中井正一「土曜日」巻頭言(01)

 10年以上前に、中井正一の「土曜日」巻頭言の数編をアップしたことがありましたが、サーバーのHDD不調のため、今では閲覧できません。そこで改めて、「土曜日」復刻版から、OCR で復元できたものを、土曜日毎に掲載してゆきます。とりあえずは、Facebook にかろうじて残っていた、創刊号(1936年7月4日)巻頭言から…(この項は新字新かなです。)
 中井正一の経歴などは、Wikipedia 中井正一 を参照してください。また、青空文庫にも、彼の作品があります。

◎花は鉄路の盛り土の上にも咲く

 しぶく波頭と高い日の下に、一杯の自分の力を感じた冒険者の様に、かって人々は生きた事があった。今は冷いベトンの地下室で、単調なエンジンの音を聴きながら、黙々と与えられた部署に、終日を暮す生活が人々の生活となって来た。
 営みが巨大な機構の中に組入られて、それが何だか人間から離れて来た様である。明日への希望は失われ、本当の智慧が傷つけられまじめな夢がきえてしまった。しかし、人々はそれでよいとは誰も思っていないのである。何かが欠けていることは知っている。
 しかし、何が欠けているさだかには判っていないのである。人々が歪められた営みから解放された時間、我々が憩う瞬間、何を望み、何を知り、何を夢みてよいかさえも忘れられんとしているのである。それは自分に一等親しい自分の面影が想出せない淋しさである。
 美しいせせらぎ、可愛いい花、小さなめだかが走っている小川の上を覆うて、灰色の鉄道の線路が一直線に横切った時、ラスキンは凡ての人間の過去の親しいものが斜めに断切られてしまったかのように戦慄したのである。しかしテニソンはそのとき、芸術は自然の如く、その花をもって、鉄道の盛土を覆い得ると答えたのである。
 この鉄路の上に咲く花は、千鈞の力を必要としたのではない。日々の絶間なき必要を守ったのである。我我の生きて此処に今居ることをしっかり手離さないこと、その批判を放棄しないことに於いて、始めて、凡ての灰色の路線を、花をもって埋めることが出来るのである。
 『土曜日』は人々が自分達の中に何が失われているかを想出す午後であり、まじめな夢が瞼に描かれ、本当の智慧がお互に語合われ、明日のスケジュールが計画される夕である。はばかるところなき涙が涙ぐまれ、隔てなき微笑みが微笑まるる夜である。 土曜日

昭和十一年(1936年)七月四日(創刊号)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です