◎なげやりな気持ちが人間を空虚にする 一九三七年九月二十日
世情が騒然としているとき、ゆるがせにできないことは、魂が浮きあがって、足埸を失いかけてはいないかと靜かにみずからに問いかけてみることだ。
ある浪曼派の有名な文学者が出征したとき、その友のМ氏は彼のことを書いていて、「彼は電報片手に闇の道を歩いてゆきながら、頻りに、これで助かった、うまく締めくくりがついたと繰り返していった。それほど最近彼は破綻と行きづまりのどん底に落ちこんでいた」(日本浪曼派』九月号)といっている。
どんなことをし、どんなことをいっていたにもせよ、すべての行動が、こんなやけ半分の気分でおこなわれているのでは、それは、どうかと思われる。
この世の騒がしさは、批判とか、悩みとかを越えて、厳粛な事実である。一人一人の具体的な爽かな対策が必要である。それがもたらす不幸を最少にし、それがもたらす積極的なるものを最大にするために、健康に、敏速に努力すべきである。
そのためには正しい見透しと、正しい知識と、ゆるがない信念とが必要である。魂の静けさが必要である。
それがいくら困難でも、無理でも、この静けさは獲得しなければならない必要なものである。努力と訓練のみがそれを得ることを許すのである。
今自分は何をなすべきか、そして、何をなしたら、内からの、モ—ターがうなり出したような安心な、世の騒がしさを蓋うだけの力強い気持ちがもてるか、それを具体的に探し求めなければならない。人々のかかる場合の任務は多い。戦争に行ったつもりですれば、いくらでもできるはずだ。ただぼんやり悩んだり、雑談したりしていることが一等人間を空虚にする。
事実が、真剣な、厳粛なものであるかぎり、放語的なものに終わる批判はむしろ危険である。それは自分のみならず、人々をも単なる空虚な、なげやりな人間に導く危険がある。
スピノザはいった「平和とは、争いがないことをのみいうのではない。それは、強い魂の持ち主が味わう徳である」。