南總里見八犬傳卷之三 第五回
東都 曲亭主人 編次
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「瀧田の城攻に貞行等妻立戸五郎を追ふ」「金まり八郎」「里見よしさね」「堀内貞行」「妻立戸五郎」
良將策を退て衆兵仁を知る
靈鴿書を傳て逆賊頭を贈る
山下柵左衞門尉定包は、麻呂安西へ遺したる、その使者瀧田へ立かへりて、「彼輩は忽卒に、歸降のよしをいはざれども、いたく怕害て候ひし。遠からずしてもろともに、みづから詣來て罪を勸解、麾下に屬せんこと疑ひなし。その爲體は箇樣々々、如此々々に候ひき」、となきことまである如く、辭を飾り、首尾精細に、飽まで媚て吿しかば、定包ます〳〵こゝろ傲り、夜をもて日に續遊興に、士卒の怨をかへりみず、或は玉梓と輦を共にして、後園の花に戲れ、或は夥の美女を聚て、高樓に月を翫び、きのふは酒池に牛飮し、けふは肉林に飽餐す。一人かくの如くなれば、老黨も又淫酒に耽りて、貪れども飽ことなく、費せども盡るをしらず。王莽が宇內を制する日、祿山が唐祚を傾るとき、天日私に照らすに似たれど、逆臣はながく命をうけず。定包が滅んこと、必久しからじとて、こゝろあるは目を側、爪彈をするもの多かりけり。
浩處に、城外城中悤劇く、「敵軍間ちかく寄たり」とて、罵ること大かたならず。定包は後堂に、酒宴してゐたりしが、これを聞て些も騷がず、「そは何ほどの事やはある。憖に虎の髯を引く、安西麻呂等にあらざりせば、民を劫して物を奪ふ、山賊等にぞあらんずらん。そが爲體を見て來よ」とて、やがて斥候を遺しければ、且して立かへり、「敵は安西麻呂等にあらず、又山賊にも候はず。誰とはしらず千騎あまり、整々として稻麻のごとく、陣列隊伍法に稱ひて、中軍には一トながれの、白旗を推立たるが、尋常の敵にはあらず。こゝを去ること二十餘町、人霎時馬の足を休て、推蒐んず光景也。悔りがたく候」、と吻きあへず報知しかば、定包聞て眉を顰め、「白きは源家の服色なり。安房上總にして白旗を、用るものありとはおぼえず。是も又人を惑す、敵の謀にぞあらんずらん。そはとまれかくもあれ、敵はかならず長途に疲勞て、この曉に寄んとすらん。逸をもて勞を擊ば、勝ずといふことあるべきやは。とく追ひ拂へ」、と令を傳へて、岩熊鈍平、錆塚幾內といふ、腹心の老黨に、五百の軍兵を授しかば、兩人欣然と命を受、遽しく衆兵を率て、前門より馬乘出し、勇にいさみて馳去けり。
さても岩熊錆塚は、萬夫無當の力士にて、武藝も衆にましたるに、こゝろざま奸佞なれば、なす事每に定包が意に稱はずといふことなく、一二の老黨と重用せられて、よろづ傍若無人なれども、人僉氣を屈、恨を隱して、下風に屬ざるものなかりき。かゝれば山下定包は、日來より、彼兩人を、憑しく思ひつゝ、この日も討手の大將に、擇出して遺したれば、「今はや寄手の奴原を、蹴散さんこと疑ひなし。さのみ騷ぐことかは」とて、只兵等に四門を護らせ、わが身は又奧に入りて、婢ばらを召つどへ、歌舞艷曲に興を催し、酒宴酣なりし比、正廳のかたさわがしく、「よからず〳〵」、と叫びしかば、定包は管絃の、手をとゞめさせ、耳を側、「異なるものゝ聲ざまかな。男童ども見て來よ」、といふに左右に侍りたる、兩個の小扈從もろともに、立あがらん、とする程もあらせず、思ひがけなく庭門より、嚮に討手に向られたる、軍兵等五六十人、數个所の深痍を負たりける、大將岩熊鈍平を、楯のうへに括り乘せ、舁つゝやがて孫廂の、ほとりまで推參して、異口同音に「御注進、々々々」、と喚りつ、手負を撲地と扛おろして、二帶に立わかれ、阿容々々として蹲踞る。仂武者なれども二个所三个所、痍を負ざるもなかりしかば、玉梓は劇惑ひて、婢ばらに扶られ、屏風の背に隱れけり。現縡の爲體、敗軍と見てしかば、定包は呆果て、「これは什麼何事ぞ」、と問れて先にすゝみたる、老軍等頭を掻き、「申上るも面ぶせなる、大將の軍配に、躬方の進退一致せず。敵は聞しにいやませる、勇將なり猛卒なり、しかも大軍なりしかば、擊ども射れども物ともせず。一陣に進る猛將、鏁の上に大荒目の鎧を重て、長一丈あまりなる、鎗りう〳〵とうち揮つゝ、馬の平頸に引添て、眼を睜り、大音楊、『群賊天罰脫れず、白刃頭に臨むを曉らで、虎威を犯すは愚なり。しらずや里見義實朝臣、こゝに遊歷し給ひしを、州民推て主君と仰ぎ、逆を擊冤に報ふ、そが事の手はじめに、東條の城を降して、萎毛酷六を誅戮し、更に瀧田の城を拔き、賊主定包を誅せんとて、孝吉先陣をうけ給はり、おん鄕導つかまつれり。來れるこの隊の賊將を、錆塚岩熊と見るは僻目欤。きのふまでは古主に仕て、共に神餘の祿を給し、金碗八郞を忘れはせじ。われは彼古主の爲に、漢を佐て秦楚を討たる、張子房が御注孤忠に做ひて、里見の君に扈從しつ、義兵を勸め奉り、敢刃に衅らずして、一城を拔き、二郡を略し、既にその巢に近つきたり。非を悔て兜を脫ぎ、御方に參るものは生ん。憖防ぎ戰ば、天に向て唾き、淵に臨て水を打如く、勞して功なきのみならず、その咎その身に被りなん。いで試みよ』、と喚りて、馬に拍れ鎗閃かして、縱橫無礙に擊靡け、はや一陣を突崩して、大將錆塚と鎗を合し、人まぜもせず戰ひしが、孝吉大喝一聲して、幾內が鎗卷おとし、胸前望て丁と突。衝れて馬より摚と落れば、雜兵等走よりて、押て頸を取てげり。錆塚竟に擊れしかば、則こゝに侍るなる、岩熊鈍平大きに怒りて、四尺六寸の大刀拔翳し、金碗を擊んとて、眞一文字に馳よすれば、二陣に進む里見の老黨、掘內藏人貞行と名吿つゝ、紺絲の甲に、鍬形打たる冑の緖を縮、連錢芦毛の、く太逞き馬にうち跨て、備前長刀の鏢さがりに、菖蒲形なるを挾み、『渠奴をば吾㑪に擊し給へ』、と金碗に會釋して、馬を躍らせ衝と出て、鈍平を遮留め、丁々はつしと戰ふたる、刀尖より火を散し、一上一下手煉の大刀風、劣らず勝ず見え候ひしが、何とかしけん岩熊は、馬の平頸斬裂れ、主もろ共に轉輾ば、貞行長刀とり延て、內兜を磤と突。あはや鈍平、擊れぬベく見えたる處を、某等肩に引被、辛じて逃走れば、敵の大將里見義實、三才駒に雲珠鞍置して、華やかに鎧ふたる、威風凛然四下を拂て、馬上ゆたけく麾うち揮り、『かゝれ〳〵』、と令に從ふ、勢潮の涌ごとく、咄と唬て攻立れは、躬方はます〳〵辟易して、兜を脫、弓を伏、大かたならず降參して、卻こなたを射る程に、纔に殘る六十餘騎、深痍淺痍を負ぬもなく、やうやく必死を脫れて、逃かへり候」、と吿れば鈍平面なげに、ものいはんとはしつれども、小鬂の外を劈れ、背を馬に敷れしかば、頭だも擡得ず、日影まつ間の冬の蜂、痛手にさすがはり橈み、かよふは蚘の息ばかり、物の益には立ざりけり。
定包は聞あへず、眉うち顰め、大息つき、「里見は結城の方人也。彼城沒落しつるとき、擊れにけり、と聞たるに、この處へ漂泊して、大軍を起せし事、とにもかくにもこゝろ得がたし。實に東條落城して、酷六擊れたらんには、城兵こゝへかへり參りて、吿ずといふことあるべからず。又彼金碗孝吉は、神餘譜代近臣なれども、逐電したる癖者也。身の措ところなきまゝに、潛びかへりて彼此なる、愚民を惑し、野武士を集め、さま〳〵なる流言して、英氣を折く詭の計にぞあらんずらん。しからば寄隊の摠大將は、眞の里見によもあらじ。とは思へども豫が爲に、腹心股肱の勇臣たる、畿內は墓なく擊れ、鈍平深痍を負し事、時運によるとはいひながら、侮りがたき敵にぞある。いよゝ四門を堅く守らせ、東條へ人を走らして、そが消息を問せんには、虛實はやがてしるべき也」、といふ言葉いまだ訖らず、小扈從等走り來て、東條の落武者等、逃かへりたるよしを吿れば、定包聞て「是も亦、虛說にはあらざりけり。われその縡の趣を、みづから聞んず。物どもを、庭門より參らせよ。とく〳〵」、といそがし立れば、こゝろ得果て走去けり。
且して東條なる、酷六に從ふて、落つゝ辛く脫れたる、雜兵等三四人ン、十王頭の肱當臑當、腹卷ばかりいかめしけれど、餓鬼のごとく疲勞果て、膝に手を掛け引く足の、一步は高く、一步は低く、庭門よりよろめき入るを、定包近く召よせて、「やをれ物ども、東條を攻られなば、落城せざる先にこそ、注進は得せずして、敵はやこなたへ寄せたる後に、阿容々々として參ること、六日の菖蒲、十日の菊、その詮絕てあるべきやは。かへす〴〵も越度なれ」、と睨著れば、おそる〳〵、四人齊一まうすやう、「怒らせ給ふをなか〳〵に、理なしとは思ひ奉らねど、縡只呼吸の間に起りて、落城して候へば、吿奉る隙候はず。その故は如此々々なり。箇樣々々に候」、と小湊なる村民等が、金碗八郞を縛來て、深夜に城戶を開せたる、計策の爲體、透もあらせず敵の大軍、どよ〳〵と迫入りて、矢庭に城を落せし事、萎毛酷六は妻子を將て、笆の內より落ゆく處を、金碗八郞に追蒐られて、妻子は谷へ滾落、皮骨碎けて死せし事、萎毛は金碗に、擊れたる縡の趣、委細に演訖り、「某等この事を、片時もはやく吿奉らん、と思はざるに候はねど、城兵過半降參して、敵はます〳〵勢付ぬ。街道を走るときは、追擊れんこと疑ひなし、と思へば徑に遶り入り、山越をして候へば、敵より後に來つるとて、おん咎を蒙ること、是非に及ず候」、と勸解れば定包齒を切り、「原來金碗八郞が、結城の落人を引入れて、縡みな彼奴が計りし也。いでやみづから馬乘出して、まづ金碗奴を生拘らずは、熱しき腸を冷よしあらんや。とく出陣の准備をせよ」、と跳楊て敦圉ば、老軍等は「よしなや」、と呟きあへず東條の落武者に目を注して、痍負岩熊鈍平を擡起し、僉もろ共に退出しを、定包はなほしらずして、勢猛く罵りつゝ、と見れば四邊に人をらず、いふがひなければ、つく〳〵、と思ひかへせば「愸に、擊て出んは究めて危し。要こそあれ」、とひとり點頭、老黨近習を召よして、籠城の准備是彼と、おちもなく說示し、「義實大軍なりといふとも、原是烏合の集り勢。けふより十日を俟ずして、兵粮竭て退きなん。そのとき急に追擊ば、金碗等はいふもさらなり、大將義實を擒にせんこと、袋の物を取るより易けん。しかはあれど、麻呂安西等、義實に一致して、もろ共に寄せ來らば、こはゆゝしき大事なり。顧ふに麻呂小五郞は、匹夫の勇士謀るに足らず。こゝろ憎きは安西のみ。思慮あるよしを豫て聞り。さりともわれ今利をもて誘引、箇樣々々にこしらへて、東條をとり復さば、義實一旦逃走るとも、何處へか還るべき。進退そこに究りて、雜人們が手にこそ死め。敵この處へよせざる間に、件の使者を出し遺なん。誰か今豫が爲に、館山平館へ使すべき」、と思ひ入りて問しかば、妻立戶五郞と呼るゝもの、聲に應じて進み出、「願ふは某うけ給はらん」、といへは定包大きに歡び、「汝は畿內純平等に劣らず、豫がこゝろをしれるもの也。ゆかんと乞ふを許さゞらんや。館山平館へはせ行て、景連等にいふべきは、『定包古主の遺蹟を收て、新に二郡を領せしに、結城の落人里見義實、當國へ漂泊して、愚民を惑し、野武者を集め、不意に起て東條の城を乘取り、勢ひに乘しつゝ、既に瀧田へ推よせたり。兎烹られて弧患ふ。これその禍遠からず、等類に及べばなり。定包不肖に候ヘども、正しく神餘の遣領を受れば、舊好はその家にあり。兩君いかでか鄰郡の兵役を救ずして、共に弊を受給はんや。速に出陣して、東條を攻おとし、敵の後を襲ひ給はゞ、義實三面六臂なりとも、三方に敵を受て、防戰かなふべうもあらず、鏖にせられん事、絕て疑ひなきもの也。義實輒く誅伏せば、是兩君の賜なり。定包は平郡一郡、瀧田一城にて事足なん。誰にもましませ東條を、攻おとし給ふ人に、長狹郡を進らせん』、と叮嚀に演よかし」、といへば戶五郞面を瞻げ、「御諚では候へども、よしや里見は滅ぶとも、長狹郡を人に取らせて、みづから所領を削給はゞ、外の援を憑むもよしなし。賢慮をめぐらし給はずは、御後悔もや候はん」、と老黨もろ共諫れば、定包聞あへずうち微笑み、「汝等もしか思ふ欤。こは豫が計略になん。鷸蚌持して漁者に獲らる。長狹一都を餌にして、安西麻呂等に東條をとり復させ、更に里見をうち滅さば、景連信時利に迷て、確執に及ぶべし。件の兩將彼地を爭ひ、合戰しば〳〵なるときは、一方は傷られ、一方は必擊れん。われは則その虛に乘りて、安房朝夷の二郡を取らん。當國こゝに平均し、居ながらにして四郡を握らば、愉きことならずや」、と誇㒵に說喩せば、戶五郞只管感佩して、定包が書簡を乞とり、身輕く鎧て駿馬に鞭うち、館山を投て馳去けり。
さる程に里見の大軍、詰旦未明より、瀧田の城をとり卷て、息も吻せず攻れども、要害固より堅固なる、神餘數代の名城なれば、一朝にして落べうもあらず。晝夜をわかず攻ること、既に三日に及べども、城兵は擊て出ず、寄手もさすがに疲勞れしかば、只遠攻にぞしたりける。浩處に武者一騎、暮かゝる日ともろともに、西の城戶より入らんとて、構端さして馬をよすれば、堀內貞行佶と見て、「渠奴は必定城より出て、麻呂安西に援を乞ひ、今立かへるとおぼえたり。彼生拘れ」、と喚れば、早雄の若武者等、「うけ給はる」。と應あへず、犇々と追蒐たり。城中よりもこれを見て、「妻立を擊すな」とて、西城戶を推開ば、戶五郞は衝と馬を入れて、そが侭橋を引しかば、寄手は狩場の偸立鳥を、追失ひしこゝちしつ、つけ入る事もかなはねば、いたく焦燥てひらおしに、攻破んと鬩ば、義實これを召かへさせて、貞行等に宣ふやう、「怒に乘して事をなせば、後悔せずといふことなし。件の武者を生拘りて、緣由を鞠問し、さてそが首を刎たりとも、安西麻呂等相譚れて、わが後を襲んには、城はいよ〳〵落べからず。諸方の攻口合期して、後に備、前を擊、常山長蛇の勢を、張るには絕てますことあらじ」、と叮嚀に說諭し、「麻呂安西等を禦げ」とて、軈て五百の軍兵を引わけて、掘內貞行を後陣に備させ、更に東條へ人を遺して、杉倉氏元に云云のよしを吿、「籠城由斷すべからず」とて、よくそのこゝろを得させ給ひつ、金碗孝吉もろともに、義實みづから墎を遮りて、短兵急に攻給ふ。かゝりし程に定包は、妻立戶五郞が恙なく還れるよしを聞しかば、遽しく召入れて、その消息を尋れば、戶五郞流るゝ汗推拭ひ、「さン候景連信時、一議に及ばず、領諾して候ひき。又彼里見主從は、そのはじめ館山なる、安西に身を寄たりしを、大かたならず威されて、逃吠したる白徒也。いかにして日ならずも、大軍を起しけん、こゝろ得かたき事也とて、景連も信時も、媢しと思ひ候へば、東條を改んこと、疑ひなく候」、と報知れば定包ます〳〵歡び、戶五郞を勞ひて、物夥被させ、「ます〳〵寄手を禦」とて、をさ〳〵館山平館より、援來つるを俟てをり。
かくて日來經る隨に、寄手は既に兵粮竭て、三日の貯祿なくなりしかば、貞行孝吉これを患ひて、義實にまうすやう、「既に出陣まし〳〵て、七八日を經たれ共、いまだ東條より兵粮をまゐらせず。思ふに杉倉氏元は、老功の兵なれども、彼處も新に獲たる城也。民催促に從はで、物とゝのはずや候はん。時は今麥秋にて、彼臠せ、遠山畑なる、麥はや熟して候かし。刈とらせ候ばや」、といへば義實頭を揮り、「否わが瀧田を攻る事は、民の塗炭を救ん爲也。然るを今その農を奪ひ、その生麥を掠とりて、兵粮となすときは、人を食ふて身を肥す、虎狼に等しからずや。加以長狹の農民、催促に從はで、彼處に兵粮とゝのはずは、是わが德の至らぬところ、速に退陣して、德を脩め民を撫、時を待て瀧田を攻ん。さはあらずや」、と宣へば、貞行霎時頭を傾け、「仁心ふかくましませば、おん身を責てかくまでに、民を憐み給ふこそ、よに有かたき事に候へ。さはれ今このまゝに、こゝを退き給はんには、かならず城より擊て出、難義に及び候はん。今宵篝火の數をまして、はや攻かゝるごとく思はせ、眞夜中過て後陣より、軍兵を退せ、樹立隙なき處々に、伏兵を殘し置、君中軍にをはしまし、某殿つかまつらば、縱城より追携て、啖留んとすればとて、なでふ事欤候べき」、といふを孝吉聞あへず、「杉倉氏の計策、可ならざるにあらざれども、さでは只身を衞り、敵を禦ぐの外なきのみ。もし愚按によるときは、三四百の壯士等に、計略說授け、麻呂安西等が籏をもたし、或は指物笠印まで、皆その模樣に打扮して、黃昏過る比及に、我本陣の西北を過りて、城に入まくするときに、こなたより犇々と、遮留て追ひつかへしつ、同士擊をしたらんには、城中よりこれを見て、『すは館山平館より、援の兵來れるぞ。彼擊すな』、と城戶椎ひらきて、かの援兵に力を勠し、城へ入れんとせでやは止ん。そのとき件の軍兵を、先に立して我三軍、思ひの隨につけ入られば、一擧して城を落さん。斯ではいかゞ候べき」、といと正首に謀まうせば、義實つく〴〵とうち聞て、「貞行が策は、危からざれども我に益なく、孝吉が策は、巧なれども、甚危し。おもふにいにしへの聖王賢將、仁義の軍を起すものから、詭りをもて捷ことをはからず。唐山晉の文公は、詭計を用ずして、五伯の一と稱せられ、よく周室を佐たり。孫吳が兵法、詭道を旨とす。こは戰國の習俗也。策よしといふとも、詭をもて敵を滅し、その土地をたもつときは、何をもて民を敎ん。汝達の策、從ひかたきはこの故なり。定包富饒の地を有ち、要害の城に籠り、且三年の糧ありとも、防禦の術尋常なれば、落しがたしといふにしもあらねど、一時に城を乘取らば、罪なき民を多く殺さん。曩にしば〳〵いひつるごとく、定包に從ふもの、皆兇惡の人のみならんや。權に壓れ、威におそれ、一旦城に籠るとも、その樂を共にせず、竟に憂を共にして、命を其處に隕しなば、いと痛しき事になん。秦の降卒八萬人ンを坑にせし、項羽が兇暴いへばさら也、秦の蒙恬、漢の霍光がごとき、智勇の將は竟に後なし。人を殺すの多き故也。願ふ所は定包のみ、只渠一人を誅せば足りなん。この餘のうへは謨るに堪ず」、と叮嚀に說諭し給へば、貞行も孝吉も、只「噫」とばかり感伏して、又いふよしもなかりけり。
しばらくして件の兩人、思はずも嘆息し、「賢慮凡智の外に出て、昔の聖王賢將も、このうへや候べき。しかはあれど、時既に澆季に及びて、利に聚ふもの甚衆く、德によるもの究て寡し。君が兼愛淺からで、敵城に籠れる民まで、助まほしく思召ども、勢ひ兩ながら全からず。兵粮既に竭ながら、詭の計もて、城を乘取ことを要せず、又詭計て、退くことを肯給はず、徒に日を送り給はゞ、凡躬方の千餘人、饑渴に得堪ず、離れ叛ん。さるときは又誰と共に、大事を興し給ふべき。宋襄の仁、徵生が信は、日來笑せ給ふならずや。猶且賢慮をめぐらし給はゞ、しかるべからん」、とまうすにぞ、義實莞尒とうち笑みて、「兵粮乏しくなりぬるよしは、豫も又これを患ざらんや。物を思へば空のみ欤、彼此となく瞻望れば、東南のかたなる豆畑に、鴿夥求食あり。彼何處より聚ふと見れば、瀧田の城より旦に來て、夕になれば還るかし。鳩は源家の氏の神、八幡宮の使者とぞいふなる。これによりて不意、些の術を獲たりしかば、則神に祈りつゝ、壯佼どもにこゝろ得さして、竊に羅して件の鳩、五六十を捕たり。かくて數通の檄文を書寫め、件の鳩の足に結びて、放さばかならず城へ還らん。さるときは人怪みて、鳩をとらへてその書を見つべし。よしや捕ることなく共、結目解て落るもあらん。城中にあるとあるもの、この檄文を披閱て、逆を去、順に歸す、こゝろ起らば變を生じて、城は攻ずも必破れん。縡もし成らば國の仇、賊主定包をのみ誅して、民の望を果すべし。城兵豫て定包に、從ふこゝろなきものも、こなたへ參らばなか〳〵に、誅せられん、と怪みて、仇の爲に城を守る欤、是も又不便なり。誠に小兒の智にひとしく、果敢なき謀に似たれども、曩に此方へ寄するとき、待崎のほとりなる、白籏の神に祈れば、山鳩の祥瑞あり。今又こゝに鴿の祐あらばと祈るのみ。成ならざるは神にまかして、如此して見よ」、と仰れば、貞行孝吉ます〳〵甘じて、「微妙謀らせ給ひにけり。今定包が罪を數へて、城中へ示さんには、これにますべき術はなし。軍民一トたびその書を閱せば、憤發して亂を生じ、賊首の頭を獻らん。速に行ひ給へ」、と辭齊一應まうしつ、金碗孝吉奉りて、草案を綴る程に、はしり書する士卒を聚合て、數十通を寫させ給ふに、立地に寫し畢りしかば、その日はいまだ暮ざりけり。かくて義實主從は、香を燒、神酒を沃ぎて、白籏の祠を遙拜し、豫て捕おかせ給ひし、數十羽の鳩の足に、彼檄文を結著て、そがまゝに放給へば、案に違ず翩々と、飛揚りつゝうちつれ立て、みな城中へかへりけり。堅くも結ばぬ狀なれば、鳩は城中へ入るとやがて、おのづから結目のとけざるはなかりしに、殊更不思議なりけるは、此度軍役に驅入られし、平郡の莊客們が小屋のほとりへ、處も違へず落せしかば、「こは什麼何ぞ」と疑惑て、衆皆手に〳〵拾ひとりて、遽しく押開けば、
流水不附干高。良民不從乎逆。若夫佐桀討堯。猶水而附高也。謂之悖於天。雖欲久。勢不可得。抑賊主定包者。奸詐以仆主。蠹毒以虐民。雖云王莽祿山。又何加焉。恭以吾主源朝臣。南渡日。未幾。見推干衆而討逆。拔民於塗炭中。德如成湯。澤似周武。於是乎。取東條。略二郡。將破其巢也。可憐汝衆人。隕命於賊巢。因以喩示干此。奚不速歸順。奚不功以償罪。區々取惑。雖悔曁焉哉。天鑒不誤。王事無盬。恭奉臺命以喩示
嘉吉元年辛酉夏五月 金碗八郞孝吉等 奉。
とぞ書たりける。軍民等これを見て、僉歡びていへりけるは、「彼御曹司は仁君なり。曾刃に釁らずして、東條の城を落し、今又こゝに吾們を、憐み給ふことかくの如し。御名をば聞つ、慕しく、思ひ奉らざるにあらねども、うたてや城に駈入られて、十重廿重に圍れては、參るべきよしもなく、塀を踰、城溝を越、彼處へ參り得たりとも、今さら赦させ給はじ、と思ひし故に默止たり。所詮寄手に內應せんとて、隙を窺ひ日を過さば、縡竟に發覺て、彼處へは得參らず、鏖にせられなん。速に思ひ起して、本城へ火を放、煙を揚て寄手を誘引、縡の紛れに亂れ入りて、人啖馬を擊殺し、そが素頭を見參の牽出物に進らせなば、一ッには年來の冤を其處に返すべく、一ッには里見の君の御感も八しほにまさせ給はん。さは」とて竊に聚合つゝ、衆議はや一決する物から、或は又阽みて、「第一の出頭人なる、錆塚幾內は討死したれど、彼岩熊鈍平は、手痍、大かた平愈して、二の城戶を護るなる。先君(神餘光弘)さかりなりしとき、渠は馬奴なるものなれども、こゝろ悍く、膂力强かり。定包二郡を押領せし後、漸々に重用せられて、民の膏を絞とる、奸智は主に異ならず。又彼妻立戶五郞は、摠角の比よりして、定包に使れて、隨一の近習たり。武術才藝人に勝れて、今なほ主のほとりを去らず。まづこの二人を擊とらずは、本城に亂れ入るとも、彼等は固よりその黨多かり。忽地遮留られて、ほゐ遂かたき事ありなん。この議はいかに」、と密語ば、皆「有理」、と應つゝ、「さらば件の兩人を擊とめて、その翼を除き去、思ひの隨なる働きせよ」とて、その部をぞしたりける。
その次の日妻立戶五郞は、彼檄文を拾ひとりて、讀も訖らずうち驚き、悤忙き二の城戶なる、岩熊鈍平が本處へ赴き、「箇樣々々の事こそあれ。速に聞えあげて、莊客們を搦捕、その禍を未發に避ずは、ゆゝしき大事に及ぶベし。これ見給へ」、と懷より、一通をとり出し、推ひらきて閣ば、鈍平はよくも見ず、「われも亦これとおなじき檄文を拾ひ得て、驚き思ふ所也。迺こゝに」、と、とう出つゝ、合して見るにその文言、一點違ふことなかりしかば、戶五郞思はず大息つき、「寄手の間諜事成て、躬方に野心のものあらば、この城ながく保がたし。こは忽にすべうもあらず。誘給へ、もろ共に、吿奉らん」、といひあへず、立んとする袂を引とめ、「妻立生且く俟、こゝろ得さする事あり」、と理なく禁て、傍に推居、四下を見るに人はなけれど、喙む小鳥に異ならず、しば〳〵左右を見かへりて、扇を口に推當て、耳邊に頤さし著、「われこの密書を得たりしより、彼此にこゝろを著るに、只管寄手を渴望し、この城を獻らん、と思はざるものは只、斯いふわれと和殿のみ。さるにより、われと和殿を擊とりて、衆人事を起さんとて、衆議はや一決したりとぞ、嚮にある人密語ぬ。大厦の覆らんとするときに、一木いかでかこれを拄ん。憖に義を立て、雜人ばらの手に死なば、いと朽をしき事ならずや。速に思ひ決めて、定包を刺殺し、城中の民もろ共に、里見ぬしに降參せば、衆人の怨を釋て、死を脫るゝのみならず、勸賞思ひのまゝにして、榮を子孫に傳なん。和殿の胸中いかにぞや」、と問れて戶五郞呆果、「こは何事ぞ物にや狂ふ。和殿が神餘に任しときは、僅に馬の口取なりしを、吾君おもく用ひ給ひて、光弘ぬしの老黨たりし、錆塚萎毛もろ共に、大事を任し給ふならずや。吾儕は國主(定包)の私卒たり。神餘が老黨でをはせしときより、不便のものにせさせ給ひき。恩を擔て恩をおもはず、これに報ふに仇をもてせば、何によりてか人といはれん。命を惜むは勇もなく、主に叛かば大逆なり。今一言かへして見よ、その席を去せじ」、と敦圉ながら小膝突立、刀の鞆に手をかくれば、些も騷ず冷笑ひ、「忠義も主によるものぞ。嗚呼なることをいふものかな。今定包を誅するは、故主の仇を報ふ也。そを弑逆といふべからず。しらずや定包ふかく謀りで、豫て己を恨むといふ、朴平、无垢三等が手を借て、主君を擊せし縡の趣、口外するは今はじめて。しかもその日は朝曇り、夏なほ寒き落羽が岡、鷹に追るゝ鳥ならで、光弘の乘給ひし、鶬毛の馬斃れしとき、定包はわが白馬を、軈て主君に獻り、おん乘替を俟んとて、その身は其處より引さがりき。斯てぞ朴平無垢三は、彼白馬を遙に視て、定包來つ、と思ひしかば、矢比近くなるまゝに、よつ引𢐕と發つ箭に、光弘朝臣は胸を射さして、馬より摚と落給ふ。その前の日に定包は、吾儕を竊に招きよせ、『如此々々の密謀あり。汝われに荷擔れて、翌狩倉の朝立に、國主の乘馬に毒を餌へ。事成るときは重く用ひん。こは只當座の賞錢』とて、物夥とらせたり。よにあるまじき事と思へど、彼は老臣、われは奴隸、勢ひ敵すべうもあらず。否といはゞ殺されなん。命に換るものなし、と一議に及ず承引て、その日馬をば斃したり。かゝれば二郡兩城は、われ定包にとらせし也。この德この誼に報んとて、今老黨の後にをらせ、よしや大事を任するとも、絕て恩とはいふべからず。これらの事をしるものは、萎毛錆塚兩人なれ共、渠等は泉下の人とぞなりぬ。今では和殿のみなるべし。加旃妻立生、和殿は月ごろ日來より、夫人に懸想して、曁ぬ戀に物を思ふ、とわれ豫てより猜したり。しからばはやく思ひかへして、人啖馬を擊ときは、賞にかえても玉梓を、妻にせんこと易かりなん。かくても吾儕に與せずや」、と飽まで說れて戶五郞は、動く心ともろ共に、叉きたる手を釋て、忽地小膝を礑と鼓、「いはるゝ所寔にしか也。逆賊に從ひし、身の汚穢を洗んには、小理を捐て大義を伸る、和殿の議にこそ從ふべけれ。速にし給へ」、と大かたならず諾ひしかば、鈍平大きに歡びて、「しからばとせん」、「斯せん」とて、迭に耳をとりかはし、遽しげに相譚けり。
このとき山下定包は、宿酒いまだ醒ずとて、後堂を出ざれ共、女の童のみ左右に果らせ、翠簾を半捲揚たる、もたれ柱に身を倚て、慰かねし徒然に、尺八の笛吹すさみ、更に餘念はなかりけり。浩處に岩熊鈍平は、妻立戶五郞を先に立して、「事あり〳〵」、と叫びつゝ、間每の障子開放ち、主のほとりへ來る程に、こゝろを得たる夥兵數十人、身輕く鎧ふて、器械引提、些後れて次の房なる、いろ〳〵の花鳥畫きたる、腰障子の陰に躱れて、おの〳〵奧を闕窺をり。定包は鈍平等が、忙しく來るを見て、尺八の音をとゞめ、「こは何事ぞ」、と問せもあへず、兩人齊一聲をふり立、「積惡の家餘殃あり。城中の民みな叛きて、寄手を引入れ候へば、落城踵を旋すべからず。おん腹をめされ候へ。吾儕介錯仕らん」、といひも訖らず、先に進みし戶五郞は、刀を晃りと引拔て、跳掛て斬著るを、「推參すな」、と尺八の笛もて丁と受留れば、笛は中よりはすに斬られて、頭は遙に飛散たり。戶五郞は思はずも、一の大刀を擊損じ、主と思へば心憶して、武者戰して進み得ず。定包瞋れる眼尻引立、「原來汝等謀叛を企豫を、擊んとて來つるよな。嗚乎がましや」、と敦圉たかく、立んとすれば戶五郞鈍平、透間もなく擊刃の下を、くゞり脫、受ながし、切口尖れる尺八を、手鎗の穗頭と閃せども、身に寸鐵を帶ざれば、飛しさって打笛竹の、銑鋧に戶五郞は、右の腕をうち脫れ、忽地「苦」と叫びあへず、刃を撲地と落しつゝ、尻居に摚と倒れしかば、定包「得たり」、と走掛て、件の刃を取んとすれば、後に閃く鈍平が刀尖さがりに擊大刀に、腢より七九兪を、したゝかに斬著られて、刃を奪ふに暇なく、又擊かくる鈍平が刀の鍔元うち落し、そが侭に引組で、上になり下になり、且く挑み爭ふものから、定包は深痍を負ぬ、勢ひ既に衰へて、竟に膝下に組布れ、頻りに人を呼立れば、鈍平は頸をかゝん、と腰を撈れば中刀さへ、振落して後方にあり、「いかにせまし」、と心劇て、思はず見かへる雌手の方に、倒れし妻立戶五郞が、打かけられたる笛竹を、「これ究竟」と拔とりつ、反かへさんとする定包が吭をぐさとつらぬきぬ。戶五郞は竹を拔れて、忽地に人氣つき、岸破と起つゝこれを見て、落せし刃を拾とりて、岩熊に遞與せしかば、鈍平は定包が、頸かき切てぞ立あがる。されば夥の兵士は、鈍平等に荷擔れて、次の間まで來にけれど、なほその勝負を測かねて、佻々しくこれを扶けず、既にして定包が擊るゝを見て遽しく、障子紙門をうち敲きて、鬩の聲をぞ揚たりける。
鈍平戸五郎便室に定包を撃」「岩熊どん平」「妻立戸五郎」「山下定かね」
さる程に主の左右に侍りたる、女の童等はおそれ迷ひて、庭門より走り去、これ彼に吿にければ、縡果る比近臣等、遠侍より來るもあれど、彼兵士等に抑留せられ、多くはこのとき擊れにけり。況て物の數ならぬ、女房等は只泣叫ぶを、鈍平令して玉梓もろ共、一人も漏さず生拘らせ、おの〳〵金銀財寶を、思ひのまゝに掠奪て正廳のかたへ走去ぬ。現天の人を罰する、時ありて輕重悞ことなし。定包奸智を逞して、主を傷賊ひ、所領を奪ひ、浮雲の富をなすといへ共、百日を出ずして、又その家臣に殺されたり。加以、そが首を取るゝとき、件の岩熊鈍平等は、はからずも刃を用せず、切口尖りし笛竹は、是竹鎗の刑に似たり。又彼妻立戶五郞は、定包が恩顧のもの也。其も笛竹の銑劍に、擊れて一旦息絕しは、惡人なりとも主を擊つ、冥罰ならん、おそるべし。就中鈍平は、その罪比んものもあらず。神餘が馬奴たりしとき、逆謀としりつゝも、定包が爲に、主の乘馬を毒殺し、又定包に仕ては、ます〳〵その惡を佐て、刻剥をさ〳〵民を苦め、惡報その身に係るに及びて、脫れんとて又主を擊つ。縱善人に與すといふとも、かくのごとくにして後榮んや。むかし後漢の光武帝は、子密をもて不義侯とせり。夫不義にして、封爵を受んより、不義ならずして、匹夫に終るこそよけれ。作者間常、歷史軍記を讀む每に、かゝる條に至ては、一大息をせざることなし。よりて今亦自注を附して、もて童蒙に示すのみ。山下定包が事は、軍書舊記に傳あり。詳ならずといへども、主の神餘を害ひし、癖者なるよしはたがはず。今なほ彼處に古蹟あり。くた〳〵しければよくも記さず。又後々の卷にていはなん。


