巖窟王(下 その7)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
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Youtube 【朗読】モンテ・クリスト伯(巌窟王) 79「レモネード」
巖窟王 : 二〇八 彼の仕業
ノルマンデーから急ぎ歸ツて、伯爵と右左に分れた野西武之助は、直ぐ其足で新聞記者猛田猛の許を訪ふた、訪ふて猛の出て來るを待つ間さへも悶かしい、自分の父野西子爵が再び賣國奴と疑はれるに到つた迄は猛の手紙で知つて居るけれど、其後が何う成つたか、一刻も早く聞知り度い、其れも新聞紙を買つて讀めば分るけれど、新聞紙を讀むのが恐ろしい、又忌々しい、慈悲も無く情も知らず唯だ事實の有り儘を冷酷に報道する新聞記者の筆から我父の舊惡を知らされるのは子として實に忍び難い所である。
彼は應接の室に在つて殆ど地團太を踏まぬ許りである、全體何者が斯も執念深く我父我一家を傷けやうと企むだらう、父に賣國の振舞が有つた事は曩に猛がヤミナ迄出張して調て來た所で分ツては居るけれど、其罪惡を十年餘の今と爲つて訐き立てるとは實に憎むにも餘りある憎さである、父に愛想の盡きたことは無論だけれど、其れが爲に此敵を許して置く事は出來ぬ、此敵 假令社會の何の樣な隅に隱れて居やうとも必ず探し出して目に物を見せて呉れねば成らぬと、獨り悔しさの數々を心の中に呼起しては自分の肝へ刻み附る樣に繰返して居た、其處へ漸く猛田猛は出て來た。
彼は氣の毒さに堪へぬ状で、容易には口を開かなんだが、切に武之助より促されて遂に委員會の一部始終を語り初めた、勿論一たび口を開く以上は少しも隱し又は飾る可きで無い、彼が新聞記者として委員の人々や其議長などから聞集めた所を事細に話し出したので、彼の委員會の景状が手に取る如く武之助に分ツた、我父野西子爵が何の樣にして自ら辯護し、何の樣にして鞆繪姫の現はれ出たのに對し、又何の樣に言葉窮して何の樣に會場から逃出したか、父の一擧一動から委員の其時其時の顏色まで悉く目に見える樣に感じた。
聞終つて彼は悔し涙の雨の如く降り來るを制し得ぬ「猛田さん、猛田さん、最う私は何處へ行つても賣國奴の息子です、廣い此巴里に、猶ほ私を友人と思ツて呉れる者は、貴方や出部嶺や心の廣い巖窟島伯爵の外に幾人も有りますまい、縱し有ツたとて何の顏さげて巴里の市中を徘徊しませう、私は直ぐに此國を去り世界の果てへ身を埋めて了ひます、ですが其前に此敵を探し出して仇を復さねば成りません、仇を復すと云つても決鬪する外は無く、若し其決鬪で殺さるれば其れ迄ゆゑ外國へ隱れに行く面倒も無くて濟みます、若し勝てば幾分の恨も消ゆると云ふ者、何うか貴方は私の心を察し、此敵の分る樣にして下さい、全體何者が私の父の事を新聞紙に出したのでせう、貴方の手紙にはヤミナ州から澤山の證據書類を持つた人が故々出て來て各新聞社を廻ツたと有りましたけれど、必ず此巴里に住んで居る人の中に、張本人が有りませう、最初に貴方の新聞紙へ唯だ彿國の士官次郎と云ふ短いアノ記事を出させたなどは決してヤミナから來た人では有りません、此人が即ち今度の記事をも出る樣に仕組んだ事は、考へる迄も無く分つて居ますから、即ち此人が誰で有るか、少しでも貴方に心當りが有れば、何うか私へお知らせ下さい、眞に一生のお願ひとは此事です」
他事も無い願ひに猛田は默然として考へたが「イヤ少しも心當りは無いのです、けれど外ならぬ貴方ゆゑ、私は自分の聊か異樣に感じた事實だけを申ますが、イヤ之を責任の有る言葉の樣に思はれては困りますよ、單に貴方の參考の一つに供して下さい」武之助は熱心に「ハイ決して貴方に責任を持たせる樣な事は仕ません、何の樣な事實です、何の樣な」猛「イヤ事實と云ふには足りませんが、實は先日私がヤミナへ行つた時、同地の有名な銀行者に就て聞きました、其箇條はヤミナ城の沒落に次第と、爾して其事件は何か彿國の士官で次郎と云ふ者が關係が有るだらうかと云ふ二點でしたが、之を聞いて銀行者は眉を顰め、實に妙な事が有る者だ、先逹ても巴里かれ其れと同じ事の問ひ合せを受けたと云ひました」武之助「エヽ、貴方より猶ほ前に巴里から其事を問ひ合せた者が有ると云ふのですか、其者こそ――」猛「ハイ私も其者こそは新聞紙の出所に多少關係の有る人だらうと思ひ、其れは誰だと聞きました」武之助「聞いたら誰でした」猛「イヤ聞いて聊か案外な思ひをしました、巴里の取引銀行の頭取段倉男爵だと答へました」
武之助は殆ど飛び上ツて「イヤ段倉男爵、其れは決して案外では有りません、彼です彼です、彼の仕業です、第一彼は夕蝉孃を皮春小侯爵へ縁付ける爲に私との縁を切る必要が有つたのです、ナニ私の方は此方から縁を切る樣に仕向けた程ゆゑ、向ふで何も其樣な面倒な手數を取るには及びませんけれど、唯だ私の父は熱心に此縁談を實行する決心で有りましたから、段倉男が父に對して破談の口實を作る可き必要が有つたのです、爾です其れで益々分りました、先日父が段倉へ催促に行きました所、彼は異樣に答へ、何だか父の名譽が遠からず地に落つるかの樣に云ふた相です、是れは父から聞きました、爾して其翌日か翌翌日に次郎の賣國奴と云ふ事が貴方の紙上に出たのです、是で見ると其時から既に段倉氏は新聞に那の記事の出る事を知つて居たのです、彼が自分で記事の種を出したので無くば何で前以て其樣な事を知つて居ませう」
殆ど星を指す程に明白には聞えるけれど眞逆に巴里第一の銀行家とも云はるゝ者が、爾う陰險な手段を取らうとも思はれぬ、猛「御尤もの樣にも聞えますが、單に貴方と夕蝉孃の縁談を破る爲ならば餘り狂言が大き過ぎるでは有りませんか、其に今では其縁談も破れて居ますから、縱しや第一囘の記事は彼から出たとしても此度の第二囘の記事は」武之助「サア其邊は少しも私には合點が行きませんけれど、兎に角彼は昔から私の父と、名譽と財産とで競爭して來たのです、財産の方では彼が勝つたでせうけれど名譽の方では父の方が勝ちましたから、彼は決して父の名譽を傷つけるに躊躇せぬ男です、何でも彼が此事件に關係が有るに違ひ無いのです、爾無くば何でヤミナ銀行へ其樣な事を問合せますか、何が何でも私の敵は段倉です、是れから直に彼の許へ行き、私は詰問します、其結果に從つては無論決鬪です、何うか貴方も私と同行して下さい、其れが出來ずば貴方も最う私の敵に組した者と見る外は有りません」殆ど氣も顛倒したかと思はるゝ状である、此樣な事に成りはせぬかと思つたればこそ猛は前以て責任を負はぬ由を斷ツたのである、併し斯う成ツては今更引くにも引かれぬ「致し方が有りません、同道して私がヤミナの銀行で聞いたと云ふ事だけは證言しませう」武之助は殆ど血眼で茲を出た、爾して猛田猛の手を引立て引立て、段倉の家を指して急いだ。
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