読書ざんまいよせい(067)

◎滝沢馬琴・内田魯庵抄訳南総里見八犬伝(002)

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一 番作と蟇六

 伏姫ふせひめが富山に神去かんさり給ひてから十何年になる。武州大塚(今の小石川の大塚)に犬塚番作いぬづかばんさくといふ浪士があつた。もとは大塚の里を知行ちぎやうして大塚を名乘つた管領くわんれい持氏もちうぢ家人けにんであつたが、結城ゆふきの亂に加はつて暫らく踪跡をくらました間に犬塚と姓を改め、持氏の子の成氏なりうぢが再び管領となつてから放浪中にめとつた妻をれて何年振かで舊采地へ戻つて来た。

 然るに番作父子が忠義の爲めに家を明けた不在中、留守居した姉の亀篠かめざさは物竪い父や弟には似ない淫奔女いたづらもので、さぬ仲の義理の母と、二人ふたり棲で誰憚たれはゞかる者も無いので勝手氣儘に男狂ひをし、擧句あげくはては母が病氣でひとの足りないのをかこつけに破落戸ならずものの蟇六を引摺込ひきずりこみ、母が眼をつぶつたのを好い幸ひにズル〳〵ベッタリの夫婦となつた。成氏が管領家くわんれいけとなつて舊臣を召出されると聞くとひき六は俄に大塚姓を名乘って、番作の所在不明を奇貨として先代の忠義を申立てゝ相續を願出た。近所合壁爪彈きんじよがつぺきつまはぢきせぬ者はない破落戸ならずものが先代の忠義の餘徳で村長むらおさを命ぜられ、八町四反を宛行あておこなはれ帯刀も許されて、成上り者の大きな顏をして威張返つてゐた。

 そんな事とは知らずに歸つた番作は、代々忠義できこえた大塚の家名が、姉の不身持から泥を塗られたのを憤つたが、姉と爭つて血で血を洗ふは益〻家名をはづかしめる物笑ものわらひだと、思慮あるだけに奇麗サツパリと忘れてしまつて、浪々の生活を楽んでゐた。が、さらぬだに前から姉の氣隨きずひ不身持ふみもちにが々〳〵しく思つたのが愈〻面白くなくなつて十何年間唯の一遍も姉の家へ足踏みしなかつた。ひき六夫婦も何となく弟の家のしきゐが高くなつて、番作の妻が産をした時も長のわづらひの後身まかつた時も顏を出さなかつた。眼と鼻の間で摺れ違つても互ひに顏をそむけて赤の他人よりもつめたくなつてゐた。

 番作の子の信乃しのたび〳〵男の子をくした母の迷ひから、無事に生立おひたつやうにと、俗説に従つて女の子にして育てた。が、赤い衣服きものに不似合ひなあら〳〵>しい遊びばかりして、力もあり武藝も好き、其上に一を聞いて十を知る利口者りこうもので、氣質きだても柔しい親孝行であつたから近所のものとなつてゐた。石女うまずめ亀篠かめざさはこれがいま〳〵しくて、信乃しのに負けない子をと物色して漸く玉のやうな女の子をしとねの上から貰つて、蝶よ花よと大切に育ててせめてもの心りとした。

 信乃しのが遊びの友とする飼犬かひいぬ與四郎よしらうといふがあつた。

 番作の妻が子供がしさに瀧の川の辨才天に願掛けして日參につさんした或る日の歸途かへりみち、マダ生れたばかりのいぬの子がクン〳〵鼻を鳴らしてまつはりつくのが振棄てかねて拾つて来たのが與四郎である。信乃は辨才天の授かり子でそのあくる年に産の紐を解いたのであるから、人畜じんちくの区別はあつても與四郎も亦信乃同樣に大切に育て、られた。段々大きくなると毛並つや々しく骨組もたくましく、敏捷で力が強いたぐひ稀れな逸物であつたから一村の群犬は威伏されて、ひきかた飼犬かひいぬも何匹取換とりかへても與四郎に噛伏かみふせられるので、蟇六はごふえてたまらなかつた。結局犬は斷念して、猫は貴人の膝にものぼる犬より貴いものだといふ勝手な理窟をつけて雉子猫きじねこを貰ひ、らうと名をけて家内中が寵愛し、番作と與四郎をの仇に罵つてごふやしてゐた。

 然るにこの秘藏ひざうの紀二郎猫も戀にうかれてトチくるつて屋根からコロ〳〵とオツつたところを與四郎犬にワングリられてしまつたので、蟇六は脳天のうてんから湯氣ゆげを立たして眞赤まつかになつて小厮こものを番作へどなり込ました。が、番作は鼻のさきで應接あしらつて對手あひてにならぬので、切歯はぎしりして口惜くやしがり、一家の小厮こものを集めて評定して秘計を廻らし、到頭與四郎犬をおびき寄せて小厮眷属こものけんぞくオットリ圍んで竹槍で迫廻して半死半生にしてしまつた。其上に與四郎が奥座敷へ飛込んで管領家の御教書みけうしよ泥足どろあしで破いたとこしらへごとして、かね目星めぼしをつけてる番作所持の故主春王こしゆはるわう遺品かたみたる足利家の重寶村雨丸むらさめまるを、御教書破却みけうしよはきやく御詫おわびに管領家へ献上しろといふ難題を持込んで来た。

 蟇六の奸策はいてる。この村雨丸を巻上まきあげておのれの榮達の道具としようとたくらんだ蟇六の蔭謀は、昨日きのふ今日けふでなく、或時は人をそゝのかして買取らうと云ひ、或時は忍び込まして竊み出させようとした。が、蟇六の手に乘る番作でなかつたから、うにも策のほどこしやうが無かつたのをたぞろ此機會に持出したのである。あまつさへ亀篠かめざさはこの難題の使者つかい糠助ぬかすけに、良人が直ぐにも訴へ出ると云つたのを今日一日やつと待つて貰つたので、しんり、弟なればこそ甥なればこそ縄目のき目を見せたくないと苦勞する姉の心も察して呉れと、猫撫聲で云傳ことづてをいはした。

 やがて信乃を枕邊まくらぺに呼びはりに吊した村雨の寶刀を示し、祖父匠作の忠死から村雨の由来を云つて聞かし、

おまへが成人したらおまへの手から直接ぢか滸我こが殿どのへ献上しろ、かまへて蟇六に竊まれるな、俺が今自殺したら里人怒つて蟇六を訴へるかも計られないのを蟇六も恐れるから直ぐ寶刀にも手を出すまいし、里人さとびといかりをなだめる爲めに實意を示しておまへを引取るのは必定ひつぢやうである。第一、イツかは寶刀を手に入れようとするには、おまへを引取つて手許てもとに寄せつけて置くのが上分別と思ふに違ひない。蟇六の職禄は祖父匠作のたまものだから、匠作の嫡孫たるおまへが大塚家に寄食するのは、蟇六の恩をるわけで無いから大手を振つて伯母のところへ行きなさい。御教書みけうしよ破却がウソであるのは知れてるが、ドウセ長くは無い命、汝を托するイヽ死期しにどきが目附かつたのだ。俺は今死んで行く…………』

 と思ひも掛けない父が突然の覚悟に信乃は呆氣あつけに取られて凝視みつめてゐると、豪膽な父が従容しやうようと筆でもるやうに刀をつかんたので、アツと聲を擧げて刀を持つかひなすがりつくと、病衰やみおとろへても勇士の力、『狼狙うろたへる』と爭ふ信乃を叱して膝に組敷き、『水をほとばしらす村雨むらさめ奇特きどくを見ろ』と云ひざま早速さそくに刀を取直して見事に腹を掻切つてしまつた。

 信乃は死骸に取附いて聲を限りにむせび泣いた。暫らくしてきつと思返して、ヤワカ父に遅れじと同じ村雨の寶刀を手ににぎつた時、縁端近く與四郎が苦痛にわめくを聞くと、俄に縁を飛下りて犬のそばに立ち、『おまへ不便ふびんだが、イツまで苦しまして置いては猶ほ不便だから、と思ひにいきを引取らしてやる、俺もあとから一緒に行く』と云ひざまヤツと聲掛けて水もたまらずくびおとした。

 其途端、さつとほとばしる血潮の中にきらめくものあるを受留めれば紐通ひもとほしの穴ある小さな白い玉で、つたのでもうるしで書いたでも無い「孝」といふ字が鮮かに讀まれた。不斗思廻ふとおもひめぐらせば亡き母が與四郎を拾つた辨才天へ日參の或る日の歸るさい、こうしほどの大きさある犬に腰掛け給ふ神女が何度からか現れて、手に持つ數多の玉の一つを授けて忽ちドコへか消えてしまはれたが、コロ〳〵と地上を轉がつた玉が、拾はうとすると見えなくなつた。雛狗こいぬの與四郎が呑んでしまつたらしいと亡き母がたび午睡ひるねときはなされたが、與四郎の傷口から飛出したのが其時の玉らしいと幼時の憶出おもひでなつかしみてうへころがした。が、死んで行く身にコンナ玉が何惜なにをしからうと棄てると再び跳ね返つて懐ろに飛込んで来るので、煩ささうにまた掴み出して棄てると復た跳ね返つて来て玉に靈ある如く、何遍なんべん棄てゝも返るので、其儘ふところへ入れて部屋へ戻つて来て、率ざとばかりに双肌もろはだを脱ぐと、こは如何いかに、不思議や左のかひなに今までにない牡丹の花の形をした黒痣くろあざが出来てゐた。このまへ玉がふところへ飛込んだ時、左のかひなあたつて些少すこしの痛みを覚えたが、コンナ事で俄に痣が出来ようとも思はれない。不思議な事と思つたが、死んで行く身に要の無い穿議せんぎと、父を手本に肌押廣げて腹を切らうとした瞬間、ドヤドヤとちん入した三人みたり、背後からは糠助が抱留だきとめ、前からは亀篠と蟇六とが左右から兩腕を押へて先づ刀を捥取もぎとつた。

『お前はまア飛んだ事を。』

 亀篠かめざさはワザとらしいオロ〳〵聲で、

『番作が生害しやうがいしたと糠助が飛んで来て知らせたから、喫驚びつくりして駈附かけつけて来りやお前までが…………』

 空涙そらなみだきつゝ、

『番作も片意地過かたいぢすぎる。ドコまてあたしたちを憎まれ者にしたいのだらう。弟と思ひ甥と思へばこそ何卒どうかして無事に収めたいと心配して、女の淺いこゝろからかうもしたらばと糠助阿爺おぢに頼んであたしの心持を相談さしによこしたのに、面當つらあてがましく腹まで切るツてのはアンマリたてぎる。』

 かきかたはらから蟇六は眞實らしいうるみ聲で、

『早まつた、早まつた、早まつた事してれた。日頃は義絶してゐてもつながる縁のわしたちが親子おやこ不利益ふためなんで計らう。かれと思つてた事があだとなつたはうらめしい。其方そなたも共に突詰つきつめたのは無理もないが、モウ心配さツしやるナ。御教書破却みけうしよはきやく越度おちどおもいが、云はゞ畜生のたこと。飼主の番作が切腹したからはう子までにお咎めは無い。假令よし有つたにしてもこの伯父が宜いやうに申釋もうしときをしてやる。』

信乃しのもう心配しやるナ。』

 亀篠かめざさはその尾にいて、

『伯父さまがアヽして心配して下さる。さツう短氣はやめて、これからは伯母が引取つて世話します。蟇六どの、濱路とはイヽ釣合つりあひ、成人せいじんしたら妻合めあはして大塚の家名を相續させませう。』

うとも〳〵。』

 と蟇六は合槌打あひづちうつて信乃をなだめつすかしつして、

『さツ、う短慮はめにして、何よりも死人樣ほとけさま跡始末あとしまつちや。糠助どのも手傳はツしやい。』

 と口と心は反對うらはらに、信乃の機嫌を取り〴〵に先へ立つて世話を焼いた。臨終いまはきはの父の先見がヒシ〳〵と當つて、狐狸きつねたぬきが何をするかと片腹かたはら痛くてならなかつたが、かくも父の遺言通りに中蔭のいみが果てゝから亀篠許かめざさがりに引取られる事になつた。

 其日は故人ほとけが世話になつた里人さとびとを招いて佛事を營み、心ばかりの酒飯を饗應もてなして置いて扨て蟇六が改まつて云ふには、番作と亀篠と繋がる縁の自分との間に打解うちとけ難い誤解があつて、疎遠に暮したを本意ほいなく思つてゐたが、番作が早まつて世を縮めたので今更誤解をく由も無い、この上は信乃を引取つて成人の後養ひ娘の濱路と妻合めあはして大塚の家名を相續させるツモリと眞實らしく披露した。里人は甚六が意外の申出に狐につままれる心地こゝちして各々顏を見合はしたが、それでこそ亡人ほとけも満足してこゝろよく極樂に浮ばれやうと口々に云ひそやして、きらはれものの蟇六が俄に信望を盛返もりかへして男を上げ、里人さとびとが好意で番作にいた番作田ばんさくだをも信乃が成人するまで保管あづかるといふ名目でヌク〳〵とに入れてしまつた。

二 信乃と額藏と糠助の子

 蟇六の家に額藏がくざうといふ小厮こものがあつた。としはマダ十一二歳であるが心き才すぐれて心ざま世の常ならず、蟇六が小厮こものを督して與四郎犬をオツ取圍んだ時も額藏は打騒ぐのみにて犬を叩かず、目算通りに與四郎を半死半生にして蟇六初め小厮こものらがはな高々たか〴〵手柄咄てがらばなしをする傍聴かたへぎきして腹の底で冷笑あざわらつてゐた。

 番作が死んでから亀篠は伯母顔をして朝晩出入あさばんでいりして萬事に世話を焼いてゐたが、一人ひとりぽツちの信乃しのが淋しからうと、年比としごろが丁度おツつかツつ丶丶丶丶丶丶の額藏を炊事がてらの話相手はなしあひてよこした。馴染なじみの浅い二人同士、殊に信乃はねぢけた伯母の廻し番と見て用心しい〳〵容易に油斷しなかつたが、三七日を過ごしたある日、額藏は湯をかして信乃に行水ぎやうずゐをさせた。脊中を流さうとして脊後うしろへ廻つて、左の腕に牡丹の花の形した黒痣があるのを見付けて驚いた。

和子樣わこさまのこの痣はイツからおできになりました?』

と、額藏は不思議がつていたが、信乃は笑つて答へなかつた。湯沐ゆあみ果てゝやがて衣服きものを着ようとしてふるふと、中から白い玉がコロ〳〵ところがり出した。

 額藏は再び驚いて、

『和子樣、その玉はドウしてお手に入りました?』

 いたが、信乃しのは矢張笑つて答へなかつた。

『和子樣、この玉を御覧じろ。』

 と額藏は自分のふところから同じ玉を出して見せ、

『アナタのと同じでせう。わたくしのは生れた時、胞衣えなめようとしてしきゐの下を堀つたら土の中から出て来たのださうです。玉ばかりでなく、和子樣と同じ形の黒痣くろあざが生れた時からわたくしにも有るさうです。』

 信乃は喫驚びつくりして額藏の玉を手に取つて見ると、信乃のは「孝」、額藏のは「義」と、文字は違へど大きさから色合まで、紐通ひもとほしの穴までが同じである。場所こそ違へ同じ形の黒痣までが二人に共通するといふは決して苟旦かりそめの偶然では無いと、信乃は自分の玉の来歴、き母が奇しき神女から授かつたのをマダ生れたばかりの與四郎犬がチヨロリと呑んでしまつて十何年間体内に留まつてゐたのが首を刎ねた切口きリくちから濆出して信乃のふところに飛込み、其時左の腕にあたつて黒痣が出来たといふ一伍一什いちぶしじふを物語つた。

 額藏は聞終つて不思議々々々と感嘆し、自分の父はもとは伊豆の堀越御所の家人けにんであつたが、七歳の析君の勘氣に触れて自刃して荘園家財まで没収され、母にれられて安房あはの縁家をたよつて行く途中路銀をぬすまれ、心細くもこの大塚の里まで辿たどり着いた時俄かの風雪ふうせつに遭つて、路銀を持たぬ身の一夜の宿りを村長許むらをさがりに頼んだがケンモホロヽに逐出され、空腹の上に寒氣に閉ぢられて持病の癪をおこし、其晩終にをさが家の脊戸せどの外で果敢はかなくなつたといふ物語をして、それからが母の亡骸むくろを犬猫同樣に埋められたのを恩にせられて、給金無しの一生奉公であると身の上ばなしをした。額藏といふは小廝こものとしての仮の名で、まことは堀越御所の御内の荘官しやうかん犬川衞二則任ゑじのりたふ孤児みなしご犬川荘助義任しやうすけよしたふであると本名までも明かした。

 扨てはさういふ身分であつたかと、我が身に増して薄命な身の上と信乃は只管ひたすら同情した。二人が二人、父は自刃して果て、母には早く別れた同じ身の上に手を取合つて互ひに嗟嘆して、玉といひ黒痣といひ、前世さきのよからの浅からぬえにしがあらうと二人は互ひに奇遇を喜んで義兄弟の約束を結んだ。が、おもては今まで通りの主従とよそほつて竊所よそ々々〳〵しくし、打解け難い氣の合はぬ同士であるやうな顔をしてゐたから、蟇六夫婦はおぞくも計られて、額藏を抱込んで信乃の見張番とした。それから以来、信乃が蟇六の家に引移つてからは、二人は益〻竊所よそ々々〳〵しくして、額藏は析々に毒にもならぬ告げ口しては忠義な腹心と見せかけて、夫婦の機密を探つては信乃しのに告げ知らして互ひに用心をした。

 斯くて七八年、狐狸きつねたぬきに覘はれる油斷のならない思ひをしつゝも無事に過ごしたが、與四郎犬と紀二郎猫の騒動の間に狭まつて心配もし奔走もした律義者の糠助阿爺は先年女房に先立さきだたれてから俄に老込み、流行はやりやまひに取かれて昨日今日きのふけふは枕も上らぬ容体となつた。蟇六夫婦に油斷をさせる爲め信乃は里人さとびととは竊り交際つきあはなかつたが、糠助とのみは長の歳月の古い馴染で往来ゆきゝしたので、人の恐れる時疫ときのけでもたび〳〵見舞つて看護した。愈〻危篤となつて最う臨終に間が無からうと知らして来たので、信乃は取るものも取敢へず急いで枕邊へ行つて見ると早や起直る氣力も無かつた。が、信乃の顔を見ると涙を一杯うかべつゝ年ごろ日ごろ目を掛けられた恩を謝しつゝ、うじたくはへも無い身は思残す事は何も無いが、たゞ一つ氣がかりなのは人にも告げざる我が子の上であると言つた。

 糠助に子があるといふは村の者誰一人知るものは無いから信乃にはもとより初耳であつた。段々聞くと糠助はもと安房の洲崎の土民であつたが、貧しい中に生れた子の三才みツつなるのが足械あしかせで、切迫詰せつぱつまつた苦し紛れに禁斷の濱ですなどりして捕へられ、しぱくぴにもなるべきところを領主の佛事で大赦になつて追放された。上のお慈悲の忝けなさが却て難有ありがた迷惑で、幼ない我が子を引脊負ひつちよつてあづまを指してトボ〳〵と行つたが、路銀は無したよいへは無し、生きて甲斐無い行末を果敢はかなんである橋へ差掛さしかゝつた時フラ〳〵として橋の欄干へ足踏み掛けて跳り込まうとした。アワヤと言ふ時物影から現れた鎌倉殿(成氏卿の事)の御内みうちの飛脚に抱留だきとめられて、事の仔細をつばらに打明ければ、児供こどもが欲しさに願掛けしても授からぬものさへあるに、足手纏ひにして親子もろとも死なうとするなら其子を呉れと言はれた時の嬉しさは、地獄で佛に合つた心地で親知らずて呉れてしまったが、臨終いまはきはに氣にかゝつて冥路よみぢさはりとなるのは其子。和君わぎみ若し滸我こがへ行き給ふ析があつたら其子を尋ねて言傳ことづてを頼みます。幼名は玄吉といつて、七夜の祝ひに鯛を料理した時、さかなの腹から出た「信」といふ字の現はれた玉を護身袋まもりぶくろに入れて置いたのと、右の頬さきに牡丹の形した黒痣のあるのが証拠と言残して糠助はポツクリとつぶつた。

 「信」といふ字の現はれた玉、牡丹の形をした黒痣、信乃は驚かずにはゐられなかつた。が、糠助ぬかすけに子があるといふはなし額藏がくざうにだけ洩らして、ひそかに宿縁がありさうに思はれるのを互ひに首肯うなづき合つた外は誰にもはなさなかつた。

三 左母さもらう簸上宮六ひがみきうろく

 うさぎの穴へ狐がもぐずり込んだやうに正直者の糠助ぬかすけ空屋あきやへ住みこんだのは、鎌倉浪人の網乾あぼし左母二郎であつた。今年二十五のにがばしつた美男で、佞奸邪智の白者しれものであつた。大師流の手跡を上手に書くので里の子を集めて習字を授けたが、書道よりも巧みなは小唄こうた今樣いまよう節切よぎり、遊芸と通り心得ざるは無かつた。その上に口前が上手で、おべんちやらで、男振が好いと来てゐるから、忽ち同氣相求める亀篠かめざさに取入つて蟇六許ひきろくがり入浸いりぴたるやうになつた。

 亀篠かめざさ夫婦が信乃しのを引取つたのは不斗ふとした奸策わるだくみが番作の自殺となつて村の憤怒を勃発するを恐れたからで本心ほんしんでは無かつた。濱路と妻合めあはすといふも当座の出鱒目で微塵みぢんもそんなツモリは無かつた。機会があつたら村雨むらさめを奪って信乃を追払はうと覘つてゐたが、信乃に油斷が無かつたので、附け入る隙が得られなかつたうちに徐々そろ〳〵二人を妻合めあはさねばならない年頃となつた。信乃はく濱路は幼ない時から言ひかされて信乃しのを良人と思ひ込んでゐて、祝言の日を待詑ぶる氣色けしき素振そぶりに現はれてゐた。其上に村人むらびとからは番作の法会の席の公約を督促されて止まないので、モウ片時も猶予ならず、一刻も早く信乃を逐払はうと蟇六と二人してヨリヨリ魂膽こんたんを凝らしてゐた。

 かゝる折から現はれたのは左母ニ郎であつた。美男で才子で、其上に、今は浪々であるが殿の御覚え目出度い近習の筆頭であつたので、近々歸參すれば以前に増して御覚えが目出度からうと、さも一足飛そくとびに高禄の権勢者きけものになるかの如く臭はすので、亀篠は最う乘氣になって、鎌倉殿のお氣に入りの切れ者となる日の近い左母さも二郎を婿にする氣になつてゐた。

 去年の暮、陣代ぢんだい代替だいがはりして翌る年の五月、新陣代の簸上宮六ひがみきゆうろくが下役の軍木五倍二ぬるでごばひぢ率川庵八いかはいほはち等を引きつれて巡検に来て荘官蟇六の家に一泊した。此夜蟇六は有らんだからソンナ氣振は微塵みぢんも見せなかつた。陣代からの御所望は冥加に竊つた面目であるが、濱路には妻の甥を妻合めあはす約束であつて、蟇六亀篠は勿論当人の濱路も進んでゐるわけでは無いが、里人さとびと尻押しりおしもあり証證人も數多あまたあつてみには約束を反古ほぐには出来ない事情もあるから暫らく返事を待つて呉れと云った。が、五倍二はソンナくちには乘らないで、貴公の言葉は胡乱うろんである、ドンナ約束が以前に有らうと貴公をたふすも起すも意の儘な陣代殿の御意に背くは貴公のためにくあるまいと、陣代の威光を笠におどしつければ、蟇六忽ち青菜の如くなリ、さらぬだに陣代と縁組えんぐみするは福徳の三年目と腹の底では疾つくに承知してゐるのだから、威嚇にうとたまりも無く、平蜘ひらぐもの如くになつて應諾した。すると五倍二は片時も猶予なく疊み掛けて、性急せいきふではあるが幸ひ今日は吉日であるから陣代から結納を目出度く受納して呉れと、準備ようい幣物へいもつを無理やりに押付けて歸つてしまつた。

 権柄づくで押付けられたとは言へ、牡丹餅で頬べたを叩かれ小判の上に尻餅突しりもちついたやうな氣がして蟇六夫婦は金銀綾羅と積んだ結納台ゆひなふだいを眺めて嬉しさが下腹したばらから籠上こみあげて来た。が、信乃を遠ざけ濱路を納得なつとくさすまでは秘めて置かねばならないから、誰にも目附からないうちにと結納の品々を亀篠と二人して泥棒でもするやうに四邊あたりを見い〳〵コツソリ土藏へ運び込んた。幸ひを亀篠は手を頭掉つて、

『おかまひなさる、今日は陰れてコツソリ御相談にあがつたのだから。』

 と思はせ振りな笑顔ゑがほを作つた。

『實は濱路をアンタに貰つて戴きたくて蟇六殿に相談したところが、蟇六殿もアンタならばと大満足。それに就て言號いひなづけの信乃を追出す段取になってるのてすが、婿引出むこひきでに取らした秘藏の名刀を縁切料に呉れてしまふのも惜しゝ、尋常では迚も取返せさうも無いからと、色々工風してやつとこ趣向浮んだが、それにはアンタに手傳つて貰はんとナア…………』

 と、明晩信乃を川狩におびき出し、蟇六が誤まって水に落ちたふりすれば信乃が救ひに飛込むのは必定であるから其隙そのひまにアンタは舟に残つて信乃の腰の物と蟇六の佩料さしれうとを摺換すりかへて呉れと云つた。

『ドウセ婿引出としてアンタに進ぜる品だから…………』

 と色と慾とをくらはして首尾よく左母ニ郎をだまくらかし萬事の手筈を牒し合はした。

 その晩蟇六夫婦は信乃しのを閑室に呼んで扨て曰く、御身と濱路との婚姻を愈〻ぐるについては祖父おぢ匠作ぬしが春王君しゆんわうぎみからお預かりしたる寶刀村雨を滸我殿こがどのたてまつる予ての夙望、丁度滸我殿も管領家との和睦が整つて太平無事に治まってる。御身の夙昔しゆくせきの望みを果して大塚の家運を興す好機会だから、同じくは立身出世してから濱路を迎ふるが目出度い上にも目出度いといふものと言巧ことばたくみに言拵いひこしらへた。信乃は萬事を額藏から聞いてゐたから、アレ程執拗しっこ附覘つけねらつた村雨むらさめを俄に思切って滸我殿へ献上しに行けと、足元あしもとから鳥の立つやうに旅立たせようとする蟇六の底意は解り切つてゐた。が、眞心まごころの無い亀篠かめざさ夫婦の居心惡ゐごころわるい家を去るにはと、マンマと口ぐるまに乘せられたやうな顔をして、おほせに随ひ明日にてもと言つた。それでは竊り早急さうきふなとかたはらから亀篠はくちし、親切こかしに引留めて、何かとたびの支度もあればと一日ばして俄に滸我へ立つ事になつた。

 そのあくる晩が左母二郎と牒し合はした神宮かには河原の川狩である。蟇六は左母ニ郎と伴れ立つて、時刻を計つても偶然に邂逅であつたやうに信乃しのを待合はしてさそひ、船頭土太郎せんどうどたらうかたらつてふねを雇つて川の中流へ漕出した。蟇六は網自慢あみじまんで水練にも熟練てだれであるが、予ての手筈で網諸共にザンブリ落ち、わざおぼるゝまねをしてアツプアツプと水面に藻掻もがいた。信乃は有繋さすがに見るに忍ぴず、手早く着物を脱いで飛込むと、土太郎も一緒に続いて飛込み、蟇六は前からしがみついて信乃の自由を奪ひ、土太郎は足を取つて水底深く引摺り込まうとした。が、水馬水練に達し膂力飽くまでもすぐれた信乃は何條なんでう引摺込まるべき。土太郎を蹴飛ばし蟇六を小脇に抱縮だきすくめて手近の陸へ揚つて来た。

 舟に残つた左母二郎は流れるまゝに川下へ下つてから素早すばやく隙を見て信乃の刀を抜いて見た。明晃々と身毛みのけ愈立いやだつて、不思義や水氣滴すゐきしたたるので試みにふりすると水は忽ちはとばし稀代きだいの奇特を現はした。これなん信乃の父番作が春王君しゆんわうぎみからお預りした滸我殿の重寶村雨と直く感づいて、扇谷殿あふぎがやつどのたてまつれば歸參のよすがとならうし、黄金こがねに換へれば千兩がものはあらうと好智の左母二郎忽ち横奪よこどりする氣になつて、村雨むらさめの跡へは蟇六のを、蟇六のには自分のを収め、各々川の水を垂らし込んで置き、眞物ほんものの村雨は自分のさや差込んで何喰はぬかほをしてゐた。そのうちに土太郎が泳ぎついたので、蟇六がやうや命拾いのちびろひしたやうな顔してゐる岸へと漕ぎ寄せさした。

 此晩は蟇六の水徳利みづどつくリの馴れ合ひ狂言で興をまし、再び舟を乘出してもはずまないのでソコ〳〵>に切上げた。土太郎には骨折銀ほねをりしろを取らせ、左母二郎とも中途で別れて夜更けて歸つてから、蟇六夫婦と信乃と、随行おともの額藏と、四人してあみ獲物ゑものの雑魚をさかなに別れの杯を酌みかはして、眞夜中過ぎに各々自分の部屋へ引取つた。そのあとで蟇六は亀篠と膝突合ひざつきあはして左母ニ郎が摺換へた刀を抜いて見ると、噂の通り水がしたたつたので、カチヤリともとの鞘へ収めて神宮かにはの川の水とは知らずに押戴おしいただいて顔見合はしてニタリと笑つた。

『信乃めの強いにはきもを冷やした、あぶなくホントウにブク〳〵とやりさうになつた。』

 と蟇六は聾を潜めて、

『額藏には如才なく言ひ含めたらうナ?』

『えエ、バツサリと…………』

 亀篠は平手ひらてまねをしながら、

『額藏ならうまくやりませう。失敗しくじつても村雨むらさめさへ巻上げれば……さツお祝ひにモ一つ。』

 と銚子を振上げた。

『その事、その事!』

 と蟇六はなみ〳〵猪口ちよくがせながら、

『運が向いて来たと見えるわい。』

 と、それから二人ふたりは悦に入つて何杯も重ねてイツか酔潰ゑひつぶれてしまった。

 暫らくして全家うちぢうが寝静つた丑満過うしみつすぎ、濱路はコツソリと竊み足で信乃が伏床へ忍んで来た。李下りかかんむりたゞさず瓜田くわでんくつを入れずと、信乃は伏床ふしど片寄かたよせてひらなほつてたしなめると、濱路はヨヽと忍び音で、親の許した夫婦同士めをとどしで、今宵こよひ限りの別れを惜みに来たのを左もイタヅラ事でもするやうに嗜め給ふは心強こゝろづよいにも程があると、養ひの父と母との眞心まごゝろの無い氣拙きまづ仕向しむけや、豊島としま練馬ねりまの合戰に産み親兄弟おやきやうだいの行衞知れずになった悲しさや、さかづきこそせね親の許した妹脊いもせとて女心のと筋に思ひ詰めてるのを、唯ひと言の別れだも無くて旅立つ怨めしさを涙片手なみだかたて掻口説かいくどいた。信乃はさまぐ慰めて、親の許した仲にせよマダさかづきかはさぬうちは人目の關の憚りもありと、言賺いひすかしたがなか〳〵に綿々として盡きる時なき悵惆ちうちやうの恨みは払暁あけがた近くまでも彼れ一句、我れ一句してきなかつた。虫が知らすか暫らくの別れが永い別れとなるがの如く、濱路は幾度も名残を惜んで、やがてさうの袂を顔に当てつゝ、よそには洩れじとしの欷歔しやくりげ、欷歔しやくりげ歸つた。

 間もなく鶏鳴けいめい暁を告げ東の空が白んで来たので、信乃は支度を整へて、マダ半睡の蟇六ひきろく夫婦に暇乞ひをし、見返る奴婢ぬひらに別れを告げて額藏とニ人して鹿島かしま立ちした。

四 濱路死地に落つ

 邪魔者の信乃しのはマンマと追出してしまった。首尾よく額藏が途中でらすか、失敗しくじつても滸我こがの御所で僞物にせもの村雨むらさめ露顯あらはれてしばくびにでもなるが必定ひつぢやう。再び歸つて來る氣遣ひは無いから此の方は安心だが、濱路が信乃しのおもつてるのは蟇六夫婦も知つてをる、柔和なやうでも信乃を思ひ切らして陣代ぢんだいへの嫁入を納得させるのはと骨である。この朝は臥込ねこんでしまつて掻卷かいまきに顏を埋めたぎり枕が上らなかつた。ウツカリしたこと發言いひだして機嫌を損じてはと、腫物扱はれものあつかひしてソツとして置いた。

 かりの祝言で濟ますから衣服其他の支度はいらぬといふは何よりだが、マダ濱路にはことも話してゐない。愈〻絶對絶命と迫つた今晩、信乃の餘燼ほとぼりましてナドト氣長きながなことを云つてゐられない。でも、いやでもおうでも今晩中に、親の威光で強壓しでも短兵急にウンよ云はしてしまはにやならぬと、夫婦ふうふは氣が氣でなく前額ひたいあつめて、愈〻槓槓扞てこでも動かない其時は?……その時はうと、最後さいごの奧の手までもひそ〳〵しめしあはした。
『とうだい? 少しは氣分が晴れたかい?』

 亀篠かめざさは濱路の枕邊まくらべに坐って、猫撫聲ねこなでごゑで、

『あんまりクヨ〳〵おもはないがイヽ。病は氣からおこるんだから元氣を取直してお化粧つくりでもする氣になつて御覧。この温氣うんきに障子を閉切たてきつてふさいでばかりゐるのが一番毒…………』

 と亀篠はつて細目ほそめに障子をけて風を入れ、再び枕邊に坐つて、

『お前の病氣の原因はアタシにはりくわかってる。が、お前がイクラおもつても、あの性惡しやうわる信乃しのはお前の事なんぞ何とも思つでやしないんだよ。親譲りのねじけ者で、親が勝手で切腹したのをアタシ達のせゐにして、十一の齢から養はれた大恩を何とも思はないで、いくらアタシ達がやさしくしてやつてもかたきのやうに怨んでる。有らう事か有るまい事か、先夜こないだはお前、神宮かには河でお父さんを舟から突落して置いて、たすけるふりをして飛込んでかはそこへ沈めようとしたんだつて。太郎がゐたから助かつたが、何て恐ろしいやつだらう。お前は知るまいが、信乃の人非人ひとでなしは村でも今は札附ふだつきで爪彈きされてる。今度の滸こがへ行つたのも表向きは寶刀献上だが、寶刀なんぞはお前、とつくの昔失むかしなくなつてるんで、ホントウは村に居堪ゐたゝまれないで逐電してしまつたのサ。だからお前、歸りたいからツてう歸つて來られやしない。ホントウにお前、イヽ事をした、今のうちに切れてしまつて。アンナ男と夫婦いつしよになつたら、末始終すゑしじふ苦勞の絶間は無い…………』

 濱路は『切れてしまつて……』と亀篠かめざさが云つた時、我知われしらず眼をみはつたが、周章あわてゝ直ぐらしてしまった。信乃の實意と孝行は兒供こどもの時から村中むらぢうの襃め者で、誰知らぬ者は無いのに、くまアあんな出鰻目が云へたもんだと、養ひの親ながら腹立たしくなつて、聞きとも無いと顏を襟に隱してしまつた。

『モゥお前、クヨ〳〵する事は無い。信乃に十倍した立派なお婿さんをお母さんが見立てゝ上げるからネ』

 と亀篠は莞爾にこ〳〵笑顏ゑがほを作つて濱路の顏を覗込のぞきこんで、

ういふ夢のやうな相談が持上つてゐるんだからお聞き。先夜こないだ宿やどをした御陣代の簸上宮六ひがみきうろく樣、あの晩殊の外おまへがお氣に召して、お下役したやく――といつても矢張お歴々の軍木ぬるで五倍二樣をお媒酌なかうどとしてお前を奧方に迎へたいと大變な御執心なんだよ。身みぶんちがふからと一應は御辭退申上げたが、さういふ斟酌しんしやくいらぬとたつての御懇望。御陣代樣だから御辭退に過ぎると失禮になるし、お部屋に差出せと御沙汰があつてもいやとは云はれないわれ〳〵風情ふぜいのものを、奧方にといふ冥加に餘つた御懇望だから、無下むげに御辭退するわけにも行きません。お前に話さないでめてしまふのもなんだと思つたが、何しろ御性急ごせいきふて暫しが無いから話すひまが無かつたんだよ。それに信乃は見損みそこなつてお前に添はせる事が出來ないから、うしようかと思つてる最中さいちうつて湧いたやうに俄に相談が持上つたもんだから、お父さんにしてもお前を出世さして信乃を見返してやらうと……』

『お母さん、モウ澤山、澤山、…………』

 と濱路は平生いつになく興奮して、

『わたしにはれつきとした良人をつとがあります。』

『何だネ、そんな聲を出して、』

と亀篠はたしなめるやうに、

良人をつとて、お前、信乃のことかい?信乃ならモウ縁が切つてあります。』

『いつ切れました。わたしは切つた覺えも、去られた覺えもありません。』

 と濱路は興奮からめて平生つねのが沈着おちつきに戻つたが、キツパリとしたしい調子で、

『お母さんは、犬塚の伯父さんの御法事ごほふじむらの衆の前でお父さんが立派に御暫言なすつたのをお忘れになつたんですか。親の口から立派にめた良人をつとのある娘をよその男へ嫁入よめいらせようでは、が許して密夫みそかをを持たせるやうなもの。ナンボお母さんの親仰おつしやる事でも、ソンナ女の道にはづれた事はわたしには出來ません。』

 云ふなり次第にうにでもなると思つてゐたのが存外に手強てごはいので、亀篠は勝手が違つで佛頂面ぶつちやうづらをした。が、理の當然に言伏いひふせられたいましさに、

『そんならお前は親がドンナに難儀しても、迷惑しても自分の強情を押通おしとはさうと云ふンだネ。』

 と猫撫聲の假面かめんを脱いで突慳貪つツけんどんに、

『親より男が大切だいじなんだらう。』

『さうガミ〳〵と叱んなさんな。』

 潮時しほどきを見て物蔭から現れたひき六は先づ亀篠をたしなめておいて、

『さうお前のやうに、信乃の惡語わるくちならべては濱路だつて人情だから心持を惡くする、濱路はマダくはしく知らんから、一に親が慾をかわいて無理押附けに嫁入らせるやうに思ふが、さうでは無いので、亀篠もマダいひ足りないところがある。實はういふわけなんだ……』

 と、眞事虚事まことそらこと――といふより殆んと出鱈目を都合の好いやうに辻褄を合はして、お前にことも話さないうちにう事がトン〳〵運んで――といふより先方むかうで膳立てして、さアとこの前へ坐つてさかづきをしろといふやうな鹽梅あんばいで、明日あすの晩の婿入も寐耳に水でわしも途方に暮れたが、何を云ふにも先方むかう陣代ぢんだいである、不承知だと云べば陣代の權力で役儀やくぎを召上げられるか、荘園しやうゑん家財を没收されて所拂ところばらひにされるか、明日あすにも親子が路頭に迷ふ。そればかりぢや無い、信乃しのにも飛火とびひしてドンナ難儀な目を見るか計られない。こゝをく分ふんべつして、お前が目をつぶつてウンとさへ云つて呉れゝばお前の出世ばかりぢや無い、親もうかみあがる、信乃の立身の尻押しりおしもして呉れやうと、古狸ふるだぬきの殊勝な顏をして三方四方からジワ〳〵と義理詰めにした。

 が、濱路はえリに顏を埋めて、『堪忍して』とばかりでウンと云はなかつた。

道理もつともだ。アンナ人非人ひとでなしでもお前にして見れば大切だいじ良人をつとみさほを立てるのは道理もつともだ。親甲斐もなく貞女を棄てさせようとするのは面目めんぼくも無い。が、陣代の威光で押附けられたにしても、今更娘が不承知だとは俺の口からは云へない。』

 と蟇六は腕こまぬいて、『と云つて……』と暫らく思案する風をしてゐたが、矢庭に肌を押廣げて、

わしが死んで陳謝いひわけする。』

 と云ひざま、刀をキラリと拔いて突立てようと。

ア待つて、』

『そんな短氣な、』

 亀篠と濱路とは左右から腕にすがつて引留めた。

『放せ、放せ! 六十のこの皺腹しわばらを切って陣代へ申譯する。』

 と蟇六は振りもぎらうとする。二人は左右から一生懸命に取縋つて放すまいとする。

『濱路』と亀篠はワザとオロ〳〵聲を振立つて、

『お父さんに腹切らしても、お前は強情を押通す氣かい? 不幸者奴が。』

 見す〳〵狂言と解つてゐても濱路はウンと云はねばならなくなつて、泣きの涙で漸く納得なっとくした。

『納得して呉れるか』と蟇六は刀を持つ手をやつと緩めて、『これで俺の顏も立つ、家も安泰だ、お前も……』

『お前も出世だよ。』

 と亀篠は俄に面をやはらげてイソ〳〵として、

『御陣代樣の奧方になりやア榮耀榮華は仕放題で、そリや〳〵大した出世だよ。』

 夫婦ふたりは大變な御機嫌で、孝行者だとばかりに俄にチャホヤした。

五 虎を免かれて狼に攫はる

 あくる朝は今夜が婿入といふので、蟇六の家は朝から風呂をたてゝ、全家うちぢうがザンザめいてゐた。濱路は昨宵ゆうぺから病が一層重くなつて枕が上らなくなつた。が、蟇六夫婦は大噪おほはしやぎにはしやいて立つたり坐つたりしてゐた。

 こゝに憐れを留めたのは左母二郎さもじらうである。首尾よく亀篠かめざさの頼みを仕終しおほせたので濱路は約束通り宿やどの妻、お庭の櫻を手活ていけの花にしてながめるのもモウ近々のうちと、ひとりでニタ〳〵とえつに入つてゐると其日の朝、脊助せすけが鍬を片手になつ蘿蔔だいこんを五六本脇に抱へて忙がしさうに行くのを見て呼留め、

『イヨウ先生、忙がしさうだナ。』

『忙がしいのなんのッて、今夜は婿入があるだよ。』

『ドコに?』

おらやしきにだ。』

『誰に婿を取るんだ?』

『誰にツて、おらがとこには娘ツ子は一人ひとりほか無かつペエ。』

『ぢやアなにかい、犬塚どのとかい?』

『犬塚の小旦那こだんな昨日きんにようあさ滸我こがへ立たしやつた、お前さまも知つてるベエ。』

『それぢやア誰だ、誰が婿にる?』

『陣代の簸上宮六樣だつてこんだ、犬塚の小旦那こだんなは馬鹿ア見たダ。とんびに油揚を引攫ひツさらはれたやうなもんだ。』

 左母二郎さもじらう呆氣あつけに取られて暫らくはぼうツとした。とんびさらはれたのは信乃しので無くて左母二郎である、と思ふと俄にはらわたえくり返るやうで、くも沸え湯を飲ませやがつたと足摺あしずりして口惜しがつた。信乃と婚禮するなら先口せんくちだから指をくはへて目をつぶつてやるが、陣代と聞いちやア勘辨ならねエ。今夜の婚禮に斬込んであめを降らせよう……とも思つたが萬一ひよつとして先方むかう人數にんずが多いと此方こつちあぶねエ。それより神宮河かにはがはの一件をらしで狸親爺たぬきおやぢつらかは引剥ひんむいてくせエめしはして呉れよう……とも考へたが此こつち荷担人かたうどで、肝腎の正しやうぶつが此こつちの手に有るんちや、ヘタをやると此こつちさきくれエ込し。陣代といふ荒神樣が先方に附いてるんぢや、とんな手てづまつかつても消されてしまはねエとも限らねエ。此奴こいつ迂闊うつかり出来ねエや。

 そんなあぶねエ目を見るよりか女を引攫つて陣代面ぢんだいづらに鼻を明かせ、蟇六の狸親爺たぬきおやぢ吠面ほえづらを掻かせるのが早手廻はやでまはしの腹癒はらいせになる。女だつて信乃といふ本役ほんやくが目の前にブラさがつてゐたからこそ此方こつち鼻汁はなも引掛けられなかつたが、宮六の三枚目との面競めんくらべなら此方こつちふだへエるのはぢやうだ。それでもなびかなけりや宿場しゆくばへ叩き賣つて飲代のみしろにする。いろと張つて失敗しくじりやアよくころぶのが当世だと、それから左母二郎はガラクタ世帯を賣りこかして高飛びをする支度をした。

 そんな事とは知らない濱路、今宵人身御供こよひひとみごくうとなつて、猅々ひゝ祭壇さいだんそなへられる憂目を見るよりはと、朝から覚悟をめてゐた。灯ともし近くなつた時、臥床ふしどに起直つて乱れたかみ梳上かきあげるのを見た亀篠は死出しでの旅路の身嗜みだしなみとは知らずに、愈〻親念して今宵の祝言を擧げる支度の髪化粧かみけはひと安心した。かれこれして初夜過しよやすくる頃、油斷を見済ましてそつと忍び出し、土庫ぬりごめ楣間ひあはひを抜けて背せど裏庭うらには築山つきやまの蔭へ行き、築墻ついぢのほとりの松ケ枝に用意の細帯を投げ掛けて、過ぎ越し方を一時に憶出してサメ〴〵と涙に掻暮れた。

 かゝる処へ築墻ついぢくづれから忍込んで、抜足差足ぬきあしさしあし樹立こだちを傳ひ、樹下こしたくぐつて伺ひ寄つたのは左母二郎であつた。猅々ひゝの祭壇を遁れて再び狐に覘はれてるとは知らない濱路は、産みの親をなつかしみ言號いいなづけをつとを戀しがつて身の薄命を欺き悲むを、夜目よめに透かして左母二郎は濱路と知つて肩を縮めて躊躇たじろいだ。こゝで出会うとは天の與へと暫らく身を潜めて容子を窺ひつゝ、今こよひの祝言をするがいやさの覚悟とは知れてるが、操を立てるのは信乃の爲めか自分のためかと思ひ惑うて自問自答し、どうやら自分への心中しんぢうてと身勝手に己惚うぬぽれて身柱元そうけもとからゾク〳〵して来た。

 濱路はやがて細帯のはじすがつてアワヤ首をつらうとした時、ドツコイ待つたと左母ニ郎、うしろから羽交はがひめして無圖むづ抱留だきとめ、驚き騒ぐ耳のはたへ口を当て、

『左母だ、左母だ。』

 私言さゝやくと、濱路は喫驚ぴつくりけがらはしいと力一杯突飛つきとばした。今の今まで自分のための心中立てと自うぬぼれてゐたのがあんに相違したので、破れかぶれと猿臂えんぴを伸ばして抱縮だきすくめ、矢庭に手拭てぬぐひませて早速さそく猿轡さるぐつわ小脇こわき引抱ひつかゝへてヒラリと登るまつ傳うて築墻ついぢを飛下りざまに、やみに紛れて何処いづこともなく消失せてしまつた。

 暫らくすると家内は俄に騒ぎ出した。庖厨くりや準備よういも書院の飾りつけも出来たので、婿どのの見えるのもときと迫つたので、そろ〳〵花嫁はなよめに支度をさせるツモりで亀篠かめざさが行つて見ると、濱路の臥床ふしど藻抜もぬけのからだつた。亀篠は喫驚びつくりして、『大変、大変!』と金切聲かなきりごゑ振搾ふりしぼつたのて、蟇六は足を空に飛んで来て、それツ、はゞかリへ行つて見ろ、土藏を見て来い、浴室ふろにはゐないかと、隅から隅まで捜したが影も形も見えなかつた。急いで庭へりて家の周圍まはり紙燭しそくらしてめぐりしてやがて背戸せどの築山の蔭へまはつて見ると、松ケ枝に細帯がさがつてゐで墻地ついぢを越えて逃出した痕跡あとがあるのを發見して、ひき六も亀篠も尻餅ついて腰を抜かした。

 が、濱路が單身ひとりで逃げたとは思はれない。信乃か左母二かドチラかと、急いで左母ニの容子を見せにやると、左母二の家は空家あきや同然と飛んで歸つて報告したから、左母二にきまつた、それツ追駈おつかけろ、遠くは行くまい、お前は東、お前は西、襃美の金は望み次第と、蟇六夫婦は赤くなつたり青くなつたりしてわめき散らしかた。

 かゝる処へヒヨツコリ顔を出したのは神宮河かにはがはの川狩に傭つた船頭せんどう土太郎どたらうである。賭博ばくちに負まけてスツテンテンになつたので、いんぬる日の辛労銭ほねをりしろの不足を強請いたぶりに来たのを見て蟇六は、イヽところへ来た、實は今、娘が家出して大騒動の眞最中まつさいちう対手あひての男はお前も知つてる浪人者の左母二郎、全家うちぢう總出そうでで追手を掛けさしたがお前が来たのは何より幸ひ、直ぐ追駈おつかけて呉れ、娘をれて戻りさへすりや襃美の金は望み次第とき立てれば、ニ言ごんと聞かず土太郎は、オツト合點、そんなら今そこで賭博仲間ばくちなかまの加太郎井太郎と駕籠賃の押問答しでゐた妙な野郎が左母ニ郎で、駕籠かごなかなが嬢さんにちげエねエ、うがす、野郎をトツちめて直く嬢さんを取戻して来やす、行手は正しく礫川こいしかはから本郷ざかと、蟇六が用意よういに呉れた一刀こしにボツ込みて韋駄天走りに追駈けて行つた。

 圓塚山の悲劇  蟇六夫婦の残殺

 こゝに寂寞道人肩柳しやくみやくだうじんけんりやうといふ不思議な行者ぎやうじやがあつた。諸国の靈山靈跡を歴巡へめぐつて不思議の修法しゆほふを行ふので諸人の渇仰かつがうとほりならず、佛陀の再来の如くあがめられてゐたが、恰も此日に圓塚山まるつかやま(今の本郷丸山邊)で火定くわぢやうるといふので、有縁無うえんむえん縁の道俗だうぞくたつと聖者ひぢりの世にも難有ありがた示寂じじやくを拝みに雲集した。入相いりあひ近く火定が終へて人々は皆火焔の中に端座してれいらしきやうしたのちえん〳〵たる火坑に身を投じた行者の尊い遷化せんげを、口々にたゝへつゝ東西南北へ散り〴〵になつた。

 やがて日はトツプリと暮れ、火定の残火がまだチロ〳〵と燃えて常よりは一層淋しき初夜過しよやすぐる頃、輿丁かごかきの足も軽げにタツ〳〵〳〵と来た駕籠かごが忽ちハタととまつた。

『且那、お約束の繼場だ。』

 先棒さきぼう駕籠かごに附添ふ男に向つて、

『さツ、女をおろすから洒手さかてを出しなせエ。』

『馬鹿アいふ。板橋が約束ちやねエか。足弱あしよわれてると思つて馬鹿にする。』

調戯じやうだん云つちや不可いけねエよ。板橋まで行きや夜が明けらア。愚圖々々云はずに酒手を出しなせエ。』

『不埒な奴だ、勘辨ならねエやつだが足弱連あしよわづれだから勘辨してりてやる。さア、銭をやるからトットとけエれ。』

 と云つて銭兩緡ぜにふたさしを投げてやつた。

『ふざけるない。二百や三百でこの代物しろものかつげるかい。女に猿轡さるぐつわめやがって、狂人きちげいだナンテ胡麻化ごまかしやがつて、この俺さまのつら見損みそこなつたか。うぬのやうな放烏たびがらす胡麻ごまはへに井太郎さまの縄張を荒らされておたまりこぼしがあるもんけエ。さツ、たまも路銀も身ぐるみいで消えてしまやがれ。』

 合棒あひぼう加太郎と左右がら息枚振いきづゑふるつて打つてかゝつた。

 が、喧嘩には馴れてゐても武術は皆目かいもく知らないから、

『おのれ、不埒な奴!』

 とスラリと抜いた左母二郎の刀先きつさきに忽ち切捲きりまくられ、井太郎は逃出すところをうしろから袈裟掛けさがけに、加太郎は返す刀でびせられ、二人ふたりとも血煙立ちけむりたてゝ倒れてしまつた。かゝるところへ飛んで来た土太郎、足遅あしおくれて二人が斬伏きりふせられたのを見ると、直ちに一刀引ン抜いて、『兄弟分の仇』と眞向まつかうから斬つてかゝつたが、ナマクラ武士でも武士は武士、稀代の寶劍村雨の揮毎ふりごとしづくを降らす不思議の奇特きどく鋭氣えいき平生ひごろに十倍して、刃先鋭どく薙立なぎたて〳〵到頭土太郎を斬つて棄てた。

 左母二郎さもじらうは初めて見たる名劍の奇特に驚き押戴きて鞘に収め、涙に伏沈ふししづむ濱路を駕籠からたすけ出して猿轡さるぐつわいた。其時までもまだチロ〳〵と燃ゆる火定くわぢやうあな残火のこりびに残りの柴の束を投込むと忽ちパツと燃上つて白昼まひるのやうに輝いた。左母二郎は近くの切株きりかぶにヤヲラ腰を掛け、濱路に向つて神宮河かにはがは村雨むらさめ摺換すリかへの一條を語つて聞かせ、かういふくび釣換つリかへの仕事をさした俺を袖にして、襃美に呉れる約束のおぬしを陣代へ熨斗のしをつけで進上するのを見て指をくはへて引込んぢやゐられねエ。おぬしにしたつて陣代の表徳面ひよつとこづらに惚れたわけぢやあるめエから、此奴こいつ横合よこあひから引攫ひつさらふのが人助けと、かう思つておぬしを引張ひつばり出したわけサ。信乃と比べたら役者が少し不足かも知れねエが、萬更な男振でもねエツモリだと頤を撫で〳〵冷笑うすわらひをして、コンナ事も有らうかと村雨は三方換みところがへをしてホントウの正物しやうぶつはコレ此通り俺がしてをる。氣の毒だが信乃が献上しに持つてツたのは贋物にせもので、今頃は縛り首にでもなってるだらう。ドウセう歸りツこは無エんだからうしを馬に俺と乘換へなせエ。京都へ行つて室町御所へ献上すりや何千貫の大身たいしんに取立てられる、おぬしは差詰め多勢おばぜいの女中から奥方樣とあめめられる身分になるんだぜ。萬更惡くも無からうとなだめたりすかしたりした。

 濱路は村雨が親の姦計わるだくみ摺換すりかへられて現在正物は左母二郎の手に渡つてるのを初めて聞いて胸がワク〳〵したが、左あらぬていをして、信乃をスッパリ斷念おもひきつて落花流水さそふまゝにまかすやうな氣振けぶりまで見せて、安心のため本物はんものの村雨を見せて呉れと云つた。欺かれるとは知らずに左母二郎、イヽ氣特になつて渡すのを請取つて、濱路はやいば裏表うらおもて左見とみ右見かうみしてゐたが、油斷を見済まし大刀たち取直とりなほして、『をつとの仇かたき……』とびかけざま矢庭にをどかゝつて斬りつけた。不意を討たれて左母二郎、驚き慌てゝ左にはづし右にけ、彼方此方あなたこなたと逃げまはつたが、えうこそあれと小刀抜いてえいやツと切結べば、一念籠めた念力は鋭いやうでも女の柔腕やさうで、忽ち切捲きりまくられて次第々々に逡巡あとじさりするうち、左母二郎がいらつて打込む刃先きつさきを受け損じて乳の下深く切込まれ、アツと魂消るこゑ諸共もろともよこざまに倒れた。

 ハレヤレ骨を折らせやがると、濱路の手から村雨を取つて腰にし、血に染む小刀を大地に突立てゝ、戀なればこそ優しくすりや増長つけあがりやがつて刃物を揮廻ふりまはしやがる、かうなりや可愛さ餘つて憎さが百倍、さぞいたからうが思ふさまくるしませてやると、懐中の疊紙たとうがみから出した鑷子けぬきで髯を抜き〳〵、さアゆつくり聴聞してやるから心残りのエやうに世迷言よめいごとほざくがからうとこゝろよげに冷笑あざわらつた。灸所きうしよの深ふかでくるしみつゝ濱路は怨めしげに左母二郎を見て養ひの父と母とのつれなきをうらみ、産みの父や母や同胞きやうだい練馬ねりまいくさに行衞知れずになつたのをなつかしみ、戀しい信乃と逢はで別るゝこの世の縁の薄いのを臨終の際の苦痛を忍びつゝ怨みかこつた。左母二郎は欠伸あくびしい〳〵聞いてゐたが、それほど信乃が戀しくば冥土めいどへ家みやげに思ひの残つた村雨で引導渡いんだうわたして呉れようと、濱路の胸元むなもとつかんで今やと突きしようとした途端、火定くわじやうあなのあたりから矢聲やごゑと共に飛んで来た手裏劍しゆりけんが見事に左母二郎の乳の下深くプツリと刺した。
 アツと叫んで左母二郎がノツケに倒れた一刹那、火定のあなのほとりに忽然現れたのは行者の姿に引変へて南蛮鐵の鎖帷子くさりかたびら唐織広袖からおりひろそでの異樣な形をした寂莫道じやくみやく肩柳けんりうであつた。傍目わきめらずと進んで左母二郎がいたたまらず振落した村雨を取上げ、暫らく餘念なく焼刀やきばを見上げ見下みおろしてゐたが、莞爾につこと笑つてこしし、やがて深傷ふかでに弱り行く濱路をかゝへて抱起だきおこふところから用意の氣付けを出して口に含まし、耳のはたにて女子をなご〳〵々と呼覚よびさました。

 濱路はフツと氣が付いて驚き騒ぎて振放さうとしたが、肩柳は手をゆるめずシツカと抱き支へて、

『驚くには及ばん、そち異腹はらがはりの兄の犬山道節忠與たゞともであるぞ。最前からの汝の苦悶の述懐を聞いて幼ない折に一生不通ふつうの約束で養女に遣した異腹はらがはりの妹と知つた。臨終の際までも産みの父母ちゝはゝ同胞きやうだいおもおもうて止まざる心根を不便ふびんと思つて名乘り遣はす。』

 と二人の父が練馬ねりまの老臣犬山入道道策だうざくである事、二人の母は侍妾同士そばめどうしで互ひに寵を爭つた末が二人共に非命に終つた事、道節は幼き折に濱路の母の嫉妬でくぴり殺されて葬むられてしまつたのが二十日で、不思議に蘇生して生れついての肩のこぶに牡丹のかたちした黒痣くろあざの出来た事、濱路が一生不通で他家へ養女に遣られたのは母の罪過が父の憎しみを買つた爲めである事、父は去年こぞの池袋の役で管領くあんれいさだまさの家いへのこ竈門かまど三寶平さぽへいに討たれて陣亡ぢんぼふした事、幸ひ戰場をのがれた自分は君父くんぷあだを報ずる旗上げの軍用金を作るため、寂莫道人肩柳と姿を変へて愚民を欺き、家に傳はる火遁の秘法を行つて火定と僞はつて賽銭を集めた事、が、村雨が計らずも手に入ったのは偶然の幸ひ、これを餌として管領定正に近づき、アワよくば定正の首級しるしを擧ぐる心算である事を逐一語って聞かした。

 濱路は産みの母の恐ろしい罪障を初めて聞いて、非業ひごふに死するこの身の薄命も母の因果の報いであると泣き、誠の父に詫言わびごと〚底本は詑と誤記〛して親子の名乘なのりがしたかつたと恨み口説くどきつゝ、亡き母の浅からぬ罪の報いとは云へ、誠實まごころの無い養ひの父と母とに苦められた針のしとねに坐する如き今までの苦労を訴へ、一端許された妹脊いもせの仲までかれて、戀しいをつとは腹黒い伯父の姦計たくらみで贋物と摺換へられたとも知らずに滸我こが寶刀みたちを献上しに立たせられたと一伍一什いちぶしじふを物語つて、

『兄上、一生のお願ひでムいます、その村雨を滸我こがの夫へ送つて夫の難儀を救うてたベ。』

 と手を合はして頼んだ。

 鐵石心の道節はくびつて、肉親の妹の臨終いまはきはの頼みではあるが此の村雨むらさめは君父の仇の定正へ近づくための大切だいじ音物いんもつ私事わたくしごといもとの婿の義理には換へがたいと云つた。濱路は愈〻の斷末魔の息も絶え〳〵な苦痛を耐へての最後の願ひを心強くも拒付はねつけられてガツタりと絶入つてしまつた。

不便ふびん女子をなごだ。君父の仇をむくつた後は、必ずそちをつとをも救うてそちの節義を傳へるぞ。』

 と遺骸を火定の坑に卸して柴を投入れ、弥陀佛々々々と念じつゝ荼毘だびに附した。

 物語二つに別れて信乃を送つた額藏がくざうは途中で信乃を殺してしまへと亀篠かめざさから吩咐いいつけられた顛末を打明けて、此儘滸我こがまでおともするのは容たやすけれど氣懸きがかりなのは濱路の身の上である。滸我におともするよりは何とても言拵いひこしらへて戻つて餘所よそながら濱路を保護し參らせんと、途中で別れて早や家路に近く圓塚山へ掛つた頃、怪しの曲者くせものが一刀を見上みあ見下みおろかたはらには妙齢の乙女が血塗ちまみれになつて片手を突き、四邊あたりには死屍狼籍するを見て、えうこそあれと木蔭に隠れて容子を覗つてゐた。やがてくだんの曲者が半死の乙女を介抱しつゝ語り合ふ仔細を聞いて思掛けない濱路の災難と、怪しの曲者がかね小耳こみゝに挟んでる濱路の實家の兄であるのを知つて愕然とした。それよりも猶ほ驚いたのは信乃が滸我こが御所ごしよへ献上しに持つてつた村雨は左母二郎に摺換へられた贋物にせもので、まことの正物は濱路の兄が左母二郎から奪つて火定の残り火に照らしてながめてゐたのがそれである事だ。さうとも知らずに信乃が若しあの贋物を御所へ差出したなら、如何なる難儀が身上に及んだかも計られない。かう思ふと信乃の安否も心許なく、見す〳〵本物ほんものが他人の手に渡つたのを知りつゝ看過みすごす事は出来ないが、現在の妹が臨終いまはきはの一生の願ひとして頼んでさへかれないのを、如何に事情を明かしてわりなく頼んだとて尋常では渡して呉れまい。引組んで腕づくで取る外はないと暫らく容子を覗つてると、道節は濱路を荼毘だびに附し、村雨を腰にへ去らうとするので、

『曲者、待て!』

 と聲を掛けざま、横合ひから飛蒐とびかゝつて組みついた。

『シヤラ臭い!』

と振放さうとすれどイツカナゆるめず、えい〳〵ごゑで互に捩倒さうとし押轉おしころがさうとし、押出したかと思ふとまた押戻され、互ひに死力を儘して揉合もみあふうち、額藏が肌身離さぬ護身袋まもりぶくろ長紐ながひもがドウしたわけか乱れて道節だうせつの刀の下緒さげをと結びつき、押合ひ揉合ひする間に次第にこんがらかつてくるのを額藏は解かうとしてツイ手がゆるんだので、道節忽ち振放ふりはなして抜く手も見せずに大刀引たちひんぬいてえいツとをめいて打込んで来たのを、一足下ひとあしさがつて額藏も、抜く手も見せずにチャリンと合はした。暫らくは一じやう虚々實々受けつ流しつ闘ふうちに、額藏がいらつて打込む切先きつさきが道節の着鎖きごみを深く突いで肩なる瘤をつんざいた。忽ち黒血くろちがサつとほとばしると共に瘤の中から何物か飛出して額藏の胸へ發矢はつしあたつたのを素早すばやく左ので握り留めつゝ右めてやいばひらめかし、再び切結んで何時いつ果つべしとも見えなかつた。暫らくして道節は、待て〳〵、汝が武芸甚だし、我れ復讎の大望あれば汝が如き小敵と死を決する事は出来ないから暫らく退け退け〳〵と云ふに、額藏呵々から〳〵と笑つて、汝我が武術てなみに恐れるならその村雨むらさめ渡して引込め、我れこそは村雨の所有主もちぬし大塚信乃の親友犬川荘助義任であるぞと云つた。何を小癪な、この村雨はいもとにすらも許さなかつたのでいかで汝に渡さんや。渡さぬなら取つて見せる。取れるなら取つて見ろと、双方またもや詰寄つめよつてチャリン〳〵と受けつ流しつ、道節は次第々々に後退あとじさりして、すきはかつで火遁の術で火定の坑へパツと飛込んで、煙と共に消え失せてしまつた。

 しまつた、逃がした、残念と思つたが、影も形も見えないから詮せんすべが無かつた。只ときが付いてかれの膚から飛出して我が掌に握り留めたものを見れば、不思議や信乃や自分が持つのと同じ玉で、「忠」の一字が現れてゐた。さては彼も亦未見異姓の兄弟かとなつかしく思つたが、我が玉を秘めた護身まもりぶくろがは彼の刀の下さげをからめ取られ、彼の玉を我がにぎつたといふ不思議な因縁にて再び邂めぐりあふ時が必ず有らうと思つた。

 さるにても痛ましいのは節婦濱路の終焉と、火坑くわこうに向つてねんころに念佛祈念してのち不斗ふと思ひついて左母二郎のくぴ掻切かききつてかたはらの榎の大樹にけ、幹を削つて墨黒々と、惡漢網乾左母二郎あぼしさもじらう、天罰依而如件よつてくだんのごとしし書付けつゝ、独り點頭うなづいて礫川こいしかはへと道を急いだ。

 時刻は丁度中過なかすぎ(今の十時)、大塚の庄官しやうくわん屋敷では大騒動が起つてゐた。約束通り陣代簸上宮六ひがみきうろくは媒酌人軍木ぬるで五倍二と、略式といつても上下姿かみしもすがた婿入むこいりに乘込んで来た。ひき六夫婦は宵からの騒きで氣が氣で如く、追手おつてを掛けても手懸りは無く、頼みに思ふ土太郎さへ梨のつぶて音沙汰おとさたが無いから、かれこれして時間は移るしトツオイツしてゐたところへ花婿樣のお入りである。心こゝに在らざれば挨拶もシドロモドロで落付かず、膳部ぜんぶは出してもさかなは揃はず、味噌汁の中から束藁子たはしが出たり、酒の銚子に酢が入れてあつたり、失態百出して婿殿の御機嫌頗る斜めであつた。目指めざすおてきの花嫁御がヒヨツコリ顔を出しさへすれば百の失態も千の不調法も過失あやまちの功名の愛嬌となつて、婿殿も忽ち相好さうかうを崩して目出度く無事に納まるところだが、肝腎のたてやま楽屋がくやから突走つツばしつて舞台にあなが明いてしまつたので、ひき六夫婦は立つたり坐つたりして狼狽まご〳〵しつゝ何とか言瞞いひくるめようとしたが、宮六も五倍二も、最う旨口あまくちには乘らないで血相変へて濱路の部屋へ踏込んで引摺出ひきずりださうとまで切迫詰せつばつまつた。

 結局ありのまゝをかくさず打明けて陳謝する外は無かつたので、蟇六はまア〳〵〳〵主人を押なだめはて、實は甚だ申訳ありませんが實はう〳〵く〳〵の次第と濱路の家出の顛末を語つて、心きたるものを八方へ追手に遣はしましたから追ツつけ誰がゞ引捉ひつとらへて參りますまで暫らく御勘辨をと七重なゝへの膝を八重に折つて嘆願した。愈〻の今日となつて御懇ぎよこんのお思召にそむくは此上も無い不調法ぶてうはふてあるが、陣代に対して蟇六が他意なき誠實を證す左券しるし婿引出むこひきでとして準備よういした寶刀村雨丸ほうたうむらさめまるまゐらせませうと、刀の由来やら奇特きとくやらを仰山に吹きたてつゝ床の間に飾つた寶刀をうや〳〵しく宮六の前へ進めた。眞朱まつかになつてイキり立つた宮六も、村雨丸と聞いて漸く機嫌を直してヤオラ手に取上げ、蟇六の講釋の村雨丸の奇瑞きずゐためさうとスラリと抜いた。

 これが若し眞の村雨であつたなら此難關を無事にごしてユル〳〵善後策の相談も調ととのつたであらうが、蟇六が摺換すりかへた晩にためして感歎した神宮河かにわかはの水はう盡きてゐた。陣代宮六がスラリと抜いた刀を數度あまたたびつても揮つてもしづくも落つればこそ、はてはヤケになつて揮廻した刃先が柱に当るとへシまがつてしまつた。この鉛刀なまくら村雨むらさめかと、宮六は面色朱をそゝいで、さきの曲つた村雨を取るより早く鍋蔓なべづるの如くへシ曲げて投出したが、酒には酔ってるし、最前からの重ね〴〵の失態に怒氣心頭より沸熱して驚き狼狽うろたへて逃出さうとする蟇六を偸児待ぬすぴとまてと聲かけざま、一刀引抜いて背後うしろからスツパリと切りつけた。それからは乱脈らんみやく、五倍二と二人して蟇六夫婦をなますの如く切り倒した。全家うちぢう血潮ちしほの海を漂はして奴婢ぬひらは皆散り〴〵に逃失せ、背助せすけ一人前額ひとりひたいを切られて周章あわてゝ縁の下へ逃込んて潜んでゐた。

 かゝる処へ額藏は歸つて来た。狗豕ゐのこ〚豕は不明 羆は不明 タ/一/(ヒ+矢+ヒ)「テイ」70-17〛に等しい食婪どんらんの主人であるが、一飯の恩を受けたる身は眼前の敵を見遁し難く、主人のかたきと呼びかけて宮六五倍二を一刀に斬例した。平生ひごろから蟇六夫妻の邪曲を憎める村人むらびと覿てきめんの因果應報を小氣味こぎみよく思ひながらも、陣代ぢんだいを笠に着て定まる夫のある女を横奪しょうとした奸曲無頼かんきよくぶらいきう六五倍二を其場を去らせず即時に斬つて棄てゝ仇を報じた額藏の義勇をめないものは無かつた。が其の翌る日間注所もんちうじよから検死に来た宮六の弟の社平しやへいと五倍二の同役の卒川いさかは庵八いほはちさぎからす言瞞いひくるめて額藏に縄打つて引立てた。

 芳流閣土龍虎の爭ひ

 かゝる無残の惨劇が故郷の家に起つたとも知らない信乃しのは、栗橋くりはし額藏がくざうと別れて幾程もなく滸我こがに着し、旅宿を定めてのち執権横堀史在村よこぼりふひとありむらやしきへ行つて村雨むらさめ献上の執奏を頼んだ。そのあくあした、刀の塵を拭はうとして片検あらためると、こは如何に、村雨とは似てもつかぬ贋物であつた。かたときたりとも離した事の無い村雨をイツの間に摺換へられたかと不思議に堪へなかつたが、それかと心に思当るは神宮河かにはがはの船中であつた。マダ献上しない以前であつて仕合せ、ことよしつばらに執権に話して暫らくの猶予を乞ひ、急ぎ歸つて刀の行方ゆくへを詮議しようと思つた時、横堀ふひとより即時出任せよとの召状めしじやうが来た。

 餘りの火急に驚いたが、少しも遅疑せず使ひと共に同道して横堀ふひとの邸を訪へば、既に登営した後と聞いて是非なく御所へ案内された。暫らく遠侍とほざむらひに控へて執権に面会を求めたが、執権はドコへ行かれたか見当らぬといふのでことの由を訴ふる道が無いので当惑した。が、覚悟を定めてやがて導かれるまゝに御座ござへ出仕すれば、上壇には翠簾みすを半ば垂れて成氏卿既に出座されてると覚しく、下座には執権在村を筆頭として老臣近臣左右に居流ゐなめれ、廊下には身甲はらまきしたる武士數十人物々しく非常といましめてゐた。

 其時執権在村は遥か上座より村雨献上のおもむき神妙に恩召ざるによつて先づ我等一見致すへければ大刀たちまゐらせよと云つた。信乃は一期の浮沈と思つたが少しもひるめたる色なくことの齟齬した次第を述べて數日の猶予の許しを乞うた。半分聞かず在村は聲厲あららげ、

『奇怪千萬の事を聞くもの哉、察するに汝は敵の間牒にて村雨献上に事寄せて御所を覗ふ曲者ならん、者ども召捕れ。』

 と呼ばはれば廊下にならんだ力士は皆總立ちとなつて信乃をオツ取圍とりかこんだ。短慮の大将成氏卿は赫となつてしとねを蹴立て、それツ撃留うちとめよと下知すれば近習の面々承はりぬと各〻刀を抜き連れて信乃に向つた。無實むじつの縄目をも甘んじて受くるが臣子しんしの本分であると知らぬでは無いが、故君に殉じた父の忠義に免じても寛大の沙汰があるべさを、碌々ことの顛末をたゞしもしないで直く間者呼かんじやよばはりして討取うちとらうとするは人主に似氣にげなき狭量小器である、阿容おめ〳〵々と捕へられて父の名を辱かしめてはときつと決意して、近づく討手うつての刀を奪つて見る間に十數人を斫伏きりふせつゝ飛鳥の如くにパツと庭へ飛下りざま対手あひて嫌はずパタリ〳〵となで倒した。が、薙倒しても薙倒しても新手あらてあとから〳〵と益〻殖えて前後左右から切つてかゝるを縦横無盡に切捲つて逃延び〳〵軒端のきばの松に手が掛つたかと思ふとスル〳〵と枝を傳うてヒラリと屋根へ飛び移つた。遁れるだけ遁れようと屋根から屋根へと傳はつて遁れる路をと八方へ目を配つたが、十重二十重とへはたへと取圍んで逃れるすきも無いので、次第々々に追詰められて、終に大利根おとねの流れに臨める三層楼の芳流閣の見上げる如き筥棟はこむねへとましらのやうにとび上つた。

 只見たゞみる雲表に聳ゆる如く摩天まてんの高閣の屋頂をくてうに勇氣益〻加はる壮漢は、血刀ちがたな引提ひつさ突立つツたちて寄来るものどもバサリ〳〵と切落した。その大刀たちかぜの鋭どさに対手あいての面々は尻しりごみして近づくものは一人も無かつた。誰にもあれ、かれとらへるものには千貫文を賜はるへしと下知を傳へても、承はるといふものは一人ひとりだも無いので、遠矢とほや射落いおとせと命じても届かぬ仇矢あだやに氣を焦立いらだつばかりであつた。

 爰に犬飼いぬかひけん信道のぶみちといふ豪傑があつた。捕物とりもの拳法やはらにかけては一藩ならぶものが無い勇士といはれたが、横堀よこほりふひと相容あいいれなかつた爲め、罪無くして獄に繋がれてゐた。在村は不斗ふと見八を憶出おもひだし、信乃しの召捕めしとりの大役を彼に命じて功あらば死罪をゆるしたまへと推擧し、たれるとも彼ならば惜しかるまじと言上ごんじやうした。成氏卿はにもと點頭うなづき、早速獄舎ひとやから出してこの大役を仰付けられた。

 仰せかしこみ見八は肱手臑盾こてすねああてに身を固め十手じつてを持つて三間梯子けんはしごをスル〳〵と飛登った。孫廂のあなたより遥に血刀提げた信乃しのを望んたが少とも擬議せず、いらかを踏みしめ踏みしめあはひ近くまで進んで暫らくはじつにらまへてゐた。生中なまなか獄舎ひとやよりえらみ出されたる身の君命もだし難くてこの三層の高頂かうてふ召捕めしとりに向つたが、対手あひて萬夫無当ばんぷぶたう勇士ゆうし、所詮はからるかたるゝかの二つ外無いと決死の覚悟ですきねらってゐた。信乃はもとよりつばさなき身のかけるに術なき高頂に進退極まりてき敵あらば引組んで碎けようと待構へてゐた。暫らく二人は互ひに睨みあつてゐたが、すきがあつたか見八は御諚ごぢやうざふと呼びかけて組まんとしたが寄せつけず、發矢はつしと撃ち込む鋭き大刀風をカチリと受けとめ、拂へばはづし、受ければ流す虚々實々、辷るいらかの危き足元あしもとかため〳〵互ひに手練を闘はすうち、信乃がいらつてえいツと打下うちおろすをカツチリ受けると鍔元つばもとからポキリと折れたので、してやつたりと見八は矢庭に飛蒐とびかゝつてムンヅと組み付き、暫らくはえいや〳〵と揉合もみあひ押合ひ角闘すまつてゐた。そのうちにドチラが先へ足を辷らしたか、互ひに固く引組んだまゝいらかの上をコロ〳〵ところがつて、三層楼の高い屋根から眞逆樣まつさかさま水際みぎはに繋いだ小こぶね中へだうと落ちた。はづみくらつてともづなはブツリとれて急流の眞唯中まつただなかに押出され、早瀬はやせに誘はれ忽ちに矢を射る如く川下へ行方も知らず押流されてしまつた。

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