後退りの記(007)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎ツヴァイク「メリー・スチュアート」
◎井上 究一郎訳「ロンサール詩集」(岩波文庫)

フランソア二世(在位1559 – 1560年)は、アンリ二世の后妃カトリーヌ・ド・メレディスの長子であったが、幼少時代より病弱で、即位前の1558年
にメリー・スチュアートと結婚するが、早くも彼女は Widow となる。その結婚時代、二人の出自や気質の大きな違いだろうか、カトリーヌとメリーは世に言う「嫁姑」の関係だったようだ。もっとも結婚自体が、フランスが、イギリスの王位継承権を頂こうというカトリーヌ側の打算的なものだったのだが…
そのフランス朝廷時代に、メリーは、フランス詩の改革にも意欲的だった詩人 ピエール・ロンサールと出会い、心を通わせたようだ。ロンサールは、以下のようなみずみずしいソネットやオードを得意としていた。Wikipedia では、他に二篇の詩の訳文が掲載されている。

カッサンドルへのソネット

あの褐色の二つの眼、私の生命の焔、
その稲妻は私に眼つぶしをくわせ、
私の青春の自由を捕え、
それを縛って獄舎に投じた。

私の理性はあなたのやさしい火に奪われた、
そんなにもあなたのすばらしい美にまなこくらみ、
誠をつらぬき通そうと、それ以来、
他のどんな眼も見たいとは思わなかった。

他のどんな暴君の拍車にも刺激を受けず、
他のどんな思想も頭に宿らず、
他のどんな偶像も私は心にあがめない。

私の手には他のどんな名もうまく書けない、
私の紙には何一つちりばめられない、
私の筆に描かれるあなたの美をほかにしては。
『恋愛集』(1552年)

フランソア二世を喪ったメリーの姿を見て、ロンサールは詠う。

ながく、こまやかな、うすい、紗の、
襞《ひだ》また襞とうり重なる
白い喪服は、お顔から腰まで、
覆いの役をつとめる。
この白衣は、風が小船にふきつけて、前へとすすませるおりの、
一枚の帆にも似てふくらむ。
御身は、このような服につつまれて、
かつてはその御手に王杖をにぎられたこの美しい国から、
ああ、悲しいかな!立ちさりたもう御身は、
うれいに沈み、御身の胸を
流れる涙のうるわしい水晶で濡らしつつ、
かなしげに、その名を水の美より借りた王宮の
広い御苑の長いこみちを
あゆまれていた。

それに対して、政治的な陰謀も駆使したが、詩人としての資質も多少なりともあったメリーの「応答」らしいものが、フランソア二世への追悼として残っている。

たえまなく私の心は
なきかたをいたむ。
ときおり、空のかなたに
私のめが向かうおり
あのかたのやさしいまなざしを
私は雲のなかにみとめる。
突如として私は水のなかに、あのかたの姿をみる。
墓のなかにおられるように。
私がやすらっていて
ふしどの上でまどろんでいるおりに、
私は、あのかたが私にふれるような気がする。
くるしみにつけ、やすらいにつけ、
つねにあのかたは私のかたわらにいる。

ロンサールも、その後の激烈な宗教対立と無縁ではない。王母さまとは、カトリーヌのことだろう。

王母への論説詩[断片]

王母さま、自然のふところにフランス人と生まれた私、
その私が、来るべき諸世紀に、わがフランスを満たしている
この苦しみと極度の不幸とを語らなかったら、
それはなんという木石でございましょう。
フランスの生みの子らが、その親たる国をひっ捕らえ、
衣服を剥がし、野蛮にも死ぬほどにたたきのめした
このさまを、鉄のペンで鋼《はがね》の紙に書きしるし、
ひろく世界に後世に問おうとするのでございます。
[……]
こんにち、君がことごとく武器で満たし、
おびただしい数の甲冑を群がらせ、
略奪に燃えた貪婪《どんらん》の軍隊で満たしている土地、

もし君がこの国にいい子であるならば、
いまこそできるその養育の恩をかえし、
君の軍隊を撤し、ジュネーヴの湖に、
(呪うべきものとして)その武具を沈めよ。
装填した福音書をフランスに説くな。
硝煙で黒焦げのピストルをもつキリストを、
人の血で染む赤い大きな刀をひっさげ、
鉄兜をいだいたキリストを、フランスに説くな。
[……]
(『続当代惨禍論説詩』から 1562年)

ロンサールは、立場上、カトリック寄りだったのかもしれないが、そういうことを離れても、現在なお続く、宗教対立や人種差別などといった「共同幻想」を口実とした殺戮に対して、彼の心からの怒りが伝わって来る詩句である。バルテルミー以後、ロンサールの詩は、静かだが、どこか悲哀に満ちたものになる。

マリーの死を悼《いた》むソネット

五月、瑞枝《みずえ》に 初花の
若さをひらく ばら見れば、
暁《あけ》の涙にうるおいて
空もねたまん あざやかさ

愛と優雅を宿らせて、
庭も木立も香に匂う、
されどはげしき雨に、陽に、
病みてほろほろ散りゆかん。

花のならいか、あめつちの
讃えし若さ、君が美も、
灰となりたり、みまかりて。

涙と嘆き、乳と花、
ささぐる供物《くもつ》 受けよかし、
きみとこしえに ばらなれと。
『総合作品集』 1578年

当方「きみとこしえに ばらなれと」と言える状況にあこがれはするが、そうしたことはもう決してこないだろうな。死にあたり、ロンサールは次の語句を残したそうだ。

Adieu chers compaignons, adieu mes chers amis,
Je m’en vay premier vous preparer la place.
さようなら、親しい仲間、さようなら、なつかしい友らよ、
私は先に行って、君たちの席をもうける。

ロンサールの死後、2年でメリーは処刑される。その前には、彼女は、スコットランドにわたり、ロンサール前期詩の「優雅な」環境から離れ、シェイクスピア的世界ーマクベス的状況に直面することになるが、それは別の話題としていずれまた…

日本人と漢詩(078)

◎高橋和巳と(陳舜臣と)六朝詩選(曹植、阮籍、無名氏)

学生時代、高橋和巳が中国文学者出身とは知らずに読みふけっていた。柴田翔の「されど我らが日々」から続くわが人生において、彷徨といえばカッコいいが、「ネクラ」と言っていい時期からようやく抜けきろうとしていたのと重なる。周囲からは文字どおり白い眼で見られていただろう。吉川幸次郎門下の彼が、歴代の漢詩の歴史から、分担執筆したのが、「六朝詩選」とあるが、実は詩経から始まり「漢」「三国」から「南北朝」の「古詩」の世界。彼の文学的淵源がここにありそうだ。

雜詩 曹植

轉蓬離本根 転蓬《てんぽう》は本《もと》の根を離れ
飄颻隨長風 飄颻《ひょうりょう》として長風に随《したが》う
何意迴飆舉 何んぞ意《おも》わんや 迴飆《かいほう》の挙《あ》がり
吹我入雲中 我を吹いて雲中《うんちゅう》に入れんとは
高高上無極 高高《こうこう》として上《あが》りて極《きわ》み無し
天路安可窮 天路 安《いずく》んぞ窮《きわ》む可《べ》けんや
類此遊客子 類《に》たるかな 此の遊客《ゆうかく》の子の
捐躯遠從戎 躯《み》を捐《す》てて遠く戎《じゅう》に従うに
毛褐不掩形《もうかつ》 形を掩《おお》わず
薇藿常不充 薇藿《びかく》 常に充《み》たず
去去莫復道 去《ゆ》去《ゆ》きて復《ま》た道《い》うこと莫《な》けん
沈憂令人老 沈憂《ちんゆう》 人をして老いしむ

【語注】轉蓬:風に吹かれ、根を離れて、丸くなってころがって行くヨモギ。 漢詩では、人が漂泊することのモチーフとなる 毛褐:毛皮のチョッキ 不掩形:体全体をカバーできない 薇藿常不充:わらびや豆の葉など粗末な食べ物では満腹にならない

訳は、私家版曹子建集を参考

曹植は、陳舜臣氏が挙げる次の詩も秀逸である。

野田黃雀行(Wikisource

高樹多悲風 高き樹に悲風多く
海水揚其波 海水 其《そ》の波を揚ぐ
利劍不在掌 利剣 掌《て》に在《あ》らずんば
結友何須多 結友 何ぞ多きを須《もち》いん
不見籬間雀 見ずや 籬間《りかん》の雀
見鷂自投羅 鷂《たか》を見て自ら羅《あみ》に投ず
羅家得雀喜 羅《あみ》する家《ひと》 雀を得て喜べど
少年見雀悲 少年 雀を見て悲しむ
拔劍捎羅網 剣を拔きて羅網《らもう》を捎《はら》えば
黃雀得飛飛 黄雀《こうじゃく》飛び飛ぶを得たり
飛飛摩蒼天 飛び飛びて蒼天《そうてん》を摩《ま》し
來下謝少年 来り下《くだ》りて少年に謝す

大樹(自らをに見立てる)には、風当たりも強くなる。海の波も波立つほどだ。鋭い剣を持たなければ友もできまい。ごらんよ、垣のところのスズメがタカを見て自ら網に引っかかった。仕掛けた人は喜んだが、若者(自分を指す)は悲しみにくれた。剣をはらって網を切るとスズメは飛びに飛び、青空まで届かんばかりだったが、今度は舞い降りて助けてくれた礼を言った。(そうしたいものだ。)
【語注】などは、Web漢文大系など参照。

詠懐 阮籍

其三
嘉樹下成蹊    嘉《よ》き樹として下に蹊《こみち》を成すは
東園桃與李    東の園の桃と李なれど
秋風吹飛藿    秋風の飛藿《ヒカク》を吹けば
零落從此始    零落は此《ここ》從《よ》り始まる
繁華有憔悴    繁華には憔悴有りて
堂上生荊杞    堂上には荊杞《ケイキ》を生ず
驅馬舍之去    馬を驅りて之れを舍《す》てて去り
去上西山趾    去りて西山の趾《ふもと》に上らん
一身不自保    一身すら自ずから保たざるに
何況戀妻子    何ぞ況《いわ》んや妻子を恋いん
凝霜被野草    凝《こご》れる霜は野の草に被《かむ》り
歳暮亦云已    歳,暮るれば亦た已《や》むを云えり

【語注】
嘉樹下成蹊:よい木のもとにはめでる人も多く集まり自ずからこみちができる 飛藿:豆の葉 繁華:はなやかな賑わい 堂上:宮殿の座敷 荊杞:いばら 西山:昔、伯夷と叔斉が、周の食べ物を拒否し、餓死したところ 凝霜被野草 秋の霜が凍り霜となり野の草を被う 云已:万事休す

阮籍は、竹林七賢の一人。客を迎えるに当たり、嫌な奴には、白眼を、歓迎するときは、青眼を向けたとある。いわゆる「白眼視」はここからの由来。時代は、こうした詩人にとって、決して軟なものではなかった。阮籍や陶淵明などは、刑死など免れた例外と言えるだろう。「政治の悪からのがれて山野にかくれようとしながら、なお仙化することも、餓死することもかなわず、心みだれて慟哭した彼の悲哀を、よく象徴するものといえる。」と高橋和巳は言う。

最後に、少々艶っぽい詩を二首。

子夜歌  其三 其七 普代呉歌

宿昔不梳頭 宿昔《しゅくせき》頭《こうべ》を梳《くしけず》らず
糸髪披両肩 糸髪《しはつ》両肩《りょうけん》を披《おお》う
婉伸郎膝上 郎《ろう》の膝上《しつじょう》に婉伸《えんしん》すれば
何処不可憐 何れの処《ところ》か可憐ならざる

始欲識郎時 始めて郎を識らんと欲せし時
両心望如一 両心《りょうしん》一の如きを望む
理糸入残機 糸を理《おさ》めて残機《(ざんき》に入る
何悟不成匹 何ぞ悟らん匹《ひつ》を成らざるを

訳文は、サワラ君の日誌を参照のこと。

六朝時代は、一癖も二癖もある詩人が多く、アクも強いが、それ故多感である。こうした傾向が民謡風の歌詞にも現れているのが興味を惹かれる。

とまれ、高橋和巳の文学は、それなりにアクチュアルだった時代から、半世紀が経った今は、その源も含め、トータルに向かい合わさなければならないのかもしれない。もっとも、彼の中国訪問の際の毛語録を読んでいるらしい「人民服」の姿は、「あの頃の文学者の多くが同じ心情だったんだ」以上の評価をすることしかできないし、あの時代、当方も含めて、中国に対して幾分「浮かれた」気分があったのだろう。

【参考】
・高橋和巳作品集 9 「中国文学論集」(河出書房新社)
・陳舜臣 「中国詩人伝」(講談社文庫)

後退りの記(006)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎佐藤賢一「黒王妃」(集英社文庫)

1572年8月24日のサン・バルテルミの虐殺は、突如として起こったものではない。ルターの宗教改革の提唱以来、各国で新旧教徒の衝突が繰り返していたが、1562年のヴァシーの虐殺は、それが大量殺戮という結果を生み出し、より大きな形で、バルテルミへとつながってゆく。思えば、フランス王朝、特にヴァロア朝は、スペイン、イギリスと違い、両派に曖昧な立場を取り続けた。ヴァシーの虐殺後、プロテスタントでの信仰の自由を一部認めたアンボワーズ勅令も和解までは至らなかった。この頃から、両派の「仲介役」として、伸してきたのが、イタリアメディチ家出身で故フランソア二世の王妃だったカトリーヌ・ドゥ・メディシスである。
ここでは、この「仲介者」というのが曲者である。現在でも、某超大国が、侵略国にその仲立ちを持ちかけているが、侵略国に向かって侵略をやめよ!と言うのが一番になされなければならず、仲裁はその後の話である。現に、十六世紀のフランスでは、最初はためらっていた息子のシャルル九世が、当初、プロテスタントのコリニーを父とも慕っていたが、結局は、殺戮の銃口の引き金を引かせたのも、カトリーヌだと言われている。疑えば、アンリ・ド・ナヴァール(後のアンリ四世)と娘のマルゴ王妃との縁組を用意し、その結婚式のために、パリにプロテスタント(ユグノー)を集めて殺戮の餌食にしたのも、彼女の意図だったかもしれない。もっともバルザックは、彼女に少々同情的のようだが…いずれにせよ、パリでの1572年8月24日の攻防は、その人物配置や役割など、きわめて現代的でもある。
日本では、1562年といえば、桶狭間の戦いの2年後、織田信長と徳川家康が手を結んだ時期、1572年は、家康は三方原に武田信玄の手ごわい軍勢が迫った時期だった。一方フランスでは、アンリ四世は、サン・バルテルミ以降、しばらく幽囚の身となり、カトリックへの改宗を強いられていた。

「どうする家康!」「どうするアンリ!」

日本人と漢詩(077)

◎永井荷風と大沼沈山
「江戸詩人選集」には、以前、紹介した成島柳北とともに、大沼沈山の詩も載っていた。そこで、沈山の詩を繙くとともに、彼を扱った永井荷風の「下谷叢話」を読んでみた。

永井荷風は、森鷗外に傾倒し、師とも仰いでいたようだ。特にその史伝小説に影響され、関東大震災の後、古き東京(江戸)に思いをはせ、「下谷叢話」(青空文庫)を発表した。鷗外のそれとは一味違い、扱う人物が荷風の縁者(鷲津毅堂の外孫)なだけに、思い入れが深い気がする。また大窪詩仏、菊池五山、館柳湾、梁川星巌、成島柳北など江戸後期から末期、明治に至るまでの漢詩人が網羅的に多く登場、彼らのコミュニティも描かれ、そこにも荷風の憧れを感じる。後半になると、維新前後の詩人が多くなり、文字通り「二世」を生きた人生だったが、荷風が取り上げる沈山は、江戸時代の「一世」を送り、残りは余燼ともいえる。荷風は書く。

枕山の依然として世事に関せざる態度は「偶感」の一律よくこれを言尽《いいつ》くしている。

孤身謝俗罷奔馳 孤身俗ヲ謝シ奔馳ヲ罷ム
且免竿頭百尺危 且ツ免ル竿頭百尺ノ危キヲ
薄命何妨過壯歲 薄命何ゾ壮歳ヲ過こユルヲ妨ゲンヤ
菲才未必補淸時 菲才未ダ必ズシモ清時ヲ補ハズ
莫求杜牧論兵筆 求ムル莫カレ杜牧ノ兵ヲ論ズルノ筆ヲ
且檢淵明飮酒詩 且ツ検セヨ淵明ノ飲酒ノ詩ヲ
小室垂幃溫舊業 小室幃《い》ヲ垂レテ旧業ヲ温ム
殘樽斷簡是生涯 残樽《ざんそん》断簡是レ生涯
[語注]奔馳:走り去る 竿頭百尺:更に一歩を踏み出すことを目指す 杜牧:唐の詩人、兵法書に詳しい 淵明:晋の詩人、陶淵明、「飲酒」の詩は有名 幃:とばり 断簡:文書の断片、「断簡零墨」という

 わたくしはこの律詩をここに録しながら反復してこれを朗吟した。何となればわたくしは癸亥震災以後、現代の人心は一層険悪になり、風俗は弥いよいよ頽廃《たいはい》せんとしている。此《か》くの如き時勢にあって身を処するにいかなる道をか取るべきや。枕山が求むる莫《なか》れ杜牧《とぼく》兵を論ずるの筆。かつ検せよ淵明が飲酒の詩。小室に幃《い》を垂れて旧業を温めん。残樽《ざんそん》断簡これ生涯。と言っているのは、わたくしに取っては洵《まこと》に知己の言を聴くが如くに思われた故である。

枕山は年いまだ四十に至らざるに蚤《はや》くも時人と相容《あいいれ》ざるに至ったことを悲しみ、それと共に後進の青年らが漫《みだ》りに時事を論ずるを聞いてその軽佻《けいちょう》浮薄なるを罵《のの》しったのである。

飲酒


憶我少年日 憶フ我ガ少年ノ日
距今僅廿春 今ヲ距《へだ》ツルコト僅《わず》カニ廿春
當時讀書子 当時ノ読書子
風習頗樸醇 風習頗ル樸醇
接物無邊幅 物ニ接シテ辺幅無ク
坦率結交親 坦率交親ヲ結ビ
儒冠各守分 儒冠各々《おのおの》分ヲ守ル
不追紈袴塵 紈袴ノ塵ヲ追ハズ
今時輕薄子 今時ノ軽薄子
外面表誠純 外面誠純ヲ表ス
纔解弄文史 纔ニ文史ヲ弄スルヲ解シ
開口說經綸 口ヲ開ケバ経綸ヲ説ク
問其平居業 其ノ平居ノ業ヲ問ヘバ
未曾及修身 未ダ曾テ修身ニ及バズ
譬猶敗絮質 譬フレバ猶敗絮ノ質ノゴトク
炫成金色新 炫《くらま》シテ金色ノ新タナルヲ成ス
世情皆粉飾 世情皆粉飾
哀樂無一眞 哀楽一真無シ
只此醉鄕內 只此ノ酔郷ノ内ニ
遠求古之人 遠ク古ノ人ヲ求ム
小兒李太白 小児ハ李太白
大兒劉伯倫 大児ハ劉伯倫
隔世拚同飮 世ヲ隔テテ同飲ニ拚《まか》セ
我醉忘吾貧 我酔ヒテ吾ガ貧ヲ忘レン

[語注]憶我少年日:陶淵明の雑詩「憶う我少壮の時」 樸醇:質素で真面目 坦率:さっぱりして飾り気がない 儒冠、紈袴:儒者が貴族の子弟に取り入る。杜甫「紈袴餓死せず、儒冠多く身を誤る」 敗絮質:ぼろの綿入れのような実情 李太白、劉伯倫:ともに酒豪、劉伯倫は「竹林七賢」の一人 拚:すっかりまかせる

ここで、荷風が割愛した沈山の「飲酒」の二首目を掲げる。


春風吹客到 春風《しゅんぷう》客《かく》を吹いて到らしむ
春酒傍花斟 春酒《しゅんしゅ》花に傍《そ》うて斟《く》む
不談天下事 天下の事を談《だん》ぜず
只話古人心 只《ただ》古人の心を話《かた》る
樽空客亦去 樽《たる》空《むな》しくして客《かく》亦《また》去る
月淡海棠陰 月淡くして海棠《かいどう》陰《くら》し
明朝又來飮 明朝《みょうちょう》又《また》来《き》たりで飲め
何勞抱素琴 何ぞ素琴《そきん》を抱《いだ》くろ労《ろう》せん

[語注]明朝又來飮:李白「我酔うて眠らんと欲す卿しばらく去れ。明朝意あらば琴を抱いて来たれ」 素琴:弦のはっていない琴。陶淵明が撫でて楽しんだとある。

 枕山がこの「飲酒」一篇に言うところはあたかもわたくしが今日の青年文士に対して抱いている嫌厭《けんえん》の情と殊《こと》なる所がない。枕山は酔郷の中に遠く古人を求めた。わたくしが枕山の伝を述ぶることを喜びとなす所以《ゆえん》もまたこれに他《ほか》ならない。

「天下の事を談ぜず、ただ古人の心をかたる」とは、「紅旗征戎《こうきせいじゅう》吾が事に非ず」(藤原定家「明月記」)にも通じるかもしれないが、沈山や荷風の感慨を額面通りに受け取ってはならず、彼ら独自のイロニーであろう。たしかなことは、時代の風潮に「前向き」なだけが、その人の評価にはならないことである。こうした荷風の江戸末期と大正から昭和にかけてを重ね合わせ、沈山に思いをはせる気持ちは現在にもきっと生かせるだろう。

荷風は、「下谷叢話」を、明治以降についての沈山などの詩作については、その墨を薄くしており、毅堂と沈山の死をもって静かに擱筆する形となる。これまた荷風の見識だろうが、余燼ともいうべき明治に入っての沈山も、世間を確かな眼で眺め、なかなか「熱いもの」を持っているようだが、いずれ、また。

【参考】
・永井荷風「下谷叢話」(岩波文庫、青空文庫)
・「成島柳北 大沼沈山 江戸詩人選集 第十巻」 岩波書店

後退りの記(005)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」晶文社
◎渡辺一夫「ある王公の話-アンリ四世」(「フランス・ルネッサンスの人々」(岩波文庫)所収)
◎渡辺一夫「寛容《トレランス》は自らを守るために不寛容《アントレランス》に対して不寛容になるべきか」(トーマス・マン「五つの証言」(中公文庫)所収


1572年8月24日のサン・バルテルミの虐殺に触れる前に、少し、渡辺一夫さんの発言を聞こう。渡辺さんは「フランス・ルネッサンスの人々」の中で、ルネッサンスから少し時代を下った、アンリ四世の話題を取り上げている。激烈な宗教対立のなか、よほど、印象深い人物だったのだろう。また、プロテスタントからカトリック、あるいはその逆の転向を選択したのも、ナントの勅令(Wikipedia)につながる「宗教的寛容」として、評価している。さらには、後年には国々の軋轢を抑制、調停する国際機関も構想していたという。カントの「永久平和論」に先立つこと200年も前のことである。彼の政治的思惑や実際的な行動を別にしても、きわめて現代的でもある。ハインリッヒ・マンの弟にあたるトーマス・マン「五つの証言」(渡辺訳)所収の評論では

秩序は、守らなければならず、秩序を紊す人々に対しては、社会的な制裁を当然加えてしかるべきだろう。しかし、その制裁は、あくまでも人間的でなければならぬし、秩序の必要を納得させるような結果を持つ制裁でなければならない。…既成秩序の維持に当る人々、…その秩序を紊す人々に制裁を加える権利を持つとともに、自らが恩恵を受けている秩序が永劫に正しいものか、動脈硬化に陥ることはないものかどうかということを深く考え、秩序を紊す人々の欠陥を人一倍深く感じたり、その欠陥の犠牲になって苦しんでいる人々がいることを、十分に弁える義務を持つべきだろう。

上記の文章を引いたのは、昨今の状況に鑑みると、十分にアクチュアルだが、特定の個人を念頭に置いたものではないので、誤解なきよう…

渡辺一夫評論を補強する意味で、写真は、鷲田清一「折々のことば」(朝日新聞)(ツイート裕次郎より)

日本人と漢詩(076)

◎武田泰淳と杜甫

先日亡くなった大江健三郎の師ともいうべきフランス文学者・渡辺一夫にとってのラブレー、機会があれば紹介予定の「下谷叢話」( 青空文庫)を書いた永井荷風にとっての江戸後期文化、今回の武田泰淳にとっての司馬遷を始めとする中国文学(戦時中、殺戮の歴史というべき、中国通史「資治通鑑」を読み終えた中井正一も付け加えてもいいかもしれない。)は、彼らにとっては時代の風潮に対する抵抗の拠り所になった。彼らの時代とはまた違う困難な現代を生きる私たちにとって、そのよすがが何であるかをふと考えたくなる。
さて、武田泰淳には、戦後、数年を経て短編「詩をめぐる風景」が発表された
そのエピグラフにはこうある。

ー円き荷《はす》は小さき葉を浮かべ
細き麦は軽き花を落すー杜甫

詩の全体は、以下の通りで、五言律詩の頷聯《がんれん》である。

爲農 農と為る
錦裡煙塵外 錦里《きんり》煙塵《えんじん》の外
江村八九家 江村《こうそん》八九家
圓荷浮小葉 円荷《えんか》小葉浮かび
細麥落輕花 細麦《さいばく》軽花落つ
卜宅從茲老 宅を卜《ぼく》して茲これ従り老いん
爲農去國賒 農と為って国を去ること賒《はる》かなり
遠慚勾漏令 遠く勾漏《こうろう》の令に慚《は》ず
不得問丹砂 丹砂を問うことを得ず

語釈、訳文は、杜甫詳注 杜詩の訳注解説 漢文委員会
古代文化研究所:第2室などを参照。

『杜甫にとって安住の地であった、蜀成都の草堂も彼にとって安住ばかりはできなかったようだ。『杜甫の奴僕たちにとっては草堂は宿命のようなものである。……奴僕たちは他の世界を知らない」として、外の世界に開かれない宿命をもった奴僕に対し、杜甫は外界を求めてさまよう宿命にあった。「草堂は永いこと杜甫の脳裏にえがかれた幸福の象徴であった。……自然にひたり、草木にうずもれて詩の世界をひろげるために、杜甫は草堂を求めていた」。杜甫は「草堂」という「混沌世界の中に占める自分の一点」を維持してこそ、「幸福の象徴を追い求めながら旅をつづける文学者の生き方」ができたのだと泰淳は描く。
そのような生き方を選ぶ理由を、泰淳は「詩をめぐる風景」という小説において次のように説明する。「安定できず安住できない自分というものが、自分の詩の不安ではあるが新鮮な泉になっている」、「次から次へあらわれてくる諸現象、そしてそれをむかえての自分のもろもろの精神状態のごく複雑な総合が自分の詩をささえている。……それ故、自分の外界が安定しないばかりでなく、自分の内心そのものが広い広いとりとめもない混沌世界であるように思われる。」泰淳が描いた杜甫は、戦乱によって引き起こされる内心の葛藤こそが詩を作る原動力であることを知り、安穏とした草堂生活に留まることができず、「家」を捨て、「漂泊の生涯」を送る詩人であった。』

王俊文 中国戦地の風景を見つめる「喪家の狗」―武田泰淳の日中戦争体験と「風景」の創出― より

逆に、彼はそうした心情を素直に吐露することで、成都の自然(この詩では、円き荷と細き麦)とうまく重ね合わせたくみに詩情を詠いあげているように思われる。「農と為る」は為りきれない彼の吐露をのぞかせる詩題であろう。それにしても、小説では、農奴である阿火と阿桂の若きカップルの結末が哀れである。

成都の草堂は、チベット・ラサからの帰り道、成都に宿泊、そのついでにたっぷり一日訪れたことがある。もちろん、杜甫の時代の草堂とは大違いで、大規模に整備もされ、効率よく杜甫の生涯を辿ること可能だが、散策の道には人も少なく、彼の真情に少し触れることができた。

【参考】
・武田泰淳「中国小説集 第二巻」新潮社(写真)

後退りの記(004)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎アレクサンドル・デュマ「王妃マルゴ」
◎萩尾望都「王妃マルゴ」

アンリ・ドュ・ナヴァール(後のアンリ四世)は、1572年、人生の大きな転換点を迎えることは、前回に述べた。時の王母カトリーヌ・メレディスの娘、マルゴリットと結婚したことは、その一つであった。王族の婚姻はご多分に漏れず、政略や思惑の上にあっていることは例外ではあり得ない。実の母を毒殺したとのうわさもあるカトリーヌの縁者など常識では考えられない。しかし、そうしたことをのり越えて、アンリにとっては案外慧眼であったのかもしれない。のちのち、マルグリット王妃は、彼にとっては、結果的にはキーパーソンになる要素があるからだ。
アンリにとって、マルゴは幼いころに知り合ったかもしれないが、決して愛愛の相手ではないし、マルゴにしてもカトリック派の首領、ギーズ公との関係が深かったかもしれないが、同様である。その後のアンリも愛妾には事欠かなかったようだ。
第一巻だけだが、萩尾望都の少女漫画を久しぶりに読んだ(ないし眺めた)が、少女時代のマルゴの描写が興味を引いた。周囲に信仰が少しだけ異なるだけで、簡単に人を殺める風潮に、きっぱりと「私は人を殺さない」の決意するところなど、彼女のその後の人生を形作る元になったのだろう。母のカトリーヌとは違う気質のようだ。
デュマも二人の結婚直前から小説を起こしている。その二人の会話
「承知しましたわ」彼女はいった。
「政治的同盟、誠実で忠実な同盟を?」アンリはたずねた。
「誠実で忠実な同盟を」マルゴは答えた。

「ありがとう、マルグリット。…あなたの愛を手に入れるのは無理にしても、友情は欠けていない。あなたを当てにしています。あなたもわたしを当てにしください。」

ナヴァール王はかすかに笑いながらつけ加えた。「わたしは、恋愛の貞節よりも、政治の忠実さを必要としているのです」
本邦の同時代の夫婦で言えば、織田信長と濃姫に比することができようか。

日本人と漢詩(075)

◎一海知義と中国留学生

本箱が、本の重みで一部棚が落ちてしまった。仕方なく新調することにして、並べていた書物を取り出したが、パラパラめくり、中には熱中し、読み返しの連続で、なかなか作業が進行しない。漢詩を中心とした時折の随想を集めた著書で、7年前に物故の、一海知義先生の本があったので、結局読みふけってしまった一本の一つである。そのなかに、「『文革』を批判した漢詩」という一節があった。
思えば、1989年の第二次天安門事件から、やがて34年が経とうとしている。その弾圧の首謀者の一人、李鵬(Wikipedia)も亡くなってしまった。天安門事件の2年後、1991年3月20日、「人民日報」海外版にアメリカ留学生の、李鵬を諷する漢詩が投稿された。さすがに「人民日報」もその寓意は理解できなかったようだ。
ちょうど今の時期、中国では全人代が開催されている。前回だったかの会議の直前には、当方は中国滞在中であったが、会議の始まる前に、なかば強制的に中国から追い払われ、予定を切り上げ、日本に帰国した。今回もそうした強権発動があったことだろう。そして天安門事件などなかったように、習体制の賛美に終始することだろう。

東風拂面催桃李 東風(はるかぜ)面《おもて》を払いて桃李を催《うながせ》ば
鷂鷹舒翅展程 鷂鷹(とんび)《ようとう》翅《はね》を舒《のべ》て鵬程を展ず(鵬とおなじように遠くまで飛ぼうとする)
玉盤照海熱涙 玉盤(白玉の大皿のような月)を照せば熱涙下《くだ》り
遊子登思故城 遊子(たびびとである私は)台に登りて故城(故郷の町)を思う
休負生報國志 負《そむ》く休《な》かれ平生国に報いんとする志に
育我勝萬金 人民の我を育《はぐ》くむこと万金に勝《まさ》れり
起急追振華夏 憤起急追して華夏(祖国中国)を振《ふる》わさんも
且待神洲遍地春 且《しばら》く待たん神洲(中国)の地に遍《あまね》きの春を

第一句の最後の文字から斜め上にたどり、第八句をそのまま読むと、
李鵬、台より下《くだ》れば、民の憤《いきどお》りを平らげん、
且《しばら》く待たん神洲の地に遍《あまね》きの春を。

なお、Wikipedia 掲載の詩とは若干の異同がある。

汚職の噂も絶えない李鵬が内閣、大臣をやめれば、民衆の怒りもしずまり、春の訪れも期待できるだろう。それまでは、忍耐がつづくかもしれないが…

天安門事件で、旗を振りながら素手で戦車に立ち向かった一人の若者がいた。彼を想いながら、上記の漢詩に倣って、短歌を一つ。

いはざり
はたにおり
かぜには
とわ()つたゑかし
づつにむかひて

「『文革』は本質的にはまだ決着がついていません。しかしほんとうにそこから脱却する日は必ず来るでしょう。中国人民の批判精神と楽天性、私はそこに信頼をおき、期待しています。」(一海知義)
写真は、事件以前の天安門(1988年 Wikipediaより)
【参考】
一海知義「詩魔ー二十世紀の人間と漢詩」 藤原書店
 

後退りの記(003)

◎堀田善衛「ラ・ロシュフコー公爵傳説」
◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」

「われわれの美徳は,ほとんどの場合,偽装した悪徳に過ぎない。」人口に膾炙したこの句は、高校時代山仲間だったN君の口癖だった。ある意味、温厚だったモンテーニュの口調とはひと味ちがう感触に驚いたものだった。それがラ・ロシュフコー「箴言と考察」という本を知るきっかけだった。

1572年は、フランスにとって多事多難な年であった。アンリ四世(当時皇太子)の母が、ナバラ王国女王ジャンヌ・ダルブレ(Wikipedia)が、息子のマルグリット(マルゴ)王妃との結婚式に列席するため、パリに赴く途中で急死した。ライバル・カトリーヌ・ド・メディシス(Wikipedia)が、毒殺したとの噂が絶えなかった。母の遺言を結婚式に向かうアンリに託したのが、フランソワ・ラ・ロシュフコー(三世)であると、ハインリッヒ・マンは書く。三世は、「箴言と考察」の著者の曽祖父にあたる。その後、サン・バルテルミの虐殺(Wikipedia)という大悲劇が起こった。その結果、その頃は、プロテスタントだったフランソワ・ラ・ロシュフコー(三世)は、パリの路上で殺されてしまったのである。その後は、当代の六世に到るまで、ラ・ロシュフコー家にとって苦難の日々だったのである。フランス絶対王政の確立の契機となったフロンドの乱(Wikipedia)では、当代は瀕死の重傷を負うが、それは後の話となるので、機会があれば言及するだろう。

日本人と漢詩(074)

◎成島柳北


仏蘭西《フランス》がらみの話題である。

成島柳北(1837-1884)は、幕末から明治にかけての人、当初は幕臣にて、荻生徂徠からの系譜で儒官であった。遊蕩にも精をだしたらしく、「柳橋新誌」なる戯作も著した。森繁久彌も時代を下っての縁者らしい。(Wikipedia)その柳北は、維新後、「東本願寺法主の大谷光瑩の欧州視察随行員として1872年(明治5年)、共に欧米を巡る。」その時にパリとベルサイユを訪れたときの詩。

巴里雜詠 巴里雑詠(四首のうち二首)
一.
十載夢飛巴里城 十載《じつさい》 夢は飛ぶ 巴里城《パリじよう》
城中今日試閑行 城中 今日《こんにち》 閑行《かんこう》を試《こころ》む
畫樓涵影淪渏水 画楼《がろう》影を涵《ひた》す 淪渏《りんい》の水
士女如花簇晚晴 士女《しじよ》 花の如く晩晴に簇《むら》がる
閑行:のんびり歩くこと。
淪渏:さざ波。
二.
五洲富在一城中 五洲《ごしゆう》の富 一城の中《うち》に在《あ》り
石叟陶公比屋同 石叟《せきそう》 陶公《とうこう》 比屋《ひおく》同じ
南海珊瑚北山玉 南海の珊瑚《さんご》 北山の玉《たま》
廛廛排列衒奇工 廛廛《みせみせ》 排列《はいれつ》して 奇工《きこう》を衒《てら》う
五洲:全世界。
石叟:晋の石崇。富裕の人。
陶公:中国・春秋時代、越王勾践に仕えた范蠡《はんれい》。のちに斉に移り、巨万の富を築いた。
比屋:どの家も。

烏児塞宮 烏児塞宮《ウエルサイユきゅう》

想曾鳳輦幾回過 想《おも》う 曾《かつ》て鳳輦《ほうれん》幾回《いくかい》か過《よぎ》り
来与淑姫長晤歌 来《きたり》て淑姫《しゅくき》と長く晤歌《ごか》せしを
錦帳依然人未見 錦帳《きんちよう》依然たるも 人見《み》えず
玻璃窻外夕陽多 玻璃《はり》窓外《そうがい》 夕陽《せきよう》多し

烏児塞宮《ウエルサイユきゅう》:バロア朝時代のルーブル宮からブルボン朝のルイ十四世(アンリ四世の孫)から王宮はパリ郊外のベルサイユに移された。
鳳輦:フランス歴代の王や皇帝の馬車。
淑姫:貞淑で美しい婦人
晤歌:一緒に歌う。詩経陳風「東門之池」「彼の美なる淑姫、与《とも》に晤歌すべし」
依然:昔のまま。

成島柳北は、他の多くの官僚・知識人と同様に、福沢諭吉のいうごとく、江戸時代から明治にかけて「二世を生きた」ことは間違いない。でも、成島は、福沢のように、近代的な自己を持つことはついにできなかった。(もちろん、後年の福沢が唱えた「侵略主義」的主張を是とはしないが…)成島がパリを訪れた、1872年といえば、前年、パリコミューンが樹立されたが、約半年で崩壊させられ、徹底的な弾圧の嵐が吹き荒れていた直後であるが、彼の詩情では一顧だにされない。かろうじて、ヴェルサイユ宮から見た夕陽が、普仏戦争、パリコミューンを経た大仏帝国の落日を象徴するとも言えるだろう。

写真は、Wikipedia から
【参考文献】江戸詩人選集第十巻 成島柳北 大沼沈山 岩波書店