読書ざんまいよせい(067)

◎滝沢馬琴・内田魯庵抄訳南総里見八犬伝(002)

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一 番作と蟇六

伏姫ふせひめが富山に神去かんさり給ひてから十何年になる。武州大塚(今の小石川の大塚)に犬塚番作いぬづかばんさくといふ浪士があつた。もとは大塚の里を知行ちぎやうして大塚を名乘つた管領くわんれい持氏もちうぢ家人けにんであつたが、結城ゆふきの亂に加はつて暫らく踪跡をくらました間に犬塚と姓を改め、持氏の子の成氏なりうぢが再び管領となつてから放浪中にめとつた妻をれて何年振かで舊采地へ戻つて来た。

 然るに番作父子が忠義の爲めに家を明けた不在中、留守居した姉の亀篠かめざさは物竪い父や弟には似ない淫奔女いたづらもので、さぬ仲の義理の母と、二人ふたり棲で誰憚たれはゞかる者も無いので勝手氣儘に男狂ひをし、擧句あげくはては母が病氣でひとの足りないのをかこつけに破落戸ならずものの蟇六を引摺込ひきずりこみ、母が眼をつぶつたのを好い幸ひにズル/\ベッタリの夫婦となつた。成氏が管領家くわんれいけとなつて舊臣を召出されると聞くとひき六は俄に大塚姓を名乘って、番作の所在不明を奇貨として先代の忠義を申立てゝ相續を願出た。近所合壁爪彈きんじよがつぺきつまはぢきせぬ者はない破落戸ならずものが先代の忠義の餘徳で村長むらおさを命ぜられ、八町四反を宛行あておこなはれ帯刀も許されて、成上り者の大きな顏をして威張返つてゐた。

 そんな事とは知らずに歸つた番作は、代々忠義できこえた大塚の家名が、姉の不身持から泥を塗られたのを憤つたが、姉と爭つて血で血を洗ふは益〻家名をはづかしめる物笑ものわらひだと、思慮あるだけに奇麗サツパリと忘れてしまつて、浪々の生活を楽んでゐた。が、さらぬだに前から姉の氣隨きずひ不身持ふみもちにが/\しく思つたのが愈〻面白くなくなつて十何年間唯の一遍も姉の家へ足踏みしなかつた。ひき六夫婦も何となく弟の家のしきゐが高くなつて、番作の妻が産をした時も長のわづらひの後身まかつた時も顏を出さなかつた。眼と鼻の間で摺れ違つても互ひに顏をそむけて赤の他人よりもつめたくなつてゐた。

 番作の子の信乃しのたび/\男の子をくした母の迷ひから、無事に生立おひたつやうにと、俗説に従つて女の子にして育てた。が、赤い衣服きものに不似合ひなあら/\しい遊びばかりして、力もあり武藝も好き、其上に一を聞いて十を知る利口者りこうもので、氣質きだても柔しい親孝行であつたから近所のものとなつてゐた。石女うまずめ亀篠かめざさはこれがいま/\しくて、信乃しのに負けない子をと物色して漸く玉のやうな女の子をしとねの上から貰つて、蝶よ花よと大切に育ててせめてもの心りとした。

信乃しのが遊びの友とする飼犬かひいぬらうといふがあつた。番作の妻が子供がしさに瀧の川の辨才天に願掛けして日參につさんした或る日の歸途かへりみち、マダ生れたばかりのいぬの子がクン/\鼻を鳴らしてまつはりつくのが振棄てかねて拾つて来たのが與四郎である。信乃は辨才天の授かり子でそのあくる年に産の紐を解いたのであるから、人畜じんちくの区別はあつても與四郎も亦信乃同樣に大切に育て、られた。段々大きくなると毛並つや々しく骨組もたくましく、敏捷で力が強いたぐひ稀れな逸物であつたから一村の群犬は威伏されて、ひきかた飼犬かひいぬも何匹取換とりかへても與四郎に噛伏かみふせられるので、蟇六はごふえてたまらなかつた。結局犬は斷念して、猫は貴人の膝にものぼる犬より貴いものだといふ勝手な理窟をつけて雉子猫きじねこを貰ひ、らうと名をけて家内中が寵愛し、番作と與四郎をの仇に罵つてごふやしてゐた。

 然るにこの秘藏ひざうの紀二郎猫も戀にうかれてトチくるつて屋根からコロ/\とオツつたところを與四郎犬にワングリられてしまつたので、蟇六は脳天のうてんから湯氣ゆげを立たして眞赤まつかになつて小厮こものを番作へどなり込ました。が、番作は鼻のさきで應接あしらつて對手あひてにならぬので、切歯はぎしりして口惜くやしがり、一家の小厮こものを集めて評定して秘計を廻らし、到頭與四郎犬をおびき寄せて小厮眷属こものけんぞくオットリ圍んで竹槍で迫廻して半死半生にしてしまつた。其上に與四郎が奥座敷へ飛込んで管領家の御教書みけうしよ泥足どろあしで破いたとこしらへごとして、かね目星めぼしをつけてる番作所持の故主春王こしゆはるわう遺品かたみたる足利家の重寶村雨丸むらさめまるを、御教書破却みけうしよはきやく御詫おわびに管領家へ献上しろといふ難題を持込んで来た。

 蟇六の奸策はいてる。この村雨丸を巻上まきあげておのれの榮達の道具としようとたくらんだ蟇六の蔭謀は、昨日きのふ今日けふでなく、或時は人をそゝのかして買取らうと云ひ、或時は忍び込まして竊み出させようとした。が、蟇六の手に乘る番作でなかつたから、うにも策のほどこしやうが無かつたのをたぞろ此機會に持出したのである。あまつさへ亀篠かめざさはこの難題の使者つかい糠助ぬかすけに、良人が直ぐにも訴へ出ると云つたのを今日一日やつと待つて貰つたので、しんり、弟なればこそ甥なればこそ縄目のき目を見せたくないと苦勞する姉の心も察して呉れと、猫撫聲で云傳ことづてをいはした。

 やがて信乃を枕邊まくらぺに呼びはりに吊した村雨の寶刀を示し、祖父匠作の忠死から村雨の由来を云つて聞かし、

おまへが成人したらおまへの手から直接ぢか滸我こが殿どのへ献上しろ、かまへて蟇六に竊まれるな、俺が今自殺したら里人怒つて蟇六を訴へるかも計られないのを蟇六も恐れるから直ぐ寶刀にも手を出すまいし、里人さとびといかりをなだめる爲めに實意を示しておまへを引取るのは必定ひつぢやうである。第一、イツかは寶刀を手に入れようとするには、おまへを引取つて手許てもとに寄せつけて置くのが上分別と思ふに違ひない。蟇六の職禄は祖父匠作のたまものだから、匠作の嫡孫たるおまへが大塚家に寄食するのは、蟇六の恩をるわけで無いから大手を振つて伯母のところへ行きなさい。御教書みけうしよ破却がウソであるのは知れてるが、ドウセ長くは無い命、汝を托するイヽ死期しにどきが目附かつたのだ。俺は今死んで行く…………』

 と思ひも掛けない父が突然の覚悟に信乃は呆氣あつけに取られて凝視みつめてゐると、豪膽な父が従容しやうようと筆でもるやうに刀をつかんたので、アツと聲を擧げて刀を持つかひなすがりつくと、病衰やみおとろへても勇士の力、『狼狙うろたへる』と爭ふ信乃を叱して膝に組敷き、『水をほとばしらす村雨むらさめ奇特きどくを見ろ』と云ひざま早速さそくに刀を取直して見事に腹を掻切つてしまつた。

 信乃は死骸に取附いて聲を限りにむせび泣いた。暫らくしてきつと思返して、ヤワカ父に遅れじと同じ村雨の寶刀を手ににぎつた時、縁端近く與四郎が苦痛にわめくを聞くと、俄に縁を飛下りて犬のそばに立ち、『おまへ不便ふびんだが、イツまで苦しまして置いては猶ほ不便だから、と思ひにいきを引取らしてやる、俺もあとから一緒に行く』と云ひざまヤツと聲掛けて水もたまらずくびおとした。

 其途端、さつとほとばしる血潮の中にきらめくものあるを受留めれば紐通ひもとほしの穴ある小さな白い玉で、つたのでもうるしで書いたでも無い「孝」といふ字が鮮かに讀まれた。不斗思廻ふとおもひめぐらせば亡き母が與四郎を拾つた辨才天へ日參の或る日の歸るさい、こうしほどの大きさある犬に腰掛け給ふ神女が何度からか現れて、手に持つ數多の玉の一つを授けて忽ちドコへか消えてしまはれたが、コロ/\と地上を轉がつた玉が、拾はうとすると見えなくなつた。雛狗こいぬの與四郎が呑んでしまつたらしいと亡き母がたび/\午睡ひるねときはなされたが、與四郎の傷口から飛出したのが其時の玉らしいと幼時の憶出おもひでなつかしみてうへころがした。が、死んで行く身にコンナ玉が何惜なにをしからうと棄てると再び跳ね返つて懐ろに飛込んで来るので、煩ささうにまた掴み出して棄てると復た跳ね返つて来て玉に靈ある如く、何遍なんべん棄てゝも返るので、其儘ふところへ入れて部屋へ戻つて来て、率ざとばかりに双肌もろはだを脱ぐと、こは如何いかに、不思議や左のかひなに今までにない牡丹の花の形をした黒痣くろあざが出来てゐた。このまへ玉がふところへ飛込んだ時、左のかひなあたつて些少すこしの痛みを覚えたが、コンナ事で俄に痣が出来ようとも思はれない。不思議な事と思つたが、死んで行く身に要の無い穿議せんぎと、父を手本に肌押廣げて腹を切らうとした瞬間、ドヤドヤとちん入した三人みたり、背後からは糠助が抱留だきとめ、前からは亀篠と蟇六とが左右から兩腕を押へて先づ刀を捥取もぎとつた。

『お前はまア飛んだ事を。』

 と亀篠かめざさはワザとらしいオロ/\聲で、

『番作が生害しやうがいしたと糠助が飛んで来て知らせたから、喫驚びつくりして駈附かけつけて来りやお前までが…………』

 と空涙そらなみだきつゝ、

『番作も片意地過かたいぢすぎる。ドコまてあたしたちを憎まれ者にしたいのだらう。弟と思ひ甥と思へばこそ何卒どうかして無事に収めたいと心配して、女の淺いこゝろからかうもしたらばと糠助阿爺おぢに頼んであたしの心持を相談さしによこしたのに、面當つらあてがましく腹まで切るツてのはアンマリたてぎる。』

 とかきかたはらから蟇六は眞實らしいうるみ聲で、

『早まつた、早まつた、早まつた事してれた。日頃は義絶してゐてもつながる縁のわしたちが親子おやこ不利益ふためなんで計らう。かれと思つてた事があだとなつたはうらめしい。其方そなたも共に突詰つきつめたのは無理もないが、モウ心配さツしやるナ。御教書破却みけうしよはきやく越度おちどおもいが、云はゞ畜生のたこと。飼主の番作が切腹したからはう子までにお咎めは無い。假令よし有つたにしてもこの伯父が宜いやうに申釋もうしときをしてやる。』

信乃しのもう心配しやるナ。』

 と亀篠かめざさはその尾にいて、

『伯父さまがアヽして心配して下さる。さツう短氣はやめて、これからは伯母が引取つて世話します。蟇六どの、濱路とはイヽ釣合つりあひ、成人せいじんしたら妻合めあはして大塚の家名を相續させませう。』

うとも/\。』

 と蟇六は合槌打あひづちうつて信乃をなだめつすかしつして、

『さツ、う短慮はめにして、何よりも死人樣ほとけさま跡始末あとしまつちや。糠助どのも手傳はツしやい。』

 と口と心は反對うらはらに、信乃の機嫌を取り/〝\に先へ立つて世話を焼いた。臨終いまはきはの父の先見がヒシ/\と當つて、狐狸きつねたぬきが何をするかと片腹かたはら痛くてならなかつたが、かくも父の遺言通りに中蔭のいみが果てゝから亀篠許かめざさがりに引取られる事になつた。

 其日は故人ほとけが世話になつた里人さとびとを招いて佛事を營み、心ばかりの酒飯を饗應もてなして置いて扨て蟇六が改まつて云ふには、番作と亀篠と繋がる縁の自分との間に打解うちとけ難い誤解があつて、疎遠に暮したを本意ほいなく思つてゐたが、番作が早まつて世を縮めたので今更誤解をく由も無い、この上は信乃を引取つて成人の後養ひ娘の濱路と妻合めあはして大塚の家名を相續させるツモリと眞實らしく披露した。里人は甚六が意外の申出に狐につままれる心地こゝちして各々顏を見合はしたが、それでこそ亡人ほとけも満足してこゝろよく極樂に浮ばれやうと口々に云ひそやして、きらはれものの蟇六が俄に信望を盛返もりかへして男を上げ、里人さとびとが好意で番作にいた番作田ばんさくだをも信乃が成人するまで保管あづかるといふ名目でヌク/\とに入れてしまつた。

二 信乃と額藏と糠助の子

 蟇六の家に額藏がくざうといふ小厮こものがあつた。としはマダ十一二歳であるが心き才すぐれて心ざま世の常ならず、蟇六が小厮こものを督して與四郎犬をオツ取圍んだ時も額藏は打騒ぐのみにて犬を叩かず、目算通りに與四郎を半死半生にして蟇六初め小厮こものらがはな高々たか/〝\手柄咄てがらばなしをする傍聴かたへぎきして腹の底で冷笑あざわらつてゐた。

 番作が死んでから亀篠は伯母顔をして朝晩出入あさばんでいりして萬事に世話を焼いてゐたが、一人ひとりぽツちの信乃しのが淋しからうと、年比としごろが丁度おツつかツつ丶丶丶丶丶丶の額藏を炊事がてらの話相手はなしあひてよこした。馴染なじみの浅い二人同士、殊に信乃はねぢけた伯母の廻し番と見て用心しい/\容易に油斷しなかつたが、三七日を過ごしたある日、額藏は湯をかして信乃に行水ぎやうずゐをさせた。脊中を流さうとして脊後うしろへ廻つて、左の腕に牡丹の花の形した黒痣があるのを見付けて驚いた。

和子樣わこさまのこの痣はイツからおできになりました?』

と、額藏は不思議がつていたが、信乃は笑つて答へなかつた。湯沐ゆあみ果てゝやがて衣服きものを着ようとしてふるふと、中から白い玉がコロ/\ところがり出した。

 額藏は再び驚いて、

『和子樣、その玉はドウしてお手に入りました?』

 といたが、信乃しのは矢張笑つて答へなかつた。

『和子樣、この玉を御覧じろ。』

 と額藏は自分のふところから同じ玉を出して見せ、

『アナタのと同じでせう。わたくしのは生れた時、胞衣えなめようとしてしきゐの下を堀つたら土の中から出て来たのださうです。玉ばかりでなく、和子樣と同じ形の黒痣くろあざが生れた時からわたくしにも有るさうです。』

 信乃は喫驚びつくりして額藏の玉を手に取つて見ると、信乃のは「孝」、額藏のは「義」と、文字は違へど大きさから色合まで、紐通ひもとほしの穴までが同じである。場所こそ違へ同じ形の黒痣までが二人に共通するといふは決して苟旦かりそめの偶然では無いと、信乃は自分の玉の来歴、き母が奇しき神女から授かつたのをマダ生れたばかりの與四郎犬がチヨロリと呑んでしまつて十何年間体内に留まつてゐたのが首を刎ねた切口きリくちから濆出して信乃のふところに飛込み、其時左の腕にあたつて黒痣が出来たといふ一伍一什いちぶしじふを物語つた。

 額藏は聞終つて不思議々々々と感嘆し、自分の父はもとは伊豆の堀越御所の家人けにんであつたが、七歳の析君の勘氣に触れて自刃して荘園家財まで没収され、母にれられて安房あはの縁家をたよつて行く途中路銀をぬすまれ、心細くもこの大塚の里まで辿たどり着いた時俄かの風雪ふうせつに遭つて、路銀を持たぬ身の一夜の宿りを村長許むらをさがりに頼んだがケンモホロヽに逐出され、空腹の上に寒氣に閉ぢられて持病の癪をおこし、其晩終にをさが家の脊戸せどの外で果敢はかなくなつたといふ物語をして、それからが母の亡骸むくろを犬猫同樣に埋められたのを恩にせられて、給金無しの一生奉公であると身の上ばなしをした。額藏といふは小廝こものとしての仮の名で、まことは堀越御所の御内の荘官しやうかん犬川衞二則任ゑじのりたふ孤児みなしご犬川荘助義任しやうすけよしたふであると本名までも明かした。

 扨てはさういふ身分であつたかと、我が身に増して薄命な身の上と信乃は只管ひたすら同情した。二人が二人、父は自刃して果て、母には早く別れた同じ身の上に手を取合つて互ひに嗟嘆して、玉といひ黒痣といひ、前世さきのよからの浅からぬえにしがあらうと二人は互ひに奇遇を喜んで義兄弟の約束を結んだ。が、おもては今まで通りの主従とよそほつて竊所よそ々々/\しくし、打解け難い氣の合はぬ同士であるやうな顔をしてゐたから、蟇六夫婦はおぞくも計られて、額藏を抱込んで信乃の見張番とした。それから以来、信乃が蟇六の家に引移つてからは、二人は益〻竊所よそ々々/\しくして、額藏は析々に毒にもならぬ告げ口しては忠義な腹心と見せかけて、夫婦の機密を探つては信乃しのに告げ知らして互ひに用心をした。

 斯くて七八年、狐狸きつねたぬきに覘はれる油斷のならない思ひをしつゝも無事に過ごしたが、與四郎犬と紀二郎猫の騒動の間に狭まつて心配もし奔走もした律義者の糠助阿爺は先年女房に先立さきだたれてから俄に老込み、流行はやりやまひに取かれて昨日今日きのふけふは枕も上らぬ容体となつた。蟇六夫婦に油斷をさせる爲め信乃は里人さとびととは竊り交際つきあはなかつたが、糠助とのみは長の歳月の古い馴染で往来ゆきゝしたので、人の恐れる時疫ときのけでもたび/\見舞つて看護した。愈〻危篤となつて最う臨終に間が無からうと知らして来たので、信乃は取るものも取敢へず急いで枕邊へ行つて見ると早や起直る氣力も無かつた。が、信乃の顔を見ると涙を一杯うかべつゝ年ごろ日ごろ目を掛けられた恩を謝しつゝ、うじたくはへも無い身は思残す事は何も無いが、たゞ一つ氣がかりなのは人にも告げざる我が子の上であると言つた。

 糠助に子があるといふは村の者誰一人知るものは無いから信乃にはもとより初耳であつた。段々聞くと糠助はもと安房の洲崎の土民であつたが、貧しい中に生れた子の三才みツつなるのが足械あしかせで、切迫詰せつぱつまつた苦し紛れに禁斷の濱ですなどりして捕へられ、しぱくぴにもなるべきところを領主の佛事で大赦になつて追放された。上のお慈悲の忝けなさが却て難有ありがた迷惑で、幼ない我が子を引脊負ひつちよつてあづまを指してトボ/\と行つたが、路銀は無したよいへは無し、生きて甲斐無い行末を果敢はかなんである橋へ差掛さしかゝつた時フラ/\として橋の欄干へ足踏み掛けて跳り込まうとした。アワヤと言ふ時物影から現れた鎌倉殿(成氏卿の事)の御内みうちの飛脚に抱留だきとめられて、事の仔細をつばらに打明ければ、児供こどもが欲しさに願掛けしても授からぬものさへあるに、足手纏ひにして親子もろとも死なうとするなら其子を呉れと言はれた時の嬉しさは、地獄で佛に合つた心地で親知らずて呉れてしまったが、臨終いまはきはに氣にかゝつて冥路よみぢさはりとなるのは其子。和君わぎみ若し滸我こがへ行き給ふ析があつたら其子を尋ねて言傳ことづてを頼みます。幼名は玄吉といつて、七夜の祝ひに鯛を料理した時、さかなの腹から出た「信」といふ字の現はれた玉を護身袋まもりぶくろに入れて置いたのと、右の頬さきに牡丹の形した黒痣のあるのが証拠と言残して糠助はポツクリとつぶつた。

 「信」といふ字の現はれた玉、牡丹の形をした黒痣、信乃は驚かずにはゐられなかつた。が、糠助ぬかすけに子があるといふはなし額藏がくざうにだけ洩らして、ひそかに宿縁がありさうに思はれるのを互ひに首肯うなづき合つた外は誰にもはなさなかつた。

三 左母さもらう簸上宮六ひがみきうろく

うさぎの穴へ狐がもぐずり込んだやうに正直者の糠助ぬかすけ空屋あきやへ住みこんだのは、鎌倉浪人の網乾あぼし左母二郎であつた。今年二十五のにがばしつた美男で、佞奸邪智の白者しれものであつた。大師流の手跡を上手に書くので里の子を集めて習字を授けたが、書道よりも巧みなは小唄こうた今樣いまよう節切よぎり、遊芸と通り心得ざるは無かつた。その上に口前が上手で、おべんちやらで、男振が好いと来てゐるから、忽ち同氣相求める亀篠かめざさに取入つて蟇六許ひきろくがり入浸いりぴたるやうになつた。

亀篠かめざさ夫婦が信乃しのを引取つたのは不斗ふとした奸策わるだくみが番作の自殺となつて村の憤怒を勃発するを恐れたからで本心ほんしんでは無かつた。濱路と妻合めあはすといふも当座の出鱒目で微塵みぢんもそんなツモリは無かつた。機会があつたら村雨むらさめを奪って信乃を追払はうと覘つてゐたが、信乃に油斷が無かつたので、附け入る隙が得られなかつたうちに徐々そろ/\二人を妻合めあはさねばならない年頃となつた。信乃はく濱路は幼ない時から言ひかされて信乃しのを良人と思ひ込んでゐて、祝言の日を待詑ぶる氣色けしき素振そぶりに現はれてゐた。其上に村人むらびとからは番作の法会の席の公約を督促されて止まないので、モウ片時も猶予ならず、一刻も早く信乃を逐払はうと蟇六と二人してヨリヨリ魂膽こんたんを凝らしてゐた。

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