亡母は、映画と宝塚歌劇が大好きだった。映画は、たいてい昼間割引を利用し、小学生にもならない私はタダだった。堀辰雄原作の「風立ちぬ」だったか、主人公が恋人と再会するシーンで、幼い私が思わず「よかったなあ!」と呟いたら、まわりから拍手が起こったと、のちに母は語ってくれた。そんな母の戦中から戦後にかけての映画をめぐる記事が30年前に、ある雑誌に掲載された。今回は、読みやすいように最小限の修正加え紹介する。
昭和二十年八月日本が悲しい敗戦の結末を迎えてより半世紀の歳月が過ぎ去りました。五十年の年月(としつき)は当時見た映画もはっきり記憶に残っていない位昔のことになりました。
ほんの一握りの人に国民が踊らされ負けているいくさも勝った大勝利と騙され続けていたその時代の映画(活動です)はその人達に都合良く作られたものばかりで私達市民は日本が最后には必ず勝利し「八紘一宇」の旗印を相言葉に世界平和が訪れると思いこまされて戦争映画をたのしんでました。
劇映画の始まる前に短いニュース映画が写されて北方・南方の各地で争う日本の兵隊さんの格好良いのを見て喜びました。むごたらしい場面は決して出て参りませんですから、日本は本当に強いと信じてました。獅子文六(本名岩田豊雄で執筆)原作「海軍」の映画は亡き山内明のりゝしき軍人姿は印象にあります。私も夢多き乙女のその頃は町で軍人さん特に真白な軍服姿の海軍将校には憧れの思いで胸ときめかしたものです。
人間魚雷の潜水艦に乗りハワイ真珠湾で散華された軍人の物語りでしたが、お国の為と日本の勝利を信じ北の地・南の海で帰らぬ人となられた沢山の犠牲者の為にも、どんな理由があるにしても争ふことは決して許されぬことですね。
敗戦を界に今まで押さえつけられてたすべての締付けが取り除かれ誰もが気兼なく喋れ集れる良い時代になり映画も当然、戦中の憎き米・英、うちてし止まんばかりを云わされ続けてたのもすっかり消え、洋画も見られる様になりました。戦後すぐは肩のこらないハッピーエンドで終る映画が多く、洋画はその昔評判の良かったのがリバイバル上映されました。映画ぐらいしかたのしみがなかった当時はどの劇場も満員で緩くり席に腰かけて見るのがむつかしく立ち見が多かったです。肉親の復員して来るのを待ち、充分でなかった食べ物、ほとんどの人が貧しく辛抱する生活に我慢して暮らしていましたので、せめてたのしい夢を映画に求め日頃の苦労を忘れようとしたのでしょう。
二十四年に私も結婚して始めて主人と見た映画はアメリカの作品「哀愁」でした。ロバート・テーラー、ビビアンリーの巡り会った二人が戦争の為に別れ別れになり其の後ヒロインが事故で亡くなるストーリーでした。戦場に行く彼と「ホタルの光」の曲でダンスを踊ったシーンははっきりと憶えています。素晴しいと感動しました。
我が国日本の兵隊さんも明日は出征と云ふ時は決っと同じ想いでいくさに行かれたのでしょう。繰り返しますが絶対に再びこのような光景があってはいけないことです。余談ですが、その年の十一月に誕生した長男は胎内におりましたから親子三人で見たことになります。
子育てに数年映画に遠のき、次に見たのが亦アメリカの映画「風と共に去りぬ」で鮮やかなカラー、テーマ音楽「タラのテーマ」が流れ、スケールの大きな映画で三時間余りうっとりと見とれました。香港まで届き戦争の為にやっと日本には戦後入って来たとかで戦のさ中にこんな映画が作れるアメリカにたゝかいを挑んだ日本が敗れるのは残念ながら当前かもしれませんね。
愛する人に去られ子供そしてすべての何もかもを無くしたラスト、スカーレットが「私にはこの大地がある」と絶唱し土を握りしめたクライマックスシーンには平和を祈り叫んだのだろうと私は思いました。此の映画はそれから二回も見る機会があり亦感激を新にしました。亦今回息子よりビデオがプレゼントされ近所の奥さん達と鑑賞会を予定しています。
同じアメリカ人がお互いの主義・主張の違いから、南軍・北軍に別れ戦ふなどは無駄な残酷なことで、引張り出された兵士達はきっと平和に家族と幸せに暮すのを望んだでしょう。勝った北軍はまだ救われますが、敗れた南軍の兵士は哀れでした。まぶしい太陽をさえぎり、降る雨をよけるのに屋根もない原ぱに無数の重傷を負って倒れ、すでにこと切れた兵隊さんの写る一シーンがありましたが、いつの戦争にもあったことでしょう。惨らしいことです。犠牲になられた兵隊さん達の御冥福をお祈りします。
二〇年代の映画と戦争の話を書く様、御依頼を受けましたが、何分生まれて初めての経験でおはずかしい文章でお許し下さい。
いつの世までも戦争のない世の中であることを念じています。