本職こぼれはなし(004)

定期診察にやってきたKさん、いつもの通り、やたらに話が長い。
「せんせー、この頃はな~」
病児保育を、ひ孫のTちゃんが利用しているのにかこつけて…
「ちょうどよかった、Kさん、Tちゃんな、熱は下がったが、『咽頭結膜熱』いうてな、もう2日くらい病児保育にあずけたほうがええで、そない、お母さん(Kさんの孫にあたる)に言付けしといて…」
「わかったわ」
「ところで、Kさんの困ってることは何やねん」
「そないなこと、もう忘れてしもたがな」

こうして、話題をそらすのも一策かもしれない。

乳児から幼児に、夏以来、少し下火にはなったが、アデノウイルス感染症(咽頭結膜熱)が流行っている。(図左は、10月26日現在の、大阪市における、流行状況(感染症サーベイランスでのまとめ、図右はアデノウイルスの電子顕微鏡写真 Wikipedia から)特有の咽頭初見と時に結膜炎を伴うので診断は比較的容易である。迅速検査もあるが、特異的な治療法がないので、最近は、コロナPCR、インフルエンザ迅速検査優先で、あまりしなくなった。有熱期間が、他の疾患より若干長いのと、血液検査で、炎症反応がウィルス疾患では例外的に高めにでることが特徴である。

日本人と漢詩(101)

◎高橋和巳と王士禛と鄭成功

雨森芳洲(1668~1755)が活躍した、17~18世紀の少し前は、東アジア、大きくは世界史的に見て、激動の時代だった。本邦では、戦国時代の乱世、中国では明王朝の衰微と清王朝の勃興、その迫間に位置するのが、我らが王士禛(1634~1711)である。その意味では、彼は「亡国の詩人」だが、これまでのこうした形容を負う幾多の詩人とは少々趣きが違うような気がする。一つには、明王朝滅亡時、彼は未だ十年の齡いしか重ねていたかったこと、もう一つは、幸いなことに、勃興した清王朝は、異民族とは言え、前王朝の到達点の大半を、無傷のまま、手に入ったことだ。世界史的に言えば、欧州を含め、十五世紀から十六世紀の「激変、戦乱」の時代から、比較的安定した統治機構が各国とも確立し、ほぼ現在に至るまでの「国家」のプロトタイプが出来上がってきたことにも関係している。
とまれ、
「価値ある人間のいとなみの総てがそうであるように、詩の美もまた、この世のなにびともまぬがれぬ様様な束縛や制限のうちにあって、しかし怠らず日日に精進する誠実な魂によってのみ築かれる。」
中国詩人選集第二集「王士禛」の解説は、高橋和巳らしい文で始まる。王士禛がデビューしたのは、今の季節にふさわしく「秋柳」四首。
そのうち、第一首(Wikipedia より)
秋來何處最銷魂 秋来 何れの処にか最も銷魂なる 秋になって最も人の哀愁をそそる柳はどこかといえば、
殘照西風白下門 残照 西風 白下の門 むろんそれは夕映えのなか秋風をうける白下の門だろう。
他日差池春燕影 他日 差池たり 春燕の影 先だっては飛び交うツバメが柳の糸に影を落としていたのに、
祇今憔悴晩煙痕 祇今 憔悴す 晩煙の痕 今では柳の糸も枯れ果てて夕もやがたなびくばかり。
愁生陌上黄驄曲 愁生ず 陌上 黄驄の曲 路傍に死んだ愛馬を悲しむ「黄驄の曲」を聴けば哀愁はかきたてられ、
夢遠江南烏夜村 夢は遠し 江南 烏夜の村 江南の村で夜中にカラスが鳴いたというのも今や遠い昔の夢である。
莫聽臨風三弄笛 聴く莫かれ 風に臨む三弄の笛 風に対して三度も吹き鳴らしたという笛の音など聴くものではない、
玉關哀怨總難論 玉関の哀怨 総て論じ難し ましてや柳のない玉門関で奏でる「折楊柳」の曲に至っては。

「楊柳」という古来からの題材に、さり気なく、春(はる)秋(あき)の対比を背景として、亡国の哀惜を一旦昇華させて詠った佳詩である。世にはやるのも頷ける。これぞ、まさしく歴史の「春秋」を表現(あらわ)した「神韻」の七律である。

頻歳 頻歳《ひんさい》
頻歳孫恩亂 頻歳《ひんさい》 孫恩の乱
帆檣壓海頭 帆檣《はんしょう》 海頭を圧す
傳烽連戍塁 伝烽《でんぽう》 戍塁《じゅるい》に連なり
野哭聚沙洲 野哭《やこく》 沙洲《さしゅう》に聚《あつま》る
司馬能靑野 司馬《しば》 能《よ》く青野《せいや》し
天呉漸隠流 天呉《てんご》 漸《ようや》く隠流《おんりゅう》す
江淮非異土 江淮《こうわい》 異土に非《あら》ず
飄泊汝何憂 飄泊《ひょうはく》し 汝《なんじ》何を憂《うれ》う

そこで、
[逐一の語釈は、略、大阪弁で意訳を試みた]

ちかごろはブッソウでんな、昔のソンはんのしでかしたどえらいことのまねしはって
うみべのすぐねきまで、白帆がたってまんがな。
けむりも兵隊はんのいやはるとこまで届いて
ソーレンもせんで、死んでいかはる人もいやはるし、
御国の大将はんは、はたけででけたもんを焼いたはるという噂や。
川の神さんもそれで、きーおさまって、流れものたりのたりやがな。
ここら辺の地面は、遠いかみよの昔から、わてらのもんだっせ。
鄭はん、あんたに土地を分けたげるという話や、ここら辺でてー打ったらええんとちがいまっか。
あんさんが亡くなったあと、リーペン(日本)という国のターポー(大坂)というとこで、ジョールリちゅう京劇にもにてはる人形つかはる芝居でえらいあんさんの評判でっせ。「トラは皮を残し、人は名を残す」というやおまへんか?それで満足できはらしまへんか?リーペンレン(日本人)のあんさんのおかんも、メードで、めえーに涙流してよろこんだはるで。
という意味がどうかは、保証の限りではない。また世界各地での昨今の緊迫した状況を直接には反映したものではない、と断っておく。

参考】
・高橋和巳 中国詩人選集第二集「王士禛」 岩波書店
・橋本循 漢詩大系23 「王漁洋」 集英社

本職こぼれはなし(003)

本職こぼれはなし(002)の補足である。

今年も、保育所健診の日々がやってきた。年長児(5-6才クラス)は、今回で健診がさいごの機会となる。そこで、なにかちょっとした企画をすることにしている。やや「セクハラ」気味だが「チュー」しようか、「ハグ」しようか、と提案しても、なかなか園児の賛同が得られない。そこで、この数年来、「自分の心臓の音を聞いてみようか?」というと、診察に使っていた聴診器を自分の耳にかけたがる。子どもの手をとり、心臓の上に当ててあげる。「聞こえたかな?」「ウン、ウン」そうだ、自分の「心(こころ)」を聴いてるんだ。もし、将来、この中から、医師になる子が出てきたら、そういうお医者さんになるんだよ」と、そっと願ってみる。
健診の診察表に、保護者の質問コーナーがある。そこに「将来、医師になるためには、今何をすればいいですか?」と書かれた方がおられた。「うーーん、困った、強いて言えば、仲間とうんと遊ぶことかな?」、こんな答えでよかったかな?
あと何回、こんな毎日が過ごせるだろうか?
写真は、ある日の保育所健診での年長さんの勢ぞろい。(一部加工した)と病児保育室での「聴診実習」の様子。

後退りの記(014)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎堀田善衛「城舘の人」

フランスの16世紀は、後進国とまでは言わないが、どちらかと言えば、ルネッサンスの中心だったイタリアに比して、後塵を拝していたのではないか。また、イデオロギー的にも、手法の是非はともかくとして、ドイツ、スイスなどの新教派の拡大に一歩遅れを取っていたのではなかろうか?例えば初期バロック音楽でも、イタリアなどと比べると、リュート音楽が「主流」で、野暮ったさは否めない。例をあげると、ゴーティエ一家というリュート作曲家一族がいる、その中で、エヌモン・ゴーティエの曲が Youtube にある。後のベルサイユを発信地にした典雅な音楽とは、かけ離れている。これはこれで、別種な素朴ともいうべき趣があるが…こうした社会環境は、これからのストーリーの背景にあったとも思われる。
さて、「バルテルミーの虐殺」を経たその16世紀末のフランス史では、三人のアンリが、その焦点になる。すなわち、アンリ二世(1551-1589)とカトリーヌ・メディシスの子、アンリ三世、カトリック同盟の首領ギーズ公アンリ(1550-1588)とわが主人公、アンリ四世(1553-1610)である。三人とも、最期は悲劇的な結末であったことは痛ましい限りである。
俗っぽいが、三人の関係を、ちょうど同時期の信長、秀吉、家康に比べる向きもあり、アンリ四世は家康に比すこともできようし、強いて言えばが、ギーズ公アンリは信長に、アンリ二世は秀吉に当てることも可能だが、相違点も多々あり、話が続かない。
ともかく、三人の確執は、後の話にひとまず置き、とりあえずは「虐殺」を辛うじて逃れたアンリ四世(アンリ・ナヴァール)に眼をやってみよう。プロテスタントからカトリックへ改宗というアリバイ的な立場を取った、アンリ・ナヴァールだが、ルーブル王宮での半ば幽閉生活には、毎日が心ここにあらずという生活が続くが、足かけ4年で、そこからの脱出に成功する。その逃避行の途中で、モンテーニュとの奇跡とも言うべき二度目の出会いがあった。そして、肝胆相照らす仲となる。これには、アンリ・ナヴァール側に「虐殺から監禁」という痛烈な体験が関係しているのであろう。年長のモンテーニュとしては、それまでも、いやというほど現実の過酷さを体験したことだろうが(機会があれば、これまでのモンテーニュの辿ってきた事柄に触れてみたい)、やっとアンリ・ナヴァールと同じ地平に立つことができた。さすがに、「エセー」には、アンリとの出会いについては書かれてはいないが、現実を凝視する眼がたしかな「エセー」からの引用。

「均衡のとれた中庸の人物を私は愛する。度をこえることは善においてもほとんどいとうべきものだ。」(「エセー 第1巻30章)
また、「エセー」では、ローマの文人の言葉も引く「何事においても熱中は禁物で、徳ですら過ぎれば狂となる。」(ホラーティウス「書簡」)
Omnia vitia in aperto eviora sunt. (アルユル欠陥ハアカラサマ二ナレバヨリカルイ」(セネカ 「エセー」(第2巻31章)

元来「中庸」は、ともすれば、中途半端な「日和見」的な立場と取られがちである。しかし、モンテーニュは醒めている。度を越した善は、ましてやその「強要」は、しばしば多大な損傷をもたらす。モンテーニュが経験したことが、そう語っている。
別に話を拡げるつもりはないが、現在、この時点で係争地で起こっている悲惨な状況を見よ!お互いの「善」「正義」の強要が、子どもや罪なき弱者の命を奪っている。あと幾年いや幾世紀、「度を越えた善、狂となった過ぎた徳」の応酬が続くのだろうか?アンリ四世とモンテーニュとの邂逅が、いくたび繰り返さなければならないのだろうか?
ここまで書いて、半世紀も前のことになるが、高校時代のワンゲル部の後輩が、「ジハードに征く」として、彼の地で生を終えたことを、ふと思い出した。

本職こぼれはなし(002)

「大阪保険医雑誌」から2024年新年号への投稿依頼が来た。お題は、「音」「音色」とある。少し、気が早いようだが、腹案らしきものがあったので、したためてみた。

【聴診器で「こころ」を聞く?】(最終稿)
 月並みではあるが、医者のシンボルといえば、頚にかけた聴診器であろう。医学史によると、聴診器が世にでてきたのは、思いのほか新しく、十九世紀初め、当初は、中をくりぬいた円筒形の木で、音を聴いていたようだ。やがて、十九世紀半ばには、耳に差し込む形の聴診器が発明され、現在の聴診器の原型となる。私の研修医時代は、オーベン(指導医)の先生方は、象牙製のそれを使っておられる方がわずかだがおられた。片方の耳栓がはずれても、平気な顔で診察されるのをみて、感心したりしたのも、思い出の一つである。実際に、象牙製を使わせてもらったが、片耳はおろか両耳でもさっぱり聴こえなかった。それ以来は、もっぱら、小児用の「リットマン」の聴診器を常用している。
 医学生時代、診断学に熱心な小児科の先生がいて、心肺音を録音したレコードを聞かせてもらった。大半は忘却のかなたになったが、その後、役立ったことが一つ、聴診からは離れるが、そのレコードに、子どもの「百日咳」の咳の様子-いわゆる「スタッカート・フステン」(音楽の符号のような連続的な咳)-があった。のちに三種混合ワクチンの事故で接種が一時中止となることがあり、百日咳がふたたび流行し始めた時、ある日の外来に、舌圧子で軽く咽頭を刺激すると、レコードの音と同じような咳をする子どもがやってきた。血液検査で、百日咳と診断治療することができ、事なきを得た。学生時代、講義聴講では熱心な方ではなかったが、印象に残る音は記憶の片隅に残るもので、その先生には改めて感服した。ほかには、今ではまるで旧式になったベビーバードという人工呼吸器―複雑な回路を見よう見まねで組み立てた-をつけた未熟児の片肺の呼吸音が突然聞こえなくなり、気胸と診断、外科部長の先生のサポートのもと、一番細いネラトンカテーテル挿入で脱気を試みて、山場を乗り切ったことや、複雑心奇形の児に、酸素飽和度を高めるため、人工的に心房中隔欠損を作成する治療方法(BAS バルーン心房中隔切開)をカテーテル下に試み、みるみるまにチアノーゼが改善した時は、「ばすっ」という音が聞こえた気がして、「なるほど、だからBAS(バス)と言うんだ」と妙に納得!など、音に関することは枚挙にいとまがない。
 こうした研修医時代の忙しさの中で、時には気分的に落ち込むこともあり、たまに映画でもと観たのが、黒澤明監督の、「酔いどれ天使」だったと思う。その中で、医師役の志村喬は、世の医者のアリバイ的な聴診を揶揄しながらも、相手のやくざ役、三船敏郎の胸を旧型の聴診器で聴診し、拇指と示指でまるを作り、「お前の胸には、これくらいの空洞があるぞ」と指摘していたシーンがあり、彼の五感の鋭さに、とうてい映画とは思えず、身震いした。CTもない時代にこんな診断ができるなんて、自らの無能とは関係なく、その医者の「神々しさ」には、新たな気持ちで憧れる思いだった。
 でも後日、気がついた。志村は三船に、実際の空洞を指摘しただけではなかった。表面はみえっぱりだが、それまでの阿漕な生活に嫌気がさしていたヤクザの「心の空洞」=「心の闇」をその聴診器で聞き分けていたのだ。
 今まで、聴診器で、志村医師なみに幾人を聴き得たかは、はなはだ心もとない。ましてや、この数年来のコロナ禍で、診察室でゆっくり聴診器を当てるのもままならないが、これからは、患者さんの「心(こころ)」まで聴き分けることができる医師でありたい、とは老医晩年に至った今の見果てぬ夢の一つである。

写真左は、Baby Bird 人工呼吸器(Bird 社カタログより)、私が使っていたのはもう少し前の機種でほとんど計器類もなく回路ももっと複雑だった。写真右は、黒澤明監督「酔いどれ天使」(聴診のシーン)(Youtube では、無料でスペイン語字幕付きで閲覧できる。)
「百日咳」の咳の様子は、城北病院作成の、Youtube 動画で聞くことができる。

日本人と漢詩(100)

◎雨森芳洲

江戸幕府が確立した後、秀吉の朝鮮侵略で途絶えていた、(李氏)朝鮮との外交関係が復活する。復活後に、日朝関係を真に友好的なものに確立したのが、雨森芳洲(1668-1755)である。芳洲は、現在の滋賀県伊香郡高月町(今は長浜市に編入)出身、戦国時代、浅井氏の輩下で、主君を滅ぼした、秀吉をとことん嫌っていた。父の代になり、医業を生業にするようになり、父を嗣ぎ、当初は医学(その頃は東洋医学)を学んだが、師から「医者というものは、数多くの失敗を重ねて(もっと率直に言えば、患者を死なせて)大成するものだ」と言われ、以後、儒学者としての道を歩んだという。このあたり、彼の人格形成を考えるうえで興味深い。儒者としては、木下順庵年門下に入り、同門の先輩に新井白石(1657-1725)がいる。また、荻生徂徠(1666‐1728)と同時代人である。
江戸時代前期の日本は、それまでの「無視ないし敵対関係」にあった、中国や朝鮮の近隣国との関わりが大きくなったことである。「鎖国」状態から想像される以上に思いの外、幕府は善隣外交に力を入れていたようだ。朝鮮との関わりでは対馬藩が大きな位置を占め、その要職に登り詰めた、雨森芳洲は、多くの江戸期文人とは違った立ち位置だったのだろう。特に白石とは、木門一家の逸材の二人であったが、生来の気質やその学習環境の違いは大きかったようだ。白石は、我も相当以上で、朝鮮通信使との交渉でも、江戸幕府一辺倒であったが、芳洲は、もうすこし広い視点、東アジア全体を見渡す視点をいくばくなりともは持っていたようだ。それが、中国語やハングルをも習熟した所以であろう。通信使の朱子学に忠実な「事大主義」(朝鮮側にしたら、秀吉の朝鮮侵略の甚大な被害も昨日のことではなかろう。)にも柔軟に対応できたことに繋がる。そんな芳洲が白石の出世を聞き、読んだ詩。(以後、読み下し文は略、簡単な訳文を附ける。)1710年、芳洲42歳、白石53歳の時の作。

寄贈新井勘解由在西京
星軺聞説駐京陽 星のように輝くあなたは京都にあり
彩節錦袍跨驌驦 美しい服で駿馬に騎り
古寺花深登白閣 花深い古寺で閣に登り
綺筳酒緑倚黃堂 酒宴を立派な部屋で開き
跡尋禹穴詩篇富 禹穴(中国の伝説の禹帝の住んだという洞穴、杜甫「送孔巢父謝病歸遊江東兼呈李白」(Web 漢文大系が典拠だろう。)を訪ね詩をたくさん書いて
栄擬畿門姓字香 名を全国にとどろかせている
慾識邊城客思多 私は辺境の地で憂いばかりで
黒貂半敞鬂爲霜 黒貂の服もなかばやぶれ、白髪模様。

白石の身と比べて心労多忙な日々を、ともすれば嘆かざるをえなかった芳洲は、その後、数回の朝鮮通信使との接待という大役を果たした後は、54歳の時、ようやく「隠居」の身となる。享保の通信使(1719年)の一員、申維翰(신유한)は、別れに臨んで、

今夕有情來送我 今夜、心づくしに見送ってくれるあなたに
此生無計更逢君 この世ではもう二度と会えますまい

と詠み、芳洲は涙したとある。

その後も対馬藩の醜悪な内情や対外交渉にも関与せざるをえなかったようが、最晩年には畿内に帰ること能わず、88歳の長寿で終焉の地となった対馬で次のような詩を書き残した。

曲崎峯月
木落楓衰海面寛 木の葉が落ち、楓も散り、海原が広く感じる
素娥粧出暮雲端 月の女神は化粧して雲の端っこにたたずむ
清輝含露桂花冷 清い光は露を含んで桂の花を照らし
送與詩人褰箔看 詩人と一緒にすだれをかかげて見やっている

何か典拠の詩があるようだが、未検。教えを乞う。今までの儒学(朱子学)を吹っ切ったような艶やかで、しかもどこか清冽な作である。

芳洲の外交戦略の要諦「欺かず争わず」とする「誠信」の精神は、長年の試行錯誤を重ね努力を経て作られたものである。
「朝鮮人のみだりに言葉にあらはし申さず候は、前後をふまへたる知慮の深さにて。おろかなるとは申されまじく候。」
「とにかく義理を正し申さず押付け置き候て相済み候と存じ候は、後来の害を招き申すべき事に候。」

少なくとも言えることは、同時代の白石の「偏見」とは自由な立場であるが、現在を含めて、半島外交が芳洲の理想とほど遠いことは、あまりにも明らかであろう。ともあれ、遅きに失したが、当方は、芳洲の顰みにならって、ハングルの学習を再開しよう。

参考】
・上垣外憲一「雨森芳洲」(中公新書)
・田井友季子「対馬物語」(光言社)

本職こぼれはなし(001)

コロナ禍で、しばらくは、本来の業務に専念していました。先日のコロナワクチン接種(自分への)後のなんとも言えない倦怠感(発熱は最高37.2℃)がようやく癒えてきたので、久しぶりの投稿になります。
コロナワクチン接種にご高齢の夫婦連れ立ってやってきた妻君、問診で
私ー「夫さんの、現在飲んでいる薬は分りますか?」
妻ー「母子手帳忘れたんで、ちょっと…」
私ー「はあー、この頃は服用薬は母子手帳に書くことになってるんや」(と妙に感心)
もちろん、母子手帳は、調剤薬局でお渡しするくすり手帳のことです。それと、決してジェンダー的な意味ではなく、いくつになっても母親は母親なんだな、とあらためて納得!との次第。

写真は、上は、戦後発足当初の母子手帳。さて誰のかな?左は、ワクチンスケジュールを書き込んだ現在の母子手帳。母子手帳の歴史に関しては、以前に発表した「母子手帳の歴史」(医学生講義) を参考のこと。