南総里見八犬伝(003)

南総里見八犬伝巻一第二回
東都 曲亭主人 編次
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一箭いつせんとばして侠者白馬けうしやはくばあやまつ
兩郡りやうぐんうばふて賊臣朱門ぞくしんしゆもんよる

安房あはもと總國ふさのくに南邊みなみのはてなり。上代あがれるよには上下かみしも分別わいだめなし。のちにわかちて、上總下總かつさしもふきなつけらる。土地擴漠ひろくしてくは多し。蠶飼こかひ便たよりあるをもて、ふさみつぎとしたりしかば、その國をもふさといひけり。かくてふさ南邊みなみのはてに、居民鮮をるたみすくなかりしかば、南海道阿波國なんかいどうあはのくはなる、民をこゝへうつし給ひて、やがて安房あばとぞよばせ給ひぬ。日本書紀景行紀やまとふみけいこうきに、所云淡いはゆるあは水門みなとこれ也。

 安房ははつか四郡しぐんにして、平郡へくりといひ、長狹ながさといひ、安房あはといひ、朝夷あさひなといふ。むかし仁安治承にんあんぢせうあはひ平家世へいけよざかりなりしころより、こゝに三人みたりの武士ありけり。東鑑あづまかヾみにその名見えたる、御厨みくりや麻呂五郞信俊まろごらうのぶとし安西三郞景盛あんさいさぶらうかげもり東條七郞秋則とうでふしちらうあきのりこれなり。治承ぢせう三年秋八月はつき源賴朝卿みなもとのよりともけう石橋山いしはしやま軍敗いくさやぶれて、安房へおもむき給ひしとき、くだんの武士、第一番につきしたがひて、安西三郞景盛は、鄕導みちしるペをつかまつり、麻呂信俊まろののぶとし、東條秋則等は、碗飯わうばんたてまつりて、無二むにこゝろざしをあらはせしかば、源氏一統いつとうのちかの人々は、安房四郡あはしぐんをわかち給はりて、子孫十餘世相續しうよせさうぞくし、世は北條ほふでふにうつりかはり、又足利家あしかゞけの時までも、その本領ほんれくうを失はず。景盛が十二まご安西三郞大夫景連あんさいさふらうたいふかげつらは、安房郡館山あはのこふりだてやまの城にあり。信俊が後裔しそんたる、麻呂小五郞兵衞信時まろのこゞらうびゃうゑのぶときは、朝夷郡平館あさひなのこふりひらだての城にあり。又長狹郡ながさのこふり、東條が氏族うからたる、神餘長狹介光弘じんよながさのすけみつひろは、秋則がのちとして、平郡へぐり瀧田たきた在城ざいぜうせり。いづれも舊家きうかといひながら、神餘は東條が所領しよれうあはして、安房半國はんこくぬしなれば、長狹平郡の兩郡ふたこふり管領くわんれうして、家臣從類少じゆうるいすくなからず、人馬物具にんばものゝぐいへばさら也、ことひとつとして不足なければ、安西麻呂を下風かふうたゝして、おし國主こくしゆせうしたり。

 かゝりし程に光弘は、こゝろおごりて色を好み、酒にふけりてあくことなく、側室媵妾そばめおんなめ多かるなかに、玉梓たまつさといふ淫婦たをやめ寵愛ちやうあいして、內外ないぐわい賞罰せうばつさへ、かれとふ沙汰さたせしかば、玉梓に賄賂まいなふものは、罪あるも賞せられ、玉梓にこびざれば、功あるももちひられず。これより家則かそくいたく亂れて、良臣りやうしん退しりぞり、佞人ねいじんは時を得たり。そがなかに、山下柵左衞門定包やましたさくさゑもんさだかねといふものありけり。これが父は靑濱あをはまなる、草料場まぐさくらあづかりにて、碌々ろくろくとして身まかりしが、定包は人となり、相貌かほかたちさへ親にず、面色いろしろくして眉秀まゆひいで鼻卬はなたかくして唇朱くちびるあかく、言語柔和げんぎよにうわきこえありとて、光弘これを召出めしいだして、近習きんじゆにぞしたりける。現女謁內奏げにによゑつないそうは、佞人ねいじんたすけ也。册左衡門定包は、うへ行狀ぎやうでふつゝしみて、した奸智かんちたくましうし、榮利ゑのりはか癖者くせものなれば、はじめより玉梓に、佞媚こびへつらはずといふことなく、かれが好む物としいへば、あたひいとはず贈る程に、漸々しだいしだい出頭しゆつとうして、口才こうさい主君をよろこばせ、酒醼しゆえんもよほし、淫樂いんらくすゝめ、あまつさへ玉梓と密通みつゝうして、尾陋びろう擧動ふるまひ多かりけれども、光弘は露ばかりもこれをさとらず、いく程もなく定包を、老臣のかみにをらせ、藩屏かちうの賞罰大小だいせうとなく、皆任用うちまかせたりければ、そのけん山下一人ひとりして、主君はあるもなきが如し。かくて志氣こゝろざしあるものは、しゆういさめかねて身退しりぞき、又勢利いきほひつくものは、をさ/\こびて定包が、尾髯をひげちりをとりしかば、たうたてて、そしりふせぎ、利害りがいときて、舊法きうほうあらため、稅斂みつぎおもくし、課役くわやくかさねて、民のうらみを見かへらず。げにこの山下定包は、神餘が家の祿山ろくさんなるかな。そが出仕しゆつしするごとに、白馬しろきうまのりしかば、目をそはだてて是を見るもの、密々しのびしのび白妙しろたへの、人啖馬ひとくひうま渾名負あだなおはして、たま/\みちにあふときは、さけかくるゝも多かりけり。
不題こゝにまた瀧田たきた近村きんそん蒼海巷あをみこといふところに、杣木朴平そまきのぼくへいよばるゝ、莊客ひやくせうありけり。戰國せんこく沿俗ならひとて、擊劍拳法けんいじゆつやわらいへばさらなり、膂力剛ちからつよく、こゝろたけく、なんのぞみて死をだもおそれず、伉侠をとこたつるものなりければ、神餘じんよ家則かそくいたく亂れて、民のわづらひおほかたならず、ことみな山下柵左衞門やましたさくさゑもん所行わざなるを見てつひ得堪えたへず、われにすこしも劣らざる、洲崎すさき無垢三むくざうといふ、友だちを、しのびやかに招きよせ、「和主わぬしなにと思ふらん。白妙しろたへ人啖馬ひとくひうまは、權をほしいまゝにして民をしへたげ田園でんはたわざはひすること、うんかのむしよりはなはだしく、罪なき人をほふること、疫鬼えやみのかみことならず。這奴しやつなほかくてあらんには、われも人も何をもて、こゝに妻子やからを養ふべき。苛法からきはつとに隨ふも、みなこれ命ををしめばなり。斯年々かうとしとしむしりとられて、うへこゞえもしたらんには、法もたゝりもおそるゝ事かは。所詮しよせん二人ふたりが身をすてて、人啖馬ひとくひうま擊殺うちころし、夥あまたの人の苦をぬかば、いとこゝろよき事ならずや」、とかたらはれて無垢三は、一議いちぎに及ばずうち點頭うなつき、「あないさましくもいはれたり。われも又この事を、思はざるにあらねども、這奴しやつ威勢國主いきはひこくしゆにまして、いづるときも入るときも、十人の從者ともびとあり。もしかろ/\しく手をくださば、毛を吹庇ふききずもとめやせん。えみうちやいばかくす、人の心のたのもしからねば、けふまでは默止もだしたり。しかるに和主わぬしゆくりなく、心中しんちう機密きみつつげて、われとこゝろざしをおなじうす。あまたたすけたるに勝れり。さればとて、卒餘あからさまことをはからば、あだに命をうしなはれん。もしくは這奴しやつ遊山ゆさんの折、從者ともひとおはからぬ、微行しのびあるきの日をまたば、ほゐをとげずといふことあらじ、と思ふはいかに」、と密語さゝやけば、朴平なのめならずよろこびて、「しからばとせよ」、「かうせん」とて、かたみに耳をとりかはし、密談みつだん數度すどに及びけり。

現楊震げにようしん四知しちいましめ、かべにも耳のある世なれば、はやくもこの事をしれるもの、柵左衞門さくさゑもんにぞ報知つげたりける。定包さだかねはこのうつたへに、さわぎたる氣色けしきもなく、俄頃にはか夥兵くみこ召聚よびつどへて、かの朴平無垢三を、搦捕からめとらせんとしたれども、忽地たちまち思ひつくことありて、べちはかりことたりしかば、くだんの事ははじめより、そらしらぬおもゝちして、只從者たゞともひとの數をし、つといで夜行よあるきせず、をさ/\あたふせぐ程に、しゆう長狹介ながさのすけ光弘は、長夜ちやうや淫樂いんらくに、その身を忘れて、日々月々ひゞつきづきやまひを生じ、美酒珍饍びしゆちんぜんあまからず、鄭聲艷曲ていせいえんきよくたのしからねば、不死ふしの藥を蓬莱ほうらいに求め、不老の術を方士はうしとひけん、秦皇漢武しんくわうかんぶの物思ひに異ならず、玉梓たまつさひぎまくらにして、帳中とばりのうちいでざれば、「折こそよけれ」、と定包は、有一日あるひ主君にまうすやう、「時はや夏のはじめにて、野山の新樹わかばもいとめでたく、落羽畷をちばなはて野雝きゞす靑麥村あをむぎむら雲雀ひばり處得ところえがほにすだくなる。閑居たれこめてのみをはしまさば、やまひをまさせ給ひなん。いぬを走らせ、たかはなつも、養生ようぜうのひとつにこそ。それがしおん倶仕ともつかまつらん。おもひたゝせ給はずや」、とそゝのかすかたへより、玉梓これをけうじつゝ、もろ共にすゝめしかば、光弘やをら身を起し、「われとにかくにものくさくて、久しく城外ぜうぐわいいでざりき。今伱達なんたち諫言かんげんは、口にがからぬ良藥りやうやくとおぼゆれば、あす早旦つとめ狩倉かりくらすべきに、まづこのむねふれしらして、准備ようゐさせよ」、とおふすれば、定包扇さだかねあふざしやくにとり、「御託ごぢやうでは候へども、近年きんねん公務いとしげくて、たみその課役くわやくつかれたり。加旃畑しかのみならずはたうちたねおろしするころなれば、しのびていでさせ給へかし。それがしおん供つかまつれば、よろしくはからひ候ひなん。土民等どみんら畊作こうさくわづらひなく、程經ほどへてこれをしるならば、たれ仁君じんくんといはざるべき。これもまた民を使ふ、一術いちじゆつに候はずや」、と言葉たくみにまうすにぞ、光弘感嘆おほかたならず、「いはるゝ所道理にかなへり。まことに家のおいたるものは、たれもかくこそあるべけれ。さらばこの議にまかせん」とて、列卒せこ從者ともびとの數をはぶきて、那古七郞なこのしちらう天津兵內あまつのひやうないなンどいふ、近習きんじゆ八九のみに、從行ともだて准備ようゐさせ、詰旦あけのあさ光弘は、葦毛あしけの馬にうちのりて、いぬひかし、たかすえさせ、しのびやかにぞいでたりける。

現楊震げにようしん四知しちいましめ、かべにも耳のある世なれば、はやくもこの事をしれるもの、柵左衞門さくさゑもんにぞ報知つげたりける。定包さだかねはこのうつたへに、さわぎたる氣色けしきもなく、俄頃にはか夥兵くみこ召聚よびつどへて、かの朴平無垢三を、搦捕からめとらせんとしたれども、忽地たちまち思ひつくことありて、べちはかりことたりしかば、くだんの事ははじめより、そらしらぬおもゝちして、只從者たゞともひとの數をし、つといで夜行よあるきせず、をさ/\あたふせぐ程に、しゆう長狹介ながさのすけ光弘は、長夜ちやうや淫樂いんらくに、その身を忘れて、日々月々ひゞつきづきやまひを生じ、美酒珍饍びしゆちんぜんあまからず、鄭聲艷曲ていせいえんきよくたのしからねば、不死ふしの藥を蓬莱ほうらいに求め、不老の術を方士はうしとひけん、秦皇漢武しんくわうかんぶの物思ひに異ならず、玉梓たまつさひぎまくらにして、帳中とばりのうちいでざれば、「折こそよけれ」、と定包は、有一日あるひ主君にまうすやう、「時はや夏のはじめにて、野山の新樹わかばもいとめでたく、落羽畷をちばなはて野雝きゞす靑麥村あをむぎむら雲雀ひばり處得ところえがほにすだくなる。閑居たれこめてのみをはしまさば、やまひをまさせ給ひなん。いぬを走らせ、たかはなつも、養生ようぜうのひとつにこそ。それがしおん倶仕ともつかまつらん。おもひたゝせ給はずや」、とそゝのかすかたへより、玉梓これをけうじつゝ、もろ共にすゝめしかば、光弘やをら身を起し、「われとにかくにものくさくて、久しく城外ぜうぐわいいでざりき。今伱達なんたち諫言かんげんは、口にがからぬ良藥りやうやくとおぼゆれば、あす早旦つとめ狩倉かりくらすべきに、まづこのむねふれしらして、准備ようゐさせよ」、とおふすれば、定包扇さだかねあふざしやくにとり、「御託ごぢやうでは候へども、近年きんねん公務いとしげくて、たみその課役くわやくつかれたり。加旃畑しかのみならずはたうちたねおろしするころなれば、しのびていでさせ給へかし。それがしおん供つかまつれば、よろしくはからひ候ひなん。土民等どみんら畊作こうさくわづらひなく、程經ほどへてこれをしるならば、たれ仁君じんくんといはざるべき。これもまた民を使ふ、一術いちじゆつに候はずや」、と言葉たくみにまうすにぞ、光弘感嘆おほかたならず、「いはるゝ所道理にかなへり。まことに家のおいたるものは、たれもかくこそあるべけれ。さらばこの議にまかせん」とて、列卒せこ從者ともびとの數をはぶきて、那古七郞なこのしちらう天津兵內あまつのひやうないなンどいふ、近習きんじゆ八九のみに、從行ともだて准備ようゐさせ、詰旦あけのあさ光弘は、葦毛あしけの馬にうちのりて、いぬひかし、たかすえさせ、しのびやかにぞいでたりける。

卻說かくて山下柵左衞門やましたさくさゑもん定包は、かねはかりし事なれば、前日さきのひ城より退まかるとやがて、落羽靑麥をちはあをむぎ村長等むらおさらを、にはかよびよせ、「われ邂逅たまさか休暇いとまを得たれば、あす如此々々しかじかところいでて、放鷹ほうようせんと思ふ也。みなこのむねをこゝろ得よ」、といとおごそかにいはせにければ、村長等は走りかへりで莊客們ひやくしやうばら驅催かりもよほし、みち掃除そうぢ箒目はゝきめのゆきとゞくまで罵騷のゝしりさわげば、杣木朴平無垢三そまきのぼくへいむくざうは、やうやくこゝに便宜びんぎを得て、「あす必本意かならずほゐとぐべき時きたれり」、とひそかよろこび、兩人りやうにん列卒せこ打紛いでたちつゝ、弓箭手挾ゆみやたばさみ走りいで、その夜丑三ようしみつ比及ころほひより、落羽畷おちばなはて東北うしとらなる、夏草ふかき岡にかくれて、ふりたる松をたてにとり、「定包遲し」、とまちてをり。

短夜みじかよなればはかなくて、鷄鳴曉けいめいあかつきつぐころ長狹介光弘ながさのすけみつひろは、鹿皮しかのかわ行縢むかばきに、綾藺あやいかさふかくして、列卒せこをば馬のさきたゝせ、那古天津の近臣等、八九を左右にして、瀧田の城をいでしかば、山下柵左衞門定包は、かねて非常にそなへんとて、夥兵私卒許多將くみこわかたうあまたいて、彼白馬かのしろうまにうちのりつゝ、些後すこしおくれてうたせたり。もとよりはかることなれば、馬奴等うまかひらさへ荷擔かたらはれて、朝立あさたちかひくさに、毒をくはえかふたりけん、光弘の乘れる馬、ゆくこと十ちやうあまりにして、にはかやみうてども進まず、前足をつ撲地はたせば、ぬしもうつぶしまろびかゝるを、那古七郞、天津兵內、慌忙あはてふため扶起たすけおこして、「おん騎替のりかえをとくひけ」、とこゑ高やかに喚立よびたつれば、從者更ともびとさら劇惑あはてまどひて、ぢんへ如此々々しかしかつげしかば、柵左衞門定包さだかねは、むちあげて走らし來つ、馬よりひらりとをりたちて、光弘にまうすやう、「しのびてかりいでさせ給へば、それまでは准備ようゐせざりし。騎替のりかえまち給はゞ、いたづらに時や移らん。それがしが馬こゝにり。年來としごろ日ごろ畜狎かひならせしに、鞍味くらあぢもいとめでたし。のらせ給へ」、とそがまゝに、くつわつらひきよすれば、光弘忽地氣色たちまちけしきなほりて、たてさせたる床几せうぎをはなち、「らばその意にまかせんず。なんぢはこゝに休やすらひて、豫が騎替のりかえのりよ。ものども急げ」、といひあへず、くらに手を掛跨かけのる馬の、尾筒をつゝそよ旦開あさびらき風見かざみはら卯花うのはなも、東も白くなるまゝに、樹立隙こたちひまなき病葉わくらはの、落羽畷おちはなはてに近つきぬ。

 この日のともにたちたりし、那古天津なこあまつ兩臣りやうしんのみ、山下がかげあほがず、しゆうつかへおほかたならぬ、誠心まごゝろあるものなれば、このとき思ふよしやありけん、先にたちたる列卒せこをしえて、「靑麥村のかたへ」とて、にはかみちをかえんとすれば、光弘これをいぶかりて、「汝等なんぢら何處いづこるぞ。けふの狩場かりば落羽おちばおか也。このごろはいぎたなくて、寐惚ねぼれたる」、と敦圉いきまけば、七郞兵內しちらうひやうない左右より、しのびやかにまうすやう、「君はさとらせ給はずや。乘馬じやうめにはかたふれたる、吉祥よきさが也とはおぼえぬに、落羽おちば落馬らくば音訓よみこゑかよへば、名詮自性甚忌めうせんじせうはなはだいまはし。加以これのみならず室町殿むろまちどの武威撓ぶゐたゆみて、兵亂休ひやうらんやむときなきものから、安房あはは東南の盡處はてなれば、さいはひにして無事ぶじなれども、國に野心のものなしとは、かならずしもいひがたし。るをしのびていでさせ給ふ、これすらいともあやうきに、忌諱ききをもさけず、不祥ふせうにもはゞかり給はず、遠きおもんはかりましまさずは、近きうれひをいかにせん。にはかみちをかえんとせしは、このゆゑに候」、と兩人齊一諫ひとしくいさむれば、光弘きゝ冷笑あざわらひ、「女々めゝしき事をいふものかな。いける物はかならず死す。たふれし馬に何かあらん。されば又、けふの狩場かりばを、落馬らくばばゝいむよしあらめ、落羽おちばおつる鳥なれば、えもの多かるさがならずや。彼方かなたれ」、とあぶみを鳴らし、馬の足掻あがきを早むれば、那古天津はせんすべも、なつ草しげ畷道なはてみちはじめのごとくさきおはして、落葉畷のほとりなる、落葉が岡に來にければ、宵よりこゝにかくれたる、杣木朴平そまきのぼくへい洲崎無垢三すさきのむくざう木立こたちひまよりきつと見て、「白馬しろきうまのりたるは、まがふべうもあらざりける、山下柵左衞門定包也。さは」とてふせたる弓に箭㓨やつがひて、きり/\と彎絞ひきしぼり、矢比やごろ近くなるまゝに、一二を定めて𢐕ひやうはなせば、𫁖違ねらひたがはず一の矢に、光弘は胸を射られて、さけびもあへずのけさまに、馬よりだうおちしかば、「これは」、とおどろく天津兵內、二の矢にのんどをぐさと射られて、おなじまくらにたふれけり。「すは癖者くせものよ」、といふ程に、從者等ずさら劇騷あはてさわぐのみ、敵の多少をはかりかねて、うちとらんともせざりしかば、那古なこの七郞まなこいからし、「いふがひなき人々かな。今眼前まのあたりしゆううたして、何か躊躇たゆたふことあらん。よしや木立こだちは深くとも、數町すちやうに足らぬこの岡の、きり草を芟竭かりつくしても、搜出さがしいださでやむべき」、とのゝしりあへず刀をぬきて、しゆうに離れし馬の障泥あふりを、きりときてたてとしつ、引被ひきかつぎて走登はせのぽれば、衆皆みなみなこれにはげまされ、あたさだかに認めねども、「われうちとらん」と進みけり。朴平無垢三これを見て、近づけてはかなはじとて、樹立こだちかげよりあらはいで、さん/\に射たりしかば、先に進みし列卒せこ十餘人、瞬閒またゝくひま射殺いころさる。しかれども彼兩人かのりやうにんは、矢種やたねもこゝにつきしかば、弓を戞哩からり投棄なげすてて、大刀眞額たちまつかふ拔翳ぬきかざし、かさかゝつ砍立きりたつれば、この勢ひに辟易へきゑきして、奴隸しもべは大かた迯失にげうせたり。殘るは近臣七八人、力をあはして戰へども、不知案內ふちあんない山阪やまさかなり、くひぜつまつき、藤蔓ふぢかつらに、足をとられて、輾轉ふしまろびあるひうたれ、あるひは又、おはざるはなかりけり。

 そがなかに、那古七郞は、しばらぞく疲勞つからして、坦地ひらち誑引出おびきいださんとて、かつ戰ひ、かつ走れば、無垢三は先に進み、朴平はあとつゞきて、のがさじ、と追蒐來おつかけきつ、思はず坂をくだりしかば、七郞きっと見かへりて、忽地磤たちまちはた打掛うちかくる、つぶてに無垢三ひたゐやぶられ、目眩めくるめきてや倰搖よろめくところを、那古は雌手めてよりはせよせて、無垢三がかたさきより、の上かけてちやうる。られてたふるゝそびらの上に、のぼしかゝつて頸掻落くびかきおとし、たちあがらんとする程に、朴平は血刀引提ちかたなひさげて、飛鳥ひちやうの如く走り來つ、七郞が右のかひなを、ばらりずんと斬落きりおとし、ひるむ處を突倒ところつきたふして、再三ふたゝびみたびやいばに、流れ下垂したゝる血をすふて、しばし咽喉のんどうるほをり前面むかひ樹蔭こかげ弦音つるおとして、たれとはしらず發矢はなつやに、朴平はもゝを射さして、倒れんとして、ひざ突留つきとめ矢柄やがらを爴つかん拔捐ぬきすつれば、耳を貫くときの聲、こだまどつひゞかして、捕手とりて兵數つはものす十人じうにん、はや犇々ひしひし取卷とりまいたり。

當下そのとぎ山下柵左衞門は、おひ、弓をわきはさみて、岡のひのきに馬をはせよせ、「國の爲には數代すだいしゆう、民の爲には父母ふぼなる殿を、そこなひ奉りし逆賊等ぎやくぞくら、山下定包をみしらずや。目今一箭たゞいまひとやに射て殺さんは、くろかねつちをもて、鷄卵かひこを碎くよりやすけれども、灸所きうしよよけしはいきながら、からめとらせんと思へばなり。彼縛あれいましめよ」、とげちすれば、威風いふうなび夥兵くみこ大勢たいせい手捕てとりにせんとひしめいたり。朴平は「定包さだかね」と、名吿なのるをきゝ仰天げうてんし、「原來さてはわがに射ておとせしは、人啖馬ひとくひうまにあらざりけり。はかりしことは飛鳥とぶとりの、いすかはし齟齬くひちがひて、國主こくしゆを害し奉れば、反逆はんぎやくの罪のがるゝみちなし。うらみつもる山下定包、擇擊えらみうちにすべけれ」とて、甲高こたかきところに引退ひきしりぞき、草にふし、木をくゞり、是首ここあらはれ、彼首かしこに隱れて、しぱらく防ぎ戰ふものから、矢傷やきずに進退はじめに似ず、れどもつけども大勢たいせい也。捕手とりてはます/\かさなりて、とかくすれども定包に人近づくことを得ざりしかば、これまで也とや思ひけん、腹を切らんとする處を、先に進みし兩三人、左右より組留くみとめて、やうやくなはをかけしかば、定包は時を移さず、更に夥兵くみこを部てわけして、癖者くせもの支黨どうるいを、くまなく撈索さぐりもとめにけれど、もとよりくだん二人ふたりほかに、かくしのぺるものなかりけり。

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