◎爽やかな合理のこころをもちつづけて 一九三七年十月五日
日本民族が自他ともに許している尊ぶべき性格は、日く「清明」の特徴である。サッパリしていて、爽やかで、透きとおっていて、合理的である。人間の誰でもが愛し親しんでいるところのものである。
日本の固有な道具、工芸、建築、芸術等のすべてにわたって、それは隙間もなくしみ込んでいるものである。
この調子のないものは、日本人にとっては異国的な、奇異に感せしめるものをもっている。たとえ、かかるいろいろの民族のものが入っても、日木人は、それを日本人らしく観照し、そして次にはそれを日本人らしくつくり替え、自分のものにしてきたのである。
かかる意味で常に日本人は自主的であって、その爽やかな合理性を手離すことをできるだけ拒んできたのである。それが日本民族の辿ってきた道である。
今や事変の勃発とともに、民族のこころは沸腾している。かかる混沌の中では、とかく清く明かなる合理の心が曇らされる危険がないではない。日本人は日本の誇りを他の民族の前に失わないことを示すために、これを守りつづけなければならない。外国でおこなわれているやり方をまねする場合にも、日本民族にふさわしく見守らなければならない。
またこれは極端な場合であるが、戦時を利用する詐欺漢が徴別をごまかしたり、飲企店をだましたりしているが、かかるものこそ日本人の面よごしである。かかる行為を厳重に監視しなければならない。またかかる行為に似た現象は、社会のあらゆる偶々から駆逐しっくさなければならない。「この場合に」といった気持ちのゆるさを撲滅しなければならない。学校騒動の紛乱においても、かかる気持のまじっている行動があれば、日本の民族的誇りの上において断乎として許されず、爽やかな明らかなるこころに似もつかめ気持ちである。
沸騰がより激しく、昂奮がより高まるにつれて日本人が誇りをもって心すべきは、この清く明らかな合理的な静けさの限界においてみずからを喰いとむベぎことである。
正義をして真の正義たらしめるために、日本民族は大いなる課題を、今ほど、全世界より課せられているときはない。
それは全世界注視の中に、私たちがみんなで背負っている課題ではないか。
[編者注」前回の「巻頭言」同様、一九三七年七月のそれに比して、明らかに自主規制=書かされているといった文章と感じざるを得ない。ほんの数ヶ月で、世のムードが変わってしまった、というのは教訓的である。まわりが理不尽な雰囲気のなかで、かろうじて使った「合理」の字句が痛々しく感じられる。