読書ざんまいよせい(073)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(013)

〚編者注 以下の底本は、科学の古典文献の電子図書館「科学図書館」の古典文献の電子図書館「科学図書館」から〛

付録・唯物論史

    まえがき

 唯物論はひとつの世界観であるが、この世界観はつねに敵をもっていた思想であった。このことをまず知っておくことが必要である。どんな世界観思想だってもちろん反対論をともなわないものはない。その思想がはっきりしていればいるだけ、反対論がともなうのは当然のことである。しかし、単なる反対者でなくて必ず敵をもつということは、唯物論思想の特質であり、この思想の運命である。
 唯物論史は周知のように古代ギリシアのレウキポスやデモクリトスからはじめられるが、すでにこれらの思想家たちからが、敵としてはとりあつかわれなかったにしろ、プラトンやアリストテレスからよく言われず、少くとも世界観のうえで味方とは考えられていなかったことは、アリストテレスの書いているものからしても、明らかである。ヨーロッパでは唯物論の思想を人々のうちに滲透させた人としてルクレティウスはすぐれた思想家であるが、ほぼ二〇〇〇年もの長いあいだ彼の著述(『ものの本性について』)が避けられていたようであるのも、じつは宗教の信仰にたよる人々や眼に見えぬイデーのみ貴ぼうとした観念論者たちのなかに、黙っている小さな無数の敵がいたのだとおもう。近世になると唯物論の敵の例は多い。敵が多いだけでなく、判然と必ず敵を呼び出す思想として、唯物論は出てきているのである。
 誰もコペルニクスやガリレオを唯物論者だとレッテルを貼りはしないが、しかし何としても聖書のなかの造物者としての神を否定してしまった点では、これらの自然科学者たちは近世の唯物論的世界観への道をひらいた第一人者だといわねばならない。コペルニクスやガリレオが不倶戴天の敵を宗教裁判所を代表とする信仰者たちのなかに呼びおこしたのは、じつに近世の自然科学的世界観のなかにある無神論的唯物論だったのでなくてはならない。一八世紀のフランスの唯物論者たち、ラマルク、エルヴェシウス、ジャン・メリエなどとなると、生涯敵をもちつづけたのであった。一九世紀から二〇世紀のマルクス、エンゲルス、レーニンとつぎつぎあげてくれば、もう唯物論はつねに敵があることによってひとつの体系ある思想組織となった世界観であったことがあきらかである。さて私たちは今やそのような唯物論的世界観の支持者を「近代日本をつくった人々」のなかに置いて考察しようとしているのである。
 「近代日本」とはいったい何だろう。それはいうまでもなく、近代的性格をそなえるようになった時代の日本のことでなくてはならない。近代的性格とは、人間が自分自身を見出し(ルネサンス)、神を否定し(一八世紀)、産業の仕方を機械化し(一九世紀)、世界観を自然科学的思想のうえに築いてしまった時代(二〇世紀)がもっている性格のことでなくてはならない。してみると、近代日本とは、かつて「神国」と呼ばれ通してきた日本が右のような近代化を実現するに至った日本のことだということになる。日本は近代化という至難のことをとにかく一世紀たらずの間になしとげたのである。日本がかように近代化されてしまったことが、日本人の生活を幸福にしたと無条件にいえるかどうか、それについてはいろいろな意見があることでもあろう。しかし上述の意見で日本が近代化していることは、どうしようもない事実である。
 民族国家の近代化の困難は、日本だけではない。ソヴィエトも中国もそれぞれこの困難を背負った。そしてその困難さにはそれぞれ特徴があった。日本の場合、そのむつかしさの特徴はどういう点にあったのであろうか。
 いずれは近代化とは生活の合理化ということで言いかえられるものである。合理化において日本人はどういう特質を示したか。日本人は生活の合理化を個々の人間のうちの知恵において処理したが、その知識の客観的な組織(科学および科学的技術)において処理しなかった。このことへの着眼は日本文化を理解するにとって大切な鍵であると私はおもう。もし、日本人が前者をすら欠いでいたら、今日日本は世界の最劣等の民族国家であったろう。
 生活の合理化が正規にすすんだ例は西欧の諸国であるが、そこでは組織だった産業が先頭に、技術と科学がこれにつき、純粋な科学がこれにともない、哲学はこれらの全線に併行した。これをぜんたい的にいうと、客観的組織化が特徴だった。日本に欠けていたものはこれだった。
 つまり、サイエンスとテクノロジーとが欠けていたことである。学問と実践の両方において組織性がなかったこの国において、もっとも困難なるものは以上いったような意味での組織的な客観的な世界観の欠如である。
 日本の唯吻論はこうした世界観の弱さのなかに形成されねばならぬものだった。荒野の地に花が咲こうとしたが、この花はつねに摘みとられようとされた花だったわけだ。私たちは福沢諭吉のような近代的思想家によってこの荒れた土地がややいっぱん的に耕地化されていったことはみとめるが、唯物論の播種とまではいかなかった。むしろ日本人の生活の合理化をもっとも具体的に尖鋭に押しすすめようとした森有礼のような思想家によって、唯物論はようやく根を下しはじめたといいたい。あとでのべるように、森には合理化を鮮明に強力に押し出した啓蒙家の面があったから。
 日本の近代化をそれぞれの文化部門でひきうけた思想家実践家たちのなかで、唯物論者たちはどういう課題をどういうように解いていったか。この問題に若干の考察を加えることが、この論文の狙いである。さて、そうしたとき唯物論者とはどの範囲までの合理的な近代的思想家を指すのであるか。このことをヨーロッパにおいてその実例のもっとも判然とみられるような型に分けて考えることをしないで、日本の近代化の実情についてその型をいちおうさだめて、叙述してみたいとおもう。
 生活の合理化へと日本人の思想を導いた人々を唯物論への道を準備した人たちとして、これを啓蒙家または哲学思想家のなかから見出すことがまず最初に試みられる。これらの人々は当然明治の初期または中期に属する。第二に、合理化の思想をとくに具体的に鮮明に押しすすめた人々を唯物論への道を拓いた人たちとして、政治家または専門の学者のなかから見出すことがなされる。この型の人々も、どちらかというと明治時代に属する。第三は、唯物論という世界観をとくに意識しこれを志向した思想家ではないという点では、第一第二と共通する。しかし、第三では、唯物論思想をすでに意識していて、これと併行して別箇の世界観をもってとおした人々について考察する。第四では、唯物論という世界観を日本人の間に実現させようと努力した人々を、考察する。第五には更に、唯物論の一九世紀後半、二〇世紀の前半における発展の実情からみて、歴史的唯物論という新観念のもとで新しい世界観を樹立しようとした人々を評論してみることである私は右のように五つの型をつくってみて、これでこの人物評論を主とする近代日本の唯物論小史をまとめてみたいとおもう。その五つはA・B・C・D・Eに分けることにしたい。なお読者が私の『日本の唯物論者』を参照されることを望みたい。
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読書ざんまいよせい(072)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(012)
む す び


 以上、二篇、五章、十六節にわたって、唯物論思想の線につながる人たちの評伝を試みたのであるが、さいごにぜひ述べておきたいことは、それらの人たちの学問的な且つ思想的なつながりである。「補」のところで論評した人たちは別であるが、その他の思想家たちは或るひとつの共通の線において、とにかくむすびつくのである。どのひとりとして、啓蒙の第一線に立っていない人はない。ややもすれば隠されがちな人間存在の本質からの欲求を、社会に向って呈露させようとしなかった人はいないのである。さて、そうではあるが、学問的思想のうえでのそれらの人たちのつながりがのこらず確認できるとは決していえないのである。
 ヨーロッパだったら、デモクリトスやエピクロスの思想とつながりのない唯物論者はまず稀だし、ベーコンやホッブスに何かのかたちでつながらないということはなかったし、一八世紀いごだったら、フランスの唯物論者たちの考え方をふりかえってみない唯物論者はまずないといっていいし、また一九世紀の後半いごだったら、マルクス、エンゲルスが、ひき合いに出される場合がほとんどである。かようにして、学問的思想のうえでれん関のないということは考えられない。
 この書は日本唯物論史ではなく、個々の唯物論者を評伝することを意図しているのだから、思想の歴史的な結びつきを明瞭に書き表わすことに努力したわけではないが、その結びつきを探すことが終始私にとっては問題であった。戸坂潤は、河上肇と教養や学問で結ばれる点があるが、兆民や秋水とは或る隔りをもっている。兆民は仏教や老荘から彼の唯物論思想を成長させるものを汲みとったが、秋水においては同じことは求められない。諭吉の啓蒙思想には江戸時代の思想家からくる影響はあったろうが、彼が蟠桃の無神論や昌益のラディカルな反観念論思想に触れたとは(少なくとも今の私には)思えない。
 しかし、それならすべで無連絡かといえば、そうではなくて、梅園は益軒の影響を深くうけていると察せられるし、春臺や仲基などは、また淇園すらもが、徂徠の先行なくしてはおそらく考えられないであろうし、その他こうしたつながりならば指摘されるものがいくつかあるであろう。いっぱんに、人物と人物との思想体系と思想体系との歴史的つながりについては、実証的な研究をまたないでは、つながりが「無い」という断定は、ほとんどぜったいにといっていいほどに、さしひかえねばならぬのだから、私たちの場合でも、個々の唯物論者の相互の学問的・思想的つながりについては、否定的な断定は遠慮しなくてはならない。これからいごの研究において、日本の唯物論思想家相互の関係が明らかにされる労作が必ずや公けにされるであろう。孤独の反逆者だと私たちが考えている昌益でも、必ずしもそうでなかったことが或いは明瞭になる日があるかも知れない。
 日本の唯物論思想家たちの思想的つながりについての私の見解は以上のごとくであるが、それにしても、ヨーロッパの場合と比べてみるとき、どの思想家も(ことに江戸時代においては)まえに先行者がなく、後にすぐつづく後進者がなく、一様にむすびつくべき唯物論思想の太い主脈の線がなかったことが、強く感じられるのである。
 ここで、つぎのことを述べておきたい。明治以後においては、もっと多くの唯物論者をとりあげて評伝すべきであることを痛感したのであるが(たとえば、野呂栄太郎や三木清、唯物論研究会に属していた永田広志、鳥井博郎、伊藤至郎その他のひとびと)、紙数のうえでその余裕がなかった。
 なお、明治・大正時代における自然科学者で、生活の仕方が合理主義的で唯物論的であった人たち(たとえば狩野亨吉博士のような人物)についても、のべておきたかったが、これらは他日機会を得たとき試みたいと思うのである。 

追 記

 この書の成立について、英宝社の佐々木峻君の二ヵ年にわたる私に対する激れいと、池城安昌君の校正、年表・索引その他の協力とに対して、厚くお礼を述べておきたい。(一九五六年六月記

〚編者注 年表・索引のテキストは省略する。〛

読書ざんまいよせい(070)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(011)

第二節 とさか・じゅん(戸坂潤)

一 空間論からの出発

 戸坂潤の青年時代の魂をとらえた学問は空間論である。哲学の諸問題のなかでも、とくに空間論を明らかにすることに力をそそいだのであった。空間論を哲学の問題としてうけとること、これに対照されるものは時間論である。さて、ここでまず素朴な質問をだしてみよう。それは案外に事態の本質をついている問いだとおもうからである。空間論と時間論、そのどちらが一般に唯物論の立場に関係が多いか?
 この質朴な問いには簡単にいっぺんに答えられる。それはもちろん空間論であると答えることである。哲学史は唯物論の祖だといって、いつでも古代ギリシアのレウキボスとデモクリトスをあげるのであるが、これらの自然哲学者ののこした断片のうちには時間の論は見あたらない。そのつきにひいでた唯物論者として私たちはローマの詩人ルクレティウスをあげたいが、彼の『物の本性について』という詩の形でかかれている千何百行のなかにも時間論の思索を汲み出すことはむつかしい、ほとんどできない。同じことは十九世紀のフランスの唯物論者たちについてもいえる。といって、時間論が人間のする思索の対象として価値が少ないのではない。もしも楽しく悠々と思索で暮らせるのだったら、時間は人に限りなく問題を提供することだろう。しかし、人間にとっては運命的にまでさいごまで空間論はまといつく。空間論的に人間が規定されている人間存在の根本事実は、どうしようもない。時間は人に空間論的にしか考えさせない。空間論が明らかにされないでは時間論の成立は考えられない。空間論は科学の哲学の一般的基礎だといってよい。
 日本で、はじめて空間論の研究をめざしたのは戸坂潤である。彼は彼の『空間論』という論文註(1)のなかで、こういっている。

「空間というもの、又は空間という概念は、殆んど凡ゆる科学乃至理論の中に、問題となって現われて来る。例えば絵画や彫刻、演劇や、キネマに就いてさえも、その理論の内に空間が可なり大切な問題となって現われるだろう。一体吾々が視・触り・聴くこの、 世界―――実在界―――それらは悉く、空間的な規定を離れることが出来ない。吾々は日々の生活を完全にこの空間の支配下に送っているのである。だから、空間の問題が凡ゆる理論または科学の問題として取り上げられるということは、実は何の不思議もない。それは凡ゆる領域に浸潤している問題である」

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読書ざんまいよせい(069)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(010)

第二編 明治以後

第四章 マルクス主義の唯物論者

第一節 かわかみ・はじめ(河上肇)

一 河上の思想遍歴

1

 河上肇の生涯、そのなかでもわけて彼が唯物論者として活動するまでの、そしてそれから後の思想の生涯、それをここにのべることが、この節での私の仕事である。
 河上もまた幸徳秋水と同じように、思想のうえの生涯という点では、郷土からくる影響をになっている。彼ははやくから「梅蔭」という号を自分につけていた。彼の家の庭に梅の老木があったためであるが、号は少年の頃から吉田松蔭に私淑していたためにつけたのである。彼は蘇峰の『吉田松蔭』を中学時代に感激してよんだことを後に語っている。松蔭に対する尊敬はなみなみならぬものだった。それは青年時代までつづいていた註(1)。『自叙伝』のなかに、こういうことが記されている。「私の胸の底に沈潜してゐた経世家的とでも云ったやうな欲望は、松蔭先生によつて絶えず刺戟されてゐたことと思ふ」。このようにして、河上は郷土の思想家松蔭のえいきょうのもとにあったことは、まず注意しておいてよいであろう。河上は、中学の課程を岩国学校で学び、ここを卒えてから山口高等中学校に入ったのであるが、そこでは彼は文科の学生だった。ところが卒業試験の直前になって、「法科へ転じよう」という決心をした。この転科のもととなったものは、もうすでに彼のうちに宿っていたようである。松蔭に私淑したこの少年には前述のように「胸の底に、経世家的気分と云ったやうなもの」があったのだった。彼には早くから、少年経世家としての風があっただけではない。すでにれっきとした経世家らしい論策が書かれていた。彼は岩国学校の頃に友人と回覧雑誌をつくっていたが、その雑誌には「討論」という欄があった。彼はこの欄に『日本工業論』という文章をのせていた。「……方今旧日本已ニ去リテ新日本将ニ生レントス、而シテ英アリ露アリ、毎ニ我ガ釁ニ乗ゼント欲ス、……而シテ我国工業盛ンナラズ、故ヲ以テ、例ヘバ戦艦ヲ造ラントスルヤ、又之ヲ仏人ニ委任シ、多量ノ金銭費シ、多量ノ苦労ヲ要シ、或ハ道ニシテ之ヲ失ヒ、遂ニ我レニ勇アリ武アリ才アリ智アリト雖モ大ニ損スルアルニ至ル、嗚呼惜イ哉、是レ実ニ我邦工業ノ盛ナラザルノ致ス所ニシテ実ニ我ガ神州ノ為メニ悲ム可キ事実ナリトス……註(2)」まことに堂々たる経世の文であるといわねばならない。とにかく、彼は法科に転じたのである。ここにすでに彼の遍歴の旅ははじまっているといえよう。このときの転向はいかにも少年らしかった。というのは、日本にはじめて政党内閣ができ、昨日までは青年政治家であったものが「一躍して台閣に列する」というような時代の風がこの少年に「昂奮を与えた」からである。
『自叙伝』の叙述にしたがってではあるが、私が少年河上をこのように批評してくると、河上はやがて大学に入り法科を出て、いわゆる出世街道を馳け進んだ青年だったように描かれるかも知れない。しかし、そうでないことは、「河上肇年譜註(3)」の一九〇一年(明治三十四年)のところを一べつしただけでも、この青年のなかにある経世家的なものが、彼の成長とともに伸びてゆきつつあったことを、知ることができよう。そこにはこう書いてある。「十一月足尾鉱毒地の罹災民救済のための演説会をきき、翌日身に纏ってゐる以外の衣類を残らず行李につめて救済会の事務所にとどけた。このことは当時の毎日新聞(十一月二十三日)に『特志の大学生』といふ見出しで記事にさへなった。」
 河上は一九〇三年(明治三十六年)に東大を出て、翌年は東大の農科大学実科講師や、その他の二、三の学校の講師をしたが、そうしたことよりも、一九〇五年(明治三十八)に読売新聞に『社会主義評論』を書きはじめたことに注意をむけるのが、私たちには意義がある。彼のこの評論は、周知のように、たちまち多くの読者をもち、新聞の発行部数がそのために増加したというほどだった。もとより、このときの河上の評論はマルクス主義には遠いものだった。ここでマルクス主義のことを持ちだすのは、このころ彼はマルクス主義の学説にセリグマンを訳することを通じて注意を払っていたからである。しかし、「社会主義評論」では、まだ唯物論的な社会主義に共感をよせてはいなかった。むしろ、トルストイ的な、平和な無我的な愛を主張註(4)していたくらいだった。
 私はここで河上が、無我愛を主張した伊藤證信との結ばれについて記すべきところへきたとおもうが、その前に彼のなかの「経世家」の動きに属する活動をもうひとつここにのべておかねばならない。明治三十八年は河上にとって多事な年だった。彼はこの年『日本尊農論』を書いて公けにしている。菊判二〇〇頁の本である。今日では見る機会が少なかろう。この本にふれている前掲(註(4)を参照)の『河上肇』のなかにつぎのような記述がある。「彼が尊農を説くゆえんは、商・工業の発展が農民を《無資無産の放浪者として工場に出入せしめ、もつていはゆる資本家の使役する所に任》じ、《多数の国民は凡て労働者階級に堕落し尽く器械の奴隷たるに至れるを見ん》ということや、また工場法制定に反対し、労働条件の向上が生産費を増加し、海外輸出の衰退をきたすとして、《同胞中最多数を占めつつある労働者を敵視して、却つて異邦において異人種を顧客として尊重》するという当時の実情に反対して、大多数の国民の幸福を守るということから、〔河上が〕出発している点が大切である」。とにかく、河上は日本の農民に、心をよせ、これに強く関心をもったのである。これをみても、いぜんとして彼の内なるいわゆる「経世家的」な思想の動きの深かったことを見てとることができる。
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読書ざんまいよせい(068)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(009)

 岩波文庫「南総里見八犬伝」(一)に高田衛氏の「『八犬伝』を読むために」という解説文がある。今更、勧善懲悪づくし、しかもやたらに長い「八犬伝」でもあるまいにと思ったが、読んでみると、意外と筋立てや表現が「論理的」で面白くも感じた。そこで、どこまでできるかはおぼつかないが、テキストのアップに取り組んでいる。まだ、冒頭部分だけなので、いつになったら完成するのやら…
 評判の悪い「勧善懲悪」でいうと「馬琴は、勧善懲悪を唱導した。しかしその悪とは、体制の悪であった。したがってその善とは、体制そのものをゆさぶる行為でさえあった」(松田修氏)の指摘は、しばし至言であり、秋水にも通じるだろう。
 ここでは、高田衛氏から冒頭部分を長く引用し、幸徳秋水の想いに馳せるうえでの一助としたい。

 先頃、幸徳秋水の獄中書簡を読んでいたら、こんな個所に目がとまった。

△六ヶ月目で此頃ー二回刺身を食た。秋刀魚を食っては季節だなと思び、新鮭や数の子を食てはモウ出たナと感じる。此夏以来鮎も食た。松茸も食た。野菜は胡瓜、東蒲塞、茄子の時代から此頃の離大根まで、果物も林檎、梨子、栗、柿、蜜柑と、新しい物が這入る毎に娑婆の節物の移り行くことを想ひやる。小供の時に読だ伏姫の山ごもりに花紅葉(ママ)村里の四季を想ふ美しい文があったが、吾等には每日の差入弁当が唯一の暦だ。
   (明治四十三年十二月六日付、師岡千代子宛)

 おそらく質素であったに違いない差入弁当の、そのおかずにさえ、くっきりと浮び上ってくる四季の姿がこの手紙にみられる。この豊饒な季節感は、もう私たちの日常からは永遠に失われてしまったことを、しみじみと感ぜずにはいられなかったのだが、その間に何気なく、『八犬伝』の一節「伏姫山ごもり」の文章の想い出が挿入されていたことが、とりわけ印象的であった。
 時代からいっても漢詩の嗜みのある点からみても、幸徳秋水のような人が『八犬伝』を碗んでいたことに別に不思議はない。ただ、秋水のような革命家の心にさえ、ひときわ豊かな季節感の感受があり、それとまったく矛盾のないかたちで、『ハ犬伝」の一節が甦えってくることの、いわぱ「自然さ」に思いをはせないではいられなかったのである。
 秋水が回想した「伏姫の山ごもり」の「村里の四季を想ふ美しい文」というのは、次のような文章であった。
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読書ざんまいよせい(066)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(008)

第二章 明治の唯物論者

  第一節 なかえ・ちょうみん(中江兆民)

      一 「一年有半」

一年有半いちねんゆうはんとは、中江兆民の代表的な著述のなかの一つの名まえ﹅﹅である。兆民は明治三十四年(一九〇一)十二月十三日になくなったのであるが、それから九ヵ月ほどまえ、つまり三月の終りころのこと、かねてから悪かった喉頭の病気が、癌種だとわかった。兆民は医者にむかって、これから死ぬるまでどのくらいの日月があるか、とたずねた。すると、「一年半、よく養生して二年」だという答えを得た。彼はそのとき、「せいぜい五、六か月だろうと思っていたが、一年とは私にとって寿命の豊年である」とおもった。この宜告があってから、ひとつの著述が書きはじめられた。その本は四か月間くらいでいちおう結了になった。その本に、兆民は『一年有半』という書名をつけたのである。
 『一年有半』の第三節のところに、こう書いてある。「一年半、諸君は短促たんそくなりと曰はん、〔短促とは短くちぢまっていること〕、余はきはめて悠久なりと曰ふ、若しみじかしと曰はんと欲せば、十年もみじかきなり、五十年も短なり、百年も短なり、夫れ生時せいじ限り有りて死後限り無し、限り有るを以て限り無きに足らずや、鳴呼所謂一年半も無也、五十年百年も無也、即ち我儕は是れ、虚無海上一虚舟」。この短い文章のなかに、中江兆民というひとりの人間がまことによく、描き出されている。彼の持ちまえの負けじ魂も出ていることもちろんだが、それよりも、生きていく一刻、生きていく一瞬を、彼くらい「優に利用した」「楽しんだ」人は稀だと思われるからである。彼の一年有半(じつは九ヵ月だが)ほど濃縮に生きぬかれた例も少なかろう。このあいだに『一年有半』はもちろん、『無神無霊魂』という、明治・大正・昭和を通じて他に類例のない哲学書が書かれている。病気の苦痛、それにともなう人生観、これらが書きとめられている寸鉄ふう﹅﹅の文章をみても、彼の一年有半が、どのくらい緊縮的なものだったかが察せられる。つきのような一節がある。

「余の癌種、即ち一年半は如何の状を為す、彼れは徐ろに彼れの寸法を以て進めり、故に余も亦余の寸法を以て徐々に進みて余の一年半を記述しつつ有り、一の一年半は疾也、余に非ざる也、他の一年半は日記也、是れ余也」「疾病なる一年半、頃日少しく歩を進めたるものの如く、頸頭の塊物漸く大を成し、喉頭極めて緊迫を覚へ、夜間は眠り得るも昼間は安眠すること能はず、其食に対する毎に、或は嚥下すること能はざる可しと思ふこと有るも、実際未だ然らず、雞子二、三個、粥二碗、殽二礫、牛潼一日四合は之を摂取して違ふこと無し、是れ今日猶ほ能く余の一年半を録する所以なり」

 またある一節には、

「此両三日来炎威頗る加はり、朝日新聞に九十度を報ぜり、其れが為めにや余の一年半は、此際大に歩を進めたるが如き感有り、頸上の塊物俄然大を成し大に喉を圧し、裡面の腫物も亦部位を拡と為し(誰にても勿論二回以上患ふる理なし)経験無きが故に自ら明にすること能はざるも、食道の否塞する甚だ遠からざるを覚ふ」「余明治の社会に於て常に甚だ不満なり、故に筆を取れば筆を以て攻撃し、口を開けば、詬罵を以て之を迎ふ、今や喉頭悪腫を獲て医治無く、手を拱して終焉を待つ、或は社会の罰を蒙りて爾るには非ざる耶、呵呵」

 このように「一年有半」を見つめ続けるあいだに、当時の日本の政治の現状についてひとつひとつ鋭い批判をなげつけている。兆民の発病の前年のころから、日本の政治は大きな転換をなしとげつつあった。自由党の歴史につながる政治力は弱まり、伊藤博文を首領とした立憲政友会ができ、その後ながく日本の政治を規定するところのあった政友会の内閣ができていた。それでもしかし、国民は「立憲内閣」だという幻影をもっていた。兆民のいわゆる「微弱なる立憲内閣」がそれなのであるが、その内閣が倒れて、桂太郎の内閣が成立したのも、彼の「一年余」の間におこっている。兆民は、桂内閣はその成立だけですでに憲法を政治の基本とする人々に対して「宣戦布告」をしたも同様だと批評している。このとき兆民は、「星亨、健在なりや、犬養毅、健在なりや」といって、民間政治家のなかに人物のいないのをなげている。その星亨が東京市の市会で伊庭想太郎のために刺されて即死した事件(六月)も、兆民の病中のことだし、やや前に戻るが、その年四月の、日本ではじめての社会主義政党である社会民主党の結成片山潜、幸徳秋水、木下尚江、川上清、堺利彦、安部磯雄、石川三四郎、吉川守園、西川光二郎等)、五月その党の綱領発表と同時におこなわれた結社禁止のことも、また「一年余」のなかの出来ごとであった。『一年有半』が公刊されたとき、日本の新聞や雑誌が前後三七社がそれぞれ長い批評を書いたことをみても、兆民の「一年余」は彼にとって「悠久」であったといえるのである。
 病気の進行が急になったのを自覚した兆民は、「余も亦歩調を迅速にし、一頁にても多く起稿し、一人にても多く罵倒し、一事にても多く破壊し去ることを求む可し」といっていて、彼の生命感はいっそう緊張し、いっそう燃焼している。私たちに見落されてならないのは、兆民が、自然法則的に推移する自然のなかの出来ごとと兆民自身とをいつも離して考えていること、また言いかえれば、いつもこの二つを一緒に把えていることである。さきに見たように、彼は癌という肉体のなかの一種の自然的組織変化をば「彼」と呼んで、兆民自身のことを「余」と呼んでいる。「彼」と「余」とが一つになって戦っている。頸頭の塊物、つまり自然物の生成﹅﹅と悩みつづける自分﹅﹅とを対立させている。この意識は彼にとって苦痛このうえないものであったろうが、しかし、癌も苦痛も、正義も愛慾も、すべてを虚無海上にうかぶ虚舟と観去みさる、ひとつの世界観が彼をつつみ、彼を慰めたこともあったろう。おそらく、そうしたところに彼の唯物論的世界観があったろうとおもわれる。
『一年有半』の読者は、この書のなかでなんどか兆民の罵倒、罵詈のことばをきくのである。
「天も亦余の罵詈癖の頑なるに驚く」だろうといっている。もちろん、彼にとって罵倒は批判であって、政治家罵倒は政治批判である。彼にとって精神罵倒は精神浄化である。彼は星亨の刺殺事件のときに、「暗殺蓋し必要欠く可らずと謂ふ可き耶」とさえいっている。これもまた批判であり検覈けんかくである。このような、ちょっとみては矯激にすぎるような言い方、仕方は彼の性格のためだと簡単にきめることは正しくない。彼の教養のひろさ、彼の思索の深さ、彼の感情の純粋さ(徳富蘇峰はこの点を強調して称揚した)、彼のイデオロギーの正かく﹅﹅さ、これらの総計が、明治の二十年と三十年代の日本の現実との間のいわば﹅﹅﹅大きな落差、大きな懸隔が、兆民にああした言動をとらせたのだというべきである。外国に求めた兆民の知識は主としてフランス語を通じてであったが、フランスの政情、フランスの文学、フランスの哲学思想については、彼は強い自信をもっていた。フランス滞在中、『孟子』『文章軌範』『外史』などの仏訳を試みたということもつたえられている。彼の思索の深さについては、あとで触れるが、『無神無霊魂』一冊の内容がいや応なく私たちを驚嘆させる。彼のイデオロギーが正かく﹅﹅であったかどうかは、彼のなくなった後の日本の半世紀の政治的推移が私たちに教えてくれている。彼の感情の純粋さについては、つぎの小話しょうわが、私たちにむしろ日本人の性格を指摘しつつ、私たちに納得なっとくを強いてすらいる。あるとき、幸徳秋水と兆民との対談のなかでフランス革命の話が出た。秋水が「仏国革命は千古の偉業だが、あのいたましさはかなわない」というと、兆民は「私の立場は革命党だ。だが、もし私がルイ十六世が眼のあたり絞頸台にあげられるのを見たら、私は走りよって剣手を撞き倒し、ルイ王を擁して逃がしたろう」と答えた。後に秋水は「先生の多血多感、忍ぶ能はざるの人なり」と、追憶して言っている。明治時代では日本はいわゆる「熱血漢」を多数、政治のなかに送りこんだが、兆民もその一人である。徳富蘇峰のつぎの評はあたっている。「真面目な人なり。常識の人なり。夫として其妻に真実に、父として其子に慈愛に、友として其交る所に忠なるの人也。但だ皮下余りに血熱し、眼底余りに涙多く、腹黒きが如くにして、極めて初心、面皮硬きに似て頗る薄く、自ら濁世の風波に触るるに堪へざるの身を以て、強て之を凌がんと欲してあたあたはず。為めに時に酒を仮り、時に奇言を籍り、以て其自ら世に容ざれる悶を排せんと試みたるのみ」
 秋水は兆民の文章を批評して、「瓢逸奇突、常に一種の異彩を放つて、尋常に異なる」ものがあるといったが、そうした風格といったようなものは、兆民が禅に関心をもって、いわゆる方外(世俗より外の人たちつまり禅僧)の人と交際し、好んで仏典や語録を読んでいた(たとえば『碧巌録』は愛読の書であった)ことと、関係があったにちがいない。兆民の病中の詩のなかにつぎの句がある。「夢覚尋思時一笑、病魔雖◦ 有◦ 兆◦ 民無」。この有兆民の圏点<◦とした>は兆民自身の付したものだと、この詩を贈られた秋水は書きのこしている。
 私はかつて、兆民の略歴と著述を『日本哲学全書』の第六巻でのべたことがある。それをここに参考のために、多少の重複はあるが、あげておきたい。

中江篤介は弘化四年(一八四七年)に土佐、高知県に生まれた。
 土佐は又明治初年における自由民権運動の発祥地であった。兆民の生涯は、フランス系統の自由主義を貫徹せんが為の苦難、受難の歴史であった。加藤弘之の高位高官生活と較べてみると、兆民の生涯を蔽う不遇と貧困とはいよいよ明瞭となる。彼は「東洋のルソー」と称せられたが、これは彼がルソーの『民約論』を翻訳して非常な影響を当時の日本の社会・政治・思想界に与えたことに原因がある。
 篤介は幼名を竹馬と称し、長じて、青陵、秋水、南海仙漁、木強生、兆民等と号した。十三歳で父を亡くした後、荻原三生、細川潤次郎に就いて蘭学を学び、慶応元年十九歳の時、高知藩の留学生として長崎に行き、平井義十郎にフランス語の指導を受け、二年の後江戸に出て村上英俊に師事したが放逸の為破門せられた。神戸、大阪開港の時仏国領事に従って大阪に赴き、転じて江戸に移り箕作麟祥の門に入った。明治初年福地源一郎の日新社の塾頭に任ぜられた事もある。明治四年政府留学生としてフランスに留学し(後藤象二郎、板垣退助の推挽に依るものであった)、主として哲学、史学、文学を修め、西園寺公望、光妙寺三郎、今村和郎、福田乾一、声が漸次たかまって来た。留学中に『孟子』『文章軌範』『日本外史』等を翻訳したとも伝えられるが確実な資料がない。帰朝後元老院書記官に任ぜられたのであったが、幹事陸奥宗光と意見が一致せずして罷め、外国語学校長の椅子に就いたが間もなくそれも辞し、番町に私塾を開いて政治、法律、歴史、哲学等の諸科を講じた。前後、この門に学んだ者は二千余人に上ったとのことである。
 その当時においても彼は岡松甕谷の門に入り漢文を学んだ。甕谷は明治文学史上森田思軒と並んで漢文に優れていたことは広く人の認めるところである。
 明治十四年三月西園寺公望が『東洋自由新聞』を創刊するに際して入社したが、翌年四月同紙廃刊後十五年二月『政理叢談』を刊行(十七年まで続刊、三月(五六号)より『欧米政学雑誌』と改題)、同十五年六月『自由新聞』(十八年三月廃刊)を発行して急進的なる自由民権説を鼓吹した。
 明治二十年保安条例に遭って東京から退去を命ぜられ、大阪に走って、栗原亮一、宮崎富要、寺田寛等と協力して『東雲新聞』(二十一年)を起し主筆となったが永続しなかった。二十一年赦されて東京に帰り、後藤象二郎の援助を得て『政論』を刊行したが間もなく後藤と政治上対立したので袂別し、自ら『立憲自由新聞』を二十四年一月に創刊した。二十三年、彼は第一議会に大阪水平社に擁せられて当選、代議士となったが、予算八百万円削減問題に関し自由党の土佐派が政府の意を迎えて、その自由主義を伊藤博文等の政治運動の中に解消した事に憤激し、再び議会に出るを欲しなかった。当時又彼の『経倫』『京都活眼新聞』『民権新聞』(『立憲自由新聞』の改題)等を起して、改進、自由両党の連合を説き、政党運動にエポックな影響を与えたのも当時であった。
 その後彼は政界、文壇から去って実業に専心する様になった。
「今の政界に立つて銕面なる藩閥政府を敵手にし、如何に筆舌を爛して論議すればとて、中々捗の行くことに非らず。さらでも貧乏なる政党員が運動の不生産消費は、窮極する所、餓死するか自殺するか、左なくば節を抂げて説を売り権家豪紳に頣使せられるより外なきに至る。衆多の人間は節義の為めに餓死する程強硬なるものに非ず、(中略)金なくして何事も出来難し、予は久しく蛙鳴蝉噪の為す無きに倦む、政海のこと、我是れより絶えて関せざるべし」とは兆民が当時幸徳秋水に語った心境である。二十五年彼は小樽に行き『北門新報』の主筆となったが、間もなく罷めて札幌に紙店を開き、山林業にも手を染めたが失敗した。東京に出て実業に従事したが、その詳細は判然しない。明治二十三年の秋『毎夕新聞』の主筆に招かれ、次いで国民同盟会に投じて再び政治的関係を結び、彼の生涯の敵と目した藩閥と戦ったが、同年十一月頃より喉頭癌を病み、翌三十四年九月泉州堺に病を養うも効なく、九月帰京し、小石川武島町の自邸で『続一年有半』を執筆し、十月に出版し、十二月遂に長逝、無宗教葬をする事を遺言した。享年五十五歳。
 猶お兆民の生涯について知ろうとする人は、幸徳秋水著『兆民先生』(三十五年)を読むといい。彼の著述は政治的関心が全体を貫いている。彼の著述及び訳述を挙げれば次の如くである。

孛国財産相続法 仏・ジョゼフ著         明治十年
民約訳解 ルソー著漢訳             同 十五年
仏国訴訟法原論 仏・ボニエー著         同 十一―二年
非開化論 仏・ルソー著             同 十六年
理学沿革史 仏・アルフレッド・フーイヱー著   同 十九年
理学鉤玄                    同 十九年
革命前法朗西二世紀事              同 十九年
平民の目ざまし 一名国会の心得         同 二十年
三酔人経倫問答                 同 二十一年
国会論                     同 二十一年
選挙人の目ざまし                同 二十三年
四民の目ざまし                 同 二十五年
憂世概言                    同 二十三年
道徳大原論 ショーペンハウエル著        同 二十七年
一年有半                    同 三十四年
続一年有半                   同 三十四年
警世放言                    同 三十五年

 その他『兆民文集』(幸徳秋水編・明治四十二年)、『中江兆民集』(改造文庫・昭和四年)、『中江兆民篇』(『現代日本文学全集』第三九巻・五年)、『明治文化全集』第七巻「政治篇」等を見るべきである。

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テキストの快楽(015)その2

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(007)


  第三節 とみなが・ちゅうき(富永仲基)

    一 彼の生涯

 ヨーロッパで近世の唯物論が盛んにおこったのは、商人階級およびこの階級のひごによる人たちの間から学問が伸び、いきいきとした思想が出はじめてからである。いわゆるブルジョアジーの擡頭からである。日本でもこれと同じことがいえるのである。商人社会がまず成立した大阪から、唯物論への道を用意した思想家が多く出たのは自然のなりゆきである。江戸時代では、皇室を尊崇する風のあつい学者が京都に、幕府の学問に忠実であろうとした学者たちが江戸に、そしてどこにも尊崇の対象や権威のありどころをもたなかった学者たちが大阪に現われたのも、また自然である。
 私たちのとみながちゅうきは大阪に生れ大阪で成長した。江戸時代の日本の学問の歴史からいって江戸時代の中ごろまででは、大阪に生れた青少年たちは、学問する便利があったはずはなかった。大阪という都会が商人社会を形成するようになったのは、だいたい元禄いごである。大阪に学問の風がおこり、就学にも便利になったのは、懐徳堂かいとくどうというひとつの学堂ができてからといってよいであろう。そのはじめは享保九年(一七二四)の頃であった。この学堂のじっさいの世話をした学者はみやけ・せきあん(三宅石庵)という朱子学の系統の人だった。もっともしかし、この学堂は朱子学だけではなく、いわゆる陸王の学の系統でもあった。いずれにしても、三宅は大阪という商人社会が生み出さねばならないような思想家の性格の人ではなかった。この学堂の敷地や建物の配慮からはじめて、その創立の経営までをうけもった人が、五人ほどいた。仲基の父の芳春はそのなかのひとりであった。芳春の家は代々醤油醸造を家業としていたということであって、彼はかなりの分限者ぶげんしゃ(財産もち)であった。だから、仲基はブルジョア社会に成長したのである。でも彼の学問の出発には、父の教養はもとより石庵の学問の影響があったわけである。
 仲基の生涯はまだくわしくは知られていないが、正徳五年(一七一五年)の生れである。このことは仲基研究者たち(日本生命保険会社のあるところ)であるといわれている。幼い時の名は幾三郎、一般に通っていた名は三郎兵衛であった。芳春の三番目の子だった。
 さて、彼の生涯のことで知っておきたいのは、右の学堂での研究の模様、彼の学問の成長のありさま、家庭事情、生涯の職業、社会的活動、著述などである。ところで懐徳堂での研究の様子は殆んどわかっていない。彼が学堂に入ったのは、一七二七年頃であるが、一七三〇年(享保十五年)の頃にはもうすばらしい著述ができていたことがわかっている。というのは、その著述の名まえは『説蔽せつへい』というのであるが、この本は伝わっていないし、またその内容を誰かが書いてくれた本ものこっていないからである。しかし幸いなことに、仲基の著述で今日のこっている『翁の文』のなかにこの本の内容が推定できる箇所がある。もっともしかし『説蔽』にどんなことが主張されてあったかは、つぎの事件が物語っている。それは『説蔽』を公けにしたことが、懐徳堂の石庵の怒りに触れて、仲基は破門されたということである。それほどの事件をひきおこした彼のこの労作は、彼のとしが十六才よりものちのものではなかったのを考えると、彼の才能は驚くべきものであったとおもわれる。私の解釈では、彼は儒学思想の歴史的批判をこの『説蔽』で企てたものとおもわれる。そは前述の『翁の文』の第十一節がその手がかりになる。中国で孔子以後いくつかの学派学統が出ているが、それぞれがその時代時代に立って前行するものを批判するところに意義があるものであって、どの一派、どの一統も権威をもつ性質のものではない、という主張が『説蔽』の骨子だったらしい。このような仲基の学説は当時のいかなる儒学者からも許容されるはずはなかった。彼の学問の眼は、儒者や老荘のあらゆる学説を、イデオロギーと見てとるところまで澄んでいたのであるとせねばならない。このような見識は当時の伝統のどの学問からも流出し得ないものであって、仲基の社会的環境、その生活諸条件がもとで、彼の思索のなかで、いつか結成へとすすんだ新しい思想だとせねばならない。「蔽」を説くのではなくて、「説の蔽」を明らかにするというのが、書名のもとであったと考えられる。
 つぎに、彼の家庭事情であるが、富裕のなかで家庭の平和を享有するようには、できていなかった。この事情は彼の思想を一層せんえいにしたことであったろう。父の芳春のなくなったあとは、同じ家に住むことがたえられないまでに、家庭不和はこうじていたらしい。母とともに、同母弟妹を連れて分家し、独立した。年若い仲基は町儒者として一家を支えねばならなかったものと察しられる。それにもかかわらず、不幸にも仲基は病弱だった。社会的活動といわれ得るほどのことは、ついになかった。というのは、一七四六年(延享三年)八月に、三十二歳でなくなったからである。彼の著述であるが、それについては、つぎの(二)および(三)で述べてみたい。
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テキストの快楽(014)その2

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(006)

第一編明治以前

第一章への補 東洋の学問

 第一篇の第一章の諸節のなかに出てくる思想家たちを、私たちが歴史的に理解するためには、この人たちがそのなかにいた日本の学問、ひいては東洋の学問の本質をとらえておくことが、何よりも必要である。そのため、私はかつて発表したことのある同名の題の論文に多少の筆を加えて、ここに「補」として収めておきたい。

           

 いっぱんに歴史がほんとうに明らかにされるのは、歴史への眼が現代の眼であることによって、おこなわれるのである。学問の歴史があきらかにされるにおいても同じことである。だから歴史では、いつでも現代の眼がととのうことが、何よりも大切である。唯物論の歴史においては、なおさらである。私たちの現代の眼で科学(ここでは科学という言い方と学問という言い方を区別しないことにする)を見ると、いちばん大切なものが三つ眼につく。ひとつは人民大衆である。もうひとつは自然である。最後のひとつは人や自然のことを知る知識がみな確かなことである。この三つのどれか一つ欠けていても、それはもはや現代における真の学問でないことになる。原子物理学が現代の学問だとすると、この三つの要件を完全に充足させつつ進んでいるはずである。もし、そうでなく、たとえば人民大衆という要件がひとつ欠けていると(というのは、大衆に触れさせない、大衆に秘密になっている、つまり大衆の生活と幸福が考えられていないという意味である)、その学問のある国家はやがて必ず蹉跌し、その国での学問はくずれてゆくに違いない。(そういう実例は今日ないのではない。)現在では科学はまさしくそういうところまでもうきている。これは変質的といっていいほどな学問のすばらしい発展である。私たちの現代の学問の眼は、以上のことを見てとっている。
 さて、学問の歴史を見る眼でみるとして、東洋の学問はどういう学問であったのだろう。これは東洋の学問を根本的に考えてみるにおいて、ぜひ必要なことである。まず人民大衆のことはどうなっていたか。学問と自然はどういう関係であったか。知識の確実性はどう考えられていたか。私たちは最初に中国の古代の学問から問題にしていくことにしよう。えきは当時の科学だった。老子や荘子の学問も、ちゃんと歴史的な役割をもった科学だった。孔子や孟子のそれも同様だった。これらの古代の学問は、あの三つの条件(人民と自然と知識の確実さ)をどういうように具えていたか。私たちはここで、あるひとつの便利な道をえらぶことにしたい。というのは、中国古代の学問にじかにぶつかってゆかないで、それを日本人が受けとったところで中国古代の学問を見るというやりかたをえらぶことにすれば、かねてもって、近世の日本人の学問観も同時にわかるからである。したがって、私たちがこの本でとりあつかっている人たちの学問思想の性質も、浮きあがって眼につくことになると思う。
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テキストの快楽(012)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(004)


    三 東洋にはなぜ唯物論哲学がなかったのであるか

 これは大きな問題である。
 なぜ東洋には早くから自然科学が発展しなかったのであるか、なぜ東洋には西洋ほどに産業技術が発達しなかったのであるか、という問いと、もちろん連けいする問題である。しかし、それらの疑問よりも、なぜ東洋には唯物論は出て来なかったか、という疑問のほうが、よりいっそう根本的なのであり、要点をついているのである。なぜかというと、東洋でも、数学の知識では早くから発達したものがあったし、自然科学的知識らしいものにしてもなかったとはいえぬし、まして産業技術となれば、原始的なもの・発展可能でないもの(というのは、単純な耕作技術や漁撈技術は昔もたいいして変りはないから)に限られてはいたが、それにしても、とにかく産業技術は世界共通の或る線までに達していなかったのではない。生産の技術が根っからなかったのだったら東洋人はどんな文化をもつくりあげることはできなかったであろう。だから、産業技術がなかったとか、学術が発達することがなかったということは言えない。しかし、唯物論哲学があったということ、このことに限って、東洋にはそれはなかったとしか言えないのである。唯物論とは、人がなにものかに対してあげた抗議的なひとつの世界観である。東洋では、インドにも中国にも共通したヨーロッパとは別のひとつの世界観が発展していた。この世界観を語ることがこの節の目的なのである。その世界観に支配されている諸民族においては、唯物論を必要とはしないのである。必要としないというのは、東洋は唯物論をぜんぜん容れる余地がなかったという意味ではない。いいかえると、唯物論の思想を容れる余裕をもたないほどに唯物論に対する別の世界観でもって中がいっぱいふさがっていたのではない。一個の世界観が中を充実していたからではない。この点が大切なのである。東洋人は充実した世界観思想を、だから他の世界観をはじきのけるほどの世界観を、うちに懐いていたのではない。その反対なのである。東洋の世界観は、確立しているとか、充実しているとか、その余のものを、排斥するとか、そういったような性格のものではないのである。むしろ東洋の思想が確立、充実、排他、そういう性質のものであったならば、かえって唯物論思想をそのなかから誘い出し、発展させたことだったであろう。幸か不幸か、東洋思想はそういう性格のものではなかった。東洋思想はそれ自身すでに、はなはだ把えにくいものなのである。このように始末におえぬものが、じつに東洋の思想の大きな特長なのである。中江兆民は「主義の確立」<註1>という文章をのこしているが、そのなかでこういうことを言っている。「欧羅巴ようろっぱまさりて亜細亜あじあが劣るといふのはほかのでもない。欧のやつは思い切つた事をする、亜のやつは何分にも、のろ臭ひ」と言っている。兆民は、ヨーロッパ人たちは、言う行うことにおいて、確立をするが、東洋人はこれを避けることを、東洋人は「のろ臭ひ」という言い方で表現したのである。確立ということは、考える場合や、ものを言う場合では、定立ていりつ(thesis)という用語で言い表わされる。ゆるぎなくはっきり立てることが定立である。何々は何々であると、言い切ることである。言い切られたものは、客観的なものとなって自立するのである。定立は知識の出方でかたのであり、知識の約束である。定立ということがおこなわれなくては、数学もまともには発展しないし、科学も発達しない。ヨーロッパでは、経験にてらしては定立をつくり、経験にてらしてはまた定立をつくった。そうしてできたものが、ほかならぬ科学なのである。そのやり方は、近代までヨーロッパでは古代ギリシア以来めんめんと続いている。東洋では、定立は嫌われたのである。『老子』のなかの思想は、けっきょくは「不言の教を行う」(行不言教)ということに外ならない。はっきり言い切り、はっきり考えをきめることは、定立なのであるが、これを避けて定立のないままに大衆を導こうというのが、東洋の賢者のやり方であった。もちろん、一つの定立には、必ず形に陰影があるように、一の反定立(anti-thesis)がついてくる。この二つの定立の間を行こうとする東洋人は、定立を嫌い、定立ができたらそれをすぐ崩すことを、むしろ心がけたのである。弁証法論理があきらかにしているように、定立をすれば、すぐに反定立がもう出てきているから、一方の側面と他の側面とが同等の資格で浮びあがってくるのは当りまえである。さて、そうしたとき、どちらの側にもつかず、固執せず、同時に二つの側がはたらいていることに眼をつけようとするのが、東洋である。それで、「二際をほろぼすのが、菩薩ほんとうにもののわかったひとのやり方だ*註(2)」というのは仏教の精神だが、老荘の考えとまったく通ずる考え方であって、東洋的な考え方の特色である。ヨーロッパ人は、ひとつの定立にたとい他の定立がひっついて出てこようとかまわない。それを処理する次の定立を企てるのである。だから、いっこうに定立を避けようとしない。だから、はっきりした定立がいくつも累々とがなるようにできて、ひとまとまりになってくる。それがつまり科学の体系である。もし、考えをはっきりきめつけたり、言い切ったりすることが、悪いものを伴ってくるなら、さらにもうひとつの定立をもうけて、その悪さをとり去ろうとする、それはヨーロッパ的やり方である。二際を亡ぼさないで、それどころか、それを大切に生かして、ともに定立させて、二つの定立が争うのを争わせ、そのなかに現われ出るものを期待し、それをさらに定立させようとする。このように、ヨーロッパの学問では学問はつねに学的に技術的である。だから、発展がある。東洋では定立が生れるとすぐ崩すことに努めたから、も、もなくなるのである。弁証法が東洋にないことはなかったが、それが論理学として確立しなかったのは、このためである。
  ヨーロッパには、弁証法論理が成長し、とともに、唯物論が成長したことを、ひき離さないで考察することが大切である。
 インドでは冥想から数学が生れたが、それがヨーロッパのように成長しなかった。定立をやらないからである。定立をはっきりやれば、自然にそれを書きとめるはずである。書きとめないと、ほんらい葦のように弱い人聞においては定立は崩れて消えてなくなる。インド人は書きとめることを、すなわち、記録することをやらない民族だった。このことは、インド人に数学が本当に伸びなかったことと深い関係がある。書きとめて確立することをしなかったから、あれ以上数学が発達しなかったのである。エジプト人やバビロニア人たちは、数の知識や石や板や練りものに刻んででも、確立を貴んだ。定立のために手段を講じたのである。技術だったのである。東洋人は、できてくる定立のいわば灯をすぐに吹き消した。闇のなかにほんとうに明るいものを見ぬこうとしたのだといっていい。零を数としてとりあつかったのは、インド人である。ギリシア人は長さや面積のような量をとりあつかうことから数学を発達させたが、インド人は数そのものを発達させた。ヨーロッパ人は定木じょうぎとコンパスという手段をつかったが、東洋人はこうした手段を確立しなかった。おかくら・てんしん(岡倉天心)がそのなかで「アジアは一つだ」の思想をのべている『東洋の理想』のなかで、「地中海やバルト海の諸民族」のことを、「手段を探求することを好むところの諸民族」だと規定しているのは、たしかに当っている。天心はヨーロッパ人の先人たちが、手段を好むことに対して「アジア民族共通に」「広い愛の拡がり」ということをあげている。天心は彼のこの著述を英語でかいて、ロンドンで発行したから、やむなく愛という文字をつかっているが、「愛」などという定立は、ほんとうはアジア人はやらなかった。明治時代でも「愛」などというと、多くの人(常識人)はてれたのである。「愛」の定立には「憎」の他の定立がすぐ浮び出てくるのを、東洋人は嫌ったのである。「愛憎もと一体」などという言い方は、おそらくヨーロッパ人にはわかりやすい思想ではないであろう。キリスト教における、そして、一般にヨーロッパ人の生活史における「愛」は、仏教のなかでそれにちょうどあたる|ことばは、見出されないほどである。仏教では愛は「愛欲」「愛着」「愛恋」としかとられてない。『涅槃経ねはんきょう』をみると、『ほんとうにものがわかり、ものにこだわらない人は、愛を離れている」ということを言っているが、おそらく仏教の真意であろう。仏教ではむしろ近代人のラブは「愛染あいぜん」であるだろう。人格のできあがるのに妨げとなるものである。
 東洋人は、定立をしない、確立を避ける、というやり方を、自然に対してもやっている。自然界をば、どうしなくてもおのずから(自)なるようになってゆく(然)というように、東洋人はうけとっていた。無神論者のあんどう・しょうえき(安藤昌益)ですら、「自然」という字を「ひとりする」とよませている。ヨーロッパ人にとっては、自然界(natura)は生れ出る(nasci)ことから成り立っている。生れたものは、成長するであろうし、成長するものならば、成長して成長させることができる。「生れる」とは、最初から人間的な言い方である。東洋では、生れてこない自然、どうしなくてもそのとおりである自然、これが東洋人の自然(おのずからしかるもの)である。ひとりするものであっては、これに対して手段のほどこしようはないのではあるまいか。中国や日本では、自然界に対して人間が人間の力を加えて開拓することを、「開物かいぶつ」とか「開化かいか」とかいってきた。開物や開化を主張したことは、東洋の古典のなかのほんの一部に限られていた。『天工開物てんこうかいぶつ』(一七世紀)という中国の書物は、ヨーロッパの学問が中国に入ってからのちの著作である。自然界を開化することは東洋人の仕事ではなかった。中江兆民は、このことを鋭くとらえて巧みに言い表わした。彼の言い方によると、わが国では、「人民が開化し往くと謂うよりは、寧ろ開化其物の中へ人民を追い込む(註3)」というのである。知識の定立をしない東洋人においては、自然を定立のなかに置くことができない。そうだとすると、自然科学も産業技術も発達しようがないのである。では、東洋人にとっては開化は一切ないのであったか。ないのではなかった。あったのである。しかしいつからあるというようなものでなくて、はじめからあるのである。どこかで始まりようはないのである。開化そのものは時間を越え、空間を越えてあるものであった。老子が「万物はおのずから化しようとる」といった彼の形而上学は、日本では人民教化にさえ巧みにとり入れられている。日本では、「自然」を説く老荘はかえって実践的に利用された。価値をもった哲学としてではなく、この道教のいわば野放図のほうずの教えがかえって実践化されたのである。まことに不思議な国である。
 これでは唯物論は芽ばえることからが、日本、いや東洋では、むつかしかったといわなければならない。
 ヨーロッパでは唯物論のはじめをきかれると、ほとんどみな一致してギリシアのデモクリトスをあげる。デモクリトス(前・四六〇―三七〇年)は、周知のように、世界のすべてのものはアトム(原子)から成るという説をたてた自然哲学者として知られている。デモクリトスの書いたものは断片的にのこっているし、またギリシアのその後の哲学者たちがデモクリトスの説として言いのこしているものがあるので、デモクリトスの学説といっていいものは今日もつたわっている。知識や学問について彼が語ったものは、今日からみても光っている。それらのなかで特にめだっている彼の意見をまとめて、その科学的意義を要約してみると、こういうことができる。すなわち、

    1 原子と空間より外にはほんとうに存在するものはない。
    2 このことは永遠であって、変ることがない。
    3 存在するものは、ないと否定されることができない。
    4 すべてのものはきかいてきな運動である。
    5 何ものも偶然に生じるものではない、すべてのものはそれのもとから、しかも必然性でもって生じている。

 デモクリトスは、このようにはっきり言いきった。つまり、テーシスをもうけたのである。
 右の五つの考えはたいそう簡単なものであるが、これくらい科学の精神をいってしまっているものはないといってよいであろう。今日の自然科学が主張しようとする大切なものはみんないってしまっている、といっていい。(もっとも今日はデモクリトスのいったような、まったくの空の空間があるとは自然科学者はいわないけれども)。今から二千四百何十年まえにこんな意見をデモクリトスがいっただけではなく、後の学者たちが、ことにギリシアのアリストテレスやエピクロス、ローマのルクレティウスなどが、デモクリトスの学説をさらに発展させつつ、言いつたえたのである。近世では、フランシス・ベーコンいらいたくさんの哲学者、科学者たちがデモクリトス風の説をひきついだ。じつは、そうした学説が承認されて、あとあとへひきつがれたことが、ヨーロッパに自然科学の伝統が確立されたわけなのであるといえる。
 私たちがいま問題にしているマテリアリズムは、そういう自然科学の伝統のなかにあって、ぜんじ発展した思想にほかならぬのである。東洋にそういう伝統がなかった。東洋人はたとえばデモクリトスのように、定立をすることを拒んだ。もともとインドの知者たちもデモクリトスが提説したような、ひとつの学問的真理に思いつかぬのではなかったろう。インドの哲学者たちは、広大なる自然、複雑な社会、総じて宇宙ぜんたいのことは、テーシスをつくってみたところで、ほんとうに究極のものはつかめぬ、それでつかめぬならば、そのようなやり方はやめてしまって、なんでもひとつのこさずつかめるような宇宙大の智恵がほしいものだという、とてつもない、永遠といえば永遠、悠遠といえぱ悠遠な思想をもつようになった。それが割合にまとまって結実したのが、インドの仏教哲学の知恵(般若)の論である。このことは世界の仏教研究者たちの通説である。日本人が深い影響をうけた仏教が、みんなそろってそのような「高遠」の仏教だったというのではないが、日本の各宗の開宗者たちは、右のような仏教の智恵の論はのこりなく共通に理解したひとびとである、ということはできる。日本人には、一般に東洋人には、どこかたががはずれたようなところ、どこかで要領が得られるだろうから自然まかせだといったようなところがある。唯物論思想が生れなかったということは、また科学思想が生れなかったということである。

  註(1)『警世放言』(再版、明治三十五年)一八〇頁。
   (2) 竜樹の『中論』の序(中国の人僧叡のかいた文章である。彼の文章は「二際を沈さざるは菩薩のうれいなり」となっている)。
   (3) 前掲書一九八頁。

        四 どうして東洋では唯物論哲学がおこらなかったか
 東洋は、世界観とか哲学ということになると、はじめから難題を背負っていたようである。というのは、東洋人は思索することでは、わかりにくいものを最初から手にかけたが、ヨーロッパ人はわかりやすいものから手がけていったといえるからである。ヨーロッパのどの哲学史をみても、タレース(前・六世紀)がまず出てくる。この世界の本源は何か?  という問いに彼は答えてくれている。「水」だというのである。この水とはかめの水、小川の水、湖の水、そんな個々の水のことではなくて、およそ水といわれるもの、さらに湿気的なもの、さらに拡げて、胎生のもとなる精なる液、つまり世界のぜんぶにゆきわたっているもの(物)、これがタレースのいう「水」なのである。その要点は、精神的なものをさがしていっているのでないところにある。もちろん、タレースが出てのちまもなくアナクサゴラス(前・五世紀)のような哲学者が出て、やや精神的なものを世界の本源だとする説をたてはした、またやがては、ソクラテス、プラトンのごとき哲学者があって、精神の面を明らかにしてゆくようになったのであるが、それしてにも、哲学史のはじめはタレース的な問いではじまっているのである。かんたんなところからはじまっている。そしてソクラテスやプラトンにしても、物のことについては、技術や数学の考えを通じてつねに問題をすすめたのである。すじの通ることしか求めなかった。とにかく、「私」とか「精神」とか「作用」といったものから離れて、それとは別に客観的なもの(物)を問題にし、それについて何かはっきりした知識をもつようになっていたのである。ところが、それが東洋ではどうであろう。インドの哲学のはじまりは『吠陀リグヴェーダ』の哲学的讃歌だが、その最初のインド人の問いでは讃歌のなかでヨーロッパのように物には向けられない。おもしろいことに、インドの哲学的讃歌のなかでも「水」のことが出てくるには出てくるのであるが、それは物としてはとらえられていない。せっかくの「水」の考えが、「ゆうもなかった、もなかった、くうの世界もなかった。それをおおうてんもなかった」というような冥想的な問いと答えでもって、すっかりつつまれているのである。
 かようにして、古代のインド人は最初から困難な課題を背負っていたのである。インド人は水や火や地のことを考えてもいるが、だから物について考え、物をもとにして考えているかに思えるところが察しられないではないが、その水や火がまた精神的なものでもあるかのように考えられていた。だからヨーロッパ流にいうと、物活論はあったが唯物論はなかったと言える。ヨーロッパ人たちにおいては、考える態度がまったく東洋とちがっている。彼らにおいては、問いがもうけられ答えが得られ、そして知識ができるにしても、その知識はやがて仕事をしたり技術を練ったりすることに役立つように(ことごとく役立ちはしなかったが、役立ち得るようにそういうように)持っていっているのである。だから、「万物のもとは水である」といい切り、または「万物のもとは地水火風である」といい切り、あるいはまた「万物はみなつりあいという関けいからきている」(ピタゴラス)といい切ったりする。ひとつひとつ片づいていく。ことにこの第三の定立の如きは、後々まで技術的な知識にとってたいへん役にたった。なぜなら、ピタゴラスのつりあいとは数的かんけいのことだったから、数学の発展をうながした。ところが、インドではそうではなかった。手に負えないものに初めから手をつけたのである。したがって、定立はできはしない。いや、できないよりも先に、定立することは好まなかったのである。
 中国はインドとは世界観の出発がややちがう。むしろ出発はいいのである。『詩経』や『易経』のような古典からすでに、「物」「百物」「万物」というような言い方をしている。物を複数でもってとらえている。もちろん、その「物」とは水や土や、山や沢に限られているのでないので、そのなかには人間だって入っているので、その点すでに古代ギリシア人のやり方とはちがっている。いうまでもなく、近代人が「物質」とか「物体」とかいう場合の物の意味にけっして限定されてはいなかったことは、注意を要する。「物あり則あり」(『詩経』)というようなはなはだ学問的な言い方をしても、その「物」には人間(たみ)のこともふくまれていたのである。古代インド人の考え方との大きな相違がここに見出される。古代の中国では「物」の意味内容のうちには、たとい人間や精神も入れていたにしても、物という言い方をすることは、インド人とちがって、定立することを避けていないことである。それどころか人間がものを考えるときの法式(つまりカテゴリー)に対して、すでに鋭く反省をしていたのである。Kategorie というヨーロッパのことばに対し日本では「範疇」の語があてられていることは、周知のことである。それは中国古代の『書経』の「洪範九疇」の文字からとったことでもわかる。古代の中国人ははじめはこのようなすべり出しをしたのであったが、それにしてもしかし、古代ギリシア人やローマ人のような考え方はとらぬようになっていった。老荘的な違ったものだった。古代ギリシア人たちの場合では、自然は生じた物としての自然(physis)をさすのであった。中国ではそうでなかった。そこで私たちは、つぎの老子の言葉に注意してみることにしよう。「人間は大地の上にあるものにもとづいてきまりをつくった。その大地の上にあるものは、天にしたがってそのきまりができた。そのまた天のきまりのもとは道なんだ。さらにその道のきまりは自然なのだ。<註(1)>」。この一連の語でみると、発想においては、つまり地上のものに着眼されているところでは、人間の経験が卒直に出ていて、私たちは具合いいと思うのである。古代のギリシア人の発想と共通しているとおもえるのである。ところが、老子では、地上にあるもののきまりのところで、「水」とか、「湿なるもの」とかいうところへはゆかず、「天」なるものへゆき、さらに「どう」にゆき、とうとう「しぜん自然」なるものへと行ってしまっている。こうなれば、この「自然」はギリシア人の自然 physis ではない。ローマ人たちのつかった自然 natura だって physis と同じで、おのずと生れ出た物だという意味をもっている。老子では、自然ということは人間や人間のことばにつけていわれていることが多い。老子は「わざとつくらないことばが自然だ<註(1)>」というようなことをいったり、「こまかいことをきめつけないで、悠然としていて、ことばを大切にしていれば、どうしなくても事は成就するものだ。そうなれば、きっと百姓(人民)たちは、わが自然だととっているにちがいない。<註(3)>」というようなことをいっている。「自然」ということをいっても、ギリシア人やローマ人が自然といったものとは異ったものをさしたのである。中国のえき易では私たちに大いにのぞみをもたせるような出発をしている。易では天・沢・火・雷・風・水・山・地(八卦)のことをいっているのだか問いのきっかけになったのである。がしかし、かなしいことに、そこに一線を画すことはしなくて、観念的なもの、形而上的なものを考えることへと、ひきつづいて発展してしまっているのである。
 自然の解釈が形而上学的になるとともに、物といわれるものは形而上学的な意味のものとなっていった。そうなっていったのは、産業上の技術のあり方や、生産物の分配の仕方や、ひいては政治の仕方が、ヨーロッパの場合とちがっていたことと関係しあってできたのであるが、とにかく「自然」の考えにしても、「物」の考えにしても、ぜんじに形而上学的なものへと発展したのである。中国では宋代になると、仏教の思想が滲透してきていて、一層この傾向は強まった。いわゆる宋学(程朱学)の思想家たちになると、論をおこすやすぐに「天地」とか「万物」とかいったのであるけれど、万物といっても、地上のいろいろの物がはっきりと複数でもってつかまれているわけではなかった。たとえば、程明道(一〇三二―八五年)は「天地万物はその理の上からみると、独立しているものはなく、みなついをなしている。どれも自然にそうなっている」(皆自然而然)といったふうである。こうした形而上学は、中国では宋学が代表的だといわれている。この宋学のように抽象的な思索の仕方だけで済ませていたのでは、ヨーロッパに発展した自然学はもちろんのこと、自然の記述(自然誌)のような科学を発達させることはできなかったのは当然である。むしろ、そうした傾向を塞ぐのが宋学の特長ですらあった。日本の儒学もそのような系統でもって栄えていた以上、自然物につ一四、五世紀になると、学者たちは宋学(程朱学)の空疎な性質から離れてゆこうとするふうが起った。王陽明の思想はその実例のうちで著しいほうであろう。陽明はこんなことをいっている。「考えてみるに、物理は自分の心の外では求められない。自分の心より外に物理を求めても、物理があるわけではない。<註(4)>」「物理」といっても、ヨーロッパでいう意味のものにはとられないが、「物理」という語のつかい方は用語例があって、心のことだけをいうのとは、おのずから違っている。とにかく、空疎な思想でいっぱいだった。
 以上のようにして、東洋では「自然」とか「物理」とかのことばはあったけれど、その内容は空疎でしかなかった。空疎というのは、そういう概念(すなわち「自然」や「物理」の概念)をふたたび自然のじっさいの世界に戻して、そこでもう一度、検討することがぜんぜんできないという意味である。このことは人間たちの日常の生産の生活と、ああした考え(概念)とにれんかんがなかったことでもあるのである。虚空の考えはあっても、「空間」の概念はできてこない。したがって、真空の概念も気圧の概念も成長してこない。つまり、自然界のじっさいのものに戻してみることがなかったからである。こうしたことは、東洋に唯物論の出てこなかった大きな理由である。

 ;註(1)「人法地。地法天。天法道。道法自然」
   (2) 「希言自然」
   (3) 「悠兮。其貴言。功成事遂。百姓皆謂我自然」
   (4) (夫物理不外於吾心。外吾心而求物理。無物理矣)

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)
その他、「科学図書館」所収の、PDF も適時参照した。
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テキストの快楽(011)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(003)


     二 なぜ日本では唯物論者が出てくることがむつかしかったか

 さて、誰が唯物論者であったかをきめることは、急がないほうがよい。それよりも、なぜ日本では唯物論者が出てくることが困難であったかを明らかにするほうが、たいせつである。この問いが解かれれば、唯物論者がほんとうはどんな人であるべきであるにせよ、とにかく、そういう人が出てくる余裕も機会も日本にはなかったことがわかる。そういうようにたずねてゆくことが、けっきょく日本における唯物論者のあり方を明らかにしてゆくことに、もっともかなうように思われる。
 唯物論者の出てくることのむつかしかった日本とは、どういう国であったか。ずっと旧いことはここでははぶくことにしょう。ヨーロッパでいうとルネサンスの直前のころに日本で書かれた、北畠親房ちかふさの『神皇正統記じんのうしょうとうき』(一三三九年)をとりあげることをしてみたい。この本に照らしてみて、日本はどういう国であったのか、それを考えてみることから始めよう。この書を批評して、歴史としては粗略、文明史としては一貫した理路を欠くというように考える人(たとえば山田孝雄)があるが、私はこの日本が近世においてどんな国でありはじめたかを知るには、じつに恰好の文献だとおもう。『日本開化小史』の著者田口卯吉はこの本の著者の着眼の鋭いことを称揚したことがあるが、私は田口説をとりたい。さて、この書は巻頭まず、「大日本おおやまとは神国なり」と規定する。「日神ひのかみがながくとうをつたえいる」という点で、異国に例がないと著者はいう。さらにすすんで、親房はこの国をば「君子不死の国」だといっている。不死の国とは、この国にすんでいる人間たちは、「天性柔順で、道をもって御し易い」という意味である。このように、親房が日本という国をつかんでみせていることは、それからまた、そうつかんでみられるようにイデオロギーが当時もその後もできていたことは、まず誤っていないと考えられる。この国はそういう教化を国民に植えつけたことを、親房はよく知っているのである。さらに重要なのは、それまで日本国内にあったいろいろの思想方向を一つに統一しようろん南朝のための募兵の志にあったかも知れぬが、それはそれでよい)。書き方をみると、彼として成功している。彼がこの本を書いたころは、いわゆる鎌倉仏教の宗祖たちはもうすでに一世紀も前にそれぞれ一宗をたてていたのだが、彼はそれらには触れなかった。「一宗に志ある人が、余の宗をそしり賎しむことは、大きな誤りである」といって、ひたすらに調和をはかっている。それどころか、いろいろの世界観人生観(仏教・儒教・道教)はもちろん、産業技術(彼はその例として「稼檣」や「紡績」や「工巧」などをあげている)や経済や文学や芸能などをあげて、それらがこぞって盛んになるのが「聖代」といわれるものだとして、文化の全体をとらえて、それをいわば国策にそわせようとしている。このように文化(「道」)のぜんたいをとらえて論述していることは、あとにもさきにもないことだった。とにかく、日本の「近世」がはじまるにさきがけて、早く親房が『神皇正統記』を書いたことは、歴史的にいって意義が大きい。これより後の多くの歴史家たちが、この本によっていわゆる「皇代記」を固めていったのである。「大日本帝国憲法」の発布の翌年に公判された『国史眼』にしても、天皇継統表はすべてこの本に拠っているのである。『神皇正統記』の著者が日本の国柄をつかんでみせたその歴史眼は、後の歴史家たちに大きな影響をあたえた。彼のあとに出た日本歴史家たちで統一をうたわない人はいないのである。江戸時代のなかごろの社会批評家の太宰春台は、彼の『封建論』(一七四五年)のなかで家康の「英武」をうたって、日本の「海内統一」を称揚しているし、幕末のすぐれた史論家としての伊達千広は、彼の『大勢三転考』のなかで、徳川幕府の政治のもとの「大小の国々必一つに和順」せる太平無事のさまを強調しているのである。水戸光圀や頼山陽のことはあげるまでもない。
 親房は、私たちの用語でいえぱ、文化のぜんたいをながめて考察している。政治・経済・産業はもちろんであるが、批評家としての文士(「坐して以て道を論ずるは文士の道なり」と彼はいっている)や算術や詩論や諸芸の人々のことすべてをあげておいて、人はその性来の器量がちがうのだから、その分にしたがうべきだという思想を示している。何につけても調和、何につけても統一、これが彼の論旨である。
 私たちにとって、もっとも重要なことはつぎのような思想である。すなわち、調和または統一の考えがたんに政治的なものでなくて、この著者が把えているように、その考え方は日本人の一つの世界観となっていることである。個人個人の性格や能力の相違についての見解が、底深い宿命的な形而上学に根をもっていることである。どんな人生観をもつ、どんな職業をもつ、どんなイデオロギーをもつかは、そのひと個人の生涯で完了しないのだ、という世界観的な思想を、彼のなかに私たちは見のがしてはならない。これは親房の思想であって、彼が日本民族のなかに見てとった、かなり仏教の影響からくる思想である。人は、このイデオロギーに共感するか、あのイデオロギーに共感するかの違いはあっても、そのこと自体は(どっちにつくか、どっちについたかどうかは)さほど重大のことでなくて、もっと大きいもっと広い関係において、それぞれの個人が役立っている、その立場というか、世界観というか、とにかく、その広大さについていうと、人がどの職業につき、どの階層につき、どの人生観をもつかは、それ自体だけで完結しているのではない。たがいに補い合っている。だから、うわべ<傍点>はちがっていていいというのである。彼はこういっている、「われはこの宗に帰し、人はかの宗に心ざす。ともに随分の益あるべし。これ今生一生の値遇にあらず」と。だから個人の生活は来世までのびている。七生の説は当然出ていいようになっているのである。
 ここに利益という思想が出ているが、これは見落すことができない。『神皇正統記』の著者は一方において、とてつもない広大な、人間の一生をそのなかに包んでいるような広大な世界をえがいている。このなかでは偉大な調和ができているという信念である。ところが他方において、そのように考えてゆくのが得だ、利益だという思想を、そこにひそませている。彼はこういっている。「政治家ともあるものは、あれこれの教えをみなとりいれ、また人民のほうもそれぞれの教養のあるものをすべて見落さぬようにすることだ。そうするほうが利益のあることを忘れてはいけない」(「国の主ともなり、輔政の人ともなりなば、諸教を捨てず、機を漏らさずして、得益の広からん事を思ひ給ふべき也」)。以上のように、一方では形而上学的なものをもって全体をつつみ、まことに庶民にとって深遠なるものを示しておき、他方では実践上の利得ということでしぼっているのである。この混濁は日本的イデオロギーとして見落せないものである。いったい、このようなやり方がヨーロッパの世界観の歴史や宗教的思想史のなかに見出されるであろうか。これは親房の仏教思想からきていると思えるが、じつは、このようなゆき方やり方は、日本化した仏教の一つの特質なのであると私はみたい。インドや中国の仏教のあり方と日本のそれとの相違は、こうしたところにあらわれている。つまり、親房のいっていること、すなわち彼が日本の歴史のなかに見てとっていることは、すべて日本的特色であるという結論を下してよいであろう。このようにして、彼は日本は「君子不死の国」であると過去の歴史を見てとり、さらにそのように日本を規定したのである。そしてさらに、この国の人民は「天性柔順で、道をもって御し易い」ということを、あの著述でもって明らかにしたのである。私たちが今日いうところの「文化」は、日本の旧い、ことばでいうと「どう」くらいしか相当するものがないのであるが、仏道にしても、儒道にしても、神道にしても、その他、芸道げいどうにしても、人民を「御する」道具なのであった。人民のものとして人民のなかからできあがった文化だとは、いいにくいのである。外国から入ってくるどんな文化も、人民を「制御する」道具としてとり入れられたもののようである。
 このような文化の国においては、その国の人民のなかから人民の抗議の声としての唯物論は芽ばえてくることはむつかしく、唯物論者が出てくることは至難だったことは当然であった、といわねばならない。
 さて、ある国、ある民族のうちから唯物論者が出てくることの困難な理由は、以上の考察で十分なのでは決してない。それどころか、以上の日本的なものを、じつは世界観的に思想的に基礎づけていたものがあり、それはヨーロッパの学問思想がそのぜんぶの幅をもって日本に入ってくるまで、ずっと成長し、発展したものであった。それを私のぜんぶの幅をもって日本に入ってくるまで、ずっと成長し、発展したものであった。それを私は、つぎの第三節で「東洋にはなぜ唯物論哲学がなかったかのであるか」という題でのべてみたい。

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)
その他、「科学図書館」所収の、PDF も適時参照した。
なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用い、傍点は、太字表示の b タグ を用いた。