巖窟王(上 その11)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
巖窟王 : 一二一 神の言葉
「オヽ兄嫂阿淺も、蛭峰の私生兒辨太郎も、何か意外の災難にでも逢つたのか」と伯爵は靜かに問ふた。
春田路は殆ど泣き聲に爲り「お聞下さい、私は暮内法師に救はれると、直にコルしかへ立寄りましたが、家は燒けて了ツて焦げた地面のみ殘り、其處へ村人が集まツて、一個の死骸を棺に收めて居るのです、此れが阿淺の死骸です、村人どもは私の顏を見て『お前が一週間早く歸つたならば此樣な事も無かツたらうに』と口々に悔みました、能く聞きますと、辨太郎が他の惡友逹と共に阿淺を縛り、臍繰金を出せと云ひ、樣々に責て責殺し、爾して纔ばかりの品物や有金などを引攫つて、跡へ火を附けて逃亡したと云ふのです、其惡友逹は直に捕はれ、白状して刑に服しましたが、辨太郎だけは其切り何處へ行つたか今以て分らぬのです、私は泣く〳〵阿淺を葬ツて爾して貴方の許へ上ツたのですが、此んな恐ろしい事が又と世に在りませうか、私は思ひました『是れも全く蛭峰を殺した報である、蛭峰の私生兒が父の讐を私の兄嫂に返したのだ』と、ハイ斯う思ひ出してから私は自分の過越し方が恐ろしく、何うしても人間は善で無くては成らぬと感じ、時々心で蛭峰の靈に向ひ謝罪の祈りを捧げて居ました、其れだのに今夜丁度、其の蛭峰を殺した場所へ立歸る事になツたとは能々の事ですよ、或は斯うして私の立つて居る足の下にも、蛭峰の死骸が埋まつて居るかも知れません、オヽ伯爵、早く私を此家から連出して下さい、茲に落着いて居る心は致しません、逃る事の出來るものなら逃て了ひ度いと思ひます」
眞に逃も去らん程の状である、伯爵は少しも騷がぬ「コレ春田路、其れは其方の迷信と云ふものである、能く聞け、此世の事は善も惡も、罪も報も、總て神の配劑に出づるのだ、果して蛭峰は其まゝ死んだか、或は生返て猶だ此世に存へて居るか、其れは分らぬけれど、彼は短劍で刺される丈の罪が有つたので神が其方の手を以て刺させたのだらう、能くは知らぬが蛭峰と云ふ人は仲々の惡人と云ふ事だから、其方に刺された丈で果して罪が亡びたか、イヤ恐らくは未だ亡びまい、亡びぬとすれば、他日又誰かの手を以て更に相當の罰を與へるかも知れぬ、何も其方が彼を恐れ此家を恐れるには及ばぬ事、神は惡は惡を以て打ち、毒を以て毒を攻める、更に彼の辨太郎の如きも、實に珍しい惡人では有るが、必ず神の手で、他の珍しい惡人を懲すが爲に用ひられる時が有らう、今は行方が分らずとも、愈々神が彼を必要とする場合には、彼は何處からか現はれて來るかも知れぬ、此邊の理を能く考へれば別に恐れ戰く事も有るまい、己なども不肖ながら惡を懲して善を勸める神の道具に使はれゝば、其れほど有難い事は無いと信じて居る」
何とやら伯爵の言葉は、神の言葉の樣である、辨太郎の未だ生て居て、今何處かに居る事から、他日何の樣な場合に現はれるかまで知つてゐる樣に聞える、春田路は深く感じて「成ほど私の樣な者でも、蛭峰の惡を罰する道具に使はれたのなら、今更恐ろしくは有ません」と答へた、けれど猶ほ充分には恐れが消えぬ樣である。
伯爵は之より更に此家の總體を見廻して造作や修繕の事に付き春田路に詳しく差し圖を與へた末、エリシー街の本邸へ引上げた、此時は夜の十時過であつた。
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此日は伯爵が巴里へ着いた第一日で有るのに、朝の十時半から夜の十時後まで、間斷無しに働いて殆ど他人が一週間も掛かる程の仕事をしている、實に驚く可き根氣である、翌日からは何れほどの仕事をするだらう、併し未だ伯爵の此日の用事は之に盡きぬ、本邸へ着くと共に、又も其の造作を見廻つた上、多少の差し圖を發し、更に黒奴 亞黎を呼び「今から一時間の後、此家へ鞆繪姫の着くのは既に知らせて置いたが、姫の居間、寢間ともに己の差圖した通りに出來てゐるのか」と問ひ亞黎が點頭を待ち更に「其れから今まで姫に付いてゐる女中の外に、巴里の女を三人、侍女として雇ふて置く樣に命じたが、其れも好いのか」亞黎は又 點頭いた、伯爵「巴里の女が若しも色々の事を聞きたがり、姫の寢る時間を妨げては成らぬから其樣な事の無い樣に、爾して又希臘から來てゐる女中と巴里の女中と、決して雜談などせぬ樣に總て其方が取締れ」亞黎は一々呑み込んで退いた。
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