読書ざんまいよせい(025)

◎正岡子規スケッチ帖(004)

①同日 茄子《なす》
②七月二十二日晴 天津桃
③七月二十三日雨 甜瓜《てんか》[マクワウリ]一ツ梨二ツ
④[下村為山の画]

第三部から

子規氏の絵 下村為山

 自分が子規氏を知つたのは、子規氏が一高の寄宿舎である常磐舎に居た時であつた。常磐舎の監督をして居たのは、自分の親戚にあたる鳴雪〔内藤鳴雪〕氏で、鳴雪氏の家と常磐舎とは廊下一つでつながつてゐたので、時々嗚雪氏の所へ遊びに行く内、いつか常磐舎へも次第に出入するやうになり、子規とも相知るに至つたのであつた。その当時、子規氏は好く故人の俳句を写してゐたやうに憶えてゐる。
 その後私が本郷の湯島に下宿してゐた頃、子規は二三度訪ねて来てくれたが、何をその時話し合つたか忘れてしまつた。私は子規氏が「日本新聞」に入つた時代には郷里に帰つてゐた。が、日本新聞の別動隊といふべき「小日本」を出した時、子規氏は私に手紙を寄せて、今度新聞に俳句欄を作るやうになり、挿絵を入れたいと思つてゐるが、君一つ書いてはくれぬだろうかと相談されたことがあつた。当時の私は今のやうに日本画はやらず、専ら洋画をかいてゐたのであつたが、一々画材|迄《まで》指図されては困ると言つて、それに応ぜず、断りを言ひ送つた。で、挿絵は不折〔中村不折〕氏の方へ廻ることになつた。

 私が再度郷国から上京した時には、子規氏は、最早《もはや》病人であつた。私は常に御気の毒だと思つてゐたので、度々出かけて余り病人を疲労させてはと思ひ、却《かえ》つて見舞にも出かけずにゐた。唯だ句会には欠かさず出かけて、そこで子規氏に会つてゐた。子規氏は、病中にも拘《かかわ》らず好く短冊をかいては私にくれられた。その短尺は今も家に取つてある。

 恐らく誰にも話されなかつたことだらうと思ふが、或る時、子規氏は私に向つて、体が丈夫なら画家になつて見たく思ふよと言はれたことがあつたが、子規氏は却々《なかなか》絵が上手で、絵画の天分は性来的にもつてゐられた人のやうであつた。寝て居て、枕頭にある花や果物|杯《など》を水彩で写生してゐたが、その絵は誰に習つた訳ではないのに、自ら一家の風格を具《そな》へてゐた。言はば子供の自由画式のものだが併し簡略な筆致の中に却々好いものを表現してゐる。子規氏の絵について思ひ出したが、つい先日、私の郷里の人から、子規氏が幼年の折、(十二三歳時分)誰のものか分らぬが、或る画手本を写したものを送つて、私にその画帳に何か記してほしいと言つて寄越したことがあつた。その子規氏の写した画手本といふものは余程《よほど》好く考へて作られたもので、人物、風景、魚貝類の一々を、何人にも描けるやう、運筆の順序を一格々々平仮名文字で説明し、それを三十一文字の歌に作り成して、歌の通りに筆を運ぶと、自然画が描けるやうになつてゐたが、凡そ三四十枚ばかりあつて、赤紫の二色位で色取りが施してあつた。小冊子ではあるが、子規氏は実に根気好く、且つ忠実にそれを写してゐた。さうして表紙の裏に「正岡|升《のぼる》写す、十二歳」と記してあつた。私は此《こ》の画帳を見た時、子規氏が幼少時代より美術的に天分を有してゐたのを知つて、後年病中で私に画家になつて見たいと言はれたことの、謂《いわ》れなき気紛れ心からでなかつたのをしみじみと感じたのであつたが、恐らく子規氏は、画家として立たれても、亦《また》驚くべき才能を発揮せられたらうと私は思つてゐる。子規氏の幼年時代の絵、並《ならび》に病中略画に見てもその豊かなる才分は十分に窺知《きち》し得らるる所で、氏の多方面的才能には、驚かざるを得ない。
〔「日本及日本人」第百六十号(正岡子規号)昭和三年〕

編者注】寒川鼠骨の文章二篇は、2025年1月に、著作権が消失するので、時期が来れば、改めて投稿する。

読書ざんまいよせい(021)

◎トロツキー・青野季吉訳「自己暴露」

第一章 ヤノウカ(続き)

 この地方では、冬は平和な時であつた。たゞ鍛冶場と製粉場とが實際に動いてゐる許りだつた。燃料として、私達は、召使が途中にばら撒きながら腕いつぱいに抱へ込んで來る麥藁を燃した。ばら撒いたものは、彼等が後で集めて掃除した。この麥藁をストーブの中へ詰込んで、それの燃上るのを見守つてゐるのは愉快だつた。何時だつたかグレゴリイ伯父さんが、私と妹と許りが、靑い木炭素の煙でいつぱいになつた食堂にゐるのを見つけ出したことがあつた。私はぐる/\室內を廻つてゐて、自分が何處にゐるのかも分らなかつた、そして伯父さんの大聲で呼息も絕え絕えで倒れた。私達は冬になると、殊に父が留守になつて、凡ての仕事が母の手でなされてゐる時には、よく私達許りで家の中にゐたものだ。薄闇の中で妹と私は竝んでソファーに坐り、固く抱合ひ、眼を見張つて動くことを恐がつたものだ。
 大きな靴をのろ/\と動かしながら、大きなカラーのついた馬鹿々々しく大きな上衣に包まれ、大きな帽子を被つた巨人が、寒い外から暗い食堂へ這入つて來ることがあつた。彼の手は大きな手套の中へ突込まれてゐた。大きな氷柱《つらら》が彼の頤髭からぶら下つてゐて、彼の大きな聲はごおん/\と闇の中に響いた。『今晚は。』だが私達はソファーの隅でひしとかじりつき合つて、返事をすることも恐かつた。さうするとその怪物はマツチをすつて、隅に小さくなつてゐる私達を覗き込むのだ。見ると臣人は私達の隣の人であつたのだつた。時によると食堂の中での寂しさが、とても耐えられないものになつて來ることがあつた。さうすると私は寒いのをかまはず、外廊下に飛び出して、前の扉を開き、、閾の上に橫つてゐる大きな石の上に上つて、闇に向つて『マシュカ! マシュカ! 食堂へお出よ!と再三再四金切聲で叫ぶのであつた。マシュカは料理場とか、女中部屋とかその他の所にゐて、自分の仕事で忙しかつたのだ。遂々最後に母が、多分製粉所から歸つて來たのだらう、ランプを點し、サモワルを運んで來るのだつた。
 私達は、夜は私達が眠り込むまで食堂に坐つてゐる習慣だつた。人々は鍵を取りに來たり返しに來たり、種々なことの手筈をきめたり、明日の仕事の計畫をしたりするために、食堂を這入つたり出たりした。そこで私の妹のオリヤと姉のリザ、部屋女中と私自身は、いつも大人の生活に從屬し、彼等によつて指導させられてゐるのだか,こんどは私達自身の生活を展開した。時には大人の中の誰かの偶然の言葉が、私逹に何にか特別の記憶を呼起した。
 そこで私が妹に目をしかめると、彼女は低い聲でくす/\と笑つた。さうすると大人達は上の空で彼女の方を見る。私はも一度目をしかめた、すると彼女は油布の下で笑を殺さうとして、頭をテーブルにぶつゝけた。これは私にも傳染し、時にはまた十三歲と云ふ貫祿をもつて大人と子供との中にさ迷つてゐた姉にまで傅染した。私達の笑ひが制禦し得られないものになつて來ると、テーブルの下へ滑り落ちて、大人の足の間を這廻り、おつかなびつくりもので、保姆の部屋である次の室に飛込まねはならなかつた。再び食堂へとつて返すと、それがも一度始つた。私の指は笑ひのためにコップを持つことが出來ない程ぐにや/\になつた。私の頭、私の唇、手、足、私の身體の何處でもが笑ひ震へた。『まあ、どうしたと云ふのだい、お前達は。』と母が訊ねるのだつた。生活の二つのサークルである年長者と幼年者が、一寸の間接觸する。大人は彼等の目を怪げんさうにして子供達を眺める、それは時には馴れ馴れしいものであるが、多くは精いつばいいら/\してゐるのだ。すると不意に湧上つた私達の笑ひはどつと爆發する。オーリヤの頭は再びテーブルの下に這入り、私はソファーの上に身を投出し、リーザは上唇を嚙み、そして部屋女中は扉の外へ逃出すのである。
 すると大人達は『もうお寢みよ。』と叫ぶ。
 然し私達は寢床へは行かない。私達は互ひに顏を見合はせるのを恐れて隅の方へ隱れる。私の妹は床の中へ運んで行かれることがあつたが、私はいつもソファーの上で眠り込むのだ。誰か了私を腕の中へ抱上げて、つれて行つてくれたこともあつた。さうすると私は半分眠つたまゝ、私が犬に迫つかけられてゐたところや、蛇が私の前でのた打つてゐたところや、盜賊が私を森の中へ連れて行つてゐたやうな夢を見て、大きな聲を擧げてわめいたものだ。子供の夢魔は大人の國樂の邪魔をした。寢床へ行く途中では、私はもう溫和しかつた。彼等は私を軟かく叩いてキツスをしてくれた。だから私は笑ひから眠りに、夢魔から正氣に、そして溫かい寢室の羽根の床の中で再び眠りに落ちたものだ。
 冬は一年の中の家庭時代である。母や父が滅多に家を開けない日が來る。兄や姉がクリスマスで學校から歸つて來る。日曜日には綺麗に頭を洗ひ、顏を剃つて、櫛と𨦇とをもつたイヴン・ワシリエヴヰツチが、まづ最初に父の頭を刈り、それからサアシヤの頭を、その次に私の頭を刈つた。
『カブール式に毛が刈れるかね。イヴン・ワシリエヴヰツチ?』とサアシヤが訊ねる。皆がサアシヤを見る。すると彼はエリザヴエートグラードで、以前に床屋が彼の毛を、美しいカブール式に刈つたが、次の日に彼は學生監から嚴格な譴責を與へられた、と說明する。
 散髮が終つて後、私は晝食の席に坐る。父とイヴン・ワシリエヴヰツチとはテーブルの兩端の时掛椅子に、子供達は安樂椅子に、そして母はその向ふ側に座つた。イヴン・ワシリエヴヰツチは彼が結婚するまで私達と一緖に食事をしてゐたのだ。冬は、私達はゆつくりと食事をし、その後でも坐つて話をした。イ・ワン・ワシリエヴヰツチは煙草を吸つて巧妙な煙の輪を吹いた。また時々サアシヤやリーザが聲高く本讀みをすることもあつた。父はストーヴの凹みの所で居眠りをした。私達は、たまには宵のうちに、お婆拔きをやつたが、そのために仰山な騷ぎと笑ひが起り、そして時には小競合まで始まつた。私達は、少しも注意しないでやつてゐる父を詐すのが一番愉快だと思ひ、そして父が失敗すると笑つた。その代り母は上手にやつた、そして興奮して來て、母を詐さうとしてゐはしないかと銳く兄に注意をしてゐた。
 最も近い郵便局は、ヤノウカから二十三キロメートルもあり、鐵道までは三十五キロメートル以上もあつた。そこから官廳や商店や市の中心には更に遠く、そして澤山の出來事のある世界には遙かにずつと遠かつたのだ。ヤノウカの生活は、農場での勞苦のリズムによつて、完全に調整されてゐた。何事も起らず、世界市場に於ける穀物の値段の他には何もなかつた。その頃私達は田舍で雜誌ー册、新聞一枚見たことがなかつた。それを見たのは、ずつと後になつて私が高等學校の生徒になつてからのことである。たゞ手紙だけは特別の場合に受取ることがあつた。時には近所の人がボブリネツツで私達宛の手紙を發見することがあり、それを彼のポケットに入れたまゝ、一週閒も二週閒も持つて步くことがあつた。手紙が一寸した出來事なら、電報は大事件だつた。電報と云ふものは針金を傳つて來るものだと或人が私に說明した。けれども私は、大人が馬に乘つて電報を持つて來るのを見た、その電報には父が二ルウブル五十コペツク拂はされた。電報は手紙のやうな紙片だつた。それには言葉が鉛筆で書いてあつた。風が針金をつたはつて手紙を吹きつけるのだらうか? 私はそれが電氣の力で來るのだと敎へられた。それはなほ惡るかつた。アルバム伯父さんは一度熱心に私のために說明してくれた。『電流が針金を渡つて來て、紙片《リボン》の上に印をつけるのだよ。私の云つたことを繰返してごらん。』私はくり返した。『電流が針金の上を來て、紙片に印をつけるのだ。』
『どうだい、解つたかい?』
『うん、解つたよ、だがだれがどうして手紙になるのだらう?」と私はボブリネツツから來た電報賴頼信紙のことを考へながら訊ねた。
『手紙は別に來るんだよ。』と伯父さんは答へた。私は一寸當惑したがすぐ訊ねた。『ぢや何故手紙が馬に乘つた人に屆けられるのに、なぜ電流の必要があるのだらう?』だがこゝで伯父さんは我慢の緖を切らしてしまつた。『うん、手紙は別だよ、俺はお前に逐報のことを說明して遣らうとしたのだ、だのに、お前は手紙のことを言出すのだ』と怒鳴つた。だもんだから問題は不可解のまゝで殘つたのだ。
 ボブリネツツから來た婦人のポウリナ・ペトロヴナは私達の家に宿つてゐた。彼女は長い耳環と、額に捲毛をもつてゐた。後で母が彼女をボブリネツツへ送つて行つたので,私も彼女達と一緖に行つた。私達が十一ベルストと印した標柱を通り越した時に電柱の列が現れて、その針金が唸つてゐた。
『電報はどうして來るの?』と私は母に訊ねた。
『ポウリナ・ペトロヴナに訊いてごらんよ。』と母は當惑して答へた。『あの方が說明して下さるでせう』
 ポウリナ・ペトロヴナは說明した。
『その紙片の印は字の代りなのですよ。電信技師がそれを紙に書きつけ、その紙が馬に乘つた人によつて配られるのです。』私はそれでやつと解つた。
『だが電流は誰も番してゐないのに、どうして行くのでせう?』私は針金を見ながら訊ねた。
『電流は針金の中を行くのですよ、その針金は小さな管のやうに出來てゐて、電流はその中を走るのです。』とポウリナ・ペトロヴナは答へた。
 私はそれも理解した。そしてすつと後になつてやつと得心した。凡そ四年後に私の物理の先生が云つてくれた電磁氣流動體は、私には遙かに譯のわからない理論的な說明だと思つた。

読書ざんまいよせい(019)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(005)

 新米の知事が属僚に向って演説をした。商人を集めて演説をした。女学校の卒業式で、教育の真義について演説をした。新聞の代表者に演説をした。ユダヤ人を集めて、「ユダヤ人よ、余が諸君の参集を求めたのは……。」一と月たち二た月たつが仕事の方は何一つしない。また商人を集めて演説。またユダヤ人を呼んで、「ユダヤ人よ、余が諸君の参集を求めたのは……。」みんな飽々してしまった。とうとう彼は官房の長官に言う、「いや君、こいつは俺の手に合わんよ。辞職しちまおう!」

 田舎の神学校生徒が、ラテン語の糞勉強をする。半時間ごとに女中部屋へ駈け込んで、眼を細くして女中たちをつついたり抓《つね》ったりする。女中たちはキャッキャッと笑う。それからまた本に向う。彼はこれを「気分爽快法」と名づけている。

 知事夫人が、例の役人を招んでチョコレートを一杯御馳走した。この声の細い男は、彼女の崇拝者だ。(胸にぶら下げた肖像)。彼はそれから一週間というもの幸福な気分を味う。彼は小金を蓄めていて、無利子でそれを貸していた。――「貴女にはお貸し出来ませんな。貴女のお婿さんがカルタで擦ってしまうでしょう。いや、それだけは御免を蒙ります。」知事の娘というのは、いつか毛皮頸巻《ボア》をして劇場のボックスに納まっていた女だが、その夫がカルタに負けて官金を使い込んだのだ。鯡《にしん》でヴォトカをやるのに慣れて、ついぞチョコレートというものを飲んだことのない役人は、チョコレートのお蔭で胸が悪くなる。知事夫人の顔に浮んでいる表情、「私、可愛らしいでしょう。」身仕舞いに大そうな金をかけて、それを見せびらかす機会――夜会の開催を、いつも待ち焦れている夫人だった。

 妻君を連れて巴里へ行くのは、サモヴァル持参でトゥーラ*へ行くのと同じさ。
*欧露の都会。サモヴァルなどの金属手工業で有名。

 インテリの地主一家の治療に招かれて、毎日その邸に通った。お金で払うのは工合が悪いので、その家では亭主へ服を一着贈ってよこして、彼女を大いに無念がらせた。長々とお茶を飲んでいる夫を見ると、彼女は癇癪が起きて来るのだった。夫と一緒に暮すうち、彼女はやつれて器量が落ちて、意地の悪い女になる。地団太を踏んで、夫をどなりつける、「あたしを離縁してお呉れ、この碌でなし!」夫が憎くてならなかった。彼女が働いて、謝礼は夫が受取るのである。彼女は県会の医員だから、謝礼を受ける訳には行かないのだ。知合いの人達が亭主の人物を見抜いて呉れず、やっぱり思想のしっかりした男だと思っているのが、彼女は忌々しかった。

 青年が文学界にはいって来ないというのは、その最も優れた分子が今日では鉄道や工場や産業機関で働いているからである。青年は悉く工業界に身を投じてしまった。それで今や工業の進歩はめざましいものがある。

 女がブルジョア風を吹かす家庭には、山師やぺてん師やのらくら者が育ち易い。

 教授の見解。――大切なのはシェークスピヤではなく、これに加えられる註釈なり。

 来るべきジェネレーションをして幸福を達せしめよ。だが彼等は、彼等の父祖が何のために生き、何のために苦しんだかを自問せねばならぬ。

 愛も友情も尊敬も、何物かに対する共通の憎悪ほどには人間を団結せしめない。

 十二月十三日。工場の女主人に会った。これは一家の母であり、富裕なロシヤ婦人だが、ついぞロシヤで紫丁香花《ライラック》を見たことがないという。

 手紙の一節。――「外国にいるロシヤ人は、間諜かさもなければ馬鹿者だ。」隣の男は恋の傷手を癒しにフロレンスへ行く。だが遠くなるほど益々恋しくなるものだ。

 ヤルタ*。美貌の青年が四十女に好かれる。彼の方は一向に気がなく、彼女を避けている。彼女はさんざ思い悩んだ挙句、腹立ちまぎれに彼についての飛んだ醜聞を言い触らす。
*クリミヤ半島にある避暑地。

 ペトルーシャの母親は、婆さんになった今でも眼を暈《くま》どっていた。

 悪徳――それは人間が背負って生れた袋である。

 Bは大真面目で、自分はロシヤのモーパッサンだと言う。Sも同じ。

 ユダヤ人の姓。――Chepchik《プロチョール》*.
*小さな頭巾。

 魚が逆立ちしたような令嬢。口は木の洞みたいで、つい一銭入れて見たくなる。

 外国にいるロシヤ人。――男はロシヤを熱烈に愛する。女の方はじきにロシヤを忘れて一向に愛さない。

 薬剤士Protior*.
*「眼を擦《こす》った」というほどの意。

 RosaliaOssipovnaAromat《ロザーリア オシポヴナー アロマート》*.
*「花咲く小薔薇」と「芳香」を組合せた女の姓名。

 物を頼むには、金持よりは貧乏人の方が頼みいい。

 で彼女は春をひさぐことになって、今ではベッドの上で寝る身分だった。零落した叔母さんの方は、そのベッドの足もとに小さな毛氈を敷いて臥せって、嫖客《おきゃく》がベルを鳴らすと跳ね起きるのだった。お客が帰るとき、彼女は嬌羞を浮べて、科《しな》を作って言うのだった。
「女中にも思召しを頂かしてよ。」
 そして時おり十五銭玉をせしめた。

 モンテ・カルロの娼婦たち、いかにも娼婦らしいその物腰。棕櫚も娼婦みたいな感じ。よく肥った牝鶏も娼婦みたいな感じ。……

 独活《うど》の大木。ペテルブルグの産婆養成所を出て助医の資格をとったNは、思想《かんがえ》のしっかりした娘である。それが教師Xに恋した。つまり彼もやはり思想《かんがえ》のしっかりした男で、日ごろ彼女の大いに愛読している小説ごのみの刻苦精励の人だと思ったのである。そのうち次第に、彼が酒喰いののらくら者で、お人好しの薄野呂だということが分って来た。学校を首になると、彼は女房の稼ぎを当てにして居候暮しをやりだした。まるで肉腫《サルコマ》みたいな余計者で、彼女を搾り尽すのだった。或るとき彼女は、インテリの地主一家の治療に招かれて、毎日その邸に通った。お金で払うのは工合が悪いので、その家では亭主へ服を一着贈ってよこして、彼女を大いに無念がらせた。長々とお茶を飲んでいる夫を見ると、彼女は癇癪が起きて来るのだった。夫と一緒に暮すうち、彼女はやつれて器量が落ちて、意地の悪い女になる。地団太を踏んで、夫をどなりつける、「あたしを離縁してお呉れ、この碌でなし!」夫が憎くてならなかった。彼女が働いて、謝礼は夫が受取るのである。彼女は県会の医員だから、謝礼を受ける訳には行かないのだ。知合いの人達が亭主の人物を見抜いて呉れず、やっぱり思想《かんがえ》のしっかりした男だと思っているのが、彼女は忌々しかった。

 若い男が百万マーク蓄めて、その上に寝てピストル自殺をした。

「その女」……「僕は二十《はたち》のとき結婚して以来、生涯ヴォトカ一杯飲んだことも、煙草一本喫ったこともありません。」そういう彼が他に女をこしらえると、世間の人は反って彼を愛しはじめ、今までよりも信用するようになった。街を歩いても、皆が今までより愛想よく親切になったのに彼は気づくのだった――罪を犯したばかりに。

 結婚するのは、二人ともほかに身の振り方がないからである。

 国民の力と救いは、懸ってそのインテリゲンツィヤにある。誠実に思想し、感受し、しかも勤労に堪えるインテリゲンツィヤに。

 口髭なき男子は、口髭ある婦人に同じ。

 優しい言葉で相手を征服できぬような人は、いかつい言葉でも征服はできない。

 一人の賢者に対して千人の愚者があり、一の至言に対して千の愚言がある。この千が一を圧倒する。都市や村落の進歩が遅々としている所以である。大多数、つまり大衆は、常に愚かで常に圧倒的である。賢者は宜しく、大衆を教化しこれを己れの水準にまで高めるなどという希望を抛棄すべきだ。寧ろ物質力に助けを求める方がよい。鉄道、電信、電話を建設するがよい。そうすれば彼は勝利を得、生活を推し進め得るだろう。

 本来の意味での立派な人間は、確乎として保守主義的な乃至は自由主義的な信念を抱く人々の間にのみ見出されるだろう。いわゆる穏健派に至っては、賞与や年金や勲章や昇給に著しく心を惹かれがちである。

 ――あなたの叔父さんは何で亡くなったのです?
 ――医者の処方はボトキン氏下剤*を十五滴となっていたのに、十六滴のんだのでね。
*極めて無害な緩下剤。

 大学の文科を出たての青年が郷里の町へ帰って来る。そして教会の理事に選挙される。彼は神を信じているわけでもないが、勤行《おつとめ》には几帳面に出て、教会や礼拝堂の前を通るときは十字を切る。そうすることが民衆にとって必要であり、ロシヤの救いはそれに懸っていると考えたからである。やがて郡会の議長に選ばれ、名誉治安判事に選ばれ、勲章を貰い、たくさんの賞牌を受けた。――さていつの間にか四十五の年も過ぎたとき、彼ははっとして、自分がこれまでずっと身振狂言をやって来たこと、道化人形の真似をして来たことを悟った。だが既に生活を変えるには晩かった。或る夜の夢に、突然まるで銃声のような声がひびいた――「君は何をしている?」彼は汗びっしょりになって撥ね起きた。

読書ざんまいよせい(005)

◎蒼ざめたる馬(002)
ロープシン作、青野季吉訳

第一編

「……一匹の蒼ざめたる馬を見たり、之に乗る者の名は死と云ふ……」……黙示錄六ノ八、
「兄弟を憎む者は暗に居り、暗に行きて其往くところを知らず、その目を暗に曇らさるればなり」……約翰第一書二ノ十一、

  三月六日。

 私は昨夜 N に着いた。このまへ見た時と同じだ。 食堂の上には十字架が閃き、橇はバリ/\する雪の上を辷つてキィ/\音を立てる。 朝は霜深く 窓硝子には氷の華が出来て僧院の鐘は聖餐を告げてる。私はこの町を愛する。私はこゝで生れたのだ。
 私は英國皇帝の赤い印章とランスダウン卿の署名のある旅行免狀を有つてゐる。この旅行免狀は、私―英國臣民、ジョージ・オブラインエン―が土其古及び露西亜に旅行することを証明してゐる。 私は露西亞官憲からは、「観光客」として録されてゐる。
 この旅館は私を退屈させる。 青銅の大廣間廻りも、金ピカの鏡も、絨緞も、知りぬいてゐる。 私の部屋にはボロボロの安樂椅子があり、窓掛けは埃だらけだ。 私は三キログラムのダイナマイトを机下に置いてある。 それは外國から携へて来たのだ。ダイナマイトが藥種屋の店先へ行つたやうな匂ひがする。夜、私は頭痛がした。
 私は今、散歩に出掛けてゐる。並樹道は暗く、淡雪が降つてゐる。 遠い所で大時計が鳴る。全く私ひとりだ。私の前には、町と懶惰な住民の安らかな生活が横たはつてゐる。 私の心の中で、 箴言が響く。
「而して、われ汝に暁の星を與へん。」*

[編集者注〕
*ヨハネ黙示録2-28

  三月八日

 エルナは青い眼と重そうに編んだ髪を有つてゐる。彼女は私にすがり着いて哀願した。
「些とはわたしを愛して?」
 五六個月前には、彼女は女王のやうに身を委せて、私からは何物も求めず、 何の望みも持つてゐなかつた。今は、乞食のやうに君に愛を希ひ求める。 私は雪で蔽はれた廣庭を窻ごに眺めながら、彼女に言つた。
「真つ白な雪だねえ」
 彼女は首垂れて返事をしなかつた。
 私はまた言つた。
「昨日街へ出て、モツト綺麗な雪を見たよ。全く薔薇色だつた。そして、赤楊樹の影が靑かつたよ」
 私は彼女の眼の中に讀んだ。
「何故わたしも一しよに連れてつて下さらなかつたの?」
「ね」私は再び始めた。「おまへは露西亞の田舎へ入つたことがあるかね?」 
 彼女は答へた。「いいえ」
「そうか。春先になつて、野原には下萌えがして、森の中には待雪草が持つやうになつても、山峡にはまだ雪があるんだ。そりや妙だよ。白い雪に白い花だ。見たことがある?無い?珍らしい光景だつてことは想像が付くだらう?」
 彼はささやいた。「いいえ」
 そして私は、エレーナのことを考へてゐた。

  三月九日

 知事は衛兵と刑事の二重の警護の下に、昔からの家に住んでゐる。
 私達は五人の小さい仲間だ。フエドルとヴアニアとハインリヒとは橇屋に化けてゐる。彼等は 知事の動靜をうかゞつて私に知らせる。 エルナな藥品には手慣れてゐる。彼女は爆弾を製へる。
 私は室内に坐つて町の圖取りを調べてみる。私達の仕事をする道路の圖引きする。 私の彼の生活や日々の習慣を建て直して見る。思考の中で、私は彼の家の招待會に出席する。 私は彼と相携へて門の後の花園を散歩する。夜、彼に隠れて、彼が床に入る時に、彼と一緒にお歸りをする。
 今日、私は彼を瞥見した。私は通りで彼を待ち受けて、長い間凍てた人選を行つたりきたりしてみた。暗くなつて、寒さが烈しかつた。私はもう望を棄てやうとしてゐた時不意に、隅つこにゐた巡査監督が手袋を振つた。巡査共が緊張し、刑事が諸方へ走つた。死のやうな沈黙が街路に滿ち渡つた。
 一臺の馬車が疾走し去つた。馬は黒かつた。馭者は赤髯であつた。戸の曲つた把手、黄い輪止めが私の目に止つた。馬車の後に一臺の橇がぴつたり喰付いてゐた。
 目の前を余り迅く行き過ぎたので、彼の顔を見当てることが出来なかつた。彼も私を認めなかつた。彼によつては私は街路の一部分に過ぎなかつた。私は静かに踊りかけた。幸福に感じた。

  三月十日。

 彼のことを考へる時に、私は嫌悪又は忿怒を意識し無い。同時に、彼に対して何等のも感じ無い。一個人としては彼は私と無関係だ。然し私は彼の死ぬこ欲する。力は下らないものを打壊さんとする。私は言葉に信頼し無い。私は、私自身が奴隷であることを欲しないし、他の誰かが奴隷であることも欲しない。
 何故殺してはならないか?人殺しが何故に、成場合には是認され、他の場合又は非認される 人々は理由を見出す、然し私は、何故人は殺すことをしてはならぬかを知ら無い。これこれの名に於いて殺すことが正しいと考へられ、他の何かの名に於いて殺すことが誤つてゐるとは何故であるか、私は了解が出来ない。
 私は始めてに行つた時のことを記憶してゐる。刈り取られた畑は赤く、到るところに蜘蛛の巣がかかゝつて、森は靜かであつた。私は雨に叩かれた路の傍の森の端に立つてゐた。赤緑樹は、囁きを立て、黄葉が舞つてゐた。私は待つてゐた。 突然、草の中に掻きすやうな動きが起つた。小さい灰色の塊のやうな野兎が、茂みから飛出して來て、用心深く後足で蹲踞んだ。彼は邊はりを見廻した。私は震えなから銃を上げた。遠い森の中に反響が起り、青い煙が赤緑樹の中にボーと登つた。血で濡れた黑ずんだ草の上にいた野は悶え苦しみ、赤兒のやうに鼻を鳴して欷歔《すゝりな》いた。私は可哀そうに思つた。 二發目を放つた。悲鳴が止んだ。
 家に還へると私は、彼が存在してゐなかつたかのやうに、また彼からその最も大切なもの―生命―を奪つたことがなかつたかのやうに、彼のことはすつかり忘れて仕舞つた。そして 私は、私の享樂のために彼を殺したといふ事が、私にどんな感情も起さないのに、彼の悲む呼びを聞いた時に苦しく感じたのは何故であるかと、自ら訊いた。

  三月十三日

 エレーナは結婚してこに住んでゐる―彼女について私の知つてるのはそれだけだ。毎朝、 閑散な時に、私は彼女の家を見る爲めに並樹路を彷徨く。白い絨毛のやうに柔かだ。雪が足の下で音を立てる。 時計の鈍い音を聞く。十時だ。ベンチに腰を下して、氣長に時を數へる。私は自らいふ。
「昨日は彼女にはなかつたが、今日は食べるだらう」
 一年前に私は始めて彼女を見た。その春、私はNを還りがゝつて、朝大公園へ行つた。大地は濕つて、高い樹と細いボブラは、通りを詰めた沈默の中に、ほんやり立つてゐた。小鳥さへ啼かなかつた。たゞ小川の低いさやきがあつただけだつた。太陽がぶつぶつと流れる水の上に 輝いてゐた。君はその昔に聞入つてゐた。私が眼を上けた時に反對の側に一人の女を見た。彼女は私に氣が付かなかつた。私は、私が同じものに耳を傾けてゐたのだといふことを知つた。 その女はエレーナであつた。

  三月十四日

 私は私の室に坐つてゐる。上の部屋で誰かピヤノを弾いてゐる。かすかに聞くことが出来る。 足は柔かい絨氈の中に消えてゐる。
 私は革命家の不安な生活とその寂しさに慣れてゐる。私は私の未來のことを考へない、また知り度くも無い。私は過去を忘れやうとする。私は家もない、名も無い、家族も無い。 私は自分にいふ。
  黒い大きな眠りが
  私の生命の上に落つ、
  眠れ すべての望、
  眠れ すべての欲、
 希望は決して死な無い。何の希望?「曉の星」を得ることか?私はよく知つてゐる。私は昨日殺した、今日も殺そうと思ふ、明日も殺すことを續けて行くであらう。「而してして第三の天使は、河の上、泉の上に、その場を注き出し、それらは血となれり。」*汝は水で血を消すことは出來ない。火でそれを焼き盡すことは出來ない。墓に行くすべての道は血であらう。
  私はもう何もしない。
  私は記憶を減する
  美いことも悪いことも
  おゝ、哀れな歴史!
 キリストの復活を信じ、ラザロの復活を信する者は幸だ。社會主義を信じ、地上に来る可き天國を信ずる者は幸だ。こんな古臭い話は私には馬鹿々々しいだけだ。分配される十五エーカーの土地は私を誘惑し無い。私は自身に云つた、奴隷であることを欲しないと。 これが私の自由か?實際みぢめな自由だ!何故私はそれを追つてゐるのか?何の名に於いて、私は殺す爲めに出て行くのか?たゞ血の、一層多くの血の爲めにか?
  私は赤子だ
  白い片手は
  墓穴の洞に、
  沈默…沈默…**
 戸にノックがある。 エルナに違ひない。

[編集者注〕
*ヨハネ黙示録16-4
**ヴェルレーヌ「叡智」
フランス語原文は
Un grand sommeil noir
Tombe sur ma vie
Dormez, tout espoir,
Dormez, tout envie.

Je ne vois plus rien,
Je perds la mémoire
Du mal et du bien,
O, la triste historie !

Je suis un berceau,
Qu’une main bakance
Au crex d’un caveau
Silence, silence…

注記】本文および訳文の著作権は消失している。

本職こぼればなし(011)

先日、冬至の日に、スーパーマーケット前で出会った、母と兄弟3人連れ、買い物の中に、かぼちゃと柚子が入っていた。6才くらいの兄がママに
― 今日は、おふろにかぼちゃ浮かべるンか?
かぼちゃ湯も一案だが、とすると、おかずは、柚子の「たいたん」になるのかな?

年の瀬も押しつまると、診療中の子どもと自然とお正月の話題になる。
― Gちゃんと、センセはお友だちになろうか?
― うん。
― お友だちやったら、困っている時、助け合わな、いかんやろ!そんで、ちょっと相談やがな、お正月に「お」のつくもん、もらうやろ!
― お年玉や!
― そしたら、センセがお金のーて、お昼ご飯も食べられへんで、おなかペコペコの時、助けてや!お金貸してや!スマホに電話するわ!
― ………
かくして、わがチャイルドビジネスは、来年へ持ち越されるのであった。

日本人と漢詩(057)

◎森鴎外と寒山(拾得)


鷗外の作品をもう一つ。青空文庫「寒山拾得」(新字版)→ https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/1071_17107.html
(旧字版)→ https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/679_15361.html
 作品そのものは、寒山の漢詩の引用もなく、どうも中途半端で終わっており、鴎外の筆力の衰えと見るか、釈然としない。寒山は、村人と合わず「剰《あま》つさえ自らの妻に疎《うと》んぜらる」結果、仕官の道をさぐるが失敗の人生。山に籠もったあとも、彼女のことが忘れられなかったようだ。相貌が変わったのはお互い様なのに、妻の面影は昔のままだったとすると少し物悲しいが、逆にユーモアも感じる。そうしたエピソードを小説中に盛り込めば、また違った趣きも出てきそうだが…
昨夜夢還家 昨夜夢に家に還り
見婦機中織 婦の機中に織るを見る
駐梭若有思 梭《ひ》を駐《とど》めて思い有るが若《ごと》く
擎梭似無力 梭を擎《ささ》げて力無きに似たり
呼之廻面視 之《これ》を呼べば面《おもて》を廻らして視《み》
怳復不相識 怳《きょう》として復《ま》た相い識らず
応是別多年 応《まさ》に是れ別るること多年
鬢毛非旧色 鬢毛《びんもう》旧色に非ざるべし
 訳と語釈は https://akasakanoomoide.muragon.com/entry/922.html を参照のこと
 図は、渡辺崋山「寒山拾得図」とあるが、華山の真筆であろうか?古今の寒山拾得図の人物は、どれも丸顔で、諧謔的だが、ちょっとニュアンスが違うようだ。
参考)・一海知義編著「続漢詩の散歩道」

日本人と漢詩(029)

◎夏目漱石と森鴎外


並び称される「文豪」だが、両人の漢詩の趣きには相当違いがあるようだ。特に晩年には両人のスタンスは大きなずれとなっている。漱石が、「修善寺の大患」で、大量吐血したあとの詩。
淋漓絳血腹中文 淋漓《りんり》たる絳血《こうけつ》(深紅の血) 腹中の文《ぶん》
嘔照黄昏漾綺紋 嘔いて黄昏を照らして 綺紋《きもん》を 漾《ただよ》わす
入夜空疑身是骨 夜に入りて空しく疑ふ 身は是れ骨かと
臥牀如石夢寒雲 臥牀 石の如く 寒雲を夢む
使われた詩語のうち、「腹中の文」というのが、キーワードの気がするが、逆に解りにくいというか、多義的に思える。まだ、描き足りない小説や彼の思いのように取れるし、「絳血」の末にたどり着いた彼の新境地のようにも思える。その後、明暗の執筆と同時に、「無題」と称する七言律詩の連作が続き、大岡信の言うように、「漱石は、…律詩の詩形の中で、まっすぐに彼自身の感慨を吐露し、自己自身を広漠たる詩の世界に解き放つことに成功した。」そしてその最後の漢詩は、「日本近代の詩の中で、最上級に列するものであった。」それが、後に「則天去私」という「教説」によって語られることはあったとしても、そうした解釈からも充分にはみ出ていると感じる。
http://yoshiro.tea-nifty.com/yoshi…/2012/08/post-6c15.html
他方、鷗外は少なくとも漢詩の分野では、過去の回想や儀礼的な贈答詩に終始した。
その中の「回頭」詩から二首
囘頭 森鴎外
囘頭湖海半生過 頭《こうべ》を回《めぐ》れせば湖海に半生過ぐ
老去何妨守舊窩 老い去って何ぞ妨げん旧窩を守る
替我豫章留好句 我に替《かは》つて豫章《よしょう》好句を留む
自知力小畏滄波 「自《みずか》ら力の小《せう》なるを知り滄波《そうは》を畏《おそ》る
豫章=宋の詩人・黄庭堅「小鴨」
その元は、唐の詩人・杜甫「舟前鵝児」「力 小にして滄波に困《くる》しむ」
題譯本舞姫 小池堅治囑
世間留綺語 世間に綺語《きご》を留《とど》め
海外詠佳人 海外に佳人を詠ず
奄忽吾今老 奄忽《えんこつ》吾今老いたり
囘頭一閧塵 頭《こうべ》を回《めぐ》らせば一閧《いっこう》塵
一閧塵=多くの馬がけたたましく走り去るあとの土ぼこり
以前の森鴎外の漢詩についての投稿

の持っていた「みずみずしい叙情性」と比較のこと
参考)
大岡信「詩歌における文明開化ー日本の古典詩歌4」
鷗外歴史文學集 第13巻
夏目漱石の漢詩 : 修善寺大患期を中心として(上篇) https://core.ac.uk/download/pdf/223201466.pdf
写真は鷗外の第二首目にある独語訳「舞姫」と漱石「倫敦塔」
追記)二日前に当方も、胃カメラの検査を受けた。生検が二箇所、さてどんな結果が帰ってくるだろうか?

日本人と漢詩(012)

◎芥川龍之介と孫子瀟

郷書《きょうしょ》遙《はるか》に憶《おも》ふ、路漫々《まんまん》
幽悶《ゆうもん》聊《いささ》か憑《たの》む、鵲語《じゃくご》の寛《かん》なるを
今夜合歡《ごうかん》花底《かてい》の月
小庭《しょうてい》の兒女《じじょ》長安《ちょうあん》を話す

やぶちゃんの電子テキスト(http://yab.o.oo7.jp/kabu.html)から
1921年の4ヶ月にわたる芥川龍之介の中国旅行で得たものは大きいと思う。また、芥川作品の各国語への翻訳のうち、民族差別的な要素を指摘されがちな評価であった「支那游記」のその中国語訳が出るくらいだから、再評価の機運があるのだろう。(関口安義氏は、その急先鋒の一人。)「支那游記」は、上海游記、江南游記、長江游記、北京日記抄、雑信一束と続く一連の中国紀行文で、Blog 鬼火(http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/)に掲載されている。各々の巻で差別的な表現のニュアンスの違いもあるが、今読み返すと、まず、日本文化の底に流れる中国文明への憧憬を感じる。それに比べて、龍之介がつぶさに見た植民地化した中国の過酷な体験と、さらにその中国に「野望」を隠さない日本の現実が、二重にも三重にもだぶって描かれているとも取れる。西湖で蘇小小の土饅頭の墓を見てきただけではないようだ。漱石とは時代が違うし、谷崎潤一郎や佐藤春夫とも、気質が違う、芥川独自のとらえ方があると言えるだろう。関口安義氏は、旅行後の作品でも「桃太郎」「将軍」「湖南の扇」など、新たな社会批判的な小説に生かされていると言う。
今、ちくま文庫版全集第7巻をみてみると旅行の1年前1920年1月執筆に「漢文漢詩の面白味」という短文がある。
原文は、やぶちゃんの電子テキスト(縦書版)を見ていただきたい。
やや控えめながら、彼の「趣味」を超えた中国古典文学への素直な思いを感じる。ただ残念なことに、この短文で紹介される中国の詩人は、あまりおなじみではなく、孫子瀟(清)も語注に簡単に触れられるのみなので掲載しておく。鵲語はカササギの鳴き声。合歡花底月は、ねむの木に咲く花のもとに照る月という意味か?龍之介ではないが、なぜかノスタルジックな中にものんびりした感じである。
ところで、同じ文庫に「僻見」という人物評論が収録されている。1924年発表というから、彼の「晩年」である。その中で、木村蒹葭堂(巽斎)が取り上げられている。これはこれで江戸時代の文化的サロンとして興味深いのだが、紹介は次回以降ということで…
写真は、再掲だが、昨年のさるアニバーサリーにさる人に贈ったエバーグリーンというねむの木の一種。