南総里見八犬伝(003)

南総里見八犬伝巻一第二回
東都 曲亭主人 編次
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「落葉岡おちばがおかに朴平ぼくへい無垢三むくざう光弘みつひろの近習きんじゆとたゝかふ」「山下定かね」「那古ノ七郎」「杣木ノぼく平」「洲さきのむく蔵」「天津ノ兵内」

一箭いつせんを飛とばして侠者白馬けうしやはくばを悞あやまつ
兩郡りやうぐんを奪うばふて賊臣朱門ぞくしんしゆもんに倚よる

 安房あはは原もと、總國ふさのくにの南邊みなみのはてなり。上代あがれるよには上下かみしもの分別わいだめなし。後のちにわかちて、上總下總かつさしもふきと名なつけらる。土地擴漠ひろくして桑くは多し。蠶飼こかひに便たよりあるをもて、總ふさを貢みつぎとしたりしかば、その國をも總ふさといひけり。かくて總ふさの南邊みなみのはてに、居民鮮をるたみすくなかりしかば、南海道阿波國なんかいどうあはのくはなる、民をこゝへ遷うつし給ひて、やがて安房あばとぞ呼よばせ給ひぬ。日本書紀景行紀やまとふみけいこうきに、所云淡いはゆるあはの水門みなとは是これ也。

 安房は僅はつかに四郡しぐんにして、平郡へくりといひ、長狹ながさといひ、安房あはといひ、朝夷あさひなといふ。むかし仁安治承にんあんぢせうの間あはひ、平家世へいけよざかりなりし比ころより、こゝに三人みたりの武士ありけり。東鑑あづまかヾみにその名見えたる、御厨みくりやの麻呂五郞信俊まろごらうのぶとし、安西三郞景盛あんさいさぶらうかげもり、東條七郞秋則とうでふしちらうあきのりこれなり。治承ぢせう三年秋八月はつき、源賴朝卿みなもとのよりともけう石橋山いしはしやまの軍敗いくさやぶれて、安房へ赴おもむき給ひしとき、件くだんの武士等ら、第一番に隨つき從したがひて、安西三郞景盛は、鄕導みちしるペをつかまつり、麻呂信俊まろののぶとし、東條秋則等は、碗飯わうばんを獻たてまつりて、無二むにの志こゝろざしをあらはせしかば、源氏一統いつとうの後のち、彼かの人々は、安房四郡あはしぐんをわかち給はりて、子孫十餘世相續しうよせさうぞくし、世は北條ほふでふにうつり代かはり、又足利家あしかゞけの時までも、その本領ほんれくうを失はず。景盛が十二世せの孫まご、安西三郞大夫景連あんさいさふらうたいふかげつらは、安房郡館山あはのこふりだてやまの城にあり。信俊が後裔しそんたる、麻呂小五郞兵衞信時まろのこゞらうびゃうゑのぶときは、朝夷郡平館あさひなのこふりひらだての城にあり。又長狹郡ながさのこふり、東條が氏族うからたる、神餘長狹介光弘じんよながさのすけみつひろは、秋則が後のちとして、平郡へぐりの瀧田たきたに在城ざいぜうせり。いづれも舊家きうかといひながら、神餘は東條が所領しよれうを合あはして、安房半國はんこくの主ぬしなれば、長狹平郡の兩郡ふたこふりを管領くわんれうして、家臣從類少じゆうるいすくなからず、人馬物具にんばものゝぐいへばさら也、物ことひとつとして不足なければ、安西麻呂を下風かふうに立たゝして、推おして國主こくしゆと稱せうしたり。

 かゝりし程に光弘は、こゝろ驕おごりて色を好み、酒に耽ふけりて飽あくことなく、側室媵妾そばめおんなめ多かる中なかに、玉梓たまつさといふ淫婦たをやめを寵愛ちやうあいして、內外ないぐわいの賞罰せうばつさへ、渠かれに問とふて沙汰さたせしかば、玉梓に賄賂まいなふものは、罪あるも賞せられ、玉梓に媚こびざれば、功あるも用もちひられず。是これより家則かそくいたく亂れて、良臣りやうしんは退しりぞき去さり、佞人ねいじんは時を得たり。そが中なかに、山下柵左衞門定包やましたさくさゑもんさだかねといふものありけり。是これが父は靑濱あをはまなる、草料場まぐさくらの預あづかりにて、碌々ろくろくとして身まかりしが、定包は人となり、相貌かほかたちさへ親に肖にず、面色いろ白しろくして眉秀まゆひいで、鼻卬はなたかくして唇朱くちびるあかく、言語柔和げんぎよにうわの聞きこえありとて、光弘これを召出めしいだして、近習きんじゆにぞしたりける。現女謁內奏げにによゑつないそうは、佞人ねいじんの資たすけ也。册左衡門定包は、陽うへに行狀ぎやうでふを愼つゝしみて、陰したに奸智かんちを逞たくましうし、榮利ゑのりを謀はかる癖者くせものなれば、初はじめより玉梓に、佞媚こびへつらはずといふことなく、渠かれが好む物としいへば、價あたひを厭いとはず贈る程に、漸々しだいしだいに出頭しゆつとうして、口才こうさい主君を歡よろこばせ、酒醼しゆえんを催もよほし、淫樂いんらくを勸すゝめ、剩あまつさへ玉梓と密通みつゝうして、尾陋びろうの擧動ふるまひ多かりけれども、光弘は露ばかりもこれを曉さとらず、いく程もなく定包を、老臣の上かみにをらせ、藩屏かちうの賞罰大小だいせうとなく、皆任用うちまかせたりければ、その權けん山下一人ひとりに歸きして、主君はあるもなきが如し。かくて志氣こゝろざしあるものは、主しゆうを諫いさめかねて身退しりぞき、又勢利いきほひに憑つくものは、をさ〳〵媚こびて定包が、尾髯をひげの塵ちりをとりしかば、黨たうを樹たてて、譏そしりを禦ふせぎ、利害りがいを說ときて、舊法きうほうを更あらため、稅斂みつぎを重おもくし、課役くわやくを累かさねて、民の冤うらみを見かへらず。現げにこの山下定包は、神餘が家の祿山ろくさんなるかな。そが出仕しゆつしする每ごとに、白馬しろきうまに騎のりしかば、目を側そはだてて是を見るもの、密々しのびしのびに白妙しろたへの、人啖馬ひとくひうまと渾名負あだなおはして、たま〳〵途みちにあふときは、避さけかくるゝも多かりけり。

 不題こゝにまた、瀧田たきたの近村きんそん、蒼海巷あをみこといふ處ところに、杣木朴平そまきのぼくへいと喚よばるゝ、莊客ひやくせうありけり。戰國せんこくの沿俗ならひとて、擊劍拳法けんいじゆつやわらいへばさらなり、膂力剛ちからつよく、こゝろ悍たけく、難なんに臨のぞみて死をだもおそれず、伉侠をとこを立たつるものなりければ、神餘じんよの家則かそくいたく亂れて、民のわづらひ大おほかたならず、縡ことみな山下柵左衞門やましたさくさゑもんが所行わざなるを見て竟つひに得堪えたへず、われに些すこしも劣らざる、洲崎すさきの無垢三むくざうといふ、友だちを、潛しのびやかに招きよせ、「和主わぬしは何なにと思ふらん。白妙しろたへの人啖馬ひとくひうまは、權を恣ほしいまゝにして民を虐しへたげ、田園でんはたに禍わざはひすること、蝗うんかのむしより酷はなはだしく、罪なき人を屠ほふること、疫鬼えやみのかみに異ことならず。這奴しやつなほかくてあらんには、我われも人も何をもて、こゝに妻子やからを養ふべき。苛法からきはつとに隨ふも、みな是これ命を惜をしめばなり。斯年々かうとしとしに毟むしりとられて、餓うへも凍こゞえもしたらんには、法も崇たゝりもおそるゝ事かは。所詮しよせん二人ふたりが身を棄すてて、人啖馬ひとくひうまを擊殺うちころし、夥あまたの人の苦を拔ぬかば、いと愉こゝろよき事ならずや」、と譚かたらはれて無垢三は、一議いちぎに及ばずうち點頭うなつき、「あな勇いさましくもいはれたり。われも又この事を、思はざるにあらねども、這奴しやつは威勢國主いきはひこくしゆにまして、出いづるときも入るときも、數す十人の從者ともびとあり。もしかろ〳〵しく手を下くださば、毛を吹庇ふききずを求もとめやせん。笑えみの中うちに刃やいばを隱かくす、人の心の憑たのもしからねば、けふまでは默止もだしたり。しかるに和主わぬしゆくりなく、心中しんちうの機密きみつを吿つげて、われと志こゝろざしをおなじうす。夥あまたの翼たすけを獲えたるに勝れり。さればとて、卒餘あからさまに縡ことをはからば、化あだに命を失うしなはれん。もしくは這奴しやつが遊山ゆさんの折、從者ともひとも衆おはからぬ、微行しのびあるきの日を俟またば、ほゐを遂とげずといふことあらじ、と思ふはいかに」、と密語さゝやけば、朴平斜なのめならず歡よろこびて、「しからばとせよ」、「斯かうせん」とて、迭かたみに耳をとりかはし、密談みつだん數度すどに及びけり。
 現楊震げにようしんが四知しちの誡いましめ、壁かべにも耳のある世なれば、はやくもこの事をしれるもの、柵左衞門さくさゑもんにぞ報知つげたりける。定包さだかねはこの訴うつたへに、騷さわぎたる氣色けしきもなく、俄頃にはかに夥兵くみこを召聚よびつどへて、彼かの朴平無垢三等らを、搦捕からめとらせんとしたれども、忽地たちまち思ひつくことありて、別べちに謀はかりことを獲えたりしかば、件くだんの事ははじめより、そらしらぬおもゝちして、只從者たゞともひとの數を倍まし、晨つとに出いでず夜行よあるきせず、をさ〳〵仇あたを禦ふせぐ程に、主しゆうの長狹介ながさのすけ光弘は、長夜ちやうやの淫樂いんらくに、その身を忘れて、日々月々ひゞつきづきに病やまひを生じ、美酒珍饍びしゆちんぜんも甘あまからず、鄭聲艷曲ていせいえんきよくも樂たのしからねば、不死ふしの藥を蓬莱ほうらいに求め、不老の術を方士はうしに問とひけん、秦皇漢武しんくわうかんぶの物思ひに異ならず、玉梓たまつさが膝ひぎを枕まくらにして、帳中とばりのうちを出いでざれば、「折こそよけれ」、と定包は、有一日あるひ主君にまうすやう、「時はや夏の初はじめにて、野山の新樹わかばもいと愛めでたく、落羽畷をちばなはての野雝きゞす、靑麥村あをむぎむらの雲雀ひばり、處得ところえがほに集すだくなる。閑居たれこめてのみ座をはしまさば、病やまひをまさせ給ひなん。狗いぬを走らせ、鷹たかを放はなつも、養生ようぜうのひとつにこそ。某それがしおん倶仕ともつかまつらん。おもひ立たゝせ給はずや」、とそゝのかす傍かたへより、玉梓これを興けうじつゝ、もろ共に勸すゝめしかば、光弘やをら身を起し、「われとにかくに懶ものくさくて、久しく城外ぜうぐわいへ出いでざりき。今伱達なんたちが諫言かんげんは、口苦にがからぬ良藥りやうやくとおぼゆれば、翌あすは早旦つとめて狩倉かりくらすべきに、まづこの旨むねを令ふれしらして、准備ようゐさせよ」、と仰おふすれば、定包扇さだかねあふざを笏しやくにとり、「御託ごぢやうでは候へども、近年きんねん公務いと繁しげくて、民たみその課役くわやくに勞つかれたり。加旃畑しかのみならずはたを打うち、種たねおろしする比ころなれば、潛しのびて出いでさせ給へかし。某それがしおん供つかまつれば、よろしく討はからひ候ひなん。土民等どみんら畊作こうさくに煩わづらひなく、程經ほどへてこれをしるならば、誰たれか仁君じんくんといはざるべき。これも亦また民を使ふ、一術いちじゆつに候はずや」、と言葉巧たくみにまうすにぞ、光弘感嘆大おほかたならず、「いはるゝ所道理に稱かなへり。寔まことに家の老おいたるものは、誰たれもかくこそあるべけれ。さらばこの議に任まかせん」とて、列卒せこ從者ともびとの數を省はぶきて、那古七郞なこのしちらう、天津兵內あまつのひやうないなンどいふ、近習きんじゆ八九人ンのみに、從行ともだての准備ようゐさせ、詰旦あけのあさ光弘は、葦毛あしけの馬にうち騎のりて、狗いぬを牽ひかし、鷹たかを駕すえさせ、潛しのびやかにぞ出いでたりける。
 卻說かくて山下柵左衞門やましたさくさゑもん定包は、豫かねて謀はかりし事なれば、前日さきのひ城より退まかるとやがて、落羽靑麥をちはあをむぎの村長等むらおさらを、猛にはかに召よびよせ、「われ邂逅たまさかに休暇いとまを得たれば、翌あすは如此々々しかじかの處ところに出いでて、放鷹ほうようせんと思ふ也。僉みなこの旨むねをこゝろ得よ」、といと嚴おごそかにいはせにければ、村長等は走りかへりで莊客們ひやくしやうばらを驅催かりもよほし、途みちの掃除そうぢに箒目はゝきめのゆきとゞくまで罵騷のゝしりさわげば、杣木朴平無垢三そまきのぼくへいむくざう等らは、漸やうやくこゝに便宜びんぎを得て、「翌あすは必本意かならずほゐを遂とぐべき時來きたれり」、と竊ひそかに歡よろこび、兩人りやうにん列卒せこに打紛いでたちつゝ、弓箭手挾ゆみやたばさみ走り出いで、その夜丑三ようしみつの比及ころほひより、落羽畷おちばなはての東北うしとらなる、夏草ふかき岡に躱かくれて、古ふりたる松を盾たてにとり、「定包遲し」、と俟まちてをり。

 短夜みじかよなれば墓はかなくて、鷄鳴曉けいめいあかつきを吿つぐる比ころ、長狹介光弘ながさのすけみつひろは、鹿皮しかのかわの行縢むかばきに、綾藺あやい笠かさふかくして、列卒せこをば馬の前さきに立たゝせ、那古天津の近臣等、八九人ンを左右にして、瀧田の城を出いでしかば、山下柵左衞門定包は、豫かねて非常に備そなへんとて、夥兵私卒許多將くみこわかたうあまたいて、彼白馬かのしろうまにうち騎のりつゝ、些後すこしおくれてうたせたり。固もとより謀はかることなれば、馬奴等うまかひらさへ荷擔かたらはれて、朝立あさたちの秣かひくさに、毒を加くはえて餌かふたりけん、光弘の乘れる馬、ゆくこと十町ちやうあまりにして、暴にはかに病やみて拍うてども進まず、前足折をつて撲地はたと臥ふせば、ぬしも俯うつぶしに輾まろびかゝるを、那古七郞、天津兵內、慌忙あはてふためき扶起たすけおこして、「おん騎替のりかえをとく牽ひけ」、と聲こゑ高やかに喚立よびたつれば、從者更ともびとさらに劇惑あはてまどひて、後ご陣ぢんへ如此々々しかしかと吿つげしかば、柵左衞門定包さだかねは、鞭むちを揚あげて走らし來つ、馬より閃ひらりとをりたちて、光弘にまうすやう、「潛しのびて獵かりに出いでさせ給へば、それまでは准備ようゐせざりし。騎替のりかえを待まち給はゞ、徒いたづらに時や移らん。某それがしが馬こゝに在あり。年來としごろ日ごろ畜狎かひならせしに、鞍味くらあぢもいと愛めでたし。乘のらせ給へ」、とそがまゝに、轡くつわつらを牽ひきよすれば、光弘忽地氣色たちまちけしきなほりて、立たてさせたる床几せうぎをはなち、「然さらばその意に任まかせんず。汝なんぢはこゝに休やすらひて、豫が騎替のりかえに乘のりて來こよ。ものども急げ」、といひあへず、鞍くらに手を掛跨かけのる馬の、尾筒をつゝも戰そよぐ旦開あさびらき、風見かざみが原はらの卯花うのはなも、東も白くなる隨まゝに、樹立隙こたちひまなき病葉わくらはの、落羽畷おちはなはてに近つきぬ。

 この日の倶ともにたちたりし、那古天津なこあまつの兩臣りやうしんのみ、山下が蔭かげを仰あほがず、主しゆうに仕つかへて大おほかたならぬ、誠心まごゝろあるものなれば、このとき思ふよしやありけん、先に立たちたる列卒せこに誨をしえて、「靑麥村のかたへ」とて、猛にはかに途みちをかえんとすれば、光弘これを訝いぶかりて、「汝等なんぢらは何處いづこへ行やるぞ。けふの狩場かりばは落羽おちばが岡おか也。この比ごろはいぎたなくて、寐惚ねぼれたる欤か」、と敦圉いきまけば、七郞兵內しちらうひやうない左右より、密しのびやかにまうすやう、「君は曉さとらせ給はずや。乘馬じやうめの暴にはかに斃たふれたる、吉祥よきさが也とは覺おぼえぬに、落羽おちばに落馬らくばの音訓よみこゑかよへば、名詮自性甚忌めうせんじせうはなはだいまはし。加以これのみならず、室町殿むろまちどのの武威撓ぶゐたゆみて、兵亂休ひやうらんやむときなきものから、安房あはは東南の盡處はてなれば、幸さいはひにして無事ぶじなれども、國に野心のものなしとは、必かならずしもいひがたし。然さるを潛しのびて出いでさせ給ふ、是これすらいとも危あやうきに、忌諱ききをも避さけず、不祥ふせうにも憚はゞかり給はず、遠き慮おもんはかりましまさずは、近き憂うれひをいかにせん。猛にはかに途みちをかえんとせしは、この故ゆゑに候」、と兩人齊一諫ひとしくいさむれば、光弘聞きゝて冷笑あざわらひ、「女々めゝしき事をいふものかな。活いける物は必かならず死す。斃たふれし馬に何かあらん。されば又、けふの狩場かりばを、落馬らくばと喚よばゝ諱いむよしあらめ、落羽おちばは落おつる鳥なれば、獲えもの多かる祥さがならずや。彼方かなたへ行やれ」、と鐙あぶみを鳴らし、馬の足掻あがきを早むれば、那古天津等らはせんすべも、なつ草繁しげき畷道なはてみち、初はじめのごとく先さきを追おはして、落葉畷の邊ほとりなる、落葉が岡に來にければ、宵よりこゝに躱かくれたる、杣木朴平そまきのぼくへい、洲崎無垢三すさきのむくざう、木立こたちの隙ひまより佶きつと見て、「白馬しろきうまに騎のりたるは、紛まがふべうもあらざりける、山下柵左衞門定包也。さは」とて伏ふせたる弓に箭㓨やつがひて、きり〳〵と彎絞ひきしぼり、矢比やごろ近くなる隨まゝに、一二を定めて𢐕ひやうと發はなせば、𫁖違ねらひたがはず一の矢に、光弘は胸を射られて、叫さけびもあへず仰のけさまに、馬より摚だうと落おちしかば、「これは」、と駭おどろく天津兵內、二の矢に吭のんどをぐさと射られて、おなじまくらに仆たふれけり。「すは癖者くせものよ」、といふ程に、從者等ずさらは劇騷あはてさわぐのみ、敵の多少を測はかりかねて、擊うちとらんともせざりしかば、那古なこの七郞眼まなこを瞪いからし、「いふがひなき人々かな。今眼前まのあたりに主しゆうを擊うたして、何か躊躇たゆたふことあらん。よしや木立こだちは深くとも、數町すちやうに足らぬこの岡の、樹きを伐きり草を芟竭かりつくしても、搜出さがしいださで已やむべき欤か」、と罵のゝしりあへず刀を拔ぬきて、主しゆうに離れし馬の障泥あふりを、切きりときて盾たてとしつ、引被ひきかつぎて走登はせのぽれば、衆皆みなみなこれに激はげまされ、讐あたを定さだかに認めねども、「われ擊うちとらん」と進みけり。朴平無垢三これを見て、近づけてはかなはじとて、樹立こだちの蔭かげより顯あらはれ出いで、さん〳〵に射たりしかば、先に進みし列卒せこ十餘人、瞬間またゝくひまに射殺いころさる。しかれども彼兩人かのりやうにんは、矢種やたねもこゝに竭つきしかば、弓を戞哩からりと投棄なげすてて、大刀眞額たちまつかふに拔翳ぬきかざし、岌かさに懸かゝつて砍立きりたつれば、この勢ひに辟易へきゑきして、奴隸しもべは大かた迯失にげうせたり。殘るは近臣七八人、力を勠あはして戰へども、不知案內ふちあんないの山阪やまさかなり、株くひぜに跌つまつき、藤蔓ふぢかつらに、足をとられて、輾轉ふしまろび、或あるひは擊うたれ、或あるひは又、痍てを負おはざるはなかりけり。
 そが中なかに、那古七郞は、且しばらく賊ぞくを疲勞つからして、坦地ひらちへ誑引出おびきいださんとて、且かつ戰ひ、且かつ走れば、無垢三は先に進み、朴平は後あとに續つゞきて、脫のがさじ、と追蒐來おつかけきつ、思はず坂を下くだりしかば、七郞佶きっと見かへりて、忽地磤たちまちはたと打掛うちかくる、礫つぶてに無垢三額ひたゐを傷やぶられ、目眩めくるめきてや倰搖よろめくところを、那古は雌手めてより走はせよせて、無垢三が腢かたさきより、乳ちの上かけて丁ちやうと砍きる。斬きられて仆たふるゝ背そびらの上に、のぼしかゝつて頸掻落くびかきおとし、立たちあがらんとする程に、朴平は血刀引提ちかたなひさげて、飛鳥ひちやうの如く走り來つ、七郞が右の肘かひなを、ばらりずんと斬落きりおとし、怯ひるむ處を突倒ところつきたふして、再三ふたゝびみたび刺さす刃やいばに、流れ下垂したゝる血を畷すふて、しばし咽喉のんどを潤うるほす折をり、前面むかひの樹蔭こかげに弦音つるおとして、誰たれとはしらず發矢はなつやに、朴平は股もゝを射さして、倒れんとして、膝ひざを突留つきとめ、矢柄やがらを爴つかんで拔捐ぬきすつれば、耳を貫く鬨ときの聲、谺こだまに咄どつと響ひゞかして、捕手とりての兵數つはものす十人じうにん、はや犇々ひしひしと取卷とりまいたり。

 當下そのとぎ山下柵左衞門は、箭やを負おひ、弓を挾わきはさみて、岡の檜ひのきに馬を馳はせよせ、「國の爲には數代すだいの主しゆう、民の爲には父母ふぼなる殿を、戕そこなひ奉りし逆賊等ぎやくぞくら、山下定包を認みしらずや。目今一箭たゞいまひとやに射て殺さんは、鑯くろかねの鎚つちをもて、鷄卵かひこを碎くより易やすけれども、灸所きうしよを除よけしは生いきながら、挧からめ捕とらせんと思へばなり。彼縛あれいましめよ」、と令げちすれば、威風いふうに靡なびく夥兵くみこの大勢たいせい、手捕てとりにせんと鬩ひしめいたり。朴平は「定包さだかね」と、名吿なのるを聞きゝて仰天げうてんし、「原來さてはわが箭やに射て落おとせしは、人啖馬ひとくひうまにあらざりけり。謀はかりしことは飛鳥とぶとりの、鶍いすかの觜はしと齟齬くひちがひて、國主こくしゆを害し奉れば、反逆はんぎやくの罪脫のがるゝ途みちなし。怨うらみは積つもる山下定包、擇擊えらみうちにすべけれ」とて、甲高こたかきところに引退ひきしりぞき、草に伏ふし、木を潛くゞり、是首ここに顯あらはれ、彼首かしこに隱れて、且しぱらく防ぎ戰ふものから、矢傷やきずに進退はじめに似ず、砄きれども衝つけども大勢たいせい也。捕手とりてはます〳〵累かさなりて、とかくすれども定包に人近づくことを得ざりしかば、是これまで也とや思ひけん、腹を切らんとする處を、先に進みし兩三人、左右より組留くみとめて、やうやく索なはをかけしかば、定包は時を移さず、更に夥兵くみこを部てわけして、癖者くせものの支黨どうるいを、隈くまなく撈索さぐりもとめにけれど、故もとより件くだんの二人ふたりが外ほかに、隱かくれ潛しのぺるものなかりけり。

 浩處かゝるところに城中ぜうちうより、老黨若黨數ろうだうわかたうす十人、轎子のりものを扛かゝしつゝ、主しゆうの迎むかひにまゐりしかば、定包緣由ことのよしを吿つげて、まづ光弘の亡骸なきからを、轎子のりものへ掻入かきいれさせ、高手肱手たかてこてを綁いましめたる、朴平を牽立ひきたてさせ、無垢三が首級しゆきうをもたし、主しゆうの死骸しがいの後しりに跟つきて、瀧田の城にかへりしかば、衆皆呆果みなみなあきれはてたるのみ、家いへの老おいなンどいふものすら、只たゞ定包が權威げんゐにおそれて、絕たえて一句も渠かれを詰なじらず、當座たうざに賊ぞくを搦からめしことのみ、只管ひたすら稱贊したりしかば、是これよりして定包は、ます〳〵傲慢おごりたかぶりて、諸司しよしともいはず、近習きんじゆともいはず、奴僕ぬぼくのごとく召使めしつかひ、次つぐの日光弘の棺ひつぎを出いだして、香華院かふげいんへ送る程に、罪人杣木朴平つみんどそまきのぼくへいは、手痍てきずだに堪たへがたきに、間まなく笞しもとに打責うちせめられて、その日獄屋ひとやに死しににければ、定包令げぢして首かうべを刎はねさせ、無垢三が首級しゆきうもろとも、靑竹あをたけの串くしにさゝして、楝あふちの梢こすゑに梟かけたりき。加以これのみならず、日來己ひごろおのれを譏そしるものをば、皆朴平が支黨どうるい也とて、一人ひとりも洩もらさず搦捕からめとり、このときに殺してけり。さても朴平無垢三は、海岸かいがんの民なれども、武藝ぶげい力量人に雋すぐれ、神餘じんよが家臣等らも要えうせざる、賊臣ぞくしん定包を擊うたんとせし、志こゝろざしは剛ごうなれども、彼が梟雄けうゆうの智に勝かつことかなはず、不覺そゞろに仇あたの惡あくを佐たすけて、夥あまたの人を連累まぎぞひせり。無慙むざんといふも疎おろかなるべし。

 卻說山下定包かくてやましたさだかねは、縡こと十二分じうにぶんに謀得はかりえたれば、有一日あるひ老臣近臣等を、城中ぜうちうへ召聚よびつどふるに、僉みな遣のこりなく參りにけり。その縡ことの爲體ていたらく、定包は長袴ながはかまに、烏帽子えぼうしの掛緖長かけをながくして、大刀たちを跨よこたへつゝ上座かみくらに推處おしなほり、又禮服れいふくの下に身甲はらまきしたる、力士りぎし十二人を傑立すぐりたてて、おのが左右に侍はぺらせ、さて衆人もろひとに對むかひていふやう、「先君不慮せんくんふりよに世を去さり給ひて、おん子こひとりも在ましまさず。鄰郡他家りんぐんたけより擇えらみとりて、世子よつぎを立たてんと思へども、館山たてやまの安西氏あんさいうぢ、又平館ひらたてなる麻呂氏まろうぢも、女子によしのみにして男子なんしなし。こはいかにしてよからん」、と問とひつゝ席を見わたしたる、面おもてを向上みあぐるものもなく、僉みなもろともにまうすやう、「山下大人うしは德高く、先君に功あること、鐮倉の執權しつけんたりし、北條氏ほうでふうぢにも倍まし給へり。なき世子よつぎを求もとめんより、みづから兩郡ふたこふりを知召しろしめされよ。わが君と仰ぎ奉り、忠勤ちうきんを勵はげまんに、なでふことの候べき」、と飽あくまで媚こびて回答いらへしかば、定包莞尒につことうち笑えみて、「われにその德なけれども、今もし衆議しゆぎに從はずは、人の望のぞみを失ひて、この城ながく保ちがたけん。われ且攝まづかりに二郡にぐんを領れうして、德ある人に讓るべし。野心を存ずることなけれ」とて、誓書ちかひぶみに血を沃そヽがせ、更に酒宴しゆえんを催もよほして、祿かつけものをとらせしかば、みな萬歲ばんぜいと祝しゆくしけり。

 かゝりし後のち、定包さだかねは、瀧田たきたの城を更あらためて、玉下たましたとこれを名なつけ、玉梓たまづさをおのが嫡妻ほんさいにして、後堂こうだうに册かしづかせ、その餘よ、光弘の嬖妾おんなめにかはる〳〵枕席しんせきをすゝめさせ、富貴歡樂ふうきくわんらくを極きわめしかば、威ゐを鄰郡りんぐんに示しめさんとて、館山平館たてやまひらたでへ使者を遺つかはし、「定包不肖ふせうにして、思ひかけなく、衆人もろびとに推尊おしたつとまれて、長狹平郡ながさへくりの主めしとなりぬ。かゝれば更に兩君りやうくんに、好よしみを結むすばんと思ふのみ。此方こなたよりや推參すいさんすべき。其方そなたよりや來臨らいりんし給ふ。左右とかくは賢慮け人りよによるべし」、といと無禮なめげにいはせしかば、麻呂安西は呆果あきれはてて、媢ねたしと思へど一朝いつちやうの議にあらず、「是これより返答すべけれ」とて、その使者をかへしてけり。

 さればこの館山の城主ぜうしゆたる、安西三郞太夫景連あんさいさぶらうたいふかげつらは、力剛つよく心悍たけくて、しかも謀はかりごとを好めども機に臨のぞみて決斷なし。又平館の城主たる、麻呂小五郞信時まろのこゞらうのぶときは、利に進み人を侮あなどる、貪婪匹夫どんらんひつふの勇將ゆうせうなれば、安西に諜てふじ合あはして、定包を討うたんとて、有一日あるひ近臣のみを將て、潛ひそかに館山の城に赴き、景連に對面して、定包が縡ことの趣おもむき、思ふよしさへ密談し、「和殿某わどのそれがし力を勠あはして、安房朝夷あはあさひなの軍兵ぐんびやうを引率いんそつし、瀧田の城を改せめんには、勝利疑ひなきもの也。定包脆もろく首かうべを授さづけて、彼兩郡かのふたこふりをわかちとらば、愉こゝろよき事ならずや」、と忽卒あからさまに勸說そゝのかせば、景連頭かうべを左右にうち掉ふり、「畿內坂東大きないばんどうおほかたならず、兵亂ひやうらんに苦くるしめども、安房は年來無事としころぶじにして、士卒軍馬しそつぐんばのうへに熟なれず。彼かの山下は大身たいしんなり。主しゆうの所領しよれうを手も濡ぬらさで、わが物にしたるを思へば、その才さえその智測ちはかりがたし。衆人もろびと彼を椎尊おしたつとみ、主しゆうとし仕つかへて貳ふたこゝろなきは、その德その義推おして知るべし。天の時ときは地の理にしかず、地の理は人の和くわにしかず。定包既すでに時を得て、地を得て、人の和くわを得たり。自他じたの分限ぶんげんを量はからずして、牛角ごかくの合戰かつせん心もとなし。且しばらく渠かれに歸降きごうして、當郡たうぐんへ誑引おびきよせ、伏兵ふせゞいをもて急きうに擊うたば、擒とりこにすることもあらん欤か。しかれども、漢楚かんそ鴻門こうもんの一會いつくわいに、彼范增かのはんぞうが策成はかりことならずは、勞して功なきのみならで、草を打うつて蛇へびに驚おどろく、後悔こうくわい其處そこに立たちがたし。且しはらく時を俟まち給へ。一トたび瀧田に變を生せうじて、衆人もろひと離れ負そむくに至らば、攻せめずとも必潰かならずついえん。はやることかは」、と禁とゞむれば、信時迂遠まはりとほしとして、議論區々ぎろんまちまちなる折をりから、安西が近臣遽いそがはしく、廊ほそどのより遶めぐり來きて、やをら障子せうじを推開おしひらき、且しばらく氣色けしきを窺うかゞふ程に、主しゆうの景連、佶きつと見て、「何なにぞ」と問とへば、小膝こひざをすゝめ、「里見さとみ又太郞義實またたらうよしさねと名吿なのれる武士、年とし十八九とおぼしきが、從者僅ともびとはつかに二人ふたりを將いて、推參すいさんして候かし。よりてその、來由らいゆを尋たづね候へば、下總結城しもふさゆふきの落人おちうど也。父季基すゑもとは討死うちしにし、その身は杉倉堀內すぎくらほりうちといふ、兩個ふたりの老黨ろうだうとゝもに、相模路さがみぢへ沒落もつらくし、三浦みうらより渡海とかいして、當國白濱たうこくしらはまへ來着らいぢやくせり。この餘の趣意しゆゐは人傳ひとつてに、申入まうしいるべきことにあらず、只見參たゞげんさんこそ願ねがはしけれ、と他事たじもなくまうすなる。いかゞつかまつるべうもや」、と辭ことばせわしく吿つげしかば、景連頓とみに回答いらへかねて、「そはこゝろ得ず」、とばかりに、頭かうべを傾かたむけ、眉まゆを顰ひそめ、沈吟うちあんじてぞゐたりける。

南総里見八犬伝巻之一終

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