読書ざんまいよせい(087)

巖窟王(上 その11)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 一二一 神の言葉

「オヽ兄嫂あによめ阿淺おあさも、蛭峰の私生兒辨太郎も、何か意外の災難にでも逢つたのか」と伯爵は靜かに問ふた。

春田路は殆ど泣き聲に爲り「お聞下さい、私は暮内法師に救はれると、直にコルしかへ立寄りましたが、家は燒けて了ツて焦げた地面のみ殘り、其處へ村人が集まツて、一個の死骸を棺に收めて居るのです、此れが阿淺おあさの死骸です、村人どもは私の顏を見て『お前が一週間早く歸つたならば此樣な事も無かツたらうに』と口々に悔みました、能く聞きますと、辨太郎が他の惡友逹と共に阿淺おあさを縛り、臍繰金を出せと云ひ、樣々に責て責殺し、爾してわづかばかりの品物や有金などを引攫ひきさらつて、跡へ火を附けて逃亡したと云ふのです、其惡友逹は直に捕はれ、白状して刑に服しましたが、辨太郎だけは其切り何處へ行つたか今以て分らぬのです、私は泣く〳〵阿淺おあさを葬ツて爾して貴方の許へ上ツたのですが、此んな恐ろしい事が又と世に在りませうか、私は思ひました『是れも全く蛭峰を殺した報である、蛭峰の私生兒が父のかたきを私の兄嫂あによめに返したのだ』と、ハイ斯う思ひ出してから私は自分の過越し方が恐ろしく、何うしても人間は善で無くては成らぬと感じ、時々心で蛭峰の靈に向ひ謝罪の祈りを捧げて居ました、其れだのに今夜丁度、其の蛭峰を殺した場所へ立歸る事になツたとは能々の事ですよ、或は斯うして私の立つて居る足の下にも、蛭峰の死骸が埋まつて居るかも知れません、オヽ伯爵、早く私を此家から連出して下さい、茲に落着いて居る心は致しません、逃る事の出來るものなら逃て了ひ度いと思ひます」

眞に逃も去らん程の状である、伯爵は少しも騷がぬ「コレ春田路、其れは其方の迷信と云ふものである、能く聞け、此世の事は善も惡も、罪も報も、總て神の配劑に出づるのだ、果して蛭峰は其まゝ死んだか、或は生返て猶だ此世にながらへて居るか、其れは分らぬけれど、彼は短劍で刺される丈の罪が有つたので神が其方の手を以て刺させたのだらう、能くは知らぬが蛭峰と云ふ人は仲々の惡人と云ふ事だから、其方に刺された丈で果して罪が亡びたか、イヤ恐らくは未だ亡びまい、亡びぬとすれば、他日又誰かの手を以て更に相當の罰を與へるかも知れぬ、何も其方が彼を恐れ此家を恐れるには及ばぬ事、神は惡は惡を以て打ち、毒を以て毒を攻める、更に彼の辨太郎の如きも、實に珍しい惡人では有るが、必ず神の手で、他の珍しい惡人を懲すが爲に用ひられる時が有らう、今は行方が分らずとも、愈々神が彼を必要とする場合には、彼は何處からか現はれて來るかも知れぬ、此邊の理を能く考へれば別に恐れおのゝく事も有るまい、おれなども不肖ながら惡を懲して善を勸める神の道具に使はれゝば、其れほど有難い事は無いと信じて居る」

何とやら伯爵の言葉は、神の言葉の樣である、辨太郎の未だ生て居て、今何處かに居る事から、他日何の樣な場合に現はれるかまで知つてゐる樣に聞える、春田路は深く感じて「成ほど私の樣な者でも、蛭峰の惡を罰する道具に使はれたのなら、今更恐ろしくは有ません」と答へた、けれど猶ほ充分には恐れが消えぬ樣である。

伯爵は之より更に此家の總體を見廻して造作や修繕の事に付き春田路に詳しく差し圖を與へた末、エリシー街の本邸へ引上げた、此時は夜の十時過であつた。

* * * *

此日は伯爵が巴里へ着いた第一日で有るのに、朝の十時半から夜の十時後まで、間斷無しに働いて殆ど他人が一週間も掛かる程の仕事をしている、實に驚く可き根氣である、翌日からは何れほどの仕事をするだらう、併し未だ伯爵の此日の用事は之に盡きぬ、本邸へ着くと共に、又も其の造作を見廻つた上、多少の差し圖を發し、更に黒奴 亞黎ありーを呼び「今から一時間の後、此家へ鞆繪姫の着くのは既に知らせて置いたが、姫の居間、寢間ともにおれの差圖した通りに出來てゐるのか」と問ひ亞黎ありーが點うなづくを待ち更に「其れから今まで姫に付いてゐる女中の外に、巴里の女を三人、侍女こしもととして雇ふて置く樣に命じたが、其れも好いのか」亞黎ありーは又 點頭うなづいた、伯爵「巴里の女が若しも色々の事を聞きたがり、姫の寢る時間を妨げては成らぬから其樣な事の無い樣に、爾して又希臘から來てゐる女中と巴里の女中と、決して雜談などせぬ樣に總て其方が取締れ」亞黎ありーは一々呑み込んで退いた。
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読書ざんまいよせい(086)

巖窟王(上 その10)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 一〇一 土牢と云ふ言葉に

さきの日死刑臺から逃れ去つた其の日比野が、早斯かる使に來るとは、安雄も意外に感じたが伯爵も驚いた容子である「オヽ日比野、貴樣だつたか」問ふ聲は伯爵の口を衝いて出た、日比野は返辭もせずにたゞちに伯爵の前に平伏し、伯爵の兩手を取つて之に接吻するは、命を救はれた其恩を謝する積りで有るのだらう、あたかも犬が主人の手をなめる樣な状である。

伯爵は機嫌能く「オヽ未だおれを忘れぬと見えるな、あ起きよ、問ふ事が有るのだから」命に應じて起き直りつゝ「私が救はれて未だ一週間にも爲りません、其れだのに貴方の恩を忘れては何としませう、生涯決して忘れません」伯爵「生涯といへば永いことだぞ、爾う約束せぬが無難だらう」日比野は「イヽエ、生涯が幾等永くても忘れません」といひ掛けたが、傍に見知らぬ安雄の居るのを見、忽ち口をふさいだ、伯爵「ナニ日比野、此方はおれの友人だ、少しも恐れるには及ばぬ、先づ野西子爵がどうして鬼小僧に捕はれたか其の次第から聞かせてくれ」

日比野は安心した状で「いつも祭禮の時には同じ手段で、必ず若い紳士を捕へますよ、鬼小僧の妾テレサといふのが珍しい美人だものですから馬車で市中を練歩き、是はと思ふ紳士に向ひ、時々容子有りげに顏を見せるのです、野西子爵とやらも全く其手に掛かツたのです」伯爵も安雄も此打開けた返辭に、思はず笑を催した、安雄「鬼小僧が、自分の妾に、其樣な事を許すのか」日比野「許しますとも、自分が傍に居て、一々此紳士彼の紳士と差圖をして居るのです」安雄「では彼の馬車に鬼小僧も乘つて居たのか、何だ女ばかりの乘合と見えたのに」日比野「馬車の中に女はテレサ一人です、其外皆少年の男子です、身體が小さいから彼の樣な服を着けて假面めんを被れば女の姿に見えるのです」安雄「シテ鬼小僧は何處に居た」日比野「矢張り假面めんを被ツて御者を勤めて居たのです」

さては彼の馬車の御者が鬼小僧自身で有ツたのかと、安雄は身が震ふほどに驚いた、爾とも知らず其日人の眼の下で、其人の妾と樣々の合圖を爲し、非常な艷福を得た如く思ふとは、實におぞましさの骨頂と云ふものだ、安雄が斯く思ふて呆れる間に[、] 伯爵「シタが、其れから何うして野西武之助君を捕へた」日比野「其れから手紙の遣取と爲り、今夜 祭禮まつりの終る刻限にポンテシノの寺の庭で忍び逢ふ事と極つたのです、爾して其約束の通り野西子爵が來ましたからテレサの弟が同じ風をして子爵の手を取り、寺の庭へ引入れて、小聲で子爵に向ひ、山の麓に私の別莊が有るから其處まで行きませう、其積りで馬車を待たせて有ますが其別莊ならば番人の外に誰も居ませんから緩々ゆる〳〵とお話も出來ますからと斯う云ひました、子爵は喜んで、自分が引立る樣に手を取つてテレサの弟を、寺の背後うしろに居た馬車に乘せ、自分も後から乘つて急がせたのです」安雄「では何の苦も無く一直線に鬼小僧の居る山のほらへ進み込んだのだな」日比野「ハイさうさせる計略で有ましたが、子爵が馬車の中で、樣々に戲れて、テレサの弟も本性を隱して居る事が出來ぬ程に成りましたから、忽ち用意の短銃ぴすとるを取出し、子爵の顏に差附けて、ふざけるなと怒鳴り附けて自分の顏を現はしました、私は其馬車の御者を勤めて居ましたから、篤と其時の状を見ましたが、子爵は餘ほど驚いた容子でした、暫しが程は言葉も出ずに唯だ相手の顏を見詰て居ましたが「アヽ分ツた、笑談ぜうだんにしては餘り殘酷過る、全く誘拐かどはかしたぐひだ」斯う叫んで、直に短銃ぴすとるを奪ひ取りに掛りましたが、此時は早や馬車の左右の窓から鬼小僧の屈強の子分が四人まで飛び込んで子爵の兩手をしかと捕へた後で有ましたから無益でした、直に子爵は最早や抵抗はせぬのだから、貴樣等の望みを聞かせよと云ひました、手下等は斯樣な事には慣れて居ますから、返辭もせずに其儘繩を掛やうと致しましたが、其れには及ばぬ何の樣にでも貴樣等の意に從ふからと云ひ、是から四人に捕はれたまゝ終に山塞さんさいへつれて行かれたのです」伯爵「爾して今は」日比野「山塞さんさいの土牢へ入れられて居るのです」土牢と云ふ言葉に伯爵は殆ど顏色を變へた「其れでは直におれが行つて — 」安雄「伯爵、私も一緒に」伯爵「サア行きませう」眞に取る物も取敢ず立上つた、安雄「馬車の用意でもさせねばけますまい」伯爵「イイエ私は夜の夜半よなかでも、直に外出の出來る樣、必ず馬車の用意をさせて有ます、法律を逃れる人でも、私ほどは用意は屆いて居ぬでせう」眞に其通りである、一つの呼鈴よびりんを鳴らして下に降れば、早や馬車は入口へ廻つて居る、一分の猶豫も無く安雄と共に之に乘り、猶ほ日比野をも其 背後うしろに乘せサンサバシヤンの山洞さんどうを指し矢を射る如くに走らせた。
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読書ざんまいよせい(085)

巖窟王(上 その9)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 八六 心の誓ひ

昔話に聞く龍宮とても此室より以上の事はないだらう、安雄は見惚みとれて恍然うつとりとして居たが、主人の謝辭の樣に「イヤ來客の目を隱して案内すると云ふ事は、此上もない無禮ですが、全く止むを得ざるに出た事は幾重にもお察しを願ひ度いのです、茲は私の隱れ家で、入口の祕密が人に分れば今迄の樣に世間から隱遁してゐる事が出來難くなります、其れに私は一年の中、三百日ほど他へ出て居ますゆゑ、留守の間に自分の隱居所を荒される樣な事があるも辛く、其れや是れやで、此の巖窟いはやの入口は、誰も目を開いて來るのを許さぬと、斯う云ふ事に兼て定めてあるのです、特に貴方の爲に其定めを破る譯にも行きませず、失禮とは知りながら他の人同樣に取扱ひました」何故にさう迄も用心して特に安雄を呼入れたのだらう、其れほど入口の祕密を知られるのが怖ければ招き入れぬが好さ相なものであるのに、併し安雄の心に斯樣な疑ひなど起る暇はない、何しろ多く見た事のない、此龍宮を見る運に廻り合せたのが嬉しい「イヤ目を隱されるは愚、しや手足を縛られても、此樣な仙窟へ招かれるのは榮譽です」

主人は先づ安雄に座を與へて、自分も腰を卸した、安雄は何の上に自分の腰が乘つて居るか殆ど疑はしい程に思ふ、椅子の面が柔かで、何だか空中に浮んでゐる樣な感じがする、主人「斯うお目に掛つて互に話を仕ますのに、何か呼ぶ可き名がなくては、拍子がよくありません、何うか私を呼ぶには新八とお云ひ下さい、私は船乘新八と世間から呼ばれてゐます、貴方を何と呼びませう」敢て本名を聞かうと云ふではない、實の所本名を聞かずとも既に知つてゐるのだらう、安雄はさうとも思はぬから本名まで明かし度くない「イヤ貴方が昔話で有名な船乘新八ならば私も其昔話に在る荒田院あらだゐんと呼ばれませう」主人は全く打解けた調子と爲り「では荒田院あらだゐんさん、不意の事とは別に用意とてもありませんけれど、晩餐を差上げる爲にお招き申した譯ですから、先づ食堂へ御案内致しませう」とて室の左の方へ振向いた、安雄も同じく其方へ振向いて見ると壁の所に絹の埀幕が掛つてゐる、是れが食堂への入口であらう、「何うぞ」と安雄は唯だ簡單に答へ主人に續いて立上つた。

埀幕を開くと短い廊下がある、今の室も此廊下も、組細工もざいくの天上からヴエニスの製と思はれる綺麗な硝燈らんぷが下つてゐて、明るきこと晝の如しである、廊下を通り盡すと愈々食堂である、廣さは三十人も會食する事が出來るだらうか、其眞中に唯數人を圍ませる丈の卓子ていぶるを置いてある。

室中の立派な景状ありさまは、云ふ迄もない、イヤ言ひ樣がない、室の四隅に、名手の彫刻したと思はれる大理石の天使えんじえるの立像があつておの〳〵其手にかごを提げてゐる、爾して其 かごには地中海を中にして幾百方里の國々で特に名産と稱される果實の類が累々と金宇形すゞなりに盛上げて有る、何うして斯うも取集める事が出來るだらう。

前の室と此室と、何方どつちが贅澤の度が優るだらう、此室にゐる間は無論此室の方が優つた樣に思はれる、安をは全く目をこすつて夢ではないかと見廻した、間もなく一人の給仕が現はれた、是れは眞黒な黒奴である、給仕の仕方は驚く可きほど能く心得てゐて殊に主人の目配ばせを言葉よりも能く合點する状は、何うして斯うも仕込んだものかと怪しまれる、安雄は話の端緒がないから、先づ此給仕の事を賞め「何うしてお手に入れましたか珍しい給仕ですねえ、行儀が正しくて、爾して靜かで」主人は微笑して「靜かな筈です、舌を拔いて有るのですもの」安雄「エヽ舌を」安雄は驚かぬ譯に行かぬ。

主人「彼は御覽の通りのヌビア人ですがチウニス國王の後宮へ、庶人の許されてゐる區域よりも近く歩み入つた罰として非常な刑を受けたのです、最初の日、舌を拔き、次の日は手、又次は足と、段々切取つて最後に首を切ると、斯う云ふ慘酷な言ひ渡しで有りましたが、其時私が行合はせ、其事を聞きましたから、餘り慘酷な仕方と思ひ、國王へライフル銃一挺と外に東洋製の鋭利なかたな一個を差し出し彼の命を買取つたのです、其れが丁度、舌を拔かれた翌日で有つた爲め、彼は舌だけを失ツて助かりましたが、外の黒奴と違ひ、彼は國へ歸り度いなどの心は露ほども起しません、何うかして私の船が其國の邊へ近づきますと、彼は恐れに身を震はしてゐるのです、憐れむ可き者では有りますが、私を全く命の親と心得、犬よりも忠實に勤めてゐます、何しろ舌のないのは、使ふに不便な樣では有りますけれど、此方こちらの云ふ言葉は能く聞き分けますから、差し支へはありません、其れに主人が何の樣な祕密を見聞きしましても、他言すると云ふ事が出來ませんから、今では私も傍近く使ふ僕は、舌のない者に限ると云ふ程に思つてゐます」

チウニスの國に舌拔きの刑があるとは兼て聞いてゐる、舌を拔かれて人爲の唖と爲つて生てゐる者のある事も亦聞いてゐる、けれど、其樣な者に接するのは今初めてゞある、暫しがほど安雄は食氣もなくなる程に感じたが、併し天然の空腹に勝つ事は出來ぬ、其れに舌無男の運んで來る物が一として珍味ならざるはなしと云ふ程ゆゑ、間もなく、何事にも構はずに食ひ初めた。

食ふのみでなく、聞き度い事も多少はある。安雄「貴方は其樣にして常に各國を廻つて居ますか」主人「實は心に誓つた事があツて其爲に年中旅から旅へ渡ツて居ます」極めて機嫌能く答へたけれど「心の誓ひ」と云つた時にはまなこの底に凄い樣な光が見えた、安雄「貴方は餘ほどの艱難にお遭ひ成さツたと見えますね」主人はハツと驚いた状で、暫し安雄の顏を見詰めた末「何で其樣にお思ひです」安雄「イヤ、貴方の顏色、貴方の聲、まなこ、物言ひ、爾して貴方の暮し方まで總て一方ひとかたならぬ履歴を表してゐる樣に思はれます」主人は半ば打消す樣に「イヽエ世に私ほど幸福な者はありませんよ、全く氣儘勝手と云ふ言葉を其儘です、行きたい所へ行き、仕度い事をして人間の裁判が間違つてゐると思へば其の被告が山賊でも海賊でも救ひ出して刑罰を逃れさせて遣り、人の知らぬ樣な手段を以て最も確實に善を勸め惡を懲し、云はゞ天にも代ツた積りで正しい裁判を行ツて行くのです、しや貴方にしても、一度ひとたび私の境涯を味はへば再び還ツて人間の社會へ歸り度くないと思ひます、何か人間の社會へ還ツて是非仕遂げ度いと云ふ目的でもなければ — 」安雄「假令たとへば復讐とでも云ふ樣な」主人「エ、エ」復讐との言葉に主人は再び安雄の顏を見詰めた。
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読書ざんまいよせい(084)

巖窟王(上 その8)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 七三 一艘の帆前船

全く六十年間、信用を疑はれた事の無い森江商會である、しや今は何れほどの末路に際したりとも、その頭取たる者が同業銀行の祕密祕書と名乘り男に、弱味を見せて成るものか、森江氏が立派に言切つたのは當然である、辛くは有らうが當然である。

イヤ言切つたが、實は餘り立派では無かつた、物心覺えて數十年來、嘘一ついた事の無い森江氏である。嘘一つかねば成らぬ場合に迫られたのは此頃が初めてゞある、現在自分の心で、今月來月の中に到底五十萬近い支拂ひの出來ぬを知つて、それを出來る樣に言ひ切るのだもの何うして立派な聲、立派な言葉、立派な語調が出やうものぞ、言切たその言葉が、何と無う憐れげに聞えた。

けれど書記の顏には別に憐みの色が現はれたとも思はれぬ、彼は唯打解けた樣な、爾して詰問する樣な、異樣な調子で「イヤ森江さん、爾う仰有おつしやるのは當然です、誰とて貴方の地位に立てばその通りに言切りませう、けれど私へ對しては見得外聞を顧みる場合では有りますまい、茲で伺ふ事は此席限りで、外へは決して洩れませんから、何うか貴方の名譽に誓つた眞實の言葉を聞かせて下さい、全く貴方は紳士の言葉を以て、此支拂ひが無事に出來ると云ひますか」斯うまでに推し問はれては、おれでもと云ふ勇氣は無い。

森江氏は惆然てうぜんと打萎れた、爾して暫らく考へた末、到底此樣な大債權者に對しては隱しおほせる事は出來ぬと悟つた容子で「イヤう云はれゝば私も腹藏の無い所を申さねば成りません、實に面目無い次第ですが目下私の運命は唯持船巴丸の安否一つに繋がつて居るのです、此船が無事に入港しますれば、當商店の信用も多少は囘復し、何とか支拂ひだけの融通は附きませうが、イヤ附かずとも附けねば成らぬと決心してるのです」書記「若しその船が入港せずば」森江氏「此良造の運の盡です、支拂停止しる外はありません」

書記も嘆息の樣な物を洩らした、けれど、柔かな顏を示す可き場合で無い、猶も極めて眞面目に「爾すると巴丸が貴方の最後の頼みですね」森江氏「最後の頼みです」書記「何とか力を借る友人はありませんか」森江氏「商人には取引先はありますけれど、友人はありません、信用の盡きた後で誰が助けて呉れませう」書記「さうすると此最後の頼みの絶ゆる時は」森江氏「全く此商會の破産です、森江一家の滅亡です」

書記は思ひ出した樣に「オヽ私が茲へ來る時、丁度、港へ一艘の帆前船が着きましたが、若しや貴方の云ふ巴丸ではありませんか」森江氏「ハイそれが巴丸が出て、次の又次に印度を出たジロンと云ふ船です、實は店の若い者が一人、時々屋根の物見臺に上り、入港の船を見てから私へ知らせて來るのでその船の入港も直に分りました」書記「巴丸の次の次に出た船が着いたのです、それだのに」森江氏「ハイ斯うなれば最う何も彼も打明けます、それだのに未だ巴丸が着きません」書記「事に依ると今のジロン號とやらで巴丸の消息が分りませう」森江氏は堪へ兼ねた状で、忽ち顏に兩手を當た「イヤいつそ便りの分らぬ方が好いのです、巴丸が印度を出たのは本年二月の二日です、最う一ヶ月前に入港してゐる筈ですのに、今以て入港しません、此れは決して無事な船に在る事では無いのです、何うか私はその便りを聞度く無いと思ひます、聞かぬうちは、今に歸るか、歸るかとの見込が何時までも續いてゐますが、聞けばそれ切絶望です」何たる心細い實状だらう、聞かぬ中は猶だ見込が續いてゐるとは、併し氏の今の位置としては眞に此樣なものだらう。

氏は兩手の陰で泣いて居るらしい、書記も再び嘆息しやうとしたが、其時階段の方から異樣な足音が聞えて來た、森江氏は是れが自分の恐れてゐた便りとでも感じたのかと立上つて「アノ物音は何だらう、何だらう」とて戸の所まで進んだが、勇氣が盡きたと見え、又 蹌踉よろめいて元の椅子に倒れた、その中に足音は近づいた、確に六七人もくるらしい響きである、けれど割合にその進みは遲い、何だか躊躇しつゝ來るのかとも思はれる。

やがて外から此 へやの戸の錠を、鍵で開かうとする音も聞えた。森江氏「ハテな此戸の鍵は孃と小暮の外に持つては居ぬが」と云ふ聲のもとに、又一方の戸を同じ樣に開いた者がある、そもそも此 へやには店の方と、奧の方とへ雙方さうはうに戸があるのだ、先に開いたのが奧の方で、次に店の方からの戸が開いた、爾して奧の方から入つて來たのは先刻の緑孃である、孃の目には涙が一ぱいに湛へて「阿父樣おとうさま阿父樣おとうさま」森江氏は此叫び聲で、何も彼も悟つた、愈々先刻入港したジロン號と云ふのが、森江氏の運の盡と云ふ悲しい便りを持つて來たのだ、森江氏「オヽ、愈々巴丸が沈沒したのか」店の方から續いて入つた小暮も尋常たゞならぬ聲で「何うか旦那樣氣を確にお持ち下さい」

是れぞ森江一家が沒落と事極まる時である、へやの中に唯何と無う悲しい空氣が滿々た樣な氣がする。
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読書ざんまいよせい(083)

巖窟王(上 その7)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 六二 暮内法師

小箱の中を一目見て毛太郎次は「アツ」と叫んだ、彼は仕立職人で有ツたゞけに、服裝や飾物の事は幾等か知つて居る、夜光珠だいやもんど良否よしあしや値打なども多少は分る、眞に稀世の品質である、晝もまばゆい許りに燦爛さんらんとして光ツて居る「エ、法師さん之を友太郎の友逹へ分けるのですか、其友逹とは誰々です、幾人です、友太郎には私の外に爾多くの友逹が有ツたとは思はれませんが」

此熱心な状を見て法師は早目的に逹する事と見て取つたらしい、先づ大事相に箱の蓋を閉ぢて懷中に納め「友太郎の名指したのは五人だが — 」五人とすれば平等に分けても一人前、一萬 ふらんには成るとの計算が早や毛太郎次の胸には浮んだ、毛「エ、五人、爾して平等に分るのですか」法師「平等では有るが、最早死んだ人もあらうし、又同じ友逹の樣に見えても其實、友太郎から遺身かたみを受ける程の實意の無かつた人も有らうし、兎も角も五人の中で實意の有つた者だけへ分て呉れと云ふのである」毛「ア其五人の名を聞かせて下さい」法「一人は一緒に船に乘つて居た男で段倉と云ふのだ」

「エ、エ、段倉を、友太郎は親切な友人だと思つて居たのですか」法師は聞かぬ振で「一人は — 私は其名を忘れたよ、後で手帳で見れば分るが、何とか云ふ若い女性で、友太郎と婚禮する許りと爲つて居た相だが」毛「其れは西國村すぺいんむらのお露です」法「爾々、お露、お露、其れから今一人はお露の從兄の次郎と云つた、其れにお前と、是より外に友太郎には友逹と云ふ者は無かつた相だ」

毛太郎次は前額に脂汗を浮め「アヽ、友太郎は段倉や次郎の樣な者を友逹と思ツて居たのですか」法「思ツて居たから私に頼んだ譯である」毛「では矢張段倉や次郎にも分るのですね」法「其れは無論の事」毛「でも若し、友太郎が友逹と思つても其實友逹では無くて友太郎へあだをした樣な事でも有れば何うします、譬へば眞に友逹の心を持つて居た者は其中に唯一人しか無いと分れば」

法「其時には、其一人へ此 夜光珠だいやもんどを與へる外は無い」毛「全くですか」法「何で私は法師の身で嘘などを云ふものか」

益々毛太郎次が前額の汗は多くなつた、彼は煩悶に堪へぬ樣である、やがて指を折りつゝ「お露と、次郎と、段倉と、此の毛太郎次と、オヤ其れでは四人ですが、法師さん、最一人は誰ですか」法「今一人は亡なられた、私は昨日 馬港まるせーゆで其事を聞定めたが友太郎の父の友藏と云ふ者だ、最う一四年前に死んだ相だ」毛「其死んだ時の樣とても次郎や段倉は知りません」法「お前は知つて居るかエ」毛「知つて居るのは私一人でせう、病氣で死んだのでは有りませんよ」今度は法師が驚いた「エ、エ、病氣でなくて」

毛「餓死んだのです」

「何餓死んだ、犬猫でさへ食ふ物は有るのに、人間の中に居て人間が餓死ぬるとは」と、法師は叫ぶ樣に云ひ、涙を浮かべた、毛「爾です、私も氣の毒に思ひ、時々は見舞に行きましたけれど、へやの戸を閉ぢて誰をも入れませんでした、けれど私は戸の穴から中をのぞいて能く知つて居ます」法「では誰も介抱する人無しに」毛「ハイ、友太郎の父を介抱すれば其筋から何の樣な疑ひを受けるかも知れなかつたのです、けれど死際には介抱した人が二人あります、其れは友太郎の雇主で有つた森江氏とお露とです、森江氏は死んだ跡の葬式まで營んで遣られました」

法師は聞終つて暫しがほどかうべを埀れた、全く不憫の思ひに何事も心に移らぬ樣である、けれど毛太郎次の方は死んだ人より夜光珠だいやもんどの方が氣に掛つて居る「法師さん、斯う申しては失禮ですが、此父が死んだからには此世に友太郎の友逹と云ふ者は私より外にありませんよ」法師は漸くおもてたいらげてかうべを上げた「では段倉や次郎は最う死んだのか」

毛「死にはしませんけれども」法「死にはせぬとけれど何うした」毛「死にはせぬけれど、友太郎の友逹では無いのです」法「何で」

「何で」と問はれて彼は身をもがくより外は得せぬ、「其れを云はねば其 夜光珠だいやもんどを賣つた金を彼等にも分けるのですネ、云ひませう、云ひませう」漸く決心したらしく見える折しも、二階の方から「お前、素性も分らぬ人樣に、考への無い事をお云ひで無いよ」と制する聲が聞えた、引續いて階段はしごだんを降りて來るは、永く血の道にでも惱んで居るらしく見える顏色も青褪めた卅四五の女である、多分は毛太郎次の妻だらう、元は可也の美人で有つたと猶だ見受けられる所も有る、毛「ナニ考への無い事を云ふのでは無い、アお前も來て法師さんに夜光珠だいやもんどを見せて貰へ、何うか法師さん、今のを妻にも拜ませて遣つて下さい」法師は點頭うなづいて再び彼の夜光珠だいやもんどを取出し、身を引摺つて降りて來た妻の目先に光らせたが、之は女だけに夫よりも亦 一ひとしほ、玉の事には詳しい「オヤ本物だよ」とて、殆ど眼玉の出て來るかと思はれるほど慾し相に眺め、法師が再び元へ納めるが否や亭主に向ひ「お前、云ふならば云ふも好いけれど、先づ法師さんのお名を聞いてからにお仕よ」流石に女の、用心深く、餘ほど法師を疑つて居たのが、珠の光の爲め柔いだのである、法師は輕く笑んで「オヽ私は伊國いたりやの暮内法師だよ」暮内法師と云ふ名を聞いた事が有るか無いかは知らぬけれど、毛太郎次は妻に向ひ「其れ見なよ、名高い和尚さんぢや無いか」妻「でも相手はお前、二人ともお前の樣な活智者いくぢなしとは違ひ、今飛ぶ鳥を落とす勢に成つて居るから、お前の口から古い惡事でも洩れたと知れば、何の樣なあだをするかも知れぬ」此 ことばで見れば、次郎、段倉、二人とも今は餘ほどの勢力ある身と爲つて居ると見える、毛「だつて、おれが無だまつて居たとて、襃美に此樣な夜光珠だいやもんどを呉れると云ふでは無し、構ふものか、おれは云ふよ」妻「云ふならお前の勝手にお言ひ、後で睨まれる樣な事が有つても私は知らぬから」とうまく責任を夫に歸し、爾して逹て止めもせず、萬一のわざはひには自分は逃れ、夜光珠だいやもんどには自分も有附く樣 たくみに繩張をして元の二階へ上つて行つた。
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読書ざんまいよせい(081)

◎巌窟王(巖窟王)(上 006) アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香譯

巖窟王 : 五一 チブレン島

死人に代つて獄を出ると云ふ如き大膽な思案を友太郎に起させたのは、是れが法師の能く云ふた天意では有るまいか。或は法師の靈が此の思案を授けたのでは有るまいか。

山の樣な怒濤に揉まれながらも友太郎の心は、弛まずに神の助けを信じてゐる、我身を水底に沈まぬだけに支へてゐれば必ず何處かへ流れ着いて助かる事になるだらう、唯此の樣に思ふて風雨とも浪とも鬪つてゐた。

其の見込は間違はなかつた、彼の力が殆ど盡きて、最早如何とも仕難い頃、彼はある岩の上に打上げられた、此の岩が、即ち彼の目指してゐたチブレン島である。

身體の疲れは一方ひとかたで無いけれど、氣が立つてゐるから中々挫けはせぬ、たゞちに岩の高い所まで攀ぢ上り、やみの中に四方を眺めて方角を案ずるとブラニエルの燈臺の光りに依り茲がチブレン島だと分かる、目指す島へと着いたけれど、て此上は何しやう、四方の暗黒よりも、我身の上の寸前が猶更暗黒である。

雨はほどでも無いけれど風と波とは益々激しい、殊に雷鳴さへも加はつた、兎に角夜の明ける迄と、岩の被さつて蔭と爲つてゐる樣な所を探し茲に身を潛めたが、間も無く海のおもてより、人の悲鳴する聲が聞える樣に感じた。

もとより怒濤の間からくは聞き分られぬけれど、若しやと思つて再び岩の高い所へ上り、此方彼方と透かして見てゐる間に、パツと閃く電光いなづまが海のおもてを隈なく照した、此光りに分かつたのは茲より五六丁の沖合に一艘の漁船が波に捲かれてくつがへり、今やあたかも二人三人の乘組員が海底へさらへ込まれる所である、先に聞えた悲鳴の聲は此人々の叫びで有つたのだ。

船をさへ碎く程の浪だから其中へ落ちた人の助かると云ふ事はとても出來ぬ、再び閃くいなづまの光に見れば、海は唯だ山の樣な浪の重り合つて狂ふばかりで舟も無ければ人も無い、全く沈溺して了つたのである、殊に友太郎が此岩へ打上げられた時から見ると波の荒れ方が幾倍も強くなつてゐる、沈んだ人逹は最う此世の人では無いに違ひ無い。

舟に乘つてゐた人々は沈溺して、却て袋に入れておもりまで附けられて、爾して海底に沈められた人は助かる、實に不思議なものである、助かるのも人間の力では無く、死ぬるも人間の力で無い之が神技かみわざで無くて何であらうか。

再び岩の蔭に歸つて友太郎は神に謝した、爾して暫らく身を落ち着けてゐる間に、雨も風も次第に鎭まつて、夜もやうやくに明け放れた。

天は昨夜の荒れに似ず青々と晴渡つてゐる、あれ丈の雲、あれ丈の風がわづか數時間の中に何處へ收まつたゞらうかと怪しまれるけれど、友太郎に取つては却つて不安心である、日が出て後に若し泥阜でいふの要塞から望遠鏡を以て此島を見れば此身の茲にゐる事まで分るに極つてゐる、何うか其樣な事の無い中に、通り合す舟でも有れば好い。

けれど浪だけは、昨夜の餘波でだ荒れてゐた、三たび岩の上へ登つて四方を見渡しても舟らしき物は見えぬ、如何とも仕方が無い、早や東の水平線が、日の出る樣に紅くなつた、最う泥阜でいふの要塞で一切の役人が起きるのに間も有るまい、起きて若牢番が此身のゐた土牢へ朝飯を運んで行けば直ぐに此の身の逃げた事が分る、昨夜此の身が崖の上から落とされた時、途中、我知らず驚き叫んだから、牢番等は其聲を聞て怪しみ今朝は殊更早く法師の部屋から此身のへやを見廻るかも知れぬ。

囚人の逃げた場合には、据附けの大砲を放つて塞のうち總體へ警報を傳へると聞いてゐるが、今に其の警報が聞えはせぬか、今に幾艘の小舟が追人おつての乘せて此島へ漕寄せはせぬかと、樣々に氣遣ふ中彼方に見ゆつ馬耳まるせーゆの港口から一艘の帆船が出た、未だ波の荒いのに出て來る所を見れば、禁制品を取り扱ふ密輸入者の舟でも有らうか、何にしても有難い、何うか早く聲の屆く邊まで來て呉れゝばと、只ひたすら其の方を注意するに、幼い頃から水夫で育つた友太郎の目には直に分る、確にレグホーン港の方へ行く航路を取つてゐるらしい、爾すれば此島からは聲の屆かぬほど遠い所を通るのだ、何とか此舟を呼び寄せる工風は有るまいかと、空しく四あたりを見廻したが是れも天の惠みだらうか此島の一方の水際に何だか赤い物が有る、是れを取つて目印に、高く差上げて打振ればと思ひ、直樣水際へ行きて拾ひ上ぐるに水夫の冠る帽子である、多分は昨夜沈沒した漁船の漕手が被つてゐたものであらう。

之れを取つて岩の上に立ち、船の成るたけ近附いた時、打振り、打振り、救を求むる合圖をすると船はやうやくにして見認たらしい、針路を此こなたに振向けて、次第々々に近づいた、けれど浪は高し足場も惡し、船が直接に此島へ着く事の出來ぬのは分つてゐる。

間近くなつた頃を計り、友太郎は今拾つた赤い帽子を冠つたまゝ、其船の所まで泳いで行つた、高い浪を掻分けて進む手際が一ひとかどの水夫とは分つてゐる、爾して船の傍まで行くと船の方から「えらい、えらい」と聲を掛けて勵まして呉れ、綱を投げて之れにすがらせ、苦も無く救ひ上げて呉れた。

船長らしき一人は、友太郎の姿を見て「ヤ何と云ふ水夫だ、髮ならば十年に手入れした事の無い樣に伸びて髯の長さが六寸も有るとは」友太郎は尤もらしく「昨夜のあれで、丁度此處へ沈んだ漁船の船手です、使ふて下されば充分役には立ちますから、レグホーンまで載せて下さい」船長「丁度水夫を雇ひたい所だから、腕次第では期限を定めて雇ふても好いが、何だか氣味の惡い容貌だなア、第一此の髮の毛は何うしたのだ」友太郎「是れは何です、アノ、少し心願が有つて頭へ櫛や剪はさみを觸れぬ事にしてゐましたが、其れがやうやく屆いたから最う何なんどきでも刈込ます」云ふ折しも泥でいふ要塞の方に當り、大砲の音が聞こえた、見れば監獄の屋根の邊に白い煙が一團となつて立上つてゐる、確に友太郎の逃亡が分かつたのだ、船長は鋭いまなこで友太郎をジツと視詰め「エゝ泥でいふ要塞で大切な囚人が逃げたと云ふ警報だぜ、彼あそこから逃げる奴は大抵海へ來るに極ツてゐるぜ」疑ふ語調である。
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読書ざんまいよせい(080)

◎巌窟王(巖窟王)(上 005) アレクサンドル・デュマ著 黒岩涙香譯


画像は、Pierre-Gustave-Eugene-Staal-Edmond-Dantes より

巖窟王 : 四一 恩を返す道

實に法師の病は恐ろしいほど劇しい發作であつた、其の叫び聲は、友太郎が壓迫して牢の外へ聞えぬ樣にしたけれど、引續いて起つた總身の痙攣は友太郎の力では如何ともする事は出來なかつた。

噛〆めた齒の間から泡を吹き、眼は張裂くかと思はれる程廣がつて、兩の目の球も脱け出さうに見えたが、顏は一旦紫色になり又青くなり、手も足もイヤ身體からだ中がこと〴〵く引絞らるゝ樣に顫へて居たが、長久しくして鎭まつた。鎭まると共に死人の樣に成つて了つた。

脈もない、呼吸もない、其上に身體からだも冷えて、何うやら硬化かたまり掛けて居る容子である、友太郎は恐ろしさに堪へぬけれど、今が法師の差圖を實行する時と思ひ、まづのみを取つて、噛切て居る齒と齒との間を捻開け、瓶の藥を差圖の通りに十滴だけ埀らし込んだ。

是で生返るか知らん、返らぬか知らん、或は藥の呑ませ方が遲過はしなかつたか、早過ぎはしなかつたかと、樣々の懸念に胸を苦しめ只管ひたすら法師の顏をのみ見詰めて居るうち、大方夜の明け放れる頃となつて、極少しだけれど、青い顏に血色の還つて來る樣に見えた、引續いて、呼吸いきも眞に蟲の息ほどだけれど通ひ初めた、有難い、藥の效能があつたのだ、此分ならば遠からず全く此世の人に成るのだらうと思ふうち、早 いつも牢番が見廻りに來る刻限となつた。

殘念だけれど暫し茲を外さねば成らぬ、早や土牢の大戸を開く樣な音も聞える、全く去るに忍びぬ心を以て、友太郎は地の下の穴へ潛り込み、中から手を出して蓋の石を引込んで、成丈出入口の分らぬ樣にして置いて我 へやへ歸つた、眞に危い所であつた、歸ると間もなく、牢番が戸口から覗き込み、「ウム、別に異状はないな、では直に食事を持つて來て遣るワ」とて退いた。

食事中の友太郎の心配はたとへるに物もない、早く法師のへやへ行つて容子を見たい。

彼れが再び法師のへやへ忍んで行つたのは、二時間の後である、法師は早全く生氣に返つて居る、痛く疲れた樣子ではあるが、寢臺の上で首だけを上げ「オヽ友太郎か、お前の正直、忠實には唯感服の外はない、我が子、我が子」と打叫んだ、今まで友太郎は此法師を「父よ」「師よ」と呼んだ事は幾度いくたびだか知らぬけれど、法師は愚痴な人情には感動せぬ氣質で、絶えて「我子」といふ樣な親しい言葉は發しなかつた、今度ばかりは餘ほど感動したと見える。

友太郎「意外に早くお直り成さつて此んな嬉しい事はありません」法師「おれう、お前が此牢を出た事とのみ思つて居た」友太郎「エ何で其樣な事を」法師「イヤ昨夜直にも逃出される樣に總ての準備が出來て居るのだから、定めし逃出したゞらうと思つたのさ」友太郎は恨めしげに怒り「貴方は其れほど私を薄情とお認めでしたか」法師「イヤ薄情ではない、おれを捨て逃げ行くのが當り前だよ、多年の苦心で、やうやく脱獄の道を開き、牢の中の支柱を一つはづしさへせば、何も彼も思ふ通りに行く事と爲り、サア愈々いよ〳〵といふ間際におれが病氣に倒れたのだもの、おれに構ふてなど居られるものか、おれは今朝生氣に返り、獨りでさう思つた、アヽ友太郎は夜前の中に逃果にげおほせたな、其れにしてもおれに藥だけは呑ませて呉れたと見える、其れだからおれが此通り生返つたのだ、藥を呑ませる間だけでも踏留まつたとは、實に珍しい親切な男だと實は心で謝して居た」友太郎「師よ、師よ、貴方は情ない事を仰有おつしやる、私は今日牢番の來る時まで此 へやに居たのです」法師「許して呉れ友太郎、お前は實に、此世に二人とない高尚な心を持つて居る、其れを世の中一般の不人情な人と同視したのは惡かつた、惡かつた」法師は目に涙を湛へた。

友「惡いも何もありません、ア其樣な事を仰有おつしやらずに、氣を丈夫に持て早くくお成りなさい、其上で一緒に牢を出ますから」法師は限りなく失望の調子で「其れが出來ぬ事に成つた。おれは此前の發病の時は、生氣にかへつて唯だ總身のだるいのを感じたに止まつたが今度は半身不隨になつた[、] 右の手右の足が少しも利かぬ」友太郎「では其は」法師「イヤ直る事ではない、醫師カバニス氏が豫言した、しや第二の發作の時に命だけは助かるにしても、身體からだは必ず利かなくなると」友太郎「身體からだが利かねば私がおぶつて逃て差上げます」と少しも、躊躇も狐疑もせぬ、法師「おぶふとて、平地とは違ひ、外へ出れば海を泳いで逃げるのだ、半身不隨の人を背負ふて、何うして泳ぐ事が出來やう、イヽヤ其れは理論的にも分り切つて居る、何と云つても出來ぬ事だ、お前は水夫だ、人並外れて泳ぎに上逹して居たとしても、一町と泳がぬ中に溺れるに極つて居る、一番近い島へ迄も五哩はあるのだから、コレ友太郎、おれは自分の爲にお前を引留めては成らぬ、今まで一緒に逃げやうと云つた約束は取消すから、お前は一人で逃て呉れ、イヤ少しもおれを氣の毒とは思ふに及ばぬ、おれ愈々いよ〳〵といふ間際に此樣な事に成つたのも、畢竟は神の御心だ、神が未だおれを救ふて下さらぬのだ、おれは神の御心に逆らふては何事もせぬのだから、コレ何うかお前だけ獨りで逃る事に極めて呉れ」

眞に他事もない頼みである、友太郎は斷乎として「イヤ私は其樣な男ではありません、死んでも約束にしがみ附きます、貴方の生きて居る間は、決して貴方を捨て一人逃る樣な卑劣な事は致しません」何たるけなげな心だらう、法師は全く感極まつて泣いた「我子よ、我子よ、天がお前の樣な人生に又とない正直者をおれに授けて呉れたのだ、お前の正直に乘じて、其れでは一緒に止まつて呉れといふには忍びぬけれど、おれは此恩を返す道がある、ではお前の言葉に甘える、ナニおれは此次の第三囘の發病では死ぬるのだから、其時まで茲に居て呉れ」友太郎「居ますとも、イヤ第三囘の發病には牢の外で逢ふ樣に、貴方が少しでも能く成ればきつと救ひ出して差上げますよ」法師「兎も角も氣遣はしいにアノ陷穽おとしあなを、アノ儘に置いては番人が廊下を歩み下に空洞の樣な響きがする爲め怪しんであらためる事に成るかも知れぬ、お前 愈々いよ〳〵おれと一緒に踏留まるとすれば、一時でも彼の穴を埋潰して置かねば成らぬ」

情ない事をいふ、艱難辛苦でやうやく掘上げた穴を又潰さねば成らぬとは、しかし如何にも尤もな用心である、友太郎「潰しませう、私は一人で行つて、爾です、アノ陷穽おとしあなに成つて居る部分だけは十時間も掛かれば埋切る事が出來ますから」法師「では氣の毒だが爾して呉れ、あれが潰れねば安心して居られぬ、其の代り友太郎、アレを潰し終るまでおれの所へ來るには及ばぬから」友太郎は心得て退いたが、是より全く此日一日と其の夜一夜を穴埋に掛かつて了つた、埋るのは掘るより容易だ、一日一夜に潰し終つて又翌日の朝、其の事を知らせに梁谷のへやに行き「う少しも、足音などで怪しまれる恐れはありません」と云つた、梁谷法師は徹頭徹尾、友太郎の正直な事を見拔得て「オヽ友太郎、定めし殘念でもあらう、失望でもあらう、けれど悔んで呉れるな、おれは其の代り爾うだお前の恩返しに、何百萬と數の知れぬ寶を半分お前に分けて遣る、其の寶のある所を、直に今茲で教へて遣る」アヽ寶、寶、此法師が發狂して寶の事を云ふことは兼て聞及んで居たが發病の響きで又も元の發狂にかへつたかと、友太郎は一方ひとかたならず驚いた。
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読書ざんまいよせい(078)

◎巌窟王(巖窟王)(上 004)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 三一 例の物音

一椀の肉汁すうぷも幾分か友太郎の身に生氣を附けた、イヤ死んでは成らぬ、死んでは成らぬ、兎に角も壁に響くかすかな物音が誰の仕業しわざであるか其れを見定める迄は此命を保存して置かねばならぬ。

若しや此の物音が、我身の此牢から出られる發端では有るまいかと、此樣に疑ふと何と無く氣が騷いで、疲れた身體からだも動悸が打つ、ア身を大事にして分る時まで氣永く待つてゐねば成らぬ。

此時が夜の九時頃である、再び彼れは寢臺に歸つた、爾して夜の明けるまで、夢だかうつゝだか同じ物音の絶えず聞える樣な氣がした。

夜が明けて見ると物音はんでゐる、昨夜少しばかり胃に食物を入れた爲めか今までに覺えぬ程の餓を感じ、かすかに胃の底に痛みを覺えるけれど、氣持は、昨日より幾分か力が附いた樣でも有る、今若しも此望みが、今までの總ての望みと同じく又消えて了つたなら何うであらう。

其の中に牢番が朝飯を持つて來た、何しろ幾日も絶食した身が急に平生ほど喰べては病氣に成らうも知れぬからと、早自分で用心する氣の出たのは、死を祈つてゐた身の餘り得手勝手であると我身ながら極りも惡い、けれど兎も角も身は大事だ、又も肉汁すうぷだけを飮み、外に三日に一度與へて呉れる魚の肉の、骨の無い所を少しむしつて喰べた、勿論 身體からだに病氣が有ると云ふのでは無く、健康なものを無理に自分で攻め付けてゐたのだから、少し攻め方を弛めさへすれば直に力が囘復するのだ、僅ばかりの食物で、甚く不足は感ずるけれど早氣分だけ殆ど常にかへつた。

爾して又も壁に耳を當て聞いてゐると、朝の十時とも思はれる頃又彼の音が聞え初め中食ちうじきの頃に成つてんだ、けれど午後に又初まつた、何だか最初よりは其の音が荒々しい、其れとも幾分か近く成つた爲に、能く聞えるに至つたのかも知れん。

此翌日に及んで、或は典獄が職人を入れて隣の室をでも修繕してゐるのでは無からうかとの疑ひが起きた、若し爾ならば此身の助かる發端では無くて此土牢の益々堅固になる知らせと同じ事だ、仲々喜んでなどはゐられぬ。

若し是れが囚人の仕業しわざで、牢破りの企てならば、此方こつちから物音を送れば、必ず驚き恐れて止めるで有らう、大工か職人ならば其の樣な事に頓着せぬ、好し、之を先づ試して見やうと思ひ、唯だ一脚充てがはれてある腰掛臺を持つて來て、音が此の邊から聞こゑると思ふ壁の局部を、其の脚で強く叩いた、只一叩きであるけれど、向ふの音はピタと止んだ。

さては確に囚人である、此牢を破つて居るのだ、斯う思ふと無益に驚かせて止めさせたのが遺憾に堪へぬ、今に再び初まるか知らんと、耳を澄して待つてゐると、日が暮れても初まらぬ。

全く誰かに勘附かれたと悟り其の企てを中止したのだ、誠に濟まぬ事をした、何れ程か向ふは失望したであらう、イヤ向ふが中止すれば今度は此方こつちで企てゝ遣らう、向ふが何んでも此方こつちへ向つて掘つて來る所で有つたに違ひ無いから、此方こつちから向ふへ掘つて行けば好いのだらう。

斯うなると少年だけに氣み輕い、直にも着手したい樣に思つて牢の中を見廻したが牢を破る樣な道具の此中に在る筈は無い、爾して而も牢の壁はセメントで固めたもので巖の樣に成つてゐる、思ふは易いが行ふは實に難い。

けれど難い事は今初めて知る譯で無いのだからあらためて驚きはせぬ、見廻す目先に留まつたのは自分が食噐に用ふる皿で有る、之れでも道具に使へるだらうと直に取上げて床の上に落して碎き其のかけらの中で、最も鋭く見えるのを二片ふたひら取つて隱した。

若し陶噐せとものかけら泥阜でいふの要塞が破れたなら其れこそ天下の竒觀であるけれど、彼れ自身は爾は思はぬ、先づ着手は夜に入つてからと待つて居る中に、牢番が夕飯を送つて來たが、噐のこはされて居るのを見て多少機嫌を損じたけれど「噐物をこはすと減食の罰に遭ふぞ」と叱つた儘、皿のかけらは拾ひもせずに立去つて又暫くして外の皿を持つて來た。

かけらを其まゝ殘して呉れる有難さは譬へ樣が無い、食事の後で友太郎は、之を拾ひ集め、へやの隅へ隱して置いて、其上で自分の寢臺を 取退け、晝間は其影に隱れて了ふ所へ先づ傷を附け初めた。

丁度此邊が、向ふから物音の聞えた見當に當るらしい、壁のセメントを、皿のかけらで引掻いて又引掻き、かけらの角が丸くなれば又碎いて角を付けては引掻き夜の二時に及ぶまで魂氣こんき能く續けたが、熱心と云ふはえらいものだ、疲れて寢る頃には粉になつて落ちたセメントが手のひらに滿ちる程で有つた。

翌朝、食事の後に又も寢臺を動かして着手したが、昨夜着けた傷の大きさで計算して見るに、毎日十時間づつ二年の間續けたなら、人間の脱けられる大きさの穴を、凡そ三間位掘り込む事が出來さうだ、今まで幾年經つたのか、壁に附けた筋のこよみも三年ほどで止めたけれどう六年は經つて居やう、入獄の初めから若し遣つて居たなら既に牢の外まで突拔けて居るかも知れぬのにと今更殘念な感じもする。

段々と掘るに從ひ、又割合に潰れ易い所も有り、此日の中に壁に塗込んである石にまで屆いた。石の周圍まはりを掘り減らして、一度に石一個を拔き取る事が出來れば其の跡は一日掘つたよりも大きな穴と爲り、石から石へと意外に進歩が早いかも知れぬ。

掘る事三日に及んで、石一つを外し得たが、無論牢番の來る頃には其の石を元へ差込み寢臺も元の通りにして置くのだ、けれど若し是よりもでかい石に出會でつくはせば、てこで無くとも幾分か長い力の有る鐡噐で無くては可けぬ譯だが、せめては火箸でも好いから手に入らぬか知らんと、只管ひたすら肝膽たんかんを碎きつゝ今度は又 やゝ大きな石を拔き得た。

丁度此時である。數日來 んで居た例の物音が又も壁の向ふから聞えて來た、今度は石を拔いた跡の穴へ首だけ突つ込んで聞くのだから能く聞える、確に壁を引掻いて崩して居るのだ、是れで見ると一度は物音に驚いて止めたけれど、其の後別に危險らしい事が無いので又安心して取掛ッたものと見える。

何の道具で遣つて居るのか兎に角餘程進歩して居ると見え時々槌で叩く樣な音もする、此方こつちの仕事はまる兒戲まゝごとの樣なものだから向ふへ聞える筈が無いが、其れにしても早晩は穴と穴との出會でつくはす時が有らう、之を思ふと自分でも怪しい程氣が勇んで、殆ど疲れると云ふ事を知らぬ。

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読書ざんまいよせい(077)

◎巌窟王(巖窟王)(上 003)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 二一 其顏を此窓から

戸を叩く其人が確に我父野々内に違ひないと蛭峰は感じた。若し之が世間普通の息子で有つて世間普通の場合ならば必ず喜んで戸口まで立つて行き兩手を擴げて迎へ入れる所だらう、所が蛭峰はうでない、我父と感ずると共に全く顏の色を變へた。

尤も彼の氣質としては無理もあるまい、今父は恐ろしい嫌疑を受けて警察から獵立かりたてられて居る人である、うして自分は此樣な父を持つたと世間に知られてさへ出世の妨げとなる場合である、してや只た今、國王から非常な忠勤をめられて、暗に遠からず恩賞に與る如き約束まで得て御前を退いたばかりだもの、若しも我父の樣な國王の朝廷を轉覆しやうといふ黨派の巨魁が、我が宿を尋ねて來たと分つては、我が後に何れほどの損害となるかも分らぬ。

けれど戸を叩く人の方は少しも此樣な頓着はない 父「何時まで父を戸の外に待たせて置くのだ」となかば笑談ぜうだんの樣にいひつゝ自分で戸を推して入つて來た、如何にも警視長官が先刻國王に上奏した通りの人相である、顏中髭と云ひ度いが、實は髭髯ひげの中から目と鼻ばかり出して居るのだ、爾うして外套から杖に至るまで諜者てふじやが認めたといふ時の儘である、蛭峰は身震ひせぬ譯に行かぬ。

野々内は笑つた 父「オヽ今に初めぬ其方そなたの孝行には感心した」蛭峰は返辭もせぬうち給使に向ひ 蛭「う好いから、呼鈴よびりんを鳴らすまで彼方あつちへ行つて居よ」と命じた、成程亂暴な父の言葉を他人に聞かれるのは辛いだらう、爾うして自分で立つて給使を送り出す樣に廊下の所まで行き、給使が全く階段を下り去るさまを見屆け、其上で内から錠を卸して、初めて父の前に戻り蛭「阿父おとうさん何か御用事ですか」と問ふた、仲々堅固な用心である。

父「ホゝ、爾うまで用心せずとも、ナニ父は聞く事さへ聞けば直に歸るのだよ」と云ひつゝ席に着いたが、其容子の何となく大膽で且つ鷹揚な所は流石に一黨の名士である、過激かは知らぬけれど、兎に角物に動ぜぬ大人物の風采が見える、之を目から鼻へ拔ける樣な蛭峰に比べて見ると先獅子と狐程の相違と云つて好い、何うして此樣な子が出來たゞらう。

蛭峰「聞く事は何ですか」父「ナニ馬港まるせーゆへ着いた商船の消息だよ、若し其方が彼地かのちを出發する前に、巴丸といふ船が入港した樣には聞かなんだか」聞いたも聞いたも生涯忘れぬ程に聞いて居るのだ、蛭峰「分りました、阿父おとうさんは其船の船長呉氏といふ人が、エルバ島から密書でも持て來はせぬかと心待に待つて居るのでせう」父「爾うよ、待兼たから聞きに來たのだ」蛭峰「可けません、阿父おとうさんはう其樣な陰謀はおしなさい、何うしても露見せずには濟みませんから」父「露見すれば何が惡い」蛭「貴方の身が危險です、實は阿父おとうさん其の呉船長は船中で病死して、死際に自分の手下へ其密書を托しました、所が其手下が上陸するが否や拘引せられ、私の調べを受て、密書を私へ渡しました、其れを私が燒捨てたのです、貴方を助け度い爲に」自分を助け度い爲にとはいはぬ、父「フム其親切は有難い樣なものだが、其方のする事は何うもおれには合點が行かぬ、けれど燒いたものなら今更仕方がない、成るほど、爾して其方は、其事を上官へ旨く上申する爲に上京すたのだな」蛭「ハイ、少しも貴方の名を出さずに、横領者の歸國だけを陛下の耳に入れねばならぬと思ひ、急いで上京したのです」

野々内は驚きも喜びもせぬ、只相變らず泰然自若と構へた儘で父「其方の仕さうな事だ、シタガ國王は其方から知らされて初めて皇帝の上陸を知つたのか」蛭峰「爾です」父「其樣な迂闊な事で國民に對し政治の責任が盡せると思ふかなア、警視廳へは年百五十萬圓の機密費を使はせてさ、早く我黨の世にならねば蒼生さうせいの不幸此上なしだ」蛭「其樣に仰有おつしやるけれど國王の警察は貴方の思ふよりも機敏ですよ、既に毛脛けすね中將の暗殺された事件なども餘ほど詳しく探つて居ます」と、父の荒肝あらぎもを奪ふ積りで口を切つた。

けれど爾ほどには驚かぬ 父「何だ毛脛けすね中將の暗殺、ナニ彼れは暗殺ではなく自殺だらう、セイヌ河に死骸が浮いて居たといふぢやないか、おれは聞いたけれど身を投げた事かと思つて居た」蛭「アノ氣の確な將軍が何で身投げなどをするものですか、殺された上で投込まれたと誰も鑑定して居るのです、其れのみか中將が其前夜に、サンヂャック街の或家で開いた拿翁なぽれおん黨の祕密會合へ招かれて出席した事も警察は知つて居ます、其れ切り宅へ歸らなかつた相ですから、後は誰にでも推量することが出來ます」

父「爾かなア、彼の祕密會の事まで分つて居ては、なるほど、幾等愚な警察でも推量が屆くだらう、けれど暗殺ではないのでよ、實はおれも其の席に列したが、中將は吾々の魂膽から今度の計畫まで默つて聞いて了つた上で、愈々いよ〳〵一同の血判と爲つた時、おれは王黨で、拿翁なぽれおん黨ではない、決して血判には加えはらぬと斷言した、勿論會員の立腹は一方ひとかたでなく、直ぐに其場で中將を刺殺すと云つたけれど、中將を其會へ誘ふて來た會長が — 」蛭峰は驚いて父の言葉の終るのを待つて居られぬ 蛭「エ阿父おとうさん、中將を其會へ招いた人が其祕密黨の長ですか」野々内は少し笑つて、父「爾と見える、ア聞け、其會長が會員一同を推宥そいなだめ、中將をして、生涯今夜の事を他言せぬといふ堅い神聖な誓ひを立てさせ、爾して無事に歸して了つた、是までの事はおれが能く知つて居る、其の歸り路で死んだのだからおれは自分で河へ落ちたのだらうと思つて居た」蛭峰「其樣な事情なら愈々いよ〳〵以て暗殺です、黨員が待伏して居て殺したのです」父「しや爾とした所で、暗殺などゝ其樣な聞苦しい言葉を加へて呉れるな、政治の上には決して暗殺といふ事はないよ、唯妨害物を取除くに止まるのだ、譬へば其の方がおれの黨の者を捕へ之を死刑に處したとておれの方では蛭峰が我黨の者を暗殺したとは決していはぬ、若中將が我黨に殺されたなら其は必ず我黨の法律に從ひ我黨の裁判を受て死刑を行はれたのだらう、ア道理は爾ではないか」

祕密の黨派が、黨の法律とか裁判とかいふのは蛭峰に取つては非常な耳障りである、けれど其處は父子おやこといふ間柄だけに深く爭ひはせぬ蛭「シタが阿父おとうさん、警察では既に其の中將を案内した人の人相まで詳しく知つて居ますよ」是には野々内も幾分か驚かぬ譯には行かぬ、父「何だ其の案内した人の人相を、ドレ何の樣な人相だと其の方は聞いた」蛭峰は父の顏をジツと見詰て蛭「ハイ私の聞きまんしたには、頬髯が黒くて澤山あつて」野々内は自分の頬髯を撫つつ、父「フム、頬髯が黒くて澤山あつて、其れから」蛭「其れから背が高くて」父「背が高くて」蛭「紺色の外套を襟まで〆めて」父は又自分の色紺[紺色の誤りか?]の外套を見廻しつゝ、父「感心に知つて居る、其れなら早く捕まへ相なものではないか」蛭「う遠からず捕まへませう、昨日既に其の人をヘロン街の入口までけて行つて見失ひ、今日も充分手配りが行渡つて居ると云ひますから」

父「では今も網を張つて居るかも知れん」と野々内は云ひ乍ら、と窓の所へ行き、外の樣子を窺つて見やうとした、蛭峰は背後うしろから飛び附く樣にして引戻した、其の顏を此 へやの窓から出されてたまるものか、けれど野々内は早外の容子を見て取つた父「成程 其方そちの云ふ通りだ、向ふの角に三人ほど此家の入口を見張つて居るわい、其の中の一人は確に去年 おれの兄弟分を捕縛に來た捕吏だよ」蛭峰は全く顏色を失ふた、蛭「エ、捕吏が此家の入口を見張つて居ますか」若し父野々内が 此室へやで捕縛されては、父の捕縛される事は構はぬけれど自分の身が大變である、蛭「阿父おとうさん貴方は息子の身を亡ぼすのですか」と恨めしく打叫んだ、野々内は猶ほ顏中の髯の動きに微笑を浮べて 父「驚くな、驚くな、王黨の警吏に捕縛されるほど未だ此父は耄碌は仕て居ないから」
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読書ざんまいよせい(076)

◎巌窟王(巖窟王)(上 002)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

巖窟王 : 一一 宛名は誰れ

呼出された友太郎の入つて來る迄に、蛭峰檢事補は自分の事を考へた、イヤ考へるともなく自分の身の上が胸に浮んだ。

尤も胸に浮ばずには居られぬ際である、米良田めらだ家といふ樣な勢力ある貴族の婿になれば追々出世の道も開けるに極つて居る、其れに妻たるべき姫君禮子は顏も心も美しい上に六萬圓の婚資を持つて居る、六萬圓といへば檢事補の月給の幾十年分にも當るだらう。

此樣なことまで急がしく腹の中で計算するは嬉しさの滿々て居る爲である、婚資の外に、禮子の父が死ねば、其財産が廿萬圓、之も禮子の物になる、母が死んでも凡そ其れに近い財産が矢張り禮子に轉がり込む、禮子の物は我物である、唯一つ氣に掛るのは自分の父の野々内が今以て革命家か謀反人かの樣に世間から疑はれて、其れがやゝもすれば自分の出世の邪魔になる一事である、此の一事を除けば自分の前途は晴々と晴れて居る。

此樣な考へが未だ充分には了らぬ所へ友太郎が這入つて來た、蛭峰はあわてゝ自分の顏から嬉しさの色を取退け、職務相當の眞面目な面持を現はした。

友太郎を連れて來た捕吏の長は先づ蛭峰の傍に來て小聲で以て捕縛の次第を報告し、さうして蛭峰から、其掛引の宜しきを得た事を賞讚せられて立去つた、後には蛭峰と團友太郎と唯二人の差向ひである。

蛭峰は先づ友太郎の顏を見るに全くの美少年で、少年の正直と、少年の熱心とがおもてに現はれて居る、仲々恐ろしい國事犯とは思はれぬ、其れに先刻禮子から云はれた優しい慈悲深い言葉も耳の底にだ殘つて居るから、此人の今までに殆ど例のないほど柔和な聲を出して「貴方が團友太郎ですか」

友「ハイ」蛭「年は」友「十九歳」蛭「何の樣な所から拘引されました」友太郎はいさゝか力を込めて「オヽ私は、婚禮の席から拘引せられたのです、三年まへから許婚に成つて居る女と、今日 愈々いよ〳〵婚禮することになり、式場へ臨む前に、知人しりびとを饗應して居ますと其席へ捕吏が踏込んで參りました」何と自分の境遇に能く似た事ではあると蛭峰は又 いさゝか同情を深くした。

同情は好いけれど只此同情が何時まで續くかゞ疑問である、蛭「其れから、サアもつと言葉を續けなさい」友「此外に何も續けていふ事がありません、お聞下されば何事でも」尤も千萬な答へではあるが、何の意見も何の罪もないのに捕へられたのだから言立てることは一つもないのだ。蛭「貴方は横領者に使はれた事はありますか」

横領者とは拿翁なぽれおんの事である、王の位を横領したと云ふ所で王權黨は皆斯ういふのだ、友太郎が若し拿翁なぽれおん黨の者なら此言葉に幾分不快を感ずる所だけれど、彼れは何とも感ぜぬ「ハイ水兵になる願書を出したことはあります」蛭「貴方の政治上の意見は」友太郎は呆れた顏で「何で私に政治上の意見などがありませう、年が若くて未だ政治のことなど少しも分りません」蛭「政治上でなくとも、平生何か意見を持つて居ませう」友太郎は少し考へ「ハイ、父を大切に思ひます、雇主森江氏を敬ひます、さうそて許婚のお露を可愛いと思ひます、是れが若し意見ならば、平生の意見は唯だ是丈これだけです」

殆ど婀娜あどけない程の返事である、蛭峰は益々感心して決して此男は罪人で無いと思ひ、此樣なのは放免する方が却つて上長に贊成せられて自然自分の出世の端にもなり禮子にも喜ばれると思つた、おほやけには長官のお襃めを得、わたしには美人に嬉しい顏をされるは決して蛭峰の喜ばぬ所ではない、蛭「貴方は誰かに怨まれてゞも居るのですか」友「少しも怨まれる心當りは有りません」蛭「しか廿歳はたち未滿で船長にも成るといふのは異數の出世ですから、怨まぬ迄も羨む人はあるに違ひない、常に能く其邊氣を注けて居ねば何の樣な害に逢ふかも知れません」

尋問ではない寧ろ相談が忠告の樣である。

友「ハイ氣を注けましても、別に私を怨む人は決してないと思ひます」蛭峰は全く友太郎の清淨な事を信じた。「フム、貴方は全く正直な少年らしい、私も極寛大に、常の規則からは外れますけれど、ソレ是れを見せて上げます、此手紙を誰が書いたか心當りはありませんか」斯う云つて差出したのは彼の段倉が左の手でしたゝめた例の密告状である、友太郎は受取つて讀んだけれど、勿論わざと筆蹟を變へて書いて有るのだから心當りのある筈がない、友「誰が書いたか少しも分りません」蛭「しかし此手紙に書いてある事柄は事實ですか」友太郎はいさゝか眉根をひそめつつ「ハイ何うして此樣なことを知つた人がありますか、全く、餘ほど事實に近いのです」何たる有體ありていな返事だらう。蛭「では事實を有の儘に言つて御覽なさい」友太郎は森江氏に語つた通り、船長呉氏の死際に拿翁なぽれおんの居るエルバの島へ立寄つて、是をベルトラン將軍に渡せと小包を托せられた事を語り、「船長の言葉は總て命令と聞かねばなりませんから、私は其通りに致しました、さうしてエルバの島へ上陸し將軍に面會を求めますと容易に許される容子はなかツたのですが、若し面會が六かしい時は是を示せとて、一個ひとつの指環を渡されて居ましたから、其れを出して示しますと直に一室ひとまへ通されました」とて、面會の一部始終を述べ、最後に至り森江氏にさへ明かに言はなかつた祕密まで話し「船長の言葉には此小包さへ渡せば多分將軍から巴里へ送る手紙を托されるで有らうから、直に其手紙を持つて巴里へ行き、直々に宛名の人へ手渡しせよ、決して何人にも見せ、又は聞かせてならぬと言はれました、果して其言葉通り、面會の終る時に將軍から手紙を托されました故私は今日こんにち婚禮が濟めば明日直に其手紙を以て巴里へ立つ積でした、イヤ今も其積りです」

蛭峰は呟いた「アヽ貴方は無意識に國事犯の道具に使はれ掛けたのです、勿論貴方には罪はないのです、直に放免の手續きを運んで上げます」もとより直に放免せられるものとは期して居たけれど友太郎は眞實に感謝した「貴方の御親切はきもに銘じます」蛭「將軍の渡した其手紙といふは巴里の黨員と何事をか打合すものだらう、其手紙を私へお渡しなさい」友「う捕吏に取上げられました、其の貴方の卓子てーぶるの上に在るのが其の手紙です」蛭「オヤさうですか、巴里の誰れあに當たものか知らん」と蛭峰は呟いて卓子てーぶるから其手紙を取上て上封の宛名を見た。

若し雷が頭上に落ちても蛭峰は斯う迄は驚かぬであらう、彼は宛名を見て全く震へ上つた、何うだらう「ヘロン街十三番地にて野々内殿」とある、野々内とは自分の父なのだ。
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