◎野にすみれが自由に咲くときである ー九三七年三月五日
一日一日、野も山も、草も本も、その装おいを変えている。
何人がこれを止めうるか。止めえようもない静かなカが、物の秩序の中にみずからを押し進めている。
星の移りに驚きの眼を睜り、四季の変りに怖れを抱いた原始人の畏敬は、物の秩序の動かすベ からざる厳しさに端的に向かった心持ちである。
人間は、生きるという大きな不思議を、この物の秩序の中に読み取ろうとしたのである。物の秩序の上に、生きる秩序を築こうとしたのである。自分の秩序を、あるいは謬り、その謬りをはずみとして、新しい真実の中に、みずからを押しあげ、試み、切り展いてゆく新たな行動としての秩序を創造しているのである。一本の堇が星よりも強いのは、それが野に生えてくる秩序をみずからで創っているからである。
それが生きていることの誇りであり、尊厳である。
しかし、人間は今、人間の秩序を放棄している。
弾丸の弾道の秩序の精密な研究は、人間の智力の究めたところである。しかし、その弾丸の落ちてゆく目的地は、砕け去る相手は、人間と、人間が永く築いた、人間の秩序である。すべての秩序が何物かの奴隸となっている。花に対して、星に対して、弾道の秩序に対してさえも、恥しいのは人間である。
ロマン・ローランは、ー九一四年、十二月四日、フランスに書き送った。「私はもはやフランスの知識階級を誇りとしない。思想界の指導者たちがいたるところで衆愚に降伏していったあの信ずべからざるほどの弱さは、彼らが背骨を有しないものであることを十分に証明した。……」
そして、彼らを弱くする、魂に抱く、イドラを粉砕するものは誰か?
ローランは答える「野に生ゆる自由の菫」であると。
日本に生くる幾人の人が、今、この春の光の中に生まれ出ずる自由な菫に、恥じずにいられるだろうか。