南総里見八犬伝巻一第二回
東都 曲亭主人 編次
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)一箭《いつせん》
|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)土地|拡漠《ひろく》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
〓:UNICODE 表にない漢字、[]内に漢字の部分を示したところもあり
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一箭《いつせん》を飛《とば》して侠者白馬《けうしやはくば》を悞《あやまつ》
兩郡《りやうぐん》を奪《うば》ふて賊臣朱門《ぞくしんしゆもん》に倚《よる》
安房《あは》は原《もと》、總國《ふさのくに》の南邊《みなみのはて》なり。上代《あがれるよ》には上下《かみしも》の分別《わいだめ》なし。後《のち》にわかちて、上總下總《かつさしもふき》と名《なつ》けらる。土地|擴漠《ひろく》して桑《くは》多し。蠶飼《こかひ》に便《たより》あるをもて、總《ふさ》を貢《みつぎ》としたりしかば、その國をも總《ふさ》といひけり。かくて總《ふさ》の南邊《みなみのはて》に、居民鮮《をるたみすくな》かりしかば、南海道阿波國《なんかいどうあはのくは》なる、民をこゝへ遷《うつ》し給ひて、やがて安房《あば》とぞ呼《よば》せ給ひぬ。日本書紀景行紀《やまとふみけいこうき》に、所云淡《いはゆるあは》の水門《みなと》は是《これ》也。
安房は僅《はつか》に四郡《しぐん》にして、平郡《へくり》といひ、長狹《ながさ》といひ、安房《あは》といひ、朝夷《あさひな》といふ。むかし仁安治承《にんあんぢせう》の閒《あはひ》、平家世《へいけよ》ざかりなりし比《ころ》より、こゝに三人《みたり》の武士ありけり。東鑑《あづまかヾみ》にその名見えたる、御厨《みくりや》の麻呂五郞信俊《まろごらうのぶとし》、安西三郞景盛《あんさいさぶらうかげもり》、東條七郞秋則《とうでふしちらうあきのり》これなり。治承《ぢせう》三年秋|八月《はつき》、源賴朝卿《みなもとのよりともけう》石橋山《いしはしやま》の軍敗《いくさやぶ》れて、安房へ赴《おもむ》き給ひしとき、件《くだん》の武士|等《ら》、第一番に隨《つき》從《したが》ひて、安西三郞景盛は、鄕導《みちしるペ》をつかまつり、麻呂信俊《まろののぶとし》、東條秋則等は、碗飯《わうばん》を獻《たてまつ》りて、無二《むに》の志《こゝろざし》をあらはせしかば、源氏|一統《いつとう》の後《のち》、彼《かの》人々は、安房四郡《あはしぐん》をわかち給はりて、子孫|十餘世相續《しうよせさうぞく》し、世は北條《ほふでふ》にうつり代《かは》り、又|足利家《あしかゞけ》の時までも、その本領《ほんれくう》を失はず。景盛が十二|世《せ》の孫《まご》、安西三郞大夫景連《あんさいさふらうたいふかげつら》は、安房郡館山《あはのこふりだてやま》の城にあり。信俊が後裔《しそん》たる、麻呂小五郞兵衞信時《まろのこゞらうびゃうゑのぶとき》は、朝夷郡平館《あさひなのこふりひらだて》の城にあり。又|長狹郡《ながさのこふり》、東條が氏族《うから》たる、神餘長狹介光弘《じんよながさのすけみつひろ》は、秋則が後《のち》として、平郡《へぐり》の瀧田《たきた》に在城《ざいぜう》せり。いづれも舊家《きうか》といひながら、神餘は東條が所領《しよれう》を合《あは》して、安房|半國《はんこく》の主《ぬし》なれば、長狹平郡の兩郡《ふたこふり》を管領《くわんれう》して、家臣|從類少《じゆうるいすくな》からず、人馬物具《にんばものゝぐ》いへばさら也、物《こと》ひとつとして不足なければ、安西麻呂を下風《かふう》に立《たゝ》して、推《おし》て國主《こくしゆ》と稱《せう》したり。
かゝりし程に光弘は、こゝろ驕《おご》りて色を好み、酒に耽《ふけ》りて飽《あく》ことなく、側室媵妾《そばめおんなめ》多かる中《なか》に、玉梓《たまつさ》といふ淫婦《たをやめ》を寵愛《ちやうあい》して、內外《ないぐわい》の賞罰《せうばつ》さへ、渠《かれ》に問《とふ》て沙汰《さた》せしかば、玉梓に賄賂《まいなふ》ものは、罪あるも賞せられ、玉梓に媚《こび》ざれば、功あるも用《もちひ》られず。是《これ》より家則《かそく》いたく亂れて、良臣《りやうしん》は退《しりぞ》き去《さ》り、佞人《ねいじん》は時を得たり。そが中《なか》に、山下柵左衞門定包《やましたさくさゑもんさだかね》といふものありけり。是《これ》が父は靑濱《あをはま》なる、草料場《まぐさくら》の預《あづかり》にて、碌々《ろくろく》として身まかりしが、定包は人となり、相貌《かほかたち》さへ親に肖《に》ず、面色《いろ》白《しろく》して眉秀《まゆひいで》、鼻卬《はなたかく》して唇朱《くちびるあか》く、言語柔和《げんぎよにうわ》の聞《きこ》えありとて、光弘これを召出《めしいだ》して、近習《きんじゆ》にぞしたりける。現女謁內奏《げにによゑつないそう》は、佞人《ねいじん》の資《たすけ》也。册左衡門定包は、陽《うへ》に行狀《ぎやうでふ》を愼《つゝしみ》て、陰《した》に奸智《かんち》を逞《たくましう》し、榮利《ゑのり》を謀《はか》る癖者《くせもの》なれば、初《はじめ》より玉梓に、佞媚《こびへつらは》ずといふことなく、渠《かれ》が好む物としいへば、價《あたひ》を厭《いとは》ず贈る程に、漸々《しだいしだい》に出頭《しゆつとう》して、口才《こうさい》主君を歡《よろこば》せ、酒醼《しゆえん》を催《もよほ》し、淫樂《いんらく》を勸《すゝ》め、剩《あまつさへ》玉梓と密通《みつゝう》して、尾陋《びろう》の擧動《ふるまひ》多かりけれども、光弘は露ばかりもこれを曉《さと》らず、いく程もなく定包を、老臣の上《かみ》にをらせ、藩屏《かちう》の賞罰|大小《だいせう》となく、皆|任用《うちまかせ》たりければ、その權《けん》山下|一人《ひとり》に歸《き》して、主君はあるもなきが如し。かくて志氣《こゝろざし》あるものは、主《しゆう》を諫《いさめ》かねて身退《しりぞ》き、又|勢利《いきほひ》に憑《つく》ものは、をさ/\媚《こび》て定包が、尾髯《をひげ》の塵《ちり》をとりしかば、黨《たう》を樹《たて》て、譏《そしり》を禦《ふせ》ぎ、利害《りがい》を說《とき》て、舊法《きうほう》を更《あらた》め、稅斂《みつぎ》を重《おもく》し、課役《くわやく》を累《かさね》て、民の冤《うらみ》を見かへらず。現《げに》この山下定包は、神餘が家の祿山《ろくさん》なるかな。そが出仕《しゆつし》する每《ごと》に、白馬《しろきうま》に騎《のり》しかば、目を側《そはだて》て是を見るもの、|密々《しのびしのび》に白妙《しろたへ》の、人啖馬《ひとくひうま》と渾名負《あだなおは》して、たま/\途《みち》にあふときは、避《さけ》かくるゝも多かりけり。
不題《こゝにまた》、瀧田《たきた》の近村《きんそん》、蒼海巷《あをみこ》といふ處《ところ》に、杣木朴平《そまきのぼくへい》と喚《よば》るゝ、莊客《ひやくせう》ありけり。戰國《せんこく》の沿俗《ならひ》とて、擊劍拳法《けんいじゆつやわら》いへばさらなり、膂力剛《ちからつよ》く、こゝろ悍《たけ》く、難《なん》に臨《のぞみ》て死をだもおそれず、伉侠《をとこ》を立《たつ》るものなりければ、神餘《じんよ》の家則《かそく》いたく亂れて、民のわづらひ大《おほ》かたならず、縡《こと》みな山下柵左衞門《やましたさくさゑもん》が所行《わざ》なるを見て竟《つひ》に得堪《えたへ》ず、われに些《すこし》も劣らざる、洲崎《すさき》の無垢三《むくざう》といふ、友だちを、潛《しのび》やかに招きよせ、「和主《わぬし》は何《なに》と思ふらん。白妙《しろたへ》の人啖馬《ひとくひうま》は、權を恣《ほしいまゝ》にして民を虐《しへたげ》、田園《でんはた》に禍《わざはひ》すること、蝗《うんか》のむしより酷《はなはだ》しく、罪なき人を屠《ほふ》ること、疫鬼《えやみのかみ》に異《こと》ならず。這奴《しやつ》なほかくてあらんには、我《われ》も人も何をもて、こゝに妻子《やから》を養ふべき。苛法《からきはつと》に隨ふも、みな是《これ》命を惜《をしめ》ばなり。斯年々《かうとしとし》に毟《むしり》とられて、餓《うへ》も凍《こゞえ》もしたらんには、法も崇《たゝり》もおそるゝ事かは。所詮《しよせん》二人《ふたり》が身を棄《すて》て、人啖馬《ひとくひうま》を擊殺《うちころ》し、夥《あまた》の人の苦を拔《ぬか》ば、いと愉《こゝろよ》き事ならずや」、と譚《かたらは》れて無垢三は、一議《いちぎ》に及ばずうち點頭《うなつき》、「あな勇《いさま》しくもいはれたり。われも又この事を、思はざるにあらねども、這奴《しやつ》は威勢國主《いきはひこくしゆ》にまして、出《いづ》るときも入るときも、數《す》十人の從者《ともびと》あり。もしかろ/\しく手を下《くだ》さば、毛を吹庇《ふききず》を求《もとめ》やせん。笑《えみ》の中《うち》に刃《やいば》を隱《かく》す、人の心の憑《たのも》しからねば、けふまでは默止《もだし》たり。しかるに和主《わぬし》ゆくりなく、心中《しんちう》の機密《きみつ》を吿《つげ》て、われと志《こゝろざし》をおなじうす。夥《あまた》の翼《たすけ》を獲《え》たるに勝れり。さればとて、卒餘《あからさま》に縡《こと》をはからば、化《あだ》に命を失《うしなは》れん。もしくは這奴《しやつ》が遊山《ゆさん》の折、從者《ともひと》も衆《おは》からぬ、微行《しのびあるき》の日を俟《また》ば、ほゐを遂《とげ》ずといふことあらじ、と思ふはいかに」、と密語《さゝやけ》ば、朴平|斜《なのめ》ならず歡《よろこ》びて、「しからばとせよ」、「斯《かう》せん」とて、迭《かたみ》に耳をとりかはし、密談《みつだん》數度《すど》に及びけり。
現楊震《げにようしん》が四知《しち》の誡《いまし》め、壁《かべ》にも耳のある世なれば、はやくもこの事をしれるもの、柵左衞門《さくさゑもん》にぞ報知《つげ》たりける。定包《さだかね》はこの訴《うつたへ》に、騷《さわ》ぎたる氣色《けしき》もなく、俄頃《にはか》に夥兵《くみこ》を召聚《よびつど》へて、彼《かの》朴平無垢三|等《ら》を、搦捕《からめとら》せんとしたれども、忽地《たちまち》思ひつくことありて、別《べち》に謀《はかりこと》を獲《え》たりしかば、件《くだん》の事ははじめより、そらしらぬおもゝちして、只從者《たゞともひと》の數を倍《ま》し、晨《つと》に出《いで》ず夜行《よあるき》せず、をさ/\仇《あた》を禦《ふせ》ぐ程に、主《しゆう》の長狹介《ながさのすけ》光弘は、長夜《ちやうや》の淫樂《いんらく》に、その身を忘れて、日々月々《ひゞつきづき》に病《やまひ》を生じ、美酒珍饍《びしゆちんぜん》も甘《あま》からず、鄭聲艷曲《ていせいえんきよく》も樂《たのし》からねば、不死《ふし》の藥を蓬莱《ほうらい》に求め、不老の術を方士《はうし》に問《とひ》けん、秦皇漢武《しんくわうかんぶ》の物思ひに異ならず、玉梓《たまつさ》が膝《ひぎ》を枕《まくら》にして、帳中《とばりのうち》を出《いで》ざれば、「折こそよけれ」、と定包は、有一日《あるひ》主君にまうすやう、「時はや夏の初《はじめ》にて、野山の新樹《わかば》もいと愛《めでた》く、落羽畷《をちばなはて》の野雝《きゞす》、靑麥村《あをむぎむら》の雲雀《ひばり》、處得《ところえ》がほに集《すだく》なる。閑居《たれこめ》てのみ座《をはしま》さば、病《やまひ》をまさせ給ひなん。狗《いぬ》を走らせ、鷹《たか》を放《はなつ》も、養生《ようぜう》のひとつにこそ。某《それがし》おん倶仕《ともつかまつ》らん。おもひ立《たゝ》せ給はずや」、とそゝのかす傍《かたへ》より、玉梓これを興《けう》じつゝ、もろ共に勸《すゝめ》しかば、光弘やをら身を起し、「われとにかくに懶《ものくさ》くて、久しく城外《ぜうぐわい》へ出《いで》ざりき。今|伱達《なんたち》が諫言《かんげん》は、口|苦《にが》からぬ良藥《りやうやく》とおぼゆれば、翌《あす》は早旦《つとめ》て狩倉《かりくら》すべきに、まづこの旨《むね》を令《ふれ》しらして、准備《ようゐ》させよ」、と仰《おふす》れば、定包扇《さだかねあふざ》を笏《しやく》にとり、「御託《ごぢやう》では候へども、近年《きんねん》公務いと繁《しげ》くて、民《たみ》その課役《くわやく》に勞《つか》れたり。加旃畑《しかのみならずはた》を打《うち》、種《たね》おろしする比《ころ》なれば、潛《しの》びて出《いで》させ給へかし。某《それがし》おん供つかまつれば、よろしく討《はから》ひ候ひなん。土民等《どみんら》畊作《こうさく》に煩《わづら》ひなく、程經《ほどへ》てこれをしるならば、誰《たれ》か仁君《じんくん》といはざるべき。これも亦《また》民を使ふ、一術《いちじゆつ》に候はずや」、と言葉|巧《たくみ》にまうすにぞ、光弘感嘆|大《おほ》かたならず、「いはるゝ所道理に稱《かな》へり。寔《まこと》に家の老《おい》たるものは、誰《たれ》もかくこそあるべけれ。さらばこの議に任《まか》せん」とて、列卒《せこ》從者《ともびと》の數を省《はぶ》きて、那古七郞《なこのしちらう》、天津兵內《あまつのひやうない》なンどいふ、近習《きんじゆ》八九|人《ン》のみに、從行《ともだて》の准備《ようゐ》させ、詰旦《あけのあさ》光弘は、葦毛《あしけ》の馬にうち騎《のり》て、狗《いぬ》を牽《ひか》し、鷹《たか》を駕《すえ》させ、潛《しのび》やかにぞ出《いで》たりける。
卻說《かくて》山下柵左衞門《やましたさくさゑもん》定包は、豫《かね》て謀《はか》りし事なれば、前日《さきのひ》城より退《まか》るとやがて、落羽靑麥《をちはあをむぎ》の村長等《むらおさら》を、猛《にはか》に召《よび》よせ、「われ邂逅《たまさか》に休暇《いとま》を得たれば、翌《あす》は|如此々々《しかじか》の處《ところ》に出《いで》て、放鷹《ほうよう》せんと思ふ也。僉《みな》この旨《むね》をこゝろ得よ」、といと嚴《おごそか》にいはせにければ、村長等は走りかへりで莊客們《ひやくしやうばら》を驅催《かりもよほ》し、途《みち》の掃除《そうぢ》に箒目《はゝきめ》のゆきとゞくまで罵騷《のゝしりさわ》げば、杣木朴平無垢三《そまきのぼくへいむくざう》等《ら》は、漸《やうやく》こゝに便宜《びんぎ》を得て、「翌《あす》は必本意《かならずほゐ》を遂《とぐ》べき時|來《きた》れり」、と竊《ひそか》に歡《よろこ》び、兩人《りやうにん》列卒《せこ》に打紛《いでたち》つゝ、弓箭手挾《ゆみやたばさみ》走り出《いで》、その夜丑三《ようしみつ》の比及《ころほひ》より、落羽畷《おちばなはて》の東北《うしとら》なる、夏草ふかき岡に躱《かく》れて、古《ふり》たる松を盾《たて》にとり、「定包遲し」、と俟《まち》てをり。
短夜《みじかよ》なれば墓《はか》なくて、鷄鳴曉《けいめいあかつき》を吿《つぐ》る比《ころ》、長狹介光弘《ながさのすけみつひろ》は、鹿皮《しかのかわ》の行縢《むかばき》に、綾藺《あやい》笠《かさ》ふかくして、列卒《せこ》をば馬の前《さき》に立《たゝ》せ、那古天津の近臣等、八九|人《ン》を左右にして、瀧田の城を出《いで》しかば、山下柵左衞門定包は、豫《かね》て非常に備《そなへ》んとて、夥兵私卒許多將《くみこわかたうあまたい》て、彼白馬《かのしろうま》にうち騎《のり》つゝ、些後《すこしおく》れてうたせたり。固《もと》より謀《はか》ることなれば、馬奴等《うまかひら》さへ荷擔《かたらは》れて、朝立《あさたち》の秣《かひくさ》に、毒を加《くはえ》て餌《かふ》たりけん、光弘の乘れる馬、ゆくこと十|町《ちやう》あまりにして、暴《にはか》に病《やみ》て拍《うて》ども進まず、前足|折《をつ》て撲地《はた》と臥《ふ》せば、ぬしも俯《うつぶし》に輾《まろ》びかゝるを、那古七郞、天津兵內、慌忙《あはてふため》き扶起《たすけおこ》して、「おん騎替《のりかえ》をとく牽《ひけ》」、と聲《こゑ》高やかに喚立《よびたつ》れば、從者更《ともびとさら》に劇惑《あはてまどひ》て、後《ご》陣《ぢん》へ|如此々々《しかしか》と吿《つげ》しかば、柵左衞門|定包《さだかね》は、鞭《むち》を揚《あげ》て走らし來つ、馬より閃《ひら》りとをりたちて、光弘にまうすやう、「潛《しの》びて獵《かり》に出《いで》させ給へば、それまでは准備《ようゐ》せざりし。騎替《のりかえ》を待《まち》給はゞ、徒《いたづら》に時や移らん。某《それがし》が馬こゝに在《あ》り。年來《としごろ》日ごろ畜狎《かひなら》せしに、鞍味《くらあぢ》もいと愛《めで》たし。乘《のら》せ給へ」、とそがまゝに、轡《くつわつら》を牽《ひき》よすれば、光弘|忽地氣色《たちまちけしき》なほりて、立《たて》させたる床几《せうぎ》をはなち、「然《さ》らばその意に任《まか》せんず。汝《なんぢ》はこゝに休《やすら》ひて、豫が騎替《のりかえ》に乘《のり》て來《こ》よ。ものども急げ」、といひあへず、鞍《くら》に手を掛跨《かけの》る馬の、尾筒《をつゝ》も戰《そよ》ぐ旦開《あさびらき》、風見《かざみ》が原《はら》の卯花《うのはな》も、東も白くなる隨《まゝ》に、樹立隙《こたちひま》なき病葉《わくらは》の、落羽畷《おちはなはて》に近つきぬ。
この日の倶《とも》にたちたりし、那古天津《なこあまつ》の兩臣《りやうしん》のみ、山下が蔭《かげ》を仰《あほ》がず、主《しゆう》に仕《つかへ》て大《おほ》かたならぬ、誠心《まごゝろ》あるものなれば、このとき思ふよしやありけん、先に立《たち》たる列卒《せこ》に誨《をしえ》て、「靑麥村のかたへ」とて、猛《にはか》に途《みち》をかえんとすれば、光弘これを訝《いぶか》りて、「汝等《なんぢら》は何處《いづこ》へ行《や》るぞ。けふの狩場《かりば》は落羽《おちば》が岡《おか》也。この比《ごろ》はいぎたなくて、寐惚《ねぼれ》たる歟《か》」、と敦圉《いきまけ》ば、七郞兵內《しちらうひやうない》左右より、密《しのび》やかにまうすやう、「君は曉《さと》らせ給はずや。乘馬《じやうめ》の暴《にはか》に斃《たふ》れたる、吉祥《よきさが》也とは覺《おぼえ》ぬに、落羽《おちば》に落馬《らくば》の音訓《よみこゑ》かよへば、名詮自性甚忌《めうせんじせうはなはだいまは》し。加以《これのみならず》、室町殿《むろまちどの》の武威撓《ぶゐたゆみ》て、兵亂休《ひやうらんやむ》ときなきものから、安房《あは》は東南の盡處《はて》なれば、幸《さいはひ》にして無事《ぶじ》なれども、國に野心のものなしとは、必《かならず》しもいひがたし。然《さ》るを潛《しの》びて出《いで》させ給ふ、是《これ》すらいとも危《あやう》きに、忌諱《きき》をも避《さけ》ず、不祥《ふせう》にも憚《はゞかり》給はず、遠き慮《おもんはかり》ましまさずは、近き憂《うれひ》をいかにせん。猛《にはか》に途《みち》をかえんとせしは、この故《ゆゑ》に候」、と兩人|齊一諫《ひとしくいさむ》れば、光弘|聞《きゝ》て冷笑《あざわら》ひ、「女《めゝ》々しき事をいふものかな。活《いけ》る物は必《かならず》死す。斃《たふれ》し馬に何かあらん。されば又、けふの狩場《かりば》を、落馬《らくば》と喚《よ》ばゝ諱《いむ》よしあらめ、落羽《おちば》は落《おつ》る鳥なれば、獲《えもの》多かる祥《さが》ならずや。彼方《かなた》へ行《や》れ」、と鐙《あぶみ》を鳴らし、馬の足掻《あがき》を早むれば、那古天津|等《ら》はせんすべも、なつ草|繁《しげ》き畷道《なはてみち》、初《はじめ》のごとく先《さき》を追《おは》して、落葉畷の邊《ほとり》なる、落葉が岡に來にければ、宵よりこゝに躱《かく》れたる、杣木朴平《そまきのぼくへい》、洲崎無垢三《すさきのむくざう》、木立《こたち》の隙《ひま》より佶《きつ》と見て、「白馬《しろきうま》に騎《のり》たるは、紛《まが》ふべうもあらざりける、山下柵左衞門定包也。さは」とて伏《ふせ》たる弓に箭㓨《やつがひ》て、きり/\と彎絞《ひきしぼ》り、矢比《やごろ》近くなる隨《まゝ》に、一二を定めて〓[弓+票]《ひやう》と發《はな》せば、〓[穴/鬼]違《ねらひたが》はず一の矢に、光弘は胸を射られて、叫《さけ》びもあへず仰《のけ》さまに、馬より摚《だう》と落《おち》しかば、「これは」、と駭《おどろ》く天津兵內、二の矢に吭《のんど》をぐさと射られて、おなじまくらに仆《たふ》れけり。「すは癖者《くせもの》よ」、といふ程に、從者等《ずさら》は劇騷《あはてさわ》ぐのみ、敵の多少を測《はかり》かねて、擊《うち》とらんともせざりしかば、那古《なこの》七郞眼《まなこ》を瞪《いか》らし、「いふがひなき人々かな。今|眼前《まのあたり》に主《しゆう》を擊《うた》して、何か躊躇《たゆたふ》ことあらん。よしや木立《こだち》は深くとも、數町《すちやう》に足らぬこの岡の、樹《き》を伐《きり》草を芟竭《かりつく》しても、搜出《さがしいだ》さで已《やむ》べき欤《か》」、と罵《のゝしり》あへず刀を拔《ぬき》て、主《しゆう》に離れし馬の障泥《あふり》を、切《きり》ときて盾《たて》としつ、引被《ひきかつ》ぎて走登《はせのぽ》れば、衆皆《みなみな》これに激《はげま》され、讐《あた》を定《さだ》かに認めねども、「われ擊《うち》とらん」と進みけり。朴平無垢三これを見て、近づけてはかなはじとて、樹立《こだち》の蔭《かげ》より顯《あらは》れ出《いで》、さん/\に射たりしかば、先に進みし列卒《せこ》十餘人、瞬閒《またゝくひま》に射殺《いころ》さる。しかれども彼兩人《かのりやうにん》は、矢種《やたね》もこゝに竭《つき》しかば、弓を戞哩《からり》と投棄《なげすて》て、 大刀眞額《たちまつかふ》に拔翳《ぬきかざ》し、岌《かさ》に懸《かゝつ》て砍立《きりたつ》れば、この勢ひに辟易《へきゑき》して、奴隸《しもべ》は大かた迯失《にげうせ》たり。殘るは近臣七八人、力を勠《あは》して戰へども、不知案內《ふちあんない》の山阪《やまさか》なり、株《くひぜ》に跌《つまつ》き、藤蔓《ふぢかつら》に、足をとられて、輾轉《ふしまろび》、或《あるひ》は擊《うた》れ、或《あるひ》は又、痍《て》を負《おは》ざるはなかりけり。
そが中《なか》に、那古七郞は、且《しばら》く賊《ぞく》を疲勞《つから》して、坦地《ひらち》へ誑引出《おびきいだ》さんとて、且《かつ》戰ひ、且《かつ》走れば、無垢三は先に進み、朴平は後《あと》に續《つゞき》て、脫《のが》さじ、と追蒐來《おつかけき》つ、思はず坂を下《くだ》りしかば、七郞|佶《きっ》と見かへりて、忽地磤《たちまちはた》と打掛《うちかく》る、礫《つぶて》に無垢三|額《ひたゐ》を傷《やぶ》られ、目眩《めくるめ》きてや倰搖《よろめく》ところを、那古は雌手《めて》より走《はせ》よせて、無垢三が腢《かたさき》より、乳《ち》の上かけて丁《ちやう》と砍《き》る。斬《き》られて仆《たふ》るゝ背《そびら》の上に、のぼしかゝつて頸掻落《くびかきおと》し、立《たち》あがらんとする程に、朴平は血刀引提《ちかたなひさげ》て、飛鳥《ひちやう》の如く走り來つ、七郞が右の肘《かひな》を、ばらりずんと斬落《きりおと》し、怯《ひる》む處を突倒《ところつきたふ》して、再三《ふたゝびみ》たび刺《さ》す刃《やいば》に、流れ下垂《したゝ》る血を畷《すふ》て、しばし咽喉《のんど》を潤《うるほ》す折《をり》、前面《むかひ》の樹蔭《こかげ》に弦音《つるおと》して、誰《たれ》とはしらず發矢《はなつや》に、朴平は股《もゝ》を射さして、倒れんとして、膝《ひざ》を突留《つきとめ》、矢柄《やがら》を 爴《つかん》で拔捐《ぬきすつ》れば、耳を貫く鬨《とき》の聲、谺《こだま》に咄《どつ》と響《ひゞか》して、捕手《とりて》の兵數《つはものす》十人《じうにん》、はや|犇々《ひしひし》と取卷《とりまい》たり。
當下《そのとぎ》山下柵左衞門は、箭《や》を負《おひ》、弓を挾《わきはさ》みて、岡の檜《ひのき》に馬を馳《はせ》よせ、「國の爲には數代《すだい》の主《しゆう》、民の爲には父母《ふぼ》なる殿を、戕《そこな》ひ奉りし逆賊等《ぎやくぞくら》、山下定包を認《みし》らずや。目今一箭《たゞいまひとや》に射て殺さんは、鑯《くろかね》の鎚《つち》をもて、鷄卵《かひこ》を碎くより易《やす》けれども、灸所《きうしよ》を除《よけ》しは生《いき》ながら、挧《からめ》捕《とら》せんと思へばなり。彼縛《あれいまし》めよ」、と令《げち》すれば、威風《いふう》に靡《なび》く夥兵《くみこ》の大勢《たいせい》、手捕《てとり》にせんと鬩《ひしめい》たり。朴平は「定包《さだかね》」と、名吿《なの》るを聞《きゝ》て仰天《げうてん》し、「原來《さては》わが箭《や》に射て落《おと》せしは、人啖馬《ひとくひうま》にあらざりけり。謀《はか》りしことは飛鳥《とぶとり》の、鶍《いすか》の觜《はし》と齟齬《くひちがひ》て、國主《こくしゆ》を害し奉れば、反逆《はんぎやく》の罪|脫《のが》るゝ途《みち》なし。怨《うらみ》は積《つも》る山下定包、擇擊《えらみうち》にすべけれ」とて、甲高《こたかき》ところに引退《ひきしりぞ》き、草に伏《ふし》、木を潛《くゞ》り、是首《ここ》に顯《あらは》れ、彼首《かしこ》に隱れて、且《しぱら》く防ぎ戰ふものから、矢傷《やきず》に進退はじめに似ず、砄《き》れども衝《つけ》ども大勢《たいせい》也。捕手《とりて》はます/\累《かさな》りて、とかくすれども定包に人近づくことを得ざりしかば、是《これ》まで也とや思ひけん、腹を切らんとする處を、先に進みし兩三人、左右より組留《くみとめ》て、やうやく索《なは》をかけしかば、定包は時を移さず、更に夥兵《くみこ》を部《てわけ》して、癖者《くせもの》の支黨《どうるい》を、隈《くま》なく撈索《さぐりもとめ》にけれど、故《もと》より件《くだん》の二人《ふたり》が外《ほか》に、隱《かく》れ潛《しのぺ》るものなかりけり。
浩處《かゝるところ》に城中《ぜうちう》より、老黨若黨數《ろうだうわかたうす》十人、轎子《のりもの》を扛《かゝ》しつゝ、主《しゆう》の迎《むかひ》にまゐりしかば、定包|緣由《ことのよし》を吿《つげ》て、まづ光弘の亡骸《なきから》を、轎子《のりもの》へ掻入《かきいれ》させ、高手肱手《たかてこて》を綁《いましめ》たる、朴平を牽立《ひきたて》させ、無垢三が首級《しゆきう》をもたし、主《しゆう》の死骸《しがい》の後《しり》に跟《つき》て、瀧田の城にかへりしかば、衆皆呆果《みなみなあきれはて》たるのみ、家《いへ》の老《おい》なンどいふものすら、只《たゞ》定包が權威《げんゐ》におそれて、絕《たえ》て一句も渠《かれ》を詰《なじ》らず、當座《たうざ》に賊《ぞく》を搦《からめ》しことのみ、只管《ひたすら》稱贊したりしかば、是《これ》よりして定包は、ます/\傲慢《おごりたかぶ》りて、諸司《しよし》ともいはず、近習《きんじゆ》ともいはず、奴僕《ぬぼく》のごとく召使《めしつか》ひ、次《つぐ》の日光弘の棺《ひつぎ》を出《いだ》して、香華院《かふげいん》へ送る程に、罪人杣木朴平《つみんどそまきのぼくへい》は、手痍《てきず》だに堪《たへ》がたきに、閒《ま》なく笞《しもと》に打責《うちせめ》られて、その日|獄屋《ひとや》に死《しに》にければ、定包|令《げぢ》して首《かうべ》を刎《はね》させ、無垢三が首級《しゆきう》もろとも、靑竹《あをたけ》の串《くし》にさゝして、楝《あふち》の梢《こすゑ》に梟《かけ》たりき。加以《これのみならず》、日來己《ひごろおのれ》を譏《そし》るものをば、皆朴平が支黨《どうるい》也とて、一人《ひとり》も洩《もら》さず搦捕《からめと》り、このときに殺してけり。さても朴平無垢三は、海岸《かいがん》の民なれども、武藝《ぶげい》力量人に雋《すぐ》れ、神餘《じんよ》が家臣|等《ら》も要《えう》せざる、賊臣《ぞくしん》定包を擊《うた》んとせし、志《こゝろざし》は剛《ごう》なれども、彼が梟雄《けうゆう》の智に勝《かつ》ことかなはず、不覺《そゞろ》に仇《あた》の惡《あく》を佐《たす》けて、夥《あまた》の人を連累《まぎぞひ》せり。無慙《むざん》といふも疎《おろか》なるべし。
卻說山下定包《かくてやましたさだかね》は、縡《こと》十二分《じうにぶん》に謀得《はかりえ》たれば、有一日《あるひ》老臣近臣等を、城中《ぜうちう》へ召聚《よびつどふ》るに、僉《みな》遣《のこ》りなく參りにけり。その縡《こと》の爲體《ていたらく》、定包は長袴《ながはかま》に、烏帽子《えぼうし》の掛緖長《かけをながく》して、大刀《たち》を跨《よこたへ》つゝ上座《かみくら》に推處《おしなほ》り、又|禮服《れいふく》の下に身甲《はらまき》したる、力士《りぎし》十二人を傑立《すぐりたて》て、おのが左右に侍《はぺ》らせ、さて衆人《もろひと》に對《むかひ》ていふやう、「先君不慮《せんくんふりよ》に世を去《さり》給ひて、おん子《こ》ひとりも在《ましま》さず。鄰郡他家《りんぐんたけ》より擇《えらみ》とりて、世子《よつぎ》を立《たて》んと思へども、館山《たてやま》の安西氏《あんさいうぢ》、又|平館《ひらたて》なる麻呂氏《まろうぢ》も、女子《によし》のみにして男子《なんし》なし。こはいかにしてよからん」、と問《とひ》つゝ席を見わたしたる、面《おもて》を向上《みあぐ》るものもなく、僉《みな》もろともにまうすやう、「山下|大人《うし》は德高く、先君に功あること、鐮倉の執權《しつけん》たりし、北條氏《ほうでふうぢ》にも倍《まし》給へり。なき世子《よつぎ》を求《もとめ》んより、みづから兩郡《ふたこふり》を知召《しろしめさ》れよ。わが君と仰ぎ奉り、忠勤《ちうきん》を勵《はげま》んに、なでふことの候べき」、と飽《あく》まで媚《こび》て回答《いらへ》しかば、定包|莞尒《につこ》とうち笑《え》みて、「われにその德なけれども、今もし衆議《しゆぎ》に從はずは、人の望《のぞみ》を失ひて、この城ながく保ちがたけん。われ且攝《まづかり》に二郡《にぐん》を領《れう》して、德ある人に讓るべし。野心を存ずることなけれ」とて、誓書《ちかひぶみ》に血を沃《そヽ》がせ、更に酒宴《しゆえん》を催《もよほ》して、祿《かつけもの》をとらせしかば、みな萬歲《ばんぜい》と祝《しゆく》しけり。
かゝりし後《のち》、定包《さだかね》は、瀧田《たきた》の城を更《あらた》めて、玉下《たました》とこれを名《なつ》け、玉梓《たまづさ》をおのが嫡妻《ほんさい》にして、後堂《こうだう》に册《かしづか》せ、その餘《よ》、光弘の嬖妾《おんなめ》にかはる/\枕席《しんせき》をすゝめさせ、富貴歡樂《ふうきくわんらく》を極《きわ》めしかば、威《ゐ》を鄰郡《りんぐん》に示《しめさ》んとて、館山平館《たてやまひらたで》へ使者を遺《つかは》し、「定包|不肖《ふせう》にして、思ひかけなく、衆人《もろびと》に推尊《おしたつとま》れて、長狹平郡《ながさへくり》の主《めし》となりぬ。かゝれば更に兩君《りやうくん》に、好《よしみ》を結《むすば》んと思ふのみ。此方《こなた》よりや推參《すいさん》すべき。其方《そなた》よりや來臨《らいりん》し給ふ。左右《とかく》は賢慮《け人りよ》によるべし」、といと無禮《なめげ》にいはせしかば、麻呂安西は呆果《あきれはて》て、 媢《ねたし》と思へど一朝《いつちやう》の議にあらず、「是《これ》より返答すべけれ」とて、その使者をかへしてけり。
さればこの館山の城主《ぜうしゆ》たる、安西三郞太夫景連《あんさいさぶらうたいふかげつら》は、力|剛《つよ》く心|悍《たけ》くて、しかも謀《はかりごと》を好めども機に臨《のぞみ》て決斷なし。又平館の城主たる、麻呂小五郞信時《まろのこゞらうのぶとき》は、利に進み人を侮《あなど》る、貪婪匹夫《どんらんひつふ》の勇將《ゆうせう》なれば、安西に諜《てふ》じ合《あは》して、定包を討《うた》んとて、有一日《あるひ》近臣のみを將て、潛《ひそか》に館山の城に赴き、景連に對面して、定包が縡《こと》の趣《おもむき》、思ふよしさへ密談し、「和殿某《わどのそれがし》力を勠《あは》して、安房朝夷《あはあさひな》の軍兵《ぐんびやう》を引率《いんそつ》し、瀧田の城を改《せめ》んには、勝利疑ひなきもの也。定包|脆《もろ》く首《かうべ》を授《さづけ》て、彼兩郡《かのふたこふり》をわかちとらば、愉《こゝろよ》き事ならずや」、と忽卒《あからさま》に勸說《そゝのか》せば、景連|頭《かうべ》を左右にうち掉《ふり》、「畿內坂東大《きないばんどうおほ》かたならず、兵亂《ひやうらん》に苦《くるし》めども、安房は年來無事《としころぶじ》にして、士卒軍馬《しそつぐんば》のうへに熟《な》れず。彼《かの》山下は大身《たいしん》なり。主《しゆう》の所領《しよれう》を手も濡《ぬら》さで、わが物にしたるを思へば、その才《さえ》その智測《ちはかり》がたし。衆人《もろびと》彼を椎尊《おしたつと》み、主《しゆう》とし仕《つかへ》て貳《ふたこゝろ》なきは、その德その義|推《おし》て知るべし。天の時《とき》は地の理にしかず、地の理は人の和《くわ》にしかず。定包|既《すで》に時を得て、地を得て、人の和《くわ》を得たり。自他《じた》の分限《ぶんげん》を量《はか》らずして、牛角《ごかく》の合戰《かつせん》心もとなし。且《しばら》く渠《かれ》に歸降《きごう》して、當郡《たうぐん》へ誑引《おびき》よせ、伏兵《ふせゞい》をもて急《きう》に擊《うた》ば、擒《とりこ》にすることもあらん欤《か》。しかれども、漢楚《かんそ》鴻門《こうもん》の一會《いつくわい》に、彼范增《かのはんぞう》が策成《はかりことな》らずは、勞して功なきのみならで、草を打《うつ》て蛇《へび》に驚《おどろ》く、後悔《こうくわい》其處《そこ》に立《たち》がたし。且《しはら》く時を俟《まち》給へ。一トたび瀧田に變を生《せう》じて、衆人《もろひと》離れ負《そむ》くに至らば、攻《せめ》ずとも必潰《かならずついえ》ん。はやることかは」、と禁《とゞむ》れば、信時|迂遠《まはりとほし》として、|議論區々《ぎろんまちまち》なる折《をり》から、安西が近臣|遽《いそがは》しく、廊《ほそどの》より遶《めぐ》り來《き》て、やをら障子《せうじ》を推開《おしひら》き、且《しばら》く氣色《けしき》を窺《うかゞ》ふ程に、主《しゆう》の景連、佶《きつ》と見て、「何《なに》ぞ」と問《とへ》ば、小膝《こひざ》をすゝめ、「里見《さとみ》又太郞義實《またたらうよしさね》と名吿《なの》れる武士、年《とし》十八九とおぼしきが、從者僅《ともびとはつか》に二人《ふたり》を將《い》て、推參《すいさん》して候かし。よりてその、來由《らいゆ》を尋《たづね》候へば、下總結城《しもふさゆふき》の落人《おちうど》也。父|季基《すゑもと》は討死《うちしに》し、その身は杉倉堀內《すぎくらほりうち》といふ、兩個《ふたり》の老黨《ろうだう》とゝもに、相模路《さがみぢ》へ沒落《もつらく》し、三浦《みうら》より渡海《とかい》して、當國白濱《たうこくしらはま》へ來着《らいぢやく》せり。この餘の趣意《しゆゐ》は人傳《ひとつて》に、申入《まうしい》るべきことにあらず、只見參《たゞげんさん》こそ願《ねがは》しけれ、と他事《たじ》もなくまうすなる。いかゞつかまつるべうもや」、と辭《ことば》せわしく吿《つげ》しかば、景連|頓《とみ》に回答《いらへ》かねて、「そはこゝろ得ず」、とばかりに、頭《かうべ》を傾《かたむ》け、眉《まゆ》を顰《ひそ》め、沈吟《うちあん》じてぞゐたりける。
南総里見八犬伝巻之一終
底本:ちえまの館(現在はアクセスできない)
初校正:2005年3月25日
今回の校正:2025年3月19日