読書ざんまいよせい(005)

◎蒼ざめたる馬(002)
ロープシン作、青野季吉訳

第一編

「……一匹の蒼ざめたる馬を見たり、之に乗る者の名は死と云ふ……」……黙示錄六ノ八、
「兄弟を憎む者は暗に居り、暗に行きて其往くところを知らず、その目を暗に曇らさるればなり」……約翰第一書二ノ十一、

  三月六日。

 私は昨夜 N に着いた。このまへ見た時と同じだ。 食堂の上には十字架が閃き、橇はバリ/\する雪の上を辷つてキィ/\音を立てる。 朝は霜深く 窓硝子には氷の華が出来て僧院の鐘は聖餐を告げてる。私はこの町を愛する。私はこゝで生れたのだ。
 私は英國皇帝の赤い印章とランスダウン卿の署名のある旅行免狀を有つてゐる。この旅行免狀は、私―英國臣民、ジョージ・オブラインエン―が土其古及び露西亜に旅行することを証明してゐる。 私は露西亞官憲からは、「観光客」として録されてゐる。
 この旅館は私を退屈させる。 青銅の大廣間廻りも、金ピカの鏡も、絨緞も、知りぬいてゐる。 私の部屋にはボロボロの安樂椅子があり、窓掛けは埃だらけだ。 私は三キログラムのダイナマイトを机下に置いてある。 それは外國から携へて来たのだ。ダイナマイトが藥種屋の店先へ行つたやうな匂ひがする。夜、私は頭痛がした。
 私は今、散歩に出掛けてゐる。並樹道は暗く、淡雪が降つてゐる。 遠い所で大時計が鳴る。全く私ひとりだ。私の前には、町と懶惰な住民の安らかな生活が横たはつてゐる。 私の心の中で、 箴言が響く。
「而して、われ汝に暁の星を與へん。」*

[編集者注〕
*ヨハネ黙示録2-28

  三月八日

 エルナは青い眼と重そうに編んだ髪を有つてゐる。彼女は私にすがり着いて哀願した。
「些とはわたしを愛して?」
 五六個月前には、彼女は女王のやうに身を委せて、私からは何物も求めず、 何の望みも持つてゐなかつた。今は、乞食のやうに君に愛を希ひ求める。 私は雪で蔽はれた廣庭を窻ごに眺めながら、彼女に言つた。
「真つ白な雪だねえ」
 彼女は首垂れて返事をしなかつた。
 私はまた言つた。
「昨日街へ出て、モツト綺麗な雪を見たよ。全く薔薇色だつた。そして、赤楊樹の影が靑かつたよ」
 私は彼女の眼の中に讀んだ。
「何故わたしも一しよに連れてつて下さらなかつたの?」
「ね」私は再び始めた。「おまへは露西亞の田舎へ入つたことがあるかね?」 
 彼女は答へた。「いいえ」
「そうか。春先になつて、野原には下萌えがして、森の中には待雪草が持つやうになつても、山峡にはまだ雪があるんだ。そりや妙だよ。白い雪に白い花だ。見たことがある?無い?珍らしい光景だつてことは想像が付くだらう?」
 彼はささやいた。「いいえ」
 そして私は、エレーナのことを考へてゐた。

  三月九日

 知事は衛兵と刑事の二重の警護の下に、昔からの家に住んでゐる。
 私達は五人の小さい仲間だ。フエドルとヴアニアとハインリヒとは橇屋に化けてゐる。彼等は 知事の動靜をうかゞつて私に知らせる。 エルナな藥品には手慣れてゐる。彼女は爆弾を製へる。
 私は室内に坐つて町の圖取りを調べてみる。私達の仕事をする道路の圖引きする。 私の彼の生活や日々の習慣を建て直して見る。思考の中で、私は彼の家の招待會に出席する。 私は彼と相携へて門の後の花園を散歩する。夜、彼に隠れて、彼が床に入る時に、彼と一緒にお歸りをする。
 今日、私は彼を瞥見した。私は通りで彼を待ち受けて、長い間凍てた人選を行つたりきたりしてみた。暗くなつて、寒さが烈しかつた。私はもう望を棄てやうとしてゐた時不意に、隅つこにゐた巡査監督が手袋を振つた。巡査共が緊張し、刑事が諸方へ走つた。死のやうな沈黙が街路に滿ち渡つた。
 一臺の馬車が疾走し去つた。馬は黒かつた。馭者は赤髯であつた。戸の曲つた把手、黄い輪止めが私の目に止つた。馬車の後に一臺の橇がぴつたり喰付いてゐた。
 目の前を余り迅く行き過ぎたので、彼の顔を見当てることが出来なかつた。彼も私を認めなかつた。彼によつては私は街路の一部分に過ぎなかつた。私は静かに踊りかけた。幸福に感じた。

  三月十日。

 彼のことを考へる時に、私は嫌悪又は忿怒を意識し無い。同時に、彼に対して何等のも感じ無い。一個人としては彼は私と無関係だ。然し私は彼の死ぬこ欲する。力は下らないものを打壊さんとする。私は言葉に信頼し無い。私は、私自身が奴隷であることを欲しないし、他の誰かが奴隷であることも欲しない。
 何故殺してはならないか?人殺しが何故に、成場合には是認され、他の場合又は非認される 人々は理由を見出す、然し私は、何故人は殺すことをしてはならぬかを知ら無い。これこれの名に於いて殺すことが正しいと考へられ、他の何かの名に於いて殺すことが誤つてゐるとは何故であるか、私は了解が出来ない。
 私は始めてに行つた時のことを記憶してゐる。刈り取られた畑は赤く、到るところに蜘蛛の巣がかかゝつて、森は靜かであつた。私は雨に叩かれた路の傍の森の端に立つてゐた。赤緑樹は、囁きを立て、黄葉が舞つてゐた。私は待つてゐた。 突然、草の中に掻きすやうな動きが起つた。小さい灰色の塊のやうな野兎が、茂みから飛出して來て、用心深く後足で蹲踞んだ。彼は邊はりを見廻した。私は震えなから銃を上げた。遠い森の中に反響が起り、青い煙が赤緑樹の中にボーと登つた。血で濡れた黑ずんだ草の上にいた野は悶え苦しみ、赤兒のやうに鼻を鳴して欷歔《すゝりな》いた。私は可哀そうに思つた。 二發目を放つた。悲鳴が止んだ。
 家に還へると私は、彼が存在してゐなかつたかのやうに、また彼からその最も大切なもの―生命―を奪つたことがなかつたかのやうに、彼のことはすつかり忘れて仕舞つた。そして 私は、私の享樂のために彼を殺したといふ事が、私にどんな感情も起さないのに、彼の悲む呼びを聞いた時に苦しく感じたのは何故であるかと、自ら訊いた。

  三月十三日

 エレーナは結婚してこに住んでゐる―彼女について私の知つてるのはそれだけだ。毎朝、 閑散な時に、私は彼女の家を見る爲めに並樹路を彷徨く。白い絨毛のやうに柔かだ。雪が足の下で音を立てる。 時計の鈍い音を聞く。十時だ。ベンチに腰を下して、氣長に時を數へる。私は自らいふ。
「昨日は彼女にはなかつたが、今日は食べるだらう」
 一年前に私は始めて彼女を見た。その春、私はNを還りがゝつて、朝大公園へ行つた。大地は濕つて、高い樹と細いボブラは、通りを詰めた沈默の中に、ほんやり立つてゐた。小鳥さへ啼かなかつた。たゞ小川の低いさやきがあつただけだつた。太陽がぶつぶつと流れる水の上に 輝いてゐた。君はその昔に聞入つてゐた。私が眼を上けた時に反對の側に一人の女を見た。彼女は私に氣が付かなかつた。私は、私が同じものに耳を傾けてゐたのだといふことを知つた。 その女はエレーナであつた。

  三月十四日

 私は私の室に坐つてゐる。上の部屋で誰かピヤノを弾いてゐる。かすかに聞くことが出来る。 足は柔かい絨氈の中に消えてゐる。
 私は革命家の不安な生活とその寂しさに慣れてゐる。私は私の未來のことを考へない、また知り度くも無い。私は過去を忘れやうとする。私は家もない、名も無い、家族も無い。 私は自分にいふ。
  黒い大きな眠りが
  私の生命の上に落つ、
  眠れ すべての望、
  眠れ すべての欲、
 希望は決して死な無い。何の希望?「曉の星」を得ることか?私はよく知つてゐる。私は昨日殺した、今日も殺そうと思ふ、明日も殺すことを續けて行くであらう。「而してして第三の天使は、河の上、泉の上に、その場を注き出し、それらは血となれり。」*汝は水で血を消すことは出來ない。火でそれを焼き盡すことは出來ない。墓に行くすべての道は血であらう。
  私はもう何もしない。
  私は記憶を減する
  美いことも悪いことも
  おゝ、哀れな歴史!
 キリストの復活を信じ、ラザロの復活を信する者は幸だ。社會主義を信じ、地上に来る可き天國を信ずる者は幸だ。こんな古臭い話は私には馬鹿々々しいだけだ。分配される十五エーカーの土地は私を誘惑し無い。私は自身に云つた、奴隷であることを欲しないと。 これが私の自由か?實際みぢめな自由だ!何故私はそれを追つてゐるのか?何の名に於いて、私は殺す爲めに出て行くのか?たゞ血の、一層多くの血の爲めにか?
  私は赤子だ
  白い片手は
  墓穴の洞に、
  沈默…沈默…**
 戸にノックがある。 エルナに違ひない。

[編集者注〕
*ヨハネ黙示録16-4
**ヴェルレーヌ「叡智」
フランス語原文は
Un grand sommeil noir
Tombe sur ma vie
Dormez, tout espoir,
Dormez, tout envie.

Je ne vois plus rien,
Je perds la mémoire
Du mal et du bien,
O, la triste historie !

Je suis un berceau,
Qu’une main bakance
Au crex d’un caveau
Silence, silence…

注記】本文および訳文の著作権は消失している。

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