読書ざんまいよせい(063)

◎ 幸徳秋水「社會主義神髄」(09)

付録

     社會主義と國體
 先頃某會合に於て、社會主義の大要を講話した時に、座中で第一に起った質問は、社會主義は我國體と矛盾しはせぬ歟、といふのであった、思ふに社會主義を非とする人々は皆此點に疑問を持つて居るらしい、否な現に公々然と社會主義は國體に害が有るなどと論じて居る人も有るといふことだ、『國體に害が有る』の一語は實に恐ろしい言葉である、人でも主義でも議論でも、若し天下の多數に『アレは國體に害がある』と一たび斷定せられたならば、其人、若くは其主義、若くば其議論は全く息の根を止められたと同様である、少くとも當分頭は上らぬのである、故に卑劣な人間は議論や理窟で間に合はぬ場合には手ツ取り早く『國體に害あり』の一語で以て其敵を押し伏せ樣と掛るのだ、そして敵とする物の眞相實狀如何を知らぬ人々は『國體に害あり』說に無暗と雷同する者が多いので、此卑劣の手段は往々にして功を奏し、アタラ偉人を殺し、高尙な主義を滅し、金玉の名論を湮めて仕舞ふことが有る、故に『國體に害あり』といふ叫び聲が出た時には、世人は之に耳を傾けるよりも、先づ其目を拭うて、事の眞相を明かにするのが肝要である。
 幸か不幸か、予は歷史に喑く國法學に通じないので、國體とは如何なるものであるかてふ定義に甚だ惑ふ、又國體なるものは誰が造ったものかは知らぬ、併し普通に解釋する所に依れば、日本では君主政體を國體と稱する樣だ、否な君主政體と言ふよりも、二千五百年一系の皇統を名ける樣だ、成程是は古今東西類のない話しで、日本人に取ては無上の誇りで.なければならぬ、國體云々の言葉を聞けば、萬人均く心臟の鼓動するのも無理はないのだ、所で社會主義なるものは、果して彼等の所謂、國體、卽ち二千五百年一系の皇統存在すてふことと、矛盾衝突するのであらう歟、 此問題に對して、予は斷じて否と答へねばならぬ。
 社會主義の目的とする所は、社會人民の平和と進步と幸福とに在る、 此目的を達するが爲めに社會の有害なる階級制度を打破して仕舞つて、人民全體をして平等の地位を得せしむるのが社會主義の實行である、是が何で我國體と矛盾するであらう歟、有害なる階級制度の打破は決して社會主義の發明ではなくて、旣に以前より行はれて居る、現に維新の革命に於て四民平等てふことが宣言せられたのは、卽ち有害なる階級の打破ではない歟、そして此階級の打破は卽ち我國體と矛盾どころ歟、却つて能く一致吻合したものではない歟。
 封建の時代に於て尤も有害なる階級は、卽ち政權を有する武門であった、而して此階級が打破せられて社會人民全體は政治上に於て全く平等の地位と權力を得たのである.、社會主義は卽ち維新の革命が武門の階級を打破した如く、富の階級を打破して仕舞つて、社會人民全體をして、其經濟上生活上に平等の地位と權利を得せしめんとするのである、若し此階級打破を以て國體に矛盾するものと言ふならば、維新の革命も亦國體に矛盾すると言はねばならぬ、否な憲法も、議會も選擧も皆國體と矛盾するものと言はねばならぬ。
 社會主義は元より君主一人の為にするものでなくて、社曾人民全體の爲めにするものである、故に進步したデモクラシーの主義と一致する。併し是でも決して國體と矛盾するとは言へぬ、何となれば、君主の目的職掌も亦社會人民全體の爲めに圖るの外はないのである、故に古より明王賢王と呼ばれる人は、必ず民主主義者であったのだ、民主主義を採られる君主は必ず一種の社曾主義を行って其德を謳はれたのだ。
 西洋の社會主義者でも決して社會主義が君主政治と矛盾撞着するとは斷言せぬ、君主政でも民主政でも、社會主義を孰れば必ず繁榮する、之に逆へば衰へる、是は殆ど定まった數である、此點に於てトーマスカーカップが其著『社會主義硏究』中に說く所は、 最も吾人の意を得たものである、カーカツプ日く、『社會主義は進步した民主主義と自然に吻合するのである、けれども、實際上に其蓮動の支配が必ず民政的でなければならぬといふの道理は毫もない、獨逸などではロドべルタスの計畫の樣に、帝王の手で遣れぬことはないのである、ラツサールの理想は是である、ビスマ-クも或程度まで是を遣つた、實際富豪の階級に對する交讓(ユムブロマイス)に厭き果てた帝王が、渙然洒然として都鄙の勞働者と直接抱き合つて一個の社會主義的帝國を建設するのは、決して難事でないのである、斯る帝画は、材能ある官吏を任用し社會改善に熱心なる人民てふ軍隊に擁せられて益々强盛に赴くであらう、そして若し能く時機が熟したならば帝王彼自身に取ても、溫々ながら資本家階級の御機嫌を取って居るよりも、此種の政策は遙かに宜しきを得たものと言はねばならぬ。
カーカツプは更に列國競爭に就て論じて日く『列國の競爭は、少くとも近き將來までは益々激烈に赴くに相違ないが、此點に於ても、人民が先づ其社會紐織の瀾和を得るといふことは、實に莫大の利益である、先づ多數勞働者の靈能を發達させ、熱誠堅固の心性を夷うて、卽ち自由敎育を受けたる人民を以て團結した國民を率ゐるの國は、彼の不平ある、隨落したる無智なる貧民を率ゐる所の資本的政府に對して、今日の科學的戰爭に於て、必ず大勝利を占めるであらう、是れ恰も第一革命の際に於ける佛蘭西軍隊の熱誠に加ふるに、今日の完全なる學術を以てしたると同樣の結果である』云々、故に能く社會主義を採用するの帝王、若くは邦國は、卽ち彼の一部富豪に信頼する帝王若くは邦國に比して、極めて强力なるものである、社會主義は必しも君主を排斥しないのである。
 併し繰返していふが、社會主義は、社會人民全體の平和と進步と幸福とを目的とするのであつて、決して君主一人の爲めに個るのでない、故に朕は卽ち國家なりと妄言したルイ十四世の如き極端な個人主義者は、元より社會主義者の敵である、衆と偕に樂むと言った文王の如き社會主義者は、喜んで奉戴せんとする所である、而して我日本の祖宗列聖の如き、殊に民の富は朕の富なりと宣ひし仁德天皇の大御心の如きは、全く社會主義と一致契合するもので決して、矛盾する所ではないのである、否な日本の皇統一系連綿たるのは、實に祖宗列聖が常に社會人民全體の平和と進步と幸福とを目的とせられたるが爲めに、斯る繁榮を來たしたのである、是れ實に東洋の社會主義者が誇りとする所であらねばならぬ、故に予は寧ろ社會主義に反對するものこそ反つて國體と矛盾するものではない歟と思ふ。
    (明治三十五年十一月十五日、『六合雜誌』第二六三號所載)

     社會主義と商業廣吿

 維新後三十年間我日本の社會に於て、凡そ進步發達したといっても、商業廣吿程進步發達したものはあるまい。
 維新以前の商賣の廣吿といったら、ケチな木板摺の引札だの或は四辻に貼紙をするのだの、又小間物屋や化粧品などは、時々人情本の作者に頼んで、其著述の中で謳って貰ふ位が關の山であつた、夫から京阪では東西屋と名づけて、東京でも折々見かけるが、柝木を拍て觸れ步くのがあつた位ゐだ、然るに今日に至っては如何だ、右を向いても廣吿、左を向いても廣吿、廣吿が鉢合せをして推すな/\と騷いで居る、維新以前の所謂花の大江戶は、忽然として化して廣吿の東京となつた、赤本に一行二行の寄生蟲であったのが今や新聞雜誌書籍の前後に大威張で乘つかつて、甚だしきは肝心の記事よりも、廣吿のページの方が多いので、雜誌に廣吿があると言ふよりも、廣吿に雜誌があると言ふ方が適當であるやうだ、斯く獨り廣吿の分量が澤山になつたのみならず、其技術手段に至っても、實に驚く可き發達をなした、否な現に益々發逹しつゝあるのである。
 斯樣な進步發達は、果して何に原因するであらう歟、又其社會の上に影響する利害如何であらう歟、又其利害の結果を如何に處分し行くべきである股、是は當然起るべき011題である、否な起さねばならぬ問題である、否な頗る面白い問題である、予の考ふる所では。
 第一廣吿の目的原因は單に其商賣や品物を世間に吹聽し報知するといふのに止まらぬ、是れは注意すべき點である、彼等の目的は實に自身の商賣《ビジネス》を維持し擴張すると同時に、他人の商賣販路も奪ふのにあるのだ、是は全く今日の經濟組織が自由競爭の組織であるので、同業者との競爭に打勝たねば立行かないから起つたのだ、廣吿は單に報知の術也と思ったら大に間違ふ、報知した上に、他人の華主を奪うて、競爭に打勝つと言ふ必要が有るので有る。
 論より證據で競爭の激しい商品ほど、廣吿することが多いのである、例へば賣藥、煙草、麥酒、石鹼、齒磨化粧品、小間物などいふ、孰れの店でも大抵同樣の品物で、誰でも模擬が出來る競爭の品物は、從つて廣吿の優劣で、共商賣の優劣を爭ふのだ、だから廣吿の盛大なる度は、自由競爭の激烈の度を示すのバロメートルである、左すれば甲の雜貨商が今年一千圓の廣吿料を拂ったと聞けば、乙の雜貨商は、翌年一千五百圓を投じて華主を爭ふ、スルと甲は更に二千圓を投ずるといふ譯で、日に月に廣吿料が多くなる、又手段に至っても、甲が墨繪の看板を出せば、乙が修色畫の看板を出す、又乙が十行の廣吿をすれば、甲が廿行といふ風に競爭又競爭で今日の進步と發達を來したのである、何のことはない、列國の軍備の擴張と同樣である、命限り根限り、資本の續く丈雙方で增して行くので、殆ど底止する所を知らぬのだ、現に有名なるピアスソーブの如きは資本の三分一以上廣吿料に投じて居る、其所で此廣吿の競爭が社會に及ぽす利害如何と見ると廣吿の利益是は言ふまでもなく何人も感じて居る所で、第一に需用者の便利、第二販路の擴張、從つて生產も多くなって商工業が發達するといふのである、然るに飜って其弊害の方を見ると實に悚然として恐るべき者がある、廣吿の弊害は凡そ三つに大別せられる。
 一は自然の美を害する事、美を愛すると云ふ事は、人間の極めて高尙なる性質で、天然の美景は、此高尙なる品性を養ふに尤も必要の物である、殊に近世文明の弊として、天下萬人が盡く物質的の利益に狂奔するの時に於ては、之が矯正の爲めに美術心の涵密は益々急切を感ずるのであるに拘はらず、近頃の廣吿は、到る處に俗惡極るペンキ塗の看板を立てゝ、天然の美景を無殘に破壊して行くのである、讀者は平生東京を一步踏出せば、是等の多くの例證に接するであらう、常に高尙なる美術を見、音樂を聞けば、自ら高尙なる品性を養ひ得るに反して、常に鳥獸の虐殺を見、若くは行ふものは自ら殘忍になる、小烏の聲を聞て、歌を詠みたいと思ふ人もあれば、直ぐに獵銃を持出したくなるものもあるを考へれば、 此廣吿が天然の美景を損じて、幾十萬の人が之を見る每に、アヽ嫌だ、といふ不快の感を催す時から、後には平氣になるまでに如何に國民の品性を下等にしたか解らないのだ、曾て村井商會が彼明媚なる京郁の東山へ持て來て、サンライスの廣吿を立てたことがある、是は畏くも離宮からもお目關りになるといふので取外したが、東山にサンライスと來ては如何に利の外は見ぬ商人とは言へ、 野卑といふ事は通り越して、 實に殘忍ではあるまい歟。
 第二は道德を害し風俗を害する事、 前に言つた通り廣吿の目的が同業者との競爭に打勝つに在る以上は、報知吹聴のみでは濟まぬ、出來る丈け華主を自分の方に引付ける樣に試みねばならぬ、そして競爭が激烈なるに從つて、其手段方法も、正とか不正とか言つては居られぬ、誘惑でも、欺罔でも構はず遣付ける、實に到らざるなしである、試に彼賣藥の功能書を見よ、効能神の如しとか禮狀如山とか是さへあれば醫師も病院も全く不用であるかの如く思はれるのだ、夫から甚しい猥褻の文章や圖畫などを揭げて、靑壯者の心を鑠かさうとするのがある、其道德を害し風敎を害することは實に一方ならぬので、手段方法が巧妙なればなる程、弊害も亦多いのである、併し以上二種の弊害は個人の心得で多少の防ぎも出來るのであるが、第三の弊皆に至っては社會をして非常の損失を受けしめて居るのが有る。
 外でもない社會の富と勞働の浪費、である、社會の富が廣吿の爲めに浪費さるゝのは實に莫大の額である、或人の調べに依れば、米國で一年間に廣吿を費す所は五億萬弗の多きに達すといふことだ、卽ち十億萬圓で、日本政府の歲計の四倍に當る、其中、正常の報知吹聽は五百萬弗、卽ち一千萬圖あれば足りるので其他は全く競爭の爲めに餘計な手段方法を要する爲めに費すのだ。
 日本は元より斯くまでには到らぬが、 併し日本の富に比較しては實に驚く可き多額を拋って居る、予は未だ精密なる統計は造り得ないが、一寸勘定した所ても、每月東京府下の新開のみでも、七萬圓內外、大阪のみても三萬內外の廣吿料は拂はれて居る、卽ち一ヶ月に十萬圆である、夫れから各地方の新聞のみに一ヶ月十萬圓と言ふ金だ、夫れから雜誌廣吿、看板廣吿、引札、樂隊、御馳走廣吿などの總べてを合併したならば、日本商業は一年間に三百萬圓の廣吿料を支出して居るといふことは、優に斷言することが出來るのだ、そして此額は月々歲々に驚くべき比率を以て增加してるのだ、然らば卽ち此一ケ年三百萬圓の大金は果して如何なる所から湧き出るのであるか。
 此大金が商人の懷から出ると思つたら、夫こそ大きな誤診である、言ふ迄もなく彼等は此廣吿料を商品の代價の裡に見積つてあるのだ、吾人は實に一本の卷煙草にすら多少の廣吿料を拂って居る、商品の代價は正當の定價よりも確かに夫れ丈け高くなって居る、社會人民は夫れ丈け餘計な富を作って彼等に支拂って居る勘定ではない歟。
 社會には現に多くの貧民が有る、若し一戶五口の貧民を一年三百圓で養ひ得るとしたならば、我等が年々廣吿料の爲めに費す所の三百萬圓の大金で實に五萬人の貧民の衣食を支へることが出來るではない歟、一方に其日の煙に逐はれて居る貧民が年々增加するにも拘らず、一方に社曾の富を無益に使ひ捨てる額も斯く年々に增加するのは、獨り社會の損失のみでなく、抑も人道の許す所であらう歟。
 如此く多額の富の浪費に加へて、廣吿の競爭の爲めに耗らす天才、技術、勞力も亦莫大の額である、是等の能力を生產的に若くは高尙なる事業の爲めに使つたら、如何に社會全體の爲めに利益を與へるであらう歟、是れ皆經世家の深く思ひを致すべきの點である。
 以上廣吿より生ずる弊害の矯正策に就ては、未だ日本では講究をした人はないやうだが、歐洲では以前から大分議論が喧しいのである、現に或國では廣吿に課稅して、無暗な膨脹を制裁せんとしてるのもある、英國などでも贋吿が天然の美景を損ずるのを憂へて、商工局の許可を得なければ、看板を建ることを許さぬやうにしようといふ意見がある、是も一策には違ひない、現時の如く全然放任して置くには、優るに相違ない、併し此處は絕景だから許可しない、那處は勝地でないから許可しようといふ如き美景の區別を、美術家でもない商工局に鑑定を賴むといふのは、ちと筋違ひではあるまい歟、殊に斯様の干涉は、得て弊害が伴ひ易いので、尤も注意を要するのみならず、唯だ天然の景色保存といふ丈けで、全體の弊害矯正は出來ぬのである。又課稅論の如き、國庫の歲入を增すといふなら兎も角も、決して廣吿減少の目的は達せられぬ、若し廣吿が課稅せられたなら、夫丈け品物の値を高くするのみである、競爭者が多くて其競爭に打勝ねばならぬ必耍がある以上は、又打勝つべき唯一の手段が展吿である以上は、如何に重税でも止める譯には行かぬのだ、廣吿を止めるの際は、卽ち破産の時であるのだ、故に謀稅の結果は品物の代價騰貴に過ぎないのである故に廣吿問題眞個の解決は、卽ち是等の弊害を一掃しようと言ふのには、課桃も姑息、商工局の認可權も姑息である、唯だ彼等商人をして廣吿の必要をなくせしむるより外はない、此廣吿の必要をなくするのは、卽ち自由競爭の經濟組織を廢するに在るのだ、前に述た如く、廣吿は一に自由競爭の發生物で、競爭の激しい品物ほど廣吿が盛んだ、試に見よ、郵便の如き電信の如き、 競爭がないので、廣吿に金を我す必要がない、從って其手數料も廉いのである、然るに若し郵便や電信が私設會社の事業で競爭したならば、彼等は必ず本會社の郵便は便利だとか、電信の文字が確實だとか、配達が速かだとか、廣吿して、頻りに自分の會社の切手を澤山資らうとするに違ひない、其結果は今の三錢の切手も或は四銭五錢位に引揚げて廣吿料を見積るといふ勘定になるであらう、唯だ彼等は社會の公有で、競爭がないから、正當の報知以外には廣吿をせぬのである、鐵道でも、汽船でも競爭のない所には誇大の廣吿はしないのだ、煙草でも、石驗でも、賣藥でも、皆同一の道理でなければならぬ。
 如此く廣吿の原因は競爭であるが、競爭の原因は何かといへば、卽ち資本と土地の私有である、個人が銘々に其私有の資本と土地で儲けようとするから起るのだ、 故に社會全體が土地と資本を
共有物にして、一切の生產の事業も總て共同でするといふことにしたならば卽ち社會主義を實行したならば、自由競爭から生ずる弊害は、全く消えて、品物は旅くて澤山で、人間の生活も豐かになって、働く時間も少くなつて、萬人の平和のみならず、 目下廣吿の競爭に心を苦しめて居る商人資本家等も肩を休めて大に氣樂になるであらう、是が本間題の根本的解決法である。
         (出所不詳)

    社會主義と婦人

 婦人の性は皆な僻めりと斷じ、女子は養ひ難しと嘆じ、 婦人は成佛せずと罵り、婦人を眼中に置くは眞丈夫に非ずと威張れるの時代に比すれば、近時婦人に關する硏究論義の日に地す其盛を致し、甚しきは則ち專門婦人硏究者の肩書を有せる文人をすら出せるが如き喜ぶべきの現象たるに似たり、而も仔細に其硏究の目的方法を檢し來るに及んでは、未だ吾人の希望に副はざるもの多きを覺ゆ。
 吾人は婦人の生理的及び心埋的特性を剖扶して微を穿ち細に入れる多くの文士と著作とを見たり、吾人は婦人平常の祕事陰址を爬羅剔抗して眼あたり之に接するの感あらしむるの多くの文士と著述とを見たり、吾人は婦人の短所缺點及び其罪悪を鳴らして殆ど完膚なからしめたる多くの文士と著述とを見たり、吾人は婦人の運命の不幸と境遇の悲惨とを說て一字一淚なるの多くの文士と著述とを見たり、而も彼等果して能く現時の所謂婦人間題を解釋せりと為すを得べき乎。
 見よ吾人が彼等に依て學び得る所の者は、男子は如何にして婦人に愛せらるべきやてふ一事に非ずや、男子は如何にせば婦人を玩弄し得べきやてふ一事に非ずや、如何に現時の婦人が尊敬するに足らざるやてふ一事に非ずや、如何に現時の女學生が憎悪すべき者に非ずやてふ一事にあらずや、如何に女工を雇使せる工場主中殘忍暴虐の行ひを恣にせる者あるかてふ一事にあらずや、換言すれば彼等の吾人に示し律たる所の者は、婦人は玩ぶべき者也、海老茶袴は疝に觸る者也、女工は憫なる者也、如此き耳、然り唯だ如此き耳、是れ女子養ひ難しと嘆ぜるの時代に比して果して幾十步を進め得たりとする乎、廿十世紀の婦人間題に於て果して幾分を解釋し得たりとする乎。
 現時に在て多くの婦人は確かに男子の玩弄物たる也、確かに男子の寄生蟲たる也、 然れども婦人は永く如此くなる可き乎、ならざるべからざる乎、否な古來社會文明の進むに從て、婦人が漸次に其地位を上進するは、是れ爭ふ可からざるの事實也、而して難人が其社會組織に與って、より重大なるパートを働くの社會は、ヨリ文明なる社會たるは、亦是れ爭ふべからざるの事實也、社會文明の改善と進步は常に層一層に段一段に婦人地位の上進を要請願求しつゝある也、而して今の婦人硏究者の目的方法は果して此要求に副ふ者ある乎。
 思へ婦人が男子の玩弄に甘ずるは、 其獨立を得ざれば也、 男子の寄生蟲たり、 或は諸種の不潔なる誘惑に魅せられ、或は悲慘の境遇に沈むもの、亦其獨立を得ざればなり、彼等は其知識に於て其財產に於て、 獨立するを許されざれば也、 而して是れ誰か之をして然らしむるや、 先天乎後天乎、否な社會の組織其者は彼等を殘暴し凌虐して、人間を化して器械と化せる也、萬物の靈長を化して劣等の動物と化せる也。
 從來の社會組織は婦人に敎育を與へざりき、婦人に財產を與へざりき、婦人の獨立を許さヾりき、婦人は男子の玩弄物たり奴隸たり寄生蟲たらざれば活く可からざる者也と宣吿したりき、此時に於て何ぞ婦人の性の僻めるを怪しほん、何ぞ其脆弱なるを怪しまん、其諸種の誘惑に勝ち得ずして、多くの敗德を出し、多くの悲慘なる境遇に陷ることを怪しまんや、而して更に見よ現時の社會は何が故に婦人を殘暴凌虐するの爾く甚しきや、此れ見易きの理也、何となれば今の社會や社會協同の社會に非ずして自由競爭の社會也、自他相愛の社會に非ずして弱肉强食の社會也、故に人々日く、汝我を殺さずんば我汝を殺さんと、然り人は生きざるべからず、生んと欲して競爭せざる可からず、競爭するの極、他を殓さヾる可らず、他を奪はざる可らず、 國と國との間然り人と人との間然り、男子と男子と、女子と女子との間然リ、 何ぞ男子の女子を券械となし奴隸となすを怪まん、兵士が國家の霞たるが如く、勞働者が賣本家の犧牲たるが如く女學生も女工も藝妓も、甚だしきは細君も、皆な男子が個々兢爭の利益の爲めに犧牲に供せられずんば已まざるは、是れ今日の社會に於て、實に必至の勢ならずんばあらず。
 故に二十世紀の婦人問題や、是れ實に重大なる社會間題也、而して是を解決する、先づ婦人をして其奴隸の境より救うて、彼等をして平等の人間たらしめざる可らず、共知識と財産とに於て獨立を得せしめざる可らず、而して之を為す唯だ現時社會の自由競爭の組織を變じて、社會協同の組織となすに在るのみ、他人を犧牲とする事なくして、獨立するを得るの組織と爲すにあるのみ、此れ卽ち社會主義の實行也。
 吾人の社會主義を唱ふるや、或人日く、汝土地財産の共有を欲す、人の細君も亦共有となさんとするかと、嗚呼是何の意ぞ、是れ實に婦人を以て貨物と同視する舊思想也、社會主義の理想は細君を以て共有たらしめざると同時に共良人の專有たるをも許さ須る也、人は平等也、婦人も亦平等の人間也、他人の所有物たる可らず、彼を所有するものは卽ち彼自身ならんのみ、而して婦人も亦社會全體の知識財產の平等の分配に與って以て個人性の獨立を全うせん、如此にして婦人問題は始めて解決せらるゝを得べくして、決して彼の小說の賣れんを求め、新聞雜誌の賣れんを求むるに依て解釋するを得可からざる者也。(明治三十五年十月十日、『萬朝報』所載)

  附 錄 終

      立言者。未必卽成千古之業。吾取其有千古之心。
      好客者。未必卽盡四海之交。吾取其有四海之願。
[編者注]
読み下し
言を立つる者は、未だ必ずしもすなわち千古の業をなさざるも、吾、その千古の心あるを取る。
客を好む者は、未だ必ずしもすなわち四海の交わりを盡さざるも、吾、その四海の願いあるを取る。
 典拠は、『小窓幽記』から。
訳は、
「著述する者は必ずしも歴史に残る大作を完成して千古の大事業を達成するとは限らないが、千古の年代に貢献しようという思いは評価される。客人を迎えるのが好きな人間は必ずしも広く世界各地の友と交遊し尽くすことができるとは限らないが、世界各地の友と交遊しようとする思いは評価できる。」
( https://cuc.repo.nii.ac.jp/record/2196/files/KJ00005088608.pdf )から
  附 錄 終

[編者注]
 これで、岩波文庫版「社会主義神髄」は、平野義太郎氏の「解題」を除き、すべてテキスト化した。ご愛読に感謝する。引き続き、三枝博音「日本の唯物論者」の中江兆民、幸徳秋水の項をアップするが、その前に、該当書の「まえがき」「序論」から。
 全編を参照するには→ タグ:社会主義神髄

母の文章


 亡母は、映画と宝塚歌劇が大好きだった。映画は、たいてい昼間割引を利用し、小学生にもならない私はタダだった。堀辰雄原作の「風立ちぬ」だったか、主人公が恋人と再会するシーンで、幼い私が思わず「よかったなあ!」と呟いたら、まわりから拍手が起こったと、のちに母は語ってくれた。そんな母の戦中から戦後にかけての映画をめぐる記事が30年前に、ある雑誌に掲載された。今回は、読みやすいように最小限の修正加え紹介する。

 昭和二十年八月日本が悲しい敗戦の結末を迎えてより半世紀の歳月が過ぎ去りました。五十年の年月(としつき)は当時見た映画もはっきり記憶に残っていない位昔のことになりました。
 ほんの一握りの人に国民が踊らされ負けているいくさも勝った大勝利と騙され続けていたその時代の映画(活動です)はその人達に都合良く作られたものばかりで私達市民は日本が最后には必ず勝利し「八紘一宇」の旗印を相言葉に世界平和が訪れると思いこまされて戦争映画をたのしんでました。
 劇映画の始まる前に短いニュース映画が写されて北方・南方の各地で争う日本の兵隊さんの格好良いのを見て喜びました。むごたらしい場面は決して出て参りませんですから、日本は本当に強いと信じてました。獅子文六(本名岩田豊雄で執筆)原作「海軍」の映画は亡き山内明のりゝしき軍人姿は印象にあります。私も夢多き乙女のその頃は町で軍人さん特に真白な軍服姿の海軍将校には憧れの思いで胸ときめかしたものです。
 人間魚雷の潜水艦に乗りハワイ真珠湾で散華された軍人の物語りでしたが、お国の為と日本の勝利を信じ北の地・南の海で帰らぬ人となられた沢山の犠牲者の為にも、どんな理由があるにしても争ふことは決して許されぬことですね。
 敗戦を界に今まで押さえつけられてたすべての締付けが取り除かれ誰もが気兼なく喋れ集れる良い時代になり映画も当然、戦中の憎き米・英、うちてし止まんばかりを云わされ続けてたのもすっかり消え、洋画も見られる様になりました。戦後すぐは肩のこらないハッピーエンドで終る映画が多く、洋画はその昔評判の良かったのがリバイバル上映されました。映画ぐらいしかたのしみがなかった当時はどの劇場も満員で緩くり席に腰かけて見るのがむつかしく立ち見が多かったです。肉親の復員して来るのを待ち、充分でなかった食べ物、ほとんどの人が貧しく辛抱する生活に我慢して暮らしていましたので、せめてたのしい夢を映画に求め日頃の苦労を忘れようとしたのでしょう。
 二十四年に私も結婚して始めて主人と見た映画はアメリカの作品「哀愁」でした。ロバート・テーラー、ビビアンリーの巡り会った二人が戦争の為に別れ別れになり其の後ヒロインが事故で亡くなるストーリーでした。戦場に行く彼と「ホタルの光」の曲でダンスを踊ったシーンははっきりと憶えています。素晴しいと感動しました。
 我が国日本の兵隊さんも明日は出征と云ふ時は決っと同じ想いでいくさに行かれたのでしょう。繰り返しますが絶対に再びこのような光景があってはいけないことです。余談ですが、その年の十一月に誕生した長男は胎内におりましたから親子三人で見たことになります。
 子育てに数年映画に遠のき、次に見たのが亦アメリカの映画「風と共に去りぬ」で鮮やかなカラー、テーマ音楽「タラのテーマ」が流れ、スケールの大きな映画で三時間余りうっとりと見とれました。香港まで届き戦争の為にやっと日本には戦後入って来たとかで戦のさ中にこんな映画が作れるアメリカにたゝかいを挑んだ日本が敗れるのは残念ながら当前かもしれませんね。
 愛する人に去られ子供そしてすべての何もかもを無くしたラスト、スカーレットが「私にはこの大地がある」と絶唱し土を握りしめたクライマックスシーンには平和を祈り叫んだのだろうと私は思いました。此の映画はそれから二回も見る機会があり亦感激を新にしました。亦今回息子よりビデオがプレゼントされ近所の奥さん達と鑑賞会を予定しています。
 同じアメリカ人がお互いの主義・主張の違いから、南軍・北軍に別れ戦ふなどは無駄な残酷なことで、引張り出された兵士達はきっと平和に家族と幸せに暮すのを望んだでしょう。勝った北軍はまだ救われますが、敗れた南軍の兵士は哀れでした。まぶしい太陽をさえぎり、降る雨をよけるのに屋根もない原ぱに無数の重傷を負って倒れ、すでにこと切れた兵隊さんの写る一シーンがありましたが、いつの戦争にもあったことでしょう。惨らしいことです。犠牲になられた兵隊さん達の御冥福をお祈りします。
 二〇年代の映画と戦争の話を書く様、御依頼を受けましたが、何分生まれて初めての経験でおはずかしい文章でお許し下さい。
 いつの世までも戦争のない世の中であることを念じています。

ブログタイトルを変更しました


 所属法人の機関紙に、連載記事を依頼され、2025年6月から、「照る日曇る日」となづけ、連載しています。そこで、このブログも名称を「ブログ・あるてりあ」と変更することにしました。「あるてりあ」はラテン語で「動脈」という意味です。
 実は、今から50年以上前、学生時代に、ひょんなことで、クラス総代をすることになりました。その当時、クラスの親睦を図るため、月に一度程度、ガリ版刷りで、「クラス報」を発行していました。その名称が「あるてりや」であることをようやく思い出したからです。ただし、発音からは「あるてりあ」がより正確なため、以上のようにします。
 従来より、投稿ペースは落ちますが、改めてよろしくお願いします。
 図は、その「あるてりや」からです。当時から、学科試験を巡る教官側との軋轢はあったのですね。私は間に入って苦労したようです。ちなみに、当方は、生理学の試験は難なくパスしましたが、大の苦手の解剖学が「通過」せず、学3(5年生)になっても「仮進学」のままでした。「あるてりや」と名付けたのも、「解剖学」にたいする、ささやかなリベンジなのかもしれませんね。

読書ざんまいよせい(062)

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(03)

       三

 チュメーンからトムスクまでの間には、シベリヤ街道に沿つて一つの小村も部落もない。あるのは大村ばかりで、それが二十乃至二十五露里、時には四十露里もの間隔を置いてゐる。この土地に莊園が見られないのは、つまり地主がゐないからである。工場も水車場も、旅籠も見られない。……沿道で人の住む氣配のするものと言へば、風に唸る電線と里程標ぐらゐなものである。
 村には必らず敎會がある。時によると二つもある。學校もまづ村每にあるらしい。百姓小屋には一軒ごとに掠鳥の巢箱があつて、それも垣根とか白樺の梢とかの、手のとどきさうな低い所に置いてある。掠鳥を可愛がるのはこの土地の風習で、これには猫も手を出さない。庭といふものはない。
 寒さのびりびりする夜を乘り通して、明け方の五時に、自前馭者の家の座敷に坐つてお茶を飮む。その座敷といふのは廣々とした明るい部屋で、飾りつけなどは、クールスクやモスクヴァあたりの百姓の夢想だも及ばぬほどに立派である。淸潔なことは驚くぱかりで、塵ひとつ汚點ひとつない。塵は白塗り、床《ゆか》は必らず板張で、それをペンキで塗るか、または色模様の粗麻布を敷きつめるかしてある。卓子が二脚、長椅子がー脚、 それに椅子、食器棚、 窓の上には鉢植もある。一隅には寢臺があつて、羽根蒲團や赤い被ひを掛けた枕などが、その上に山を築いてゐる。この山に登るには椅子を臺にしなければ駄目だ。そして寢ると、身體は浪の底に沈み込む。シベリヤの人はふつくらした寢床が好きなのだ。
 隅の聖像を中心に、兩側には繪雙紙が貼りつらねてある。皇帝の肖像がかならず幾通りかあつて、それからゲオルギイ・ポベドノーセッツ*、「ヨーロッパの諸君主」(その中にはどうした譯か、ペルシャの王樣までが見受けられるーー)、績いてラテン語やドイツ語で題銘の入《はい》つた聖徒の畫像、 バッテンベルグ公*やスコベレフ*の半身像、それからまた聖徒の像。……壁の裝飾にはボンボンの包紙や、火酒《ヴオトカ》のレッテル卷煙草から剝いだペーパーまで使つてある。この貧相な飾りは、堂々たる寝臺や色塗りの肘とまるでそぐはない。だがどうも仕樣がないのだ。藝術の需要は旺盛なのだが、藝術家の方で現はれて來ないのだから。扉を見たまへ。それには靑い花と赤い花の咲いた木が描いてある。何やら鳥もとまつてゐるが、どうも烏よりは魚に似てゐる。木は壷から生えてゐる。その壷によつて見ると、これを描いたのはヨーロッパ人ーーつまり追放者に違ひないことが分る。天井の環形も煖爐の飾りも、同じく追放者が塗《ぬ》たくつたものだ。いかにも不細工な繪ではあるが、この邊の百姓にはこれだけの腕前もないのだ。九ケ月のあひだ、拇指だけ別になつた手袋をはめたなりで、 指を一本一本伸ばす暇もない。やれ零下四十度の酷寒、やれ牧場が二十露里も水浸しになつた。——さうして短い夏が來ると、一時に疲れが出て肩は張る、筋は拘攣《つれ》る。こんな風ではどうして繪なんかやつてゐる暇があらうか。彼等が畫家でも音樂家でも歌手でもないのは、 年ぢゆう自然との猛烈な鬪爭に追はれてゐるからだ。村で手風琴の音のすることも滅多にないし、また馭者が唄ひ出すのを待つてゐたら、なほさら馬鹿を見る。
注]
*ゲオルギイ・ポベドノーセッツ 希臘神話の農事の神から轉化したと推測されるキリスト敎の聖者の一人。ロシヤでは家畜の保護者の性質を帶びてゐる。畫像としては、槍を以て龍を突く騎士の姿であらはされる。
*バッテンペルグ公 初代のブルガリヤ公アレクサンドル(在位一八七九――八六)。口シヤ政府の意に抗つて憲法を制定し、ルーマニヤ、セルビャと戦つて勝つた。
*スコベレフ ロシヤの有名な將軍(一八四三――八二)。七七・八年の露土戰爭をはじめ赫々たる武勲が多い。
 あけつぱなしの扉から、 廊下ごしに別の部屋が見える。板敷の明るい部屋である。そこでは仕事の眞最中だ。お主婦さんは、年のころ二十五ほどのひょろ長い女だが、いかにも人の善ささうな柔和な顏をして、 卓子のうへの揑粉を揑ねてゐる。眼にも胸にも兩手にもきらきらと朝日が當つて、まるで揑粉を日光と揑ね混ぜてゐるやうだ。亭主の妹らしい娘がブリン*を燒き、屠殺したての仔豚を料理女が茹でる。亭主はフェルト惺靴の製作に餘念もない。何もしないのは老人だけだ。婆さんは兩足をぶらさげて煖爐《ペチカ》に腰かけ、溜息まじりに呻いてゐる。爺さんは咳をしながら煖爐のうへの床《とこ》に寝てゐたが、 私の姿を見るとのこのこ這ひ下りて、 廊下を越して座敷へはいつて來た。世間話がしたいのだ。……今年の春は相憎と近來にない寒さでしてと、先づそこからロを切る。やれやれ明日はもうニコラ様*で、 明後日はまた耶蘇昇天節だといふに、 咋夜も雪が降りをつて、 村の往還ぢやどこかの女子《おなご》が凍え死にましてな。家畜どもは餌がないので細くなりますし、犢なんぞはこの寒さで腹を下します。……それから今度は私に向ひ、どこから何處へ何の用でつつ走りなさる、 奧さんはおありか、 女子供はもうぢきに戰《いくさ》があると噂しよりますが、 あれは本當でせうかなどと尋ねた。
注]
*プリン 英米で朝食に供する本來の意味でのパンケーキに似てゐる。
*ニコラ樣 「ニコラの日」の意。露曆五月九日を指す。「ニコラ様が濟んだら冬を讃へよ」といふ諺がある。
 子供の泣聲がする。それでやつと、寝臺と煖爐のまん中に小さな搖籃が吊つてあるのに氣がついた。お主婦さんは揑粉を抛り出して、こつちの部屋へ駆け込んで來る。
 「ねえ商人の旦那、 ひよんな事がありますもので」と、彼女は搖籃をゆりながら、柔和な笑顏を私に向ける、「二た月ほど前、 オムスクから赤ん坊を抱へた町人女が來て泊り込みました。……しやんとした身裝《みなり》をしとりましたが。……何でもチュカリンスクでその兒を生み落して、洗禮もそこでして來たとか申しました。產後のせいか道中で加減が惡くなりましてね、私方のこれニの部屋に寢かせてやりました。亭主持ちだと言つとりましたが、なに分りは致しません。顏に書いてあるぢやなし、旅行券も持つちやをりませんもの。赤ん坊だつてきつと父親《てておや》の知れない…」
 「餘計なことまでほざきをる」と爺さんが呟く。
 「來てから一週間ほどしますと」とお主婦さんは續ける、「かう申すのです、――『オムスクへ行つて夫《やど》に會つて來ますわ。サーシャは置いといて下さいな。一週間したら貰ひに來ますから。連れて行つて道中で凍え死なしちや大變ですものね。……』そこで、 私はかう申しました、――『ねえ奧さん、世の中にや十人十二人と子供を授かる人もあるのに、家のも私も罰あたりでまだ一人も授からないんです。物は相談だが、サーシャ坊をこのまま私らに貰へませんかね。』すると暫く考へとり
ましたが、やがて、『でもちょいと待つてドさいな。夫に相談して見て、一週間したら手紙でお返事しませう。さあ、夫《やど》が何と言ひますか。』 でサーシャを置いて出て行きましたが、 それつきりもう二た月にもなるのに、姿も見せず手紙も來やしません。とんだ喰はせ女《もの》で。サーシャは親身になつて可愛がつてやりましたが、今ぢや家の子やら他人《ひと》の子やら、さつぱり分りませんです。」
 「その女に手紙を出すんだね」と私は智慧を貸した。
 「なるほど、 旦那の仰しやる通りだ」と、亭主が廊下から言ふ。
 彼は這入つて來て、私の顏を默つて見てゐる。まだ何か智慧の出さうな顏附だと見える。
 「そんなこと言つたつて、出せるものかね」とお主婦さんが言ふ、「苗字も言はずに出て行つたもの。マリヤ・ペトローヴナ、それつきりさね。オムスクの町はお前さん廣いからね。とても分りつこないさ。雲をつかむやうなもんで。」
 「なるほどな、 そいつは分らねえ」と亭主は相槌をうつて,また私の顏を見る。まるで『旦那、何とかなりませんか』とでも言ふやうだ。
 「折角これまで馴れつこになつたものを」と、お主婦さんは乳首をふくませながら言ふ、「夜晝なしに泣聲が聞えると、違つた氣持になるぢやないか。この小屋までが見違へるやうになるぢやないか。それを、明日にもあの女が戾つて來て連れて行くかと思ふと、一寸先は闇で……」
 お主婦さんの眼は眞赤になつて、淚が一ぱい溜つた。そして急ぎ足で部屋を出て行つた。亭主はその後姿へ顎をしやくてて、薄笑ひを浮べて言ふ。――
 「馴れつこになつただと……へん、不憫になりやがつた癖に。」
 さう言ふ自分も馴れつこになつて、 やはり不憫になつて來てゐるのだが、男としてそれを白狀するのは極りが惡いと見える。 ,
 何といふ心善い人のだ。お茶を飮みながらサーシャの話を聞いてゐるあひだ、私の荷物は外の馬車に積みつぱなしにしてある。ああして置いて盜《と》られはしまいかと尋ねると、彼等は笑つてかう答へる。――
 「誰が盜むものかね。よる夜中だつて盜みやしねえでさ。」
 事實、旅行者が盜難に逢つた噂は、道申絶えて.耳にしなかつた。その點では、この土地の風俗は醇朴を極め、一種善良な傳習を守つてゐると言ひうる。たとひ馬車の中に財布を落したとしても、拾つた馭者が自前の馭者なら、中も改めすに返しに來ることは疑ふ餘地がない。驛馬車にはあまり乘らなかつたので、その方の馭者の事はほんの一例しか舉げられないが、宿場で待つ間の退屈凌ぎに手に取つて見た不平帳では、盜難の訴へはただー件しか眼につかなかつた。旅人の長靴を入れた袋が紛失したのである。しかも袋は間もなく見附かつて持主の手に歸つたから、 當局の裁決が示してゐるやうに、この訴へは結局「詮議に及ばず」なのだ。更に迫剝事件になると、噂話にも上らぬほどである。まるであつた例しがないのだ。ここに來る途中で散々に威かされた例の破落戶《ごろつき》にしても、旅行者にとつては兎や鴨ほどにも害はないのださうだ。
 お茶には、小麥粉のブリンや、凝乳と卵の入つた揚饅頭や、小さな燒菓子や、角形《つのがた》パンの揚物などが出た。プリンは薄くつて、厭に脂つこい。角形パンになるとその味ひも色合も、 どうやらタガンログ*やドン・ロストフ邊の市《いち》でウクライナ人の賣つてゐる、 あの黃色い孔だらけの環形ラスクを思はせる。シベリヤ街道に沿つては到るところ、パンの燒き方が非常にうまい。每日、 大量に燒くからであらう。小麥粉の値段は安く、四貫目で三四十銭位なものだ。
注]
*タガンログ ロストフに近く、アゾフ海に臨む港町。チェーホフは此の町で生れた。
 だが、パンの揚物だけでは腹の蟲は收まらない。そこで晝食に何か料理を頼むとすると、 出るものとい へば、 何處でも必らず「鴨のスープ」に極つてゐる。このス—プには手が附けられない。どろどろに濁つた液體のなかを、野鴨の肉片だけならまだしも、中身も碌に洗つてない臓物までが泳いでゐる始末である。まるで美味《うま》くはないし、見ただけでも胸がむかつく。どの百姓小屋を覗いても、獵の獲物が貯へてある。シベリヤでは狩獵の法律などはまるで行はれず、一年ぢゆうぶつ通しに小鳥を射つ。しかしどれだけ射つたにしても、野禽の盡きる心配はまづあるまい。チュメーンからトムスクに至る千五百露里の間に野禽の群は夥しいが、使へる鐵砲は一挺だつてないし、飛ぶ鳥の射落せる獵人は百人に一人位なものであらう。鴨を捕るときには、.普通は沼泥の現はれた所やびしょびしょの草の上に腹這ひになつて、大人しく坐つてゐるのだけを狙つて射つ。そのうへ彼等の立派な鐵砲は五度やそこら引金を引いたのぢや中々彈丸《たま》が飛び出さないし、いざ發射すると肩や頰にひどい反動が來る。幸ひに獲物に當つたにしても、それから先がまた一苦勞である。長靴と上股引をぬいで、冷たい水の中を這ふやうにして行く。この土地には獵犬がゐないのである。

中井正一「土曜日」巻頭言(20)

◎行動の隅々から縄張根性を取払はう 『土曜日』33号、1937年5月20日

[編者注]馬場俊明「中井正一伝説―二十一の肖像による誘惑」ポット出版(画像はその表紙)では、次の投稿も中井正一の筆によるものと推定するので掲載することにした。

 上海もマニラも入ると云ふ数百円もするラヂオで何を聞いてゐるかとかと言えば、相変らずチョンガリ節を聞いてゐるのでは、真空管もたよりないことであらう。
 人々の知脳をしぼつた近代装置をつくしたジュラルミン建築の中で、終日パチリパチリと将棋の音がしてゐるのも、何だかすまん様な風景である。
 まあまあそんなに云はんでも……と、文化全体が、うなされてゐる夢の中の、胸に置かれた手の重さの様に、何うすることもできない様な重いものゝ中で呻いてゐる様な気がする。
  この光景は、文化の立後れの国ほど強く、日本などの様に、契機が跛行し、封建的なものが残つてゐる国では、一番強く感ぜられるのである。
 重役が俳句をやつてゐると、高層建築と、その機構全体をあげて俳句的にならうと焦つて曲んでゐる。俳句を味つてゐるのではない。へつらひを競つてゐるのである。
 かゝることが、唾棄すべきことであることは勿論であり、人々はそれに気がついて、本気でやつてゐる連中を軽蔑し、自分は要領よくすりぬける術を心得てゐると思つてゐる。
 しかし、この封建残滓に気がついてゐる人々の行動の隅に、まだまだ、拭ひきれずに残つてゐる臭ひがある。
 批判の仮面をもつて出てきたり、党派の姿をもつてあらはれたりするけれども、もう一枚の薄皮をめくれば、やはり、身分根性、或は身内根性、即ち縄張り根性のすがたをもつた封建残滓物が、行動のほんのキッカケに残つて臭ふものである。
 例えば論争が、お互に笑ひをふくみながら、文化の名に於て、飽くまで峻厳に明朗に行はれることは、ほんとうに言易くして行ひがたいのである。いつの間にか対立となり、その系統を辿つて、身分もでき、縄張りともなるのである。
  それは知識人と勤労者間にも起こることであり、それこそが、文化を常に決定的に立後れさす原因ともなるのである。
 現下の情勢で決定的に警戒すべきは、行動を細心に用意しない批判である。そしてそれが封建残存物と混じて、「話せば判る」ことを「話しても判らない」ものに凝固することを極めて注意すべきである。
 こんな気持が残つてゐる限り、何をしてゐても、何んな高い文化に関係してゐても、髷をつけ刀をぶつ込んで眼をむき合つてゐるのである。チョンガリ節をならしてゐる真空管と大して変らないのである。

[編者注]本編をもって、「土曜日」巻頭言の掲載は終了である。

読書ざんまいよせい(061)

◎ 幸徳秋水「社會主義神髄」(09)

   附  錄

     社會主義と國家

 近時社會主義を駁するの論議多し、而して其最も有力にして而して最も普通なる者二あり、一は卽ち之を目して國家の權力を無限に增大すると為す者、 他は卽ち之を以て國家の廢滅を意味すと爲す者是れ也、二說氷炭啻ならずと雖も、而も兩つながら謬れり、是れ前者は社會主義を以て國家社會主義と混同し、後者は社會主義を以て無政府主義と混同する者なれば也、故に予は世間幾多の論客に向って、其社會主義を駁するの前、 先づ社會主義者が現時の所謂國家なるものに對する態度と、社會主義者が理想する國家の如何とに就て、一番の檢竅あらんことを望まざるを得ず。
 社會主義の要義が籍の生産と分配とを以て國家公共の業務となすに在るは論なし、然れども之を成すや、或は現在の國家組織に向って多少の變更を加へんとする者あり、或は全然根本の改造を要すとする者あり、孰れにもせよ眞正の社會主義者中何人も今日の所謂團家に整して之に信賴する者あらず、獨逸の社會民主黨の如きは、實に國家《ステート》の絕滅《アボリシヨン》を希望することを揚言せり、此點に於ては彼等は、一見無政府主義と混同せらるゝの恐れあり、然れども知らざる可らず、彼等の所謂國家なる語は、猶ほ彼等が責本其他の語を使用するが如く彼等に特有なる學術的意味《テクニカルセンス》に於て使用せらるゝ者なることを、換言すれば彼等が絕滅せんとするの國家は、卽ち或一階級を代表せるの國家なることを、或一階級の利益の爲めに他の階級を壓虐して之が利益を纂奪するの國家なることを。
 獨逸の社會民主黨は其名の示すが如く社會主義者たるのみならず、亦實に民主主義者《デモクラツト》也、而して共生存する所の國家が極めて非民主的なる事、其事は彼等をして益々共國家に對する憎惡を熾ならしめたり、彼等は現在の國家を憎惡するの甚しきと共に、現在の國家の手に經濟的企畫を委任せんとする國家社會主義に向って急激の抵抗を試むるに至り、一千八百九十二年の會議に於て、彼等自ら其革命的勢力たることを宣言すると同時に、國家社愈主義を目して保守なりとして痛罵せり、彼等は謂らく今の國家は『財產及び階級の支配なる現在の社會的關係を維持せんが爲めの『組織的權力』に過ぎずと、故に彼等は斯る國家を根本的に絕滅し、彼の一階級の利益を承認せずして一切平等の利益を增進するの組織を建設せむことを望むもの也、但だ彼等の理想せる一切平等の利益を增進するの組織が、國家《ステート》なる語を附して果して適當なるや否やは、是れ自から別問題に屬す、若し夫れ英國フワビアン黨や、米國の社會黨に至っては、敢て画家絶滅を唱ふるなし、是れ怪しむに足らず、彼等の國憲が獨逸に比して大に民主的なるが故に、急激の手段に依らずして能く多數福利の增進を期待し得べきが爲めのみ。
 蓋し社會主義と民主主義とは、恰も烏翼車輪の如し、何となれば一は經濟的に一は政治的に多數共通平等の幸福を其向上の目的となす者なれば也。故に眞正の社會主義者たる者は必ずや眞正の民主主義者たらざる能はず、專制的國家に在るの社會主義者は民主的國家を建設せんと試み、民主的國家に在るの社會主義者は、共國家の更に完全ならんことを望む、唯だ其手段の緩急を異にするのみにして皆政治的改革に熱心ならざるはなし、而して彼等の目して最も理想に近しとして贊歎する所は、實に瑞西の政治的制度也、夫の.一般國民をして直接に法律の可否を投票せしむるのレフエレングムや、多數の國民に發議の權を與ふるのイニシエチーヴや、國民が立法府に於て有する代表者の數の比輟上尤も公平なるプロポーシヨナル選擧法や、皆な民主的意義の大に發現せられたるものにして、社會主義者の望仰想望する所なりとす。
 如此にして社會主義は、深く現時の國家の中央謂の害逐に懲りて、地方分權を主張するに至るは自然也、彼等は人民の事業をして人民に依て行はしめ、若くは人民に近かしめんが為に多くの公務を中央政府の手より奪つて地方の自治團體に恢復するの必要を感ず、彼等は可及的中央政府の職權と權力とを削減して、國家を以て地方市府町村の自治的集合團體の聯合とし中央政府は唯だ團體聨合を統一し、彼等が共通の利益を公平に按排せしむるの具となさんと欲す、彼等は如何なる政治にもあれ如何なる組織にもあれ、富財の社會共同的生產と其公平の分配を保障することを必する者也、萬人をして總て其堵に安んぜしめ、萬人をして總て十分に其知能を發揮せしむるの地位と機會を保障することを必する者也、是れ彼等が經濟及敎育の事業を以て一に公共の手(國家と言はず)に委せんとする所以にして、而して經濟敎育の二事を除くの外は、決して政治的干涉を喜ぶ者に非る也、否な極めて自由放任を主張する事猶ほ今の個人主義者の如き也、例せば國敎の如きは社會主義とは全然相容れられざるものにして、獨逸民主黨が其綱領に於て明かに宗敎を個人の私事なる事を宣言せるが如き是也、彼等の希望は人をして人を支配せしむるに非ず、人をして物を支配せしめんと欲すれば也。
 カール・マルクスと俱に所謂獨逸科學的社會主義の’祖師と稱せられたるフリードリヒ・エンゲルは日く、『夫れ壓制せらるべき階級なく、或階級の支配なく、個人の生存競爭なきに至らば、國家と名くる壓制的權力も亦必要なからん、而して之に代て起る者は、社會全體の代表者としての國家也、然れども此國家や唯社會の名に於て生産の機關を有するに過ぎず、唯此一事、國家の最初の職務にして、亦最後の職務也、社會關係に於る國家の干涉は、一層はー曆より漸々無用となつて消滅するに至るべし』と。
 然り、社會主義者が理想とする國家は唯だ如此きのみ、彼等は決して國家萬能の主義に依て個人の自由を沒却せんとする者に非ず、而も亦全然社會の秩序を無視して、其團結組織を破壊せしめんとするものに非ず、要は多致人の幸福のみ、平等の利益のみ、世の社會主義を批評する者宜しく此點に留意せよ、若し夫れ社會主義制度が立君政治と兩立するや否やは、自ら別問題也。
               (明治三十五年二月五日、『日本人』第一五六號所載

     社會主義と直接立法

 予は社會主義の見地より、世界萬邦の社會主義者と同じく、我日本に一日も早く一種の『レフエレングム』と『イニシエーチーヴ』の實施を切望するものである、一寸適當の語を思ひ付かぬので、假に前者を直接投票、後者を直接發議權と譯する。
 凡そ世間に馬鹿げたと言ひ、無意味と言っても、日本國民の所翼參政權なる者ほど無意味に馬鹿げた代物は有るまい、是が普通選舉でも行はれて居るなら猶可なりだが、今の日本は納稅資格などといふ時代後れの愚なことをして居るので、選舉有權者は四千五百萬の國民中百萬內外に過ぎぬではない歟、夫も公平選擧法《プロポーシヨナル》でも採用されて、此百萬人の有權者が盡く代表者を出し得るならば猶可なりだが、大政黨以外の候補者は大抵落選させらるゝので、眞に代表者を出し得る者は、百萬人中僅に五六十萬人に過ぎぬのではない歟、夫も彼等五六十萬人の意思だけでも確かに議會に代理され遂行さるゝなら猶可なりだが、其代表者は議會に入るを得ると同時に、全く政府の奴僕となって仕舞ふのではない歟、換言すれば日本人で參政權を有する者は國民中の極少數で、而も其少數が參政權を行ふのは、唯だ議員の投票を投票箱に投入れる一刹那、共一刹那だけに止まつて、後は煙散霧消するのではない歟、此爲體で有りながら國民の參政權で候などゝは呆れて物が言へぬのである、參政椎てふ名詞にして若し靈あらば、盜し噱然として笑ひ、啾然として泣くであらう。
 抑も政治の本義を推擴めて其極致に至つたならば、國民自身が直接に政權を執り行ふのが當然だが、但だ實際社會の狀態が此に至るを許さないので、少數官吏、少數議員に彼等の代理を頼むといふのは、今更言ふまでもないのである、故に予は、否な多くの學者は歐米諸國の代議制度に對してすら之を政治の極致に遠いとして極めて不平不滿足である、だから彼等は國民參政の功果を擧ぐる方法を講ずるのに、日も亦足らぬ有樣である、況して我日本に至っては参政の功果どころか、此不幸不滿足なる普通の代議制度にすら追付かないで、實際は君主專制、寡頭政治の蠻域に、蠢めき廻つて居るのである、是れ我政治の進步發達を希ふの上に於て、大に考慮すべき所でない歟。
 然らば如何にして眞に國民參政の權利を實功あらしめ、如何にして政治の本義に一步なりとも近くべき歟、此點に於て普通選舉は無論急要である、公平選擧法も無論急要である、而も是では未だしで、彼等の參政權の實功は、矢張共投票を投ずる刹那に過ぎぬので有る、是に於て百尺竿頭ー步を進めて國民の直接投票《レフエンダム》、 直接發議權《イニシエーチーヴ》を主張せざるを很ないのである。
 直接投票《レフエンダム》といふものは、議會で決議した重大なる法案の可否を、更に國民の意見に問うて、其贊成を得て初めて法律とするのである、直接發議權は國民多數の連署を以て重大なる法律の改廢或は制定を發議し、矢張國民の投票に依て採決するのである、此兩者あって始めて國民が政治に參與するの實があり、國民の意思を代表しない官吏と議員との横暴を制し得るのである、而して欧米諸國中此兩者を實行して居るのは、瑞西聯合共和國である、予は無論瑞西の制度を其儘採用せよといふのではないが、併し其方法は大に參考とするに足るのである。
 孰れの國でも兩院を通過した法律は其規定した日時から直ちに効力を有するのだが、瑞西國では左樣は行かぬ、緊急なる性質の者、其他或特種の者を除くの外は、共法案を九十日間遍く各州に掲示して、若し其期限內に國民三萬人の請願か、若しくば八個の州の政廳より該法案の直接投票を要求して來た埸合には卽ち直接に國民をして可否を投票せしめねばならぬ、最も是迄行はれた直接投票は州政廳より要求したのではなくて、常に國民の請願に由つたのであった、三萬人といへば全國民の約百分のー、有權者總數の廿分のーである、斯くて其請願者の記名が定數に充ちたならば、卽ち聯合各州に於て同日に投票を行はしめる、投票期日は、命令を發した日から、四週間後でなければならぬ、一千八百七十四年から一千八百九十三年に至る間に、揭示せられた法律命令百六十四件中、直接投票を耍求せられたのが十八件、共中十二件は否決せられた、卽ち直接投票に掛けるのが一割內外で、其多くは否決せられたのである。
 直接投票は獨り聯邦議會の法案に就てのみならず、各州でも夫々州議會の法案に就て行って居るのである、尤も各州で多少制度を異にして重大の法案を盡く直接投票に問ふのもあれば、州民多數の要求を待て始めて之に付するのもある。後者では請願の記名提出の期限は通例三十日內外で請願者定員は其州有權者の五分のー乃至十二分のーである。
 爰で吾人の最も注意すべきは、彼等國民及び州民が直接投票を要求するのは、決して一時の感情に走るのではなくて、其嚴格に且熱心に自己の權利を行ふことである、而して政府も議會も謹んで其命令に服從するので日本の如く民意を度外して善い加減に扱ふことは出來ぬのである。
 直接發議權も亦久しく聯合各州に用ゐられて居る、州民が或法律の改廢若しくは創定を希望する時は、多數の賛成を得て其理由を具し、州の議會に提出する、其定員は直接投票者の割合と略同樣である、夫で議會は一定の期間に(或州は二ヶ月)之が成案を作り、同時に議會も又別に議會の案と意見とを附して州民の直接投票を命じ、其採決に從って直に法律となるのである。於是て實際彼等は直接に立法の權利を堅く把持し居るものである、而して是も亦た極めて嚴格に愼重に行はれるのである、此制度は古來州にのみ用ゐられて居たが一千八百九十一年に至って晰邦の憲法修正に用ゐらるゝこととなつた。
 其制に從へば若し五萬の國民が、憲法に於て或條章の制定を要求すれぱ、聯邦議會は直ちに其希望を討究して一の成案を摧へ、之を直接投票に問はねぱならぬ、又其要求の賛すべきものでなかつたならば、先決問題として憲法の改正すべきや否やを直接投票に間ひ、其採決を待て再び細目の成案を國民に問ふのである、又人民より詳細の成案を提出した場合には、議會は之に贊するか或は別に異つた案を出すか、或は全く反對の案を出して、共に國民の決定に委することが出來る、但し議會の案は其請願書の受領の後一ケ年間に作らねばならぬ、其時限を過ぎたら請願の案に同意した者となって、投票に附せられる、此方法で聯邦の憲法は屢ば修正せられ、大に同國政治の進步と發達に資したのである。
 我日本に於ては憲法修正の發議權は獨り天皇陛下の持し玉ふ處である、而して現在憲法の修正せられない限りは、我國民が憲法修正に關する發議は元より、一般法律に對する直接投票《レフエンダム》、及び直接發議權《イニシエーチーヴ》をも得られないのは承知である、予は決して憲法の紛更を試むるが如き所存は微塵もない。
 併しながら、現時の國民参政權がノンセンスであるのは確かである、政治の本義が國直接の政治に在るのは確かである、而して直接投票と直接發議とが、政治の本義に一步を近づくものなるも亦確かである。
 試に思へ、若し我國民が早く直接投票と直接發議との權利を得て居たならば、藩閥の政治家は能く今日の運命を保つたであらう歟、 無法の軍備は能く擴張せられたであらう歟、亂暴なる增税は能く承諾せられたであらうか、高野問題は今日までも未定のまゝで殘つたであらう歟、鑛毒問題に直訴の必耍があったのであらう歟、凡そ是等の例を見來れば、 如何に我國民の權利が全く蹂躙せられ、輿論が全く度外視せられ、ー國の政權が一部少數の手に竊まれて居るが爲めに、多くの不正と多くの非義と、 多くの損害と多くの醜聞が被むらされたかゞ解るであらう、我日本の國民は果して永く此の狀態に堪ふべきである歟、堪へ得ることが出來るであらう歟。
 若し日本の政治が果して君主專制寡頭政治の域を離れて將來益す進步し發逹し行くものならば、何時かーたび這箇の制度を採用するの氣運に際會せずには居らぬ、斯る氣運は如何なる經過で熟する歟、又は如何なる手續で事實に現出して來るかは是れ自ら別問題である、但だ此氣運にーたび際會すると極った以上は、予は一日も其速かならんことを希望に堪へぬ、而して若し此のニ箇の直接立法の方法が行はるゝに至ったとすれば、社會主義の目的は其大半を遂げたものである。
      (明治三十五年一月二十七日、『萬朝報』第三千號所載、原題「直接參政論」)

写真は、「アンパンマン」の作者・やなせたかし氏の高知新聞記者時代の大逆事件「被告」坂本清馬氏らのインタビュー記事(1948年11、12月)