読書ざんまいよせい(070)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(011)

第二節 とさか・じゅん(戸坂潤)

一 空間論からの出発

 戸坂潤の青年時代の魂をとらえた学問は空間論である。哲学の諸問題のなかでも、とくに空間論を明らかにすることに力をそそいだのであった。空間論を哲学の問題としてうけとること、これに対照されるものは時間論である。さて、ここでまず素朴な質問をだしてみよう。それは案外に事態の本質をついている問い﹅﹅だとおもうからである。空間論と時間論、そのどちらが一般に唯物論の立場に関係が多いか?
 この質朴な問いには簡単にいっぺんに答えられる。それはもちろん空間論であると答えることである。哲学史は唯物論の祖だといって、いつでも古代ギリシアのレウキボスとデモクリトスをあげるのであるが、これらの自然哲学者ののこした断片のうちには時間の論は見あたらない。そのつきにひいでた唯物論者として私たちはローマの詩人ルクレティウスをあげたいが、彼の『物の本性について』という詩の形でかかれている千何百行のなかにも時間論の思索を汲み出すことはむつかしい、ほとんどできない。同じことは十九世紀のフランスの唯物論者たちについてもいえる。といって、時間論が人間のする思索の対象として価値が少ないのではない。もしも楽しく悠々と思索で暮らせるのだったら、時間は人に限りなく問題を提供することだろう。しかし、人間にとっては運命的にまでさいご﹅﹅﹅まで空間論はまといつく。空間論的に人間が規定されている人間存在の根本事実は、どうしようもない。時間は人に空間論的にしか考えさせない。空間論が明らかにされないでは時間論の成立は考えられない。空間論は科学の哲学の一般的基礎だといってよい。
 日本で、はじめて空間論の研究をめざしたのは戸坂潤である。彼は彼の『空間論』という論文註(1)のなかで、こういっている。

「空間というもの、又は空間という概念は、殆んど凡ゆる科学乃至理論の中に、問題となって現われて来る。例えば絵画や彫刻、演劇や、キネマに就いてさえも、その理論の内に空間が可なり大切な問題となって現われるだろう。一体吾々が視・触り・聴くこの、 世界―――実在界―――それらは悉く、空間的な規定を離れることが出来ない。吾々は日々の生活を完全にこの空間の支配下に送っているのである。だから、空間の問題が凡ゆる理論または科学の問題として取り上げられるということは、実は何の不思議もない。それは凡ゆる領域に浸潤している問題である」

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南総里見八犬伝(009)

0南總里見八犬傳卷之四第八回
東都 曲亭主人 編次
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真野まの松原まつはら訥平とつへい大輔だいすけふ」「金まり大すけ」「かぶ戸とつ平」

行者ぎやうじや岩窟いはむろ翁伏姬おきなふせひめさう
瀧田たきた近邨きんそん狸雛狗たぬきいぬのこやしな

 金碗かなまり八郞孝吉たかよしが、にはかに自殺したりける、こゝろざしをしらざるものは、「かれ死なでもの事なるに、功ありて賞を辭し、可惜あたら命をうしなひし、こは全く玉梓たまつさに、のゝしられしをはぢたるならん」、と難ずるものもありとなん。それにはあらでいにしへの、かしこき人のことに、男子寡欲なんしくわよくなれば、百害を退しりぞけ、婦人にねたみなければ、百拙ひやくせつおほふといへり。まいて道德仁義をや。されば義實よしさねの德、ならずして、鄰國りんこくの武士景慕けいぼしつ、よしみを通じ婚緣こんいんを、もとむるも又多かりける。そが中に、上總國椎津かつさのくにしひつの城主、萬里谷入道靜蓮まりやのにうどうじやうれん息女そくぢよ五十子いさらご呼做よびなせるは、けんにしてかほよきよし、義實仄ほのかに傳へきゝて、すなはちこれをめとりつゝ、一女一男いちぢよいちなんうまし給ふ。その第一女は嘉吉かきつ二年、夏のすゑに生れ給ふ。時、三伏さんぶくの時節をひやうして、伏姬ふせひめとぞなつけらる。二郞じらうはそのつぐの、年のをはりにまうけ給ひつ、二郞太郞じろたらうとぞ稱せらる。のちに父の箕裘ききうつぎ安房守義成あはのかみよしなりといふ。稻村いなむらに在城して、武威ぶゐます〳〵さかんなりき。しかるに伏姬は、襁褓むつきうちよりたぐひなく、彼竹節かのたけのようちより生れし、少女をとめもかくやと思ふばかりに、肌膚はだへたまのごとくとほりて、產毛うぶげはながくうなぢにかゝれり。三十二さうひとつとしてくかけたる處なかりしかば、おん父母ちゝはゝ慈愛いつくしみ尋常よのつねにいやまして、かしつきの女房にようぼうを、此彼夥俸これかれあまたつけ給ふ。さりけれども伏姬は、となく、日となくむつかりて、はや三歲になり給へど、物をいはず、えみもせず、うちなき給ふのみなれば、父母ちゝはゝ心くるしくおぼして、三年以來醫療みとせこのかたいりやうを盡し、高僧驗者げんざ加持祈禱かぢきとう、これかれとものし給へども、たえしるしはなかりけり。
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読書ざんまいよせい(069)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(010)

第二編 明治以後

第四章 マルクス主義の唯物論者

第一節 かわかみ・はじめ(河上肇)

一 河上の思想遍歴

1

 河上肇の生涯、そのなかでもわけて彼が唯物論者として活動するまでの、そしてそれから後の思想の生涯、それをここにのべることが、この節での私の仕事である。
 河上もまた幸徳秋水と同じように、思想のうえの生涯という点では、郷土からくる影響をになっている。彼ははやくから「梅蔭」という号を自分につけていた。彼の家の庭に梅の老木があったためであるが、号は少年の頃から吉田松蔭に私淑していたためにつけたのである。彼は蘇峰の『吉田松蔭』を中学時代に感激してよんだことを後に語っている。松蔭に対する尊敬はなみなみならぬものだった。それは青年時代までつづいていた註(1)。『自叙伝』のなかに、こういうことが記されている。「私の胸の底に沈潜してゐた経世家的とでも云ったやうな欲望は、松蔭先生によつて絶えず刺戟されてゐたことと思ふ」。このようにして、河上は郷土の思想家松蔭のえいきょう﹅﹅﹅﹅﹅のもとにあったことは、まず注意しておいてよいであろう。河上は、中学の課程を岩国学校で学び、ここを卒えてから山口高等中学校に入ったのであるが、そこでは彼は文科の学生だった。ところが卒業試験の直前になって、「法科へ転じよう」という決心をした。この転科のもと﹅﹅となったものは、もうすでに彼のうちに宿っていたようである。松蔭に私淑したこの少年には前述のように「胸の底に、経世家的気分と云ったやうなもの」があったのだった。彼には早くから、少年経世家としての風があっただけではない。すでにれっきとした﹅﹅﹅﹅﹅﹅経世家らしい論策が書かれていた。彼は岩国学校の頃に友人と回覧雑誌をつくっていたが、その雑誌には「討論」という欄があった。彼はこの欄に『日本工業論』という文章をのせていた。「……方今旧日本已ニ去リテ新日本将ニ生レントス、而シテ英アリ露アリ、毎ニ我ガ釁ニ乗ゼント欲ス、……而シテ我国工業盛ンナラズ、故ヲ以テ、例ヘバ戦艦ヲ造ラントスルヤ、又之ヲ仏人ニ委任シ、多量ノ金銭費シ、多量ノ苦労ヲ要シ、或ハ道ニシテ之ヲ失ヒ、遂ニ我レニ勇アリ武アリ才アリ智アリト雖モ大ニ損スルアルニ至ル、嗚呼惜イ哉、是レ実ニ我邦工業ノ盛ナラザルノ致ス所ニシテ実ニ我ガ神州ノ為メニ悲ム可キ事実ナリトス……註(2)」まことに堂々たる経世の文であるといわねばならない。とにかく、彼は法科に転じたのである。ここにすでに彼の遍歴の旅ははじまっているといえよう。このときの転向はいかにも少年らしかった。というのは、日本にはじめて政党内閣ができ、昨日までは青年政治家であったものが「一躍して台閣に列する」というような時代の風がこの少年に「昂奮を与えた」からである。
『自叙伝』の叙述にしたがってではあるが、私が少年河上をこのように批評してくると、河上はやがて大学に入り法科を出て、いわゆる出世街道を馳け進んだ青年だったように描かれるかも知れない。しかし、そうでないことは、「河上肇年譜註(3)」の一九〇一年(明治三十四年)のところを一べつ﹅﹅しただけでも、この青年のなかにある経世家的なものが、彼の成長とともに伸びてゆきつつあったことを、知ることができよう。そこにはこう書いてある。「十一月足尾鉱毒地の罹災民救済のための演説会をきき、翌日身に纏ってゐる以外の衣類を残らず行李につめて救済会の事務所にとどけた。このことは当時の毎日新聞(十一月二十三日)に『特志の大学生』といふ見出しで記事にさへなった。」
 河上は一九〇三年(明治三十六年)に東大を出て、翌年は東大の農科大学実科講師や、その他の二、三の学校の講師をしたが、そうしたことよりも、一九〇五年(明治三十八)に読売新聞に『社会主義評論』を書きはじめたことに注意をむけるのが、私たちには意義がある。彼のこの評論は、周知のように、たちまち多くの読者をもち、新聞の発行部数がそのために増加したというほどだった。もとより、このときの河上の評論はマルクス主義には遠いものだった。ここでマルクス主義のことを持ちだすのは、このころ彼はマルクス主義の学説にセリグマンを訳することを通じて注意を払っていたからである。しかし、「社会主義評論」では、まだ唯物論的な社会主義に共感をよせてはいなかった。むしろ、トルストイ的な、平和な無我的な愛を主張註(4)していたくらいだった。
 私はここで河上が、無我愛を主張した伊藤證信との結ばれについて記すべきところへきたとおもうが、その前に彼のなかの「経世家」の動きに属する活動をもうひとつここにのべておかねばならない。明治三十八年は河上にとって多事な年だった。彼はこの年『日本尊農論』を書いて公けにしている。菊判二〇〇頁の本である。今日では見る機会が少なかろう。この本にふれている前掲(註(4)を参照)の『河上肇』のなかにつぎのような記述がある。「彼が尊農を説くゆえんは、商・工業の発展が農民を《無資無産の放浪者として工場に出入せしめ、もつていはゆる資本家の使役する所に任》じ、《多数の国民は凡て労働者階級に堕落し尽く器械の奴隷たるに至れるを見ん》ということや、また工場法制定に反対し、労働条件の向上が生産費を増加し、海外輸出の衰退をきたすとして、《同胞中最多数を占めつつある労働者を敵視して、却つて異邦において異人種を顧客として尊重》するという当時の実情に反対して、大多数の国民の幸福を守るということから、〔河上が〕出発している点が大切である」。とにかく、河上は日本の農民に、心をよせ、これに強く関心をもったのである。これをみても、いぜんとして彼の内なるいわゆる「経世家的」な思想の動きの深かったことを見てとることができる。
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南総里見八犬伝(008)

南總里見八犬傳卷之四第七回
東都 曲亭主人 編次
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一子いつしのこして孝吉たかよし大義たいぎす」「杉倉氏元」「金まり八郎」「里見よしさね」「百姓一作」「上総の大介」「玉つさ怨霊」

景連奸計信時かげつらかんけいのぶとき
孝吉節義義實たかよしせつぎよしさね

 杉倉木曾介氏元すぎくらきそのすけうぢもとが使者、蜑崎十郞輝武あまさきじうらうてるたけ東條とうでふよりはせ參りて、麻呂信時まろののぶとき首級しゆきうまゐらせたりければ、義實よしさね大床子おほせうじのほとりにいでて、くだんの使者をちかくめさせ、合戰かつせん爲體ていたらくを、みづからとはせ給ひしかば、蜑崎十郞まうすやう、「兵粮乏ひやうろうともしくまします事、氏元かねてこゝろにかゝれば、百姓們ひやくせうばら催促さいそくして、運送うんそうせばやと思ふ程に、安西景連あんさいかげつら、麻呂信時、はや定包さだかねにかたらはれて、海陸かいりくの通路をふさぎ、小荷駄を取らん、とわれをまつこと難義なんぎに及びしかば、氏元ます〳〵憂悶うれひもだへて、いたづらに日をすぐしたり。しかるに景連、一夕竊あるよひそかに、家隸某甲いへのこなにがしをもて、氏元にいはするやう、『山下定包は、逆賊ぎやくぞく也。よしや蘇秦張儀そしんちゃうぎをもて、百遍千遍相譚もゝたびちたびかたらふとも、承引うけひくべうは思はざりしに、信時にそゝのかされて、かれが爲にみちふたぎ、良將勇士をくるしめしは、われながら淺猿あさまし、と後悔臍こうくわいほぞかむものから、信時只管ひたすらやじりとぎて、とけども思ひかへさねば、これ亦靴またくつへだてて、かゆきくにことならず。つら〳〵事のぜうはかるに、信時は匹夫ひつふの勇士、利の爲に義を忘れて、むさぼれどもあくことなし。景連舊好きうこうを思ふゆゑに、一旦いつたん合體するといへども、もしあやまちあらためずは、狂人を追ふ不狂人、走るは共にひとしかるべし。所詮しよせん合體のおもひをひるがへし、まづ信時を擊果うちはたして、兵粮ひやうろう運送の路を開き、里見殿さとみとのに力をあはして、賊首ぞくしゆ定包を討滅うちほろぼし、大義をのべんと思ふのみ。さきにはたま〳〵來臨らいりんせられし、里見ぬしをえうとゞめず、あるじぶり禮儀いやなかりしは、かの信時がこばめるゆゑなり。願ふは和殿わどの、城をいでて、短兵急たんへいきうせめかゝれ。信時は野猪武者ゐのしゝむしや也、敵を見て思慮もなく、一陣に進んず。そのとき景連後陣ごぢんより、さしはさみてこれをうたば、信時を手取てとりにせん事、たなそこを返すごとけん。狐疑こぎして大事だいじあやまち給ふな。をさ〳〵回いらへまつ』といへり。しかれども氏元は、敵のはかりことにもや、と思ひしかば、佻々かろかろしく從はず、使者の往返度わうへんたびかさなりて、いつはりならず聞えにければ、さは信時をうたんとて、安西にてふじ合せ、ふりふらずみ五月雨さみだれの、黑白あやめもわかぬ暗夜くらきよに、二百餘騎を引いんぞつし、ばいふくみ、くつわつぐめ、麻呂信時がたむろせる、濱荻はまをぎさく前後ぜんごより、犇々ひしひしおしよせて、ときどつとつくりかけ無二無三むにむざんついる。敵よすべしとはおもひかけなき、麻呂の一陣劇騷あはてさわぎて、つなげる馬にむちあてつるなき弓にをとりそえ紊立みだれたつたるくせなれば、只活路たゞにげみちもとむるのみ、防戰ふせぎたゝかはんとするものなし。そのとき信時聲をはげまし、『たのもしげなきものどもかな。敵はまさしく小勢こぜい也。推包おしつゝんうちとらずや。おとされて前原まへはらなる、安西にわらはれな。うてよ進め』、とはげしくげぢして、眞先まつさきに馬乘出のりいだし、やりりう〳〵とうちふりて、逼入こみい寄手よせて突倒つきたふす。その勢ひはまさこれむらがひつじうちる、猛虎まうこるゝにことならず。士卒はこれにはげまされ、將後陣はたごぢんなる安西が、援來たすけきなんと思ひけん、にげんとしたるきびすめぐらし、唬叫わめきさけびて戰へば、こゝろならずも躬方みかた先鋒せんぢん面外とのかたおひかへされ、みちのぬかりに足もたゝず、すべつまつひきかねたり。當下そのとき杉倉氏元は、まなこいからし、聲をふりたて、『一旦破りし一二のさくを、おひかへさるゝことやはある。名ををしみ、はぢをしるものは、われに續け』、といひあへず、白旄採さいはいとつて腰にさしあぶみを鳴らし、馬を進めて、烏夜やみきらめ長刀なぎなたを、水車みづくるまの如く揮廻ふりまはして、信時にうつかゝれば、かゞりの火ひかりきつと見て、『は氏元。よき敵也。其處そこ退のきそ』、と呼びかけて、やりひねつはたつけば、發石はつしうけてはねかへし、ひけばつけり、すゝめば開き、一上一下いちじやういちげと手を盡す。大將かくのごとくなれば、躬方みかたも敵も遊兵ゆうへいなく、相助あいたすくるにいとまなければ、氏元と信時は、人をまじへず戰ふ程に、信時焦燥いらつつきいだす、やり尖頭ほさきを氏元は、左手ゆんでちやう拂除はらひのけ、おつとおめいて、向上みあぐる所を、長刀なぎなた拿延とりのべて、內兜うちかぶと突入つきいれて、むかふざまに衝落つきおとせば、さしもの信時灸所きうしよ痛手いたでに、得堪えたヘやりを手にもちながら、馬よりだう滾落まろびおつる、音に臣等わくらは見かへりて、とぶがごとくにはせよせて、その頸取くびとつて候」、と言葉せわしく聞えあぐれば、義實つく〳〵とうちきゝて、「氏元がその夜の軍功、賞するにたへたれども、計略足はかりことたらざりけり。景連にはか心裏反うらかへりて、信時をうたする事、そのゆゑなくはあるべからず。夫兩雄それりゃうゆう竝立ならびたゝず。信時景連相與あひともに、われをうつともとみかたずは、必變かならずへんを生ずべし。るを氏元ゆくりなく、安西にそゝのかされて、信時をうちとりしは、躬方みかたの爲に利はなくて、景連が爲になりなん。かの安西はなにとかしつる」、ととはせ給へば蜑崎あまさき十郞、「さ候景連は、そのさり躬方みかたために、征箭一條そやひとすぢ射出いいださず、いつの程にか前原まへはらなる、さく退しりぞきて候」、とこたへまうせば、義實は、あふぎをもつてひぎうち、「しかれば既に景連が、奸計かんけいあらはれたり。わが瀧田をせめしとき、勝敗測はかりかたしといへども、定包さだかね天神地祇あまつかみくにつかみ憎にくませ給ひて、人のゆるさぬ逆賊なり、一旦その利あるに似たるも、始終全しじうまつたからじとは、景連は思ひけん。定包つひ滅亡めつぼうし、義實その地をたもつに及びて、信時は安西がたすけになるべきものならず。只大たゞおほばやりに勇めるのみ、ともに無むぼういくさをせば、もろまけなんことをおそれて、うへには義實と合體して、氏元に信時をうたせ、景連はその虛にじやうじて、平館ひらたて攻落せめおとし、朝夷郡あさひなこふりあはれうして、牛角ごがくの勢ひを張らんとす。うちあふぎはづるゝとも、わが推量はたがはじ」、とその脾肝はいかんすくごとく、いと精細つばらかのたまふ折、氏元が再度の注進ちうしん某乙なにがしをとこはせ參りつ、「信時既にうたれしかば、殘兵頻ざんへいしきりみださわぎて、にぐるをひた追捨おひすてて、氏元は軍兵ぐんびやうを、まとめてやがて東條へ、歸陣して候ひしに、あにおもはんや景連は、はや前原まへはら退しりぞきて、平館ひらたての城を乘取のつとり、麻呂まろ采地朝夷れうぶんあさひな一郡、みなおのが物とせり。狗骨いぬほねをりて、たかとらせし、氏元は勞して功なし。おんせいをさしむけ給はゞ、先せんぢんうけたまはりて、朝夷一郡いへばさらなり、景連が根城ねしろほふりて、このいきどはりはらすべし。このよしまうし給へ」とて、孝吉貞行等に書簡を寄せたり。金碗かなまりも堀內も、こゝに至りてその君の、聰察叡智そうさつゑいち感伏かんふくし、「はやく景連をうち給へ」、と頻りにすゝめ奉れば、義實かうべをうちふりて、「いな安西はうつべからず。われ定包さだかねほろぼせしは、ひとり榮利ゑのりを思ふにあらず、民の塗炭とたんすくはん爲也。さは衆人もろひとのちからによりて、長狹平郡ながさへぐりぬしとなる、こよなきおのさいはひならずや。景連梟雄けうゆうたりといふ共、定包がたぐひにあらず。その底意そこゐはとまれかくまれ、志をわれに寄せ、木曾介氏元が、信時をうつに及びて、かれいちはやく平館なる、城をぬきしをねたしとて、いくさを起し、地を爭ひ、蠻觸ばんしよくさかひに迷ひて、人を殺し民をそこなふ、そはわがせざる所也。景連奸計おこなはれて、平館を取るといへども、なほあきたらで攻來せめくるならば、一時いちじ雌雄しゆうを決すべし。さもなくはさかひまもりて、こゝより手出しすべからず。みなこのむねをこゝろ得よ」、と叮嚀ねんころさとし給へば、孝吉貞行は、さらにもいはず、左右に侍る近習輩きんじゆのともがら、蜑崎等もろ共に、感佩かんはいせざるものもなく、「いにしへの聖賢せいけんも、このうへややはある」、と只顧稱贊ひたすらせうさんしたりける。かくて義實は、手づから氏元に書を給はりて、かれほめかれさとして、安西をうつことをとゞめ、「人の物を取らんとて、わが手許たなもとを忘るゝな。鄙語ことわざにいふ、あくことしらぬ、たかつめさくるかし。籠城ろうぜうほか他事あだしこと、あるべからず」、といましめて、蜑崎十郞等をかへし給ひつ。
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南総里見八犬伝(007)

南總里見八犬傳卷之三第六回
東都 曲亭主人 編次
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賞罰せうばつあきらかにして義実よしさね玉梓たまつさ誅戮ちうりくす」「玉つさ」「定かねが首級」「戸五郎が首級」「どん平が首級」

倉廩さうりんひらきて義實よしさね二郡にぐんにぎは
君命くんめいうけたまはりて孝吉三賊たかよしさんぞくちう

 卻說瀧田かくてたきた軍民等ぐんみんらは、まづ鈍平等どんへいらうたんとて、城戶陜きどせまし、と詰寄つめよせて、ときどつあげしかば、思ひがけなく塀の內より、やり穗頭ほさきつらぬきたる、生頸なまくびを高くあげ、「衆人もろひとわれをなにとかする。われはや非をくひぎやくさりこゝろざし寄手よせてにかよはし、逆賊定包さだかね誅伐ちうばつせり。いざもろ共に城を開きて、里見殿さとみどの迎入むかへいれずや。同士擊どしうちすな」、とよばゝらして、城戶きどさつおしひらかせ、岩熊鈍平いはくまどんへい妻立戶五郞つまだてとごらう鎧戰袍華よろひひたたれはなやかに、軍兵夥ぐんびやうあまた前後にたゝして、兩人床几せうきしりかけ軍團把ぐんばいとつてさし招けば、軍民等はあき惑心まどひて、くだんくび向上みあぐるに、こはまがふべうもあらぬ、定包が首級しゆきうなり。「原來さては鈍平戶五郞等、のがるべきみちなきを知りて、はや定包をうちたるならん。憎し」、と思へど今更に、同士擊どしうちするによしなければ、やむことを得ずそのげぢに隨ひ、城樓やぐら降參こうさんはたたてて、正門おほてのもんおしひらき、鈍平戶五郞等を先にたゝして、やが寄手よせてむかふれば、里見の先鋒金碗せんぢんかなまり八郞、こと仔細しさいをうちきゝて、定包が首級をうけとり、軍法なれば鈍平等が、腰刀こしかたなさへとりおかして、大將に報知奉つげたてまつれば、義實よしさねは諸軍を進めて、はやその處へ近つき給へば、鈍平等は阿容々々おめおめと、沙石いさごかうべ掘埋ほりうづめて、これを迎奉むかへたてまつり、城兵等ぜうひゃうら二行にぎやうについゐて、僉萬歲みなばんぜいとなへけり。しばらくして後陣ごぢんなる、貞行も來にければ、前駈後從ぜんくごしよう隊伍たいごを整へ、大將しづかに城にいりて、くまなく巡歷じゆんれきし給へば、神餘じんよがゐまぞかりし時より、只管驕奢ひたすらけうしやふけりしかば、奇麗壯觀きれいさうくわん玉をしきこかねのべずといふことなし。加以これのみならず定包又さだかねまた民をしぼりて、あくまで貪貯むさぼりたくはへたる、米穀べいこく財寶倉廩くらみちて、沛公はいこうコウソ]が阿あばうりしとき、幕下ばくか[頼朝ヨリトモ]が泰衡やすひらうちし日も、かくやとおもふばかり也。さりけれども義實は、一毫いちごうおかすことなく、倉廩くらをひらきて兩郡なる、百姓等に頒與わかちあたへ給へば、貞行等これをいさめて、「定包誅ちうふくしたれども、なほ平館ひらたて館山たてやまには、麻呂安西まろあんさい强敵ごうてきあり。さいはひにこの城をて、軍用乏ともしからずなりしを、一毫いちごうたくはへ給はず、百姓ばらにたまはする、賢慮けんりよつや〳〵こゝろ得かたし」、とまゆうちひそめてまうすにぞ、義實きゝてうち點頭うなつき、「しか思ふは眼前の、ことわりに似たれども、民はこれ國のもとなり。長狹平郡ながさへぐりの百姓等、年來としころ惡政にくるしみて、今ぎやくさりじゆんせしは、飢寒きかんのがれん爲ならずや。るをわれ又むさぼりて、彼窮民かのきうみんにぎはさずは、そは定包等に異ならず。倉廩くら餘粟あまんのあわありとも、民みなそむきはなれなば、たれとゝもに城を守り、たれとゝもに敵をふせがん。民はこれ國のもと也。民のとめるはわが富む也。德政むなしからざりせば、事あるときに軍用は、もとめずもあつまるべし。惜むことかは」、とのたまへば、貞行等は更にもいはず、感淚そゞろとゞめかねて、おんまへを退出まかでけり。
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南総里見八犬伝(006)

南總里見八犬傳卷之三 第五回
東都 曲亭主人 編次
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瀧田たきたしろせめ貞行さだゆき妻立つまたて戸五郎とごらうふ」「金まり八郎」「里見よしさね」「堀内貞行」「妻立戸五郎」

良將策りやうせうはかりごと退しりぞけ衆兵仁しゆへいじん
靈鴿書いへはとしよつたへ逆賊頭ぎやくぞくかうべおく

山下柵左衞門尉定包やましたさくざゑもんのぜうさだかねは、麻呂安西まろあんさいつかはしたる、その使者瀧田たきたたちかへりて、「彼輩かのともがら忽卒あからさまに、歸降きごうのよしをいはざれども、いたく怕害おそれて候ひし。遠からずしてもろともに、みづから詣來まうきて罪を勸解わび麾下きかしよくせんこと疑ひなし。その爲體ていたらく箇樣々々かやう〳〵如此々々しか〴〵に候ひき」、となきことまである如く、ことばを飾り、首尾精細しゆびつばらかに、あくまでこびつげしかば、定包ます〳〵こゝろおごり、をもて日に續遊興つぐゆうきやうに、士卒しそつうらみをかへりみず、ある玉梓たまつさてくるまを共にして、後園おくにはの花にたはむれ、あるあまたの美女をあつめて、高樓たかどのに月をもてあそび、きのふは酒池しゆち牛飮ぎういんし、けふは肉林にくりん飽餐ほうさんす。一人いちにんかくの如くなれば、老黨ろうどうも又淫酒いんしゆふけりて、むさぼれどもあくことなく、ついやせどもつくるをしらず。王莽わうまう宇內くにのうちを制する日、祿山ろくさん唐祚たうのまつりかたむくるとき、天日私てんじつわたくしに照らすに似たれど、逆臣はながくめいをうけず。定包がほろびんこと、かならず久しからじとて、こゝろあるは目をそはだて爪彈つまはぢきをするもの多かりけり。
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読書ざんまいよせい(068)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(009)

 岩波文庫「南総里見八犬伝」(一)に高田衛氏の「『八犬伝』を読むために」という解説文がある。今更、勧善懲悪づくし、しかもやたらに長い「八犬伝」でもあるまいにと思ったが、読んでみると、意外と筋立てや表現が「論理的」で面白くも感じた。そこで、どこまでできるかはおぼつかないが、テキストのアップに取り組んでいる。まだ、冒頭部分だけなので、いつになったら完成するのやら…
 評判の悪い「勧善懲悪」でいうと「馬琴は、勧善懲悪を唱導した。しかしその悪とは、体制の悪であった。したがってその善とは、体制そのものをゆさぶる行為でさえあった」(松田修氏)の指摘は、しばし至言であり、秋水にも通じるだろう。
 ここでは、高田衛氏から冒頭部分を長く引用し、幸徳秋水の想いに馳せるうえでの一助としたい。

 先頃、幸徳秋水の獄中書簡を読んでいたら、こんな個所に目がとまった。

△六ヶ月目で此頃ー二回刺身を食た。秋刀魚を食っては季節だなと思び、新鮭や数の子を食てはモウ出たナと感じる。此夏以来鮎も食た。松茸も食た。野菜は胡瓜、東蒲塞、茄子の時代から此頃の離大根まで、果物も林檎、梨子、栗、柿、蜜柑と、新しい物が這入る毎に娑婆の節物の移り行くことを想ひやる。小供の時に読だ伏姫の山ごもりに花紅葉(ママ)村里の四季を想ふ美しい文があったが、吾等には每日の差入弁当が唯一の暦だ。
     (明治四十三年十二月六日付、師岡千代子宛)

 おそらく質素であったに違いない差入弁当の、そのおかずにさえ、くっきりと浮び上ってくる四季の姿がこの手紙にみられる。この豊饒な季節感は、もう私たちの日常からは永遠に失われてしまったことを、しみじみと感ぜずにはいられなかったのだが、その間に何気なく、『八犬伝』の一節「伏姫山ごもり」の文章の想い出が挿入されていたことが、とりわけ印象的であった。
 時代からいっても漢詩の嗜みのある点からみても、幸徳秋水のような人が『八犬伝』を碗んでいたことに別に不思議はない。ただ、秋水のような革命家の心にさえ、ひときわ豊かな季節感の感受があり、それとまったく矛盾のないかたちで、『ハ犬Tの一節が甦えってくることの、いわぱ「自然さ」に思いをはせないではいられなかったのである。
 秋水が回想した「伏姫の山ごもり」の「村里の四季を想ふ美しい文」というのは、次のような文章であった。

さて里見治部大輔義實さとみぢぶのたいふよしさねのおん息女伏姬むすめふせひめは、親のため、又國の爲に、ことまこと黎民たみくさに、失はせじと身をすてて、八房やつふさの犬にともなはれ、山道やまぢさし入日成いりひなす、隱れしのちは人とはず。岸の埴生はにふと山川の、狹山さやまほら眞菅敷ますげしき臥房ふしど定めつ冬籠ふゆごもり、春去來さりくれば朝鳥あさとりの、友呼ぶ頃は八重霞やへかすみ高峯たかねの花を見つゝおもふ、彌生やよひは里のひな遊び、垂髮少女うなひをとめ水鴨成みかもなす二人雙居ふたりならびゐ今朝けさむ、名もなつかしき母子草はゝこぐさ誰搗たがかちそめしかの日の、もちひにあらぬ菱形ひしかたの、尻掛石しりかけいしはだふれて、やゝ暖き苔衣こけごろもぬぎかえねども、夏の夜の、袂涼たもとすゞしき松風に、くしけづらして夕立ゆふだちの、雨に洗ふてかみの、おどろもと鳴蟲なくむしの、秋としなれば色々に、谷のもみぢ葉織映ばおりはえし、にしきとこ假染かりそめの、宿としらでや鹿しかぞ鳴く、水澤みさは時雨霽閒しぐれはれまなき、はて其處そこともしら雪に、岩がね枕角まくらかどとれて、眞木まき正木まさきも花ぞさく、四時しじ眺望ながめはありながら、わびしくれば鹿自物しゝじもの膝折布ひざをりしきたゝず、のちの爲とばかりに、經文讀誦書寫きやうもんどくじゆしよしやこう日數ひかず積ればうき事も、うきなれつゝしとせず、浮世うきよの事はきゝしらぬ、鳥の音獸ねけものの聲さへに、一念希求いちねんけくの友となる、心操こゝろばえこそ殊勝しゆせうなれ。
     (第二輯巻之一第十二回)

 伏姫は、父のため国のため、そして「黎民たみくさ」のため、自ら犬の八房とともに人跡まれな深山の同窟に身を閉じこめて、もう二年という歳月を過したのであった。その伏姫のわびしく孤独なたたずまいの中で、かって家族うちそろって何不足なく平安に過した故郷の四季を、いま深山にも巡ってくる美しい四季と錯綜させつつ回想している——–そういう文章であることがわかる。
 装飾の多い七五調の文章が、私たちにとって「美しい」かどうかはさておこう。一読しておどろくのは、国を思い民衆を案じて思い立った革命行動にやぶれ、国事犯の名のもとに、監獄のつめたい独房に閉じこめられ、きびしい月日を送りながらも、片々たる弁当のおかずに、豊かな季節感を感受する秋水と、この文章のパセティックな四季づくしとの偶合である。
 この文章のなかの八房の件をかりに保留し、人も訪れず外に出ることも許されぬ伏姫を、秋水自身に擬し、伏姫のこもった「狭山の洞」(山中の洞窟)を市が谷の東京監獄独房に置き替えるならば、韻律ゆたかに四季の美をうたいあげた、この『八犬伝』の一文は、そのまま獄中の秋水の心情の表白とかさなってくるであろう。
 このような偶合(?)に気づくとき、はじめて秋水がこの文章を「美しい」と呼んだ意味がわかってくる。また「美しい」からこそ、彼は自己の追いつめられた状況に即応して、自然に、そして適切に、この『八犬伝』の一節を思い出したのであろう。そう考えるならば『八犬伝』は、まぎれもなくこの感じやすい革命家の魂の一部であったのである。
 以上はたまたま秋水の獄中書簡の一節を読んで感じたことである。意外なほどに秋水にとっての『八犬伝』が身近かであったことを知るにつけ、思うことは秋水もまた同時代の多くの人々と同じように、連鎖する美的言語とその韻律をたのしみながら、声をあげて『八犬伝』を音読した読者のひとりであっただろうことである。
 実際、明治初期の書生たちの小説読書は、たいてい音読であったのであり、なかでも『八犬伝』はしばしば朗誦によって暗記され、折にふれてはそのサワリの部分が暗誦される小説であったことを、前田愛が豊富な資料をあげて指摘している(「音読から黙読へ—近代読者の成立」)。
 江戸時代後期になって成立した読ザという小説ジャンルこそは、まさにそのような音読・朗誦にたえる文章・文体を持つことを、条件のひとつとしていたのであった。もともと「読む」ということばの原義は、たんに文章の文字を目で拾う黙読ではなく、声を出し抑揚をつけて、その文章を朗誦することであったという。おそらく秋水もまたそうした読者のひとりにほかならなかった。
 しかし皮肉なことに、この幸徳秋水あたりを最後にして、そういう古典的な読者は姿を消していった。『八犬伝』は他の読本一般とひとしなみに扱える作品ではないが、その『八犬伝』は読者も、次第に黙読する近代読者にとって替わられていったのである。

第二節 こうとく・しゅうすい(幸徳秋水)

      一 秋水と兆民

 ここでは漫然と幸徳秋水の略伝をかくことは必要であるまい。獄中から「余はいぜん﹅﹅﹅として唯物論者だ」といいつづけた秋水が、彼の生涯のどんなところで、やがて唯物論的世界観をもつようになる生活要素にぶつかったか、そうした点をみることが、じつは必要であろう。私はこの節の(一)、(二)、(三)でその必要をほんの少しばかり充たしてみたいとおもう。
 秋水が死の刑をうけてこの世から消えたのは、一九一一年(二十三日は秋水らの死刑の前日にあたる)、なお、一月二十五日のところには、「昨日死刑囚死骸引渡し、それから落合の火葬場の事が新聞に載つた。内山愚童の弟が火葬場で金槌を以て棺を叩き割つた―――その事が劇しく心を衝いた」と書かれている。
 (愚童はもと僧侶だった。死刑にたちあった沼波という教誨師の記録によると、沼波が「最後の際だけでも念珠を手にかけられたらどうですか」とすすめると、「暫く黙然として考えていたが、唯一語『よしましょう』と答えた」ということである。)
 世間でいわゆるこの「大逆事伴」ほど、日本の国民のぜんたい﹅﹅﹅﹅に大きな衝動をあたえたものは、なかったろう。(私は当時まだ中学生だったが、そのころの雑誌に「十一人の死刑囚の遺骸が落合火葬場に運ばれてゆく列が、ひとだまの火のような警戒の提灯ちょうちんでそれと知れて、点々と暗い夜道を長くつづくのがみえた」といったような記事が載っていたことの記憶が今もはっきりのこっている。)
 秋水は死刑の日、監房からひき出されて、死刑執行を告げられた。このとき、彼は典獄てんごくにむかって、「原稿の書きかけが監房内に散乱してあるから一度監房へ戻して貰ひたい。原稿を整理して来るから」と願い出たが、許されなかった。前記の沼波教誨師は「彼は絞首台に上つても、従容として挙止些も取乱した様子が見えなかつた。或は強く平気を装ふたのではなからうかと疑はれもした註(1)」と伝えている。
 このとき秋水はまだ四十一歳であった。彼の四十一年の生涯は、一八七一年の旧暦七月二十二日にはじまった。それは明治四年だから、まさに維新の変革の実質的な移行の最中である。この翌年に思いきった変革の主張者だった森有礼は、アメリカに滞在中、『日本に於ける宗教の自由』を書いた。すでにのべたように、そのなかで彼は revolution についての論説にふれている。秋水はこうした時代に生れたのである。
 秋水が、自由思想の先覚者を多く出した土佐に生れたことは、まず彼の生涯のあのような進み方を規定した事情のひとつといってよい。林有造や板垣退助に師事したり、または指導をうけたりしたことは、彼が土佐生れであったことに由来する。彼は十歳ばかりのころ、兎猿合戦の物語を書き、それに挿絵まで描いたということ、また(十一、二歳のころ)自分だけの「新聞紙をこしらえて楽しんだ」ということ、それには社説も政治記事も、社会記事もあったというほどに、新聞のていさい﹅﹅﹅﹅のあるものをつくっていたということが伝えられている。もう幼い彼のうちに、のちに発展したものが、萌芽として少しずつ伸びていたということができよう。
 板垣退助を頭首とした自由党が結成されたのは明治十四年(一八八一年)十月であるが、この年は秋水が中学に入った年である。秋水少年の新聞には政治についての文章がのっていたといわれている。十八年には林に会い、十九年には板垣に会っている。これについて彼の自叙伝にはつぎのような文がある。「板垣退助君銃猟の為我郷〔東京ゆき]という事件と、社会的には自由民権派の運動者たち五七〇名が東京退出命令をうけたという前後にない大きな事件とがおこっている。いうまでもなく、三府一八県の有志総代によって、地租軽減・条約改正・言論集会の自由の要求という建白運動の起ったに対して、政府(伊藤内閣)が保安条例を発布して、直接運動者の退去命令を出した事件である。この五七〇名のうちには、もちろん林有造がいたが、中江兆民もこれに入っていた。
 秋水が先輩として師として兆民を得たことは、秋水の生涯のこれからの方針にとってまことに大きな影響力をもった。「其の教養撫育の恩、深く心肝に銘ず」と、彼は後年こうねんの『兆民先生』というながい文章のなかで語っている。註(2)。おそらく秋水は、その文章を書店からたのまれてかいたのであろうが、とにかくそれは兆民の伝記である。しかし、彼は伝記とはいっていない。彼は自問自答して、「伝記か、伝記に非ず。評論か、評論に非ず。弔辞か、弔辞に非ず。ただ予が曾て見たる所の先生のみ、予が見つつある所の先生のみ」といっている。こう書いてきた秋水は、「先生のみ」とかいてもまだ本当のことが言い得ないと思ったか、さらに、こうつけくわえている。「予が無限の悲しみのみ。予が無窮の恨みのみ」と。彼は兆民先生の伝記を書いたのでなくて、自分の悲しみを書きつけたのだというのである。これほどに真実に兆民を語っている文章は、おそらく他にないであろう。少し長いが、その文の「緒言註(3)」だけでもつぎにあげてみたい。


 寂寞北邙呑涙回、斜陽落木有余哀、
 音容明日尋何処、半是成煙半是灰。
 想起す去年我兆民先生の遺骸を城北落合の村に送りて茶毘に附するや、時正に初冬、一望曠野、風勁く草枯れ、満目惨凄として万感胸に堪へ、去らんとして去らず、悄然車に信せて還る。這一首の悪詩、即ち当時車上の口占に係る。鳴呼逝く者は如斯き歟、匆々茲に五閲月、落木粛々の景は変じて緑陰杜鵑の天となる。今や能く幾人の復た兆民先生を記する者ぞ。
 但だ予や年初めて十八、贄を先生の門に執る。今に迨で十余年、其教養撫育の恩深く心肝に銘ず。而して未だ万一の報ずる有らず、早く死別の悲みに遭ふ、遺憾何ぞ限らん。平生事に触れ物に接して、毎に憶ふて先生の生前に至れば、其容其音、夢寐の間に髣髴として、今猶ほ昨日の如きを如何せんや。
 況んや夫の高才を持し利器を抱て、而も遇ふ所ある能はず、半世轗軻伶俜の裡に老い、圧代の経論を将て、其五尺躯と共に、一笑空しく灰塵に委して悔ゐざらしむる者、果して誰の咎ぞ哉。嗚呼這箇人間の欠陥、真に丈夫児千古の恨みを牽くに足る。孔夫子曰へるあり、「従于彼曠野、我道非耶」と唯だ此一長嘆、実に彼が万斛の血涙を蔵して、凝り得て出来する者に非ずや。予豈に特に師弟の誼あるが為めにのみ泣かん哉。
 而して先生今や即ち亡し。此夕独り先生病中の小照に対して坐する者多時、涙覚へず数行下る。既にして思ふ徒らに涕泣する、是れ児女の為のみ。先生我れに誨ゆるに文章を以てす、天の意気を導達する、其れ惟だ是れ乎、即ち禿筆を援て終宵寝ねず。

 明治時代にも、師弟の情の厚かった例はいくらもあったろうけれど、秋水の兆民に対するほどのものは稀であったろう。しかも、兆民と秋水とは唯物論者としてゆるし合っていたのである。私はさきに「秋水が唯物論的世界観をもつようになる生活要素」ということをいったのであるが、秋水が兆民と相知ったということは、その要素のなかのもっとも大きいものの一つであったろう。


註(1)糸屋寿雄『幸徳秋水伝』(一九五〇年)二九一頁「刑死の記録」の節参照。さらに田中惣五郎著『幸徳秋水。一革命家の思想と生涯』四八六頁の「酷刑」の節参照。
  (2) 『幸徳秋水選集』(一九四八年)第一巻。
  (3) 前掲書三頁。

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南総里見八犬伝(012)

『南總里見八犬傳』第十一回・序など

【外題】
里見八犬傳 第二輯 巻一
【見返】
文化丁丑孟春刊行
曲亭馬琴著 柳川重信畫
有圖八犬傳第弐輯
山青堂藏刻

【序】書き下し

八犬士傳第二輯自序[玄同]

稗官新奇之談。嘗作者ノ胸臆ニ含畜ス。初種々ノ因果ヲ攷索シテ。一モ獲ルコト無スハ。則茫乎トシテ心之適スル所ヲ知ラズ。譬ハ扁舟ヲ泛テ以蒼海ヲ濟ル如シ。既ニシテ意ヲ得ルトキ。則栩々然トシテ獨自ラ樂ム。人之未視ザル所ヲ見。人之未知ラザル所ヲ識ル。而シテ治亂得失。敢載セザルコト莫ク。世態情致。敢冩サザルコト莫シ。排纂稍久シテ。卒ニ册ヲ成ス。猶彼ノ舶人。漂泊數千里。一海嶋ニ至テ。不死之人ニ邂逅シ。仙ヲ學ヒ貨ヲ得テ。歸リ來テ之ヲ人間ニ告ルカゴトキ也。然トモ乗槎桃源ノ故事ノ如キ。衆人之ヲ信セズ。當時以浪説ト為。唯好事ノ者之ヲ喜フ。敢其虚實ヲ問ハズ。傳テ數百年ニ迨スハ。則文人詩客之ヲ風詠ス。後人亦復吟哦シテ而シテ疑ズ。嗚乎書ハ也者寔ニ信ス可ズ。而シテ信與不信ト之有リ。國史ノ筆ヲ絶シ自リ。小説野乗出ツ。啻五車而己ナラズ。屋下ニ屋ヲ加フ。今ニ當テ最モ盛也ト爲。而シテ其言詼諧。甘キコト飴蜜ノ如シ。是ヲ以讀者終日ニシテ而足ラズ。燭ヲ秉テ猶飽コト無シ。然トモ於其好ム者ニ益アルコト幾ント稀ナリ矣。又夫ノ煙草能人ヲ醉シムレトモ。竟ニ飲食藥餌ニ充ルコト無キ者與以異ナルコト無シ也。嗚呼書ハ也者寔ニ信ス可ズ。而シテ信ト不信與之有リ。信言美ナラズ。以後學ヲ警ム可シ。美言信ナラズ。以婦幼ヲ娯シム可シ。儻シ正史ニ由テ以稗史ヲ評スレハ。乃圓器方底而己。俗子ト雖固ニ其合難ヲ知ル。苟モ史與合ザル者。誰カ能ク之ヲ信セン。既ニ已ニ信セズ。猶且之ヲ讀ム。好ト雖亦何ソ咎ン。予カ毎歳著ス所ノ小説。皆此意ヲ以ス。頃コロ八犬士傳嗣次ス。刻成ルニ及テ。書賈復タ序辭ヲ於其編ニ乞フ。因テ此事ヲ述テ以責ヲ塞クト云フ。

文化十三年丙子仲秋閏月望。毫ヲ於著作堂ノ南牕木樨花蔭

簑笠陳人觧識

[震坎解][乾坤一草亭]

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読書ざんまいよせい(067)

◎滝沢馬琴・内田魯庵抄訳南総里見八犬伝(002)

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一 番作と蟇六

 伏姫ふせひめが富山に神去かんさり給ひてから十何年になる。武州大塚(今の小石川の大塚)に犬塚番作いぬづかばんさくといふ浪士があつた。もとは大塚の里を知行ちぎやうして大塚を名乘つた管領くわんれい持氏もちうぢ家人けにんであつたが、結城ゆふきの亂に加はつて暫らく踪跡をくらました間に犬塚と姓を改め、持氏の子の成氏なりうぢが再び管領となつてから放浪中にめとつた妻をれて何年振かで舊采地へ戻つて来た。

 然るに番作父子が忠義の爲めに家を明けた不在中、留守居した姉の亀篠かめざさは物竪い父や弟には似ない淫奔女いたづらもので、さぬ仲の義理の母と、二人ふたり棲で誰憚たれはゞかる者も無いので勝手氣儘に男狂ひをし、擧句あげくはては母が病氣でひとの足りないのをかこつけに破落戸ならずものの蟇六を引摺込ひきずりこみ、母が眼をつぶつたのを好い幸ひにズル〳〵ベッタリの夫婦となつた。成氏が管領家くわんれいけとなつて舊臣を召出されると聞くとひき六は俄に大塚姓を名乘って、番作の所在不明を奇貨として先代の忠義を申立てゝ相續を願出た。近所合壁爪彈きんじよがつぺきつまはぢきせぬ者はない破落戸ならずものが先代の忠義の餘徳で村長むらおさを命ぜられ、八町四反を宛行あておこなはれ帯刀も許されて、成上り者の大きな顏をして威張返つてゐた。

 そんな事とは知らずに歸つた番作は、代々忠義できこえた大塚の家名が、姉の不身持から泥を塗られたのを憤つたが、姉と爭つて血で血を洗ふは益〻家名をはづかしめる物笑ものわらひだと、思慮あるだけに奇麗サツパリと忘れてしまつて、浪々の生活を楽んでゐた。が、さらぬだに前から姉の氣隨きずひ不身持ふみもちにが〳〵しく思つたのが愈〻面白くなくなつて十何年間唯の一遍も姉の家へ足踏みしなかつた。ひき六夫婦も何となく弟の家のしきゐが高くなつて、番作の妻が産をした時も長のわづらひの後身まかつた時も顏を出さなかつた。眼と鼻の間で摺れ違つても互ひに顏をそむけて赤の他人よりもつめたくなつてゐた。

 番作の子の信乃しのたび〳〵男の子をくした母の迷ひから、無事に生立おひたつやうにと、俗説に従つて女の子にして育てた。が、赤い衣服きものに不似合ひなあら〳〵しい遊びばかりして、力もあり武藝も好き、其上に一を聞いて十を知る利口者りこうもので、氣質きだても柔しい親孝行であつたから近所のものとなつてゐた。石女うまずめ亀篠かめざさはこれがいま〳〵しくて、信乃しのに負けない子をと物色して漸く玉のやうな女の子をしとねの上から貰つて、蝶よ花よと大切に育ててせめてもの心りとした。

 信乃しのが遊びの友とする飼犬かひいぬらうといふがあつた。番作の妻が子供がしさに瀧の川の辨才天に願掛けして日參につさんした或る日の歸途かへりみち、マダ生れたばかりのいぬの子がクン〳〵鼻を鳴らしてまつはりつくのが振棄てかねて拾つて来たのが與四郎である。信乃は辨才天の授かり子でそのあくる年に産の紐を解いたのであるから、人畜じんちくの区別はあつても與四郎も亦信乃同樣に大切に育て、られた。段々大きくなると毛並つや々しく骨組もたくましく、敏捷で力が強いたぐひ稀れな逸物であつたから一村の群犬は威伏されて、ひきかた飼犬かひいぬも何匹取換とりかへても與四郎に噛伏かみふせられるので、蟇六はごふえてたまらなかつた。結局犬は斷念して、猫は貴人の膝にものぼる犬より貴いものだといふ勝手な理窟をつけて雉子猫きじねこを貰ひ、らうと名をけて家内中が寵愛し、番作と與四郎をの仇に罵つてごふやしてゐた。

 然るにこの秘藏ひざうの紀二郎猫も戀にうかれてトチくるつて屋根からコロ〳〵とオツつたところを與四郎犬にワングリられてしまつたので、蟇六は脳天のうてんから湯氣ゆげを立たして眞赤まつかになつて小厮こものを番作へどなり込ました。が、番作は鼻のさきで應接あしらつて對手あひてにならぬので、切歯はぎしりして口惜くやしがり、一家の小厮こものを集めて評定して秘計を廻らし、到頭與四郎犬をおびき寄せて小厮眷属こものけんぞくオットリ圍んで竹槍で迫廻して半死半生にしてしまつた。其上に與四郎が奥座敷へ飛込んで管領家の御教書みけうしよ泥足どろあしで破いたとこしらへごとして、かね目星めぼしをつけてる番作所持の故主春王こしゆはるわう遺品かたみたる足利家の重寶村雨丸むらさめまるを、御教書破却みけうしよはきやく御詫おわびに管領家へ献上しろといふ難題を持込んで来た。

 蟇六の奸策はいてる。この村雨丸を巻上まきあげておのれの榮達の道具としようとたくらんだ蟇六の蔭謀は、昨日きのふ今日けふでなく、或時は人をそゝのかして買取らうと云ひ、或時は忍び込まして竊み出させようとした。が、蟇六の手に乘る番作でなかつたから、うにも策のほどこしやうが無かつたのをたぞろ此機會に持出したのである。あまつさへ亀篠かめざさはこの難題の使者つかい糠助ぬかすけに、良人が直ぐにも訴へ出ると云つたのを今日一日やつと待つて貰つたので、しんり、弟なればこそ甥なればこそ縄目のき目を見せたくないと苦勞する姉の心も察して呉れと、猫撫聲で云傳ことづてをいはした。

 やがて信乃を枕邊まくらぺに呼びはりに吊した村雨の寶刀を示し、祖父匠作の忠死から村雨の由来を云つて聞かし、

おまへが成人したらおまへの手から直接ぢか滸我こが殿どのへ献上しろ、かまへて蟇六に竊まれるな、俺が今自殺したら里人怒つて蟇六を訴へるかも計られないのを蟇六も恐れるから直ぐ寶刀にも手を出すまいし、里人さとびといかりをなだめる爲めに實意を示しておまへを引取るのは必定ひつぢやうである。第一、イツかは寶刀を手に入れようとするには、おまへを引取つて手許てもとに寄せつけて置くのが上分別と思ふに違ひない。蟇六の職禄は祖父匠作のたまものだから、匠作の嫡孫たるおまへが大塚家に寄食するのは、蟇六の恩をるわけで無いから大手を振つて伯母のところへ行きなさい。御教書みけうしよ破却がウソであるのは知れてるが、ドウセ長くは無い命、汝を托するイヽ死期しにどきが目附かつたのだ。俺は今死んで行く…………』

 と思ひも掛けない父が突然の覚悟に信乃は呆氣あつけに取られて凝視みつめてゐると、豪膽な父が従容しやうようと筆でもるやうに刀をつかんたので、アツと聲を擧げて刀を持つかひなすがりつくと、病衰やみおとろへても勇士の力、『狼狙うろたへる』と爭ふ信乃を叱して膝に組敷き、『水をほとばしらす村雨むらさめ奇特きどくを見ろ』と云ひざま早速さそくに刀を取直して見事に腹を掻切つてしまつた。

 信乃は死骸に取附いて聲を限りにむせび泣いた。暫らくしてきつと思返して、ヤワカ父に遅れじと同じ村雨の寶刀を手ににぎつた時、縁端近く與四郎が苦痛にわめくを聞くと、俄に縁を飛下りて犬のそばに立ち、『おまへ不便ふびんだが、イツまで苦しまして置いては猶ほ不便だから、と思ひにいきを引取らしてやる、俺もあとから一緒に行く』と云ひざまヤツと聲掛けて水もたまらずくびおとした。

 其途端、さつとほとばしる血潮の中にきらめくものあるを受留めれば紐通ひもとほしの穴ある小さな白い玉で、つたのでもうるしで書いたでも無い「孝」といふ字が鮮かに讀まれた。不斗思廻ふとおもひめぐらせば亡き母が與四郎を拾つた辨才天へ日參の或る日の歸るさい、こうしほどの大きさある犬に腰掛け給ふ神女が何度からか現れて、手に持つ數多の玉の一つを授けて忽ちドコへか消えてしまはれたが、コロ〳〵と地上を轉がつた玉が、拾はうとすると見えなくなつた。雛狗こいぬの與四郎が呑んでしまつたらしいと亡き母がたび〳〵午睡ひるねときはなされたが、與四郎の傷口から飛出したのが其時の玉らしいと幼時の憶出おもひでなつかしみてうへころがした。が、死んで行く身にコンナ玉が何惜なにをしからうと棄てると再び跳ね返つて懐ろに飛込んで来るので、煩ささうにまた掴み出して棄てると復た跳ね返つて来て玉に靈ある如く、何遍なんべん棄てゝも返るので、其儘ふところへ入れて部屋へ戻つて来て、率ざとばかりに双肌もろはだを脱ぐと、こは如何いかに、不思議や左のかひなに今までにない牡丹の花の形をした黒痣くろあざが出来てゐた。このまへ玉がふところへ飛込んだ時、左のかひなあたつて些少すこしの痛みを覚えたが、コンナ事で俄に痣が出来ようとも思はれない。不思議な事と思つたが、死んで行く身に要の無い穿議せんぎと、父を手本に肌押廣げて腹を切らうとした瞬間、ドヤドヤとちん入した三人みたり、背後からは糠助が抱留だきとめ、前からは亀篠と蟇六とが左右から兩腕を押へて先づ刀を捥取もぎとつた。

『お前はまア飛んだ事を。』

 亀篠かめざさはワザとらしいオロ〳〵聲で、

『番作が生害しやうがいしたと糠助が飛んで来て知らせたから、喫驚びつくりして駈附かけつけて来りやお前までが…………』

 空涙そらなみだきつゝ、

『番作も片意地過かたいぢすぎる。ドコまてあたしたちを憎まれ者にしたいのだらう。弟と思ひ甥と思へばこそ何卒どうかして無事に収めたいと心配して、女の淺いこゝろからかうもしたらばと糠助阿爺おぢに頼んであたしの心持を相談さしによこしたのに、面當つらあてがましく腹まで切るツてのはアンマリたてぎる。』

 かきかたはらから蟇六は眞實らしいうるみ聲で、

『早まつた、早まつた、早まつた事してれた。日頃は義絶してゐてもつながる縁のわしたちが親子おやこ不利益ふためなんで計らう。かれと思つてた事があだとなつたはうらめしい。其方そなたも共に突詰つきつめたのは無理もないが、モウ心配さツしやるナ。御教書破却みけうしよはきやく越度おちどおもいが、云はゞ畜生のたこと。飼主の番作が切腹したからはう子までにお咎めは無い。假令よし有つたにしてもこの伯父が宜いやうに申釋もうしときをしてやる。』

信乃しのもう心配しやるナ。』

 亀篠かめざさはその尾にいて、

『伯父さまがアヽして心配して下さる。さツう短氣はやめて、これからは伯母が引取つて世話します。蟇六どの、濱路とはイヽ釣合つりあひ、成人せいじんしたら妻合めあはして大塚の家名を相續させませう。』

うとも〳〵。』

 と蟇六は合槌打あひづちうつて信乃をなだめつすかしつして、

『さツ、う短慮はめにして、何よりも死人樣ほとけさま跡始末あとしまつちや。糠助どのも手傳はツしやい。』

 と口と心は反對うらはらに、信乃の機嫌を取り〴〵に先へ立つて世話を焼いた。臨終いまはきはの父の先見がヒシ〳〵と當つて、狐狸きつねたぬきが何をするかと片腹かたはら痛くてならなかつたが、かくも父の遺言通りに中蔭のいみが果てゝから亀篠許かめざさがりに引取られる事になつた。

 其日は故人ほとけが世話になつた里人さとびとを招いて佛事を營み、心ばかりの酒飯を饗應もてなして置いて扨て蟇六が改まつて云ふには、番作と亀篠と繋がる縁の自分との間に打解うちとけ難い誤解があつて、疎遠に暮したを本意ほいなく思つてゐたが、番作が早まつて世を縮めたので今更誤解をく由も無い、この上は信乃を引取つて成人の後養ひ娘の濱路と妻合めあはして大塚の家名を相續させるツモリと眞實らしく披露した。里人は甚六が意外の申出に狐につままれる心地こゝちして各々顏を見合はしたが、それでこそ亡人ほとけも満足してこゝろよく極樂に浮ばれやうと口々に云ひそやして、きらはれものの蟇六が俄に信望を盛返もりかへして男を上げ、里人さとびとが好意で番作にいた番作田ばんさくだをも信乃が成人するまで保管あづかるといふ名目でヌク〳〵に入れてしまつた。
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読書ざんまいよせい(066)

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(008)

第二章 明治の唯物論者

  第一節 なかえ・ちょうみん(中江兆民)

      一 「一年有半」

一年有半いちねんゆうはんとは、中江兆民の代表的な著述のなかの一つの名まえ﹅﹅である。兆民は明治三十四年(一九〇一)十二月十三日になくなったのであるが、それから九ヵ月ほどまえ、つまり三月の終りころのこと、かねてから悪かった喉頭の病気が、癌種だとわかった。兆民は医者にむかって、これから死ぬるまでどのくらいの日月があるか、とたずねた。すると、「一年半、よく養生して二年」だという答えを得た。彼はそのとき、「せいぜい五、六か月だろうと思っていたが、一年とは私にとって寿命の豊年である」とおもった。この宜告があってから、ひとつの著述が書きはじめられた。その本は四か月間くらいでいちおう結了になった。その本に、兆民は『一年有半』という書名をつけたのである。
 『一年有半』の第三節のところに、こう書いてある。「一年半、諸君は短促たんそくなりと曰はん、〔短促とは短くちぢまっていること〕、余はきはめて悠久なりと曰ふ、若しみじかしと曰はんと欲せば、十年もみじかきなり、五十年も短なり、百年も短なり、夫れ生時せいじ限り有りて死後限り無し、限り有るを以て限り無きに足らずや、鳴呼所謂一年半も無也、五十年百年も無也、即ち我儕は是れ、虚無海上一虚舟」。この短い文章のなかに、中江兆民というひとりの人間がまことによく、描き出されている。彼の持ちまえの負けじ魂も出ていることもちろんだが、それよりも、生きていく一刻、生きていく一瞬を、彼くらい「優に利用した」「楽しんだ」人は稀だと思われるからである。彼の一年有半(じつは九ヵ月だが)ほど濃縮に生きぬかれた例も少なかろう。このあいだに『一年有半』はもちろん、『無神無霊魂』という、明治・大正・昭和を通じて他に類例のない哲学書が書かれている。病気の苦痛、それにともなう人生観、これらが書きとめられている寸鉄ふう﹅﹅の文章をみても、彼の一年有半が、どのくらい緊縮的なものだったかが察せられる。つきのような一節がある。

「余の癌種、即ち一年半は如何の状を為す、彼れは徐ろに彼れの寸法を以て進めり、故に余も亦余の寸法を以て徐々に進みて余の一年半を記述しつつ有り、一の一年半は疾也、余に非ざる也、他の一年半は日記也、是れ余也」「疾病なる一年半、頃日少しく歩を進めたるものの如く、頸頭の塊物漸く大を成し、喉頭極めて緊迫を覚へ、夜間は眠り得るも昼間は安眠すること能はず、其食に対する毎に、或は嚥下すること能はざる可しと思ふこと有るも、実際未だ然らず、雞子二、三個、粥二碗、殽二礫、牛潼一日四合は之を摂取して違ふこと無し、是れ今日猶ほ能く余の一年半を録する所以なり」

 またある一節には、

「此両三日来炎威頗る加はり、朝日新聞に九十度を報ぜり、其れが為めにや余の一年半は、此際大に歩を進めたるが如き感有り、頸上の塊物俄然大を成し大に喉を圧し、裡面の腫物も亦部位を拡と為し(誰にても勿論二回以上患ふる理なし)経験無きが故に自ら明にすること能はざるも、食道の否塞する甚だ遠からざるを覚ふ」「余明治の社会に於て常に甚だ不満なり、故に筆を取れば筆を以て攻撃し、口を開けば、詬罵を以て之を迎ふ、今や喉頭悪腫を獲て医治無く、手を拱して終焉を待つ、或は社会の罰を蒙りて爾るには非ざる耶、呵呵」

 このように「一年有半」を見つめ続けるあいだに、当時の日本の政治の現状についてひとつひとつ鋭い批判をなげつけている。兆民の発病の前年のころから、日本の政治は大きな転換をなしとげつつあった。自由党の歴史につながる政治力は弱まり、伊藤博文を首領とした立憲政友会ができ、その後ながく日本の政治を規定するところのあった政友会の内閣ができていた。それでもしかし、国民は「立憲内閣」だという幻影をもっていた。兆民のいわゆる「微弱なる立憲内閣」がそれなのであるが、その内閣が倒れて、桂太郎の内閣が成立したのも、彼の「一年余」の間におこっている。兆民は、桂内閣はその成立だけですでに憲法を政治の基本とする人々に対して「宣戦布告」をしたも同様だと批評している。このとき兆民は、「星亨、健在なりや、犬養毅、健在なりや」といって、民間政治家のなかに人物のいないのをなげている。その星亨が東京市の市会で伊庭想太郎のために刺されて即死した事件(六月)も、兆民の病中のことだし、やや前に戻るが、その年四月の、日本ではじめての社会主義政党である社会民主党の結成片山潜、幸徳秋水、木下尚江、川上清、堺利彦、安部磯雄、石川三四郎、吉川守園、西川光二郎等)、五月その党の綱領発表と同時におこなわれた結社禁止のことも、また「一年余」のなかの出来ごとであった。『一年有半』が公刊されたとき、日本の新聞や雑誌が前後三七社がそれぞれ長い批評を書いたことをみても、兆民の「一年余」は彼にとって「悠久」であったといえるのである。
 病気の進行が急になったのを自覚した兆民は、「余も亦歩調を迅速にし、一頁にても多く起稿し、一人にても多く罵倒し、一事にても多く破壊し去ることを求む可し」といっていて、彼の生命感はいっそう緊張し、いっそう燃焼している。私たちに見落されてならないのは、兆民が、自然法則的に推移する自然のなかの出来ごとと兆民自身とをいつも離して考えていること、また言いかえれば、いつもこの二つを一緒に把えていることである。さきに見たように、彼は癌という肉体のなかの一種の自然的組織変化をば「彼」と呼んで、兆民自身のことを「余」と呼んでいる。「彼」と「余」とが一つになって戦っている。頸頭の塊物、つまり自然物の生成﹅﹅と悩みつづける自分﹅﹅とを対立させている。この意識は彼にとって苦痛このうえないものであったろうが、しかし、癌も苦痛も、正義も愛慾も、すべてを虚無海上にうかぶ虚舟と観去みさる、ひとつの世界観が彼をつつみ、彼を慰めたこともあったろう。おそらく、そうしたところに彼の唯物論的世界観があったろうとおもわれる。
『一年有半』の読者は、この書のなかでなんどか兆民の罵倒、罵詈のことばをきくのである。
「天も亦余の罵詈癖の頑なるに驚く」だろうといっている。もちろん、彼にとって罵倒は批判であって、政治家罵倒は政治批判である。彼にとって精神罵倒は精神浄化である。彼は星亨の刺殺事件のときに、「暗殺蓋し必要欠く可らずと謂ふ可き耶」とさえいっている。これもまた批判であり検覈けんかくである。このような、ちょっとみては矯激にすぎるような言い方、仕方は彼の性格のためだと簡単にきめることは正しくない。彼の教養のひろさ、彼の思索の深さ、彼の感情の純粋さ(徳富蘇峰はこの点を強調して称揚した)、彼のイデオロギーの正かく﹅﹅さ、これらの総計が、明治の二十年と三十年代の日本の現実との間のいわば﹅﹅﹅大きな落差、大きな懸隔が、兆民にああした言動をとらせたのだというべきである。外国に求めた兆民の知識は主としてフランス語を通じてであったが、フランスの政情、フランスの文学、フランスの哲学思想については、彼は強い自信をもっていた。フランス滞在中、『孟子』『文章軌範』『外史』などの仏訳を試みたということもつたえられている。彼の思索の深さについては、あとで触れるが、『無神無霊魂』一冊の内容がいや応なく私たちを驚嘆させる。彼のイデオロギーが正かく﹅﹅であったかどうかは、彼のなくなった後の日本の半世紀の政治的推移が私たちに教えてくれている。彼の感情の純粋さについては、つぎの小話しょうわが、私たちにむしろ日本人の性格を指摘しつつ、私たちに納得なっとくを強いてすらいる。あるとき、幸徳秋水と兆民との対談のなかでフランス革命の話が出た。秋水が「仏国革命は千古の偉業だが、あのいたましさはかなわない」というと、兆民は「私の立場は革命党だ。だが、もし私がルイ十六世が眼のあたり絞頸台にあげられるのを見たら、私は走りよって剣手を撞き倒し、ルイ王を擁して逃がしたろう」と答えた。後に秋水は「先生の多血多感、忍ぶ能はざるの人なり」と、追憶して言っている。明治時代では日本はいわゆる「熱血漢」を多数、政治のなかに送りこんだが、兆民もその一人である。徳富蘇峰のつぎの評はあたっている。「真面目な人なり。常識の人なり。夫として其妻に真実に、父として其子に慈愛に、友として其交る所に忠なるの人也。但だ皮下余りに血熱し、眼底余りに涙多く、腹黒きが如くにして、極めて初心、面皮硬きに似て頗る薄く、自ら濁世の風波に触るるに堪へざるの身を以て、強て之を凌がんと欲してあたあたはず。為めに時に酒を仮り、時に奇言を籍り、以て其自ら世に容ざれる悶を排せんと試みたるのみ」
 秋水は兆民の文章を批評して、「瓢逸奇突、常に一種の異彩を放つて、尋常に異なる」ものがあるといったが、そうした風格といったようなものは、兆民が禅に関心をもって、いわゆる方外(世俗より外の人たちつまり禅僧)の人と交際し、好んで仏典や語録を読んでいた(たとえば『碧巌録』は愛読の書であった)ことと、関係があったにちがいない。兆民の病中の詩のなかにつぎの句がある。「夢覚尋思時一笑、病魔雖◦ 有◦ 兆◦ 民無」。この有兆民の圏点<◦とした>は兆民自身の付したものだと、この詩を贈られた秋水は書きのこしている。
 私はかつて、兆民の略歴と著述を『日本哲学全書』の第六巻でのべたことがある。それをここに参考のために、多少の重複はあるが、あげておきたい。

中江篤介は弘化四年(一八四七年)に土佐、高知県に生まれた。
 土佐は又明治初年における自由民権運動の発祥地であった。兆民の生涯は、フランス系統の自由主義を貫徹せんが為の苦難、受難の歴史であった。加藤弘之の高位高官生活と較べてみると、兆民の生涯を蔽う不遇と貧困とはいよいよ明瞭となる。彼は「東洋のルソー」と称せられたが、これは彼がルソーの『民約論』を翻訳して非常な影響を当時の日本の社会・政治・思想界に与えたことに原因がある。
 篤介は幼名を竹馬と称し、長じて、青陵、秋水、南海仙漁、木強生、兆民等と号した。十三歳で父を亡くした後、荻原三生、細川潤次郎に就いて蘭学を学び、慶応元年十九歳の時、高知藩の留学生として長崎に行き、平井義十郎にフランス語の指導を受け、二年の後江戸に出て村上英俊に師事したが放逸の為破門せられた。神戸、大阪開港の時仏国領事に従って大阪に赴き、転じて江戸に移り箕作麟祥の門に入った。明治初年福地源一郎の日新社の塾頭に任ぜられた事もある。明治四年政府留学生としてフランスに留学し(後藤象二郎、板垣退助の推挽に依るものであった)、主として哲学、史学、文学を修め、西園寺公望、光妙寺三郎、今村和郎、福田乾一、声が漸次たかまって来た。留学中に『孟子』『文章軌範』『日本外史』等を翻訳したとも伝えられるが確実な資料がない。帰朝後元老院書記官に任ぜられたのであったが、幹事陸奥宗光と意見が一致せずして罷め、外国語学校長の椅子に就いたが間もなくそれも辞し、番町に私塾を開いて政治、法律、歴史、哲学等の諸科を講じた。前後、この門に学んだ者は二千余人に上ったとのことである。
 その当時においても彼は岡松甕谷の門に入り漢文を学んだ。甕谷は明治文学史上森田思軒と並んで漢文に優れていたことは広く人の認めるところである。
 明治十四年三月西園寺公望が『東洋自由新聞』を創刊するに際して入社したが、翌年四月同紙廃刊後十五年二月『政理叢談』を刊行(十七年まで続刊、三月(五六号)より『欧米政学雑誌』と改題)、同十五年六月『自由新聞』(十八年三月廃刊)を発行して急進的なる自由民権説を鼓吹した。
 明治二十年保安条例に遭って東京から退去を命ぜられ、大阪に走って、栗原亮一、宮崎富要、寺田寛等と協力して『東雲新聞』(二十一年)を起し主筆となったが永続しなかった。二十一年赦されて東京に帰り、後藤象二郎の援助を得て『政論』を刊行したが間もなく後藤と政治上対立したので袂別し、自ら『立憲自由新聞』を二十四年一月に創刊した。二十三年、彼は第一議会に大阪水平社に擁せられて当選、代議士となったが、予算八百万円削減問題に関し自由党の土佐派が政府の意を迎えて、その自由主義を伊藤博文等の政治運動の中に解消した事に憤激し、再び議会に出るを欲しなかった。当時又彼の『経倫』『京都活眼新聞』『民権新聞』(『立憲自由新聞』の改題)等を起して、改進、自由両党の連合を説き、政党運動にエポックな影響を与えたのも当時であった。
 その後彼は政界、文壇から去って実業に専心する様になった。
「今の政界に立つて銕面なる藩閥政府を敵手にし、如何に筆舌を爛して論議すればとて、中々捗の行くことに非らず。さらでも貧乏なる政党員が運動の不生産消費は、窮極する所、餓死するか自殺するか、左なくば節を抂げて説を売り権家豪紳に頣使せられるより外なきに至る。衆多の人間は節義の為めに餓死する程強硬なるものに非ず、(中略)金なくして何事も出来難し、予は久しく蛙鳴蝉噪の為す無きに倦む、政海のこと、我是れより絶えて関せざるべし」とは兆民が当時幸徳秋水に語った心境である。二十五年彼は小樽に行き『北門新報』の主筆となったが、間もなく罷めて札幌に紙店を開き、山林業にも手を染めたが失敗した。東京に出て実業に従事したが、その詳細は判然しない。明治二十三年の秋『毎夕新聞』の主筆に招かれ、次いで国民同盟会に投じて再び政治的関係を結び、彼の生涯の敵と目した藩閥と戦ったが、同年十一月頃より喉頭癌を病み、翌三十四年九月泉州堺に病を養うも効なく、九月帰京し、小石川武島町の自邸で『続一年有半』を執筆し、十月に出版し、十二月遂に長逝、無宗教葬をする事を遺言した。享年五十五歳。
 猶お兆民の生涯について知ろうとする人は、幸徳秋水著『兆民先生』(三十五年)を読むといい。彼の著述は政治的関心が全体を貫いている。彼の著述及び訳述を挙げれば次の如くである。

孛国財産相続法 仏・ジョゼフ著         明治十年
民約訳解 ルソー著漢訳             同 十五年
仏国訴訟法原論 仏・ボニエー著         同 十一―二年
非開化論 仏・ルソー著             同 十六年
理学沿革史 仏・アルフレッド・フーイヱー著   同 十九年
理学鉤玄                    同 十九年
革命前法朗西二世紀事              同 十九年
平民の目ざまし 一名国会の心得         同 二十年
三酔人経倫問答                 同 二十一年
国会論                     同 二十一年
選挙人の目ざまし                同 二十三年
四民の目ざまし                 同 二十五年
憂世概言                    同 二十三年
道徳大原論 ショーペンハウエル著        同 二十七年
一年有半                    同 三十四年
続一年有半                   同 三十四年
警世放言                    同 三十五年

 その他『兆民文集』(幸徳秋水編・明治四十二年)、『中江兆民集』(改造文庫・昭和四年)、『中江兆民篇』(『現代日本文学全集』第三九巻・五年)、『明治文化全集』第七巻「政治篇」等を見るべきである。

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