中井正一「土曜日」巻頭言(06)

◎ポーズに気づいた瞬間に行動は空虚になる ー九三六年九月十九日

 みっちりしたボー卜の練習をしているとき、漕いでいる者がフト岸を気にし出したとき、敏感な舵手にはそれがわかるものである。
 自分のフォームを人が見ていると思い、また見せようと思った瞬間、一本一本水に切り込んでいる櫂先から、スーッと力がさめるように消えてゆくものである。
見てくれ<傍点>のこころ、これでどうだのこころ、こうしているんだよ、のよの字<傍点>。それは切っても切っても流れる水のように、こころの底に溢みくる湿気である。
見てくれ<傍点>のこころはそれがどんなにかすかであっても、マネキン人形のもつ硬さをもっている。それは単なるポーズである。行動はこわばり、止まり、やがて他のものに転換してゆく。とんでもないものに移りゆく。
 このベルトに一端を喰われたら、どんなにもがいても、あせっても、あばれても、それはユックリその道を辿って、マネキンがそうであるように、喰い込まれ、きざまれて、売り物になってゆく。レッテルの貼られた何物かが、その腕から下げられる。
この見てくれの自分のポーズの下をかい潜って、身を翻して、行動みずからの真実の中に拶入することは、チョトやソットの困難ではない。
 自分が未だつかんでいない真実を主張して議論が前のめりになっているとき、周囲の見透しのないのに、見ろ<傍点>と身構えて見るとき、いつもポーズは変装して、こころの底で道化ている。
 ポーズはそれが悪意であるときよりも善意であるときにしのび込んでくる悪戯者である。何故なら賞められる<傍点>ということの中に糜爛剤を落してゆく奴なんだから。
 そしてポーズをなくするということにこだわれば、またニヒリズムのポーズとして、彼はくっついてくるのである。それは人間を行動より奪い取る一つの思想の真空である。
 見ること<傍点>にだけ終始するものは、この見られる<傍点>ことを、気にすることは永遠に断ち切ることができない。嬰児のごとく、卒直に欠乏に泣き欠乏に手をさしのべる行動<傍点>こそが、はじめて嬰児のごとく自然の前に險を閉じ、自然をも万人をもまた彼の前に無限の愛をもって眼を閉じしむるのである。
 われわれの機構の中に何が欠乏しているか、それに卒直に手をさしのばすことは、ポーズに手渡すには余りに厳かな必要である。
『土曜日』はあらゆるポーズを脱るる半日である。

編者注】
 写真は、「土曜日」第34号(昭和12年・1937年6月5日号)に掲載された、淀川長治氏の投稿。この号はさしずめ、映画「失われた地平線」(Wikipedia)特集号のようだ。反ファシズムの「牙城」ともいうべき「土曜日」は、このように多彩な執筆陣を備えていた。淀川長治氏なども、その気骨ある一人である。

 画像の二次利用はご遠慮ください、

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