読書ざんまいよせい(009)

◎アントン・チェーホフ「いいなずけ」と「作家の手帳」(訳者はしがき)

 赤旗4月19日「金曜名作館」に、「アントン・チェーホフ没後120年」と称し、特に、彼の最後の小説「いいなずけ」が取り上げられていた。(画像左)
 晩年の彼のテーマ「古い時代からの人それぞれの決別」に連なるものだが、どうもそれだけではなさそうだ。「新しい生活」に決心だけではなく、実際踏み出した女性の物語である。それと、その女性への指南役として、自らをモデルとした人物を配している点である。
 小説の結末はこうである。
「 ナージャは祖母の泣き声を耳にしながら、長いあいだ部屋を歩きまわっていたが、やがて電報を取り上げて読んだ。きのうの朝サラトフでアレクサンドル・チモフェーイチ、つまりサーシャが結核のために亡くなったという知らせだった。
 祖母と母親のニーナ・イワーノヴナは追善供養の手配に教会に出かけたが、ナージャはまだ長らく部屋のなかを歩きながら考えていた。ナージャはありありと意識した──自分の人生はサーシャが望んだようにその方向を転じたんだと。自分がここではひとりぼっちで、必要とされない赤の他人であるとも意識した。また、自分にとってもここの一切が不必要なものとなり、一切の自分の過去もわが身からもぎ取られ、めらめらと燃えあがり、その灰までもが風に吹き飛ばされるようにかき消えてしまったことをありありと感じた。ナージャはサーシャの部屋に入って、しばらくたたずんでいた。
 《さよなら、いとしいサーシャ!》──ナージャは心のなかでサーシャに別れを告げた。するとナージャの前に、新しい広々としたはてしない生活が開けてきた。それはまだおぼろげで謎だらけだが、ナージャの心をつかんで、おいでおいでと差し招いていた。 ナージャは二階の自分の部屋に行って荷物をまとめると、その翌朝、家の者に別れを告げ、元気に意気揚々とこの町をあとにした。もう戻ることはないと考えながら。」(浦雅春訳)
 読者は、ヒロインの行く末をかれこれ予測し、「革命家」という意見が多かったとある。小説の書かれた、1903年のロシアといえば、それまでの一定の停滞を経て、「革命」の高揚期、しかし反面では昏迷をも内に含んだ転換期の入り口にも当たる。その中では、ヒロインはどんな革命家の道をたどったのだろうか?「社会革命党(エスエル)」に代表されるザヴィンコフのようなテロリストだろうか?また、やがては、スターリンやプーチンにもつながる独裁者の登場を助ける役割を果たすだけなのか、それとももっと新しい別の基盤のある「革命家」なのだろうか?まさか、前二者であるはずはないし、当たり前だが、チェーホフは何も語ることなく、1904年に世を去った。そして今はとりわけ大事なのは、チェーホフが語ったかもしれないメッセージに思いを馳せようではないか!

 続編として、神西清訳の「チェーホフの手帖」を少しずつ、テキスト化するのを目論んでいる。とりあえずは、訳者の神西清の「はしがき」から

はしがき
 これは作家チェーホフの私録である。その成り立ちについて簡単に左に記す。チェーホフの死後、妻オリガ・クニッペル=チェーホヴァの手もとに、一冊の手帖が保存してあった。それはチェーホフが、折りにふれての感想や、将来の作品のための腹案や、スケッチや心覚えの類を、丹念に書きとめて置いたものである。なかには読書の折りなどに彼の心を打ったと思われる、他の作家からの抜き書きなども見受けられる。この手帖は一八九二年に始まって一九〇四年に終っている。つまり彼がサガレンの旅から帰還の後、なか一年を置いて『隣人』や『六号病室』などを書いた年を起点にして、『桜の園』の上演によって祝祷された彼の最後の年に及んでいるのである。してみるとこの手記の年代は、作家としての彼の円熟期に当っており、忘れがたい幾多の名作をその背景にもっているわけである。
 この手帖とは別に、チェーホフの遺した手稿の束のなかから、特に『題材・断想・覚書・断片』と表に記した紙包みが発見された。このばらばらの紙片に書き込まれてあるものも、内容からいえば手帖と同じ性質のものである。年代的にもまず同じ時期のものと推測される。
 これらの私録をチェーホフがどんなに大切に扱っていたかは、彼がわざわざノオトブックを用意してその大部分を浄書していたことからも察しのつくことである。何かの作品に織り込まれて使用ずみになった分は、彼の手で抹殺してある。尤もそれが作品の中に形を変えて導き入れられている場合には、生かしてこの本にも収めてある筈である。こうした編纂者の配慮のおかげで、私たちはチェーホフの制作過程の一斑にも接し得るわけである。例えば『三人姉妹』の台詞の草案などがその例である。
 しかしこの私録がチェーホフの死後に持つ意義は、勿論そんななところにとどまっているのではない。この貴重な私録は、チェーホフの発想の秘密を私たちに解体して見せている。その断ち切られた一片ごとに、チェーホフの智慧が異様な光を放っているのである。
『日記』はー八九六年から一九〇三年にわたっている。言いかえると、彼が『わが生活』を書き『かもめ』を発表した年から、『許婚』や『桜の園』を書いた年までである。原本には『日記よリ』となっていて、或いは誰かの手で抄出されたものではないかと疑わせるが、文章の姿にまでその手が及んでいようとは考えられない。彼の手紙がひどく饒舌なのと裏返しに、彼の日記は恐ろしく簡潔なスタイルをもっている。この内外両面の対照は興味ぶかいことである。この日記の性格は彼の手帖に酷似している。
 この手帖と日記のほかになおーニの文献的な資料を添えて、私は四年前にやはり『チェーホフの手帖』と題した本を上梓したことがある。書肆は芝書店であった。今度その本の中から純粋にチェーホフの私録だけを取り出して刊行するに際しては、ほとんど改訳にちかい斧鉞《ふえつ》を加えたことを申し添えたい。稀覯《きこう》の原本を貸与された伊藤職雄氏、 訳者の疑問を解きつつ懇切な助言を惜しまれなかったM・グリゴーリエフ氏の御好意に深い感謝を捧げる。
ー九三八年秋
神 西 清
(元本は、画像右)

参考】
・馬のような名字 チェーホフ傑作選 (河出文庫) 浦雅春 (訳)
・チェーホフの手帖(新潮文庫) 神西清訳

日本人と漢詩(106)

◎江馬細香と大西巨人

 日本の戦後、しばらくしての文学は、ロシア革命後のアバンギャルドを始めとして、様々な潮流があり、今日《こんにち》から見ても、興味深い。その「戦後」が落ち着いた頃「新日本文学」系の潮流の集大成というべき作品の一つが「神聖喜劇」なのではないか?
 旧軍隊の中にあって、作戦要務令などを「逆手」にとって「抵抗」を試みる一兵卒の話で、小気味良いものさえ感じる。それは、なによりも、一旦、文章化されると、それは「固定」され、それなりの首尾一貫性を持つ。こうした、規則、法律、憲法に至るまで「文に成る」。その「論理」を無視して、無謀な戦役を続けたのが、「日本帝国陸海軍」であったと言えるだろう。
 田能村竹田はじめとする多くの漢詩を引いているように、「漢文」という表現法は、性格上、この小説に似合っていると言わなければなるまい。ここでは、小説に載った江馬細香の七絶から…
別後贈人
ー點愁燈夢屢驚
耳邊所觸總關情
尋常蕉雨曾聞慣
不似今宵滴滴聲
〔 別後、人贈ル
一点ノ愁燈、夢|屢《シバラク》驚ク、
耳辺《ジヘン》触ルル所八総《スベ》テ情二関《カカワ》ル
尋常ノ蕉雨《セウウ》ハ曾《カツ》テ聞キ慣レシモ
今宵|滴滴《テキテキ》ノ声ニハ似ズ〕
語釈】関情:心をかき乱す 蕉雨:芭蕉に注ぐ雨
 頼山陽の評に「鉄石心腸(堅固な心の細香)もまた時に此等の詩を作る、寧《いづくんぞ》本事《ほんじ》(詩情に託した隠された事情)有らんや」
訳文】眠れぬ夜の耳元に聞こえてくるのは悩ましいものばかり、芭蕉に降る雨の音は今宵ばかりは心に滲みる

次韻平戸藩鏑軒先生見寄作
ー誤無家奉舅姑
徒耽文墨混江湖
却慚千里來章上
見儀文場女丈夫

平戸藩鏑軒先生 寄せらる作に次韻す
〔ー《ヒト》タビ誤ツテ家二舅姑《オウト》ヲ奉ゼズ徒《イタズラ》二文墨《ブンボク》二耽《フケ》ツテ江湖二混《マジ》ル却《カヘ》ツテ慚《ハ》ヅ千里来章ノ上見ルナラク文場ノ女丈夫ナリト〕

 ここでは、長い引用になるが、大西巨人の「解説」に頼る。
『江馬細香にたいする私の持続的・中心的関心は、とても実に次ぎのごとき細香晚年(嘉永五年〔ー八五二年〕)作七絶一首の存在(そのことに関する私の言わば「独断的」解釈)に由来していた。』

『一首の意は、さしずめ「私は、若い日、結婚のことで、かりそめの失敗をして、とうとう未婚のまま、むなしく詩文書画の道に熱中して俗世を渡ってきたが、今日、遠方より到来せる詩篇の中『(細香は実に)文壇の女丈夫(である。)」などということが(褒詞として)書かれているのを見ると、いっそほんとに恥ずかしい。」というような物であろう。
 ただし、あるいは「江湖二混ル」は、私の理解とは逆に、「隠遁」ないし「隠棲」を意味するのかもしれぬけれども、それがそうであっても、私の論旨は、別に痛痒を感ぜない。)』

『先の細香晚年(六十六歳)作七絶〔『次韻、平戸藩鎧軒先生ノ寄セラレシ作二』〕における「千里来章」は、この肥前平戸在住葉山佐内が遥かに美濃大垣在住江馬細香に寄せた詩篇を指示し、肝心の詩句は、「淋漓タル逸墨、詩画ヲ饒ニス/知ル是レ文場ノ女丈夫ナルヲ」である。
 後藤松陰(篠崎小竹女婿・頼山陽門人)撰の「墓誌銘」が『湘夢遺稿』巻末に収録せられていて、そこに「女史、人卜為リ篤実温雅二シテ卓識アリ、父-一事ヘテ孝、拋有リテ常セズ、筆硯自ラ娯ム。而シテ又、慨然トシテ憂国ノ気アリ、衆眉ノ丈夫ヲシテ慵衝有ラシ厶。」の文言が見られる。細香を論致せる『女詩人』において、徳富蘇峰は、如上「墓誌銘」中の「慨然トシテ憂国ノ気アリ、衆眉ノ丈夫ヲシテ愧色有ラシム。」という語句ならびに小原鉄心〔大垣藩家老〕の「喜ンデ古今ヲ談ジ、言、国家興廃ノ事二及ブヤ、涙ヲ揮ツテ之ヲ論ズ。」という言辞〔『湘夢遺稿』の「序」〕を引きつつ、それらによって細香晩節の「一斑を察す可し」、と書いた。また『湘夢遺稿』は、前掲次韻七絶の頭註として、頼三樹三郎の「真情真詩。女史ヲ知ラザル者ハ、或八尋常ノ風流女子卜以サン。過謙ノ語ナリ。」という評語を載せた。それにしても、「文場ノ女丈夫」という讃辞は、やはり主として細香の文芸的才能および業績にかかわっていたはずである。
 一般に人(識者)は、「ータビ誤ツテ家二舅姑ヲ奉ゼズ」の起句から、ただちに前述「墓誌銘」が言う「故有リテ笄セズ。」の事実に思い及ぶにちがいなく、したがってまたただちに細香二十代における頼山陽との縁談上蹉跌に思い至るにちがいない。そうすることに現実的根拠が大いにあるであろうことを、私は、一面において肯定する。しかも他面において、私(の独断的解釈)は、「ータビ誤ツテ家二舅姑ヲ奉ゼズ/徒一一文墨二耽ツテ江湖二混ル」の起承から、おのずとトオマス・マン作『トニオ・クレーゲル』におけるたとえばリザヴェタ・イワノヴナの’Sie sind ein Bürger auf Irrwegen,Tonio Kröger,—-ein verirrter Bürger’〔「あなたは、邪道におちいれる市民なのよ、トニオ・クレーゲル、——迷える市民なのよ。」〕という言葉を思い起こし、ひいてまたおのずと明石海人の諸制作におけるたとえば「病む歌のいくつはありとも世の常の父親にこそ終るべかりしか」という一首を思い合わせる。』

 まるで、森鴎外の史伝小説を継承し、それに+α したような書きぶりであることにも興味深い。

「神聖喜劇」というタイトルは、成文法の「頂点」と言うべき旧憲法第三条にあるような、「日本においては悲劇は喜劇である」という、愚の骨頂というべきか、為政者に都合のよい「フィクション」に基づいたものに思えてならない。

参考文献】
・大西巨人「神聖喜劇」第三巻(光文社文庫)
・江馬細香「湘夢遺稿」上(汲古書院)

読書ざんまいよせい(008)

◎トロツキー・青野季吉訳「自己暴露」
トロツキーの「田園交響曲」は続く
第一章 ヤノウカ(続き)


 私はも一つの、私の家の料理場で起つた早い頃の情景を思ひ起す。父も母も家にゐない。料理人と女中と彼等の客とがそこに居る。休日で家にゐた長兄のアレキサンドルが、竹馬にでも乘つたやうに、木製のシヤベルの上に乘つかつて、がや/\饒舌りながら漆喰ひの床の上を、縱橫に跳廻つてゐる。私は兄に、そのシヤベルを貸してくれと賴んで、その上に乘つからうとしたのだが、落つこちてわつと泣き出す。兄は私を起上らせ、私にキッスをして、それから私を抱いて料理場からつれ出してくれたのだつた。
 誰だつたかヾ、私を羊のやうに溫和しい、馬勒も鞍もなくて、馬首索一本きりの大きな灰色の牝馬の背に乘つけてくれたのは、私が凡そ四歲くらゐの時であつたに相違ない。私は兩脚を一杯に開き、兩手で鬣[編集者注:たてがみ]にしがみついてゐた。馬はすばやく私を梨の木の下へつれて行つて、私を中閒に吊下げさうな枝の下を步いた。どうしたことか知らないが、私は牝馬の尻の上を滑つて草の中へ落つこちた。私は怪我はせず、まごついたヾけだつた。
 私は、幼年時代には殆ど賣物の玩具を持つたことがなかつた。尤も一度だけ母がカルコフから厚紙細工の馬と、ボールとを買つて來て來れたことがあつた。妹と私とは、私達で造つた人形と遊んでゐた。また一度は父の妹であるフエニヤ叔母さんとライザ叔母さんとが、私達のためにボロ布人形を造つてくれた。そしてフェニャ叔母さんはその人形に、鉛筆でもつて目鼻や口をつけてくれた。その人形は私には大變立派なものゝやうに思はれた。今でもそれを頭の中に浮べることが出來る。或冬の夜のこと、私達の機械技師イヷン・ワシリエヴヰッチは、厚紙で車輪と窓とのついた小さい汽車を切拔いて、それを糊で貼合せた。クリスマスで家にゐた長兄は、卽座に、彼もすぐ汽車を造つて見せると云ひ出した。彼は私の汽車を散々に引裂くことから始めた。それから彼は定規と鉛筆と銚とで武裝して、長い問圖を引いてゐた。ところが彼の書いた圖を切つて見ても、ちつとも汽車らしいものは出來なかつたのだ。
 私の親域の人や友人などが町へ行く時には、時々、エリザヴエートグラードとか二コラエヴで何にを買つて來てやらうかと云つて訊ねた。私の眼はその度に輝いた。何を賴めばいゝか知ら? それには彼等が加勢してくれた。或者は玩具の馬はどうだと云ふし、他の者は本を、また一人はクレオンをそれからスケート一揃ひはどうだと云ふ者もあつた。『僕はハーフ・ハリフアツクス・スケートがいいなあ。』私は兄からさう云ふ名前を聞いてゐたので、よくさう叫んだ。だが彼等は閾を跨げば、もうその約束を忘れてゐるのが常だつた。私は幾週もの閒樂しみにして待つてゐて、その舉句は長い失に襲はれたものだつた。
 一匹の蜜蜂が庭の日向葵にとまつてゐる。蜜蜂は刺すのだから、注意深く扱はねばならない。私は牛蒡[編集者注:ごぼう]の葉をとつて、それで二本の指の閒に蜜蜂をつまむ。ところが私は急に耐へられないほどの痛さで剌されたのである。私は金切り聲を舉げながら、庭を橫切つて鍛冶場の方へ橫飛びに飛ぶ。そこではイヷン・ワシリエヴヰツチが針を拔いて、私の指の上に藥水を塗つてくれるのである。
 イヷン・ワシリエヴヰッチは、ふくろ蜘蛛が浮いてゐる、日向葵油のいつぱい入つた壺をもつてゐた。これは蜂に剥された傷には最良藥だと考へられてゐたのだ。ヴイクトール・ゲルト・ハノフと私とは、いつもこのふくろ蜘蛛(タランチユラス)を捕へてゐた。それをやるには、私達は索蠟の一片を絲に固くゝつゝけて、それを蜘蛛の穴の中へ垂らすのである。タランチユラスは蜜蠟をその手でしつかりつかまへて、突通すのだ、そこで私達はたヾそれを引出して、空のマツチ箱の中に納めさへすればよいのだ。もつとも、かうしたタランチュラス退治はずつと後年のことであつたに相違ない。
 私は永い冬の夜の、ある會話を記憶してゐる。私の家の年上の人達は、ヤノウカが買はれたのは何時だつたか、小供の誰彼はその時何歲だつたか、イヷン・ワシリエヴヰッチが私達の所へ働きに來たのは何時だつたか。それに就て茶の閒中議論した。私の母はずるさうに私を一瞥しながら云ふ。『私達はリヨヴァを畠からレデイ・メイドでもつて來たのだよ』私はその理由を自分で解かうと試みる。そして最後に聲高らかに云ふ。『ぢや私は畠の子なんですね。』『さうぢやないよ』彼等は答へる。『お前はこゝで、ヤノウカで生れたのだよ』と。
『ぢやあ、何故お母さんは、レディ・メイドの私を伴れて來たのだと云つたのでせう?』
『お母さんが、うまくからかつたのさ』
それでも私は得心せず、そしてそれは何んだか怪しい洒落たと考へるのだ。然し私は、私の決して見たことのない特殊の笑ひが、この大人の侵入者の顏に現れてゐるのを、注意してゐたので平氣だつた。確かな年代記の分つたのは、われ/\の冬のお茶の暇に交換せられた追憶からである。私は十月の二十六日に生れたのだ。私の兩親は一八七九年の春か其には、小さな農場からヤノウカへ移つてゐたに相違ない。
 私の生れた年は、ツアーリズムに對する最初の爆彈攻擊のあつた年である。ほんのその當時組織せられたばかりのテロリスト團『人民の意志』は、私がこの世に現れるニケ月前、一八七九年の八月の二十六日に、アレキサンダア二世の死刑宣吿文を發表した。そして十一月の十九日には、ツアーの列車を爆破する企てがなされた。一ハ八一年三月一日に於ける、アレキサンダア二世の暗殺を導き、それと同時に『人民の意志』を全滅に歸せしめた不吉な圖爭は、恰もこの頃初まつたのだ。
 露土戰爭は、その前年に終つてゐた。一八七九年の八月には、ビスマルクは獨墺同盟の基礎を作り上げてゐた。この年にゾラは彼の小說のナナを發表し、その中で未來聯合國の創始者、常時のイギリス皇太子のみが、喜樂劇のスターの洗練された鑑賞家として紹介されてゐた。普佛戰爭と、パリ・ゴンミユンの陷落の後に起つた反動の風は、なほ物凄くヨオロツパの政治界を吹き捲つてゐた。獨逸に於ける社會民主々義は、ビスマルクの差別的立法の下に、旣に亡びてゐた。一八七九年にはビクト・ル・ユウゴオとルイ・ブランが、フランス下院に於て、コンミユン鬪士に對する大赦を要求してゐた。
 けれども、私が初めて日の光を見、そして私の生涯の最初の九年閒を過したヤノウカの村では、この議會の討論や、外交上の事件の反響は勿論のこと、ダイナマイトの爆裂の反響さへ聞くことは出來なかつた。ケールソンの廣漠限りなき草土帶の上や、南口シアー帶の車土帶は、小麥と羊の王國であつて、すべてそれ自身の法則で生活してゐた。それはその地方の廣漠さと、道路の不足とによつて政治の侵人を固く防護してゐた。草土帶の上の無數の墳墓のみが、僅かに國氏大移動の地標として殘されてゐたに過ぎない。
私の父は、最初には小規模の、そして後には大規模の農夫であつた。彼は少年の時に,南方の草土帶に好運を求むべく、彼の兩親と共に、彼の生れたポルタワ縣のユダヤ人町を離れたのであつた。當時ケールソン及びエカテリノスラウ縣には、總計凡そ二萬五千人の住民を有する、約四十のユダヤ人の農業植民地があつた。このユダヤ人の百姓は、その法律上の權利(ー八八一年まで)のみならず、その財產に於ても、他の百姓と同一の資格の上に立つてゐた。自分自身をも、また他人をも容赦なしにこき使つた、不撓不屈な殘酷な勞働と、ー錢づゝの貯蓄によつて、私の父は世の中に頭を擡げて行つた。
 グロモクレイの植民地では、戶籍簿は非常に正確といふ譯でなかつたので、多くの記入は、記錄された出來事の日時の後になされた。それで、私に高等學校へ入學する時が來た時にも、許可を出すには餘りに若すぎると云ふやうなことが起つた。それで私の出生年月が一八七九年から一八七八年に變更された。だから、私はいつも,私の公年齡と、私の家族の閒で云はれる年齡との二つの記錄をもつてゐた。
 私の生涯に於ける最初の九ヶ年、私は私の故鄕の村から殆&外先も出さなかつた。この村の名ヤノウカは地主のヤノウスキイから來たものであり、この土地も彼から買つたのである。元の所有主ヤノウスキイは、兵卒から陸軍大佐の位にまで登つた人であつて、アレキサンダア二世治下に於ける權勢家達の寵愛を專にし、ケールソン縣の無人の草土帶に於て、一千エーカーの土地を選取りさせられたのだ。彼は自分で麥藁で屋根を葺いた土の小舍や、同じやうな粗末な農場倉を建てた。然し彼の農業は成功しなかつた。そして、大佐の死後その家族はポルトヴアへ移つた。私の父はヤノウスキイから二百五十エーカー餘りの土地を買收し、その上約四百エーカー餘りを借りたのである。私はこの大佐の未亡人をよく知つてゐる。彼女は凋びた小さな婆さんであつたが、私逹から地代を集めたり、寓事キチンと行つてるかどうかを見るために、年に一ニ度くらゐやつて來た。私達は彼女を迎へるためにバネつきの馬車を停車場まで送ることにしてゐた、そして彼女が降易いやうにするために、馭車臺に椅子を積んで行つた。父が輓馬を持つてからと云ふものは、この四輪馬車はいつも父に御せられるやうになつた。大佐の未亡人は、鷄の茹肉と、軟かい茹卵とで饗應せられてゐた。彼女は私の妹と一緖に庭を散步しながら、凋びた指先で、垣根から樹脂を搔集めて、それが世界中で一番味のいゝ菓子であることを保證してゐた。
 私の父の收穫は、牛や馬の群が增へるに從つて增加した。そこでメリノ緬羊の飼育さへもが試みられた、然しこの冒險は不成功に終つた。一方にまた澤山の豚が飼つてあつた。彼等は自由に凡ゆる場所を步き廻り、至る所を鼻で掘返して、菜園を完全に臺なしにしてしまつた。所有地は注意深く管理されてゐたが、それは舊式なやり方であつた。人々は目分量で豐凶を識別した。さうしたわけだから父の財產の大きさを確定することは困難であつたらしい。父の財產の凡ては、大抵土地の中か、作物の穗先かにあるか、でなければ、倉の中か、港へ送り出す途中の手持品かにあつた。時としてお茶の最中とか夕食の時に、父は思ひ出したやうに叫び出すことがあつた、『おい、これを書いてくれ!俺《わし》は中買商人から千三百ルウブル受取つたのだ。俺は大佐未亡人に六百ルウブルとデムボウスキイに四百ルウブル遣つた。去年の春エリザヴエートグラードにゐた時、テオドシア・アントノヴナに遣つた百ルウブルも書付けておいてくれ』と。これが父の帳簿のつけ方の大略だ。にも拘らず、父は徐々にではあるが執拗に頭を擡げて行つた。

注記】本文および訳文の著作権は消失している。

木下杢太郎「百花譜百選」より(006)

 ここ一ヶ月ほど、サーバーのお守りに拘らざるを得なかったので、久しぶりの更新である。その間に、開花が例年になく遅かった染井吉野の桜もほとんどが散り、辛うじて八重桜の花が残っている。

5 染井吉野(そめいよしの)
わかかった時分桜の花は美しいと思ひ、そのうちでも染井吉野が尤《もっと》もあはれ深いと感じた。中春の夕方の気分といふものは名状しがたいものであった。今年は春が寒くて花がわるいが、今日伝研でつくづくと之を眺めて見ても殆《ほとん》ど感興らしいものが涌かない。心にも亦《また》四季が有る。
昭和十八年四月十二日

 最近、当方は精神的にデプレッション気味なのも杢太郎の言う通りかもしれない。

参考】
右写真は、自宅近辺の八重桜
Wikipedia(ソメイヨシノ)より
・木下杢太郎画/前川誠郎編「新編 百花譜百選」(岩波文庫)

読書ざんまいよせい(007)

◎蒼ざめたる馬(003)
ロープシン作、青野季吉訳

  三月十七日。

 私が何故この仕事を始めたか、私は知らない。然し他の者がそれに入つて來た理由は知つてる。ハインリヒはそれが私の義務だと信じてゐる。フエドルは妻が殺されたので私と付い た。 エルナは生きてゐるのは恥だと云ふ。ヴァニアは… ヴァニア自らに語らせやう。
 最近彼が私の者となつて、一緖に郊外で終日した。 私は彼と旅舍で談合する約束があつた。
 彼は、下層階級の人の着けるやうな長靴に靑服でやつて來た。彼は鰓髯を直して髮を圓く刈込んでゐた。彼は言つた。
「時に、君はこれまでキリストのことを考へたことがあるか?」
「誰のこと?」
「キリストのことさ、神人キリストのことさ。君はこれまで、何を信じなければならんか、どうして生きなければならんか、君自身に尋ねたことがあるかね?宿屋や、馭者溜りで僕はよく聖書を讀むんだ。そして僕は、人閒にはた二つの道しか開けてゐない、實際二つ切りだといふ結論に達したんだ。一つは、ての事は許す可きだと信することだね。いゝかね、例外無しに凡てのことがだだよ。もしどんな考へにも冒し進んで慄《おじ》けない心を持つてゐれば、その道によつてドストイエフスキーのスメルヂヤコフのやうな人物が作られるだ。 要するその態度にも論理はある、と云ふのは、神が存在せず、キリストが一個の人閒に過ぎない以上は、そこにはまた愛もない、卽ち君を抑へる何物も無いからね。モウ一つはキリストに導いて行くキリストの道だ。人閒の心に 愛があるなら―本統の深い愛だよ―彼は殺すことが出[來 1字補]ると思ふか出來ないと思ふか?」
 私は答へた。「出來るさ、どんな場合でも」
「いや、どんな場合にも出來ない。 殺すことは大きな罪だ。「同胞の爲にその生命を棄つるより 「大いなる愛は無し」さ。 そして彼は、生命より以上の―彼の心靈も投け出さなければならないんだ。彼は彼自身の十字架に上らなければならんし、愛によつて―愛だけによつてが促されないからには、どんな決心もしてはならないんだ。他の動機なら彼をスメルヂヤコフ*に戾して仕舞ふんだ。僕の生命を取つて見給へ。何の爲めに僕は生きてゐるか?僕の最後の時が、僕が全生命をその爲に生きなければならなかつたものを證據立てる爲めなんだ、全く。僕は神に祈る。神樣、愛の爲めに君を死なせて下さいと。が、人殺しをする爲めにお禱りをする者があるか?人は殺すであらう、然しそれに就いて禱りはしない…僕は知つてゐる、僕は心の中に十分に愛を持つてゐないんだ。 僕の十字架は僕には重過ぎて擔へないんだ。」
「笑ふな。」と彼はすぐ後で言つた。「何にも笑ふことは無い。僕は神と神の言葉のことを話してるんだ。僕が譫語《たわごと》を言つてると君は思つてるんだらう。實際君は僕が譫語を云つてると思つてるかい?え?」
私は返事をしなかつた。
「默示錄の約翰」を覺えてゐるだらう。「この時に人々死を求ん爲《なせ》ども能はず。死んことを願へど死は遁去《のがれさる》べし。」と云つてゐる。死を願ふ時に、死が君から去るほど恐ろしいことがあらうか?君もまた死を求めるだらう。 我々皆も。どうして僕等は血を流すか?法律を破るか?君は法律を認めない。血は君には水と同じだ。然し覺えてる給へ、いつか君は僕の言葉を思出すだら う。君はその結末を追ひ求めてゐるが、それはやつて來ないだらう。 死は君から遁去るだらう。 僕はキリストを信ずる、實際信ずる。然し僕は彼と共に居ないのだ。 僕は彼に値しない。 僕は泥と血で穢されてるのだ。それでもなほ慈悲深い神は來て下さるだらう。」
 私はぢつと彼の眼を凝視めて答へた。
「それなら、 何故殺すか?君は勝手に僕から離れていゝんだよ。」
 彼の顏はすつかり靑ざめた。
「どうして君はそんなことを言ふんだ?僕の靈は惱んでゐる。然し僕は出來ない…… 僕は愛する。」
「譫語だ。ヴァニア。もうそんなことを考へるな。」
 彼は答へなかつた。
 私は彼を離れて、街へ出るとすぐ、すつかり忘れて仕舞つた。

[編集者注]
* ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」の登場人物、小説では、父親を殺害。

  三月十九日。

 エルナは泣いて淚の中から云つた。
「あなたはもうわたしを愛してゐない。」
 彼女は私の肱掛椅子に坐つて、手で顏を蔽ふてゐた。彼女の手がそんなに大いことを、前に氣が付かなかつたのは不思議だ。
私は彼女を深く凝視して言つた。
「聲を立てるな、エルナ」
 彼女は眼を上げて私を見た。彼女の赤いと落込んだ下唇が彼女を醜くした。私は窓の方へ向いた。 彼女は肱掛椅子から立つて、おづ/\私の袖を引いた。
「ごめんなさいよ」彼女は言つた。「もう聲を立てませんから」
 彼女は時々泣聲を立てる。 最初に眼が赤くなつて、それから頬が膨れ出して、おしまひにはかすかな涙が頬の上にけて来る。何といふかな涙だ!
 私は彼女を膝に引寄せた。
「エルナ」私は彼女に言つた。「僕がおまへを愛すると此迄云つたことがあつたかい?」
「いゝえ」
「僕はおまへを欺いたかい?他の女も僕は愛すると云はなかつたかい?」
彼女は答へなかつた。たゞ全身を震はした。
「どうだね。」
「え、そう仰つたわ。」
「だからね、おまへに飽きが来たら、僕はおまへに言つて仕舞ふよ。決してお前に祕したりなんかしない。僕を信するだらうね?」
「え、信じます。」
「む、それでいゝ。さあもう泣くのは止せ。 おまへより外には無いんだよ。」
 私は彼女にキスした。 彼女は次のやうに云つて、樂しさうな顔をした。
「どんなにわたしはあなたを愛してるでしやう!」
 然し私は彼女の大きな手を忘れることは出来なかつた。

  三月廿一日。

 私は英語は一言も知らない。旅館や、料理屋や、町で、片言混りの露亞西語をつかふ。それか 時々いやなことが起つて來る。
 昨夜私は芝居に行つた。赭い、汗つほい顏をした嚴丈な男が側に掛けてゐた。彼が鼻を鳴して深い呼吸し、幕の開いてる間半眠りをしてゐた。幕合に私の方を向いて訊ねた。
「あなたは何國《どこ》の方《かた》ですか?」
 私は返事をしなかつた。
「お分りになりませんか?」と彼は再び訊た。「あなたのお國を知り度いんです」
 私は彼を見ないで答へた。
「私は英國皇帝の一臣民です。」
これで彼は満足しないらしかつた。
「誰の臣民だと仰るんですか?」と彼は重ねて訊ねた。
「英國人ですよ。」
「あゝ英國人…あなたが?それならあなたは世界で一番悪い國民にしてるんですね。 彼奴等《あいつら》は日本人に加勢して對島海峡で我國の旗艦を沈めた。彼奴等のすることはそんなもので。それでゐてあなたは知らん顏で、露西亞へ旅行に來てゐる。 止しにして貰ひ度い!」
 人々が私達に目を向けた。
「私にものを仰ることをやめて戴きましやう。」と私は低い聲で言つた。
「あなたを巡査に渡します。 私のすることはそれだ。」彼は聲を張り上げて言ひ續けた。「お覧なさい此の男を!あれはきつと日本の間だ。それでなけりあ、何かの詐欺師だ。英国人だつて、本統に!巡査がなぜ尾けないんだらう」
 私はポケットの中の拳銃を觸つた。
「お默んなさい。」と私は命じた。
「默れつて!いや、二人で警察へ行かう。そこへ行けばも何《なに》彼《か》も分るんだ。間諜は我国では許されないんだ。神聖な露西亞萬歳だ!」
 私は立ち上つて、彼の闘い血の灑いた眼を眞直に見詰めた。
「三度君に警告する、默んなさい!」
 彼は肩をすくめて一言も言はないで坐つて仕舞つた。
 私は劇場を出た。

  三月廿四日。

 ハインリヒは丁度二十二になる。學生の時には會合でよく饒舌つた。その時分は眼鏡をかけて長い髪をしてゐた。今は、彼もヴアニアのやうに粗野になつた。痩せていつも顏を剃るつてゐない。彼の馬も痩せて、馬具はボロ/\で、橇は古物だ。彼は最下層階級のありふれた橇屋だ。
 ある日彼は私とエルナをに乗せて來た。町の門を出る時に、彼はくるりと後を向いて言つた。
「このあいだ僕は坊主と喧嘩したよ。そいつがラウンド・スクエヤの番地を云つて、十五コペ ーキの橇代を拂はうと云つたんだ。僕は所を知らないから、橇をくる/\後を挽いて廻つたんだ。とう/\ 奴《やつ》怒り出して仕舞つて、毒付き出すんだ。『泥棒め、貴様は道を知らないんだな、巡査に引渡すぞ!』 それから續けて云ふんだ。『馭者といふものは自分の燕麥《からすむぎ》の嚢のやうに町をちゃんと知つて居らにやならんもんだぞ。貴様はきつと騙つて鑑札を取つたんだな。一ルーブル位の賄賂を つかつて、試驗なしに通して貰つたんだろう。』僕はそいつを取るのに面倒したよ。『どうぞ旦那様お赦し下さい』と僕は云つた。『キリスト様の爲めにお赦し下さい!』 彼の言ふことは實際だ。僕は試験を受けやしないんだ。 宿無しのカルプジヤが僕の代りに受けてくれて、僕は手間賃に五十コベーキ拂《はら》つたんだからね」
 エルナは聞いてるなかつたが、彼は非常に油が乗つて續けた。
「すぐ二三日前も藝當をやつたよ。或お爺さんの夫婦を乗せたんだ。いゝ階級の禮儀正しい人らしかつたが、かなりの老夫婦だつた。丁度ロング・スツリートを駆けて行つた時に、電車が停留所に止つたんだ。それを餘り気にも留めないで、僕は軋道を駆けぬけた。すると橇の中の老夫婦は飛び上つて、激しく僕の首筋を蹴飛した。『惡者奴!』と彼は呼んだ。『貴様は私達が轢死させるつもりか?氣狂のやうに驅立てゝどうするんだ、畜生!』
「『旦那様何も驚きなさることはありません。』と私は言った。『横切つたつて何でもないことでございます。電車の出る迄にはまだ少時《しばらく》あります。その時女が佛蘭西語で彼に云ふのが聞えた。ジアン、そんなにお怒りなさるなよ。お體に大層さわりますよ。馭者もやはり人間ですから』 彼女 は實際、馭者もやはり人間だと云つたんだ。すると彼は露西亞語で答へた。『それはそうだらうが、此奴は獸《けだもの》だよ』『おゝ、ジアン、』と彼女は云つた。『そんなことを仰つては恥《はぢ》になります。それから彼が僕の肩を軽く叩くのを感じた。『濟《す》まなかったな。』と彼は言った。『氣に掛けなさんな。』そして彼は二十コペーキのチツプを呉れた。……彼等は多分自由黨なんだらう。……おい右だ 婆《ばあ》さん孃《ぢやう》さん!」
 ハインリヒは惨めなよろ/\の馬に鞭を當てた。 エルナはそつと私に寄り添った。
「エルナ・ヤコヴレヴナさん。此の土地はいかゞですね?仕事に慣れましたか?」
ハインリヒは寧ろ辱かしそうにしてこの問ひを發した。 エルナは嫌やらしい風で答へた。 「すつかり満足してますわ。 そりあ仕事にももう慣れましたわ」
 私の右手には黑い亡靈のやうな櫟樹があり、左手には野原《のはら》の白い衣があつた。町は前に展がつてゐた。會堂は日光に輝いてゐた。
 ハインリヒは口を噤み、橇の軋る音の外は、通りは深い沈默の中にあつた。ハインリヒは私達を町へ返した。橇から下りる時に私は、彼の手に五十コベーキをおいた。彼は霜を被った帽子を脱いで、長い間私を見つてゐた。
 エルナは低語いた。
「今夜、あなたのところへ行ってもよくつて?」

注記】画像は、古本市場で出品の「蒼ざめたる馬」奥付き。なお本文、訳文の著作権は消失している。
参考】川崎浃訳「蒼ざめた馬」(岩波書店 同時代ライブラリー)

木下杢太郎「百花譜百選」より(005)

3 〔かいどう〕海棠


是《こ》れは庭の花ではない。瓶に購《あがな》はれた仲春である。歳寒くして草はまだ青くならない。今日は朝から甲鳥書林から送って来た「十九世紀仏国絵画史」の校合で暮らした。
昭和十八年三月廿一日、日曜にして春季皇霊祭の日

参考】
(花海棠)Wikipediaより
・木下杢太郎画/前川誠郎編「新編 百花譜百選」(岩波文庫)