後退りの記(005)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」晶文社
◎渡辺一夫「ある王公の話-アンリ四世」(「フランス・ルネッサンスの人々」(岩波文庫)所収)
◎渡辺一夫「寛容《トレランス》は自らを守るために不寛容《アントレランス》に対して不寛容になるべきか」(トーマス・マン「五つの証言」(中公文庫)所収


1572年8月24日のサン・バルテルミの虐殺に触れる前に、少し、渡辺一夫さんの発言を聞こう。渡辺さんは「フランス・ルネッサンスの人々」の中で、ルネッサンスから少し時代を下った、アンリ四世の話題を取り上げている。激烈な宗教対立のなか、よほど、印象深い人物だったのだろう。また、プロテスタントからカトリック、あるいはその逆の転向を選択したのも、ナントの勅令(Wikipedia)につながる「宗教的寛容」として、評価している。さらには、後年には国々の軋轢を抑制、調停する国際機関も構想していたという。カントの「永久平和論」に先立つこと200年も前のことである。彼の政治的思惑や実際的な行動を別にしても、きわめて現代的でもある。ハインリッヒ・マンの弟にあたるトーマス・マン「五つの証言」(渡辺訳)所収の評論では

秩序は、守らなければならず、秩序を紊す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきだろう。しかし、その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得させるような結果を持つ制裁でなければならない。…既成秩序の維持に当る人々、…その秩序を紊す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を受けている秩序が永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を紊す人々の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきだろう。

上記の文章を引いたのは、昨今の状況に鑑みると、十分にアクチュアルだが、特定の個人を念頭に置いたものではないので、誤解なきよう…

渡辺一夫評論を補強する意味で、写真は、鷲田清一「折々のことば」(朝日新聞)(ツイート裕次郎より)

日本人と漢詩(076)

◎武田泰淳と杜甫

先日亡くなった大江健三郎の師ともいうべきフランス文学者・渡辺一夫にとってのラブレー、機会があれば紹介予定の「下谷叢話」( 青空文庫)を書いた永井荷風にとっての江戸後期文化、今回の武田泰淳にとっての司馬遷を始めとする中国文学(戦時中、殺戮の歴史というべき、中国通史「資治通鑑」を読み終えた中井正一も付け加えてもいいかもしれない。)は、彼らにとっては時代の風潮に対する抵抗の拠り所になった。彼らの時代とはまた違う困難な現代を生きる私たちにとって、そのよすがが何であるかをふと考えたくなる。
さて、武田泰淳には、戦後、数年を経て短編「詩をめぐる風景」が発表された
そのエピグラフにはこうある。

ー円き荷《はす》は小さき葉を浮かべ
細き麦は軽き花を落すー杜甫

詩の全体は、以下の通りで、五言律詩の頷聯《がんれん》である。

爲農 農と為る
錦裡煙塵外 錦里《きんり》煙塵《えんじん》の外
江村八九家 江村《こうそん》八九家
圓荷浮小葉 円荷《えんか》小葉浮かび
細麥落輕花 細麦《さいばく》軽花落つ
卜宅從茲老 宅を卜《ぼく》して茲これ従り老いん
爲農去國賒 農と為って国を去ること賒《はる》かなり
遠慚勾漏令 遠く勾漏《こうろう》の令に慚《は》ず
不得問丹砂 丹砂を問うことを得ず

語釈、訳文は、杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会
古代文化研究所:第2室などを参照。

『杜甫にとって安住の地であった、蜀成都の草堂も彼にとって安住ばかりはできなかったようだ。『杜甫の奴僕たちにとっては草堂は宿命のようなものである。……奴僕たちは他の世界を知らない」として、外の世界に開かれない宿命をもった奴僕に対し、杜甫は外界を求めてさまよう宿命にあった。「草堂は永いこと杜甫の脳裏にえがかれた幸福の象徴であった。……自然にひたり、草木にうずもれて詩の世界をひろげるために、杜甫は草堂を求めていた」。杜甫は「草堂」という「混沌世界の中に占める自分の一点」を維持してこそ、「幸福の象徴を追い求めながら旅をつづける文学者の生き方」ができたのだと泰淳は描く。
そのような生き方を選ぶ理由を、泰淳は「詩をめぐる風景」という小説において次のように説明する。「安定できず安住できない自分というものが、自分の詩の不安ではあるが新鮮な泉になっている」、「次から次へあらわれてくる諸現象、そしてそれをむかえての自分のもろもろの精神状態のごく複雑な総合が自分の詩をささえている。……それ故、自分の外界が安定しないばかりでなく、自分の内心そのものが広い広いとりとめもない混沌世界であるように思われる。」泰淳が描いた杜甫は、戦乱によって引き起こされる内心の葛藤こそが詩を作る原動力であることを知り、安穏とした草堂生活に留まることができず、「家」を捨て、「漂泊の生涯」を送る詩人であった。』

王俊文 中国戦地の風景を見つめる「喪家の狗」―武田泰淳の日中戦争体験と「風景」の創出― より

逆に、彼はそうした心情を素直に吐露することで、成都の自然(この詩では、円き荷と細き麦)とうまく重ね合わせたくみに詩情を詠いあげているように思われる。「農と為る」は為りきれない彼の吐露をのぞかせる詩題であろう。それにしても、小説では、農奴である阿火と阿桂の若きカップルの結末が哀れである。

成都の草堂は、チベット・ラサからの帰り道、成都に宿泊、そのついでにたっぷり一日訪れたことがある。もちろん、杜甫の時代の草堂とは大違いで、大規模に整備もされ、効率よく杜甫の生涯を辿ること可能だが、散策の道には人も少なく、彼の真情に少し触れることができた。

【参考】
・武田泰淳「中国小説集 第二巻」新潮社(写真)

後退りの記(004)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎アレクサンドル・デュマ「王妃マルゴ」
◎萩尾望都「王妃マルゴ」

アンリ・ドュ・ナヴァール(後のアンリ四世)は、1572年、人生の大きな転換点を迎えることは、前回に述べた。時の王母カトリーヌ・メレディスの娘、マルゴリットと結婚したことは、その一つであった。王族の婚姻はご多分に漏れず、政略や思惑の上にあっていることは例外ではあり得ない。実の母を毒殺したとのうわさもあるカトリーヌの縁者など常識では考えられない。しかし、そうしたことをのり越えて、アンリにとっては案外慧眼であったのかもしれない。のちのち、マルグリット王妃は、彼にとっては、結果的にはキーパーソンになる要素があるからだ。
アンリにとって、マルゴは幼いころに知り合ったかもしれないが、決して愛愛の相手ではないし、マルゴにしてもカトリック派の首領、ギーズ公との関係が深かったかもしれないが、同様である。その後のアンリも愛妾には事欠かなかったようだ。
第一巻だけだが、萩尾望都の少女漫画を久しぶりに読んだ(ないし眺めた)が、少女時代のマルゴの描写が興味を引いた。周囲に信仰が少しだけ異なるだけで、簡単に人を殺める風潮に、きっぱりと「私は人を殺さない」の決意するところなど、彼女のその後の人生を形作る元になったのだろう。母のカトリーヌとは違う気質のようだ。
デュマも二人の結婚直前から小説を起こしている。その二人の会話
「承知しましたわ」彼女はいった。
「政治的同盟、誠実で忠実な同盟を?」アンリはたずねた。
「誠実で忠実な同盟を」マルゴは答えた。

「ありがとう、マルグリット。…あなたの愛を手に入れるのは無理にしても、友情は欠けていない。あなたを当てにしています。あなたもわたしを当てにしください。」

ナヴァール王はかすかに笑いながらつけ加えた。「わたしは、恋愛の貞節よりも、政治の忠実さを必要としているのです」
本邦の同時代の夫婦で言えば、織田信長と濃姫に比することができようか。

日本人と漢詩(075)

◎一海知義と中国留学生

本箱が、本の重みで一部棚が落ちてしまった。仕方なく新調することにして、並べていた書物を取り出したが、パラパラめくり、中には熱中し、読み返しの連続で、なかなか作業が進行しない。漢詩を中心とした時折の随想を集めた著書で、7年前に物故の、一海知義先生の本があったので、結局読みふけってしまった一本の一つである。そのなかに、「『文革』を批判した漢詩」という一節があった。
思えば、1989年の第二次天安門事件から、やがて34年が経とうとしている。その弾圧の首謀者の一人、李鵬(Wikipedia)も亡くなってしまった。天安門事件の2年後、1991年3月20日、「人民日報」海外版にアメリカ留学生の、李鵬を諷する漢詩が投稿された。さすがに「人民日報」もその寓意は理解できなかったようだ。
ちょうど今の時期、中国では全人代が開催されている。前回だったかの会議の直前には、当方は中国滞在中であったが、会議の始まる前に、なかば強制的に中国から追い払われ、予定を切り上げ、日本に帰国した。今回もそうした強権発動があったことだろう。そして天安門事件などなかったように、習体制の賛美に終始することだろう。

東風拂面催桃李 東風(はるかぜ)面《おもて》を払いて桃李を催《うながせ》ば
鷂鷹舒翅展程 鷂鷹(とんび)《ようとう》翅《はね》を舒《のべ》て鵬程を展ず(鵬とおなじように遠くまで飛ぼうとする)
玉盤照海熱涙 玉盤(白玉の大皿のような月)を照せば熱涙下《くだ》り
遊子登思故城 遊子(たびびとである私は)台に登りて故城(故郷の町)を思う
休負生報國志 負《そむ》く休《な》かれ平生国に報いんとする志に
育我勝萬金 人民の我を育《はぐ》くむこと万金に勝《まさ》れり
起急追振華夏 憤起急追して華夏(祖国中国)を振《ふる》わさんも
且待神洲遍地春 且《しばら》く待たん神洲(中国)の地に遍《あまね》きの春を

第一句の最後の文字から斜め上にたどり、第八句をそのまま読むと、
李鵬、台より下《くだ》れば、民の憤《いきどお》りを平らげん、
且《しばら》く待たん神洲の地に遍《あまね》きの春を。

なお、Wikipedia 掲載の詩とは若干の異同がある。

汚職の噂も絶えない李鵬が内閣、大臣をやめれば、民衆の怒りもしずまり、春の訪れも期待できるだろう。それまでは、忍耐がつづくかもしれないが…

天安門事件で、旗を振りながら素手で戦車に立ち向かった一人の若者がいた。彼を想いながら、上記の漢詩に倣って、短歌を一つ。

いはざり
はたにおり
かぜには
とわ()つたゑかし
づつにむかひて

「『文革』は本質的にはまだ決着がついていません。しかしほんとうにそこから脱却する日は必ず来るでしょう。中国人民の批判精神と楽天性、私はそこに信頼をおき、期待しています。」(一海知義)
写真は、事件以前の天安門(1988年 Wikipediaより)
【参考】
一海知義「詩魔ー二十世紀の人間と漢詩」 藤原書店
 

後退りの記(003)

◎堀田善衛「ラ・ロシュフコー公爵傳説」
◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」

「われわれの美徳は,ほとんどの場合,偽装した悪徳に過ぎない。」人口に膾炙したこの句は、高校時代山仲間だったN君の口癖だった。ある意味、温厚だったモンテーニュの口調とはひと味ちがう感触に驚いたものだった。それがラ・ロシュフコー「箴言と考察」という本を知るきっかけだった。

1572年は、フランスにとって多事多難な年であった。アンリ四世(当時皇太子)の母が、ナバラ王国女王ジャンヌ・ダルブレ(Wikipedia)が、息子のマルグリット(マルゴ)王妃との結婚式に列席するため、パリに赴く途中で急死した。ライバル・カトリーヌ・ド・メディシス(Wikipedia)が、毒殺したとの噂が絶えなかった。母の遺言を結婚式に向かうアンリに託したのが、フランソワ・ラ・ロシュフコー(三世)であると、ハインリッヒ・マンは書く。三世は、「箴言と考察」の著者の曽祖父にあたる。その後、サン・バルテルミの虐殺(Wikipedia)という大悲劇が起こった。その結果、その頃は、プロテスタントだったフランソワ・ラ・ロシュフコー(三世)は、パリの路上で殺されてしまったのである。その後は、当代の六世に到るまで、ラ・ロシュフコー家にとって苦難の日々だったのである。フランス絶対王政の確立の契機となったフロンドの乱(Wikipedia)では、当代は瀕死の重傷を負うが、それは後の話となるので、機会があれば言及するだろう。

日本人と漢詩(074)

◎成島柳北


仏蘭西《フランス》がらみの話題である。

成島柳北(1837-1884)は、幕末から明治にかけての人、当初は幕臣にて、荻生徂徠からの系譜で儒官であった。遊蕩にも精をだしたらしく、「柳橋新誌」なる戯作も著した。森繁久彌も時代を下っての縁者らしい。(Wikipedia)その柳北は、維新後、「東本願寺法主の大谷光瑩の欧州視察随行員として1872年(明治5年)、共に欧米を巡る。」その時にパリとベルサイユを訪れたときの詩。

巴里雜詠 巴里雑詠(四首のうち二首)
一.
十載夢飛巴里城 十載《じつさい》 夢は飛ぶ 巴里城《パリじよう》
城中今日試閑行 城中 今日《こんにち》 閑行《かんこう》を試《こころ》む
畫樓涵影淪渏水 画楼《がろう》影を涵《ひた》す 淪渏《りんい》の水
士女如花簇晚晴 士女《しじよ》 花の如く晩晴に簇《むら》がる
閑行:のんびり歩くこと。
淪渏:さざ波。
二.
五洲富在一城中 五洲《ごしゆう》の富 一城の中《うち》に在《あ》り
石叟陶公比屋同 石叟《せきそう》 陶公《とうこう》 比屋《ひおく》同じ
南海珊瑚北山玉 南海の珊瑚《さんご》 北山の玉《たま》
廛廛排列衒奇工 廛廛《みせみせ》 排列《はいれつ》して 奇工《きこう》を衒《てら》う
五洲:全世界。
石叟:晋の石崇。富裕の人。
陶公:中国・春秋時代、越王勾践に仕えた范蠡《はんれい》。のちに斉に移り、巨万の富を築いた。
比屋:どの家も。

烏児塞宮 烏児塞宮《ウエルサイユきゅう》

想曾鳳輦幾回過 想《おも》う 曾《かつ》て鳳輦《ほうれん》幾回《いくかい》か過《よぎ》り
来与淑姫長晤歌 来《きたり》て淑姫《しゅくき》と長く晤歌《ごか》せしを
錦帳依然人未見 錦帳《きんちよう》依然たるも 人見《み》えず
玻璃窻外夕陽多 玻璃《はり》窓外《そうがい》 夕陽《せきよう》多し

烏児塞宮《ウエルサイユきゅう》:バロア朝時代のルーブル宮からブルボン朝のルイ十四世(アンリ四世の孫)から王宮はパリ郊外のベルサイユに移された。
鳳輦:フランス歴代の王や皇帝の馬車。
淑姫:貞淑で美しい婦人
晤歌:一緒に歌う。詩経陳風「東門之池」「彼の美なる淑姫、与《とも》に晤歌すべし」
依然:昔のまま。

成島柳北は、他の多くの官僚・知識人と同様に、福沢諭吉のいうごとく、江戸時代から明治にかけて「二世を生きた」ことは間違いない。でも、成島は、福沢のように、近代的な自己を持つことはついにできなかった。(もちろん、後年の福沢が唱えた「侵略主義」的主張を是とはしないが…)成島がパリを訪れた、1872年といえば、前年、パリコミューンが樹立されたが、約半年で崩壊させられ、徹底的な弾圧の嵐が吹き荒れていた直後であるが、彼の詩情では一顧だにされない。かろうじて、ヴェルサイユ宮から見た夕陽が、普仏戦争、パリコミューンを経た大仏帝国の落日を象徴するとも言えるだろう。

写真は、Wikipedia から
【参考文献】江戸詩人選集第十巻 成島柳北 大沼沈山 岩波書店