テキストの快楽(014)その2

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(006)

第一編明治以前

第一章への補 東洋の学問

 第一篇の第一章の諸節のなかに出てくる思想家たちを、私たちが歴史的に理解するためには、この人たちがそのなかにいた日本の学問、ひいては東洋の学問の本質をとらえておくことが、何よりも必要である。そのため、私はかつて発表したことのある同名の題の論文に多少の筆を加えて、ここに「補」として収めておきたい。

           

 いっぱんに歴史がほんとうに明らかにされるのは、歴史への眼が現代の眼であることによって、おこなわれるのである。学問の歴史があきらかにされるにおいても同じことである。だから歴史では、いつでも現代の眼がととのうことが、何よりも大切である。唯物論の歴史においては、なおさらである。私たちの現代の眼で科学(ここでは科学という言い方と学問という言い方を区別しないことにする)を見ると、いちばん大切なものが三つ眼につく。ひとつは人民大衆である。もうひとつは自然である。最後のひとつは人や自然のことを知る知識がみな確かなことである。この三つのどれか一つ欠けていても、それはもはや現代における真の学問でないことになる。原子物理学が現代の学問だとすると、この三つの要件を完全に充足させつつ進んでいるはずである。もし、そうでなく、たとえば人民大衆という要件がひとつ欠けていると(というのは、大衆に触れさせない、大衆に秘密になっている、つまり大衆の生活と幸福が考えられていないという意味である)、その学問のある国家はやがて必ず蹉跌し、その国での学問はくずれてゆくに違いない。(そういう実例は今日ないのではない。)現在では科学はまさしくそういうところまでもうきている。これは変質的といっていいほどな学問のすばらしい発展である。私たちの現代の学問の眼は、以上のことを見てとっている。
 さて、学問の歴史を見る眼でみるとして、東洋の学問はどういう学問であったのだろう。これは東洋の学問を根本的に考えてみるにおいて、ぜひ必要なことである。まず人民大衆のことはどうなっていたか。学問と自然はどういう関係であったか。知識の確実性はどう考えられていたか。私たちは最初に中国の古代の学問から問題にしていくことにしよう。えきは当時の科学だった。老子や荘子の学問も、ちゃんと歴史的な役割をもった科学だった。孔子や孟子のそれも同様だった。これらの古代の学問は、あの三つの条件(人民と自然と知識の確実さ)をどういうように具えていたか。私たちはここで、あるひとつの便利な道をえらぶことにしたい。というのは、中国古代の学問にじかにぶつかってゆかないで、それを日本人が受けとったところで中国古代の学問を見るというやりかたをえらぶことにすれば、かねてもって、近世の日本人の学問観も同時にわかるからである。したがって、私たちがこの本でとりあつかっている人たちの学問思想の性質も、浮きあがって眼につくことになると思う。

           
えきをほんとうの学問としてうけとり、これに向って努力した学者として、さしむき皆川淇園みなかわきえんをあげることに問題はあるまい。ところで、易という科学は人民のこと、自然のこと、確実さのことをどう満足させていたか。いいかえれば、淇園はそこのところをどううけとっていたか。淇園は易のもっとも学問らしいところを易の開物思想<註(1)>のなかに見てとった。「開物」のぶつとは、いわゆる常識的なもののことでなくて、なんでもよいが、その実質が確定して曖味でないもののことである(「物と云ふは、何にてもその質の一成いっせいしたる所が他と混ずることなく、別にして挙げすべきになりたる物」)。開くとは、その物が隠れているところから、すなわち大自然のうちからこちらへ出てくること、出すこと、または不明な考えが明瞭になることである。(「物をさすことなり」「あらはに見えることをも、見え来さすことをも言ふなり」)。だから、隠れているもの、不明確なものを発見し発明し、それを明確にすることが、易においては「開物」であった。だから物とは「日月・星斗・風霆・烟気」のような「萬物」はもちろん、天地間の「有形の物」をすべて指している。また「人の心に一成したる処の様子ようす」のものも「物」として取り扱われる。さて、開物がそういうものだとすると、易は自然を対象とし、これを開明にするものであり、しかも、それらを確実に取り扱うことも厳しかったとせねばならない。「其の実を相違なきやうに知ること」が強調されているし、「己が物ずきや又は旧習にまかせてきめる」ことがいけないこととして警められている。主観化を避けることをすすめている。そうだとすると、確実さのことはある程度までは意識して、努力していたといえる。それでは、人民のことはどうだったか。問題はここに出てくる。といっても、人民のことが考えられていないのではない。易にとって重要なことは、「天下の民の日用に執扱とりあつかふところの物の実を規矩としてそれに順じて行ふことが肝要」というように淇園はいい表わしている。つまり、学問における真理の基準が示されているのである。人民の生活のうえでの「物の実」が、じつに学問の真理の尺度なのである。易という科学の底には、自然と人民と、その人民と自然についての知識の確実さ、これら三つが狙われていた。しかし、まことに遺憾なことに、その人民大衆は、直接に科学する人たちと関係することになっていなかったことである。東洋の学問のもっとも大きな欠点は、むしろこのところにその芽があると考えられる。人民大衆を「天下の民」とおさえたことに災いのもとがあった。というのは、その天下は王のものであることがもともとから(ア・プリオリに)東洋ではきめられてしまっていたからである。易は「何の為に云ふことを弁ぜんとならば、先づ其の旨の大略を心得べし」といっておいて、その最初に出てくるものが、「天下に王たるの要」なのであった。開物は、すべてこぞって「天下億兆の民を治むる<註(2)>」ことへと集中されてしまうのである。だから、易という科学のなかでは、せっかく人民大衆はまず第一の関心事となってあらわれるのであるが、かなしいことに、王権の手中に一度握られたものとして、登場するのである。東洋の学問がどこかで欠けているその根元は、このところにあるとせざるを得ぬのである。もちろん、知識の確実さという条件のことがあるが、これはあとで述べることにしたい。とにかく、易は以上のような科学的性質を具えていた。

  註(1)「夫易ハ 何為スルゾヤ。夫シテ天下之道。如期而已者也。」(『繋辞』上)
   (2) 以上の引用はすべて淇園の『易学階梯』から。彼には『易学開物』その他、日本の学問史上参考になる著述がいくつもある。

           

 易という科学が何よりも自然を対象にしてできていたことは注目されてよい。しかし、自然を問題にし、今日でなら天文学や気象学や地学がとりあつかうもの対象に眼をつけて、学問の大きい筋みちをつけたのはよかった。すばらしいことだった。うそをいわない、公平な表現をする自然界の現象にもとづいて、易のしょうをたてたのはよかった。「物を開き物さだめあれば、其のつとめとし行ふ処も、常のおしへかた定あることになりて、いづくまでも一成したるきまりにはまりてたがはぬことになりゆく」と淇園はいっている。さて、象というのは、手に触れられる物(これは形といわれていた)ではないが、学問するものが必ず「意想する<註(1)>」ところのものである。もともとは古代人たちが大空の中に見た日や月や星や雷など(これは手にはふれられない)を見るところから、思いついたのであるが、――― 今日のことばでいえば―――概念のなかにシェーマのようにできている心像をさすことより外のことではない。ラテン語でいう speci にたいそう近い意味をもっている。中国古代のある選ばれた人たちが、このような象をいくつも持ち、それを組織するようになった。そこで、易では「象を観じる」というこをいうのであるが、象を観るのは、けっきょく自然界にあらわれる象や形をよく観察することから得られる。それはまた自然界からでなく人間の世界のなかからも象は得られる。ところで、象はとりあつかいにくいものだから、これにことばをむすびつけて置かねばならない。それが易できびしくいう「」である。辞は象がもとで生ずるので、「辞を生ずる象を観る」ということがしばしばいわれるわけである。もちろん、手相や人相を観るというようなことは、ここでは問題にならない。そこで、辞はしたがって厳格にとりあつかわれる。「辞の生じて来る象を目に忘れずして、あはせて記憶し、其の辞を活かして我心に往来せしめること、第一の要」だといわれた<註(2)>。象が辞と結合したものが、今日の理解でいえば、物についてのほんとうの具体的な概念である。しかし、易はことばにばかりかかずらわっていてはいけない。「書きたる文字ばかりにては、生ける人、其れを言ふとほりを尽さず<註(3)>」と、淇園はいっている。このような易学の方法をきびしくいうところに、古代にあっても、学問するものにとって確実ということは、意識的に関心事であったといえる。
 このように確実性のことは、自然界を問題にすることと共に、とにかく易のなかにあった。だから科学だった。ところで、この科学がヨーロッパでのように、観察と実験を主とするサイエンスに発展しなかったのは、どういうわけであったろう。これは東洋と西洋の学問のちがいを考えるとき、たいそう大切だ。それは生産技術のあり方の相違の問題と関係するのだが、今はそこまでは入らないことにしたい。一口でいえば、物の長さや重さや物の性質の度を測って知ることが、中国にもインドにも、そして日本にも、古代からひどく無関心のままだったこと、じつにこのことが、ヨーロッパをサイエンスの国々に、東洋を漠然とした学文がくもん(江戸時代の人たちがよくつかった語だが、なかなか特長がよくでている)の国々にしてしまったのである。それがまた、学問と人民との結びつきが悪かったせいでもある。帝王や諸侯たちの座に居る、少くとも近づき得る人たち少数のものの間で、学問がつくられていて、町の人たち、市場の人たち、田園の人たち、工作をする人たちの間で話し合い、論じ合うようなかたちで成長しなかったことと、確実性の問題は固くむすびついているのである。ヨーロッパには古くから、「私がそのことを知っていることを、他の人たちも知っているのでないと、知るといっても〔じつは〕知っていることではないのだ」( scire est nescire, nisi id me scire allius scirit. )ということが、いわれていたのであるが、知識といえばすぐに大勢おおぜいのもののことがともに考えられる習慣があったのだとおもう。東洋では、すぐれていいことを知り、それを言うことは、すぐに王侯のところへもってゆかれ、王侯が人民大衆を治める役にたつことが、めあてにされも、間違いではない。

 註(1) 東条一堂の『繋辞問答』。
  (2) 淇園の『易学階梯』。
  (3) 前掲書。

           

 老子の学問となると、あの三つの条件は少からず後退することになっている。科学の性格が稀薄になっている。老子の学問でも、「聖人」と「民」とがまず向いあって出てくる。もちろん、老子では、はじめから「学問」みたいにつくられたものは決して好ましいものでない。それにしても、ほんとうの真理、具体的で現実的な真理(「玄の又玄」)は、老子のいうように、「衆妙の門」かも知れぬが、人民(「たみ」)の手もとで役に立っていたものではなかった。人民のうえに学者を置いたりなどしないなら、人民をして争わせないですむ、それがいいことだ(「不賢。使民不争」)と、老子は言っているが、そういうことを言う老子や老子みたいな人たちは、人民の間にはいなかった。老子的な学問の思索は、百姓ひゃくせいには通じかねる性格にできていた。老子の学問は、「聖人」であってほしい天下に王たるべき人にむかって、語られている。百姓が対象ではない。江戸時代に、田舎の知識者たちに『老子』を講義してまわった珍しい学者の海保青陵かいほせいりょうは、こんなことを言ってきかせてやった。「凡そ人は皆同格なり。上の人も人なり。下の人も人なり。人が人を自由にせんとすることは、元来六ヵ敷ことなり」。このようなことは、彼が文化の頃に生きていたから、そして僻遠の土地でしゃべったからよかったものの、将軍のための学問しかはばのきかなかった都会で、公けに言える思想ではなかった。
「常道」を設けなかった老子の学問だって、以上のとおりだから、いっぱんに儒学といわれる学問となれば、科学が具えているべきあの三つの要件はまことにあやしくしか充足されてなかった。しかし、儒学は日本の近世では、中央に大学をもち、諸国にはいろいろと学堂や学館をもち、学問として繁栄したから、つまり社会のなかで現実的な力をもったから、あの三要件のどれかを充たしたようにみえるものがなくはなかった。近世の日本の学問がどんなものであったかを見るには、日本の儒学に注意することはぜひ必要である。

           

 今からみて儒学がほんとうの学問であったかどうかについても、私たちはあの三つの要件にあててみることを試みよう。儒学でただひとつ学問の要件を充たすかにおもえるのは、人民と学問との関係がいつも考えられていたことである。すなわち「親民たみをしたしむ」この思想である。他の二つの要件、自然にならうことと知識の確実性を期することとは人民を親しむことほどには、儒学では充足されていない。だから、あれほど江戸時代において儒学が栄えたにもかかわらず、ほんとうの学問は興らなかった。徳川幕府の学問の中心は昌平坂学問所(一八〇〇年)だった。聴講者の多いときは三百人もいた。その他にも徴典館(一七八九―一八〇〇年)、明新館(一八五八年)、日光学問所(一八六二年)、修教館(一八二五年)、明倫堂(一六四七年)、和学講義所(一七九三年)、学習院(一八一八―四六年)など、また学術の府としては医学館、礼寿館(一七六五年)、医学所(一八五八年)、精得館(一八六二年)など、幕府関係の学校は少なくなかった。諸藩の学校は藩の数だけあるのみでなく、同一藩のうちにも二つ以上ないことはなかった。だから、その数は実に多い。しかし大学(昌平坂学問所)をはじめとして、学校は決してひろく門戸をひらいてはいなかった。大学は僧侶を入れなかっとおらないことは誰にもすぐ気づかれる。しかし、それは日本の学問の本性として当然だった。というのは、「民を親しむ」ということは、もともと、王侯及びこれをめぐる人たちの学則の趣旨のひとつにすぎぬものだったから。問題の重点はここにある。
 儒学には、学問を論議するとき、すぐに基準になる文献があった。それはもと中国の古典『礼記』のなかの一篇だった『大学』である。日本の代表的なたいていの儒学者が、『大学』の註釈を書いたほど、『大学』は学問論の典拠だった。「大学の道は明徳を明らかにするに在り、民を親しむに在り、至善にとどまるに在り」。つねに『大学』冒頭のこの文章が学問論のすべての論議を決定した。試みに、そのほうの著述で数多くの読者をもった中江藤樹の解釈について、「親民」の意義を明らかにしてみることにしよう。正しい学問、真の学問としては、儒学の「親民」の思想だけが希望の置かれるところでなくてはならない。藤樹は学問論としてはすぐれたものをのこした(彼の『大学解』参照)。彼はこういっている。「時代が後になると、科学が分化して、歴史だけ研究したり、論理だけに固定したり、言い表わしだけに努力したり、抽象的なことだけで具体的なことに向かない、そして、このようにして異端の学問を好むというような誤った考えがおこりはじめるものだ」(「后世学術破裂して、我は迹に求め、或は格式に滞り、或は言詮に求め、……或は高遠に馳て卑近をゆるがせにし、或は文字言句の末に滞り、種々異端を攻むる惑きざす」)。それでは学問にならないから、「学者の工夫」はどこにあればよいか、ぜひその点を明瞭にしたい、そう藤樹は言って、「明徳を明らかにする」という意味を示そうとする。彼によると、いや、どの儒学者もこの点は一致しているのだが、「民を親しむ」のは「明徳と感通する」ことであって、けっきょく同じことである。ことば通りにうけとれば、人民大衆を「愛する」ことは学問の大道だということになるのである。もしそうであったら、近世日本の学問は、いっぱんに東洋の学問は、現実の学問の軌道のうえに出たはずである。しかし、そうではなかった。人民大衆そのものはここで必要はなかった。人民のじっさいの動き方や人民の意見やに基づいて、学問がどうにかなるというのではなかった。人民を治める方法、その技術に必要だということに、「親民」の概念の本質があったのだ。明徳がどこまでも問題なのであった。徳は王者の徳であり、大人の徳であった。「明徳は全体の総号なり。親民は妙用不昧の名なり」と彼はいっている。けっきょく、治める人たちの道徳(=きまり=習俗)、それが明徳であった。「民を親しむというのは、ほんとうの実体をつかむのに便利であるところを指していうのだ。」(「親民は本体を認むるに便ある所を示すのみなり」)。藤樹は、その半生を人民大衆の中にいた。日本の儒学者のうちでは(安藤昌益や三浦梅園などを別とすれば)事実もっとも人民に親しんだ人である。それでもしかし、彼の学問は、「明徳」の思索をすること、それを認識論的に思弁することで、いっぱいであった。
 儒学では、その最初から人民があらわれたが、それは生きている人民の生活ではなく、人民に課すべき道徳のことがあらわれていたにすぎない。もっとはっきりいえぱ、制御されるべき人民の制御の仕方=政治的習俗が問題の中心だった。それは「人の道」を明らかにすると、どの儒学者も言ったものだった。荻生徂徠の学問にも、人民のことがあらわれていた。そして、人民を決して抽象的な観念としてとりあつかってはいないように論説してはいるのである。「一人を以て言ふに非ず、必ず億万人を合して言を為すものなり」。彼はこうもいっている。「今日世の中をながめてみるのに、人は孤立しているものではない。群だ。士も農も職人も商人も相互かんけいして生きている。でなくては生きられないから」(「今試みるに、天下を観るに孰れか能く孤立して群せざる者ぞ。士農工商は相助けて食むものなり。是の若くならざれば則ち存すること能はず。」)相互扶助の思想が出てもよいのであるが、儒学は人の思想をそのほうへは決して導かない性格にできている。その「群」は集りとしての社会( Gesellschaft )ではなくて、王が導いていた羊の群れだった。この群れは善良なる人民の群れだった。だから、荀子ですらも、「君は善群なり、群道当れば則ち万物皆其の宜しきを得」(『王制篇』)といっている。日本の秀抜なる儒学者荻生徂徠は、この荀子の意見に同意して、「君は群なり」という考えを立てた。人民は億万いようと、「能く億万人を合する者は君なり」と明言している。せっかく日本の儒学にも人民大衆は学問のキイポイントにあらわれたのであるが、かえって学問をこぞって政治イデオロギーとしてしまい、学問を不毛のものにしただけでなく、日本にほんとうの科学のおこってくることを妨げすらしてしまった。
 学問に志した青年たちは、もう一八世紀の終り(ヨーロッパでなら近代の科学が文化ぜんたいのなかで大きな結実をしはじめた時代にあって)学問に入ることによっていよいよ真の学問への道を見失っていった。当時、学問の立場の自由を誇るかにみえた学者たちすら、たとえば『聖学知律』の著者加藤賢梁は、「学問は君子の先務にして、人道之至要なり」といい、その君子は単に教養の高い人というのでなく、王侯の政治のためになる人のことであった。学問は「王家の嘉謀なり」とまで、言い切っている。

           

 儒学は自然と知識の確実性の要件を満足させることから遠ざかっていた。私たちが、日本に経験科学または自然科学の名で呼べる学問の歴史をたどってみようとして、困難なのはそのためである。しかし、近世において、学問に従事した日本人がみな自然界に眼を向けなかったのではなかったし、知識の確実性に心を寄せなかったのではない。学問の真理の基準を自然のなかに見出そうとした学徒を、私たちは今から二百年近く前からならば見出すことができるのである。吉益東洞(一七〇二―七三年)や三浦梅園(一七二三―八九年)や安藤昌益などはもっとも目だっている。東洞は日本の医学の開拓者だった。医学者にとって自然とはまず病人の身体だった。ところで、もし日本の医学者が自然を対象とするのであったら、その前に「陰陽・五行」の古い形而上学を、学問から掃とうせねばならなかった。東洞の、『医事或問』と『医断』とは、彼のそのほうの批判書として輝かしい存在である。彼の批判と啓蒙の後にオランダの学問が入ってくるという順序が日本で歴史的に起ったのは、日本の学問にとっては幸福だった。東洞は「陰陽は天地の気なり。医(学)に取ること無し」と宣言した。五行の形而上学的医学者たちを「無用の徒だ」と斥けた。彼はいっぱんに学問のなかで抽象的な思弁のみするものを、「さくして以て之をし誣ふ」るものだとして、断然排斥した。彼は生活行動のうえで豪傑の風があったが、学問の仕方にも決然たる態度をとる風があった。つぎに、梅園であるが、彼が日本の学問の欠点を衝き啓蒙した功績は大きかった。それは、とくに彼の『玄語』の序論と『多賀墨郷君にこたふる書』に明らかである。「ほんとうに自然を見ぬくということになれば、聖人とか仏陀といったところでけっきょく人間なのだから、私たちは学問の討究においては同僚であるにすぎない。先生とすべきものは自然である。<註(1)」こうした意見は、儒学者たちに対しては、まさにいわゆる頂門の一針だったろう。梅園においては、自然が基準だという考えには、すぐにあの知識の確実性のことがむすびついていた。彼は学問の方法の精密性についてはヨーロッパの影響のもとにあったといえる。「天体の運行についてなら、天文観察の専門家がいるし、地上のことならば地理の科学書がある。西洋から科学が入ってきてからは、事実にあたってみ、実際に測定をやってみるようになっていて、だんだんと精密になっている<註(2)。」そう言っている。つきに、オランダの学問の影響が日本の学問のあり方をため、それをただすようになったことには、杉田玄白らの学問活動も大いにあずかっていたろう。玄白の前に動物(てん)を解剖してみた学者はいたが、玄白らが死体解剖を敢行してからは、東洞のいわゆる「親試実験」の主張や梅園のいわゆる実徴実測の主張は、いっそう説得力をもつようになったにちがいない。玄白はこう言っている。「私は医学のほんとうの真理は、ヨーロッパのオランダにあることを知った。考えてみるに、医術の源ということになると、人間のからだのいつもの正常な形態、からだ内外うちそとの情勢を細かに知りぬくことがもっとも大切であると、オランダではいっている<註(3)。」このような啓蒙的意見は、陳腐で固陋な儒学者たちを不快にさせただけでなく、敵意をいだかせた。たとえ死体とはいえ、人身に刀を入れ、これを開いて見せるとは、人倫に背くことも甚だしい、という反対の論文を書いた儒者もいた。
 東洋の学問のあり方のかなり正しい縮図としての日本の学問は、オランダの学問(そのもうひとつ前のいわゆる南蛮から移入した知識と技術とは、まだ日本の学問をためるほどではなかった)の移植を先頭にし、おくれてフランス、イギリス、アメリカ、ドイツの科学・技術が日本に移植されはじめてから、ぜんたい的に変化しはじめたのである。そうではあるが、幕末約半世紀くらいの間にあって、自然科学の各部門の学者たちが果した研究や紹介や翻訳や教育やは(たとえ彼らは学問論はしなかったにしても)ぜんじに日本の学問の変革を準備したのでなくてはならない。だから、たえず観測をした天文学者、気象学者たち、たえず実践のなかにいた医学者たち、西洋の数学を移した数学者たち、新しい技術を導入した先覚者たち、語学教授者たちの隠れた功績は、まことに大きかった。
 明治初年に福沢諭吉が『学問のすすめ』を書く頃は、もう右のような功績者によって下準備はすでにできていたということができよう。
 さいごに、つきのことをつけ加えたい。ようやく明治の終りころになって、学問論がその緒につきはじめた。それは外でもなく、自然科学に対し自然科学とはいえない学問の固有性をあきらかにした西田幾多郎の一連の科学論である。しかし、まだこれでは学問の性格が本質的には明らかにならなかった。もっと根本的な課題があった。その課題を背負ったものが、唯物史観の立場からされる科学論である。というのは、学問も人間の生活のあり方の一つであって、人問の生活の基本様式の認識をはず外しては理解されないから。それを鮮明にする課題をもって立ったのが唯物史観であったからである。学問の階級性ということが、ここにきてはじめて明らかにされたのであった。

 註(1) 「天地達観の位には、聖人と称し仏陀と号するも、もとより人なれば、畢竟我講求討論の友にして、師とするものは、天地なり。」
  (2) 「運行は推歩家あり、形体は天文地理の書あり。西洋の学入りしより、これを実徴実測に試みて、次第に精密になれり。」
  (3) 「真の医理は、遠西阿蘭おらんだにあることを知りたり。夫れ医術の本源は人身平素の形体内外の機会やうすを精細に知り究るを以て此道の大要となすと、かの国に立つればなり。」

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)
その他、「科学図書館」所収の、PDF も適時参照した。
なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用い、傍点は、太字表示の b タグ を用いた。

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