日本人と漢詩(114)

◎木村蒹葭堂、伊藤若冲と売茶翁

 今回は、中村真一郎の本の頁数を少し飛ばして…
 京都の福田美術館が、伊藤若冲の画を海外から買い戻したと、2024年11月10日号の、赤旗日曜版に記事があった。2025年1月まで展示しているとのことなので、機会があれば観に行きたいものだ。
 蒹葭堂(1736‐1802)と若冲(1716~1800)は、ほぼ同時代なので、交流があったように思うが、蒹葭堂の交遊録には、若冲の名前は出てこない。間接的には、若冲が師と仰いだ、売茶翁(高遊外)や、同輩・僧大典などは、蒹葭堂開館当時に知っていたので、彼らを通じて若冲の評判は聞いていたかもしれない。このうち大典は、前回紹介した宇野明霞に儒学を学んだとある。
 売茶翁は、肥前(佐賀県)の人。各地で、禅僧として修行するも、「釈氏の世に処《お》る、命の正邪は心也。迹には非ざる也。(人の評価は、ただ行跡にとどまることなく、内なる命が大事である)」として、茶を売ることで飢えをしのぐようになった。それも、「茶銭は黄金百|鎰《いつ》一鎰は二十両ーより半文銭まではくれ次第、ただのみも勝手、たゞよりはまけまうさず」と貼紙がしてあったという。表裏千家の茶道とは違った、洒脱というか、自由なお茶の楽しみ方を目指したようだ。お茶の後は、若干の歌舞音曲と楽しい談笑が待っている、江戸時代中期、生産力もあがり、人々の需要層も量的に、質的にも高まってきたようだ。
 若冲と売茶翁との交流は、NHKの2021年正月TVドラマ「ライジング若冲 天才 かく覚醒せり Wikipedia」 にあったとおりである。
 その売茶翁の詩から
錢筒二題ス
隨處開茶店 ー鍾是ー錢 随処二茶店ヲ開ク、ー鍾《シヨウ》(一杯の意)、コレー銭。
生涯唯箇裏 飢飽任天然 生涯タダコノ裏《ウチ》、飢飽天然二任《マカ》ス

煎茶日々起松風 醒覺人間仙路通 煎茶日々、松風ヲ起ス。醒覚ス、人間《ジンカン》仙路通ズルヿ《コト》ヲ。
要識盧仝眞妙旨 傾愛先入箇錢筒 盧仝《ロドウ》(中唐の詩人。隠棲して仕官しなかった)真妙ノ旨ヲ識ラント要セバ、囊ヲ傾ケテ先ヅ箇《コ》ノ銭筒二入レヨ。

参考】
中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」(新潮社)

日本人と漢詩(111)

◎一休禅師と祇園南海(補足)と野口武彦

 最近、野口武彦が亡くなったのを知ったので、彼を偲んで、少し寄り道をして、手持ちの著作から二つ。

ー休禅師・『美人陰有水仙花香』ー『狂雲集』

楚台応望更応攀 楚台は応《まさ》に望むべく更に攀づべし
半夜玉床愁夢間 半夜玉床愁夢の間
花綻一茎梅樹下 花は綻ぶー茎梅樹の下
凌波仙子遶腰間 凌波《りょうは》の仙子腰間を遶《めぐ》る

 野口氏曰く「花は花でもこれは(言葉がわかる)解語の花」、ま、ここまで「花」の範囲を拡げるか?という感もなきにもあらずだが、「凌波仙子」というのは、北宋黄庭堅の漢詩に典拠をもつ水仙の異名。でもこれ以上の語釈は、無粋、野暮と取られそうなのので、略しておく。

 前回、祇園南海の漢詩は、も一つ評判芳しくなかったようなので(笑)もう、一首追加。

 野口武彦曰く「『雨暗渡頭』と題する七絶の佳什をあげて祇園南海の論を終えることにしよう。」

煙湖草岸雨如塵 煙湖草岸雨塵ノ如シ
野渡舟間隣自親 野渡舟間鵰自ラ親シム
一箇短節蓑笠客 一箇ノ短節蓑笠ノ客
恐是錦囊尋詩人 恐ラクハ是レ錦囊詩ヲ尋ヌルノ人

 こちらもひとつだけ語釈。結句「恐是錦囊尋詩人」は、唐・李賀の故事による。才あふれる李賀は湧き出る詩想を、なぐり書きし、腰にぶら下げる袋に投げ込んだという。画の人物を李賀に擬え、客観的に鑑賞している自分。画はおそらく現実のそれではないだろう。そのことで、詩才をたのんだ己の若き日に思いを馳せ、この詩で内面化した自己を表現するのだろうか?

図は、野口武彦「花の詩学」表題と一休禅師(Wikipedia から)

参考】
・野口武彦「花の詩学」「江戸文学の詩と真実」

日本人と漢詩(110)

◎祇園南海と木村蒹葭堂と中村真一郎(補足)

 しばらくは、中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」に載る漢詩を、書籍の最初から順を追って紹介したい。まずは、木村蒹葭堂の本格的なオープンであるが、前回紹介分のの祇園南海の補足から。
 木村蒹葭堂の絵の師匠、池大雅は、一度だけ祇園南海に面会したことがある。その一度の邂逅で、真髄を伝授されたという。池大雅は木村蒹葭堂の絵の師匠。文化史的につながっていると中村真一郎はいう。図は、池大雅と祇園南海の画から。
 祇園南海は、漢詩作での名をあげたと、江村北海「日本詩史」で評価されるが、若い頃は、その才を托んで、周囲の反発をかったようだ。「放蕩無頼」の罪状で、一度は流謫の身となったが、将軍吉宗の斡旋もあり、その後、紀州藩の儒官の身分を得る。その間も、彼は、外面《そとずら》と隔絶した、内面性を持っていた、と野口武彦氏は指摘する。最晩年の73才の時の、彼の詩。

『己巳歳初作』(寛延二年、一七四九)
我素人間無用客 我素卜人間《じんかん》無用ノ客
設令有用亦何益 タトヒ用有ルモ亦タ何ノ益アラン
惟應嬾眠冤復眠 惟ダ応二嬾眠覚メテ復タ眠ルベシ
撃攘起息亦役役 撃攘 起息 亦タ役々

&emsp:結句は、直訳すれば「地面をを踏み硬めて息をハーハーさせるなど日常生活動作をもっぱらにする」くらいの意味か?

 当方、この詩作の年齢以上になり「惟ダ応二嬾眠覚メテ復タ眠ルベシ」は当っているにしても、こんな心境に達しているかどうか、疑問であるし、あるし、別途の問題ではある。

参考】
・中村真一郎「木村蒹葭堂のサロン」
・野口武彦「江戸文学の詩と真実」

日本人と漢詩(109)

◎中江藤樹と熊沢蕃山と生写朝顔話

 先日、文楽鑑賞、題目は「生写朝顔話《しょううつしあさがおばなし》」。これが、「意外」なほど、面白かった。1840年、天保年間の作とあるので、浄瑠璃台本の「大作主義的な最盛期を過ぎ、複雑な「因果応報」の筋書きに観客も飽きがきたのか、比較的単純なプロットである。一言で言えば、相思相愛の恋人どうしの偶然がなせる「すれ違い」の連続、後の世の、「不如帰」や「君の名は」に受け継がれると複数の識者は言っている。台本の元になったのは、中国・明末、清初の小説から題材を取った、馬田柳浪「朝顔日記」、明治の文人、広津柳浪の祖父、「松川事件」で論陣をはった、広津和郎の曽祖父にあたるとある。
 戦国大名、大内氏に仮託して話は進む。宇治に来ていた二枚目のやさ男、宮城阿曽次郎が認《したた》めた、和歌「諸人の往き交ふ橋の通ひ路は肌涼しき風や吹くらん」の短冊が、風のいたずらか、川遊びの船に流れ着く。そこにいたのは、ヒロイン深雪。それが、二人の出会いと別れの始まりだった。以下、筋は略するとして、お家騒動はからみ、駒沢次郎左衛門と名を変えたヒーローを亡き者にせんとする陰謀で、痺れ薬を飲まそうとするが、間一髪笑い薬に置き換えられ、盛った本人が笑いの止まらぬようになるシーンなど、実際の舞台では太夫の大熱演であった。
 宮城阿曽次郎のモデルになったのは、儒学者熊沢蕃山、彼は岡山藩に使えたとある。文楽では、大内家のお家騒動で、主君に「諫言」をしたと脚本にあるので、なにか、岡山藩での史実があったかもしれない。蕃山は「陽明学派」であり、より「実践」的なのかな?ただし、文楽では、阿曽次郎は影がきわめて薄く作っている。なんといっても、深雪の「くどき」を含む人物描写がメインだからであろう。
 蕃山の師が、「近江聖人」と称される中江藤樹。その藤樹が蕃山が備前岡山藩に二度目に赴任する時の五言律詩。

送熊沢子還備前(熊沢子の備前に還るを送る)
舊年無幾日    旧年 幾日も無し
何意上旗亭    何ぞ意わん旗亭《きてい》に上らんとは
送汝雲霄器    汝が雲霄《うんしょう》の器を送りて
嗟吾犬馬齡    吾が犬馬の齡を嗟《なげ》く
梅花鬢邊白    梅花 鬢辺《びんへん》に白く
楊柳眼中靑    楊柳《ようりゅう》 眼中に青し
惆悵滄江上    惆悵《ちょうしょう》す 滄江《そうこう》の上
西風敎客醒    西風 客をして醒《さ》めしむ

簡単な語意】月日の立つのは早く、別宴で料亭に飲もうとは…君の才能と年を重ねた私私の髪の白さと、君への期待に満ちた柳の青さ、川の辺の西風は、醉いが醒めるほど冷たいと、前途有望たる弟子への餞《はなむけ》と老境にさしかかったわが身の対比を語る。

参考】髭鬚髯散人之廬

日本人と漢詩(108)

◎加藤周一と吉田松陰


 久しぶりに、加藤周一の吉田松陰を扱った小冊子を手にしてみたが、いささかの違和感を感じた。思いの外、松陰に肩入れしているからだ。特に、彼の抱いていた政策が極めて現実的であったことを評価するのは、興味のあるところだ。ただ、加藤周一が語らぬところだが、「松下村塾」を通じて「弟子」たちに伝えていったことが、その後の日本の行く末を決定したことも間違いないが、果たしてそれが良かったのだろうか?
 そこで、少し、加藤周一の「日本文学史序説」も、松蔭の漢詩に触れた部分を繙いてみた。

松陰の詩は、その大部分を、『松陰詩稿』に収める(『全集』、岩波書店、ー九三九の第七巻)。そこには頻に「墨土火船」とか「四夷」とか「国恥」とかいう語がみえ、また頻に「忠義」とか「勤王」とか「報国」とかいう憂国の語があらわれる。身辺雑事の観察はなく、四季の吟詠もなく、恋の歌もない。措辞の洗練も、詩的「イメージ」の独創もなくて、彼の詩はほとんど日記のように、機会に応じてその政治的理想を述べる。彼が詩人であったのは、そういう詩を書いたからではなく、その生涯の思想と行動とが一種の詩に他ならなかったからである。

狂愚誠可(㆑)愛
才良誠可(㆑)虞《おそる》
狂常鋭(二)進取(一)
愚常疎《うとし》(二)避趨(一)
才多(二)機変士(一)
良多(二)郷原徒(一)
流俗多(二)顛倒(一)
目(レ)人古今殊《ことなり》
オ良非(二)才良(一)
狂愚豈狂愚
(「狂愚、『松陰詩稿』)
(書き下し文)
狂愚誠に愛すべし 才良誠に虞るべし
狂は常に進取に鋭く 愚は常に避趨に疎し
才は機変の士多く 良は郷原の徒多し
流俗顚倒多く 人を目すること古今殊なり
才良も才良に非ず 狂愚豈に狂愚ならんや

 引き続き、加藤の詩の「解説」は長い引用になるが…

「進取に鋭く」は、『論語』、子路篇、第二ー章の「狂者進取」に拠る。「郷原の徒」は、同じく、陽貨篇、第二ニ章の「郷原徳之賊也」を踏まえて、 いわゆる「八方美人」である。「機変の士」すなわち機会主義者(または現実追随主義者)に対し、また「八方美人」に対して、あくまで前進し、困難を避けない「狂愚」を、彼は愛するといったのである。そういう心情は、力関係の冷静な判断や費用と効果の計算や戦略的な妥協というもの、つまり政治的な思考と、背馳するにちがいない。彼には詩人の気質があって、政治家の天性がなかった。しかるに時代は、詩人を政治的状況のなかにまきこんだのである。吉田松陰という現象は、まさに詩人の政治化であった。そのことから現実主義に媒介されない政治的理想主義が生じる。現に彼の理想主義から影響を受けた青年は多く、非現実的な行動計画に賛成した同志は少なかった。かくして孤立は強まらざるをえず、獄中に孤立した松陰の行動計画の撰択の範囲は、いよいよ狭くなるはずであった。それでも積極的に動こうとすれば(「進取」)、もはや「テロリズム」以外に手段がなくなるだろう。妥協のない理想主義から孤立へ、孤立から手段の過激化へ、したがってより以上の孤立へ!という悲劇的な道は、ついに効果の点で絶望的な行動に終らざるをえない。その最後の行動は、もはや政治的な面においてではなく、詩的な、あるいは精神的な面においてのみ、象徴的な意味をもち得る。それが藩主の待ち伏せ計画、いわゆる「要駕策」であった。「要駕策」が失敗し、捕えられた門人に送つた彼の書簡には、「天下一人の吾れを信ずるものなきも、吾れに於ては毫も心を動かすに足るものなし」という(「和作に与ふ」、『己未文稿』、ー八五九)。詩人はどれほど政治家しても、詩人に還るのである。

 加藤特有の「論旨」の建て方には感服する面もあるが、後の世代にも引き継がれ、日本の行く末を危うくした松蔭の「ニヒリズム」が果たして詩人の「資質」なのだろうか?ここは、高杉晋作の「三千世界の烏を殺し、主と朝寝がしてみたい」という都々逸に現れるやや退嬰的な雰囲気のほうが、「詩情」に富む気がしてならない。(高杉晋作については、日本人と漢詩(030)でも触れた。)

参考】
・加藤周一「吉田松陰と現代」(かもがわブックレット)
・加藤周一「「日本文学史序説・下」(ちくま学芸文庫)

日本人と漢詩(107)

◎一海知義と魯迅
Facebook から
いつも、丁寧にスクラップをアップしていただいているYさんのウォールになかったので…
いつか、魯迅の漢詩も紐解いてみたいと思っています。
赤旗文化欄 2012年6月15日付より

日本人と漢詩(106)

◎江馬細香と大西巨人

 日本の戦後、しばらくしての文学は、ロシア革命後のアバンギャルドを始めとして、様々な潮流があり、今日《こんにち》から見ても、興味深い。その「戦後」が落ち着いた頃「新日本文学」系の潮流の集大成というべき作品の一つが「神聖喜劇」なのではないか?
 旧軍隊の中にあって、作戦要務令などを「逆手」にとって「抵抗」を試みる一兵卒の話で、小気味良いものさえ感じる。それは、なによりも、一旦、文章化されると、それは「固定」され、それなりの首尾一貫性を持つ。こうした、規則、法律、憲法に至るまで「文に成る」。その「論理」を無視して、無謀な戦役を続けたのが、「日本帝国陸海軍」であったと言えるだろう。
 田能村竹田はじめとする多くの漢詩を引いているように、「漢文」という表現法は、性格上、この小説に似合っていると言わなければなるまい。ここでは、小説に載った江馬細香の七絶から…
別後贈人
ー點愁燈夢屢驚
耳邊所觸總關情
尋常蕉雨曾聞慣
不似今宵滴滴聲
〔 別後、人贈ル
一点ノ愁燈、夢|屢《シバラク》驚ク、
耳辺《ジヘン》触ルル所八総《スベ》テ情二関《カカワ》ル
尋常ノ蕉雨《セウウ》ハ曾《カツ》テ聞キ慣レシモ
今宵|滴滴《テキテキ》ノ声ニハ似ズ〕
語釈】関情:心をかき乱す 蕉雨:芭蕉に注ぐ雨
 頼山陽の評に「鉄石心腸(堅固な心の細香)もまた時に此等の詩を作る、寧《いづくんぞ》本事《ほんじ》(詩情に託した隠された事情)有らんや」
訳文】眠れぬ夜の耳元に聞こえてくるのは悩ましいものばかり、芭蕉に降る雨の音は今宵ばかりは心に滲みる

次韻平戸藩鏑軒先生見寄作
ー誤無家奉舅姑
徒耽文墨混江湖
却慚千里來章上
見儀文場女丈夫

平戸藩鏑軒先生 寄せらる作に次韻す
〔ー《ヒト》タビ誤ツテ家二舅姑《オウト》ヲ奉ゼズ徒《イタズラ》二文墨《ブンボク》二耽《フケ》ツテ江湖二混《マジ》ル却《カヘ》ツテ慚《ハ》ヅ千里来章ノ上見ルナラク文場ノ女丈夫ナリト〕

 ここでは、長い引用になるが、大西巨人の「解説」に頼る。
『江馬細香にたいする私の持続的・中心的関心は、とても実に次ぎのごとき細香晚年(嘉永五年〔ー八五二年〕)作七絶一首の存在(そのことに関する私の言わば「独断的」解釈)に由来していた。』

『一首の意は、さしずめ「私は、若い日、結婚のことで、かりそめの失敗をして、とうとう未婚のまま、むなしく詩文書画の道に熱中して俗世を渡ってきたが、今日、遠方より到来せる詩篇の中『(細香は実に)文壇の女丈夫(である。)」などということが(褒詞として)書かれているのを見ると、いっそほんとに恥ずかしい。」というような物であろう。
 ただし、あるいは「江湖二混ル」は、私の理解とは逆に、「隠遁」ないし「隠棲」を意味するのかもしれぬけれども、それがそうであっても、私の論旨は、別に痛痒を感ぜない。)』

『先の細香晚年(六十六歳)作七絶〔『次韻、平戸藩鎧軒先生ノ寄セラレシ作二』〕における「千里来章」は、この肥前平戸在住葉山佐内が遥かに美濃大垣在住江馬細香に寄せた詩篇を指示し、肝心の詩句は、「淋漓タル逸墨、詩画ヲ饒ニス/知ル是レ文場ノ女丈夫ナルヲ」である。
 後藤松陰(篠崎小竹女婿・頼山陽門人)撰の「墓誌銘」が『湘夢遺稿』巻末に収録せられていて、そこに「女史、人卜為リ篤実温雅二シテ卓識アリ、父-一事ヘテ孝、拋有リテ常セズ、筆硯自ラ娯ム。而シテ又、慨然トシテ憂国ノ気アリ、衆眉ノ丈夫ヲシテ慵衝有ラシ厶。」の文言が見られる。細香を論致せる『女詩人』において、徳富蘇峰は、如上「墓誌銘」中の「慨然トシテ憂国ノ気アリ、衆眉ノ丈夫ヲシテ愧色有ラシム。」という語句ならびに小原鉄心〔大垣藩家老〕の「喜ンデ古今ヲ談ジ、言、国家興廃ノ事二及ブヤ、涙ヲ揮ツテ之ヲ論ズ。」という言辞〔『湘夢遺稿』の「序」〕を引きつつ、それらによって細香晩節の「一斑を察す可し」、と書いた。また『湘夢遺稿』は、前掲次韻七絶の頭註として、頼三樹三郎の「真情真詩。女史ヲ知ラザル者ハ、或八尋常ノ風流女子卜以サン。過謙ノ語ナリ。」という評語を載せた。それにしても、「文場ノ女丈夫」という讃辞は、やはり主として細香の文芸的才能および業績にかかわっていたはずである。
 一般に人(識者)は、「ータビ誤ツテ家二舅姑ヲ奉ゼズ」の起句から、ただちに前述「墓誌銘」が言う「故有リテ笄セズ。」の事実に思い及ぶにちがいなく、したがってまたただちに細香二十代における頼山陽との縁談上蹉跌に思い至るにちがいない。そうすることに現実的根拠が大いにあるであろうことを、私は、一面において肯定する。しかも他面において、私(の独断的解釈)は、「ータビ誤ツテ家二舅姑ヲ奉ゼズ/徒一一文墨二耽ツテ江湖二混ル」の起承から、おのずとトオマス・マン作『トニオ・クレーゲル』におけるたとえばリザヴェタ・イワノヴナの’Sie sind ein Bürger auf Irrwegen,Tonio Kröger,—-ein verirrter Bürger’〔「あなたは、邪道におちいれる市民なのよ、トニオ・クレーゲル、——迷える市民なのよ。」〕という言葉を思い起こし、ひいてまたおのずと明石海人の諸制作におけるたとえば「病む歌のいくつはありとも世の常の父親にこそ終るべかりしか」という一首を思い合わせる。』

 まるで、森鴎外の史伝小説を継承し、それに+α したような書きぶりであることにも興味深い。

「神聖喜劇」というタイトルは、成文法の「頂点」と言うべき旧憲法第三条にあるような、「日本においては悲劇は喜劇である」という、愚の骨頂というべきか、為政者に都合のよい「フィクション」に基づいたものに思えてならない。

参考文献】
・大西巨人「神聖喜劇」第三巻(光文社文庫)
・江馬細香「湘夢遺稿」上(汲古書院)

日本人と漢詩(105)

◎井波律子と廖雲錦

 今日は、亡母の命日、久しぶりに休みをとって簡単な墓参を済ませた。一年にも満たないターミナルの時は、息子としてとうてい「孝行を尽くした」とは言えないのだが、それでも、それなりに「喪失感」がしばらくは続いた。

 対象が実母ではないが、「姑《しうとめ》を哭《こく》す」詩。

禁寒惜暧十餘春 寒《かん》を禁じ暖《だん》を借しむこと 十余春
往事回頭倍愴神 往事《おうじ》 回頭《かいとう》すれば 倍《ます》ます 神《こころ》を愴《いた》ましむ
幾度登樓親視膳 幾度《いくたび》楼《ろう》に登り 親しく膳を視《み》ん
揭開幃幕已無人 幃幕《いばく》を掲《かか》げ開くも 已《すで》に人《ひと》無し

 作者は、廖雲錦《りょううんきん》、清代中期の詩人袁枚《えんばい》門下の数多くいた女性詩人、生没年は不詳とある。当方も、井波律子さんの著作で初めて詩人の名を知った。

 訳は、井波さんのをまるごと引用

「寒くないよう暧かくすることにつとめて、十余年。昔をふりかえると、ますます心が痛む。何度、二階に上がり、この手でお給仕したことだろうか。垂れ幕を持ち上げ開いてみても、もうお姿はない」

 あの期間は、わが連れ合いは、姑のケアを実に良くしてくれた。今でも感謝に絶えない。また、井波さんは、実母を見送った時に引き寄せ文章を綴っているが、喪失感の表現として、肉親が亡くなるとは、まさに「幃幕を掲げ開くも已に人無し」と実感できる。

参考】井波律子「新版 一陽来復―中国古典に四季を味わう」岩波現代文庫(図はそのカバー表紙

日本人と漢詩(104)

◎成島柳北と大沼沈山(付 崔敏童)

 ともに、以前紹介した詩人。日本史のなかでは、歴史の流れの断絶は、明治維新と太平洋戦争前後の二回が大きく目立つが、その「明治維新」を境目に、おのおの違ったスタンスではあるが、「二世」の生涯を送ったという点では共通しているが、そのスタンスには大きな違いがある。「二世」の代表としては、福沢諭吉が挙げられようが、彼の後半生のアジア諸国蔑視には、日本国内の反封建制への痛切な批判を帳消しにして余りあるものがあり、とうてい「二世」を生ききったとは自慢できない。また、成島柳北もせいぜい1.5世を生きた程度で、潜在的には持っていたとも思われるが、明治の世に対する内在的な論評は多くはない。せいぜい、明治24年まで生きた大沼枕山の新東京を詩ったのに、後ろ向きであるが、それでも核心をついた文明批評が見られる。

 まず、柳北の詩から

戊辰五月所得雜詩 戊辰《つちのえたつ》五月、得《う》る所の雑詩
如今何處說功名 如今《じょこん》 何処《いずこ》にか 功名《こうめい》を説《と》かん
天地若眠人若酲 天地 眠れるが若《ごと》く 人 酲《よえ》るが若し
綠酒紅裙花月雪 緑酒 紅裙《こうくん》 花月雪《かげつせつ》
風流幸未負先生 風流 幸《さいわ》いに未《いま》だ先生に負《そむ》かず
【簡単な語釈と訳】
戊辰:まさに戊辰戦争の年、明治元年五月 如今以下:いま時どこで功績や名誉を説くことができようか 緑酒:高価な酒 紅裙:きれいどころ 花月雪:韻の関係で、白居易「殷協律に寄せる」「雪月花の時、最も君を懐《おも》う」から 先生:自分自身を指す

 戊辰戦争のカオスのさなか、彼の軸足は、「柳橋新誌」などを著した幕臣時代、それも遊興の時にあったようだ。明治に入っては、在野のジャーナリストを目指したが、志は中途のままで、世を去った。

 つぎに、大沼沈山

新歲雜題 新歳雑題《しんさいざつだい》(四首のうち一首)
仕到大夫賢所願 仕えて大夫に到るは賢の願う所
守愚飜擬碩人寬 愚を守って翻《かえ》って擬《なぞら》う 碩人《せきじん》の寛なるに
今朝五十知天命 今朝《こんちょう》 五十 天命を知る
福在淸閒不在官 福は清閒《せいかん》に在《あ》って 官に在らず

【簡単な語釈と訳】
慶応三(ー八六七)年正月の作。前掲の柳北の詩より一年前だが、政権交代期の緊迫した状況は、ほぼ同様である。碩人:大徳ある人、詩経・衛風から 五十:論語「五十にして天命を知る 清閒:職務を離れて暇であること

第二首に「十千 酒を沽《こ》うて 貧を辞することなかれ」(貧乏だからといって、美酒を買うのをためらってはいけない)は、次の「唐詩選」の詩を踏まえる・

宴城東荘(崔敏童)
一年始めて有り 一年の春
百歳曽て無し 百歳の人
能く花前に向かって 幾回か酔う
十千 酒を沽うて 貧を辞する莫れ

 この詩は、今年の年賀状に引用した。

 沈山の明治になってからの詩。

東京詞 東京詞(うち二首)

天子遷都布寵華 天子 都を遷《うつ》して 寵華《ちょうか》を布《し》く
東京児女美如花 東京《とうけい》の児女 美なること花の如し
須知鴨水輸鷗渡 須《すべか》ベからく知るべし 鴨水《おうすい》の鷗渡《おうと》に輸《しゅ》するを
多少簪紳不顧家 多少の簪紳《ろうしん》 家を顧《かえ》りみず

【簡単な語釈と訳】寵華:恩寵をいうが、高官が花街出入り自由という皮肉が込められている 美なること花の如し:美女を言う常套句、李白「越中覧古」「宮女《きゅうじょ》花のごとく春殿に満つ」 鴨水:京都の鴨川 鷗渡:隅田川、「伊勢物語」に縁る 簪紳:身分の高い人、新政府の高官たちが花街に出入り自由になって家庭をかえりみない


双馬駕車載鉅公 双馬《そうば》 車に駕《つ》け 鉅公《きょこう》を載《の》す
大都片刻往来通 大都 片刻《へんこく》にして往来通ず
無由潘岳望塵拝 由《よし》無し 潘岳《はんがく》 塵《ちり》を望んで拝《はい》するに
星電突過一瞬中 星電《せいでん》突過《とっか》す ー瞬の中《うち》

【簡単な語釈と訳】双馬駕車:江戸時代、日本には「馬車」なる乗り物はなかった 鉅公:高位の人 潘岳:中国・晋の人、眉目秀麗で才知あったが、人格はもう一つで、地位高き人には、車の塵が見えなくなるまで拝んでいたという。星電突過一瞬中:でも相手は電光石火のように一瞬にして通り過ぎるのみ

 沈山は「守旧派」ながら、明治の現実には皮肉ぽい目を向けている。その気質は、親戚筋にあたる永井荷風へと受け継がれているのだろう。

【参考】
江戸詩人選集第十巻「成島柳北 大沼沈山」(岩波書店)

日本人と漢詩(103)

◎河上肇と陸游と一海知義

先日、劇団きづがわの「貧乏物語(井上ひさし作)」を観てきた。戦争中に、彼なりに「非転向」を貫いた、マルクス主義経済学者・河上肇が獄中にあり、その留守家庭を守る五人の女性たちの「対話劇」である。

獄中などで、河上肇が傾倒した陸游の詩に

文能換骨余無法 文能《よ》く骨を換《か》う 余《ほか》に法なし
学但窮源自不疑 学んで但《た》だ源を窮《きわ》め 自《みずか》ら疑わざるなり
歯豁頭童方悟此 歯はぬけ頭《かみ》うすくして 方《はじ》めて此を悟る
乃翁見事可憐遅 乃翁《われ》の事を見ること 遅きを憐れむべし

また、河上肇の「注釈」として、

「骨とは、…基本的な人格である。文は学問…どういう法か…徹底的に…窮めつくして、もはや他人が何と云おうと、どんな目に逢おうと、絶対に揺ぐことのない確信を得ること、…放翁はこう云う、…私の年来の主張と符合する…」

「すべての学者は文学士なり。大いなる学理は詩の如し」
と書く。彼の志が、周囲の人々にどう浸透したのか、河上肇の妻・ひで役を演じた、和田さん等の熱演でよく伝わった。しかし、より多く観客と共感する点では、もう一工夫も二工夫も必要ではなかろうか。上演会場の制約もあってのことだが、舞台全体もあまりにも「リアリズム」すぎて、装置の書割など、もう少し現代にシフトするつもりで、もっとデフォルメでもよかったのでは、と思う。衣装も「和服」主体ではなく、普通の洋装で、河上肇の肖像も、照明的な効果で、劇の進行に合わせて、だんだんシルエット的に大ききなるとか?また、「引用」される芝居が、ゴーリキーの「どん底」(決して古臭くなったわけではないが)ではなく、唐十郎の「腰巻お仙」とまではいかないが、ベケットの「ゴドーを待ちながら」あたりでもいいのでは?そのほうがより「異化効果」があるかもしれない、いっそのこと、井上ひさしの戯曲の枠組みが、初めから決まっているなら、もう少し「崩して」もいいのではないか?彼の劇も、時代に合わせて書きあらためる時期になったのか、とふとそんな気もした。

河上肇の出獄後の詩から

天猶活此翁
昭和十三年十月二十日、第五十九回の誕辰を迎へて、五年前の今月今日を想ふ。この日、余初めて小菅刑務所に収容さる。当時雨降りて風強く、薄き囚衣を纏ひし余は、寒さに震えながら、手錠をかけ護送車に載りて、小菅に近き荒川を渡りたり。当時の光景今なほ忘れ難し。乃ち一詩を賦して友人堀江君に贈る。詩中奇書といふは、エドガー・スノウの支那に関する新著のことなり。今日もまた当年の如く雨ふれども、さして寒からず。朝、草花を買ひ来りて書斎におく。夕、家人余がために赤飯をたいてくれる
秋風就縛度荒川  秋風縛に就いて荒川を度りしは、
寒雨蕭々五載前  寒雨蕭々たりし五載の前なり。
如今把得奇書坐  如今奇書を把り得て坐せば、
盡日魂飛萬里天  尽日魂は飛ぶ万里の天。

青空文庫・河上肇「閉戸閑詠」

改めての注釈になるが、奇書とは、エドガー・スノウの「中国の赤い星」を指す。「奇書」の表現は、「三国志」「水滸伝」などの四大奇書の類ではなく、彼独特の韜晦だと、一海知義さんは言う。ちなみに河上肇は、アグネス・スメドレー「中国は抵抗する」にも涙したそうである。

もう一つ、一海知義「読書人漫語」の背表紙に、「渡頭」という陸游の自筆詩が載っていたので紹介。

蒼檜丹楓古渡頭  蒼き檜 丹(あか)き楓 古き渡頭(わたしば)
小橋橫處系孤舟 小橋 横たわる処に孤舟を繋ぐ
范寬只恐今猶在 范寛 只だ恐る 今猶お在りて
寫出山陰一片秋 山陰一片の秋を写し出だせりと

昔の絵に、陸游の詩が溶け込む、または、詩の背景に、昔の絵が浮かび出るような印象の、今の季節にふさわしい詩である。語釈などは略、Youtubeに、
「渡頭」陸游自書詩を読む という、書と詩の丁寧な解説があるので、参考のこち

参考】
一海知義「読書人漫語」(新評論)