読書ざんまいよせい(094)

巖窟王(下 その7)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯

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Youtube 【朗読】モンテ・クリスト伯(巌窟王) 79「レモネード」

巖窟王 : 二〇八 彼の仕業

ノルマンデーから急ぎ歸ツて、伯爵と右左に分れた野西武之助は、直ぐ其足で新聞記者猛田猛の許をふた、訪ふて猛の出て來るを待つ間さへももどかしい、自分の父野西子爵が再び賣國奴と疑はれるに到つた迄は猛の手紙で知つて居るけれど、其後が何う成つたか、一刻も早く聞知り度い、其れも新聞紙を買つて讀めば分るけれど、新聞紙を讀むのが恐ろしい、又忌々しい、慈悲も無く情も知らず唯だ事實の有り儘を冷酷に報道する新聞記者の筆から我父の舊惡を知らされるのは子として實に忍び難い所である。

彼は應接のに在つて殆ど地團太を踏まぬ許りである、全體何者が斯も執念深く我父我一家を傷けやうと企むだらう、父に賣國の振舞が有つた事はさきに猛がヤミナ迄出張して調て來た所で分ツては居るけれど、其罪惡を十年餘の今と爲つてあばき立てるとは實に憎むにも餘りある憎さである、父に愛想の盡きたことは無論だけれど、其れが爲に此敵を許して置く事は出來ぬ、此敵 假令たとひ社會の何の樣な隅に隱れて居やうとも必ず探し出して目に物を見せて呉れねば成らぬと、獨り悔しさの數々を心の中に呼起しては自分の肝へ刻み附る樣に繰返して居た、其處へ漸く猛田猛は出て來た。

彼は氣の毒さに堪へぬ状で、容易には口を開かなんだが、切に武之助より促されて遂に委員會の一部始終を語り初めた、勿論一たび口を開く以上は少しも隱し又は飾る可きで無い、彼が新聞記者として委員の人々や其議長などから聞集めた所を事細に話し出したので、彼の委員會の景状ありさまが手に取る如く武之助に分ツた、我父野西子爵が何の樣にして自ら辯護し、何の樣にして鞆繪姫の現はれ出たのに對し、又何の樣に言葉窮して何の樣に會場から逃出したか、父の一擧一動から委員の其時其時の顏色まで悉く目に見える樣に感じた。

聞終つて彼は悔し涙の雨の如く降り來るを制し得ぬ「猛田さん、猛田さん、最う私は何處へ行つても賣國奴の息子です、廣い此巴里に、猶ほ私を友人と思ツて呉れる者は、貴方や出部嶺でぶれいや心の廣い巖窟島伯爵の外に幾人も有りますまい、し有ツたとて何の顏さげて巴里の市中を徘徊しませう、私は直ぐに此國を去り世界の果てへ身を埋めて了ひます、ですが其前に此敵を探し出して仇をかへさねば成りません、仇を復すと云つても決鬪する外は無く、若し其決鬪で殺さるれば其れ迄ゆゑ外國へ隱れに行く面倒も無くて濟みます、若し勝てば幾分の恨も消ゆると云ふ者、何うか貴方は私の心を察し、此敵の分る樣にして下さい、全體何者が私の父の事を新聞紙に出したのでせう、貴方の手紙にはヤミナ州から澤山の證據書類を持つた人が故々わざ〳〵出て來て各新聞社を廻ツたと有りましたけれど、必ず此巴里に住んで居る人の中に、張本人が有りませう、最初に貴方の新聞紙へ唯だ彿國の士官次郎と云ふ短いアノ記事を出させたなどは決してヤミナから來た人では有りません、此人が即ち今度の記事をも出る樣に仕組んだ事は、考へる迄も無く分つて居ますから、即ち此人が誰で有るか、少しでも貴方に心當りが有れば、何うか私へお知らせ下さい、眞に一生のお願ひとは此事です」

他事も無い願ひに猛田は默然として考へたが「イヤ少しも心當りは無いのです、けれど外ならぬ貴方ゆゑ、私は自分の聊か異樣に感じた事實だけを申ますが、イヤ之を責任の有る言葉の樣に思はれては困りますよ、單に貴方の參考の一つに供して下さい」武之助は熱心に「ハイ決して貴方に責任を持たせる樣な事は仕ません、何の樣な事實です、何の樣な」猛「イヤ事實と云ふには足りませんが、實は先日私がヤミナへ行つた時、同地の有名な銀行者に就て聞きました、其箇條はヤミナ城の沒落に次第と、爾して其事件は何か彿國の士官で次郎と云ふ者が關係が有るだらうかと云ふ二點でしたが、之を聞いて銀行者は眉を顰め、實に妙な事が有る者だ、先逹ても巴里かれ其れと同じ事の問ひ合せを受けたと云ひました」武之助「エヽ、貴方より猶ほ前に巴里から其事を問ひ合せた者が有ると云ふのですか、其者こそ――」猛「ハイ私も其者こそは新聞紙の出所に多少關係の有る人だらうと思ひ、其れは誰だと聞きました」武之助「聞いたら誰でした」猛「イヤ聞いて聊か案外な思ひをしました、巴里の取引銀行の頭取段倉男爵だと答へました」

武之助は殆ど飛び上ツて「イヤ段倉男爵、其れは決して案外では有りません、彼です彼です、彼の仕業です、第一彼は夕蝉孃を皮春小侯爵へ縁付ける爲に私との縁を切る必要が有つたのです、ナニ私の方は此方こちらから縁を切る樣に仕向けた程ゆゑ、向ふで何も其樣な面倒な手數を取るには及びませんけれど、唯だ私の父は熱心に此縁談を實行する決心で有りましたから、段倉男が父に對して破談の口實を作る可き必要が有つたのです、爾です其れで益々分りました、先日父が段倉へ催促に行きました所、彼は異樣に答へ、何だか父の名譽が遠からず地に落つるかの樣に云ふた相です、是れは父から聞きました、爾して其翌日か翌翌日に次郎の賣國奴と云ふ事が貴方の紙上に出たのです、是で見ると其時から既に段倉氏は新聞にの記事の出る事を知つて居たのです、彼が自分で記事の種を出したので無くば何で前以て其樣な事を知つて居ませう」

殆ど星を指す程に明白には聞えるけれど眞逆まさかに巴里第一の銀行家とも云はるゝ者が、爾う陰險な手段を取らうとも思はれぬ、猛「御尤もの樣にも聞えますが、單に貴方と夕蝉孃の縁談を破る爲ならば餘り狂言が大き過ぎるでは有りませんか、其に今では其縁談も破れて居ますから、しや第一囘の記事は彼から出たとしても此度の第二囘の記事は」武之助「サア其邊は少しも私には合點が行きませんけれど、兎に角彼は昔から私の父と、名譽と財産とで競爭して來たのです、財産の方では彼が勝つたでせうけれど名譽の方では父の方が勝ちましたから、彼は決して父の名譽を傷つけるに躊躇せぬ男です、何でも彼が此事件に關係が有るに違ひ無いのです、爾無くば何でヤミナ銀行へ其樣な事を問合せますか、何が何でも私の敵は段倉です、是れから直に彼の許へ行き、私は詰問します、其結果に從つては無論決鬪です、何うか貴方も私と同行して下さい、其れが出來ずば貴方も最う私の敵に組した者と見る外は有りません」殆ど氣も顛倒したかと思はるゝ状である、此樣な事に成りはせぬかと思つたればこそ猛は前以て責任を負はぬよしを斷ツたのである、併し斯う成ツては今更引くにも引かれぬ「致し方が有りません、同道して私がヤミナの銀行で聞いたと云ふ事だけは證言しませう」武之助は殆ど血眼で茲を出た、爾して猛田猛の手を引立て引立て、段倉の家を指して急いだ。

巖窟王 : 二〇九 伯爵だ伯爵だ

猛田猛を引立てる樣にして、やがて武之助は段倉の家に着き、玄關で案内を請ふた、取次の返事は、「今來客中ゆゑお目に掛られぬ」と云ふに在ツた。

其來客は誰かと云ふ事は玄關先に待つて居る華奢な小馬車で分ツて居る、小侯爵皮春永太郎なのだ、勿論永太郎が此家に入びたりの樣に來て居るのは怪しむに足らぬ、唯だ其爲に我に逢ふ事の出來ぬとは何事ぞ、さては此身を賣國奴の息子として早や擯斥ひんせきの氣味を示すのかと、武之助は前額ひたひに青い筋を立て「ナニ面會の出來る出來ぬと問はせぬ在宅か不在かと問ふのだ」と云ひ取次の男を突倒さぬ許りにして家の中に躍り入り、猶も猛田を引立てゝ段倉の居室いまに闖入した、爾して小侯爵と段倉との驚き立つを知らぬ振で聲も鋭く「段倉さん、段倉さん、今日は貴方の言開きを求めに來ました、言開きか決鬪か二つに一つをお選び成さい」眞に當る可からざる見脈とは之である。

何の仔細か知らぬけれど、小侯爵は嶽父しうとの大事と見て進み出た、武之助は之にも向ひ「オヽ貴方が相手をすると云ふのですか、勿論私は相手を選びません、貴方でも宜しい、サア」と詰寄せるは前後も忘れた状である、後に從ふ猛までも呆氣に取られ、何として好いやら知らぬ、段倉は此状にさては戀の遺恨でゞも來たのかと思ひ、漸く心を落着け得て、二人の間に入り「ナニ娘夕蝉を小侯爵の妻と定めたは、小侯爵の責任で無く斯く云ふ段倉の責任です、云ふ事が有るならば――」武之助「ナニ娘夕蝉、夕蝉が何處の馬の骨の妻に成らふと其樣な事では有りません、私が言開きを求めるのは、父に對する貴方の所業です」段倉は初めて合點が行つたと見え、嘲る樣に打笑つた「之は可笑しい、貴方の父野西子爵の舊惡が露見したのを私に辨解せよと云ふのですか」武之助「勿論です、貴方は今より一月ひとつきほど前にヤミナの銀行へ問合せの手紙を出した事が無いと言張りますか、ヤミナ城沒落の次第から其當時に於て私の父の所行を詳しく取調べて知らせて呉れとの手紙を送つたのが貴方で無いと言張ますか、私は其樣な言拔けをせぬ爲め、茲へ實地を取調べて來た證人まで連て來て居るのですが」何たる性急の言葉であらう。

段倉は初めて武之助の後に猛のついて居る事を知つた、けれど別に驚く謂も無い、彼は一層落着いて「私は何も言拔は仕ませんよ、如何にもヤミナの同業へ貴方の父上の事に就き問合せの手紙を出しました、其れが何うしたと云ふのです」武之助はこぶしを固め「其れが何うしたとは猛々しい、何の必要で其樣な手紙を」段倉「何の必要で、左樣さ、其樣な事は返辭の限りでは有りませんけれど、たつてとならば云ひませう、野西子爵に賣國の舊惡が有らうと知らぬから、問ひ合せても構はぬと思ひました、詰り貴方の父上を信用し過ぎたのです、痛い古創ふるきずの有る方と知れば遠慮する所で有ツたのに、誠にお氣の毒でした」妙に捻けた冷やかな言葉に中に、得も云へぬ毒が有る、之を聞いて武之助の拳が段倉の前額ひたひに降り下らぬが不思議である、彼は眞正に齒切はぎしりして「エヽ、其言分は聞捨て成らぬ」言葉と共に又一歩段倉に詰め寄ツた。

此時若し段倉が折れて出ずば何の樣な騷ぎにも成らうも知れなんだ、けれど彼は根が臆病者である、婿むこたる小侯爵の居る前なればこそ、其れに對して強く出は出た者の、眞に攫み掛らんとする武之助の勢を見ては又氣味の惡い所も有る、更に聊か其言葉を丁寧にし「ナニ其頃は貴方と娘夕蝉の縁談が有りましたから親の役目として貴方の父上の財産の出所を調に掛ツた迄の事です、其れも自分の意見で無く、人から忠告を受けましたから」早や人の忠告と、責任を人の肩へ讓り初めた、武之助「エ、人から忠告、其れは本統の事實ですか」「何で事實で無い事を私が言ひませう、實は其人に向かひ縁談の話しから、野西子爵が何うして希國で大身代を作つたのか一應調べ度いと申しましたら、其人が其れならヤミナへ問ひ合すが近路だと忠告して呉れましたので」武之助「其れでヤミナへ問ひ合せたと云ふのですか、其れから」段倉「其れから、ハイ、實に驚く可き返事を得ましたけれど、イヤ少しお待ち成さい、斯う云ふと貴方は、直ぐに私が此事件の曝露にまで關係の有る樣に疑ひませうけれど、私は少しも關係が無いのです、ヤミナから得た返事の意味は誰に他言した事も有りません、何しろ貴方の父上の名譽に係る事と、深く祕密して居ましたのに、何處からか洩れたのです、洩れた次第は新聞紙でも分りますが、決して、決して、私では在りません、私は其深く祕したかどで、貴方から禮を言はる可き程に思つて居るのです」

明白な言開きである、眞に其通り祕したとすれば段倉に罪はない、彼は猶も疑ひを避ける爲か「私は初めからヤミナと云ふ事さへも氣が附かなんだのです、私の頭をヤミナの方へ向けたが惡いと云ふならば、其れは私が惡いのでは無く、私へ忠告した人が惡いのです」幾等立腹した武之助でも此道理は聞分けぬ譯に行かぬ。

其れなら其忠告した人は誰ですか、其人が分らねば貴方の言葉丈で信用する事は出來ません」段倉「信用するとせぬとは御勝手ですが、忠告して呉れた人は――」武之助「其人は――」段倉「巖窟島伯爵です」武之助「エ、エ、巖窟島伯爵が」段倉「ハイ、巖窟島伯爵です」

自分の罪を逃れん爲に、人の名を晒け出すとは、卑怯である、卑怯は卑怯でも茲では立派な言開きには成ると云ふ者、又段倉の平生の根性から考へれば是れくらゐの卑怯は輕い中だ、武之助は伯爵の名前に、暫し度を失ふ體で有つたが、段々に思ひ浮んで來る事も有る、第一委員會で我父を粉碎するほどに證言したのは伯爵の養ふて居る鞆繪姫である、第二には丁度此事件の起る間際に我身を巴里かれ連れ去つたも矢張り其伯爵である、第三は共々巴里へ歸つて來る馬車の中でも伯爵の容子が尋常とは思はれなんだ、手近い所だけで此通り、猶遠い所まで思ひ廻せば心に當る事ばかりである、武之助は初めて目の開いた樣な心地がして、何も彼も見透いた、彼は忽ち躍り上ツた「アヽ伯爵だ、伯爵だ、此敵は伯爵だ、決鬪に相手は伯爵だ、、何としたとて逃すものか」昨日までの恩人友人、今は仇、親のかたき「エ、知らなんだ」と又も叫んで一散に此家を走り出た。

巖窟王 : 二一〇 母への孝行

敵は段倉と思ひの外、巖窟島伯爵である、武之助は段倉の家を立去ツて驀地まつしぐらに伯爵の邸を指して行くのだ。

之は大變な違ひである、段倉が敵であるのと伯爵が敵であるのと、段倉なれば大して深い仔細は無い、唯だ武之助の父野西次郎と名譽の上で競爭し其身が負形まけかたちと成つたから、野西次郎を陷るゝ氣に成ツたと、云ふ丈の説明で分ツて居るけれど、伯爵の方は爾で無い、何で我が父野西次郎を恨むのか、何故父の舊惡を斯くまで執念深くあばき立てる氣に成つたのか更に合點が行かぬ或は其身が愛し育てゝ居る鞆繪姫の爲に復讐をさせて遣り度いとの目的に出たのかも知れぬけれど、單に其樣な義侠の爲に斯まで力を盡さうとも思はれぬ、何か我父と伯爵の間に深い恨でも横たはつて居たのかも知れん、イヤ爾とすれば父が兼てから伯爵に對して用心する筈である、然るに用心の状も無く、全く初對面の人の樣に、イヤ一見舊知の如しと云ふ意氣相投じた間柄の樣に見えて居た。

何う考へても合點が行かぬ、合點は行かぬけれど、此相手は伯爵と云ふ事は確である。武之助は今まで深く伯爵を信じた丈に、又深く伯爵を恨みに思ふ「エ、何うしても伯爵を殺さねば」と走りながらも口走つた。

彼に從ふ猛田猛は心配げに「野西さん、愈之を伯爵の仕業とすれば、貴方が爾う立腹するは無理も無いけれど、餘ほど手剛てごはい敵ですから、用心して掛らねばいけませんよ」武之助は敵の力などを計る餘裕も無い状である、「段倉だとて伯爵だとて敵とする日には同じことです」猛「イヤ大變な違ひが有ります、段倉は金を愛するのみの人間ですから容易の事では決鬪せず、此方こつちが眞に怒れば向ふから折れて出ますけれど、巖窟島伯爵は、今まで私の研究した所では、斷乎たる男子の氣風が有つて、其れに一種の侠骨と、崇高な貴族の魂を備へて居ます、此方こつちが強く出れば向ふも何處までも相手に成ります」武之助「其れが私の幸ひです、私は強い相手を恐れません、唯だ段倉の樣に、折れて決鬪を避ける相手を恐れます」猛「でも巖窟島伯爵が何れほど武藝の逹人かと云ふ事を知つて居ますか」武之助「知つて居ます、先日 短銃ピストルで射撃をして居る所を見ましたが、歌牌の樣な紙の表へ一から十まで順にトランプの星數を射貫きました、一分一厘の狂ひも無い所を見れば恐らく世界に二人とは無い武藝の名人でせう」猛「其れ御覽なさい、其上に馬に乘る所を見ても其上手な事は姿勢で分ツて居ます、私は又先日伯爵の許へ招かれた撃劍の指南師から聞きましたが、短劍でも長劍でも、何うしてれほど稽古が出來たからと其指南が舌を卷いて居りました、斯樣な人を相手にして決鬪するとは」武之助「構ひません、私とても全く武藝のたしなみが無い譯では無く又實地に決鬪した覺えも有ります、伯爵の狙ひが正しければ私の狙ひも正しい、伯爵のたまが私の心臟へ當ると同時に私の彈も伯爵の心臟へ當りますから、伯爵とても此世に亡い人と爲つて了ひます」猛「爾う旨く行けば宜しいけれど」武之助「イヽエしや私の狙ひが外れて、伯爵は助かり、私は死んだとしても構ひません、父の汚名を雪ぐ爲に鬪ツて死んだとなれば本望です、生て居るよりも名譽です」猛「貴方は爾うでも、貴方が死ねば後で母御が悲しみの爲に泣き死にます」

母御と云ふ一言には武之助も暫し淀んだけれどやがて決然として「其れでも構ひません、母は此まゝで居れば父の耻辱を苦に病んで、耻かしさに泣き死にます、其れよりは私を失つた悲しさに泣き死ぬるのが嬉しいでせう、私も其れが母への孝行です」猛「では何う有つても貴方は伯爵と決鬪するのですね」武之助「ハイ其れも勿論です、私は伯爵と決鬪して死ぬ外に、行く道の無い身の上と爲つて居ます」猛も決然たる語調で「宜しい、其れでは私が出部嶺と共に介添人と爲り其決鬪の申込に行きますから貴方はお控へ成さい、斯う極つた上では當人同士顏を合せる必要は有りません、決鬪の作法にそむきます」武之助「成るほど決鬪の作法から云へば事の極つた上でで當人たる私の行くのは宜しく無いかも知れません、けれど猛田さん、此度ばかりは許して下さい、常例の場合では無いのですから、私は直々に伯爵に逢ひ言ひ度い丈の事を云はねば氣が濟みません、ハイ散々に彼を罵り辱め、今私の腹立たしく思ふだけ彼にも腹を立てさせれば其れで幾分か蟲が治まりますから、其上で命の遣取です、サア、何うか私を伯爵の前に出して下さい」猛「其れ程に思ふなら、仕方が有りません、一緒に行つて先づ伯爵に逢ひませう」二人は間も無く伯爵の邸の前に着いた。

巖窟王 : 二一一 眞に潛々と

若し伯爵が在宅ならば、武之助との間に餘ほどの騷ぎが起るに違ひ無い、武之助は直に其玄關に進んだ、彼のおとなふ聲の應じて出迎へたのは家扶春田路の次に附く破布池はふいけと云ふ執事である、勿論武之助を知つて居る「伯爵は在宅ですか」問ふ武之助の言葉はいつもより嚴格である破布池「ハイ、今丁度御入浴中ですが、其後で食事を成さツて、其れから一時間お休みに成り、爾して今夜は劇場へお出向との事で正八時に馬車の用意の出來る樣にとお言附が有りましたから、お目に掛られる暇は有るまいと思ひますが」暇が有らうが無からうが武之助は其樣な事に頓着は無い、其まま湯殿へまでも暴れ込うかと云ふ程の見幕で居るけれど、劇場との一語に、フト思ひ附く事が有つて「爾ですか」と穩かに受引いた、劇場ならば巴里の貴族社會、交際社會がこぞツて集まる所だから伯爵を立腹させるには屈強である、何も今無理に此家の中に闖入して面會を求め、誰も見ぬ所で爭ふより、萬目の注ぎ集まツて居る棧敷の中で、彼伯爵をば人に顏向けも出來ぬほど辱めて呉れゝば、我父野西子爵の仇も幾分かは返されると云ふ者、其れにしても伯爵とても公衆の前で侮辱せられて眞逆に決鬪せぬと云ふ譯にも行くまい、よし、よし、決鬪の緒口いとぐちを開く手順は定まツた、是が天の與へる好機會と云ふ者だらうと、心の中に一方ならず滿足し、破布池には「では明日でも又伺はふ」と何氣なき言葉を殘して茲を去ツた、爾して門の外で猛田猛に向ひ、「今夜八時には必ず劇場へ來て下さい、出來る事なら何うか出部嶺や砂田伯も誘ふて」猛は武之助の心中を見拔いて居る「承知しました」と短く答へて立分れた。

直に武之助は家に歸つた、爾して第一に毛脛安雄や森江大尉や、其他懇意な者へ當て、今夜是非とも劇場へ行くやうにとの誘ひ手紙を出した、云はゞ背水の陣を布く樣な者である。斯うして人々をいざなふて置けば、眞逆に其場に及んで我が心の鈍る事も有るまい、又伯爵も益々以て逃げるに逃げられぬ事に成らうと、何から何まで考へを行渡らせたので、次には母の機嫌をも伺ふて置き度いと其 居室いまを指して行つた、思へば先の日ノルマンデーに行くとて母に分れを告げてよりわづかに三日しか經たぬけれど、其三日の間に我が一家が變り果てた状とは成つた、出る時は多勢おほぜい下僕しもべども我れ先にと送り出て流石に名譽幸福共に滿々て居る貴族の家らしく思はれたけれど、歸つて見れば一家窒息の状で出迎へる者も無く、數多い雇人共、何をして居るのか、常に絶間も無く何の室からも洩れて居た笑語の聲も絶えて、廊下に足音一つ聞えぬ、其れも是れも父が世間にためしも無い大汚辱を受けたから出た事、父は今何の樣にして居られる事か、イヤ眞に賣國の罪を犯す樣な見下げ果てた父ならば最う父でも無い子でも無いと數日前に猛田猛にも云ひ、堅く我心にも誓ふて居るから最う父の容子などは氣に掛けまい、其れにしてもいたはしいは母上である、定めし斯ほどの舊惡ある所天をつととも知らず廿年の上も連添ひ、肩身廣く世にも交り、貞女のかゞみとも云はれ交際場裡の明星とも立てられて來た者が、一朝思ひも設けぬ所からわざはひが起り世間に顏も向けられぬ淺猿あさましき境涯に陷入つたと有ツては、何れほどか辛い事やら、夜も晝も打鬱うちふさいでのみ居られる事であらうと自分から泣き出し度い程の胸を推鎭め、無人の卿かと疑はれるほど物淋しい廊下を通り、二階に上ツて其居間を窺いて見た、茲にも人の影は無い、扨はと思つて更に其寢室に入つて見ると、寢臺ねだいおもてに打臥して、房々と猶ほ若く美しい髮の毛のみ見えて居るのが母である「阿母さん、阿母さん、武之助が今歸つて參りました」云ふ聲も靜かな室の四壁に響き物凄い樣に聞える「オヽ武之助か」と答へて母は起き直り「能う早く歸つて呉れた」と語を繼いで、武之助の顏を見上げ、次には其兩手を捕へたが、今まで憂きを語らふ相手無き爲め、胸の中に悶え悶えて居た事が一時に泣聲と爲つて洩れ出で「オヽ、此世に最う、頼りとするは其方そなたばかり」言ひ差して泣き伏した、眞にさめざめと泣くと云のは此事だらう、何時其 かうべが上ツて來るやら知れぬ程に見えた。
巖窟王 : 二一二 母の情

泣く母の傍に立つて、武之助は暫しがほど無言で居た、母の涙の盡るのを待つて居るのだ。

漸く母は泣き止んだ、泣く丈け泣けば一時心の安まるのが人の情である、武之助は母の幾分か落着いた状を見澄まし、「阿母さん[、]野西子爵に何の樣な敵の有ることを貴方は御存じでは有りませんか」問ひ掛けるのは、若しや巖窟島伯爵と我父との間に舊い恨みでも有りはせぬかを探り度いのだ、けれど我父とは云はずに他人らしく「野西子爵」と云ふは最早父子の縁を絶つたとの意が洩れたのである、母は斯く父に對して餘所々々よそ〳〵しい武之助の言振に驚きはしたけれど咎めはせぬ「爾さ何うせ阿父さんの出世成さる方には祕密の敵が幾等も有らうよ、けれど敵と分ツて居る敵よりも、敵と分らぬ敵が本統に恐ろしいと云ふ者です」眞に其通りである、敵と分らぬ其恐ろしい敵を知り度いのだ武之助「ですから貴女に伺ふのです、貴女は他人の氣の附かぬ所まで能く細かにお察し成さるから――」母「でも何で其樣な事をお問ひだ」武之助「何でとて、先づたとへば先頃貴女が夜會を開いた時なども、巖窟島伯爵だけが、何一つべぬと云ふ事を貴女が心附き成さツたでは有りませんか」伯爵の名に母御はギクリとした「エ巖窟島伯爵とや、伯爵が何か其方そなたの今の問ひに關係でも有るのかへ」問ふ方も餘所事らしく、答へる方も餘所事らしい、武之助「ハイ御存知の通り伯爵は、云はゞ東方の人でせう、東方の習慣では敵の家で物をたべぬ樣にして居れば神から充分の復讐を許されると云ひますからね」母御は顏を青くした「エ何とへ、では伯爵を此家の敵だと、飛んでも無い、誰が其樣な事を云ふ、伯爵は信切一方の方では無いか、羅馬で其方そなたの一命を救ふて下さるし、爾して此家へ初めて招待したのも其方自身では無いか」口には云へど心に何れほど伯爵を恐ろしく思ふて居るか知れぬ、恐ろしく思へばこそ我子を伯爵の敵に成らせまいと用心するのだ、「武之助、武之助、嘘にも伯爵を敵だなどと疑ふなら、直に其心を捨てお了ひ、伯爵は敵では無い、其方を助けて下さる方だから、何處までも其方は親密にして行かねば――」武之助は聞咎める樣に「何か阿母さん、貴女は特別に私を伯爵と懇意にさせて置き度い仔細でもお有りなのですか」殆ど灸所を衝く樣な問である「エ私が」と母御は言ひ差し、忽ち顏を赤くし又青くした、爾して後の語は續かぬ、武之助「爾です、何も伯爵が此家を敵とせぬと限つた事は無いでせう」母御は恐ろしげに身震しつゝやがて又キツと武之助の顏を眺めて「其方は何だか伯爵を疑ふ樣に見えるけれど其れは間違ひだらう、三日前まで伯爵を此上も無い親友として居たでは無いか、伯爵の別莊へ泊りに行つて居たでは無いか」成るほど泊りには行つたけれど、其れは敵なればこそ伯爵が自分の邪魔と成らぬ樣に此土地から連れ去ツたのだ、伯爵の手段に乘せられたのだ。

爾と明ら樣には云はぬけれど武之助の口の邊には苦々しい笑と共に、其心が現はれた、母御は其れを見た丈けで何も彼も合點が行つた、流石は母の情である、けれど暫しは何も云はぬ、武之助も何も云はぬ、此間に母御の心は何の樣に急がしく働いたか、やがて何氣ない調子で「今夜其方は、母の機嫌を問ふ爲に歸つたのゞらう、御覽の通り私は氣持も優れぬから、何うも何處へも行かぬ樣に、今夜だけは家に居てお呉れ」若し外出させて伯爵を敵として何の樣な喧嘩をするも知れぬと明かに見拔いて居る、武之助「阿母さん今夜ばかりは、止むを得ぬ用事が有つて、外へ出なければ成りません」止めたとて無益である、母御は聊か恨めしげに「母の威光で逹てとは云はぬから、では隨意に何處にでもお出で成さいよ」武之助は言葉に意味を覺とらぬ振で一禮して茲を去ツた。其後直に母御は氣の許せる下僕しもべ一人を呼寄せ、今夜武之助が何處へ行くか見屆けて、直に歸つて來て報知しらせよと云ひ附け、次に又侍女を招き餘所行の衣服を出させ、病氣同樣の身を引立てゝ之れに着替へた、腹の中は問ふ迄も無い、今の下僕しもべが歸り次第に、場合に寄りては何處までも出掛けて行き武之助を保護せねば成らぬとの親心である。

勿論 下僕しもべの仕事は容易であツた、武之助は母に分るゝが否や、自分の室に歸り、いつもより一入ひとしほ氣を附けて之も着物を被替へ、八時より十分前に、尋ねて來た砂田伯爵を迎へ、共々に馬車に乘り、劇場を指して行つた、未だ此時は幕の開く前である、今に伯爵が來るだらうと氣を配ツて待つて居た、眞に此一夜は、昨夜貴族院の委員會で父の運命が決したと同じく、息子の運命、其れに合せて巖窟島伯爵の運命が決する時である、ハテ何の樣に決するか。

巖窟王 : 二一三 お相手に成りませう

劇場はいつもより大入である、是ならば巖窟島伯爵を辱しむるに屈強と、野西武之助は先づ滿足のおもひをした。

けれど伯爵は未だ來て居ぬ、其中に來るだらうと、兼て伯爵の買切と爲つて居る棧敷を絶間無く見張つて居た、果せる哉、第一囘の幕が終り第二囘の幕が開いた時、伯爵は大尉森江眞太郎と共に入つて來て悠然と座に着いた、何の樣な場合でも巖窟島伯爵の居る所へは人に視線が集まらずには止まぬ、古今無類の大金持、又巴里第一等の贅澤家としてする事爲す事皆他の人と違ツて居る神の樣な人として、誰も噂に聞いて居る、殊に今夜は兼て伯爵に養はるゝ鞆繪姫と云ふが賣國奴事件の證人で有つた事さへ口から口に傳はツて居る丈に若し其鞆繪姫が伯爵の棧敷へ現はれるだらうと疑ふ人も有り一時舞臺の方よりも伯爵の方に向く人が多い程で有ツた、けれど鞆繪姫は現はれぬ。

武之助は此方こなたより、只管ひたすら伯爵の容子を見て居るに、其落着いた状から、滿場の視線を受けて何の感じをも起さぬ樣に見える状が、日頃は尊敬の種で有つたけれど今夜は憎らしく思はれる、其中に此方こなたを向き我が顏を見るだらうと待ち受けたけれど、伯爵は一應場内を見廻したまゝ舞臺に向ひ、今は脇目も振らぬ、然し伯爵が此身の茲に居る事を知らぬ筈は無い、知つて殊更に知らぬ顏をして居るかと思へば又腹立しさが湧返る樣である。

今に見ろと、武之助は拳を握つて待つて居たが、いつまで待つても果しが無い、では愈 此方こつちから出掛けて行かうと、先づ立上ツて場内を見渡すと、自分の友逹にして伯爵とも懇意な人は大抵此場に集まツて居る、眞に又と無い場合である、好しと呟いて廊下に出で、直に伯爵の棧敷を目掛て闊歩して行くと、其れと見た猛田猛も其後に隨つて來た。

やがて荒々しく伯爵の棧敷の戸を背後うしろから引開けた、伯爵は驚きもせず、只 いつもの如く笑しげに此方こなたを向き「オヽ武之助さんサアこれへ」と其身の傍へ迎へんとした、武之助は腹立しさに震ふ聲で「イヤ伯爵、虚々そら〴〵しい貴方の世辭を聞きに來たのでは有りません、辨解を求めに來たのです」只此一語だけで既に一方ならぬ侮辱である、人の挨拶の語を捕へて直に虚々そら〴〵しい世辭などと、之が聞捨に成らう事か、伯爵はいぶかる樣に「エ、辨解を求める、私の、ハテな、私は未だ能く巴里の風俗に慣れませんけれど、茲は其樣な場所では有るまいと思ひます」武之助「場所で無くとも相手が、ソレ今は入浴中だの、ヤレ其後では一時間眠るのと、玄關番に斷らせて、容易に面會せぬ上は、場所を選んで居られません、何時でも捕へ次第に辨解を求めねば」益益無體な言ひ樣である、而も其聲が高いので、早や四邊あたりの人は此方こなたを向いて目と耳とをそばだてた、伯爵は最う何も彼も悟つて居る、けれど騷がぬ「エ、容易に面會が出來ぬとは、是は可笑しい、昨日まで私の家に私と一緒に居たでは有りませんか」武之助「ハイ、其れは未だ貴方の本性を知らなんだ爲です、貴方の僞りを看破し得なんだのです」と益益亂暴な云ひ分とは成つて來る、此方こなたに振り向く人も益々多い、斯うまで聞いては伯爵も立腹せぬ譯に行かぬ「全體貴方は何處から來ました、氣でも違つたとしか思はれませんが」武之助「ハイ貴方の奸策を能く見拔いて、是から貴方へ復讐せねば成りません、其れを貴方が承知すれば、ナニ常識に缺けた事は云ひません」伯爵は斷乎として「茲は私の棧敷です、暴言を放てば摘み出します」武之助「獨りでは出て行きません、一緒に出ませう」愈喧嘩が物に成つた、武之助は萬人の目の前で、伯爵の顏に手袋を叩き附ける積りで、脱いで握り詰めて居る伯爵「分りました、何でも彼でも喧嘩を賣る積りですね、宜しい、併し野西さん多勢の前で其樣な事をするは、品格にも關しますから」云ふ聲の切れぬ中に武之助は、手袋を振上げて伯爵の顏を目掛けて叩き附けんとする一瞬間に、彼の手は森江大尉に捕へられた、伯爵「イヤ私を立腹させ、喧嘩の相手と爲らせるには何も故々わざ〳〵手袋を叩き附けるには及びません、それ丈で澤山です、私は實際に顏に手袋を叩き附けられた者と見做してお相手に成りませう」滿場の視線は再び此棧敷に集まつたけれど、其中に子を氣遣ふ熱心な母のまなこが籠つて居るとは誰れも知らぬ所であつた。

巖窟王 : 二一四 命と命の取換

萬人の目の前で、散々に罵られ、無禮をば加へられ、其揚句に、顏へ手袋まで、叩き附けられては、誰とて默ツて居る譯には行かぬ、巖窟島伯爵が「喧嘩の相手になりませう」と云ひ切つたは止むを得ぬ。

深く思へば伯爵の身は、多年苦心した大望が、未だ悉くは成就して居ぬのだ、先づ七八分まで漕ぎ着けた樣なものゝ是からが大事の場合、決して横道へ歩み入て輕々しく命の遣り取などす可きで無い。其れは伯爵自身が能く知つて居る、如何に武術に長けた身とて勝負は時の運では無いか、何の樣な間拍子で何の樣に負と爲つて、何の樣に命を失ふとも限らぬ、若しも命を失ふては今までの苦心が全く水の泡と成つて了ふ、實に殘念な限りである、伯爵の心中には此殘念が滿々て居る、アヽ決鬪などしては成らぬ、敵を恐れるでは無いけれど、我が事業が大事なのだ、けれど斯う成つては仕方が無い、此喧嘩に應ぜねば巖窟島伯爵と云ふ體面が支へられぬ、儘よ、相手を殺す迄で有る、可哀相でも決鬪に勝て彼を殺し、我事業を助けねば成らぬ、神に誓ふた大復讐を、遣る所まで遣りおほさねば成らぬ。

斯う決心しては最早伯爵の眼中に、野西武之助は此世に無い人である、決鬪に死んで了ツた死骸も同樣な者である、何も此上に彼是れと思ひ煩ふには及ばぬと、伯爵は再び何氣無き體に還ツて物靜かに舞臺の方に向いた、此威儀と勇氣の備はツた態度には誰も流石に伯爵だと感心した。

武之助の方は、叩き附ける積りの手袋を森江大尉に遮られたのが聊か殘念では有るけれど、併し伯爵の「相手に成る」との一言を聞いた上は先目的を逹したのだから、餘温ほとぼりの冷めぬ中に決鬪の條件を定めるが肝腎と思ひ、では直ぐに介添人を寄越しますと、言葉をつがへて茲を出た、爾して直に猛田猛に一切の事を托した。

猛は引違へて伯爵の棧敷に入り、先づ一通り武之助の無禮を謝した上で「兎も角彼は自分の父の受けた大打撃に、氣も顛倒して居るのですから、何うか伯爵、貴方の口から唯一言鞆繪姫が委員會へ出て證言したのは此巖窟島伯爵の差圖で無いと言切つて下さい、私は貴方の其一言を土産に何とか武之助をなだめますから」極穩かな調停では有るけれど、散々侮辱を受けた上に其樣な謝罪めいた辨解がせばれる[注:せられるの誤りか?]者か、伯爵は力ある調で「ハイ巖窟島伯爵は巖窟島伯爵と云ふ自分へ頭を下げる外は誰にも頭を下げません」猛「御尤もでは有りますけれど、爾う仰有つては決鬪は避けられません」ハイ決鬪は既に話が極つて居ます、全體ならば私が侮辱を受けた方ゆゑ私が武噐を選ぶ可きですが、子供の樣な者を相手に其れも大人氣無い譯ですから武噐は武之助君に選ばさせませう、武噐と場所とをお知らせ下さい、いつでも其場所へ行きますから」其外に用は無いとの意が分ツて居る、斯く云はれては却て巖窟島伯爵の得手と聞く短銃ピストルを選ばねば卑怯である猛「然らば武噐は短銃ピストル、場所はビンセンの公園、時刻は明朝の七時」間違ひの無い樣に、明白に云て猛は退いた、短銃ピストルならば幾等伯爵が上手でも伯爵のたま此方こちらへ屆く時には此方こちらの彈も伯爵の身に屆くから命と命との取替であると武之助の云ふた事も有る、雙方とも、滿足であらう。

後には伯爵は森江大尉に向ひ「此樣な場合と爲つては外に介添人に頼む人は有ません、何うか貴方と、貴方の妹緑夫人の所天をつと江馬仁吉君に願ひます」と云つた、勿論森江は快く引受けた、此言葉の後は、伯爵の擧動に少しも常と違ツた所は無い、靜かに且つ面白氣に最後の幕まで見て了ツた、眞に何れほどの度胸か深さが知れぬ。

けれど其實、心の底では面白い譯では無からう、屋敷に歸ツて自分の居間に入るが否や伯爵は暫し默然として考へた末執事破布池を呼び短銃ピストルを取寄せて、二度三度と狙ひ、敵を射る眞似をした、斯して自分の腕の狂はぬか否やを試すのだらう、外に澤山の用事も有るけれど先づ腕試しが氣に掛るのだ、用事の第一は萬一其身の死んだ後での、鞆繪姫の身に振方、雇人の處分、屋敷別莊の處分、其れ〴〵考へ定めて細かな遺言状をしたゝめて置くに在るのだ、併し伯爵の心中に自分が殺されると云ふ念慮は少しも無い、今まで何事も神の助けを得て自分ながら殆ど人間業で無いと思ふ程にうまく運んで來た者が唯だ決鬪の一事に至つてつまづくと云ふ筈は無い樣に思はれる、隨ツて遺言などの事は氣が急がぬ、下僕しもべどもの寢鎭まツた後で好いと此樣に思つて居る、若し此心が間違ひで無くば伯爵の爲に幸甚と云ふ者だらう。

斯くて又も伯爵は短銃ピストルを取上げたが、何だか腕の具合に氣に食はぬ所が有る、燈火ともしびの下に迫寄すりより、綿密に短銃ピストルあらため初めた、四邊あたり寂然ひつそりと靜かである、爾して燈火ともしびの光りは、研き立てた短銃ピストルに映じ、又青白い伯爵の顏に照返して物凄い景状ありさまを寫し出した、若しも此際に此状を見る人が有れば、靜かな一室に殺氣の滿ちて居るに驚き、身を震はせて逡巡しりごみもするで有らう、所が實際、此時に伯爵の背後から此状を見る一人が有ツた、伯爵は何だか人の氣配がすると思ひ、其れとは無く振向いて見ると、此室の入口の閾の上に、黒い服を着け顏を覆面に隱して立つた女の姿が有る、何だか幽靈の樣にも見えた、伯爵は且つ驚き且つ訝かり「婦人よ、貴方[注:貴女の誤り?]は何方どなたです」と問ふた、婦人は答ふるより前に先 四邊あたりを見廻し、誰も見聞く人の無きを見濟まして突々つか〳〵と歩み入り、伏拜む樣に伯爵の前に膝を折り「友さん、友さん」と叫んだ、アヽ伯爵は誰かに「友さん」と呼ばれたのは何十年昔だらう、其頃ならば耳に嬉しく懷かしくも響いた聲で有らうけれど、今は殆ど聞忘れて隔世の思ひがある、伯爵は唯だ物凄く感じて一ひとあし背後うしろに退いた、婦人は再び叫んだ、殆ど絶望の聲である「友さん、私は息子の命乞に參りました」自分さへ忘れた程の昔の名を今も知つて居て繰返すは誰れ、しや其名は覺えて居やうも、其「友さん」が、今の巖窟島伯爵と知る人のある筈は無い、伯爵「貴女は誰の名を呼ぶのです」聲と共に手に持つた短銃ピストルも落ちた。

巖窟王 : 二一五 友太郎とお露 一

「友さん、友さん」足許より起る聲も伯爵に取りては眞に天から來る聲かと聞えた「貴方[注:貴女の誤り?]は誰の名を呼ぶのですか」と問返して伯爵の手から短銃ピストルの落ちた時には婦人も早覆面を脱して居た、あゝ是れ野西次郎の妻子爵夫人露子である、伯爵が殺さうと決心して居る武之助に其母である「エ、エ、子爵夫人」と叫んで伯爵は蹌踉よろめく樣に後にしざツた、爾して夫人の顏を見詰めた。

子爵夫人は答へる樣に「誰の名、ハイ貴方のお名です、多分他の人は貴方を忘れたでせうけれど、私許りは忘れません、友さん、友太郎さん、斯うして貴方に願つて居る私は子爵夫人では無く、お露です、お露です」此名、此人、伯爵が泥阜でいふの土牢に在る滿十四年の間、あしたゆふべに戀焦れ叫び通した其名、夜に晝に思ひ續けた其人である、牢を出て又十有幾年、艱難も恨みも總て此名此人に繋がり、何かに附けて心に浮ばぬ日とては無い程で有ツた、愛か憎みか、勿論愛では無い、伯爵の樣な深い恨みが此女から引起ツて猶ほ愛の續かふ筈が無い、けれど恨みと云ふ通例の恨みでも無く、其中には憎さも有つた、恐ろしさも有ツた、斯うと一言には盡されぬ千滿無量の思ひがもつれ搦んで籠つて居た、今此「お露です」と云ふ聲を聞いて、伯爵は茫乎ばうこと喪心した樣な人と爲つた、勿論、お露である、お露が子爵夫人に成つた事は土牢を出て間も無く聞いた所である、其後幾度も目で親しく見た所である、けれど其お露の口からお露と直々に名乘るを聞いては萬感交々ばんかんこも〴〵胸に湧く想ひがするのだ、終に伯爵は呟いた「エ、お露、お露は久しき以前に死にましたよ、子爵夫人、其後私はお露と云ふ名の女を知りませんが」

是れが恨みも未練も無い平淡な人の口から出る言葉だらうか、我れは其友太郎では無いと拒む言葉に當るだらうか、爾で無い、知らず識らずに自分が團友太郎と云ふ事を白状すると同じ事だ、何から何まで思ひ定めて身を石心鐡腸に固めて居ると云ふ巖窟島伯爵としては斯る言葉を吐くとは不覺の至りでは有るまいか、けれど此言葉は伯爵が云ふまじと思ふよりも先に口を出たのだ、伯爵自身の心よりも更に力の強い胸中の一種の發動が、内より此言葉を突出したのだ、ハツと思ふたけれども舌に及ばぬとは茲である、今更如何とも仕方がない。

「イヽエお露は死にません」と子爵夫人は叫び、更に「ハイお露は未だ生て居ます、活て居て、誰も知らぬのに巖窟島伯爵を、友さんだと知りました、初めてお目に掛ツたとき直に――イヤ未だお目に掛らぬうち、襖を隔てゝ伯爵の話聲を聞いたとき、愈爾だと氣が附いて、魂も消ゆる程に驚きました、伯爵自身は誰も知るまいと、サア誰にも氣附かれ、看破られはせぬ事を思ふてお出で成さつたででせうけれどお露は其時から恐れおのゝき、心配もし、苦勞もして絶えず伯爵を、イヤ貴方を見張る樣にして居ました、此度野西子爵がの樣な目に遭つたに就ても、野西子爵を打つた手は誰の手だか、お露には能く分つて居ます、問ふにも隱すにも及びません」

成るほど此夫人の今までの擧動を察すれば初めて逢ふた其時から伯爵を昔の友太郎と見拔いて居たに違ひは無い、伯爵自身若しや見拔かれはせなんだかと危んだ事が無いでも無かつた、けれど其口から親しく爾うで有つたと聞いては又 一入ひとしほおもひが有る、或は此女の爲に我が身の運が盡が來はせぬかと迄に恐ろしく感ぜられる所も有る、其れも能く思へば無理では無い、伯爵が伯爵として此巴里に現はれて以來、伯爵の身分を疑ふた人がお露で丁度三人目だ、第一は彼の蛭峰で今以てしきりに伯爵の身上を必ず看破らうと勉めてゐるけれど、勉めれば勉める丈け愈詮索が脇道に反れて行く樣、あたかも力負と云ふ姿で有つて、眞に恐ろしい敵だけれど却て今の所だけは恐れるには足らぬ、次に伯爵を疑ふたは野西武之助である、けれど是れは明朝決鬪して殺して了ふのだから蛭峰よりも恐れるには足らぬ、唯だ第三番目に現はれた此お露、此野西子爵夫人こそは最も纖弱かよわい相手ながら其實最も恐ろしい相手では有るまいか、伯爵の企てを根本から覆へして了ふにも至りはせぬだらうか。

兎も角も伯爵は、最う隱しても無益と知つた、云ふ丈の事を云つて斷念させる外は無い、今までおくびにも出さなんだ事柄を、愈々宣告の樣に言開かせねばならぬ時が來たのだ「エヽ夫人、爾う昔の名前を思ひ出すなら、成るほど野西子爵にも何だか名前が有りました、此度友太郎が打倒したのは野西子爵では無く、漁師次郎でせう、友太郎は馬港まるせーゆの漁師次郎をこそ恨め、野西子爵とやらを知る筈も無いのです」徐々そろ〳〵と云ひながらも漁師次郎と云ふ聲と共に、まなこには得も云へぬ恨の火が燃えて居る、子爵夫人は恐ろしさに殆ど平伏ひれふさん容子ながらも「それ御覽なさい、私の見る所に間違ひは有りません、其れにしても友太郎さん、何うか私の息子武之助だけはお許し下さい」伯爵は合點の行かぬ顏で「私と武之助との間に敵意の有る事を誰に聞きました」子爵夫人「其れは誰にも聞きません、私の目で見ました、多分其樣な事では無からうかと、子を思ふ親の情で大方推量しましたから、劇場へまで後を附けて行つたのです、爾して何も彼も見て知りました」流石の伯爵も爾とまでは知らなんだ。

巖窟王 : 二一六 友太郎とお露 二

子爵夫人露子が武之助の後を附け劇場まで行つてゐたとは流石に慈母の情と云ふ者である、其れならば實際武之助と伯爵との喧嘩の起りを目撃したのだ。

伯爵は聊か驚いたけれど騷ぎはせぬ、最早何う有つても我が復讐の次第を此露子夫人に一々言聞さねば成らぬ場合と胸を固め、宣告する樣な嚴かな語調で「オヽ爾でしたか、貴女は劇場で私と武之助との爭ひを見て居たのですか、其れでは愈々私が武之助を殺さねば成らぬ事が分りませう、萬人の見る前で、故無く私を罵つて果は私の顏に手袋を叩き附けやうとまで仕たでは有りませんか、之れを若し懲さねば、巖窟島伯爵と云ふ名前は明日から到る處で笑種わらひぐさにせられます」露子も服せぬ「友さん、友さん、爾う云へば甚く武之助が惡い樣に聞えますけれど、彼は故無く貴方を罵つたのでは無く、自分の父の身に降掛ツた不幸を貴方の仕業と思ツた爲に――」伯爵は冷やかに「エ、父の身に降掛ツた不幸、イヤナニれは不幸と云ふ者ではありません、天罰です、天が私の手を假て彼に罪惡相當の罰を下したのです」到頭自分の仕業と云ふ事を白状した。

露子は情無い聲で「エ、エ、何で天罰、何で貴方の手が天の手です、しや野西子爵に罪惡があらうとも、其れは年經て世間の人が皆な忘れて居ますのに、何で貴方一人が執念深く其れを覺えて居ました、ヤミナの城は貴方の城ではありますまい、しや其城主有井宗隣とやらに對し、子爵が不實不親切の擧動をしたとしても、何も貴方が横合から、復讐呼はり――天罰呼はり――には及びますまい」ジリ〳〵と伯爵に詰寄る程の見幕である伯爵「夫人、如何にも有井宗隣の事は其一女鞆繪姫と野西子爵との間の事件で私の知る事では有りません、私の復讐と云ひ天罰と云ふのは、先刻も申した通り野西子爵に對してゞは無く西國村すぺいんむらのお露を妻にした漁師次郎と云ふ者に對してです」夫人「漁師次郎に對してならば、オヽ其漁師次郎がお露を妻としたと云ふ事は誰の罪でも無く茲に居る此お露の罪です、其れをの樣な復讐とは餘りに恐ろしい仕方です、罪の有るのはお露ばかり、サア天罰ならば此お露の身へ下して戴きませう、貴方が婚禮の間際に居無く成つて、お露は唯一人取殘され其淋しさを我慢する丈の辛抱が無かツたのです」伯爵「サア其處です、何故婚禮の間際に私が居なく成りました、何故貴女が唯一人に成りました」夫人「其は貴方が捕縛せられ牢に入れられたとやらの爲に」伯爵「何故私が捕縛せられ、何故牢に入れられました、何故、サア何故」夫人「其仔細までは知りませんでしたけれど」伯爵「成るほどお知り成さるまい、では云ひませう、婚禮と云ふ前夜に、段倉と云ふ男が、私を恐ろしい罪人として檢事に宛てた誣告ぶこくの手紙を書き、馬港まるせーゆ酒店さかみせへ捨て置きました、其を次郎が後へ廻ツて拾ひ取り郵便箱へ入れたのです」云つゝ伯爵は立つて、手文庫の中から古い一枚の書面を取出した、之が其手紙である、曾て伯爵が馬港まるせーゆの典獄から森江商會へ預けてある廿萬圓の金の證書を買取る時、古い記録から切取ツて來たのである「サア是を御覽成さい」と子爵夫人の目の前に差附けた、其文句は團友太郎を最も過激な共和黨の一人とし、拿翁なぽれおんの爲に朝廷を顛覆する陰謀を企てゝ居る樣に書いてある、勿論爭ふ可き餘地は無い。

一目に讀みて露子は叫んだ「是はまア恐ろしい――」伯爵「ハイ私は此手紙を廿萬圓に買取りました、けれど是で貴女の合點が行けば」夫人「此手紙の爲めに」伯爵「此手紙の爲め私は泥阜でいふの土牢に十四年入れられました、其十四年の間、毎日私は復讐の誓ひを立て毎日呪ふ樣に仕て居たのです、けれど夫人、もや此 讒言ざんげん者がお露を迄も奪ふて妻に仕たとは知らず、又自分の父が饑渇の爲に苦しみ死んだとも知りませんでした」夫人「エ、其樣な事が」伯爵「ハイ其れは十四年を經て牢から出て、初めて聞いて知つたのです、其れですもの私の復讐するのが無理でせうか、艱難辛苦を重ねた今、ヤツと復讐に逹したのです、復讐を見たのです」夫人の前額ひたひには脂汗が湧き出て居る、夫人は手を擧げて之を拭ひつゝ「でも其手紙を郵便箱に投込んだのが次郎だとは、其は確な事ですか、誰も見た人が有る譯でも有るまいし」伯爵「見ずとも確に分ツて居ます、確に彼は投凾しました、加之のみならず彼は此彿國に歸化して居ながらウオタローの戰場では敵に内通を計りました、彼は西國すぺいんの人間でありながら西國すぺいんを敵として戰ひました、彼はヤミナの恩を受けてヤミナを敵國に賣りました[、]恩にそむき信を賣るのが彼の天性ではありませんか、讒誣ざんぷの手紙を投凾して私をおとしいれる位の事は彼に取つて極輕い方です、併し私に對した事は戀の爲ゆゑ、彼の妻と爲つて居る貴女の目には重大とも見えますまいが、貴女と婚禮の極つて居た私は、貴女が其を見る樣に輕い事と視る事は出來ません、夫人よ、我が彿國も此 反逆うらぎり人を處分しませんでした、西國すぺいんも此惡人を懲し得ませんでした、ヤミナ州も此負徳、負恩、賣國の奴を取逃しました、是れが天道人道のよみする所でありませうか」言來る伯爵の言葉は、一語は一語よりも切に眞に天の先刻かとも疑はるゝ程に聞えて居るが、茲に至ツては又一入聲を張揚げ、金をなげうつ樣な鋭い響きを帶びて「有井宗隣は定めし此者を恨みつゝ墓の底に齒を剥出して居ませうが、私は爾で有りません、此者にひられ此者に陷かんがいせられ、此者に埋められて、今は此者を罰する爲に、天の冥助みやうじよを得て墓の底から起上ツて來たのです、爾して茲に此通り立つて居ます」夫人はさながら百雷にかしらを壓せられた如くである、かうべは地に附き腕は埀れ、爾して全身は震ひおのゝき「友さん、何うか許して下さい、友さん、友さん、昔の愛の爲にも許して下さる事は出來ませんか」聞くも哀れとは此聲である。

巖窟王 : 二一七 友太郎とお露 三

伯爵の云ふ言葉は眞に人間の至情である、廿幾年積りに積り凝りに凝た怨みの一念があたかも噴火山の潰裂かいれつする如く口を衝破ツて迸り發するのである、誰とて此言葉の正面に立つ事が出來る者か、子爵夫人が身を震はして平伏したのも無理では無い。

けれど子爵夫人も子を思ふ母の至情を以て武之助の命乞ひに來て居るのだ、其至情と云ふ事に於て伯爵の至情に劣る筈は無い、伯爵の復讐も仕遂ねば成るまいが此方こつちの命乞ひも仕遂ねば成らぬ、幾等伯爵の言葉が有理もつともだとても、其れなら私の息子をお殺し成さいと承知して歸り去る事が出來やうか、何で母として子の殺さるゝのを有理もつともと思はれる者か、何が何でも伯爵の口から武之助を殺さぬとの約束を得ねば成らぬ、至情と至情の此爭ひは何所どこに何う落着する事に成るだらう、あゝあゝ

夫人は打伏したまゝに叫んだ「友さん、貴方の復讐は最う濟んだのでは有ませんか、野西子爵が委員會で受た樣な辱めが又と人間の世に在りませうか、子爵は最う子爵では有りません、元の漁師次郎と云ふ卑しい身分に歸る事さへ出來ません、子にも妻にも合す顏は無く、唯だ恥の中に死んで了ふ一方です、貴方の泥阜でいふの土牢は何れほど苦しかツたとしても、若し逃出せば猶だ、其外に廣い世界がありました、次郎の恥は逃出す世界がありません、死んで冥府あのよに入らうとても冥あのよに彼を容れて呉れる所がありませうか、彼は未來永々身の置所が無いのです、盡きる所の無い苛責の中に落ちたのです、それでも貴方は足りませんか、貴方の恨みは未だ盡きぬと云ふのですか、オヽ、餘り恐ろしい、其樣な執念の深い友さんでは無かツたのに、イエイエ貴方は猶だ憎いお露が復讐を受けずに殘つてゐると仰有るのでせう、お露は次郎にも増す程の復讐を受けました、今からお露に行き所が何處にあります、れ見よ、賣國奴の妻だとてお露に後指を差さぬ人が何處にあります、お露は此樣な恥を、恥とも思はぬ女でせうか、貴方の云ふ泥阜でいふの牢の中には不幸は有つても恥と云ふ事は無かつたのです、不幸と恥と何方どちらがお露には辛いでせう、其れのみで無く能くお聞下さい友さん、お露が所天をつとをした人は顏を隱して世の人の憎みや辱めの底に沈み、妻の目からも早く消えて了つて呉れゝば好いと思ふ程の状ですのに、一方に、お露が所天をつととせなんだ人は世界を足許に平伏ひれふさせ、高いほまれと榮華の上に立ち、汝の所をつとと見較べよと云ふ樣にお露の目の前に現はれてゐるのです、雪と炭、雲と泥ほどの違ひを絶えずお露に思ひ知らせてゐられるのです、女の身として之が苦しみで無くて何でせうか、此上の辛さが何處に在りませう、是でも貴方は、未だお露が復讐を逃れてゐると云ふのですか、是でも足らずに、猶だお露の息子武之助の命をまで取らねば成らぬと仰有るのですか、餘まりです、餘まりです、貴方の胸には露ほども慈悲の涙が無いのですか」

慈悲の涙が無いでは無い、涙あればこそ天に代つて人を懲し千年百年此世に惡人の根を絶んと迄に思ふのだ、其れが爲にこそ、慈悲の涙をも自分から涸して石心鐵腸に身心を鍛へ固めて此世に出て來たのだ「では夫人、惡人の一族を壓潰すなかれと云ふのですね、漸く成就の間際まで漕附けた此大願を捨て仕まへと云ふのですね、出來ません、出來ません」と伯爵は自分の胸を掻むしる樣にもがいて叫んだ、けれど子爵夫人の今の言葉に何れほど其石心鐵腸さへも搖るがせられたかは、平れ伏してゐる露子夫人をやがて引起して長椅子に寄らせたのでも分ツてゐる、是れは猶ほ其心の底に昔の愛の根が深く殘つてゐる爲であらうか、其れとも――イヤ爾で無い、眞逆に今まで愛の根が枯れずに居やうとは伯爵自ら思ひはせぬ、唯だ其天性の中に寛仁大度と云ふ廣い度量の備はツて、消すにも消されぬ憐れみの心がある爲に、さては委員會の一撃が其れほど野西次郎にこたへ又其妻さへ其れほど辛さを感じてゐるのか、我が復讐が其れほど功を現はしたりと、聊か心に弛みが出たのだ。

併し「武之助」を許すとの言葉は出ぬ、其れが出るまで露子夫人は繰返しても願はずにはゐられぬのだ「友さん、私が此通り昔に返つて貴方を友さん友太郎さんと云ふ樣に、貴方も、私を、お露よ、お露さんと呼んで、昔に返つて聞いて下さい」些細な願の樣ではあれど、異樣に伯爵の心の底に浸込んだ「お露よ」伯爵は覺束無い聲で繰返し、引續いて「成るほどお露さん、此美しい名前は、恨めしくも未だ私の口に由縁ゆかしい響きを存してゐます、此名を此口で、斯う明かに呼ぶのは何年目であらう」云ひつゝも恍惚とし、伯爵は暫し考へ「オヽお露よと、此名を私は土牢の底の、やみの中で恨めしい聲でも呼び、悲しい聲でも呼び、果はハイ絶望の聲でも呼びました、幾度いくたび、幾百度、石の床の寒さに凍えつゝも此名を呼び、最う此世に生きてゐる辛抱が盡きたとて自殺を決心した間際にもお露お露と叫びました、十四年の間、十四年友太郎は泣き、友太郎は嘆き、友太郎は呪ひました、祈りました、一身が唯だ復讐に凝り固まりました、父母から此樣に、情も無く涙も無い子に産んで呉れたでは無い友太郎が、何で此樣な、鬼の樣な心には成りました、何の爲、何の爲、お露よ、お露さんよ、友太郎は復讐せねば成りません、十四年の間、毎日毎夜、我が心に刻み附けた此復讐を思ひ止まる事は出來ません」と十四年の苦しさを今更の如く呼起して叫ぶは露子の言葉に我心の動かさるゝを恐るゝ爲である、是くらゐの事に此復讐の心を弛ませては成る者かと死力を盡して自分の心を守つてゐる、けれど自ら心に弛むを恐れるだけ實は早や心が弛んだと云ふ者ではあるまいか、露子夫人の言葉には從ふことが辛いと同樣に從はぬことも又辛い、眞に之が斷腸の思ひと云ふ者である。

巖窟王 : 二一八 友太郎とお露 四

柔能く剛を制すとは人情の弱點を看破ツた名言である、如何なる英雄豪傑とても泣く兒には勝つことが出來ぬ、今巖窟島伯爵も殆ど此樣な想ひがするのでは有るまいか、敵が若し自分より強くして、力を以て自分を壓倒せんと掛るならば、何の樣にも引受けて戰ふて見る、強ければ強いだけ其戰ひに愉快が有る、しや自分が負けるにしても負ける悔しさの一念で全く力の盡るまで戰ふ事が出來るのだ、唯だ相手が女で有つて、言葉よりも涙が多く、力よりも情が先に立ち、爾して自分の正面を襲はずに足許へれ伏すと云ふ樣な景状ありさまに至つては力を加へる所が無く、くじくにもくじき樣が無い、殆ど如何とも仕方の無い仕宜しぎになるのだ、伯爵は早や此樣な仕宜に立到つたと感じた、自分で情を動かしては成らぬと思ふけれど自分に拘らずに情の方が動き初める、イヤ動かされ初める、若しも斯樣な脆い情の爲に多年の辛苦經營を茲で躓かせる樣な事が有つては成らぬから、土牢に居た十四年の苦しみを悉く思ひ出してあたかも燃ゆる火に薪を加へる樣に我が怨みに力を添へ、殆ど、何と露子夫人の云ひ返す言葉も無い樣に云ひ切つた「復讐せねば成りません」と云ふ伯爵の言葉は靜かな室の中に耳をつんざく樣に響いた。

露子夫人は逡巡たじろぐほどで有たが又踏こたへて「それだから貴方の復讐を無理だとは申しません、復讐なさい、復讐なさい、怨み重なる次郎と、罪の深い此お露に、思ふ存分に復讐して、唯だ息子武之助だけは許して下さいと云ふのです、彼に何の罪があります、何にも知らぬ彼をまで助ける事が出來ぬとは情けないではありませんか」實に武之助には罪は無い、伯爵は答へる言葉さへ思ひ出さぬ、唯だ胸の中の苦しさを呻吟うめきの聲に發し、自分で自分の頭の毛を、掻きむしる樣に掴んで煩悶した、露子夫人は又一歩進み出て「友さん、友太郎さん、貴方も苦しんだでせうけれど、私の苦しみも輕くは無かつたと思ひませんか、貴方の姿は私の心の中に、絶えず鏡へ物の寫つて居る樣に、消えた時とては有りません、貴方が居無くなつて後、片時も私は貴方の爲に神へ祈りを絶たなんだのです。其後に何の音沙汰も無い爲に、多分は牢の中か何處かで死んだ事と思ひました、ハイ死んだと思ふ事になツて後は、毎日心の中で泣いて居ました、泣くのと神に祈るより外に、女の身として何が出來るでせう、友さん私は十年の間、貴方の夢を見ぬ夜とては一夜でも無かツたのです、其後、新聞紙で團友太郎と云ふ者が泥阜でいふの牢で脱牢を企てたと云ふ事を讀みました、さては友さんが未だ死はせなんだかと驚きも悲しみも仕ましたけれど、其記事は唯貴方が其時に死んだ事を確める許りでした、貴方が他の死人の袋に入り、高い崖から海の中へ投込まれる時崖下の空中で叫び聲を發したので、牢番等は初めて、活た人を投込だと氣が附いたけれど、直ぐに深さも知れぬ水の底へ貴方が沈んで了ツたと有りました、此事を知つて後私は毎夜の夢に、海の際の崖の上で、牢番の樣な人が袋を持ち、其れを振動かして惰力はずみを附け、爾して海へ投込んでゐる所を見ました、爾して袋の中から出る魂消たまげる樣な貴方の叫び聲を聞いては目を覺しました、一夜でも私は此叫び聲にうなされずに寢た事は有りません、友さん、友さん、貴方も苦しんだでせうけれど、私も苦しみました、ハイ世の女には類の無いほど私も苦しみました」

伯爵は又も自分の頭を掻むしりつゝ「成るほど苦しむ事は苦しんだでせう、けれど貴女は自分の父が自分の留守に餓死うゑじぬると云ふ樣な辛い場合に逢つた事が有りますか、自分が終身出る事の出來ぬ土牢の底に沈み、死ぬ許りの苦しみを仕てゐる間に、自分の命とまでもと言交した女が、自分の戀の敵ハイ――自分の密告者に――手を差延べてゐると云ふ樣な苦しみに遭つた事が有りますか」と眞に人生痛苦痛恨の極を描いて猶も引續き問ひ掛けやうとした、露子夫人は之を妨げ「イヽエ、其樣な苦しみに逢つた事はありませんけれど、自分が昔命までもと言替いひかはして愛した人が、今は自分の子を殺さうと仕てゐる樣な苦しみには遭ひました」アヽ其苦しみと此苦しみといづれが辛き、眞に露子夫人の此言葉は、最後に悲鳴である、聞くにも忍びられぬ程に凄絶の聲であツた、流石の伯爵も咽喉にむせび聲の自ら起り來るを妨げ得なかつた。

あゝあゝ、柔は能く剛を制した、復讐者の石心鐵腸も碎けて了ツた、伯爵「では何うせよと仰有るのです、息子武之助を助けよと云ふのですか、致方がありません、助けませう」助けませうの一語、伯爵に取りては生血を絞りて出すよりも猶ほ辛い所である、けれど絞りて、出した、露子夫人の此時の驚喜は譬ふるに道が無い、伯爵のまなこにも自ら涙の迸り出るほどに映じた、けれど伯爵の涙は千金萬金にも換へ可きで無い、眞に人間の情の美の極まる所から發する者ゆゑ、神が惜みて斯る涙は人間にこぼさせない、伯爵のまなこは直ぐに乾いた、露子夫人は熱心に伯爵の手を取り之れを我が唇まで上げ「オヽ、本統に武之助を許して下さる、私は謝する言葉を知りません、友さん、友さん、貴方は常に私の心の鏡に寫ツてゐた通りの慈悲深い寛大な方です、斯樣な美しい氣質と知ればこそ私の尊敬は絶えぬのです、貴方は人の中の神樣です」感謝されるは惡く無いけれど、唯だ此武之助を赦すと云ふ短い言葉が伯爵に取つて何れほど重大な事柄だらう、武之助を赦すとは武之助を赦す丈けでは濟まぬ、今まで運んだ一切の大計畫を是れ限り捨て了はねば成らぬ、つゞめて云へば武之助を活すのは伯爵自身を殺すのである、伯爵は泣くにも泣かれぬ苦い笑を帶び悄然として答へた「ハイ友太郎は最う永く貴女に爾う尊敬せられる餘年が無いのです、彼は復讐の爲に墓の底から生き返つて來た死人ですから、ハイ幽靈ですから、死人は最う元の墓場へ歸らねば成りません、爾です、幽靈は暗闇へ退かねばなりません」何たる物凄い言葉だらう、最早大事業を思ひ切り此世に用の無い身と爲つた爲め死んで此世を去らねばならぬとの淋しい心が暗に言葉の中にもツて居るのである。

巖窟王 : 二一九 友太郎とお露 五

人は有情の動物である、情の激動した場合には何の樣な事をでもする、唯情の爲に一切を忘れるのだ、巖窟島伯爵が「武之助を助ける」と約束するに至つたも是れでは有るまいか、巖窟王とも云はれる人が情の爲に一切を忘れるとは餘りの事に受取り難い程で有るけれど伯爵は元來情の人で有る、唯だ彼は土牢を出てから後、今まで全く情を動かさぬ鐡石の如き人と爲つて居たのは其決心の強い爲でも有るけれど、一つは今夜ほど恐る可き相手に出合はなんだのだ、情は大抵自分より強い相手には動かされずに弱い相手に動かされる、實に露子夫人が伯爵の情を動かし得る唯だ一人の相手で有つた、全く伯爵は此夫人の子を思ふ母の情に感動し、成るほど武之助が我が身の爲に殺されるは母たる者の身に取つては何れほど辛からうと、憫れみ察する情が一時に湧き起り、殆ど自分の心を制すると云ふ氣さへ出ぬ間に「助けませう」と云ふ約束の言葉が口に出たのだ、言切つて直ぐ後で早後悔の念が犇々ひし〳〵と身を責めたのは無論である、けれど仕方が無い。

全く武之助を助けるのは自分の身を殺すのだ、今まで二十五六年、海も之に比べては猶淺く山も之に比べては猶低しとする程の艱難辛苦を復讐の爲に重ね、爾して其復讐が最早屆くと云ふ間際になつて之れを捨てゝ世を去るとは人間に出來る事だらうか、し出來ずとも伯爵は之をせねば成らぬ「死人は元の墓に歸り、幽靈は暗闇に退かねば成らぬ」と伯爵が淋しい言葉を吐くのは當然である、けれど露子夫人は怪しんで「エ、エ、貴方は何と仰有います」と問返した、伯爵「貴方の命令です、私は死ぬるのです」露子「死ぬる、誰が貴方に死ぬる事を望みました、何で死ぬるなどと云ふ言葉をお用ひ成さる」合點の行かぬも無理では無い、伯爵は絶望の聲で「死ぬる外は無いでは有りませんか、私に比べれば猶だ子供も同樣な武之助に、衆人の前で彼の樣に侮辱せられ、其れを懲さずに泣寢入に成つたと云へば、世間の人は此巖窟島伯爵を何と云ひます、泣寢入では無い許して遣つたのだと辨解が出來ませうか、相手は許されたのを自分の勝利の樣に吹聽し、世間の人は許したのを私の臆病に歸するのです、此樣な状と爲つて、何で生きて居る氣が有りませう、露子さん、露子さん、私が何よりも深く愛したのは貴女ですが、貴女の次に愛したのは自分の身です、私は自分の身の品位を愛し、他人に勝れて決心の強いのを愛するのです、此強いのが私の生命です、然るに今は貴女の爲に此強い決心がくじかれました、生命とする所の者を掻消されました、是れで私は死ぬるのです」

「でも、決鬪を止めて下されば好いでは有りませんか、貴方が最う武之助の無禮を許して下さツたのですから、エ無禮を赦せば決鬪の箇條が消えるでは有りませんか」と露子夫人はあわてゝ云つた、伯爵「イヤ決鬪は致します、唯だ私が武之助を射殺すのを止めて、武之助に射殺されるのです」實に驚く可き決心である、流石の露子夫人も之には絶叫の聲を發しあたかも射殺される人を抱止めるかの樣に、身を躍らせて前に進み出たが、忽ち又思ひ直したと見え、其足を踏止めて「友さん、私は唯だ神の守護を願ふ外は有りません、貴方が泥阜でいふの海を死なず此通り活て居るのも、斯うして兩人再會するのも神の守護が有ればこそです、猶此上に私は神の守護を祈りつゝも、兎に角貴方のお言葉を當にします、貴方は武之助を助けて下さると云ひましたわね」一方には神が何方どつちをも死なしめざるを祈りつゝ一方には今の約束の念を推すのである、伯爵「ハイ御安心成さい、武之助は無事に生存しますから」請合ひはする者の、全く自分が武之助の爲に犧牲にせられる樣な者だと思へば、何で露子が此身の是ほどの損害を氣の毒とも思はずに請引のか殆ど合點が行かぬ樣な氣もする、幾等兒を思ふ親心にもせよ、我子の爲に人の命を失はせるとは、せめては辭退らしい言葉でも發し相な者である。

けれど露子には、言葉だけにも辭退や辭儀の氣は少しも無い、唯だ嬉しげに「友さん、貴方はホンに此世に又と無い、心の立派な美しい爾してえらい方ですわ、私とても何うか貴方に恥ぢぬ丈の事は仕たいと思ひますが、兎に角武之助の事は呉々も宜しく願ひます」と念の上にも念を推した、勿論伯爵は念を推される迄も無い、確に我言葉を守る積りでは居るけれど、實に情け無さの想ひに堪へぬ「露子さん、貴女は未だ、之が爲に私の迷惑が何れほどかといふ事を知りません」迷惑と云ふ樣な有觸れた言葉で言盡せる遺憾では無い「今此の場合に私が命を失へば、何も彼も――何も彼も――」と、伯爵は滿腔の不平、怨恨、苦痛、絶望などを叫ばんとしたけれど、叫ぶとも無益である、又叫び盡せる言葉とても無い、露子は其うちに身繕ひした「友さん、又お目に掛りませう、何うか何分にも宜しく願ひます」三たび念を推して、伯爵が茫然自失してゐる間に立去ツた、其後に伯爵は殆ど人事不省の樣に考へ込んで居たが、露子夫人の立去る馬車の音に、氣が附いて後を追ふかとする樣に立上ツた、けれど最う仕方が無い、又 蹌踉よろめいて椅子の上にたふれ「エ、エ、此身ほどの愚人は無い、復讐を思ひ定めた時に、何故自分の心を割いて此弱い情をえぐり捨て了はなんだらう」と悔しがツた、誰が思ふても全く其通りである、伯爵の心の底に猶ほ慈悲愛憐などの念の存して居たのは、千秋の遺憾と云はねば成らぬ。

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