南総里見八犬伝(002)

南總里見八犬傳卷之一第一回
東都 曲亭主人 編次
——————————————————


義実よしさね三浦みうら白龍はくりうる」「里見よしさね」「杉倉木曽之介氏元」「堀内蔵人貞行」

季基すゑもとをしえのこしてせつ
白龍はくりうくもさしばさみてみなみおもむ

京都きやうと將軍せうぐん鐮倉かまくら副將ふくせう武威ぶゐおとろへて偏執へんしうし、世は戰國せんこくとなりしころなん東海とうかいほとりさけて、土地とちひらき、基業もとゐおこし、子孫十世しそんじゅっせに及ぶまで、房總あわかづさ國主こくしゆたる、里見治部さとみぢぶの大夫たいふ義實朝臣よしざねあそんの、事蹟じせきをつら〳〵かんがふるに、淸和せいわ皇別みすゑ源氏げんじ嫡流ちやくりう鎭守府ちんじゆふ將軍せうぐん八幡太郞はちまんたろう義家朝臣よしいへあそん十一世じういつせ里見さとみ治部ぢぶの少輔せういう源季基みなもとのすゑもとぬしの嫡男ちやくなん也。時に鐮倉の持氏卿もちうぢけう自立じりう志頻こゝろざししきりにして、執權憲實しつけんのりさねいさめを用ひず、忽地たちまち嫡庶ちやくしよをわすれて、室町將軍むろまちせうぐん義敎公よしのりこうと、確執くわくしつに及びしかば、京軍きやうぐんにはかによせきたりて、憲實に力をあはし、かつ戰ひ且進かつすゝんで、持氏父子ふしを、鐮倉なる、報國寺ほうこくじ押籠おしこめつゝ、詰腹つめはらきらせけり。これはこれ、後花園天皇ごはなぞのてんわう永享ゑいきやう十一年、二月十日のことになん。かくて持氏の嫡男義成よしなりは、父とゝもに自害じがいして、かばねを鐮倉にとゞむといへども、二男じなん春王はるわう三男さんなん安王やすわうとまうせし公達きんだちは、からく敵軍のかこみのがれて、下總しもふさおち給ふを、結城氏朝迎ゆふきのうぢともむかへとりて、主君しゆくんあほたてまつり、京都の武命ぶめいに從はず、管領くわんれい淸方持朝きよかたもちとも)の大軍たいぐんをもものゝかすとせず。されば義によつて死をだもせざる、里見季基さとみすゑもとはじめとして、およそ持氏恩顧おんこ武士ぶしまねかざれどもはせあつまりて、結城ゆふきしろを守りしかば、大軍にかこまれながら、一たびも不覺ふかくを取らず、永享十一年の春のころより、嘉吉元年かきつぐわんねんの四月まで、籠城三年ろうぜうみとせに及ぶものから、ほかたすけの兵つわものなければ、かて矢種やだね竭果つきはてつ、「今ははやのがるゝみちなし。たゞもろともに死ねや」とて、結城の一族いちぞく、里見のしゆうじゆう城戶推きどおしひらきて血戰けつせんし、込入こみいる敵をうちなびけて、衆皆みなみな討死うちしにするほどに、その城つひおちいりて、兩公達ふたりのきんだち生拘いけどられ、美濃みの垂井たるゐにてがいせらる。にいふ結城合戰ゆふきかつせんとはこれ也。

 かゝりし程に、季基すゑもと嫡男ちやくなん里見治部大夫義實さとみぢぶのたいふよしさねぬし、このときは又太郞またたらう御曹司おんぞうしよばれつゝ、年なほ廿はたち滿みたざれ共、武勇智略ぶゆうちりやく父祖ふそにもまして、その才文道さえふみのみちにもたけたり。三年みとせ以來このかた父と共に、籠城ろうぜう艱苦かんくいとはず、この日も諸軍しよぐんさきたちて、敵十四五騎斬ききつおとし、なほよき敵と引組ひきくんで、討死うちしにせんとて進みしを、父の季基はるかに見て、いそがはしく呼びとゞめ、「やをれ義實、勇士ゆうしかうベうしなふことを忘れず。けふを限りと思ふこと、ことわりあるに似たれども、父子ふしもろとも討死うちしにせば、先祖せんそへ不孝これにすぎず。京鐮倉を敵としうけて、ふたごゝろをぞんずることなく、勢竭いきほひつき、力窮ちからきわまり、落城らくぜうのけふに至りて、父は節義せつぎために死し、子はまた親の爲にのがれて、一命いちめいをたもつとも、なにかははづことあらん。すみやか殺脫きりぬけて、時節じせつまちいへおこせ。とく〳〵おちよ」、といそがせば、義實はきゝあへず、鞍坪くらつぼかうべさげ、「うけ給はり候ひぬ。しかはあれど、親の必死をよそに見て、阿容々々おめ〳〵のがるゝことは、三才の小兒せうにえうせじ。況弓箭いはんやゆみやの家に生れて、それがしこゝに十九さい文武ぶんぶの道にわけ入りて、順逆邪正じゆんぎやくじやせう古人こじん得失とくしつ大槪おほかたはこれをしれり。只冥土黃泉ただめいどくわうせんおん供ともとこそ思ひ奉れ。しすべきところ得死えしなずして、笑ひをまねき、名をけがし、先祖せんそはづかしめ奉らんことは、ねがはしからず候」、とこたふ辭勇ことばいさましき、かほつく〳〵とうちまもる、父はしきり嘆息たんそくし、「義實微妙いみじく申たり。さりながら、圓頂黑衣ゑんちやうこくえさまかえ、出家沙門しゆつけしやもんになれといはゞ、親のをしえもとりもせめ、時節をまちて家をおこせ、といふを推辭いなむは不孝也。しらずや足利持氏あしかゞもちうぢぬしは、譜代相傳ふだいさうでんの主君にあらず。そもそもわが祖は一族たる、新田義貞朝臣につたよしさだあそんに從ひて、元弘建武げんこうけんむ戰功せんこうあり。しかりしより新田の餘類よるい南朝なんちやう忠臣ちうしんたれども、明德めいとく三年の冬のはじめに、南帝入洛なんていじゆらくまし〳〵て、たの樹下このもとりしより、こゝろならずも鐮倉なる、足利家の招きにしたがひ給ひし、亡父ぼうふは(里見大炊介元義おおゐのすけもとよし滿兼主みつかねぬし(持氏の父)に出仕しゆつしし、われは持氏ぬしにつかへて、今幼若ようくんの爲に死す。こゝろざしいたしたり。これらの理義りぎわきまへずは、たゞ死するをのみ武士といはんや。學問がくもんも又そのかひなし。かくまでいふを用ひずは、親とな思ひそ、子にあらず」、とことばせわしく敦圉いきまき給へば、義實道理どおりせめられて、思はす馬のたてかみへ、おとなみだ道芝みちしばに、結ぶがごときもとつゆすゑしづくと親と子が、おくさきたつ生死いきしにの、海よりあらき鯨波ときの聲、こなたへ進む敵軍を、季基すゑもときつと見かヘりて、「時移りてはかなはじ」、と思ふことさへかねてより、こゝろさせし譜代ふだい老黨ろうだう杉倉木曾介氏元すぎくらきそのすけうぢもと堀內藏人貞行等ほりうちくらんどさだゆきらに、注目めくはせをしてければ、兩人齊一りやうにんひとしく身を起し、「俺們われわれおん供つかまつらんいざ給へ」、といひあへず、木曾介は義實よしさねの馬のくつわづらひきめぐらし、藏人はその馬の、しりうつ逐走おひはしらせ、西をさしてぞ落てゆく。むかしかの楠公くすのきが、櫻井さくらゐうまやぢより、その子正行まさつらを返したる、こゝろはおなじ忠魂ちうこん義膽ぎたんかうありけんと想像おもひやり、のことゞま兵士等つわものらは、愀然しうぜんとして列居なみゐたり。季基はおちてゆく、わが子を霎時目送しばしみおくりつ、「今はしも心やすし。さらば最期さいごをいそがん」とて、たづなかいり、馬騎うまのりかへして、十に足らぬ殘兵ざんへいを、鶴翼くわくよくそなへつゝ、むらがつる大軍へ、會釋ゑしやくもなくついる。勇將ゆうせうしも弱卒じやくそつなければ、しゆう家隸けらいも二三騎、敵をうたざるものはなく、願ふ所は義實を、うしろやすくおとさん、と思ふほか他事たじなければ、目にあまる大軍を、一足ひとあしすゝませず、躬方みかた死骸しがい踏踰ふみこえて、引組ひきくんではさしちがへ、おなじまくらふすほどに、大將たいせう季基はいふもさらなり、八騎の從卒一人じゆうそつひとりも殘らず、僉亂軍みならんぐんうちうたれて、鮮血ちしほ野逕やけい草葉くさばそめむくろ彼此をちこちさんみだして、馬蹄ばでいちりうづむといへども、その名はくちず、華洛みやこまで、たちのぼりたる丈夫ますらをの、最いともはげしき最期さいご也。

 さる程に、里見冠者義實さとみのくわんじやよしさねは、杉倉堀內にみちびかれて、十ちやうあまり落延おちのぴつ、「さるにても嚴君ちゝきみは、いかになりはて給ひけん。おぼつかなし」、といくそたび、馬の足掻あがきとゞめつゝ、見かへるかたときの聲、矢叫やさけぴ音囂こゑかしましく、はや落城らくぜうとおぼしくて、猛火みやうくわの光てんこがせば、「吐嗟あなや」とばかりさけびあへず、そがまゝたづなひきしぼりて、のりかへさんとしたりしかば、兩個ふたり老黨ろうだう左右より、くつわすがりうごかせず、「こは物體もったいなし。今更いまさらに、ものにや狂ひ給ふらん。大殿おほとのの敎訓を、なにとか聞召きこしめしたるぞ。今おとさるゝ城にかへりて、可惜あたらおん身をうしなひ給はゞ、古歌こかにもよめ夏蟲なつむしの、火むしよりなほ果敢はかなき所爲わざなり。夫大信それたいしんは信ならず、大孝たいこうは孝なきごとし、と古人こじん金言きんげん日來ひごろより、口順くちすさみ給ふには似げなし。およそたかきもいやしきも、忠孝ちうこうの道は一條ひとすぢなるに、迷ひ給ふはいかにぞや。こなたへ來ませ」、と牽駒ひくこまの、こゝろも狂ふこう哀傷あいしやうしきりに焦燥いらだつ聲もはげしく、「はなせ貞行、とむるな氏元。伱達なんたち諫言かんげんは、親のこゝろなるべけれど、今これをしもしのびなば、われ人の子といはれんや。放せ〳〵」、とむちあげて、うてどあふれど玉匣たまくしげ、ふたりひとしき忠臣ちうしんの、こぶし金石きんせきちつとゆるめず、うたるゝまゝひいてゆく、馬壇うまで鞍懸くらかけ柳坂やなぎさか、けふりはあと遠離とほざかる、火退林ひのきばやしのほとりにて、勝誇かちほこつたる鐮倉ぜい、二十騎あまり追蒐來おつかけきつ、「遖武者態あつはれむしやぶり逸足にげあしはやし。緋威ひおどしよろひ着て、五枚冑ごまいかぶと鍬形くわがたの、あはひかゞや白銀しろかねもて、中黑なかぐろ紋挫もんうつたるを、大將たいせうと見るは僻目欤ひがめかきたなし返せ」、とよぴかけたり。義實はちつと擬議ぎきせず、「あながまや雜兵ざふひやうばら。敵をおそれて走るにあらねば、返すにかたきことあらんや」とて、馬をきりゝとたてなほし、大刀たち拔翳ぬきかざして進み給ふ。大將をうたせじとて、杉倉堀內推竝おしならんで、かたき矢面やおもて立塞たちふさがり、やりひねつ突崩つきくづす。義實は亦老黨またろうたうを、うたせじとて馬をはせよせ、前後ぜんごを爭ふ主從しゆうじゆう三騎、大勢たいせい眞中まんなかへ、十文字じうもんじ蒐通かけとほつて、やが巴字はのじにとつて返し、鶴翼くわくよくつらなつて、更に魚鱗ぎよりんにうちめぐり、西に當り、東になびけ、北をうつては、南にはしらせ、馬の足をたてさせず。三略さんりやくでん八陣はちゞんはう、共にしつたる道なれば、目今たゞいま前にあるかとすれば、忽然こつぜんとしてしりへにあり、奮擊突戰ふんげきとつせん祕術ひじゆつつくす、千變萬化せんぺんばんくわ大刀風たちかぜに、さしもの大勢亂騷たいせいみだれさわぎて、むら〳〵はつと引退ひきしりぞく。敵退しりぞけば杉倉は、しゆういさめ徐々しづしづと、おつるをさらつけて來る、端武者はむしや遠箭とほやおとし、追ひつかへしつ林原しもとはら三里さんりが程を送られて、つひにはおつる夕日のあとに、十六日の月まどかなり。

 こゝより追來おひくる敵なければ、主從しゆうじゆう不思議ふしぎ虎口こゝうのがれて、その白屋くさのや宿やどりをもとめ、旦立あさだち置土產おきみやげに、馬物具うまものゝぐをあるじにとらせて、姿をやつし、かさをふかくし、東西とうさいすべて敵地なれども、聊志いさゝかこゝろざすかたなきにあらねば、相摸路さがみぢへ走りつゝ、第三日だいみつかにして三浦みうらなる、矢取やとりの入江につき給ふ。もとよりつゝかてもなく、盤纏乏ろようともしき落人おちうどと、なりもはてたる主從は、いといたう餓疲うへつかれて、松が根に尻をかけ、はるかおくれし堀內藏人貞行ほりうちくらんどさだゆき俟着まちつげて、安房あはくにへ渡さんとて、わだちふな息吻いきつきあへず、見わたすかたは目もはるに、入江に續く靑海原あをうなはら、波しづかにして白鴎はくおうねふる、ころ卯月うづき夏霞なつがすみ挽遺ひきのこしたる鋸山のこぎりやまあれかとばかりゆぴさせば、こゝにものみもて穿うがちなし、かたなしてけづるがごとき、靑壁峙せいへきそはたちて見るめあやうき、長汀曲浦ちやうていきよくほの旅のみち、心をくだくならひなるに、雨をふくめ漁村ぎよそんやなぎゆふベを送る遠寺ゑんじかね、いとゞあはれをもよはすものから、かくてあるべき身にしあらねば、しきりわたりをいそげども、舩一艘ふねいつそうもなかりけり。

當下そのとき杉倉木曾介氏元すぎくらきそのすけうぢもとは、苫屋とまやかど乾魚ひをとりるゝ、白水郞あまが子どもをさし招き、「喃髫髦等なううなゐらにものとはん。前面むかひへわたす舟はなきや。なれ浦曲うらわ流浪さそらひて、いとゞしくうへたるに、われはともあれこの君へ、物あらばまゐらしね」、と他事たじなくいへば、そが中に、年十四五なる惡太郞あくたらう赤熊しやぐまに似たる額髮ひたゐがみ潮風しほかぜ吹黑ふきくろまれし、顏にるゝをかきあげず、ねぢるごとき靑涕あをはなを、すヽこめつゝすゝみいで、「しれたることをいふ人かな。うちつゞく合戰かつせんに、ふね過半借おほかたかりとられて、漁獵すなどるだにも物足らぬに、たれかは前面むかひへ人をわたさん。されば又この浦に、しほよりもからき世は、わがはらひとつこやしかぬるに、なれもえしらぬ人のうへを、すくふべきかてはなし。たへがたきまで脾撓ひだゆくは、これをくらへ」、とあざみほこつて、つちくれ掻取かいとりつゝ、なげかけんとする程に、氏元はやく身をひらけば、つちくれ飛越とぴこえて、松が根に尻をかけたる、義實よしざね胸前むなさきへ、ひらめき來れば自若じじやくとして、左のかたへ身をらし、右手めてにぞこれをうけ給ふ。現憎げににくむべき爲體ていたらくに、氏元は霎時しばし得堪えたへず、まなこみはり、聲をふりたて、「こは嗚乎をこなる癖者くせものかな。旅なればこそ汝等なんぢらに、一碗いちわんいひこひもすれ、かてなくはなしといふとも、ことばに物はいるまじきに、無禮なめげなる所行わざも限りあり。いでその頤砍おとがいきりさきて、思ひしらせん」、と敦圉いきまきつゝ、刀のつかに手をかけて、走りうたんとしたりしかば、義實急に召禁よぴとゞめ、「木曾介大人氣おとなげなし。麒驥ききおいては駑馬どばおとり、鸞鳳らんほうきうすれば、蟻蜋ぎらうの爲にくるしめらる。きのふはきのふ、けふはけふ、よるべなき身を忘れし彼等かれら敵手あいてに足らぬもの也。つら〳〵ものをあんするに、つちはこれ國のもと也。われ今安房あはへ渡るに及びて、天その國を給ふのきざし。彼を無禮なめげ也と見るときは、憎むにたへたり。これを吉祥よきさがとするときは、よろこぶべき事ならずや。しん文公ぶんこう五鹿ごろく曹國そうのくにの地名也)の故事ふること、よく今日こんにちのことに似たり。すべし〳〵、とみづからしゆくして、つちくれ三度戴みたぴいたゞき、そがまゝふところおさめ給へば、氏元もやゝさとりて、刀のつかかけし手と、共に怒りをときおさめ、そのゆくすゑはたのもしき、主君をことぷき奉れば、白水郞あまが子どもはうちて、いよ〳〵あざみ笑ひけり。

 時に磯山いそやま、雲叢立むらだちて、海面俄頃うみつらにはかくろみわたり、磁石ぢしやくちりすはるゝごとく、潮水頻うしほしきりにさかのぼり、風さとおとす程こそあれ、雨は彼鞆岡かのともおかしのよりしげふりそゝぎ、電光いなひかりまなくして、かみさへおどろ〳〵しく、おちかゝるべく鳴撲なりはためけば、侲僮わらはべどもは劇騷あわてさわぎて、苫屋々々とまやとまや走入はしりいり、うちよりとざして、たゝけどもけず。

 かくてぞ義實主從は、かさやどりせんよしのなければ、入江の松の下蔭したかげに、かさかざしてたち給ふ。さる程に、風雨ます〳〵はげしくて、あるひくらく、あるひあかく、よせてはくだけ、碎けては、たちかへるなみつゝみて、廻翔まひさがる雲のうちに、物こそあれ、と見る目𧡲めまばゆく、忽然こつぜんとして白龍はくりうあらはれ、光を放ち、波をまきたて、南をさしてぞ飛去とびさりける。しばらくして、雨はれ、雲おさまり、日はいりながら影はなほ、海に殘りて波をいろとり、こずゑつたふ松のしづく吹拂ふきはらふ風に散る玉は、沙石いさごうち輾沒まろぴいる。山はとほうして、みどりふかく、いはほあをうして、いまだかはかず。瞻望ながめあか絕景佳境ぜつけいかきやうも、身のうきときはこゝろとまらず。氏元は義實の、きぬ濕吹氣しぶきを拂ひなどして、おくれたる貞行を、今か〳〵とまつ程に、義實海面うみつらゆぴさして、「さきに雨いと烈しくて、立騷たちさわぎたる浪のあはひに、叢雲頻むらくもしきりに廻翔まひさがり、彼岩あのいはのほとりより、白龍はくりうのぼりしを、木曾介は見ざりし歟」、ととはれてひたと足をつまだて、「たつとは認め候はねど、あやしき物のもゝかとおぼしく、てりかゞやくことうろこのごときを、はつかに見て候」、といへば義實よしざねうち點頭うなづき、「さればこそその事なれ。われはその尾と足のみ見たり。全身を見ざりしこと、うらむべくをしむべし。夫それたつ神物かみつもの也。變化固へんくわもとよりきわまりなし。古人いにしへのひといへることあり。たつ立夏りつかせつまちて、分界ぷんかいして雨をやる。これをなづけて分龍ぶんりうといふ。今はすなはちその時也。夫龍それたつれいたるや、昭々せうせうとしてちかあらはれ、隱々いんいんとして深くひそむ。たつまこと鱗蟲うろくずおさ也。かゝるゆゑに、周公易しうこうゑきつなぐとき、たつ聖人せいじんたくらべたり。しかりといへども、たつよくあり、聖人の無欲むよくしかず。こゝをもて、人あるひはこれをかひあるひのり、あるひはほふる。今はその術つたふるものなし。又佛說ぷつせつ龍王經りうわうきやうあり。大凡おほよそ雨をいのるもの、かならずまづこれをよむ。又法華經ほけきやう提婆品だいばぼんに、八歲はつさい龍女りうによ成佛ぜうぶつの說あり。善巧ぜんこう方便ほうぺん也といふとも、いのりしるしるものあり。このゆゑに、たつを名つけて雨工うこうといふ。またこれを雨師うしといふ。その形狀かたちべんするときは、つの鹿しかに似て、かうべうまに似たり。まなこは鬼に似て、うなぢへみに似たり。はらみづちに似て、うろこうをに似たり。そのつめたかごとく、たなそことらごとく、その耳は牛に似たり。これを三停九似さんちやうきうじといふ。又その含珠たまほうにあり。司聽きくときはつのもつてす。のんどした長徑尺わたりいつしやく、こゝを逆鱗げきりんと名づけたり。物あつてこれにあたれば、いからずといふことなし。ゆゑ天子てんしいかり給ふを、逆鱗とまうす也。雄龍をたつなくときは、上に風ふき、雌龍めたつなくときは下に風ふく。その聲竹筒ふえふくごとく、そのぎんずるとき、金鉢こがねのはちするが如し。かれ敢衆行あへてつれたちゆかず、又群處むらがりをることなし。がつするときはたいをなし、さんするときはせうをなす。雲氣うんきじやうじ、陰陽いんようやしなはれ、あるあきらかに、あるかすかなり。おほきなるときは宇宙うちう徜徉せうようし、ちひさなるときは、拳石けんせきうちにもかくる。春分しゆんぷんには天に登り、秋分しうぷんにはふちり、夏をむかふれば、雲をしのぎうろこふるふ。これその時をたのしむ也。冬としなればどろしづみ、ひそまりわだかまつて、あへていでず。これその害をさくる也。たつすぐれて種類多し。飛龍ひりやうあり、應龍おうりうあり、蛟龍こうりうあり、先龍せんりうあり、黃龍くわうりやうあり、靑龍せいりやうあり、赤龍しやくりうあり、白龍あり、元龍げんりやうあり、黑龍こくりやうあり。白龍はくりう物をはくときは、地にいりこかねとなり、紫龍しりうよだれるゝときは、その色とほりて玉の如し。紫稍花しせうくわたつせい也。蠻貊鬻ばんはくひさいくすりいるる。うろこあるは蛟龍みづちなり。つばさあるは應龍おうりやう也。つのあるを虌龍きんりうといひ、又叫龍きうりやうともこれをいふ。つのなきを𡖟龍だりやうといひ、又これを螭龍りりやうといふ。又蒼龍さうりう七宿しちしゆく也。班龍はんりう九色くしきなり。目百里めにひやくりほかを見る、これをなづけて驪龍りりやうといひ、優樂自在ゆうらくじざいなるものを、福龍ふくりやうなつけたり。自在じざいを得ざるは薄福龍はくふくりやう、害をなすはこれ惡龍あくりやう、人を殺すは毒龍どくりやう也。又くるしみて雨をやる是則垂龍これすなはちすいりう也。又病龍やむたつのふらせし雨は、その水かならずなまぐさし。いまだ、せうてんせざるもの、ゑき所謂蟠龍いはゆるはんりう也。蜂龍は長四丈たけよぢやう、その色靑黑あをくくろうして、赤帶あかきよこすぢ錦文にしきのあやの如し。火龍くわりやうたかさしやくあり。その色は眞紅しんくにして、火焔炬くわえんたきひあつむる如し。又癡龍ちりやうあり。懶龍だりやうあり。たつさがいんにして、まじはらざる所なし。牛とまじはれは、麒麟きりんを生み、ゐのこに合へばざうを生み、馬とまじはれば龍馬りうめを生む。又九の子を生む說あり。第一子だいゝちのこ蒲牢ほろうといふ。なくことを好むもの也。かね龍頭りうづはこれをかたとる。第二子だいにのこ囚牛しうぎうといふ。なりものを好むもの也。琴鼓ことつゞみかざりにこれをつく第三子だいさんのこ蚩物せんぶつといふ。のむことを好むもの也。盃盞飮器はいさんいんきに、これをゑがく。第四子だいしのこ嘲風ちやうふうといふ。けはしきを好むもの也。堂塔樓閣だうだふろうかくかはら、これをかたとる。第五子だいごのこ匝批こうせいといふ。ころすことを好むもの也。大刀たちかざりにこれをつく第六子だいろくのこふきといふ。こはふみを好むとなん。いにしへの龍篆りうてん印材いんざいつまみ文章星ぶんせうせいの下にゑがく、飛龍ひりやうの如き、みなこれ也。第七子だいしちのこ狴犴ひかんといふ。うつたへを好むもの也。第八子だいはちのこ竣猊しゆんげいといふ。竣猊しゆんげいはら乃獅子すなはちしし也。することを好むものとぞ。倚子曲彔いすきよくろくかたどることあり。第九子だいくのこ霸下はかといふ。おもきおふこのむもの也。かなへの足、火爐ひはちあしおよそ物の枕とするもの、鬼面きめんのごときはすなはちこれなり。これらのほかまた子あり。憲章けんせうとらはれを好み、饕餮とうてつは水を好み、蟋蝪しつとうなまくさきを好み、蠻蟾ばんせん風雨ふううを好み、螭虎りこ文釆あやのいろとりを好み、金猊きんげいけふりを好み、椒圖しゆくとは口をとづるを好み、虭蛥とうせつけはしきたつを好み、鰲魚ごうぎよは火を好み、金吾きんぎよねふらざるものとぞ。みなこれたつ種類しゆるいなり。おほいなるかなたつとくゑきにとつてはけんみち也。物にとっては神聖ひじりなり。その種類のおほきこと、人に上智せうち下愚かぐとあり、天子匹夫てんしひつふの如くなるたつ威德いとくをもて、百獸もゝのけものふくするもの也。天子もまた威德をもて、百宦ひやくはんひきゐ給ふ。ゆゑに天子に袞龍こんりやう御衣ぎよゐあり。天子のおんかほを、龍顏りうがんたゝへ、又おん形體かたち龍體りうたいとなへいからせ給ふを逆鱗げきりんといふ。みな是龍これたつかたとる也。その德枚擧かぞへあぐべからず。今や白龍はくりう南にさる。白きは源氏げんじ服色ふくしよく也。南はすなはち房總あはかづさ々々は皇國みくに盡處はて也。われそのを見てかうべを見ず。はつか彼地かのちれうせんのみ。なんぢたつもゝを見たり。これわが股肱こゝうの臣たるべし。さは思はずや」、と正首まめやかに、和漢わかんしよひき古實こじつのべ、わがゆくすゑの事さへに、思量おもひはかりし俊才叡智しゆんさいえいちに、氏元ふかく感佩かんはいし、「武辯ぶべんの家に生れても、匹夫ひつふゆうに誇るは多く、兵書兵法ひやうしよひやうほうつうずるすら、今の時にはまれなるに、なほうらわかきおん年にて、人も見ぬ書をいつのまに、よみつくし給ひけん。さもなくておのづから、物にひろくは天のなせる、君はまこと良將りやうせうなり。今こそまうせ結城ゆふきにて、得死えしなざりける氏元が、はじめのうらみとうらうへなる、命めでたくけふにあふ、よろこびこれにますものなし。かうゆくすゑのたのもしきに、日は暮果くれはてて候とも、えうなき入江にあかさんや。安房あはへおん供つかまつらん。と思へどもふねはなし。そらはれても甲夜闇よひやみに、月まちわぶるみち便ぴんなさ、こゝろしきりに焦燥いらたつのみ。せんすべなきは水行ふなぢ也。とは思はでや、おくれたる、堀內貞行が今までも、まゐらざること甚不審はなはたいぶかし富貴ふうきには他人もつどひ、まづしき時は妻子やからはなる。人のまことつねなければ、かれはやみちよりにげたりけんおぼつかなく候」、といひつゝ眉根まゆねうちよすれば、義實よしさね莞尒につことうちみて、「さな疑ひそ木曾介。老黨若黨ろうだうわかたう多かる中にて、かれなんぢは人なみならぬ、こゝろざしあればこそ、家尊大人擇かぞのうしえらませ給ひて、吾儕わなみつけさせ給ふならずや。われもまた貞行が人となりはよく知りつ。難にのぞみしゆうすてにげかくるゝものにあらず。今霎時しばしこゝにてまたん。月もいづべきころなるに」、と物にさわらぬことの葉も、心の底もいと廣き、海よりいづる十八日の、月おもしろき浦波うらなみや、こかねを集めたましく龍宮城たつのみやこもかくやらんとて、主從しゆうじゆうひたゐに手をかざし、思はずも木蔭こかげをはなれて、波打際なみうちきわより給ふ。

浩處かゝるところ快舩一艘はやふねいつそう水崎みさきのかたより漕出こぎいでたり。「こなたへもや」、と見る程に、はやきこと矢の如く、あはひちかくなるまゝに、ふねうちより聲たかく、

ちぎりあれば、の葉ふきける、濱屋はまやにも、たつ宮媛みやひめかよひてしかな

と、口實くちすさむ一首の古歌こか仲正家集なかまさかしゆう)を、水主かこなにともきゝしらでや、そがまゝに漕着こぎつけしかば、くだんの人はともつなを、いさこうちなけかけて、その身もひらりとのほたつを、と見れば堀內貞行ほりうちさだゆき。「こは〳〵いかに」、とこなたの主從、縡問㒵こととひがほに先にたちて、もと樹下このもとしむれば、貞行は松の下葉したはを、かきよせて小膝こひざつき、「さき相模路さがみぢりしより、渡海不便とかいふぺんに候よしを、ほのかきゝて候へば、捷徑ちかみちより先へはしりて、是首ここ彼首かしこなる苫屋とまやにて、わたりもとむれどもふねいださず。ゆき〳〵て水崎みさきおもむき、漁舟すなとりふね借得かりえたれども、うへさせ給ふ事もやとて、いひかしかせ候ほどに、雷雨らいう烈しくなりしかば、思はず彼處かしこに日をくらし、かくの如く遲參ちさんせり。はじめよりこれらのよしを、申上候はねば、いぶかしくおぼしめしけん」、といふを義實きゝあへず、「さればこそいはざる事。われはさらなり木曾介も、こゝらにふねのありなしは、一切つやつや思ひかけざりき。もし藏人くらんどなかりせば、今宵こよひいかでか安房あはへわたさん。まことにこよなき才學さいかくなれ」、と只管嘆賞ひたすらたんせうし給へば、氏元はひたゐなで、「人のさえの長き短き、かくまで差別けぢめあるもの。やよ藏人ぬし、かゝる時には疑念ぎねんおこりぬ。おのが心の淺瀨あさせにまよへば、深き思慮ある和殿わどのさみして、今までわろくいひつる也」、とえみつゝつぐれば、貞行は、腹をかゝへてうち笑ふ。現二鞘げにふたさやへだてなき、兵士つわものまじはりは、かくこそあれ、と義實も、共に笑坪えつぼいり給ふ。かくて又義實は、藏人貞行にうちむかひ、「われは前面むかひへ渡りかねて、こゝになんぢまつほどに、つちくれたまものあり。又白龍はくりう祥瑞せうずいあり。これらはふねにてかたらはん」、とのたまふ聲をきゝとりてや、水主かこは手をあげ、さし招き、「月もよし、風もよし。とく〳〵ふねに乘給へ」、とうながまゝに主從三人みたり、乘れば搖揚ゆらめたななし小舟をふね水主かこともづな手繰たぐりよせて、とりなほすさをのうたかたの、安房をさしてぞ漕去こぎさりぬ。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です