◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(008)
第二章 明治の唯物論者
第一節 なかえ・ちょうみん(中江兆民)
一 「一年有半」
一年有半とは、中江兆民の代表的な著述のなかの一つの名まえである。兆民は明治三十四年(一九〇一)十二月十三日になくなったのであるが、それから九ヵ月ほどまえ、つまり三月の終りころのこと、かねてから悪かった喉頭の病気が、癌種だとわかった。兆民は医者にむかって、これから死ぬるまでどのくらいの日月があるか、とたずねた。すると、「一年半、よく養生して二年」だという答えを得た。彼はそのとき、「せいぜい五、六か月だろうと思っていたが、一年とは私にとって寿命の豊年である」とおもった。この宜告があってから、ひとつの著述が書きはじめられた。その本は四か月間くらいでいちおう結了になった。その本に、兆民は『一年有半』という書名をつけたのである。
『一年有半』の第三節のところに、こう書いてある。「一年半、諸君は短促なりと曰はん、〔<二行割書>短促とは短くちぢまっていること<割書終わり>〕、余は極て悠久なりと曰ふ、若し短と曰はんと欲せば、十年も短なり、五十年も短なり、百年も短なり、夫れ生時限り有りて死後限り無し、限り有るを以て限り無きに足らずや、鳴呼所謂一年半も無也、五十年百年も無也、即ち我儕は是れ、虚無海上一虚舟」。この短い文章のなかに、中江兆民というひとりの人間がまことによく、描き出されている。彼の持ちまえの負けじ魂も出ていることもちろんだが、それよりも、生きていく一刻、生きていく一瞬を、彼くらい「優に利用した」「楽しんだ」人は稀だと思われるからである。彼の一年有半(じつは九ヵ月だが)ほど濃縮に生きぬかれた例も少なかろう。このあいだに『一年有半』はもちろん、『無神無霊魂』という、明治・大正・昭和を通じて他に類例のない哲学書が書かれている。病気の苦痛、それにともなう人生観、これらが書きとめられている寸鉄ふうの文章をみても、彼の一年有半が、どのくらい緊縮的なものだったかが察せられる。つきのような一節がある。
<二字下げ>
「余の癌種、即ち一年半は如何の状を為す、彼れは徐ろに彼れの寸法を以て進めり、故に余も亦余の寸法を以て徐々に進みて余の一年半を記述しつつ有り、一の一年半は疾也、余に非ざる也、他の一年半は日記也、是れ余也」「疾病なる一年半、頃日少しく歩を進めたるものの如く、頸頭の塊物漸く大を成し、喉頭極めて緊迫を覚へ、夜間は眠り得るも昼間は安眠すること能はず、其食に対する毎に、或は嚥下すること能はざる可しと思ふこと有るも、実際未だ然らず、雞子二、三個、粥二碗、殽二礫、牛潼一日四合は之を摂取して違ふこと無し、是れ今日猶ほ能く余の一年半を録する所以なり」
<二字下げ終わり>
またある一節には、
<二字下げ>
「此両三日来炎威頗る加はり、朝日新聞に九十度を報ぜり、其れが為めにや余の一年半は、此際大に歩を進めたるが如き感有り、頸上の塊物俄然大を成し大に喉を圧し、裡面の腫物も亦部位を拡と為し(<二行割書>誰にても勿論二回以上患ふる理なし)経験無きが故に自ら明にすること能はざるも、食道の否塞する甚だ遠からざるを覚ふ」「余明治の社会に於て常に甚だ不満なり、故に筆を取れば筆を以て攻撃し、口を開けば、詬罵を以て之を迎ふ、今や喉頭悪腫を獲て医治無く、手を拱して終焉を待つ、或は社会の罰を蒙りて爾るには非ざる耶、呵呵」
<二字下げ終わり>
このように「一年有半」を見つめ続けるあいだに、当時の日本の政治の現状についてひとつひとつ鋭い批判をなげつけている。兆民の発病の前年のころから、日本の政治は大きな転換をなしとげつつあった。自由党の歴史につながる政治力は弱まり、伊藤博文を首領とした立憲政友会ができ、その後ながく日本の政治を規定するところのあった政友会の内閣ができていた。それでもしかし、国民は「立憲内閣」だという幻影をもっていた。兆民のいわゆる「微弱なる立憲内閣」がそれなのであるが、その内閣が倒れて、桂太郎の内閣が成立したのも、彼の「一年余」の間におこっている。兆民は、桂内閣はその成立だけですでに憲法を政治の基本とする人々に対して「宣戦布告」をしたも同様だと批評している。このとき兆民は、「星亨、健在なりや、犬養毅、健在なりや」といって、民間政治家のなかに人物のいないのをなげている。その星亨が東京市の市会で伊庭想太郎のために刺されて即死した事件(六月)も、兆民の病中のことだし、やや前に戻るが、その年四月の、日本ではじめての社会主義政党である社会民主党の結成<二行割書>(片山潜、幸徳秋水、木下尚江、川上清、堺利彦、安部磯雄、石川三四郎、吉川守園、西川光二郎等)、五月その党の綱領発表と同時におこなわれた結社禁止のことも、また「一年余」のなかの出来ごとであった。『一年有半』が公刊されたとき、日本の新聞や雑誌が前後三七社がそれぞれ長い批評を書いたことをみても、兆民の「一年余」は彼にとって「悠久」であったといえるのである。
病気の進行が急になったのを自覚した兆民は、「余も亦歩調を迅速にし、一頁にても多く起稿し、一人にても多く罵倒し、一事にても多く破壊し去ることを求む可し」といっていて、彼の生命感はいっそう緊張し、いっそう燃焼している。私たちに見落されてならないのは、兆民が、自然法則的に推移する自然のなかの出来ごとと兆民自身とをいつも離して考えていること、また言いかえれば、いつもこの二つを一緒に把えていることである。前に見たように、彼は癌という肉体のなかの一種の自然的組織変化をば「彼」と呼んで、兆民自身のことを「余」と呼んでいる。「彼」と「余」とが一つになって戦っている。頸頭の塊物、つまり自然物の生成と悩みつづける自分とを対立させている。この意識は彼にとって苦痛このうえないものであったろうが、しかし、癌も苦痛も、正義も愛慾も、すべてを虚無海上にうかぶ虚舟と観去る、ひとつの世界観が彼をつつみ、彼を慰めたこともあったろう。おそらく、そうしたところに彼の唯物論的世界観があったろうとおもわれる。
『一年有半』の読者は、この書のなかでなんどか兆民の罵倒、罵詈のことばをきくのである。
「天も亦余の罵詈癖の頑なるに驚く」だろうといっている。もちろん、彼にとって罵倒は批判であって、政治家罵倒は政治批判である。彼にとって精神罵倒は精神浄化である。彼は星亨の刺殺事件のときに、「暗殺蓋し必要欠く可らずと謂ふ可き耶」とさえいっている。これもまた批判であり検覈である。このような、ちょっとみては矯激にすぎるような言い方、仕方は彼の性格のためだと簡単にきめることは正しくない。彼の教養のひろさ、彼の思索の深さ、彼の感情の純粋さ(<二行割書>徳富蘇峰はこの点を強調して称揚した)、彼のイデオロギーの正かくさ、これらの総計が、明治の二十年と三十年代の日本の現実との間のいわば大きな落差、大きな懸隔が、兆民にああした言動をとらせたのだというべきである。外国に求めた兆民の知識は主としてフランス語を通じてであったが、フランスの政情、フランスの文学、フランスの哲学思想については、彼は強い自信をもっていた。フランス滞在中、『孟子』『文章軌範』『外史』などの仏訳を試みたということもつたえられている。彼の思索の深さについては、あとで触れるが、『無神無霊魂』一冊の内容がいや応なく私たちを驚嘆させる。彼のイデオロギーが正かくであったかどうかは、彼のなくなった後の日本の半世紀の政治的推移が私たちに教えてくれている。彼の感情の純粋さについては、つぎの小話が、私たちにむしろ日本人の性格を指摘しつつ、私たちに納得を強いてすらいる。あるとき、幸徳秋水と兆民との対談のなかでフランス革命の話が出た。秋水が「仏国革命は千古の偉業だが、あの惨しさはかなわない」というと、兆民は「私の立場は革命党だ。だが、もし私がルイ十六世が眼のあたり絞頸台にあげられるのを見たら、私は走りよって剣手を撞き倒し、ルイ王を擁して逃がしたろう」と答えた。後に秋水は「先生の多血多感、忍ぶ能はざるの人なり」と、追憶して言っている。明治時代では日本はいわゆる「熱血漢」を多数、政治のなかに送りこんだが、兆民もその一人である。徳富蘇峰のつぎの評はあたっている。「真面目な人なり。常識の人なり。夫として其妻に真実に、父として其子に慈愛に、友として其交る所に忠なるの人也。但だ皮下余りに血熱し、眼底余りに涙多く、腹黒きが如くにして、極めて初心、面皮硬きに似て頗る薄く、自ら濁世の風波に触るるに堪へざるの身を以て、強て之を凌がんと欲してあた克はず。為めに時に酒を仮り、時に奇言を籍り、以て其自ら世に容ざれる悶を排せんと試みたるのみ」
秋水は兆民の文章を批評して、「瓢逸奇突、常に一種の異彩を放つて、尋常に異なる」ものがあるといったが、そうした風格といったようなものは、兆民が禅に関心をもって、いわゆる方外(<二行割書>世俗より外の人たちつまり禅僧)の人と交際し、好んで仏典や語録を読んでいた(たとえば『碧巌録』は愛読の書であった)ことと、関係があったにちがいない。兆民の病中の詩のなかにつぎの句がある。「夢覚尋思時一笑、病魔雖◦ 有◦ 兆◦ 民無」。この有兆民の圏点<◦とした>は兆民自身の付したものだと、この詩を贈られた秋水は書きのこしている。
私はかつて、兆民の略歴と著述を『日本哲学全書』の第六巻でのべたことがある。それをここに参考のために、多少の重複はあるが、あげておきたい。
<二字下げ>
中江篤介は弘化四年(一八四七年)に土佐、高知県に生まれた。
土佐は又明治初年における自由民権運動の発祥地であった。兆民の生涯は、フランス系統の自由主義を貫徹せんが為の苦難、受難の歴史であった。加藤弘之の高位高官生活と較べてみると、兆民の生涯を蔽う不遇と貧困とはいよいよ明瞭となる。彼は「東洋のルソー」と称せられたが、これは彼がルソーの『民約論』を翻訳して非常な影響を当時の日本の社会・政治・思想界に与えたことに原因がある。
篤介は幼名を竹馬と称し、長じて、青陵、秋水、南海仙漁、木強生、兆民等と号した。十三歳で父を亡くした後、荻原三生、細川潤次郎に就いて蘭学を学び、慶応元年十九歳の時、高知藩の留学生として長崎に行き、平井義十郎にフランス語の指導を受け、二年の後江戸に出て村上英俊に師事したが放逸の為破門せられた。神戸、大阪開港の時仏国領事に従って大阪に赴き、転じて江戸に移り箕作麟祥の門に入った。明治初年福地源一郎の日新社の塾頭に任ぜられた事もある。明治四年政府留学生としてフランスに留学し(後藤象二郎、板垣退助の推挽に依るものであった)、主として哲学、史学、文学を修め、西園寺公望、光妙寺三郎、今村和郎、福田乾一、声が漸次たかまって来た。留学中に『孟子』『文章軌範』『日本外史』等を翻訳したとも伝えられるが確実な資料がない。帰朝後元老院書記官に任ぜられたのであったが、幹事陸奥宗光と意見が一致せずして罷め、外国語学校長の椅子に就いたが間もなくそれも辞し、番町に私塾を開いて政治、法律、歴史、哲学等の諸科を講じた。前後、この門に学んだ者は二千余人に上ったとのことである。
その当時においても彼は岡松甕谷の門に入り漢文を学んだ。甕谷は明治文学史上森田思軒と並んで漢文に優れていたことは広く人の認めるところである。
明治十四年三月西園寺公望が『東洋自由新聞』を創刊するに際して入社したが、翌年四月同紙廃刊後十五年二月『政理叢談』を刊行(十七年まで続刊、三月(五六号)より『欧米政学雑誌』と改題)、同十五年六月『自由新聞』(十八年三月廃刊)を発行して急進的なる自由民権説を鼓吹した。
明治二十年保安条例に遭って東京から退去を命ぜられ、大阪に走って、栗原亮一、宮崎富要、寺田寛等と協力して『東雲新聞』(二十一年)を起し主筆となったが永続しなかった。二十一年赦されて東京に帰り、後藤象二郎の援助を得て『政論』を刊行したが間もなく後藤と政治上対立したので袂別し、自ら『立憲自由新聞』を二十四年一月に創刊した。二十三年、彼は第一議会に大阪水平社に擁せられて当選、代議士となったが、予算八百万円削減問題に関し自由党の土佐派が政府の意を迎えて、その自由主義を伊藤博文等の政治運動の中に解消した事に憤激し、再び議会に出るを欲しなかった。当時又彼の『経倫』『京都活眼新聞』『民権新聞』(『立憲自由新聞』の改題)等を起して、改進、自由両党の連合を説き、政党運動にエポックな影響を与えたのも当時であった。
その後彼は政界、文壇から去って実業に専心する様になった。
「今の政界に立つて銕面なる藩閥政府を敵手にし、如何に筆舌を爛して論議すればとて、中々捗の行くことに非らず。さらでも貧乏なる政党員が運動の不生産消費は、窮極する所、餓死するか自殺するか、左なくば節を抂げて説を売り権家豪紳に頣使せられるより外なきに至る。衆多の人間は節義の為めに餓死する程強硬なるものに非ず、(中略)金なくして何事も出来難し、予は久しく蛙鳴蝉噪の為す無きに倦む、政海のこと、我是れより絶えて関せざるべし」とは兆民が当時幸徳秋水に語った心境である。二十五年彼は小樽に行き『北門新報』の主筆となったが、間もなく罷めて札幌に紙店を開き、山林業にも手を染めたが失敗した。東京に出て実業に従事したが、その詳細は判然しない。明治二十三年の秋『毎夕新聞』の主筆に招かれ、次いで国民同盟会に投じて再び政治的関係を結び、彼の生涯の敵と目した藩閥と戦ったが、同年十一月頃より喉頭癌を病み、翌三十四年九月泉州堺に病を養うも効なく、九月帰京し、小石川武島町の自邸で『続一年有半』を執筆し、十月に出版し、十二月遂に長逝、無宗教葬をする事を遺言した。享年五十五歳。
猶お兆民の生涯について知ろうとする人は、幸徳秋水著『兆民先生』(三十五年)を読むといい。彼の著述は政治的関心が全体を貫いている。彼の著述及び訳述を挙げれば次の如くである。
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孛国財産相続法 仏・ジョゼフ著 明治十年
民約訳解 ルソー著漢訳 同 十五年
仏国訴訟法原論 仏・ボニエー著 同 十一―二年
非開化論 仏・ルソー著 同 十六年
理学沿革史 仏・アルフレッド・フーイヱー著 同 十九年
理学鉤玄 同 十九年
革命前法朗西二世紀事 同 十九年
平民の目ざまし 一名国会の心得 同 二十年
三酔人経倫問答 同 二十一年
国会論 同 二十一年
選挙人の目ざまし 同 二十三年
四民の目ざまし 同 二十五年
憂世概言 同 二十三年
道徳大原論 ショーペンハウエル著 同 二十七年
一年有半 同 三十四年
続一年有半 同 三十四年
警世放言 同 三十五年
<四字下げ終わり>
その他『兆民文集』(幸徳秋水編・明治四十二年)、『中江兆民集』(改造文庫・昭和四年)、『中江兆民篇』(『現代日本文学全集』第三九巻・五年)、『明治文化全集』第七巻「政治篇」等を見るべきである。
<二字下げ終わり>
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