今回から、今を去る20年前に、「ちまえの館」さんが、アップされたものを、基本的に底本とし、コードを UNICODE に変換、できるだけ、漢字を表現できるようにし、漢字を旧字体に統一しました。UNICODE 表になく、どうしても字形が見つからない場合は、「〓」で表示しています。あらためて「ちまえの館」さんのご尽力に敬意を表します。
南總里見八犬傳卷之一第一回
東都;曲亭主人;編次
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例》季基《すゑもと》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)持氏|父子《ふし》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
〓:UNICODE 表にない漢字、[]内に漢字の部分を示したところもあり
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季基《すゑもと》訓《をしえ》を遺《のこ》して節《せつ》に死《し》す
白龍《はくりう》雲《くも》を挾《さしばさ》みて南《みなみ》に歸《おもむ》く
京都《きやうと》の將軍《せうぐん》、鐮倉《かまくら》の副將《ふくせう》、武威《ぶゐ》衰《おとろ》へて偏執《へんしう》し、世は戰國《せんこく》となりし比《ころ》、難《なん》を東海《とうかい》の濱《ほとり》に避《さけ》て、土地《とち》を闢《ひら》き、基業《もとゐ》を興《おこ》し、子孫十世《しそんじゅっせ》に及ぶまで、房總《あわかづさ》の國主《こくしゆ》たる、里見治部《さとみぢぶの》大夫《たいふ》義實朝臣《よしざねあそん》の、事蹟《じせき》をつら/\考《かんがふ》るに、淸和《せいわ》の皇別《みすゑ》、源氏《げんじ》の嫡流《ちやくりう》、鎭守府《ちんじゆふ》將軍《せうぐん》八幡太郞《はちまんたろう》、義家朝臣《よしいへあそん》、十一世《じういつせ》、|里見《さとみ》治部《ぢぶの》少輔《せういう》源季基《みなもとのすゑもと》ぬしの嫡男《ちやくなん》也。時に鐮倉の持氏卿《もちうぢけう》、自立《じりう》の志頻《こゝろざししきり》にして、執權憲實《しつけんのりさね》の諫《いさめ》を用ひず、忽地《たちまち》嫡庶《ちやくしよ》の義《ぎ》をわすれて、室町將軍《むろまちせうぐん》義敎公《よしのりこう》と、確執《くわくしつ》に及びしかば、京軍《きやうぐん》猛《にはか》によせ來《きた》りて、憲實に力を勠《あは》し、且《かつ》戰ひ且進《かつすゝん》で、持氏|父子《ふし》を、鐮倉なる、報國寺《ほうこくじ》に押籠《おしこめ》つゝ、詰腹《つめはら》を切《きら》せけり。是《これ》はこれ、後花園天皇《ごはなぞのてんわう》の永享《ゑいきやう》十一年、二月十日のことになん。かくて持氏の嫡男|義成《よしなり》は、父とゝもに自害《じがい》して、屍《かばね》を鐮倉に留《とゞ》むといへども、二男《じなん》春王《はるわう》、三男《さんなん》安王《やすわう》とまうせし公達《きんだち》は、辛《から》く敵軍の圍《かこみ》を脫《のが》れて、下總《しもふさ》へ落《おち》給ふを、結城氏朝迎《ゆふきのうぢともむかへ》とりて、主君《しゆくん》と仰《あほ》ぎ奉《たてまつ》り、京都の武命《ぶめい》に從はず、管領《くわんれい》(淸方持朝《きよかたもちとも》)の大軍《たいぐん》をも屑《ものゝかす》とせず。されば義に仗《よつ》て死をだも辭《ぢ》せざる、里見季基《さとみすゑもと》を首《はじめ》として、凡《およそ》持氏|恩顧《おんこ》の武士《ぶし》、招《まねか》ざれどもはせ集《あつま》りて、結城《ゆふき》の城《しろ》を守りしかば、大軍に圍《かこま》れながら、一トたびも不覺《ふかく》を取らず、永享十一年の春の比《ころ》より、嘉吉元年《かきつぐわんねん》の四月まで、籠城三年《ろうぜうみとせ》に及ぶものから、外《ほか》に援《たすけ》の兵《つわもの》なければ、糧《かて》も矢種《やだね》も竭果《つきはて》つ、「今ははや脫《のが》るゝ途《みち》なし。只《たゞ》もろともに死ねや」とて、結城の一族《いちぞく》、里見の主《しゆう》從《じゆう》、城戶推《きどおし》ひらきて血戰《けつせん》し、込入《こみい》る敵をうち靡《なび》けて、衆皆《みなみな》討死《うちしに》する程《ほど》に、その城|竟《つひ》に陷《おちい》りて、兩公達《ふたりのきんだち》は生拘《いけど》られ、美濃《みの》の垂井《たるゐ》にて害《がい》せらる。俗《よ》にいふ結城合戰《ゆふきかつせん》とはこれ也。
かゝりし程に、季基《すゑもと》の嫡男《ちやくなん》、里見治部大夫義實《さとみぢぶのたいふよしさね》ぬし、このときは又太郞《またたらう》御曹司《おんぞうし》と呼《よば》れつゝ、年なほ廿《はたち》に滿《みた》ざれ共、武勇智略《ぶゆうちりやく》は父祖《ふそ》にもまして、その才文道《さえふみのみち》にも長《たけ》たり。三年《みとせ》以來《このかた》父と共に、籠城《ろうぜう》の艱苦《かんく》を厭《いと》はず、この日も諸軍《しよぐん》に先《さき》たちて、敵十四五|騎斬《ききつ》て落《おと》し、なほよき敵と引組《ひきくん》で、討死《うちしに》せんとて進みしを、父の季基|遙《はるか》に見て、遽《いそがは》しく呼びとゞめ、「やをれ義實、勇士《ゆうし》は元《かうベ》を喪《うしな》ふことを忘れず。けふを限りと思ふこと、理《ことわ》りあるに似たれども、父子《ふし》もろ共《とも》に討死《うちしに》せば、先祖《せんそ》へ不孝これに過《すぎ》ず。京鐮倉を敵とし受《うけ》て、貳《ふた》ごゝろを存《ぞん》ずることなく、勢竭《いきほひつ》き、力窮《ちからきわま》り、落城《らくぜう》のけふに至りて、父は節義《せつぎ》の爲《ため》に死し、子は又《また》親の爲に脫《のが》れて、一命《いちめい》をたもつとも、何《なに》かは羞《はづ》る事《こと》あらん。速《すみやか》に殺脫《きりぬけ》て、時節《じせつ》を俟《まち》て家《いへ》を興《おこ》せ。とく/\落《おち》よ」、といそがせば、義實は聞《きゝ》あへず、鞍坪《くらつぼ》に頭《かうべ》を低《さげ》、「うけ給はり候ひぬ。しかはあれど、親の必死を外《よそ》に見て、|阿容々々《おめ/\》と脫《のが》るゝことは、三才の小兒《せうに》も要《えう》せじ。況弓箭《いはんやゆみや》の家に生れて、某《それがし》こゝに十九|歲《さい》、文武《ぶんぶ》の道にわけ入りて、順逆邪正《じゆんぎやくじやせう》、古人《こじん》の得失《とくしつ》、大槪《おほかた》はこれをしれり。只冥土黃泉《ただめいどくわうせん》のおん供《とも》とこそ思ひ奉れ。死《しす》べき處《ところ》に得死《えしな》ずして、笑ひを招《まね》き、名を汚《けが》し、先祖《せんそ》を辱《はづか》しめ奉らんことは、願《ねがは》しからず候」、と答《こたふ》る辭勇《ことばいさま》しき、㒵《かほ》つく/\とうちまもる、父は頻《しきり》に嘆息《たんそく》し、「義實|微妙《いみじく》申たり。さりながら、圓頂黑衣《ゑんちやうこくえ》に容《さま》を更《かえ》、出家沙門《しゆつけしやもん》になれといはゞ、親の敎《をしえ》に悖《もと》りもせめ、時節を俟《まち》て家を興《おこ》せ、といふを推辭《いなむ》は不孝也。しらずや足利持氏《あしかゞもちうぢ》ぬしは、譜代相傳《ふだいさうでん》の主君にあらず。抑《そもそも》わが祖は一族たる、新田義貞朝臣《につたよしさだあそん》に從ひて、元弘建武《げんこうけんむ》に戰功《せんこう》あり。しかりしより新田の餘類《よるい》、南朝《なんちやう》の忠臣《ちうしん》たれども、明德《めいとく》三年の冬のはじめに、南帝入洛《なんていじゆらく》まし/\て、憑《たの》む樹下《このもと》雨|漏《も》りしより、こゝろならずも鐮倉なる、足利家の招きに隨《したが》ひ給ひし、亡父《ぼうふ》は(里見|大炊介元義《おおゐのすけもとよし》)滿兼主《みつかねぬし》(持氏の父)に出仕《しゆつし》し、われは持氏ぬしにつかへて、今|幼若《ようくん》の爲に死す。志《こゝろざし》は致《いた》したり。これらの理義《りぎ》を辨《わきま》へずは、只《たゞ》死するをのみ武士といはんや。學問《がくもん》も又そのかひなし。かくまでいふを用ひずは、親とな思ひそ、子にあらず」、と辭《ことば》せわしく敦圉《いきまき》給へば、義實|道理《どおり》に責《せめ》られて、思はす馬の鬣《たてかみ》へ、落《おと》す淚《なみだ》は道芝《みちしば》に、結ぶがごとき本《もと》の露《つゆ》、末《すゑ》の雫《しづく》と親と子が、後《おく》れ先《さき》たつ生死《いきしに》の、海よりあらき鯨波《とき》の聲、こなたへ進む敵軍を、季基《すゑもと》佶《きつ》と見かヘりて、「時移りてはかなはじ」、と思ふことさへ豫《かね》てより、こゝろ得《え》させし譜代《ふだい》の老黨《ろうだう》、杉倉木曾介氏元《すぎくらきそのすけうぢもと》、堀內藏人貞行等《ほりうちくらんどさだゆきら》に、注目《めくはせ》をしてければ、兩人齊一《りやうにんひとしく》身を起し、「俺們《われわれ》おん供つかまつらん誘《いざ》給へ」、といひあへず、木曾介は義實《よしさね》の馬の轡《くつわづら》を牽《ひき》めぐらし、藏人はその馬の、尻《しり》を拍《うつ》て逐走《おひはし》らせ、西を投《さし》てぞ落てゆく。むかし彼《かの》楠公《くすのき》が、櫻井《さくらゐ》の驛《うまやぢ》より、その子|正行《まさつら》を返したる、こゝろはおなじ忠魂《ちうこん》義膽《ぎたん》、斯《かう》ありけんと想像《おもひや》り、殘《のこ》り留《とゞま》る兵士等《つわものら》は、愀然《しうぜん》として列居《なみゐ》たり
季基は落《おち》てゆく、わが子を霎時目送《しばしみおく》りつ、「今はしも心やすし。さらば最期《さいご》をいそがん」とて、鑣《たづな》かい繰《く》り、馬騎《うまのり》かへして、十|騎《き》に足らぬ殘兵《ざんへい》を、鶴翼《くわくよく》に備《そなへ》つゝ、群《むらが》り來《き》つる大軍へ、會釋《ゑしやく》もなく突《つい》て入《い》る。勇將《ゆうせう》の下《しも》に弱卒《じやくそつ》なければ、主《しゆう》も家隸《けらい》も二|騎《き》三騎、敵を擊《うた》ざるものはなく、願ふ所は義實を、後《うしろ》やすく落《おと》さん、と思ふ外《ほか》又|他事《たじ》なければ、目にあまる大軍を、一足《ひとあし》も進《すゝま》せず、躬方《みかた》の死骸《しがい》を踏踰《ふみこえ》て、引組《ひきくん》では刺《さし》ちがへ、おなじ枕《まくら》に臥《ふす》ほどに、大將《たいせう》季基はいふもさらなり、八騎の從卒一人《じゆうそつひとり》も殘らず、僉亂軍《みならんぐん》の中《うち》に擊《うた》れて、鮮血《ちしほ》は野逕《やけい》の草葉《くさば》を染《そめ》、躯《むくろ》は彼此《をちこち》に算《さん》を紊《みだ》して、馬蹄《ばでい》の塵《ちり》に埋《うづむ》といへども、その名は朽《くち》ず、華洛《みやこ》まで、立《たち》のぼりたる丈夫《ますらを》の、最《いと》もはげしき最期《さいご》也。
さる程に、里見冠者義實《さとみのくわんじやよしさね》は、杉倉堀內に導《みちびか》れて、十|町《ちやう》あまり落延《おちのぴ》つ、「さるにても嚴君《ちゝきみ》は、いかになり果《はて》給ひけん。おぼつかなし」、といくそたび、馬の足掻《あがき》を駐《とゞ》めつゝ、見かへる方《かた》は鬨《とき》の聲、矢叫《やさけぴ》の音囂《こゑかしま》しく、はや落城《らくぜう》とおぼしくて、猛火《みやうくわ》の光|天《てん》を焦《こが》せば、「吐嗟《あなや》」とばかり叫《さけ》びあへず、そがまゝ靮《たづな》ひきしぼりて、騎《のり》かへさんとしたりしかば、兩個《ふたり》の老黨《ろうだう》左右より、轡《くつわ》に携《すがり》て動《うごか》せず、「こは物體《もったい》なし。今更《いまさら》に、ものにや狂ひ給ふらん。大殿《おほとの》の敎訓を、何《なに》とか聞召《きこしめし》たるぞ。今|落《おと》さるゝ城に還《かへり》て、可惜《あたら》おん身を喪《うしなひ》給はゞ、古歌《こか》にも詠《よめ》る夏蟲《なつむし》の、火むしよりなほ果敢《はか》なき所爲《わざ》なり。夫大信《それたいしん》は信ならず、大孝《たいこう》は孝なき如《ごと》し、と古人《こじん》の金言《きんげん》日來《ひごろ》より、口順《くちすさみ》給ふには似げなし。凡《およそ》貴《たか》きも賤《いやし》きも、忠孝《ちうこう》の道は一條《ひとすぢ》なるに、迷ひ給ふはいかにぞや。こなたへ來ませ」、と牽駒《ひくこま》の、こゝろも狂ふ孝《こう》子《し》の哀傷《あいしやう》、頻《しき》りに焦燥《いらだつ》聲もはげしく、「放《はな》せ貞行、禁《とむ》るな氏元。伱達《なんたち》が諫言《かんげん》は、親の御《み》こゝろなるべけれど、今これをしも忍《しの》びなば、われ人の子といはれんや。放せ/\」、と鞭《むち》を揚《あげ》て、打《うて》どあふれど玉匣《たまくしげ》、ふたり等《ひと》しき忠臣《ちうしん》の、拳《こぶし》は金石《きんせき》、些《ちつと》も緩《ゆる》めず、鞭《うた》るゝ隨《まゝ》に牽《ひい》てゆく、馬壇《うまで》、鞍懸《くらかけ》、柳坂《やなぎさか》、けふりは後《あと》に遠離《とほざか》る、火退林《ひのきばやし》のほとりにて、勝誇《かちほこつ》たる鐮倉|勢《ぜい》、二十騎あまり追蒐來《おつかけき》つ、「遖武者態《あつはれむしやぶり》、逸足《にげあし》はやし。緋威《ひおどし》の鎧《よろひ》着て、五枚冑《ごまいかぶと》の鍬形《くわがた》の、閒《あはひ》に輝《かゞや》く白銀《しろかね》もて、中黑《なかぐろ》の紋挫《もんうつ》たるを、大將《たいせう》と見るは僻目欤《ひがめか》。蓬《きたな》し返せ」、と呼《よぴ》かけたり。義實は些《ちつと》も擬議《ぎき》せず、「あながまや雜兵《ざふひやう》ばら。敵をおそれて走るにあらねば、返すに難《かた》きことあらんや」とて、馬をきりゝと立《たて》なほし、大刀《たち》拔翳《ぬきかざし》て進み給ふ。大將を擊《うた》せじとて、杉倉堀內|推竝《おしならん》で、敵《かたき》の矢面《やおもて》に立塞《たちふさが》り、鎗《やり》を捻《ひねつ》て突崩《つきくづ》す。義實は亦老黨《またろうたう》を、擊《うた》せじとて馬を馳《はせ》よせ、前後《ぜんご》を爭ふ主從《しゆうじゆう》三騎、大勢《たいせい》の眞中《まんなか》へ、十文字《じうもんじ》に蒐通《かけとほつ》て、軈《やが》て巴字《はのじ》にとつて返し、鶴翼《くわくよく》に連《つらなつ》て、更に魚鱗《ぎよりん》にうち遶《めぐ》り、西に當り、東に靡《なび》け、北を擊《うつ》ては、南に走《はしら》せ、馬の足を立《たて》させず。三略《さんりやく》の傳《でん》、八陣《はちゞん》の法《はう》、共に知《しつ》たる道なれば、目今《たゞいま》前にあるかとすれば、忽然《こつぜん》として後《しりへ》にあり、奮擊突戰《ふんげきとつせん》祕術《ひじゆつ》を竭《つく》す、千變萬化《せんぺんばんくわ》の大刀風《たちかぜ》に、さしもの大勢亂騷《たいせいみだれさわ》ぎて、むら/\はつと引退《ひきしりぞ》く。敵|退《しりぞ》けば杉倉|等《ら》は、主《しゆう》を諫《いさめ》て徐々《しづしづ》と、落《おつ》るを更《さら》に跟《つけ》て來る、端武者《はむしや》は遠箭《とほや》に射《い》て落《おと》し、追ひつかへしつ林原《しもとはら》、三里《さんり》が程を送られて、終《つひ》には落《おつ》る夕日の迹《あと》に、十六日の月|圓《まどか》なり。
こゝより追來《おひく》る敵なければ、主從《しゆうじゆう》不思議《ふしぎ》に虎口《こゝう》を脫《のが》れて、その夜《よ》は白屋《くさのや》に宿《やど》りを投《もと》め、旦立《あさだち》の置土產《おきみやげ》に、馬物具《うまものゝぐ》をあるじにとらせて、姿を窶《やつ》し、笠《かさ》をふかくし、東西《とうさい》すべて敵地なれども、聊志《いさゝかこゝろざ》すかたなきにあらねば、相摸路《さがみぢ》へ走りつゝ、第三日《だいみつか》にして三浦《みうら》なる、矢取《やとり》の入江に着《つき》給ふ。固《もと》より裹《つゝ》む糧《かて》もなく、盤纏乏《ろようとも》しき落人《おちうど》と、なりも果《はて》たる主從は、いといたう餓疲《うへつか》れて、松が根に尻をかけ、遙《はるか》に後《おく》れし堀內藏人貞行《ほりうちくらんどさだゆき》を俟着《まちつげ》て、安房《あは》の州《くに》へ渡さんとて、轍《わだち》の鮒《ふな》の息吻《いきつき》あへず、見わたす方《かた》は目も迥《はる》に、入江に續く靑海原《あをうなはら》、波しづかにして白鴎《はくおう》眠《ねふ》る、比《ころ》は卯月《うづき》の夏霞《なつがすみ》、挽遺《ひきのこ》したる鋸山《のこぎりやま》、彼《あれ》かとばかり指《ゆぴさ》せば、こゝにも鑿《のみ》もて穿《うがち》なし、刀《かたな》して削《けづ》るがごとき、靑壁峙《せいへきそはたち》て見るめ危《あやう》き、長汀曲浦《ちやうていきよくほ》の旅の路《みち》、心を碎《くだ》くならひなるに、雨を含《ふくめ》る漁村《ぎよそん》の柳《やなぎ》、夕《ゆふベ》を送る遠寺《ゑんじ》の鐘《かね》、いとゞ哀《あは》れを催《もよは》すものから、かくてあるべき身にしあらねば、頻《しきり》に津《わたり》をいそげども、舩一艘《ふねいつそう》もなかりけり。
當下《そのとき》杉倉木曾介氏元《すぎくらきそのすけうぢもと》は、苫屋《とまや》の門《かど》に乾魚《ひを》とり納《い》るゝ、白水郞《あ ま》が子どもをさし招き、「喃髫髦等《なううなゐら》にもの問《とは》ん。前面《むかひ》へわたす舟はなきや。熟《なれ》ぬ浦曲《うらわ》に流浪《さそら》ひて、いとゞしく餓《うへ》たるに、われはともあれこの君へ、物あらば進《まゐ》らしね」、と他事《たじ》なくいへば、そが中に、年十四五なる惡太郞《あくたらう》、赤熊《しやぐま》に似たる額髮《ひたゐがみ》、潮風《しほかぜ》に吹黑《ふきくろま》れし、顏に垂《た》るゝを掻《かき》も揚《あげ》ず、揉《ねぢ》斷《き》るごとき靑涕《あをはな》を、啜《すヽ》り籠《こめ》つゝすゝみ出《いで》、「癡《しれ》たることをいふ人かな。打《うち》つゞく合戰《かつせん》に、舩《ふね》は過半借《おほかたかり》とられて、漁獵《すなどる》だにも物足らぬに、誰《たれ》かは前面《むかひ》へ人をわたさん。されば又この浦に、汲《く》む鹽《しほ》よりもからき世は、わが腹《はら》ひとつ肥《こや》しかぬるに、馴《なれ》もえしらぬ人の飢《うへ》を、救《すく》ふべき糧《かて》はなし。堪《たへ》がたきまで脾撓《ひだゆ》くは、これを食《くら》へ」、とあざみ誇《ほこつ》て、塊《つちくれ》を掻取《かいとり》つゝ、投《なげ》かけんとする程に、氏元はやく身をひらけば、塊《つちくれ》は衝《つ》と飛越《とぴこえ》て、松が根に尻をかけたる、義實《よしざね》の胸前《むなさき》へ、閃《ひらめ》き來《く》れば自若《じじやく》として、左のかたへ身を反《そ》らし、右手《めて》にぞこれを受《うけ》給ふ。現憎《げににく》むべき爲體《ていたらく》に、氏元は霎時《しばし》も得堪《えたへ》ず、眼《まなこ》を睜《みは》り、聲をふり立《たて》、「こは嗚乎《をこ》なる癖者《くせもの》かな。旅なればこそ汝等《なんぢら》に、一碗《いちわん》の飯《いひ》を乞《こひ》もすれ、糧《かて》なくはなしといふとも、辭《ことば》に物は沒《いる》まじきに、無禮《なめげ》なる所行《わざ》も限りあり。いでその頤斬砍《おとがいきりさき》て、思ひしらせん」、と敦圉《いきまき》つゝ、刀の鞆《つか》に手を掛《かけ》て、走り擊《うた》んとしたりしかば、義實急に召禁《よぴとゞ》め、「木曾介|大人氣《おとなげ》なし。麒驥《きき》も老《おい》ては駑馬《どば》に劣《おと》り、鸞鳳《らんほう》も窮《きう》すれば、蟻蜋《ぎらう》の爲に苦《くるし》めらる。昨《きのふ》はきのふ、今《けふ》はけふ、よるべなき身を忘れし欤《か》。彼等《かれら》は敵手《あいて》に足らぬもの也。つら/\ものを案《あん》するに、土《つち》はこれ國の基《もと》也。われ今|安房《あは》へ渡るに及びて、天その國を給ふの兆《きざし》欤《か》。彼を無禮《なめげ》也と見るときは、憎むに堪《たへ》たり。これを吉祥《よきさが》とするときは、歡《よろこ》ぶべき事ならずや。晉《しん》の文公《ぶんこう》が五鹿《ごろく》(曹國《そうのくに》の地名也)の故事《ふること》、よく今日《こんにち》のことに似たり。賀《が》すべし/\、とみづから祝《しゆく》して、塊《つちくれ》を三度戴《みたぴいたゞ》き、そがまゝ懷《ふところ》へ挾《おさめ》給へば、氏元もやゝ曉《さとり》て、刀の鞆《つか》に掛《かけ》し手と、共に怒りを解《とき》おさめ、そのゆくすゑは憑《たのも》しき、主君を壽《ことぷ》き奉れば、白水郞《あ ま》が子どもは掌《て》を拍《うち》て、いよ/\あざみ笑ひけり。
時に磯山《いそやま》、雲|叢立《むらだち》て、海面俄頃《うみつらにはか》に晦《くろみ》わたり、磁石《ぢしやく》に塵《ちり》の吸《すは》るゝごとく、潮水頻《うしほしき》りに逆《さか》上《のぼ》り、風|颯《さと》おとす程こそあれ、雨は彼鞆岡《かのともおか》の篠《しの》より繁《しげ》く降《ふり》そゝぎ、電光《いなひかり》まなくして、雷《かみ》さへおどろ/\しく、落《おち》かゝるべく鳴撲《なりはため》けば、侲僮《わらはべ》どもは劇騷《あわてさわ》ぎて、苫屋々々《とまやとまや》に走入《はしりい》り、裡《うち》より鎖《とざ》して、敲《たゝ》けども開《あ》けず。かくてぞ義實主從は、笠《かさ》やどりせんよしのなければ、入江の松の下蔭《したかげ》に、笠《かさ》を翳《かざ》して立《たち》給ふ。
さる程に、風雨ます/\烈《はげし》くて、或《あるひ》は晦《くら》く、或《あるひ》は明《あか》く、よせては碎《くだ》け、碎けては、立《たち》かへる浪《なみ》を包《つゝみ》て、廻翔《まひさが》る雲の中《うち》に、物こそあれ、と見る目〓[眷+見]《まばゆ》く、忽然《こつぜん》として白龍《はくりう》顯《あらは》れ、光を放ち、波をまき立《たて》、南を投《さし》てぞ飛去《とびさり》ける。且《しばらく》して、雨|霽《はれ》、雲おさまり、日は沒《いり》ながら影はなほ、海に殘りて波をいろとり、梢《こずゑ》を傳《つた》ふ松の雫《しづく》、吹拂《ふきはら》ふ風に散る玉は、沙石《いさご》の中《うち》に輾沒《まろぴい》る。山は遠《とほう》して、翠《みどり》ふかく、巖《いはほ》は靑《あをう》して、いまだ乾《かは》かず。瞻望《ながめ》に倦《あか》ぬ絕景佳境《ぜつけいかきやう》も、身の憂《うき》ときはこゝろ止《とま》らず。氏元は義實の、衣《きぬ》の濕吹氣《しぶき》を拂ひなどして、後《おく》れたる貞行を、今か/\と俟《まつ》程に、義實|海面《うみつら》を指《ゆぴさ》して、「向《さき》に雨いと烈しくて、立騷《たちさわ》ぎたる浪の閒《あはひ》に、叢雲頻《むらくもしき》りに廻翔《まひさが》り、彼岩《あのいは》のほとりより、白龍《はくりう》の升《のぼ》りしを、木曾介は見ざりし歟《か》」、と問《とは》れて直《ひた》と足を跪《つまだて》、「龍《たつ》とは認め候はねど、あやしき物の股《もゝ》かとおぼしく、輝《てり》かゞやくこと鱗《うろこ》のごときを、僅《はつか》に見て候」、といへば義實《よしざね》うち點頭《うなづき》、「さればこそその事なれ。われはその尾と足のみ見たり。全身を見ざりしこと、憾《うら》むべく惜《をしむ》べし。夫龍《それたつ》は神物《かみつもの》也。變化固《へんくわもと》より彊《きわまり》なし。古人《いにしへのひと》いへることあり。龍《たつ》は立夏《りつか》の節《せつ》を俟《まち》て、分界《ぷんかい》して雨を行《やる》。これを名《なづ》けて分龍《ぶんりう》といふ。今は則《すなはち》その時也。夫龍《それたつ》の灵《れい》たるや、|昭々《せうせう》として迩《ちか》く顯《あらは》れ、|隱々《いんいん》として深く潛《ひそ》む。龍《たつ》は誠《まこと》に鱗蟲《うろくず》の長《おさ》也。かゝる故《ゆゑ》に、周公易《しうこうゑき》を繋《つな》ぐとき、龍《たつ》を聖人《せいじん》に比《たくらべ》たり。しかりといへども、龍《たつ》は欲《よく》あり、聖人の無欲《むよく》に及《しか》ず。こゝをもて、人|或《あるひ》はこれを豢《かひ》、或《あるひ》は御《のり》、あるひは屠《ほふ》る。今はその術|傳《つたふ》るものなし。又|佛說《ぷつせつ》に龍王經《りうわうきやう》あり。大凡《おほよそ》雨を祷《いの》るもの、必《かならず》まづこれを誦《よむ》。又|法華經《ほけきやう》の提婆品《だいばぼん》に、八歲《はつさい》の龍女《りうによ》、成佛《ぜうぶつ》の說あり。善巧《ぜんこう》方便《ほうぺん》也といふとも、祷《いのり》て驗《しるし》を得《う》るものあり。この故《ゆゑ》に、龍《たつ》を名つけて雨工《うこう》といふ。亦《また》これを雨師《うし》といふ。その形狀《かたち》を辨《べん》するときは、角《つの》は鹿《しか》に似て、〓[豆+天]《かうべ》は駝《うま》に似たり。眼《まなこ》は鬼に似て、項《うなぢ》は蛇《へみ》に似たり。腹《はら》は蜃《みづち》に似て、鱗《うろこ》は魚《うを》に似たり。その爪《つめ》は鷹《たか》の似《ごと》く、掌《たなそこ》は虎《とら》の似《ごと》く、その耳は牛に似たり。これを三停九似《さんちやうきうじ》といふ。又その含珠《たま》は頷《ほう》にあり。司聽《きく》ときは角《つの》を以《もつて》す。喉《のんど》の下《した》、長徑尺《わたりいつしやく》、こゝを逆鱗《げきりん》と名づけたり。物あつてこれに中《あた》れば、怒《いか》らずといふことなし。故《ゆゑ》に天子《てんし》の怒《いか》り給ふを、逆鱗とまうす也。雄龍《をたつ》の鳴《なく》ときは、上に風ふき、雌龍《めたつ》の鳴《なく》ときは下に風ふく。その聲|竹筒《ふえ》を吹《ふく》ごとく、その吟《ぎん》ずるとき、金鉢《こがねのはち》を戞《する》が如し。彼《かれ》は敢衆行《あへてつれたちゆ》かず、又|群處《むらがりをる》ことなし。合《がつ》するときは體《たい》をなし、散《さん》するときは章《せう》をなす。雲氣《うんき》に乘《じやう》じ、陰陽《いんよう》に養《やしなは》れ、或《ある》は明《あきらか》に、或《ある》は幽《かすか》なり。大《おほき》なるときは宇宙《うちう》に徜徉《せうよう》し、小《ちひさ》なるときは、拳石《けんせき》の中《うち》にも隱《かく》る。春分《しゆんぷん》には天に登り、秋分《しうぷん》には淵《ふち》に入《い》り、夏を迎《むかふ》れば、雲を凌《しのぎ》て鱗《うろこ》を奮《ふる》ふ。これその時を樂《たのしむ》也。冬としなれば泥《どろ》に淪《しづ》み、潛《ひそまり》蟠《わだかまつ》て、敢《あへて》出《いで》ず。これその害を避《さく》る也。龍《たつ》は尤《すぐれて》種類多し。飛龍《ひりやう》あり、應龍《おうりう》あり、蛟龍《こうりう》あり、先龍《せんりう》あり、黃龍《くわうりやう》あり、靑龍《せいりやう》あり、赤龍《しやくりう》あり、白龍あり、元龍《げんりやう》あり、黑龍《こくりやう》あり。白龍《はくりう》物を吐《はく》ときは、地に入《いり》て金《こかね》となり、紫龍《しりう》涎《よだれ》を垂《た》るゝときは、その色|透《とほり》て玉の如し。紫稍花《しせうくわ》は龍《たつ》の精《せい》也。蠻貊鬻《ばんはくひさい》で藥《くすり》に入《いる》る。鱗《うろこ》あるは蛟龍《みづち》なり。翼《つばさ》あるは應龍《おうりやう》也。角《つの》あるを〓[草冠+黽]龍《きんりう》といひ、又|叫龍《きうりやう》ともこれをいふ。角《つの》なきを〓[不明]龍《たりやう》といひ、又これを璃龍《りりやう》といふ。又|蒼龍《さうりう》は七宿《しちしゆく》也。班龍《はんりう》は九色《くしき》なり。目百里《めにひやくり》の外《ほか》を見る、これを名《なづ》けて驪龍《りりやう》といひ、優樂自在《ゆうらくじざい》なるものを、福龍《ふくりやう》と名《なつ》けたり。自在《じざい》を得ざるは薄福龍《はくふくりやう》、害をなすはこれ惡龍《あくりやう》、人を殺すは毒龍《どくりやう》也。又|苦《くるしみ》て雨を行《やる》、是則垂龍《これすなはちすいりう》也。又|病龍《やむたつ》のふらせし雨は、その水|必《かならず》腥《なまぐさ》し。いまだ、升《せう》天《てん》せざるもの、易《ゑき》に所謂蟠龍《いはゆるはんりう》也。蜂龍は長四丈《たけよぢやう》、その色|靑黑《あをくくろう》して、赤帶《あかきよこすぢ》錦文《にしきのあや》の如し。火龍《くわりやう》は高《たかさ》七|尺《しやく》あり。その色は眞紅《しんく》にして、火焔炬《くわえんたきひ》を衆《あつむ》る如し。又|癡龍《ちりやう》あり。懶龍《だりやう》あり。龍《たつ》の性《さが》は淫《いん》にして、交《まじはら》ざる所なし。牛と交《まじは》れは、麒麟《きりん》を生み、豕《ゐのこ》に合へば象《ざう》を生み、馬と交《まじは》れば龍馬《りうめ》を生む。又九ツの子を生む說あり。第一子《だいゝちのこ》を蒲牢《ほろう》といふ。鳴《なく》ことを好むもの也。鐘《かね》の龍頭《りうづ》はこれを象《かたと》る。第二子《だいにのこ》を囚牛《しうぎう》といふ。音《なりもの》を好むもの也。琴鼓《ことつゞみ》の飾《かざり》にこれを付《つく》。第三子《だいさんのこ》を蚩物《せんぶつ》といふ。呑《のむ》ことを好むもの也。盃盞飮器《はいさんいんき》に、これを畫《ゑが》く。第四子《だいしのこ》を嘲風《ちやうふう》といふ。險《けはしき》を好むもの也。堂塔樓閣《だうだふろうかく》の瓦《かはら》、これを象《かたと》る。第五子《だいごのこ》を匝批《こうせい》といふ。殺《ころす》ことを好むもの也。大刀《たち》の飾《かざり》にこれを付《つく》。第六子《だいろくのこ》を屭屍《ふき》といふ。こは文《ふみ》を好むとなん。いにしへの龍篆《りうてん》、印材《いんざい》の杻《つまみ》、文章星《ぶんせうせい》の下に畫《ゑが》く、飛龍《ひりやう》の如き、みな是《これ》也。第七子《だいしちのこ》を狴犴《ひかん》といふ。訟《うつたへ》を好むもの也。第八子《だいはちのこ》を竣猊《しゆんげい》といふ。竣猊《しゆんげい》は乃獅子《すなはちしし》也。坐《ざ》することを好むものとぞ。倚子曲彔《いすきよくろく》に象《かたど》ることあり。第九子《だいくのこ》を霸下《はか》といふ。重《おもき》を負《おふ》を好《このむ》もの也。鼎《かなへ》の足、火爐《ひはち》の下《あし》、凡《およそ》物の枕とするもの、鬼面《きめん》のごときは則《すなはち》これなり。これらの外《ほか》に又《また》子あり。憲章《けんせう》は囚《とらはれ》を好み、饕餮《とうてつ》は水を好み、蟋蝪《しつとう》は腥《なまくさき》を好み、蠻蟾《ばんせん》は風雨《ふうう》を好み、螭虎《りこ》は文釆《あやのいろとり》を好み、金猊《きんげい》は烟《けふり》を好み、椒圖《しゆくと》は口を閉《とづ》るを好み、虭蛥《とうせつ》は險《けはしき》に立《たつ》を好み、鰲魚《ごうぎよ》は火を好み、金吾《きんぎよ》は睡《ねふら》ざるものとぞ。皆《みな》これ龍《たつ》の種類《しゆるい》なり。大《おほい》なるかな龍《たつ》の德《とく》。易《ゑき》にとつては乾《けんの》道《みち》也。物にとっては神聖《ひじり》なり。その種類の多《おほ》きこと、人に上智《せうち》と下愚《かぐ》とあり、天子匹夫《てんしひつふ》の如くなる欤《か》。龍《たつ》は威德《いとく》をもて、百獸《もゝのけもの》を伏《ふく》するもの也。天子も亦《また》威德をもて、百宦《ひやくはん》を率《ひきゐ》給ふ。故《ゆゑ》に天子に袞龍《こんりやう》の御衣《ぎよゐ》あり。天子のおん顏《かほ》を、龍顏《りうがん》と稱《たゝへ》、又おん形體《かたち》を龍體《りうたい》と唱《となへ》、怒《いか》らせ給ふを逆鱗《げきりん》といふ。みな是龍《これたつ》に象《かたと》る也。その德|枚擧《かぞへあぐ》べからず。今や白龍《はくりう》南に去《さる》。白きは源氏《げんじ》の服色《ふくしよく》也。南は則《すなはち》房總《あはかづさ》々々は皇國《みくに》の盡處《はて》也。われその尾《を》を見て頭《かうべ》を見ず。僅《はつか》に彼地《かのち》を領《れう》せんのみ。汝《なんぢ》は龍《たつ》の股《もゝ》を見たり。是《これ》わが股肱《こゝう》の臣たるべし。さは思はずや」、と正首《まめゃか》に、和漢《わかん》の書《しよ》を引《ひき》、古實《こじつ》を述《のべ》、わがゆくすゑの事さへに、思量《おもひはか》りし俊才叡智《しゆんさいえいち》に、氏元ふかく感佩《かんはい》し、「武辯《ぶべん》の家に生れても、匹夫《ひつふ》の勇《ゆう》に誇るは多く、兵書兵法《ひやうしよひやうほう》に通《つう》ずるすら、今の時には稀《まれ》なるに、なほうらわかきおん年にて、人も見ぬ書をいつのまに、讀《よみ》つくし給ひけん。さもなくておのづから、物に博《ひろ》くは天の作《なせ》る、君は寔《まこと》に良將《りやうせう》なり。今こそまうせ結城《ゆふき》にて、得死《えしな》ざりける氏元が、はじめの憾《うらみ》とうらうへなる、命めでたくけふにあふ、歡《よろこ》びこれにますものなし。斯《かう》ゆくすゑの憑《たのも》しきに、日は暮果《くれはて》て候とも、要《えう》なき入江に明《あか》さんや。安房《あは》へおん供つかまつらん。と思へども舩《ふね》はなし。天《そら》は晴《はれ》ても甲夜闇《よひやみ》に、月|待《まち》わぶる途《みち》の便《ぴん》なさ、こゝろ頻《しき》りに焦燥《いらたつ》のみ。せんすべなきは水行《ふなぢ》也。とは思はでや、後《おく》れたる、堀內貞行が今までも、まゐらざること甚不審《はなはたいぶかし》。富貴《ふうき》には他人も合《つど》ひ、まづしき時は妻子《やから》も離《はな》る。人の誠《まこと》に經《つね》なければ、渠《かれ》はや途《みち》より迯《にげ》たりけんおぼつかなく候」、といひつゝ眉根《まゆね》うちよすれば、義實《よしさね》莞尒《につこ》とうち笑《え》みて、「さな疑ひそ木曾介。老黨若黨《ろうだうわかたう》多かる中にて、彼《かれ》と汝《なんぢ》は人なみならぬ、志《こゝろざし》あればこそ、家尊大人擇《かぞのうしえらま》せ給ひて、吾儕《わなみ》に屬《つけ》させ給ふならずや。われも亦《また》貞行が人となりはよく知りつ。難に臨《のぞみ》て主《しゆう》を棄《すて》、迯《にげ》かくるゝものにあらず。今|霎時《しばし》こゝにて俟《また》ん。月も出《いづ》べき比《ころ》なるに」、と物に障《さわ》らぬ言《こと》の葉も、心の底もいと廣き、海より出《いづ》る十八日の、月おもしろき浦波《うらなみ》や、金《こかね》を集め玉《たま》を敷《しく》、龍宮城《たつのみやこ》もかくやらんとて、主從《しゆうじゆう》額《ひたゐ》に手を翳《かざ》し、思はずも木蔭《こかげ》をはなれて、波打際《なみうちきわ》へ寄《より》給ふ。
浩處《かゝるところ》に快舩一艘《はやふねいつそう》、水崎《みさき》のかたより漕出《こぎいで》たり。「こなたへもや」、と見る程に、はやきこと矢の如く、閒《あはひ》ちかくなるまゝに、舩《ふね》の中《うち》より聲たかく、《いおりてん》契《ちぎり》あれば、卯《う》の葉|葺《ふき》ける、濱屋《はまや》にも、龍《たつ》の宮媛《みやひめ》、かよひてしかな、と口實《くちすさ》む一首の古歌《こか》(仲正家集《なかまさかしゆう》)を、水主《かこ》は何《なに》とも聞《きゝ》しらでや、そがまゝに漕着《こぎつけ》しかば、件《くだん》の人は纜《ともつな》を、砂《いさこ》の中《うち》へ投《なけ》かけて、その身も閃《ひら》りと登《のほ》り立《たつ》を、と見れば堀內貞行《ほりうちさだゆき》。「こは/\いかに」、とこなたの主從、縡問㒵《こととひがほ》に先に立《たち》て、舊《もと》の樹下《このもと》に坐《ざ》を占《しむ》れば、貞行は松の下葉《したは》を、掻《かき》よせて小膝《こひざ》を著《つき》、「向《さき》に相模路《さがみぢ》へ入《い》りしより、渡海不便《とかいふぺん》に候よしを、仄《ほのか》に聞《きゝ》て候へば、捷徑《ちかみち》より先へ走《はしり》て、是首《ここ》彼首《かしこ》なる苫屋《とまや》にて、津《わたり》を求《もとむ》れども舩《ふね》を出《いだ》さず。ゆき/\て水崎《みさき》に赴《おもむ》き、漁舟《すなとりふね》を借得《かりえ》たれども、餓《うへ》させ給ふ事もやとて、飯《いひ》を炊《かしか》せ候|程《ほど》に、雷雨《らいう》烈しくなりしかば、思はず彼處《かしこ》に日を消《くら》し、かくの如く遲參《ちさん》せり。はじめよりこれらのよしを、申上候はねば、いぶかしくおぼし召《めし》けん」、といふを義實|聞《きゝ》あへず、「さればこそいはざる事|歟《か》。われはさらなり木曾介も、こゝらに舩《ふね》のありなしは、一切《つやつや》思ひかけざりき。もし藏人《くらんど》なかりせば、今宵《こよひ》いかでか安房《あは》へわたさん。寔《まこと》にこよなき才學《さいかく》なれ」、と只管嘆賞《ひたすらたんせう》し給へば、氏元は額《ひたゐ》を拊《なで》、「人の才《さえ》の長き短き、かくまで差別《けぢめ》あるもの歟《か》。やよ藏人ぬし、かゝる時には疑念《ぎねん》も發《おこ》りぬ。おのが心の淺瀨《あさせ》にまよへば、深き思慮ある和殿《わどの》を狹《さみ》して、今までわろくいひつる也」、と咲《えみ》つゝ吿《つぐ》れば、貞行は、腹を抱《かゝへ》てうち笑ふ。現二鞘《げにふたさや》の隔《へだて》なき、兵士《つわもの》の交《まじはり》は、かくこそあれ、と義實も、共に笑坪《えつぼ》に入《いり》給ふ。かくて又義實は、藏人貞行にうち對《むか》ひ、「われは前面《むかひ》へ渡りかねて、こゝに汝《なんぢ》を待《まつ》ほどに、塊《つちくれ》の賜《たまもの》あり。又|白龍《はくりう》の祥瑞《せうずい》あり。これらは舩《ふね》にて譚《かたらは》ん」、と宣《のたま》ふ聲を聞《きゝ》とりてや、水主《かこ》は手を抗《あげ》、さし招き、「月もよし、風もよし。とく/\舩《ふね》に乘給へ」、と促《うなが》す隨《まゝ》に主從|三人《みたり》、乘れば搖揚《ゆらめ》く棚《たな》なし小舟《をふね》、水主《かこ》は纜《ともづな》手繰《たぐり》よせて、取《とり》なほす棹《さを》のうたかたの、安房を望《さし》てぞ漕去《こぎさり》ぬ。
底本:ちえまの館(現在はアクセスできない)
初校正:2005年3月25日
今回の校正:2025年3月18日