南総里見八犬伝巻之二第三回
東都 曲亭主人編次
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)義実《よしさね》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)信時|聞《きゝ》あへず
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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景連信時暗《かげつらのぶときあん》に義實《よしさね》を阻《こば》む
氏元貞行厄《うぢもとさだゆきやく》に館山《たてやま》に從《したが》ふ
卻說《かくて》安西三郞大夫景連《かくてあんざいざぶらうたいふかげつら》は、近習《きんじゆ》のものゝ吿《つぐ》るを聞《きゝ》て、結城《ゆふき》の落人里見義實《おちうどさとみよしさね》、主從三人《しゆうじゆうみたり》水行《ふなぢ》より、こゝに來《きた》れる縡《こと》の趣《おもむき》、大《おほ》かたは猜《すい》しながら、後難《こうなん》はかりかたければ、速《すみやか》には回答《いらへ》せず、麻呂信時《まろのりぷとき》を見かへりて、「|如此々々《しかしか》の事《こと》になん。何《なに》かと思ひ給ふやらん」、と問《とふ》を信時|聞《きゝ》あへず、「里見は名ある源氏《げんじ》なれども、こゝには緣《えん》も好《よしみ》もなし。無二《むに》の持氏《もちうぢ》がたなれば、結城氏朝《ゆふきのうぢとも》に荷擔《かたらは》れ、籠城三年《ろうぜうみとせ》に及ぶものから、京鐮倉《きやうかまくら》を敵《てき》に受《うけ》ては、命《いのち》を豫《かね》てなきものと、思ふべき事なるに、落城《らくぜう》の日に及《およぴ》て、親の擊《うた》るゝをも見かへらず、|阿容々々《おめおめ》と迯《にげ》かくれ、こゝらわたりへ流浪《さそらひ》たる、とるよしもなき白徒《しれもの》に、なでふ對面《たいめん》し給ふべき。とく追退《おひしりぞ》け給ひね」、と爪彈《つまはじき》をして說諭《ときさと》せば、景連|且《しばら》く頭《かうべ》を傾《かたむ》け、「某《それがし》もさは思へども、用《もち》ふべきよしなきにあらず。彼等《かれら》は三年《みとせ》籠城して、戰《たゝかひ》には熟《なれ》たるもの也。義實|年《とし》なほわかしといふとも、數萬《すまん》の敵軍《てきぐん》を殺脫《きりぬけ》ずは、いかにしてこゝまで來《く》べき。召入《よぴい》れて對面し、その剛臆《ごうおく》を試みて、使ふべきものならば、定包《さだかね》を討一方《うついつほう》の、大將《たいせう》を得たりとせん欤《か》。又《また》使ふべきものならずは、追退《おひしりぞく》るまでもなし。立地《たちところ》に刺殺《さしころ》して、後《のち》の禍《わざはひ》を禳《はら》ひなん。この議《ぎ》はいかに」、と密語《さゝやけ》ば、信時しば/\うち點頭《うなつき》、「微妙《いみじく》はかり給ひにけり。某《それがし》も對面すべきに、准備《ようゐ》し給へ」、といそがせば、景連|猛《にはか》に老黨《ろうどう》を召《よぴ》よして、|箇樣々々《かやうかやう》と說示《ときしめ》し、武藝力量兼備《ぶげいりきりやうかねそなはつ》たる、壯士等《ますらをら》に謀《はかりこと》を傳《つたへ》させ、只管《ひたすら》にいそがし立《たつ》れば、信時も又、倶《ぐ》したる、家臣等《かしんら》を召《よび》のぼして、その縡《こと》のこゝろを得させ、あるじ景連もろ共《とも》に、客房《きやくのま》にぞ出《いで》たりける。その縡《こと》の爲體《ていたらく》、をさ/\武《ぶ》を張《は》り、威《ゐ》をかゞやかして、安西が家臣廿人、麻呂が從者《ともひと》十餘人、僉《みな》いかめしき打扮《いでたち》して、二帶《ふたかは》に居《ゐ》ながれつゝ、飾立《かざりたて》たる數張《すちやう》の弓弦《ゆつる》は、壁《かべ》に畫《ゑがけ》る瀑布《たき》の如《ごと》く、掛《かけ》わたしたる鎗薙刀《やりなぎなた》は、春の外山《とやま》の霞《かすみ》に似たり。廊《ほそどの》には幕《まく》を垂《たれ》て、身甲《はらまき》したる力士《りきし》、十人あまり、「すは」といはゞ走り出《いで》、かの主從《しゆうしゆう》を生拘《いけとら》んとて、おの/\手獵索《てぐす》を引《ひき》てをり。
さる程《ほど》に、里見冠者義實《さとみのくわんしやよしさね》は、外面《とのかた》に立在《たゝずむ》こと、既《すで》に半晌《はんとき》餘《あま》りにして、「こなたへ」、と召入《よびい》られ、ゆくこといまだ一室《ひとま》に過《すぎ》ず、衝立《ついたて》の紙盾《ふすま》の蔭《かげ》より、縹綞《はなだ》の麻《あさ》の上下《かみしも》したる、壯士《ますらを》四人|立見《たちあらは》れ、「誘《いざ》給へ、俺們案內《われわれしるべ》つかまつらん』、といひあへず、前後《あとさき》に立《たち》ながら、半弓《はんきう》に箭《や》を㓨《つがひ》て、きり/\と彎《ひき》しぼれば、些後《すこしくおく》れて從ふたる、杉倉堀內これを見て、「吐嗟《あなや》」、とばかりもろ共に、走りすゝまんとする程に、又おなじほとりより、皂小袖《くろきこそで》に玉襷掛《たまたすきかけ》て、袴《はかま》の股丈《もゝたち》高く取《とり》たる、夥兵《くみこ》六|人《ン》走出《はしりいで》て、 短鎗《てやり》の尖頭突揃《ほさきつきそろ》へ、先なるは皆背《みなあと》ざまに、あるきながらぞ送り去《ゆく》。しかれども義實は、騷《さわ》ぎたる氣色《けしき》なく、「こはもの/\しき款待《もてなし》かな。三年以來《みとせこのかた》結城《ゆふき》にて、敵の矢面《やおもて》に立《たち》し日もあり。鎗下《やりした》を潛脫《くゞりぬけ》しは、いく遍《たび》といふことをしらねど、海より外《ほか》に物もなき、こゝには卻波風騷《かへつてなみかぜさわが》ず、良賎無異《りやうせんぶゐ》を樂《たのし》む、と聞《きゝ》しには似ぬものかな」、とひとりごつ主《しゆう》の後方《あとべ》なる、老黨《ろうだう》も立《たち》とゞまり、「治《おさま》るときにも亂《らん》を忘れず、小敵《せうてき》と見て侮《あなど》らずと、兵書《ひやうしよ》に本文《ほんもん》ありといふとも、三人《みたり》に過《すぎ》ぎる主從《しゆうじゆう》へ、鏃《やじり》のかぶらの羹《あつもの》に、弓弦《ゆつる》の索麪《むぎなは》、異《こと》なる饗應《きやうわう》、あるじの刀袮《との》の手料理《てれうり》を、亦復賞味《またまたせうみ》つかまつらん。誘案內《いざしるべ》を」、といそがして、送られてゆく主從は、はやその席に臨《のぞみ》しかば、壯士等《ますらをら》は弓を伏《ふせ》、鎗《やり》を引提《ひさげ》て東西《とうさい》なる、帷幕《いばく》の內に入りにけり。
當下《そのとき》里見義實は、景連信時を遙《はるか》に見て、些《すこし》も媚《こぶ》る氣色《けしき》なく、賓座《まろうどのざ》に着《つき》て、腰なる扇《あふぎ》を右手《めて》に置《おき》、「結城《ゆうき》の敗將《はいせう》、里見又太郞義實、亡父《ぼうふ》治部少輔季基《ぢぶのせうゆうすゑもと》が遺言《ゆひげん》によって、辛《から》く敵軍の圍みを脫《まぬか》れ、漂泊《ひやうはく》してこゝに來《きた》れり。かゝれば蜑《あま》が笘[苫の誤記か?]屋《とまや》にも、はかなき今の身を寓《よせ》て、華洛《みやこ》はさら也、鐮倉なる、管領《くわんれい》にも從《したがは》ざる、この安國《やすくに》の民としならば、こよなき幸《さいはひ》なるべし、と思ひし事はきのふにて、聞くに異《こと》なる巷談街說《こうだんがいせつ》、義に仗《よつ》て一臂《いつひ》のちからを、竭《つく》す事もあらんかとて、思はずも虎威《こゐ》を犯《おか》して、見參《げんざん》を乞《こひ》候ひしに、敗軍《はいぐん》の將《せう》也とて嫌《きらは》れず、對面を許し給へば、胸中《きゃうちう》を盡すに足れり。供したるは亡父《ぼうふ》が愛臣《あいしん》、杉倉木曾介氏元人《すぎくらきそのすけうぢもと》、堀內藏人貞行《ほりうちくらんどさだゆき》になん。おんめを給はり候へ」、と慇懃《いんぎん》に名吿《なのり》つゝ、徐《しづ》やかに見かへり給へば、氏元貞行もろ共に、軈《やが》て頭《かうベ》を低《さげ》たりける。しかれども景連は、思ひしよりなほ義實の、年のわかきに侮《あなど》りて、うち見たるのみ禮《れい》を返《かへ》さず。信時はあるじをまたで、眼《まなこ》を睜《みは》り、聲をふり立《たて》、「われは麻呂小五郞《まろのこごらう》なり。聊御別議《いさゝかべつぎ》あるをもて、けふ平館《ひらだて》より來たりしかひに、この席上《せきせう》に連《つらな》るのみ。さて口さかしき小冠者《こくわしや》かな。わが安房《あは》は小國《せうこく》なれども、東南の盡處《はて》にして、三面すべて海なれば、室町殿《むろまちどの》の武命《ぶめい》を受《うけ》ず、兩管領《りやうくわんれい》にも從《したがは》ねど、鄰國《りんこく》の强敵《ごうてき》も、敢境《あへてさかひ》を犯《おか》すことなし。さればとて、われはさら也|安西《あんさい》ぬしに、絕《たえ》て由緣《ゆかり》もなき和郞《わろ》が、京鐮倉を敵に受《うけ》て、身のおくところなきまゝに、乳臭《ちのか》も失《うせ》ぬ觜《はし》を鳴らして、利害《りがい》を說《とか》んと思ふは嗚呼《をこ》也。人の落魄《おちめ》を憐《あはれ》むこと、慈眼視衆生佛《ぢげんじしゆぜうほとけ》のごとく、草芥《あくたもくた》を容《い》るゝこと、無量福壽海《むりやうふくじゆかい》に似たり共、誰《たれ》か罪人《つみひと》をこゝに留《とゞ》めて、その崇《たゝり》を招くべき。寔《まこと》に無益《むやく》の對面ならん」、とあざみ詈《のゝし》る頤《おとがひ》を、かき拊《なで》つゝうち笑へば、義實|莞然《につこ》とうち咲《えみ》て、「しか宣《のたま》ふはその名聞えし、麻呂ぬしに候|欤《か》。麻呂安西|東條《とうでふ》は、當國《たうこく》の舊家《きうか》たり。勇悍武略《ゆうかんぶりやく》さもこそ、と思ふは似ぬものかな。可惜《あたら》しきことながら、親にて候|季基《すゑもと》は、生涯只《せうがいたゞ》義の一字を守りて、ながくはたもち難《かた》かるべしと、思ふ結城《ゆふき》へ盾籠《たてこも》り、京鐮倉の大軍を、三年《みとせ》が閒《あはひ》防ぎとゞめて、死に臨《のぞめ》ども悔《くや》しとせざりき。某《それがし》親には及《およば》ねども、敵をおそれて迯《にげ》もせず、命を惜《をしみ》て走りもせず。亡父《ぼうふ》の遺言已《ゆいげんやむ》ことを得ず、只命運《たゞめいうん》を天に任《まか》して、時を俟《また》んと思ふのみ。鐮倉の持氏卿《もちうぢけう》、初《はじめ》世さかりなりし時、安房上總《あはかつさ》いへばさら也、八州《はつしう》の武士|一人《ひとり》として、心を傾《かたむ》け、腰を折《かゞめ》、出仕《しゆつし》せざるもなかりしに、持氏|滅亡《めつぼう》し給ひては、幼君《ようくん》のおん爲《ため》に、家を忘れ身を捨《すて》て、氏朝《うぢとも》にちからを勠《あは》し、結城に籠城《ろうぜう》したるは稀《まれ》也。勢利《いきほひ》に屬人心《つくひとこゝろ》、憑《たのも》しげなきものなれば、こゝにも麻呂ぬし、安西ぬし、持氏卿の恩義《おんぎ》を思はで、兩管領の崇《たゝり》をおそれ、某《それがし》を容《いれ》じとならば、袖《そで》を拂ふて退《まか》りなん。現《げに》管領は威權《いきほひ》高し。|國々《くにくに》の武士|隨從《つきしたが》ひぬ。おそれ給ふはさることなれども、などて主從三人《しゆうしゆうみたり》に過《すぎ》ざる、義實をいたくおそれて、器械拿《うちものもつ》たる壯士等《ますらをら》に誘引《いざなは》せ、當處《たうしよ》は安泰無異《あんたいぶゐ》也、と口にはいへど用心嚴しく、席上《せきせう》に弓箭《ゆみや》を掛《かけ》、劍戟《けんげき》の鞘《さや》を外《はづ》し、剩帷幕《あまつさへいばく》の內《うち》に、夥《あまた》の力士《りきし》をかくし給ふは、いかにぞや」、と詰《なじ》られて、信時|忽地《たちまち》顏うち赧《あか》め、安西に目を注《くは》すれば、景連思はず大息《おほいき》つき、「いはるゝ所|至極《しごく》せり。弓箭《ゆみや》は武士の翼《つばさ》なり、劍戟《けんげき》は爪牙《ぞうげ》に等しく、身を護《まも》るをもて坐臥《ざくわ》にも放さず。和殿《わどの》を威《おど》す爲ならんや。但《たゞ》し案內《しるべ》せしものどもに、器械《うちもの》を拿《もた》せし事、力士をかくし置《おく》ことは、景連|露《つゆ》ばかりもこれをしらず。什麼汝等《そもなんぢら》は何《なに》の爲に、正《まさ》なき事をしたるぞや。とく罷出《まかで》よ」、と追退《おひしりぞ》け、飾立《かざりたて》たる鎗長刀《やりなぎなた》は、屏風《ぴやうぶ》をもつてかくさせけり。すべての准備齟齬《ようゐくひちがひ》て、興《けう》の醒《さむ》るのみなれば、安西麻呂が家臣等は、遠侍《とほさむらひ》へ出《いづ》るもあり、屏風の背《うしろ》に退《しりぞ》きて、汗《あせ》を拭《ぬぐ》ふも多かりける。
かゝりけれども信時は、こりずまに膝《ひざ》をすゝめて、義實にうち對《むか》ひ、「今|示《しめ》さるゝ縡《こと》の趣《おもむき》、その據《よりどころ》あるに似たれど、敵をおそれず、命を惜《をしま》ず、後運《こううん》を天に任《まか》して、時を俟《また》んと思ふぞならば、坂東《ばんどう》には源氏《げんじ》多かり、なほ身のよるべあるべきに、一國の主《ぬし》にもあらず、好《よしみ》は元來絕《もとよりたえ》てなき、安西|氏《うぢ》を憑《たのま》んとて、舩《ふね》をよせしはこゝろ得《え》がたし。餓《うへ》たるものは食《しよく》を擇《えら》まず、迫《おは》るゝものは路《みち》を擇《えら》まず。敵をおそれ、命《いのち》を惜《をし》みて、迯迷《にげまよは》ずは、いかにして、恥《はぢ》かゞやかしてこゝまで來《く》べき。かひなき身の非を飾らずに、しかならば如此《しか》なりと、|明々地《あからさま》に吿《つげ》てこそ、憐愍《あはれみ》も一卜しほならめ。この席上《せきせう》に連《つらな》るかひに、とり持《もち》してまゐらせん。|明々地《あからさま》に吿《つげ》給へ。|明々地《あからさま》にはいはれずや」、と再三《ふたゝびみ》たびくり返すを、聞《きく》に得堪《えたへ》ず貞行は、氏元が袂《たもと》を引《ひき》て、もろ共に進み出《いで》、「心を師として人をはかれば、打《うつ》槌《つち》もあたらぬ事あり。いと憚《はゞかり》あることながら、麻呂|大人《うし》の椎量《すいりやう》は、雜兵仂武者《ざふひやうはむしや》のうへにこそ。源氏にはさる大將なし。抑《そもそも》義實命を惜《をし》み、敵に迫《おは》れて途《ど》を失《うしな》ひ、思はず當國に來つるにあらず。偏《ひとへ》に先蹤《せんせう》を追へば也。昔|源賴朝卿《みなもとのよりともけう》、石橋山《いしばしやま》の軍《いくさ》敗れて、安房《あは》へ赴《おもむ》き給ひしとき、和君《わぎみ》の先祖信俊《せんぞのぶとし》ぬし、安西の先祖|景盛《かげもり》ぬし、東條《とうでふ》ぬしもろ共に、第一番に隨從《つきしたが》ひ、無二の志《こゝろざし》をあらはせしかば、賴朝これに先を追《おは》して、上總《かつさ》へうち越《こえ》給ふ程に、廣常常胤來迎《ひろつねつねたねきたりむかへ》て、忽地《たちまち》大軍になりにければ、更に鐮倉に基《もとゐ》を占《しめ》て、遂《つひ》に平家《へいけ》を滅《ほろぼ》し給ひき。里見もおなじ源氏嫡流《げんじのちゃくりう》、八幡殿《はちまんどの》の御末《みすゑ》なり。かゝる吉例《きちれい》あるものを、あまりに無下《むげ》におとしめ給ふが、傍《かたはら》いたく候へば、しれたることをまうすのみ。過言《くわごん》はゆるし給ひね」、と返《かへ》す辭《ことは》も智も勇も、一對一致《いつゝいいつち》の兩老黨《りやうろうどう》に、說伏《ときふせ》られて信時は、怒りに逼《せま》りて、ものも得《え》いはず。義實は氣色《けしき》を見て、忽地《たちまち》に聲を激《はげま》し、「貞行氏元|不禮《ぶれい》なせそ。われいかばかりの德ありて、賴朝に比《たぐへ》んや。そは漫《そゞろ》也、嗚呼《をこ》也」、と叱《しか》り懲《こ》らして追退《おひしりぞ》け、勸解《わび》ず寬《なだむ》る客ぶりに、信時は眼《まなこ》を瞪《いか》らし、手を叉《こまぬ》きて物いはず。景連は肩|搖《ゆるが》して、堪《たへ》ぬがごとく冷笑《あざわら》ひ、「あなわが佛尊《ほとけたふと》しとて、いへば亦《また》いはるゝものかな。里見の從者《ともぴと》よく聞《きけ》かし。賴朝の父|義朝《よしとも》は、十五|个國《かこく》の節度使《せつどし》たり。もし朝敵《ちやうてき》とならざりせば、淸盛《きよもり》もすべなからん欤《か》。かゝれば彼卿《かのけう》、流人《るにん》たれ共、一トたび義兵を起すに及びて、舊恩《きうおん》を思ふ坂東武士《ばんどうぶし》、招《まねか》ざれども屬從《つきしたが》ひぬ。里見|氏《うぢ》はこれと異《こと》也、そのはじめ太郞義成《たらうよししげ》、賴朝|卿《けう》に仕《つかへ》しより、釆地一鄕《れうぶんひとさと》の外《ほか》に過《すぎ》ず、手勢僅《てせいはつか》に百騎に足らず。中葉《なかころ》は宮方《みやかた》にて、彼此《をちこち》に世をしのびあへず、鐮倉へ降參《こうさん》して、本領安堵《ほんれうあんど》したれども、それ將《はた》しばしが閒《あはひ》にて、今見る所は落人《おちうど》也。主《しゆう》すら口を鉗《つぐめ》るに、汝等何《なんぢらなに》の議論《ぎろん》あらん。志《こゝろざし》を改めて、景連に仕へなば、さばかりの事あるべきに、身のほど/\をしらずや」、と飽《あく》まであざみ誇《ほこ》れども、氏元も貞行も、主《しゆう》のこゝろを汲《くみ》かねて、再びこれと爭はず。
義實はうち微笑《ほゝえみ》、「安西ぬし寔《まこと》にしか也。しかれども、人の口には戶も立《たて》られず。某《それがし》この地に來て聞くに、何處《いつこ》もおなじ巷《ちまた》の風聲《ふうぶん》、民の誹謗《そしり》は止《やむ》ときなけれど、家臣は主君の耳を塞《ふさ》ぎて、吿《つげ》もせず諫《いさめ》も得《え》せぬは、甚《はなはだ》しき不忠《ふちう》ならずや。氏元貞行|思《おも》ひかけなく、夥《あまた》の祿《ろく》を賜《たま》ふとも、不忠の人と肩を比《ならべ》、耳の聾《しい》たる主君には、仕ふることを願はじ」、といはれて景連|氣色《けしき》を變《かえ》、「そは何事《なにこと》をか譏《そし》りたる。巷《ちまた》の風聞《ふうぷん》いかにぞや」、と問《とへ》ば扇《あふぎ》を膝《ひざ》に突立《つきたて》、「いまだ曉《さとり》給はずや。これは主人のうへのみならず、麻呂ぬしも又しかなり。神餘《じんよ》、安西《あんさい》、麻呂《まろ》の三家《さんか》は、舊交尤淺《きうこうもつとも》からず、手足《しゆそく》のごとく相佐《あいたす》けて、當國《たうこく》久しく無異《ぶゐ》なりしに、神餘が嬖臣《へいしん》山下|定包《さだかね》、奸計《かんけい》をもて主《しゆう》を戕《そこな》ひ、忽地二郡《たちまちにぐん》を橫領《わうれう》し、推《おし》て國主《こくしゆ》と稱すれども、神餘が爲にこれを討《うた》ず、阿容々々《おめおめ》と下風《かふう》に立《たち》て、共に濁《にごり》を受《うけ》給へば、民の誹謗《そしり》も宜《むべ》ならずや。某《それがし》この事を申シ入れて、用《もちひ》らるゝこともあらば、犬馬《けんば》の勞を竭《つくさ》ん、と思ひしはそらだのめにて、出陣《しゆつぢん》の准備《ようゐ》も見えず、絕《たえ》てその議に及《およば》れねば、寸志《すんし》を演《のぶ》るよしもなし。わが主從《しゆうじゆう》の剛臆《ごうおく》のみ、只管批評《ひたすらひゝやう》せらるれ共、神餘が爲に定包を、討《うた》ざるは勇もなく、義もなき武士は憑《たのも》しからず。今はしも是《これ》まで也。罷出《まかりいで》ん」、といひあへず、席を去《たゝ》んとし給へば、景連急《かげつらきう》に呼《よぴ》とゞめ、「方寸《ほうすん》を吿《つげ》ざれば、さおもはるゝも理《ことわ》り也。今霎時坐《いましばしざ》し給へ」、ととゞむる右手《めて》へ立遶《たちめぐ》る、信時は些《ちつと》も擬議《ぎき》せず、「しらずや義實、けふわがこゝに來たりしは、をさ/\軍議《ぐんぎ》の爲なれど、謀《はかりこと》は密なるをよしとす。はじめて面《おもて》を見る和主《わぬし》に、かろ/\しく何をか吿《つげ》ん。俺們《われわれ》が勇ありや、なしやをみづからしらんとならば、まづこの刃《やいは》に問《とへ》かし」、と敦圉《いきまき》ながら反《そり》うちかへす、刀の鞆《つか》に手を掛《かく》れば、さらでも由斷《ゆだん》せざりける、氏元も貞行も、主《しゆう》のほとりに衝《つ》と寄《より》て八方《はつほう》へ眼《まなこ》を配《くば》れば、麻呂が從者《ともびと》これを見て、握《にぎ》る拳《こぶし》を捺《さすり》あへず、頻《しき》りに膝《ひざ》を進めたり。そのときあるじ景連は、慌忙《あはてふため》き橫ざまに、信時を抱《いだ》き禁《とゞ》め、耳に口をさし著《つけ》て、何事《なにごと》やらん說諭《ときさと》し、軈《やが》て左右を見かへりて、頤《おとがひ》をもてしらすれば、安西が近臣|等《ら》、麻呂が從者《ともひと》もろ共に、遽《いそがは》しく立《たち》かゝりて、次の房《ま》へ伴《ともな》ひぬ。かゝりけれども義實は、扇《あふぎ》の鹿目《かなめ》走らしながら、うち見たるのみ爭《あらそは》ず、席上《せきせう》ます/\失興《しらけ》にけり。
當下《そのとき》安西景連は、舊《もと》の處にかへりをり、「義實|何《なに》とか思ひ給ふ。一言《いちごん》の下《もと》に死を爭ふは、武士《ものゝふ》の風俗《ならひ》なれども、麻呂|氏《うぢ》は戲《たはふ》れ也。こゝろになかけられそ。しかれども、時と勢《いきほひ》をしるものは、堪忍《たへしの》ぶをもて危《あやう》からず。かくはしば/\試みたるに、和殿《わとの》は寔《まこと》にその人なるべし。よしや結城《ゆうき》の守將《しゆせう》なりとも、今この浦に流浪《さそら》ひて、わが一陣《いちゞん》に走加《はせくはゝ》り、彼《かの》定包を討《うた》んとならば、わが軍令《ぐんれい》に背《そむ》きかたけん。士卒《しそつ》と共に忠《ちう》を抽《ぬきんで》、戰場《せんぢやう》に大功あらば、恩賞《おんせう》の沙汰《さた》なからんや。素性《すぜう》に誇り、才《さえ》を憑《たの》み、わが手に屬《つく》を愧《はづ》るとならば、これ軍令に背くもの也。さでは決して用ひがたし。和殿一己《わどのいつこ》のちからをもて、彼賊《かのぞく》をうち滅《ほろぼ》し、瀧田《たきた》の城を取りねかし。二郡のぬしにならるゝとも、露《つゆ》ばかりも憾《うらみ》なし。かゝればゆくも留《とゞま》るも、只《たゞ》この一議にあらんのみ。心を定めて回答《いらへ》をせよ」、と辭《ことば》もこゝに更《あらたま》る、難義《なんぎ》としれど些《すこし》もいなまず、「繋《つなが》ぬ舟《ふね》となりしより、よるべの岸こそ身のぬしなれ。こゝに庇覆《みかげ》を蒙《かうむ》りて、用《もちひ》らるゝことあらば、何事《なにこと》を嫌《きら》ふべき。うらなく仰《あふせ》候へ」、といはれて景連うち點頭《うなつき》、「しからば事のはじめ也。|努々違背《ゆめゆめいはい》あるべからず。わが家《いへ》の嘉例《かれい》として、出陣《しゆつぢん》の首途《かどいで》に、軍神《いくさがみ》を祭ることあり。その胙《ひもろぎ》には大きなる、鯉魚《こひ》を備《そなふ》ることになん。わが爲に鈎《はり》をおろして、この鯉《こひ》を釣《つり》もてかへらば、よき敵と組擊《くみうち》して、頸《くび》を得たるに同《おなじ》かるべし。こゝろ得たりや」、と說示《ときしめ》せば、義實|固辭《いなむ》けしきなく、「承《うけたまは》り候ひぬ」、と應《いらへ》てやがて立《たゝ》んとせし、主《しゆう》の後方《あとべ》に侍《はペ》りたる、氏元貞行は左右より、その袂《たもと》を引《ひき》とゞめて、兩人|齊一《ひとしく》進み出《いで》、「安西公《あんさいこう》へ申ス也。嘉例とは宣《のたま》へども、竿《さを》を斜《なゝめ》にして舟に睡《ねふ》り、鈎《はり》を下《おろ》して魚《うを》を捕《と》る、その智は漁夫《ぎよふ》にますものなし。これらは武士のせざる所、義實には似げなき技《わざ》也。君《きみ》はづかしめらるゝときは、臣《しん》死すとこそ古人《こじん》もいへ。只僕等《たゞやつがれら》が首《かうべ》をもて、胙《ひもろぎ》となし給えかし、といはせも果《はて》ず景連は、氏元等を佶《きつ》と嫉視《にらまへ》、「彼奴甚無禮《かやつはなはだぶれい》也。義實は法度《はつと》をおそれて、既《すで》に承諾《せうだく》せし事を、化耳拔《あだみゝぬか》して何《なに》とか聞《きゝ》たる。その家僕《かぼく》として憚《はゞかり》なく、わが軍令《ぐんれい》を犯したる、罪|尤輕《もつともかろ》からず。彼牽出《あれひきいだ》して斬《きつ》て棄《すて》よ」、と烈《はげ》しき怒りを物ともせず、氏元貞行ます/\進みて、說果《ときはた》さんとしたりしかば、義實これをいたく叱《しか》りて、閒遙《あはひはるか》に退《しりぞか》せ、彼等が爲に賠語《わび》給へば、景連やうやく氣色《けしき》をおさめ、「しからば鯉《こひ》を見るまでは、彼奴等《かやつら》を和殿《わどの》にあづけん。和殿|手親釣《てつからつり》もて來《こ》よ。それも三日に限るべし。等閑《なほさり》にして日を過《すく》さば、白物等《しれものら》がうへのみならず。こゝろ得てよ」、と他事《たじ》もなく、いはるゝ每《ごと》に義實は、恭《うやうや》しく領諾《れうだく》し、「しからば旅宿《りよしゆく》へまからん」とて、うらみ㒵《がほ》なる老黨《ろうだう》を、いそがし立《たて》て出《いで》給へば、次の房《ま》に竊聞《たちぎゝ》たる、麻呂小五郞信時は、綟子障子《もじせうじ》を聞《ひら》かして、冷笑《あざわら》ひつゝ且《しばら》く目送《みおく》り、あるじのほとりへ立寄《たちより》て、「安西ぬしいと手ぬるし。などて里見が從者等《ともびとら》を、助けてかへし給ひたる。われは只管《ひたすら》義實を、擊果《うちはた》さんとしつれども、和殿が盾《たて》となり給へば、綱裏《もうり》の魚《うを》を走らしたり」、と喞《かごと》がましく呟《つぷや》けば、景連|聞《きゝ》てうちほゝ笑《え》み、「われも又はじめより、用意《こゝろがまへ》はしたれども、義實は名家《めいか》の子なり、小冠者《こくわじや》なれども思慮才學《しりよさいかく》、凡庸《よのつね》のものにあらず。又|從者等《ともびとら》が面魂《つらたましひ》、一人當千《いちにんたうせん》といふべき欤《か》。さるを漫《そゞろ》に手を下《くだ》さば、こゝにも夥《あまた》人を殺さん。獸窮《けものきう》すれば必囓《かならずかみ》、鳥窮《とりきう》すれば必啄《かならずつゝ》く。況勇將猛卒《いはんやゆうせうもうそつ》なり。徒《たゞ》手を束《つかね》て刃《やいば》を受《うけ》んや。窮鳥懷《きうちやうふところ》に入《い》るときは、獵師《れうし》も捕らずといふなるに、今|定包《さだかね》を討《うた》ずして、怨《うらみ》なき人を殺さば、民の誹謗《そしり》は日にまして、遂《つひ》に大事《だいじ》を成《なし》がたかるべし。さればとて義實を、この處へ留《とゞ》めては、猛獸《たけきけもの》を養ふごとく、早晚寤寐《いつしかねさめ》安からず。こゝをもて、首鼠《しゆそ》兩端《りやうたん》に言《こと》をよせて、彼《かの》主從が雅慢《がまん》を壓《おさえ》、祭祀《まつり》の贄《にゑ》を求めしは、陷阱《おとしあな》を造るもの也。安房一國には鯉《こひ》を生《せう》せず。是《これ》その風土《ふうど》によるもの欤《か》。彼奴等《かやつら》これをしらずして、淵《ふち》に立《たち》、瀨《せ》に涉獵《あさり》、いたづらに日を過《すぐ》し、手を空《むなしう》してかへり來《こ》ば、軍法《ぐんほう》をもてこれを斬《きら》ん。かくては殺すもその罪《つみ》あり。わが私《わたくし》といふべからず。われ豈《あに》彼を助《たすけ》んや」、と誇㒵《ほこりが》に說示《ときしめ》せば、信時は笑坪《えつぼ》に入《いつ》て、掌《たなそこ》を丁《ちやう》と鼓《うち》、「謀得《はかりえ》て極《きはめ》て妙《めう》也。現愸《げになまじい》に擊走《うちはし》らし、義實|瀧田《たきた》に赴《おもむ》きて、定包に從はゞ、虎《とら》に翼《つばさ》を添《そふ》る也。さりとてこなたに用ひなば、庇《ひさし》を貸《かし》て母家《おもや》を損《そこな》ふ、悔《くひ》なしとはいひがたし。留《とゞめ》て後《のち》にこれを殺す、謀《はかりこと》にますものなし。吁《あゝ》奇なるかな、妙《めう》なり」、と只管賞嘆《ひたすらせうたん》したりける。
かゝりし程に義實は、白濱《しらはま》なる旅宿《りよしゆく》へとて、步《あし》の運《はこぴ》をいそがし給へど、途《みち》いと遙《はるか》なりければ、かへりも著《つ》かで日は暮《くれ》たり。抑《そもそも》安房の白濱《しらはま》は、朝夷郡《あさひなこふり》の內にして、和名鈔《わめうせう》にその名見えて、いとも舊《ふり》たる鄕《さと》になん。瀧口村《たきくちむら》に接《つゞく》といふ。今は七浦《なゝうら》と唱《となふ》るのみ、この濱邊の摠名《さうめう》なり。里見|氏《うぢ》の舊趾《ふるきあと》、その寺などもこゝにあり。所謂《いはゆる》安房の七浦は、川下《かはしも》、岩目《いはめ》、小戶《をと》、鹽浦《しほうら》、原《はら》、乙濱《おとのはま》、白閒津是《しらまつこれ》也。
閒話《むだはなし》はさておきつ。義實は、その曉《あけ》かたに、白濱へかへりつゝ、目睡《まどろみ》もせで漁獵《すなどり》の、用意《こゝろかまへ》をし給へば、氏元貞行|歡《よろこ》ばず、「君なほ曉《さと》り給はずや。信時は匹夫《ひつふ》の勇者、景連は能《のう》を忌《い》み、才《さえ》を媢《そねみ》て甚僻《はなはだひがめ》り。我《われ》を見ること仇《あた》のごとく、憑《たのも》しげなき人の爲に、鯉《こひ》をあさりて何《なに》にかはせん。はやく上總《かつさ》へ赴《おもむ》きて、その毒惡《どくあく》を避《さけ》給へ」、ともろ共に諫《いさめ》しかば、義實|頭《かうべ》をうち掉《ふり》て、「否《いな》、伱達《なんたち》が異見《いけん》はたがへり。麻呂安西《まろあんさい》が人となり、利には親《したし》く、義に疎《うと》かり。口と行《おこなひ》はうらうへにて、定包をおそるゝのみ、瀧田を討《うつ》のこゝろなし、としらざるにあらねども、こゝを避《さけ》て上總《かづさ》へ赴き、彼處《かしこ》も又|如此《しか》ならば、下總《しもふさ》は敵地《てきち》也。そのとき何處《いつこ》へ赴くべき。君子は時を得て樂《たのし》み、時を失ふても亦樂《またたのし》む。呂尙《りよせう》は世にいふ太公望是《たいこうばうこれ》なり。齡七十《よはひなゝそぢ》に傾《かたふ》くまで、よに人のしるものなし。渭濱《いひん》に釣《つり》して文王《ぶんわう》に値偶《ちぐ》し、紂王《ちうわう》を討滅《うちほろぼ》して大功あり。齊國《せいのくに》に封《ほうぜ》られて、子孫|數十世《すじつせ》に傳へたり。太公望すらかくのごとし。われは時《とき》と勢《いきほひ》と、兩《ふたつ》ながら失ふもの也。釣《つり》する事を嫌《きらは》んや。且鯉《かつこひ》はめでたき魚《うほ》也。傳聞《つたへきく》、安南龍門《あんなんりうもん》の鯉、瀑布《たき》に泝《さかのぼ》るときは、化して龍《たつ》になるといへり。われ三浦《みうら》にて龍尾《りうぴ》を見たり。今|白濱《しらはま》へ來るに及びて、人《ひと》又|鯉《こひ》を釣《つれ》といふ。前象後兆憑《ぜんせうこうちやうたのも》しからずや。獲《えもの》あらば齎《もたら》して、景連がせんやうを、姑《しばら》く見んと思ふかし。曉《あけ》なば出《いで》ん」、といそがし給へば、氏元も貞行も、その高論《こうろん》に感服《かんふく》して、釣《はり》を求め、竿《さを》をとゝのへ、割籠《わりご》を腰に括《くゝり》著《つけ》て、主從|三人《みたり》、名もしらぬ、淵《ふち》をたづねてゆく程に、森の烏《からす》も梢《こずゑ》をはなれて、天《よ》はほの/″\と明《あけ》にけり。
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入力:松本修治
校正:松本修治 2005年3月25日、2005年6月10日
編者修正:2025年3月31日
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