読書ざんまいよせい(065)

◎滝沢馬琴・内田魯庵抄訳南総里見八犬伝(001)

南總里見八犬傳(解題的梗概を含む)

滝澤(曲亭)馬琴・内田魯庵抄訳

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【テキスト中に現れる記号について】
:おどり字
(例)/\はおどり字濁点付きは/〝\と表記
:[#ここから二字下げ]などは、入力者の注
以下は、上記注釈は省略する
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       小   引

一 八犬傳は全部を完成するに二十八年を費やしてをる。總冊百六巻。一篇の物語として此の如く長きは東西共に比倫を絶する。西欧小説中の最大長篇として推される猷豪ユーゴーの『哀史』も杜翁の『戰争與平和』も八犬傳に比べてはその雄を称する事は出來ない。随つて讀者としても全部を卒業するのは決して容易でないので、所謂八犬傳の愛讀者がそらんするは大抵、信乃濱路の情史乎、芳流閣上の争闘乎、房八の悲劇乎、荒芽山の活劇乎、部分的の物語に限られてをる。能く全部を通串してその半ばにだも達したものは甚だれである。明治の文学史に高名な博士中の博士ともいふべき某氏は、曾て八犬傳を八分通り通讀したのを誇りとして、八犬傳を全部卒業したものは恐らく一人も有るまいと、能く八分通りを讀破したのを以て讀書心旺盛を示すものとして暗に自負する處があった。八犬傳は特別の忍耐力を要するほどソンナ怠屈なものでは無いが、何しろ長いには大抵な者は根負けがしてしまふ。殊に馬琴時代とは思想上文章上の鑑質的態度や興味を根本から異にする今日の中年以下の讀者に取つては、八犬傳も大般若経も餘り大差は無いので、これが全部の通讀を望むのは草鞋脚半掛けの五十三次の行脚を強要するよりも困難である。八犬傳を覆印するに方つて編纂者が先づ解題的梗慨を添へんとする旨趣は此埋由からである。

一 が、編纂者から此依嘱を受けた時は梗慨を書く如きは何でも無いと思ってゐた。但し梗概を書くのは如何に名著でも餘り氣の利いた役目でも無いと思って躊躇もしたが.同時に又自分等に丁度相應した仕事だとも思って幾度か依違した後に應諾した。が、ざ着手して見ると屡〻案外な困難に逢着して梗慨を書くといふのは容易ならざる難事であるのを知つた。何しろ百六冊といふ大部の長物語を僅か三百枚や五百枚に切詰めて大體の輪郭を分明ならしめるといふはレンズを透かして縮写するやうなソンナ手輕なものでは無い。それに就いての困難咄は兎角に手前味噌や自画自讃に流れ勝ちだから之を措くが、梗概といふのも矢張創作の一つで、一口にいふと、自分のやうな創作の才の貧しいものがする仕事でない事を痛切に悟った。その才の短い為めの当然の結果として覆刻本の各冊毎にその一冊分の物語の全部の慨略を記述する豫定であったのが、豫定より多少頁を伸ばしても猶二分の一しか祖述出來無かつた。それでも何度か削ったり省いたりしてヤツトこさと之までに縮めて纏めたので、今更に自分の省筆の才の短いのを恥入つた。この比例を以てすると結局許された頁では全部の半分の梗慨しか書けないわけであるが、發行期日が迫ってゐるから第一冊目は是非無いとして何とかして最後の第三冊目までには、全部を纏めるツモリである。

一 馬琴の描寫が極めて細密に渉つて煩瑣を極めてるとは誰も云ふ處であるが、實際に當つて見ると豫想以上に煩冗を極めてゐる。発端を掻摘ままうとするには微細の點までも呑込んで置かねばならないが、三度も四度も反覆しなければ解らぬ個處は相應に多い。その精究の結果、馬琴ほどの細心の作家でも時としては矛盾したり撞着したり、時間が曖昧で、往〻多少相違したり、随分好い加減な與太を飛ばした個處が少からず有る。且脚色にも同じ構想を反覆したり無理な細工をしたり、且又強て自家獨特の因果律に萬事をあてはめようとする牽強があまり餘り煩はし過ぎるに堪へない。馬琴は自分の幼年から青年時代へ掛けての愛讀書で、その代表作は大抵通讀し、一度は馬琴論を書いて見ようと思ふ豫ての腹案もあったのが其後いつとなく興味が去つて了つたが、偶然この最大作の梗概を祖述するにあたつて、馬琴の著作の態度や慣用の作意が以前よりも一層明瞭に解つて再び馬琴諭の興味を沸湧して來た。馬琴の評傳といふやうな大袈裟なものはイツとも解らぬが將來に期するとして、八犬傳總括評乃至八犬傳偏痴氣論といふやうなものは若し頁が許されるなら第三冊目の梗概終結後に載せたいと思ふ。
十二月十五日
魯庵生識
八犬傳物語

 一 金碗八郎孝吉

 今から五百年前、其處此處そここゝで戰ひの絶間なかつた時代の咄。房州は白濱から小湊こみなとへ行く長狹ながさ白箸河しらはしかはほとりつりをする主従らしい三人の武家があつた。こゝらで餘り見掛けない人品骨柄こつがらで、中にも中央の床几しやうぎに腰を卸して竿を垂れる一番年少としわかなのは武門の棟梁の氣品を備へた天晴貴人あつぱれきじん御曹子おんざうしと見受けた。

今日けふ三日みつか落武者おちむしやにもせよ源氏の嫡流たる里見の冠者がこひぴきれぬといふは、く/\武運に見放されたと見える。』

 と思はず溜息をいたのを微笑にまぎらして、

『敗軍の將は鯉まで對手あひてにせぬと見えて、何遍なんペん釣っても小鰕こえび雑魚ざこばかりぢや。』

『殿、止めさせ給へ』と老職らしい年老としふけたのが、『弓矢ゆみや持つ武將を釣師扱つりしあつかひして鯉を釣って來いといふさへ心得ぬに、此國でれるかれぬかわからぬものを三日みつかと限るといふは奇怪千萬な。君を迎へまつる誠意の無い安西あんさいの腹がきますわい、ノウ堀内氏ほりうちうぢ!』

如何いかにも杉倉殿すぎくらどのの云はれる通り。』

 と今一人いまひとりのがムシヤクシヤと、

不信ふしんの安西、麻呂まろらを頼んでイツまでおはすとも詮が無い。杉倉氏、上總かづさへおとも仕らうぢやござらぬか。』

『兩人ともはやまるまい。』

 と御曹子は左右を顧みて兩人の短慮を嗜たしなめ、

『石橋山に敗れて安房に渡った右幕下うぱくかの武運にあやかるツモリは無いが、結城を落ちるそも/\からと先づ安房に落ちついておもむろに再擧を図る決心であった。安西、麻呂の頼むに足らぬ心の底はえ透いてるが、上總へ落て誰を頼まうとする。所詮は時と勢ひをうしなつた義實、誰を頼むといふしかとした寄邊よるべが無いから暫らく界隈を放浪さすらつて安西、麻呂のせんやうを見る外は無い。』

 と静かに沈吟しあんしつゝ、

『鯉を釣るのは國を釣るのぢや。弓矢持ゆみやもつ手に竿さをにぎるも亦風流!』

 と莞爾につこと笑って武門の棟梁の襟度きんどを示しつ、再びいとを垂れる折しも、

[#ここから二字下げ]

里見さとみえて/\白帆走しらほはしらせ風もよし、安房あは水門みなとに寄る船は、なみに砕けずしほにも朽ちず、人もこそ引け、我も引かなん。』

[#字下げおわり]

 とみたる聲にてふし面白く繰返し/\歌ひ來れる乞兒かたゐがあつた。おもてくづ膿血うみちながれて臭氣堪へ難きに、主従三人は鼻を掩うて疾くけかしと思ふを憚りもなく近づいて、

『殿は何を釣らうとお思召す?』

 と義實の顏を覗込みつゝ、

最前さいぜんから見てをれば何がかゝつても直ぐ棄てゝしまはれるが、何を釣らうとお思召すのか?えッ、鯉を?はゝゝゝゝツ、安房には鯉はゐませんわい。』

 とから/\と笑つた。

なに、安房には鯉はゐないと申すか。』

 と杉倉氏元うじもとと堀内貞行さだゆききつとなつて双方一度に詰寄つた。

『安房には鯉はをりませぬ。』

 と乞兒かたゐめず臆せず平然として

『俗に鯉は十郡からの大國で無いと生じないと申しますが、あながうともきまりませぬ。風土に由るので國の大小にらない。奥羽は五十四郡の大國であるが、矢張鯉がをりませぬ。例へば里見の御曹司が上野かうづけに人となつても上野を知ろし召す事が出來なくて、この房州に流遇さすらつて膝を容れるの室が無いやうなものでござる。』

 と知る知らぬ乎 恐れも無く傍若無人にいひ放つたので、飛ぶ鳥にも氣を置く主従三人、思はず呆れて顏を見合はした。

『汝は一體何者ぢや?』

 と暫らくして義實は乞兒かたゐきつと睨まへた。

乞兒かたゐはハツと飛退とびすさつて大地に手を突き、

『さてはそれがしの推量にたがはず里見の御曹司おんざうしにおはしましたか。君をためし奉つた無禮はお許し下されて言上したい事もあれば、ざこなたへ成らせ給へ。』

 とさきへ立ちつつ、人の往來ゆききする路傍を離れたある山蔭へ主従を案内し、上座に義實を据ゑて遥かうしろ後退あとずさりして、改めてうや/\しく大地に額突ぬかづいた。

『それがしは 當國瀧田たきたの城主神餘長狹介光弘じんよながさのすけみつひろの家の子金碗八郎孝吉かなまりはちろうたかよしと申すものゝ成れの果でござります。君にも聞こし召されんが神餘じんよの家は――』

うん/\かく/\と、義實主従も安房に渡ると直ぐうす/\小耳こみみに入れた神餘の家の動亂どうらん一伍一什いちぶしじふ事詳ことつまびらかに言上した。

 神餘は安西あんさい麻呂まろならんで安房四郡を分領した東條の末であつた長狹介光弘ながさのすけみつひろの代となつて東條瀧田たきたはして安房半國を領し、安西、麻呂を下風かふうに立たして威勢並ぶものも無かつたので、光弘は心おごつて日夜酒色に沈湎ちんめんした。嬖臣へいしん山下柵左衞門定包さくざえもんさだかね微賤よリ歷上へあがつた君の御恩ごおんを思はず傍若無人に振舞ひ、君の眼をぬすんで嬖妾玉梓へいそうたまずさと私通し、忠臣を遠ざけ侫人を手馴てなづけ、内外心を併はして思ふまゝ國政を掻亂し、民の怨府となつて家運日に傾き、數代連綿たる神餘の家も累卵よリも危くなつた。

金碗かなまりはもと神餘じんよの支わかれで代々老職の筆頭であつた孝吉は早く父母に別れマダ年少であつたので光弘の近習きんじゆに召れてゐたが、光弘が淫楽に耽つて奸臣時を得顏えがほ跋扈ばつこし君家の内外日に非なるを視るに忍びず、屡々しば/\苦諌したがれられないので、暫らく時を俟つの決心で一時退身した。斯くて五年の歳月を往方ゆくへ定めぬ旅路に暮して久方振ひさかたぶりに故郷の土を踏んだ時は光弘不慮ふりょ狂死わうしして奸臣定包さだかね國をも婢妾ひせうをもぬすんで瀧田たきたの城主としての威福をほしいままにしてゐた。

かねしたる事ではあるが、今更に胸のつぶれる思ひ。段々聞くと定包の好智にけたるかねおのれの横暴を憎んで機會を覘うものがあると聞くや、狩倉かりくらすすめて領内に触れさして刺客を釣り、其日の狩倉には姦計を用ひて君の乘馬を中途に斃れさしておのれの乘馬をうまとしてすゝめ、刺客のを欺いて己れの身代りに君を射留いとめさせ、意外の珍事に驚いたやうな顏をして直ちに刺客をかららして首をね、即座に君の仇を報たやうな忠臣顏をした。加之のみならず陰謀の張本人たる口を拭いて世子せいしの無いのを奇貨とし、一國一日も君無かるべからずと、暫らく國政をあづかるといふ名目でマンマと領主となつて玉梓たまづさを嫡室とし其他の婢妾をまで竊んだ。

 これから後、孝吉は身にうるしして乞兒かたゐに姿をへ、日毎に瀧田を徘徊して容子ようすを探り、或る時人目を避けて彼地此地あちらこちら放浪さすらつてるうちに不斗ふと耳に入つたのは里見冠者さとみのくわんじや義實が結城ゆふきの戰ひを遁れて安房へ渡つて來られたといふ噂であつた。所詮やせ浪人の赤手せきしゆで敵をうかゞうよりはこの名門のきみを仰いで義兵を揚げるにくは無いと、里見の御曹子の行衞を尋ねるうちに 、自箸河しらはしがはほとり邂逅であつた主従三人の武家は人品骨柄世の常ならず見受けたので、乞兒婆かたゐすがたの恐れもなく近づいて鯉に事寄せ口占くちうらを引いて見たので、

『貴いおかたとはで見奉つたが、』

 と金碗かなまりは感概に堪へないやうな顏をして、

『正しく里見の君におはしましたのは、先君亡靈の導き給ふところ…………』

 とちく一言上して逆賊討伐の義兵の旗揚げを勸めた。

 孤忠をあはれむ義心と、不忠不義にいきどほ侠骨けうこつと、天涯の孤客の鬱勃うつぼつたる雄心とで、義實は金碗の熱辯に耳を傾け、杉倉、堀内、金碗と環座くわんざして旗上けの謀議を凝らした。

 その晩金碗は義實主従を嚮導みちしるべして小湊へ行き、はかりごとを用ひて土民百五十名を糾合し、兵は神速しんそくを貴ぶ、即時に瀧田の支城東條へ押寄せ、敵の備へなきに乘じて一擧にしておとしいれた。降兵數百人、軍馬、兵器、糧餉りやうしやう山の如く捕獲して、勢ひに乘じて一氣に城を抜くべく瀧田へ押寄せた。沿道ふうを望んで集る野武士豪族千餘騎、軍容大いに振った。

 が、瀧田は肯繁さすがに要害で。一時に容易に落つる氣色けしきなく、智略に秀づる義實も、老功手だれの杉倉、堀内も、瞻勇無双の金碗も攻めあぐんで策のほどこしやうも無かつたが、不斗ふと案じつきて反間苦肉はんかんくにく羽檄うげきを飛ばして城内の人心を動揺せしめた。奇策は誤またず、城内俄かに浮足となり、定包眤近じつきんの幕僚までが不安となつて終に陰謀を企て、突然定包の帳中てうちうに切込んで首を擧げ、これを幣物へいもつとして開城して義實の軍門に降つた。逆徒の一味は此の如くして亡びて、義實は目出度く瀧田へ入城して安房半國の領主となつた。
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南総里見八犬伝(002)

南總里見八犬傳卷之一第一回
東都 曲亭主人 編次
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季基すゑもとをしえのこしてせつ
白龍はくりうくもさしばさみてみなみおもむ

京都きやうと將軍せうぐん鐮倉かまくら副將ふくせう武威ぶゐおとろへて偏執へんしうし、世は戰國せんこくとなりしころなん東海とうかいほとりさけて、土地とちひらき、基業もとゐおこし、子孫十世しそんじゅっせに及ぶまで、房總あわかづさ國主こくしゆたる、里見治部さとみぢぶの大夫たいふ義實朝臣よしざねあそんの、事蹟じせきをつら/\かんがふるに、淸和せいわ皇別みすゑ源氏げんじ嫡流ちやくりう鎭守府ちんじゆふ將軍せうぐん八幡太郞はちまんたろう義家朝臣よしいへあそん十一世じういつせ里見さとみ治部ぢぶの少輔せういう源季基みなもとのすゑもとぬしの嫡男ちやくなん也。時に鐮倉の持氏卿もちうぢけう自立じりう志頻こゝろざししきりにして、執權憲實しつけんのりさねいさめを用ひず、忽地たちまち嫡庶ちやくしよをわすれて、室町將軍むろまちせうぐん義敎公よしのりこうと、確執くわくしつに及びしかば、京軍きやうぐんにはかによせきたりて、憲實に力をあはし、かつ戰ひ且進かつすゝんで、持氏父子ふしを、鐮倉なる、報國寺ほうこくじ押籠おしこめつゝ、詰腹つめはらきらせけり。これはこれ、後花園天皇ごはなぞのてんわう永享ゑいきやう十一年、二月十日のことになん。かくて持氏の嫡男義成よしなりは、父とゝもに自害じがいして、かばねを鐮倉にとゞむといへども、二男じなん春王はるわう三男さんなん安王やすわうとまうせし公達きんだちは、からく敵軍のかこみのがれて、下總しもふさおち給ふを、結城氏朝迎ゆふきのうぢともむかへとりて、主君しゆくんあほたてまつり、京都の武命ぶめいに從はず、管領くわんれい淸方持朝きよかたもちとも)の大軍たいぐんをもものゝかすとせず。されば義によつて死をだもせざる、里見季基さとみすゑもとはじめとして、およそ持氏恩顧おんこ武士ぶしまねかざれどもはせあつまりて、結城ゆふきしろを守りしかば、大軍にかこまれながら、一トたびも不覺ふかくを取らず、永享十一年の春のころより、嘉吉元年かきつぐわんねんの四月まで、籠城三年ろうぜうみとせに及ぶものから、ほかたすけの兵つわものなければ、かて矢種やだね竭果つきはてつ、「今ははやのがるゝみちなし。たゞもろともに死ねや」とて、結城の一族いちぞく、里見のしゆうじゆう城戶推きどおしひらきて血戰けつせんし、込入こみいる敵をうちなびけて、衆皆みなみな討死うちしにするほどに、その城つひおちいりて、兩公達ふたりのきんだち生拘いけどられ、美濃みの垂井たるゐにてがいせらる。にいふ結城合戰ゆふきかつせんとはこれ也。
 かゝりし程に、季基すゑもと嫡男ちやくなん里見治部大夫義實さとみぢぶのたいふよしさねぬし、このときは又太郞またたらう御曹司おんぞうしよばれつゝ、年なほ廿はたち滿みたざれ共、武勇智略ぶゆうちりやく父祖ふそにもまして、その才文道さえふみのみちにもたけたり。三年みとせ以來このかた父と共に、籠城ろうぜう艱苦かんくいとはず、この日も諸軍しよぐんさきたちて、敵十四五騎斬ききつおとし、なほよき敵と引組ひきくんで、討死うちしにせんとて進みしを、父の季基はるかに見て、いそがはしく呼びとゞめ、「やをれ義實、勇士ゆうしかうベうしなふことを忘れず。けふを限りと思ふこと、ことわりあるに似たれども、父子ふしもろとも討死うちしにせば、先祖せんそへ不孝これにすぎず。京鐮倉を敵としうけて、ふたごゝろをぞんずることなく、勢竭いきほひつき、力窮ちからきわまり、落城らくぜうのけふに至りて、父は節義せつぎために死し、子はまた親の爲にのがれて、一命いちめいをたもつとも、なにかははづことあらん。すみやか殺脫きりぬけて、時節じせつまちいへおこせ。とく/\おちよ」、といそがせば、義實はきゝあへず、鞍坪くらつぼかうべさげ、「うけ給はり候ひぬ。しかはあれど、親の必死をよそに見て、阿容々々おめ/\のがるゝことは、三才の小兒せうにえうせじ。況弓箭いはんやゆみやの家に生れて、それがしこゝに十九さい文武ぶんぶの道にわけ入りて、順逆邪正じゆんぎやくじやせう古人こじん得失とくしつ大槪おほかたはこれをしれり。只冥土黃泉ただめいどくわうせんおん供ともとこそ思ひ奉れ。しすべきところ得死えしなずして、笑ひをまねき、名をけがし、先祖せんそはづかしめ奉らんことは、ねがはしからず候」、とこたふ辭勇ことばいさましき、かほつく/\とうちまもる、父はしきり嘆息たんそくし、「義實微妙いみじく申たり。さりながら、圓頂黑衣ゑんちやうこくえさまかえ、出家沙門しゆつけしやもんになれといはゞ、親のをしえもとりもせめ、時節をまちて家をおこせ、といふを推辭いなむは不孝也。しらずや足利持氏あしかゞもちうぢぬしは、譜代相傳ふだいさうでんの主君にあらず。そもそもわが祖は一族たる、新田義貞朝臣につたよしさだあそんに從ひて、元弘建武げんこうけんむ戰功せんこうあり。しかりしより新田の餘類よるい南朝なんちやう忠臣ちうしんたれども、明德めいとく三年の冬のはじめに、南帝入洛なんていじゆらくまし/\て、たの樹下このもとりしより、こゝろならずも鐮倉なる、足利家の招きにしたがひ給ひし、亡父ぼうふは(里見大炊介元義おおゐのすけもとよし滿兼主みつかねぬし(持氏の父)に出仕しゆつしし、われは持氏ぬしにつかへて、今幼若ようくんの爲に死す。こゝろざしいたしたり。これらの理義りぎわきまへずは、たゞ死するをのみ武士といはんや。學問がくもんも又そのかひなし。かくまでいふを用ひずは、親とな思ひそ、子にあらず」、とことばせわしく敦圉いきまき給へば、義實道理どおりせめられて、思はす馬のたてかみへ、おとなみだ道芝みちしばに、結ぶがごときもとつゆすゑしづくと親と子が、おくさきたつ生死いきしにの、海よりあらき鯨波ときの聲、こなたへ進む敵軍を、季基すゑもときつと見かヘりて、「時移りてはかなはじ」、と思ふことさへかねてより、こゝろさせし譜代ふだい老黨ろうだう杉倉木曾介氏元すぎくらきそのすけうぢもと堀內藏人貞行等ほりうちくらんどさだゆきらに、注目めくはせをしてければ、兩人齊一りやうにんひとしく身を起し、「俺們われわれおん供つかまつらんいざ給へ」、といひあへず、木曾介は義實よしさねの馬のくつわづらひきめぐらし、藏人はその馬の、しりうつ逐走おひはしらせ、西をさしてぞ落てゆく。むかしかの楠公くすのきが、櫻井さくらゐうまやぢより、その子正行まさつらを返したる、こゝろはおなじ忠魂ちうこん義膽ぎたんかうありけんと想像おもひやり、のことゞま兵士等つわものらは、愀然しうぜんとして列居なみゐたり。季基はおちてゆく、わが子を霎時目送しばしみおくりつ、「今はしも心やすし。さらば最期さいごをいそがん」とて、たづなかいり、馬騎うまのりかへして、十に足らぬ殘兵ざんへいを、鶴翼くわくよくそなへつゝ、むらがつる大軍へ、會釋ゑしやくもなくついる。勇將ゆうせうしも弱卒じやくそつなければ、しゆう家隸けらいも二三騎、敵をうたざるものはなく、願ふ所は義實を、うしろやすくおとさん、と思ふほか他事たじなければ、目にあまる大軍を、一足ひとあしすゝませず、躬方みかた死骸しがい踏踰ふみこえて、引組ひきくんではさしちがへ、おなじまくらふすほどに、大將たいせう季基はいふもさらなり、八騎の從卒一人じゆうそつひとりも殘らず、僉亂軍みならんぐんうちうたれて、鮮血ちしほ野逕やけい草葉くさばそめむくろ彼此をちこちさんみだして、馬蹄ばでいちりうづむといへども、その名はくちず、華洛みやこまで、たちのぼりたる丈夫ますらをの、いともはげしき最期さいご也。
 さる程に、里見冠者義實さとみのくわんじやよしさねは、杉倉堀內にみちびかれて、十ちやうあまり落延おちのぴつ、「さるにても嚴君ちゝきみは、いかになりはて給ひけん。おぼつかなし」、といくそたび、馬の足掻あがきとゞめつゝ、見かへるかたときの聲、矢叫やさけぴ音囂こゑかしましく、はや落城らくぜうとおぼしくて、猛火みやうくわの光てんこがせば、「吐嗟あなや」とばかりさけびあへず、そがまゝたづなひきしぼりて、のりかへさんとしたりしかば、兩個ふたり老黨ろうだう左右より、くつわすがりうごかせず、「こは物體もったいなし。今更いまさらに、ものにや狂ひ給ふらん。大殿おほとのの敎訓を、なにとか聞召きこしめしたるぞ。今おとさるゝ城にかへりて、可惜あたらおん身をうしなひ給はゞ、古歌こかにもよめ夏蟲なつむしの、火むしよりなほ果敢はかなき所爲わざなり。夫大信それたいしんは信ならず、大孝たいこうは孝なきごとし、と古人こじん金言きんげん日來ひごろより、口順くちすさみ給ふには似げなし。およそたかきもいやしきも、忠孝ちうこうの道は一條ひとすぢなるに、迷ひ給ふはいかにぞや。こなたへ來ませ」、と牽駒ひくこまの、こゝろも狂ふこう哀傷あいしやうしきりに焦燥いらだつ聲もはげしく、「はなせ貞行、とむるな氏元。伱達なんたち諫言かんげんは、親のこゝろなるべけれど、今これをしもしのびなば、われ人の子といはれんや。放せ/\」、とむちあげて、うてどあふれど玉匣たまくしげ、ふたりひとしき忠臣ちうしんの、こぶし金石きんせきちつとゆるめず、うたるゝまゝひいてゆく、馬壇うまで鞍懸くらかけ柳坂やなぎさか、けふりはあと遠離とほざかる、火退林ひのきばやしのほとりにて、勝誇かちほこつたる鐮倉ぜい、二十騎あまり追蒐來おつかけきつ、「遖武者態あつはれむしやぶり逸足にげあしはやし。緋威ひおどしよろひ着て、五枚冑ごまいかぶと鍬形くわがたの、あはひかゞや白銀しろかねもて、中黑なかぐろ紋挫もんうつたるを、大將たいせうと見るは僻目欤ひがめかきたなし返せ」、とよぴかけたり。義實はちつと擬議ぎきせず、「あながまや雜兵ざふひやうばら。敵をおそれて走るにあらねば、返すにかたきことあらんや」とて、馬をきりゝとたてなほし、大刀たち拔翳ぬきかざして進み給ふ。大將をうたせじとて、杉倉堀內推竝おしならんで、かたき矢面やおもて立塞たちふさがり、やりひねつ突崩つきくづす。義實は亦老黨またろうたうを、うたせじとて馬をはせよせ、前後ぜんごを爭ふ主從しゆうじゆう三騎、大勢たいせい眞中まんなかへ、十文字じうもんじ蒐通かけとほつて、やが巴字はのじにとつて返し、鶴翼くわくよくつらなつて、更に魚鱗ぎよりんにうちめぐり、西に當り、東になびけ、北をうつては、南にはしらせ、馬の足をたてさせず。三略さんりやくでん八陣はちゞんはう、共にしつたる道なれば、目今たゞいま前にあるかとすれば、忽然こつぜんとしてしりへにあり、奮擊突戰ふんげきとつせん祕術ひじゆつつくす、千變萬化せんぺんばんくわ大刀風たちかぜに、さしもの大勢亂騷たいせいみだれさわぎて、むら/\はつと引退ひきしりぞく。敵退しりぞけば杉倉は、しゆういさめ徐々しづしづと、おつるをさらつけて來る、端武者はむしや遠箭とほやおとし、追ひつかへしつ林原しもとはら三里さんりが程を送られて、つひにはおつる夕日のあとに、十六日の月まどかなり。
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