読書ざんまいよせい(067)

◎滝沢馬琴・内田魯庵抄訳南総里見八犬伝(002)

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一 番作と蟇六

 伏姫ふせひめが富山に神去かんさり給ひてから十何年になる。武州大塚(今の小石川の大塚)に犬塚番作いぬづかばんさくといふ浪士があつた。もとは大塚の里を知行ちぎやうして大塚を名乘つた管領くわんれい持氏もちうぢの家人けにんであつたが、結城ゆふきの亂に加はつて暫らく踪跡を晦くらました間に犬塚と姓を改め、持氏の子の成氏なりうぢが再び管領となつてから放浪中に娶めとつた妻を伴つれて何年振かで舊采地へ戻つて来た。

 然るに番作父子が忠義の爲めに家を明けた不在中、留守居した姉の亀篠かめざさは物竪い父や弟には似ない淫奔女いたづらもので、生なさぬ仲の義理の母と、二人ふたり棲で誰憚たれはゞかる者も無いので勝手氣儘に男狂ひをし、擧句あげくの果はては母が病氣で人ひと手での足りないのを托かこつけに破落戸ならずものの蟇六を引摺込ひきずりこみ、母が眼を瞑つぶつたのを好い幸ひにズル〳〵ベッタリの夫婦となつた。成氏が管領家くわんれいけとなつて舊臣を召出されると聞くと蟇ひき六は俄に大塚姓を名乘って、番作の所在不明を奇貨として先代の忠義を申立てゝ相續を願出た。近所合壁爪彈きんじよがつぺきつまはぢきせぬ者はない破落戸ならずものが先代の忠義の餘徳で村長むらおさを命ぜられ、八町四反を宛行あておこなはれ帯刀も許されて、成上り者の大きな顏をして威張返つてゐた。

 そんな事とは知らずに歸つた番作は、代々忠義で聞きこえた大塚の家名が、姉の不身持から泥を塗られたのを憤つたが、姉と爭つて血で血を洗ふは益〻家名を恥はづかしめる物笑ものわらひだと、思慮あるだけに奇麗サツパリと忘れてしまつて、浪々の生活を楽んでゐた。が、さらぬだに前から姉の氣隨きずひや不身持ふみもちを苦にが々〳〵しく思つたのが愈〻面白くなくなつて十何年間唯の一遍も姉の家へ足踏みしなかつた。蟇ひき六夫婦も何となく弟の家の閾しきゐが高くなつて、番作の妻が産をした時も長の煩わづらひの後身まかつた時も顏を出さなかつた。眼と鼻の間で摺れ違つても互ひに顏を背そむけて赤の他人よりも冷つめたくなつてゐた。

 番作の子の信乃しのは度たび々〳〵男の子を亡なくした母の迷ひから、無事に生立おひたつやうにと、俗説に従つて女の子にして育てた。が、赤い衣服きものに不似合ひな荒あら々〳〵>しい遊びばかりして、力もあり武藝も好き、其上に一を聞いて十を知る利口者りこうもので、氣質きだても柔しい親孝行であつたから近所の誉ほめ者ものとなつてゐた。石女うまずめの亀篠かめざさはこれが忌いま々〳〵しくて、信乃しのに負けない子をと物色して漸く玉のやうな女の子を蓆しとねの上から貰つて、蝶よ花よと大切に育ててせめてもの心遣やりとした。

 信乃しのが遊びの友とする飼犬かひいぬに與四郎よしらうといふがあつた。

 番作の妻が子供が欲ほしさに瀧の川の辨才天に願掛けして日參につさんした或る日の歸途かへりみち、マダ生れたばかりの狗いぬの子がクン〳〵鼻を鳴らして纏まつはりつくのが振棄てかねて拾つて来たのが與四郎である。信乃は辨才天の授かり子でその翌あくる年に産の紐を解いたのであるから、人畜じんちくの区別はあつても與四郎も亦信乃同樣に大切に育て、られた。段々大きくなると毛並艶つや々しく骨組も逞たくましく、敏捷で力が強い此たぐひ稀れな逸物であつたから一村の群犬は威伏されて、蟇ひき六方かたの飼犬かひいぬも何匹取換とりかへても與四郎に噛伏かみふせられるので、蟇六は業ごふが沸にえて堪たまらなかつた。結局犬は斷念して、猫は貴人の膝にも上のぼる犬より貴いものだといふ勝手な理窟をつけて雉子猫きじねこを貰ひ、紀き二郎らうと名を命つけて家内中が寵愛し、番作と與四郎を目めの仇に罵つて業ごふを癒いやしてゐた。

 然るにこの秘藏ひざうの紀二郎猫も戀に浮うかれてトチ狂くるつて屋根からコロ〳〵とオツ落こつたところを與四郎犬にワングリ殺やられてしまつたので、蟇六は脳天のうてんから湯氣ゆげを立たして眞赤まつかになつて小厮こものを番作へ叫どなり込ました。が、番作は鼻のさきで應接あしらつて對手あひてにならぬので、切歯はぎしりして口惜くやしがり、一家の小厮こものを集めて評定して秘計を廻らし、到頭與四郎犬を誘おびき寄せて小厮眷属こものけんぞくオットリ圍んで竹槍で迫廻して半死半生にしてしまつた。其上に與四郎が奥座敷へ飛込んで管領家の御教書みけうしよを泥足どろあしで破いたと拵こしらへごとして、予かねて目星めぼしをつけてる番作所持の故主春王こしゆはるわうの遺品かたみたる足利家の重寶村雨丸むらさめまるを、御教書破却みけうしよはきやくの御詫おわびに管領家へ献上しろといふ難題を持込んで来た。

 蟇六の奸策は看みえ透すいてる。この村雨丸を巻上まきあげて己おのれの榮達の道具としようと企たくらんだ蟇六の蔭謀は、昨日きのふや今日けふでなく、或時は人を誘そゝのかして買取らうと云ひ、或時は忍び込まして竊み出させようとした。が、蟇六の手に乘る番作でなかつたから、何どうにも策の施ほどこしやうが無かつたのを復またぞろ此機會に持出したのである。剰あまつさへ亀篠かめざさはこの難題の使者つかいの糠助ぬかすけに、良人が直ぐにも訴へ出ると云つたのを今日一日漸やつと待つて貰つたので、親しんは泣なき寄より、弟なればこそ甥なればこそ縄目の憂うき目を見せたくないと苦勞する姉の心も察して呉れと、猫撫聲で云傳ことづてをいはした。

 やがて信乃を枕邊まくらぺに呼び梁はりに吊した村雨の寶刀を示し、祖父匠作の忠死から村雨の由来を云つて聞かし、

『汝おまへが成人したら汝おまへの手から直接ぢかに滸我こが殿どのへ献上しろ、構かまへて蟇六に竊まれるな、俺が今自殺したら里人怒つて蟇六を訴へるかも計られないのを蟇六も恐れるから直ぐ寶刀にも手を出すまいし、里人さとびとの怒いかりを和なだめる爲めに實意を示して汝おまへを引取るのは必定ひつぢやうである。第一、イツかは寶刀を手に入れようとするには、汝おまへを引取つて手許てもとに寄せつけて置くのが上分別と思ふに違ひない。蟇六の職禄は祖父匠作の賜たまものだから、匠作の嫡孫たる汝おまへが大塚家に寄食するのは、蟇六の恩を被きるわけで無いから大手を振つて伯母の家ところへ行きなさい。御教書みけうしよ破却がウソであるのは知れてるが、ドウセ長くは無い命、汝を托するイヽ死期しにどきが目附かつたのだ。俺は今死んで行く…………』

 と思ひも掛けない父が突然の覚悟に信乃は呆氣あつけに取られて凝視みつめてゐると、豪膽な父が従容しやうようと筆でも採とるやうに刀を掴つかんたので、アツと聲を擧げて刀を持つ腕かひなに縋すがりつくと、病衰やみおとろへても勇士の力、『狼狙うろたへる勿な』と爭ふ信乃を叱して膝に組敷き、『水を濆ほとばしらす村雨むらさめの奇特きどくを見ろ』と云ひざま早速さそくに刀を取直して見事に腹を掻切つてしまつた。

 信乃は死骸に取附いて聲を限りにむせび泣いた。暫らくして吃きつと思返して、ヤワカ父に遅れじと同じ村雨の寶刀を手に握にぎつた時、縁端近く與四郎が苦痛に叫わめくを聞くと、俄に縁を飛下りて犬の傍そばに立ち、『汝おまへも不便ふびんだが、イツまで苦しまして置いては猶ほ不便だから、一ひと思ひに息いきを引取らしてやる、俺も後あとから一緒に行く』と云ひざまヤツと聲掛けて水も溜たまらず首くびを落おとした。

 其途端、さつと濆ほとばしる血潮の中に晃きらめくものあるを受留めれば紐通ひもとほしの穴ある小さな白い玉で、彫ほつたのでも漆うるしで書いたでも無い「孝」といふ字が鮮かに讀まれた。不斗思廻ふとおもひめぐらせば亡き母が與四郎を拾つた辨才天へ日參の或る日の歸るさい、犢こうしほどの大きさある犬に腰掛け給ふ神女が何度からか現れて、手に持つ數多の玉の一つを授けて忽ちドコへか消えてしまはれたが、コロ〳〵と地上を轉がつた玉が、拾はうとすると見えなくなつた。雛狗こいぬの與四郎が呑んでしまつたらしいと亡き母が度たび午睡ひるねの伽ときに咄はなされたが、與四郎の傷口から飛出したのが其時の玉らしいと幼時の憶出おもひでを眷なつかしみて掌ての上うへに轉ころがした。が、死んで行く身にコンナ玉が何惜なにをしからうと棄てると再び跳ね返つて懐ろに飛込んで来るので、煩ささうにまた掴み出して棄てると復た跳ね返つて来て玉に靈ある如く、何遍なんべん棄てゝも返るので、其儘懐ふところへ入れて部屋へ戻つて来て、率ざとばかりに双肌もろはだを脱ぐと、こは如何いかに、不思議や左の腕かひなに今までにない牡丹の花の形をした黒痣くろあざが出来てゐた。この前まへ玉が懐ふところへ飛込んだ時、左の腕かひなに中あたつて些少すこしの痛みを覚えたが、コンナ事で俄に痣が出来ようとも思はれない。不思議な事と思つたが、死んで行く身に要の無い穿議せんぎと、父を手本に肌押廣げて腹を切らうとした瞬間、ドヤドヤと闖ちん入した三人みたり、背後からは糠助が抱留だきとめ、前からは亀篠と蟇六とが左右から兩腕を押へて先づ刀を捥取もぎとつた。

『お前はまア飛んだ事を。』

 と亀篠かめざさはワザとらしいオロ〳〵聲で、

『番作が生害しやうがいしたと糠助が飛んで来て知らせたから、喫驚びつくりして駈附かけつけて来りやお前までが…………』

 と空涙そらなみだを拭ふきつゝ、

『番作も片意地過かたいぢすぎる。ドコまて妾あたしたちを憎まれ者にしたいのだらう。弟と思ひ甥と思へばこそ何卒どうかして無事に収めたいと心配して、女の淺い慮こゝろからかうもしたらばと糠助阿爺おぢに頼んで妾あたしの心持を相談さしに遺よこしたのに、面當つらあてがましく腹まで切るツてのはアンマリ楯たてを突つき通すぎる。』

 と掻かき口く説どく傍かたはらから蟇六は眞實らしい濕うるみ聲で、

『早まつた、早まつた、早まつた事して呉くれた。日頃は義絶してゐても繋つながる縁の俺わしたちが親子おやこの不利益ふためを何なんで計らう。宜よかれと思つて仕した事が仇あだとなつたは怨うらめしい。其方そなたも共に突詰つきつめたのは無理もないが、モウ心配さツしやるナ。御教書破却みけうしよはきやくの越度おちどは重おもいが、云はゞ畜生の仕したこと。飼主の番作が切腹したからは最もう子までにお咎めは無い。假令よし有つたにしてもこの伯父が宜いやうに申釋もうしときをしてやる。』

『信乃しのもう心配しやるナ。』

 と亀篠かめざさはその尾に従ついて、

『伯父さまがアヽして心配して下さる。さツ最もう短氣はやめて、これからは伯母が引取つて世話します。蟇六どの、濱路とはイヽ釣合つりあひ、成人せいじんしたら妻合めあはして大塚の家名を相續させませう。』

『然さうとも〳〵。』

 と蟇六は合槌打あひづちうつて信乃を和なだめつ賺すかしつして、

『さツ、最もう短慮は罷やめにして、何よりも死人樣ほとけさまの跡始末あとしまつちや。糠助どのも手傳はツしやい。』

 と口と心は反對うらはらに、信乃の機嫌を取り〴〵に先へ立つて世話を焼いた。臨終いまはの際きはの父の先見がヒシ〳〵と當つて、狐狸きつねたぬきが何をするかと片腹かたはら痛くてならなかつたが、兎とも角かくも父の遺言通りに中蔭の忌いみが果てゝから亀篠許かめざさがりに引取られる事になつた。

 其日は故人ほとけが世話になつた里人さとびとを招いて佛事を營み、心ばかりの酒飯を饗應もてなして置いて扨て蟇六が改まつて云ふには、番作と亀篠と繋がる縁の自分との間に打解うちとけ難い誤解があつて、疎遠に暮したを本意ほいなく思つてゐたが、番作が早まつて世を縮めたので今更誤解を釋とく由も無い、この上は信乃を引取つて成人の後養ひ娘の濱路と妻合めあはして大塚の家名を相續させるツモリと眞實らしく披露した。里人は甚六が意外の申出に狐に魅つままれる心地こゝちして各々顏を見合はしたが、それでこそ亡人ほとけも満足して快こゝろよく極樂に浮ばれやうと口々に云ひそやして、嫌きらはれ者ものの蟇六が俄に信望を盛返もりかへして男を上げ、里人さとびとが好意で番作に割さいた番作田ばんさくだをも信乃が成人するまで保管あづかるといふ名目でヌク〳〵と手てに入れてしまつた。

二 信乃と額藏と糠助の子

 蟇六の家に額藏がくざうといふ小厮こものがあつた。齢としはマダ十一二歳であるが心利きき才勝すぐれて心ざま世の常ならず、蟇六が小厮こものを督して與四郎犬をオツ取圍んだ時も額藏は打騒ぐのみにて犬を叩かず、目算通りに與四郎を半死半生にして蟇六初め小厮こものらが鼻はな高々たか〴〵と手柄咄てがらばなしをする傍聴かたへぎきして腹の底で冷笑あざわらつてゐた。

 番作が死んでから亀篠は伯母顔をして朝晩出入あさばんでいりして萬事に世話を焼いてゐたが、一人ひとりぽツちの信乃しのが淋しからうと、年比としごろが丁度おツつかツつ丶丶丶丶丶丶の額藏を炊事がてらの話相手はなしあひてに遣よこした。馴染なじみの浅い二人同士、殊に信乃は侫ねぢけた伯母の廻し番と見て用心しい〳〵容易に油斷しなかつたが、三七日を過ごしたある日、額藏は湯を沸わかして信乃に行水ぎやうずゐをさせた。脊中を流さうとして脊後うしろへ廻つて、左の腕に牡丹の花の形した黒痣があるのを見付けて驚いた。

『和子樣わこさまのこの痣はイツからおできになりました?』

と、額藏は不思議がつて訊きいたが、信乃は笑つて答へなかつた。湯沐ゆあみ果てゝやがて衣服きものを着ようとして振ふるふと、中から白い玉がコロ〳〵と轉ころがり出した。

 額藏は再び驚いて、

『和子樣、その玉はドウしてお手に入りました?』

 と訊きいたが、信乃しのは矢張笑つて答へなかつた。

『和子樣、この玉を御覧じろ。』

 と額藏は自分の懐ふところから同じ玉を出して見せ、

『アナタのと同じでせう。私わたくしのは生れた時、胞衣えなを埋うめようとして閾しきゐの下を堀つたら土の中から出て来たのださうです。玉ばかりでなく、和子樣と同じ形の黒痣くろあざが生れた時から私わたくしにも有るさうです。』

 信乃は喫驚びつくりして額藏の玉を手に取つて見ると、信乃のは「孝」、額藏のは「義」と、文字は違へど大きさから色合まで、紐通ひもとほしの穴までが同じである。場所こそ違へ同じ形の黒痣までが二人に共通するといふは決して苟旦かりそめの偶然では無いと、信乃は自分の玉の来歴、亡なき母が奇しき神女から授かつたのをマダ生れたばかりの與四郎犬がチヨロリと呑んでしまつて十何年間体内に留まつてゐたのが首を刎ねた切口きリくちから濆出して信乃の懐ふところに飛込み、其時左の腕に中あたつて黒痣が出来たといふ一伍一什いちぶしじふを物語つた。

 額藏は聞終つて不思議々々々と感嘆し、自分の父はもとは伊豆の堀越御所の家人けにんであつたが、七歳の析君の勘氣に触れて自刃して荘園家財まで没収され、母に伴つれられて安房あはの縁家を頼たよつて行く途中路銀を竊ぬすまれ、心細くもこの大塚の里まで辿たどり着いた時俄かの風雪ふうせつに遭つて、路銀を持たぬ身の一夜の宿りを村長許むらをさがりに頼んだがケンモホロヽに逐出され、空腹の上に寒氣に閉ぢられて持病の癪を発おこし、其晩終に長をさが家の脊戸せどの外で果敢はかなくなつたといふ物語をして、それからが母の亡骸むくろを犬猫同樣に埋められたのを恩に被きせられて、給金無しの一生奉公であると身の上咄ばなしをした。額藏といふは小廝こものとしての仮の名で、實まことは堀越御所の御内の荘官しやうかん犬川衞二則任ゑじのりたふの孤児みなしご犬川荘助義任しやうすけよしたふであると本名までも明かした。

 扨てはさういふ身分であつたかと、我が身に増して薄命な身の上と信乃は只管ひたすら同情した。二人が二人、父は自刃して果て、母には早く別れた同じ身の上に手を取合つて互ひに嗟嘆して、玉といひ黒痣といひ、前世さきのよからの浅からぬ縁えにしがあらうと二人は互ひに奇遇を喜んで義兄弟の約束を結んだ。が、陽おもては今まで通りの主従と粧よそほつて竊所よそ々々〳〵しくし、打解け難い氣の合はぬ同士であるやうな顔をしてゐたから、蟇六夫婦はおぞくも計られて、額藏を抱込んで信乃の見張番とした。それから以来、信乃が蟇六の家に引移つてからは、二人は益〻竊所よそ々々〳〵しくして、額藏は析々に毒にもならぬ告げ口しては忠義な腹心と見せかけて、夫婦の機密を探つては信乃しのに告げ知らして互ひに用心をした。

 斯くて七八年、狐狸きつねたぬきに覘はれる油斷のならない思ひをしつゝも無事に過ごしたが、與四郎犬と紀二郎猫の騒動の間に狭まつて心配もし奔走もした律義者の糠助阿爺は先年女房に先立さきだたれてから俄に老込み、流行はやり病やまひに取憑つかれて昨日今日きのふけふは枕も上らぬ容体となつた。蟇六夫婦に油斷をさせる爲め信乃は里人さとびととは竊り交際つきあはなかつたが、糠助とのみは長の歳月の古い馴染で往来ゆきゝしたので、人の恐れる時疫ときのけでも度たび々〳〵見舞つて看護した。愈〻危篤となつて最う臨終に間が無からうと知らして来たので、信乃は取るものも取敢へず急いで枕邊へ行つて見ると早や起直る氣力も無かつた。が、信乃の顔を見ると涙を一杯泛うかべつゝ年ごろ日ごろ目を掛けられた恩を謝しつゝ、氏うじも蓄たくはへも無い身は思残す事は何も無いが、唯たゞ一つ氣がかりなのは人にも告げざる我が子の上であると言つた。

 糠助に子があるといふは村の者誰一人知るものは無いから信乃にはもとより初耳であつた。段々聞くと糠助はもと安房の洲崎の土民であつたが、貧しい中に生れた子の三才みツつなるのが足械あしかせで、切迫詰せつぱつまつた苦し紛れに禁斷の濱で漁すなどりして捕へられ、縛しぱり首くぴにもなるべきところを領主の佛事で大赦になつて追放された。上のお慈悲の忝けなさが却て難有ありがた迷惑で、幼ない我が子を引脊負ひつちよつて東あづまを指してトボ〳〵と行つたが、路銀は無し頼たよる家いへは無し、生きて甲斐無い行末を果敢はかなんで只とある橋へ差掛さしかゝつた時フラ〳〵として橋の欄干へ足踏み掛けて跳り込まうとした。アワヤと言ふ時物影から現れた鎌倉殿(成氏卿の事)の御内みうちの飛脚に抱留だきとめられて、事の仔細を精つばらに打明ければ、児供こどもが欲しさに願掛けしても授からぬものさへあるに、足手纏ひにして親子諸もろ共とも死なうとするなら其子を呉れと言はれた時の嬉しさは、地獄で佛に合つた心地で親知らずて呉れてしまったが、臨終いまはの際きはに氣にかゝつて冥路よみぢの障さはりとなるのは其子。和君わぎみ若し滸我こがへ行き給ふ析があつたら其子を尋ねて言傳ことづてを頼みます。幼名は玄吉といつて、七夜の祝ひに鯛を料理した時、魚さかなの腹から出た「信」といふ字の現はれた玉を護身袋まもりぶくろに入れて置いたのと、右の頬さきに牡丹の形した黒痣のあるのが証拠と言残して糠助はポツクリと眼めを瞑つぶつた。

 「信」といふ字の現はれた玉、牡丹の形をした黒痣、信乃は驚かずにはゐられなかつた。が、糠助ぬかすけに子があるといふ咄はなしは額藏がくざうにだけ洩らして、竊ひそかに宿縁がありさうに思はれるのを互ひに首肯うなづき合つた外は誰にも咄はなさなかつた。

三 左母さも二郎らうと簸上宮六ひがみきうろく

 卯うさぎの穴へ狐が潜もぐずり込んだやうに正直者の糠助ぬかすけの空屋あきやへ住みこんだのは、鎌倉浪人の網乾あぼし左母二郎であつた。今年二十五の苦にがみ走ばしつた美男で、佞奸邪智の白者しれものであつた。大師流の手跡を上手に書くので里の子を集めて習字を授けたが、書道よりも巧みなは小唄こうた、今樣いまよう、一ひと節切よぎり、遊芸一ひと通り心得ざるは無かつた。その上に口前が上手で、お辨べんちやらで、男振が好いと来てゐるから、忽ち同氣相求める亀篠かめざさに取入つて蟇六許ひきろくがりに入浸いりぴたるやうになつた。

 亀篠かめざさ夫婦が信乃しのを引取つたのは不斗ふとした奸策わるだくみが番作の自殺となつて村の憤怒を勃発するを恐れたからで本心ほんしんでは無かつた。濱路と妻合めあはすといふも当座の出鱒目で微塵みぢんもそんなツモリは無かつた。機会があつたら村雨むらさめを奪って信乃を追払はうと覘つてゐたが、信乃に油斷が無かつたので、附け入る隙が得られなかつたうちに徐々そろ〳〵二人を妻合めあはさねばならない年頃となつた。信乃は左とに右かく濱路は幼ない時から言ひ聞きかされて信乃しのを良人と思ひ込んでゐて、祝言の日を待詑ぶる氣色けしきは素振そぶりに現はれてゐた。其上に村人むらびとからは番作の法会の席の公約を督促されて止まないので、モウ片時も猶予ならず、一刻も早く信乃を逐払はうと蟇六と二人してヨリヨリ魂膽こんたんを凝らしてゐた。

 かゝる折から現はれたのは左母ニ郎であつた。美男で才子で、其上に、今は浪々であるが殿の御覚え目出度い近習の筆頭であつたので、近々歸參すれば以前に増して御覚えが目出度からうと、さも一足飛そくとびに高禄の権勢者きけものになるかの如く臭はすので、亀篠は最う乘氣になって、鎌倉殿のお氣に入りの切れ者となる日の近い左母さも二郎を婿にする氣になつてゐた。

 去年の暮、陣代ぢんだいが代替だいがはりして翌る年の五月、新陣代の簸上宮六ひがみきゆうろくが下役の軍木五倍二ぬるでごばひぢ、率川庵八いかはいほはち等を引きつれて巡検に来て荘官蟇六の家に一泊した。此夜蟇六は有らんだからソンナ氣振は微塵みぢんも見せなかつた。陣代からの御所望は冥加に竊つた面目であるが、濱路には妻の甥を妻合めあはす約束であつて、蟇六亀篠は勿論当人の濱路も進んでゐるわけでは無いが、里人さとびとの尻押しりおしもあり証證人も數多あまたあつて疾とみには約束を反古ほぐには出来ない事情もあるから暫らく返事を待つて呉れと云った。が、五倍二はソンナ口くちには乘らないで、貴公の言葉は胡乱うろんである、ドンナ約束が以前に有らうと貴公を外たふすも起すも意の儘な陣代殿の御意に背くは貴公のために宜よくあるまいと、陣代の威光を笠に嚇おどしつければ、蟇六忽ち青菜の如くなリ、さらぬだに陣代と縁組えんぐみするは福徳の三年目と腹の底では疾つくに承知してゐるのだから、威嚇に会あうと一ひと堪たまりも無く、平蜘ひらぐもの如くになつて應諾した。すると五倍二は片時も猶予なく疊み掛けて、性急せいきふではあるが幸ひ今日は吉日であるから陣代から結納を目出度く受納して呉れと、準備よういの幣物へいもつを無理やりに押付けて歸つてしまつた。

 権柄づくで押付けられたとは言へ、牡丹餅で頬べたを叩かれ小判の上に尻餅突しりもちついたやうな氣がして蟇六夫婦は金銀綾羅と積んだ結納台ゆひなふだいを眺めて嬉しさが下腹したばらから籠上こみあげて来た。が、信乃を遠ざけ濱路を納得なつとくさすまでは秘めて置かねばならないから、誰にも目附からない中うちにと結納の品々を亀篠と二人して泥棒でもするやうに四邊あたりを見い〳〵コツソリ土藏へ運び込んた。幸ひを亀篠は手を頭掉ふつて、

『お關かまひなさる勿な、今日は陰れてコツソリ御相談に上あがつたのだから。』

 と思はせ振りな笑顔ゑがほを作つた。

『實は濱路をアンタに貰つて戴きたくて蟇六殿に相談したところが、蟇六殿もアンタならばと大満足。それに就て言號いひなづけの信乃を追出す段取になってるのてすが、婿引出むこひきでに取らした秘藏の名刀を縁切料に呉れてしまふのも惜しゝ、尋常では迚も取返せさうも無いからと、色々工風して漸やつとこ趣向浮んだが、それにはアンタに手傳つて貰はんとナア…………』

 と、明晩信乃を川狩に誘おびき出し、蟇六が誤まって水に落ちた擬ふりすれば信乃が救ひに飛込むのは必定であるから其隙そのひまにアンタは舟に残つて信乃の腰の物と蟇六の佩料さしれうとを摺換すりかへて呉れと云つた。

『ドウセ婿引出としてアンタに進ぜる品だから…………』

 と色と慾とを啗くらはして首尾よく左母ニ郎を欺だまくらかし萬事の手筈を牒し合はした。

 その晩蟇六夫婦は信乃しのを閑室に呼んで扨て曰く、御身と濱路との婚姻を愈〻擧あぐるについては祖父おぢ匠作ぬしが春王君しゆんわうぎみからお預かりしたる寶刀村雨を滸我殿こがどのへ献たてまつる予ての夙望、丁度滸我殿も管領家との和睦が整つて太平無事に治まってる。御身の夙昔しゆくせきの望みを果して大塚の家運を興す好機会だから、同じくは立身出世してから濱路を迎ふるが目出度い上にも目出度いといふものと言巧ことばたくみに言拵いひこしらへた。信乃は萬事を額藏から聞いてゐたから、アレ程執拗しっこく附覘つけねらつた村雨むらさめを俄に思切って滸我殿へ献上しに行けと、足元あしもとから鳥の立つやうに旅立たせようとする蟇六の底意は解り切つてゐた。が、眞心まごころの無い亀篠かめざさ夫婦の居心惡ゐごころわるい家を去るには能よい機し会ほと、マンマと口車ぐるまに乘せられたやうな顔をして、仰おほせに随ひ明日にてもと言つた。それでは竊り早急さうきふなと傍かたはらから亀篠は嘴くちを容だし、親切こかしに引留めて、何かと旅たびの支度もあればと一日延のばして俄に滸我へ立つ事になつた。

 その翌あくる晩が左母二郎と牒し合はした神宮かには河原の川狩である。蟇六は左母ニ郎と伴れ立つて、時刻を計つて左さも偶然に邂逅であつたやうに信乃しのを待合はして誘さそひ、船頭土太郎せんどうどたらうを語かたらつて舟ふねを雇つて川の中流へ漕出した。蟇六は網自慢あみじまんで水練にも熟練てだれであるが、予ての手筈で網諸共にザンブリ落ち、故わざと溺おぼるゝ擬まねをしてアツプアツプと水面に藻掻もがいた。信乃は有繋さすがに見るに忍ぴず、手早く着物を脱いで飛込むと、土太郎も一緒に続いて飛込み、蟇六は前からしがみついて信乃の自由を奪ひ、土太郎は足を取つて水底深く引摺り込まうとした。が、水馬水練に達し膂力飽くまでも勝すぐれた信乃は何條なんでう引摺込まるべき。土太郎を蹴飛ばし蟇六を小脇に抱縮だきすくめて手近の陸へ揚つて来た。

 舟に残つた左母二郎は流れるまゝに川下へ下つてから素早すばやく隙を見て信乃の刀を抜いて見た。明晃々と身毛みのけ愈立いやだつて、不思義や水氣滴すゐきしたたるので試みに一ひと揮ふりすると水は忽ち濆はとばしる稀代きだいの奇特を現はした。これなん信乃の父番作が春王君しゆんわうぎみからお預りした滸我殿の重寶村雨と直く感づいて、扇谷殿あふぎがやつどのへ献たてまつれば歸參のよすがとならうし、黄金こがねに換へれば千兩がものはあらうと好智の左母二郎忽ち横奪よこどりする氣になつて、村雨むらさめの跡へは蟇六のを、蟇六のには自分のを収め、各々川の水を垂らし込んで置き、眞物ほんものの村雨は自分の鞘さや差込んで何喰はぬ顔かほをしてゐた。そのうちに土太郎が泳ぎついたので、蟇六が漸やうやく命拾いのちびろひしたやうな顔してゐる岸へと漕ぎ寄せさした。

 此晩は蟇六の水徳利みづどつくリの馴れ合ひ狂言で興を冷さまし、再び舟を乘出しても機はずまないのでソコ〳〵>に切上げた。土太郎には骨折銀ほねをりしろを取らせ、左母二郎とも中途で別れて夜更けて歸つてから、蟇六夫婦と信乃と、随行おともの額藏と、四人して網あみの獲物ゑものの雑魚を肴さかなに別れの杯を酌み交かはして、眞夜中過ぎに各々自分の部屋へ引取つた。そのあとで蟇六は亀篠と膝突合ひざつきあはして左母ニ郎が摺換へた刀を抜いて見ると、噂の通り水が滴したたつたので、カチヤリと元もとの鞘へ収めて神宮かにはの川の水とは知らずに押戴おしいただいて顔見合はしてニタリと笑つた。

『信乃めの強いには肝きもを冷やした、危あぶなくホントウにブク〳〵とやりさうになつた。』

 と蟇六は聾を潜めて、

『額藏には如才なく言ひ含めたらうナ?』

『えエ、バツサリと…………』

 亀篠は平手ひらてで研きる擬まねをしながら、

『額藏なら巧うまくやりませう。失敗しくじつても村雨むらさめさへ巻上げれば……さツお祝ひにモ一つ。』

 と銚子を振上げた。

『その事、その事!』

 と蟇六は浪なみ々〳〵猪口ちよくに酌つがせながら、

『運が向いて来たと見える哩わい。』

 と、それから二人ふたりは悦に入つて何杯も重ねてイツか酔潰ゑひつぶれてしまった。

 暫らくして全家うちぢうが寝静つた丑満過うしみつすぎ、濱路はコツソリと竊み足で信乃が伏床へ忍んで来た。李下りかに冠かんむりを正たゞさず瓜田くわでんに沓くつを入れずと、信乃は伏床ふしどを片寄かたよせて開ひらき直なほつて嗜たしなめると、濱路はヨヽと忍び音で、親の許した夫婦同士めをとどしで、今宵こよひ限りの別れを惜みに来たのを左もイタヅラ事でもするやうに嗜め給ふは心強こゝろづよいにも程があると、養ひの父と母との眞心まごゝろの無い氣拙きまづい仕向しむけや、豊島としま練馬ねりまの合戰に産み親兄弟おやきやうだいの行衞知れずになった悲しさや、杯さかづきこそせね親の許した妹脊いもせとて女心の一ひと筋に思ひ詰めてるのを、唯ひと言の別れだも無くて旅立つ怨めしさを涙片手なみだかたてに掻口説かいくどいた。信乃はさまぐ慰めて、親の許した仲にせよマダ杯さかづきを交かはさぬうちは人目の關の憚りもありと、言賺いひすかしたがなか〳〵に綿々として盡きる時なき悵惆ちうちやうの恨みは払暁あけがた近くまでも彼れ一句、我れ一句して竭つきなかつた。虫が知らすか暫らくの別れが永い別れとなるがの如く、濱路は幾度も名残を惜んで、やがて双さうの袂を顔に当てつゝ、外よそには洩れじと忍しのび音ねで欷歔しやくり上あげ、欷歔しやくり上あげ歸つた。

 間もなく鶏鳴けいめい暁を告げ東の空が白んで来たので、信乃は支度を整へて、マダ半睡の蟇六ひきろく夫婦に暇乞ひをし、見返る奴婢ぬひらに別れを告げて額藏とニ人して鹿島かしま立ちした。

四 濱路死地に落つ

 邪魔者の信乃しのはマンマと追出してしまった。首尾よく額藏が途中で殺ばらすか、失敗しくじつても滸我こがの御所で僞物にせものの村雨むらさめが露顯あらはれて縛しばり首くびにでもなるが必定ひつぢやう。再び歸つて來る氣遣ひは無いから此の方は安心だが、濱路が信乃しのを懐おもつてるのは蟇六夫婦も知つてをる、柔和なやうでも信乃を思ひ切らして陣代ぢんだいへの嫁入を納得させるのは一ひと骨である。この朝は最もう臥込ねこんでしまつて掻卷かいまきに顏を埋めたぎり枕が上らなかつた。ウツカリしたこと發言いひだして機嫌を損じてはと、腫物扱はれものあつかひしてソツとして置いた。

 假かりの祝言で濟ますから衣服其他の支度はいらぬといふは何よりだが、マダ濱路には一ひと言ことも話してゐない。愈〻絶對絶命と迫つた今晩、信乃の餘燼ほとぼりを冷さましてナドト氣長きながなことを云つてゐられない。是ぜが非ひでも、忌いやでも應おうでも今晩中に、親の威光で強壓しでも短兵急にウンよ云はしてしまはにやならぬと、夫婦ふうふは氣が氣でなく前額ひたいを鳩あつめて、愈〻槓槓扞てこでも動かない其時は?……その時は恁かうと、最後さいごの奧の手までも密ひそ々〳〵と牒しめしあはした。
『とうだい? 少しは氣分が晴れたかい?』

 と亀篠かめざさは濱路の枕邊まくらべに坐って、猫撫聲ねこなでごゑで、

『あんまりクヨ〳〵懐おもはないがイヽ。病は氣から起おこるんだから元氣を取直してお化粧つくりでもする氣になつて御覧。この温氣うんきに障子を閉切たてきつて鬱ふさいでばかりゐるのが一番毒…………』

 と亀篠は起たつて細目ほそめに障子を開あけて風を入れ、再び枕邊に坐つて、

『お前の病氣の原因はアタシには能よりく解わかってる。が、お前がイクラ懐おもつても、あの性惡しやうわるの信乃しのはお前の事なんぞ何とも思つでやしないんだよ。親譲りの拗ねじけ者で、親が勝手で切腹したのをアタシ達の爲せゐにして、十一の齢から養はれた大恩を何とも思はないで、いくらアタシ達が柔やさしくしてやつても仇かたきのやうに怨んでる。有らう事か有るまい事か、先夜こないだはお前、神宮かには河でお父さんを舟から突落して置いて、救たすける振ふりをして飛込んで川かは底そこへ沈めようとしたんだつて。土ど太郎がゐたから助かつたが、何て恐ろしい奴やつだらう。お前は知るまいが、信乃の人非人ひとでなしは村でも今は札附ふだつきで爪彈きされてる。今度の滸我こがへ行つたのも表向きは寶刀献上だが、寶刀なんぞはお前、疾とつくの昔失むかしなくなつてるんで、ホントウは村に居堪ゐたゝまれないで逐電してしまつたのサ。だからお前、歸りたいからツて最もう歸つて來られやしない。ホントウにお前、イヽ事をした、今のうちに切れてしまつて。アンナ男と夫婦いつしよになつたら、末始終すゑしじふ苦勞の絶間は無い…………』

 濱路は『切れてしまつて……』と亀篠かめざさが云つた時、我知われしらず眼を睜みはつたが、周章あわてゝ直ぐ外そらしてしまった。信乃の實意と孝行は兒供こどもの時から村中むらぢうの襃め者で、誰知らぬ者は無いのに、能よくまアあんな出鰻目が云へたもんだと、養ひの親ながら腹立たしくなつて、聞きとも無いと顏を襟に隱してしまつた。

『モゥお前、クヨ〳〵する事は無い。信乃に十倍勝ました立派なお婿さんをお母さんが見立てゝ上げるからネ』

 と亀篠は莞爾にこ々々〳〵と笑顏ゑがほを作つて濱路の顏を覗込のぞきこんで、

『恁かういふ夢のやうな相談が持上つてゐるんだからお聞き。先夜こないだお宿やどをした御陣代の簸上宮六ひがみきうろく樣、あの晩殊の外お前まへがお氣に召して、お下役したやく――といつても矢張お歴々の軍木ぬるで五倍二樣をお媒酌なかうどとしてお前を奧方に迎へたいと大變な御執心なんだよ。身分みぶんが違ちがふからと一應は御辭退申上げたが、さういふ斟酌しんしやくいらぬと達たつての御懇望。御陣代樣だから御辭退に過ぎると失禮になるし、お部屋に差出せと御沙汰があつても忌いやとは云はれない我われ々〳〵風情ふぜいのものを、奧方にといふ冥加に餘つた御懇望だから、無下むげに御辭退するわけにも行きません。お前に話さないで定きめてしまふのも何なんだと思つたが、何しろ御性急ごせいきふで待まて暫しが無いから話す暇ひまが無かつたんだよ。それに信乃は見損みそこなつてお前に添はせる事が出來ないから、怎どうしようかと思つてる最中さいちう、降ふつて湧いたやうに俄に相談が持上つたもんだから、お父さんにしてもお前を出世さして信乃を見返してやらうと……』

『お母さん、モウ澤山、澤山、…………』

 と濱路は平生いつになく興奮して、

『わたしには歴れつきとした良人をつとがあります。』

『何だネ、そんな聲を出して、』

と亀篠は較やや嗜たしなめるやうに、

『良人をつとて、お前、信乃のことかい?信乃ならモウ縁が切つてあります。』

『いつ切れました。妾わたしは切つた覺えも、去られた覺えもありません。』

 と濱路は興奮から冷さめて平生つねのが沈着おちつきに戻つたが、キツパリとした男を々ゝしい調子で、

『お母さんは、犬塚の伯父さんの御法事ごほふじに村むらの衆の前でお父さんが立派に御暫言なすつたのをお忘れになつたんですか。親の口から立派に定きめた良人をつとのある娘を他よその男へ嫁入よめいらせようでは、が許して密夫みそかをを持たせるやうなもの。ナンボお母さんの親仰おつしやる事でも、ソンナ女の道に外はづれた事は妾わたしには出來ません。』

 云ふなり次第に怎どうにでもなると思つてゐたのが存外に手強てごはいので、亀篠は勝手が違つで佛頂面ぶつちやうづらをした。が、理の當然に言伏いひふせられた忌いましさに、

『そんならお前は親がドンナに難儀しても、迷惑しても自分の強情を押通おしとはさうと云ふンだネ。』

 と猫撫聲の假面かめんを脱いで突慳貪つツけんどんに、

『親より男が大切だいじなんだらう。』

『さうガミ〳〵と叱んなさんな。』

 と潮時しほどきを見て物蔭から現れた蟇ひき六は先づ亀篠を嗜たしなめておいて、

『さうお前のやうに、信乃の惡語わるくちを列ならべては濱路だつて人情だから心持を惡くする、濱路はマダ精くはしく知らんから、一圖づに親が慾を渇かわいて無理押附けに嫁入らせるやうに思ふが、さうでは無いので、亀篠もマダいひ足りないところがある。實は恁かういふわけなんだ……』

 と、眞事虚事まことそらこと――といふより殆んと出鱈目を都合の好いやうに辻褄を合はして、お前に一ひと言ことも話さないうちに恁かう事がトン〳〵運んで――といふより先方むかうで膳立てして、さア床とこの間まの前へ坐つて杯さかづきをしろといふやうな鹽梅あんばいで、明日あすの晩の婿入も寐耳に水で俺わしも途方に暮れたが、何を云ふにも先方むかうは陣代ぢんだいである、不承知だと云べば陣代の權力で役儀やくぎを召上げられるか、荘園しやうゑん家財を没收されて所拂ところばらひにされるか、明日あすにも親子が路頭に迷ふ。そればかりぢや無い、信乃しのにも飛火とびひしてドンナ難儀な目を見るか計られない。こゝを能よく分別ふんべつして、お前が目を閉つぶつてウンとさへ云つて呉れゝばお前の出世ばかりぢや無い、親も浮うかみあがる、信乃の立身の尻押しりおしもして呉れやうと、古狸ふるだぬきの殊勝な顏をして三方四方からジワ〳〵と義理詰めにした。

 が、濱路は襟えリに顏を埋めて、『堪忍して』とばかりでウンと云はなかつた。

『道理もつともだ。アンナ人非人ひとでなしでもお前にして見れば大切だいじな良人をつと操みさほを立てるのは道理もつともだ。親甲斐もなく貞女を棄てさせようとするのは面目めんぼくも無い。が、陣代の威光で押附けられたにしても、今更娘が不承知だとは俺の口からは云へない。』

 と蟇六は腕こまぬいて、『と云つて……』と暫らく思案する風をしてゐたが、矢庭に肌を押廣げて、

『俺わしが死んで陳謝いひわけする。』

 と云ひざま、刀をキラリと拔いて突立てようと。

『先まア待つて、』

『そんな短氣な、』

 亀篠と濱路とは左右から腕に縋すがつて引留めた。

『放せ、放せ! 六十のこの皺腹しわばらを切って陣代へ申譯する。』

 と蟇六は振りもぎらうとする。二人は左右から一生懸命に取縋つて放すまいとする。

『濱路』と亀篠はワザとオロ〳〵聲を振立つて、

『お父さんに腹切らしても、お前は強情を押通す氣かい? 不幸者奴が。』

 見す〳〵狂言と解つてゐても濱路はウンと云はねばならなくなつて、泣きの涙で漸く納得なっとくした。

『納得して呉れるか』と蟇六は刀を持つ手を漸やつと緩めて、『これで俺の顏も立つ、家も安泰だ、お前も……』

『お前も出世だよ。』

 と亀篠は俄に面を和やはらげてイソ〳〵として、

『御陣代樣の奧方になりやア榮耀榮華は仕放題で、そリや〳〵大した出世だよ。』

 夫婦ふたりは大變な御機嫌で、孝行者だとばかりに俄にチャホヤした。

五 虎を免かれて狼に攫はる

 翌あくる朝は今夜が婿入といふので、蟇六の家は朝から風呂をたてゝ、全家うちぢうがザンザめいてゐた。濱路は昨宵ゆうぺから病が一層重くなつて枕が上らなくなつた。が、蟇六夫婦は大噪おほはしやぎに噪はしやいて立つたり坐つたりしてゐた。

 こゝに憐れを留めたのは左母二郎さもじらうである。首尾よく亀篠かめざさの頼みを仕終しおほせたので濱路は約束通り宿やどの妻、お庭の櫻を手活ていけの花にして瞻ながめるのもモウ近々のうちと、独ひとりでニタ〳〵と悦えつに入つてゐると其日の朝、脊助せすけが鍬を片手に夏なつ蘿蔔だいこんを五六本脇に抱へて忙がしさうに行くのを見て呼留め、

『イヨウ先生、忙がしさうだナ。』

『忙がしいの何なんのッて、今夜は婿入があるだよ。』

『ドコに?』

『俺おらが邸やしきにだ。』

『誰に婿を取るんだ?』

『誰にツて、俺おらがとこには娘ツ子は一人ひとりほか無かつペエ。』

『ぢやア何なにかい、犬塚どのとかい?』

『犬塚の小旦那こだんなは昨日きんにようの朝あさ滸我こがへ立たしやつた、お前さまも知つてるベエ。』

『それぢやア誰だ、誰が婿に来くる?』

『陣代の簸上宮六樣だつてこんだ、犬塚の小旦那こだんなは馬鹿ア見たダ。鳶とんびに油揚を引攫ひツさらはれたやうなもんだ。』

 左母二郎さもじらうは呆氣あつけに取られて暫らくは茫ぼうツとした。鳶とんびに攫さらはれたのは信乃しので無くて左母二郎である、と思ふと俄に腸はらわたが沸にえくり返るやうで、能よくも沸え湯を飲ませやがつたと足摺あしずりして口惜しがつた。信乃と婚禮するなら先口せんくちだから指を啣くはへて目を閉つぶつてやるが、陣代と聞いちやア勘辨ならねエ。今夜の婚禮に斬込んで血ちの雨あめを降らせよう……とも思つたが萬一ひよつとして先方むかうの人數にんずが多いと此方こつちが危あぶねエ。それより神宮河かにはがはの一件を露ばらしで狸親爺たぬきおやぢの面つらの皮かはを引剥ひんむいて臭くせエ飯めしを喰くはして呉れよう……とも考へたが此方こつちも荷担人かたうどで、肝腎の正物しやうぶつが此方こつちの手に有るんちや、ヘタをやると此方こつちが先さきへ喰くれエ込し。陣代といふ荒神樣が先方に附いてるんぢや、とんな手妻てづまを遺つかつても消されてしまはねエとも限らねエ。此奴こいつア迂闊うつかり出来ねエや。

 そんな危あぶねエ目を見るよりか女を引攫つて陣代面ぢんだいづらに鼻を明かせ、蟇六の狸親爺たぬきおやぢに吠面ほえづらを掻かせるのが早手廻はやでまはしの腹癒はらいせになる。女だつて信乃といふ本役ほんやくが目の前にブラ下さがつてゐたからこそ此方こつちは鼻汁はなも引掛けられなかつたが、宮六の三枚目との面競めんくらべなら此方こつちへ札ふだが入へエるのは定ぢやうだ。それでも靡なびかなけりや宿場しゆくばへ叩き賣つて飲代のみしろにする。色いろと張つて失敗しくじりやア慾よくと轉ころぶのが当世だと、それから左母二郎はガラクタ世帯を賣りこかして高飛びをする支度をした。

 そんな事とは知らない濱路、今宵人身御供こよひひとみごくうとなつて、猅々ひゝの祭壇さいだんに供そなへられる憂目を見るよりはと、朝から覚悟を定きめてゐた。灯ともし近くなつた時、臥床ふしどに起直つて乱れた髪かみを梳上かきあげるのを見た亀篠は死出しでの旅路の身嗜みだしなみとは知らずに、愈〻親念して今宵の祝言を擧げる支度の髪化粧かみけはひと安心した。かれこれして初夜過しよやすくる頃、油斷を見済まして竊そつと忍び出し、土庫ぬりごめの楣間ひあはひを抜けて背戸せどの裏庭うらにはの築山つきやまの蔭へ行き、築墻ついぢのほとりの松ケ枝に用意の細帯を投げ掛けて、過ぎ越し方を一時に憶出してサメ〴〵と涙に掻暮れた。

 かゝる処へ築墻ついぢの崩くづれから忍込んで、抜足差足ぬきあしさしあし樹立こだちを傳ひ、樹下こしたを潜くぐつて伺ひ寄つたのは左母二郎であつた。猅々ひゝの祭壇を遁れて再び狐に覘はれてるとは知らない濱路は、産みの親を眷なつかしみ言號いいなづけの夫をつとを戀しがつて身の薄命を欺き悲むを、夜目よめに透かして左母二郎は濱路と知つて肩を縮めて躊躇たじろいだ。こゝで出会うとは天の與へと暫らく身を潜めて容子を窺ひつゝ、今宵こよひの祝言をするが嫌いやさの覚悟とは知れてるが、操を立てるのは信乃の爲めか自分のためかと思ひ惑うて自問自答し、どうやら自分への心中しんぢう立だてと身勝手に己惚うぬぽれて身柱元そうけもとからゾク〳〵して来た。

 濱路はやがて細帯の端はじに縋すがつてアワヤ首をつらうとした時、ドツコイ待つたと左母ニ郎、うしろから羽交はがひ締じめして無圖むづと抱留だきとめ、驚き騒ぐ耳の端はたへ口を当て、

『左母だ、左母だ。』

 と私言さゝやくと、濱路は喫驚ぴつくり、汚けがらはしいと力一杯突飛つきとばした。今の今まで自分のための心中立てと自惚うぬぼれてゐたのが暗あんに相違したので、破れかぶれと猿臂えんぴを伸ばして抱縮だきすくめ、矢庭に手拭てぬぐひ啣はませて早速さそくの猿轡さるぐつわ、小脇こわきに引抱ひつかゝへてヒラリと登る松まつケ枝え傳うて築墻ついぢを飛下りざまに、闇やみに紛れて何処いづこともなく消失せてしまつた。

 暫らくすると家内は俄に騒ぎ出した。庖厨くりやの準備よういも書院の飾りつけも出来たので、婿どのの見えるのも最もう一ひと晌ときと迫つたので、徐そろ々〳〵花嫁はなよめに支度をさせるツモりで亀篠かめざさが行つて見ると、濱路の臥床ふしどは藻抜もぬけの壳からだつた。亀篠は喫驚びつくりして、『大変、大変!』と金切聲かなきりごゑを振搾ふりしぼつたのて、蟇六は足を空に飛んで来て、それツ、厠はゞかリへ行つて見ろ、土藏を見て来い、浴室ふろにはゐないかと、隅から隅まで捜したが影も形も見えなかつた。急いで庭へ下おりて家の周圍まはりを紙燭しそくを照てらして一ひと過めぐりしてやがて背戸せどの築山の蔭へ廻まはつて見ると、松ケ枝に細帯が下さがつてゐで墻地ついぢを越えて逃出した痕跡あとがあるのを發見して、蟇ひき六も亀篠も尻餅ついて腰を抜かした。

 が、濱路が單身ひとりで逃げたとは思はれない。信乃か左母二かドチラかと、急いで左母ニの容子を見せにやると、左母二の家は空家あきや同然と飛んで歸つて報告したから、左母二に定きまつた、それツ追駈おつかけろ、遠くは行くまい、お前は東、お前は西、襃美の金は望み次第と、蟇六夫婦は赤くなつたり青くなつたりして叫わめき散らしかた。

 かゝる処へヒヨツコリ顔を出したのは神宮河かにはがはの川狩に傭つた船頭せんどう土太郎どたらうである。賭博ばくちに負まけてスツテンテンになつたので、去いんぬる日の辛労銭ほねをりしろの不足を強請いたぶりに来たのを見て蟇六は、イヽところへ来た、實は今、娘が家出して大騒動の眞最中まつさいちう、対手あひての男はお前も知つてる浪人者の左母二郎、全家うちぢう總出そうでで追手を掛けさしたがお前が来たのは何より幸ひ、直ぐ追駈おつかけて呉れ、娘を伴つれて戻りさへすりや襃美の金は望み次第と迫せき立てれば、ニ言ごんと聞かず土太郎は、オツト合點、そんなら今そこで賭博仲間ばくちなかまの加太郎井太郎と駕籠賃の押問答しでゐた妙な野郎が左母ニ郎で、駕籠かごの中なかなが嬢さんに違ちげエねエ、能ようがす、野郎をトツちめて直く嬢さんを取戻して来やす、行手は正しく礫川こいしかはから本郷坂ざかと、蟇六が用意よういに呉れた一刀腰こしにボツ込みて韋駄天走りに追駈けて行つた。

六 圓塚山の悲劇  蟇六夫婦の残殺

 こゝに寂寞道人肩柳しやくみやくだうじんけんりやうといふ不思議な行者ぎやうじやがあつた。諸国の靈山靈跡を歴巡へめぐつて不思議の修法しゆほふを行ふので諸人の渇仰かつがう一ひと通とほりならず、佛陀の再来の如く崇あがめられてゐたが、恰も此日に圓塚山まるつかやま(今の本郷丸山邊)で火定くわぢやうに入いるといふので、有縁無うえんむえん縁の道俗だうぞくが尊たつとい聖者ひぢりの世にも難有ありがたい示寂じじやくを拝みに雲集した。入相いりあひ近く火定が終へて人々は皆火焔の中に端座して鈴れいを鳴ならし経きやうを誦ずした後のち焔えん々〳〵たる火坑に身を投じた行者の尊い遷化せんげを、口々に讃ほめ称たゝへつゝ東西南北へ散り〴〵になつた。

 やがて日はトツプリと暮れ、火定の残火がまだチロ〳〵と燃えて常よりは一層淋しき初夜過しよやすぐる頃、輿丁かごかきの足も軽げにタツ〳〵〳〵と来た駕籠かごが忽ちハタと駐とまつた。

『且那、お約束の繼場だ。』

 と先棒さきぼうは駕籠かごに附添ふ男に向つて、

『さツ、女を卸おろすから洒手さかてを出しなせエ。』

『馬鹿アいふ勿な。板橋が約束ちやねエか。足弱あしよわを伴つれてると思つて馬鹿にする勿な。』

『調戯じやうだん云つちや不可いけねエよ。板橋まで行きや夜が明けらア。愚圖々々云はずに酒手を出しなせエ。』

『不埒な奴だ、勘辨ならねエ奴やつだが足弱連あしよわづれだから勘辨して下おりてやる。さア、銭をやるからトットと歸けエれ。』

 と云つて銭兩緡ぜにふたさしを投げてやつた。

『ふざけるない。二百や三百でこの代物しろものが担かつげるかい。女に猿轡さるぐつわを喰はめやがって、狂人きちげいだナンテ胡麻化ごまかしやがつて、この俺さまの面つらを見損みそこなつたか。汝うぬのやうな放烏たびがらすの胡麻ごまの蝿はへに井太郎さまの縄張を荒らされてお堪たまりこぼしがあるもんけエ。さツ、玉たまも路銀も身ぐるみ脱ぬいで消えてしまやがれ。』

 と合棒あひぼう加太郎と左右がら息枚振いきづゑふるつて打つてかゝつた。

 が、喧嘩には馴れてゐても武術は皆目かいもく知らないから、

『おのれ、不埒な奴!』

 とスラリと抜いた左母二郎の刀先きつさきに忽ち切捲きりまくられ、井太郎は逃出すところをうしろから袈裟掛けさがけに、加太郎は返す刀で浴あびせられ、二人ふたりとも血煙立ちけむりたてゝ倒れてしまつた。かゝるところへ飛んで来た土太郎、一ひと足遅あしおくれて二人が斬伏きりふせられたのを見ると、直ちに一刀引ひン抜いて、『兄弟分の仇』と眞向まつかうから斬つてかゝつたが、ナマクラ武士でも武士は武士、稀代の寶劍村雨の一ひと揮毎ふりごとに雫しづくを降らす不思議の奇特きどくに鋭氣えいき平生ひごろに十倍して、刃先鋭どく薙立なぎたて〳〵到頭土太郎を斬つて棄てた。

 左母二郎さもじらうは初めて見たる名劍の奇特に驚き押戴きて鞘に収め、涙に伏沈ふししづむ濱路を駕籠から扶たすけ出して猿轡さるぐつわを解といた。其時までもまだチロ〳〵と燃ゆる火定くわぢやうの抗あなの残火のこりびに残りの柴の束を投込むと忽ちパツと燃上つて白昼まひるのやうに輝いた。左母二郎は近くの切株きりかぶにヤヲラ腰を掛け、濱路に向つて神宮河かにはがはの村雨むらさめ摺換すリかへの一條を語つて聞かせ、かういふ首くびと釣換つリかへの仕事をさした俺を袖にして、襃美に呉れる約束のおぬしを陣代へ熨斗のしをつけで進上するのを見て指を啣くはへて引込んぢやゐられねエ。おぬしにしたつて陣代の表徳面ひよつとこづらに惚れたわけぢやあるめエから、此奴こいつア横合よこあひから引攫ひつさらふのが人助けと、かう思つておぬしを引張ひつばり出したわけサ。信乃と比べたら役者が少し不足かも知れねエが、萬更な男振でもねエツモリだと頤を撫で〳〵冷笑うすわらひをして、コンナ事も有らうかと村雨は三方換みところがへをしてホントウの正物しやうぶつはコレ此通り俺が佩さしてをる。氣の毒だが信乃が献上しに持つてツたのは贋物にせもので、今頃は縛り首にでもなってるだらう。ドウセ最もう歸りツこは無エんだから牛うしを馬に俺と乘換へなせエ。京都へ行つて室町御所へ献上すりや何千貫の大身たいしんに取立てられる、おぬしは差詰め多勢おばぜいの女中から奥方樣と崇あめめられる身分になるんだぜ。萬更惡くも無からうと和なだめたり賺すかしたりした。

 濱路は村雨が親の姦計わるだくみで摺換すりかへられて現在正物は左母二郎の手に渡つてるのを初めて聞いて胸がワク〳〵したが、左あらぬ體ていをして、信乃をスッパリ斷念おもひきつて落花流水誘さそふまゝに任まかすやうな氣振けぶりまで見せて、安心のため本物はんものの村雨を見せて呉れと云つた。欺かれるとは知らずに左母二郎、イヽ氣特になつて渡すのを請取つて、濱路は刀やいばの裏表うらおもてを左見とみ右見かうみしてゐたが、油斷を見済まし大刀たち取直とりなほして、『夫をつとの仇かたき……』と呼よびかけざま矢庭に躍をどり蒐かゝつて斬りつけた。不意を討たれて左母二郎、驚き慌てゝ左に外はづし右に避よけ、彼方此方あなたこなたと逃げ廻まはつたが、要えうこそあれと小刀抜いて曳えいやツと切結べば、一念籠めた念力は鋭いやうでも女の柔腕やさうで、忽ち切捲きりまくられて次第々々に逡巡あとじさりするうち、左母二郎が焦いらつて打込む刃先きつさきを受け損じて乳の下深く切込まれ、アツと魂消る聲こゑ諸共もろともに横よこざまに倒れた。

 ハレヤレ骨を折らせやがると、濱路の手から村雨を取つて腰に佩さし、血に染む小刀を大地に突立てゝ、戀なればこそ優しくすりや増長つけあがりやがつて刃物を揮廻ふりまはしやがる、かうなりや可愛さ餘つて憎さが百倍、さぞ痛いたからうが思ふさま苦くるしませてやると、懐中の疊紙たとうがみから出した鑷子けぬきで髯を抜き〳〵、さアゆつくり聴聞してやるから心残りの無ねエやうに世迷言よめいごとを吐ほざくが宜よからうと快こゝろよげに冷笑あざわらつた。灸所きうしよの深傷ふかでに苦くるしみつゝ濱路は怨めしげに左母二郎を見て養ひの父と母との情つれなきを恨うらみ、産みの父や母や同胞きやうだいが練馬ねりまの戰いくさに行衞知れずになつたのを眷なつかしみ、戀しい信乃と逢はで別るゝこの世の縁の薄いのを臨終の際の苦痛を忍びつゝ怨み歎かこつた。左母二郎は欠伸あくびしい〳〵聞いてゐたが、それほど信乃が戀しくば冥土めいどへ家産みやげに思ひの残つた村雨で引導渡いんだうわたして呉れようと、濱路の胸元むなもと掴つかんで今や一ひと突きしようとした途端、火定くわじやうの坑あなのあたりから矢聲やごゑと共に飛んで来た手裏劍しゆりけんが見事に左母二郎の乳の下深くプツリと刺した。
 アツと叫んで左母二郎がノツケに倒れた一刹那、火定の坑あなのほとりに忽然現れたのは行者の姿に引変へて南蛮鐵の鎖帷子くさりかたびら唐織広袖からおりひろそでの異樣な形をした寂莫道じやくみやく人肩柳けんりうであつた。傍目わきめも振ふらず突つと進んで左母二郎が痛いた手でに堪たまらず振落した村雨を取上げ、暫らく餘念なく焼刀やきばを見上げ見下みおろしてゐたが、莞爾につこと笑つて腰こしに佩さし、やがて深傷ふかでに弱り行く濱路を支かゝへて抱起だきおこし懐ふところから用意の氣付けを出して口に含まし、耳の傍はたにて女子をなご々〳〵々と呼覚よびさました。

 濱路はフツと氣が付いて驚き騒ぎて振放さうとしたが、肩柳は手を釋ゆるめずシツカと抱き支へて、

『驚くには及ばん、汝そちの異腹はらがはりの兄の犬山道節忠與たゞともであるぞ。最前からの汝の苦悶の述懐を聞いて幼ない折に一生不通ふつうの約束で養女に遣した異腹はらがはりの妹と知つた。臨終の際までも産みの父母ちゝはゝ同胞きやうだいおもを懐おもうて止まざる心根を不便ふびんと思つて名乘り遣はす。』

 と二人の父が練馬ねりまの老臣犬山入道道策だうざくである事、二人の母は侍妾同士そばめどうしで互ひに寵を爭つた末が二人共に非命に終つた事、道節は幼き折に濱路の母の嫉妬で縊くぴり殺されて葬むられてしまつたのが二十日で、不思議に蘇生して生れついての肩の瘤こぶに牡丹の形かたちした黒痣くろあざの出来た事、濱路が一生不通で他家へ養女に遣られたのは母の罪過が父の憎しみを買つた爲めである事、父は去年こぞの池袋の役で管領くあんれい定正さだまさの家隷いへのこ竈門かまど三寶平さぽへいに討たれて陣亡ぢんぼふした事、幸ひ戰場を遁のがれた自分は君父くんぷの仇あだを報ずる旗上げの軍用金を作るため、寂莫道人肩柳と姿を変へて愚民を欺き、家に傳はる火遁の秘法を行つて火定と僞はつて賽銭を集めた事、が、村雨が計らずも手に入ったのは偶然の幸ひ、これを餌として管領定正に近づき、アワよくば定正の首級しるしを擧ぐる心算である事を逐一語って聞かした。

 濱路は産みの母の恐ろしい罪障を初めて聞いて、非業ひごふに死するこの身の薄命も母の因果の報いであると泣き、誠の父に詫言わびごと〚底本は詑と誤記〛して親子の名乘なのりがしたかつたと恨み口説くどきつゝ、亡き母の浅からぬ罪の報いとは云へ、誠實まごころの無い養ひの父と母とに苦められた針の蓆しとねに坐する如き今までの苦労を訴へ、一端許された妹脊いもせの仲まで堰せかれて、戀しい夫をつとは腹黒い伯父の姦計たくらみで贋物と摺換へられたとも知らずに滸我こがへ寶刀みたちを献上しに立たせられたと一伍一什いちぶしじふを物語つて、

『兄上、一生のお願ひでムいます、その村雨を滸我こがの夫へ送つて夫の難儀を救うてたベ。』

 と手を合はして頼んだ。

 鐵石心の道節は首くびを掉ふつて、肉親の妹の臨終いまはの際きはの頼みではあるが此の村雨むらさめは君父の仇の定正へ近づくための大切だいじの音物いんもつ、私事わたくしごとの妹いもとの婿の義理には換へがたいと云つた。濱路は愈〻の斷末魔の息も絶え〳〵な苦痛を耐へての最後の願ひを心強くも拒付はねつけられてガツタりと絶入つてしまつた。

『不便ふびんな女子をなごだ。君父の仇を報むくつた後は、必ず汝そちの夫をつとをも救うて汝そちの節義を傳へるぞ。』

 と遺骸を火定の坑に卸して柴を投入れ、弥陀佛々々々と念じつゝ荼毘だびに附した。

 物語二つに別れて信乃を送つた額藏がくざうは途中で信乃を殺してしまへと亀篠かめざさから吩咐いいつけられた顛末を打明けて、此儘滸我こがまでお伴ともするのは容易たやすけれど氣懸きがかりなのは濱路の身の上である。滸我にお伴ともするよりは何とても言拵いひこしらへて戻つて餘所よそながら濱路を保護し參らせんと、途中で別れて早や家路に近く圓塚山へ掛つた頃、怪しの曲者くせものが一刀を見上みあげ見下みおろす傍かたはらには妙齢の乙女が血塗ちまみれになつて片手を突き、四邊あたりには死屍狼籍するを見て、要えうこそあれと木蔭に隠れて容子を覗つてゐた。やがて件くだんの曲者が半死の乙女を介抱しつゝ語り合ふ仔細を聞いて思掛けない濱路の災難と、怪しの曲者が予かねて小耳こみゝに挟んでる濱路の實家の兄であるのを知つて愕然とした。それよりも猶ほ驚いたのは信乃が滸我こが御所ごしよへ献上しに持つてつた村雨は左母二郎に摺換へられた贋物にせもので、まことの正物は濱路の兄が左母二郎から奪つて火定の残り火に照らして瞻ながめてゐたのがそれである事だ。さうとも知らずに信乃が若しあの贋物を御所へ差出したなら、如何なる難儀が身上に及んだかも計られない。かう思ふと信乃の安否も心許なく、見す〳〵本物ほんものが他人の手に渡つたのを知りつゝ看過みすごす事は出来ないが、現在の妹が臨終いまはの際きはの一生の願ひとして頼んでさへ諾きかれないのを、如何に事情を明かして割わりなく頼んだとて尋常では渡して呉れまい。引組んで腕づくで取る外はないと暫らく容子を覗つてると、道節は濱路を荼毘だびに附し、村雨を腰に楓さし副ぞへ去らうとするので、

『曲者、待て!』

 と聲を掛けざま、横合ひから飛蒐とびかゝつて組みついた。

『シヤラ臭い!』

と振放さうとすれどイツカナ緩ゆるめず、曳えい々〳〵聲ごゑで互に捩倒さうとし押轉おしころがさうとし、押出したかと思ふとまた押戻され、互ひに死力を儘して揉合もみあふうち、額藏が肌身離さぬ護身袋まもりぶくろの長紐ながひもがドウしたわけか乱れて道節だうせつの刀の下緒さげをと結びつき、押合ひ揉合ひする間に次第にこんがらかつてくるのを額藏は解かうとしてツイ手が緩ゆるんだので、道節忽ち振放ふりはなして抜く手も見せずに大刀引抜たちひんぬいて曳えいツと叫をめいて打込んで来たのを、一足下ひとあしさがつて額藏も、抜く手も見せずにチャリンと合はした。暫らくは一上じやう一下げ虚々實々受けつ流しつ闘ふうちに、額藏が焦いらつて打込む切先きつさきが道節の着鎖きごみを深く突いで肩なる瘤を劈つんざいた。忽ち黒血くろちがサつと濆ほとばしると共に瘤の中から何物か飛出して額藏の胸へ發矢はつしと中あたつたのを素早すばやく左の掌てで握り留めつゝ右手めてに刀やいばを閃ひらめかし、再び切結んで何時いつ果つべしとも見えなかつた。暫らくして道節は、待て〳〵、汝が武芸甚だ佳よし、我れ復讎の大望あれば汝が如き小敵と死を決する事は出来ないから暫らく退け退のけ〳〵と云ふに、額藏呵々から〳〵と笑つて、汝我が武術てなみに恐れるならその村雨むらさめ渡して引込め、我れこそは村雨の所有主もちぬし大塚信乃の親友犬川荘助義任であるぞと云つた。何を小癪な、この村雨は妹いもとにすらも許さなかつたので焉いかで汝に渡さんや。渡さぬなら取つて見せる。取れるなら取つて見ろと、双方またもや詰寄つめよつてチャリン〳〵と受けつ流しつ、道節は次第々々に後退あとじさりして、隙すきを揣はかつで火遁の術で火定の坑へパツと飛込んで、煙と共に消え失せてしまつた。

 失敗しまつた、逃がした、残念と思つたが、影も形も見えないから詮術せんすべが無かつた。只氣ときが付いて渠かれの膚から飛出して我が掌に握り留めたものを見れば、不思議や信乃や自分が持つのと同じ玉で、「忠」の一字が現れてゐた。さては彼も亦未見異姓の兄弟かと眷なつかしく思つたが、我が玉を秘めた護身袋まもりぶくろがは彼の刀の下緒さげをに絡からめ取られ、彼の玉を我が掌てに握にぎつたといふ不思議な因縁にて再び邂逅めぐりあふ時が必ず有らうと思つた。

 さるにても痛ましいのは節婦濱路の終焉と、火坑くわこうに向つて懇ねんころに念佛祈念して後のち、不斗ふと思ひついて左母二郎の首くぴ掻切かききつて傍かたはらの榎の大樹に梟かけ、幹を削つて墨黒々と、惡漢網乾左母二郎あぼしさもじらう、天罰依而如件よつてくだんのごとしし書付けつゝ、独り點頭うなづいて礫川こいしかはへと道を急いだ。

 時刻は丁度亥い中過なかすぎ(今の十時)、大塚の庄官しやうくわん屋敷では大騒動が起つてゐた。約束通り陣代簸上宮六ひがみきうろくは媒酌人軍木ぬるで五倍二と、略式といつても上下姿かみしもすがたで婿入むこいりに乘込んで来た。蟇ひき六夫婦は宵からの騒きで氣が氣で如く、追手おつてを掛けても手懸りは無く、頼みに思ふ土太郎さへ梨の礫つぶての音沙汰おとさたが無いから、かれこれして時間は移るしトツオイツしてゐたところへ花婿樣のお入りである。心こゝに在らざれば挨拶もシドロモドロで落付かず、膳部ぜんぶは出しても肴さかなは揃はず、味噌汁の中から束藁子たはしが出たり、酒の銚子に酢が入れてあつたり、失態百出して婿殿の御機嫌頗る斜めであつた。目指めざすお敵てきの花嫁御がヒヨツコリ顔を出しさへすれば百の失態も千の不調法も過失あやまちの功名の愛嬌となつて、婿殿も忽ち相好さうかうを崩して目出度く無事に納まるところだが、肝腎の立たてお山やまが楽屋がくやから突走つツばしつて舞台に穴あなが明いてしまつたので、蟇ひき六夫婦は立つたり坐つたりして狼狽まご〳〵しつゝ何とか言瞞いひくるめようとしたが、宮六も五倍二も、最う旨口あまくちには乘らないで血相変へて濱路の部屋へ踏込んで引摺出ひきずりださうとまで切迫詰せつばつまつた。

 結局ありのまゝを秘かくさず打明けて陳謝する外は無かつたので、蟇六はまア〳〵〳〵主人を押和なだめはて、實は甚だ申訳ありませんが實は恁かう〳〵斯かく〳〵の次第と濱路の家出の顛末を語つて、心利ききたるものを八方へ追手に遣はしましたから追ツつけ誰がゞ引捉ひつとらへて參りますまで暫らく御勘辨をと七重なゝへの膝を八重に折つて嘆願した。愈〻の今日となつて御懇ぎよこんのお思召に背そむくは此上も無い不調法ぶてうはふてあるが、陣代に対して蟇六が他意なき誠實を證す左券しるしに婿引出むこひきでとして準備よういした寶刀村雨丸ほうたうむらさめまるを進まゐらせませうと、刀の由来やら奇特きとくやらを仰山に吹き立たてつゝ床の間に飾つた寶刀を恭うや〳〵しく宮六の前へ進めた。眞朱まつかになつてイキり立つた宮六も、村雨丸と聞いて漸く機嫌を直してヤオラ手に取上げ、蟇六の講釋の村雨丸の奇瑞きずゐを試ためさうとスラリと抜いた。

 これが若し眞の村雨であつたなら此難關を無事に過すごしてユル〳〵善後策の相談も調ととのつたであらうが、蟇六が摺換すりかへた晩に試ためして感歎した神宮河かにわかはの水は最もう盡きてゐた。陣代宮六がスラリと抜いた刀を數度あまたたび揮ふつても揮つても一ひと雫しづくも落つればこそ、果はてはヤケになつて揮廻した刃先が柱に当るとへシ曲まがつてしまつた。この鉛刀なまくらが村雨むらさめかと、宮六は面色朱を沃そゝいで、先さきの曲つた村雨を取るより早く鍋蔓なべづるの如くへシ曲げて投出したが、酒には酔ってるし、最前からの重ね〴〵の失態に怒氣心頭より沸熱して驚き狼狽うろたへて逃出さうとする蟇六を偸児待ぬすぴとまてと聲かけざま、一刀引抜いて背後うしろからスツパリと切りつけた。それからは乱脈らんみやく、五倍二と二人して蟇六夫婦を膾なますの如く切り倒した。全家うちぢうは血潮ちしほの海を漂はして奴婢ぬひらは皆散り〴〵に逃失せ、背助せすけが一人前額ひとりひたいを切られて周章あわてゝ縁の下へ逃込んて潜んでゐた。

 かゝる処へ額藏は歸つて来た。狗豕ゐのこ〚豕は不明 羆は不明 タ/一/(ヒ+矢+ヒ)「テイ」70-17〛に等しい食婪どんらんの主人であるが、一飯の恩を受けたる身は眼前の敵を見遁し難く、主人の仇かたきと呼びかけて宮六五倍二を一刀に斬例した。平生ひごろから蟇六夫妻の邪曲を憎める村人むらびとは覿てき面めんの因果應報を小氣味こぎみよく思ひながらも、陣代ぢんだいを笠に着て定まる夫のある女を横奪しょうとした奸曲無頼かんきよくぶらいの宮きう六五倍二を其場を去らせず即時に斬つて棄てゝ仇を報じた額藏の義勇を讃ほめないものは無かつた。が其の翌る日間注所もんちうじよから検死に来た宮六の弟の社平しやへいと五倍二の同役の卒川いさかは庵八いほはちは鷺さぎを烏からすに言瞞いひくるめて額藏に縄打つて引立てた。

七 芳流閣土龍虎の爭ひ

 かゝる無残の惨劇が故郷の家に起つたとも知らない信乃しのは、栗橋くりはしで額藏がくざうと別れて幾程もなく滸我こがに着し、旅宿を定めて後のち執権横堀史在村よこぼりふひとありむらの邸やしきへ行つて村雨むらさめ献上の執奏を頼んだ。その翌あくる旦あした、刀の塵を拭はうとして片検あらためると、こは如何に、村雨とは似てもつかぬ贋物であつた。時かたときたりとも離した事の無い村雨をイツの間に摺換へられたかと不思議に堪へなかつたが、それかと心に思当るは神宮河かにはがはの船中であつた。マダ献上しない以前であつて仕合せ、縡ことの由よしを精つばらに執権に話して暫らくの猶予を乞ひ、急ぎ歸つて刀の行方ゆくへを詮議しようと思つた時、横堀史ふひとより即時出任せよとの召状めしじやうが来た。

 餘りの火急に驚いたが、少しも遅疑せず使ひと共に同道して横堀史ふひとの邸を訪へば、既に登営した後と聞いて是非なく御所へ案内された。暫らく遠侍とほざむらひに控へて執権に面会を求めたが、執権はドコへ行かれたか見当らぬといふので縡ことの由を訴ふる道が無いので当惑した。が、覚悟を定めてやがて導かれるまゝに御座ござの間まへ出仕すれば、上壇には翠簾みすを半ば垂れて成氏卿既に出座されてると覚しく、下座には執権在村を筆頭として老臣近臣左右に居流ゐなめれ、廊下には身甲はらまきしたる武士數十人物々しく非常と警いましめてゐた。

 其時執権在村は遥か上座より村雨献上の趣おもむき神妙に恩召ざるによつて先づ我等一見致すへければ大刀たちを進まゐらせよと云つた。信乃は一期ごの浮沈と思つたが少しも怯ひるめたる色なく縡ことの齟齬した次第を述べて數日の猶予の許しを乞うた。半分聞かず在村は聲厲あららげ、

『奇怪千萬の事を聞くもの哉、察するに汝は敵の間牒にて村雨献上に事寄せて御所を覗ふ曲者ならん、者ども召捕れ。』

 と呼ばはれば廊下に列ならんだ力士は皆總立ちとなつて信乃をオツ取圍とりかこんだ。短慮の大将成氏卿は赫となつて裀しとねを蹴立て、それツ撃留うちとめよと下知すれば近習の面々承はりぬと各〻刀を抜き連れて信乃に向つた。無實むじつの縄目をも甘んじて受くるが臣子しんしの本分であると知らぬでは無いが、故君に殉じた父の忠義に免じても寛大の沙汰があるべさを、碌々縡ことの顛末を訊たゞしもしないで直く間者呼かんじやよばはりして討取うちとらうとするは人主に似氣にげなき狭量小器である、阿容おめ々〳〵々と捕へられて父の名を辱かしめてはと吃きつと決意して、近づく討手うつての刀を奪つて見る間に十數人を斫伏きりふせつゝ飛鳥の如くにパツと庭へ飛下りざま対手あひて嫌はずパタリ〳〵と薙なで倒した。が、薙倒しても薙倒しても新手あらては跡あとから〳〵と益〻殖えて前後左右から切つてかゝるを縦横無盡に切捲つて逃延び〳〵軒端のきばの松に手が掛つたかと思ふとスル〳〵と枝を傳うてヒラリと屋根へ飛び移つた。遁れるだけ遁れようと屋根から屋根へと傳はつて遁れる路をと八方へ目を配つたが、十重二十重とへはたへと取圍んで逃れる隙すきも無いので、次第々々に追詰められて、終に大利根おとねの流れに臨める三層楼の芳流閣の見上げる如き筥棟はこむねへと猿ましらのやうに飛とび上つた。

 只見たゞみる雲表に聳ゆる如く摩天まてんの高閣の屋頂をくてうに勇氣益〻加はる壮漢は、血刀ちがたな引提ひつさげ突立つツたちて寄来るものどもバサリ〳〵と切落した。その大刀たち風かぜの鋭どさに対手あいての面々は尻込しりごみして近づくものは一人も無かつた。誰にもあれ、彼かれを捕とらへるものには千貫文を賜はるへしと下知を傳へても、承はるといふものは一人ひとりだも無いので、遠矢とほやで射落いおとせと命じても届かぬ仇矢あだやに氣を焦立いらだつばかりであつた。

 爰に犬飼いぬかひ見けん八信道のぶみちといふ豪傑があつた。捕物とりもの拳法やはらにかけては一藩双ならぶものが無い勇士といはれたが、横堀よこほり史ふひとと相容あいいれなかつた爲め、罪無くして獄に繋がれてゐた。在村は不斗ふと見八を憶出おもひだし、信乃しの召捕めしとりの大役を彼に命じて功あらば死罪を赦ゆるしたまへと推擧し、撃うたれるとも彼ならば惜しかるまじと言上ごんじやうした。成氏卿は實げにもと點頭うなづき、早速獄舎ひとやから出してこの大役を仰付けられた。

 仰せ畏かしこみ見八は肱手臑盾こてすねああてに身を固め十手じつてを持つて三間梯子けんはしごをスル〳〵と飛登った。孫廂のあなたより遥に血刀提げた信乃しのを望んたが少とも擬議せず、甍いらかを踏みしめ踏みしめ間あはひ近くまで進んで暫らくは眤じつと睨にらまへてゐた。生中なまなかに獄舎ひとやより択えらみ出されたる身の君命もだし難くてこの三層の高頂かうてふに召捕めしとりに向つたが、対手あひては萬夫無当ばんぷぶたうの勇士ゆうし、所詮は搦からめ捕とるか撃うたるゝかの二つ外無いと決死の覚悟で隙すきを覘ねらってゐた。信乃はもとより翼つばさなき身の翔かけるに術なき高頂に進退極まりて好よき敵あらば引組んで碎けようと待構へてゐた。暫らく二人は互ひに睨みあつてゐたが、隙すきがあつたか見八は御諚ごぢやうざふと呼びかけて組まんとしたが寄せつけず、發矢はつしと撃ち込む鋭き大刀風をカチリと受けとめ、拂へば外はづし、受ければ流す虚々實々、辷る甍いらかの危き足元あしもとを踏ふみ固かため〳〵互ひに手練を闘はすうち、信乃が焦いらつて曳えいツと打下うちおろすをカツチリ受けると鍔元つばもとからポキリと折れたので、してやつたりと見八は矢庭に飛蒐とびかゝつてムンヅと組み付き、暫らくは曳えいや〳〵と揉合もみあひ押合ひ角闘すまつてゐた。そのうちにドチラが先へ足を辷らしたか、互ひに固く引組んだまゝ甍いらかの上をコロ〳〵と轉ころがつて、三層楼の高い屋根から眞逆樣まつさかさまに水際みぎはに繋いだ小舟こぶね中へ摚だうと落ちた。機はづみを喰くらつて纜ともづなはブツリと斷きれて急流の眞唯中まつただなかに押出され、早瀬はやせに誘はれ忽ちに矢を射る如く川下へ行方も知らず押流されてしまつた。

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