巖窟王(下 その8)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
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Youtube 【朗読】モンテ・クリスト伯(巌窟王) 87「決闘」
巖窟王 : 二二〇 死の前夜・一
巖窟島伯爵ほどの大決心を以て大計畫を運んで來た人が、其計畫が最早九分九厘まで漕附けた今と爲つて、自分の命を捨ると云ふ心に成れる者だらうか、けれど伯爵は命を捨てねば成らぬ破滅に立至ツたのだ。
實に伯爵の煩悶は見るも憐れである、暗い靜かな書齋の中に、獨り地團駄踏む如くに悶いて居る、幾等悶いても外に道は無い、決鬪の相手野西武之助の命を許すには自分が空砲を放つて武之助に殺される一方である、我が命を武之助に代へねば成らぬ、嗚呼彼が如き、爲す事も無き一少年の命が、天地の大任務を負ふと信ずる我が一命に代へられやうか、否、否、否、と云つた所で代る外は無い、彼に殺される外は無い[、]是れが確に自分の此口で露子夫人に約束した言葉の意味である。
頓て伯爵は、深い〳〵絶望の爲に悶く力も無くなツた、室の一方に在る長椅子へ尻餠を搗く樣に身を凭らせた、爾して空しく溜息を吐いた、斯うなると又も樣々の感慨が胸に集まるのみである、今が今まで此身に天の祐けと神の許しとが籠つてゐて、何の樣な難い事も總て我が意の如く成る者と信じ實際人間業とは思はれぬほどの大業を遂げて來たのに、今と爲つて天意神心は何故に此身を見捨て、斯くも詰らぬ故障に躓かせるのだらう、天の祐、神の許しと此身の信じたのが間違ひだらうか、矢張り此世は神も無く慈悲も無い罪惡 跋扈の世界だらうか、若し其れならば誰が此身を泥阜の土牢から出る事の出來る樣に仕向けて呉れたのだらう、何が爲に此身をモンテ、クリストの島に着かせ、限り無い寶の持主とは仕たのだらう、天の意を行ふ爲で無くば此寶は何の爲に將た何の道に使ふ可き者だらう、イヤイヤ、天の意は明かである、確に此身へ天の裁判が托されたのだ、人間の惡を懲して善を勸めよと命ぜられたのだ、けれど此身の其神意天命を遂げ果せる丈けの力無く詰らぬ愛の爲め情の爲めに心を動かし、踏む可き道を自分から踏損じた爲めに、神は罰として此身から其祐助を取上げて、今茲に、此身を死るより外は無い此破滅に立到らせたのだ、斯う思へば最早仕方が無い、唯此天罰に服し、天助神祐を空しくした此 活地の無い一命を天に返す一方である、其れにしても唯だ悔しいのは、何故此身の心の底に情と云ふ樣な弱い心が潛んで居たのだらう、何故に昔の愛にイヤ愛では無い、愛は既に忘れたのである、忘れたかれど昔愛した女の情願の爲にツイ動かされる樣な情無い弱味が有つたのだらう、其れを知らずに、此身此心をば、全く天に代るに耐へる迄に練固め鍛へ果せた者と信じて居たのが此身の愚鈍しさであツた。
其れから其れと憾みは盡きぬ、其うちに又もフト思ひ出したのは、露子夫人が餘り易々と此身の言葉を承け引いた容子の怪しさである、此身が死ぬると云ふが否や夫人は直に打喜び、殆ど其れなら死ねと云はん許りの景状で立去つたのだ、幾等母の情で我子の助けられるのが嬉しいとて、人が其爲に死ぬると云ふのを、好い事の樣に思ひ、何の辛さも感ぜずに人を我子の身代りに立たされる者だらうか、お露と云ふた其昔は決して其樣な、邪慳な卑怯な魂性では無かツた、確に人間の中の神であるかと思はれるほど慈悲深い所に有る心根であツた、如何に其後、人の妻と爲り人の母と爲り、心も持方が違ツたにしても、此身を自分の子の代りに死なせるのを當然の事の樣に思ふとは餘りである、餘りな事で事實とは思はれぬ、勿論人の爲に身を犧牲にすると云ふは善事には違ひ無いが善事でも度を過ぎれば罪惡と爲る事が有る、此身が是だけの大計畫を抱へて居ながら、其れを捨て人の身代りに立つとは、却て罪惡と云ふ者では無からうか、其罪惡を此身に強ふる露子夫人のする事は更に重い罪惡では無からうか、豈もや夫人が罪惡を知つて喜ぶ筈も無からうにと、全く見込みの無い爲にまで見込を附けて、何か我爲に都合の能き道理は出て來ぬかと求むるは、死ぬる人の未練と云ふ者で、何事をも辨へた伯爵の如きすらも猶ほ免れぬ所と見える、未練、今と爲つて幾等繰返したとて何の甲斐が有らう、けれど此未練は又一つの考へを搜し出した、アヽ分ツた、露子夫人は決鬪の間際に成り、此身と武之助の間に割つて入り、其身が雙方の彈丸を受けて死ぬるか、爾無くば決鬪を止めて了ふ積りで有らう、爾だ其れに違ひ無いと、思ひ初めると同時に、伯爵の心には微に一道の希望が浮き出る樣に思はれたが、又忽ち消えて了ツた、エヽ、其樣な事をせられては、此身の折角の決心が宛で狂言じみて了ふ、可けぬ、可けぬ、巖窟島伯爵とも云はれる者が、相手の母の止めぬ來るを見込んで決鬪に負る約束をしたと有つては、物笑ひの種と云ふ者、此身は辛い思ひで身を犧牲にする考へを定めたのに、其れが却て物笑ひとは自分の名に泥を塗るのだ、其れよりは、爾うだ、若しも其樣な事が有れば其場で手早く自殺するが好い、自殺して切ては名前だけでも汚れぬ樣にせねば成らぬ。
漸く茲に思ひは極ツた、其れにしては其次第と其決心の能く分る樣に我が遺言へ特別に書入れて置かねば成らぬ。死んだ後で人が見れば、成るほど斯うも辛い決心をしたのかと、縱しや感心はして呉れぬ迄も我を物笑ひの種とはせぬだらうと、獨り呟いて身を起し、机に向つて紙筆を取上げたが此時又も室の外で、女の絹摺の音かと思はれる微な物音が有ツた、けれど早や二時を過て人の入り來る筈は無い、伯爵は少しも物音に氣が附かなかつた。
巖窟王 : 二二一 死の前夜・二
夜は早二時を過ぎて眞に草木も眠るかと思はるゝほど靜かである、伯爵は室の外に在ツた微な物音には氣が附かず、兼て認めてある遺言状に特別の書入を施した、其文意は、唯だ自分が此度の決鬪に勝つては成らぬ事情が出來た爲め自殺するのだとの意を明かにした丈である、書終ツて讀み直したが意味は充分に通じて居る「アヽ是で好い、是で好い、何も空砲を以て武之助に向ひ、決鬪の眞似事をして殺されるには及ばぬ事だ、爾うしては、武之助を初め、誰とて此身が自殺をしたとは思はぬ、全く決鬪に負た者だと思ふ、其れでは餘り殘念だ、矢張り短銃へは當り前に實彈を込め、愈々相手と立向ツて、爾して其場へ露子夫人が現はれやうが、現はれまいが、其れには頓着せぬ、愈々と云ふ場合に、敵に向つて放つ丸を、自分に向つて放てば好い、吁、我身を保護せんが爲にこそ、多年練習した武藝が、今は我身を碎かんが爲めに用ひられるのだ」呟き終ツて多少の滿足を感じたけれど、我が身の亡ぶると共に大計畫の亡ぶる事は、如何に考へても憾みに耐へぬ、知らず此恨みは誰に訴へて好いだらう、誰にとて矢張り天に訴へる外は無い、今が今とて、天も無く神も無い暗黒の世かと叫んだ口を以て又神を呼んだ「アヽ神よ、我れは御身の榮光を汚さじと、將た我が姓名を損ぜじと、殊更に斯くはするなり、初めは土牢の十四年、獨り絶望の中に復讐の誓ひを立て、後は此世に出て十有年一年、其誓ひは神に通じ、神より復讐の手を借された者と信じ晝夜身を致し又心を盡したるに、今は自ら蹉跌して自ら身を殺すなり、自ら殺さずば敵に殺されん、敵に殺さるゝは神の榮光を汚すなり、茲に其意を明記するは、神よ、彼等惡人、彼の野西の如き、蛭峰の如き、段倉の如きをして、其罪惡に相當する必然の天罰をば我が偶然の死の爲に免れ得たちと思はざらしむる爲なり、神よ、彼等をして此我が明記に依りて知らしめよ、彼等が必罰を免るゝは、免るゝにあらで、延べられたるに止まることを、此世に於て近く我が手より降す可かりし刑罰の、遠く次の世に及び、直々に神の手より降さるゝ事を、知らしめよ、知らしめよ、一時の責、一時の罰が、永久の苛責、永久の刑罰に變ぜしに止まる事を」
殆ど熱心な祈りとも云ふ可き者である、是でも伯爵の心は安まらぬけれど、此外には猶更休まる所が無い、祈り終つて再び首を擧げた時は最早三時過でも有らうか、又も戸の外に微な物音が響いた、今度は伯爵の耳に入ツた、怪しみつゝ伯爵は立ツて戸を開いた、けれど何の氣配も無い、更に室に歸り、手燭を取ツて、廊下を越え次の間に入つて見た、物音の出た元は茲に在る、茲の長椅子に依つたまゝ顏を仰向にして眠つて居る一人の女の姿、之は誰あらう彼の鞆繪姫である、姫は何の爲に茲に眠れる、其譯は問ふ迄も無い、伯爵の室へと來たけれど、容子が聊か異樣に思はれる爲め、用事の濟んで伯爵の出て來るのを待つ積りで晝間の疲れにツイ眠ツたのだ、是れは年の若い爲である、伯爵は手燭を差上げて熟々と姫の顏を見た、眞に絶世の美人とは之である、今迄一日に幾度と無く見、見る度に美しく成長し來ると感じたけれど、今此手燭の下に、伯爵の入來るをも知らずに眠ツて居る顏ほど美しく感じた事は無い、全く姫の寢顏を見るは今が初めてゞある、否有體に云へば、伯爵は生れて四十年を越したけれども、幼い頃に母を失ひ、母に抱かれて寢た事も覺えねば、母の寢顏をだに見た事は無く、總て女の寢顏は見た事が無い、見るのは今夜此顏が初めてゞある。
此寢顏が伯爵の胸に何の樣な感じを催させたかは知らぬ、けれど世に若し天使と云ひ天女と云ふ者が有るならば、其消息は、此罪も無く汚れも知らで安々と眠れる清き顏にこそ通はしめ、若し亦極樂と云ふ者が有るならば、其 音信りは今此呼吸の調子も整ひて春の若草よりも靜かに、池の面の水よりも穩かなる姫の面にこそ讀まれん、伯爵は透通る如き姫の顏色の奧にまで見入りて心の底をも知らうと思ふ如く、又近く進み、手燭をかざし〳〵て我が顏をも前に突出し、半俯向きたるまゝ茫然として立つこと凡そ五分間の上にも及んだ。
若し心の忙しい此伯爵の生涯に暫したりとも世を忘るゝ時が有ツたせば、潾は必ず鞆繪姫の寢顏に差俯向いて居た此少しも間こそは眞に世をも身をも何事をも、全く忘れ盡した姿である、若又伯爵が、人生に復讐と云ふ者より外に、清き樂しき生涯の有る事を悟る事が有るとせば、其れも亦必ず此僅の間に於てゞ無くては成らぬ、此僅の間こそ、天が伯爵に授けた慰めの時間では有るまいか、兎も角も伯爵は此顏の美しさに、知らず知らず何事をか悟ツたに違ひ無い、頓て兩の眼には、露の樣な輝きが見えて來た、けれど能く思へば此悟りは遲過ると云ふ可きだらう、明日死ぬと定まツた今に及び初めて此世に復讐よりも美しい境涯が有ると知るは、知らぬが増しでは無からうか、何等の時ぞ何等の想ひぞ、人生に恨事多しとは斯る場合を指すのでは有るまいか、噫又 噫。
巖窟王 : 二二二 死の前夜・三
人の一生には危機一髮と云ふ時が有る、善人が善を忘れて惡の中に墮落するも此一髮の間際である、此間際に、心の舵の取樣一つが生涯の運命を決するのだ、今巖窟島伯爵が恍惚として鞆繪姫の寢顏に見とれた際が所謂る危機一髮と云ふ時では有るまいか、爾なきだに伯爵は宵の程から露子夫人の涙に動かされ、既に一段の危機を踏み外して、心の底が掻亂れて居る、云はゞ「英雄の心緒亂れて絲の如し」とも云ふ可き場合である、若し伯爵にして、其 紊れた心の絲を露ほどでも操り損じたなら、此時限り伯爵は一種情魔の奴隸と爲ツて、人生一切の行路を打忘れ、身も名も心も其事業も消えて了ふ事に立到るかも知れぬ、死ぬと決心した明日の決鬪場にさへ出る氣力が無くなつて此場から驅落する事に成らぬとも限らぬ、誠に危き極みである。
此危機一髮の時に臨んで伯爵は何う心の絲を操ツた、兩眼に涙を浮べたが、良あつて「オヽ」と叫び、恐ろしげに身を震はし、深い深い嘆息を共に呟いた「爾うだ、露子夫人は息子の身の上を氣遣ふ爲め、那の通り此身に説いた、此身は今死ぬと云ふ場合と爲り、我が娘も同樣な此鞆繪姫の後々を氣遣はずに置かれようか、死んだ後でも此姫の行末の立つ樣に、篤と手當を定めて置かねば」と云ひ、靜かに四邊を見廻して又書齋に引返したのは、亂れた心緒を取纒めて元の伯爵に立返り得たのである、一先は無事に危機の面を通過し得たのである。
爾して再び机に向ひ、先刻書入れした遺言状の外に、又新な遺言状を認めた、其文は、
「餘は餘が身代の一部として、モンテ、クリストの巖穴に貯へある正金を森江大尉眞太郎の遺す者なり、眞太郎にして若し今猶ほ心に思ひ定めたる妻無くば亡ヤミナ城主有井宗隣の一女鞆繪姫を妻と爲す可し、姫は餘が餘の娘の如くに愛し、又餘を其身の父の如くに敬ひて、餘の育て上げたる所なり、餘は姫を餘の眞正の相續人と定め、英國、彿國、蘭國、墺國に在る地所家屋、株劵等を合せて相續せしむ、其他は餘の忠實なる召使に分配す可し、委細は既に認めある別の遺言状に審かなり、而して此遺言状の執行者は家扶春田路をして當らしむる者なり」
斯くは認め終ツた時しも、伯爵の背後の方から女の叫び聲が聞えた、伯爵は驚いて筆を取落し、直ぐに振返ツて見たが、立つて居るのは鞆繪姫である「オヽ姫、何で和女は――イヤ和女は之を讀んだのか」姫は殆ど叱る樣な聲で「何で貴方は此夜深に此樣な書き物を、爾して何故私に財産を遺すなどと」伯爵は當惑して「イヤ當分旅行せねば成らぬから――若しも途中で何の樣な不慮の災難が有らうとも知れず」と勉めて何氣なく云ふたけれど、聲にも語調にも、隱し切れぬほどの悲しさが籠つて居る、姫「毎も旅行は成さるけれど此樣な書物をお作り成さらぬでは有りませんか、毎もの旅行と、今度の旅行は違ひますか」其問ふ状が、日頃唯柔順な姫の口調では無く、殆ど責め問ふ樣な語氣である、伯爵を唯だ主人と思ひ、唯だ父の樣に思ふのみの口から此樣な語氣が出る者だらうか、伯爵は爾と氣が附いて、心底から自分の身を搖るぎ出す樣に感じたけれど、強て其感じを押止め「若しもの事の有つた時、我が娘の身に不幸を及ぼしては成らぬから」アヽ伯爵は「和女」と云ふ事をすら憚り、抂げて我が娘と云ふのである、姫「若しもの事とは死ぬると云ふ事ですか」伯爵「人は何の場合にも死る事は考へて其れ丈けの用意を定めて置かねば成らぬ」姫「其樣な爲の用心ならば、私で無く、誰か外の人を相續人にお定め成さい、貴方がお亡くなり成されば、私も――私は何にも要りませんから」伯爵と共にこそ死ね、其後に生存へる心は無いとの意が、自ら現はれて居る、伯爵の胸の中の急に剛ばる樣な思ひがして、返す言葉も容易には出ぬ、姫は言葉と共に遺言状を取上げて引裂き、床の上に投げた、投げると共に、最早身も心も力盡きた者か摚と背ろ樣に反り仆れた、今度は眠つたのでは無く氣絶したのである。
遽てゝ伯爵は走り寄り、我が腕の上に抱起したが、美しい其顏は、先程の寢顏と同じ顏であるけれど唇の邊に何やら物言度げな風情が見え、爾して眉と眉との間が、恨みにか悲しみにか聊か顰んで居る、此眉と唇は何の消息を傳へるのだらう、伯爵は初めて疑ふた、此身の死を氣遣ひて氣絶したのは云ふ迄も無いけれど、何故爾うまで氣遣ふだらう、父の樣に愛し主人の樣に敬ふのみで無い、命を賭てと思ふ迄に此身を慕ふて居るのでは有るまいか、とは云へ悲しい哉、最早此身に半日とは壽命が無い、早夜は白々と明け初めて、臺所の邊りには召使の者の起き出た樣な音さへ聞える「アヽ姫が此樣な心と知れば、此身に――此身にさへも、猶だ多少の嬉しさが殘ツて居たのだらうに、多少幸福な生涯を營む事も出來たらうに」最と本意無げに呟いたまゝ姫を抱いて次の間に出で、鈴を鳴らして召使ひを呼び、姫の介抱を之に托して、其身は三度び元の書齋に入り、姫の破ツた遺言状を拾ひ集め更に同じ文句を書直して、机に納めた、是で死ぬる準備は整ふた「最う何にも用事は無い」と四邊を見廻して立つた時には顏に何だか苦い樣な笑が浮んで居た、丁度此時、門の外に馬車の駐まる音がした、介添人森江大尉が決鬪の戰場へ附添ふて行く爲に來たのだ、是が死の迎へとも云ふ可きである。
巖窟王 : 二二三 決鬪場・一
門前へ着いた馬車の音に、伯爵は直に窓の所に行きて外を見た、果して馬車からは森江大尉と江馬仁吉とが降り立ちつゝある、愈々死の迎へである。
伯爵は自ら玄關まで出て此兩人と握手した、森江は感心の體で「イヤお手先の確かさには敬服です、私は幾度も決鬪場へ出掛ける人と握手しましたが、軍人中にすら手先の震へぬ人は殆ど有りません、是で勝利は必然です」自殺と決心した身に取つては此襃め言葉が有難くも何とも無い、伯爵は唯だ苦笑ひをするのみである、江馬仁吉も尾に附いて「私共は昨夜心配の餘り一睡も致しません」伯爵「イヤ他人ながら爾うまで私の運命を氣遣ふて下さる方が有るとは本望の至りです、私は最う死んでも遺憾は有りません」死んでもとの一句に妙に力が籠ツて聞えた森江「貴方は何だか負る覺悟で居らツしやる樣に見えますが」伯爵「ハイ私の覺悟を見せますが、先づ此方へ」とて兩人を書齋へ連れて行つた、爾して彼の遺言状を示し「萬一の時には何うか之をお讀み下さい」と云ひ、更に執事破布池を呼び「己が茲を出れば直に此遺言状を公證人へ屆けて呉れ」と手渡した。
大尉は眞逆に此書中に自分へ大金を紀念とする旨が記されて有らうとは思はぬけれど、伯爵の口調で何か自分へ後事を托して有るに違ひないと察した、併し爾る空漠な推量などよりも差當り介添人の義務として報告せねば成らぬことが有る「伯爵、實は昨夜の中に先方の介添人砂田猛田の兩人と、トルトニの割烹店に會し決鬪の條件を相談しました、私は長劍をと主張しましたけれど、砂田伯が或撃劍師から貴方が長劍の大名人と云ふ事を聞知つて居て應じません、推問答の末、短銃と云ふことに一決しました、長劍ならば何方かゞ微傷を負ふた時介添人が見計らひで引分ける事も出來ますから却て危險は少いのに短銃では一發灸所に中れば其れ切りです、實に不安心に堪へませんが其代り切に私が主張して交互に發射する方法を定め、貴方の方が被害者ゆゑ最初の一發は貴方が打つ事に致しました」若し伯爵にして自殺の決死を以て居るなら、却つて敵から發射させるのを男らしゝとして喜ぶ所だらうけれど、自分で自分を射殺すと決して居る丈に此取極を嬉しく感じた、自分の方が第一彈を發射するなら敵から傷つけられぬうち立派に自殺する事が出來る。
斯う極つては萬に一つも自殺の仕損じはない、嬉しいけれど又殘念でないでもない、伯爵「イヤ段々の注意の程は深く謝せねば成りませんが、孰れにしても私は敗北です、敗北の樣な氣が致します」森江「其樣な不吉な事を」伯爵「併し貴方がたの御安心の爲に私の短銃の發射法をお目に掛けて置きませう」と云ひ、兩人が何の意かと合點し得ぬ間に伯爵は直に短銃を持て裏庭に出で、兼て出來て居る射場の的に五點の記しのある骨牌一枚を貼附け「森江さん、今日の決鬪は幾歩離れて射撃します」森江「聊か遠過るか知れませんが、成る可く雙方の無難を計る爲め二十四歩の距離を以て」伯爵「宜しい此處ですね」とて、的より廿四歩を退き、充分に狙ひをも定めぬ程の早さを以て五囘連け打に發射するに驚く可し一彈も外れずして骨牌の五點を悉く射貫て了つた、大尉は呆氣に取られ「貴方は神手です、是ならば最初の一發で野西武之助を射殺すこと必然ですが、併し伯爵、何うか彼を殺さぬ樣に、右の腕の附根の邊をでも射貫いて下さい、爾すれば、彼は短銃を取上げる事が出來ませんから決鬪は貴方の名譽に歸して終ります、彼を殺すのは可哀相です、彼には母が有りますから」伯爵「ハイ彼には母が有ります私には母も有りません」何と沈痛なる言葉であらう、森江「イヤ、是れほどの神手で有りながら彼の命だけ助けて遣れば、誰とて貴方の寛仁大度なことを感心せずには居られません」伯爵「ナニ御安心成さい、彼は決鬪場から無事に、自ら歩いて歸宅する事が出來ますから」森江「爾して貴方は」伯爵「舁つがれて歸るでせう」江馬「其樣な事が有ります者か」伯爵「イヽエ、出掛けに料理店へ立ち寄り、歸りに食ふからとて料理を注文して置いて決鬪場へ出る巴里人の流儀とは私の流儀は違ひますから」
嘲りの中に何と無く一種の覺悟が現はれて居る、併し森江も江馬も伯爵の今の手際に安心して、大に心配も薄らいだ、頓て三人は馬車に乘り定めの場所を指し出發したが、獨り伯爵のみは常に似ず打鬱ぎ、何事にか深く未練が殘ツて居る樣に、馬車が其門を出る時なども振向いて長く我家の二階を眺め、微に嘆息の聲を洩らした、二階には鞆繪姫の室が有るのだ。
此状に森江は聊か不審を抱いたけれど、伯爵の心の底の祕密を知る筈は無い、直ちに又思ひ直し「イヤ伯爵、臆病な奴に限り、此樣な時に空元氣を示し、饒舌たり笑つたりする者です、貴方の沈着な態度は却て眞の勇士の状でせう」伯爵「ハイ、廿年ほどの間死生の地に立つた身は、敢て死と云ふ事を恐れませんけれど――」恐れぬけれど何うしたのだらう、其後の語は發せぬ、是より全くの無言にて八時少し前の約束のビンセンの公園に着いた。
爾して馬車を樹の蔭に駐めて三人は降り出たが彼方を見れば、向ふの介添人猛田砂田の兩人が、同じく馬車を控へて待つて居る、森江が其許を指して行かうとするを伯爵は暫しと留めて物蔭に連て行き、低い聲で「私は死ぬる前に――イヤ決鬪する前に、貴方の問ふて置き度い事が有ります、少し異な事柄では有りますが」森江「何なりと」伯爵「貴方の心は猶だ自由ですか」森江「エ何と」伯爵「イエ、未だ妻と思ひ定めた女が無いのですか」森江は子供の如く顏を紅くし「有り、有ります」返事の尋常ならぬ状に伯爵は、扨は人通りならず深く言替はした女が有ると見て取り、失望はしたけれど、猶も念の爲にと「其れは到底思ひ切る事の出來ぬ樣な」森江は初めよりも勇氣が出て「ハイ自分の命よりも其女を愛します」最う疑ふ餘地は無い「宜しい直に決鬪に着手する樣に運んで下さい」何氣無く大尉を去らせたけれど、伯爵は殆ど絶望の體である「アヽ一度運が傾けば、何も彼も絶望に終る許りだ、決鬪すれば自分が自分を射殺さねば成らぬ事になるし、是ばかりはと見込んだ鞆繪姫の件までも見込通りには行かぬ噫噫」と又嘆息した、眞に伯爵の運勢が傾き初めたと云ふ者だらうか。
巖窟王 : 二二四 決鬪場・二
森江大尉は先方の介添人砂田猛田の前に進み然る可く挨拶した、爾して武噐其他一切の準備を檢査したが、孰れも斯る事に慣た人逹の仕た事とて少しも非難す可き所は無いが、併し、唯だ當人なる野西武之助が未だ見えぬ。
「野西君は何處に居ます」と大尉は問ふた、猛田「最う來る時分です」砂田伯は時計を見て「ナニ今八時五分過ですから、大して約束の時間より後れたと云ふ譯では有りません」と武之助の遲刻を辯護する樣に云ひ、爾して更に町の方を見「ソレ彼所へ早や馬車が來ました」と指さした。
全く其通りである、町の方から一輌の馬車が來て一同の傍に近寄り、中から一紳士、イヤ二人の紳士が現はれた、見れば武之助では無く出部嶺と毛脛安雄である、一同が怪しんで顏を見合す間に兩紳士は進み來り「我々は今朝早く野西武之助君から手紙を得、茲に出張して呉れと請はれました故、此通り來たのですが未だ決鬪は濟みませんか」決鬪の場へ、介添人の外に斯かる友人を呼集めるとは竒怪である、けれど森江大尉が第一に合點して「アヽ分りました、彼は昨夜も我々を劇場に呼び集めましたが、其時は自分が巖窟島伯爵に侮辱する状を成る可く多數の知人に見せ度いとの心でした、今朝も決鬪の實際を成る可く多くの知人に見て貰ひ度いのでせう」猛田砂田も合點して「成るほど爾です」と一齊に返辭した。
斯かる折しも又町の方から馬に乘つた一紳士が近づいた、今度は全く野西武之助である、砂田伯は其姿を見て「エヽ短銃の決鬪に、馬に乘つて馳せて來る奴が有る者か、昨夜も那れほど言ひ聞かせて置いたのに、馬などでは降りた後でも手が震へて充分の狙ひは出來ぬ」」と氣遣はしく罵しるも友人の眞情と云ふ者だらう、猛田も同じ思ひと見え「其れに彼は、白い袗衣の胸板を出して、那の樣な服裝では、敵の爲に胸へ的を懸けて居るも同樣だ」云ふ中に武之助は馬を降り、一同の傍に來たが、彼の顏色は其服裝よりも更に氣遣はしく思はるゝ所が有る、宛も昨夜一夜を心配に明した樣に兩の眼が腫れて居る、決して勇士の決鬪に臨む状では無い、併し彼は踏む足も慥げに進み出でて、最と嚴かに「イヤ介添人を初め知人諸君が私の爲に早朝より茲に集まられたのは深く謝さねば成りません、謝した後で巖窟島伯爵に一言申し述べ度い事が有ります」
決鬪の間際に當人同士、語を交へると云ふ事は餘り好い作法では無い、森江大尉は猶豫せずに「其れは謝絶します、昨夜貴方は伯爵を侮辱する爲に故々知人を呼び集め、今朝又も知人の前で伯爵を罵るのですか」武之助「イヽエ罵るのではありません、兎も角も伯爵に逢はせて下さい」云ふ中に早や伯爵は自ら進み來て、武之助の目前から二間ほどの所に立つた。
伯爵の顏色とても、武之助に讓らぬ程惡い、日頃血色の青い人が、今朝は又益々青く殆ど此世に暇を告ぐる人かとも思はれる、實に一同は意外の感に堪へぬ、此兩人の決鬪こそは、他に類も無い程に勇ましく且つ立派に行はれて、後々まで話の種と爲り介添人にまで肩身の廣い心地がするだらうと、窃に期して居た所とは全くの反對である、けれど若し能く伯爵の心を知れば其顏色の惡いのは無理も無い、決鬪の爲に茲へ來たのではなく、自殺の爲に來たのである、決鬪には勝つ見込みも有るが、自殺には逃れる道が無い、其身は敵が一彈を放つ前に我れと我が短銃で、我が心臟を打貫くのだ、而も其爲に今までの大事業が何の樣に成るかと思へば、水の泡に歸するは扨て置き、物笑ひの種に成り兼ねぬのだ、幾等勇氣を鼓して斷念めるても眞に斷念め盡す事は出來ぬ、顧みて二十年來の艱難辛苦を思へば唯だ情無さの限りである、隨分世には辛い悲しい位地に立つ人も有るけれど此身の今の樣な場合に立つ人が又と有らうか、昔 泥阜の牢の中でも絶望に死を求めた時の心も今に比べて辛しとするに足らぬ、其辛さを人に悟られるのも辛し、唯だ決鬪の時刻の、イヤ自殺の時刻の一刻一刻に近づくに連れて伯爵の胸の中は八裂きにせられる如くである、今茲に歩み出て武之助の傍近く進んだのも、實に最早身の置き所さへ無い程に感ぜられる爲である、自分の態度や自分の顏色なぞは更に顧みる暇が無いのだ。
巖窟王 : 二二五 決鬪場・三
顏の色土よりも青き伯爵と、眼を夜一夜の心配に膨らして居る武之助と、相對して立つた、未だ介添人の決鬪の開始を宣告せぬ前に斯く當人同士睨み合ふて立ち向ふとは例の無い事である、唯だ偶然に斯かる景状に立ち至ツたのだが、雙方の介添人は聊か呆氣に取られた状で、之を引分く可きか將た捨置く可きかの思案さへ浮ばぬに伯爵は又進みて、僅に武之助と一間程の距離となツた、「諸君、篤とお聽き下さい」とて嚴かな一言が、此とき前置の樣に武之助の口から出た、彼は伯爵に告げ度いと所望した事を茲で言出づる積りと見える、介添人も、後から來た二人の紳士も耳を傾けぬ譯には行かぬ、宛も説教の聽衆の樣に武之助と伯爵との左右に立つた。武之助は聊か震へる聲で「唯今私が諸君に申します事は後で諸君に於て隨意に世間へ吹聽して宜しいのです、私は成る可く明かに成る可く廣く私の心事を良解して貰ひ度い」言葉と共に聲も次第に確な響きを帶て來た、伯爵は是まで聽いて「ハイ其お説を伺ひませう」と促した、武之助は語を繼いだ。
「私は子爵野西次郎の舊惡を暴露した巖窟島伯爵の所行を憎み、殆ど許す可からざる無禮と思ひ、伯爵に決鬪を挑みました、是は決して野西次郎に舊惡が無いと信じた爲では有りません、悲しい哉野西子爵がヤミナ州に於ての擧動は暴露せられた通りで有ります、けれども一個人の舊惡をば巖窟島伯爵が何の權利を以て暴露するのか私は全く伯爵に權利の無い事を思ひ詰ました故、其れで伯爵を責めました、伯爵に暴行を加へました、所が今は合點が行きました、決して伯爵は野西次郎の舊惡を暴露する權利が無いのでは無く、充分其權利が有つたのです、伯爵はヤミナ城主の恩に背いた子爵野西次郎を罰したのでは無く伯爵其人に對して容易ならぬ虚僞の擧動の有つた漁師次郎を懲らしたのです、漁師次郎に仇を復したのです、伯爵の仕た事は一一尤もです、私自身が伯爵の地に立つとも矢張り伯爵と同樣の事を致します、諸君よ、私は次郎の息子で有りながら悉く伯爵の仕た事を正當と認めるのみならず、伯爵が猶一層の手嚴しい手段を容赦せられた事を深く茲に謝するのです」
決鬪の爲に來て、決鬪の相手を辯護し、謝罪の辭を陳ずるとは、是れが世間に有る事だらうか、況して武之助の氣に強い氣質として、何うして此樣な事が出來るだらう、一同は唯だ驚いた、縱し百雷が一時に足下に落下するとも斯う迄は驚かぬだらう、武之助は更に斷言した「私は是れ等の事情を知らぬ間こそ伯爵を責め、決鬪して伯爵を殺すか伯爵に殺される積りで有りましたが伯爵の所行を正當と知る以上は決鬪する權利が有りません、伯爵に對して、一時たりとも決鬪の意を起した我身の罪を謝するので今日茲へ決鬪に來たのではなく、成る可く多く知人の居る面前に於て、明かに謝罪する爲に來たのです」戰ふは易く、戰ひ止めるは實に難い、況して決鬪の相手たる人に對し、明かに謝罪するとは、良心の勇氣が人に百倍する人でなくては出來ぬことだ、是は千古の美談と稱しても可い。
聽くに從ひ巖窟島伯爵の胸には無限の感慨が湧き起ツた、最早自殺の必要もない決鬪の必要もない、自殺せずして、決鬪せずして、露子夫人に約束した通り武之助の一命を無難にする事が出來るのだ、何たる有難い仕合せだらうと知らず識らず顏を上げ感謝の意を以て天を仰いだ、抑も是れは何の爲に出た事だらう、問ふ迄もなく露子夫人の勢力なのだ、夫人が夜一夜を費して武之助に説いたのだ、是れを思へば夫人が、伯爵の死ぬると云ふたのを止めもせずに、當り前の事の樣に聞做して立去ツた其時に既に成算が有ツたのだ。
武之助は更に主として伯爵に向ひ「若し是だけの陳謝をお聽き下さるならば、何うか私と握手して下さい、今まで貴方の爲さることは眞に妙算神の如しで、萬に一つの過ちも有りません、是は私の及ぶ所では有りませんが、私の勉むる所は唯だ過ツて改むるを憚らぬだけの事です、過ち多い人間の行爲としては、私は自分の所行を人間たるに恥ぢぬと思ひますが、更に貴方に所行は人間以上です」眞に伯爵が武之助を助けん爲に身を殺さんと決心したのは人間以上である、神々しい行ひである武之助「今日貴方と私と決鬪せば何方か一方が死ぬるに極つて居たのです、之を助けるは神の使より外は有りません、其神の使が昨夜降つて我々を助けました、貴方と私とが再び今までの通りの親友に立返る事は遺憾ながら事情が許しますまいけれど、神の使の力で我々は互の間に永く尊敬の存す事が出來るのです」
伯爵は聽き終つて、彼が請ふ如く手を差延べた、此れを彼は、宛も神の手をでも握るが如く深く尊敬と畏怖とを以て握り、爾うして又一同に向ひ「全く私は巖窟島伯爵に對して輕率疎漏で有りました、斯く陳謝して其罪を償ひました、唯だ世間では定めし私を臆病者と云ふ者がありませう、臆病であるかないか、疑ふ人があれば何時でも試驗に應じます」誰とて彼の此擧動を臆病から出たと思ふ者か、事情を知らぬ砂田、出部嶺、猛田、毛脛等は聊か怪しむ念も有つたけれど「何時でも試驗に應じる」との最後の一言が此人々の口を鎖した。
是れで決鬪の一場は終ツて了ツた、此一同の中で、言葉にも形のも現はし樣の無い程に深く心を動かしたのは全く巖窟島伯爵である、伯爵は默然と首を埀れて退いたけれど胸は感慨に塞がつて其身が何を爲しつつ有るかを知らぬ、暫くして森江と江馬との間に立ち、馬車を繋いだ邊に返つて、初めて思ひ惟る事が出來た、是れに就けても露子夫人の働きは女丈夫と云ふに足るのだ、昨夜息子武之助に命乞して歸つた後で、武之助に對して何も彼も打明けたに違ひ無い、親として子に向ひ、過去つた恥を説くは、永く其孝心を傷けると云ふ者で通例の人の忍び得る所で無いけれど夫人は之を爲した、爾して此身が武之助に代つて死するとの決心を起した事をまで説き立てた爲に遂に武之助も感動して今日の美しい擧動に出たのだらう、之を思へば未だ天意は現はれて居る、扨は天意に見捨てられたかと悔んだのは間違ひであツた「アヽ矢張り此身は天の大任を托せられて居る、今と云ふ今、沁々と思ひ知ツた」腹の中に呟いて、廿年來蓄積した大勇氣を、一時に倍し二倍して取返した樣に見えた。
巖窟王 : 二二六 一家離散の時
決鬪の場所に臨みて敵に謝罪して決鬪を止めるとは、恐らく彿國の決鬪史に其例の無い事だらう、事情を知れば實に千古の美談では有るけれど、若し事情を知らずに見れば此上も無い臆病である、再び交際場裡に紳士として齒する事は出來ぬ。
縱しや事情を話した所で人が其れを信ずる者では無い、又餘りに込入り過ぎて居て詳しく話す事さへ出來ぬ、其れだから武之助は事情を話さぬと云ふことに決心し、唯だ「昨夜神の使が現はれた」とのみ云ふた、其上の事は少しも云はぬ、勿論覺悟は極めて居るのだ、最う何うせ交際場に入る事は出來ぬ、賣國奴の子と、決鬪を恐れる臆病者よと世に言囃されて何うして此國に居る事が出來やう、是を思へば彼の所爲は益々非常な良心の勇氣から出た者である、通例の人ならば、賣國奴の子と云はれるからは破れ冠に決鬪して切て勇士と云ふ名だけも取留めたく思ふ所だ、眞に彼は神の使の感化を受た者に違ひ無い。
其うちに巖窟島伯爵は江馬、森江と共に馬車に乘つて立去ツた、此方の介添人及び知人は直ぐに武之助を取圍み「全體今日の君の所爲は何うしたと云ふのだ」と口々に問ふた、武之助は唯だ「君方の見もし聞きもした通りであるのさ」と答ふる外に一語も吐かぬ、一同の中で獨り猛田猛は思慮の深い男だけに「イヤ野西君、君が是ほどにするからは定めし深い仔細が有らう、其仔細たるや人の祕密にも渡るだらうから吾々は強て聞き度くは無い、聞かずに君を信じやう、君が決鬪を止めたのは決鬪を行ふたよりも猶ほ勇氣ある所行に違ひ無い、けれど君、吾々は斯う信じても世間の人が悉く斯う信ずると云ふ事は出來ぬ、今日以後君は世間から餘り好い顏をせられぬ事を覺悟し給へ」武之助は悄然と打凋れては居るけれど今更驚く容子は無い、「勿論爾う覺悟はして居る」と答へた、次に口を開いたのは毛脛安雄である「僕ならば、人の噂の鎭まるまで二三年外國へ旅行する」武之助「其れは僕も覺悟して居る」
友人中の一人が斯る次第で外國へ旅行するとは殘る人々に取つて餘り心持の好い者では無い、安雄は更に慰める樣に「併し君、君が世界の果へ行かうとも、吾々の同情は絶えず君の身の添ふて居るから氣を確に持ち給へ」他の三人も贊成して「勿論吾々の同情は何處までも消えはせぬ」と口を揃へて云ふた、武之助「イヤ、諸君の此同情に對しても、僕は阿容と此國に居て君方の顏を汚す事は出來ぬ、野西武之助は決して知己の恩に負く男では無いから諸君安心して下さい」是れだけの言葉を殘して彼は乘つて來た馬にヒラリと乘り茲を去つた。
斯くて彼が此公園を出るや、樹の陰から立現はれ同じく馬で彼の後に附いて去つた者が有る、是れは彼の從者である、彼の運を氣遣ふて初めから隨いて來たのだ、彼は馬の上から此從者を顧みて「オヽ、今に初めぬ其方の主人思ひは此武之助深く感謝する」と云ふた。
間も無く武之助はヘルダー街の我家に着いた、着いて歩み入らうとする時、二階の窓からチラリと人の顏が見えた、之は父陸軍中將野西子爵である、子爵は我子武之助が我が汚名を雪ぐ爲に今朝巖窟島伯爵と決鬪することに爲つた事を何うしてか聞知つて、我子に合す顏の無い身ながらも嬉く思ひ、我が居間なる二階の窓から首を出して眺めて居たのだ、今武之助の無事に歸つて來た状を見て、決鬪に勝つた者と定めて嬉しくは思ふたゞらうが、喜ぶ状を見らるゝをさへ耻ど入つて遽たゞしく顏を隱さねば成らぬとは、心柄是非無しとは云へ亦笑止の限りである、武之助は知らぬ振で直に自分の室へ入つたが、最早一刻も此家に躊躇する事は無い、指して行く先は定まらずとも兎も角此家此土地此國から離れねば成らぬ、其れにしても父が賣國の所行を以て得た汚らはしい金錢財寶を塵ほども身に着けて去るは身の汚れと爲り、他日再び身を立つる時の妨げにも成らうから、今まで我物とした品物一切は取調べて置去りにせねば成らぬと、先づ箪笥其他を開き檢め、納むる可きは之を納めなどし、悉く室中を片附けたる末、抽斗押入れ一切に錠を卸し、其鍵には父に分る樣目印の合符を附け、明白に卓子の上に置いた、斯る所へ入つて來たのは先刻の從者である、武之助は少し驚き「誰も其方を呼びはせぬよ」早く立去れとの氣を示した、從者は當惑氣に「イヽエ唯今將軍が私を召ましたゆゑ」將軍とは父子爵を指すのである、武之助「將軍が召したなら將軍の室へ行くが好い」從者「ですが、行けば必ず決鬪場の容子をお尋ねが有りませう、何とお返事して宜しいか貴方に伺つてからと思ひまして」武之助「問はれたなら有りの儘を返辭せよ、武之助は決鬪場に於て、介添人及び知人の前に立ち、決鬪はせずに相手の巖窟島伯爵に謝罪して歸つたと云へ、少しでも間違ツた事を云ふと承知せぬぞ」從者は唯々として退いた、アヽ武之助の此一言は眞に父將軍に對する最後の裁判とも云ふ可きだらう、父將軍は嬉しい息子の手柄と、憎い我敵の倒れたのを聞く積りで武之助の從者を呼んだのに、其口から却て息子の謝罪の顛末を聞いては現在息子からまで斯も賤しまれ擯斥せられるかと思ひ知り、彼の上院の委員會の審問よりも猶辛く、眞に死刑の宣告を受けた樣に感ずるだらう。
武之助は此後で猶も室の壁に懸れる幾個の額面を取卸しなどして凡そ半時間ほどをも費したが其間に父は今の從者より宣告の如き報告を聞いたと見え、荒々しく二階を下り、直に馬車に乘つて何へか出去る音がした、けれど武之助は何處へ出去るのかと怪しむ事をすらもせぬ、漸くに方附け終つて母を餘所ながら暇乞の爲に其室を訪ふた、所が不思議や母露子夫人も同じ決心と見え、武之助と同じ樣に室を片附け、抽斗などの鍵に符を附け、机の上に置き、最う此上に手落は無いかと室中を見廻して居る所である、一家離散滅亡の時が來たと云ふ可きだらう。
巖窟王 : 二二七 父將軍は何處へ行つた
親子の縁は如何に深しと雖も、父父たらざれば子子たらずである、父が非義不徳の振舞が爲に名を汚し身を汚し世に顏向けも出來ぬ状と爲るに當り、子たる者は、曲りたる父に組し父と共に恥の谷底へ沈む可き者だらうか、其とも父と縁を切り切めては自分の身だけをも清くして、一家の名譽を後々に囘復す可き者だらうか、是は國々の教に依り多少の相違も有らうけれど、父が惡人で有るが爲に子も惡人と爲り、父が汚らはしい振舞をしたが爲に、子も其汚れに染まぬが孝行で無いと云ふのは餘り邪慳な教では有るまいか、妻と夫の間として其通りである、夫が世に容されぬ大罪を犯した場合に妻たる者が其罪に加擔せねば貞女と云はれぬ者だらうか、妻にまで汚名を及ぼす樣な夫は夫の義務を過つて自分から夫と云ふ權利を捨るも同樣だから、其妻たる者は切て自分の身だけを清くするが人道と云ふ者ではあるまいか。
今、野西武之助と其母との決心した所は是である、父たり夫たる野西將軍が斯迄卑劣な人とは知らなんだのである、知つて見れば斯樣な人非人を夫として居る事が出來ぬ、父として共々人非人の汚名を負ふ事は出來ぬ、母と子と一時に同じ考へを起し、今まで住慣れた此家を鬼の住家の樣に思ひ、立去る心を起したのも尤もである、けれど子の方は母をまで自分と共々に此家から立去らせ明日から何處に寢ると云ふ宿無しの境遇に陷らせるには忍びぬ、又母の方も子をまで自分と共々に立去らせる心は無い、唯自分一人で此後の貧苦艱難を忍ぶ積である、爾ば武之助は母の室に入り母が自分と同じ樣に室の中を片附て居る状を見て打驚き「阿母さん貴方は何を成されます」と問ふた、母は何も彼も見て取つた「私に問ふより其方こそは何をして居た」と問返すのが母の返辭で有つた、最う武之助は隱す心は少しも無い「イヽエ阿母さん、貴方は女でも有りお年も爾う若くは無し、迚も私と同じ樣な艱難辛苦は出來ません」母「イエ、其方こそは此家を承繼ぐ身だから――」武之助「貴方の息子が、賣國奴の家として世間に赤面せねば成らぬ樣な其んな家を相續して好いものですか」健氣な言葉に母は忽ち泣出し「オヽ能く云ふて呉れた、其れは私から其方に言はねば成らぬ意見であるのに、私の心が弱い者だから、其方に艱難させるが辛く、其方だけは此家に殘して置く積りに成つて居たが」武之助「ハイ私も是から後は日々の食物迄自分の手から稼ぎ出さねば成らぬ境涯ゆゑ貴女に其樣な艱難をお知らせ申すは不孝と思ひ、餘所ながらお暇乞して獨り立ち去る積りでしたが、貴女は其樣なお考へなら、御一緒に阿母さん」母「オヽ一緒に、武之助と」母子暫しがほど抱合ふて涙に呉れた、若し此状を畫にでも寫せば、「人間の最も美しい悲しみ」を描き出した者として名畫の中に加はるだらう。
良やありて武之助は母の手から身を離し「斯うと極れば直に立出る事にしませう、町盡れの靜かな所に、丁度世を忍ぶに好い小さい家を持つて居る知人が有りますから其者に請へば家も前金無しに貸して呉れ其上多少の金子も暫らは融通して呉れますから一先其處へ落着いた上で後の相談を致しませう、幸ひ今し方將軍が何處へか出て行かれた樣ですから今ならば誰にも見咎められる事は有りません、直に私が箱馬車を雇ふて裏門の所へ着けますから馬車の戸を閉ぢて立ち去りませう」と細かに手筈を定めて先づ父將軍の室を差窺くに未だ歸つて來ぬ容子である。
父將軍は此場合に何處へ行つただらう、武之助の從者から決鬪場に於ての一部始終を聞き、血眼に成つて、今度は自分が巖窟島伯爵と刺違へて死なんとの死物狂の決心を起し、暴れに暴れて伯爵の邸を指して行つたのだけれど武之助は爾うとは知らぬ、唯だ好い機會とのみ思ひ、其儘 戸表に出で、一輛の馬車を雇ふて裏門に着けた、爾して再び家に入らうとすると、何處から現はれたか知らぬけれど、不意に背後から我名を呼び「何うか至急に之を御覽下さい」と一通の手紙を差出した男がある、見れば巖窟島伯爵の家扶春田路である、爾して受取つた一通は伯爵の筆の蹟と看て取れる「承知した」と云ひ再び顏を上げて見れば早や春田路の姿は見えず、手に殘る手紙ばかりが眞事である、扨は返辭に及ばぬ書面と見えると打呟き、持つたまゝ母の室に歸つて母と共に讀下した。
巖窟王 : 二二八 我家からの落人
武之助が母と共に讀下した巖窟島伯爵の手紙は左の如くである。
親友武之助よ、餘は御身が母御と共に住慣れし家より立去らんとするを知る、如何にして知りしやと怪しむこと勿れ、兎も角も知れるなり、家を去りて貧苦に身を投ぜんとする御身の覺悟は健氣なれど母御にも其貧苦を共にせしめんとするは餘り傷はしい事に非ずや、失禮ながら餘の言を聞け、今より廿五年前、餘が或商船に乘込み長き航海より歸りし時、餘は兼て許嫁の仲なりし最愛の一婦人に婚資の如くに贈らん爲め、三千圓ほどの金を持ちたりしが、船乘の身の危險を慮かり、兎も角其金をば餘が父の住たりし馬港アリー街の家の庭に埋めたり、庭の片隅に餘が父の手づから植たる柏の樹、今は見上る許りに生茂れるが、其根の所こそ其金の有る所なれ、餘は此頃其地を過ぎ、今の猶ほ其金の存するにやと怪しみ、窃に立寄りて掘り試みたるに金は鐡の箱に入りたるまゝ無事に存したり。
武之助よ、其家は御身の母御能く知れり、餘は其時に於て其婚資を其最愛の婦人に贈る能はざりしを憾むと雖も今は幾多の悲しむ可き變遷を經て猶ほ其金を同じ目的に用ひ度く思ふなり、武之助よ、今の餘は人に百萬千萬の金を贈るも自由なれど、而も其自由を用ふる能はずして僅に昔の三千金を贈るに止めざるを得ざる事情の辛きを察せよ、此三千金は正當に御身の母御の物たるなり、武之助よ、御身若し此金を辭退する如き事あらば、潾は餘りに狹量なり、殊に母御の生活を奪ふなり、此金は即ち御身の父の爲に、老たる父を餓に死なしめられたる不幸なる一人の贈り物なるを思ひ、其人の憫れむ可き心情を察せよ、之を察せずして此贈り物を拒絶するが如き邪慳なる振舞ひに出づること勿れ。
約めて云へば馬港に行きて母と共々に其金を掘出して母の生活費に充てよとの心に歸すのだ、三千圓は纔の高で有るけれど贈る人の情は無量とも云ふ可きもの、殊に母子の今の境涯として殆ど無くては成らぬ金である、武之助は讀み終ツて母の返辭を待つた、母は文殼を悄然として肌に納め、爾して最と靜かな言葉で「ハイ、此贈り物は受けませう、昔は婚禮の元手と爲る筈で有つた金が今は尼寺に入る元手になるのだ」言ひ終つて淋しげに笑を浮かべると共に、何やら露の樣な物が其眼から一粒落ちた。
けれど思ひに沈んで居る場合では無い、裏門には馬車が待つて居る、母と子と無言の儘で手を引合ひ、靜に此室を立出で二階を降つた、我が家からの落人である、差して行く先は何處、兎も角も馬港なるアリー街に到るのであらう。
* * * * *
却つて説く、巖窟島伯爵は、江馬森江の兩人と共に、馬車に乘て決鬪場を引上げたが巴里の入口まで歸ると、道の傍へに宛も番兵の如く家扶春田路が直立して居た、伯爵は手早く車から降り彼に何事かを差圖し彼が心得て一散に馳て去る後姿を見て再び馬車に返つたが、間も無く江馬の方は早く家に歸り、氣遣ふて待つて居る妻緑に決鬪の無事に終つた事を告げて安心させ度いと云ひ分れて去つた、伯爵は森江と馬車の中に差向ひと爲り、彼に向ひ、今日は我家に行き晝餐を共にしやうと案内したが、日頃伯爵の言葉に辭退したことの無いに引替へ「イヤ今日は少しも食氣は催しませんので」と斷ツた、伯爵は先刻聞いた此の大尉の言葉などから思ひ合せて「オヽ軍人が食氣の無くなるほど氣に掛るは、戀か戰爭の二個だと云ふが、戰爭は差當り有る筈も無し、では先刻の戀と見えますね、食事より先に逢はねば成らぬ約束でも有りますか」大尉は正直に笑つて「爾で無いとは申しません」伯爵は大尉を子の如く思ふ丈けに、喜んで且氣遣ひ「私は其祕密を聞き度いと所望するのでは有りませんが、若しも貴方の手に餘る樣な事が有れば、遠慮無く私に打ち明け成さい、貴方の爲めには何の樣にも力を盡しますから」大尉も其身と蛭峰華子との間には恐ろしい程込み入つた事情が有るのだから何時有力な伯爵の助けを得ねば成らぬかも知れぬ事と信じて居る、「ハイ伯爵、多分遠からず貴方のお力を煩はさねば成らぬかと心配して居ます」伯爵「其樣な場合には直に私の許へ驅け付ける事をお忘れ成さるな」大尉は深く氣強く思ふ状で喜んだが、間も無く馬車が伯爵の屋敷近くに着くが否や分れを告げて降り去つた、後に伯爵は唯だ一人で自分の家の門まで來ると、茲に又以前の春田路が立つて居る、伯爵は降りて小聲で「何うだツた、春田路」春田路「御推量の通りです愈夫人は落て行きます」伯爵「息子武之助は」春田路「是も從者の見た所では落て行くと見え、母と同じく直に室の取方附に掛ツた相です、其上二人とも何一品持たずに」伯爵「爾う無くては成らぬ、其方には猶だ用事が有る、此方へ來い」斯く云つて居間へ春田路を伴ひ行き、手早く認めて渡したのが即ち最前野西親子の讀んだ彼の手紙である。
春田路が之を持つて立去るが否や、宛も待つて居た樣に此室へ鞆繪姫が入ツて來た、伯爵も姫の嬉しげなほど嬉しげに決鬪の無事に濟んだ事を語り、猶ほ嬉しさの餘りにや姫の取られ度げに差延べる手を取つて「最う此上は何うか和女に心配を掛ぬ樣に仕たい者だ」と云へば姫は婀娜なく「今度夜前の樣な事が有れば、私は何も申さずに死んで了ひます」と答へ、限り無く親しげに見えて居たが、此所へ今度は執事破布池が遽だしく來て「野西さんがお出に成りました」と傳へた、伯爵「野西とは武之助の方か」破布池「イエ、野西將軍です」將軍が茲へ來たとは死物狂に最後の大論判の爲であることは問はずとも分ツて居る。
巖窟王 : 二二九 將軍と伯爵・一
是れぞ伯爵に取つては、一生の運命を決する時である、昨夜野西武之助との決鬪に死を決したよりも猶ほ重大な決心を呼起さねば成らぬ、武之助の父野西將軍は全く伯爵と刺違へて死ぬる積で來たのだ、死物狂であるのだ、武之助との決鬪從ツて伯爵の自殺は幸ひにして免るゝを得たけれど、野西將軍の此怒りには逃れる道が有り相にも思はれぬ。
伯爵は直に其れと知つた、確に將軍は我が命を奪ひに來たのだ、けれど何として之に應ず可きか深く考へる暇も無い、殊に傍には鞆繪姫が附いて居るので驚く顏色さへも見せたく無いのだ、爾れば唯だ泰然として「野西將軍を客室へ通して置け」と答へた、鞆繪姫は野西の名を聞き、美しい眼に怒りの光を現はして「野西將軍とは那の次郎では有りませんか伯爵」伯爵「ナニ次郎では有るけれど和女が氣に掛るには足らぬ」姫「恨みを返しに來たのでは無からうかと思はれます、其れならば私が」伯爵「恨みを返すとて自分が當然の天罰を受けたのに、何も我々を恨む事は無い、何も彼も此方が引受けて、イヤ充分に言ひ懲して返すから和女は安心して居間へ退いて居るが好い」姫「だツて」伯爵「イヤ、だツてに及ばぬ、安心してサア室へ」伯爵の言葉は時として人の爭ふを許さぬ樣に力強く聞える場合がある、別に鋭く云ふでは無いけれど、何と無く威嚴があるのだ、姫は言葉を返し兼ね「ハイ貴方がさう仰有れば安心して退きます、貴方のお言葉は神の言葉です」云ひつゝ伯爵の前額に接吻を殘して去つたが、輕い接吻では有るけれど伯爵は總身に電氣の波が浸徹るかの如く感じた、爾して姫の立ち去る後姿を見送つたが、朝夕に見る姿ながら取分けて愛らしく又懷かしい思はれて大切の用事を控へながらも殆ど目を離し得ぬ程で有つた、嗚呼伯爵の爲に第二のお露が現はれたと云ふ者では有るまいか、伯爵自ら最早此世に、愛の幸福を得るなど云ふ若やいだ心は全く枯れ盡し、木石の如き身木石の如き心に成り果た者と思ひ、唯だ人間を恨めしくのみ思ふて居るけれど、猶心の底に孰れかに愛しもし愛されもする蜜の樣な甘い柔かい情の泉が潛んで居るでは有るまいか、今は樣々の事情から一時涸た樣に見えた其泉が再び噴水する秋と成ツたのでは有るまいか、何だか其樣な思ひが心の底に動いて來た樣に伯爵自ら感ずるのである「アヽ人間の幸福は終に、愛せられると云ふ事より外には無いのか知らん、此身にも猶其樣な幸福が有るのか知らん」と自ら怪しんで呟いた、爾して野西將軍を通した客間へ出向いて行つた。
此場合に若し野西將軍の顏を見る人は我知らず二足三足 逡巡するだらう、一昨日の委員會から唯だ悔しさに打沈んで、人にも逢はぬ程に仕て居たのが、今は巖窟島伯爵を殺して自分も死ぬる外は無いと思ひ詰めて出て來たのだから、顏一面が暗く蹙みて、今にも迅雷の鳴り出さんとする空の樣に見え、人に限り無く恐ろしさを感じしめる、若し人間の顏が怒り張裂ける事の有る者なら此時の將軍の顏が張裂ける顏と言へるだらう、全身の血液悉く顏に上つて居る、のみならず今乘つて來た馬車には二個の長劍を積んである、其 一個を巖窟島伯爵の手に渡し、全く刺違ひの決鬪を強ひる積りである。
併し巖窟島伯爵とても、兼て斯樣な場合に立至る事を思ひ寄らなんだ譯では無い、心に深く期した所が有るのだから、却つて此場合の早く來たのを嬉しく思ひ、一旦の驚きが通り過ぎては、我れながら怪しい程に心が落着いて、單に日常通例の客を迎へる如くに靜かに且 平かな面持で客間に入つた、爾して張裂ける樣な將軍の顏に對したけれど笑しげに、「イヤ野西子爵、今日は何の幸で貴方の御光榮を得たのでせう」と問ふた、將軍は伯爵の顏を睨み附けて凡そ五分間ほども無言で有つたが、漸く涸渇れた樣な聲で「其樣な空世辭は最う止めませう、貴方と私とは敵同士では有りませんか」敵同士との一語に、扨は我本相を知つたのかと伯爵は聊か驚いたけれど「エヽ何と仰有る」將軍「私の昔の事柄を訐き立たのが貴方だと云ふでは有りませんか、上院の委員會に證人として怪しい女を出したのも貴方だと云ふでは有りませんか、貴方は此野西將軍に何の恨みが有ツて」吁、何の恨みが有ツて、是れを問ふ樣では未だ眞に、敵同士なる所以を知つて居る者では無い、伯爵は敵の知識の深さ淺さを知つて又落着いた、將軍は益々聲を張上げて「今日是れが爲に貴方は私の息子武之助と決鬪したでは有りませんか、エ、爾で無いと言ひ張りますか」伯爵「今日の決鬪は其れが爲では有りません、武之助の無禮に對し、私から決鬪を挑んだ次第です」將軍「其武之助の無禮が矢張り此事から出たのでせう、彼は父に代つて貴方を懲らし度いと云ふ孝心の爲に伯爵を侮辱したのでせう、其れが決鬪の起りです、私は知つて居ます」伯爵「「或は爾かも知れませんが決鬪無しに濟みました、武之助は決鬪の場で明白に私へ謝罪しました」將軍「エヽ」と、將軍の驚く状を見れば、流石に武之助の從者が、將軍に向ひ、武之助の謝罪とまでは打明け得なんだ者と見え、伯爵「其謝罪は、雙方の介添人及び其場へ來合せた知人までも傾聽して充分の謝罪と認めました、夫れだから私も決鬪せずに滿足したのです」將軍「何故に伯爵に謝罪」伯爵「彼は私を恨むべき奴と思ひ詰めて居たのですが其過ちを悟り眞に憎むべき奴は私の外に在る事を知つたのです、彼の仕た事は美事です、過ちを改めたのです、彼は其謝罪の言葉の中に、明かに其憎むべき奴を指名し、其者の卑劣な罪を宣言しました」將軍「其憎むべき奴とは何者です」伯爵「ハイ、彼武之助の父、陸軍中將野西次郎です」將軍「エ、エ、何と」將軍の顏は張裂けた、イヤ張裂けなんだのが不思議である。
巖窟王 : 二三〇 將軍と伯爵・二
我が息子武之助が、我が敵の巖窟島伯爵よりも、自分の父たる此我身を恨むべしとし、罪深き奴として巖窟島伯爵に向けるべき劍を却つて我に向け、介添人も知人も居る決鬪の場所に於て決鬪を爲し得ずして却つて此我身の罪を鳴らし、敵たる巖窟島伯爵に謝罪するとは、眞に有らう事か有るまい事か、縱や天地が覆へらうとも是ほどの逆さ事は有り得ぬだらう、將軍は是だけを言ひ聞かせられ、其父と云ふ位地に對して、此上もない大打撃を受けた如くに感じた、而も此事を巖窟島伯爵の口より聞かさるゝに至ツて、打撃に二重の力がある、誰とても此場合に顏の張裂けるほど怒らずに居られやう。將軍は猛り狂ふた、將軍は地團駄踏んだ、爾して將軍は絶叫した「エ、エ、武之助が此私を巖窟島伯爵よりも憎む可しなどと、爾して決鬪を止めて、貴方に謝罪、アヽ何たる不孝な、臆病なたわけ者だらう」伯爵「臆病では有りません、非常に正直な心と、非常な勇氣とを持つて居ればこそ其樣な事が出來たのです」伯爵の言葉は將軍の耳には入らぬ「イヽエ臆病です、理が非でも既に決鬪場へ臨んだ上で、決鬪を止めるなどと、勇氣の有る者に其樣な事が出來ますか、而も自分の父の罪を認むるなどと、何故私の子に其樣な者が出來たでせう、何故彼奴は茲へ來ません、來れば私が合點の行く樣に言ひ聞かせて遣ります、何故彼は父の意に背いて――」止め度も無く叫び立て、何處迄我が子を罵るかも知れぬ、伯爵は冷淡に之を遮り「イヤ貴方が息子の行ひを善惡するのは、其れは一家の内所事ゆゑ、私は聞くのを御免蒙りたい、愈息子の仕事がお氣に召さぬとならば、何うかお宅へ歸つた上で、叱るとも懲らすとも御隨意に」將軍は初めて我が言葉が、腹立ち紛れに枝道へ反れたに氣附いた「其れは爾です、貴方が云はずとも息子を懲らす事は歸宅の上で隨意に仕ます、ですが其前に、爾です、我が息子を處分する前に、貴方を處分して行かねば成りません、能くお聞き成さい巖窟島伯爵、息子が貴方と戰ひ得なんだなら、父の私が其後を引受けます、私が貴方と鬪ひます確に私は貴方と決鬪する權利が有ります、最早此場に及んで遁辭などは許しませんぞ」勿論許さるゝに及ばぬ、廿年來 磨した劍は唯此將軍に一撃を試みん爲である「ハイ遁辭は用ひません、何も云はずに單にお相手致しませう」伯爵の言葉は物凄いほど冷やかである、早や氣に於て將軍を呑んで居るのだ、勝敗の數は決して居ると云つても可い。
「單にお相手、フム、之は面白い、イヤ有難い、決鬪は長劍を用ひます、私は其爲に長劍二口を從者に持たせて馬車へ乘せて來て有るのです貴方の用意は好いのですか」伯爵は唯だ「ハイ宜しい」將軍「武噐が無いなどの口實は用ひさせません、二人は刺違へて死ぬる事に致しませう、イヤ昔ならば爾ですが、今の決鬪は少し違ひますから、何方か一方が死ぬるまで鬪ふて、十々滅を指して初めて終ると云ふことに致しませう」伯爵「宜しい」將軍「場所は此室で、介添人は用ひずに、サア今直に初めませう」伯爵「勿論、介添人などは邪魔に成ります、貴方と私とは兼て何も彼も知り合つた間柄ですから、何の儀式にも及びません」知り合つた間柄との一語を殊更に推し附けて云ふた、將軍「エ、知り合つた間柄、爾です、何だか私は、初めて逢つた時から、長く知つて居た樣な氣がしました親しくは挨拶もしたけれど、何だか親しみの間に憎む可き所が在つて、長く長く貴方を憎んで居る樣に感じました、今日の決鬪は何の途逃れぬ運命です、私は貴方を憎むほど人を心底から憎んだ事は有りません、蟲の好かぬと云ふ者でせうけれど相互の身分に至ツては少しも知る所が無いのです」伯爵「イヤお待ちなさい、少しも知る所が無では無く、私の方では能く知つて居ます、ウオタローの戰ひの前宵に、脱走して敵軍の便利を計らふとした兵卒次郎は貴方では有ませんか、其後西彿の戰爭に、自分の生國 西班へ間諜の如く入込み、佛軍の爲に案内者を勤めた士官次郎は貴方では有りませんか、ヤミナの義軍に加はツてヤミナを敵國に賣渡し、又も敵兵を案内して恩人有井宗隣を殺したのも確次郎と云ふ男で有つた樣です、是等の賣國背恩の所行が積重なつて終に今日の陸軍中將士爵野西次郎と云ふ貴方の立派な履歴が出來上ツた樣に思はれます、何と是だけ知つて居れば能く知り合つた間柄では有ませんか」靜かに舊惡を數へ立てゝ侮辱の上に侮辱を加ふるは、唯滑かに決鬪するのが餘り惜い爲である、勿論通常の決鬪だけで腹の癒ゆる樣な有觸れた恨みとは恨みが違ふ。
巖窟王 : 二三一 將軍と伯爵・三
成ほど何も彼も知り合ふた間柄である、將軍の妻子さへ知らぬ事を伯爵は知つて居る、將軍は斯くと面と向ツて我舊惡を數へられ、宛も熱鐡を以て前額に我罪名を燒附けられた樣に感じた。
其れにしても斯くまで我舊惡を調べ上げて居る此巖窟島伯爵は何者ぞとの疑ひに堪へぬ「オヽ、惡人奴」と將軍は叫んだ、爾して更に「此身と命の遣取をする間際に、イヤ事に依れば此身を殺すかも知れぬ此間際に、此身の恥を數へ立てるとは、エヽ、貴方は何者です、此頃初めて逢つたでは無く、多分昔何處かで知り合つた人とは思ひますけれど、貴方が私を知つて居るほど私は貴方を知りません、貴方は、貴方は」と云ひ鋭く伯爵の顏を見詰たけれど猶ほ思ひ出す事が出來ぬ若し思ひ出したなら何うだらう。
敵を何物と看破り得ぬ悔しさに將軍は又絶叫した「知つて居ます、知つて居ます、貴方は惡魔の燭を以て私の暗い履歴を悉く讀んだのです、けれど、私の履歴は恐らく貴方の履歴ほど穢くは無いでせう、貴方は此國では巖窟島伯爵と自稱し、伊國では船乘新八と云ひ、マルタ島では又何とか別の名を用ひて居ました、榮華と贅澤に人の目も暈きほど身を飾り立てゝは居ても、決して私より以上の正直な人では有りません、此數々の僞名の外に必ず本名が有るでせう、其本名をお名乘りなさい、私は、貴方の胸に長劍で刺し貫いた上で、小氣味能く貴方の本名本姓を呼んで引導を渡さねば氣が濟みません、サア決鬪の前に「本名を本姓を」とて詰寄せた。
是ぞ伯爵が待設けた所である、伯爵の顏は青いながらも青い火の樣に照輝き眼も熱心に燃て居るかと疑はれた「心得ました」と唯だ短い言葉を殘し、急いで次の間に退いた、是は何の爲であらう、將軍が聊か怪しんで待つ間も無く伯爵は次の間で遽だしく我が衣服を剥り捨て、兼て蓄へて有る水夫の服を着け、水夫の帽を戴き、全く廿五年前、商船巴丸に乘て馬港へ歸つた時の姿と爲り、爾して水夫の癖を其儘に胸に手を組み、帽子の下からは長い黒い髮の毛を喰出させて雀躍りに踊る許りに勢で將軍の前に現はれた、將軍は猶も合點の行かぬまゝに此状を見詰て居たが、見るに從ひ、少しづつ合點が行き初めたと見える、眞に暗夜に幽靈に逢つた人とても將軍の此時の景状ほど顏に恐れを現はす事は出來ぬ、伯爵が一歩進めば將軍は一足退き、一歩又一歩、ついタヂ〳〵と背に蹌踉き室の眞中に在る卓子に到ツて漸くに身を支へた、けれど其足は其身を支ふるを拒む如くに震ふて居る。伯爵は若々しい聲で「將軍よ、イヤ次郎さん、私は數々の僞名の中で、唯一つの本名本姓を名乘りませう、之を名乘れば貴方も必ず合點しませう、イヤ名乘る迄も無く最う徐々思ひ出したでせう、廿年に餘る艱難辛苦に私は年こそ寄つたけれど今は多年の心願成就して復讐の時の來た嬉しさに、昔貴方に分れた時の顏に若がへりました、能く御覽成さい此顏を、幾等貴方が惡人でも、私の許嫁お露を妻としてて以來此顏を夢に見て、寢覺の惡かツた曉も有つたでせう、此顏に魘された夜も、無かツたのですか」啾々と暗に響く鬼の言葉とても斯まで物凄くは聞えぬだらう、將軍は最早退くにも場所無くして、徒に首をのみ背へ反らせたが漸くにして壁を探り、倒れ掛る身を支へ支へて、室の出口の戸の方へ躄り寄ツた、其間も絶えず口に何事か云つて居るけれど、喉が渇き盡して聲も爲さぬ、出口の所にまで到ツた時、初めて聲と爲ツて伯爵の耳に聞取る事が出來た、其れは「アヽ團、友太郎、友太郎」と云ふので有ツた。
爾して到底人間の聲とは聞えぬ呻きを殘して轉がる樣に茲を逃げ出し、玄關に待つ馬車の許まで行つて、馬車の中に空しく二口の長劍の番して待つて居る從者の扶け上げられ、其まゝ我家へ逃て歸ツた、吁我家は今何の状ぞ、將軍は顛倒して表口までは行く能はず、裏門に馬車を着けた、茲には妻露子に息子武之助の落ちて行かうとする辻馬車が着いて居る、何の意味かは知らぬけれど、唯だ我が一家の沒落と云ふ便り無い感じのみが胸に滿ちた、是もヤミナの城を沒落せしめた報ひとして天が巖窟島伯爵の手を借りて配劑する[の]で有らう、我家ながらも將軍は化物屋敷にでも入る思ひで猶も身震ひしつゝ二階なる我室へ上らうとすると上から足音が聞えて來る最早鬼胎に襲はれた身は此足音にも戰いて傍らに在る小室に身を避けた、爾と知つてか知らずにか此小室の前を通る二人は、露子と武之助である、露子「住み慣れた此家も名譽の爲には捨てゝ立ち去らねば成らぬ」全く涙聲に聞える「ナニ阿母さん、此樣な汚れた家は我家では有りませんよ」勵ますのは武之助である、聲と共に早二人は階段を下つて了つた。
母と子との此聲は全く將軍に對して最後の宣告である、舊惡は露見する、世間から爪彈きを受ける、到底此身を攻亡ぼさねば止まぬ意外の仇敵は巖窟島伯爵と云ふ名を以て現はれる、其 詰りに最愛の妻、最愛の子が、父に愛想を盡かし、我が家を我が家で無いと云ふて逃げ去るを聞く此上の不幸と云ふ者が有り得やうか、將軍は惡魔の相好で小室を出、自分の室へ馳入つた、此時裏門の外には母子を載せた馬車の軋り去る音が聞えた、母子の落ち行く先は何の樣な所だらう、此音で何も彼も終りを告げたと知つたゞらう、將軍の室の中で轟然一發、何事と疑ふ餘地の無い音がして室の硝子も破れ、其穴から濃い重い煙が出た、是れは將軍の自殺した短銃の彈が將軍の咽喉を射貫いて猶も硝子を打ツたのだ、流石に馬車の中なる露子夫人は車窓から振向いた、けれど兼て斯うだらうと期して居る武之助が「阿母さん他人の家に二階を窺くは見つとも無いものですよ」と推し留めて再び後をも見ずに立ち去ツたは哀れ。
巖窟王 : 二三一 將軍と伯爵・三
成ほど何も彼も知り合ふた間柄である、將軍の妻子さへ知らぬ事を伯爵は知つて居る、將軍は斯くと面と向ツて我舊惡を數へられ、宛も熱鐡を以て前額に我罪名を燒附けられた樣に感じた。
其れにしても斯くまで我舊惡を調べ上げて居る此巖窟島伯爵は何者ぞとの疑ひに堪へぬ「オヽ、惡人奴」と將軍は叫んだ、爾して更に「此身と命の遣取をする間際に、イヤ事に依れば此身を殺すかも知れぬ此間際に、此身の恥を數へ立てるとは、エヽ、貴方は何者です、此頃初めて逢つたでは無く、多分昔何處かで知り合つた人とは思ひますけれど、貴方が私を知つて居るほど私は貴方を知りません、貴方は、貴方は」と云ひ鋭く伯爵の顏を見詰たけれど猶ほ思ひ出す事が出來ぬ若し思ひ出したなら何うだらう。
敵を何物と看破り得ぬ悔しさに將軍は又絶叫した「知つて居ます、知つて居ます、貴方は惡魔の燭を以て私の暗い履歴を悉く讀んだのです、けれど、私の履歴は恐らく貴方の履歴ほど穢くは無いでせう、貴方は此國では巖窟島伯爵と自稱し、伊國では船乘新八と云ひ、マルタ島では又何とか別の名を用ひて居ました、榮華と贅澤に人の目も暈きほど身を飾り立てゝは居ても、決して私より以上の正直な人では有りません、此數々の僞名の外に必ず本名が有るでせう、其本名をお名乘りなさい、私は、貴方の胸に長劍で刺し貫いた上で、小氣味能く貴方の本名本姓を呼んで引導を渡さねば氣が濟みません、サア決鬪の前に「本名を本姓を」とて詰寄せた。
是ぞ伯爵が待設けた所である、伯爵の顏は青いながらも青い火の樣に照輝き眼も熱心に燃て居るかと疑はれた「心得ました」と唯だ短い言葉を殘し、急いで次の間に退いた、是は何の爲であらう、將軍が聊か怪しんで待つ間も無く伯爵は次の間で遽だしく我が衣服を剥り捨て、兼て蓄へて有る水夫の服を着け、水夫の帽を戴き、全く廿五年前、商船巴丸に乘て馬港へ歸つた時の姿と爲り、爾して水夫の癖を其儘に胸に手を組み、帽子の下からは長い黒い髮の毛を喰出させて雀躍りに踊る許りに勢で將軍の前に現はれた、將軍は猶も合點の行かぬまゝに此状を見詰て居たが、見るに從ひ、少しづつ合點が行き初めたと見える、眞に暗夜に幽靈に逢つた人とても將軍の此時の景状ほど顏に恐れを現はす事は出來ぬ、伯爵が一歩進めば將軍は一足退き、一歩又一歩、ついタヂ〳〵と背に蹌踉き室の眞中に在る卓子に到ツて漸くに身を支へた、けれど其足は其身を支ふるを拒む如くに震ふて居る。伯爵は若々しい聲で「將軍よ、イヤ次郎さん、私は數々の僞名の中で、唯一つの本名本姓を名乘りませう、之を名乘れば貴方も必ず合點しませう、イヤ名乘る迄も無く最う徐々思ひ出したでせう、廿年に餘る艱難辛苦に私は年こそ寄つたけれど今は多年の心願成就して復讐の時の來た嬉しさに、昔貴方に分れた時の顏に若がへりました、能く御覽成さい此顏を、幾等貴方が惡人でも、私の許嫁お露を妻としてて以來此顏を夢に見て、寢覺の惡かツた曉も有つたでせう、此顏に魘された夜も、無かツたのですか」啾々と暗に響く鬼の言葉とても斯まで物凄くは聞えぬだらう、將軍は最早退くにも場所無くして、徒に首をのみ背へ反らせたが漸くにして壁を探り、倒れ掛る身を支へ支へて、室の出口の戸の方へ躄り寄ツた、其間も絶えず口に何事か云つて居るけれど、喉が渇き盡して聲も爲さぬ、出口の所にまで到ツた時、初めて聲と爲ツて伯爵の耳に聞取る事が出來た、其れは「アヽ團、友太郎、友太郎」と云ふので有ツた。
爾して到底人間の聲とは聞えぬ呻きを殘して轉がる樣に茲を逃げ出し、玄關に待つ馬車の許まで行つて、馬車の中に空しく二口の長劍の番して待つて居る從者の扶け上げられ、其まゝ我家へ逃て歸ツた、吁我家は今何の状ぞ、將軍は顛倒して表口までは行く能はず、裏門に馬車を着けた、茲には妻露子に息子武之助の落ちて行かうとする辻馬車が着いて居る、何の意味かは知らぬけれど、唯だ我が一家の沒落と云ふ便り無い感じのみが胸に滿ちた、是もヤミナの城を沒落せしめた報ひとして天が巖窟島伯爵の手を借りて配劑する[の]で有らう、我家ながらも將軍は化物屋敷にでも入る思ひで猶も身震ひしつゝ二階なる我室へ上らうとすると上から足音が聞えて來る最早鬼胎に襲はれた身は此足音にも戰いて傍らに在る小室に身を避けた、爾と知つてか知らずにか此小室の前を通る二人は、露子と武之助である、露子「住み慣れた此家も名譽の爲には捨てゝ立ち去らねば成らぬ」全く涙聲に聞える「ナニ阿母さん、此樣な汚れた家は我家では有りませんよ」勵ますのは武之助である、聲と共に早二人は階段を下つて了つた。
母と子との此聲は全く將軍に對して最後の宣告である、舊惡は露見する、世間から爪彈きを受ける、到底此身を攻亡ぼさねば止まぬ意外の仇敵は巖窟島伯爵と云ふ名を以て現はれる、其 詰りに最愛の妻、最愛の子が、父に愛想を盡かし、我が家を我が家で無いと云ふて逃げ去るを聞く此上の不幸と云ふ者が有り得やうか、將軍は惡魔の相好で小室を出、自分の室へ馳入つた、此時裏門の外には母子を載せた馬車の軋り去る音が聞えた、母子の落ち行く先は何の樣な所だらう、此音で何も彼も終りを告げたと知つたゞらう、將軍の室の中で轟然一發、何事と疑ふ餘地の無い音がして室の硝子も破れ、其穴から濃い重い煙が出た、是れは將軍の自殺した短銃の彈が將軍の咽喉を射貫いて猶も硝子を打ツたのだ、流石に馬車の中なる露子夫人は車窓から振向いた、けれど兼て斯うだらうと期して居る武之助が「阿母さん他人の家に二階を窺くは見つとも無いものですよ」と推し留めて再び後をも見ずに立ち去ツたは哀れ。
巖窟王 : 二三二 又も蛭峰家・一
野西將軍の自殺で、伯爵の大願は先づ一部だけ成就した、所謂る漁師次郎に對する復讐が終ツたのだ。
思へば妙な復讐で有ツた、伯爵の恨みの深いだけに其 窘め方も酷かツた、彼の名譽を奪ひ愛を奪ひ、爾して其家を沒落させ、彼を廣い世界に身を置く所も無き迄にして悲歎と憤怒と絶望の中に自殺せしめた、而も其事柄が眞に天運の循環とも見ゆる樣に、自然々々と釀させて、谷に落入る轉石の勢で凄じい速度を以て其極度に逹した、伯爵が自ら其身をば天の使命を受けて人間世界に勸善懲惡の大活劇を爲すが爲に生存へて居る如く信ずるも無理は無い。
併し大活劇は之に終らぬ、之は唯初めの幕である、次には蛭峰にも及ぶだらう、段倉にも及ばねば成らぬ、蛭峰と段倉は、罪に於て野西將軍より重からうとも輕くは無い、何の樣な復讐が天降る事やら、今まで記した二百餘囘の物語りで、既に天運の準備が熟した樣に見えて居るから、讀者の中の烱眼な人逹には略推察し得た方も有らう、併し伯爵の運命と仕事とは人間の想像に超絶して居る、迚も推察などの屆く範圍では無さ相だ、話は是より又も蛭峰家、續いては段倉家などに移り、此兩家と伯爵との間に跨り錯綜れて進んで行く。
* * * * *
扨ても決鬪場の歸りに伯爵の馬車から降りた介添人の一人森江大尉は、其足で直に蛭峰華子を尋ねて行つた、是は此頃に至り孃の祖父野々内彈正から一週間に二囘づつ孃の許へ來て可いとの許しを得、父蛭峰の目を忍んで彈正の枕許で互に顏見る事に爲つて居る爲である、一週間に二度と云へば隨分繁々の逢ふ瀬では有るけれど思ひ思はるゝ同士に取つては唯の二日目が待遠く、今日が漸く其日とは爲つたので千秋の想ひで馳附けたのである、蛭峰の家は此頃の打續く不幸に何と無く陰氣な上に、此とき森江大尉を出迎へた孃の顏が毎に無く青褪めて見えた、森江は挨拶よりも先づ氣遣はしげに「貴女は何うか成さつたのですか、氣分にお變りは無いのですか」と、問ひながら彈正の室に導かれた、彈正の眼に嬉しげな光が現はれたは云ふ迄も無い、孃は座に着くが否や今の問に答へて「ハイ此兩三日少し頭痛が致しまして、其れに食物も何だか進みません、けれど祖父樣の言附で、有國醫師から祖父樣へ下さつた水藥を毎朝少しづつ戴いて居りますので――」祖父彈正への藥には何か劇藥が入つて居る樣に聞いた覺えも有る、森江は驚いて彈正の顏を見るに、氣遣ふに及ばぬと保證する樣な色が眼に在る、森江「爾ですか、其れには又――」華子「大層苦い藥ですよ、最初は小さい匙に唯だ一杯ヤツとの思ひで呑ましたが、矢張り祖父さんのお差圖で段々に量を殖し、今朝は其匙で四杯までに成りました」森江は彈正の意を[計?]兼て唯だ空しく調子を合せ「爾ですか、毒藥でも少しの分量から初めて、段々に呑増して行けば、後には二人の人を殺す程の量を一度に呑んでも左ほど徹へぬ樣に成ると云ひますから」孃は猶も前の緒を繼なぎ「餘り苦いので口の中に其苦さが殘ツてゞも居るのですか、今次の室で薄い砂糖湯を呑みましたのに其れさへ何だか苦い樣に思ひましたから半分呑んで止して來ました」砂糖湯が苦いとは、道理に於て無い事である、森江「其れは何か混物でも有つたのではありませんか」森江が怪しむよりも彈正は全く驚いた容子で其 眼が焔の樣に輝き初めた、けれど華子は爾とも知らず、「其上に何だか眩暈もする樣に感じました、最う少しで盃を取落す所でした」物を呑みて眩暈がするとは、先頃此家で米良田伯爵夫人が死に又老僕忠助が死んだのと同じ兆候では有るまいか、森江は爾とまでは氣附かぬけれど彈正は確に氣が附いたらしい、眼の焔は燃上る程に見えた、華子は漸く其れと見て「祖父さん、何うか成されましたか」問はれて「大變だ、大變だ」との言葉が眼の外に浮出る樣に現はれた、直に華子は例の通りABC文字の表を取り、詳しく祖父の意を問はふとしたが、此とき本家から下女が來て華子に向ひ「段倉男爵夫人と夕蝉孃と共にお出に成りました、直に客間へと阿母樣が貴女をお召です」段倉夫人の來たのは此頃噂の高い皮春小侯爵と夕蝉孃との間に縁談の纒まツた披露の爲に違ひ無い、其れならば顏を出さぬ譯には行かぬ、華子は祖父にも森江にも暫しと斷ツて座を立つた。
後に森江は彼のABC文字の表を取りて彈正に「華子さんの代りに私が貴方の御意中を伺ひませう」と云ひ表の文字を順々に指示しつゝ凡そ十分間ほどを費して漸く彈正の意味を解し得た、其れは「孃が半分呑だと云ふ苦い砂糖水の殘つた盃と其水を滴した水盤とを此室へ取寄せよと云ふので有ツた、森江は直に孃の侍女を呼び、其意を傳へると侍婢は平氣な顏で「其 盃のお砂糖湯は、殘つて居る分をお孃樣が呑乾してお出に成りました」森江「爾して水盤の方は」侍婢「其れは坊樣が家鴨に呑ませるとて水盤ぐるみ庭の方へ持つて行きました」半分呑みてさへ眩暈がしたと云ふ其砂糖水を呑乾したとは、全く砂糖水の苦さを我が口の爲と思ふたのであらう、米良田夫人も忠助も咽喉の渇くを訴へた所から見ると孃も渇したに違ひ無い、彈正は侍婢の返辭を聞くが否や忽ち眼に涙を浮べ、孃の今立去つた戸口を佶と睨み詰めつゝ瞬溌もせぬ、森江は左ほどに深く事情を知らぬから、彈正の涙を合點し得ぬけれど、若し合點せば孃が客間から生て歸るか否やをさへ氣遣ふ所だらう、全く彈正の眼は華子を死人と思つて泣くのらしい。
巖窟王 : 二三三 又も蛭峰家・二
祖父彈正が氣遣ふ程でも無いと見え、華子は死人に成りもせず、無事に客間へ歩み入ツた、茲には早や華子の繼母蛭峰夫人が段倉男爵夫人と其娘夕蝉とを待遇して居る。
兩女の來た用向は果して婚禮の披露で有ツた、唯だ聊か華子の異樣に感じたのは母の方が婿たる皮春小侯爵と此上も無く襃むるに引替へ肝腎の當人夕蝉の顏に少しも嬉しげな状の見えぬ一事である、爾ればとて別に羞づかしげな所も見えぬ此樣に冷淡で、幸福な婚禮を遂げることが出來るだらうか、婚禮と云へば女一生涯の大運命を決する瀬戸であるのに其間際に何うして斯うも平氣で居られるだらうと、華子は竊に怪しんで、果は我身に較べて夕蝉孃の心の雄々しさを感心した是は全く爾である、夕蝉孃は野西武之助をさへ嫌ツた程で日頃婚禮をば女の厄難の樣に思ひ其身は美術音樂を以て獨立するなどと男の樣な考へを以て居るのだ、其れだのに何うして皮春小侯爵の縁談に從ふ事に成つたのか、多分は父の方が深く娘の心を顧みずに取極めて、其上に母の方が一も二も無く小侯爵に惚込んで娘を煙に卷いて了ツたのだらう、此樣なのは世間に幾等でも例の有る事で有るが只だ餘り幸福に終るのは珍しいのだ。
其れは扨置き、華子は斯く一同と話など仕て居る間に、何時と無く氣分が變り、人の言葉も能くは聞分け得ぬ樣に成つた、次第に顏色まで變じて來た、其と第一に心附いたは段倉夫人で、尋常事では有るまいから直に室へ歸つて休むが好からうと勸め、次に繼母も成るほどと贊成したので、當人も客 兩人に詫を述べて此室を退いたが、頓て隱居所の廊下まで來ると纔に三段ほどの階を踏外し俯向けに打仆れた、其物音に先ほどから氣遣ふて居た森江大尉は飛んで出で、直に抱き起して改めると、當人は唯だ眩暈がしたと云ふのみである、此家で眩暈とは實に恐ろしい事の前兆なので、猶も心配して其まゝ彈正の室へ連れて入ツた、スルと一旦は心持好げに顏を上げ「私は先ア何で階段を踏み外すなどと其樣に茫乎して居たのでせう」と云つたけれど、是切りで又目を塞ぎ、力無く椅子に凭れた、此時彈正が何の樣な眼をして居るか、其等の事は見る暇も無く、直に大尉は聲を發し「誰れか、誰れか」と呼立てた、呼ばれて入來たのは先に死んだ忠助の後に雇はれた老僕と孃の侍婢であるが、二人とも今までの慘事に懲り、恐れ戰いて居るのだから、斯くよと見るより大尉の指圖をも待たず遽てゝ廊下に出で、之も「誰か早く來て下さい」と本家の方に向つて吐鳴つた、「何事だ」と本家から、同じく驚いて問ひ返したのは主人蛭峰の聲である、大尉は當惑して彈正の顏を見た、彈正にこそ一週間に三囘づつ孃の許へ來る事を許されて居る、蛭峰には内密だから茲で見咎められては大變である、彈正は其れと見て、眼を襖に注ぎ、其 背後に隱れよとの意を示した、是れは先に初めて此隱居所に來た時も隱れた場所である、大尉は脱いで置いた帽子と手袋を取るが否や、襖を開けて其背後に辷り入ツた、暇も有らせず、茲へ來たのは蛭峰である、彼は華子の、死んだ樣な姿を見て、「エヽ、今度は華子の順番が來たのですか」と云ひ、悲しみやら驚きやらに拳を握つたが、忽ち又心附て「何より早く醫者を呼びに遣らねば成りません」と云つた所で、先頃から大抵の召使は暇を取り、後に雇ふた召使は化物の住む家へでも來た樣に怖じ恐れ、殆ど三日とは居附かぬので、使ひに遣る者が無い「エヽ私が自分で行つて來ます」と云ひ、引返して家を出で、辻馬車に飛び乘ツて有國國手の家に急がせた、此時蛭峰の家を辭して外に出た段倉夫人は此蛭峰の騷々しい状を娘と共に認め、何事かと怪しんで呼留たけれど其聲は蛭峰の耳には入らなんだ。
蛭峰が去ると共に森江も襖の影から出た、彼も斯うして居る場合で無い、再び蛭峰が歸つては逃げ端を失ふから、其前に何とかせねば成らぬ、と云つて別に工夫も無い、直に最前の侍婢を呼び孃の介抱を托して置いて此家を出たが、斯る時の頼みとなるのは巖窟島伯爵より外には無い、先刻も別れるに臨み、何か力に餘る事が有れば直に頼んで來る樣に勵まされた、眞逆に伯爵とて神では無いから我身より以上の工夫が出る筈は無い者の、無限の金力は無限の勢力である、今まで伯爵の仕た事柄で人間以上の力を現はして居ぬ者は殆ど無い、此場合とても又何の樣な助力が出來ぬと限る者かと直ぐ其足で伯爵の家に行つた、丁度此時は伯爵の家から野西將軍が立去つて僅一時間の後である、知らず伯爵は何の樣な事を仕て居るやら。
巖窟王 : 二三四 又も蛭峰家・三
森江大尉の來た時、丁度伯爵は家扶春田路から野西將軍の自殺や其露子の落て行つた先などを聞き取つて居る所で有つたが、森江の名を聞いて直に春田路を退け、泰然と靜かなる顏色を以て大尉を迎へ入れた。
大尉は顏色を見て此伯爵が今も野西將軍と畢生の大爭ひをした後とは知る由が無い、直に自分が頼みの筋が有ツて來た旨を述べ、伯爵が快く耳を傾くるに勵まされて落も無く心配の次第を打明けた、唯だ蛭峰家と云ふ名前だけは包んだけれど、最初自分が其家の主人と出入の醫師とが毒殺の事に就て何か爭ひ居たるを聞きし事より今は其家に三人目の死人が現はれんとする状を語り「何とか伯爵、貴方のお力で、今死に掛けて居る不幸な娘を救ふてお遣り下さる工夫は有りますまいか」と訴へた、聞き終つて伯爵は曾て此大尉に向つて見えた事の無いほど嚴重な顏と成つて「其を救ふ工夫は有りません、蛭峰の家に其樣な不幸の續くのは、縱し毒殺にもせよ天罰だから」と云ひ切つた、大尉の驚きは一方ならぬ「何うして貴方は蛭峰の家と御存じです」伯爵「巴里中を見廻して貴方の話に適合するのは蛭峰家の外に在りませんから」眞に何うして斯う明かに何から何まで見極めて居るだらう、大尉が呆れて二の語を繼ぎ得ぬ間に、伯爵「華子孃が毒に死ぬれば其次は野々内彈正と云ふ祖父が殺される番に成るのです」大尉は腹立しい程の調子で「爾まで御存じなら貴方に其れを救ふ工夫が無くては成りません、何だつて貴方は」伯爵「ハイ天の配劑へ横合から手を出して邪魔を試みるは愚です」大尉「でも死ぬる者の身に成れば」伯爵「イヤ死ぬる者も、殺す者も私の目から見れば輕重は有りません、殺される者を見殺しにするが罪ならば、殺す者の目的を齟齬させるのも矢張り罪です」餘りの言ひ樣である、大尉は躍氣と爲つて「殺す者と殺される者と貴方には輕重が無いかも知れませんが、私に取つては大變な違ひです、今殺されて居る華子孃は私の許嫁です」伯爵は飛返らん許りに驚いた「エ、エ、那の華子が貴方の許嫁」大尉「ハイ未だ父蛭峰には知られませんけれど、私は命よりも華子を愛します、祖父彈正からは確な許しをも得て居ます、其華子が今死に掛て居るのですから其れで貴方に工夫が有るなら助けて下さいと願ふのです」伯爵は繰返して「あの華子が貴方の許嫁――貴方は蛭峰重輔の娘を愛するのですか」と問ふたまゝ一言をも發せずに大尉の顏を睨み附けた、眞に大尉は是ほど威嚴の有る恐ろしい眼光に接した事は無い、何だか自分の身が小さく蹙んで了ふ樣に感じた。頓て伯爵は俄然として後悔の色を浮かべ「アヽ餘り人の災難を冷淡に見過ぎたので、天が誡めを下された、人の災難が我が身の災難とは成つた、吁森江さん、森江さん、貴方の許嫁と爲らば、私は華子を自分の娘の樣に思はねば成りません、唯嘆いて居ても甲斐の無い事ですから、救ひませう、救ひませう、ナニ森江さん私が引請たから、安心なさい、斯う云つて居る今が今、若しも華子が未だ死に切らずに居るならば決して殺しません、ハイ私が助けます、毒藥の働き方が私には能く分つて居ますから請合ひます」
何の樣にして救ふかは知らぬけれど大尉は深く伯爵を尊敬する丈け、此言葉に間違ひは無いと安心し、猶ほ念をも推し又説明もして、彌が上にも頼み込んだ。
* * * * *
其れは扨て置き辻馬車に乘つて有國國手を尋ねて行つた蛭峰も殆ど森江と同じ情である、彼は案内を請ふさへ悶かしと直に國手の室に躍り入り「大變です、三人目の死人が出來掛ました」と叫んだ、國手は兼て蛭峰を誡めた通り、三人にも四人にも及ぶ事を期して居た程だから直に合點して「今度こそは蛭峰さん貴方の大檢事たる職掌としても事の起りを公に詮議せねば成りますまい」蛭峰は泣かぬ許りの聲で「詮議します詮議します、今度こそは――ですが國手、今度貴方の推論と違つて居ます、斃れたのが華子です」華子の名に、初めて國手は驚いた「エ、華子自身が――アヽ其れで毒害の本人を華子かと疑ふた私の推論は間違つて居て先づ目出度いイヤ其華子が毒に逢つては目出度い事も何にも無い、其れにしても詮議は詮議ですから貴方は大檢事と云ふ職掌をお忘れ成さるな」と云ひ、更に、「最う手遲れかも知れませんけれど、サア直に出張しませう」
斯う云つて國手は、蛭峰の乘つて來た辻馬車に同乘し、蛭峰の隱居所に馳せ附けて、何より先に華子の身體を診察したが、全く九死に入つては居るが未だ死に切ては居ぬ、蛭峰は此診斷を聞いて「エ、未だ死に切て居ぬとは、エヽ何たる心細いお言葉でせう」とて泣いた、追つては死に切るとの意味が國手の言葉には籠つて居る樣にも聞えるのだ、國手は更に華子の侍婢から彼の苦い砂糖水の一條などを聞取ツて、益々不審の體と爲り「兎も角も感じ易い女の身で、一縷だけでも死に切らずに居るのが合點が行かぬ、天祐とでも云ふのでせう、何にしても手當をするは今の中です」とて手早く處方を認めて蛭峰に渡し「之れは貴方が自分で藥劑師の許に行き人手に渡さずに持つて歸つて服用せしめねば可ません」人手に渡せば何の樣な工夫で毒を混ぜられるかも知れぬとの意が意味の中に明白である、蛭峰は「勿論です」と答へて直に自分で飛び出した。
國手は再び華子を診察し益々不審に堪へぬ如く首を左右に傾けて考へたが、遂に彼のABC文字の表を取り、彈正に向ツて聞いた、其結果として分ツたのは、彈正が此頃華子の身を氣遣ふて、自分の用ふる貌律矢の入つた水藥を毎朝少しづつ量を殖して分け與へ今朝は四匙まで服さしめたとの事である、國手は手を打ち「其御用心が悲しくも功を奏しました、其れが爲に華子は未だ死に切れずにゐるのです、如何ほど微たりとも命の繋がツてゐる間は即ち希望が繋がツてゐるのです」とて彈正を慰め、更に口の中で「是で二重の事柄が明了した、確に此家に毒害者のゐる事と、其毒藥が兼て見拔いた通り貌律矢である事」と云ゝも終らぬ所へ蛭峰夫人も來た、夫人の且驚き且悲しむ状は夫蛭峰よりも誰よりも深い樣に見えた。
* * * * *
此日の猶ほ暮れぬ間に、此蛭峰の隣の家へ引つ越して來た人が有る、何うして今までの住人を立退かせたか知らぬけれど、一年分の前家賃で借入れたとの事であるが、家の土臺が朽てゐるとの口實で直に大工などを入れ修繕に取掛ツた其物音が彈正の隱居場へまで聞えて來る、抑借主は誰だらう、伊國の僧侶暮内法師と云ふ事である。
巖窟王 : 二三五 段倉家・一
蛭峰家の隣に越して來た暮内法師が何をするか、華子孃の運命は何うなるか、是は暫く後の事に讓り、話頭は段倉家の事柄に移る。
既に段倉夫人が蛭峰の家へ知らせて來た通り段倉孃と皮春小侯爵との縁組は全く話が極り愈々土曜日の夜を以て段倉邸に約定取替はせの式を行ふ事に成つた。
約定の取替はせは殆ど婚禮と同じ事である、其翌々日を以て婚禮するのだ。
段倉男爵は此婚禮を以て、傾き掛けた我が銀行の信用を囘復せんとし、大に其式を盛にする計畫を定めた、凡そ巴里の貴顯紳士で段倉家から此式場に列なる可き招待状を受ぬ人とては無い程であつた、巴里全體が段倉家に集まると云つても可い。
花嫁の婚資が五十萬 法、是さへ既に驚く可き程であるのに花婿の持參金は其六倍三百萬 法と云ふのである、勿論巴里中の人々が羨みつゝ口々に噂した、是だけの金は雙方が約定取替はせの式場へ持つて行き、調印と共に公證人の手へ渡し、新夫婦の名義を以て段倉銀行へ預け入れる定めである、併し是れは唯差當りの金額である、婚禮が濟んだ後に花婿及び其父から段倉銀行へ預ける金は何れほどの高に及ぶか知れぬ先祖代々皮春家が吝嗇と云はるゝほど儉約して、或は穴倉に蓄へ或は地の下に埋め或は井の底に沈めなどして有る無數の金が悉く段倉銀行へ移り、鐵道や其他の事業に用ひて利殖せられる事に成るだらうとは、耳の早い人々の密々話である果して其通りになる日には全く株式市場や金融界の相場を狂はせるに足るだらう。
とは云へ此羨むべき縁談は、少しの骨折も無く熟した譯では無い、段倉男爵が夕蝉孃を説き附けると云ふ程の面倒にも及ばずして、唯父の威光を以て推し附ける事も出來やうけれど、孃は仲々に氣の強い質で、兼て結婚と云ふ事を嫌ひ、其身は音樂を以て終身獨立すると云ひ、數年前から網里女史とて其道に堪能なる婦人を内教師に雇ひ、猶ほ其上に畫をも習ひて、今では隨分、畫と音樂と孰れを職業としても身を支へられる丈の腕前には成つて居る、爾して日頃望んで居る所は、何處か伊國邊へ修業に行き音樂道の奧義を究め度いと云ふに在つて、時々網里女史に其相談を持掛ける由である、斯樣な娘を説くのであるから段倉も一通りの力では行かず、此數日前に及び、終に我が銀行の實際の事情を内明け折入つて頼み込んだ。
段倉銀行の大約の内幕は讀者の知る通りである、西班公債の失敗に引續き東方の取引銀行が何う云ふ譯か不意に二ヶ所まで破産して少からぬ影響を受け、金を引出す人のみ有つて拂ひ込む人の更に無い有樣とは成つて居る、斯樣な場合に立至つては平生幾千萬の融通を自由にし殆ど金の利殖法に困る程の大銀行でも、意外に早く絶命する者で、平生の取引が廣ければ廣いだけ、益々其危險が多く、愈其死に際が脆いのだ、殊に段倉男爵が心を痛めて居るのは兼て巴里市慈善協會から委托せられて居る五百五十萬と云ふ大口の拂戻しの期限に差迫つて居る一事である、疑ひ深い同業者の中には段倉銀行が無事に此期限を通過し得るや如何にと内々氣を附けて居るも有る程ゆゑ、男爵は必死の力を以て其れ丈の金の工面に掛り、漸く關所を越えられる丈の見込がツイ兩三日前に附いたものの、此金を無事に拂ひ出した其後が恐ろしい、其時こそは皮春小侯爵の持參金を利用する外に活路が有り相にも思はれぬ。
其代り結婚の約定が無事に濟みさへせば直ちに取引先の思惑も一變し、其れにて又兼て許可を得て居る鐵道敷設の企業も有る事ゆゑ、三百萬の金は一週日の中に其十倍の實益と爲つて、段倉銀行が何の破産をも知られずに今までの地位を支へ得るは無論である、躓くに早く起き直るのも亦早いのが此道の常である。
段倉男爵は是だけの實際を、娘の心に分るだけに、イヤ暗き所は實際よりも暗く殆ど恐れを抱かしむる程に、又明るい所は實際よりも明るく嬉しさに堪へざらしむる程に、言葉巧みに説いた爲め、孃も遂に我を折つて父の意に從ふ事とは爲つた、イヤ從はねば成らぬ事とは爲ツた。
併し孃が心の底には猶だ何だか解け切れぬ所が殘つて居る「私は少しも安心する事が出來ません、野西武之助とても那の通りでは有りませんか、若しも急いで婚禮を濟ませたなら、今私は何う成つて居るでせう、世間からは笑はれ辱められ、身の置き所も無い程だらうと思ひます、此事を考へると婚禮と云ふ言葉を聞く度に私は身が震へますよ」と云ふのが孃の漸く承知した後の愚痴でも、蟲の知らせると云ふ者では無からうか、野西武之助との縁談を破ツて皮春小侯爵の妻と爲るは水を逃れて火に入る樣な者では有るまいか、若し巖窟島伯爵に孃の此言葉を聞かすれば、女の神經の靈妙の作用に驚き、何の樣な顏をするだらう。
巖窟王 : 二三六 段倉家・二
「なんの、野西武之助は那の通りでも、此父の目鏡に叶つた皮春小侯爵に限つては間違ひは無い、全く和女が生涯を托するに足るのだ」と段倉は娘の愚痴に對して慰める樣に言ひ切つた、夕蝉孃は別に慰められた容子も無く「ナニ阿父さん、私が婚姻の約定書に調印さへすれば其れで好いのでせう、其後で那の方に生涯を托するか托せぬとは私の勝手では有りませんか」何だか調印はするけれど婚禮はせぬと云ふ樣にも聞える、段倉は目を圓くし「何だ、調印はしても生涯を托さぬとな、其樣な奴が有る者か、調印が即ち婚禮ではないか婚禮が即ち生涯を托すると云ふ者では無いか、調印はしたが婚禮はせぬと云ふ譯には行かぬ」孃「ナニ調印も婚禮もするのですよ、何でも貴方のお言葉の通り、段倉銀行の助かる樣にはしますけれど、其後は私の隨意でせう」何だか眞に婚禮する氣が無い樣に聞えるけれど、餘り奧の奧まで強附けては折角承知させた事を又打毀す恐れが有る、實は親ながらも孃の一方ならぬ強情を恐れて居るから成る可くは無事に機嫌を取つて置かんと「爾さ何でも約定が圓滿に運んで此難場を逃れる事さへ出來れば其れで好い、愈段倉銀行が第一流の信用を支へて父の事業が滯り無く進む樣になれば、父は何の樣にでも和女に禮をし、和女の云ふ事をも聞きますよ」孃は何やら獨り頷き「兎に角調印に滯りは有りませんから其れ丈は御安心成さい」と奧齒に物の挾まツた樣な言葉を殘して去ツた。
斯る間に孃の所天たる可き皮春小侯爵の方は何の樣な事をして居るだらう、彼は自分の巧な掛引で愈々巴里第一流の銀行家から妻を得る迄に漕附けたのは、勿論嬉しくて成らず、此婚禮が即ち自分の身に大保險を付けると同じ事で、是さへ濟めば又と其身の破滅する樣な時は來ぬと、唯だ喜びに滿ちて居るけれど、調印の時には三百萬の大金を積むと云ふのが聊か氣懸である、自分の身代とては月々巖窟島伯爵の手から出る五千金の外に何にも無い、唯伯爵の言葉を當にし其時までに何うか成る事と信じて居るけれど、未だ其三百萬が父皮春侯爵と云ふ名前で手許へ屆いた譯でも無く、又巖窟島伯爵から受取つた譯でも無い、爾して婚禮と云ひ調印と云ふ事は早目の前に推し寄せて居る、何でも今一度伯爵に逢ひ、堅く頼み込んで置かねば成らぬと、二度も伯爵を尋ねたけれど不在で有つた、三度目は愈々今夜が調印と云ふ其日の朝で有ツたが、伯爵の邸を指して行く道で丁度伯爵が何處からか馬車に乘つて歸るに出逢ふた、小侯爵は直に其馬車に寄り「伯爵、閣下にお願ひが有りまして幾度も御留守へ伺ひました、失禮ですが丁度幸ひですからお馬車の端へお乘せ下さいお宅へ着く迄に話して了ふ丈けの短い事柄ですから」若しエリシーの大通りを伯爵の馬車に相乘して行く事が出來れば唯其れ丈でも金錢に替へられ程の大信用を得られる譯だ、日頃の伯爵ならば一も二も無く「サア此れへ」とて座を讓る筈で有るのに、唯簡單に「後からお出なさい」と何だか無愛想に言ひ切つて了ツた、併し後からでも「來い」との一語が有る丈は安心だから、直に續いて伯爵の邸へ行き、恭しさの中へ嬉しさを混雜て「第一閣下に喜んで頂かねば成りません、愈々夕蝉孃と今夜結婚の調印式を擧げることに成りました」伯爵は善いとも惡いとも、口にも顏にも現はさず、單に「其れから」小侯爵「就きましては父公爵は露國へ行くとて先頃出發したまゝ未だ歸りませず、誰か父の代りに父分として私を導いて下さる方が無くては不似合ですから何うか貴方に――」彼は先にも記した通り内々伯爵を自分の誠の父だらうと推量して居る、此言葉で其れを試す事も出來るのだ、伯爵「何うか私に其父分を勤めて呉れと云うのですか、其れは出來ません」小侯爵は父に甘える子の樣に「何うか爾仰有らずに」伯爵「イヽエ、可ません、第一私は初めから此婚禮に不贊成です、貴方へも段倉氏へも、幾度か其旨を告げました」第一流の大金持との縁組を不贊成とは、流石眞の父だけに是よりも更に立ち優る縁談を考へて居るのか知らん、併し爾うまで慾張つて待つては居られぬ「でも今更破談にも出來ませんから御不滿足でも何うか父分を」伯爵「私が其れを勤める事に出來ぬ第二の理由は、私は土耳古にも埃及にも幾個の后宮を有し、數十人の妾を蓄へて居ます、此一夫多妻の實行者が、一夫一婦の制度を取る此國の婚禮へ、客として招かれるは格別、父分などとして後で何れほど非難を受るかも知れません、貴方に父分に成つて呉れと所望せられるのは五百萬の金を貸せと云はれるよりも辛いのです、金なら何うでも成りますけれど」叱るのか勵ますのか譯が分らぬ、小侯爵は世に云ふ牡丹餠で頬を打たれる樣な氣持で直に其金と云ふ語に獅噛み附き「ハイ金も願はねば成りません、調印の時に積む三百萬の金が、愈父から來るのでせうか」伯爵「其れは來ませう父上皮春侯爵が送ると云はれた以上は必ず途中に在るのでせう」小侯爵「若し其着くのが間に合はぬ時は」伯爵「調印を延べても好いでせう」此冷淡な言葉にが悸として「其れは出來ません、既に巴里中へ招待状まで出しました、貴方のお手許へも來て居ませう」伯爵「爾です來て居ます、成ほど日取は今更替へる事が出來ず、其れでは斯うしませう、私の考へでは必ず調印の間際に其席へ屆く事を、父上が取計ツて有るだらうと思ひますけれど若し着かぬ時は、左樣さ私が用意としてロスチャイルドの三百萬の引出切手を衣嚢へ入れて行きますから、其れを貴方に渡しませう」小侯爵は浮び上ツた「オ、阿父さん」の言葉が我知らず口まで突いて出たけれど父の方で隱して居る祕密を此方から破る樣にして不興を受けては元も子も無くなるとの念が、流石 際疾い場合に慣て居る丈け此咄嗟の場合に起り、思ひ直して「イヤ此件に付き閣下の御盡力は謝する言葉が有りません」伯爵は之をも聞き咎め「此件に付き何を私が盡力しました、今も云ふ通り此婚禮に私は徹頭徹尾の反對者では有りませんか」小侯爵「ですけれども最初私を段倉にお引合せ下さツて」伯爵「之は怪しからぬ、何時私が引合せました、單に私のオーチウルの晩餐會に招かれて、其席で貴方は自分で段倉と話を初めたでは有りませんか、私は引合せた覺えが有りません」小侯爵「爾ですけれど、私が皮春家の息子と云ふ事も、貴方が誕生證書まで取寄せて證明して下さツて」伯爵「オヤ其れも聞違ひでせう、那の書類は柳田卿から貴方に渡して呉れとて送つて來たのを、私は唯だ其頼みに從ツて貴方へ渡した迄の事です、柳田卿からは縱し禮を云はれる事は有らうとも貴方から謝せられる道は有りません」小侯爵「ですが月々の小遣ひも下さツて」伯爵「イヽエ小遣ひとても私は貴方に一錢も遣つた事は有りません、貴方は自分の父上の許した丈しか使ツて居ぬでは有りませんか、今夜の調印に縱しや三百萬を立替るとても其れは矢張り柳田卿への友誼の爲で、貴方の爲では有りません、直に其金は皮春侯爵から利子を付けて返して貰ふのですから、私は唯だ金貸の本分として自分の儲け爲事をするに止まるのです」斯う餘所餘所しく云ふを聞いても小侯爵の心に父と云ふ念は失せぬ、父なればこそ、此樣に不信切らしく見せて信切にして呉れるのだ、彼は唯だ柔順に「孰れにしても私は謝する言葉を知りません」唯だ柔順にして他日貴方から謝する事を許される時を待つ他は有りませんと全く我父の膽の底へでも徹へるだらうと云ふ積りで其實全く見當違ひの言葉を殘して去つたは笑止である。
後で伯爵は唯頬笑んだ、全く段倉家にも天の裁判の落下する時が來た樣だ。
巖窟王 : 二三七 段倉家・三
慾、慾ほど人の眼を暗ませる者は無い、大抵の賢者でも慾に心が動く時は愚人にも笑はれる程の愚なる事をする、今、段倉男爵が皮春小侯爵と云はるゝ一少年を我娘夕蝉の夫と定めたるが如き全く其適例である、如何に伊國の舊家と稱すればとて、又如何に巖窟島伯爵と懇意らしい間柄ならばとて、今までの素性經歴が分つてゐる譯では無し、實に何處の馬の骨とも知れぬ者と云ふ可きである。
イヤ何處の馬の骨でも無い、コルシカ島に育ツた私生兒の辨太郎である、何の樣な罪、何の樣な惡事を犯してゐるか、段倉男爵こそ知らぬ、年に似合ぬ長い履歴を持つてゐて、若しも其筋に知られたならば殆ど首が二個有つても足らぬ程の男である、其れに段倉が惚れ込むとは、惚れ込まねば成らぬ樣に配劑する人が有るにしても實は慾心に誤られたので有る一旦惚れ込んだ後は、譬へば巖窟島伯爵の如きが諫めれば諫めるだけ益々熱心の度を増すのだ、一つは彼の運命が傾いてイヤ不義の富貴の盡る時が來て當然の天罰の加はると云ふ者で有らうけれど、餘り氣の毒だ。
彼段倉の見込みは唯だ此婚禮に依つて我が銀行の財政を救ふと云ふに在るけれど、其れは慾の慾たる所以である、無事に行つた所で一家の汚辱、若し無事に行かぬ日は耻の耻、何方にしても最う逃れぬ災難の網に罹ツてゐるのだ、巖窟島伯爵が獨り頬笑むも無理では無い。
其れは扨置き愈調印式の當夜とは爲つた、調印式は即ち婚禮の披露の式なのだ、案内の時間は夜の九時と云ふのだけれど、其時間に行つては混雜の爲め段倉夫婦及花婿花嫁へ充分の歡びを述べる事が出來ぬも知れぬと手廻しの好い人逹は宵の程から詰掛て定刻前に幾百幾千の客が集つた、式が濟めば饗應も有る舞踏も有る、徹夜の宴に歡樂と云ふ歡樂は仕盡すのだ、勿論 其れ〳〵ゞ用意も行渡りて居る、第一の客間なる大廣間の中央に聊か高く式場を設け、第二第三の客間まで見るも暈き程に飾り立て、照り添ふ燈火の光りに不夜城の景状も想像せられる、式場の近くに集ふのは孰れも當家と特別の懇意か又は世間に最も高く尊敬せらるゝ人逹で、段倉夫婦及花嫁花婿も大抵は其邊を離れぬ樣に勉めて居るらしい、斯くて愈々九時の時計の鳴る頃には、入來る人の數 彌が上にも多く、一々に其姓名を報告する取次人の聲も能くは聞分けられぬ程であつたが、其中に一同をして忽ち鳴を鎭めさせたのは「巖窟島伯爵」との一聲である。
別に伯爵の衣服が目立つと云ふ譯では無い、却つて他の人々より質素な程に作ツて居るけれど其勢は磁石が鐡の砂を吸附ける如くである、主人は固より來客の中にも伯爵の傍に馳寄つたのが幾人と云ふ數を知らぬ、伯爵は一樣に此人々へ短く挨拶したが、聊か他より長かツたのは蛭峰夫人へ對してゞある、尤も外の人は大抵夫婦連だのに此夫人が單身で來て居る爲め特別に慰め問ふたので有らう「蛭峰さんは何方に、イヤ令孃は何う成されました」夫人は娘華子が過日來病氣で今以て床を離れ得ぬ事から蛭峰が公用の爲に妨げられて來會し得ぬ旨を答へた、公用と聽いて伯爵は聊か顏色を變へ、何事をか云はふとしたけれど丁度此所へ網里女史に手を引かれて花嫁夕蝉孃が來た爲めに言葉を止めた。
花嫁の挨拶に續いて網里女史も伯爵に向ひ「先日は伊國の音樂師に宛て紹介状をお認め下さツて有難う御座います、孰れ遠からず彼國へ行きますからお蔭樣で萬事都合好く道が開けるだらうと思ひます」と云ふた、斯くて女史が退くと共に伯爵は又蛭峰夫人に向ひ、今言ひ掛けた言葉を繼がふとしたのに、今度は花婿小侯爵が近づいた、彼は調印の時刻が近づくに連れ、父より送る三百萬の大金が最う來るか、最う來るか、來れば何の方面から現はれるだらうと只管ら氣を揉んで居たけれど、伯爵の顏を見てヤツと安心した、確に伯爵の衣嚢には晝間約束した通り三百萬の手形が一枚入つて居るのだから其れを忘れられては困る、忘れさせぬ用心の爲め彼は「先刻のお言葉で私は生返つた心地が致して居ます」と婉曲に念を推した、伯爵は輕く頷いたが、其意味は「ナニ三百萬の金よりも最と豪い材料を持つて來た」と云ふに在つたは、後に至ツて合點せられた。
小侯爵の去ると共に伯爵は三度蛭峰夫人に向ツた、けれど又も遮られた、今度は公證人が「是より愈々調印に取掛ります、其順序は第一が段倉男爵、第二が夫人、第三が皮春小侯爵の父上の代人、第四が皮春小侯爵、第五が夕蝉孃」と呼び上た爲であツた、此聲に續き伯爵は直に段倉の許に行き其耳に何事をか細語いたが多分「皮春小侯爵より提供する三百萬圓は私が立替ます」との言葉で有つただらう、兎に角小侯爵だけは爾う合點した。
客の中には伯爵が三度まで蛭峰夫人に云はうとして言ひ得なんだ事柄は何で有らうと怪しむ人が隨分有つた、是等の人々は只管伯爵と蛭峰夫人とに目を注ぎ耳を傾けて居たが、未だ伯爵の口を開く場合は來ぬ、伯爵よりも先に段倉夫人が蛭峰夫人を占領して「今段倉が調印しますと次は私ですから、何うか貴女が附き添ふて來て下さい」蛭峰夫人「ハイお言葉に從ひませう、けれど蛭峰が公用の爲に來て居ぬのが殘念です、夫婦でお附添をすれば好いのですのに」段倉夫人「本統ですねえ、何の樣な御用か知りませんが私共の爲に一夜だけ公用を延ばして下さつたとて好いでは有りませんか、私は蛭峰さんを恨みますよ」伯爵は兩夫人の間へ進んだ「イヤ蛭峰さんよりも私をお恨み下さい大檢事に急に公用の出來たのは全く私の不注意の爲です」是れだ、是れだ、伯爵が三度まで言ひ掛けたは是れなんだ、何で伯爵の不注意から大檢事に其樣な公用が出來たのだらう、凡そ何の場合に於ても大檢事の公用と云ふほど、人に物凄く聞える者は無い、定めし何か恐ろしい犯罪が露見して來たのだらうと誰も思ふのだ、先刻から怪しんで居た人々は勿論其他の人まで釣込まれて、唯だ伯爵の次の語如何と耳を傾け、忽ち前後左右に多勢が立ち集まツた。
巖窟王 : 二三八 段倉家・四
大檢事の公用とは何であるか、巖窟島伯爵が何の樣に其れに關係が有るか、是れ一同が怪しまれずには居るられぬ所である、巖窟島伯爵の言葉は唯だ蛭峰段倉兩夫人に對しての私語であるけれど傍に居る人々は公の演説をでも聞く如くに鎭まツた、爾して其靜かさが段々四方に傳へはツて、擴がツて行く樣であツた。
中にも花婿の皮春小侯爵は最も耳を澄した一人である、彼は何氣なく構へては居るけれど其實氣遣はしさに堪へぬ心を以て聞いて居る事は、其 眼が巖窟島伯爵の方に注ぐよりも、室の總ての方面に注ぎ、眞逆の時の逃道と搜して居る樣に見えたので察せられる、全體檢事とか警察官とか云ふ名を聞いて、第一ん耳を傾け又第一に用心するのは何の場合に於ても其身に暗い所が有る人である。
伯爵は我が言葉が大抵の人の注意を引いた事は見濟まし、其れとは無く口を開いた
「實はネ、先夜私の家に忍び入り爾して立去る時に變死した盜坊が有つたでせう」蛭峰夫人「爾です、爾です、新聞にも出て居ました」段倉夫人「新聞どころか今でも世間で言ひ傳へて噂して居るでは有りませんか」巖窟島伯爵「アノ盜坊の變死は、繩梯子で塀から降りる所を、下に待つて居た相棒が刺し殺した者だらうと警察でも鑑定を附たのです」段倉夫人「爾です、爾です」答ふる所へ段倉も調印を濟まして徐々と歸つて來た、伯爵の語は次の如く進んだ。「警察官が其現場へ來て、彼の傷所を檢たむる爲め、着る物を脱がせましたが、檢ため終ツて再び其着物を着せた時、何たる疎匇でせう其中の短袍だけを取落して去つたのです」取落したのでは無い實は伯爵、イヤ其時の暮内法師が、警官の來ぬうちに取除けて置いたのだ、茲まで聞いて皮春小侯爵の目づかひは、誰も氣が附かぬけれど益々不安心の状に成つたのみならず實際其身を人の後へ、後へ、と少しづつ引下て段々戸口の近い所へ寄つて行く樣に見えた、伯爵「所が今日に成ツて私の下僕が下水の溝の中に其 短袍の落て居るのを引上げたのです、見ると總體が血塗れになツて、脇の方には短劍で刺した穴まで有るのです」貴婦人の幾人は恐ろしげに身をも震はし又聲をも發した、併し恐ろしいだけ猶聞き度い伯爵「其れを下僕が檢めて更に其 衣嚢の中から一通の手紙を引出しました、之は其奴が郵便に出す積りで、未だ出さずにゐたのだと見え印紙までも貼つて有るのですが、何うでせう、其宛名が」と云つて今座に着いた段倉を顧み「段倉さん貴方に宛て有つたのですよ」段倉とても決して良心の清い人間では無い、過た昔を顧みると何の樣な惡人とも掛り合が有るかも知れぬ、彼の顏の色は目に附くほど變ツたけれど流石は事に慣れてゐるだけ直に取直して最も平な容子んい返り「銀行頭取と爲つて居ますと、譯の分らぬ奴等が色々の無心状を送りますので」と旨く反らせた、段倉夫人も日頃夫と罵り合つてのみ居るにも拘らず、此樣な場合には夫の不名譽が自分の身に及ぶから、幾等か援兵と云ふ意味で「では伯爵、其お話は、今夜蛭峰さんが茲に出席なさらぬ事柄とは關係が無いでは有りませんか」餘計な枝葉を話さずに早く筋道だけをお話し成さいとの横槍である、伯爵「何しろ非常な證據物件だらうと思ひましたから直に其 短袍を手紙の入つたまゝ蛭峰大檢事へ送つたのです、今夜大檢事が茲へ來ぬのは、至急に其事を取調べる爲に相違有りません、何しろ段倉さん此巴里に於て最も私の愉快に感ずる事の一つには、犯罪事件が手早く取調られ罪の委細から連累の範圍が容易に分るに在りますよ、貴方に宛た手紙は有つても勿論貴方の顏さへも知らぬ奴だと云ふ事は今頃蛭峰大檢事の手で能く分つて居るでせう」とて異樣に慰めた、併し彼の曲者が滿更ら段倉の顏さへも知らぬ樣な者で無い事は、其名の分ると共に蛭峰に分るだらう、先ほどから後へ後へと退つて居た皮春小侯爵は連累の範圍が容易に分ると聞いたとき、屹と伯爵の顏を見たが、彼は人の顏色など讀む事に妙を得て居るだけ、伯爵の是等の語が深い目的無しに出て居るので無いと見拔いたか、第一の客室から早第二の客室へ辷り入つた、何だか此婚禮は圓滿に終りさうに見えぬ。
巖窟王 : 二三九 段倉家・五
伯爵の話は是れで略一段落を告げた、今夜蛭峰大檢事の來ぬ仔細は先づ分つた、段倉夫人は直に立ち蛭峰夫人に連れられて調印臺に進んだ。
段倉は猶氣に掛る所が有ると見え、小さい聲で伯爵に向ひ、「ですが其殺された奴の名は何と云ひます」伯爵は能くは記憶せぬ體で「何だか變な名でした、爾々毛太郎次と云ひました、今まで既に懲役に行つた事の有る奴だ相です」段倉の顏は聊かだけれど又青くなつた、伯爵は此時 四邊を見廻して、初めて氣の附いた樣に「イヤ詰らぬ話をして皆樣のお耳を涜しました、斯まで皆樣が熱心に聽いて居るとは思ひませんでした」と詫るのも無理は無い、全く滿堂の客が聲を潛めて伯爵の話しに聞入つて居たのだ、其中に調印の式は進み、段倉夫人は再び座に歸り、更に公證人の「小侯爵皮春永太郎君」と呼び立つる聲が聞えた、調印は彼の番である。
「小侯爵」「小侯爵」「オヤ、小侯爵は何處に」と客は口々に訝かり問ふた、今まで確に此邊にゐた小侯爵の姿が見えぬ、客の中の少年紳士等は小侯爵とは隔て無く交はツてゐるを自慢として「永ちやん」「永ちやん」と略稱をさへ呼び立てた、段倉は眉を顰めて立上り「小侯爵は何處へお出成さツたでせう調印の順番が來たからお呼び申せ」と給使の者に云ひ、其語調を以て只管ら小侯爵が深く尊敬せらる可き人なるを示した。
此時忽ち客の群は、入口に近い邊から人波を打つて騷ぎ初めた、ツイ今まで伯爵の話に聞入つて鎭まり返つてゐた状とは全くの違ひである、何の爲、何事と、奧の方にゐた人々は怪しみ合つたけれど仔細は分らぬ、孰れも足を爪立て人の頭の上から入口を見やうとした、爾して只事では無い、火事か、喧嘩か、イヤ其樣な事も此嚴重な席ではある筈が無い、「何だ何だ」と聲は波の樣に八方に擴がツた。
併し長く怪しむ間は無かツた、仔細は頓て人々に能く分ツた、此婚禮の席へ捕吏が踏込だのである、仲々以て昔し馬港で團友太郎と云ふ者の婚禮の席へ捕吏が入込だ樣な騷ぎでは無い、其百倍千倍にも及ぶのだ、第一第二第三の客間の入口には二人 宛の番兵が立塞がつて騷ぐ客を騷がせぬ、嚴重に出入を止めた、此番兵を指揮するのは捕吏の長である、襷の樣な胸掛を肩から斜に懸けて法律の威を光らせてゐる、其下に使はるゝ幾人の捕吏は、誰でも逃げる者は容赦無く捕へるぞとの劍幕を示して鋭い目を客々の顏々に配ツてゐる、騷ぎは深い〳〵暗い〳〵恐れと爲つて客一同の胸中に滿ち渡り、滿堂 寂と靜かになツて、宛も歌舞音樂の場が燒け跡と爲つた樣である。
捕吏の長は闊歩して段倉の傍に進んだ、靜かな中に段倉夫人の驚き叫ぶ聲が劈く如く聞えた、段倉自身も穩かな顏は支へ得ぬ、落着かぬ良心から落着かぬ色が顏に上るのある、獨り段倉の傍に在ツて心の確なのは巖窟島伯爵である、伯爵は聊か腹立たしげに立て、咎める樣に捕吏に向ひ「何の爲に此席へ闖入します」捕吏は之には答へず單に「小侯爵皮春永太郎と云ふ人は茲にゐますか」今も今、客が日頃其人との懇意を誇り、見せびらかせる程にした其皮春永太郎が捕吏の目的と爲つてゐる、是ほどの椿事が又と有らうか、客一同は神經も麻痺してか暫しは何事をも考へ得ぬ程と成ツた、其うちに捕吏は手を分けて、搜し又搜したけれど永太郎の姿は見えぬ、稍あつて段倉は恐る恐る問ふた「皮春永太郎は何者です」捕吏「重懲役の刑期中にツーロン獄から逃亡した脱牢人です」アヽ牢破り、牢破り、此恐ろしい名が客一同の胸に浸込んだ「エヽエヽ脱牢者、重懲役、其罪で捕縛されるのですか」と段倉は我れ知らず問ふた、捕吏「イヤ今夜捕縛されるのは新たな犯罪の爲です」段倉「新たな犯罪」捕吏「ハイ殺人罪です、彼と共に脱牢した毛太郎次と云ふ者が先夜巖窟島伯爵の邸に忍び入つた時、永太郎は外に待伏せして居て、其出て來る所を刺殺したのです」巖窟島伯爵は目早く客室總體を見廻したが、永太郎は早逃去つた後である、捕吏の手配りが遲かツたか、イヤ永太郎の逃方が早かツたのだ、流石に脱牢者の手際である。
巖窟王 : 二四〇 段倉家・六
愈々皮春小侯爵は逃げたと極ッた、捕吏は失望して最と不機嫌に立去ツた。
吁、此一事は段倉家に取つて何れほどの打撃である、實に想像にも餘るのだ、野西將軍が唯だ一日で世間に顏向けも出來ぬ状に立至ツたに比べて、優るとも劣りはせぬ、此後誰れが段倉に近づく者か、最も名譽ある婿を迎へる樣に言觸らせて人を集め、爾して斯樣な殺風景を演出し、客一同をして聞くも恐ろしい牢破りの前科者に、殺人の大罪人に、辭誼をさせ、歡びを述べさせ、尊敬の有る限りを盡させた、眞に巴里中の紳士貴婦人をして彼の罪人よりも猶ほ卑い地位に立たせたのだ、全交際場を汚辱したのだ、縱しや知らぬ事としても自分の不注意、不詮索か又は慾心から出たのだから、其罪に變りは無い。
全く誰れ一人怒らぬ者は無かつた、大抵の人の不幸は、氣の毒がられ、傷はられ、悔みをも述べられる者だけれど、今夜の段倉の不幸に至つては、氣の毒と思ふ人が無い、孰れも捕吏の引上るを待兼て、宛も恐ろしい傳染病の家からでも逃去る如くに急ぎ去つた、段倉夫婦が何れほど落膽してゐるか、花嫁が何の樣に悲しんでゐるか抔は振向いて見やうともせぬ「眞に失敬極まる、大罪極惡の人間を我々の社會へ披露して」と罵るも有れば「我々をして、五分間たりとも捕吏が戸口を守つてゐる其室の中に、禁錮されたと同樣に立たせて置くとは許す可からざる失態では無いか」と怒るも有つた。
併し是れ等は猶輕いのである、少し落着いた人は段倉の財政の困難を見て取つた、巴里第一流とも云はれる銀行家が、若し財政が豐かならば何で輕率に、不詮索に、此樣な婿を取る事に運ぶ者か、只財政の上に、如何とも仕難い困難が有ればこそ、結婚で以て其れを救ふ心を起し、深くは身許なども調べもせずして結婚式を擧ぐるまでに至ツたのだとは、容易に推量の屆いた所である、今まで皮春小侯爵が大財産家と信用され、此婚禮の爲に段倉銀行が金の置所も無い程に富むだらうと思はれてゐただけに、此失敗が信用を傷つくることも激しいのだ、凡そ銀行家をして是れほど一時に信用を落さしむる事情は多く類が無い、殆ど店先に支拂停止の札を掛けたのと同樣である、何でも段倉銀行の運命は此月の卅日限りだとは此夜の中に大方全市中へ行渡ツた噂である。
捕吏も去り、客も去り、ガラ空と爲つた廣い客間の眞中に脂汗の光る前額を銀燭の明りに照させ、時の移るをも知らずに只一人考へ込んだは段倉である、彼は殆ど喪心して溜息さへも出ぬのだ、夫人の方は泣て自分の室へ引込んだ、爾して今何をしてゐる、又段倉が何時まで此通り考へ込んでゐる、其等は顧みる必要が無い、唯氣の毒なは花嫁夕蝉孃である。
併し其實、家内中で一番悲しまぬのは此孃であツた、孃は騷ぎの初まツた時、怒つた女王の退く樣に、威儀ある姿で傲然として、傍目も振らずに自分の居間へ引取つたが、既に分つてゐる通り、兼てから婚禮を嫌ひ、無事に調印式をさへ濟ませば婚禮の終らぬうちに網里女史と共に伊國へ逃げて行く覺悟であツた、爾れば自分の室に入つてより勿論一旦は悲しみもして、其身の後に隨いて來た網里女史に向ひ「私には不名譽と云ふ事が附いて廻るのか知らん、賣國奴の息子をヤツと免れたかと思へば今度は人殺しの罪人と名を並べる樣になツた」と苦い言葉を吐いて眼に涙を光らせたけれど、其れは少しの間で、容易に心を取直し「サア網里さん、直ぐに伊國へ行きませう、誰も吾々二人に氣の附かぬ間に此家を立ちませう」と促した。
野西武之助が其母と共に住慣れた家を去ツたとは少し趣が違ふ、彼は二人とも暗黒へ入る旅立なので、心は唯悲しみに滿ちてゐたが、此れは悲しみの中にも氣に引立つ所が有る、兼ねて伊國へ修業に行き度いと二人で言ひ暮してゐた程だから、一旦の悲しみが過ぎては最も少しの未練も無い、既に出發の用意は數日前に出來て居る、夕蝉は身分の低い町家の娘の打扮ち、網里女史の方は男の姿と爲り、人が見れば平民的の新婚旅行かとも見える樣に服裝までも調へて有る、其れに旅費も孃一人の貯金が三萬 法も有る上に、夜光珠其他の飾物などが幾十萬 法の値打には上るのだ、是れ丈を持つて行けば生涯でも安樂に暮される、殊に其うちには孃の聲と女史の音樂とで立派な報酬を得る事には成るだらう。
段倉男爵が猶だ客室に考へ込み、其夫人は猶だ一室で泣入つて居る間に、此家の裏門から驅落の男女と見える兩人が忍び出て、通り合す馬車に乘り、何處とも無く消えて了ツた。

