◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(013)
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付録・唯物論史
まえがき
唯物論はひとつの世界観であるが、この世界観はつねに敵をもっていた思想であった。このことをまず知っておくことが必要である。どんな世界観思想だってもちろん反対論をともなわないものはない。その思想がはっきりしていればいるだけ、反対論がともなうのは当然のことである。しかし、単なる反対者でなくて必ず敵をもつということは、唯物論思想の特質であり、この思想の運命である。
唯物論史は周知のように古代ギリシアのレウキポスやデモクリトスからはじめられるが、すでにこれらの思想家たちからが、敵としてはとりあつかわれなかったにしろ、プラトンやアリストテレスからよく言われず、少くとも世界観のうえで味方とは考えられていなかったことは、アリストテレスの書いているものからしても、明らかである。ヨーロッパでは唯物論の思想を人々のうちに滲透させた人としてルクレティウスはすぐれた思想家であるが、ほぼ二〇〇〇年もの長いあいだ彼の著述(『ものの本性について』)が避けられていたようであるのも、じつは宗教の信仰にたよる人々や眼に見えぬイデーのみ貴ぼうとした観念論者たちのなかに、黙っている小さな無数の敵がいたのだとおもう。近世になると唯物論の敵の例は多い。敵が多いだけでなく、判然と必ず敵を呼び出す思想として、唯物論は出てきているのである。
誰もコペルニクスやガリレオを唯物論者だとレッテルを貼りはしないが、しかし何としても聖書のなかの造物者としての神を否定してしまった点では、これらの自然科学者たちは近世の唯物論的世界観への道をひらいた第一人者だといわねばならない。コペルニクスやガリレオが不倶戴天の敵を宗教裁判所を代表とする信仰者たちのなかに呼びおこしたのは、じつに近世の自然科学的世界観のなかにある無神論的唯物論だったのでなくてはならない。一八世紀のフランスの唯物論者たち、ラマルク、エルヴェシウス、ジャン・メリエなどとなると、生涯敵をもちつづけたのであった。一九世紀から二〇世紀のマルクス、エンゲルス、レーニンとつぎつぎあげてくれば、もう唯物論はつねに敵があることによってひとつの体系ある思想組織となった世界観であったことがあきらかである。さて私たちは今やそのような唯物論的世界観の支持者を「近代日本をつくった人々」のなかに置いて考察しようとしているのである。
「近代日本」とはいったい何だろう。それはいうまでもなく、近代的性格をそなえるようになった時代の日本のことでなくてはならない。近代的性格とは、人間が自分自身を見出し(ルネサンス)、神を否定し(一八世紀)、産業の仕方を機械化し(一九世紀)、世界観を自然科学的思想のうえに築いてしまった時代(二〇世紀)がもっている性格のことでなくてはならない。してみると、近代日本とは、かつて「神国」と呼ばれ通してきた日本が右のような近代化を実現するに至った日本のことだということになる。日本は近代化という至難のことをとにかく一世紀たらずの間になしとげたのである。日本がかように近代化されてしまったことが、日本人の生活を幸福にしたと無条件にいえるかどうか、それについてはいろいろな意見があることでもあろう。しかし上述の意見で日本が近代化していることは、どうしようもない事実である。
民族国家の近代化の困難は、日本だけではない。ソヴィエトも中国もそれぞれこの困難を背負った。そしてその困難さにはそれぞれ特徴があった。日本の場合、そのむつかしさの特徴はどういう点にあったのであろうか。
いずれは近代化とは生活の合理化ということで言いかえられるものである。合理化において日本人はどういう特質を示したか。日本人は生活の合理化を個々の人間のうちの知恵において処理したが、その知識の客観的な組織(科学および科学的技術)において処理しなかった。このことへの着眼は日本文化を理解するにとって大切な鍵であると私はおもう。もし、日本人が前者をすら欠いでいたら、今日日本は世界の最劣等の民族国家であったろう。
生活の合理化が正規にすすんだ例は西欧の諸国であるが、そこでは組織だった産業が先頭に、技術と科学がこれにつき、純粋な科学がこれにともない、哲学はこれらの全線に併行した。これをぜんたい的にいうと、客観的組織化が特徴だった。日本に欠けていたものはこれだった。
つまり、サイエンスとテクノロジーとが欠けていたことである。学問と実践の両方において組織性がなかったこの国において、もっとも困難なるものは以上いったような意味での組織的な客観的な世界観の欠如である。
日本の唯吻論はこうした世界観の弱さのなかに形成されねばならぬものだった。荒野の地に花が咲こうとしたが、この花はつねに摘みとられようとされた花だったわけだ。私たちは福沢諭吉のような近代的思想家によってこの荒れた土地がややいっぱん的に耕地化されていったことはみとめるが、唯物論の播種とまではいかなかった。むしろ日本人の生活の合理化をもっとも具体的に尖鋭に押しすすめようとした森有礼のような思想家によって、唯物論はようやく根を下しはじめたといいたい。あとでのべるように、森には合理化を鮮明に強力に押し出した啓蒙家の面があったから。
日本の近代化をそれぞれの文化部門でひきうけた思想家実践家たちのなかで、唯物論者たちはどういう課題をどういうように解いていったか。この問題に若干の考察を加えることが、この論文の狙いである。さて、そうしたとき唯物論者とはどの範囲までの合理的な近代的思想家を指すのであるか。このことをヨーロッパにおいてその実例のもっとも判然とみられるような型に分けて考えることをしないで、日本の近代化の実情についてその型をいちおうさだめて、叙述してみたいとおもう。
生活の合理化へと日本人の思想を導いた人々を唯物論への道を準備した人たちとして、これを啓蒙家または哲学思想家のなかから見出すことがまず最初に試みられる。これらの人々は当然明治の初期または中期に属する。第二に、合理化の思想をとくに具体的に鮮明に押しすすめた人々を唯物論への道を拓いた人たちとして、政治家または専門の学者のなかから見出すことがなされる。この型の人々も、どちらかというと明治時代に属する。第三は、唯物論という世界観をとくに意識しこれを志向した思想家ではないという点では、第一第二と共通する。しかし、第三では、唯物論思想をすでに意識していて、これと併行して別箇の世界観をもってとおした人々について考察する。第四では、唯物論という世界観を日本人の間に実現させようと努力した人々を、考察する。第五には更に、唯物論の一九世紀後半、二〇世紀の前半における発展の実情からみて、歴史的唯物論という新観念のもとで新しい世界観を樹立しようとした人々を評論してみることである私は右のように五つの型をつくってみて、これでこの人物評論を主とする近代日本の唯物論小史をまとめてみたいとおもう。その五つはA・B・C・D・Eに分けることにしたい。なお読者が私の『日本の唯物論者』を参照されることを望みたい。
Aの型に属する
一 ふくざわ・ゆきち(福沢諭吉)
《今日、私たちの生活の門の横木には、『福沢を知らざる者は此の処に入るを許さず』という標語がかかっている》この言い方は、むかしプラトンのアカデメイアの入口に書かれてあった「幾何学を学ばざるものは入るべからず」という標語にかたどって言われたものであることはいうまでもないが、そのことよりもこうした福沢評価が大正時代にあって啓蒙思想家として活動した田中王堂によって語られたことが、私たちには大きな関心となるのである。田中の言い方を誇張しすぎるという批評もあるかも知れないが、しかし必ずしもそうではなくて、案外にこれは福沢評価として的中しているのではなかるまいかと、私は考えたい。
王堂は学問の入口だとも思想の入口だともいっているのではなくて、私たち日本人の「生活の門に」といっているのであるが、それでしかも、福沢がたとえば『文明論之概略』(明治七年)を書いてから半世紀ちかく過きてもまだあのような評価が日本人の生活の仕方についてせられているのである。しかも、ここにいう半世紀は日本人が近代的性格を具えるようになった時期のうちのもっとも基本的な期間に属すのではないか。まことに福沢は日本人が封建的な習俗からぜんじ脱皮して近代的性格をおびるようになった出発点に立ち、しかも誰よりも幅広くこの不可避の課題を解くことに当った人である。
福沢の啓蒙活動はじつに広かった。西洋事情の紹介、産業技術の知識の普及、世界の政治事情の新知識の伝達、経済論ことに通貨の問題や外交の問題についての啓蒙、さらに婦人論や学問論など日本人の近代化への必要条件にかかわることの全面にわたっていた。このような多方面の活動のなかでも、彼を日本の啓蒙思想史のなかの光輝ある位置に置かせるものは、日本文明の本質の究明であったのだと私は見たい。その本質究明の仕方において福沢のやり方ははなはだ近代的な性格なものだったことに私は注目したい。
福沢の卓見はつぎのような点にめだっている。―――日本の歴史のなかには個々の人間はいなかったのだ。日本国には政府はあったが国民はいなかったのだ。日本史は日本の国の歴史ですらなかったのだ。ただ日本政府の歴史だったにすぎない。ひとり政治的な点だけではない、宗教だってそうなので、日本には宗教はなかった。あったのは「本山」だけだった。―――彼はこのように日本人の歴史を見てとった。そのような着眼力のあった彼は、ひとつの国はこれを形成するひとりひとりの人間があってはじめて存在するのだと洞察してとり、さらに彼はそのひとりひとりを「元素」または「分子」というように把えようとした。これは旧日本文化にとって思想の革命のまさに基線である。
むかしから日本人のイデオロギーのなかでは、個々の人間は息づいていなかったも同じだったが、ほんとうに歴史的事実からいえば個々の人間が生き、働いていたのだ。だから、福沢はこう観察した。現在(というのは福沢が『文明論之概略』をかいていたとき)日本人はじっさいに幾千万人か居ることだろう。けれどもその一人一人が「箱の中にとざ閉されて」いる。一人一人の間に幾干万個の壁があって孤立している。これは人間の独立ではない。なぜかというと、日本人には個々それぞれの人において「一個人の気象」がないではないか。彼はそのように言っている。「一個人の気象」とは個性のことをいっているのであって、人間としての自覚をもっていないことの強い指摘である。福沢がかく言うことは、じつは日本人の間に社会性のないことを鋭く突いてみせたわけだ。
私が近代的な合理性といったものの思想的な基礎はじつにこの社会性にあるのでなければならぬ。福沢の日本イデオロギー批判の正当さは社会性のまったく欠けているところをえぐって見せた点にある。私はそういう意味で彼の著述『文明論之概略』を高く評価したい。明治時代に書かれた日本イデオロギーへの批判の最高の労作である。私はこれ以上を福沢について評論することをやめて、後の人々の評論に紙数を残した方がよかろうとおもう。福沢の生涯および労作については、筆者たちの編『日本哲学思想全書』の第四巻「啓蒙篇」の「日本文明の由来」(これは前記『文明論之概略』のなかの一章にあたる)の解説を参照してもらいたい。
Bの型に属する
二 もり・ゆうれい(森有礼)
福沢諭吉がなしとげた幅の広い啓蒙の役割をもっと狭め、しかし、はるかに尖鋭に実行したのが、じつに森有礼である。福沢は一でのべたように、日本的イデオロギーのぜんたいに対する批判を当時において他に類例なくいちおうやりとげた。しかし、しょせん批判であって、日本イデオロギーから生じくるあらゆる反近代的性格を、彼のことばでいえば日本文明の「病の容体」を指摘し、摘発したのであって、病を根治するための外科手術に手をつけたのではない。福沢は病の療法は「現に政治家の仕事」だから、それには自分は触れないといっていた。日本の明治維新の政治的変化は変革とはいわれているが、じつは政権の形式的な移譲があっただけで、じっさいの変革は小きざみにして、これから後三〇年くらいの間に散りまかれたにすきない。森有礼はこの変革の具体的な実践をひきうけた人たちの一人だった。
福沢の日本イデオロギー批判はそのなかに日本の宗教批判を含んでいることにその卓越性を示しているのであるが、森は福沢のイデオロギー批判のイデオロギー性から一歩前進して、日本人の宗教的かたまりを解き、広いゆたかな人間性へと解放することの必要を痛感した。それは彼の「宗教の自由」のための運動となってあらわれた。彼は一八七二年(明治五年)にアメリカから、総理大臣の位置にあった三条実美に対して、はるかに建白書をおくった。それが今日のこっている『日本における宗教の自由』(英文)である。彼はこの書のはじめのところでこういっている。「わが聰明なる民族の久しくして光輝ある存続の全歴史のなかで、この神聖な権利〔信仰の自由という権利〕をなんらかの形において承認したような痕跡が見出せぬことは、不可解でありかつ悲しむべき事実であります(一)」。私たちは日本の歴史に対するこの批判ほど胸をうつものを知らないとさえ言い得るのではなかろうか。なお森はこうもいっている。「生あるものは、おのがじし、ただ一人で彼のすべての考え、すべての行いにかけて創造者に責任を果すべきなのであります。この責任についての理解と責任を果すための自由を奪われた人は、もはや言葉の本来の意味における人間とは正当に呼ばれることはできません。新宗教をつくるという意向や国家の権威による命令書は、今日のわが国では目的を達していても、理性の光にあってみれば不可解なる様子をもっています。宗教はあがない得るものでもなければ誰に対しても強制できぬものであります」。彼は実に内的革命を宣しているようなものである。
(一) 『日本哲学思想全書』第八巻『日本における宗教の自由』参照。以下同じ。
ざいらいのことばをやめて英語をもって国語とせよというラディカルな意見を出したのも彼だし、ローマ字運動を早く唱えたのも彼だし、東京大学にいち早く哲学教師(ブッセ)を推したのも彼だし、彼の実践活動はあらゆる点において革新性を発揮していた。のちに(一八八九年二月十一日)憲法発布の記念式にのぞむ朝、刺客に刺され横死したことの遠因は、過去二〇年にわたるであろう年月の彼の革命的な実践のうちにあったであろう。
それにしても、福沢の場合と同様に彼を唯物論史のなかで評価すること自体に疑義をいだく人があるかも知れない。見方によっては、彼は明治時代の日本政治の基本にあった絶対主義にかなうような教育行政をうち立てた政治家であったでもあろう。兵式体操を学校にとり入れたのも、彼であり、師範学校の生徒の給費を陸軍の兵卒と同じくしたのも彼である。しかし、そうであるにもかかわらず、森は福沢の日本イデオロギー批判にとどまらないでこれを実践にうつし、やがて日本人の生活のなかに近代的国民性の流れこむ変革的事業を実行したことは大きな功績でなくてはならない。彼のような人物が出てこなくて近代的合理性を日本人のなかに埋めこむことが、ずっと遅れたら、日本に唯物論のおこる礎地はなかなかできにくかったろう。日本人の世界観人生観のうちに人間的宗教性をいちどは豊かに滲透させないでは、無神論を基本にもっている唯物論思想の理解ができなかった。このことは大切である。思想の地ならしをする人がまず出てこなくては唯物論のような思想運動はおこらないといわれるほどの、じつに念の入った蒙昧性が、日本イデオロギーのひとつの本質だったことを、私たちは改めて認識する必要があるのではなかるまいか。
以上のような意味で、私はあえて唯物論史のうちに、とくべつに(B)の型をもうけて、森有礼を論評したのである。
Cの型に属する
三 なかえ・ちょうみん(中江兆民)
なかえ・ちょうみんは『一年有半』の著者としてひろく知られている。兆民は一九〇一年つまり明治三十四年の十二月十三目になくなった。彼がなくなるより九か月ほどまえに喉頭癌を病んでいたことがわかった。医者は「一年半、よく養生して二年」だと宣告した。彼自身では、「せいぜい五、六か月だろう」とおもっていたので、一年のびたというのでは「寿命の豊年」だといって勇気をおこし、このときひとつの著述をおもいたった。正・続二冊の『一年有半』はこうしてできた。かつて私はこのような兆民の体験をおもってみて、つぎのように書いたことがあった。「彼は癌という肉体のなかの一種の自然的組織変化をば『彼』と呼んで、兆民自身のことを『余』と呼んでいる。彼と余とが一つになって戦っている。頸頭の塊物、つまり自然物の生成と悩みつづける自分とを対立させている。この意識は彼にとって、苦痛このうえないものであったろうが、しかし、癌も苦痛も、正義も愛欲も、すべてを虚無海上にうかぶ虚舟と観去る、ひとつの世界観が彼をつつみ、彼を慰めたこともあったろう。おそらく、そうしたところに彼の唯物論的世界観があったろうとおもわれる(一)」
(一) 『日本の唯物論者』
私はもちろん今だって兆民と彼の癌種の病気とについては、ここに書いていると同じことを考えている。けれども、この文章だけを読んでもらった人には、兆民の唯物論思想は不治の病気と対決した深こくな苦悩とともに成長したのだという推測の手がかりを与えはしないかと思うのである。そうだったら、それは間違いで、私は誤りのきっかけをつくることになる。
兆民の唯物論思想はもうすでに一八八六年の頃にゆらぐことなき彼の世界観になっていたのである。この年は明治十九年である。だから、日本哲学会の成立よりも以前、日本で最初の哲学の機関誌『哲学雑誌』の創刊よりも以前にあって、すでに兆民は観念論的な哲学には加たんしていなかったのである。さて、私がここに明治十九年を取りあげたのは、この年に兆民の著述『理学鉤玄』が出ているからである。理学とは哲学のこと、鉤玄とは「玄」を鉤のような道具でもってとらえることである。玄とは兆民の場合けっきょく「事物の最高層の理」のことであり、「これに透徹する」ことである。もとよりこうした解釈は兆民自身の思索から生れたものであって、直訳語ではない。この書物は兆民の訳述書のようにとられがちであるが、もともと泰西の哲学諸書を「旁挙して之れが綱要を挙げた」ものであって、たとえ諸家の文章をつらねても、それは「別に結撰して初より原文に拘泥せず」に著述したのである。だから兆民は「著と称して訳と称せず」といっている。しかし、ヨーロッパの哲学者たちの言い方は訳しにくいから日本人にわからすには、語録や仏典の類から注意してとって理解し易くしたのである。こうしてできた彼の『理学鉤玄』はあきらかに著述であって、著者の思索と体系づけを経てできあがっている一個の世界観の書物だといっていいであろう。
さて『理学鉤玄』はどういう世界観を押し出そうとしているのであろうか。
彼は、哲学説は昔から色々あって紛らわしいが、けっきょく二種しかない。(カッコのなかは彼の用語)。一つは観念論(虚霊説)もう一つは唯物論(実質説)である、と紛らわしくなく明言している。では物質とは何かといえば、私たちの五官または精密な機械でもって接触できるものだとしている。そして当時の物理学・化学の知識にしたがって六五の元素(原素)をあげて、これにあてている。ところで物質は単にそれだけで説明されるものでないこと、同時に力の説明の必要であることをともに説明している。では力とは何かといえば、力とは運動のことだとし、俗説のように運動は物が一か処から他の一か処にゆくことではなくて、「物の現象」をあげてすべて運動というのだ。だから、草木が生えたり枯れたりする、動物が生れたり死んだりするのはもちろん、人間が感覚したり考えたりするのもまた運動である。兆民はこうしたようにして、今日私たちの見るすぐれた自然科学者の誰かが物質について説明するやり方と根本的にはかけちがっているやり方をしているわけではない。「宇宙」や「永劫」の説明でもまことに要領を得ている。何か別に宇宙なるものがあるのではなく、宇宙とは「物の面積(一)をはか権るが為め」のものであり、「永劫」だってそのようなものが別に存在するのではない、ただ「事物が相牽し相継続するあとを示す為め」の仮りのものでしかない。こういう点を考えてみると、兆民のやり方は今日でもつねに問題になる操作的方法やプラグマティズムを想わせる。彼はこのようにして一八世紀のフランスの唯物論者のなかのすぐれた代表的な思想家たちの試みたと同じような、感覚や記憶や推理や意志なぞの説明を試みている。
(一) この「面積」という語は幾何学でいうような限定された意味のものとはとらぬがいいようである。
日本の哲学者たちが、これからやっと新カント派哲学はもちろんカントについて知ろうとし、さらに英仏の哲学説について知ろうとしているに先だって、兆民ははっきりと哲学の諸学説の種々なる立場のなかに二大陣営のあることをつかみ出して、徹底したしかも機械主義に陥ちこまないすぐれた解釈をなし得ていたのである。あるいは人は、それはヨーロッパの先進の著述によってやったのではないかというであろう。もちろん彼は、古いところではデモクリトス、エピクロス、ルクレティウス、新しいところではラマルク、エルヴェシウス、コント、スペンサー、ベンサム、その他の思想家の学説を「裁輯し綜理し」たのであって、すべてが彼の創意ではないが、それらをよく裁いて輯め、そしてよくぜんたいを綜べるということは、彼の思索のしたことであるし、ことに判然ひとつの立場を堅持していることは彼の精神の力量でなくてはならぬ。これは彼のうちにできていた(当時としては稀有な)彼の哲学の立場でなくてはならない。
兆民の唯物論が積極的にうち出されたのはさきの『続一年有半』(もうひとつの名は『無神無霊魂』) においてである。この労作において彼のいう「ナカエニスム」のゆるきなき立場がもうすでに明らかにされたのである。しかしナカエニスムの思想の基礎は一五年前の『理学鉤玄』でもってもうできあがっていたといってよいであろう。
私はこれ以上ここでは紙面の都合上述べられない。『日本の唯物論者』のなかの「なかえ・ちょうみん」を参照してもらいたい。
Dの型に属する
四 こうとく・しゅうすい(幸徳秋水)
日本の唯物論の発展をふりかえってみるとはじめて、ヨーロッパにおける発展は筋が通っていることが知られる。唯物論の発展がノーマルであるというようなことは無造作には言えないであろうが、筋が通っているというくらいは言えるであろう。今や私たちは、唯物論がはじめて社会主義思想と結びついている段階、すなわちこうとく・しゅうすいの唯物論の段階のところに来たのである。そこで私たちは筋の通ったヨーロッパの唯物論の歴史的進み方をここで考えておくのがよいとおもう。
私の考えでは、ヨーロッパでは大まかにいって唯物論思想は三つの段階を経て今日に至っていると思う。第一は、人間と神とがはっきりと引き離されないで自然ぜんたいの成り立ちを考えることから、唯物論思想のおこったもの。第二は、人間と神とが判然と区別され、かつ人間が一切の存在の主位に置かれることからおこったものである。第三は、もはや神の存在は正面の問題でなく、しかも個々の人間でさえすでに正面の問題でなく、じつに人間たちの社会が考えられるもの一切の主位におかれることからおこったものである。だから、第一は世界観的思想と結びついているものであり、第二は、無神論思想と結びついているものであり、第三は社会主義思想と結びついているものであるということができる。こうした発展の段階は個々独立的でなく、それぞれ前段階のうちに発展の主要契機をもっている。第二は一八世紀のフランス唯物論が代表的だが、それは第一の自然哲学的思想傾向をその発展動向のなかにもっている(一)。第三は一九・二〇世紀のマルクス・レーニン主義の唯物論が代表的だが、これは第二の宗教的無神論思想をその発展動向のなかにもっている。このようにしてヨーロッパでは、唯物論は第二の段階になって無神論思想と固く結びついてはじめて人間生活のなかの深こくな問題として意識されるようになった。そして、それが第三段階に至ったとき、つまり人間の社会的存在という従来なかった切実な実際生活と結びついたときはじめて、ある特殊社会人の人生観世界観問題としてでなく、社会生活を営む全人類の問題として現われたのだと言うことができる。
(一) 第一はアリストテレス、プラトンの古代ギリシアの哲学組織化より以前の自然哲学者たちのなかの唯物論において代表される。
もし右のような三段階を近代日本の場合に当てはめてみることができるとすると、つぎのような断定が試みられるであろう。中江兆民およびこれと同じ世界観に立った唯物論が第一段階として、これから私が論評しようとする幸徳秋水の唯物論が第二段階として、さいごに私が問題にとりあげたい、かわかみ・はじめ(河上肇)、とさか・じゅん(戸坂潤)たちの弁証法的唯物論が第三段階として、そして而もそれぞれの特質をもっているものとして、把えることができるであろう。そして、兆民より前の「唯物論への道を準備した」とみられた明治時代の尖鋭な啓蒙主義思想や、さらに遡のぼって江戸時代にあってはるかに唯物論への思想の用意をしたと目せられる種々なる(それ自身唯心論的ですらある)合理的な諸思想は、前唯物論史的な段階のものとして理解することもできよう。
さて、そうしたとき、読者は秋水はすでに早くマルクス主義の唯物史観を日本に紹介した当の社会主義者ではないかという疑問を投げ出されるかも知れない。
もちろんそうなのであるが、秋水のマルクス主義思想は唯物論的基礎のうえにできあがっているとはいえないのであって、そのうえまたマルクス主義についても、彼は日本におけるその方の開拓者でありながら、ついにこれを押し通したのでなくて、無政府主義者として、しかもその創始者的代表者として実践したのであった。だから兆民を第一の型の唯物論者とするなら、秋水は第二の型の、すなわち人間と神とが判然と区別されているにとどまらず、その人間が一切の存在の主位に置かれることからおこっている唯物思想の持主であるとした方がよいようである。
秋水においては、神ははっきりと否定された。彼の最後の著述『基督抹殺論』は彼の神の否定論のひとつの結実である。彼は新約聖書に出ているキリストを歴史上の人物でないことを論証しようとしたのだが、実の狙いは新約聖書の教訓がいかに人間をほんらいのすがたから隠すか、いかに人間を無抵抗の美徳に追い込め、生活の貧困を幸福へとすりかえさせるかを教え込む、このことを大衆に語りたいためにできた抹殺論だったのである。もちろん今日、聖書の古典的意義をこのように簡単に評価してしまうことはできない。しかし、秋水の神の存在の否定は単に哲学的な立場からの論議ではなくて、「人類の勇気と自尊心とを沮喪せしめる」ものならば、それが何であろうと戦い破ろうというのが彼の所論の意図なのである。だから、どこまでも秋水においては、人間を人間ほんらいの存在に戻らせることが彼の思想の根源をなしている。彼は『神髄』において「人類」ということばをつねにくりかえしている。その人類は単なる概念ではなくて、「労働者」によって代表されているのであるが、この点の経済学的、唯物史観的究明が欠けていたことが、彼をして後年のマルクス主義理論家たちとかけ離れて違っている点である。
私はここで秋水の唯物論の背景をなすべき『神髄』の論旨、『抹殺論』の趣旨、秋水の政治的転向とその後の一切の行動とを貫ぬく彼の思想と実践とについてのべるべきであるが、その余裕がない。しかし、これだけのことはぜひここに述べておくべきだとおもう。三つある。その一つは、秋水はまず最初マルクス主義思想を日本に紹介したということ(堺枯川と共同で『共産党宣言』を日本語にしたのは明治三十七年である)。もう一つは、秋水はアナーキズムの思想およびその運動のめざましい代表者であること。最後の一つは、このような異質的な思想を生涯のうちに生きとおした秋水ではあるが、生涯をとおして彼の世界観はとにかくに唯物論的だったことである。というのは、河上ともちがい、いや兆民とすらもやや異っていてほとんど一生を通じ、哲学愛好者であったり唯心主義者であったりしたことがなかったのである。秋水は死刑になる日(一九二年一月二十四日)より三日前に「今の僕の宇宙、人生観を問う者あれば、依然として唯物論者、科学的社会主義者也と報ぜよ」ということばを書きのこしている。
Bの型に属する
五 うちむら・かんぞう(内村鑑三)
うちむら・かんぞうを唯物論史のなかで唯物論に関係ありとして取りあつかうことについても、驚きもし抗議しようとする人が、あるいは少なくないのではないかとおもう。私は私の『日本の唯物論者』のなかで井上哲次郎や井上円了をあげて論評している。これらの観念論的な哲学者や宗教家はもちろん唯物論を敵とした人々であって、私はそれを反唯物論者としてあげたのであった。しかし今ここに内村を論評しようとするのは、内村が反唯物論者であるからというのではもちろんなく、それどころかじつは彼は唯物論に関係あるという程度ではなく、彼こそは無神論の断崖に立った人として唯物論的な思想の或る体験者であったとおもわれるからである。彼の生涯の言動は、日本の多くの知識者たちに観念論的哲学者だったら到底与えることのできない思想的感化または影響を与えたのではないか。たとえば彼が「約二十年どこにも枕することができなかった」ほど、迫害に近い世人のひんせきをうけたことや、日露戦争のとき非戦論を唱えたことや、幸徳秋水・堺枯川・黒岩涙香などと理想団を組織したような社会思想的な彼の動き。これらにおいての彼の言動はひとつひとつ孤立したものでなく、彼の言動を先導した思想によるものでなくてはならぬが、その思想は外でもなく、人間の苦悩をきわめ、これを至上位におくことだった。もちろん彼は私のいうこの至上の位置を神にかたく結びつけた。神の福音の信仰者であったという意味で、彼は無神論的唯物論者ではなかったことはいうまでもないことである。けれども、地上のある人間がじっさいに唯物論でもって観念論者たちと戦ってきた具体的な歴史を想いおこしてみると、ここに深こくな問題がなくてはならない。内村は唯物論者の側に立ちはしなかったけれども、いっぱんの唯物論者たちの、少くとも一八世紀のフランス唯物論者たちが体験したであろうようなものと同じ痛切な「人間的なもの」を経験したのである。私たちは日本の近代唯物論の歴史のなかでこの人を顧みないでおくことはできない。
私たちは内村が『約百記』をいくたびも講じたことを、そのために病んで斃れさえしたことを考えてみたい。さらに、私たちは彼が「空の空なる哉」(『伝道の書』)に異常な熱情をもって書いていることを指摘したい。彼は前者については「悲痛の探求」だったといっている。私は『約百記』のなかのつぎのことばを想いおこす。「ヨブ、口を啓きて自己の日を誼へり。ヨブすなはち言詞を出して云く、我が生れし日亡びうせよ、男子胎にやどれりと云ひし夜も亦然あれ。その日は暗くなれ、……その夜の晨星は暗かれ、その夜には光明を望むも得ざらしめ、又東雲の眼蓋を見ざらしめよ。是は我母の胎の戸をとぢず、また我目に憂を見ること無らしめざりしによる。何とて我は胎より死にて出ざりしや、何とて胎より出し時に気息たえざりしや。如何なれば膝ありてわれを接しや、如何なれば乳房ありてわれを養ひしや」
私たちはヨブと同じ体験は観念論的な思想の持主のなかに宿ったか、唯物論的な思想の持主のなかに宿ったか、この問いを抱いていつつ、内村の体験を想ってみるべきだと考えたい。さらに、彼が「空の空なる哉」で思索したその切実さをも私は想ってみたい。空思想は仏教においても同じようにポジティーブに説明することのむつかしいものである。むしろ、私は一切が空だということを主張するのは、何がいちばん大切なものかを押し出そうとするひとつの思想の術だと考えている。内村はその「何」を「人の至上善」というように見た。もちろん、けっきょくは彼はこの至上善を神の福音に結びつけたでもあろう。たとえそうであっても彼が人間の至上なるを彼の骨身とともに懐いていたからこそ、彼は世俗のひんせきをかったのであろう。さればこそ、観念論と精神の怠惰とに安坐していた人々とは手をつながず、社会主義者と敢て手をつないだこともあったのであろう。
こうした内村の体験事実はヨーロッパや日本の唯物論史に出てくる多くの人々の体験事実と相通ずるものがあることを見のがしたくないし、その点で内村がたとえ神を否定し、物質的なものの運動と発展の自然の推移の一大事実に人間の眼を注がせなかったからといって、彼を観念論的な思想家の側へ置くことができないのである。ならば、宙ぶらりの位置が彼の位置か。私は日本という特別に唯物論の発達しにくかった国であればこそ、内村を唯物論を敵とした思想家の群でなく、むしろ唯物論と併行してすすんだ思想家の側においてみているのである。でもしかし、加藤弘之などと同じB型ではあっても同列には置くことのできない特べつの思想家だったとおもう。内村の評価については『日本哲学思想全書』の「思索篇」および「宗教論一般篇」に収めた私の内村についての解説を参照してもらいたい。
E型としての
六 かわかみ・はじめ(河上肇)
河上肇の唯物論思想についてもずいぶん書きたいことが多いが、ここではそれもほんの僅かしかできない。河上は彼の『自叙伝』のなかでこういうことを言った。「二十代の若い頃、極端な唯心主義者として其の文筆活動を始めた私が、五十過きてからやつと徹底的な唯物論者となり得るまで、実に一生涯をかけて漸く完成した私の思想的転回……」。こうした彼の回想はわが国の唯物論史のなかで見のがすことのできないものでなくてはならない。この短い文章のなかには彼の強い自信が示されている。二十代から五十代に到るざっと三〇年のあいだ、生涯をかけて戦いとった彼の唯物論者としての世界観は、唯物論という思想を理論として哲学としてつくりあげたという意味のものではない。彼において唯物論者となり得るまでとは、マルクス主義者となり得るまでという意味である。マルクス主義者となり得るには、まずマルクスの文献を読みこなすことが彼に課せられた。それは経済論はもとより、歴史論を、歴史論としては唯物史観論を、唯物史観論としてはその基礎としての唯物論を、さらにこれらの理論をつねに基礎づけていたマルクス主義者、レーニン主義者たちの運動の綱領の可及的に広汎な文献渉猟が不可避の仕事だった。いやもっと重い課題が待っていた。それは外でもなく、日本の国内におけるマルクス主義運動のため実践の一部を荷負うという(本来学者だった河上にとっては困難な)仕事である。河上が「漸く完成した私の思想的転回」はじつにこれらの彼の理論的・実践的活動を通じて行われたものだった。だから、単なる唯物論の研究とそのための生活行動のみではなかった。いわんや唯物論の哲学の研究ではなかった。そういうわけだから、河上の唯物論思想は、独立に抽象的に研究されてできたのではなく、マルクス主義のための戦いの実践のなかで成長したのである。このことが、河上が兆民ともちがい、さらに秋水ともいくぶんちがっている点である。
しかし、だからといって、河上が唯物論の理論的研究をおろそかにしたわけではない。たとえば、「因果律と精神生活」という彼の論文(一)のごときは注目されてよいと思う。これはグンターという社会主義思想で通した哲学者の考えに従って思索したものであるが、人間をも加えた自然界の因果関係と自由や目的という精神的なものとを対立させつつ論じた労作である。私はこのような研究は、L・ノワレの『道具と人類の発展史』が含んでいる唯物論の基礎的思想とともに注意せらるべきものだとおもう。日本では案外にこのようなかなり骨の折れる思索は疎遠にされているが、唯物論の基礎論的なものとしてぜひ必要のものだと考えられる。
河上の唯物論思想のうちには、兆民や秋水とおなじように文学的な世界観的要素とのれんかんがその深所にあるのであるが、これはとくにとりあげて問題にするべきものではなかるまいか。私の「かわかみ・はじめ(二)」のなかではややそれに触れている。
(一) 『社会問題研究』第一五冊。
(二) 『日本の唯物論者』参照。
E型としての
七 とさか・じゅん(戸坂潤)
私は兆民のところで、彼が当時の化学や物理学の知識を紹介、原子説にも説き及び、物質が究極のものだということを説明することに努めたことに触れたのであるが、このような兆民の労作は唯物論のための基礎論のひとつだといってよい。河上だってそういった理論的活動は上述したごとく試みたのである。唯物論思想の一八世紀のフランスにおける異常な発展において見てもわかるように、基礎論的研究は唯物論者にとって必至のものでなくてはならない。
唯物論の発達の幼稚であった日本では、この方面の研究は甚だしく遅れていた。この遅れをうめるために緻密なしかも冷徹な思索に長じたひとりの哲学者が日本に成長した。それは外ならぬ戸坂潤であるという見方ができはしないかとおもう。
唯物論にとってでなくていっぱんに学問や思想には基礎論的方向はあるものであり、又なくてはならない。そうした基礎論的傾向が戸坂のうちに芽ばえたのは、彼がマルクス主義者として、出発しはじめたことよりもいぜんのことに属する。だから、彼は生来そのような基礎論の思索の天分と強い意欲をもっていたということができる。この青年哲学者は、唯物論を完成的にそのうちに思想の主脈としてもっているマルクス主義哲学に、彼の世界観の落ちつきどころを見出したのである。戸坂の世界観思想についてはのべるべきものが夥しくあるが、つぎの二点について戸坂がはっきり表明したことは、何としても逸しられない。
(一)唯物論とはどういう思想組織としてつかまれているか。
(二)唯物論において意識とは、したがって物質とは、いかなるものとして把えるか。
(一)についてであるが、基礎論をおろそかにしない戸坂はつねに自然科学と社会科学の性格を鮮明にすることから、(一)の問題を究明した。自然科学では、その対象の存在は方法によってきまるものである。とともに方法は対象によってきまるものである。ところで、その方法は実験的で技術的であることにその本質がある。これは簡明なことだが、自然科学において最貴重である。戸坂はここに科学のなんらかの単一性と唯一性という特質を見ている。このことを理解するには哲学史を見ればよい。哲学には人の個性の数だけ別々の哲学がある。自然科学に対して置かれる社会科学の立場は、今日でも哲学の数だけあるということができよう。これに反して自然科学は、とにかく歴史的にいって、唯一性と単一性の理想を保持してきた。またこれからも保持する。しかし、社会科学がこれから科学であろうとすれば、右の単一性と唯一性の理想をとにかく自らの学問のなかで何らか実現するところがなくてはならない。科学としての社会科学がその単一性と唯一性の理想を保持できるためには何らかの哲学と(自然科学とではない)結びつかねばならない。ところが、結びつくべきその哲学そのものが、単一性と唯一性の理想を保持し得るものでなければならない。ここで戸坂は、はっきりとつぎの命題をかかげる。「この唯一性と単一性とを有った哲学は、今日唯物論の組織以外にはない」。戸坂はこのように科学論につけて唯物論の性格をつかむことに努力した。ここまでくると、たとえ日本における唯物論の歴史は短いにしても、かなりの発展をしたものだということができよう。
(二)についてであるが、(一)において「科学」について明晰に論述するように、ここでは「認識」について分析をすすめて、(二)の問題を明らかにした。このことについては、かつて私はつぎのように書いたことがある。戸坂はその点はっきりとこう明言する。「認識という、 言、 葉、 の、 意、 味は、実在を模写するということをおいて他にない」と。さて、模写ということだが、彼は「鏡が物をそのままに写す(左前になることは別として)というその真実さを有つ点に讐えて」いわれるのであることを端的に指摘する。真実とは、率直にいって「ありの儘」ということであるはずだ。認識が真実であり真理であるのには、何は何でも、事物をありのままにつかまなくてはならない。だから、認識ということと模写ということは同義である。ところで、唯物論に多少でも疑問をもつ人は、ここでたいていつぎの問いをなげ出す。《認識とはそういうものだとしても、いずれは意識によるのであろう。そうしたとき、どうして意識は自分とは明らかに別のものである外界の事物を模写できるのであろうか?》戸坂はこれに対しこう答える。「意識はそれが如何に自由で自律的で自覚的なものであるにしても、脳髄の所産であるという、一見平凡で無意味に見える事実を忘れてはならない。……意識は脳髄という生理的物質の未知ではあるが或る一定の状態乃至作用だと考える他に現在途はない」。私たちは戸坂のつぎのテーゼを聞くことにしよう。「その物質は云うまでもなく、自然にぞくしている。……吾々は、ブルジョア観念論哲学者のにがにが苦々しい顔色にも拘らず、意識は自然の発達過程の或る段階に於て自然の内から何等か発生したものだ、というごく当り前な哲学的結論に来るのである」。「意識は」と戸坂は、さらに対立の発生を明らかにするためにつづける。
「自然の発達過程の或る段階に於て自然の内から発生したのだが、そこから物と心との、客観と主観との、存在と意識との、対立そのものが発生したのである。……両者の関係それ自身が、自然的秩序に於て、宇宙時間の内に発生したところの一関係なのだ」(傍点、三枝)
戸坂は単に科学論の上に立って唯物論思想の究明だけをして彼の啓蒙活動を実践したのではない。日本ではじめてできた唯物論研究会と終始活動をともにして、終戦時にあって拘置所において理不尽の処置のもとで生命を奪われるまで、思想的に戦いつづけたのである。これについては本書の二七八―二八〇頁を読んでもらいたい。
以上はなはだ尽くさなかったが、明治いらいの唯物論の発達を七人の人物について叙述してみた。私はこれらの外に文学者のなかから二葉亭四迷や石川啄木やその他を、自然科学者のなかから石川千代松や丘浅次郎やその他をとりあげて、論評してみたかったが、ついに紙数のこともあって、果せなかった。
(雑誌『理想』(理想社刊)昭和三三年五月号所収)

