◎滝沢馬琴・内田魯庵抄訳南総里見八犬伝(002)
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一 番作と蟇六
伏姫が富山に神去り給ひてから十何年になる。武州大塚(今の小石川の大塚)に犬塚番作といふ浪士があつた。もとは大塚の里を知行して大塚を名乘つた管領持氏の家人であつたが、結城の亂に加はつて暫らく踪跡を晦ました間に犬塚と姓を改め、持氏の子の成氏が再び管領となつてから放浪中に娶つた妻を伴れて何年振かで舊采地へ戻つて来た。
然るに番作父子が忠義の爲めに家を明けた不在中、留守居した姉の亀篠は物竪い父や弟には似ない淫奔女で、生さぬ仲の義理の母と、二人棲で誰憚かる者も無いので勝手氣儘に男狂ひをし、擧句の果は母が病氣で人手の足りないのを托けに破落戸の蟇六を引摺込み、母が眼を瞑つたのを好い幸ひにズル〳〵ベッタリの夫婦となつた。成氏が管領家となつて舊臣を召出されると聞くと蟇六は俄に大塚姓を名乘って、番作の所在不明を奇貨として先代の忠義を申立てゝ相續を願出た。近所合壁爪彈きせぬ者はない破落戸が先代の忠義の餘徳で村長を命ぜられ、八町四反を宛行はれ帯刀も許されて、成上り者の大きな顏をして威張返つてゐた。
そんな事とは知らずに歸つた番作は、代々忠義で聞えた大塚の家名が、姉の不身持から泥を塗られたのを憤つたが、姉と爭つて血で血を洗ふは益〻家名を恥かしめる物笑ひだと、思慮あるだけに奇麗サツパリと忘れてしまつて、浪々の生活を楽んでゐた。が、さらぬだに前から姉の氣隨や不身持を苦々しく思つたのが愈〻面白くなくなつて十何年間唯の一遍も姉の家へ足踏みしなかつた。蟇六夫婦も何となく弟の家の閾が高くなつて、番作の妻が産をした時も長の煩ひの後身まかつた時も顏を出さなかつた。眼と鼻の間で摺れ違つても互ひに顏を背けて赤の他人よりも冷たくなつてゐた。
番作の子の信乃は度々男の子を亡くした母の迷ひから、無事に生立つやうにと、俗説に従つて女の子にして育てた。が、赤い衣服に不似合ひな荒々しい遊びばかりして、力もあり武藝も好き、其上に一を聞いて十を知る利口者で、氣質も柔しい親孝行であつたから近所の誉め者となつてゐた。石女の亀篠はこれが忌々しくて、信乃に負けない子をと物色して漸く玉のやうな女の子を蓆の上から貰つて、蝶よ花よと大切に育ててせめてもの心遣りとした。
信乃が遊びの友とする飼犬に與四郎といふがあつた。番作の妻が子供が欲しさに瀧の川の辨才天に願掛けして日參した或る日の歸途、マダ生れたばかりの狗の子がクン〳〵鼻を鳴らして纏はりつくのが振棄てかねて拾つて来たのが與四郎である。信乃は辨才天の授かり子でその翌る年に産の紐を解いたのであるから、人畜の区別はあつても與四郎も亦信乃同樣に大切に育て、られた。段々大きくなると毛並艶々しく骨組も逞ましく、敏捷で力が強い此ひ稀れな逸物であつたから一村の群犬は威伏されて、蟇六方の飼犬も何匹取換へても與四郎に噛伏せられるので、蟇六は業が沸えて堪らなかつた。結局犬は斷念して、猫は貴人の膝にも上る犬より貴いものだといふ勝手な理窟をつけて雉子猫を貰ひ、紀二郎と名を命けて家内中が寵愛し、番作と與四郎を目の仇に罵つて業を癒やしてゐた。
然るにこの秘藏の紀二郎猫も戀に浮れてトチ狂つて屋根からコロ〳〵とオツ落つたところを與四郎犬にワングリ殺られてしまつたので、蟇六は脳天から湯氣を立たして眞赤になつて小厮を番作へ叫り込ました。が、番作は鼻のさきで應接つて對手にならぬので、切歯して口惜しがり、一家の小厮を集めて評定して秘計を廻らし、到頭與四郎犬を誘き寄せて小厮眷属オットリ圍んで竹槍で迫廻して半死半生にしてしまつた。其上に與四郎が奥座敷へ飛込んで管領家の御教書を泥足で破いたと拵へごとして、予て目星をつけてる番作所持の故主春王の遺品たる足利家の重寶村雨丸を、御教書破却の御詫びに管領家へ献上しろといふ難題を持込んで来た。
蟇六の奸策は看え透いてる。この村雨丸を巻上げて己れの榮達の道具としようと企らんだ蟇六の蔭謀は、昨日や今日でなく、或時は人を誘かして買取らうと云ひ、或時は忍び込まして竊み出させようとした。が、蟇六の手に乘る番作でなかつたから、何うにも策の施しやうが無かつたのを復たぞろ此機會に持出したのである。剰つさへ亀篠はこの難題の使者の糠助に、良人が直ぐにも訴へ出ると云つたのを今日一日漸と待つて貰つたので、親は泣き寄り、弟なればこそ甥なればこそ縄目の憂き目を見せたくないと苦勞する姉の心も察して呉れと、猫撫聲で云傳をいはした。
やがて信乃を枕邊に呼び梁に吊した村雨の寶刀を示し、祖父匠作の忠死から村雨の由来を云つて聞かし、
『汝が成人したら汝の手から直接に滸我殿へ献上しろ、構へて蟇六に竊まれるな、俺が今自殺したら里人怒つて蟇六を訴へるかも計られないのを蟇六も恐れるから直ぐ寶刀にも手を出すまいし、里人の怒りを和める爲めに實意を示して汝を引取るのは必定である。第一、イツかは寶刀を手に入れようとするには、汝を引取つて手許に寄せつけて置くのが上分別と思ふに違ひない。蟇六の職禄は祖父匠作の賜だから、匠作の嫡孫たる汝が大塚家に寄食するのは、蟇六の恩を被るわけで無いから大手を振つて伯母の家へ行きなさい。御教書破却がウソであるのは知れてるが、ドウセ長くは無い命、汝を托するイヽ死期が目附かつたのだ。俺は今死んで行く…………』
と思ひも掛けない父が突然の覚悟に信乃は呆氣に取られて凝視めてゐると、豪膽な父が従容と筆でも採るやうに刀を掴んたので、アツと聲を擧げて刀を持つ腕に縋りつくと、病衰へても勇士の力、『狼狙へる勿』と爭ふ信乃を叱して膝に組敷き、『水を濆らす村雨の奇特を見ろ』と云ひざま早速に刀を取直して見事に腹を掻切つてしまつた。
信乃は死骸に取附いて聲を限りにむせび泣いた。暫らくして吃と思返して、ヤワカ父に遅れじと同じ村雨の寶刀を手に握つた時、縁端近く與四郎が苦痛に叫くを聞くと、俄に縁を飛下りて犬の傍に立ち、『汝も不便だが、イツまで苦しまして置いては猶ほ不便だから、一と思ひに息を引取らしてやる、俺も後から一緒に行く』と云ひざまヤツと聲掛けて水も溜らず首を落した。
其途端、さつと濆る血潮の中に晃くものあるを受留めれば紐通しの穴ある小さな白い玉で、彫つたのでも漆で書いたでも無い「孝」といふ字が鮮かに讀まれた。不斗思廻らせば亡き母が與四郎を拾つた辨才天へ日參の或る日の歸るさい、犢ほどの大きさある犬に腰掛け給ふ神女が何度からか現れて、手に持つ數多の玉の一つを授けて忽ちドコへか消えてしまはれたが、コロ〳〵と地上を轉がつた玉が、拾はうとすると見えなくなつた。雛狗の與四郎が呑んでしまつたらしいと亡き母が度々午睡の伽に咄されたが、與四郎の傷口から飛出したのが其時の玉らしいと幼時の憶出を眷かしみて掌の上に轉がした。が、死んで行く身にコンナ玉が何惜しからうと棄てると再び跳ね返つて懐ろに飛込んで来るので、煩ささうにまた掴み出して棄てると復た跳ね返つて来て玉に靈ある如く、何遍棄てゝも返るので、其儘懐へ入れて部屋へ戻つて来て、率ざとばかりに双肌を脱ぐと、こは如何に、不思議や左の腕に今までにない牡丹の花の形をした黒痣が出来てゐた。この前玉が懐へ飛込んだ時、左の腕に中つて些少の痛みを覚えたが、コンナ事で俄に痣が出来ようとも思はれない。不思議な事と思つたが、死んで行く身に要の無い穿議と、父を手本に肌押廣げて腹を切らうとした瞬間、ドヤドヤと闖入した三人、背後からは糠助が抱留め、前からは亀篠と蟇六とが左右から兩腕を押へて先づ刀を捥取つた。
『お前はまア飛んだ事を。』
と亀篠はワザとらしいオロ〳〵聲で、
『番作が生害したと糠助が飛んで来て知らせたから、喫驚して駈附けて来りやお前までが…………』
と空涙を拭きつゝ、
『番作も片意地過ぎる。ドコまて妾たちを憎まれ者にしたいのだらう。弟と思ひ甥と思へばこそ何卒して無事に収めたいと心配して、女の淺い慮からかうもしたらばと糠助阿爺に頼んで妾の心持を相談さしに遺したのに、面當がましく腹まで切るツてのはアンマリ楯を突き通ぎる。』
と掻口説く傍から蟇六は眞實らしい濕み聲で、
『早まつた、早まつた、早まつた事して呉れた。日頃は義絶してゐても繋がる縁の俺たちが親子の不利益を何で計らう。宜かれと思つて仕た事が仇となつたは怨めしい。其方も共に突詰めたのは無理もないが、モウ心配さツしやるナ。御教書破却の越度は重いが、云はゞ畜生の仕たこと。飼主の番作が切腹したからは最う子までにお咎めは無い。假令有つたにしてもこの伯父が宜いやうに申釋きをしてやる。』
『信乃もう心配しやるナ。』
と亀篠はその尾に従いて、
『伯父さまがアヽして心配して下さる。さツ最う短氣はやめて、これからは伯母が引取つて世話します。蟇六どの、濱路とはイヽ釣合ひ、成人したら妻合して大塚の家名を相續させませう。』
『然うとも〳〵。』
と蟇六は合槌打つて信乃を和めつ賺しつして、
『さツ、最う短慮は罷めにして、何よりも死人樣の跡始末ちや。糠助どのも手傳はツしやい。』
と口と心は反對に、信乃の機嫌を取り〴〵に先へ立つて世話を焼いた。臨終の際の父の先見がヒシ〳〵と當つて、狐狸が何をするかと片腹痛くてならなかつたが、兎も角も父の遺言通りに中蔭の忌が果てゝから亀篠許に引取られる事になつた。
其日は故人が世話になつた里人を招いて佛事を營み、心ばかりの酒飯を饗應して置いて扨て蟇六が改まつて云ふには、番作と亀篠と繋がる縁の自分との間に打解け難い誤解があつて、疎遠に暮したを本意なく思つてゐたが、番作が早まつて世を縮めたので今更誤解を釋く由も無い、この上は信乃を引取つて成人の後養ひ娘の濱路と妻合はして大塚の家名を相續させるツモリと眞實らしく披露した。里人は甚六が意外の申出に狐に魅まれる心地して各々顏を見合はしたが、それでこそ亡人も満足して快く極樂に浮ばれやうと口々に云ひそやして、嫌はれ者の蟇六が俄に信望を盛返して男を上げ、里人が好意で番作に割いた番作田をも信乃が成人するまで保管かるといふ名目でヌク〳〵と手に入れてしまつた。
二 信乃と額藏と糠助の子
蟇六の家に額藏といふ小厮があつた。齢はマダ十一二歳であるが心利き才勝れて心ざま世の常ならず、蟇六が小厮を督して與四郎犬をオツ取圍んだ時も額藏は打騒ぐのみにて犬を叩かず、目算通りに與四郎を半死半生にして蟇六初め小厮らが鼻高々と手柄咄をする傍聴して腹の底で冷笑つてゐた。
番作が死んでから亀篠は伯母顔をして朝晩出入して萬事に世話を焼いてゐたが、一人ぽツちの信乃が淋しからうと、年比が丁度おツつかツつの額藏を炊事がてらの話相手に遣した。馴染の浅い二人同士、殊に信乃は侫けた伯母の廻し番と見て用心しい〳〵容易に油斷しなかつたが、三七日を過ごしたある日、額藏は湯を沸かして信乃に行水をさせた。脊中を流さうとして脊後へ廻つて、左の腕に牡丹の花の形した黒痣があるのを見付けて驚いた。
『和子樣のこの痣はイツからおできになりました?』
と、額藏は不思議がつて訊いたが、信乃は笑つて答へなかつた。湯沐果てゝやがて衣服を着ようとして振ふと、中から白い玉がコロ〳〵と轉がり出した。
額藏は再び驚いて、
『和子樣、その玉はドウしてお手に入りました?』
と訊いたが、信乃は矢張笑つて答へなかつた。
『和子樣、この玉を御覧じろ。』
と額藏は自分の懐から同じ玉を出して見せ、
『アナタのと同じでせう。私のは生れた時、胞衣を埋めようとして閾の下を堀つたら土の中から出て来たのださうです。玉ばかりでなく、和子樣と同じ形の黒痣が生れた時から私にも有るさうです。』
信乃は喫驚して額藏の玉を手に取つて見ると、信乃のは「孝」、額藏のは「義」と、文字は違へど大きさから色合まで、紐通しの穴までが同じである。場所こそ違へ同じ形の黒痣までが二人に共通するといふは決して苟旦の偶然では無いと、信乃は自分の玉の来歴、亡き母が奇しき神女から授かつたのをマダ生れたばかりの與四郎犬がチヨロリと呑んでしまつて十何年間体内に留まつてゐたのが首を刎ねた切口から濆出して信乃の懐に飛込み、其時左の腕に中つて黒痣が出来たといふ一伍一什を物語つた。
額藏は聞終つて不思議々々々と感嘆し、自分の父はもとは伊豆の堀越御所の家人であつたが、七歳の析君の勘氣に触れて自刃して荘園家財まで没収され、母に伴れられて安房の縁家を頼つて行く途中路銀を竊まれ、心細くもこの大塚の里まで辿り着いた時俄かの風雪に遭つて、路銀を持たぬ身の一夜の宿りを村長許に頼んだがケンモホロヽに逐出され、空腹の上に寒氣に閉ぢられて持病の癪を発し、其晩終に長が家の脊戸の外で果敢なくなつたといふ物語をして、それからが母の亡骸を犬猫同樣に埋められたのを恩に被せられて、給金無しの一生奉公であると身の上咄をした。額藏といふは小廝としての仮の名で、實は堀越御所の御内の荘官犬川衞二則任の孤児犬川荘助義任であると本名までも明かした。
扨てはさういふ身分であつたかと、我が身に増して薄命な身の上と信乃は只管同情した。二人が二人、父は自刃して果て、母には早く別れた同じ身の上に手を取合つて互ひに嗟嘆して、玉といひ黒痣といひ、前世からの浅からぬ縁があらうと二人は互ひに奇遇を喜んで義兄弟の約束を結んだ。が、陽は今まで通りの主従と粧つて竊所々々しくし、打解け難い氣の合はぬ同士であるやうな顔をしてゐたから、蟇六夫婦はおぞくも計られて、額藏を抱込んで信乃の見張番とした。それから以来、信乃が蟇六の家に引移つてからは、二人は益〻竊所々々しくして、額藏は析々に毒にもならぬ告げ口しては忠義な腹心と見せかけて、夫婦の機密を探つては信乃に告げ知らして互ひに用心をした。
斯くて七八年、狐狸に覘はれる油斷のならない思ひをしつゝも無事に過ごしたが、與四郎犬と紀二郎猫の騒動の間に狭まつて心配もし奔走もした律義者の糠助阿爺は先年女房に先立たれてから俄に老込み、流行病に取憑かれて昨日今日は枕も上らぬ容体となつた。蟇六夫婦に油斷をさせる爲め信乃は里人とは竊り交際はなかつたが、糠助とのみは長の歳月の古い馴染で往来したので、人の恐れる時疫でも度々見舞つて看護した。愈〻危篤となつて最う臨終に間が無からうと知らして来たので、信乃は取るものも取敢へず急いで枕邊へ行つて見ると早や起直る氣力も無かつた。が、信乃の顔を見ると涙を一杯泛べつゝ年ごろ日ごろ目を掛けられた恩を謝しつゝ、氏も蓄へも無い身は思残す事は何も無いが、唯一つ氣がかりなのは人にも告げざる我が子の上であると言つた。
糠助に子があるといふは村の者誰一人知るものは無いから信乃にはもとより初耳であつた。段々聞くと糠助はもと安房の洲崎の土民であつたが、貧しい中に生れた子の三才なるのが足械で、切迫詰つた苦し紛れに禁斷の濱で漁りして捕へられ、縛り首にもなるべきところを領主の佛事で大赦になつて追放された。上のお慈悲の忝けなさが却て難有迷惑で、幼ない我が子を引脊負つて東を指してトボ〳〵と行つたが、路銀は無し頼る家は無し、生きて甲斐無い行末を果敢なんで只ある橋へ差掛つた時フラ〳〵として橋の欄干へ足踏み掛けて跳り込まうとした。アワヤと言ふ時物影から現れた鎌倉殿(成氏卿の事)の御内の飛脚に抱留められて、事の仔細を精に打明ければ、児供が欲しさに願掛けしても授からぬものさへあるに、足手纏ひにして親子諸共死なうとするなら其子を呉れと言はれた時の嬉しさは、地獄で佛に合つた心地で親知らずて呉れてしまったが、臨終の際に氣にかゝつて冥路の障りとなるのは其子。和君若し滸我へ行き給ふ析があつたら其子を尋ねて言傳を頼みます。幼名は玄吉といつて、七夜の祝ひに鯛を料理した時、魚の腹から出た「信」といふ字の現はれた玉を護身袋に入れて置いたのと、右の頬さきに牡丹の形した黒痣のあるのが証拠と言残して糠助はポツクリと眼を瞑つた。
「信」といふ字の現はれた玉、牡丹の形をした黒痣、信乃は驚かずにはゐられなかつた。が、糠助に子があるといふ咄は額藏にだけ洩らして、竊に宿縁がありさうに思はれるのを互ひに首肯き合つた外は誰にも咄さなかつた。
三 左母二郎と簸上宮六
卯の穴へ狐が潜ずり込んだやうに正直者の糠助の空屋へ住みこんだのは、鎌倉浪人の網乾左母二郎であつた。今年二十五の苦み走つた美男で、佞奸邪智の白者であつた。大師流の手跡を上手に書くので里の子を集めて習字を授けたが、書道よりも巧みなは小唄、今樣、一と節切、遊芸一と通り心得ざるは無かつた。その上に口前が上手で、お辨ちやらで、男振が好いと来てゐるから、忽ち同氣相求める亀篠に取入つて蟇六許に入浸るやうになつた。
亀篠夫婦が信乃を引取つたのは不斗した奸策が番作の自殺となつて村の憤怒を勃発するを恐れたからで本心では無かつた。濱路と妻合すといふも当座の出鱒目で微塵もそんなツモリは無かつた。機会があつたら村雨を奪って信乃を追払はうと覘つてゐたが、信乃に油斷が無かつたので、附け入る隙が得られなかつたうちに徐々二人を妻合さねばならない年頃となつた。信乃は左に右く濱路は幼ない時から言ひ聞かされて信乃を良人と思ひ込んでゐて、祝言の日を待詑ぶる氣色は素振に現はれてゐた。其上に村人からは番作の法会の席の公約を督促されて止まないので、モウ片時も猶予ならず、一刻も早く信乃を逐払はうと蟇六と二人してヨリヨリ魂膽を凝らしてゐた。
かゝる折から現はれたのは左母ニ郎であつた。美男で才子で、其上に、今は浪々であるが殿の御覚え目出度い近習の筆頭であつたので、近々歸參すれば以前に増して御覚えが目出度からうと、さも一足飛びに高禄の権勢者になるかの如く臭はすので、亀篠は最う乘氣になって、鎌倉殿のお氣に入りの切れ者となる日の近い左母二郎を婿にする氣になつてゐた。
去年の暮、陣代が代替りして翌る年の五月、新陣代の簸上宮六が下役の軍木五倍二、率川庵八等を引きつれて巡検に来て荘官蟇六の家に一泊した。此夜蟇六は有らんだからソンナ氣振は微塵も見せなかつた。陣代からの御所望は冥加に竊つた面目であるが、濱路には妻の甥を妻合す約束であつて、蟇六亀篠は勿論当人の濱路も進んでゐるわけでは無いが、里人の尻押もあり証證人も數多あつて疾みには約束を反古には出来ない事情もあるから暫らく返事を待つて呉れと云った。が、五倍二はソンナ口には乘らないで、貴公の言葉は胡乱である、ドンナ約束が以前に有らうと貴公を外すも起すも意の儘な陣代殿の御意に背くは貴公のために宜くあるまいと、陣代の威光を笠に嚇しつければ、蟇六忽ち青菜の如くなリ、さらぬだに陣代と縁組するは福徳の三年目と腹の底では疾つくに承知してゐるのだから、威嚇に会うと一と堪りも無く、平蜘の如くになつて應諾した。すると五倍二は片時も猶予なく疊み掛けて、性急ではあるが幸ひ今日は吉日であるから陣代から結納を目出度く受納して呉れと、準備の幣物を無理やりに押付けて歸つてしまつた。
権柄づくで押付けられたとは言へ、牡丹餅で頬べたを叩かれ小判の上に尻餅突いたやうな氣がして蟇六夫婦は金銀綾羅と積んだ結納台を眺めて嬉しさが下腹から籠上げて来た。が、信乃を遠ざけ濱路を納得さすまでは秘めて置かねばならないから、誰にも目附からない中にと結納の品々を亀篠と二人して泥棒でもするやうに四邊を見い〳〵コツソリ土藏へ運び込んた。幸ひを亀篠は手を頭掉つて、
『お關ひなさる勿、今日は陰れてコツソリ御相談に上つたのだから。』
と思はせ振りな笑顔を作つた。
『實は濱路をアンタに貰つて戴きたくて蟇六殿に相談したところが、蟇六殿もアンタならばと大満足。それに就て言號の信乃を追出す段取になってるのてすが、婿引出に取らした秘藏の名刀を縁切料に呉れてしまふのも惜しゝ、尋常では迚も取返せさうも無いからと、色々工風して漸とこ趣向浮んだが、それにはアンタに手傳つて貰はんとナア…………』
と、明晩信乃を川狩に誘き出し、蟇六が誤まって水に落ちた擬すれば信乃が救ひに飛込むのは必定であるから其隙にアンタは舟に残つて信乃の腰の物と蟇六の佩料とを摺換へて呉れと云つた。
『ドウセ婿引出としてアンタに進ぜる品だから…………』
と色と慾とを啗はして首尾よく左母ニ郎を欺くらかし萬事の手筈を牒し合はした。
その晩蟇六夫婦は信乃を閑室に呼んで扨て曰く、御身と濱路との婚姻を愈〻擧ぐるについては祖父匠作ぬしが春王君からお預かりしたる寶刀村雨を滸我殿へ献る予ての夙望、丁度滸我殿も管領家との和睦が整つて太平無事に治まってる。御身の夙昔の望みを果して大塚の家運を興す好機会だから、同じくは立身出世してから濱路を迎ふるが目出度い上にも目出度いといふものと言巧みに言拵へた。信乃は萬事を額藏から聞いてゐたから、アレ程執拗く附覘つた村雨を俄に思切って滸我殿へ献上しに行けと、足元から鳥の立つやうに旅立たせようとする蟇六の底意は解り切つてゐた。が、眞心の無い亀篠夫婦の居心惡い家を去るには能い機会と、マンマと口車に乘せられたやうな顔をして、仰に随ひ明日にてもと言つた。それでは竊り早急なと傍から亀篠は嘴を容し、親切こかしに引留めて、何かと旅の支度もあればと一日延ばして俄に滸我へ立つ事になつた。
その翌る晩が左母二郎と牒し合はした神宮河原の川狩である。蟇六は左母ニ郎と伴れ立つて、時刻を計つて左も偶然に邂逅つたやうに信乃を待合はして誘ひ、船頭土太郎を語らつて舟を雇つて川の中流へ漕出した。蟇六は網自慢で水練にも熟練であるが、予ての手筈で網諸共にザンブリ落ち、故と溺るゝ擬をしてアツプアツプと水面に藻掻いた。信乃は有繋に見るに忍ぴず、手早く着物を脱いで飛込むと、土太郎も一緒に続いて飛込み、蟇六は前からしがみついて信乃の自由を奪ひ、土太郎は足を取つて水底深く引摺り込まうとした。が、水馬水練に達し膂力飽くまでも勝れた信乃は何條引摺込まるべき。土太郎を蹴飛ばし蟇六を小脇に抱縮めて手近の陸へ揚つて来た。
舟に残つた左母二郎は流れるまゝに川下へ下つてから素早く隙を見て信乃の刀を抜いて見た。明晃々と身毛愈立つて、不思義や水氣滴たるので試みに一と揮すると水は忽ち濆る稀代の奇特を現はした。これなん信乃の父番作が春王君からお預りした滸我殿の重寶村雨と直く感づいて、扇谷殿へ献れば歸參のよすがとならうし、黄金に換へれば千兩がものはあらうと好智の左母二郎忽ち横奪りする氣になつて、村雨の跡へは蟇六のを、蟇六のには自分のを収め、各々川の水を垂らし込んで置き、眞物の村雨は自分の鞘差込んで何喰はぬ顔をしてゐた。そのうちに土太郎が泳ぎついたので、蟇六が漸く命拾ひしたやうな顔してゐる岸へと漕ぎ寄せさした。
此晩は蟇六の水徳利の馴れ合ひ狂言で興を冷まし、再び舟を乘出しても機まないのでソコ〳〵に切上げた。土太郎には骨折銀を取らせ、左母二郎とも中途で別れて夜更けて歸つてから、蟇六夫婦と信乃と、随行の額藏と、四人して網の獲物の雑魚を肴に別れの杯を酌み交して、眞夜中過ぎに各々自分の部屋へ引取つた。そのあとで蟇六は亀篠と膝突合して左母ニ郎が摺換へた刀を抜いて見ると、噂の通り水が滴たつたので、カチヤリと元の鞘へ収めて神宮の川の水とは知らずに押戴いて顔見合はしてニタリと笑つた。
『信乃めの強いには肝を冷やした、危なくホントウにブク〳〵とやりさうになつた。』
と蟇六は聾を潜めて、
『額藏には如才なく言ひ含めたらうナ?』
『えエ、バツサリと…………』
亀篠は平手で研る擬をしながら、
『額藏なら巧くやりませう。失敗つても村雨さへ巻上げれば……さツお祝ひにモ一つ。』
と銚子を振上げた。
『その事、その事!』
と蟇六は浪々猪口に酌がせながら、
『運が向いて来たと見える哩。』
と、それから二人は悦に入つて何杯も重ねてイツか酔潰れてしまった。
暫らくして全家が寝静つた丑満過ぎ、濱路はコツソリと竊み足で信乃が伏床へ忍んで来た。李下に冠を正さず瓜田に沓を入れずと、信乃は伏床を片寄せて開き直つて嗜めると、濱路はヨヽと忍び音で、親の許した夫婦同士で、今宵限りの別れを惜みに来たのを左もイタヅラ事でもするやうに嗜め給ふは心強いにも程があると、養ひの父と母との眞心の無い氣拙い仕向けや、豊島練馬の合戰に産み親兄弟の行衞知れずになった悲しさや、杯こそせね親の許した妹脊とて女心の一と筋に思ひ詰めてるのを、唯ひと言の別れだも無くて旅立つ怨めしさを涙片手に掻口説いた。信乃はさまぐ慰めて、親の許した仲にせよマダ杯を交さぬうちは人目の關の憚りもありと、言賺したがなか〳〵に綿々として盡きる時なき悵惆の恨みは払暁近くまでも彼れ一句、我れ一句して竭きなかつた。虫が知らすか暫らくの別れが永い別れとなるがの如く、濱路は幾度も名残を惜んで、やがて双の袂を顔に当てつゝ、外には洩れじと忍び音で欷歔上げ、欷歔上げ歸つた。
間もなく鶏鳴暁を告げ東の空が白んで来たので、信乃は支度を整へて、マダ半睡の蟇六夫婦に暇乞ひをし、見返る奴婢らに別れを告げて額藏とニ人して鹿島立ちした。
四 濱路死地に落つ
邪魔者の信乃はマンマと追出してしまった。首尾よく額藏が途中で殺らすか、失敗つても滸我の御所で僞物の村雨が露顯れて縛り首にでもなるが必定。再び歸つて來る氣遣ひは無いから此の方は安心だが、濱路が信乃を懐つてるのは蟇六夫婦も知つてをる、柔和なやうでも信乃を思ひ切らして陣代への嫁入を納得させるのは一と骨である。この朝は最う臥込んでしまつて掻卷に顏を埋めたぎり枕が上らなかつた。ウツカリしたこと發言して機嫌を損じてはと、腫物扱ひしてソツとして置いた。
假の祝言で濟ますから衣服其他の支度はいらぬといふは何よりだが、マダ濱路には一と言も話してゐない。愈〻絶對絶命と迫つた今晩、信乃の餘燼を冷ましてナドト氣長なことを云つてゐられない。是が非でも、忌でも應でも今晩中に、親の威光で強壓しでも短兵急にウンよ云はしてしまはにやならぬと、夫婦は氣が氣でなく前額を鳩めて、愈〻槓槓扞でも動かない其時は?……その時は恁うと、最後の奧の手までも密々と牒しあはした。
『とうだい? 少しは氣分が晴れたかい?』
と亀篠は濱路の枕邊に坐って、猫撫聲で、
『あんまりクヨ〳〵懐はないがイヽ。病は氣から起るんだから元氣を取直してお化粧でもする氣になつて御覧。この温氣に障子を閉切つて鬱いでばかりゐるのが一番毒…………』
と亀篠は起つて細目に障子を開けて風を入れ、再び枕邊に坐つて、
『お前の病氣の原因はアタシには能りく解ってる。が、お前がイクラ懐つても、あの性惡の信乃はお前の事なんぞ何とも思つでやしないんだよ。親譲りの拗け者で、親が勝手で切腹したのをアタシ達の爲にして、十一の齢から養はれた大恩を何とも思はないで、いくらアタシ達が柔しくしてやつても仇のやうに怨んでる。有らう事か有るまい事か、先夜はお前、神宮河でお父さんを舟から突落して置いて、救ける振をして飛込んで川底へ沈めようとしたんだつて。土太郎がゐたから助かつたが、何て恐ろしい奴だらう。お前は知るまいが、信乃の人非人は村でも今は札附で爪彈きされてる。今度の滸我へ行つたのも表向きは寶刀献上だが、寶刀なんぞはお前、疾くの昔失くなつてるんで、ホントウは村に居堪まれないで逐電してしまつたのサ。だからお前、歸りたいからツて最う歸つて來られやしない。ホントウにお前、イヽ事をした、今のうちに切れてしまつて。アンナ男と夫婦になつたら、末始終苦勞の絶間は無い…………』
濱路は『切れてしまつて……』と亀篠が云つた時、我知らず眼を睜つたが、周章てゝ直ぐ外らしてしまった。信乃の實意と孝行は兒供の時から村中の襃め者で、誰知らぬ者は無いのに、能くまアあんな出鰻目が云へたもんだと、養ひの親ながら腹立たしくなつて、聞きとも無いと顏を襟に隱してしまつた。
『モゥお前、クヨ〳〵する事は無い。信乃に十倍勝した立派なお婿さんをお母さんが見立てゝ上げるからネ』
と亀篠は莞爾々々と笑顏を作つて濱路の顏を覗込んで、
『恁ういふ夢のやうな相談が持上つてゐるんだからお聞き。先夜お宿をした御陣代の簸上宮六樣、あの晩殊の外お前がお氣に召して、お下役――といつても矢張お歴々の軍木五倍二樣をお媒酌としてお前を奧方に迎へたいと大變な御執心なんだよ。身分が違ふからと一應は御辭退申上げたが、さういふ斟酌いらぬと達ての御懇望。御陣代樣だから御辭退に過ぎると失禮になるし、お部屋に差出せと御沙汰があつても忌とは云はれない我々風情のものを、奧方にといふ冥加に餘つた御懇望だから、無下に御辭退するわけにも行きません。お前に話さないで定めてしまふのも何だと思つたが、何しろ御性急で待て暫しが無いから話す暇が無かつたんだよ。それに信乃は見損つてお前に添はせる事が出來ないから、怎うしようかと思つてる最中、降つて湧いたやうに俄に相談が持上つたもんだから、お父さんにしてもお前を出世さして信乃を見返してやらうと……』
『お母さん、モウ澤山、澤山、…………』
と濱路は平生になく興奮して、
『わたしには歴とした良人があります。』
『何だネ、そんな聲を出して、』
と亀篠は較や嗜めるやうに、
『良人て、お前、信乃のことかい?信乃ならモウ縁が切つてあります。』
『いつ切れました。妾は切つた覺えも、去られた覺えもありません。』
と濱路は興奮から冷めて平生のが沈着に戻つたが、キツパリとした男々しい調子で、
『お母さんは、犬塚の伯父さんの御法事に村の衆の前でお父さんが立派に御暫言なすつたのをお忘れになつたんですか。親の口から立派に定めた良人のある娘を他の男へ嫁入らせようでは、が許して密夫を持たせるやうなもの。ナンボお母さんの親仰しやる事でも、ソンナ女の道に外れた事は妾には出來ません。』
云ふなり次第に怎うにでもなると思つてゐたのが存外に手強いので、亀篠は勝手が違つで佛頂面をした。が、理の當然に言伏せられた忌々しさに、
『そんならお前は親がドンナに難儀しても、迷惑しても自分の強情を押通さうと云ふンだネ。』
と猫撫聲の假面を脱いで突慳貪に、
『親より男が大切なんだらう。』
『さうガミ〳〵と叱んなさんな。』
と潮時を見て物蔭から現れた蟇六は先づ亀篠を嗜めておいて、
『さうお前のやうに、信乃の惡語を列べては濱路だつて人情だから心持を惡くする、濱路はマダ精しく知らんから、一圖に親が慾を渇いて無理押附けに嫁入らせるやうに思ふが、さうでは無いので、亀篠もマダいひ足りないところがある。實は恁ういふわけなんだ……』
と、眞事虚事――といふより殆んと出鱈目を都合の好いやうに辻褄を合はして、お前に一と言も話さないうちに恁う事がトン〳〵運んで――といふより先方で膳立てして、さア床の間の前へ坐つて杯をしろといふやうな鹽梅で、明日の晩の婿入も寐耳に水で俺も途方に暮れたが、何を云ふにも先方は陣代である、不承知だと云べば陣代の權力で役儀を召上げられるか、荘園家財を没收されて所拂ひにされるか、明日にも親子が路頭に迷ふ。そればかりぢや無い、信乃にも飛火してドンナ難儀な目を見るか計られない。こゝを能く分別して、お前が目を閉つてウンとさへ云つて呉れゝばお前の出世ばかりぢや無い、親も浮みあがる、信乃の立身の尻押もして呉れやうと、古狸の殊勝な顏をして三方四方からジワ〳〵と義理詰めにした。
が、濱路は襟に顏を埋めて、『堪忍して』とばかりでウンと云はなかつた。
『道理だ。アンナ人非人でもお前にして見れば大切な良人操を立てるのは道理だ。親甲斐もなく貞女を棄てさせようとするのは面目も無い。が、陣代の威光で押附けられたにしても、今更娘が不承知だとは俺の口からは云へない。』
と蟇六は腕こまぬいて、『と云つて……』と暫らく思案する風をしてゐたが、矢庭に肌を押廣げて、
『俺が死んで陳謝する。』
と云ひざま、刀をキラリと拔いて突立てようと。
『先ア待つて、』
『そんな短氣な、』
亀篠と濱路とは左右から腕に縋つて引留めた。
『放せ、放せ! 六十のこの皺腹を切って陣代へ申譯する。』
と蟇六は振りもぎらうとする。二人は左右から一生懸命に取縋つて放すまいとする。
『濱路』と亀篠はワザとオロ〳〵聲を振立つて、
『お父さんに腹切らしても、お前は強情を押通す氣かい? 不幸者奴が。』
見す〳〵狂言と解つてゐても濱路はウンと云はねばならなくなつて、泣きの涙で漸く納得した。
『納得して呉れるか』と蟇六は刀を持つ手を漸と緩めて、『これで俺の顏も立つ、家も安泰だ、お前も……』
『お前も出世だよ。』
と亀篠は俄に面を和げてイソ〳〵として、
『御陣代樣の奧方になりやア榮耀榮華は仕放題で、そリや〳〵大した出世だよ。』
夫婦は大變な御機嫌で、孝行者だとばかりに俄にチャホヤした。
五 虎を免かれて狼に攫はる
翌る朝は今夜が婿入といふので、蟇六の家は朝から風呂をたてゝ、全家がザンザめいてゐた。濱路は昨宵から病が一層重くなつて枕が上らなくなつた。が、蟇六夫婦は大噪ぎに噪いて立つたり坐つたりしてゐた。
こゝに憐れを留めたのは左母二郎である。首尾よく亀篠の頼みを仕終せたので濱路は約束通り宿の妻、お庭の櫻を手活の花にして瞻めるのもモウ近々のうちと、独りでニタ〳〵と悦に入つてゐると其日の朝、脊助が鍬を片手に夏蘿蔔を五六本脇に抱へて忙がしさうに行くのを見て呼留め、
『イヨウ先生、忙がしさうだナ。』
『忙がしいの何のッて、今夜は婿入があるだよ。』
『ドコに?』
『俺が邸にだ。』
『誰に婿を取るんだ?』
『誰にツて、俺がとこには娘ツ子は一人ほか無かつペエ。』
『ぢやア何かい、犬塚どのとかい?』
『犬塚の小旦那は昨日の朝滸我へ立たしやつた、お前さまも知つてるベエ。』
『それぢやア誰だ、誰が婿に来る?』
『陣代の簸上宮六樣だつてこんだ、犬塚の小旦那は馬鹿ア見たダ。鳶に油揚を引攫はれたやうなもんだ。』
左母二郎は呆氣に取られて暫らくは茫ツとした。鳶に攫はれたのは信乃で無くて左母二郎である、と思ふと俄に腸が沸えくり返るやうで、能くも沸え湯を飲ませやがつたと足摺りして口惜しがつた。信乃と婚禮するなら先口だから指を啣へて目を閉つてやるが、陣代と聞いちやア勘辨ならねエ。今夜の婚禮に斬込んで血の雨を降らせよう……とも思つたが萬一して先方の人數が多いと此方が危ねエ。それより神宮河の一件を露らしで狸親爺の面の皮を引剥いて臭飯を喰はして呉れよう……とも考へたが此方も荷担人で、肝腎の正物が此方の手に有るんちや、ヘタをやると此方が先へ喰エ込し。陣代といふ荒神樣が先方に附いてるんぢや、とんな手妻を遺つても消されてしまはねエとも限らねエ。此奴ア迂闊り出来ねエや。
そんな危ねエ目を見るよりか女を引攫つて陣代面に鼻を明かせ、蟇六の狸親爺に吠面を掻かせるのが早手廻しの腹癒になる。女だつて信乃といふ本役が目の前にブラ下つてゐたからこそ此方は鼻汁も引掛けられなかつたが、宮六の三枚目との面競べなら此方へ札が入るのは定だ。それでも靡かなけりや宿場へ叩き賣つて飲代にする。色と張つて失敗りやア慾と轉ぶのが当世だと、それから左母二郎はガラクタ世帯を賣りこかして高飛びをする支度をした。
そんな事とは知らない濱路、今宵人身御供となつて、猅々の祭壇に供へられる憂目を見るよりはと、朝から覚悟を定めてゐた。灯ともし近くなつた時、臥床に起直つて乱れた髪を梳上げるのを見た亀篠は死出の旅路の身嗜みとは知らずに、愈〻親念して今宵の祝言を擧げる支度の髪化粧と安心した。かれこれして初夜過くる頃、油斷を見済まして竊と忍び出し、土庫の楣間を抜けて背戸の裏庭の築山の蔭へ行き、築墻のほとりの松ケ枝に用意の細帯を投げ掛けて、過ぎ越し方を一時に憶出してサメ/〝\と涙に掻暮れた。
かゝる処へ築墻の崩れから忍込んで、抜足差足樹立を傳ひ、樹下を潜つて伺ひ寄つたのは左母二郎であつた。猅々の祭壇を遁れて再び狐に覘はれてるとは知らない濱路は、産みの親を眷かしみ言號の夫を戀しがつて身の薄命を欺き悲むを、夜目に透かして左母二郎は濱路と知つて肩を縮めて躊躇いだ。こゝで出会うとは天の與へと暫らく身を潜めて容子を窺ひつゝ、今宵の祝言をするが嫌さの覚悟とは知れてるが、操を立てるのは信乃の爲めか自分のためかと思ひ惑うて自問自答し、どうやら自分への心中立てと身勝手に己惚れて身柱元からゾク〳〵して来た。
濱路はやがて細帯の端に縋つてアワヤ首をつらうとした時、ドツコイ待つたと左母ニ郎、うしろから羽交締めして無圖と抱留め、驚き騒ぐ耳の端へ口を当て、
『左母だ、左母だ。』
と私言くと、濱路は喫驚、汚らはしいと力一杯突飛ばした。今の今まで自分のための心中立てと自惚れてゐたのが暗に相違したので、破れかぶれと猿臂を伸ばして抱縮め、矢庭に手拭啣ませて早速の猿轡、小脇に引抱へてヒラリと登る松ケ枝傳うて築墻を飛下りざまに、闇に紛れて何処ともなく消失せてしまつた。
暫らくすると家内は俄に騒ぎ出した。庖厨の準備も書院の飾りつけも出来たので、婿どのの見えるのも最う一と晌と迫つたので、徐々花嫁に支度をさせるツモりで亀篠が行つて見ると、濱路の臥床は藻抜けの壳だつた。亀篠は喫驚して、『大変、大変!』と金切聲を振搾つたのて、蟇六は足を空に飛んで来て、それツ、厠へ行つて見ろ、土藏を見て来い、浴室にはゐないかと、隅から隅まで捜したが影も形も見えなかつた。急いで庭へ下りて家の周圍を紙燭を照らして一と過りしてやがて背戸の築山の蔭へ廻つて見ると、松ケ枝に細帯が下つてゐで墻地を越えて逃出した痕跡があるのを發見して、蟇六も亀篠も尻餅ついて腰を抜かした。
が、濱路が單身で逃げたとは思はれない。信乃か左母二かドチラかと、急いで左母ニの容子を見せにやると、左母二の家は空家同然と飛んで歸つて報告したから、左母二に定つた、それツ追駈けろ、遠くは行くまい、お前は東、お前は西、襃美の金は望み次第と、蟇六夫婦は赤くなつたり青くなつたりして叫き散らしかた。
かゝる処へヒヨツコリ顔を出したのは神宮河の川狩に傭つた船頭土太郎である。賭博に負まけてスツテンテンになつたので、去ぬる日の辛労銭の不足を強請りに来たのを見て蟇六は、イヽところへ来た、實は今、娘が家出して大騒動の眞最中、対手の男はお前も知つてる浪人者の左母二郎、全家總出で追手を掛けさしたがお前が来たのは何より幸ひ、直ぐ追駈けて呉れ、娘を伴れて戻りさへすりや襃美の金は望み次第と迫き立てれば、ニ言と聞かず土太郎は、オツト合點、そんなら今そこで賭博仲間の加太郎井太郎と駕籠賃の押問答しでゐた妙な野郎が左母ニ郎で、駕籠の中なが嬢さんに違エねエ、能うがす、野郎をトツちめて直く嬢さんを取戻して来やす、行手は正しく礫川から本郷坂と、蟇六が用意に呉れた一刀腰にボツ込みて韋駄天走りに追駈けて行つた。

