読書ざんまいよせい(094)

巖窟王(下 その7)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

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Youtube 【朗読】モンテ・クリスト伯(巌窟王) 79「レモネード」

巖窟王 : 二〇八 彼の仕業

ノルマンデーから急ぎ歸ツて、伯爵と右左に分れた野西武之助は、直ぐ其足で新聞記者猛田猛の許をふた、訪ふて猛の出て來るを待つ間さへももどかしい、自分の父野西子爵が再び賣國奴と疑はれるに到つた迄は猛の手紙で知つて居るけれど、其後が何う成つたか、一刻も早く聞知り度い、其れも新聞紙を買つて讀めば分るけれど、新聞紙を讀むのが恐ろしい、又忌々しい、慈悲も無く情も知らず唯だ事實の有り儘を冷酷に報道する新聞記者の筆から我父の舊惡を知らされるのは子として實に忍び難い所である。

彼は應接のに在つて殆ど地團太を踏まぬ許りである、全體何者が斯も執念深く我父我一家を傷けやうと企むだらう、父に賣國の振舞が有つた事はさきに猛がヤミナ迄出張して調て來た所で分ツては居るけれど、其罪惡を十年餘の今と爲つてあばき立てるとは實に憎むにも餘りある憎さである、父に愛想の盡きたことは無論だけれど、其れが爲に此敵を許して置く事は出來ぬ、此敵 假令たとひ社會の何の樣な隅に隱れて居やうとも必ず探し出して目に物を見せて呉れねば成らぬと、獨り悔しさの數々を心の中に呼起しては自分の肝へ刻み附る樣に繰返して居た、其處へ漸く猛田猛は出て來た。

彼は氣の毒さに堪へぬ状で、容易には口を開かなんだが、切に武之助より促されて遂に委員會の一部始終を語り初めた、勿論一たび口を開く以上は少しも隱し又は飾る可きで無い、彼が新聞記者として委員の人々や其議長などから聞集めた所を事細に話し出したので、彼の委員會の景状ありさまが手に取る如く武之助に分ツた、我父野西子爵が何の樣にして自ら辯護し、何の樣にして鞆繪姫の現はれ出たのに對し、又何の樣に言葉窮して何の樣に會場から逃出したか、父の一擧一動から委員の其時其時の顏色まで悉く目に見える樣に感じた。

聞終つて彼は悔し涙の雨の如く降り來るを制し得ぬ「猛田さん、猛田さん、最う私は何處へ行つても賣國奴の息子です、廣い此巴里に、猶ほ私を友人と思ツて呉れる者は、貴方や出部嶺でぶれいや心の廣い巖窟島伯爵の外に幾人も有りますまい、し有ツたとて何の顏さげて巴里の市中を徘徊しませう、私は直ぐに此國を去り世界の果てへ身を埋めて了ひます、ですが其前に此敵を探し出して仇をかへさねば成りません、仇を復すと云つても決鬪する外は無く、若し其決鬪で殺さるれば其れ迄ゆゑ外國へ隱れに行く面倒も無くて濟みます、若し勝てば幾分の恨も消ゆると云ふ者、何うか貴方は私の心を察し、此敵の分る樣にして下さい、全體何者が私の父の事を新聞紙に出したのでせう、貴方の手紙にはヤミナ州から澤山の證據書類を持つた人が故々わざ〳〵出て來て各新聞社を廻ツたと有りましたけれど、必ず此巴里に住んで居る人の中に、張本人が有りませう、最初に貴方の新聞紙へ唯だ彿國の士官次郎と云ふ短いアノ記事を出させたなどは決してヤミナから來た人では有りません、此人が即ち今度の記事をも出る樣に仕組んだ事は、考へる迄も無く分つて居ますから、即ち此人が誰で有るか、少しでも貴方に心當りが有れば、何うか私へお知らせ下さい、眞に一生のお願ひとは此事です」

他事も無い願ひに猛田は默然として考へたが「イヤ少しも心當りは無いのです、けれど外ならぬ貴方ゆゑ、私は自分の聊か異樣に感じた事實だけを申ますが、イヤ之を責任の有る言葉の樣に思はれては困りますよ、單に貴方の參考の一つに供して下さい」武之助は熱心に「ハイ決して貴方に責任を持たせる樣な事は仕ません、何の樣な事實です、何の樣な」猛「イヤ事實と云ふには足りませんが、實は先日私がヤミナへ行つた時、同地の有名な銀行者に就て聞きました、其箇條はヤミナ城の沒落に次第と、爾して其事件は何か彿國の士官で次郎と云ふ者が關係が有るだらうかと云ふ二點でしたが、之を聞いて銀行者は眉を顰め、實に妙な事が有る者だ、先逹ても巴里かれ其れと同じ事の問ひ合せを受けたと云ひました」武之助「エヽ、貴方より猶ほ前に巴里から其事を問ひ合せた者が有ると云ふのですか、其者こそ――」猛「ハイ私も其者こそは新聞紙の出所に多少關係の有る人だらうと思ひ、其れは誰だと聞きました」武之助「聞いたら誰でした」猛「イヤ聞いて聊か案外な思ひをしました、巴里の取引銀行の頭取段倉男爵だと答へました」

武之助は殆ど飛び上ツて「イヤ段倉男爵、其れは決して案外では有りません、彼です彼です、彼の仕業です、第一彼は夕蝉孃を皮春小侯爵へ縁付ける爲に私との縁を切る必要が有つたのです、ナニ私の方は此方こちらから縁を切る樣に仕向けた程ゆゑ、向ふで何も其樣な面倒な手數を取るには及びませんけれど、唯だ私の父は熱心に此縁談を實行する決心で有りましたから、段倉男が父に對して破談の口實を作る可き必要が有つたのです、爾です其れで益々分りました、先日父が段倉へ催促に行きました所、彼は異樣に答へ、何だか父の名譽が遠からず地に落つるかの樣に云ふた相です、是れは父から聞きました、爾して其翌日か翌翌日に次郎の賣國奴と云ふ事が貴方の紙上に出たのです、是で見ると其時から既に段倉氏は新聞にの記事の出る事を知つて居たのです、彼が自分で記事の種を出したので無くば何で前以て其樣な事を知つて居ませう」

殆ど星を指す程に明白には聞えるけれど眞逆まさかに巴里第一の銀行家とも云はるゝ者が、爾う陰險な手段を取らうとも思はれぬ、猛「御尤もの樣にも聞えますが、單に貴方と夕蝉孃の縁談を破る爲ならば餘り狂言が大き過ぎるでは有りませんか、其に今では其縁談も破れて居ますから、しや第一囘の記事は彼から出たとしても此度の第二囘の記事は」武之助「サア其邊は少しも私には合點が行きませんけれど、兎に角彼は昔から私の父と、名譽と財産とで競爭して來たのです、財産の方では彼が勝つたでせうけれど名譽の方では父の方が勝ちましたから、彼は決して父の名譽を傷つけるに躊躇せぬ男です、何でも彼が此事件に關係が有るに違ひ無いのです、爾無くば何でヤミナ銀行へ其樣な事を問合せますか、何が何でも私の敵は段倉です、是れから直に彼の許へ行き、私は詰問します、其結果に從つては無論決鬪です、何うか貴方も私と同行して下さい、其れが出來ずば貴方も最う私の敵に組した者と見る外は有りません」殆ど氣も顛倒したかと思はるゝ状である、此樣な事に成りはせぬかと思つたればこそ猛は前以て責任を負はぬよしを斷ツたのである、併し斯う成ツては今更引くにも引かれぬ「致し方が有りません、同道して私がヤミナの銀行で聞いたと云ふ事だけは證言しませう」武之助は殆ど血眼で茲を出た、爾して猛田猛の手を引立て引立て、段倉の家を指して急いだ。
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読書ざんまいよせい(093)

巖窟王(下 その6)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯


Youtube 【朗読】モンテ・クリスト伯(巌窟王) 77「ハイデ」

巖窟王 : 一九九 一册の始末書

法師の囁いた此人の姓、此人の名に、毛太郎次は、忽ち何も彼も思ひ出した、是が驚かずに居られやうか、無實の罪にとくの昔死んだとのみ思ふた其人が、イヤ死んだとより外思ふ道の無い其人が柳田卿と爲り暮内法師と爲つて今は我が目の前に居る、眞に神のわざ、神の業としても猶ほ合點の行かぬ程である、彼は力盡きて最う聲も出ぬ程の咽喉で叫んだ「エヽ貴方が彼の、次郎や段倉に密告せられて行方も知れぬ事に成ツた――」法師「爾よ、爾して今は巖窟島伯爵と云はれるのだ」巖窟島伯爵と聞いて彼の驚きが又加はツた「世界一の大金持、爾です、爾です、巖窟島伯爵と云ふ貴方の姿は、幾度いくたびも見て知つて居ます、成るほど其面影が、昔の彼――に違ひが無い、アヽ神の業、神の業、此樣な神の力を信ぜずに今が今まで道ならぬ事ばかりして居たのは恐ろしい、恐ろしい」全く彼は死際に神の力を信ずる事が出來た、法師は言葉を柔げて「神の證據を合點する事が出來たなら幸だ、遲くは無いから罪の亡ぶる樣神に祈つて、心易く往生を遂げよ、己も汝の爲めに祈つて遣る」と云ひ眞に法師が死際の人の爲めに神の救ひを求める樣に祈りを捧げた、毛太郎次は幾度いくたびも口の中で「彼の友太郎が――あの暮内法師――不思議だ――恐ろしい」など唱へて絶命した。

是より約半時の後、醫師も來た、大檢事蛭峰も來た、けれど唯死骸の傍に暮内法師が殊勝氣に祈つて居るのを見るのみで何の活劇の跡をも認め得なんだ、但し蛭峰大檢事は職掌柄として、法師に種々の事を問ふた、法師は之に答へた、自分が今夜巖窟島伯爵の留守へ來て、其書齋に入つて、徹夜して古い教書を調べて居る所へ此者が忍び込んだ故、不心得を悟して追返した所、此塀を下る所へ他の曲者が待伏して居て御覽の通り此者を殺したのだと、爾して打明けられるだけの事は打明けて最後に毛太郎次の彼の口供こうきようを出して示した、蛭峰は受取ツて開き讀み「アヽ毛太郎次確二十年前 馬港まるせーゆに在職した頃聞いた事の在る名前だ」と云ひ更に辨太郎の名をも讀んでハテな「此樣な脱走囚なら外にも惡事が有らうから直に捕へる事が出來やう」とは呟いたけれど、此辨太郎が目下皮春小侯爵と云つて段倉家に出入りして居る貴公子とは思ひ寄る筈が無かツた、殊に父母不明と故々わざ〳〵書いて有る、其分らぬ父母が誰であるらうと云ふ事などは微塵も心に浮ばなんだ。

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是より凡そ一週日の間は、巴里到る處に此曲者の事が噂に上ツた、何しろ巖窟島伯爵の一擧一動は悉く新聞紙に報ぜらるゝ程の状だから、伯爵の家に入つた曲者と云ひ、曲者が又曲者に殺されると云ふ椿事は國家の大問題か何ぞの樣に言囃された、中には尋常たゞの窃盜では無く巖窟島伯爵を暗殺する爲に忍び込んだ刺客だけれど、伯爵が其夜偶然にオーチウルの別莊で泊つたのは伯爵の幸運祝す可しだなどと、死んだ曲者から直接に聞取ツたかの如く書いた新聞紙も有ツた、從ツては伯爵の許へ追從 かた〴〵見舞に來る人も多く、其中の段倉男爵などは、矢張り蛭峰と同じく昔 馬まるせーゆに同じ名の惡人が有つたなどと二三の人に明言した、けれど其惡人が、或る仕事の時には自分と相棒も同樣であツたなどの事は胴忘どうわすれしたと見えおくびにも出さなんだ。

毛太郎次の噂に連れて、第二の曲者辨太郎が何者かと云ふ事も仲々噂がさかんで有ツた、取分けて蛭峰大檢事は、此辨太郎を捕へて糺問きうもんせば或は自分の調べて居る巖窟島伯爵の本性が分る緒口いとぐちに成りはせぬかとの念を浮かべ、今まで熱心に調べて居た古い書類の詮索は二の次に廻し、一意の辨太郎の捕縛に力を集めた、之が爲に凡そ巴里中の窃盜や前科者は、大抵嫌疑を以て捕へられ、爾して現場審問を施す爲に一々巖窟島伯爵の邸へ連れて來られて綿密に蛭峰大檢事から尋問せられた、獨り巖窟島伯爵のみは何故に大檢事が斯うまで熱心であるかを察し、人知れず頬笑んで居た。

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かはつて、さても小侯爵皮春永太郎に自分の許嫁夕蝉孃を讓つてホツと安心した野西武之助は一つ叶へば又一つとやら、自分の父野西子爵が新聞の記事でヤミナ事件の賣國奴とのゝしられ其記者猛田猛に決鬪を言込んで以來、約束の三週間の猶豫をもどかしく思ひ、只管ひたすらに指を折つて其の期限の盡くるを待つて居たが、待つ身には長くとも三週間は終に盡きて、廿二日目の日とは成つた、今日こそは猛田猛に紙上で謝罪せしむるかた介添人を差向くるか二つに一つの定まる日なれと早朝に起きて衣服も莊重にし、猛の監督する新聞社へ又も行つた、猛は何とやら氣の無い顏で出迎へたが、來意は勿論分ツて居るから、直に自分の方から口を開き「イヤ今日は私からお返辭に參上する積りでした」武之助は皆まで聞かず「其返事は事實無根として紙上に取消を掲ぐるに在るのですか、其れとも決鬪の武噐を通知する爲ですか」猛「イヤ前者でも後者でも有りません」武之助「取消でも無く決鬪でも無いとすれば、アヽ分ツた又も口先で瞞過ごまかすお積りですね」猛「イヤ其れでも有りません」武「では――」猛「先づお返辭する前に、私が猶豫の三週日を何の樣に費したかを申し上げます」云ひつゝ旅行劵や所々の關所の通過檢印を出して示し「私は事實取調の爲に、自分で希臘のヤミナ州まで出張して來たのです、餘り責任の重い譯ですから」ヤミナ州まで出張したとは成程責任を重んじた仕方である、表面無責任の樣に見る新聞社も實は斯まで責任を盡す者かと、武之助は聊か意外に思ひ、多少は猛田猛に對し尊敬の念を深くした。

猛は語を繼ぎヤミナ州へ行くのに一週間掛りました、之より早く行かれません、彼の地へ着いて檢疫の爲め四日間遮斷せられました、爾して滯在取調の日數が三日、歸り途が又一週間、都合で廿一日掛つて昨夜歸り着いたのです」武之助「實地を取調べていよ〳〵無根と分ツたでせう」猛は氣の毒に堪へぬと云ふ状である「イヤ野西さん、私は實に此結果を貴方へ打明けるに忍びません、私を友人と思ふなら貴方は何にも言はずに私を助けて下さい」實に異樣な言分である、武「出來ません」猛は暫し無言と爲り、深く考へた上「アヽ止むを得ん、野西さん、私の取調の結果は此書類に明瞭です」と云ひ一册の始末書を卓子てーぶるの上を擴げた、中には何の樣な事を書いてある。
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