南総里見八犬伝(009)

南總里見八犬傳卷之四第八回
東都 曲亭主人 編次
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「真野まのの松原まつはらに訥平とつへい大輔だいすけを遂おふ」「金まり大すけ」「かぶ戸とつ平」

行者ぎやうじやの岩窟いはむろに翁伏姬おきなふせひめを相さうす
瀧田たきたの近邨きんそんに狸雛狗たぬきいぬのこを養やしなふ

 金碗かなまり八郞孝吉たかよしが、猛にはかに自殺したりける、志こゝろざしをしらざるものは、「渠かれ死なでもの事なるに、功ありて賞を辭し、可惜あたら命を亡うしなひし、こは全く玉梓たまつさに、罵のゝしられしを愧はぢたるならん」、と難ずるものもありとなん。それにはあらでいにしへの、賢かしこき人の言ことの葉はに、男子寡欲なんしくわよくなれば、百害を退しりぞけ、婦人に妬ねたみなければ、百拙ひやくせつを掩おほふといへり。況まいて道德仁義をや。されば義實よしさねの德、孤こならずして、鄰國りんこくの武士景慕けいぼしつ、好よしみを通じ婚緣こんいんを、募もとむるも又多かりける。そが中に、上總國椎津かつさのくにしひつの城主、萬里谷入道靜蓮まりやのにうどうじやうれんが息女そくぢよ、五十子いさらごと呼做よびなせるは、賢けんにして妍かほよきよし、義實仄ほのかに傳へ聞きゝて、すなはちこれを娶めとりつゝ、一女一男いちぢよいちなんを產うまし給ふ。その第一女は嘉吉かきつ二年、夏の季すゑに生れ給ふ。時、三伏さんぶくの時節を表ひやうして、伏姬ふせひめとぞ名なつけらる。二郞じらうはその次つぐの、年のをはりに擧まうけ給ひつ、二郞太郞じろたらうとぞ稱せらる。後のちに父の箕裘ききうを嗣つぎて安房守義成あはのかみよしなりといふ。稻村いなむらに在城して、武威ぶゐます〳〵隆さかんなりき。しかるに伏姬は、襁褓むつきの中うちより儔たぐひなく、彼竹節かのたけのよの中うちより生れし、少女をとめもかくやと思ふばかりに、肌膚はだへは玉たまのごとく徹とほりて、產毛うぶげはながく項うなぢにかゝれり。三十二相さうひとつとしてく缺かけたる處なかりしかば、おん父母ちゝはゝの慈愛いつくしみ、尋常よのつねにいやまして、册かしつきの女房にようぼうを、此彼夥俸これかれあまたつけ給ふ。さりけれども伏姬は、夜よとなく、日となくむつかりて、はや三歲になり給へど、物を得えいはず、笑えみもせず、うち嗄なき給ふのみなれば、父母ちゝはゝ心くるしくおぼして、三年以來醫療みとせこのかたいりやうを盡し、高僧驗者げんざの加持祈禱かぢきとう、これ彼かれとものし給へども、絕たえて驗しるしはなかりけり。

 不題安房郡こゝにまたあはのこふりに、洲崎明神すさきめうしんと唱奉となへたてまつる、いと上久かみさびたる神社やしろあり。この神社やしろの山足やまのねかたに、大きやかなる石窟いはむろありけり。窟いはやの中うちに石像せきぞうあり。是これは役行者えんのぎやうじやなり。この處より湧出わきいづる泉いづみを鉵子水とつこすいといふ。旱天かんてんにも涸かるゝことなし。むかし文武もんむのおん時に、役君小角えんのきみしようかくを、伊豆いづの島へぞ流し給ふ。この地は伊豆いづの大嶋おほしまへ、海上僅かいせうはつかに十八里、小角しば〳〵波濤なみを踏ふみて、洲崎に遊歷ゆうれきし給ひつ、靈驗れいげんを顯あらはし給へば、後のちの人その像を造りて、彼石窟かのいはむろに安措あんさくせり。靈應れいおふ今も著明いちじるく、一トたび祈願をかくるもの、成就ぜうじゆせずといふ事なし、とかたり繼つぎいひつぎて、大かたならず聞えしかば、おん母君五十子はゝきみいさらこは、伏姬の爲に願事ねぎごとして、月々つきつきに彼かの窟いはやへ、代參のものを遺つかはし、既に三年みとせになるものから、させる利益りやくはなけれども、「姬うへ命恙つゝがなく、ともかくも生育おひたち給ふは、その驗しるしにぞあらんずらん。みづから彼處かしこに參らしなば、いかで奇特きどくのなからずやは」、と殿へ歎なげかせ給ひけり。義實もこの事を、いなみ給ふにあらね共、「洲崎は里見の采地れうぶんならず。今はしも安西あんさいに、野心あるべうもあらざめれど、かゝる事にて穉をさなきものを、はるばる彼處かしこへ遺つかはさば、世の聞え影護うしろめたし。思ひとゞまり給へ」とて、容易たやすく許し給はざりしが、請こはるゝこと度たびかさなりて、默止もだしがたく思召おぼしめしけん、倶ともには老おいたる男女なんによを擇えらみて、潛しのびやかに姬うへを、洲崎へ遺つかはし給ひけり。

 さる程に伏姬は、轎子のりものにうち乘のりつゝ、㚷母めのとが膝ひざにかき拘いだかれて、外よそめづらしく左右より、うち囃はやされ給へども、樂しげなる氣色けしきなく、途みちすがら啼なき給へば、從者等ともびとらは傍痛かたはらいたくて、殊更ことさらに途みちをいそがし、とかくして洲崎すさきに赴き、明神めうじんの別當べつたうなる、養老寺ようろうじに旅宿りよしゆくして、彼かの行者ぎやうじやの石窟いはむろへ、七日參らせ奉る。かくてはや、結願けちぐわんの日も果はてしかば、從者等ともびとらは歸館を促うながし、旅宿を出いでて轎子のりものは、平郡へぐりのかたへ一里ばかり、來きつらんと思ふ折、姬うへいたくむつかれば、女房乳母等にようぼうめのとら慰なぐさめかねて、轎子のりものより出いだしまゐらせ、衆皆賺みな〳〵すかしこしらへて、かき抱いだかせつゝなほ途みちを、いそぐとすれど果敢はかどらず。

 浩處かくるところに年としの齡よはひ、八十やそぢあまりの翁おきな一人、眉まゆには八字の霜しもをおき、腰には梓あづさの弓を張り、鳩はとの杖つゑに携すがりつゝ、途みちの眞中まなかに憩いこひてをり。故もとより潛行しのびのたびなれば、從者等ともひとらは先を得追えおはず。その時翁おきなは目をはなさで、伏姬を熟視つら〳〵みて、「これは里見の姬君ならずや。石窟いはむろのかへさならば、翁が加持かぢして進まゐらせん」、と呼びかけられて從者等ともひとらは、驚おどろき劇あはてて見かへれば、現げに彼翁かのおきなが爲體ていたらく、凡人たゞひとにはあらざりけり。「憖なまじいに實じつを吿つげずは、あしかりなん」、と思ひしかば、老黨老女ろうだうろうぢよは翁に對むかひて、縡ことの趣些おもむきすこしも隱さず、云云しか〳〵と吿つげにければ、翁しば〳〵點頭うなつきて、「寔まことに靈れうの崇たゝりあり。これこの子の不幸なり。禳はらふにかたきことはあらねど、禍福くわふくは糾あざなへる纒なはの如し。譬たとひば一個ひとりの子を失ふて、後のちに夥あまたの翼たすけを得えば、その禍わざはひは禍ならず。損益そんゑきの方みちみなしかり。歡よろこぶべからず、哀かなしむべからず。まかり皈かへらばこのよしを、義實夫婦に吿つげよかし。これまゐらせん、護身まもりにせよ。思ひあはすることあるべし」、と誇㒵ほこりがに說示ときしめし、仁義禮智じんぎれいち、忠信孝悌ちうしんこうていの八字を彫えりなしたる、水晶すいせうの珠數一連ずゞいちれんを、懷ふところよりとり出いだして、閃ひらりと姬の衣領えりにかくれば、老黨老女は劇惑あはてまどひて、もろ共に額ぬかをつき、「靈れうとは何なにの崇たゝりやらん。委細つばらに說ときて後々のちのちまで、禳鎭はらひしづめて給ひね」、といへば翁はうち微笑ほゝえみ、「妖ようは德に勝かつことなし。よしや惡靈あくれうありといふとも、里見の家はます〳〵榮さかえん。盈みつるときはかならず虧かく。又何なにをか禳はらふべき。これを委細つばらに示すときは、天機てんきを漏もらすのおそれあり。伏姬といふ名によりて、みづから曉さとらば曉得さとりえなん。さはれけふよりこの女めの子こが、嗄なくことは止やむべきぞ。とく〳〵ゆきね。われははや、罷まかる也」、といひかけて、洲崎すさきのかたへ還かへると思へば、走ること飛ぶが如く、形は見えずなりにけり。從者等ともびとらは忙然ばうぜんと、霎時其方しばしそなたを目送みおくりつ、「これ全く役行者えんのぎやうじやの、示現じげんにこそ」、と思ひとりて、僉みなもろ共にふし拜み、瀧田たきたを投さしてかへる程に、姬うへはむつかり給はず、快愉こゝろよげに遊戲あそびたはふれ、殊ことにこの日をはじめとして、物のいひざま尋常よのつねなる、三歲兒みつこにまして見えさせ給へば、或あるは歡よろこび、或あるはあやしみ、瀧田へかへし入れまゐらせて、さて件くだんの趣おもむきを、義實五十子に聞えあげて、件くだんの珠數ずゞを見せ奉る。大かたならぬ冥助めうぢよなれば、義實はうちもおかず、更に藏人貞行くらんどさだゆきを、洲崎の神社やしろと行者ぎやうじやの石窟いはむろへ遺つかはして、幣帛みてくらを獻たてまつり、姬うへの爲後々のち〳〵まで、災害消除さいがいせうぢよと祈らしつ、珠數ずゞをば常に伏姬ふせひめの、衣領えりに被かけさせ給ひけり。

 かくて又、四年よとせあまりの春立たちかへりて、姬君七才ひめきみなゝつになり給へば、金鸞きんらんはじめて卵かひこを出いで、玉樹ぎよくじゆはじめて花を締むすぶ、天の作なせる夭顏美貌ようがんびばう、世に儔たぐひなきのみならず、心ざまいと怜悧さかし。晝は手習てならひの草紙ざうしにむかひて、終日倦ひねもすあける氣色けしきなく、夜よは絃管いとたけのしらべに耽ふけりて、更闌こうたくるをも覺おぼえ給はず。年とし十一二に及びては、和漢の書籍しよざくをよく讀よみて、をさ〳〵事の道理を知覺ちけうし、仇あだなるかたへはこゝろを移さで、親を敬うやまひ、下しもを憐あはれみ、孝貞忠恕こうていちうぢよおのづから、常住坐臥じやうぢうざぐわに見えさせ給へば、母うへの鍾愛しようあいいへばさら也、義實は思はずに、人にも誇り給ひけり。

 かくてこの比長狹郡ころながさのこふり、富山とやまよりこなたなる村落かたゐなかに、奇譚あやしきものがたりありけり。字技平あざなわざへいと呼よばれたる、莊客ひゃくせうの門かどなる犬、子を只たゞひとつ產うみてけり。しかも牡狗をいぬでありければ、よにひとつ子こは逸物いちもつとて、骨逞ほねたくましく力つよく、敵なきものといふなれは、技平はいと惜をしみて、背門せどに藁蓋葺わらぶたふきかけて、彼が產屋うぶやと定めつゝ、朝夕糧かてのあまれるをば、與あたへずといふことなし。かくてはや、七日ばかり經ふる程に、その夜よ背門なる笆かきを毀こぼちて、狼入おほかみいりて彼母犬かのはゝいぬを、啖仆くらひたふして銜去ついばみさりぬ。技平は天明よあけて後のちに、血を見てこれをしりてければ、打腹うちはらたつのみ術すべもなし。さはれ雛狗こいぬは食遺はみのこされて、不思義ふしぎに恙つゝがなかりしかば、せめてもの事におぼえて、いよゝ不便ふびんの物にすなれど、彼はいまだ目だに得開えあかず、乳汁ちゝならずして又別べちに、これ養やしなはんよしもなければ、搨糊すりこなどいふものをして、心ばかりは孚はぐゝめども、この技平には妻子やからなし、元來單身もとよりみひとつなりければ、晝は田畑たばたの稼かせぎして、宿所にあること稀まれなれば、その事も得遂えとげざりき。かくは只たゞ手を束つかねつゝ、彼が死しするを俟まつのみ、と思ひ捨すてて草野のらへ出いで、一日二日ひとひふたひと經ふる程に、なほ怪あやしきは彼雛狗かのこいぬ、餓うへたる氣色けしきは見えずして、十日といふに目を開きつ、肥こゆることはじめにましたり。こは平事たゞことにあらずとて、人にも吿つげて旦暮あけくれに、こゝろを附つけて窺うかゞひつゝ、ある朝まだきに起おきて見れば、いと老ふりたる一隻ひとつの狸たぬき、狗菰屋いぬごやより走り出いでて、富山とやまのかたへぞかへりける。「原來雛狗さてはこいぬは彼狸かのたぬきに、孚はぐゝまるゝにぞあらんずらん。世に又あるべき事とは覺おぼえず。こはそもいかに」、とばかりに、只顧ひたすら驚嘆するものから、ふたゝび楚しかと見み定さだめん、と思へばさうなく人に語らず、その黃昏たそがれは背門せどに躱かくれて、狸の來るをまつ程に、雛狗こいぬは母を慕ひつゝ、わゝと啼なくこと頻しきり也。時に燐火おにびか人魂ひとたまか、瀧田のかたより閃ひらめき來て、中天なかそらより撲地はたと落おち、彼狗菰屋かのいぬこやのほとりにて、忽然こつぜんと減きゆるとそがまゝ、今朝けさ見し狸いそがはしげに、富山のかたより走り來て、菰屋うぶやの內へ入りしかば、雛狗こいぬは頓とみに啼止なきやみて、乳ちを吸すふ音のみ聞えたり。かくて又、四五十日を歷ふる隨まゝに、犬ははや大きうなりて、よくあるき、ひとり食くらへば、狸は遂つひに來こずなりぬ。よりて今もこの處を、犬懸いぬかけと喚徹よびなせり。

[房總志料ばうさうしれうを按あんずるに、安房郡あはのこふり府中の地より、長狹郡大山寺ながさのこふりおほやまでらへゆく道あり。富山へ登らんとするものは、犬懸いぬかけより左へ轉す。又いふ西は平郡へぐり也。瀧田山下犬懸邊へん、と見えたるはこゝなるべし。]

 このとき杉倉木曾介氏元すぎくらきそのすけうぢもと、堀內藏人貞行ほりうちくらんどさだゆきは、義實よしさねの仰おほせを承うけ、一年宛輪番ひとゝせつゝりんばんに、東條とうでふの城を守りつ。貞行は休暇の年にて、氏元に城を遞與わたし、瀧田へとて還かへる日に、彼犬懸かのいぬかけの里を過よぎれば、狸たぬきの事を吿つぐるものあり。はじめは貞行これを信うけず、その虛實をしらん爲、技平わざへいが宿所へいゆきて、親しく件くだんの犬を見つ、なほその縡ことの來歷を、あるじの男に尋たづぬれば、風聞ふうぶんに一點違つゆたがはず。又彼犬かのいぬの爲體ていたらく、唐山もろこしの獹韓ろかん、日本ひのもとの、足往あゆきともいひつべし。これ未曾有みぞうの珍事ちんじなれば、まかりかへりて義實朝臣あそんへ、「かゝる事こそ候へ」とて、ありつる侭まゝに吿奉つげたてまつれば、義實耳を傾かたふけて、膝ひざの進むを覺おぼえ給はず、「伏姬は襁褓むつきの中うちより、魘おそはれて泣なきしかば、これより常に犬を畜かふて、後園おくにはに繋つながしたれ共、今にさせる逸物いちもつなかりき。汝ながいふ所實事まことならば、その犬こそ逸物ならめ。むかし丹波たんばの桑田村くはたむらに、甕襲みかそといひし人の犬は、その名を足往あゆきと呼よばれたり。この犬有一日貉あるひむじなを殺しつ。貉の腹に八尺瓊やさかにの、勾玉まがたまありて出いでたるよし、書紀垂仁紀しよきすいにんきにしるされたり。この事としもうらうへなる、狸が犬の子を孚はぐゝむ、不思義ふしぎといふもあまりあり。現げに犬は狐狸こりの爲に、忌憚いみはゞからるゝものなれど、その子に母のなきを見て、相刻あいこくするの義を忘れ、乳ちゝしてこれを育そだてしは、兼愛けんあいの道に似たり。且狸かつたぬきといふ文字もんじは、里に從ひ、犬に從ふ。是則これすなはち里見の犬なり。われその犬を見まくほし。召めしよせよ」、と宣のたまへば、貞行はこゝろ得果えはてて、日ならず犬を召めしよしたり。義實これを見給ふに、骨太く、眼尖まなこするどく、高たかさは常の犬に倍して、垂たれたる耳、卷まきたる尾、愛すべく、手狎てならすべし。その毛は白きに黑きを雜まじへて、首尾八所しゆびやところの斑毛ぶちなりければ、八房やつふさと名つけ給ひて、後園おくにはにこれを繋つながし、そを畜かふたりける技平わざへいには、祿かつけものを賜たびてけり。是よりして八房は、貴人あてひとに愛せられて、飯いひに飽あき、茵しとねに睡ねふる、一條帝いちでふていの翁丸おきなまるも、これにはいかでますべきとて、僉只奇怪みなたゞきくわいの事に思へど、主君の愛犬あいけんなるをもて、等閑なほざりならずとりはやしつ。後々のち〳〵に至りては、伏姬も又これを愛して、端近はしちかう出いで給ふ日は、「八房々々」と呼よばせ給ふに、尾をを揮ふりつゝ走り來て、霎時しばしもほとりを去さらざりけり。

 されば又春の花、秋の紅葉もみぢと幾遠いくたびか、梢こすゑの色を染そめかえて、伏姬二八になり給へば、いよゝます〳〵臈闌ろうたけて、匂にほひこぼるゝ初花はつはなに、いさよふ月を掛かけたる如し。

 今茲ことしの秋八月はつきの比ころ、安西景連あんさいかげつらが釆地れうぶんなる、安房朝夷あはあさひなの二郡ふたこふり、種物登たなつものみのらずとて、景連はそが老黨ろうだう、蕪戶訥平かぶととつへいを使者として、瀧田の城へ遣つかはして、義實に乞こひけるやう、「天わが領れう所しよに災わざはひして、上下忽地困窮じようげたちまちこんきうせり。しかるに貴領きれうはこの秋も、豐作也と傳聞つたへきゝぬ。願ふは米べい穀こく五千俵びやうを貸かし給へ。來年くるとしの調みつぎをもて、倍して返し奉らん。景連齡傾よはひかたふきて、はや七旬しちじゆんにあまれども、男兒をのこさはさら也、女子めのこだもなし。貴所きしよの息女そくぢよを養ふて、一族の中うち、壻むこを擇えらみ、所領を讓ゆづり與あたへん、と思ふ事頻しきり也。この事さへに許し給はゞ、一期いちごの幸ひ甚はなはだし」、といと叮嚀ねんごろにいはせけり。義實これを聞召きこしめして、「われに夥あまたの男兒をのこゞあらば、安西に養やしなはするも、亦また難かたきことはあらず。いかにせん、一女一男いちぢよいちなんのみなるに、今伏姬を遣つかはすとも、彼人かのひと妻なく子なければ、自他じたにその益ゑきあることなし。この一事いちじは承引うけひきがたし。又豐凶ほうけうは時運じうんに係かゝる。安西がうへのみならんや。鄰國りんこくの荒亡くわうぼうを、聞きゝつゝこれを救すくはずは、天の咎脫とがめまぬかれがたし。養女の一議は推辭いなむべし。米穀べいこくは形かたのごとく、是これより送り進まゐらせん」、と正首まめやかに回答いらへして、訥平とつへいをかへし給ひつ。このとき堀內貞行ほりうちさだゆきは、東條の城にあり。又杉倉氏元すぎくらうぢもとは、老病ろうびやうに侵おかされて、引籠ひきこもりてゐたりしかば、利害をいふもの絕たえてなし。そが中に、金碗大輔孝德かなまりだいすけたかのりは、是年このとし既に廿歲はたちになりぬ。義實の近習きんじゆたり。外祖父一作おほぢいつさくは、五年前いつとせさきに身まかりし、そが病床の介抱かいはうは、大輔みづから鹽梅あんばいして、穢けがれたる物といへども、奴稗ぬひにはこれを任まかすることなく、よく孝養を竭つくしたり。加以生育これのみならずおひたつまゝに、父孝吉が志こゝろざしを受嗣うけつぎて、忠義拔群ばつくんの壯佼わかものなれば、君きみを諫いさめまうすやう、「景連生平つねには疎遠そゑんにして、事の難義に及ぶとて、養女を求め、穀こくを借かる。渠かれよく恩をしるものならんや。この時をもて討うち給はゞ、一擧いつきよして安房一國を、平均し給はんこと疑ひなし。もしその乞こふに任まかし給はゞ、賊ぬすびとに糧かてを齎もたらし、讐あたに刃やいばを藉かすに似たり。只たゞ出陣の准備ようゐこそ、あらまほしく候へ」、と憚はゞかる氣色けしきなくまうすにぞ、義實これを聞きゝあへず、「汝弱輩なんぢじやくはいの分際ぶんざいにて、何事なにことをかよくしるべき。讐敵あたかたきたりといふとも、凶けうに乘じて攻擊事せめうつこと、良將勇士はせざる也。況まいてや安西景連は、今わが爲に仇あたならぬに、故ゆゑなうして干戈かんくわを動うごかす、これを無名むめいの軍いくさといふ。無名の軍いくさは、人從はず。よしなき事をいふ奴やつかな」、と敦圉いきまきたけく叱しかり懲こらして、則すなはち米穀五千俵たはらを、安西にぞ贈り給ふ。

 かくて又その明あけの年、義實の采地れうぶんなる、平郡長狹へくりながさは荒作くわうさくして、景連が采地れうぶんのみ、八尺穗やさかほたかく登みのりにけれど、曩さきに借かりたる米を返さず、瀧田たきたは上下困乏こんぼくして、縡ことはや難義に及びけり。當下そのとき金碗大輔は、竊ひそかに主君にまうすやう、「鄰國鄰郡りんこくりんぐん急を救ひて、相與あいともに扶助たすけたすけ、その足たらざるを補おぎなはずは、好よしみを結ぶもその益ゑきなし。安西ぬし去年こぞの秋、夥あまたの穀こくを借給ひしが、こなたの危急ききうを知しりながら、今にこれを返すことなし。彼人かのひとに乞こふものにもあらぬに、などてや債はたり給はざる」、とまうすことしば〳〵也。義實は大輔を、わが子のごとく愛し給へど、他ひとの媢そねみもあらんかとて、陽うへにはいたく叱しかりなどして、志こゝろざしを激はげまし給ふに、渠かれは年はや廿はたちを超こえて、器量骨相きりやうこつがら親に劣らず。かゝれば 「今茲ことしは東條の城主にせばや」、と豫かねてより、用意こゝろがまへをし給へども、「なほその年のわかきをもて、老おいたるかたには妬ねたまれなん。一ひとつの功を立たてさせて、その勸賞けんせうに擧用あげもちひん」、と思ひ給ふ最中もなかなれば、しば〳〵いはせてうち點頭うなつき、「汝なんぢが議論ぎろん豫が意に稱かなへり。使者には汝を遺つかはさん。しかりとて五千俵たはらを、こなたより債はたるべからず。箇樣かやうにいへ」、と叮嚀ねんころに、口狀こうでうをこゝろ得えさして、次つぐの日彼處かしこへ遣つかはし給ふ。

 さる程に金碗大輔孝德かなまりだいすけたかのりは、從者ともびと十人ンあまり將いて、馬に跨のり、鎗やりをもたし、未明まだきに瀧田を啓行かしまたちして、只管足掻ひたすらあがきをいそがしつゝ、夜よを日に續つぎて景連が、眞野まのの館たちへ赴きて、その老黨ろうだう、蕪戶訥平かぶととつへいに對面し、里見の采地五穀登れうぶんごこくみのらず、縡ことはや難義に及べるよし、主命しゆうめいを詳つばらに述のべて、五千俵たはらの米をぞ乞ひぬ。その口狀慇懃いんぎん也。訥平は應いらへかねて、「則すなはち主人に申さん」とて、そが侭まゝ奧へいゆきしが、半日あまり出いでも來こず。大輔は項うなぢを鶴のばして、今か今か、とまつ程に、日は暮くれたり。このとき蕪戶訥平は、やうやく舊處もとのところにかへりて、大輔に對むかひていふやう、「向さきには貴命きめいの趣おもむきを、委細つばらに主人に吿つげたりき。『景連對面すべけれども、いかにせん、いぬる比ころより、風邪ふうじゃに犯おかされて、今に得起えたゝず。去歲こぞの秋そなたより、危急きゝうを救ひ給ひしかば、乞こはれずとも倉くらを竭つくして、先恩せんおんに答こたへんこと、別べちに仔細しさいは候はねど、荒年くわうねんの後のちなれば、こゝにもいまだ物足らず。老黨ろうだうを召聚めしつどへ、評議ひやうぎを加え、有無うむを辨べんじて、返答に及ぶべし』。主人の口狀こうでうかくの如し。且しばらく當地に逗留して、人馬にんばを休やすらへ給へ」といひて、みづから旅館りよくはんに誘引いざなひつゝ、いと叮嚀ねんころに款待もてなしけり。

「真野まのの松原まつはらに訥平とつへい大輔だいすけを遂おふ」「金まり大すけ」「かぶ戸とつ平」

 とかくする程に思はずも、五六日を過すぐしにければ、大輔は焦燥いらだちて、「有無うむの返答いかに〳〵」、と訥平に催促す。あまりにいたく責せめられて、訥平も又病やまひに假托かこつけ、遂つひにふたゝび出會いであはず。こゝに至いたつて大輔は、忽地たちまちに疑心ぎしん起りて、しのびしのびに意こゝろをつくれば、城中の爲體ていたらく、人は鎧よろひ、馬には馬具足ばぐそくを被かけ、僉囂囂みながや〳〵と散動どよめきて、只今出陣するが如し。「こはこゝろ得ず」、と驚き騷ぐ、胸を鎭しづめて、「彼主從かのしゆう〴〵が、奸計かんけいを推量おしはかるに、全またくわれを出だし拔ぬきて、凶に乘じやうし、不意を擊うち、瀧田を改せめんとするなるべし。今一チ日遲く曉さとらば、竟つひの敵の擒とりことなりなん。危あやういかな」、と舌を振ふるひて、從者等ともひとらにもこゝろを得さし、形を窶やつし、姿を變かえ、主從一人二人しゆう〴〵ひとりふたりつゝ、縡ことの紛まぎれに城を出いでて、瀧田を投さして走りつゝ一里あまり來にければ、後おくれたる從者ともひとを、こゝにて待またん、と大輔は、石滂しみづを掬むすびて、咽のんどを潤うるほし、竝木の松に尻しりをかけて、流るゝ汗あせをとりてをり。

 浩處かゝるところに訥平とつへいは、軍兵ぐんひやうを將いて追蒐來おつかけきつ、眞先まつさきに馬を進めて、鐙踏張あぶみふんばり聲をかけ、「孝德今さら迯にぐるは蓬きたなし。汝なんぢが主しゆうなる義實は、乞食こつじきしたる浮浪人ふらうにん。白濱しらはまへ漂泊ひやうはくして、愚民ぐみんを惑まどはし、土地を奪ひ、兩郡りゃうぐんの主ぬしとなりしは、麻呂信時まろののぶときを滅ほろぼし給ふ、わが君の助けによれり。かゝれば是これ腰を折かゞめ、臣附しんふして安西公あんさいこうへ、をり〳〵出仕すべき身を、尊大そんだいにしてみづから傲慢たかぶり、僅はつかに米よねを進まゐらしたりとて、これを債はたるは鄙吝ひりんなり。又その女兒伏姬むすめふせひめが、妖艷みやびたるを聞召きこしめし、假に養女に擬なぞらへて、實は側室そばめになされんとて、吾君召わがきみめさせ給ひしかど、義實愚ぐにして從はず。此彼これかれもつて不禮ぶれいなり。時いまだ至らずとて、年來としころゆるしおき給ひしを、何時いつも春ぞと思ひけん、汝等主從しゆう〴〵が愚おろかさよ。いまだしらずやわが君は、三千の軍馬ぐんばを起して、はや東條の城を乘取のつとり、今は瀧田を攻せめ給へば、還かへるに途みちはなきものを、命をしくは降參こうさんせよ」、とほざきにほざく廣言くわうげんを、大輔は聞ききあへず、「嗚乎をこがましや鼠ねずみの輩ともがら、われ稚をさなきよりこれを聞きけり。汝が主しゆうなる景連は、麻呂信時を擊うつて義に背き、その地を合あはして足れりとせず。さはれわが君斧鉞ふゑつを加えず、乞こはるゝ隨まゝに鄰郡りんぐんの、好よしみを結むすばせ給ひしを、こよなき幸さいはひとは思はず、なほ又紆智かんちをめぐらして、曩さきには夥あまたの米を乞こひとり、約に背そむきて、今に返さず、虛を窺うかゞひ凶に乘じて、大軍をもて攻擊せめうつとも、皇天皇土くわうてんくわうどは不義に與くみせず。みづから敗やぶれを取らんこと、鏡かゞみに照かけて見る如し。主命しゆうめいを受うけながら、縡成ことならずして空しく還かへる、孝德が手裹てみやげに、汝が頸くびを引拔ひきぬきて、見參げんざんに入いるべき也。其處そこな退のきそ」、と鎗引提やりひきさげて、從者等ともびとらを左右さゆうに從へ、群立むらたつたる多勢たせいの中へ、面おもてもふらず突ついて入いり、縱橫無礙じゆうわうむげに戰ふたり。されば金碗大輔は、主從僅はつかに七八人、必死と思ひ決さだめにければ、射れども斬きれ*ども物ともせず、擊うちつ擊うたれつ、追ひつかへしつ、半時はんときあまりの血戰けつせんに、敵は三十餘騎擊うたれて、死骸しがいは路上ろぜうに橫よこたはり、躬方みかたは七人命いのちを隕おとして、大輔ひとりになりしかど、なほ一步ひとあしも退しりぞかず、訥平に組くまんとて、出沒不測しゆつぼつふしぎに走り遶めぐれど、敵は目にあまる大勢たいせい也。遂に人馬にんばに隔へだてられて、ほゐ遂とぐべうもあらざりけり。

 夫君子それくんしをば欺あざむくべし、陷おとしいるべからず、と賢者けんしやのいひけん眞まことにしかり。義實は蓋世かいせいの良將、仁心じんしんもつて民を掩おほひ、義信ぎしんもつて鄰郡りんぐんに交まじはる。景連奸詐彊かんそきわまりなし。これを欺くにその方みちをもつてす。猶且なはかつこれを疑はゞ、君子の人と稱するに足らず。義實子產しさんが才さえありとも、その欺詐たばかりにおとされたる、抑亦宜そもそもまたむべならずや。

南總里見八犬傳卷之四終

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