◎滝沢馬琴・内田魯庵抄訳南総里見八犬伝(002)
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一 番作と蟇六
伏姫が富山に神去り給ひてから十何年になる。武州大塚(今の小石川の大塚)に犬塚番作といふ浪士があつた。もとは大塚の里を知行して大塚を名乘つた管領持氏の家人であつたが、結城の亂に加はつて暫らく踪跡を晦ました間に犬塚と姓を改め、持氏の子の成氏が再び管領となつてから放浪中に娶つた妻を伴れて何年振かで舊采地へ戻つて来た。
然るに番作父子が忠義の爲めに家を明けた不在中、留守居した姉の亀篠は物竪い父や弟には似ない淫奔女で、生さぬ仲の義理の母と、二人棲で誰憚かる者も無いので勝手氣儘に男狂ひをし、擧句の果は母が病氣で人手の足りないのを托けに破落戸の蟇六を引摺込み、母が眼を瞑つたのを好い幸ひにズル〳〵ベッタリの夫婦となつた。成氏が管領家となつて舊臣を召出されると聞くと蟇六は俄に大塚姓を名乘って、番作の所在不明を奇貨として先代の忠義を申立てゝ相續を願出た。近所合壁爪彈きせぬ者はない破落戸が先代の忠義の餘徳で村長を命ぜられ、八町四反を宛行はれ帯刀も許されて、成上り者の大きな顏をして威張返つてゐた。
そんな事とは知らずに歸つた番作は、代々忠義で聞えた大塚の家名が、姉の不身持から泥を塗られたのを憤つたが、姉と爭つて血で血を洗ふは益〻家名を恥かしめる物笑ひだと、思慮あるだけに奇麗サツパリと忘れてしまつて、浪々の生活を楽んでゐた。が、さらぬだに前から姉の氣隨や不身持を苦々しく思つたのが愈〻面白くなくなつて十何年間唯の一遍も姉の家へ足踏みしなかつた。蟇六夫婦も何となく弟の家の閾が高くなつて、番作の妻が産をした時も長の煩ひの後身まかつた時も顏を出さなかつた。眼と鼻の間で摺れ違つても互ひに顏を背けて赤の他人よりも冷たくなつてゐた。
番作の子の信乃は度々男の子を亡くした母の迷ひから、無事に生立つやうにと、俗説に従つて女の子にして育てた。が、赤い衣服に不似合ひな荒々しい遊びばかりして、力もあり武藝も好き、其上に一を聞いて十を知る利口者で、氣質も柔しい親孝行であつたから近所の誉め者となつてゐた。石女の亀篠はこれが忌々しくて、信乃に負けない子をと物色して漸く玉のやうな女の子を蓆の上から貰つて、蝶よ花よと大切に育ててせめてもの心遣りとした。
信乃が遊びの友とする飼犬に與四郎といふがあつた。番作の妻が子供が欲しさに瀧の川の辨才天に願掛けして日參した或る日の歸途、マダ生れたばかりの狗の子がクン〳〵鼻を鳴らして纏はりつくのが振棄てかねて拾つて来たのが與四郎である。信乃は辨才天の授かり子でその翌る年に産の紐を解いたのであるから、人畜の区別はあつても與四郎も亦信乃同樣に大切に育て、られた。段々大きくなると毛並艶々しく骨組も逞ましく、敏捷で力が強い此ひ稀れな逸物であつたから一村の群犬は威伏されて、蟇六方の飼犬も何匹取換へても與四郎に噛伏せられるので、蟇六は業が沸えて堪らなかつた。結局犬は斷念して、猫は貴人の膝にも上る犬より貴いものだといふ勝手な理窟をつけて雉子猫を貰ひ、紀二郎と名を命けて家内中が寵愛し、番作と與四郎を目の仇に罵つて業を癒やしてゐた。
然るにこの秘藏の紀二郎猫も戀に浮れてトチ狂つて屋根からコロ〳〵とオツ落つたところを與四郎犬にワングリ殺られてしまつたので、蟇六は脳天から湯氣を立たして眞赤になつて小厮を番作へ叫り込ました。が、番作は鼻のさきで應接つて對手にならぬので、切歯して口惜しがり、一家の小厮を集めて評定して秘計を廻らし、到頭與四郎犬を誘き寄せて小厮眷属オットリ圍んで竹槍で迫廻して半死半生にしてしまつた。其上に與四郎が奥座敷へ飛込んで管領家の御教書を泥足で破いたと拵へごとして、予て目星をつけてる番作所持の故主春王の遺品たる足利家の重寶村雨丸を、御教書破却の御詫びに管領家へ献上しろといふ難題を持込んで来た。
蟇六の奸策は看え透いてる。この村雨丸を巻上げて己れの榮達の道具としようと企らんだ蟇六の蔭謀は、昨日や今日でなく、或時は人を誘かして買取らうと云ひ、或時は忍び込まして竊み出させようとした。が、蟇六の手に乘る番作でなかつたから、何うにも策の施しやうが無かつたのを復たぞろ此機會に持出したのである。剰つさへ亀篠はこの難題の使者の糠助に、良人が直ぐにも訴へ出ると云つたのを今日一日漸と待つて貰つたので、親は泣き寄り、弟なればこそ甥なればこそ縄目の憂き目を見せたくないと苦勞する姉の心も察して呉れと、猫撫聲で云傳をいはした。
やがて信乃を枕邊に呼び梁に吊した村雨の寶刀を示し、祖父匠作の忠死から村雨の由来を云つて聞かし、
『汝が成人したら汝の手から直接に滸我殿へ献上しろ、構へて蟇六に竊まれるな、俺が今自殺したら里人怒つて蟇六を訴へるかも計られないのを蟇六も恐れるから直ぐ寶刀にも手を出すまいし、里人の怒りを和める爲めに實意を示して汝を引取るのは必定である。第一、イツかは寶刀を手に入れようとするには、汝を引取つて手許に寄せつけて置くのが上分別と思ふに違ひない。蟇六の職禄は祖父匠作の賜だから、匠作の嫡孫たる汝が大塚家に寄食するのは、蟇六の恩を被るわけで無いから大手を振つて伯母の家へ行きなさい。御教書破却がウソであるのは知れてるが、ドウセ長くは無い命、汝を托するイヽ死期が目附かつたのだ。俺は今死んで行く…………』
と思ひも掛けない父が突然の覚悟に信乃は呆氣に取られて凝視めてゐると、豪膽な父が従容と筆でも採るやうに刀を掴んたので、アツと聲を擧げて刀を持つ腕に縋りつくと、病衰へても勇士の力、『狼狙へる勿』と爭ふ信乃を叱して膝に組敷き、『水を濆らす村雨の奇特を見ろ』と云ひざま早速に刀を取直して見事に腹を掻切つてしまつた。
信乃は死骸に取附いて聲を限りにむせび泣いた。暫らくして吃と思返して、ヤワカ父に遅れじと同じ村雨の寶刀を手に握つた時、縁端近く與四郎が苦痛に叫くを聞くと、俄に縁を飛下りて犬の傍に立ち、『汝も不便だが、イツまで苦しまして置いては猶ほ不便だから、一と思ひに息を引取らしてやる、俺も後から一緒に行く』と云ひざまヤツと聲掛けて水も溜らず首を落した。
其途端、さつと濆る血潮の中に晃くものあるを受留めれば紐通しの穴ある小さな白い玉で、彫つたのでも漆で書いたでも無い「孝」といふ字が鮮かに讀まれた。不斗思廻らせば亡き母が與四郎を拾つた辨才天へ日參の或る日の歸るさい、犢ほどの大きさある犬に腰掛け給ふ神女が何度からか現れて、手に持つ數多の玉の一つを授けて忽ちドコへか消えてしまはれたが、コロ〳〵と地上を轉がつた玉が、拾はうとすると見えなくなつた。雛狗の與四郎が呑んでしまつたらしいと亡き母が度々午睡の伽に咄されたが、與四郎の傷口から飛出したのが其時の玉らしいと幼時の憶出を眷かしみて掌の上に轉がした。が、死んで行く身にコンナ玉が何惜しからうと棄てると再び跳ね返つて懐ろに飛込んで来るので、煩ささうにまた掴み出して棄てると復た跳ね返つて来て玉に靈ある如く、何遍棄てゝも返るので、其儘懐へ入れて部屋へ戻つて来て、率ざとばかりに双肌を脱ぐと、こは如何に、不思議や左の腕に今までにない牡丹の花の形をした黒痣が出来てゐた。この前玉が懐へ飛込んだ時、左の腕に中つて些少の痛みを覚えたが、コンナ事で俄に痣が出来ようとも思はれない。不思議な事と思つたが、死んで行く身に要の無い穿議と、父を手本に肌押廣げて腹を切らうとした瞬間、ドヤドヤと闖入した三人、背後からは糠助が抱留め、前からは亀篠と蟇六とが左右から兩腕を押へて先づ刀を捥取つた。
『お前はまア飛んだ事を。』
と亀篠はワザとらしいオロ〳〵聲で、
『番作が生害したと糠助が飛んで来て知らせたから、喫驚して駈附けて来りやお前までが…………』
と空涙を拭きつゝ、
『番作も片意地過ぎる。ドコまて妾たちを憎まれ者にしたいのだらう。弟と思ひ甥と思へばこそ何卒して無事に収めたいと心配して、女の淺い慮からかうもしたらばと糠助阿爺に頼んで妾の心持を相談さしに遺したのに、面當がましく腹まで切るツてのはアンマリ楯を突き通ぎる。』
と掻口説く傍から蟇六は眞實らしい濕み聲で、
『早まつた、早まつた、早まつた事して呉れた。日頃は義絶してゐても繋がる縁の俺たちが親子の不利益を何で計らう。宜かれと思つて仕た事が仇となつたは怨めしい。其方も共に突詰めたのは無理もないが、モウ心配さツしやるナ。御教書破却の越度は重いが、云はゞ畜生の仕たこと。飼主の番作が切腹したからは最う子までにお咎めは無い。假令有つたにしてもこの伯父が宜いやうに申釋きをしてやる。』
『信乃もう心配しやるナ。』
と亀篠はその尾に従いて、
『伯父さまがアヽして心配して下さる。さツ最う短氣はやめて、これからは伯母が引取つて世話します。蟇六どの、濱路とはイヽ釣合ひ、成人したら妻合して大塚の家名を相續させませう。』
『然うとも〳〵。』
と蟇六は合槌打つて信乃を和めつ賺しつして、
『さツ、最う短慮は罷めにして、何よりも死人樣の跡始末ちや。糠助どのも手傳はツしやい。』
と口と心は反對に、信乃の機嫌を取り〴〵に先へ立つて世話を焼いた。臨終の際の父の先見がヒシ〳〵と當つて、狐狸が何をするかと片腹痛くてならなかつたが、兎も角も父の遺言通りに中蔭の忌が果てゝから亀篠許に引取られる事になつた。
其日は故人が世話になつた里人を招いて佛事を營み、心ばかりの酒飯を饗應して置いて扨て蟇六が改まつて云ふには、番作と亀篠と繋がる縁の自分との間に打解け難い誤解があつて、疎遠に暮したを本意なく思つてゐたが、番作が早まつて世を縮めたので今更誤解を釋く由も無い、この上は信乃を引取つて成人の後養ひ娘の濱路と妻合はして大塚の家名を相續させるツモリと眞實らしく披露した。里人は甚六が意外の申出に狐に魅まれる心地して各々顏を見合はしたが、それでこそ亡人も満足して快く極樂に浮ばれやうと口々に云ひそやして、嫌はれ者の蟇六が俄に信望を盛返して男を上げ、里人が好意で番作に割いた番作田をも信乃が成人するまで保管かるといふ名目でヌク〳〵と手に入れてしまつた。
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