こんなご時世だから(62)


 午前中、新婦人の主催で「広島の高校生が描いた原爆の絵展」があったので、市立公民館へ足を運んだ。
 広島では、亡母の従兄弟が、広島文理大学に在学中で、被爆し、亡くなった。小さい頃、母からその想い出を聞かされたことが、かすかに覚えている。
 原爆の記憶も薄れてゆく現在、その体験を高校生に伝えた被爆体験者や後の世に繋ぎ止めようとの思いで、人々の心を揺すぶるように絵筆をとった広島の高校生に大いに敬意を表したい。

画像は、その絵画展のビラより。

後退りの記(015)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎堀田善衛「城舘の人」
関根秀雄訳「モンテーニュ随想録」

前回は、アンリ四世とモンテーニュとの邂逅について触れたが、「アンリ四世の青春」訳者あとがきによれば、特に「サン・バルテルミの虐殺」以前のそれは、作者ハインリヒ・マン特有の、フィクション上の創作だそうだ。それにしても、よくできた創作であり、作品に奥深い味わいをもたらしている。彼らの実際の出会いは、モンテーニュの晩年になってかららしいが、その時二人は「十年来の知己を得た」思いだったに違いない。
ここでは、少し遡って、モンテーニュをめぐって「虐殺」前後までの歩みを振り返ってみる。

まず、堀田善衛は、モンテーニュは、「エセー」の中では。「虐殺」のことは一言も触れていない、と云う。ところが、「エセー」は、1572年、虐殺の年に第一稿が作られている。この事で、彼のスタンス、彼が語らないことで、おのずと語っていることが感じられるのは、当方だけであろうか?よくモンテーニュは「折衷主義」「現状肯定の保守派」とも評されるが、この「頑なさ」は、そうした評判とは相容れないことは確かであろう。

少し長くなるが、遡ること彼の勉学時代に、少し年上で無二の親友だったラ・ボエジーの言葉から…

「実際、すべての国々で、すべてのひとびとによって毎日なされていることは、ひとりの人間が十万ものひとびとを虐待し、彼等からその自由を奪っているということなのだ。これをもし目のあたりに見るのでなく、ただ語られるのを耳にするだけだったならば、誰がそれを信じようか。(中略)しかし、このただひとりの圧制者に対しては、それと戦う必要もなく、それを亡ぼす必要もない。その国が彼に対する隷従に同意しないだけで彼は自ら亡びるのだ。(中略)それ故、自分を食いものにされるにまかせ、またはむしろそうさせているのは民衆自身ということになる。隷従することをやめれば彼等はすぐそのような状態から解放されるのだろうから。民衆こそ自らを隷従させ、自らの咽喉をたち切り、奴隷であるか自由であるかの選択を行なってその自主独立を投げすて軛をつけ、自らに及ぶ害悪に同意を与え、またはむしろそれを追い求めているのだ。」

「あわれ悲惨なひとびとよ、分別のない民衆たちよ、自分たちの災厄を固執し、幸福に盲目である国民たちよ。諸君は諸君の面前でその収入のうち最も立派で明白な部分が、諸君から奪い去られてゆくままに放置している。(中略)そしてすべてのそのような損害、不幸、破壊は、数々の敵からではなくて、まさにひとりの敵、諸君が、それが今あるように大きく今あるように大きくしてしまっているその人間から来ているのだ。その人間のために諸君はあれほど勇敢に戦争に出かけて行き、その人間を偉大にするために、諸君は自分の身を死にさらすことを少しも拒まない。しかし、諸君をそれほどに支配しているその人間は、二つしか眼を持たず、二つしか手を持たず、一つしか身体を持たず、諸君の住む多数無数の都市の最もつまらない人間の持っているもの以外は持っていない。ただあるものは、諸君が自分たちを破壊するために、彼に与えている有利な地歩だけなのだ。」
「諸君は子供たちを養うが、それは彼が彼等に対してなし得る最良のこととして、彼等を自分の戦争へと連れ出し、殺戮の中へ送り込み、自分の貪慾の執行者、自分の復讐の実行者とするためなのだ。」
「獣すらも全然了解できないか、耐えられないほどの、かくも多くの卑劣な行為から、もし諸君がそう試みるならば諸君は脱出出来るのだ。それもそれから脱出しようと試みるのではなく、ただそうしようと望むだけでよい。もはや隷従するまいと決心したまえ。そうすればそれで諸君は自由なのだ。私は、諸君が彼を押したり揺らせたりするようにすればよいと言いたいのではない。ただ彼をもはや支えないようにしたまえ。そうすれば彼は、基礎をとりのけてしまった大きな巨大な人像のように、それ自身の重みによって崩れ、倒れ、砕けるのが見られるであろう。」

ラ・ボエジーは、むしろカソリックに近い立場を堅持した。その彼をして、こうしたプロテスト(抗議)を上げせしめたのは、フランス宗教戦争の悲惨さを前にして、止むに止まれぬ思いからであろう。再三に渡って述べるが、21世紀の現在の実状を訴えているわけではないが、自ずと重なって響くのは、悲しい現実だろう。

「虐殺」前は、カソリックとプロテスタントに政治的党派としてほぼ明確に別れていたが、その後はその色分けは、単純化されるどころか、政治的打算も重なって、プロテスタントめいたカソリック、またはその逆といったように混沌とも言える状況になってきた。モンテーニュは、心に期するものがあってか、シャルル九世、アンリ三世を中心とした王統派に近づきはするが、その親好は、プロテスタント寄りの知識人と結んでいた。そんな中で、アンリ四世との関わりはどうなっていくだろうか?次回は、1572年~1592年くらいの時期に触れたい。日本史で言えば、信長の台頭から、秀吉の朝鮮侵略くらいにあたる。

どうする、信長・秀吉・家康、どうする、三人のアンリたち、そしてモンテーニュ!

こんなご時世だから(59)

ピーター・ブルック先生曰く
「私は唯一の真実というものを信じたことがない。ある時ある場合にだけ有用である、と信じている。時は移り、私たちは変わり、世界は変化する。それにつれて、目標が変わり、視点も変わる。もちろん、ある視点を生かすためには、それを全面的に信じ、貫徹しなければならない。とはいえ、生真面目になりすぎてもいけない。「死守せよ、だが、軽やかに手放せ」」
写真はピーター・ブルック氏

今の御時世だから(37)


ほくせつ医療生協機関紙での木村久夫さんの話の続き(2015年9月号)・前号に対しての当方の感想も掲載されていた。
「お便りコーナー」テキスト
 8月号「ほくせつの歴史散歩」で取り上げられた木村久夫さんは私の豊中高校 (当時は中学)の先輩にあたります。一時は、金沢第四高等学校志望とありま すから、実現していたら二重の意味で先輩です。
 昨年、東京新聞などで「きけわだつみのこえ」に収録分以外にもう一通別の遺書があったと報じられました。そこにはさらに鋭い当時の軍部批判 が書かれていました。
「彼(軍人)が常々大言壮語して止まなかった忠義、犠牲的精神、其の他の美学 麗句も、身に装ふ着物以外の何者でもなく、終戦に依り着物を取り除かれた彼等の肌は実に耐え得ないものであった。此の軍人を代表するものとして東條前首 相があ る。更に彼の 終戦に於て自殺(未遂)は何たる事か。無責任なる事甚だ しい。之が日本軍人の凡てであるのだ。」
 歴史に仮定が許されるはずはありません。でもその歴史的事実を起こした原因の深い洞察と、現在の私たちに課せられた課題に真剣に向き合うこ とが木村久夫さんが遺したものだと思えてなりません。「戦争法案」の帰趨が危惧される昨今、もう一度そのことを噛みしめてみたいと思います。

こんな御時世だから(22)


大学の同窓生・山田裕一先生曰く
「命粗末に扱う法案許すな」「戦争法案」今言わなければ
「一般に学会等では、政治的に争点になっていることに口を出さないという『政治的中立』の風潮が根強くあります。しかし人の命を扱う法案を医学者、医師として許していいのか、という問題だと考えています。
赤旗2015年8月9日づけより

日本人と漢詩(番外編2)ーこんなご時世だから(11)

◎海音寺潮五郎と詩経


海音寺潮五郎先生曰く
詩経邶風 擊鼓
擊鼓其鏜、踊躍用兵。
土國城漕、我獨南行。
從孫子仲、平陳與宋。
不我以歸、憂心有忡。
爰居爰處、爰喪其馬。
于以求之、于林之下。
死生契闊、與子成說。
執子之手、與子偕老。
于嗟闊兮、不我活兮。
于嗟洵兮、不我信兮。
兵のうたえる
どろろん どろろん
太鼓がひびく
訓練ぢやア、訓練ぢやア
いくさするちゆて
國中(くにぢゆう)支度
皆かり出されて城ぶしん
都ぢや壁つき、在郷(ざいご)ぢや砦
おいらひとりは兵士に召され
南の國にしよぴかれる
將軍さんは孫子仲
陳と宋とを仲よくさせて
その勢(せい)合わせて、鄭征伐ぢやとよ
いつもどさるることぢややら
だんまりべえで言うてはくれぬ
兵隊どもの心配は
少しも上にはひびかぬわ
傷つき、病(いた)づき、兵隊共は
あちらこちらでころころ死んだ
賴る黑馬(あを)さえどこぞへ逃げた
おらもやんがて死ぬであろ
おらがむくろをさがすなら
どこぞ林の草の下
女房よ、女房
昔お前と約束したな
死のが、生きよが、會ほが、別りよが
心がはりはしまいぞと
おらはお前の手をにぎり
老いの末まで添ひとげようと
かたい約束、おぼえてゐよう
この身になっては、その約束も
はかなく消えてしまうたわ
今は夫婦といふも名ばかり
こげいに遠くひきはなされた
何しに歸つて添ひとげられよ
ほんによほんに
あれほどかたい約束が
あだとなつたがかなしやな
海音寺潮五郎訳
ちなみに偕老は、かいろうどうけつ【偕老同穴】 の元になった言葉( http://dictionary.goo.ne.jp/leaf/jn2/37270/m0u/ )