読書ざんまいよせい(070)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(011)

第二節 とさか・じゅん(戸坂潤)

一 空間論からの出発

 戸坂潤の青年時代の魂をとらえた学問は空間論である。哲学の諸問題のなかでも、とくに空間論を明らかにすることに力をそそいだのであった。空間論を哲学の問題としてうけとること、これに対照されるものは時間論である。さて、ここでまず素朴な質問をだしてみよう。それは案外に事態の本質をついている問い﹅﹅だとおもうからである。空間論と時間論、そのどちらが一般に唯物論の立場に関係が多いか?
 この質朴な問いには簡単にいっぺんに答えられる。それはもちろん空間論であると答えることである。哲学史は唯物論の祖だといって、いつでも古代ギリシアのレウキボスとデモクリトスをあげるのであるが、これらの自然哲学者ののこした断片のうちには時間の論は見あたらない。そのつきにひいでた唯物論者として私たちはローマの詩人ルクレティウスをあげたいが、彼の『物の本性について』という詩の形でかかれている千何百行のなかにも時間論の思索を汲み出すことはむつかしい、ほとんどできない。同じことは十九世紀のフランスの唯物論者たちについてもいえる。といって、時間論が人間のする思索の対象として価値が少ないのではない。もしも楽しく悠々と思索で暮らせるのだったら、時間は人に限りなく問題を提供することだろう。しかし、人間にとっては運命的にまでさいご﹅﹅﹅まで空間論はまといつく。空間論的に人間が規定されている人間存在の根本事実は、どうしようもない。時間は人に空間論的にしか考えさせない。空間論が明らかにされないでは時間論の成立は考えられない。空間論は科学の哲学の一般的基礎だといってよい。
 日本で、はじめて空間論の研究をめざしたのは戸坂潤である。彼は彼の『空間論』という論文註(1)のなかで、こういっている。

「空間というもの、又は空間という概念は、殆んど凡ゆる科学乃至理論の中に、問題となって現われて来る。例えば絵画や彫刻、演劇や、キネマに就いてさえも、その理論の内に空間が可なり大切な問題となって現われるだろう。一体吾々が視・触り・聴くこの、 世界―――実在界―――それらは悉く、空間的な規定を離れることが出来ない。吾々は日々の生活を完全にこの空間の支配下に送っているのである。だから、空間の問題が凡ゆる理論または科学の問題として取り上げられるということは、実は何の不思議もない。それは凡ゆる領域に浸潤している問題である」

 戸坂は、「凡ゆる領域に浸潤している問題」をつかんだのである。いま私たちの場合、この点が大切である。物理学者として立とうとして研究に入った戸坂(彼は第一高等学校理科に入学した)がつかんだ問題は、じつにこのあらゆる領域にしみわたっている空間についての問題だった。後に彼が唯物論者として彼自身をつくりあげたその方向の最初のものが、じつにこのところにあったと考えてよいであろう。戸坂が学界に発表した最初の論文は『公算論』についてであったろうとおもうが、このこともここに記しておいてよいであろう。さて、空間のことはあらゆる領域にわたって問題になるが、「バラバラの問題として取り上げ」ないで、科学としてこれを究明するには、哲学によるほかはないであろう。戸坂が後に物理学への方針から転じて哲学の研究に変ってきたことと、それは関係がなくはなかろう。
 とにかく哲学における空間論から彼の学的業績ははじまっている。このとき彼がとった道は坦々としてのびていった。しかし研究の仕方はいっそう現実的になっていった。人の世界がほんとうに現実的であることは、歴史的であることで、歩まれるその道はいっそう具体的になるために、狭められることになるものである。その代り、確乎﹅﹅たるものとなる。その道は戸坂により唯物論へと踏み固められ、ついにあのようにまで伸びたのである。「空間の問題は唯物論の浮沈と共に浮沈する註(2)」という彼においてはじめて意味の深い言葉が、彼によって後に吐かれたのである。
 このようにして、いまだかつて日本の唯物論史にはなかった新しい型の唯物論者が戸坂において現われたのである。
 さて、私はここで戸坂の空間論の要点について語ることを避けることができない。彼は一九二四年の秋に『物理的空間の成立まで』という論文を公けにした。ついでまた「物理的空間の実現」を公けにした註(3)。彼は空間論の研究をするのにカントから出発した。今日考えてみても、これは当然のゆき方だった。一九二四年いごにおいて、理論物理学の質的な大きな変革ののちでも空間論においてはいぜんとして、カントは問題を提出しつづけているから。戸坂はカントの空間を理論をきわめて明快に彫り出してみせた。周知のように、カントの空間は直観アンシャウウンクまたは直観アンシャウウンク形態フォルマルであって、物理的空間ではない。それどころか、幾何学でいう空間とも同じものではない。ところで戸坂の狙いは「物理的」空間であった。だから思索はそれへとすすめられた。私は今日それをよんでみて、アインシュタインのあのすばらしい『幾何学と経験』(„Geometrie und Erfahrung“)から彼が示唆されたことの多いのを考えさせられる。戸坂は、カント空間論をユークリッド幾何学はもちろん非ユークリッド幾何学の見方とも別なものと考え、物理的空間にしてはじめてカントの空間論の「成立の根」が見出されるものだという解釈をとった。しかし、戸坂にとっては問題は物理的空間なのであるから、そこで感覚および知覚の問題にむかってゆかざるを得なくなっている。この論文は、このあたりで終りになり、これからいご「物理的空間が物理学に対して重大な基礎になる」ということを示唆して完結となっている。第二の論文はその空間の「物理的」である場合を究明するのであって、しかも題名にあるようにその「実現」を把えようとしている。科学において「実現」とはただちにその方法、その実験の仕方、その測定方法に関係するものでなくてはならぬのだが、戸坂の物理的空間のつかまえ方は、この意味の「実現」に彼の思索がむけられたところに大きな特色がある。測定方法とは、ある対象について測定がおこなわれるその方法なのであるが、その場合、方法いぜんに対象があるのでなくて、方法によって確立するのである。対象と方法の関けい﹅﹅は戸坂のたえず強調して考えたところのものであった。ここに対象よりも方法の、実体よりも作用の、優位があるかのように考えられがちな大切な問題がある。カントにおける実体概念の理論のさいご﹅﹅﹅の解決は、この優位をみとめるところにあるといえる。それとともに、カントのトランセンデンタールのやり方﹅﹅﹅のある観念論的哲学の特質がここに付着しやすいといえる。戸坂は「カントから出発した」のであるが、そして彼が「物理的空間」の研究の結果、彼に結論できたものは物理的空間は「方法であると同時に対象である」ことなのであるが、それにもかかわらず、彼が観念論的哲学におちこんでゆかなかったものは、じつに彼が「空間」概念をつかんで離さなかったことにあるといえるのである。彼においては空間としての「自然」概念が確立していたのである。彼はこのために観念論的哲学からのいかなる思索の誘惑にもひきこまれなかった。哲学者たちは(たとえぱハイデッガーのように)空間に対する時間の優位を主張するでもあろう。しかし、「世界」(後述)としての自然しかみとめない彼は、時間にしても「自然における時間」をしか考えない。「自然における時間は空間化されたものに過ぎない」のである。それは「空間的時間でしかない」のであるまた、ある哲学者たちは、自然のほんとうの規定は物質ではないかと、いうでもあろう。しかし、戸坂は空間規定を考えないたんなる物質概念をしりぞける。「物質はただ空間的であることによってのみ物質である」ことができる。彼はもっと鮮明に言い切る、「自然の性格は空間にある」と。以上のようにして、唯物論者戸坂が、どんな観念論的な哲学の思索思弁に対しても抗し得たのは、彼の空間概念の確立にあったということができる。彼がまだ自分を唯物論者だと名のることのなかった頃から、すでに早く彼の哲学的思索を吸収したものは、空間論だったのである。
 カントの空間論から出発した彼は、まずカントが空間の純粋数学だと考えた純粋幾何学から(それの思索を通りつつ)出て、やや﹅﹅経験的な幾何学へと向かわねばならなかった。それが彼が強調しつづけた「計量の幾何学」である。周知のように、計量の幾何学はデカルトいらい、ぜんじ明瞭になったように、座標の幾何学である。彼はこういう、「ただ座標幾何学のみが科学を精密にすることが出来る」と。そして、なおつづけて、「精密という概念の動機を追求すると吾々はこの結果へ行きつく」と、いっている。さて、その座標であるが、彼は座標は「空間を代表する」ことができる、とはっきり明言する。その理由は「人々が空間概念によって、質ではなくて量を理解するならば、このような量概念の最も精密な表現が座標である」ということにある。かようにして、「科学の精密性は、その最勝義において、空間に依って与えられる」という命題をたて、この命題は「記憶しておく必要がある」というほどに言い強めている。
 「物理的」空間の究明をめざす戸坂は、たんに計量幾何学の座標の問題でとどまることができない。なぜなら、ぜんじ経験科学の立場に立つことへとすすんでいる彼は、座標がたんに計量の座標であることにとめておくことができないから。ここで彼の思索に協力してくれたものが、外ならぬカントに深く影響されたH・R・ヘルツの「真の力学」(eigentliche Mechanik)の考え﹅﹅である。ヘルツの真の力学では「座標はもはや単に計量の座標ではない」ことが、戸坂をしばらく導いたものと思える。さて、ここのところで当時日本でも(ヘルツとちがって)しきりと読まれていたM・プランクの考え﹅﹅「計量できるものはまた存在する」という思索が彼に閃いたものと察しられる。ただし、戸坂にとっては計量が計量幾何学における座標による計量でなくて、なお一歩すすんで「真に」経験的なものでなくてはならなかった。座標は思索のなかの座標でなくて、経験的にきめられる﹅﹅﹅﹅﹅、というよりも、経験的法則によって制約される﹅﹅﹅﹅﹅というものでなくてはならない。それは現実においていえば、物理学者が経験的にじっさいに観測し、したがって機械を用いて測定する、そのあるひとつの点またはこの一点と関係のある他の点、じつにこのことが座標にとって、経験法則的にいって問題なのである。つまりこうなれば、座標は物理的測定の座標をさすことになる。たんなる計量の座標は測定の座標ではないのである。さて、事物の測定はこの意味の座標によるほかに方法はない。座標はじつは測定の物理的方法を意味することにほかならない。戸坂はここでつぎのように、彼が「記憶しておく必要がある」という彼の第二の命題をつくるわけ﹅﹅を説明する。「座標は座標の性質それ自身に基いて、この場合、測量されたる量そのものをも意味しなければならない。測定されたる事物の数値がその事物の座標であるであろう。そうすると、測定の座標とは測定されたる物理的対象をも意味しなければならない。故に、測定の座標としての空間は、一つの物理的な方法であると共に、また一つの物理的対象でもあるのである。」そこで、彼の第二の命題は、「空間はこの場合―――物理的空間として物理的な方法と対象とを意味する」と、言いあらわされる。
 ここまできたとき、アインシュタインの相対性理論がもつひとつの大きな特色、物理学が探求する実在の存在と、じっさいの測定方法との関けいの思想が戸坂にとって関心の的とならないではいなかったことが、はっきり知られる。その場合、戸坂にとって参考となったものは、まずE・カッシラー(„Zur Einsteinschen Relativitätstheorie“)や、H・ワイル(„Raum-Zeit-Lehre“)や、H・ライヘンバッハ(„Philosophie der Raum-Zeit-Lehre“)であったことを彼註(4)は記している。(『物理的空間の実現』のなかでは、エディントンに拠ったことも明記している。)アインシュタインの特殊相対性理論に導かれて、物理的空間の「実現」を明らかにしようとする戸坂は、とうぜん、いわゆるロレンツ変換の方法的処理を通じて、ミンコフスキーの「世界」概念にまで(彼の叙述は比較的かんたんであるが)到達している。そして、ここで得た彼の結論は、ミンコフスキーの「世界」はまさに物理的対象であるということだった。この「世界」概念によれば、とうぜんに「世界は方法=対象を意味する」ことになる。だから、さいごの戸坂の狙いは、「世間空間こそが物理的空間の特色―――方法=対象――― をもっとも具体的に言い表わすものである」ことにあった。
 以上は、『物理的空間の実現』という彼の第二の論文の要点をあげたのである註(5)が、こうした思索の努力は、戸坂においては、哲学的思索を享有するということにあるのではないのであって、それは科学の精密性をつかむことにあったと考えられる。『科学方法論』のなかで彼が吐露しているつぎのことば﹅﹅﹅は、それをよく言い表わしている。「吾々は初めに科学の精密の概念を追求していた。それは、数学によって、さらに精しくは幾何学によって、さらに精しくは幾何学の応用・物理的空間によって、最後には世界空間﹅﹅﹅﹅によって保証されねばならない」
 彼が科学論者として歩んだこのような道は、日本の政治的・経済的・文化的現実﹅﹅のなかで、踏みかためられ、狭められ、しかし、確乎﹅﹅たるものにされたのであった。それは戸坂の半生の生活、唯物論者の生活の一面であったといえるのである。

註(1) 岩波講座『哲学』のなかに収録。昭和六年。
 (2) 前掲書。
 (3) 前者は『哲学研究』の第十巻第一冊に、後者はその第二冊。ただし、後者は発表時よりも二年ほど前ごろの旧稿であるということだから、これらの論文による戸坂の思索は昭和四年いごのことだと考えられる。
 (4) 『科学方法論』(『選集』第一巻の一二九頁)。私は彼の論文「物理的空間の実現」のなかの、いま私たちにとくに関係のある部分は『科学方法論』においても、ひどくは変らずのべてあるので、読者の便利のために、そのほうから引用した。
 (5) 註(4)にのべたように『科学方法論』によって概説した部分がかなりある。

一 二 戸坂と「唯物論研究会」

 唯物論者としての戸坂の活動は、ほとんどすべて唯物論研究会とむすびついていた。唯物論研究会を語らないでは、戸坂を語ることができない。唯物論研究会はどうして生れたか、どんな活動をしたか、それを最初にのべておきたい。私は、この本の「まえがき」でふれたように、唯物論とは人間がその社会的生活の本性からあげる抵抗の表現だ、とおもうのであるが、それならば、そうした社会的な抵抗の思想のあとかた﹅﹅﹅﹅は、過去の日本にいちどだってなかったということが、いったいあり得ようか。さて、私にはその場合「社会的生活の本性」ということが大切だとおもわれるのであるが、その「社会的」生活なるものが日本では順当な発展をしなかった。いつもこのことを考慮において、過去を見なくてはならない。だから、ひとびとが本来の人間性をまもろうとして何らかの抵抗を示したあとかた﹅﹅﹅﹅を過去にさぐるという(考え方が固くて機械主義的であっては、できないところの)研究が先行せねばならない。さて、かような社会的な動きであるが、皆無だったということはないはずである。前述の明六社だってその意味で十分関心がもてるのである。私たちはさきにあげた安藤昌益の弟子たちのあいだに或る結社があったろうという推定に深い関心をいだくのである。
 抵抗の思想をもつ人たちの集りは、大正のなかばいごでは当然いくつもあり得たわけである。主として文化的活動をしていた団体にかぎって考えてみるとして、たとえば「種まく人」の集りをはじめとして、「国際文化」「文芸戦線」「戦旗」「プロ科」などその他の集団は、その実例としてあげられるのである。ことに反宗教運動の団体としての「無神論者同盟」は、あとで触れるように、ほとんど唯物論者協会といってもいいものだった。だから、一九三二年(昭和七年)にはじまった唯物論研究会は、それらの団体のなかのひとびとのうちにあったであろう唯物論的世界観の結集であり、そしてその思想をとくにとりあげて研究し、それを大衆啓蒙に役立たせようとした団体にほかならない。
 さて、そうではあるにしても、はっきりと、そして真正面から、唯物論の研究会という団体が日本におこったことは、まことに大きな事件でなくてはならない。その研究会は出発とともに『唯物論研究』という機関誌を発行したが、その第一号で、長谷川如是閑は、「生れたばかりの唯物論研究会はいかに微力な存在であるにせよ、現代における意義と使命とによつて将来を約束されてゐるのである」と述べたのであった。
 研究会はどういうようにして生れたかについては、この本の著者である私も研究会の組織者のひとりであったから書いておきたいこともあるが、しかし、私が関係者である以上、私が少しでも主観化するところがあってはならぬので、当時の組織者の岡邦雄の叙述によって、そのありさまをここに出しておくのがよいとおもう註(1)。そうすることが戸坂の唯物論者としての活動を明らかにしておくのに少なからず役立つであろう。


「一九三二年の春、かつて反宗教運動をやったことがあり、とうじ非合法生活をしていた川内唯彦君が、或る日ひょっくり私の前に姿を現わして、日本で一つ、唯物論の研究会を合法的に創って見てはどうかと相談を持ちかけて来た。川内君は、そういう示唆を私に与えただけで、直ぐいずくともなく立去った。だが彼は、三枝博音君の前にも同じ用件で立現われたことが、あとで分った。
 当時は満洲事変勃発後の、これからいよいよ『世相』が嶮しくなろうとしていた時代であり、マルクス主義の理論的活動を続けていたプロ科もその二月には殆ど壊滅していた。そこで私はプロ科のあとを追うわけでもなく、その代用品になるという意味でもなく(そんなことは実際から云っても不可能であった)、純然たる合法場面で、厳密に理諭的な領域に自らを限定して仕事をして見ようという気になった。やがてドイツから帰って来たばかりの三枝君が相談に来た。まず友人関係を辿って研究会を作り、機関誌ももとうというわけである。何しろこれから益々ひどくなろうとする反動期に、全くの合法場面で、たとえ理論だけの狭い限界内でなりと、筋の通ったことを云おうというのである。もちろん吾々の能力で大した意義のあることのできないことはわかっているが、それにしてもこれは只のアカデミシャンばかりでできる仕事でない。私は矢張り一番さきに、『頼もしい人』戸坂君を思い泛べた。それに前年、立消えになった『アンシクロペディスト』を一緒に計画したこともある。一つ彼に当って見て、もし彼が賛成して呉れるようだったらやろう、断るようだったら自分もやめよう(このことは他でも話したことがある)。そういう肚で彼を訪ねた。彼は即答はしなかったが、万更いやでもなさそうだ。次に私の家で三枝君と、彼と、私との相談会となり、愈々やろうということになった。
 三枝君は服部之総君と永田広志君を引張り出し、戸坂君は本多謙三君を連れて来た。それから私と、三枝君、服部君とで、丁度大阪から上京していた小倉金之助博士を宿舎に訪ねて説いた。そして結局この七人が創立最初の世話人ということになった。会の名称は本来ならば『唯物論者協会』としたいのであるが、それさえできず『唯物論研究会』とした。小倉さんは大阪住いなので別として、あとの六人がその年の夏中、よく集まった。みんな熱心だった。趣意書や勧誘状の文章を書いたのは戸坂君だ。事務や雑務は私と三枝君がやった。三枝君は今でも随分忙しい働き者だが、しかしその頃が一番忙しかった、と今でもよく彼は思い出話をする。
 秋になると発起人会、総会、創立記念講演会と滞りなく済んだ。しかし役員を決める段になると、幹事長には誰もなり手がなさそうなので当分欠員のこととして、次に事務長を幹事の中から出す段取りになったが、これまた誰にもなり手がない。けっきょく学問・識見・人物に於て格段の差﹅﹅﹅﹅ある私が無理矢理、事務長にされてしまった。但しここで格段の差というのは、この場合『格段に劣っている』という意味なること断る迄もない。年齢だけは諸君より格段に長じている。私はもとより研究などできる柄でもなし、碌な論文一つ書けるわけでなし、この困難な環境条件の下で、会を運営してゆくだけの(政治的?)手腕もなく、事務をとらせても相当なルーズな人間である。しかし有能な諸君にいい仕事して貰えばいいんだ。そのためには喜んでみんなの小使になろう。そう思って事務長を引受けた。誰もいやがる財政部の責任者にもなった。
 名は事務長であるが、実は小使である。それで私は何かにつけて戸坂君を頼りにした。一から十まで彼に相談した。外部に何か交渉にゆく時も、戸坂君は一人でサッサと出掛けてゆく。私はいつも戸坂君について来て貰った。困難ははやく来た。二月早々、世話人の一人であった温厚・緻密な哲学者本多謙三君が、健康が勝れないという理由で会を去った。間もなく小林多喜二が殺された。この事件の直後、唯研では石井友幸君と私が別々に、しかもこれという理由もなしに、それぞれ一か月ずつ、小林が殺された築地署の留置場に過した。四月になって第二回の講演会をやった時、長谷川如是閑氏が開会の挨拶を始めると同時に解散になり、二、三人の青年会員が検束された。全然その理由が分らない。他の幹事連はやむなく事務所に引揚げたが、戸坂君と私とは本富士署へその理由を聞きに行った。署長に逢って聞いて見たが、何もはっきりしたことを云わない。特高室へ行って見ると、いま検束されたばかりの若い連中が、私らの顔を見て微苦笑している。けっきょく要領を得ないですごすごと警察の門を出た。さて腹はへったし、空いた腹はただ形なき憤激だけで一杯だ。そこらの路次に入って屋台店で夕食を喰べた。その時のシャコの天ぷらの旨かったこと、しかも腹一杯たべて、一人前三十八銭。今から考えると実に廉かった。
 その年の夏は私も忙しかった。機関誌の発行を会の自営に移したので、財政部としてその資金を作らねばならなかったからである。私は京都、大阪方面へも飛んで行った。或る晩など仲間の内では割に余裕のある某君(あとで悪質のひどい反動になった人)を訪ねて相談したが木で鼻をくくったような挨拶。弱気の自分はその帰り途、すっかり泣き面になり、月のいい晩だったが、戸坂君の門を叩いて、その悲しみを訴えたものである。もう深夜であった。彼は駅まで私を送って来て、そこの十銭スタンドで鰊の燻製をつかみながら、安いウイスキーに欝を散じた。
 同じ夏、今度はしばらく留置場に行っていた三枝君が、出て来ると会を去ると云い出した。何しろ創立いらい一年間、吾々三人は三羽烏みたいに働いて来た仲である。その一羽に去られたんではどうにもならぬ。戸坂君と二人、東中野の或るカフェーで、ビールを飲みながら、夜半まで慰留に努めたが、ついに効を奏しなかった。生れつき飲めない自分が飲んだこの夜のビールは実にまずかった。
 三枝君に去られてみると、あとの中心になって働くのは彼との二人である。そして彼はこの年の秋、私の事務長が一年の任期が満ると共に、自発的に事務長を背負って呉れた。まことに名実ともに揃った名事務長である。
 その頃から戸坂君の唯研に於ける活動がグングン目立って来た。外部の綜合雑誌に毎月おびただしい原稿を書く外に、機関誌には論究ばかりでなく、ブックレヴューまで独自の主張の下に、精力的に書いた。研究組織部の責任者として毎週数回ある研究会を計画・組織するほか、自分も研究を報告し、他の会員の報告に対しても指導的批判を怠らず、啓蒙的な、テキストを用いてする連続講義をも、実に休みなく続けた。その他春秋二回のピクニックなども卒先して、自分が中心となって計画し、実行し、殆ど彼一人の力で、小さな団体ではあったが、ともかくも唯研を、あの激しい思想弾圧のあらしの中で、かたく護り、まとめ、率いていった。―」

 右の引用文のなかに川内唯彦の名があらわれているが、前記の無神論者同盟は彼が主唱し、その組織に努力したものだった。岡邦雄も私もそのメンバーであって、当時苛こくな弾圧のなかで無神論者同盟はよぎなく壊滅させられたが、この壊滅はそのままで終るものではなく、科学的研究者の集りという形の変ったものではあったが、唯物論研究会がそのあとに現われたといってよいようなものである。もうひとつ、この研究会について記しておきたいのは、ドイツのベルリンにあった、知識大衆の啓蒙の団体であったマルクス主義学校デイー・マルクスティッシュ・シューレ一般に「マーシュ」と呼ばれていたもの)の組織や研究の方法を多少参考にするところがあって、マーシュの簡単な紹介は機関誌にも載せられたと記憶する。このようにして、あの時代に当然科学研究者を中心にした、新しい世界観を求めようとしたインテリゲンチアの参加した団体が、じつに唯物論研究会であったのである。研究会がもっともながくそこを活動の事務的拠点としていたのは、当時の麹町区内幸町一ノ三東北ビル内であった。会の「規約」の第一には「現実的な諸課題より遊離することなく、自然科学、社会科学及び哲学に於ける唯物論を研究し、且つ啓蒙に資するを目的とす」とあり、そしてこれで会の目的が、明示されていた。会員の資格であるが、それは「唯物論の研究に貢献し得るものにして会員二名の推薦若くは論文、著書の詮衡により幹事会の承認を経たるもの」というのであった。発起人は四十名からなっていたが、そのなかから幹事が詮衡されたが、それはつぎのひとびとだった。小泉丹・長谷川如是閑・小倉金之助・本多謙三・三枝博音・富山小太郎・丘英通・服部之総・斎藤晌・戸坂潤・岡邦雄・内田昇三・石井友幸・並河亮・清水幾太郎・羽仁五郎・林達夫。幹事のなかからじっさいに活動した人がさらに選ばれた。これから後の研究会の経過については、簡単であるが岡の記録のとおりであった。岡の記録の(引用部分のさいご﹅﹅﹅の七、八行の叙述は、戸坂の研究会活動を要約してのべている。しかし、戸坂の活動の本領はそれよりむしろ後にあったといえよう。一九三七年(昭和一二年)は中日戦争のはじまった年であるが、思想弾圧はいっそうきびしく、この年の終りごろ、戸坂と岡とが事実上の執筆禁止という極めて非合法的な、かつ陰険な当局の処置をうけた。このころ、唯研解散論の意見が会内部に出たほどに、会の活動はもっとも困難となり、「唯研存続の意義がほとんど零に等しい」とさえいわれるところまできていた。解散論に対しては改組論の意見があって、論議のすえ、改組論に決定した。改組後の会活動が困難であったことはいうまでもない。翌年の一九三八年の十一月に、ついに戸坂は検挙された。検挙から拘置所生活、保釈、さらに実刑について岡はつきのように記している。「私は留置場に一年、引きつづいて拘置所に一年あまりを過した。戸坂のほうは警察は一年半以上だったが、拘置所は半年だった。二人は同じ日の朝やられて、同じ日の晩に保釈になって出て来た」。保釈期間は四年だった。唯研のなかで実刑にもってゆかれたものは、戸坂と岡だけではなかった。二人のほかに伊豆公夫・伊藤至郎・永田広志・武田武志の四名がいた。戸坂が下獄したのは一九四四年の夏であった。
 私は唯物論研究会と戸坂の会活動のことを記することを、ここで一応とめよう。そして、戸坂が拘置所でどういうように生きたかを(三)の終りで述べたいとおもう。
 唯物論研究会における戸坂の広汎な活動のなかで、ぜひ、この二でのべておきたいのは、彼の労作『科学論』である。唯研に一九三五年に啓蒙活動のひとつとして『唯物論全書』を企画した。戸坂がこの『全書』の一冊としてかいたものが『科学論』である註(2)
 戸坂の『科学論』の概略をここにのべるということよりも、彼のこの労作のなかで、唯物論の主要な諸問題はどういうように提案され、どういうように解かれようとしたか、それを述べることが、何よりも肝要であろう。さて、その唯物論のおもな諸問題を仮りにつぎの二つとしてみたい。
(一)唯物論とはどういう思想組織としてつかまれているか。(二)唯物論において意識とは(したがって物質とは)いかなるものとして把えられているか。
(一)「空間論」から出発し、たえず「自然科学の典型としての」物理学に関心をもちつづけてきた戸坂は、社会科学に対する自然科学の方法論的優位を確実につかんでいた。唯物論が何であるかが問題になるとき、唯物論についての過去のひとびとの哲学的論議のなかをさまよう(たとえば、『唯物論史』の著者A・ランゲがしたような)仕方は少しも必要がなかった。彼には「本格的な自然科学」の理解が、あの『科学方法論』いらい(じっさいは『空間論』いらい)できていた。つまり「物理学」の理解である。彼にとって「世界」とはまず「自然」である。もちろん彼においても歴史的世界も考えられるのであるが、それにしても自然という世界を措いて、まったくその外に存在するわけではないだろう。彼は「自然という世界を取扱う自然科学の基礎は……世界空間によって与えられると考えられる註(3)」といっている。彼の世界空間の概念はすでに(一)でのべたが、彼は、「世界空間は自然を代表する」といっている。さて、「自然」概念の本質が以上のようにとらえられている限り、自然科学のうちに自然学の一実例としての植物学や動物学が含まれるように、ぜんたいとして自然科学はその本質とその研究方法とにおいて単一であり唯一である特質をもつとするのは当然のことである註(4)。このような自然科学の特質の大きな一つは、自然科学ではその対象の存在は方法によってきまり、方法は対象によってきまることにあるのだが、その方法が実験的で技術的であることにその本質がある。戸坂はここに単一性と唯一性の理由をみている。このことを理解するには、哲学史をみればよい。哲学には人の性の数だけ別々の哲学があるといっても、徹底的抗議はうけないであろう。自然科学に対して置かれる社会科学(いわゆるブルジョア社会科学の立場において)の立場は、今日でも哲学の数だけあるということができよう。これに反して、自然科学はとにかく歴史的にいって「唯一性と単一性との理想を保持できた」のである。さて、社会科学(または歴史科学)が科学であろうとすれば、右の単一性と唯一性の理想をとにかく自らの学問のなかで何らか実現するところがなくてはならぬ。(「真理に二つはないので、現実の事実や事情に照らしてみれば、二つの理論の是非は原則的に決定できる筈である」)。とにかく、科学としての社会科学が単一性と唯一性の理想を保持できるためには何らかの哲学と(自然科学とではない)結びつかねばならない。ところが、結びつくべきその哲学そのものが単一性と唯一性の理想を保持し得るものでなければならない。ここで戸坂は、はっきりとつぎの命題をかかげ得るわけである。「この唯一性と単一性とを有った哲学は、今日唯物論の組織以外にはない」。そのことは、いっぱんに観念論的哲学が今日もどのような状態にあるかをみれば判然とする。「ブルジョア社会の観念界に順応した各種各用途のブルジョア観念論は、その独創性と深酷な思索との口実の下に、実は、学派的セクトに基く思いつきや、反理論的な迂路・徒労・無意味な反覆、などを敢えてしている場合が、殆んどその大部分をなしていると云っても云い過きではない。」
 ではなぜ、現代の唯物論だけが、そのような学問上の単一性と唯一性とを保証されているのであろうか。
 戸坂がこれに答える用意は、じつは『空間論』のときの思索のなかに、もう萌芽以上のものとしてあった。哲学は彼によれば(エンゲルスと同様に)範疇組織に外ならない。範疇組織とは、わかりやすくいえぱ、「現実の事物の実際的な認識のために必要な認識方法」に外ならない。戸坂は「方法」というとき、実際的な仕方(自然科学ならば実験用具の使用まで)を考える。彼は認識のもつこのような実験的な特色は、「社会的に云い直せば」、認識の技術的な﹅﹅﹅﹅特色だといっている。だから、こうした意義からいって、彼において、「正当な意味に於ける範疇組織は、必ず技術的範疇組織でなくてはならぬ」のである。唯物論による範疇はまさにこういう範疇であると、彼は方法の技術性を判然と指摘している。これが実に、現代の唯物論だけが、どうしたら、いっぱんに科学に対して正しい方法論を提供できるかということへの、答えなのである。
 唯物論とはどういう(思想)組織であるかが、戸坂においては、以上のようにきわめて明解に分析され、明示されている。
 (二)第二の問題は、戸坂においては、意識は(したがって物質とは)いかなるものとして把えられているか、である。誰が考えても、科学は実在の認識だということはうごかないであろう。さて、問題の肝心の点はその実在と認識﹅﹅との関けい﹅﹅の理解にかかるのであるが、戸坂はその点はっきりと、こう明言する、「認識という言葉の意味﹅﹅﹅﹅﹅は、実在を模写するということをおいて他にない」と。さて、模写ということだが、彼は「鏡が物をそのままに﹅﹅﹅﹅﹅写す(左前になることは別として)という、その真実さ﹅﹅﹅をもつ点に譬えて」いわれるのであることを端的に指摘する。真実とは、率直にいって「ありの儘」ということであるはずだ、認識が真実であり真理であるのには、何は何でも、事物をありのままにつかまなくてはならない。だから、認識ということと模写ということとは同義である。ところで、唯物論に多少でも疑問をもつ人は、ここでたいてい﹅﹅﹅﹅つぎの問い﹅﹅をなげ出す。《認識とはそういうものだとしても、いずれは意識によるのであろう。そうしたとき、どうして意識は自分とは明らかに別のものである外界の事物を模写できるのであろうか?》戸坂はこれに対してこう答える。


 意識はそれが如何に自由で自律的で自覚的なものであるにしても、脳髄の所産であるという、一見平凡で無意味に見える事実を忘れてはならない。……意識は脳髄という生理的物質の未知ではあるが或る一定の状態乃至作用だと考える他に現在途はない。之は生理学の真理を認める限り哲学者といえども規定しなければならぬテーゼである。もし之を承認しないならば、意識の発生と成立とを哲学者はどこから説明するのか。もしその説明が与え得られないとすれば(霊魂の不滅説をでも科学的なテーゼとして持ち出さない限り)、吾々が今与えたような説明が現在可能な唯一の説明ではないか。哲学者はどこにこの説明を斥ける権利があるのか。それとも夫れを到底説明し得ないということでも説明しようとするのであるか。

 唯物論に疑いをもつたいていの人は模写説を承認することを躊躇しつつ、すぐにつぎの問いを用意している。《意識は脳髄という生理的物質﹅﹅の作用でもあろうが、これほど高度の意識がどうしてできたか?》私たちはここで、安藤昌益を想いうかべつつ、また中江兆民の考え﹅﹅を想起しつつ、戸坂のつぎのテーゼを聞くことにしよう。「その物質は云うまでもなく、自然にぞくしている。…… 吾々は、ブルジョア観念論哲学者のにがにが苦々にがにがしい顔色にも拘らず、意識は自然の発達過程の或る段階に於て自然の内から何等か発生したものだ、というごく当り前な哲学的結論に来るのである」「意識は」と戸坂は、さらに対立﹅﹅の発生を明らかにするためにつづける、「自然の発達過程の或る段階に於て自然の内から発生したのだが、そこから物と心との、客観と主観との、存在と意識との、対立そのもの﹅﹅﹅﹅﹅﹅が、発生したのである註(5)。……両者の関係それ自身が、自然的秩序に於て、宇宙時間の内に発生したところの一関係なのだ﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅。」(傍点は三枝
 戸坂は意識の問題はかなり詳細に立ち入って説明しているのであるが、これ以上ここに紹介する余裕がもてない。なお模写の問題も右に私が戸坂の考えを述べたのは、「模写」という、言葉﹅﹅の説明にすぎぬが、彼は模写の「実際の機構」についてくわしく論述している註(6)。以上『科学論』において見られる彼の唯物論思想の概略である。


註(1) 『回想の戸坂潤』(一九四八年)一一頁。岡邦雄の文章の転載は特に彼の承諾を得た。
 (2) 『唯物論全書』の最初の計画はつぎのようだった。『科学論』(戸坂潤)、『科学思想史』(岡邦雄)、『現代物理学』(石原純)、『数学論』(今野武雄)、『生物学』(石井友幸・石原辰郎)、『論理学』(三枝博音)、『技術論』(相川春喜)、『自然弁証法』(岡邦雄・吉田敏・石原辰郎)、『唯物論通史』(船山信一)、『近代唯物論』(森宏一)、『現代唯物論』(永田広志)、『歴史論』(服部之総)、『文学論』(森山啓)、『芸術論』(甘粕石介)、『戦争論』(堀真琴)、『無神論』(秋沢修二)、『ファシズム論』(今中次麿・具島兼三郎)、『明治思想史』(鳥井博郎)。
 (3) 『科学方法論』(『選集』第一巻一三八頁)
 (4) 歴史科学も科学である限り、自然科学についてかように考え得られるものが、ある範囲において妥当であるであろうことを、彼は考えていた。この仕事はついに彼において実現されなかったのではなかろうか。(『選集』第一巻一三九頁参照。)
 (5) 今のところ、私はこの発生について哲学者が細かい分析の結果教えてくれているもっともすぐれたものを、前述のL. Noiré の„Das Werkzeug und seine Bedeutung für die Entwickelungsgchichite der Menschheit“に見出すことができる。三枝博音訳『ノワレ・道具と人類の発展』(岩波文庫)参照。
 (6) 『科学論』のなかの(二)参照。『選集』では、一九五―二一一頁参照。

三 新しい型の唯物論者

 戸坂は、ほんとうに﹅﹅﹅﹅﹅「唯物論」の歴史が始まったのはここ百年ばかりだといった。これはまさにその通りであって、「新しい唯物論の立場」ということば﹅﹅﹅がその内容実質をそなえていわれたのは、マルクスによってであった註(1)。文学や哲学で気分または感じを主として言われるような、たんなる「にんげん」の立場でなくて、「社会化された人間」、じつにこれが新しい唯物論の立場でなくてはならない。このことは何にもまして大切である。ところが、戸坂ではこの大切なことは、ただ繰り返されたばかりではなかったのではあるまいか。現代において社会化された人間は、さらにそれ以上に、科学化された規定をもち込んできていると、私は考えたい。社会化された﹅﹅﹅﹅﹅﹅人間においてはじめて科学的規定が妥当しているのがありありと見てとられ、理解される。だから、ややおもい切っていうなら、戸坂においては、社会科学化された人間の立場が明瞭になっているということができよう。物理的空間論からその学問生活がはじまっている戸坂、科学方法論で思索が訓練された戸坂、マルクス、エンゲルス、レーニンの唯物論思想によって唯物史観に徹底した戸坂、そうした彼の新しい唯物論は、まさしく社会科学化された人間の立場だということができる。
 そこで、そういう戸坂における唯物論を、まさにその通りであるかを確かめてみる方法が、ここにひとつある。それは外でもなく、彼が文学﹅﹅について抱懐していた思想に私たちが当ってみることである。文学こそは、それが如何なる規定の「人間﹅﹅」であろうと、人間が全人間的豊かさ﹅﹅﹅をもってそこに立ち現われる人間表現﹅﹅﹅﹅なのであるからだ。さて、戸坂の文学論をたずねてみる前に、私はひるがえって、せめて明治以後の唯物論者の文学的生活を、想い出してみたい。
 私たちはさき前に兆民および秋水の、ことにその晩年の文学的生活を、というよりも、彼らが唯物論をもって時代に抗して、そして困難なうえにも困難な人生行路のなかで、どのようにその人生観を想像力(Phantasie, Einbildungskraft)のもとで表白したかを、仔細に叙述したのであった。読者は、第二篇の第二章第一節の一と第二節の(三)とに注目してもらいたい。一口でいえば、それはぜん﹅﹅リテラチュア(禅文学)ではなかったろうか。つぎに読者は、第三章の第一節の(三)に出ている河上の文学的な生活を想いおこしてもらいたい。それはもはや、ぜん﹅﹅リテラチュアではなくて、短歌や漢詩やをめぐる文学的ファンタジーであった。ところで戸坂にあっては、もうそういった文学の世界ではなくて、社会科学化された人間において見られる新しい文学の世界が、彼の生活を、唯物論者らしく豊かにしていたのではなかろうか。
 戸坂は文学論に関する労作を多く書いたとはいえない。しかし、文学や文芸について意見をもらしたものは、小篇ではあるがかなりある。私はここで彼の『認識論としての文芸学註(2)』をとりあげたい。さて、戸坂が文学を問題にするとき、ただちに彼の関心となるものは、批評精神である。文学を批判ということで把えようとすると、今日でも文学愛好者たちは首をかしげる。しかし、かなり複雑した概念である文学から、ほんとうに﹅﹅﹅﹅﹅文学であるものをのこそうと、振い落しを試みるとき、批評精神はどんなゆさぶりにもたえてのこるものではあるまいか。戸坂は「クリティシズムという観点から文学を根本的に取り上げるならば、第一批判されるべきものは、文学研究を語学研究と取りちがえ勝ちな一つのペダンティックな錯覚である」といっているが、彼はこうして文学ほんらいのものを把えようとしている。そこで彼はむしろ曖昧な「文学」という言い表わしよりも、しばしば「文芸」をえらんでいる。そうしておいてしかも、文芸というひとつのジャンルにはじめから縛られて考えることを避けて、彼は文芸や科学、これらのものの「背景に想定せられる処の一つの思想的力」に着目する。彼はそれをほんとうに文化的な作用はたらきである、というように理解している。これを呼んでまた「文化的エージェンシー」ともいっている。もし文学を問題にするなら、こうした文学的なものをつかむことが重要なのである。だから、この見地に立つ彼にとって、文芸と科学の関けいを考えることは容易である。文芸だっていずれは概念によっている。ただ文芸においては、その概念が「表象機能を以て登場する」ことに根本的相違があるだけである註(3)。だから彼は「文芸は一種の、認識﹅﹅である」と明言する。それどころか、「科学的認識と本質的に近親関係にある」認識である。したがって、文芸学が成り立てぱ、それは「まず第一にみずからが認識論である」のである。もちろん、戸坂において認識論は唯物論的な認識論である。なぜなら、いっぱんに、「学」にせよ「論」にせよ認識組織に外ならぬが、認識はいつの場合も、唯物論の主張するごとく根本的には実在との模写・反映の関係である外はないから。そこで、戸坂にはきわめて明確な結論として、現代唯物論による文芸の理論は、「首尾一貫して模写・反映の理論である」ことになる。このようにして、彼の文芸の把握は、唯物論思想と固く結ばれてできあがっている。つぎの命題は、戸坂によってはじめて明確になったものといえよう。「唯物論によって初めて科学の認識論が文芸の『認識論』にまで拡大延長され得る条件が発生したのである」。こうしてこそ、プロレタリア文学のレアリズムは確認されるという、確信が戸坂においては揺ぎなきものとなっている。
 私たちは、ここまできて、戸坂においては人の文学的生活はもはやぜん﹅﹅リテラチュアや漢詩文学におけるように、《わが風懐ふうかい》をのべるといったようなものではないことを、理解することができる。もちろん、兆民や秋水や河上やにおいての文学的生活が、風雅にこと寄せるといったような閑日月的なものでなかったことは、いうまでもない。しかし、唯物論の先行者たちにおける文学と戸坂においての文学とが、その把握またはそれの体験において、異質的といいたいほどそのあいだ﹅﹅﹅に距離のあることは十分に承認されるであろう。少なくとも、プロレタリア文学のレアリズムにまで彼の文学についての思索と体験が深まっていることは、その証左とせねばならない。
 戸坂が兆民や河上の年齢にまで生きのびていたら、そのときどういう人生観を、どういう文学的思索を表白しただろうか、それをこうと﹅﹅﹅想像して言い表わすことも、もちろんできない。科学、ことに自然科学の哲学的研究から出発し、新しい唯物論をあのように俊敏にして重厚な態度で把握した彼の姿は、私たちのまえに、新唯物論のけつ然たる把握者の像として立っているのである。
 これまでのところ、戸坂の生涯のさいご﹅﹅﹅、つまり獄中における生活について記すべき資料がなかったのであるが、幸いなことに、彼の独房(四十八房)の隣りにいて、戸坂の獄中の動静(というより、ほんのわずかの動きのグリンプス)を書いておいてくれたひとがあった。そのひとは箱崎満寿雄氏であるが、氏に請うてその一部をここに載せることにしたい。


 三月の末ごろの寒い日の午後だったと思います。湯気のたつなかで〔二人はお湯にいっしょに入ったのだった〕、やせ細った二人が、骨と皮ばかりの躰をいたわりあいました。四十八房の躰は私よりもさらにやせて、すでに白い皮膚にはうす黒い斑点が、胸にも脊にも、躰いっぱいできていました。気力も大分おとろえていて、言葉もやっとのどから出る位のかすかな声でした。
『おなかがすいてかなわないですね』と私がいうと、『そうだね、四等メシがたべたいね』と青白い顔にかすかに笑いをふくめて、答えてくれました。
『硫黄島がやられ、沖縄もあぶないそうですね』と私がもちかけると、『うん、もう、はじめから勝負はわかっているよ、あと半年ももたないよ』と元気そうにうなずき、そして、『君は案外元気そうだが、何をやってきたのか』と、私にききました。……私がてっとりばやく経歴をはなすと、『どうか、これからは、最後までがんばってやるんだね、若い人はたのもしくていいね』といって、私をゲキレイしてくれました。
『失礼ですが、シャバでは、どなたですか』と私がこの学者らしい、えらそうな人の名を訊ねました。すると、かすかにうなずき、『トサカだよ』と、ききとれるか、とれないような細い声で答えました。
 私は、しかし、突っさに、その人が誰だが、思い出せませんでした(私は労働者だったので余り哲学の本などはよまなかったので)。私は監視から、『はやく出ろ』といわれ、赤ちゃけた獄衣をきるころになって、これが有名な哲学者の戸坂潤先生なのだと、やっと、気がつきました。独房にかえってからも、その日は、何か懐しい慈父にあったようで、心があたたまる思いで、一日をたのしく過したことを思い出します。
 巣鴨の刑務所のまわりは、三月九日、四月十日(?)と五月二十五日(?)と、三回にわたって、大空襲をうけました。その時はB29の轟音と、爆弾の炸レツする音と、大東京が火の海となって、やけ崩れる炎の波が、潮のように、あのコンクリートの塀におしよせ、なかでは監視が、本錠をおろして逃げさり、熱風が房内にまでむしあつくたちこめ、水道も電灯もない部屋に、ただまっかに反映するくもりがらすの色を見て、その日の惨禍がいかにすさまじいものであるかを判断する以外にはなかったのですが、その時でも、私達の房の側では、皆ひっそりして、落ちついた起居をつづけていました。みな、日本帝国主義の崩壊ということを誰もが信じていたからだと、思います。
 しかし、房の反対側の方は天照大神に何かお祈りを告げるものや、気が狂ってさわぐものや、苦しさに泣きさけぶものやで大さわきでした。
 戸坂先生が長野に送られたのは、これから間もなくのことだったと思います。
 多分、朝の点呼が終った直後だったか、と思いますが(大へん失礼ですが、記憶がうすれてしまいました)、四十八房の扉がひらかれ、『今日は押送だ』という監視の声がきこえたので私はどきりとしました。
 やがて、監視台の前に青い色のジャンバーにズボンをは入いて、風呂敷をもった先生の後姿が(これもうすら覚えです)のぞき穴から見えました。それから、監視の何かざわめく声とともに、四十八房は、スタスタという草履の音をのこして、入口の扉の方に消えました。
 私は、行先が長野であるというのは、監視たちの話から、わかったので、これから寒い長野に行ったら、どうなるだろう、と、そぞろ行先に不安を感じ悲しい思いがしました。
 私は、静かに、その旅路の安全と先生の健康をいのり、その後姿を見送りました。

 私たちはここに、ひとりのソクラテスのすがたを見出すことができるではないか。
 戸坂潤は、このようにして、唯物論の世界観を押し通し、その立場で知識大衆の啓蒙にあたり、この時代の社会における人間の本質からの抵抗を表現しつづけたのである。唯物論者戸坂は、たとい気狂いじみた戦争が機会となったとはいえ、このようなさいご﹅﹅﹅をとげたのである。私たちは戸坂において、兆民や秋水とちがった、また河上とも同じくはない、新しい型の唯物論者を、見出すのである。もはや紙数がないから、私は戸坂についての第二節をここで終らねばならない。


註(1) 「新しい唯物論の立場は人間社会、または社会化された人間でなければならない」(マルクス)『フォイエルバッハ論綱』のさいご﹅﹅﹅のところを参照。
 (2) 『プロレタリア文学』(昭和二十九年刊『現代文学論大系』第四巻)参照。
 (3) 文芸における「表象」または「表象機能」については、戸坂として必ずや思索するところがあったろうとおもわれるが、私はまだそれに接していない。

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