日本人と漢詩(057)

◎森鴎外と寒山(拾得)


鷗外の作品をもう一つ。青空文庫「寒山拾得」(新字版)→ https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/1071_17107.html
(旧字版)→ https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/679_15361.html
 作品そのものは、寒山の漢詩の引用もなく、どうも中途半端で終わっており、鴎外の筆力の衰えと見るか、釈然としない。寒山は、村人と合わず「剰《あま》つさえ自らの妻に疎《うと》んぜらる」結果、仕官の道をさぐるが失敗の人生。山に籠もったあとも、彼女のことが忘れられなかったようだ。相貌が変わったのはお互い様なのに、妻の面影は昔のままだったとすると少し物悲しいが、逆にユーモアも感じる。そうしたエピソードを小説中に盛り込めば、また違った趣きも出てきそうだが…
昨夜夢還家 昨夜夢に家に還り
見婦機中織 婦の機中に織るを見る
駐梭若有思 梭《ひ》を駐《とど》めて思い有るが若《ごと》く
擎梭似無力 梭を擎《ささ》げて力無きに似たり
呼之廻面視 之《これ》を呼べば面《おもて》を廻らして視《み》
怳復不相識 怳《きょう》として復《ま》た相い識らず
応是別多年 応《まさ》に是れ別るること多年
鬢毛非旧色 鬢毛《びんもう》旧色に非ざるべし
 訳と語釈は https://akasakanoomoide.muragon.com/entry/922.html を参照のこと
 図は、渡辺崋山「寒山拾得図」とあるが、華山の真筆であろうか?古今の寒山拾得図の人物は、どれも丸顔で、諧謔的だが、ちょっとニュアンスが違うようだ。
参考)・一海知義編著「続漢詩の散歩道」

日本人と漢詩(029)

◎夏目漱石と森鴎外


並び称される「文豪」だが、両人の漢詩の趣きには相当違いがあるようだ。特に晩年には両人のスタンスは大きなずれとなっている。漱石が、「修善寺の大患」で、大量吐血したあとの詩。
淋漓絳血腹中文 淋漓《りんり》たる絳血《こうけつ》(深紅の血) 腹中の文《ぶん》
嘔照黄昏漾綺紋 嘔いて黄昏を照らして 綺紋《きもん》を 漾《ただよ》わす
入夜空疑身是骨 夜に入りて空しく疑ふ 身は是れ骨かと
臥牀如石夢寒雲 臥牀 石の如く 寒雲を夢む
使われた詩語のうち、「腹中の文」というのが、キーワードの気がするが、逆に解りにくいというか、多義的に思える。まだ、描き足りない小説や彼の思いのように取れるし、「絳血」の末にたどり着いた彼の新境地のようにも思える。その後、明暗の執筆と同時に、「無題」と称する七言律詩の連作が続き、大岡信の言うように、「漱石は、…律詩の詩形の中で、まっすぐに彼自身の感慨を吐露し、自己自身を広漠たる詩の世界に解き放つことに成功した。」そしてその最後の漢詩は、「日本近代の詩の中で、最上級に列するものであった。」それが、後に「則天去私」という「教説」によって語られることはあったとしても、そうした解釈からも充分にはみ出ていると感じる。
http://yoshiro.tea-nifty.com/yoshi…/2012/08/post-6c15.html
他方、鷗外は少なくとも漢詩の分野では、過去の回想や儀礼的な贈答詩に終始した。
その中の「回頭」詩から二首
囘頭 森鴎外
囘頭湖海半生過 頭《こうべ》を回《めぐ》れせば湖海に半生過ぐ
老去何妨守舊窩 老い去って何ぞ妨げん旧窩を守る
替我豫章留好句 我に替《かは》つて豫章《よしょう》好句を留む
自知力小畏滄波 「自《みずか》ら力の小《せう》なるを知り滄波《そうは》を畏《おそ》る
豫章=宋の詩人・黄庭堅「小鴨」
その元は、唐の詩人・杜甫「舟前鵝児」「力 小にして滄波に困《くる》しむ」
題譯本舞姫 小池堅治囑
世間留綺語 世間に綺語《きご》を留《とど》め
海外詠佳人 海外に佳人を詠ず
奄忽吾今老 奄忽《えんこつ》吾今老いたり
囘頭一閧塵 頭《こうべ》を回《めぐ》らせば一閧《いっこう》塵
一閧塵=多くの馬がけたたましく走り去るあとの土ぼこり
以前の森鴎外の漢詩についての投稿

の持っていた「みずみずしい叙情性」と比較のこと
参考)
大岡信「詩歌における文明開化ー日本の古典詩歌4」
鷗外歴史文學集 第13巻
夏目漱石の漢詩 : 修善寺大患期を中心として(上篇) https://core.ac.uk/download/pdf/223201466.pdf
写真は鷗外の第二首目にある独語訳「舞姫」と漱石「倫敦塔」
追記)二日前に当方も、胃カメラの検査を受けた。生検が二箇所、さてどんな結果が帰ってくるだろうか?

日本人と漢詩(012)

◎芥川龍之介と孫子瀟

郷書《きょうしょ》遙《はるか》に憶《おも》ふ、路漫々《まんまん》
幽悶《ゆうもん》聊《いささ》か憑《たの》む、鵲語《じゃくご》の寛《かん》なるを
今夜合歡《ごうかん》花底《かてい》の月
小庭《しょうてい》の兒女《じじょ》長安《ちょうあん》を話す

やぶちゃんの電子テキスト(http://yab.o.oo7.jp/kabu.html)から
1921年の4ヶ月にわたる芥川龍之介の中国旅行で得たものは大きいと思う。また、芥川作品の各国語への翻訳のうち、民族差別的な要素を指摘されがちな評価であった「支那游記」のその中国語訳が出るくらいだから、再評価の機運があるのだろう。(関口安義氏は、その急先鋒の一人。)「支那游記」は、上海游記、江南游記、長江游記、北京日記抄、雑信一束と続く一連の中国紀行文で、Blog 鬼火(http://onibi.cocolog-nifty.com/alain_leroy_/)に掲載されている。各々の巻で差別的な表現のニュアンスの違いもあるが、今読み返すと、まず、日本文化の底に流れる中国文明への憧憬を感じる。それに比べて、龍之介がつぶさに見た植民地化した中国の過酷な体験と、さらにその中国に「野望」を隠さない日本の現実が、二重にも三重にもだぶって描かれているとも取れる。西湖で蘇小小の土饅頭の墓を見てきただけではないようだ。漱石とは時代が違うし、谷崎潤一郎や佐藤春夫とも、気質が違う、芥川独自のとらえ方があると言えるだろう。関口安義氏は、旅行後の作品でも「桃太郎」「将軍」「湖南の扇」など、新たな社会批判的な小説に生かされていると言う。
今、ちくま文庫版全集第7巻をみてみると旅行の1年前1920年1月執筆に「漢文漢詩の面白味」という短文がある。
原文は、やぶちゃんの電子テキスト(縦書版)を見ていただきたい。
やや控えめながら、彼の「趣味」を超えた中国古典文学への素直な思いを感じる。ただ残念なことに、この短文で紹介される中国の詩人は、あまりおなじみではなく、孫子瀟(清)も語注に簡単に触れられるのみなので掲載しておく。鵲語はカササギの鳴き声。合歡花底月は、ねむの木に咲く花のもとに照る月という意味か?龍之介ではないが、なぜかノスタルジックな中にものんびりした感じである。
ところで、同じ文庫に「僻見」という人物評論が収録されている。1924年発表というから、彼の「晩年」である。その中で、木村蒹葭堂(巽斎)が取り上げられている。これはこれで江戸時代の文化的サロンとして興味深いのだが、紹介は次回以降ということで…
写真は、再掲だが、昨年のさるアニバーサリーにさる人に贈ったエバーグリーンというねむの木の一種。