読書ざんまいよせい(066)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(008)

第二章 明治の唯物論者

  第一節 なかえ・ちょうみん(中江兆民)

      一 「一年有半」

一年有半いちねんゆうはんとは、中江兆民の代表的な著述のなかの一つの名まえ﹅﹅である。兆民は明治三十四年(一九〇一)十二月十三日になくなったのであるが、それから九ヵ月ほどまえ、つまり三月の終りころのこと、かねてから悪かった喉頭の病気が、癌種だとわかった。兆民は医者にむかって、これから死ぬるまでどのくらいの日月があるか、とたずねた。すると、「一年半、よく養生して二年」だという答えを得た。彼はそのとき、「せいぜい五、六か月だろうと思っていたが、一年とは私にとって寿命の豊年である」とおもった。この宜告があってから、ひとつの著述が書きはじめられた。その本は四か月間くらいでいちおう結了になった。その本に、兆民は『一年有半』という書名をつけたのである。
 『一年有半』の第三節のところに、こう書いてある。「一年半、諸君は短促たんそくなりと曰はん、〔短促とは短くちぢまっていること〕、余はきはめて悠久なりと曰ふ、若しみじかしと曰はんと欲せば、十年もみじかきなり、五十年も短なり、百年も短なり、夫れ生時せいじ限り有りて死後限り無し、限り有るを以て限り無きに足らずや、鳴呼所謂一年半も無也、五十年百年も無也、即ち我儕は是れ、虚無海上一虚舟」。この短い文章のなかに、中江兆民というひとりの人間がまことによく、描き出されている。彼の持ちまえの負けじ魂も出ていることもちろんだが、それよりも、生きていく一刻、生きていく一瞬を、彼くらい「優に利用した」「楽しんだ」人は稀だと思われるからである。彼の一年有半(じつは九ヵ月だが)ほど濃縮に生きぬかれた例も少なかろう。このあいだに『一年有半』はもちろん、『無神無霊魂』という、明治・大正・昭和を通じて他に類例のない哲学書が書かれている。病気の苦痛、それにともなう人生観、これらが書きとめられている寸鉄ふう﹅﹅の文章をみても、彼の一年有半が、どのくらい緊縮的なものだったかが察せられる。つきのような一節がある。

「余の癌種、即ち一年半は如何の状を為す、彼れは徐ろに彼れの寸法を以て進めり、故に余も亦余の寸法を以て徐々に進みて余の一年半を記述しつつ有り、一の一年半は疾也、余に非ざる也、他の一年半は日記也、是れ余也」「疾病なる一年半、頃日少しく歩を進めたるものの如く、頸頭の塊物漸く大を成し、喉頭極めて緊迫を覚へ、夜間は眠り得るも昼間は安眠すること能はず、其食に対する毎に、或は嚥下すること能はざる可しと思ふこと有るも、実際未だ然らず、雞子二、三個、粥二碗、殽二礫、牛潼一日四合は之を摂取して違ふこと無し、是れ今日猶ほ能く余の一年半を録する所以なり」

 またある一節には、

「此両三日来炎威頗る加はり、朝日新聞に九十度を報ぜり、其れが為めにや余の一年半は、此際大に歩を進めたるが如き感有り、頸上の塊物俄然大を成し大に喉を圧し、裡面の腫物も亦部位を拡と為し(誰にても勿論二回以上患ふる理なし)経験無きが故に自ら明にすること能はざるも、食道の否塞する甚だ遠からざるを覚ふ」「余明治の社会に於て常に甚だ不満なり、故に筆を取れば筆を以て攻撃し、口を開けば、詬罵を以て之を迎ふ、今や喉頭悪腫を獲て医治無く、手を拱して終焉を待つ、或は社会の罰を蒙りて爾るには非ざる耶、呵呵」

 このように「一年有半」を見つめ続けるあいだに、当時の日本の政治の現状についてひとつひとつ鋭い批判をなげつけている。兆民の発病の前年のころから、日本の政治は大きな転換をなしとげつつあった。自由党の歴史につながる政治力は弱まり、伊藤博文を首領とした立憲政友会ができ、その後ながく日本の政治を規定するところのあった政友会の内閣ができていた。それでもしかし、国民は「立憲内閣」だという幻影をもっていた。兆民のいわゆる「微弱なる立憲内閣」がそれなのであるが、その内閣が倒れて、桂太郎の内閣が成立したのも、彼の「一年余」の間におこっている。兆民は、桂内閣はその成立だけですでに憲法を政治の基本とする人々に対して「宣戦布告」をしたも同様だと批評している。このとき兆民は、「星亨、健在なりや、犬養毅、健在なりや」といって、民間政治家のなかに人物のいないのをなげている。その星亨が東京市の市会で伊庭想太郎のために刺されて即死した事件(六月)も、兆民の病中のことだし、やや前に戻るが、その年四月の、日本ではじめての社会主義政党である社会民主党の結成片山潜、幸徳秋水、木下尚江、川上清、堺利彦、安部磯雄、石川三四郎、吉川守園、西川光二郎等)、五月その党の綱領発表と同時におこなわれた結社禁止のことも、また「一年余」のなかの出来ごとであった。『一年有半』が公刊されたとき、日本の新聞や雑誌が前後三七社がそれぞれ長い批評を書いたことをみても、兆民の「一年余」は彼にとって「悠久」であったといえるのである。
 病気の進行が急になったのを自覚した兆民は、「余も亦歩調を迅速にし、一頁にても多く起稿し、一人にても多く罵倒し、一事にても多く破壊し去ることを求む可し」といっていて、彼の生命感はいっそう緊張し、いっそう燃焼している。私たちに見落されてならないのは、兆民が、自然法則的に推移する自然のなかの出来ごとと兆民自身とをいつも離して考えていること、また言いかえれば、いつもこの二つを一緒に把えていることである。さきに見たように、彼は癌という肉体のなかの一種の自然的組織変化をば「彼」と呼んで、兆民自身のことを「余」と呼んでいる。「彼」と「余」とが一つになって戦っている。頸頭の塊物、つまり自然物の生成﹅﹅と悩みつづける自分﹅﹅とを対立させている。この意識は彼にとって苦痛このうえないものであったろうが、しかし、癌も苦痛も、正義も愛慾も、すべてを虚無海上にうかぶ虚舟と観去みさる、ひとつの世界観が彼をつつみ、彼を慰めたこともあったろう。おそらく、そうしたところに彼の唯物論的世界観があったろうとおもわれる。
『一年有半』の読者は、この書のなかでなんどか兆民の罵倒、罵詈のことばをきくのである。
「天も亦余の罵詈癖の頑なるに驚く」だろうといっている。もちろん、彼にとって罵倒は批判であって、政治家罵倒は政治批判である。彼にとって精神罵倒は精神浄化である。彼は星亨の刺殺事件のときに、「暗殺蓋し必要欠く可らずと謂ふ可き耶」とさえいっている。これもまた批判であり検覈けんかくである。このような、ちょっとみては矯激にすぎるような言い方、仕方は彼の性格のためだと簡単にきめることは正しくない。彼の教養のひろさ、彼の思索の深さ、彼の感情の純粋さ(徳富蘇峰はこの点を強調して称揚した)、彼のイデオロギーの正かく﹅﹅さ、これらの総計が、明治の二十年と三十年代の日本の現実との間のいわば﹅﹅﹅大きな落差、大きな懸隔が、兆民にああした言動をとらせたのだというべきである。外国に求めた兆民の知識は主としてフランス語を通じてであったが、フランスの政情、フランスの文学、フランスの哲学思想については、彼は強い自信をもっていた。フランス滞在中、『孟子』『文章軌範』『外史』などの仏訳を試みたということもつたえられている。彼の思索の深さについては、あとで触れるが、『無神無霊魂』一冊の内容がいや応なく私たちを驚嘆させる。彼のイデオロギーが正かく﹅﹅であったかどうかは、彼のなくなった後の日本の半世紀の政治的推移が私たちに教えてくれている。彼の感情の純粋さについては、つぎの小話しょうわが、私たちにむしろ日本人の性格を指摘しつつ、私たちに納得なっとくを強いてすらいる。あるとき、幸徳秋水と兆民との対談のなかでフランス革命の話が出た。秋水が「仏国革命は千古の偉業だが、あのいたましさはかなわない」というと、兆民は「私の立場は革命党だ。だが、もし私がルイ十六世が眼のあたり絞頸台にあげられるのを見たら、私は走りよって剣手を撞き倒し、ルイ王を擁して逃がしたろう」と答えた。後に秋水は「先生の多血多感、忍ぶ能はざるの人なり」と、追憶して言っている。明治時代では日本はいわゆる「熱血漢」を多数、政治のなかに送りこんだが、兆民もその一人である。徳富蘇峰のつぎの評はあたっている。「真面目な人なり。常識の人なり。夫として其妻に真実に、父として其子に慈愛に、友として其交る所に忠なるの人也。但だ皮下余りに血熱し、眼底余りに涙多く、腹黒きが如くにして、極めて初心、面皮硬きに似て頗る薄く、自ら濁世の風波に触るるに堪へざるの身を以て、強て之を凌がんと欲してあたあたはず。為めに時に酒を仮り、時に奇言を籍り、以て其自ら世に容ざれる悶を排せんと試みたるのみ」
 秋水は兆民の文章を批評して、「瓢逸奇突、常に一種の異彩を放つて、尋常に異なる」ものがあるといったが、そうした風格といったようなものは、兆民が禅に関心をもって、いわゆる方外(世俗より外の人たちつまり禅僧)の人と交際し、好んで仏典や語録を読んでいた(たとえば『碧巌録』は愛読の書であった)ことと、関係があったにちがいない。兆民の病中の詩のなかにつぎの句がある。「夢覚尋思時一笑、病魔雖◦ 有◦ 兆◦ 民無」。この有兆民の圏点<◦とした>は兆民自身の付したものだと、この詩を贈られた秋水は書きのこしている。
 私はかつて、兆民の略歴と著述を『日本哲学全書』の第六巻でのべたことがある。それをここに参考のために、多少の重複はあるが、あげておきたい。

中江篤介は弘化四年(一八四七年)に土佐、高知県に生まれた。
 土佐は又明治初年における自由民権運動の発祥地であった。兆民の生涯は、フランス系統の自由主義を貫徹せんが為の苦難、受難の歴史であった。加藤弘之の高位高官生活と較べてみると、兆民の生涯を蔽う不遇と貧困とはいよいよ明瞭となる。彼は「東洋のルソー」と称せられたが、これは彼がルソーの『民約論』を翻訳して非常な影響を当時の日本の社会・政治・思想界に与えたことに原因がある。
 篤介は幼名を竹馬と称し、長じて、青陵、秋水、南海仙漁、木強生、兆民等と号した。十三歳で父を亡くした後、荻原三生、細川潤次郎に就いて蘭学を学び、慶応元年十九歳の時、高知藩の留学生として長崎に行き、平井義十郎にフランス語の指導を受け、二年の後江戸に出て村上英俊に師事したが放逸の為破門せられた。神戸、大阪開港の時仏国領事に従って大阪に赴き、転じて江戸に移り箕作麟祥の門に入った。明治初年福地源一郎の日新社の塾頭に任ぜられた事もある。明治四年政府留学生としてフランスに留学し(後藤象二郎、板垣退助の推挽に依るものであった)、主として哲学、史学、文学を修め、西園寺公望、光妙寺三郎、今村和郎、福田乾一、声が漸次たかまって来た。留学中に『孟子』『文章軌範』『日本外史』等を翻訳したとも伝えられるが確実な資料がない。帰朝後元老院書記官に任ぜられたのであったが、幹事陸奥宗光と意見が一致せずして罷め、外国語学校長の椅子に就いたが間もなくそれも辞し、番町に私塾を開いて政治、法律、歴史、哲学等の諸科を講じた。前後、この門に学んだ者は二千余人に上ったとのことである。
 その当時においても彼は岡松甕谷の門に入り漢文を学んだ。甕谷は明治文学史上森田思軒と並んで漢文に優れていたことは広く人の認めるところである。
 明治十四年三月西園寺公望が『東洋自由新聞』を創刊するに際して入社したが、翌年四月同紙廃刊後十五年二月『政理叢談』を刊行(十七年まで続刊、三月(五六号)より『欧米政学雑誌』と改題)、同十五年六月『自由新聞』(十八年三月廃刊)を発行して急進的なる自由民権説を鼓吹した。
 明治二十年保安条例に遭って東京から退去を命ぜられ、大阪に走って、栗原亮一、宮崎富要、寺田寛等と協力して『東雲新聞』(二十一年)を起し主筆となったが永続しなかった。二十一年赦されて東京に帰り、後藤象二郎の援助を得て『政論』を刊行したが間もなく後藤と政治上対立したので袂別し、自ら『立憲自由新聞』を二十四年一月に創刊した。二十三年、彼は第一議会に大阪水平社に擁せられて当選、代議士となったが、予算八百万円削減問題に関し自由党の土佐派が政府の意を迎えて、その自由主義を伊藤博文等の政治運動の中に解消した事に憤激し、再び議会に出るを欲しなかった。当時又彼の『経倫』『京都活眼新聞』『民権新聞』(『立憲自由新聞』の改題)等を起して、改進、自由両党の連合を説き、政党運動にエポックな影響を与えたのも当時であった。
 その後彼は政界、文壇から去って実業に専心する様になった。
「今の政界に立つて銕面なる藩閥政府を敵手にし、如何に筆舌を爛して論議すればとて、中々捗の行くことに非らず。さらでも貧乏なる政党員が運動の不生産消費は、窮極する所、餓死するか自殺するか、左なくば節を抂げて説を売り権家豪紳に頣使せられるより外なきに至る。衆多の人間は節義の為めに餓死する程強硬なるものに非ず、(中略)金なくして何事も出来難し、予は久しく蛙鳴蝉噪の為す無きに倦む、政海のこと、我是れより絶えて関せざるべし」とは兆民が当時幸徳秋水に語った心境である。二十五年彼は小樽に行き『北門新報』の主筆となったが、間もなく罷めて札幌に紙店を開き、山林業にも手を染めたが失敗した。東京に出て実業に従事したが、その詳細は判然しない。明治二十三年の秋『毎夕新聞』の主筆に招かれ、次いで国民同盟会に投じて再び政治的関係を結び、彼の生涯の敵と目した藩閥と戦ったが、同年十一月頃より喉頭癌を病み、翌三十四年九月泉州堺に病を養うも効なく、九月帰京し、小石川武島町の自邸で『続一年有半』を執筆し、十月に出版し、十二月遂に長逝、無宗教葬をする事を遺言した。享年五十五歳。
 猶お兆民の生涯について知ろうとする人は、幸徳秋水著『兆民先生』(三十五年)を読むといい。彼の著述は政治的関心が全体を貫いている。彼の著述及び訳述を挙げれば次の如くである。

孛国財産相続法 仏・ジョゼフ著         明治十年
民約訳解 ルソー著漢訳             同 十五年
仏国訴訟法原論 仏・ボニエー著         同 十一―二年
非開化論 仏・ルソー著             同 十六年
理学沿革史 仏・アルフレッド・フーイヱー著   同 十九年
理学鉤玄                    同 十九年
革命前法朗西二世紀事              同 十九年
平民の目ざまし 一名国会の心得         同 二十年
三酔人経倫問答                 同 二十一年
国会論                     同 二十一年
選挙人の目ざまし                同 二十三年
四民の目ざまし                 同 二十五年
憂世概言                    同 二十三年
道徳大原論 ショーペンハウエル著        同 二十七年
一年有半                    同 三十四年
続一年有半                   同 三十四年
警世放言                    同 三十五年

 その他『兆民文集』(幸徳秋水編・明治四十二年)、『中江兆民集』(改造文庫・昭和四年)、『中江兆民篇』(『現代日本文学全集』第三九巻・五年)、『明治文化全集』第七巻「政治篇」等を見るべきである。

    二 ナカエニスム(其の一)

 中江兆民の唯物論の思想は『無神無霊魂』一冊のうちに要約されて出ている。その本の終りのところに、「他日、幸に其の人を得て、此の間より一のナカエニスムを組織することが有るならば、著者に取りて本懐の至りである」とかかれている。「此の間」とは、右の著述のなかで述べられている哲学思想を指すものととれる。以下、兆民の哲学思想をナカエニスムと呼ぶことにしよう。哲学についての兆民の自信の強さは、『一年有半』のなかに明らかに見えている。私たちはつぎの文章をよんでみることにしよう(送り仮名や句点を入れてよみやすくした)。

「我が日本、古より今に至るまで、哲学なし。本居・篤胤の徒は古陵を探り、古辞を修むる一種の考古家に過ぎず。天地惟命の理に至りては瞢焉たり。仁斎・徂徠の徒、経説に就き新意を出せしことあるも、要は、経学者たるのみ。唯仏教僧中創意を発して、開山作仏の功を遂げたるもの無きに非ざるも、是れ終に宗教家範囲の事にて、純然たる哲学に非ず。近頃は加藤某〔加藤弘之をさす〕、井上某〔井上哲次郎をさす〕自ら標榜して哲学家と為し、世人も亦或は之を許すと雖も、其の実は、己れが学習せし所の泰西某々の論説を其儘に輸入し、所謂こんろん崑崙に箇の棗を呑めるもの、哲学者と称するに足らず」

 兆民は、当時のひとびとが哲学者だと考えそうな学者をあげて、それらをひとつひとつ否定し、「古より今に至るまで、哲学なし」と言っている。日本に哲学会なる会合ができて十年、日本の大学に哲学講座ができて十年であり、日本出版の哲学書はすでに数十冊も出ていた当時、兆民「哲学なし」と断定した。してみると、兆民はどういう学説や思想の組織を哲学と考えていたのであろうか。兆民は主としてフランス人のかいた哲学書にもとついて研究をすすめたとおもえるが、そしてまた唯物論的傾向はすでに明治十九年刊行の訳書『理学玄鉤(一)』註(1)のころから彼のなかに十分に芽ばえていたとおもえるが、十八世紀のフランスの唯物論者のディドロによって理解されていたような哲学(即ち、人間の生産活動や技術や、それらを通じて知られる自然界、こういったものと人間の知性とをつねに照合させつつ、思索するというやり方の哲学)の性格が、ナカエニスムのなかに出ているかというと、そうはできていない。むしろ、かなり古風なところがある。たとえば、兆民は哲学のことを「床の間の懸物かけもの」のようにみているところがある。もちろん、飾りというのではなくて、「国民の品位」だという意味ではある。へーゲルが国に哲学メタフィジクがないのは殿堂のなかに本尊のないようなものだといったのと通じるところさえある。懸物といっても、それは「カントやデカルトや実に独仏の誇りなり」といった風のものをさすのである。兆民は青年に語りかけて、「諸君の志を伸べんと要せば政治を措て之を哲学に求めよ、蓋し哲学を以て、政治を打破する是れなり」といっているし、また、「今後に要する所は、豪傑的偉人よりも哲学的偉人を得るに在り」ともいっている。こうしたところは、プラトンにもあった「政治―宗教的改革風 das politisch-religiöse Reformatorentum」が、彼のなかにも強い要求としてあった。そういう意味で古風なところがあったといえよう。しかし、彼の哲学が唯物論であったことはきわめて明瞭である。
 私たちがナカエスムを古風だといられないものが、兆民のなかにある。私たちは彼の思索のうちに驚くべきものを発見する。彼が哲学する(フィロソフィーレン)ことの性格には、かえってヨーロッパに求められないものさえある。つぎのような意見註(2)を、これまでの日本の哲学者の誰が吐き得たろうかといってみたくなるほどである。

「プラトンやプロティノス、デカルトやライプニッツ、みな宏遠達識で、すぐれた人ではあるが、知らず識らずのあいだに、自分の死後がどうなるかを考慮し、自分らと同種類の動物つまり人類の利益にいつか心をひかれている。そのため天道、地獄、唯一神、精神不滅など、煙のような、いや、煙ならば現在あるものでもあろうが、これらのものはただ言語の上の泡沫でしかない。こうしたことを自省しないで、立派な著述をし、臆面もなく論説しているのは、まことに笑止千万だ。多くの欧米の学者は、どれも母から吸いとる乳と同じように、身体の血管にひろくゆきわたっている﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅(「浹洽して居る」)迷信によって支配せられている。だから、だれかが無神とか無精魂とかいえば、大きな罪でも犯したかのように思っている。笑止至極である」

 こうしてみると、かえってヨーロッパの近代の哲学者が兆民によってその欠点を指摘せられ、批判せられていることになる。F・べーコンが哲学する者に対する第一の警告としてあげたあの四つのイドーラ(idola)、さしむきそのうちの第一のイドーラプリムス・イドーラムすなわち人間本性そのもののうちに(in natura humona)ある人間の迷い(notiones falsae)につられて哲学してはいけないことを、兆民はプラトンやライプニッツをわらいながら警告している。ヨーロッパの哲学はキリスト教を離れては理解できないことを、私たちが少しでも考えてみれば、兆民こそ達識の哲学者であることがわかる。
 兆民のそうした哲学思想からすると、彼が『無神無霊魂』の冒頭に哲学することの根本性格をつぎのようにいっているのも、当然である。

「理学すなわち世の中の人のいわゆる哲学的な事柄を研究するのには、五尺のからだのうちに跼蹐していては、到底できない。たとえできることはできても、その言うところが知らず識らずの間に、どれもみな交渉﹅﹅が、無くならざるを得ない﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅。人類ということに局限されて居てもいけない、一八里の雰囲気に局限されて居ても、太陽系の内に局限されて居てもいけない。いったい空間といい、時間といい、世界といい、どれもみな一つしかないもので、どんなに短かせまい想像力をもって想像するにしても、これらの空間や時間や世界に始め﹅﹅の有るべき理がない。また上とか下とか、東とか西とか、極限のある理がない。それなのに、五尺のからだ、人類、十八里の雰囲気といったものの中に跼蹐して居て、そのうえ、自分の利害や希望やに拘束されていて、そのため、他の鳥獣虫魚などの動物を疎外し軽蔑して、ただ人間という動物だけを推定してきめ、そのうえで思索をする(『動物のみを割出しにして考索する』)。そのために、神が存在するとし、精神は不滅だとし、死後も各自の霊魂がつづくものだとしている。人間という一個の動物に好都合の論説をならべたてて、非論理きわまる、非哲学きわまる囈語うわごとをいっていることになるのだ。……そのようなことで、理学の厳しさというもの(『荘厳』)をどうすればいいのだ。冷然として真理、これだけを視ればよい哲学者(『冷々然道理是れ視る可き哲学者』)たる資格はいったいどうなるのだ。五十五年も生き、読書もし、理義もわかっていて、神が存在する、霊魂は不滅だといったような囈語を吐く勇気は、私は不幸にももっていないのだ。註(3)」(十八里の雰囲気とは、当時、地球のうえ十八里くらいを大気のある範囲とした。)

 兆民にとって哲学とは哲学とは、必ずしもヨーロッパからその模範のとられるものでもないし、もちろん当時の日本の哲学者から学ばれるものでもなかった。註(4)兆民ひとりの思索の場、これこそがナカエニスムである。彼の思索の場は、五尺のからだはもちろん人間そのものにも、この太陽系にも、すべての天体にも局限されない。自分の位置を、端的に時間と空間の真中まんなかに(「もし無始で無終で、無辺で、無限の物に真中ということがあるなら」)その真中に置いて、片寄った立場をいっさい眼中におかないで、また先人の学説をぜんぜん意に介しないで、独自の見地を立てて、自分の考えるところを主張する。これが『無神無霊魂』の、いわば立場のない立場である。
 兆民がその立場を語っているとき、彼にとって重要な命題は、「私ははっきりと、無仏、無神、無霊魂、すなわち単純なる物質的学説を主張する」ことであった。彼は「殺風景にあるのが、理学者の義務」だといった。さらに「理学者の資格」だともいった。兆民の『無神無霊魂』のなかの「神」についての節と「霊魂」の節のうちに、もっともよく彼の唯物論思想が出ていると私は考えるので、それらの節を、前と同じように、現代文になおして挙げてみたい。まず神について、つぎに霊について。
       神について
 兆民はまず多神について、ついで一神について、主宰神について、創造神について、汎神の思想について、簡単であるが逐一のべ、それらは哲学として殆んど問題にならないといって、論拠を示し否定している。この中の汎神思想は、兆民の用語では、「神物同体説」と呼ばれている。日本のその後の(つまり兆民がなくなった一九〇一年後の)インテリゲンチアの宗教思想の傾向からいえぱ、兆民は彼の神物同体説についてもっと論述すべきであったろう。というのは、二十世紀はじめの日本の思想界では、仏教およびキリスト教、さらにヨーロッパの神秘的な文学論をも容れて、汎神論的な傾向が強まったから。たとえば綱島梁川の「見神」の思想が公けにされたのは一九〇五年だし、内村鑑三の「見神の有無」は一九〇六年に書かれている。その他、清沢満之の精神主義の運動にしても、その根底には創造神は必ずしも一神思想ではなかった。日本では仏教がはっきりと主宰や創造神をたてぬから、或るキリスト教徒たちを別にすれば、知識階級の宗教思想には汎神論的な傾向は強かった。鑑三が「余は神を見たり、然り、日日彼を見つつあり、余は春来日毎に青草の萌え出るを見るなり、余は冬の夜、オライオン星が剣を帯びて天空を馳け走るを見るなり、……余は不可思議なる自己以外の意志が余の生涯に於て遂行されつつあるを見るなり」というような感懐をもらすなら、これに対する共感者はまことに多いとするのが、当っていよう。今日でも唯物論に対する反対は案外にこの方向にあるとみてよいであろう。とにかくに、兆民は彼の神物同体説についてはもっと詳しく批判すべきであった。しかし、兆民は簡潔につぎのように、問題を明瞭にしている。

「古代のギリシアのある学者たちをはじめ、オランダのスピノザ、ドイツのヘーゲルなぞは、すべて神物同体説に属している。神物同体とは、その立場の人々にしたがうと、大界の大理たいりはすなわち神である、すべてこの森羅万象はただ唯一神の発現である。人間もまた神の段片だんぺんである、世界万有をべたもの、それが神であることになっているこの説をなす人々は、ただ神だとはいうけれど、無神論と異らない。なぜなら、その神とは、無為無我であって、ほんとうはただ自然の道理というのに過きない。ただ宗教家や宗教に根本的に影響せられている哲学者が、神物同体説を異端として排斥しているのである。排斥するのは当りまえで、宗教家の信ずる唯一神説の神はまさしく主宰神に外ならぬのだから」

 兆民が、「無辺無限」な世界について思索して、「世界は無始無終である。すなわち悠久の大有たいゆうである、無辺無極である。すなわち博広の大有である」というのを聞くとき、人は或いは汎神論思想とすれすれであると、批評するかも知れない。しかし、兆民はほとんど必ずこうしたとき、ただちに諸元素の不滅をいってはいるが、決してそれに「神」なる心象を近よらせない、厳として拒斥している。ニュートンは彼の主著『プリンキピア』のなかで、空間のすべての粒子が恒久である(cum unaquaeque epatii particia stt semper)ことを述べるとともに、それ(神)は恒久に持続し、かつ到るところ現にある(durat semper, & adest ubique)ことが、また、永遠から永遠に持続し、無限から無限へと現存することが、そしていっさいを支配する(comnia regit)ことを記している。しかし、ニュートンはそこで、神が宇宙の支配者(cominus)であることを、書き落していない。だが、今日私たちは自然科学において創造的な業績をあげたひとびとから、こうした神の思想を聞くであろうか。すべては時代の相違、社会の相違からきている。真に何を語り合い、何に共鳴するかは、その時代の社会が規定することは、否定できない。兆民は早くもその社会を見たのみである。

  
 註(1) 『理学鉤玄』には「精神アーム」の章や「無神の説」の章があって、そこで唯物論思想は決定的に押し出されている。訳本ではあるが、兆民は当時とにかくこのような訳書をつくって、これが哲学(「理学」)において真理(「玄」)を探りとる(「鉤き」とる)ことだと考え、それを実行したのである。
   (2) 以下、兆民の文章をところどころ現代文になおして引用したい。固有名詞も、ライプニットをライプニッツ、プロタンをプロティノスというように変えることにする。
   (3) 『一年有半』(つまり『無神無霊魂』の第一章)は『日本哲学全書』の西洋哲学篇の二六九―二七一頁に、『日本哲学思想全書』では第五巻の「唯物論篇」に収載してある。
   (4) この問題については、第二章への「補」のところの「井上哲次郎」を参照。

    三 ナカエニスム(その二)

       霊魂について
 「霊魂とは何であろう、―――眼が物を見る、耳がものを聞く、鼻がものを嗅き口がものを食べる、手がものをつかみ足が歩行する、こうしたことを考えてみると、じつに不思議ではないか。いわんや想像の力や記憶の力となると、いよいよもって不思議だ。それにまた人間が国家とか社会をつくってゆく力は、いったい何者なにものの力といったらいいのか。学問をおこし、それを発展させ、未開のものを文明へとすすめてゆく。こうしたことは、なんとしても精神力といわねばなるまい。いくつかの元素からできているといわれていて、いわば一箇の肉塊である。そうしてみると、霊妙な精神が主であるべきで、肉塊にすきぬ身体は奴隷とすることが当っている―――
  こうしたことがしばしば言われている。しかしこういう考えこそ、実は謬論のもとである。身体が本体で、精神は本体より出てくる作用だ。例えば、炭と焔、薪と火の如き関係である。漆園叟註(1)はこの理をよく見ていた。もろもろの元素が一時ひとつになっているのが身体であって、身体の作用が精神である。そうである限り、身体がもとの元素に還り、分離し、つまり人が死んだとなれば、作用にすぎぬ精神はそのとき消えてしまうのが道理ではないか。炭が灰になり、薪が燃えてしまえぱ、焔と灰とは同時に滅してゆくのと別にかわりはない。身体が分離してしまっているのにまだ精神が存在するというのでは、背理もあまりにひどいではないか。宗教に毒せられ(「癮黴せられ」)ている人はとにかく、自分の死後を勝手に推定しない健康な頭脳の人ならば、そのような背理を受け入れる筈はない。唐辛とうがらしは無くなっていても辛さは別に存在する、太鼓たいこは破れていてもまだ太鼓の鳴る鼕々とうとうたる音だけはのこっている―――こうしたことは理を思索する哲学者の主張し得ることであろうか。十七世紀より前のヨーロッパだったら、無神論を主張すれば惨酷な刑に処せられたのであるから、やむなく有神論を容れたという事情もあったことだろう。言論の自由ということがあたりまえになっている今日、精神が独り存在するというごときは、囈語たわごととしかとれない。
 だから、身体(「躯殻」)が本体だ。精神はその働きだ。身体がなくなれば魂(「精魂」)は同時に滅ぶのだ、―――もしそうなら人間のために無情なさけないことではないか―――きっと、反対者はそういうであろう。しかし、無情であろうと、真理ならどうしようもない。哲学のねらいは気やすめや手段であってはならない、慰めであってはならない。よし殺風景であろうと、露骨であろうと、自分自身の考える力と反対することは、どうにもならないではないか。
 もし宗教家や宗教に魅惑された哲学者が、精神なるものは身体からだのなかにあって、しかも身体から離れて、すなわち身体から独立して、あたかも人形遣にんぎょうつかいが人形を操るように、身体の主宰者となり、身体がいったん分離し、死んでしまっても、精神は別に存在するとするなら、私はこうたずねるほかはない。身体のなかに精神がある間は、いったい精神は身体のどの位置を占めていればよいのか。心臓のなかにか、それとも胃腸のなかにか。これではまるで滑稽なことではないか。これらの内臓はすべて細胞からできているのだが、もしそうだったら、精神は幾千万億の細片さいへんとなって、それらの細胞のなかに仮りの居場所いばしょ(「寓居」)をもっていることにでもなるのであるか。
 ―――精神は無形である、別に実質のあるものではない――― こういった反対論がしばしば出るが、それも無意味だ。無形とは、われわれの耳目に触れない、いや、たとえ触れていてもわれわれの気づき得ないものをいうのではないか。たとえば、空気であるが、空気は科学の眼には有形、顕微鏡には有形で人の眼には無形である。無形とはざっとこんなことであろう。実質としてはあるが、われわれがそれに接触しても気づかないだけのことで、その実はやはり有るのである。もし精神とい主宰だというのは、果して穏当おんとうな言い方だろうか。
 無形といわれるものは、今日までの科学でわかっていないか、それとも科学では知られていても肉体に感受せられないものか、そうしたことをいっているのである。たとえば、光や温度や電気などでも、科学がもっともっとすすめば、顕微鏡で見やぶってしまうかも知れないではないか〔今日では、まずそうなってしまったといってよい〕。精神といわれるものでも灰白色脳細胞の作用によって、それが働くたびに、く微細な分子が飛散しつつ有るかも知れないではないか。精神とは、身体のなかにある脳神経が、いってみればしこもりぶつかり合いたぎり合って(「絪縕いんうん摩盪まとうして」註(2))それがもとで視覚・聴覚・嗅覚・味覚もおこり、感覚・記憶・思考・意志決行ということもできている。そういうのを精神の力だと簡単に言ってのけるのではないか註(3)。このように考えても、決して理にもとりて人間の良心に怒らすことにはならぬではないか。
 兆民の当時の自然科学的な知識としては、化学元素の存在とその相互﹅﹅かんけいをもとにしてできていたもの以上ではなかった。彼は彼の『理学鉤玄』(一八八六年)のなかで、元素[エンマン]として六十五をあげているくらいで、アトム原子(彼ははじめは点子ともよんでいたが)についての知識は、ほとんど何ももっていなかったことは、むしろ当然である。
 癌を病んで、死期の近づくことを日々意識している彼としては、唯物論の骨子を語ろうとすれば、精神と肉体の問題にしぜん集中せねばならなかったであろう。彼に研究と思索との余裕があれば、唯物論思想を組織したことでもあったろう。彼は衣食の資を得るために、残るわずかの日数でも、医療のために『続一年有半』(『無神無霊魂』)の原稿をかかねばならなかった。したがって、叙述のことばは簡潔である。私たちは「躯殻の不滅」という一節のなかに次のような文章を見出すのである。ここではその文のままをあげよう。


「躯殻は本体で有る。……躯体、即ち実質、即ち元素は不朽不滅で有る。之れが作用たる精神こそ朽滅して跡を留めないので有る。是れは当然明白な道理で、太鼓が敗るれば鼕々とうとうの音絶へる。鐘が破るれば鍧々こうこうの声は止まる。而して其破敗した太鼓や鐘は、其後如何なる形状を為しても、如何に片や毀壊せられても、一分一厘滅滅すること無く、何処かで存在して居る。是れが物の本体と働らき即ち作用との別で有る。
「春首、路上南風に吹揚げらるる黄埃、彼れ如何に疎末に、如何に墓無く見られても、是れ又不朽不滅のもので有る。或は河水に混じ、或は塵頭てんとうの物品に附着し、時に随ふて処を変じても、必ず存在して決して消滅してゐないので有る。
「釈迦耶蘇の精魂は滅して已に久しきも、路上の馬糞は世界と共に悠々で有る。
「不朽不滅の語は、宗旨家の心に於ては如何に高尚に、如何に霊妙に、如何に不可思議かは知らないが、冷澹れいたんなる哲学者の心には、是れは凡そ実質註(4)〔の〕皆有する所ろの一資格で、実物中不朽不滅で無いものは一も無い。真空に等しい虚無の霊魂は、啻に不朽不滅で無い而巳ならず、始より成立ちて居無ないので有る。虚霊浮哲学士の言語的泡沫で有る。」

 さて、要約していえぱナカエニスムはどういう思想なのであろうか。
 それは、兆民自身のいうごとく、マテリアリスムスであることはまちがいない。しかし、彼のいうところは、「世界は唯々ただただ物質あるのみで、物質以外何等なんらの実在もあるものではない註(5)」ということで、しまい﹅﹅﹅なのであろうか。だから客観的に物質といわれるものがあるのだということで、ぜんぶ﹅﹅﹅なのであろうか。多くの批評家たちはたいていそうとった。けれども、兆民は実質の不滅をいいつづけたが註(6)、精神を否定したのではない。彼が主張したかったのは、「不滅としての精神はないので有る」ことである。このことを、彼は到るところで強調している。
 心と物、精神と物質、内界と外界、これらの対立を、人はときに主観と客観というひとつの対立でもって言い表わそうとする。兆民もまた、主客の対立をあげて説明をしている。このところに、兆民はたんに機械的な唯物論者でないことを明らかに示している。というのは、主観と客観との対立の間の関けいをしっかりつかんでいるからである。つぎに、それについての彼の論述をあげてみよう(文章は現代文になおしてある。註(7))。兆民は純粋に主観的なものもないし、純粋に客観的なものもないことを、言わんとしている。

「私たちのもっているアイディア(意象註(8))は殆んど全部、客観的で而も主観的である。純然たる主観的ということになると、精神病者の眼に幻出するいろいろの浮動物であるか、それとも宗教者たちのいわゆる不滅の霊魂のごときもので、実際にはその物はないにもかかわらず、或る人の精神に影出してくるものにすぎない。また、純然たる客観といわれるものも同様で、その物があって、しかし私たちの精神がまだそれを知り得ぬものをいうのでしかない。だから、そのようなものは存在するなどということも実はできぬ。いってみれば、光・温・電の分子のごときものは、その実例に入れてもよいであろう〔存在するとはされていても、くわしくは少しもわかっていないから〕。以上のような、純粋に主観的、純粋に客観的なものを別とすれば、その他のものはなんでも客観主観相映じて、あたかも向いあっている二つの鏡のようになっている。こう考えてこそ、強固なる学術というべきである」。「たいていの哲学者は、天姿てんし高邁こまんで、奇を好むから、従来考えられてきている学問のきまりにしたがうのをいさぎよしとしない。異をたて新奇をてら衒うて、思索をらすものである。いわば謬巧錯雑びゅうこうさくざつのことを言うものである。知らず識らず邪路じゃろに入り、出ることができなくなる。私たちはそのような弊害からぬけ出ようとしている」

 兆民は、ひとびとが主観的といいっぱなしにし、客観的といいっぱなしにするのを、警しめている。具体的なものは主観的であって而も客観的だと、まことに、ものの要点を押えている。彼はさらに節を改めて「主観・客観」を論ずるところで、こう要約している。「繰返していうが、世の中に純然主観的なものも実に少い。純然客観的なものも実に少い。万物みな客主きゃくしゅ相映じて、二つの鏡のあいだに何のさえぎるものもない(繊翳せんえい無きが如し)のである」
 これでみると、兆民は主観客観の弁証法的なつかまえ方を実行していたといわねばならない。主観的なものと客観的なものとの矛盾した対立のまんなか﹅﹅﹅を、何ものかであると、兆民はつかんでいる。へーゲルならば、そこには移行ユーバーガンクがある、媒介フェアミッテルンクがあると言い表わすであろうところを、兆民は相映じ合っていて「繊翳」ひとつないほどに融合していると、言い表わした。兆民はたんに機械的な唯物論者でなくて、現実を現実としてすなおに把えることに努力した人、弁証法の人だったと見るのが、正しいであろう。

 註(1) 漆園は荘子の別号
  註(2) 『易経』の繋辞のところに出ている「天地絪縕万物化醇」という文字をつかったとみえる。
  註(3) 私はここに、フランス一八世紀のラ・メトリーの『霊魂論』(“Traité de l’âme”) のなかに出ている説で、兆民の説(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・記憶・思考・意志などのおこることについての兆民の説)に相当するある個所を、あげてみるのもよかろうかとおもう。ラ・メトリーは、物質は動くものであること、自分で働く力(la puissance de se mouvoir par elle-même) をもつていること、物質には感覚および感じとる(sentiment) 能力が生じること、これらのことを、人はまず承認しなければならぬとしている。この三つのうちの最後のものには、どの唯物論者においても問題が集中するが、これらについては、ラ・メトリーは modification(様相化、変化)ということに注意している。こうしたことも、ヨーロッパの昔の聡明な人たち(ルクレティウスやガレヌスなど)から彼がヒントされたものらしいが、東洋の賢者たちが「万物化醇」というようにいったものも、それとけっきょくは遠くはない。ラ・メトリーはつぎのようなことをいっている。彼は肉体のなかに物質だけしか認めない。そして肝心の感覚能力であるが、これはこの肉体のなかにしか認められないことを、確認している。さて、ラ・メトリーのいうのはこうである。肉体のうちには物質しかないし、感じとる能力、意識する能力より外に仕方はない。そうしたすべての感じとる能力、意識する能力(toutes les connaissaces) の生ずることを、彼は長い長い時間にわたる習性(l’habituelle) に帰している。その習性とは同じことの繰り返しのことではない。さきの変化または様相化のおこなわれる繰り返しである。記憶、想像、理解、意向といったような、普通に人々が精神力といったものも、こうしておこってくると、説明する。(今日の自然科学による研究では、感じとることから、 あと﹅﹅、つまり記憶や想像や理解や意向の成立の説明はそれほど困難ではない。前世紀の終り頃ですらも、すでにL・ノワレなどかなり進んだ説を、とくにいかにして知性の働きが生じるかの説を提供している。これについては、Ludwig Noire; Das Werkzeug und seine Bedeutung für die Entwickelungsgeschichite der Menschheit, 1880.〔筆者訳『道具と人類の発展』岩波文庫〕を参照されるとよい。今後の研究で、目ぼしい発展のある点は、感覚器官における外部刺戟、生きていることの連続性、それの物質的構成としての生細胞、細胞核および細胞質、あらゆる種類の酵素、わけても細胞の通報伝達などについてであろう。これらは原子核物理学や量子理論の各分野の発展にともなって、興味ある発展が期待されているのが現状である)
ラ・メトリーは「動物の精気」(esprit annimal) ということをいっている。精気とはいうが、けっきょく物質だと、彼はみている。私たちの感覚器官(これが物質であることは誰も疑わない)に外界から何か物が刺戟を与えると、器官のところに入っている神経(これも同じく物質である)がゆすぶられ、そこで変化をうける(つまり兆民的にいうと、絪縕いんうん摩盪まとうする)。変化をうけても物質は物質である。ゆすぶられ、変化するものは脳へとつたわってゆく。それをラ・メトリーは、動物の精気と呼んでみたのである。このような考え﹅﹅のもとはローマの医学者ガレヌスにあったと、彼はいっているが、とにかくつたわるとか、変化するとか、ゆすぶられるとか、いってみても、すべて拡がりのある物質の変形にすぎぬと彼はみている。脳につたわるといっても、それは微細な物質がそこへ流れること以外ではない。脳中枢におこる興奮やアイディア(観念)にしても、それらは物質とまったく異質的のものとみる必要は何もない。アイディアはこまかいものだといっていいし、それと同じように物質のいくらこまかいことをも想定できるし、また想定したっていい。ラ・メトリーはこのように言っているが、しかし気とか魂ととれるものを根本に考えていることは否定されない。兆民においては、その点もっと徹底しているといえるであろう。
  註(4) 実質とはマテイエール物質のSubstance のことである。
  註(5) この文章は当時、兆民に反対し批評した井上哲次郎の文章である。
  註(6) 「今の太陽や地球や、億万年の後一旦解離するやも知れないのである。しかし解離したとて毫末も消滅するのでは無く、必ず又何処かに何種類かの物体を形成してゐるに違ひない。故に実質は都て不滅である。」
  註(7) 『無神無霊魂』(『続一年有半』)の第二章を参照。(『日本哲学全書』西洋哲学篇を参照。)
  註(8) 兆民には「意象」という用語がある。フランス語のイデ(idée) をうつした語であろう。イデもアイディアもたんに観念だけではなくて、物のかたち、すがた、つまり像の意味をもっている。

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