に攀ぢ登り、横になって本を讀む。それから下に降りて書く。長い長い時が過ぎる。が若い女房は相變らすお辭儀をして、 亭主と客は相變らずお茶を飮んでゐる。
 「ベ、バア」と、表の檐下で馬鹿が叫ぶ’。「 メ、マア!」
 だが舟は歸らない。外は暗くなり、座敷には牛蠟がともされる。ヒョートル・ペトロー ヴィチは、私が何用で何處へ行くのか、 戰爭は本當にあるのか、私のピストルは幾らするのかなどとしきりに訊いてゐたが、流石の彼ももう喋り疲れたらしい。
 默って食卓に頰杖をついて、何やら考へ込んでしまつた。蠟燭が燃えくづれてしんになつた。扉が音もなく開いて、馬鹿がはいって來て横に腰かけた。腕は肩まで裸かになってゐる。瘠せ細って、まるでステッキみたいな腕だ。腰をおろして蠟燭にじっと見入つた。
 「出てけ、出て行けつたら」と亭主が言ふ。
 「メ、マア」と彼は唸ると、腰を跼めて-表へ出て行った、「ベ、バア。」
 雨が窓硝子を打ってゐる。……亭主と容は鴨のス—ブを食べはじめた。二人とも食べたくはないのだが、 退屈凌ぎに食べてゐる。……それが濟むと若い女房か羽根蒲團や枕をゆかに敷く。亭主と客が着物をぬいで、並んで橫になる。
 何といふ退屈さだらう。氣を粉らさうと、 生れ故鄕のことを考へて見る。そこはもう春だ、冷たい雨が窓を打ちはらない。だがそのとき、灰色の沈滯した無為の生活が、意地惡く思ひ出されて來る。あすこでも矢張り蠟燭は崩れてしんになり、 人々が矢張,「メ、マア。ベ、バア……」と叫んでゐるやうに思はれる。引返す氣はしない。
 毛皮の半外套を自分で床に敷き、 橫になって枕許に蠟燭を立てる。ヒョ—トル・ペトローヴィチが首をもたげ.て、私の方を見てゐる。
 「旦那、私はかう思ふんですがね……」と彼は亭主に聞えぬやうに小聲でいふ、「シベリヤの人間は無學で不運な奴ら・たとね。半外套だの捺染更紗だの瀬戸’物だの釘だのと、ロシヤからはどんどん送って來るんですがね、奴等と來たらまるで能なしなんです。地面を耕すことと、自前馭者でもするほかには、 何一つしやしません。……魚ひとつ漁れないんですからね。退屈な人間どもですよ。まったく堪らないほど退屈な奴等でさ。奴等と一緖に暮らしてゐると、 際限なく、 肥って來ます。魂や智慧の足しになるものと來たら、 これつぱかりもありませんや 憐れ憫然たる次第ですよ。それでゐて一人一人を見るとみんな相當な人間で、氣立は柔しいし、盜みをするではなし、喧嘩を吹掛けるぢやなし、大して酒飮みでもありません。人間ぢやなくて、まあきんみたいな連中です。ところが見てゐると、世の中のためには何ひとっせず、 一文の値打もないくたばりやうをするんです。まるで蠅か、 さもなけりや蚊みたいなもので。一體何のために生きゐるのかつて、 ためしに訊いて御覽なさい。」
 「働いて食べて着てさへゐれば」と私が言ふ、「その上に何が要るかね。」
 「やっぱり人間てものは、どういふ必耍があって生きてるか知ってゐなけりなりますまい。ロシヤの人間はきっと知ってゐるでせう。」
 「いいや、知らずにゐる。」
 「そんな筈はない」と、ピョートル・ペトローヴィチは少し考へてから言った、「人間は馬ぢやありません。ざっと申せば、このシベリヤの土地には、『道』といふものがないのです。よしんば何かそんなものがあつたにしても、とうの昔に凍つてしまったのです。人間といふのは、 二の『道』を求めなければならないのです。私は金も勢力もある百姓です。評議員にも押しが利きます。ここにゐる亭を明日にも酷い目に逢はせることだつて出來ます。この男を私のところで牢死させ、 子供たちに乞食をさせることだつて出來ます。さうしたところで私には何の咎めもなくこの男こは可の保護も與へられますまい。つまり、『道』も知らずに生きてゐるからです。……私らが人間だといふことは 、お寺の出生簿に書いてあるだけです。ピョ—トルだ、 アンドレイだといって、その實は狼なんです。それとも神樣の眼から見たら。これは笑ひ事ではありません。 怖ろしい事です。ところがこの亭主は横になつて、額に三度十字を切ると、それでもういい氣でゐます。 甘い汁を吸って、小金を蓄め込んで、ひよつとしたらもう八百ぐらゐは蓄まってゐるでせうが、 まだ齷齪と新しい馬を買ひ足して、ー體それが何になるのか自分の心に訊いて見たことが一度だつてあるでせうか。あの世へ持つて行けはしませんからね。いや、よしんばそんな疑問を起して見たにしても、とても分るものですか。頭が空っぽなんで。」
 ピョートル・ペトローヴィチは長いこと喋つてゐた。……だがそれもやつと濟んだ もう白々と明けかけて、鷄の鳴く聲がする。
 「メ、マア」と馬鹿が唸る、「ベ、バア。」
 だが舟はまだ歸らない。

テキストの快楽(006)その2

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(04)


 身を切るやうな寒い風が吹き出した。たうとう雨になって 、それが夜晝ぶつ通しに降りつづく。イルトィシ河までもう十八露里の所で、例の自前馭者から私を引繼いだフョードル・ハーヴロヴィチといふ百姓が、 これより先へは行けないと言ひ出した。豪雨のためイルトィシ河畔の牧地が、すっかり水浸しなのだといふ。昨日プストィンスコ工村からやって來たクジマも危く馬を溺れさせるところだった、待たなきゃならねえ。
 「何時まで待つのかね」と私が訊く。
 「そいつあ分らねえ。神樣にでも尋ねなされ。」
 百姓小屋へはいる。座敷には赤い上シャッを着た老人が坐ってゐて、苦しげに息をついては咳をする。ドーフル氏散をやると大分鎭まった。しかし彼は藥を信用しない。樂になったのは「辛抱してじっとしてゐた」お蔭だといふ。
 坐り込んで考へる。今夜はここに泊ったものかしら。だがこの老人は夜通し咳をするだらうし、恐らく南京蟲もゐるだらう。それに明日になったら、益ゝ水嵩が增さぬものでもあるまい。いやこれは、いっそ出發した方が利口だ。
 「やっぱり出掛けるとしよう、フヨードル・パーヴロヴィチ」と私は亭主に言ふ、「とても待つちやゐられないからな。」
 「そりゃ旦那の宣しいやうに」と彼は大人しく應じる、「水ん中で泊ることにならにゃいいが。」
 で、出發する。雨はただの降りやうではない。所謂土砂降りである。私の乘つてゐる旅行馬車には屋根がない。はじめの八露里ほどは泥濘の道を、それでもだくを踏ませて行つた。
 「こりやまあ、えらい天氣だ」と、フョードル・ハーヴロヴィチが言ふ、「本當をいふと長いこと河へは行って見ねえで、水出もどんなだか知らずにゐましただ。そこへもって來てクジマの奴が、ひどく威すもんで。いや何とか行き通せねえでもなささうだ。」
 だがそのとき、 一面の大きな湖が眼の前にひろがる。それは水につかつた牧地だ。風がその上をさまよひ嘆き、 大きなうねりを立てる。そこここに小島や、 まだ水に浸らぬ地面の帶が頭を出してゐる。道の方角は橋や沼地に渡した粗朶道でわづかに知られるが、それも皆ふやけて脹れ返り大抵は元の場所からずれてゐる。湖の遙か彼方には、 褐色の見るからに暗澹たるイルトィシの岸が連なり、 そのうへに灰色の雨雲が重く垂れてゐる。岸のところどころに斑ら雪が白い。
 湖にさしかかる。大して深くはなく、車輪も水に浸ること凡そ六寸に過ぎない。橋さへなかったら割合に樂に行けたかと思はれる。橋の手前では必らず馬車を降りて、 泥濘か水の中に立たされる。橋を渡るには、先づその上に打上げられてゐる板や木片を集めて、浮き上った端の下にはなければならぬ。馬は一匹づつ離して渡らせる。フョードル、ハーヴロヴィチが馬をはづす役で、 はづした馬をしっかり抑へてゐるのが私の役目である。冷たい泥だらけの手綱を握ってゐると、强情な馬が後戻りをしたがる。着物は風に剥がれさうだし、雨は痛いほどに顏を打つ。仕方がない、引返すか。――だがフョードル・パーヴロヴィチは默って何も言はない。私の方から言ひ出すのを待ってゐるらしい。私も默ってゐる。
 强襲で第一の術を陷れる それから第二の橋、第三の橋と。……ある所では泥濘に足をとられてすんでのことで轉ぶところだった。またある場所では馬が强情を張って動かなくなり、頭上を舞ふ野鴨や剛がそれを見て笑った。フョードル・ハーヴヴィチの顔附や、その悠々として迫らぬ動作や、また落着き拂った沈默振りから推すと、こんな目に逢ふのは初めてではないらしい。それどころかもっと酷い目に逢ふのも珍しいことではないらしく、出口のない泥濘や水浸しの道や冷たい雨などは、夙の昔に平氣になってゐると見える。彼の生活も並大抵ではないのだ。
 やっと小島に辿りつく。そこに屋根無しの小屋がある。びしょ濡れの糞の傍を、びしょ濡れの馬が二匹步いてゐる。フョードル・パーヴ口ヴィチの呼聲に應じて、小屋の中から鬚もぢやの百姓が手に枯枝を持って現はれ、道案內に立って吳れる。この男が枯枝で深い場所や地面を測りながら、默って先に立って行くあとから、私達もついて行く。彼が私達を導くのは、細長い地面の帶の上である。つまり、所謂「山背」づたひに行くのである。この山背を行きなされ。それが盡きたら左に折れそれから右に折れると、別の山背に出ます。これはずっと渡船場まで續いてゐますぢや、と言ふ。
 あたりにタ闇が迫って來る。野鴨も鷗も居なくなつた。鬚もぢやの百姓も、私達に道を敎へて置いて、 もうとうに歸ってしまった。第一の山背が尽き、また水の中に揉まれなから左に折れ、それから右に折れる。するとなるほど第二の山背に出る。これは河の岸まで續いてゐる。
 イルトィシは大きな河だ。もしエルマク*が氾濫のときこの河を渡ったのだったら、鏈帷子くさりかたびらは着てゐないでも溺れ死んだに違ひない。對岸は高い斷崖をなして、まるで不毛である。その向ふに谷が見える。フョードル・パーヴロヴィチの話では、私の目的地であるブストィンノエ村*に出る道は、この谷聞に泻って山を越えるのだといふ。こちらの岸はなだらかな斜面で、水面を拔くこと二尺あまりに過ぎない。やはり秃山で、風爾に曝されたその姿は見るからにせり辷りさうだ。濁った波のうねりが白い齒を剝き出して、さも憎らしげに捧を打つては直ぐ後へ退く。その有様は、打見たところ蟾蜍ひきがへるか大罪人の怨靈ぐらゐしか住むとも思はれぬこの醜いつるつるの岸に觸るのも汚らはしいといつた風である。イルトィシの河音はざわめくのではない。また吼えるのでもない。その底に沈んだ棺桶を、片端から叩いて行くやうな音を立てる。咒はれた印象だ。
 渡守の小屋へ乘りつける。小屋から出て來た一人が言ふ。――この荒れ模様ぢやとても渡れませんや。まあ明日の朝まで待ちなされ。
 で.そこに泊ることになる。夜通し私は聞く――船頭たちや馭者の鼾を、 窓をうつ雨の音を、風の唸りを、それから怒ったイルトィシが、 棺桶を叩いてゐる音を。……翌る朝早く岸に出る。雨は相變らず降ってゐるが、風は稍ゝ收まった。けれど渡船ではとても渡れない。少さな舟で渡ることになる。
 ここの渡船の仕事は、自作農の組合の手で營んでゐる。從って船頭の中には一人の流刑囚もなく、皆この土地の人間である。親切な善良な人間ばかりだつた。向ふ岸に渡って、馬の待ってゐる道へ出ようとつるつる辷る丘を攀ぢ登って一行く私の後から、彼等は口々に道中の無事と、健康と、それから成功とを祈って哭れた。……が、イルトィシは怒ってゐる。……

[注]
*エルマク ドン・コサックの首長。十六世紀後半寡兵を以てウラルを越えシベリヤに侵入して、イルトィシ河までの範圖を確立した。
*ストィンノエ村 「不毛の村」の義。

読書ざんまいよせい(062)

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(03)

       三

 チュメーンからトムスクまでの間には、シベリヤ街道に沿つて一つの小村も部落もない。あるのは大村ばかりで、それが二十乃至二十五露里、時には四十露里もの間隔を置いてゐる。この土地に莊園が見られないのは、つまり地主がゐないからである。工場も水車場も、旅籠も見られない。……沿道で人の住む氣配のするものと言へば、風に唸る電線と里程標ぐらゐなものである。
 村には必らず敎會がある。時によると二つもある。學校もまづ村每にあるらしい。百姓小屋には一軒ごとに掠鳥の巢箱があつて、それも垣根とか白樺の梢とかの、手のとどきさうな低い所に置いてある。掠鳥を可愛がるのはこの土地の風習で、これには猫も手を出さない。庭といふものはない。
 寒さのびりびりする夜を乘り通して、明け方の五時に、自前馭者の家の座敷に坐つてお茶を飮む。その座敷といふのは廣々とした明るい部屋で、飾りつけなどは、クールスクやモスクヴァあたりの百姓の夢想だも及ばぬほどに立派である。淸潔なことは驚くぱかりで、塵ひとつ汚點ひとつない。塵は白塗り、ゆかは必らず板張で、それをペンキで塗るか、または色模様の粗麻布を敷きつめるかしてある。卓子が二脚、長椅子がー脚、 それに椅子、食器棚、 窓の上には鉢植もある。一隅には寢臺があつて、羽根蒲團や赤い被ひを掛けた枕などが、その上に山を築いてゐる。この山に登るには椅子を臺にしなければ駄目だ。そして寢ると、身體は浪の底に沈み込む。シベリヤの人はふつくらした寢床が好きなのだ。
 隅の聖像を中心に、兩側には繪雙紙が貼りつらねてある。皇帝の肖像がかならず幾通りかあつて、それからゲオルギイ・ポベドノーセッツ*、「ヨーロッパの諸君主」(その中にはどうした譯か、ペルシャの王樣までが見受けられるーー)、績いてラテン語やドイツ語で題銘のはいつた聖徒の畫像、 バッテンベルグ公*やスコベレフ*の半身像、それからまた聖徒の像。……壁の裝飾にはボンボンの包紙や、火酒ヴオトカのレッテル卷煙草から剝いだペーパーまで使つてある。この貧相な飾りは、堂々たる寝臺や色塗りの肘とまるでそぐはない。だがどうも仕樣がないのだ。藝術の需要は旺盛なのだが、藝術家の方で現はれて來ないのだから。扉を見たまへ。それには靑い花と赤い花の咲いた木が描いてある。何やら鳥もとまつてゐるが、どうも烏よりは魚に似てゐる。木は壷から生えてゐる。その壷によつて見ると、これを描いたのはヨーロッパ人ーーつまり追放者に違ひないことが分る。天井の環形も煖爐の飾りも、同じく追放者がたくつたものだ。いかにも不細工な繪ではあるが、この邊の百姓にはこれだけの腕前もないのだ。九ケ月のあひだ、拇指だけ別になつた手袋をはめたなりで、 指を一本一本伸ばす暇もない。やれ零下四十度の酷寒、やれ牧場が二十露里も水浸しになつた。——さうして短い夏が來ると、一時に疲れが出て肩は張る、筋は拘攣つれる。こんな風ではどうして繪なんかやつてゐる暇があらうか。彼等が畫家でも音樂家でも歌手でもないのは、 年ぢゆう自然との猛烈な鬪爭に追はれてゐるからだ。村で手風琴の音のすることも滅多にないし、また馭者が唄ひ出すのを待つてゐたら、なほさら馬鹿を見る。
注]
*ゲオルギイ・ポベドノーセッツ 希臘神話の農事の神から轉化したと推測されるキリスト敎の聖者の一人。ロシヤでは家畜の保護者の性質を帶びてゐる。畫像としては、槍を以て龍を突く騎士の姿であらはされる。
*バッテンペルグ公 初代のブルガリヤ公アレクサンドル(在位一八七九――八六)。口シヤ政府の意に抗つて憲法を制定し、ルーマニヤ、セルビャと戦つて勝つた。
*スコベレフ ロシヤの有名な將軍(一八四三――八二)。七七・八年の露土戰爭をはじめ赫々たる武勲が多い。
 あけつぱなしの扉から、 廊下ごしに別の部屋が見える。板敷の明るい部屋である。そこでは仕事の眞最中だ。お主婦さんは、年のころ二十五ほどのひょろ長い女だが、いかにも人の善ささうな柔和な顏をして、 卓子のうへの揑粉を揑ねてゐる。眼にも胸にも兩手にもきらきらと朝日が當つて、まるで揑粉を日光と揑ね混ぜてゐるやうだ。亭主の妹らしい娘がブリン*を燒き、屠殺したての仔豚を料理女が茹でる。亭主はフェルト惺靴の製作に餘念もない。何もしないのは老人だけだ。婆さんは兩足をぶらさげて煖爐ペチカに腰かけ、溜息まじりに呻いてゐる。爺さんは咳をしながら煖爐のうへのとこに寝てゐたが、 私の姿を見るとのこのこ這ひ下りて、 廊下を越して座敷へはいつて來た。世間話がしたいのだ。……今年の春は相憎と近來にない寒さでしてと、先づそこからロを切る。やれやれ明日はもうニコラ様*で、 明後日はまた耶蘇昇天節だといふに、 咋夜も雪が降りをつて、 村の往還ぢやどこかの女子おなごが凍え死にましてな。家畜どもは餌がないので細くなりますし、犢なんぞはこの寒さで腹を下します。……それから今度は私に向ひ、どこから何處へ何の用でつつ走りなさる、 奧さんはおありか、 女子供はもうぢきにいくさがあると噂しよりますが、 あれは本當でせうかなどと尋ねた。
注]
*プリン 英米で朝食に供する本來の意味でのパンケーキに似てゐる。
*ニコラ樣 「ニコラの日」の意。露曆五月九日を指す。「ニコラ様が濟んだら冬を讃へよ」といふ諺がある。
 子供の泣聲がする。それでやつと、寝臺と煖爐のまん中に小さな搖籃が吊つてあるのに氣がついた。お主婦さんは揑粉を抛り出して、こつちの部屋へ駆け込んで來る。
 「ねえ商人の旦那、 ひよんな事がありますもので」と、彼女は搖籃をゆりながら、柔和な笑顏を私に向ける、「二た月ほど前、 オムスクから赤ん坊を抱へた町人女が來て泊り込みました。……しやんとした身裝みなりをしとりましたが。……何でもチュカリンスクでその兒を生み落して、洗禮もそこでして來たとか申しました。產後のせいか道中で加減が惡くなりましてね、私方のこれニの部屋に寢かせてやりました。亭主持ちだと言つとりましたが、なに分りは致しません。顏に書いてあるぢやなし、旅行券も持つちやをりませんもの。赤ん坊だつてきつと父親てておやの知れない…」
 「餘計なことまでほざきをる」と爺さんが呟く。
 「來てから一週間ほどしますと」とお主婦さんは續ける、「かう申すのです、――『オムスクへ行つてやどに會つて來ますわ。サーシャは置いといて下さいな。一週間したら貰ひに來ますから。連れて行つて道中で凍え死なしちや大變ですものね。……』そこで、 私はかう申しました、――『ねえ奧さん、世の中にや十人十二人と子供を授かる人もあるのに、家のも私も罰あたりでまだ一人も授からないんです。物は相談だが、サーシャ坊をこのまま私らに貰へませんかね。』すると暫く考へとり
ましたが、やがて、『でもちょいと待つてドさいな。夫に相談して見て、一週間したら手紙でお返事しませう。さあ、やどが何と言ひますか。』 でサーシャを置いて出て行きましたが、 それつきりもう二た月にもなるのに、姿も見せず手紙も來やしません。とんだ喰はせもので。サーシャは親身になつて可愛がつてやりましたが、今ぢや家の子やら他人ひとの子やら、さつぱり分りませんです。」
 「その女に手紙を出すんだね」と私は智慧を貸した。
 「なるほど、 旦那の仰しやる通りだ」と、亭主が廊下から言ふ。
 彼は這入つて來て、私の顏を默つて見てゐる。まだ何か智慧の出さうな顏附だと見える。
 「そんなこと言つたつて、出せるものかね」とお主婦さんが言ふ、「苗字も言はずに出て行つたもの。マリヤ・ペトローヴナ、それつきりさね。オムスクの町はお前さん廣いからね。とても分りつこないさ。雲をつかむやうなもんで。」
 「なるほどな、 そいつは分らねえ」と亭主は相槌をうつて,また私の顏を見る。まるで『旦那、何とかなりませんか』とでも言ふやうだ。
 「折角これまで馴れつこになつたものを」と、お主婦さんは乳首をふくませながら言ふ、「夜晝なしに泣聲が聞えると、違つた氣持になるぢやないか。この小屋までが見違へるやうになるぢやないか。それを、明日にもあの女が戾つて來て連れて行くかと思ふと、一寸先は闇で……」
 お主婦さんの眼は眞赤になつて、淚が一ぱい溜つた。そして急ぎ足で部屋を出て行つた。亭主はその後姿へ顎をしやくてて、薄笑ひを浮べて言ふ。――
 「馴れつこになつただと……へん、不憫になりやがつた癖に。」
 さう言ふ自分も馴れつこになつて、 やはり不憫になつて來てゐるのだが、男としてそれを白狀するのは極りが惡いと見える。 ,
 何といふ心善い人のだ。お茶を飮みながらサーシャの話を聞いてゐるあひだ、私の荷物は外の馬車に積みつぱなしにしてある。ああして置いてられはしまいかと尋ねると、彼等は笑つてかう答へる。――
 「誰が盜むものかね。よる夜中だつて盜みやしねえでさ。」
 事實、旅行者が盜難に逢つた噂は、道申絶えて.耳にしなかつた。その點では、この土地の風俗は醇朴を極め、一種善良な傳習を守つてゐると言ひうる。たとひ馬車の中に財布を落したとしても、拾つた馭者が自前の馭者なら、中も改めすに返しに來ることは疑ふ餘地がない。驛馬車にはあまり乘らなかつたので、その方の馭者の事はほんの一例しか舉げられないが、宿場で待つ間の退屈凌ぎに手に取つて見た不平帳では、盜難の訴へはただー件しか眼につかなかつた。旅人の長靴を入れた袋が紛失したのである。しかも袋は間もなく見附かつて持主の手に歸つたから、 當局の裁決が示してゐるやうに、この訴へは結局「詮議に及ばず」なのだ。更に迫剝事件になると、噂話にも上らぬほどである。まるであつた例しがないのだ。ここに來る途中で散々に威かされた例の破落戶ごろつきにしても、旅行者にとつては兎や鴨ほどにも害はないのださうだ。
 お茶には、小麥粉のブリンや、凝乳と卵の入つた揚饅頭や、小さな燒菓子や、角形つのがたパンの揚物などが出た。プリンは薄くつて、厭に脂つこい。角形パンになるとその味ひも色合も、 どうやらタガンログ*やドン・ロストフ邊のいちでウクライナ人の賣つてゐる、 あの黃色い孔だらけの環形ラスクを思はせる。シベリヤ街道に沿つては到るところ、パンの燒き方が非常にうまい。每日、 大量に燒くからであらう。小麥粉の値段は安く、四貫目で三四十銭位なものだ。
注]
*タガンログ ロストフに近く、アゾフ海に臨む港町。チェーホフは此の町で生れた。
 だが、パンの揚物だけでは腹の蟲は收まらない。そこで晝食に何か料理を頼むとすると、 出るものとい へば、 何處でも必らず「鴨のスープ」に極つてゐる。このス—プには手が附けられない。どろどろに濁つた液體のなかを、野鴨の肉片だけならまだしも、中身も碌に洗つてない臓物までが泳いでゐる始末である。まるで美味うまくはないし、見ただけでも胸がむかつく。どの百姓小屋を覗いても、獵の獲物が貯へてある。シベリヤでは狩獵の法律などはまるで行はれず、一年ぢゆうぶつ通しに小鳥を射つ。しかしどれだけ射つたにしても、野禽の盡きる心配はまづあるまい。チュメーンからトムスクに至る千五百露里の間に野禽の群は夥しいが、使へる鐵砲は一挺だつてないし、飛ぶ鳥の射落せる獵人は百人に一人位なものであらう。鴨を捕るときには、.普通は沼泥の現はれた所やびしょびしょの草の上に腹這ひになつて、大人しく坐つてゐるのだけを狙つて射つ。そのうへ彼等の立派な鐵砲は五度やそこら引金を引いたのぢや中々彈丸たまが飛び出さないし、いざ發射すると肩や頰にひどい反動が來る。幸ひに獲物に當つたにしても、それから先がまた一苦勞である。長靴と上股引をぬいで、冷たい水の中を這ふやうにして行く。この土地には獵犬がゐないのである。

読書ざんまいよせい(059)

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(02)

       二

 アバツコエといふ大きな村(チュメーンを距る三百七十五露里)を、五月六日の前夜おそく發ったとき、 馭者になつたのは六十がらみの老人だった。馬を附けようといふ間際になって、彼は蒸風呂ですつかり汗を出したうへ吸瓢すいふくべを使って血を取つた。何故血を取るのかと訊くと、腰が痛むからと答へる。年に似合はぬ元氣な老人で、身體もなかなかよく動くのだが、 さう言へば步き工合がどうもをかしい。脊髓癆だと見える。
 背の高い無蓋の旅行馬車に乘り込む。二頭立である。老人が鞭を振って何やら叫ぶ。しかし昔のやうには聲も出ず、まるでエヂプト鳩みたいにゴロゴロいふだけだ。
 道の兩側にも遙かの地平線にも、蛇のやうに這ひながら燃える火がある。去年の草が燃えるのだ。わざわざそれを燃すのがこの土地の習慣だといふ。が乾き切ってゐるため燃えが惡く,炎の蛇は所々れたり、消えたかと思ふとまた燃え上ったりして、悠々と這ひ廻るのである。火叢からは火の粉が散る。上の方には白い煙が昇る。火が急に小高い叢に燃えつく時は實に美しい。炎の柱が地上七尺ほどにも伸びて、 大きな煙の塊りを天へ投げあげるかと思ふと、まるで地心に沈み込みでもするやうに、直ぐまた崩れ落ちる。その蛇が白樺の林へ這ひ込むときは、 また一段と美しい。林一面にばつと明るくなって、白い幹が一本一本はっきりと見え、樹立の落す影に明るい班紋が入り亂れる。このイルミネーションを見ると、 何か不安な氣持がして來る。
 向ふから驀地に凍りついた凸凹道をがらがら云はせながら、郵便の三頭立トロイカが駆けて來る。老人が周章てて馬首を右へ轉じると、重さうな巨きな圖黑をした郵便馬車が飛ぶやうにすれ違ふ。歸りを急ぐ馭者が乘つてゐるのだ。また別の馬車の音が聞えて來る。見ると卜ロイカがもうー臺、全速力で向ふから突進して來る。私達の方は急いで右へ避けたが、意外千萬にもトロイカの方は何故か右へは避けずに左へそれて、 眞向ふから飛びかかって來る。ああ、 ぶつかるぞ、 と思ふ間もあらばこそ、たちまち轟然たる音を發して、こちらの二頭も郵便馬車の三頭も眞黑な塊りに化してしまつた。旅行馬車は後足で突立ち上り、 地面に抛り出された私の上からは、ありつたけのトランクの包みが。……茫然自失の態で、そのまま地而に轉がってゐると、又もや三臺目のトロイカの疾驅する響が聞え出す。『さあ』と私は考へる、『今度こそはお陀佛だ。』だが有難いことに負傷は大したこともなく、手も足も折れてゐないので、私は地面から起きあがれる。跳び起きるが早いか道傍へ駆け出して、吾ながら奇妙な聲で喚き立てる。――
 「とまれ、とまれよう。」
 空つぽと見た郵便馬車の中から、むくむくと人影が起き上り、 手綱の方へ手をのばす。そして三臺目のトロイカは、私の荷物をかすめて危く停る。
 二分間ほどは沈默のうちに過ぎる。まるで狐につままれたやうな形で、ー體何が持ち上ったのやらさっぱり分らない。梶棒は折れ、馬具は裂け、鈴をつけた頸圏くびわが地面に散らばり、馬は苦しげに息を吐く。馬もやはり茫然としてゐるらしく、どうやら傷も重いらしい。老人はうんうん唸り、 溜息をつきながら起きあがる.。先に行つた二臺のトロイカが引返して來た。そのうちに四臺目のトロイカが來、さらに五臺目が來る。……
 それから猛烈な罵詈雜言がはじまる。
 「瘡でも出來でかせ!」と衝突した馭者がわめく、「その口に瘡さ搔け! 眼はどこへ附けとるだ、 この老耄れめが。」
 「どっちが惡いだ」と老人は泣聲でわめく.、「手前が惡いくせして、ぽんぽん言ひくさる。
 その悪口の言ひ合ひから僅かに推察し得たところによると、衝突の原因はかうであつた。郵便を運んだ歸りのトロイカが五臺、 アバツコ工を指して行く。規則では歸りの車は緩くり走らせることになってゐるのだが、先頭の馭者が退屈ではあり、また一刻も早く暖かい思ひがしたいので全速力を出した。ところが續く四臺の馭者はみな寢込んでゐて、誰も手綱を取る者がない。つまり殘りの四臺は、馬が全速力でー臺目を追ふなりにしてあつたのだ。もし私が旅行馬車の中でいい氣持に眠つてゐたり、或ひは三臺目のトロイカが二臺目のすぐ後に續いて來たのだつたら、到底無事には助からぬ所だつたのだ。
 馭者たちはありったけの聲を出して罵り合ふ。その聲は十露里先でも聞えるに違ひない。とても堪らぬほど怒鳴り散らす。相手の持ち合はせてゐる凡ゆる聖なるもの貴いもの大事なものを、何から何まで殘らず辱め瀆し去らねば已まぬ、これらの醜惡極まる言葉や文句を考へ出すには、さぞかし莫大な機智や憎念や不淨な考へが消費されたことだらう。こんな惡口のつける者は、シベリヤの馭者や渡船夫のほかにはゐない。みんな囚徒に仕込まれたのだといふ。しかも馭者の中で一番大聲に罵り狂ふのは、ぶつけた當の馭者である。
 「ええ、もう止めろ、馬鹿者めが!」と老人が遮る。
 「何だと?」と、例の馭者は十九ほどの餓鬼だったが、それが物凄い劎幕でつめ寄つて、老人の鼻先にぬつと立つ、「それがどうした?」
 「手前もよっぽど。……」
 「それかどうした?言って見ろ、どうしたつてんだよ。梶棒の切れつ端でぶんのめすぞ。」
 この調子では、今にも摑み合ひになるかと思つた。暁闇、遠近には草を燒く火が見えてはゐるが、 そのため冷え切つた夜氣は別段溫まるでもなく、一と塊りになつたまま嘶き聲を立ててゐる癇の强い物騷な馬の傍で、この亂暴な暄嘩の群に圍まれてゐるのは、何とも言ひやうのない淋しさだった。
 老人はまだぶつぶつ言ひながら、例の病氣のせゐで足を高く持ち上げるやうにして馬と旅行馬車の周圍を步いて、手當り次第に繩や革紐を解いて廻る。それで折れた梶棒を結いわ》へようといふのである。それから今度は道路に腹這ひになって、燐寸をすりすり、輓革を搜す。私の荷物の革紐までが徵發された。やがて東の方が紅らむ。野雁もとうに眼をさまして啼いてゐる。やがて馭者たちも行つてしまふ。だが私達は相變らず立ちづめで、修繕に餘念がない。何べんも進まうとして見るのだが、折角結んだ梶棒は忽ちぽきんと行く。で、またも行軍中止だ。……寒い。
 やっとのことで、村まで辿りつく。二階建ての百姓小屋のところで車を停める。
 「イリヤ・イヴァーヌィチ、馬さあるかね?」と、 老人が呼ぶ。
 「あるだよ」と、誰やらが窓の中で陰氣な聲を出す。
 小屋で私を出迎へたのは、赤シャツを着た大男である。素足で睡さうな顏をしてゐる。まだ寢呆けてゐると見えて、何やら薄笑ひを浮べてゐる。
 「南京蟲にあつちや敵はねえでさ、大將」とぼりぼり搔きながら、だんだん顏一ぱいに笑ひ出しながら彼が言ふ、「座敷はわざと煖めねえだ。寒いと奴さん步かねえからね。」
 ここでは南京蟲や油蟲が這ふとは言はずに步くと言ふ。旅行者が行くと言はずに、 つつ走るといふ。「旦那は何處へつつ走りなさる」と訊く。つまり「何處へ行きなさる」の意味である。
 家の外では馬車に油を差したり、 頸圏の鈴をぢやらつかせたりしてゐるし、代り合つて馭者になったイリヤ・イヴァーヌィチは身支度をしてゐる。そのひまに私は、部屋の隅にうまい場所を見附けて、 穀粒か何かの袋に頭を凭せたかと思ふと、 すぐさまぐつすり痕込んでしまふ。やがて夢の中に私の寝臺が出て來る、 私の部屋が出て來る。夢の中で私は歸つて食事をしながら、 自分の二頭立が郵便のトロイカと衝突した話を、 家の者にして聽かせる。が二三分したかと思ふと、イリヤ・イヴァーヌィチが私の袖を引張つて言ふのが聞える。――
 「さあ起きるだ、 大將。馬が出來ただ。」
 懶惰、寒がり!それらの惡德を嘲笑ふこれは何といふ揶揄であらうか。寒氣は縱橫十文字に背中ぢゆうを走り廻る。また馬車で行く。……もう明るくなって、 空は日の出前の金色に染まる。道にも野づらの草にも、 痛ましい白樺の幼樹林にもー面に霜が降りて、まるで砂糖漬けを見るやうだ。どこかで蝦夷山鷄えぞやまどりが啼いてゐる。

読書ざんまいよせい(052)

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(01)

     

 「シベリヤはどうしてかう寒いのかね?」
 「神様の思召しでさ」と、がたくり馬車の馭者が答へる。
 もう五月といへば、ロシャでは靑葉の森に夜鶯うぐいすが喉をかぎりに歌ひ、 南の方ならとうにアカシャやライラックの花も匂つてゐように、ここチュメーン*からトムスクへの道筋では、土膚は褐色かちいろに黑ずみ、 森といふ森は裸かで、 湖沼には氷がどんよりと光り、 岸や谷あひにはまだまだら雪さへ殘つてゐる。…
 その代りにといふのもをかしいが、これほどに夥しい野禽の群を見るのも、 生れて初めてのことだ。眼をずらせて行くも、野づらを渉り步き、水溜りや道傍の溝を泳ぎまはり、また危く馬車の屋根をかすめんばかりに、白樺の林へと物憂げに飛んでゆく野鴨の群。あたりの靜寂を不意に破つてひびく聞覺えのあるきれいな啼聲に、おどろいて眼を上げると、丁度頭のうへを渡つてゆく一番ひの鶴。それを見ると、ふつと淋しい氣持になる。野雁も飛んで行く。雪のやうに眞白な白鳥も、 列を作つて飛んで行く。……方々でぼとしぎの低いつぶやきが聞え、鷗の哀しげな啼聲もする。
 天幕馬車を二臺と、 それから男女の百姓の一隊を追ひ越す。これは移住民だ。
 「どこの縣から來たね?」
 「ク—ルスクでさ。」
 一人だけ風體の違つた男が、仲間に遲れてよたよたと蹤いて行く。顎をきれいに剃り上げ口髭はもう白く、百姓外套の背中には何やら得體の知れないだん袋が附いてゐる。風呂敷にくるんだ胡弓を二丁、兩腋に抱へてゐる。ー體何者なのか、この胡弓はどうしたものかは、訊かないまでも自然とわかる。やくざで怠け者で病身で、人一倍の寒がりで、洒好きで、そのうへ小心者のこの男は、親父の代から兄貴の代までずつと餘計者扱ひにされたから、 のらくらと生き存ヘて來たのだ。親父の財產も分けては貰へず、嫁も取つては貰へずに。……そんな事はしてやるまでもない男なので、野良へ出れば風邪をひくし、酒にかけては目がないし、祿なことは言ひ觸らさないし、 取柄といつたら胡弓を弾くことと、子供たちを集めて煖爐ペチカの上でわいわい騷ぐ位なものだ。その代り胡弓と來たら居酒屋でも、婚禮の席でも野原でも、所きらはず弾き步いたが、それが中々の見事な音色だつた。だが今その兄貴が、家も牛も有りつたけの家財道具も手放して一家を引き連れ遠いシベリヤを指して行く。やくざ者も一緖について行くのは、ほかに食ふ當てもないからだ。二丁の胡弓も後生大事に抱へて行く。……やがて目指す土地に着けば、シベリヤの寒さにー堪りもなくやられる。肺病になつて、誰一人氣づかぬほどそつと靜かに死んで行く。その昔鄕里の村の人々の心を、浮き立たせたり沈ませたりした胡弓の方は、二束三文に賣り飛ばされて、渡り者の書記か、それとも流刑囚かの手に渡る。それから渡り者の子供たちが、いとを切つたりを折つたり、 胴に水を入れたりして遊ぶ。……引返した方がよささうだ、小父さん。
 力マ河を遡る船の上でも、移住民の群を見掛けた。中でも思ひ出されるのは、亜麻色の鬚をした年の頃四十ほどの百姓だ。甲板のベンチに腰掛けて、足もとには家財道具がらくたを詰め込んだ袋が並べてある。その袋の上に、鑑縷を着た子供たちが轉がつて、 荒涼としたカマ河の岸から吹きつける身を切るやうな寒風に縮み上つてゐる。百姓の顏には、「もう諦めましただ」と書いてある。眼には皮肉な色が浮んでゐる。だがそれは、われとわが内心に浴びせる嘲笑なのだ。謂はば、無殘至極な裏切りやうをして吳れた、過去半生に對する嘲笑なのだ。
 「これより惡くなりつこねえさ」と彼は言つて、 上唇だけで笑ふ。
 誰一人とり合ふ者もなく、また別に問ひかける者はなくても、一分ほどすると彼はふたたび繰り返す。――
 「これより惡くなりつこはねえさ。」
 「惡くなるとも」と別のベンチから、 人參色の髮をした眼のするどい土百姓が應じる。これは移住民ではない。――「惡くなるとも。」
 いましがた追拔いた百姓たちは、默りこくつてゐる。天幕馬車について、よろよろする足を引き摺りながら、どの顏を見ても鹿爪らしく何か一心に考へ込んでゐる風だ。……私はそ辻を見て心に思ふ、――「よくない生活と見たら潔くそれを振り切つて、生れ故鄕も生れた古巢も棄てて行けるのは、非凡な人間だけなのだ、英雄だけなのだ。……」
 間もなく、今度は流刑囚の列に追ひついた。手械てかせの音を立てながら,三四十人ほどの囚徒が道を行く。兩側には銃を擔つた兵士が附添ひ、後から馬車が二臺ついて行く。囚徒の中の一人はどうやらアルメニヤの司祭を思はせる。もう一人の鷲鼻で額のひろい大男の方は、どこかの藥種屋の勘定臺の向ふに坐つてゐたやうな氣がするし、三番目の消耗した蒼白い深刻面は、まるで斷食の坊主にそつくりだ。とても一人一人の顏を覗いてゐるひまはない。囚徒も兵士もみなぐつたりしてゐる。道は惡いし、步く氣力もないのだ。……泊りの村まではまだ十露里もある。村に着けば直ぐ飯にありつけるし、磚茶せんちやも飮める。それからごろりと横になるのだが、待ち兼ねてゐた南京蟲が直ぐさま身體一面にべ つたりと貼りつく。疲れ切つて睡くて堪らない人間にとつて、これはとても敵はぬ執念の鬼だ。
 日が暮れると地面は凍てついて泥濘が切り立つた起伏を作る。馬車は躍リ跳ね、色んな聲を立てておめき鳴る。寒い。人の住む家も見えず、人つ子一人通らない。……ひそともせぬ闇はただ黑々と、物音ひとつしない。聞えるのは車が凍土を嚙む音と、 たまに卷煙草を吸ひつける火の色に夢を破られて、 道傍に飛び立つ二三羽の野鴨の羽音ばかり。……
 川に出る。渡舟を見附けて越さなければならぬ。河岸には人影もない。
 「向ふ岸へ行つとる。かさつかきめが」と馭者が言ふ、「旦那、 ひとつ吼えて見るかね。」
 痛くて泣くのも悲しくて泣くのも、助けを呼ぶのもただ人を呼ぶのも、 この土地では引括めて吼えるといふ。從つてシベリヤで吼えるのは熊だけではなく、雀や鼠も吼えるのである。「引懸つて吼えくさる」と、鼠のことを言ふ。
 で、吼えはじめた。かなりの川だし、それに眞暗なので向ふ岸は見えない。……じめじめした川風で先づ足が冷え、つづいて全身が冷えて來る。……聲を合はせて半時間吼え、 一時間吼えたが、 渡舟はやつて來ない。水にも、 空ーぱいの星屑にも,墓のやうに眞音な靜寂にも,やがて飽き飽きしてしまふ。退屈まぎれに親爺と話し込んで、 十六のとき嫁を貰つたこと、子供は十人あつたがその中死んだのは唯の三人に過ぎぬ こ と、 父親もお袋もまだ健在まめなことなど を知る。 父親もお袋も 「キルジャキイ」――つまり分離宗徒ラスコーニキで、煙草は喫ます、一生涯イシムの町のほかには町を見たこともないが、自分はまだ若いから少々身體を甘やかさせて貰つて煙草をやる、とも言つた。この眞暗な荒涼たる川にも、 鱘魚てふざめやネルマ鮭や、ひげかますが棲んでゐるが、漁る人も漁る手立てもないといふ話もした。
 だがやつと、水を切る音が正しく間を置いて聞えはじめ、 川面に何やら不細工な黑い物があらはれた。それが渡舟だつた。恰好はまづ小形な傳馬船に似て、橈子が五人ほど乘つてゐる。橈身のびろい二本の長い橈は、蟹のはさみそつくりである。
 舟を岸につけると、 橈子たちは先づ手始めに喧嘩をはじめた。さも憎らしげに罵り合つてはゐるが、別段これといふ理由もない所を見れば、 まだ寢呆けてゐるのに相違ない。彼等の飛び切り上等の悪口を聽いてゐると、 母親のあるのは私の馭者や馬や橈子たちだけではなくて、水にも渡舟にも橈にもどうやら母親*があるらしい樣子である。橈子たちが吐き散らした罵詈雜言のなかで、最も物柔かで無邪氣なのは、「瘡でも出來でかせ」乃至「その口に瘡さ搔け」といふのであつた。ここで瘡*とは一體どんな瘡を指すのか、 訊いては見たが分らず仕舞だつた。何しろ私は毛皮の半外套に長靴をはいて、帽子眞深といふ服裝いでたちだから、暗闇ではこれが「旦那」とは分らぬらしい。で橈子の一人が、私に向つて嗄聲で呶鳴りつけた。――
「これさ、そこの瘡つかき!ぽかんと口を開いてゐずと、馬でもはづせよう。」
 渡舟に乘る。渡船夫たちは罵り喚きながら橈を取る。これは土着の百姓.ではない。無賴な生活のため社會に擯斥されてここへ送られて來た、まぎれもない追放囚である。だが登錄先の村でも、 やはり彼等は暮らせないのだ。第一退屈だし、耕作のすべはもともと知らないか、さもなければ忘れてゐるし、他所の地面は可愛くもないし――そんな譯でここへ出て、渡舟場稼ぎをしてゐるのである。どれもこれも、瘦せこけ.て荒み切つた顏附をしてゐる。それにその表情といつたらどうだ! この人達はここまで來る道々、手錠で二人づつ繫ぎ合はされて囚人舟に乘せられたり、列を組んで街道を步かされたり、百姓小屋に泊つて南京蟲に所嫌はず刺されたりする間に、骨の牘まで麻痺してしまつたのだ。 今では夜晝なしに冷たい水の中を動き廻つて、眼に入るものといへば荒涼とした川岸の眺めばかりだ。しまひには身も心も凍り果てて、生きる目當ては唯一つ酒と女、女と酒。……もはやこの世の人ではなくて、獸なのだ。それのみならず、馭者の親爺に言はせると、あの世へ行つても碌なことはないらしい。罪の報いで地獄へ落ちるといふ。

*チュメーン シベリヤ鐵道(一八九一――一九〇三年)の敷設される前、迫放囚はこの町を通過するのを例とした。一八二三年から九八年までの間に、この町は九十萬人餘に上る囚人とその家族の暗鬱な行列を見送つたと言はれる。
*母親云々 ロシヤ特有の罵言に、相手の推親を引合ひに出して罵る極めて烈しいのである。撓子たちは當の喧嘩相手のみならず、水や舟などの無生物にまで、この罵言で當り散らしたのであらう。
*瘡 家畜の肺や胃腸を冒し、人間にまで感染するシペリヤ脾脫疽(Anthrax)を指すものであらう。

読書ざんまいよせい(050)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(018)
「題材 ・ 断想 ・ 覚書 ・ 断片」から(続き)

編者より】
 チェーホフの最晩年の三作、「谷間」「僧正」「いいなづけ」は、どれをとっても、珠玉の作品である。
 ただ、前二作は、「いいなづけ」が「希望」の兆しが垣間見られたが、作品は、少しニュアンスが違う。「谷間」では、ロシアの田舎でも、「資本主義的な蓄積」がその開始時期も過ぎ、生産資本として成り立ってゆく時代の人物群像である。その代表である商人ツィブーキン家の次男の嫁、アクシーニアは、本格的な工場経営に乗り出す。その上で、長男の嫁リーバの幼子を、やや悪意を持って死なせてしまう。チェーホフは、その子を毛布にくるんで家路をたどるリーバの描写が物悲しく描いている。「僧正」では、幼い頃に別れた母親が、聖職者になった僧正ピョートルの礼拝の時も、名乗りをあげられない。その時は、ピョートルが、死の床にあった最期の時間に手を握りしめた一瞬であった。二作品で、チェーホフは、未来への展望は、一切語らない。チェーホフ的な「ペーソス」の極地であろうか?
 筆致や人物造形はまったく違うが、バルザックの、前者は、貴族階級の没落をテーマとした「農民」に、後者は、聖職者としての出世が思うようにいかなかった僧侶の寂しい晩年まで描いた「ツールの司祭」にシチュエーションが似ていることが興味深く感じた。

ーーここからーー

 彼は己れの卑劣さの高みから世界を見おろした。

 ――君の許嫁は美人だなあ!
 ――いやなに、僕の眼にはどんな女も同じことさ。

 彼は二十万円の富籤をつづけざまに二度抽き当てることを夢想していた。二十万ではどうも少ないような気がするので。

 Nは退職した四等官。田舎に住んで、齢は六十六である。教養があり、自由主義で、読書も好きなら議論も好きだ。彼は客の口から、新任の予審判事のZが片足にはスリッパを片足には長靴を穿いていることや、何とかいう婦人と内縁関係を結んでいることを聞き込む。Nは二六時ちゅうZのことを気にして、あの男は片足だけスリッパを穿いて、他人ひとの細君と関係しているそうですな、とのべつに彼の噂話をしている。そのことばかり喋っているうちに、挙句の果には奥さんの寝間へでかけて行くようにさえなる(八年この方なかったことである)。興奮しながら相変らずZの噂をしている。とうとう中気が出て、手足が利かなくなってしまう。みんな興奮の結果である。医者が来る。すると彼をつかまえてZの話をする。医者はZを知っていて、今ではZは両足とも長靴を穿いているし(足がよくなったので)、例の婦人とも結婚したと話す。

 あの世へ行ってから、この世の生活を振り返って「あれは美しい夢だった……」と思いたいものだ。

 地主のNが、家令Zの子供たち――大学生と十七になる娘――を眺めながらこう思う。「あのZの奴は俺の金をくすねている。贓ねた金で贅沢な暮しをしている。この学生も娘もそれ位のことは知ってる筈だ。もしまだ知らずにいるのなら、自分たちがちゃんとした風をしていられるのは何故かということを、是非とも知って置くべきだ。」

 彼女は「妥協」という言葉が好きで、よくそれを使う。「私にはとても妥協は出来ませんわ。」……「平行六面体をした板」……。

 世襲名誉公民のオジャブーシキンは、自分の先祖が当然伯爵に叙せられるだけの権利のあったことを、人に納得させようといつも懸命である。

 ――この途にかけちゃ、あの男は犬を食った(通暁しているの意)ものですよ。
 ――まあ、まあ、そんなこと仰しゃっちゃ駄目よ。家のママとても好き嫌いがひどいの。
 ――私、これで三度目の良人おっとなのよ。……一番はじめのはイヴァン・マカールィチって名でしたの。……二番目はピョートル……ピョートル……忘れちゃったわ。

 作家グヴォーズヂコフは、自分が大そう有名で、わが名を知らぬ者はないと思っている。S市にやって来て、或る士官と出逢う。士官は彼の手を長いこと握りしめて、さも感激したように彼の顔に見入っている。Gは嬉しくなって、こちらも熱烈に手を握り返す。……やがて士官がこう訊ねる、「あなたの管絃楽団オーケストラは如何ですか? たしかあなたは楽長をしておられましたね?」

 朝。――Nの口髭が紙で巻いてある。

 そこで彼は、自分がどこへ行っても――どんなところへ行っても、停車場の食堂へ行ってさえ尊敬され崇拝されてるような気がしたので、従っていつも微笑を浮べながら食事をした。

 鶏が歌っている。だが彼にはもはや、鶏が歌っているのではなくて、泣いているように聞える。

 一家団欒の席で、大学に行っている息子がJ・J・ルソオを朗読するのを聴きながら、家長のNが心に思う、「だが何と言っても、J・J・ルソオは頸っ玉に金牌をぶら下げちゃいなかったんだ。ところが俺にはこの通りあるわい。」

 Nが、大学に行っている自分の継子を連れて散々に飲み歩いた挙句、淫売宿へ行く。翌る朝、大学生は休暇が終ったので出発する。Nは送って行く。大学生が継父の不品行を咎めてお説教をやり出したので、口論になる。Nがいう、「俺は父親としてお前を呪うぞ。」「僕だってお父さんを呪います。」

 医者なら来て貰う。代診だと呼んで来る。

 N・N・Vは決して誰の意見にも賛成したことがない。――「左様、この天井が白いというのはまあいいとしてもですな、一たい白という色は、現在知られているところではスペクトルの七つの色から成るものです。そこでこの天井の場合でも、七つの色のうちの一つが明るすぎるか暗すぎるかして、きっかり白になってはいないという事も大いにあり得るわけです。私としては、この天井は白いという前に、ちょっと考えて見たいですな。」

 彼はまるで聖像みたいな身振りをする。

 ――君は恋をしていますね。
 ――ええ、まあ幾分。

 何事がもちあがっても彼は言う、「こりゃみんな坊主のせいだ。」

 Fyrzikov.

 Nの夢。外国旅行から帰って来る。ヴェルジボロヴォの税関で、抗弁これ努めたにも拘わらず、妻君に税をかけられる。

 その自由主義者が、上着なしで食事をして、やがて寝室に引き取ったとき、私は彼の背中にズボン吊を認めた。そこで私には、この自由主義を説く俗物が、済度すべからざる町人であることがはっきり分った。

 不信心者で宗教侮蔑者を以て任じているZが、こっそりとお寺の本堂で聖像を拝んでいるところを誰かに見つかった。あとでみんなからさんざん冷やかされた。

 ある劇団の座長に四本煙突の巡洋艦という綽名がついている。もう四度も煙突をくぐった(身代限りをした)ので。

 彼は馬鹿ではない。長いこと熱心に勉強をしたし、大学にもはいっていた。だが書くものを見るとひどい間違いがある。

 ナーヂン伯爵夫人の養女は段々と倹約しまり屋になって行った。ひどく内気で、「いいえ」とか「はい」とかしか言えない。手はいつもぶるぶる顫えている。或るとき、やもめ暮らしの県会議長から縁談があって、彼のところへ嫁に行った。やっぱり「はい」と「いいえ」で、良人にびくびくするばかりで、少しも愛情が湧かなかった。或るとき良人がとても大きな咳をしたので、彼女は動顛して、死んでしまった。

 彼女が恋人に甘えて、「ねえ、鳶さん!」

Perepentievペレペンチェフ君。

 戯曲。――あなた何か滑稽なことを仰しゃいな。だってもう二十年も一緒に暮らしてるのに、しょっちゅう真面目なお話ばかりなんですもの。あたし真面目なお話は厭々ですわ。

 料理女が法螺を吹く、「ワタチチョ学校へ行ったのよ(彼女は巻煙草をくわえている)……地球がまんまるな訳だって知ってるわよ。」

 「河船艀舟錨捜索引揚会社」。この会社の代表者が、何かの紀念祭には必ず現われて、N気取りのテーブル・スピーチをやる。そしてきっと食事をして行く。

 超神秘主義。

 僕が金持になったら、ひとつ後宮ハレムをこしらえて、裸のよく肥った女どもを入れとくね。尻っぺたを緑色の絵具でべたべた塗り立ててね。

 内気な青年がお客に来て、その晩は泊ることになった。不意に八十ほどの聾の婆さんが灌腸器を持ってはいって来て、彼に灌腸をかけた。彼はそれがこの家のしきたりかと思ったので、大人しくしていた。翌る朝になって、それは婆さんの間違いだと分った。

 姓。Verstakヴェルスターク*.
*長い腰掛。

 人間(百姓)は愚かであればあるほど、その言うことが馬にわかる。

「題材 ・ 断想 ・ 覚書 ・ 断片」(終了)