◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(014)
付き]レフ・トルストイ「可愛い女」あとがき
チェーホフの小説の中で、少し「成熟」した女性を描いた作品の双璧は、「犬を連れた奥さん」(青空文庫)と「可愛い女」(青空文庫)だろう。もっとも、こうしたシチュエーションは、幸か不幸か、わが人生において経験したことはないが…
「可愛い女」は、それぞれ相手によって、自らの信条・趣味を簡単に取り替える女性。チェーホフがこの主人公を肯定的にみているのか、否定的に批判しているのかは、難しいところである。
トルストイは、この小説を絶賛した。以下、レフ・トルストイ「可愛い女」あとがき(工藤精一郎訳)からの抜粋。
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作者は、明らかに、彼の考察によれば(しかしそれは心情によるものではない)みじめな存在である「可愛いさ、つまり芝居小屋をもつクーキンの心労を分けあったり、材木商の利害に頭を悩ましたり、獣医の考えをそのまま自分の考えとして、家畜の結核とのたたかいを人生のもっとも重大なことと考えてみたり、果ては、大きすぎる学帽をかふった中学生の勉強の問題や世話にすっかり呑みつくされてしまつたりする女を、嘲笑しようと思ったのである。
彼は、バラム〈旧約聖書「民数記」に登場する詩人〉のように、呪うつもりであったが、詩の神がそれを彼に禁じ、祝福することを命じた、だから彼は祝福し、無意識にこのやさしい女を実にすばらしい光でつつんでやった。だからこの女は、自分も幸福になり、運命によって結びつけられた者を幸福にしてやるために、女があらねばならぬ姿の手本として、永遠にのこることになったのである。
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彼は、バラム〈旧約聖書「民数記」に登場する詩人〉のように、呪うつもりであったが、詩の神がそれを彼に禁じ、祝福することを命じた、だから彼は祝福し、無意識にこのやさしい女を実にすばらしい光でつつんでやった。だからこの女は、自分も幸福になり、運命によって結びつけられた者を幸福にしてやるために、女があらねばならぬ姿の手本として、永遠にのこることになったのである。
この物語は、それが無意識のうちに生まれたために、このように美しいのである。
私は師団の査閲が行われる練兵場で自転車の稽古をしたことがあった。練兵場の向う隅で一人の婦人がやはり自転車の稽古をしていた。私は、その婦人の邪魔にならないようにと考えて、婦人の方を見まもりはじめた。そして、そちらに注意をうばわれていると、かえってしだいにそちらへ近づいて行った、そして、婦人が危いと気がついて、急いで遠ざかろうとしたのに、私はぶつかって、婦人を転がしてしまった。つまり、望んでいたこととまるで反対のことをしてしまったわけだが、これもひとえに婦人にあまりに注意を向けすぎためである。
チェーホフの場合も、これと同じことが、丁度逆に作用しと。彼は可愛い女を転がそうと思って、詩人の注意に集中しすぎて、逆に彼女を抱き上げてしまったのである。
手帖(続き)
だがそうした細かしいいきさつは、殆んどわれわれの耳には舞い込まなかった。(Lolo)
Sの論理。――私は他宗寛容には賛成ですが、他宗許容には反対です。厳格な意味で正教的でないものは、許容するわけには行きません。
聖ピオニヤ及びエピマーハ、三月十一日。聖プープリヤ、三月十三日。
詩や小説戯曲の類いは、現に入用なものを含むわけではなくて、希求されるものを含むのである。しかもそれは大衆を遥かに抜くものではなくて、たかだか大衆の最良分子が希求するものを表現するにとどまる。
頗る用心ぶかい小紳士。賀状までも書留にして、配達証明つきで出す。
ロシヤは曠大なる平原にして、猛漢ひとり飄々乎として疾走す。
Platonida《プラートニダ》 Ivanovna《イヴァーノヴナ》.
もしも君の政治思想さえ堅実ならば、以て理想的市民たるに充分である。同様のことが自由主義者についても言い得る。即ちもしその思想が堅実味を欠くならば、他の点はすべて顧慮される余地はないのだ。
人間の眼は、失敗のときにはじめて開くものだ。
Ziuzikov《ジュージコフ》*君。
*飲んだくれの意。
五等官、尊敬すべき人物。ところが不意に、その彼がひそかに女郎屋を経営していることが暴露する。
Nが非常にすぐれた戯曲を書いた。ところが誰ひとり褒めて呉れない、喜んで呉れない。そして口々に言う、「今度の御作を拝見しましょう。」
稍々身分の高い人々は正面玄関から通った。稍々身分の低い人々は裏口からはいった。
彼 私の町に、キシミーシ(乾葡萄)という苗字の紳士がいましたがね。自分じゃキーシミシと言っていましたけど、なあに本当はキシミーシだと言うことは皆んなちゃんと知っていましたよ。
彼女(ちょっと考えて)何て厭らしいんでしょう……。せめてイジューム(乾葡萄)とでも言うんならまだしも、キシミーシだなんて。
姓。――Blagovospitannyj《ブラゴースピタヌイ》*.
*躾のよい。
最も尊敬するIv.Iv.よ。*
*手紙の前書きに、余計な「最も」をつけた代りに相手の名イヴァン イヴァーノヴィチを略称した。
幸運に恵まれた、何でもとんとん拍子に成功する人間は、時として何と鼻持のならぬことだ!
NがZと関係しているという噂が人の口にのぼりだすと、どうしてもNとZの仲を結びつけずには措かないような空気が、次第次第に醸成されて行くものだ。
まだ蝗がいた時分、私は蝗撲滅論を書いて一世を狂喜させ、名声と富とを擅《ほしいま》まにしたものです。ところが蝗がもう久しく跡を絶って、世間に忘れられてしまった今日、私は民衆の間に埋もれて、忘れられた無用の人間になってしまいました。
快活に浮き浮きした調子で、「では御紹介しましょう、こちらはイヴァン・イヴァーヌィチ・イズゴーエフ君、家内の恋人です。」
その荘園には到るところに立札が立っている。――「無用の者入るべからず」「花を踏むべからず」等々。
領地には立派な図書館があって、主人の自慢の種になっているが、全く利用されてはいない。出して呉れるコーヒーは水っぽくって、とても飲めたものじゃない。庭は不趣味な造りで、一輪の花もない。――総べてこうしたことを、何かトルストイ的だと心得ている。
イプセンを研究しようとスエーデン語を習った。そのために非常な時間と労力を費した。ところが急に、イプセンは大した作家でないことが分った。さて折角のスエーデン語をどうしたものかと途方に暮れた。*
*このスエーデン語というのはどういう意味だか分らない。勿論イプセンの書いたのはノールウェイ語である。
Nは南京虫の駆除を商売にして、それで生計を立てている。文芸作品に対するときも、自分の職業的観点からする。……もし『コサック』に南京虫のことが書いてなければ、つまり『コサック』は駄作である。
人間が信ずるもの、即ち存在す。
聡明な少女。――「私、心にもない真似なんか出来ないわ……」「私、嘘なんか一ぺんもつかないわ……」「私ちゃんと主義があるのよ……」二六時ちゅう私、私、私……。
Nが女優(あるいは歌姫)をしている妻に腹を立てて、彼女の芸を貶した劇評をこっそりと新聞に出す。
或る貴族の自慢。――「私のこの邸はドミートリ・ドンスコイ時代*の造営でしてな。」
*十四世紀。
――あの治安判事さんったら、あたしの犬をひどい呼び方をしましたのよ、「こら、畜生っ!」だなんて。
雪が降った。けれど、地面が血に染んでいるので積らなかった。
彼は遺産を残らず慈善事業に寄附したので、親類や子供たちの手には何一つ渡らなかった。彼等が大嫌いだったのである。
大そう惚れっぽい男。お嬢さんと知合いになるが早いか、もう山羊になってしまう。
貴族 Drekoliev《ドレコーリェフ》*.
*棒材。
俺の記念碑の除幕式に侍従連中が参列するのかと思うと、ぞっとするなあ。
合理主義者ではあったが、罪深い男だったので、教会の鐘の鳴るのが好きだった。
父親は有名な将軍、邸には数々の名画、高価な家具調度。父親が死んだ。娘たちは教育はあるのだが、自堕落な身装《みなり》をして、碌に本も読まず、馬を乗廻して、退屈がっている。
正直な人たちだから、必要のないかぎり嘘はつかぬ。
金持の商人が、うちの便所にシャワーを付けたいと思う。
朝はやくからオクローシカ*を食べた。
*クヴァスで作る肉入りスープ。
「この護符《おまもり》を失くすと死にますよ」とお祖母さんが言いました。ところが急に見えなくなったので、長いこと苦に病みました、死ぬかと思ってびくびくしました。ところがあなた、どうでしょう、奇蹟があらわれたんです――その護符が見つかって、私は生き存えることになったんです。
誰もかもが、私の芝居を観て即座に何か教わろう、何かしら利益を汲みとろうと思って、劇場へ押しかけます。しかしお断りして置きますがね、私にはそんなやくざ者のお相手をしている暇はないのです。
すべて新しいもの、利益《ため》になるものを、民衆は憎悪し軽蔑する。コレラが流行したとき、民衆は医者を目の敵にして打ち殺した。その一方、民衆はヴォトカを愛飲する。民衆の愛憎を標準にして、その愛し或いは憎むものの価値を判断することが出来る。
参考】
・特集「ユリイカ」 特集・チェーホフ 1988年6月号
・文芸読本「チェーホフ」 1989年8月