◎ 幸徳秋水「社會主義神髄」(09)
社會主義と國體
先頃某會合に於て、社會主義の大要を講話した時に、座中で第一に起った質問は、社會主義は我國體と矛盾しはせぬ歟、といふのであった、思ふに社會主義を非とする人々は皆此點に疑問を持つて居るらしい、否な現に公々然と社會主義は國體に害が有るなどと論じて居る人も有るといふことだ、『國體に害が有る』の一語は實に恐ろしい言葉である、人でも主義でも議論でも、若し天下の多數に『アレは國體に害がある』と一たび斷定せられたならば、其人、若くは其主義、若くば其議論は全く息の根を止められたと同様である、少くとも當分頭は上らぬのである、故に卑劣な人間は議論や理窟で間に合はぬ場合には手ツ取り早く『國體に害あり』の一語で以て其敵を押し伏せ樣と掛るのだ、そして敵とする物の眞相實狀如何を知らぬ人々は『國體に害あり』說に無暗と雷同する者が多いので、此卑劣の手段は往々にして功を奏し、アタラ偉人を殺し、高尙な主義を滅し、金玉の名論を湮めて仕舞ふことが有る、故に『國體に害あり』といふ叫び聲が出た時には、世人は之に耳を傾けるよりも、先づ其目を拭うて、事の眞相を明かにするのが肝要である。
幸か不幸か、予は歷史に喑く國法學に通じないので、國體とは如何なるものであるかてふ定義に甚だ惑ふ、又國體なるものは誰が造ったものかは知らぬ、併し普通に解釋する所に依れば、日本では君主政體を國體と稱する樣だ、否な君主政體と言ふよりも、二千五百年一系の皇統を名ける樣だ、成程是は古今東西類のない話しで、日本人に取ては無上の誇りで.なければならぬ、國體云々の言葉を聞けば、萬人均く心臟の鼓動するのも無理はないのだ、所で社會主義なるものは、果して彼等の所謂、國體、卽ち二千五百年一系の皇統存在すてふことと、矛盾衝突するのであらう歟、 此問題に對して、予は斷じて否と答へねばならぬ。
社會主義の目的とする所は、社會人民の平和と進步と幸福とに在る、 此目的を達するが爲めに社會の有害なる階級制度を打破して仕舞つて、人民全體をして平等の地位を得せしむるのが社會主義の實行である、是が何で我國體と矛盾するであらう歟、有害なる階級制度の打破は決して社會主義の發明ではなくて、旣に以前より行はれて居る、現に維新の革命に於て四民平等てふことが宣言せられたのは、卽ち有害なる階級の打破ではない歟、そして此階級の打破は卽ち我國體と矛盾どころ歟、却つて能く一致吻合したものではない歟。
封建の時代に於て尤も有害なる階級は、卽ち政權を有する武門であった、而して此階級が打破せられて社會人民全體は政治上に於て全く平等の地位と權力を得たのである.、社會主義は卽ち維新の革命が武門の階級を打破した如く、富の階級を打破して仕舞つて、社會人民全體をして、其經濟上生活上に平等の地位と權利を得せしめんとするのである、若し此階級打破を以て國體に矛盾するものと言ふならば、維新の革命も亦國體に矛盾すると言はねばならぬ、否な憲法も、議會も選擧も皆國體と矛盾するものと言はねばならぬ。
社會主義は元より君主一人の為にするものでなくて、社曾人民全體の爲めにするものである、故に進步したデモクラシーの主義と一致する。併し是でも決して國體と矛盾するとは言へぬ、何となれば、君主の目的職掌も亦社會人民全體の爲めに圖るの外はないのである、故に古より明王賢王と呼ばれる人は、必ず民主主義者であったのだ、民主主義を採られる君主は必ず一種の社曾主義を行って其德を謳はれたのだ。
西洋の社會主義者でも決して社會主義が君主政治と矛盾撞着するとは斷言せぬ、君主政でも民主政でも、社會主義を孰れば必ず繁榮する、之に逆へば衰へる、是は殆ど定まった數である、此點に於てトーマス、カーカップが其著『社會主義硏究』中に說く所は、 最も吾人の意を得たものである、カーカツプ日く、『社會主義は進步した民主主義と自然に吻合するのである、けれども、實際上に其蓮動の支配が必ず民政的でなければならぬといふの道理は毫もない、獨逸などではロドべルタスの計畫の樣に、帝王の手で遣れぬことはないのである、ラツサールの理想は是である、ビスマ-クも或程度まで是を遣つた、實際富豪の階級に對する交讓(ユムブロマイス)に厭き果てた帝王が、渙然洒然として都鄙の勞働者と直接抱き合つて一個の社會主義的帝國を建設するのは、決して難事でないのである、斯る帝画は、材能ある官吏を任用し社會改善に熱心なる人民てふ軍隊に擁せられて益々强盛に赴くであらう、そして若し能く時機が熟したならば帝王彼自身に取ても、溫々ながら資本家階級の御機嫌を取って居るよりも、此種の政策は遙かに宜しきを得たものと言はねばならぬ。
カーカツプは更に列國競爭に就て論じて日く『列國の競爭は、少くとも近き將來までは益々激烈に赴くに相違ないが、此點に於ても、人民が先づ其社會紐織の瀾和を得るといふことは、實に莫大の利益である、先づ多數勞働者の靈能を發達させ、熱誠堅固の心性を夷うて、卽ち自由敎育を受けたる人民を以て團結した國民を率ゐるの國は、彼の不平ある、隨落したる無智なる貧民を率ゐる所の資本的政府に對して、今日の科學的戰爭に於て、必ず大勝利を占めるであらう、是れ恰も第一革命の際に於ける佛蘭西軍隊の熱誠に加ふるに、今日の完全なる學術を以てしたると同樣の結果である』云々、故に能く社會主義を採用するの帝王、若くは邦國は、卽ち彼の一部富豪に信頼する帝王若くは邦國に比して、極めて强力なるものである、社會主義は必しも君主を排斥しないのである。
併し繰返していふが、社會主義は、社會人民全體の平和と進步と幸福とを目的とするのであつて、決して君主一人の爲めに個るのでない、故に朕は卽ち國家なりと妄言したルイ十四世の如き極端な個人主義者は、元より社會主義者の敵である、衆と偕に樂むと言った文王の如き社會主義者は、喜んで奉戴せんとする所である、而して我日本の祖宗列聖の如き、殊に民の富は朕の富なりと宣ひし仁德天皇の大御心の如きは、全く社會主義と一致契合するもので決して、矛盾する所ではないのである、否な日本の皇統一系連綿たるのは、實に祖宗列聖が常に社會人民全體の平和と進步と幸福とを目的とせられたるが爲めに、斯る繁榮を來たしたのである、是れ實に東洋の社會主義者が誇りとする所であらねばならぬ、故に予は寧ろ社會主義に反對するものこそ反つて國體と矛盾するものではない歟と思ふ。
(明治三十五年十一月十五日、『六合雜誌』第二六三號所載)
社會主義と商業廣吿
維新後三十年間我日本の社會に於て、凡そ進步發達したといっても、商業廣吿程進步發達したものはあるまい。
維新以前の商賣の廣吿といったら、ケチな木板摺の引札だの或は四辻に貼紙をするのだの、又小間物屋や化粧品などは、時々人情本の作者に頼んで、其著述の中で謳って貰ふ位が關の山であつた、夫から京阪では東西屋と名づけて、東京でも折々見かけるが、柝木を拍て觸れ步くのがあつた位ゐだ、然るに今日に至っては如何だ、右を向いても廣吿、左を向いても廣吿、廣吿が鉢合せをして推すな/\と騷いで居る、維新以前の所謂花の大江戶は、忽然として化して廣吿の東京となつた、赤本に一行二行の寄生蟲であったのが今や新聞雜誌書籍の前後に大威張で乘つかつて、甚だしきは肝心の記事よりも、廣吿のページの方が多いので、雜誌に廣吿があると言ふよりも、廣吿に雜誌があると言ふ方が適當であるやうだ、斯く獨り廣吿の分量が澤山になつたのみならず、其技術手段に至っても、實に驚く可き發達をなした、否な現に益々發逹しつゝあるのである。
斯樣な進步發達は、果して何に原因するであらう歟、又其社會の上に影響する利害如何であらう歟、又其利害の結果を如何に處分し行くべきである股、是は當然起るべき011題である、否な起さねばならぬ問題である、否な頗る面白い問題である、予の考ふる所では。
第一廣吿の目的原因は單に其商賣や品物を世間に吹聽し報知するといふのに止まらぬ、是れは注意すべき點である、彼等の目的は實に自身の商賣《ビジネス》を維持し擴張すると同時に、他人の商賣販路も奪ふのにあるのだ、是は全く今日の經濟組織が自由競爭の組織であるので、同業者との競爭に打勝たねば立行かないから起つたのだ、廣吿は單に報知の術也と思ったら大に間違ふ、報知した上に、他人の華主を奪うて、競爭に打勝つと言ふ必要が有るので有る。
論より證據で競爭の激しい商品ほど、廣吿することが多いのである、例へば賣藥、煙草、麥酒、石鹼、齒磨化粧品、小間物などいふ、孰れの店でも大抵同樣の品物で、誰でも模擬が出來る競爭の品物は、從つて廣吿の優劣で、共商賣の優劣を爭ふのだ、だから廣吿の盛大なる度は、自由競爭の激烈の度を示すのバロメートルである、左すれば甲の雜貨商が今年一千圓の廣吿料を拂ったと聞けば、乙の雜貨商は、翌年一千五百圓を投じて華主を爭ふ、スルと甲は更に二千圓を投ずるといふ譯で、日に月に廣吿料が多くなる、又手段に至っても、甲が墨繪の看板を出せば、乙が修色畫の看板を出す、又乙が十行の廣吿をすれば、甲が廿行といふ風に競爭又競爭で今日の進步と發達を來したのである、何のことはない、列國の軍備の擴張と同樣である、命限り根限り、資本の續く丈雙方で增して行くので、殆ど底止する所を知らぬのだ、現に有名なるピアスソーブの如きは資本の三分一以上廣吿料に投じて居る、其所で此廣吿の競爭が社會に及ぽす利害如何と見ると廣吿の利益是は言ふまでもなく何人も感じて居る所で、第一に需用者の便利、第二販路の擴張、從つて生產も多くなって商工業が發達するといふのである、然るに飜って其弊害の方を見ると實に悚然として恐るべき者がある、廣吿の弊害は凡そ三つに大別せられる。
一は自然の美を害する事、美を愛すると云ふ事は、人間の極めて高尙なる性質で、天然の美景は、此高尙なる品性を養ふに尤も必要の物である、殊に近世文明の弊として、天下萬人が盡く物質的の利益に狂奔するの時に於ては、之が矯正の爲めに美術心の涵密は益々急切を感ずるのであるに拘はらず、近頃の廣吿は、到る處に俗惡極るペンキ塗の看板を立てゝ、天然の美景を無殘に破壊して行くのである、讀者は平生東京を一步踏出せば、是等の多くの例證に接するであらう、常に高尙なる美術を見、音樂を聞けば、自ら高尙なる品性を養ひ得るに反して、常に鳥獸の虐殺を見、若くは行ふものは自ら殘忍になる、小烏の聲を聞て、歌を詠みたいと思ふ人もあれば、直ぐに獵銃を持出したくなるものもあるを考へれば、 此廣吿が天然の美景を損じて、幾十萬の人が之を見る每に、アヽ嫌だ、といふ不快の感を催す時から、後には平氣になるまでに如何に國民の品性を下等にしたか解らないのだ、曾て村井商會が彼明媚なる京郁の東山へ持て來て、サンライスの廣吿を立てたことがある、是は畏くも離宮からもお目關りになるといふので取外したが、東山にサンライスと來ては如何に利の外は見ぬ商人とは言へ、 野卑といふ事は通り越して、 實に殘忍ではあるまい歟。
第二は道德を害し風俗を害する事、 前に言つた通り廣吿の目的が同業者との競爭に打勝つに在る以上は、報知吹聴のみでは濟まぬ、出來る丈け華主を自分の方に引付ける樣に試みねばならぬ、そして競爭が激烈なるに從つて、其手段方法も、正とか不正とか言つては居られぬ、誘惑でも、欺罔でも構はず遣付ける、實に到らざるなしである、試に彼賣藥の功能書を見よ、効能神の如しとか禮狀如山とか是さへあれば醫師も病院も全く不用であるかの如く思はれるのだ、夫から甚しい猥褻の文章や圖畫などを揭げて、靑壯者の心を鑠かさうとするのがある、其道德を害し風敎を害することは實に一方ならぬので、手段方法が巧妙なればなる程、弊害も亦多いのである、併し以上二種の弊害は個人の心得で多少の防ぎも出來るのであるが、第三の弊皆に至っては社會をして非常の損失を受けしめて居るのが有る。
外でもない社會の富と勞働の浪費、である、社會の富が廣吿の爲めに浪費さるゝのは實に莫大の額である、或人の調べに依れば、米國で一年間に廣吿を費す所は五億萬弗の多きに達すといふことだ、卽ち十億萬圓で、日本政府の歲計の四倍に當る、其中、正常の報知吹聽は五百萬弗、卽ち一千萬圖あれば足りるので其他は全く競爭の爲めに餘計な手段方法を要する爲めに費すのだ。
日本は元より斯くまでには到らぬが、 併し日本の富に比較しては實に驚く可き多額を拋って居る、予は未だ精密なる統計は造り得ないが、一寸勘定した所ても、每月東京府下の新開のみでも、七萬圓內外、大阪のみても三萬內外の廣吿料は拂はれて居る、卽ち一ヶ月に十萬圆である、夫れから各地方の新聞のみに一ヶ月十萬圓と言ふ金だ、夫れから雜誌廣吿、看板廣吿、引札、樂隊、御馳走廣吿などの總べてを合併したならば、日本商業は一年間に三百萬圓の廣吿料を支出して居るといふことは、優に斷言することが出來るのだ、そして此額は月々歲々に驚くべき比率を以て增加してるのだ、然らば卽ち此一ケ年三百萬圓の大金は果して如何なる所から湧き出るのであるか。
此大金が商人の懷から出ると思つたら、夫こそ大きな誤診である、言ふ迄もなく彼等は此廣吿料を商品の代價の裡に見積つてあるのだ、吾人は實に一本の卷煙草にすら多少の廣吿料を拂って居る、商品の代價は正當の定價よりも確かに夫れ丈け高くなって居る、社會人民は夫れ丈け餘計な富を作って彼等に支拂って居る勘定ではない歟。
社會には現に多くの貧民が有る、若し一戶五口の貧民を一年三百圓で養ひ得るとしたならば、我等が年々廣吿料の爲めに費す所の三百萬圓の大金で實に五萬人の貧民の衣食を支へることが出來るではない歟、一方に其日の煙に逐はれて居る貧民が年々增加するにも拘らず、一方に社曾の富を無益に使ひ捨てる額も斯く年々に增加するのは、獨り社會の損失のみでなく、抑も人道の許す所であらう歟。
如此く多額の富の浪費に加へて、廣吿の競爭の爲めに耗らす天才、技術、勞力も亦莫大の額である、是等の能力を生產的に若くは高尙なる事業の爲めに使つたら、如何に社會全體の爲めに利益を與へるであらう歟、是れ皆經世家の深く思ひを致すべきの點である。
以上廣吿より生ずる弊害の矯正策に就ては、未だ日本では講究をした人はないやうだが、歐洲では以前から大分議論が喧しいのである、現に或國では廣吿に課稅して、無暗な膨脹を制裁せんとしてるのもある、英國などでも贋吿が天然の美景を損ずるのを憂へて、商工局の許可を得なければ、看板を建ることを許さぬやうにしようといふ意見がある、是も一策には違ひない、現時の如く全然放任して置くには、優るに相違ない、併し此處は絕景だから許可しない、那處は勝地でないから許可しようといふ如き美景の區別を、美術家でもない商工局に鑑定を賴むといふのは、ちと筋違ひではあるまい歟、殊に斯様の干涉は、得て弊害が伴ひ易いので、尤も注意を要するのみならず、唯だ天然の景色保存といふ丈けで、全體の弊害矯正は出來ぬのである。又課稅論の如き、國庫の歲入を增すといふなら兎も角も、決して廣吿減少の目的は達せられぬ、若し廣吿が課稅せられたなら、夫丈け品物の値を高くするのみである、競爭者が多くて其競爭に打勝ねばならぬ必耍がある以上は、又打勝つべき唯一の手段が展吿である以上は、如何に重税でも止める譯には行かぬのだ、廣吿を止めるの際は、卽ち破産の時であるのだ、故に謀稅の結果は品物の代價騰貴に過ぎないのである故に廣吿問題眞個の解決は、卽ち是等の弊害を一掃しようと言ふのには、課桃も姑息、商工局の認可權も姑息である、唯だ彼等商人をして廣吿の必要をなくせしむるより外はない、此廣吿の必要をなくするのは、卽ち自由競爭の經濟組織を廢するに在るのだ、前に述た如く、廣吿は一に自由競爭の發生物で、競爭の激しい品物ほど廣吿が盛んだ、試に見よ、郵便の如き電信の如き、 競爭がないので、廣吿に金を我す必要がない、從って其手數料も廉いのである、然るに若し郵便や電信が私設會社の事業で競爭したならば、彼等は必ず本會社の郵便は便利だとか、電信の文字が確實だとか、配達が速かだとか、廣吿して、頻りに自分の會社の切手を澤山資らうとするに違ひない、其結果は今の三錢の切手も或は四銭五錢位に引揚げて廣吿料を見積るといふ勘定になるであらう、唯だ彼等は社會の公有で、競爭がないから、正當の報知以外には廣吿をせぬのである、鐵道でも、汽船でも競爭のない所には誇大の廣吿はしないのだ、煙草でも、石驗でも、賣藥でも、皆同一の道理でなければならぬ。
如此く廣吿の原因は競爭であるが、競爭の原因は何かといへば、卽ち資本と土地の私有である、個人が銘々に其私有の資本と土地で儲けようとするから起るのだ、 故に社會全體が土地と資本を
共有物にして、一切の生產の事業も總て共同でするといふことにしたならば卽ち社會主義を實行したならば、自由競爭から生ずる弊害は、全く消えて、品物は旅くて澤山で、人間の生活も豐かになって、働く時間も少くなつて、萬人の平和のみならず、 目下廣吿の競爭に心を苦しめて居る商人資本家等も肩を休めて大に氣樂になるであらう、是が本間題の根本的解決法である。
(出所不詳)
社會主義と婦人
婦人の性は皆な僻めりと斷じ、女子は養ひ難しと嘆じ、 婦人は成佛せずと罵り、婦人を眼中に置くは眞丈夫に非ずと威張れるの時代に比すれば、近時婦人に關する硏究論義の日に地す其盛を致し、甚しきは則ち專門婦人硏究者の肩書を有せる文人をすら出せるが如き喜ぶべきの現象たるに似たり、而も仔細に其硏究の目的方法を檢し來るに及んでは、未だ吾人の希望に副はざるもの多きを覺ゆ。
吾人は婦人の生理的及び心埋的特性を剖扶して微を穿ち細に入れる多くの文士と著作とを見たり、吾人は婦人平常の祕事陰址を爬羅剔抗して眼あたり之に接するの感あらしむるの多くの文士と著述とを見たり、吾人は婦人の短所缺點及び其罪悪を鳴らして殆ど完膚なからしめたる多くの文士と著述とを見たり、吾人は婦人の運命の不幸と境遇の悲惨とを說て一字一淚なるの多くの文士と著述とを見たり、而も彼等果して能く現時の所謂婦人間題を解釋せりと為すを得べき乎。
見よ吾人が彼等に依て學び得る所の者は、男子は如何にして婦人に愛せらるべきやてふ一事に非ずや、男子は如何にせば婦人を玩弄し得べきやてふ一事に非ずや、如何に現時の婦人が尊敬するに足らざるやてふ一事に非ずや、如何に現時の女學生が憎悪すべき者に非ずやてふ一事にあらずや、如何に女工を雇使せる工場主中殘忍暴虐の行ひを恣にせる者あるかてふ一事にあらずや、換言すれば彼等の吾人に示し律たる所の者は、婦人は玩ぶべき者也、海老茶袴は疝に觸る者也、女工は憫なる者也、如此き耳、然り唯だ如此き耳、是れ女子養ひ難しと嘆ぜるの時代に比して果して幾十步を進め得たりとする乎、廿十世紀の婦人間題に於て果して幾分を解釋し得たりとする乎。
現時に在て多くの婦人は確かに男子の玩弄物たる也、確かに男子の寄生蟲たる也、 然れども婦人は永く如此くなる可き乎、ならざるべからざる乎、否な古來社會文明の進むに從て、婦人が漸次に其地位を上進するは、是れ爭ふ可からざるの事實也、而して難人が其社會組織に與って、より重大なるパートを働くの社會は、ヨリ文明なる社會たるは、亦是れ爭ふべからざるの事實也、社會文明の改善と進步は常に層一層に段一段に婦人地位の上進を要請願求しつゝある也、而して今の婦人硏究者の目的方法は果して此要求に副ふ者ある乎。
思へ婦人が男子の玩弄に甘ずるは、 其獨立を得ざれば也、 男子の寄生蟲たり、 或は諸種の不潔なる誘惑に魅せられ、或は悲慘の境遇に沈むもの、亦其獨立を得ざればなり、彼等は其知識に於て其財產に於て、 獨立するを許されざれば也、 而して是れ誰か之をして然らしむるや、 先天乎後天乎、否な社會の組織其者は彼等を殘暴し凌虐して、人間を化して器械と化せる也、萬物の靈長を化して劣等の動物と化せる也。
從來の社會組織は婦人に敎育を與へざりき、婦人に財產を與へざりき、婦人の獨立を許さヾりき、婦人は男子の玩弄物たり奴隸たり寄生蟲たらざれば活く可からざる者也と宣吿したりき、此時に於て何ぞ婦人の性の僻めるを怪しほん、何ぞ其脆弱なるを怪しまん、其諸種の誘惑に勝ち得ずして、多くの敗德を出し、多くの悲慘なる境遇に陷ることを怪しまんや、而して更に見よ現時の社會は何が故に婦人を殘暴凌虐するの爾く甚しきや、此れ見易きの理也、何となれば今の社會や社會協同の社會に非ずして自由競爭の社會也、自他相愛の社會に非ずして弱肉强食の社會也、故に人々日く、汝我を殺さずんば我汝を殺さんと、然り人は生きざるべからず、生んと欲して競爭せざる可からず、競爭するの極、他を殓さヾる可らず、他を奪はざる可らず、 國と國との間然り人と人との間然り、男子と男子と、女子と女子との間然リ、 何ぞ男子の女子を券械となし奴隸となすを怪まん、兵士が國家の霞たるが如く、勞働者が賣本家の犧牲たるが如く女學生も女工も藝妓も、甚だしきは細君も、皆な男子が個々兢爭の利益の爲めに犧牲に供せられずんば已まざるは、是れ今日の社會に於て、實に必至の勢ならずんばあらず。
故に二十世紀の婦人問題や、是れ實に重大なる社會間題也、而して是を解決する、先づ婦人をして其奴隸の境より救うて、彼等をして平等の人間たらしめざる可らず、共知識と財産とに於て獨立を得せしめざる可らず、而して之を為す唯だ現時社會の自由競爭の組織を變じて、社會協同の組織となすに在るのみ、他人を犧牲とする事なくして、獨立するを得るの組織と爲すにあるのみ、此れ卽ち社會主義の實行也。
吾人の社會主義を唱ふるや、或人日く、汝土地財産の共有を欲す、人の細君も亦共有となさんとするかと、嗚呼是何の意ぞ、是れ實に婦人を以て貨物と同視する舊思想也、社會主義の理想は細君を以て共有たらしめざると同時に共良人の專有たるをも許さ須る也、人は平等也、婦人も亦平等の人間也、他人の所有物たる可らず、彼を所有するものは卽ち彼自身ならんのみ、而して婦人も亦社會全體の知識財產の平等の分配に與って以て個人性の獨立を全うせん、如此にして婦人問題は始めて解決せらるゝを得べくして、決して彼の小說の賣れんを求め、新聞雜誌の賣れんを求むるに依て解釋するを得可からざる者也。(明治三十五年十月十日、『萬朝報』所載)
附 錄 終
立言者。未必卽成千古之業。吾取其有千古之心。
好客者。未必卽盡四海之交。吾取其有四海之願。
[編者注]
読み下し
言を立つる者は、未だ必ずしもすなわち千古の業をなさざるも、吾、その千古の心あるを取る。
客を好む者は、未だ必ずしもすなわち四海の交わりを盡さざるも、吾、その四海の願いあるを取る。
典拠は、『小窓幽記』から。
訳は、
「著述する者は必ずしも歴史に残る大作を完成して千古の大事業を達成するとは限らないが、千古の年代に貢献しようという思いは評価される。客人を迎えるのが好きな人間は必ずしも広く世界各地の友と交遊し尽くすことができるとは限らないが、世界各地の友と交遊しようとする思いは評価できる。」
( https://cuc.repo.nii.ac.jp/record/2196/files/KJ00005088608.pdf )から
附 錄 終
[編者注]
これで、岩波文庫版「社会主義神髄」は、平野義太郎氏の「解題」を除き、すべてテキスト化した。ご愛読に感謝する。引き続き、三枝博音「日本の唯物論者」の中江兆民、幸徳秋水の項をアップするが、その前に、該当書の「まえがき」「序論」から。
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