南総里見八犬伝(006)

南總里見八犬傳卷之三 第五回
東都 曲亭主人 編次
——————————————————

瀧田たきたしろせめ貞行さだゆき妻立つまたて戸五郎とごらうふ」「金まり八郎」「里見よしさね」「堀内貞行」「妻立戸五郎」

良將策りやうせうはかりごと退しりぞけ衆兵仁しゆへいじん
靈鴿書いへはとしよつたへ逆賊頭ぎやくぞくかうべおく

山下柵左衞門尉定包やましたさくざゑもんのぜうさだかねは、麻呂安西まろあんさいつかはしたる、その使者瀧田たきたたちかへりて、「彼輩かのともがら忽卒あからさまに、歸降きごうのよしをいはざれども、いたく怕害おそれて候ひし。遠からずしてもろともに、みづから詣來まうきて罪を勸解わび麾下きかしよくせんこと疑ひなし。その爲體ていたらく箇樣々々かやう〳〵如此々々しか〴〵に候ひき」、となきことまである如く、ことばを飾り、首尾精細しゆびつばらかに、あくまでこびつげしかば、定包ます〳〵こゝろおごり、をもて日に續遊興つぐゆうきやうに、士卒しそつうらみをかへりみず、ある玉梓たまつさてくるまを共にして、後園おくにはの花にたはむれ、あるあまたの美女をあつめて、高樓たかどのに月をもてあそび、きのふは酒池しゆち牛飮ぎういんし、けふは肉林にくりん飽餐ほうさんす。一人いちにんかくの如くなれば、老黨ろうどうも又淫酒いんしゆふけりて、むさぼれどもあくことなく、ついやせどもつくるをしらず。王莽わうまう宇內くにのうちを制する日、祿山ろくさん唐祚たうのまつりかたむくるとき、天日私てんじつわたくしに照らすに似たれど、逆臣はながくめいをうけず。定包がほろびんこと、かならず久しからじとて、こゝろあるは目をそはだて爪彈つまはぢきをするもの多かりけり。

浩處かゝるところに、城外城中ぜうぐわいぜうちう悤劇ものさわがしく、「敵軍ちかくよせたり」とて、のゝしること大かたならず。定包は後堂おくざしきに、酒宴さかもりしてゐたりしが、これをきゝすこしさわがず、「そはなにほどの事やはある。なまじいとらひげを引く、安西麻呂にあらざりせば、民をおびやかして物を奪ふ、山賊等さんぞくらにぞあらんずらん。そが爲體ていたらくを見て來よ」とて、やがて斥候ものみつかはしければ、しばらくしてたちかへり、「敵は安西麻呂等にあらず、又山賊にも候はず。たかとはしらず千騎あまり、整々せい〳〵として稻麻とうまのごとく、陣列隊伍ぢんれつたいご法にかなひて、中軍ちうぐんには一ながれの、白旗しらはたを推おしたてたるが、尋常よのつねの敵にはあらず。こゝを去ること二十餘ちやう、人霎時馬しばしにんばの足をやすめて、推蒐おしかけんず光景ありさま也。あなどりがたく候」、といきつきあへず報知つげしかば、定包聞さだかねきゝまゆひそめ、「白きは源家げんじ服色きぬのいろなり。安房上總あはかづさにして白旗しらはたを、もちふるものありとはおぼえず。これも又人をまどはす、敵のはかりごとにぞあらんずらん。そはとまれかくもあれ、敵はかならず長途ちやうど疲勞つかれて、この曉によせんとすらん。いつをもてろううたば、かたずといふことあるべきやは。とく追ひ拂へ」、とげぢを傳へて、岩熊鈍平いわくまどんへい錆塚幾內さびつかいくないといふ、腹心ふくしん老黨ろうだうに、五百の軍兵ぐんびやうさづけしかば、兩人欣然きんぜんめいうけいそがはしく衆兵しゆへいひきいて、前門おもてもんより馬乘出のりいだし、いさみにいさみて馳去はせさりけり。

 さても岩熊錆塚は、萬夫無當ばんふぶたう力士りきしにて、武藝ぶげいひとにましたるに、こゝろざま奸佞かんねいなれば、なす事每ことごとに定包が意にかなはずといふことなく、一二いちにの老黨と重用ちやうようせられて、よろづ傍若無人ぼうじやくぶじんなれども、人みな氣をのみうらみを隱して、下風かふうつかざるものなかりき。かゝれば山下定包は、日來ひごろより、かの兩人を、たのもしく思ひつゝ、この日も討手うつての大將に、擇出えらみいだしてつかはしたれば、「今はや寄手よせて奴原やつばらを、蹴散けちらさんこと疑ひなし。さのみさわぐことかは」とて、只兵等たゞつわものら四門しもんまもらせ、わが身は又奧に入りて、をんなばらをよびつどへ、歌舞艷曲かぶえんきよくきやうもよほし、酒宴たけなはなりしころ正廳おもてのかたさわがしく、「よからず〳〵」、と叫びしかば、定包は管絃いとたけの、手をとゞめさせ、耳をそはだて、「ことなるものゝこはざまかな。男童をのわらはども見てよ」、といふに左右に侍りたる、兩個ふたりの小扈こゞせうもろともに、たちあがらん、とする程もあらせず、思ひがけなく庭門にはくちより、さき討手うつてむけられたる、軍兵等ぐんびやうら五六十人、數个所すかしよ深痍ふかでおふたりける、大將岩熊鈍平いわくまどんへいを、たてのうへにくゝせ、かきつゝやがて孫廂まごひさしの、ほとりまで推參すいさんして、異口同音いくどうおんに「御注進ごちうしん、々々々」、とよばゝりつ、手ておひ撲地はたかきおろして、二帶ふたかはたちわかれ、阿容々々おめ〳〵として蹲踞かしこまる。仂武者はむしやなれども二个所にかしよ三个所さんかしよおはざるもなかりしかば、玉梓たまつさ劇惑あはてまどひて、をんなばらにたすけられ、屏風びやうぶうしろに隱れけり。現縡げにこと爲體ていたらく、敗軍と見てしかば、定包は呆果あきれはてて、「これは什麼何事そもなにことぞ」、ととはれて先にすゝみたる、老軍等頭ふるつわものらかうべき、「申上るもおもぶせなる、大將の軍配ぐんばいに、躬方みかたの進退一致せず。敵はきゝしにいやませる、勇將なり猛卒まうそつなり、しかも大軍なりしかば、うてどもれども物ともせず。一陣にすゝめ猛將もうせうくさりの上に大荒目おほあらめよろひかさねて、長一丈ながさいちぢやうあまりなる、やりりう〳〵とうちふりつゝ、馬の平頸ひらくびに引ひきそえて、まなこみはり、大音楊だいおんあげ、『群賊天罰脫ぐんぞくてんばつまぬかれず、白刃頭はくじんかうべに臨むをさとらで、虎威こゐを犯すはおろかなり。しらずや里見義實朝臣さとみよしさねあそん、こゝに遊歷ゆうれきし給ひしを、州民推くにたみおして主君と仰ぎ、ぎやく擊冤うちうらみむくふ、そが事の手はじめに、東條とうでふの城をくだして、萎毛酷六しへたげこくろく誅戮ちうりくし、更に瀧田の城を拔き、賊主定包ぞくしゆさだかねちうせんとて、孝吉たかよし先陣をうけ給はり、おん鄕導みちしるべつかまつれり。きたれるこのの賊將を、錆塚岩熊さびづかいはくまと見るは僻目ひがめ。きのふまでは古主こしゆうつかへて、共に神餘じんよの祿をたうべし、金碗かなまり八郞を忘れはせじ。われは彼古主かのこしゆうの爲に、かんたすけ秦楚しんそうちたる、張子房ちやうしばう御注孤忠こちうならひて、里見の君に扈從こせうしつ、義兵をすゝめ奉り、敢刃あへてやいばちぬらずして、一城を拔き、二郡を略し、既にその巢に近つきたり。非をくいかぶとぎ、御方みかたに參るものはいきん。なまじい防ぎたゝかはば、天にむかつつばきはき、ふちのぞみて水を打如うつごとく、勞して功なきのみならず、そのとがその身にかゝりなん。いでこゝろみよ』、とよばゝりて、馬にかくい鎗閃やりひらめかして、縱橫無礙じゆうわうむげ擊靡うちなびけ、はや一陣を突崩つきくづして、大將錆塚と鎗をあはし、人まぜもせず戰ひしが、孝吉大喝一聲たいかついつせいして、幾內いくない鎗卷やりまきおとし、胸前望むなさかのぞみちやうつくつかれて馬よりだうおつれば、雜兵等走ざふひやうらはせよりて、おさへくびとつてげり。錆塚つひうたれしかば、すなはちこゝにはべるなる、岩熊鈍平大きにいかりて、四尺六寸の大刀拔翳たちぬきかざし、金碗をうたんとて、眞一文字まいちもんじはせよすれば、二陣に進む里見の老黨ろうだう掘內藏人貞行ほりうちくらんどさだゆき名吿なのりつゝ、紺絲こんいとよろひに、鍬形打くわかたうつたるかぶとしめ連錢芦毛れんぜんあしげの、く太逞たくましき馬にうちのりて、備前長刀びぜんなぎなたしのぎさがりに、菖蒲せうぶかたなるをわきはさみ、『渠奴しやつをば吾㑪わなみうたし給へ』、と金碗に會釋ゑしやくして、馬をおどらせいでて、鈍平を遮留さへぎりとゞめ、丁々ちやう〳〵はつしと戰ふたる、刀きつさきより火をちらし、一上一下手煉いちじよういちげしゆれんの大刀たちかぜおとらずまさず見え候ひしが、なにとかしけん岩熊は、馬の平頸ひらくび斬裂きりさかれ、ぬしもろ共に轉輾ふしまろべば、貞行長刀なぎなたとりのべて、うちかぶとはたつく。あはや鈍平、うたれぬベく見えたるところを、某等それがしら肩に引被ひきかけからうじて逃走にげはしれば、敵の大將里見義實、三才駒さんさいこま雲珠鞍置うずくらおかして、はなやかによろふたる、威風凛然四下いふうりんぜんあたりはらふて、馬上ばせうゆたけくざいうちり、『かゝれ〳〵』、とげぢに從ふ、勢潮いきほひうしほわくごとく、どつおめいせめたつれは、躬方みかたはます〳〵辟易へきゑきして、かぶとぬぎ、弓をふせおほかたならず降參こうさんして、かへつてこなたを射る程に、はつかに殘る六十餘騎、深痍淺痍ふかてあさておはぬもなく、やうやく必死をまぬかれて、にげかへり候」、とつぐれば鈍平おもなげに、ものいはんとはしつれども、小鬂こびんはづれつんざかれ、そびらを馬にしかれしかば、かうベだも擡得もたげえず、日影ひかげまつの冬のはち痛手いたでにさすがはりたゆみ、かよふはむしの息ばかり、物のやくにはたゝざりけり。

定包さだかねきゝあへず、まゆうちひそめ、大息おほいきつき、「里見は結城ゆふき方人かたうど也。彼城沒落かのしろもつらくしつるとき、うたれにけり、ときゝたるに、この處へ漂泊ひやうはくして、大軍をおこせし事、とにもかくにもこゝろ得がたし。實に東條落城して、酷六擊こくろくうたれたらんには、城兵ぜうひやうこゝへかへり參りて、つげずといふことあるべからず。又彼金碗孝吉かのかなまりたかよしは、神餘譜代じんよふだい近臣なれども、逐電ちくてんしたる癖者くせもの也。身のおくところなきまゝに、しのびかへりて彼此をちこちなる、愚民ぐみんまどはし、野武士を集め、さま〳〵なる流言りうげんして、英氣ゑいきくぢいつはりはかりごとにぞあらんずらん。しからば寄隊よせて摠大將さうたいせうは、まことの里見によもあらじ。とは思へどもが爲に、腹心股肱ふくしんこゝうの勇臣たる、畿內いくないはかなくうたれ、鈍平深痍ふかておひし事、時運じうんによるとはいひながら、侮りがたき敵にぞある。いよゝ四門しもんかたく守らせ、東條へ人を走らして、そが消息せうそことはせんには、虛實きよじつはやがてしるべき也」、といふ言葉いまだをはらず、小扈從等ここせうら走り來て、東條の落武者等おちむしやらにげかへりたるよしをつぐれば、定包きゝて「これまた虛說きよせつにはあらざりけり。われそのことおもむきを、みづからきかんず。物どもを、庭門にはくちより參らせよ。とく〳〵」、といそがしたつれば、こゝろ得果えはて走去はせさりけり。

しばらくして東條なる、酷六に從ふて、おちつゝからまぬかれたる、雜兵等ざふひやうら三四人十王頭じうわうかしら肱當臑當こてすねあて、腹卷ばかりいかめしけれど、餓鬼がきのごとく疲勞果つかれはてて、ひざに手を掛け引く足の、一步は高く、一步はひきく、庭門にはくちよりよろめき入るを、定包近くよびよせて、「やをれ物ども、東條をせめられなば、落城せざる先にこそ、注進ちうしんせずして、敵はやこなたへ寄せたるのちに、阿容々々おめ〳〵として參ること、六日の菖蒲あやめ、十日の菊、その詮絕せんたえてあるべきやは。かへす〴〵も越度をちどなれ」、と睨著にらまへつくれば、おそる〳〵、四人齊一よたりひとしくまうすやう、「怒らせ給ふをなか〳〵に、わりなしとは思ひ奉らねど、縡只呼吸ことたゞこきうあはひに起りて、落城して候へば、つげたてまつひま候はず。そのゆゑ如此々々しか〴〵なり。箇樣々々かやう〳〵に候」、と小湊こみなとなる村民等むらおさらが、金碗かなまり八郞を縛來いましめきて、深夜よぶか城戶きどひらかせたる、計策はかりこと爲體ていたらくすきもあらせず敵の大軍、どよ〳〵とこみい入りて、矢庭やにはに城をおとせし事、萎毛酷六しへたげこくろく妻子やからて、かきうちより落ゆく處を、金碗八郞に追蒐おひかけられて、妻子やからは谷へ滾まろびおち、皮ひこつ碎けて死せし事、萎毛は金碗に、うたれたることおもむき委細つばらかに演訖のべおはり、「某等それがしらこの事を、片時へんじもはやくつげ奉らん、と思はざるに候はねど、城兵過半降參ぜうひやうくわはんこうさんして、敵はます〳〵勢付せいつきぬ。街道かいどうを走るときは、追擊おひうたれんこと疑ひなし、と思へばこみちめぐり、山越やまこえをして候へば、敵よりのちに來つるとて、おんとがめかうむること、是非ぜひに及ず候」、と勸解わぶれば定包さだかね齒をくひしばり、「原來さては金碗八郞が、結城ゆふき落人おちうどを引入れて、ことみな彼奴かやつが計りし也。いでやみづから馬乘出して、まづ金碗生拘いけどらずは、たゝしきはらいるよしあらんや。とく出陣の准ようゐをせよ」、と跳おどりあがつ敦圉いきまけば、老軍等ふるつはものらは「よしなや」、とつぶやきあへず東條の落武者おちむしやに目をくはして、痍負ておい岩熊鈍平いはくまどんへい擡起もたげおこし、みなもろ共に退出まかでしを、定包はなほしらずして、勢猛いきほひたけのゝしりつゝ、と見れば四邊あたりに人をらず、いふがひなければ、つく〳〵、と思ひかへせば「なまじいに、うついでんはきわめてあやうし。えうこそあれ」、とひとり點頭うなつき老黨近習ろうだうきんじゆよびよして、籠城ろうぜう准備是彼ようゐこれかれと、おちもなく說示ときしめし、「義實大軍なりといふとも、原是もとこれ烏合うがふあつまりぜい。けふより十日をまたずして、兵粮竭ひやうろうつき退しりぞきなん。そのとき急に追擊おいうたば、金碗等はいふもさらなり、大將義實をとりこにせんこと、袋の物を取るよりやすけん。しかはあれど、麻呂安西等、義實に一致して、もろともきたらば、こはゆゝしき大事だいじなり。おもふに麻呂小五郞まろのこゞろうは、匹夫ひつふの勇士はかるに足らず。こゝろ憎きは安西のみ。思慮あるよしをかねきけり。さりともわれ今利をもて誘引いざなひ箇樣々々かやう〳〵にこしらへて、東條をとりかへさば、義實一旦逃走いつたんにげはしるとも、何處へかかへるべき。進退そこにきわまりて、雜人們ざうにんばらが手にこそしなめ。敵この處へよせざるはしに、くだんの使者をいだやりなん。誰か今豫が爲に、館山平館たてやまひらたて使つかひすべき」、と思ひりてとひしかば、妻立戶五郞つまたでとごろうよばるゝもの、聲に應じて進みいで、「願ふはそれがしうけ給はらん」、といへは定包大きによろこび、「なんぢ畿內いくない純平等におとらず、豫がこゝろをしれるもの也。ゆかんと乞ふを許さゞらんや。館山平館へはせゆきて、景連等かげつららにいふべきは、『定包古主さだかねこしゆう遺蹟いせきおさめて、あらたに二郡をれうせしに、結城の落人おちうど里見義實、當國へ漂泊して、愚民ぐみんまどはし、野武者のぶしを集め、不意におこつて東條の城を乘取のつとり、勢ひにまかしつゝ、既に瀧田へおしよせたり。兎烹うさぎにられて弧患きつねうれふ。これそのわざはひ遠からず、等類に及べばなり。定包不肖ふせうに候ヘども、まさしく神餘じんよ遣領いれううくれば、舊好きうこうはその家にあり。兩君いかでか鄰郡りんぐん兵役ひやうやくすくはずして、共についえうけ給はんや。すみやかに出陣して、東條をせめおとし、敵のうしろを襲ひ給はゞ、義實三面六臂さんめんりつひなりとも、三方に敵をうけて、防戰かなふべうもあらず、みなころしにせられん事、たえて疑ひなきもの也。義實たやす誅伏ちうぶくせば、これ兩君のたまものなり。定包は平郡へぐり一郡、瀧田一城にて事足ことたりなん。たれにもましませ東條を、せめおとし給ふ人に、長狹郡ながさこふりまゐらせん』、と叮嚀ねんごろのべよかし」、といへば戶五郞おもてみあげ、「御諚ごでふでは候へども、よしや里見は滅ぶとも、長狹郡ながさこふりを人に取らせて、みづから所領をけづり給はゞ、よそたすけたのむもよしなし。賢慮けんりよをめぐらし給はずは、御後悔ごこうくわいもや候はん」、と老黨ろうだうもろ共諫ともいさむれば、定包きゝあへずうち微笑ほゝえみ、「汝等なんぢらもしか思ふ。こは豫が計略はかりごとになん。鷸蚌持いつぽうぢして漁者ぎよしやらる。長狹一都をゑばにして、安西麻呂等に東條をとりかへさせ、更に里見をうちほろぼさば、景連信時利にまよひて、確執くわくしつに及ぶべし。くだんの兩將彼地かのちを爭ひ、合戰しば〳〵なるときは、一方はきずつけられ、一方は必擊かならずうたれん。われはすなはちそのきよに乘りて、安房あは朝夷あさひなの二郡を取らん。當國こゝに平均し、ながらにして四郡をにぎらば、こゝろよきことならずや」、と誇㒵ほこりが說喩ときさとせば、戶五郞只管感佩ひたすらかんはいして、定包が書簡しよかんこひとり、身輕みかろよろふ駿馬しゆんめむちうち、館山をさし馳去はせさりけり。

 さる程に里見の大軍、詰旦未明あけのあさまだきより、瀧田たきたの城をとりまきて、息もつかせずせむれども、要害えうがいもとより堅固けんごなる、神餘數代すだいの名城なれば、一朝いつちやうにしておつべうもあらず。晝夜ちうやをわかずせむること、既に三日に及べども、城兵ぜうひやううついでず、寄手よせてもさすがに疲勞つかれしかば、只遠攻たゞとほせめにぞしたりける。浩處かゝるところに武者一騎、くれかゝる日ともろともに、西の城戶きどよりらんとて、構端ほりばたさして馬をよすれば、堀內貞行きつと見て、「渠奴しやつ必定ひつぢやう城よりいでて、麻呂安西にたすけを乞ひ、今たちかへるとおぼえたり。彼生拘あれいけどれ」、とよばゝれば、早雄はやりを若武者等わかむしやら、「うけ給はる」。といらへあへず、犇々ひしひし追蒐おつかけたり。城中よりもこれを見て、「妻立つまたでうたすな」とて、西城戶にしのきど推開おしひらけば、戶五郞はと馬を入れて、そがまゝ橋をひきしかば、寄手よせて狩場かりば偸立鳥ぬきたちとりを、追失おひうしなひしこゝちしつ、つける事もかなはねば、いたく焦燥いらちてひらおしに、攻破せめやぶらんとひしめけば、義實これをよびかへさせて、貞行等にのたまふやう、「いかりまかして事をなせば、後悔せずといふことなし。くだん武者むしや生拘いけとりて、緣由ことのよし鞠問きくもんし、さてそがかうべはねたりとも、安西麻呂等相譚かたらはれて、わがうしろおそはんには、城はいよ〳〵おつべからず。諸方しよはう攻口合期せめくちがつこして、うしろそなへ、前をうち常山長蛇じやうさんちやうじやいきほひを、張るにはたえてますことあらじ」、と叮嚀ねんごろ說諭ときさとし、「麻呂安西等をふせげ」とて、やがて五百の軍兵ぐんひやうひきわけて、掘內貞行を後陣ごぢんそなへさせ、更に東條へ人をつかはして、杉倉氏元すぎくらうぢもと云云しかしかのよしをつげ、「籠城由斷ろうぜうゆだんすべからず」とて、よくそのこゝろを得させ給ひつ、金碗孝吉もろともに、義實みづからしろめぐりて、短兵急たんへいきうせめ給ふ。かゝりし程に定包さだかねは、妻立戶五郞つまたてとごらうつゝがなくかへれるよしをきゝしかば、いそがはしく召入よびいれて、その消息せうそこたづぬれば、戶五郞流るゝ汗推拭おしぬぐひ、「さ候景連信時、一議に及ばず、領諾れうだくして候ひき。又かの里見主從しゆうじゆうは、そのはじめ館山なる、安西に身をよせたりしを、大かたならずおどされて、逃吠にげぼえしたる白徒しれもの也。いかにして日ならずも、大軍を起しけん、こゝろ得かたき事也とて、景連も信時も、ねたしと思ひ候へば、東條をせめんこと、疑ひなく候」、と報知つぐれば定包ます〳〵よろこび、戶五郞をねぎらひて、物夥被あまたかつげさせ、「ます〳〵寄手よせてふせげ」とて、をさ〳〵館山平館より、援來たすけきつるをまちてをり。

 かくて日來經ひごろふまゝに、寄手よせては既に兵粮竭ひやうろうつきて、三日の貯祿たくはへなくなりしかば、貞行孝吉これをうれひて、義實にまうすやう、「既に出陣まし〳〵て、七八日をたれ共、いまだ東條より兵粮をまゐらせず。思ふに杉倉氏元は、老功のつわものなれども、彼處かしこあらたたる城也。民催促たみさいそくに從はで、物とゝのはずや候はん。時は今麥秋むぎあきにて、彼臠あれみそなはせ、遠山畑とほやまはたなる、麥はやじゆくして候かし。かりとらせ候ばや」、といへば義實かうべり、「いなわが瀧田をせむる事は、民の塗炭とたんすくはん爲也。るを今そののうを奪ひ、その生麥なまむぎかすめとりて、兵粮となすときは、人をくらふて身をこやす、虎狼とらおほかみに等しからずや。加以長狹これのみならずながさの農民、催促に從はで、彼處かしこ兵粮ひやうろうとゝのはずは、これわが德の至らぬところ、すみやか退陣たいぢんして、德をおさめ民をなで、時をまちて瀧田をせめん。さはあらずや」、とのたまへば、貞行霎時頭しばしかうべかたふけ、「仁心じんしんふかくましませば、おん身をせめてかくまでに、民をあはれみ給ふこそ、よにありかたき事に候へ。さはれ今このまゝに、こゝを退しりぞき給はんには、かならず城よりうついで難義なんぎに及び候はん。今宵篝火こよひかゞりひかずをまして、はやせめかゝるごとく思はせ、眞夜中すぎ後陣ごぢんより、軍兵ぐんびやう退しりぞかせ、樹立隙こたちひまなき處々ところ〴〵に、伏兵ふせゞいを殘しおき君中軍きみちうぐんにをはしまし、それがし殿しんがりつかまつらば、たとひ城より追携おひすがりて、啖留くひとめんとすればとて、なでふ事候べき」、といふを孝吉聞たかよしきゝあへず、「杉倉うぢ計策はかりごと、可ならざるにあらざれども、さではたゞ身をまもり、敵をふせぐのほかなきのみ。もし愚按ぐあんによるときは、三四百の壯士等ますらをらに、計略はかりこと說授ときさづけ、麻呂安西等がはたをもたし、ある指物笠印さしものかさしるしまで、皆その模樣もやう打扮いでたゝして、黃昏過たそがれすぐ比及ころおひに、我本陣わがほんぢん西北いぬゐよぎりて、城にいらまくするときに、こなたより犇々ひしひしと、遮留さへぎりとゞめて追ひつかへしつ、同士擊どしうちをしたらんには、城中よりこれを見て、『すは館山平館より、たすけの兵つわものきたれるぞ。彼擊あれうたすな』、と城戶おしひらきて、かの援兵ゑんへいに力をあはし、城へ入れんとせでやはやまん。そのときくだん軍兵ぐんひやうを、先にたゝして我三軍わがさんぐん、思ひのまゝにつけ入られば、一擧いつきよして城を落さん。かうではいかゞ候べき」、といと正首まめやかはかりまうせば、義實つく〴〵とうちきゝて、「貞行がはかりことは、あやうからざれどもわれゑきなく、孝吉がはかりことは、たくみなれども、甚危はなはだあやうし。おもふにいにしへの聖王賢將せいわうけんせう仁義じんぎいくさおこすものから、いつはりをもてかつことをはからず。唐山晉もろこししん文公ぶんこうは、詭計たばかりもちひずして、五伯ごはいちと稱せられ、よく周室しうしつたすけたり。孫吳そんご兵法へいはう詭道いつはりのみちむねとす。こは戰國の習俗ならひ也。はかりことよしといふとも、いつはりをもて敵をほろぼし、その土地をたもつときは、なにをもて民ををしえん。汝達なんたちはかりこと、從ひかたきはこのゆゑなり。定包富饒ふにようの地をたもち、要害えうがいの城にこもり、かつ三年のかてありとも、防禦ぼうぎよの術尋てだてよのつねなれば、落しがたしといふにしもあらねど、一時いちじに城を乘取のりとらば、罪なき民を多く殺さん。さきにしば〳〵いひつるごとく、定包に從ふもの、皆兇惡けうあくの人のみならんや。權におされ、威におそれ、一旦いつたん城に籠るとも、そのたのしみを共にせず、つひうれひを共にして、命を其處そこおとしなば、いといたましき事になん。しん降卒ごうそつ八萬人あなにせし、項羽こうう兇暴けうばういへばさら也、秦の蒙恬もうてん、漢の霍光くわくくわうがごとき、智勇の將はつひのちなし。人を殺すの多きゆゑ也。願ふ所は定包さだかねのみ、只渠一人たゞかれひとりちうせば足りなん。この餘のうへははかるにたへず」、と叮嚀ねんころ說諭ときさとし給へば、貞行も孝吉も、たゞ」とばかり感伏かんふくして、又いふよしもなかりけり。

 しばらくしてくだんの兩人、思はずも嘆息たんそくし、「賢慮凡智けんりよぼんちほかいでて、昔の聖王賢將せいわうけんせうも、このうへや候べき。しかはあれど、時既ときすで澆季ぎやうきに及びて、利につどふもの甚衆はなはだおほく、德によるものきわめすくなし。君が兼愛けんあい淺からで、敵城てきぜうこもれる民まで、たすけまほしく思召おぼしめせども、勢ひふたつながらまつたからず。兵粮ひやうろう既につきながら、いつはりはかりこともて、城を乘取のりとることをえうせず、又詭計たばかりて、退しりぞくことをうけがひ給はず、いたづらに日を送り給はゞ、凡躬方およそみかたの千餘人、饑渴きかつ得堪えたへず、はなそむかん。さるときは又だれと共に、大事だいじおこし給ふべき。宋襄そうじやうじん徵生びせいまことは、日來ひごろわらはせ給ふならずや。猶且なほかつ賢慮をめぐらし給はゞ、しかるべからん」、とまうすにぞ、義實莞尒につことうちみて、「兵粮乏しくなりぬるよしは、豫も又これをうれひざらんや。物を思へば空のみ彼此をちこちとなく瞻望ながむれば、東南たつみのかたなる豆畑まめはたに、鴿夥求食いへはとあまたあさるあり。彼何かれいづこよりつどふと見れば、瀧田の城よりあしたに來て、ゆふべになればかへるかし。はと源家げんけうぢの神、八幡宮はちまんぐうの使者とぞいふなる。これによりて不意ゆくりなくちとてだてたりしかば、すなはち神に祈りつゝ、壯佼わかうどどもにこゝろ得さして、ひそかあみしてくだんの鳩、五六十をとらへたり。かくて數通すつう檄文げきぶん書寫かきしたゝめ、くだんの鳩の足に結びて、放さばかならず城へ還らん。さるときは人あやしみて、鳩をとらへてその書を見つべし。よしやとらふることなく共、結目解むすびめとけおつるもあらん。城中にあるとあるもの、この檄文を披閱ひらきみて、ぎやくさりじゆんす、こゝろおこらばへんを生じて、城はせめずもかならず破れん。こともし成らば國のあた賊主ぞくしゆ定包をのみちうして、民ののぞみを果すべし。城兵豫ぜうひやうかねて定包に、從ふこゝろなきものも、こなたへ參らばなか〳〵に、ちうせられん、とあやぶみて、あたの爲に城を守るこれも又不便ふびんなり。まこと小兒しようににひとしく、果敢はかなきはかりことに似たれども、さき此方こなたするとき、待崎まつさきのほとりなる、白籏しらはたの神に祈れば、やまはと祥瑞せうずいあり。今又こゝに鴿いへはとたすけあらばと祈るのみ。なるならざるは神にまかして、如此しかして見よ」、とおふすれば、貞行孝吉ます〳〵かんじて、「微妙謀いみじくはからせ給ひにけり。今定包が罪を數へて、城中へ示さんには、これにますべきてだてはなし。軍民ぐんみん一トたびその書をけみせば、憤發ふんはつして亂を生じ、賊首ぞくしゆかうべたてまつらん。すみやかに行ひ給へ」、と辭齊一應ことばひとしくいらへまうしつ、金碗孝吉うけたまはりて、草案したかきつゞる程に、はしりかきする士卒を聚合つどへて、つうを寫させ給ふに、立地たちところに寫しをはりしかば、その日はいまだくれざりけり。かくて義實主從しゆう〴〵は、かふたき神酒みきそゝぎて、白籏しらはたやしろ遙拜ようはいし、かねとらへおかせ給ひし、はとの足に、彼檄文かのげきぶん結著むすびつけて、そがまゝにはなち給へば、案にたがは翩々ひら〳〵と、飛揚とびあがりつゝうちつれたちて、みな城中へかへりけり。かたくも結ばぬでふなれば、鳩は城中へ入るとやがて、おのづから結目むすびめのとけざるはなかりしに、殊更ことさら不思議なりけるは、此度軍こだみぐんやく驅入かりいれられし、平郡へぐり莊客們ひやくせうばらが小屋のほとりへ、ところたがへずおとせしかば、「こは什麼何そもなにぞ」と疑惑うたがひまどひて、衆皆みなみな手に〳〵ひらひとりて、いそがわしく押開おしひらけば、

流水不附干高りうすいはたかきにつかず良民不從乎逆りやうみんはぎやくにしたがはず若夫佐桀討堯もしそれけつをたすけてけうをうてば猶水而附高也なほみづにしてたかきにつくがごとし謂之悖於天これをてんにもとるといふ雖欲久ひさしからんとほつすといへども勢不可得いきほひうべからず抑賊主定包者そもそもぞくしゆさだかねは奸詐以仆主かんそもってしゆうをたふし蠹毒以虐民とゞくもつてたみをしへたぐ雖云王莽祿山わうもうろくさんといふといへども又何加焉またなんぞくはえん恭以吾主源朝臣うやうやしくおもんみればわがしゆみなもとのあそん南渡日なんとのひ未幾いまだいくばくもあらず見推干衆而討逆しゆうにおされてぎやくをうち拔民於塗炭中たみをとたんのうちにぬく德如成湯とくせいとうのごとく澤似周武たくしうぶににたり於是乎こゝにおいてか取東條とうでふをとり略二郡にぐんをりやくし將破其巢也まさにそのすをやぶらんとす可憐汝衆人あはれむべしなんぢしゆうじん隕命於賊巢めいをぞくさうにおとさんことを因以喩示干此よつてもつてこゝにゆじす奚不速歸順なんぞすみやかにじゆんにきせざる奚不功以償罪なんぞこうもつてつみをあがなはざる區々取惑くくとしてまどひをとらば雖悔曁焉哉くゆといへどもおよばんや天鑒不誤てんかんあやまたず王事無盬わうじもろいことなし恭奉臺命以喩示うやうやしくたいめいをうけたまはつてもつてゆじす
嘉吉元年辛酉夏五月かきつぐわんわんかのとのとりのなつさつき     金碗八郞孝吉等かなまりはちらうたかよしらうけたまはる

 とぞかいたりける。軍民等これを見て、僉歡みなよろこびていへりけるは、「彼御曹司かのおんざうしは仁君なり。曾刃かつてやいばちぬらずして、東條とうでふの城を落し、今又こゝに吾們われわれを、あはれみ給ふことかくの如し。御名みなをばきゝつ、したはしく、思ひ奉らざるにあらねども、うたてや城に駈入かりいれられて、十重廿重とへはたへかこまれては、參るべきよしもなく、へいこえ城溝ほりこえ彼處かしこへ參り得たりとも、今さらゆるさせ給はじ、と思ひしゆゑ默止もだしたり。所詮寄手しよせんよせて內應ないつうせんとて、ひまうかゞひ日をすぐさば、縡竟ことつひ發覺あらはれて、彼處かしこへは得參えまゐらず、みなころしにせられなん。すみやかに思ひ起して、本城ほんぜうへ火をはなちけふりあげ寄手よせて誘引いざなひことまぎれに亂れりて、人啖馬ひとくひうまを擊うちころし、そが素すかうべ見參げんざん牽出物ひきでものまゐらせなば、一ッには年來としころうらみ其處そこに返すべく、一ッには里見の君の御感ぎよかんしほにまさせ給はん。さは」とてひそか聚合つどひつゝ、衆議しゆぎはや一決いつけつする物から、あるひは又あやぶみて、「第一の出頭きりものなる、錆塚幾內さびつかいくないは討うちしにしたれど、彼岩熊鈍平かのいはくまごんへいは、手痍てきず、大かた平愈へいゆして、二の城戶きどまもるなる。先君(神餘光弘じんよみつひろ)さかりなりしとき、かれ馬奴うまかひなるものなれども、こゝろたけく、膂力ちから强かり。定包さだかね二郡を押領おふれうせしのち漸々しだい〳〵に重ちやうようせられて、民のあぶらしぼりとる、奸智かんちしゆうことならず。又彼妻立戶五郞かのつまたてとごらうは、摠角あげまきころよりして、定包に使つかはれて、隨一の近きんじゆたり。武術才藝さいげい人にすぐれて、今なほしゆうのほとりを去らず。まづこの二人ふたりうちとらずは、本城に亂れ入るとも、彼等はもとよりその黨多かり。忽地遮留たちまちさへきりとゞめられて、ほゐとげかたき事ありなん。この議はいかに」、と密語さゝやけば、皆「有理もつとも」、といらへつゝ、「さらばくだんの兩人をうちとめて、そのたすけのぞさり、思ひのまゝなる働きせよ」とて、そのてわけをぞしたりける。

 その次の日妻立戶五郞は、彼檄文かのげきぶんひらひとりて、よみをはらずうち驚き、悤忙あはてふためき二の城戶きどなる、岩熊鈍平が本處ほんしよおももき、「箇樣々々かやう〳〵の事こそあれ。すみやかに聞えあげて、莊客們ひやくせうばら搦捕からめとり、そのわざはひ未發みはつさけずは、ゆゝしき大事に及ぶベし。これ見給へ」、とふところより、一通をとりいだし、おしひらきてさしおけば、鈍平はよくも見ず、「われもまたこれとおなじき檄文をひらて、驚き思ふ所也。すなはちこゝに」、と、とうつゝ、あはして見るにその文言もんごん一點違つゆたがふことなかりしかば、戶五郞思はず大息おほいきつき、「寄手よせて間諜事成かんてふことなりて、躬方みかた野心やしんのものあらば、この城ながくたもちがたし。こはゆるかせにすべうもあらず。いざ給へ、もろ共に、つげ奉らん」、といひあへず、たゝんとするたもとひきとめ、「妻立生且うぢしばらまちね、こゝろさする事あり」、とわりなくとゞめて、かたへ推居おしすえ四下あたりを見るに人はなけれど、ついばむ小鳥に異ならず、しば〳〵左右を見かへりて、あふぎを口に推當おしあてて、耳邊みゝのほとりおとがひさしつけ、「われこの密書を得たりしより、彼此をちこちにこゝろをつくるに、只管寄手ひたすらよせて渴望かつぼうし、この城をたてまつらん、と思はざるものはたゞかういふわれと和殿わどののみ。さるにより、われと和殿をうちとりて、衆人もろびと事を起さんとて、衆議しゆぎはや一決いつけつしたりとぞ、さきにある人密語さゝやきぬ。大厦たいかくつがへらんとするときに、一いちぼくいかでかこれをさゝへん。なまじいに義をたてて、雜人ざふにんばらの手に死なば、いとくちをしき事ならずや。すみやかに思ひさだめて、定包さだかね刺殺さしころし、城中ぜうちうの民もろ共に、里見ぬしに降參せば、衆人もろひとうらみときて、死をまぬかるゝのみならず、勸賞けんせう思ひのまゝにして、さかえを子孫につたへなん。和殿わどの胸中きやうちういかにぞや」、ととはれて戶五郞呆果あきれはて、「こは何事なにごとぞ物にやくるふ。和殿が神餘じんよつかへしときは、はつかに馬の口取くちとりなりしを、吾君わがきみおもく用ひ給ひて、光弘みつひろぬしの老黨ろうだうたりし、錆塚萎毛さびつかしへだげもろ共に、大事だいじまかし給ふならずや。吾儕わなみ國主こくしゆ(定包)の私卒わかたうたり。神餘が老黨ろうだうでをはせしときより、不便ふびんのものにせさせ給ひき。恩をになふて恩をおもはず、これに報ふにあだをもてせば、なにによりてか人といはれん。命ををしむは勇もなく、しゆうそむかば大逆だいぎやくなり。今一言いちごんかへして見よ、その席をさらせじ」、と敦圉いきまきながら小膝突立こひざつきたてかたなつかに手をかくれば、ちつとさわが冷笑あざわらひ、「忠義もしゆうによるものぞ。嗚呼をこなることをいふものかな。今定包をちうするは、故主こしゆうあたを報ふ也。そを弑逆しいぎやくといふべからず。しらずや定包ふかくはかりで、かねおのれを恨むといふ、朴平ぼくへい无垢三等むくざうらが手をかりて、主君をうたせしことおもむき、口外するは今はじめて。しかもその日は朝曇あさぐもり、夏なほ寒き落羽おちばおかたかおはるゝ鳥ならで、光弘ののり給ひし、鶬毛ひばりげの馬たふれしとき、定包はわが白しろうまを、やがて主君にたてまつり、おん乘替のりかえまたんとて、その身は其處そこよりひきさがりき。かくてぞ朴平無垢三は、彼白馬かのしろうまはるかて、定包來つ、と思ひしかば、矢比やころ近くなるまゝに、よつ引𢐕ひきひやうはなに、光弘朝臣あそんは胸を射さして、馬よりだうと落給ふ。そのさきの日に定包は、吾儕わなみひそかに招きよせ、『如此々々しか〳〵密謀みつぼうあり。なんぢわれに荷擔かたらはれて、翌狩倉あすかりくら朝立あさたちに、國主こくしゆ乘馬じやうめに毒をへ。事成るときは重く用ひん。こは只當座たゞたうざ賞錢ほうび』とて、物夥ものあまたとらせたり。よにあるまじき事と思へど、彼は老臣、われは奴隸しもべ、勢ひてきすべうもあらず。いなといはゞ殺されなん。命にかゆるものなし、と一議におよば承引うけひきて、その日馬をばたふしたり。かゝれば二郡兩城は、われ定包にとらせし也。この德このむくはんとて、今老黨ろうだうしりにをらせ、よしや大事をまかするとも、たえて恩とはいふべからず。これらの事をしるものは、萎毛錆塚しへたげさびづか兩人なれ共、渠等かれら泉下せんかの人とぞなりぬ。今では和殿わどののみなるべし。加旃しかのみならず妻立うぢ、和殿は月ごろ日來ひころより、夫人おくかた懸想けさうして、およばぬ戀に物を思ふ、とわれかねてよりすいしたり。しからばはやく思ひかへして、人啖馬ひとくひうまうつときは、賞にかえても玉梓たまつさを、妻にせんことやすかりなん。かくても吾儕わなみくみせずや」、とあくまでとかれて戶五郞は、動く心ともろ共に、こまぬきたる手をときて、忽地小膝たちまちこひざはたうち、「いはるゝ所まことにしか也。逆賊に從ひし、身の汚穢けがれあらはんには、小理せうりすてて大たいぎのぶる、和殿の議にこそ從ふべけれ。すみやかにし給へ」、と大かたならずうけひしかば、鈍平大きによろこびて、「しからばとせん」、「かうせん」とて、かたみに耳をとりかはし、いそがはしげに相譚かたらひけり。

 このとき山下定包やましたさだかねは、宿酒しゆくしゆいまださめずとて、後堂おくざしきいでざれ共、わらはのみ左右にはべらせ、翠簾みす半捲揚なかばまきあげたる、もたれはしらに身をよせて、なぐさめかねし徒然つれつれに、尺八さくはちの笛ふえふきすさみ、更に餘念はなかりけり。浩處かゝるところ岩熊鈍平いはくまどんへいは、妻立戶五郞を先にたゝして、「事あり〳〵」、とさけびつゝ、間每まごと障子開放せうじあけはなち、しゆうのほとりへ來る程に、こゝろを得たる夥兵數くみこすかろよろふて、器械引提うちものひきさげ些後すこしおくれてつぎなる、いろ〳〵の花鳥畫くわちやうゑがきたる、腰障子こしせうじかげかくれて、おの〳〵奧を闕窺かいまみをり。定包は鈍平等が、あはたゝしく來るを見て、尺八さくはちをとゞめ、「こは何事なにことぞ」、ととはせもあへず、兩人齊一ひとしく聲をふりたて、「積惡せきあくの家餘殃よわうあり。城中の民みなそむきて、寄手よせてを引入れ候へば、落城きびすめぐらすべからず。おんはらをめされ候へ。吾儕われわれ介錯仕かいしやくつかまつらん」、といひもをはらず、先に進みし戶五郞は、刀をきらりと引拔ひきぬきて、跳掛おどりかゝつ斬著きりつくるを、「推參すいさんすな」、と尺八の笛もてちやう受留うけとゞむれば、笛は中よりはすにられて、さきはるか飛散とびちつたり。戶五郞は思はずも、一の大刀たち擊損うちそんじ、しゆうと思へば心おくして、武者戰むしやぶるひして進み得ず。定包瞋いかれる眼尻引立まなしりひきたて、「原來汝等謀叛さてはなんぢらむほんくはだてよ豫を、うたんとて來つるよな。嗚乎をこがましや」、と敦圉いきまきたかく、たゝんとすれば戶五郞鈍平、透間すきまもなく擊刃うつやいはの下を、くゞりぬけうけながし、切口尖きりくちとがれる尺八を、手鎗てやり穗頭ほさきひらめかせども、身に寸鐵すんてつおびざれば、とびしさって打笛竹うつふえたけの、銑鋧しゆりけんに戶五郞は、右のかひなをうちぬかれ、忽地たちまちあつ」と叫びあへず、やいば撲地はたと落しつゝ、尻居しりゐだうたふれしかば、定包さだかね「得たり」、と走掛はしりかゝつて、くだんやいばとらんとすれば、うしろひらめく鈍平が刀尖きつさきさがりに擊大刀うつたちに、かたさきより七九兪しちくのあたりを、したゝかに斬著きりつけられて、やいばを奪ふにいとまなく、又うちかくる鈍平が刀の鍔元つばもとうち落し、そがまゝ引組ひきくんで、上になり下になり、しばらいどみ爭ふものから、定包は深痍ふかでおひぬ、勢ひ既におとろへて、つひに膝しつか組布くみしかれ、しきりに人を呼立よびたつれば、鈍平はくびをかゝん、と腰をさぐれば中刀わきさしさへ、振落ふりおとして後方あとべにあり、「いかにせまし」、と心劇こゝろあはてて、思はず見かへる雌手めてかたに、倒れし妻立戶五郞が、うちかけられたる笛竹を、「これ究竟くつけう」とぬきとりつ、はねかへさんとする定包がのんどをぐさとつらぬきぬ。戶五郞は竹をぬかれて、忽地たちまち人氣ひとけつき、岸破がばおきつゝこれを見て、落せしやいばひらひとりて、岩熊に遞與わたせしかば、鈍平は定包が、くびかききりてぞたちあがる。さればあまた兵士つわものは、鈍平等に荷擔かたらはれて、次のまで來にけれど、なほその勝負せうぶはかりかねて、佻かろかろしくこれをたすけず、既にして定包がうたるゝを見ていそがはしく、障子紙門せうじふすまをうちたゝきて、ときの聲をぞあげたりける。

鈍平どんへい戸五郎とごらう便室こざしき定包さだかねうつ」「岩熊どん平」「妻立戸五郎」「山下定かね」

 さる程にしゆうの左右に侍りたる、童等わらはらはおそれまどひて、庭門にはくちより走りさり、これかれつげにければ、縡果ことはつころ近臣等、遠侍とほさむらひよりきつるもあれど、彼兵士等かのつわものら抑留よくりうせられ、多くはこのときうたれにけり。まいて物の數ならぬ、女房等にようぼうらたゞ泣叫ぶを、鈍平げぢして玉梓たまつさもろ共、一人ひとりもらさず生いけどらせ、おの〳〵金銀財寶を、思ひのまゝに掠奪かすめとり正廳おもてのかたへ走はせさりぬ。げに天の人を罰する、時ありて輕重悞けいじうあやまつことなし。定包奸智かんちたくましうして、しゆう傷賊そこなひ、所領しよれうを奪ひ、浮雲ふうんの富をなすといへ共、百日をいでずして、又その家臣に殺されたり。加以これのみならず、そがかうべとらるゝとき、くだんの岩熊鈍平等は、はからずもやいばもてせず、切口とがりし笛竹は、是竹鎗これたけやりの刑に似たり。又かの妻立戶五郞は、定包が恩顧おんこのもの也。も笛竹の銑劍しゆりけんに、うたれて一旦息絕いつたんいきたえしは、惡人なりともしゆうを擊つ、冥罰めうばつならん、おそるべし。就中なかについて鈍平は、その罪たぐヘんものもあらず。神餘じんよ馬奴うまかひたりしとき、逆謀ぎやくぼうとしりつゝも、定包が爲に、しゆう乘馬じやうめを毒殺し、又定包につかへては、ます〳〵その惡をたすけて、刻剥こくはくをさ〳〵民をくるしめ、惡報その身に係るに及びて、まぬかれんとて又しゆうを擊つ。たとひ善人にくみすといふとも、かくのごとくにして後榮のちさかへんや。むかし後漢ごかん光武帝くわうぶていは、子密しみつをもて不義侯ふぎこうとせり。それ不義にして、封爵はうしやくうけんより、不義ならずして、匹夫ひつふに終るこそよけれ。作者間つね〳〵、歷史軍記を讀むごとに、かゝるくだりいたりては、一大息いちだいそくをせざることなし。よりて今亦自注またじちうして、もて童蒙わらはべに示すのみ。山下定包さだかねが事は、軍書舊記ぐんしよきうきでんあり。つまびらかならずといへども、しゆうの神餘をそこなひし、癖者くせものなるよしはたがはず。今なほ彼處かしこ古蹟こせきあり。くた〳〵しければよくもしるさず。又後々のちのちまきにていはなん。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です