読書ざんまいよせい(067)

◎滝沢馬琴・内田魯庵抄訳南総里見八犬伝(002)

——————————————————-

一 番作と蟇六

 伏姫ふせひめが富山に神去かんさり給ひてから十何年になる。武州大塚(今の小石川の大塚)に犬塚番作いぬづかばんさくといふ浪士があつた。もとは大塚の里を知行ちぎやうして大塚を名乘つた管領くわんれい持氏もちうぢ家人けにんであつたが、結城ゆふきの亂に加はつて暫らく踪跡をくらました間に犬塚と姓を改め、持氏の子の成氏なりうぢが再び管領となつてから放浪中にめとつた妻をれて何年振かで舊采地へ戻つて来た。

 然るに番作父子が忠義の爲めに家を明けた不在中、留守居した姉の亀篠かめざさは物竪い父や弟には似ない淫奔女いたづらもので、さぬ仲の義理の母と、二人ふたり棲で誰憚たれはゞかる者も無いので勝手氣儘に男狂ひをし、擧句あげくはては母が病氣でひとの足りないのをかこつけに破落戸ならずものの蟇六を引摺込ひきずりこみ、母が眼をつぶつたのを好い幸ひにズル〳〵ベッタリの夫婦となつた。成氏が管領家くわんれいけとなつて舊臣を召出されると聞くとひき六は俄に大塚姓を名乘って、番作の所在不明を奇貨として先代の忠義を申立てゝ相續を願出た。近所合壁爪彈きんじよがつぺきつまはぢきせぬ者はない破落戸ならずものが先代の忠義の餘徳で村長むらおさを命ぜられ、八町四反を宛行あておこなはれ帯刀も許されて、成上り者の大きな顏をして威張返つてゐた。

 そんな事とは知らずに歸つた番作は、代々忠義できこえた大塚の家名が、姉の不身持から泥を塗られたのを憤つたが、姉と爭つて血で血を洗ふは益〻家名をはづかしめる物笑ものわらひだと、思慮あるだけに奇麗サツパリと忘れてしまつて、浪々の生活を楽んでゐた。が、さらぬだに前から姉の氣隨きずひ不身持ふみもちにが〳〵しく思つたのが愈〻面白くなくなつて十何年間唯の一遍も姉の家へ足踏みしなかつた。ひき六夫婦も何となく弟の家のしきゐが高くなつて、番作の妻が産をした時も長のわづらひの後身まかつた時も顏を出さなかつた。眼と鼻の間で摺れ違つても互ひに顏をそむけて赤の他人よりもつめたくなつてゐた。

 番作の子の信乃しのたび〳〵男の子をくした母の迷ひから、無事に生立おひたつやうにと、俗説に従つて女の子にして育てた。が、赤い衣服きものに不似合ひなあら〳〵しい遊びばかりして、力もあり武藝も好き、其上に一を聞いて十を知る利口者りこうもので、氣質きだても柔しい親孝行であつたから近所のものとなつてゐた。石女うまずめ亀篠かめざさはこれがいま〳〵しくて、信乃しのに負けない子をと物色して漸く玉のやうな女の子をしとねの上から貰つて、蝶よ花よと大切に育ててせめてもの心りとした。

 信乃しのが遊びの友とする飼犬かひいぬらうといふがあつた。番作の妻が子供がしさに瀧の川の辨才天に願掛けして日參につさんした或る日の歸途かへりみち、マダ生れたばかりのいぬの子がクン〳〵鼻を鳴らしてまつはりつくのが振棄てかねて拾つて来たのが與四郎である。信乃は辨才天の授かり子でそのあくる年に産の紐を解いたのであるから、人畜じんちくの区別はあつても與四郎も亦信乃同樣に大切に育て、られた。段々大きくなると毛並つや々しく骨組もたくましく、敏捷で力が強いたぐひ稀れな逸物であつたから一村の群犬は威伏されて、ひきかた飼犬かひいぬも何匹取換とりかへても與四郎に噛伏かみふせられるので、蟇六はごふえてたまらなかつた。結局犬は斷念して、猫は貴人の膝にものぼる犬より貴いものだといふ勝手な理窟をつけて雉子猫きじねこを貰ひ、らうと名をけて家内中が寵愛し、番作と與四郎をの仇に罵つてごふやしてゐた。

 然るにこの秘藏ひざうの紀二郎猫も戀にうかれてトチくるつて屋根からコロ〳〵とオツつたところを與四郎犬にワングリられてしまつたので、蟇六は脳天のうてんから湯氣ゆげを立たして眞赤まつかになつて小厮こものを番作へどなり込ました。が、番作は鼻のさきで應接あしらつて對手あひてにならぬので、切歯はぎしりして口惜くやしがり、一家の小厮こものを集めて評定して秘計を廻らし、到頭與四郎犬をおびき寄せて小厮眷属こものけんぞくオットリ圍んで竹槍で迫廻して半死半生にしてしまつた。其上に與四郎が奥座敷へ飛込んで管領家の御教書みけうしよ泥足どろあしで破いたとこしらへごとして、かね目星めぼしをつけてる番作所持の故主春王こしゆはるわう遺品かたみたる足利家の重寶村雨丸むらさめまるを、御教書破却みけうしよはきやく御詫おわびに管領家へ献上しろといふ難題を持込んで来た。

 蟇六の奸策はいてる。この村雨丸を巻上まきあげておのれの榮達の道具としようとたくらんだ蟇六の蔭謀は、昨日きのふ今日けふでなく、或時は人をそゝのかして買取らうと云ひ、或時は忍び込まして竊み出させようとした。が、蟇六の手に乘る番作でなかつたから、うにも策のほどこしやうが無かつたのをたぞろ此機會に持出したのである。あまつさへ亀篠かめざさはこの難題の使者つかい糠助ぬかすけに、良人が直ぐにも訴へ出ると云つたのを今日一日やつと待つて貰つたので、しんり、弟なればこそ甥なればこそ縄目のき目を見せたくないと苦勞する姉の心も察して呉れと、猫撫聲で云傳ことづてをいはした。

 やがて信乃を枕邊まくらぺに呼びはりに吊した村雨の寶刀を示し、祖父匠作の忠死から村雨の由来を云つて聞かし、

おまへが成人したらおまへの手から直接ぢか滸我こが殿どのへ献上しろ、かまへて蟇六に竊まれるな、俺が今自殺したら里人怒つて蟇六を訴へるかも計られないのを蟇六も恐れるから直ぐ寶刀にも手を出すまいし、里人さとびといかりをなだめる爲めに實意を示しておまへを引取るのは必定ひつぢやうである。第一、イツかは寶刀を手に入れようとするには、おまへを引取つて手許てもとに寄せつけて置くのが上分別と思ふに違ひない。蟇六の職禄は祖父匠作のたまものだから、匠作の嫡孫たるおまへが大塚家に寄食するのは、蟇六の恩をるわけで無いから大手を振つて伯母のところへ行きなさい。御教書みけうしよ破却がウソであるのは知れてるが、ドウセ長くは無い命、汝を托するイヽ死期しにどきが目附かつたのだ。俺は今死んで行く…………』

 と思ひも掛けない父が突然の覚悟に信乃は呆氣あつけに取られて凝視みつめてゐると、豪膽な父が従容しやうようと筆でもるやうに刀をつかんたので、アツと聲を擧げて刀を持つかひなすがりつくと、病衰やみおとろへても勇士の力、『狼狙うろたへる』と爭ふ信乃を叱して膝に組敷き、『水をほとばしらす村雨むらさめ奇特きどくを見ろ』と云ひざま早速さそくに刀を取直して見事に腹を掻切つてしまつた。

 信乃は死骸に取附いて聲を限りにむせび泣いた。暫らくしてきつと思返して、ヤワカ父に遅れじと同じ村雨の寶刀を手ににぎつた時、縁端近く與四郎が苦痛にわめくを聞くと、俄に縁を飛下りて犬のそばに立ち、『おまへ不便ふびんだが、イツまで苦しまして置いては猶ほ不便だから、と思ひにいきを引取らしてやる、俺もあとから一緒に行く』と云ひざまヤツと聲掛けて水もたまらずくびおとした。

 其途端、さつとほとばしる血潮の中にきらめくものあるを受留めれば紐通ひもとほしの穴ある小さな白い玉で、つたのでもうるしで書いたでも無い「孝」といふ字が鮮かに讀まれた。不斗思廻ふとおもひめぐらせば亡き母が與四郎を拾つた辨才天へ日參の或る日の歸るさい、こうしほどの大きさある犬に腰掛け給ふ神女が何度からか現れて、手に持つ數多の玉の一つを授けて忽ちドコへか消えてしまはれたが、コロ〳〵と地上を轉がつた玉が、拾はうとすると見えなくなつた。雛狗こいぬの與四郎が呑んでしまつたらしいと亡き母がたび〳〵午睡ひるねときはなされたが、與四郎の傷口から飛出したのが其時の玉らしいと幼時の憶出おもひでなつかしみてうへころがした。が、死んで行く身にコンナ玉が何惜なにをしからうと棄てると再び跳ね返つて懐ろに飛込んで来るので、煩ささうにまた掴み出して棄てると復た跳ね返つて来て玉に靈ある如く、何遍なんべん棄てゝも返るので、其儘ふところへ入れて部屋へ戻つて来て、率ざとばかりに双肌もろはだを脱ぐと、こは如何いかに、不思議や左のかひなに今までにない牡丹の花の形をした黒痣くろあざが出来てゐた。このまへ玉がふところへ飛込んだ時、左のかひなあたつて些少すこしの痛みを覚えたが、コンナ事で俄に痣が出来ようとも思はれない。不思議な事と思つたが、死んで行く身に要の無い穿議せんぎと、父を手本に肌押廣げて腹を切らうとした瞬間、ドヤドヤとちん入した三人みたり、背後からは糠助が抱留だきとめ、前からは亀篠と蟇六とが左右から兩腕を押へて先づ刀を捥取もぎとつた。

『お前はまア飛んだ事を。』

 亀篠かめざさはワザとらしいオロ〳〵聲で、

『番作が生害しやうがいしたと糠助が飛んで来て知らせたから、喫驚びつくりして駈附かけつけて来りやお前までが…………』

 空涙そらなみだきつゝ、

『番作も片意地過かたいぢすぎる。ドコまてあたしたちを憎まれ者にしたいのだらう。弟と思ひ甥と思へばこそ何卒どうかして無事に収めたいと心配して、女の淺いこゝろからかうもしたらばと糠助阿爺おぢに頼んであたしの心持を相談さしによこしたのに、面當つらあてがましく腹まで切るツてのはアンマリたてぎる。』

 かきかたはらから蟇六は眞實らしいうるみ聲で、

『早まつた、早まつた、早まつた事してれた。日頃は義絶してゐてもつながる縁のわしたちが親子おやこ不利益ふためなんで計らう。かれと思つてた事があだとなつたはうらめしい。其方そなたも共に突詰つきつめたのは無理もないが、モウ心配さツしやるナ。御教書破却みけうしよはきやく越度おちどおもいが、云はゞ畜生のたこと。飼主の番作が切腹したからはう子までにお咎めは無い。假令よし有つたにしてもこの伯父が宜いやうに申釋もうしときをしてやる。』

信乃しのもう心配しやるナ。』

 亀篠かめざさはその尾にいて、

『伯父さまがアヽして心配して下さる。さツう短氣はやめて、これからは伯母が引取つて世話します。蟇六どの、濱路とはイヽ釣合つりあひ、成人せいじんしたら妻合めあはして大塚の家名を相續させませう。』

うとも〳〵。』

 と蟇六は合槌打あひづちうつて信乃をなだめつすかしつして、

『さツ、う短慮はめにして、何よりも死人樣ほとけさま跡始末あとしまつちや。糠助どのも手傳はツしやい。』

 と口と心は反對うらはらに、信乃の機嫌を取り〴〵に先へ立つて世話を焼いた。臨終いまはきはの父の先見がヒシ〳〵と當つて、狐狸きつねたぬきが何をするかと片腹かたはら痛くてならなかつたが、かくも父の遺言通りに中蔭のいみが果てゝから亀篠許かめざさがりに引取られる事になつた。

 其日は故人ほとけが世話になつた里人さとびとを招いて佛事を營み、心ばかりの酒飯を饗應もてなして置いて扨て蟇六が改まつて云ふには、番作と亀篠と繋がる縁の自分との間に打解うちとけ難い誤解があつて、疎遠に暮したを本意ほいなく思つてゐたが、番作が早まつて世を縮めたので今更誤解をく由も無い、この上は信乃を引取つて成人の後養ひ娘の濱路と妻合めあはして大塚の家名を相續させるツモリと眞實らしく披露した。里人は甚六が意外の申出に狐につままれる心地こゝちして各々顏を見合はしたが、それでこそ亡人ほとけも満足してこゝろよく極樂に浮ばれやうと口々に云ひそやして、きらはれものの蟇六が俄に信望を盛返もりかへして男を上げ、里人さとびとが好意で番作にいた番作田ばんさくだをも信乃が成人するまで保管あづかるといふ名目でヌク〳〵に入れてしまつた。

二 信乃と額藏と糠助の子

 蟇六の家に額藏がくざうといふ小厮こものがあつた。としはマダ十一二歳であるが心き才すぐれて心ざま世の常ならず、蟇六が小厮こものを督して與四郎犬をオツ取圍んだ時も額藏は打騒ぐのみにて犬を叩かず、目算通りに與四郎を半死半生にして蟇六初め小厮こものらがはな高々たか/〝\手柄咄てがらばなしをする傍聴かたへぎきして腹の底で冷笑あざわらつてゐた。

 番作が死んでから亀篠は伯母顔をして朝晩出入あさばんでいりして萬事に世話を焼いてゐたが、一人ひとりぽツちの信乃しのが淋しからうと、年比としごろが丁度おツつかツつ丶丶丶丶丶丶の額藏を炊事がてらの話相手はなしあひてよこした。馴染なじみの浅い二人同士、殊に信乃はねぢけた伯母の廻し番と見て用心しい〳〵容易に油斷しなかつたが、三七日を過ごしたある日、額藏は湯をかして信乃に行水ぎやうずゐをさせた。脊中を流さうとして脊後うしろへ廻つて、左の腕に牡丹の花の形した黒痣があるのを見付けて驚いた。

和子樣わこさまのこの痣はイツからおできになりました?』

と、額藏は不思議がつていたが、信乃は笑つて答へなかつた。湯沐ゆあみ果てゝやがて衣服きものを着ようとしてふるふと、中から白い玉がコロ〳〵ころがり出した。

 額藏は再び驚いて、

『和子樣、その玉はドウしてお手に入りました?』

 いたが、信乃しのは矢張笑つて答へなかつた。

『和子樣、この玉を御覧じろ。』

 と額藏は自分のふところから同じ玉を出して見せ、

『アナタのと同じでせう。わたくしのは生れた時、胞衣えなめようとしてしきゐの下を堀つたら土の中から出て来たのださうです。玉ばかりでなく、和子樣と同じ形の黒痣くろあざが生れた時からわたくしにも有るさうです。』

 信乃は喫驚びつくりして額藏の玉を手に取つて見ると、信乃のは「孝」、額藏のは「義」と、文字は違へど大きさから色合まで、紐通ひもとほしの穴までが同じである。場所こそ違へ同じ形の黒痣までが二人に共通するといふは決して苟旦かりそめの偶然では無いと、信乃は自分の玉の来歴、き母が奇しき神女から授かつたのをマダ生れたばかりの與四郎犬がチヨロリと呑んでしまつて十何年間体内に留まつてゐたのが首を刎ねた切口きリくちから濆出して信乃のふところに飛込み、其時左の腕にあたつて黒痣が出来たといふ一伍一什いちぶしじふを物語つた。

 額藏は聞終つて不思議々々々と感嘆し、自分の父はもとは伊豆の堀越御所の家人けにんであつたが、七歳の析君の勘氣に触れて自刃して荘園家財まで没収され、母にれられて安房あはの縁家をたよつて行く途中路銀をぬすまれ、心細くもこの大塚の里まで辿たどり着いた時俄かの風雪ふうせつに遭つて、路銀を持たぬ身の一夜の宿りを村長許むらをさがりに頼んだがケンモホロヽに逐出され、空腹の上に寒氣に閉ぢられて持病の癪をおこし、其晩終にをさが家の脊戸せどの外で果敢はかなくなつたといふ物語をして、それからが母の亡骸むくろを犬猫同樣に埋められたのを恩にせられて、給金無しの一生奉公であると身の上ばなしをした。額藏といふは小廝こものとしての仮の名で、まことは堀越御所の御内の荘官しやうかん犬川衞二則任ゑじのりたふ孤児みなしご犬川荘助義任しやうすけよしたふであると本名までも明かした。

 扨てはさういふ身分であつたかと、我が身に増して薄命な身の上と信乃は只管ひたすら同情した。二人が二人、父は自刃して果て、母には早く別れた同じ身の上に手を取合つて互ひに嗟嘆して、玉といひ黒痣といひ、前世さきのよからの浅からぬえにしがあらうと二人は互ひに奇遇を喜んで義兄弟の約束を結んだ。が、おもては今まで通りの主従とよそほつて竊所よそ々々〳〵しくし、打解け難い氣の合はぬ同士であるやうな顔をしてゐたから、蟇六夫婦はおぞくも計られて、額藏を抱込んで信乃の見張番とした。それから以来、信乃が蟇六の家に引移つてからは、二人は益〻竊所よそ々々〳〵しくして、額藏は析々に毒にもならぬ告げ口しては忠義な腹心と見せかけて、夫婦の機密を探つては信乃しのに告げ知らして互ひに用心をした。

 斯くて七八年、狐狸きつねたぬきに覘はれる油斷のならない思ひをしつゝも無事に過ごしたが、與四郎犬と紀二郎猫の騒動の間に狭まつて心配もし奔走もした律義者の糠助阿爺は先年女房に先立さきだたれてから俄に老込み、流行はやりやまひに取かれて昨日今日きのふけふは枕も上らぬ容体となつた。蟇六夫婦に油斷をさせる爲め信乃は里人さとびととは竊り交際つきあはなかつたが、糠助とのみは長の歳月の古い馴染で往来ゆきゝしたので、人の恐れる時疫ときのけでもたび〳〵見舞つて看護した。愈〻危篤となつて最う臨終に間が無からうと知らして来たので、信乃は取るものも取敢へず急いで枕邊へ行つて見ると早や起直る氣力も無かつた。が、信乃の顔を見ると涙を一杯うかべつゝ年ごろ日ごろ目を掛けられた恩を謝しつゝ、うじたくはへも無い身は思残す事は何も無いが、たゞ一つ氣がかりなのは人にも告げざる我が子の上であると言つた。

 糠助に子があるといふは村の者誰一人知るものは無いから信乃にはもとより初耳であつた。段々聞くと糠助はもと安房の洲崎の土民であつたが、貧しい中に生れた子の三才みツつなるのが足械あしかせで、切迫詰せつぱつまつた苦し紛れに禁斷の濱ですなどりして捕へられ、しぱくぴにもなるべきところを領主の佛事で大赦になつて追放された。上のお慈悲の忝けなさが却て難有ありがた迷惑で、幼ない我が子を引脊負ひつちよつてあづまを指してトボ〳〵と行つたが、路銀は無したよいへは無し、生きて甲斐無い行末を果敢はかなんである橋へ差掛さしかゝつた時フラ〳〵として橋の欄干へ足踏み掛けて跳り込まうとした。アワヤと言ふ時物影から現れた鎌倉殿(成氏卿の事)の御内みうちの飛脚に抱留だきとめられて、事の仔細をつばらに打明ければ、児供こどもが欲しさに願掛けしても授からぬものさへあるに、足手纏ひにして親子もろとも死なうとするなら其子を呉れと言はれた時の嬉しさは、地獄で佛に合つた心地で親知らずて呉れてしまったが、臨終いまはきはに氣にかゝつて冥路よみぢさはりとなるのは其子。和君わぎみ若し滸我こがへ行き給ふ析があつたら其子を尋ねて言傳ことづてを頼みます。幼名は玄吉といつて、七夜の祝ひに鯛を料理した時、さかなの腹から出た「信」といふ字の現はれた玉を護身袋まもりぶくろに入れて置いたのと、右の頬さきに牡丹の形した黒痣のあるのが証拠と言残して糠助はポツクリとつぶつた。

 「信」といふ字の現はれた玉、牡丹の形をした黒痣、信乃は驚かずにはゐられなかつた。が、糠助ぬかすけに子があるといふはなし額藏がくざうにだけ洩らして、ひそかに宿縁がありさうに思はれるのを互ひに首肯うなづき合つた外は誰にもはなさなかつた。

三 左母さもらう簸上宮六ひがみきうろく

 うさぎの穴へ狐がもぐずり込んだやうに正直者の糠助ぬかすけ空屋あきやへ住みこんだのは、鎌倉浪人の網乾あぼし左母二郎であつた。今年二十五のにがばしつた美男で、佞奸邪智の白者しれものであつた。大師流の手跡を上手に書くので里の子を集めて習字を授けたが、書道よりも巧みなは小唄こうた今樣いまよう節切よぎり、遊芸と通り心得ざるは無かつた。その上に口前が上手で、おべんちやらで、男振が好いと来てゐるから、忽ち同氣相求める亀篠かめざさに取入つて蟇六許ひきろくがり入浸いりぴたるやうになつた。

 亀篠かめざさ夫婦が信乃しのを引取つたのは不斗ふとした奸策わるだくみが番作の自殺となつて村の憤怒を勃発するを恐れたからで本心ほんしんでは無かつた。濱路と妻合めあはすといふも当座の出鱒目で微塵みぢんもそんなツモリは無かつた。機会があつたら村雨むらさめを奪って信乃を追払はうと覘つてゐたが、信乃に油斷が無かつたので、附け入る隙が得られなかつたうちに徐々そろ〳〵二人を妻合めあはさねばならない年頃となつた。信乃はく濱路は幼ない時から言ひかされて信乃しのを良人と思ひ込んでゐて、祝言の日を待詑ぶる氣色けしき素振そぶりに現はれてゐた。其上に村人むらびとからは番作の法会の席の公約を督促されて止まないので、モウ片時も猶予ならず、一刻も早く信乃を逐払はうと蟇六と二人してヨリヨリ魂膽こんたんを凝らしてゐた。

 かゝる折から現はれたのは左母ニ郎であつた。美男で才子で、其上に、今は浪々であるが殿の御覚え目出度い近習の筆頭であつたので、近々歸參すれば以前に増して御覚えが目出度からうと、さも一足飛そくとびに高禄の権勢者きけものになるかの如く臭はすので、亀篠は最う乘氣になって、鎌倉殿のお氣に入りの切れ者となる日の近い左母さも二郎を婿にする氣になつてゐた。

 去年の暮、陣代ぢんだい代替だいがはりして翌る年の五月、新陣代の簸上宮六ひがみきゆうろくが下役の軍木五倍二ぬるでごばひぢ率川庵八いかはいほはち等を引きつれて巡検に来て荘官蟇六の家に一泊した。此夜蟇六は有らんだからソンナ氣振は微塵みぢんも見せなかつた。陣代からの御所望は冥加に竊つた面目であるが、濱路には妻の甥を妻合めあはす約束であつて、蟇六亀篠は勿論当人の濱路も進んでゐるわけでは無いが、里人さとびと尻押しりおしもあり証證人も數多あまたあつてみには約束を反古ほぐには出来ない事情もあるから暫らく返事を待つて呉れと云った。が、五倍二はソンナくちには乘らないで、貴公の言葉は胡乱うろんである、ドンナ約束が以前に有らうと貴公をたふすも起すも意の儘な陣代殿の御意に背くは貴公のためにくあるまいと、陣代の威光を笠におどしつければ、蟇六忽ち青菜の如くなリ、さらぬだに陣代と縁組えんぐみするは福徳の三年目と腹の底では疾つくに承知してゐるのだから、威嚇にうとたまりも無く、平蜘ひらぐもの如くになつて應諾した。すると五倍二は片時も猶予なく疊み掛けて、性急せいきふではあるが幸ひ今日は吉日であるから陣代から結納を目出度く受納して呉れと、準備ようい幣物へいもつを無理やりに押付けて歸つてしまつた。

 権柄づくで押付けられたとは言へ、牡丹餅で頬べたを叩かれ小判の上に尻餅突しりもちついたやうな氣がして蟇六夫婦は金銀綾羅と積んだ結納台ゆひなふだいを眺めて嬉しさが下腹したばらから籠上こみあげて来た。が、信乃を遠ざけ濱路を納得なつとくさすまでは秘めて置かねばならないから、誰にも目附からないうちにと結納の品々を亀篠と二人して泥棒でもするやうに四邊あたりを見い〳〵コツソリ土藏へ運び込んた。幸ひを亀篠は手を頭掉つて、

『おかまひなさる、今日は陰れてコツソリ御相談にあがつたのだから。』

 と思はせ振りな笑顔ゑがほを作つた。

『實は濱路をアンタに貰つて戴きたくて蟇六殿に相談したところが、蟇六殿もアンタならばと大満足。それに就て言號いひなづけの信乃を追出す段取になってるのてすが、婿引出むこひきでに取らした秘藏の名刀を縁切料に呉れてしまふのも惜しゝ、尋常では迚も取返せさうも無いからと、色々工風してやつとこ趣向浮んだが、それにはアンタに手傳つて貰はんとナア…………』

 と、明晩信乃を川狩におびき出し、蟇六が誤まって水に落ちたふりすれば信乃が救ひに飛込むのは必定であるから其隙そのひまにアンタは舟に残つて信乃の腰の物と蟇六の佩料さしれうとを摺換すりかへて呉れと云つた。

『ドウセ婿引出としてアンタに進ぜる品だから…………』

 と色と慾とをくらはして首尾よく左母ニ郎をだまくらかし萬事の手筈を牒し合はした。

 その晩蟇六夫婦は信乃しのを閑室に呼んで扨て曰く、御身と濱路との婚姻を愈〻ぐるについては祖父おぢ匠作ぬしが春王君しゆんわうぎみからお預かりしたる寶刀村雨を滸我殿こがどのたてまつる予ての夙望、丁度滸我殿も管領家との和睦が整つて太平無事に治まってる。御身の夙昔しゆくせきの望みを果して大塚の家運を興す好機会だから、同じくは立身出世してから濱路を迎ふるが目出度い上にも目出度いといふものと言巧ことばたくみに言拵いひこしらへた。信乃は萬事を額藏から聞いてゐたから、アレ程執拗しっこ附覘つけねらつた村雨むらさめを俄に思切って滸我殿へ献上しに行けと、足元あしもとから鳥の立つやうに旅立たせようとする蟇六の底意は解り切つてゐた。が、眞心まごころの無い亀篠かめざさ夫婦の居心惡ゐごころわるい家を去るにはと、マンマと口ぐるまに乘せられたやうな顔をして、おほせに随ひ明日にてもと言つた。それでは竊り早急さうきふなとかたはらから亀篠はくちし、親切こかしに引留めて、何かとたびの支度もあればと一日ばして俄に滸我へ立つ事になつた。

 そのあくる晩が左母二郎と牒し合はした神宮かには河原の川狩である。蟇六は左母ニ郎と伴れ立つて、時刻を計つても偶然に邂逅であつたやうに信乃しのを待合はしてさそひ、船頭土太郎せんどうどたらうかたらつてふねを雇つて川の中流へ漕出した。蟇六は網自慢あみじまんで水練にも熟練てだれであるが、予ての手筈で網諸共にザンブリ落ち、わざおぼるゝまねをしてアツプアツプと水面に藻掻もがいた。信乃は有繋さすがに見るに忍ぴず、手早く着物を脱いで飛込むと、土太郎も一緒に続いて飛込み、蟇六は前からしがみついて信乃の自由を奪ひ、土太郎は足を取つて水底深く引摺り込まうとした。が、水馬水練に達し膂力飽くまでもすぐれた信乃は何條なんでう引摺込まるべき。土太郎を蹴飛ばし蟇六を小脇に抱縮だきすくめて手近の陸へ揚つて来た。

 舟に残つた左母二郎は流れるまゝに川下へ下つてから素早すばやく隙を見て信乃の刀を抜いて見た。明晃々と身毛みのけ愈立いやだつて、不思義や水氣滴すゐきしたたるので試みにふりすると水は忽ちはとばし稀代きだいの奇特を現はした。これなん信乃の父番作が春王君しゆんわうぎみからお預りした滸我殿の重寶村雨と直く感づいて、扇谷殿あふぎがやつどのたてまつれば歸參のよすがとならうし、黄金こがねに換へれば千兩がものはあらうと好智の左母二郎忽ち横奪よこどりする氣になつて、村雨むらさめの跡へは蟇六のを、蟇六のには自分のを収め、各々川の水を垂らし込んで置き、眞物ほんものの村雨は自分のさや差込んで何喰はぬかほをしてゐた。そのうちに土太郎が泳ぎついたので、蟇六がやうや命拾いのちびろひしたやうな顔してゐる岸へと漕ぎ寄せさした。

 此晩は蟇六の水徳利みづどつくリの馴れ合ひ狂言で興をまし、再び舟を乘出してもはずまないのでソコ〳〵に切上げた。土太郎には骨折銀ほねをりしろを取らせ、左母二郎とも中途で別れて夜更けて歸つてから、蟇六夫婦と信乃と、随行おともの額藏と、四人してあみ獲物ゑものの雑魚をさかなに別れの杯を酌みかはして、眞夜中過ぎに各々自分の部屋へ引取つた。そのあとで蟇六は亀篠と膝突合ひざつきあはして左母ニ郎が摺換へた刀を抜いて見ると、噂の通り水がしたたつたので、カチヤリともとの鞘へ収めて神宮かにはの川の水とは知らずに押戴おしいただいて顔見合はしてニタリと笑つた。

『信乃めの強いにはきもを冷やした、あぶなくホントウにブク〳〵とやりさうになつた。』

 と蟇六は聾を潜めて、

『額藏には如才なく言ひ含めたらうナ?』

『えエ、バツサリと…………』

 亀篠は平手ひらてまねをしながら、

『額藏ならうまくやりませう。失敗しくじつても村雨むらさめさへ巻上げれば……さツお祝ひにモ一つ。』

 と銚子を振上げた。

『その事、その事!』

 と蟇六はなみ〳〵猪口ちよくがせながら、

『運が向いて来たと見えるわい。』

 と、それから二人ふたりは悦に入つて何杯も重ねてイツか酔潰ゑひつぶれてしまった。

 暫らくして全家うちぢうが寝静つた丑満過うしみつすぎ、濱路はコツソリと竊み足で信乃が伏床へ忍んで来た。李下りかかんむりたゞさず瓜田くわでんくつを入れずと、信乃は伏床ふしど片寄かたよせてひらなほつてたしなめると、濱路はヨヽと忍び音で、親の許した夫婦同士めをとどしで、今宵こよひ限りの別れを惜みに来たのを左もイタヅラ事でもするやうに嗜め給ふは心強こゝろづよいにも程があると、養ひの父と母との眞心まごゝろの無い氣拙きまづ仕向しむけや、豊島としま練馬ねりまの合戰に産み親兄弟おやきやうだいの行衞知れずになった悲しさや、さかづきこそせね親の許した妹脊いもせとて女心のと筋に思ひ詰めてるのを、唯ひと言の別れだも無くて旅立つ怨めしさを涙片手なみだかたて掻口説かいくどいた。信乃はさまぐ慰めて、親の許した仲にせよマダさかづきかはさぬうちは人目の關の憚りもありと、言賺いひすかしたがなか〳〵に綿々として盡きる時なき悵惆ちうちやうの恨みは払暁あけがた近くまでも彼れ一句、我れ一句してきなかつた。虫が知らすか暫らくの別れが永い別れとなるがの如く、濱路は幾度も名残を惜んで、やがてさうの袂を顔に当てつゝ、よそには洩れじとしの欷歔しやくりげ、欷歔しやくりげ歸つた。

 間もなく鶏鳴けいめい暁を告げ東の空が白んで来たので、信乃は支度を整へて、マダ半睡の蟇六ひきろく夫婦に暇乞ひをし、見返る奴婢ぬひらに別れを告げて額藏とニ人して鹿島かしま立ちした。

四 濱路死地に落つ

 邪魔者の信乃しのはマンマと追出してしまった。首尾よく額藏が途中でらすか、失敗しくじつても滸我こがの御所で僞物にせもの村雨むらさめ露顯あらはれてしばくびにでもなるが必定ひつぢやう。再び歸つて來る氣遣ひは無いから此の方は安心だが、濱路が信乃しのおもつてるのは蟇六夫婦も知つてをる、柔和なやうでも信乃を思ひ切らして陣代ぢんだいへの嫁入を納得させるのはと骨である。この朝は臥込ねこんでしまつて掻卷かいまきに顏を埋めたぎり枕が上らなかつた。ウツカリしたこと發言いひだして機嫌を損じてはと、腫物扱はれものあつかひしてソツとして置いた。

 かりの祝言で濟ますから衣服其他の支度はいらぬといふは何よりだが、マダ濱路にはことも話してゐない。愈〻絶對絶命と迫つた今晩、信乃の餘燼ほとぼりましてナドト氣長きながなことを云つてゐられない。でも、いやでもおうでも今晩中に、親の威光で強壓しでも短兵急にウンよ云はしてしまはにやならぬと、夫婦ふうふは氣が氣でなく前額ひたいあつめて、愈〻槓槓扞てこでも動かない其時は?……その時はうと、最後さいごの奧の手までもひそ〳〵しめしあはした。
『とうだい? 少しは氣分が晴れたかい?』

 亀篠かめざさは濱路の枕邊まくらべに坐って、猫撫聲ねこなでごゑで、

『あんまりクヨ〳〵おもはないがイヽ。病は氣からおこるんだから元氣を取直してお化粧つくりでもする氣になつて御覧。この温氣うんきに障子を閉切たてきつてふさいでばかりゐるのが一番毒…………』

 と亀篠はつて細目ほそめに障子をけて風を入れ、再び枕邊に坐つて、

『お前の病氣の原因はアタシにはりくわかってる。が、お前がイクラおもつても、あの性惡しやうわる信乃しのはお前の事なんぞ何とも思つでやしないんだよ。親譲りのねじけ者で、親が勝手で切腹したのをアタシ達のせゐにして、十一の齢から養はれた大恩を何とも思はないで、いくらアタシ達がやさしくしてやつてもかたきのやうに怨んでる。有らう事か有るまい事か、先夜こないだはお前、神宮かには河でお父さんを舟から突落して置いて、たすけるふりをして飛込んでかはそこへ沈めようとしたんだつて。太郎がゐたから助かつたが、何て恐ろしいやつだらう。お前は知るまいが、信乃の人非人ひとでなしは村でも今は札附ふだつきで爪彈きされてる。今度の滸こがへ行つたのも表向きは寶刀献上だが、寶刀なんぞはお前、とつくの昔失むかしなくなつてるんで、ホントウは村に居堪ゐたゝまれないで逐電してしまつたのサ。だからお前、歸りたいからツてう歸つて來られやしない。ホントウにお前、イヽ事をした、今のうちに切れてしまつて。アンナ男と夫婦いつしよになつたら、末始終すゑしじふ苦勞の絶間は無い…………』

 濱路は『切れてしまつて……』と亀篠かめざさが云つた時、我知われしらず眼をみはつたが、周章あわてゝ直ぐらしてしまった。信乃の實意と孝行は兒供こどもの時から村中むらぢうの襃め者で、誰知らぬ者は無いのに、くまアあんな出鰻目が云へたもんだと、養ひの親ながら腹立たしくなつて、聞きとも無いと顏を襟に隱してしまつた。

『モゥお前、クヨ〳〵する事は無い。信乃に十倍した立派なお婿さんをお母さんが見立てゝ上げるからネ』

 と亀篠は莞爾にこ〳〵笑顏ゑがほを作つて濱路の顏を覗込のぞきこんで、

ういふ夢のやうな相談が持上つてゐるんだからお聞き。先夜こないだ宿やどをした御陣代の簸上宮六ひがみきうろく樣、あの晩殊の外おまへがお氣に召して、お下役したやく――といつても矢張お歴々の軍木ぬるで五倍二樣をお媒酌なかうどとしてお前を奧方に迎へたいと大變な御執心なんだよ。身みぶんちがふからと一應は御辭退申上げたが、さういふ斟酌しんしやくいらぬとたつての御懇望。御陣代樣だから御辭退に過ぎると失禮になるし、お部屋に差出せと御沙汰があつてもいやとは云はれないわれ〳〵風情ふぜいのものを、奧方にといふ冥加に餘つた御懇望だから、無下むげに御辭退するわけにも行きません。お前に話さないでめてしまふのもなんだと思つたが、何しろ御性急ごせいきふて暫しが無いから話すひまが無かつたんだよ。それに信乃は見損みそこなつてお前に添はせる事が出來ないから、うしようかと思つてる最中さいちうつて湧いたやうに俄に相談が持上つたもんだから、お父さんにしてもお前を出世さして信乃を見返してやらうと……』

『お母さん、モウ澤山、澤山、…………』

 と濱路は平生いつになく興奮して、

『わたしにはれつきとした良人をつとがあります。』

『何だネ、そんな聲を出して、』

と亀篠はたしなめるやうに、

良人をつとて、お前、信乃のことかい?信乃ならモウ縁が切つてあります。』

『いつ切れました。わたしは切つた覺えも、去られた覺えもありません。』

 と濱路は興奮からめて平生つねのが沈着おちつきに戻つたが、キツパリとしたしい調子で、

『お母さんは、犬塚の伯父さんの御法事ごほふじむらの衆の前でお父さんが立派に御暫言なすつたのをお忘れになつたんですか。親の口から立派にめた良人をつとのある娘をよその男へ嫁入よめいらせようでは、が許して密夫みそかをを持たせるやうなもの。ナンボお母さんの親仰おつしやる事でも、ソンナ女の道にはづれた事はわたしには出來ません。』

 云ふなり次第にうにでもなると思つてゐたのが存外に手強てごはいので、亀篠は勝手が違つで佛頂面ぶつちやうづらをした。が、理の當然に言伏いひふせられたいま〳〵しさに、

『そんならお前は親がドンナに難儀しても、迷惑しても自分の強情を押通おしとはさうと云ふンだネ。』

 と猫撫聲の假面かめんを脱いで突慳貪つツけんどんに、

『親より男が大切だいじなんだらう。』

『さうガミ〳〵と叱んなさんな。』

 潮時しほどきを見て物蔭から現れたひき六は先づ亀篠をたしなめておいて、

『さうお前のやうに、信乃の惡語わるくちならべては濱路だつて人情だから心持を惡くする、濱路はマダくはしく知らんから、一に親が慾をかわいて無理押附けに嫁入らせるやうに思ふが、さうでは無いので、亀篠もマダいひ足りないところがある。實はういふわけなんだ……』

 と、眞事虚事まことそらこと――といふより殆んと出鱈目を都合の好いやうに辻褄を合はして、お前にことも話さないうちにう事がトン〳〵運んで――といふより先方むかうで膳立てして、さアとこの前へ坐つてさかづきをしろといふやうな鹽梅あんばいで、明日あすの晩の婿入も寐耳に水でわしも途方に暮れたが、何を云ふにも先方むかう陣代ぢんだいである、不承知だと云べば陣代の權力で役儀やくぎを召上げられるか、荘園しやうゑん家財を没收されて所拂ところばらひにされるか、明日あすにも親子が路頭に迷ふ。そればかりぢや無い、信乃しのにも飛火とびひしてドンナ難儀な目を見るか計られない。こゝをく分ふんべつして、お前が目をつぶつてウンとさへ云つて呉れゝばお前の出世ばかりぢや無い、親もうかみあがる、信乃の立身の尻押しりおしもして呉れやうと、古狸ふるだぬきの殊勝な顏をして三方四方からジワ〳〵と義理詰めにした。

 が、濱路はえリに顏を埋めて、『堪忍して』とばかりでウンと云はなかつた。

道理もつともだ。アンナ人非人ひとでなしでもお前にして見れば大切だいじ良人をつとみさほを立てるのは道理もつともだ。親甲斐もなく貞女を棄てさせようとするのは面目めんぼくも無い。が、陣代の威光で押附けられたにしても、今更娘が不承知だとは俺の口からは云へない。』

 と蟇六は腕こまぬいて、『と云つて……』と暫らく思案する風をしてゐたが、矢庭に肌を押廣げて、

わしが死んで陳謝いひわけする。』

 と云ひざま、刀をキラリと拔いて突立てようと。

ア待つて、』

『そんな短氣な、』

 亀篠と濱路とは左右から腕にすがつて引留めた。

『放せ、放せ! 六十のこの皺腹しわばらを切って陣代へ申譯する。』

 と蟇六は振りもぎらうとする。二人は左右から一生懸命に取縋つて放すまいとする。

『濱路』と亀篠はワザとオロ〳〵聲を振立つて、

『お父さんに腹切らしても、お前は強情を押通す氣かい? 不幸者奴が。』

 見す〳〵狂言と解つてゐても濱路はウンと云はねばならなくなつて、泣きの涙で漸く納得なっとくした。

『納得して呉れるか』と蟇六は刀を持つ手をやつと緩めて、『これで俺の顏も立つ、家も安泰だ、お前も……』

『お前も出世だよ。』

 と亀篠は俄に面をやはらげてイソ〳〵として、

『御陣代樣の奧方になりやア榮耀榮華は仕放題で、そリや〳〵大した出世だよ。』

 夫婦ふたりは大變な御機嫌で、孝行者だとばかりに俄にチャホヤした。

五 虎を免かれて狼に攫はる

 あくる朝は今夜が婿入といふので、蟇六の家は朝から風呂をたてゝ、全家うちぢうがザンザめいてゐた。濱路は昨宵ゆうぺから病が一層重くなつて枕が上らなくなつた。が、蟇六夫婦は大噪おほはしやぎにはしやいて立つたり坐つたりしてゐた。

 こゝに憐れを留めたのは左母二郎さもじらうである。首尾よく亀篠かめざさの頼みを仕終しおほせたので濱路は約束通り宿やどの妻、お庭の櫻を手活ていけの花にしてながめるのもモウ近々のうちと、ひとりでニタ〳〵えつに入つてゐると其日の朝、脊助せすけが鍬を片手になつ蘿蔔だいこんを五六本脇に抱へて忙がしさうに行くのを見て呼留め、

『イヨウ先生、忙がしさうだナ。』

『忙がしいのなんのッて、今夜は婿入があるだよ。』

『ドコに?』

おらやしきにだ。』

『誰に婿を取るんだ?』

『誰にツて、おらがとこには娘ツ子は一人ひとりほか無かつペエ。』

『ぢやアなにかい、犬塚どのとかい?』

『犬塚の小旦那こだんな昨日きんにようあさ滸我こがへ立たしやつた、お前さまも知つてるベエ。』

『それぢやア誰だ、誰が婿にる?』

『陣代の簸上宮六樣だつてこんだ、犬塚の小旦那こだんなは馬鹿ア見たダ。とんびに油揚を引攫ひツさらはれたやうなもんだ。』

 左母二郎さもじらう呆氣あつけに取られて暫らくはぼうツとした。とんびさらはれたのは信乃しので無くて左母二郎である、と思ふと俄にはらわたえくり返るやうで、くも沸え湯を飲ませやがつたと足摺あしずりして口惜しがつた。信乃と婚禮するなら先口せんくちだから指をくはへて目をつぶつてやるが、陣代と聞いちやア勘辨ならねエ。今夜の婚禮に斬込んであめを降らせよう……とも思つたが萬一ひよつとして先方むかう人數にんずが多いと此方こつちあぶねエ。それより神宮河かにはがはの一件をらしで狸親爺たぬきおやぢつらかは引剥ひんむいてくせエめしはして呉れよう……とも考へたが此こつち荷担人かたうどで、肝腎の正しやうぶつが此こつちの手に有るんちや、ヘタをやると此こつちさきくれエ込し。陣代といふ荒神樣が先方に附いてるんぢや、とんな手てづまつかつても消されてしまはねエとも限らねエ。此奴こいつ迂闊うつかり出来ねエや。

 そんなあぶねエ目を見るよりか女を引攫つて陣代面ぢんだいづらに鼻を明かせ、蟇六の狸親爺たぬきおやぢ吠面ほえづらを掻かせるのが早手廻はやでまはしの腹癒はらいせになる。女だつて信乃といふ本役ほんやくが目の前にブラさがつてゐたからこそ此方こつち鼻汁はなも引掛けられなかつたが、宮六の三枚目との面競めんくらべなら此方こつちふだへエるのはぢやうだ。それでもなびかなけりや宿場しゆくばへ叩き賣つて飲代のみしろにする。いろと張つて失敗しくじりやアよくころぶのが当世だと、それから左母二郎はガラクタ世帯を賣りこかして高飛びをする支度をした。

 そんな事とは知らない濱路、今宵人身御供こよひひとみごくうとなつて、猅々ひゝ祭壇さいだんそなへられる憂目を見るよりはと、朝から覚悟をめてゐた。灯ともし近くなつた時、臥床ふしどに起直つて乱れたかみ梳上かきあげるのを見た亀篠は死出しでの旅路の身嗜みだしなみとは知らずに、愈〻親念して今宵の祝言を擧げる支度の髪化粧かみけはひと安心した。かれこれして初夜過しよやすくる頃、油斷を見済ましてそつと忍び出し、土庫ぬりごめ楣間ひあはひを抜けて背せど裏庭うらには築山つきやまの蔭へ行き、築墻ついぢのほとりの松ケ枝に用意の細帯を投げ掛けて、過ぎ越し方を一時に憶出してサメ/〝\と涙に掻暮れた。

 かゝる処へ築墻ついぢくづれから忍込んで、抜足差足ぬきあしさしあし樹立こだちを傳ひ、樹下こしたくぐつて伺ひ寄つたのは左母二郎であつた。猅々ひゝの祭壇を遁れて再び狐に覘はれてるとは知らない濱路は、産みの親をなつかしみ言號いいなづけをつとを戀しがつて身の薄命を欺き悲むを、夜目よめに透かして左母二郎は濱路と知つて肩を縮めて躊躇たじろいだ。こゝで出会うとは天の與へと暫らく身を潜めて容子を窺ひつゝ、今こよひの祝言をするがいやさの覚悟とは知れてるが、操を立てるのは信乃の爲めか自分のためかと思ひ惑うて自問自答し、どうやら自分への心中しんぢうてと身勝手に己惚うぬぽれて身柱元そうけもとからゾク〳〵して来た。

 濱路はやがて細帯のはじすがつてアワヤ首をつらうとした時、ドツコイ待つたと左母ニ郎、うしろから羽交はがひめして無圖むづ抱留だきとめ、驚き騒ぐ耳のはたへ口を当て、

『左母だ、左母だ。』

 私言さゝやくと、濱路は喫驚ぴつくりけがらはしいと力一杯突飛つきとばした。今の今まで自分のための心中立てと自うぬぼれてゐたのがあんに相違したので、破れかぶれと猿臂えんぴを伸ばして抱縮だきすくめ、矢庭に手拭てぬぐひませて早速さそく猿轡さるぐつわ小脇こわき引抱ひつかゝへてヒラリと登るまつ傳うて築墻ついぢを飛下りざまに、やみに紛れて何処いづこともなく消失せてしまつた。

 暫らくすると家内は俄に騒ぎ出した。庖厨くりや準備よういも書院の飾りつけも出来たので、婿どのの見えるのもときと迫つたので、そろ〳〵花嫁はなよめに支度をさせるツモりで亀篠かめざさが行つて見ると、濱路の臥床ふしど藻抜もぬけのからだつた。亀篠は喫驚びつくりして、『大変、大変!』と金切聲かなきりごゑ振搾ふりしぼつたのて、蟇六は足を空に飛んで来て、それツ、はゞかリへ行つて見ろ、土藏を見て来い、浴室ふろにはゐないかと、隅から隅まで捜したが影も形も見えなかつた。急いで庭へりて家の周圍まはり紙燭しそくらしてめぐりしてやがて背戸せどの築山の蔭へまはつて見ると、松ケ枝に細帯がさがつてゐで墻地ついぢを越えて逃出した痕跡あとがあるのを發見して、ひき六も亀篠も尻餅ついて腰を抜かした。

 が、濱路が單身ひとりで逃げたとは思はれない。信乃か左母二かドチラかと、急いで左母ニの容子を見せにやると、左母二の家は空家あきや同然と飛んで歸つて報告したから、左母二にきまつた、それツ追駈おつかけろ、遠くは行くまい、お前は東、お前は西、襃美の金は望み次第と、蟇六夫婦は赤くなつたり青くなつたりしてわめき散らしかた。

 かゝる処へヒヨツコリ顔を出したのは神宮河かにはがはの川狩に傭つた船頭せんどう土太郎どたらうである。賭博ばくちに負まけてスツテンテンになつたので、いんぬる日の辛労銭ほねをりしろの不足を強請いたぶりに来たのを見て蟇六は、イヽところへ来た、實は今、娘が家出して大騒動の眞最中まつさいちう対手あひての男はお前も知つてる浪人者の左母二郎、全家うちぢう總出そうでで追手を掛けさしたがお前が来たのは何より幸ひ、直ぐ追駈おつかけて呉れ、娘をれて戻りさへすりや襃美の金は望み次第とき立てれば、ニ言ごんと聞かず土太郎は、オツト合點、そんなら今そこで賭博仲間ばくちなかまの加太郎井太郎と駕籠賃の押問答しでゐた妙な野郎が左母ニ郎で、駕籠かごなかなが嬢さんにちげエねエ、うがす、野郎をトツちめて直く嬢さんを取戻して来やす、行手は正しく礫川こいしかはから本郷ざかと、蟇六が用意よういに呉れた一刀こしにボツ込みて韋駄天走りに追駈けて行つた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です