読書ざんまいよせい(048)

◎チェーホフの手帖 神西清訳(新潮社版)(016)
付き]「ワーニカ」「ねむい」への感想

 ドストエフスキーやトルストイくらいまで、ロシア文学は、子どもを主要な登場人物とした文学作品はなかったように思う。チェーホフに、その子どもを正面にすえた短編(というより掌編)は二つある。「ワーニカ」と「ねむい」である。
 前者は、文字を習い始めた9才のワーニカが、田舎の祖父に手紙を書き始める。その紙にしろ、切手代にしろなけなしのお金をはたいたものだった。でも祖父の宛名がわからない。「むらのじいちゃんへ云々」としか書けない。それでも、その手紙を投函する。
 フリーの日本語訳は見当たらない。青空文庫に、鈴木三重吉の「てがみ」という訳が載っている。少し、シチュエーションを違え、かなりの意訳である、これも、三重吉らしいといえば、そうであるが、もとのチェーホフの作品が、抜群に良い。小説には書かれていないが、たとえ手紙が届いても、祖父がそれを読めるとは限らない。何しろその頃のロシアでは、9割くらいが「文盲」なのだから。それを言外にペーソスを交え、感じさせるところは、チェーホフの真骨頂なのだろう、
 後者は、筋書きはあまりにも有名である。(チェーホフに傾倒するイギリスの作家、マンスフィールドが、期せずして、ほぼ無意識に、自分の小説に取り入れたくらいである。ただ、チェーホフは、小説の締めくくりには苦労したようで、種々の草稿と、訂正を重ねて出版後したらしい。最後の一文を引用する(神西清訳)。

「…赤んぼを絞めころすと、彼女はいきなり床へねころがって、さあこれで寝られると、嬉しさのあまり笑いだし、一分後にはもう、死人のようにぐっすり寝ている。」

 彼女の「罪」に対して「死人のように」というのが、彼女への「罰」なのかもしれない。
青空文庫では、神西清訳がフリーで読み、利用できる。
 「ねむい」は作家チェーホフの「チェーホンテ」時代の最高の傑作だと思う。そして、この作品を最後にして、本名で作品を発表する、次の時代へ突き進んでゆく。

チェーホフの手帖(続き)

 彼は己れの卑劣さの高みから世界を見おろした。

 ――君の許嫁は美人だなあ!
 ――いやなに、僕の眼にはどんな女も同じことさ。

 彼は二十万円の富籤をつづけざまに二度抽き当てることを夢想していた。二十万ではどうも少ないような気がするので。

 Nは退職した四等官。田舎に住んで、齢は六十六である。教養があり、自由主義で、読書も好きなら議論も好きだ。彼は客の口から、新任の予審判事のZが片足にはスリッパを片足には長靴を穿いていることや、何とかいう婦人と内縁関係を結んでいることを聞き込む。Nは二六時ちゅうZのことを気にして、あの男は片足だけスリッパを穿いて、他人《ひと》の細君と関係しているそうですな、とのべつに彼の噂話をしている。そのことばかり喋っているうちに、挙句の果には奥さんの寝間へでかけて行くようにさえなる(八年この方なかったことである)。興奮しながら相変らずZの噂をしている。とうとう中気が出て、手足が利かなくなってしまう。みんな興奮の結果である。医者が来る。すると彼をつかまえてZの話をする。医者はZを知っていて、今ではZは両足とも長靴を穿いているし(足がよくなったので)、例の婦人とも結婚したと話す。

 あの世へ行ってから、この世の生活を振り返って「あれは美しい夢だった……」と思いたいものだ。

 地主のNが、家令Zの子供たち――大学生と十七になる娘――を眺めながらこう思う。「あのZの奴は俺の金を贓ねている。贓ねた金で贅沢な暮しをしている。この学生も娘もそれ位のことは知ってる筈だ。もしまだ知らずにいるのなら、自分たちがちゃんとした風をしていられるのは何故かということを、是非とも知って置くべきだ。」

 彼女は「妥協」という言葉が好きで、よくそれを使う。「私にはとても妥協は出来ませんわ。」……「平行六面体をした板」……。

 世襲名誉公民のオジャブーシキンは、自分の先祖が当然伯爵に叙せられるだけの権利のあったことを、人に納得させようといつも懸命である。

 ――この途にかけちゃ、あの男は犬を食った(通暁しているの意)ものですよ。
 ――まあ、まあ、そんなこと仰しゃっちゃ駄目よ。家のママとても好き嫌いがひどいの。

 ――私、これで三度目の良人《おっと》なのよ。……一番はじめのはイヴァン・マカールィチって名でしたの。……二番目はピョートル……ピョートル……忘れちゃったわ。

 作家グヴォーズヂコフは、自分が大そう有名で、わが名を知らぬ者はないと思っている。S市にやって来て、或る士官と出逢う。士官は彼の手を長いこと握りしめて、さも感激したように彼の顔に見入っている。Gは嬉しくなって、こちらも熱烈に手を握り返す。……やがて士官がこう訊ねる、「あなたの管絃楽団《オーケストラ》は如何ですか? たしかあなたは楽長をしておられましたね?」

 朝。――Nの口髭が紙で巻いてある。

 そこで彼は、自分がどこへ行っても――どんなところへ行っても、停車場の食堂へ行ってさえ尊敬され崇拝されてるような気がしたので、従っていつも微笑を浮べながら食事をした。

 鶏が歌っている。だが彼にはもはや、鶏が歌っているのではなくて、泣いているように聞える。

 一家団欒の席で、大学に行っている息子がJ・J・ルソオを朗読するのを聴きながら、家長のNが心に思う、「だが何と言っても、J・J・ルソオは頸っ玉に金牌をぶら下げちゃいなかったんだ。ところが俺にはこの通りあるわい。」

 Nが、大学に行っている自分の継子を連れて散々に飲み歩いた挙句、淫売宿へ行く。翌る朝、大学生は休暇が終ったので出発する。Nは送って行く。大学生が継父の不品行を咎めてお説教をやり出したので、口論になる。Nがいう、「俺は父親としてお前を呪うぞ。」「僕だってお父さんを呪います。」

 医者なら来て貰う。代診だと呼んで来る。

 N・N・Vは決して誰の意見にも賛成したことがない。――「左様、この天井が白いというのはまあいいとしてもですな、一たい白という色は、現在知られているところではスペクトルの七つの色から成るものです。そこでこの天井の場合でも、七つの色のうちの一つが明るすぎるか暗すぎるかして、きっかり白になってはいないという事も大いにあり得るわけです。私としては、この天井は白いという前に、ちょっと考えて見たいですな。」

 彼はまるで聖像みたいな身振りをする。

 ――君は恋をしていますね。
 ――ええ、まあ幾分。

 何事がもちあがっても彼は言う、「こりゃみんな坊主のせいだ。」

 Fyrzikov《フェルジーコフ》.

 Nの夢。外国旅行から帰って来る。ヴェルジボロヴォの税関で、抗弁これ努めたにも拘わらず、妻君に税をかけられる。

 その自由主義者が、上着なしで食事をして、やがて寝室に引き取ったとき、私は彼の背中にズボン吊を認めた。そこで私には、この自由主義を説く俗物が、済度すべからざる町人であることがはっきり分った。

 不信心者で宗教侮蔑者を以て任じているZが、こっそりとお寺の本堂で聖像を拝んでいるところを誰かに見つかった。あとでみんなからさんざん冷やかされた。

 ある劇団の座長に四本煙突の巡洋艦という綽名がついている。もう四度も煙突をくぐった(身代限りをした)ので。

 彼は馬鹿ではない。長いこと熱心に勉強をしたし、大学にもはいっていた。だが書くものを見るとひどい間違いがある。

 ナーヂン伯爵夫人の養女は段々と倹約《しまり》屋になって行った。ひどく内気で、「いいえ」とか「はい」とかしか言えない。手はいつもぶるぶる顫えている。或るとき、やもめ暮らしの県会議長から縁談があって、彼のところへ嫁に行った。やっぱり「はい」と「いいえ」で、良人にびくびくするばかりで、少しも愛情が湧かなかった。或るとき良人がとても大きな咳をしたので、彼女は動顛して、死んでしまった。

 彼女が恋人に甘えて、「ねえ、鳶さん!」

 Perepentiev《ペレペンチェフ》君。

 戯曲。――あなた何か滑稽なことを仰しゃいな。だってもう二十年も一緒に暮らしてるのに、しょっちゅう真面目なお話ばかりなんですもの。あたし真面目なお話は厭々ですわ。

 料理女が法螺を吹く、「ワタチ女《チョ》学校へ行ったのよ(彼女は巻煙草をくわえている)……地球がまんまるな訳だって知ってるわよ。」

 「河船艀舟錨捜索引揚会社」。この会社の代表者が、何かの紀念祭には必ず現われて、N気取りのテーブル・スピーチをやる。そしてきっと食事をして行く。

 超神秘主義。

 僕が金持になったら、ひとつ後宮《ハレム》をこしらえて、裸のよく肥った女どもを入れとくね。尻っぺたを緑色の絵具でべたべた塗り立ててね。

 内気な青年がお客に来て、その晩は泊ることになった。不意に八十ほどの聾の婆さんが灌腸器を持ってはいって来て、彼に灌腸をかけた。彼はそれがこの家のしきたりかと思ったので、大人しくしていた。翌る朝になって、それは婆さんの間違いだと分った。

 姓。Verstak《ヴェルスターク》*.
*長い腰掛。

 人間(百姓)は愚かであればあるほど、その言うことが馬にわかる。

[チェーホフの手帳終わり]

参考】
・沼野充義. チェーホフ 七分の絶望と三分の希望 講談社

本職こぼれはなし(019)

 長野および松山での研究集会での発表をもとに、Paper を作った。これで一連の「学術活動」は、ひとまず終了。

病児保育における溶連菌感染症トリアージについて

大里光伸
*西成民主診療所

「子どもたちは世界で最も重要な資源です。」 1)

【はじめに】
 「病児保育」とは、乳幼児期から小学生の子どもが、病気罹患時に、主には親の就労保障のために、臨時に保育するもので、多くは自治体からの助成がある。2) 医療機関と連携の方法など様々な形態があるが、当法人では、診療所が直接その運営に携わっている。疾患の大多数は、小児期を反映して、その大半は種々の感染症である。
 A群溶血性レンサ球菌(以下「溶連菌感染」と略する)は、その中で、一定の割合を占めており、入室にあたっては、迅速に診断し、対処することが求められる。3)
【対象と方法】
 2024年1月から10月まで、溶連菌感染症で、Polymerase Chain Reaction(ポリメラーゼ連鎖反応)(以下、PCRと略する)で診断した27例を対象とした。ただし、溶連菌迅速キットのみの陽性例と、他医療機関での診断例は除外した。検査機器は、Abbott 社の、「ID NOW™ ストレップ A2」キットを用いた。測定機器そのものは、COVID19-9 流行当初に、大阪府の助成を受け、導入したものである。
【結果】
 年齢は、1~3才児 8例、4~9才児 19例と分布し、男児 10例、女児 17例であった。症状は、ほぼ全例に37.5度以上の発熱はある他、咽頭発赤 6例、特有の発疹 6例、いちご舌 5例を呈した。家族内感染は、3例、持続感染や再発例は 5例に認めた。
 病児保育利用という特質から、罹患年齢は 4-5才にピークがあるが、従来、本症の発生が少ないとされる低年齢児にも一定数あることがうかがえる。
 また、症状は、ほぼ全例に発熱を認めたほかは、溶連菌感染に特有の発疹、イチゴ舌などは、半数程度にしか見られず、身体所見のみの診断は困難である。年齢と症状の有無は、関連はなかった。
 家族内感染は、2家族、3例に認められた。また、治療後ないし、一定の時期を経てのPCR陽性例は、5例あり、「持続的感染」が存在することが示唆される。重複感染として、RSウィルス感染 1例、マイコプラズマ感染 1例があった。
【症例提示】
 持続感染と家族内感染の症例を提示する。
・症例1 4才11ヶ月 男児
 1月発熱時にPCRが陽性、抗生剤 5日投与したが、陽性所見が続くため、さらに10日投与した。この間は、頻回の発熱のため、病児保育利用が続いていたが、以来利用は見られなくなった。しかし7月にも、発熱時にPCR陽性、アモキシリン投与したが、解熱せず、マクロライド系のクラリスロマイシンを投与し、改善をみた。
・症例2 5才4ヶ月 男児
 品胎同胞および本人も、数日のインターバルで感染したが。腎炎の発症はなく、その後の発熱時にも、PCRは陰性であった。今回の対象ではないが、同胞第3子がその後、急性糸球体腎炎が合併し、入院加療となり、現在なお、顕微鏡的血尿が持続している。
【考察】
 2024年は溶連菌感染の流行年であった。昨年までは、スティックによる迅速検査のみで診断していたが、臨床症状は典型的であるが、検査では検出できなかった例や、目視による判定だけでは、判断がつきにくい例も散見された。
 文献的には、PCR判定は、従来法に比して、陽性率、陰性率ともによく一致するとある。一世代前の PCR キットでは、細菌培養法との比較で、感受性、特異性ともに、100%に近い数字が得られている。4),5) Abbott 社のパンフレットには、従来の迅速検査よりも感度が高いとされる。また使用した機器では、従来のPCR キットより検出時間の短縮が図られている。6)
【結論と課題】
・病児保育のトリアージにおいては、短時間で正確な検査結果を得られることが必須である。また不要な抗生物質投与を避ける意味でも、今回のPCR法は有用性が高いと考えられる。
・感染後の合併症リスクの一つとして、急性糸球体腎炎は、依然としてなおもあり、十分な経過観察と保護者への丁寧な説明が必要である。
・再発再燃する溶連菌感染症には、今回は、アモキシリン 10日間 2クール投与までとし、その後は症状がない場合は経過観察とした。以前は、Narrow spectrum のペニシリンGの中長期の服用で対処が可能であったが、発売中止になった今、治療に一定の困難がある。症例1のようにSecond choice として、薬剤耐性とその感受性の動向に留意しながら、マクロライド系抗生剤の使用も考慮されるが、引き続き検討の予定である。
 なお今回の研究フォーラムでの発表と本投稿は、特定の企業・団体と利益相反はない。
文献
1) Nelson Textbook of Pediatrics 19th Edition Introduction (2011)
2) 全国病児保育協議会ホームページ https://byoujihoiku.net/
3) Nelson Textbook of Pediatrics 22nd Edition Streptococcal infection (2023)
4) Multicenter Clinical Evaluation of the Novel Alere i Strep A Isothermal Nucleic Acid Amplification Test ,Journal of Clinical Microbiology Vol. 53, No. 7 (2015)
https://journals.asm.org/doi/10.1128/jcm.00490-15
5) Comparison of the Alere i Strep A Test and the BD Veritor System in the Detection of Group A Streptococcus and the Hypothetical Impact of Results on Antibiotic Utilization ,Journal of Clinical Microbiology Vol. 56, No. 3 (2018)
https://journals.asm.org/doi/full/10.1128/jcm.01310-17
6) Abbott 社パンフレット(2022)

図は、ネルソン「小児科学」19版 序文抜粋と溶連菌PCR陽性と陰性のディスプレーでの表示

木下杢太郎「百花譜百選」より(015)

◎ 42 やまとりかぶと 山鳥兜

昭和癸未年九月廿六日 軽井沢山道

Wikipedia ヤマトリカブト

付)随筆集「荒庭の観察者」から「真昼の物のけ」

 人気《ひとけ》の薄い昼の汽車の中で、唯一冊持って来たムライシュ(1)の本をひろげた。そして、東京で急に買った字引を取り出してとぼとぼとその一二頁を読み試みた。夏真昼の車室のうち、ふと身のまわりに何か亡霊らしいもののけはいを感じた。定かならぬ幻影は叙情詩の元素の揺曳して成す所であったらしい。その小人の群の舞踊は物の一時間ばかりも続いた。鞄から紙を出して取りとめもなく、その姿を写す。

 一の形態が黒い色をし、翼を拡げて、朝は早く木を飛び立ち、夜は再び其木に戻って来る。ただそれだけでは、それはこの身と何のかかわりも無い烏の鳥に過ぎない。巣を作り、卵を生む。偶然その営みを見付けたところで、それは既に厭くまで知っている生物の一つの生活相に他ならぬものと思い過す。そして竹青(聊斎志異)の話が創作せられる。其鳥はただの鳥では無くなる。

 汽車の窓をかすめる夏の杉は青く、竹の叢はういういしくなだらかである。木立の間に白壁の家も見える。車室のうちに、ひとりのさまで壮からぬ士官が居た。その襟の色が有り触れたので無い外には、内も外も、見る所に何の奇も無く、おとといも昨日もかく有ったろうと思われた。忽ち士官が窓から首を出す。すると下の道に立って居る人々が手を挙げた。士官はわたくしの目の前に既に孤立した一形態では無くなってしまった。汽車が止った。士官は停車場の月台に下りて行った。

 波路の距《へだたり》が遠い。ほのかな光の裡《うち》に、遥に白いせのが見える。物かげは時々動く。近づいてそれを見、触感を以て確に検めて見たいと思う。わたくしの手はどうしてもそこまでは届かなかった。此夢まぼろしの感覚はわたくしに取って決してめずらしいものでは無かった。然し今のは最後のもので、その余感がまだありありと生きて居たから、わたくしは「鬼《き》」と名付けたいその一片の白影を視域から逸すまいと──無論この瞬刻、車室のうちで──努力したのである。

 いろいろの物象が有る。美しい花を開き、好《よ》き音色を立てる。いくらでもいくらでも有る。一体それは何の為めに有る。そのたった一も自分とは関《かかわり》が無い。

 牡丹の花と芍薬《しゃくやく》の花と、何かよく似た所が有る。また其間に差別が有る。芍薬の花と葵の花と何か似通った所も有る。其間に差別も有る。牡丹の花と葵の花とどこか似ぬことも無い。その間に差別は有る。だがその差別をもっと好《よ》く知ろうと思って、その一つ一つの形には迷うまいぞ。牡丹にもどくだみにも、この人間の眼をさえ誘おうとする何か共通の力が有る。その力にも誘われまいぞ。牡丹を捨て芍薬を捨て葵を捨てよう。そして遂にどくだみをも捨てよう。昔の賢者は差別を去って典型を求めようとした。或は邪見は目故であるとて其目をくじり取った者も有る。わたくしにはそう云う猛い求道者の勇気も、賢人の諦念も無いから、唯悲しみながら、窓の無いいおりの裡に棲《すま》おうと思う。

 さらばと心を定めて踵《きびす》を返そうとする。あとに人声らしいものが聞えるように思われる。また江頭に戻って往って叢間を視るに、いずくにも舟らしいものは見当らぬ、ましてや人の姿をや。わたくしはまた踵を返えす。するとこのたびは明な声で、舟が有ります、川を渡してあげましょうと云うのが聞かれる。わたくしは勇んで──然し果して危惧の念の之に雑るものが無かったであろうか──また河岸の土手を下った。月は既に沈んで、水光さえも見分け難かった。わたくしは再びもとの道に帰る心さえ失って、くさむらのほとりにつぐらんだ。

 小庭に人が下り立ってわずかばかりの水鉢の水を空に蒔いた。雲を漏れた日あしが折好くも水を浴びたまばらな木の葉に当った。それと共に何かきらきらしたものが空から落ち散って、わたくしはそれを小雨かと思った。だがそれは雨では無かった。その瞬間にわたくしは目をつぶって、雨の錯覚を起した物の何であるかを窮めようとする根原を塞いだ。そして出来ることなら、その人、その時をも忘れようと試みた。何もそうつとめて試みるには及ばなかった。明るい窓を見たあとの後覚の如く、あれほどあざやかであった幻像も数時の後にはやがてぼろぼろになり、乱れ黒《くろず》んでしまった。

 鶺鴒《せきれい》よ、わかい樫の葉のすきから、石のうえにたもとおるお前の姿がふと目に入ったから、僕は発句を一つ作って、思い設けぬ賜物《たまもの》と殊の外に喜んでいる。だがこの発句とお前とは何のかかわりが有ろうぞ。その為めお前が飛んで来て僕の手の上に止ったのでも無い。それを縁にお前と僕と──所詮出来る筈も無いが──話を取りかわしたわけでも無い。しかのみならず、もう今はお前の沢からは汽車は一里余も離れてしまったかも知れない。だがこの発句はたしかに僕の物だ。始めはあったらしいお前のヴィジオンももうその句のうちからは消えてしまったが、それでもこれは僕の物だ。そして謂わばお前が呉れたのだ。僕はその句をここに書き記そうかと思った。かき記してもそうまで拙ならぬ句ぶりであると思ったから。だが鶺鴒よ、こんなにも変ってしまった別物を人に知らせたとてそれが何になる。芸のうまいまずいで誇る気も今更有りはしない。僕は今作ったばかりの発句をはやく忘れてしまおうと思って遠いい山際の雲を眺めているよ。書き附けて置かない自分の発句を、僕は三日と覚えていたことがない。

 大都。昨日それを見た。おとといも見た。汽車の窓のずっと下に、木立の間に一軒家が見える。三四人の人々が仰いで汽車を見迎えている。大都よ、僕は君に言う。名の無いと云うことが、かたみをあとに残さないと云うことが、そして人に与うる影響が微かであると云うことが、そこに命が無いと云うことでは無いぜ。大都、その大新聞と、無数の雑誌、書籍を持ち、作り、吐き出している大都よ。昨日君のさわがしい爆音の間に、僕はむしろなつかしみつつ聞き澄んだ、徳島の異国詩人のかすかな笛の音を、むかしむかしの宗祇(2)の老いだみたつぶやきを。わたしは汽車を見送っている人々に心からの挨拶を投げてやったよ。

 遠い青畠の上にひとりの百姓が腰をかがめている。汽車の窓から首を出して、視線の限を追うたが、百姓はなおも依然として其からだを動かさなかった。わたくしの瞳底にはそれが百年の岩のような黒いかたまりとして残ってしまった。ふとわたくしは驚いて心の中で言った。わたくしがふだん岩だと思っていたものが、事によると百姓だったかも知れないぞと。

 夕闇が山を罩《こ》めて、目の前の庭の白い花さえも見えなくなった時に、庵に住んだ昔の隠遁者は始めて安心したでもあろう。それでも小さい灯の下でなおも文を読むことが出来たでもあろうか。文字の形が目にうつったら、故郷の花、みやこの人の姿がまた音ずれて来て、日の暮れた甲斐も無かったようなことは無かったか。高嶺の風の音さえまつという心をおこさせはしなかったろうか。だが──すきごころの動きを書きとめるばかりが文字の役では無かった。古い連歌の帖をうちすてて、棚から久しく忘れていた観音経を取り出して、そして短檠《たんけい》(3)の暗きをうちわび、また物の見える日の光を恋いもしたのではなかったか。然し、幾人の人に果してその喜びが不断の法悦となったであろう。夕となればまた早くあいろも分かぬ夜の来るを待ちかねて、門に立たなかった人は果して幾人あったであろうか。

 ああここにこう云うものがあったかと、始めてしみじみと古《いにし》えの白河城の石垣をうち眺めた。既にしてうすき満月。田中の道を小さい提灯がゆれゆく行く。
(昭和十年七月)(一九三五年五〇歳)

【注】
1[ムライシュ]ヴェンセスラウ・デ・モラエス。ポルトガルの軍人、外交官、文筆家(一八五四─一九二九)。一八九九年から逝去まで日本在住(一九一三年より徳島居住)。
2[宗祇]室町時代の連歌師(一四二一─一五〇二)。
3[短檠]背の低い灯火具。

中井正一「土曜日」巻頭言(02)

編者注】今回から、若干の例外を除いて、掲載順とし、新字新かなを基本とします。図は、復刻版『土曜日』表紙です。

◎生きて今ここにいることを手離すまい ー九三六年七月十七日(『土曜日第2号)

 日々の営みが不自由になり、単調となってくると、考えること、楽しむことすらもが一つのコースを繰り返し繰り返し巡りはじめてくる。誰にも秘された夢までが、活字のように同じものにさえなってくる。そして、脳の髄までも一つの時代の考え方を考え、腸の底まで一つの時代の喜びを喜ぶようになる。そして、それでいいのだと落ち着き、みんなも一緒だと安心してくるのである。
 それで一人前になったと老人からほめられ、しっかり者だと友達から愛され、自分にも一種の成長し、苦労したという自信ができてくるのである。いいかえれば、その時代の誰でもが考える生き方を掘りあててきたのである。
 いわゆる中庸の道を知ったのである。あたりさわりのないイージーな道を心得てきたのである。貫禄がついてきたのである。
 しかし、このことはよく考えると、大きな危険を孕んでいる。そのことは換言すれば、自分の生まれて、今、ここに生きていること、その未来の正しさへの批判を放棄してくることである。その生活の中の歪みと、その虚しさに慄然とした関心を日々の忙しさに棄て込むことである。そしてやがては、友愛への寂しい利己的な限界を自分にいい聞かせ、精神の明晰な探究を誤魔化すことをいいふくめ、生活への怯惰を合理化する術を憶えることである。そして、それは自分には無意識に、自分たちの明日の幸福を見失うとともにむしろ明日の不幸にみずからを手渡しすることなのである。
 しかし、もちろんそれらのことは鎬をけずる生活の闘いからしかたなくそうなってきたことではあろう。といって、だから、しかたがないとはいえまい。生活とは、その落ち着きの上に今一歩の鎬ぎを、今一歩の切り込んだ批判をもってこそ、今、ここに、生きていることを手離さない生活といえるのである。その意味で、生活は厳かさをもっているのである。
 人々は、今、すべてのものを所有したがっている。そして、そうすることをもって、自分の今、ここに生きていることを、惜しみなく手離している。人々の不安とはこのことである。一等大切なものを落した予感である。
 時間が無限であっても、空間がどんなに涯なくても、今、ここに、自分たちが生きていることより大いなる現なることはなく、それを正しい批判の前に置くことほど、切実なることはないのである。
 『土曜日』はそれらのことをもう一度ふりかえる週末である。

 ここで、中井正一の残念な文章をひとつ。

遂に敵はルソンに迫りきたった。
実に蒙古軍船舳纑相含んで襲いきたったときの概が、今、まさに胸にたぎる。
かかるとき、特攻隊の壮烈すでに日本男子尋常の平常心となりきたった。
われわれの日々の生活そのものを壮烈なるものにしようではないか。
戦わんかな、時いたる。
左右を顧み、まあ明日からといわず、今日、ただ今より、自分たちの生活を壮烈なるものと
しよう。
 B29の爆音はこの耳ではっきり昼と夜、聞いているのである。はっきりと自分たちが戦士なのである。
 愚痴など、頭をー振り振って振り落とそう。そしてその愚痴の対象を身をもって補い正そう。
「自分だけでは」とか「まあこれくらいなら」といわずに、一隅のことから明るくするに億劫になるまい。
 一人一人が戦士であること、男も女も、それをひそかに感ずること、容易ならざる歴史をつくり出すことが、この自分に背負わされていることを、今日、しみじみと自分に言い聞かせよ。
 身辺は直ちに壮烈なものとなる。
 眩しいほど明るくなる。
 莞爾として死ねる爽やかなものとなる。
 戦わんかな、時いたる。
(ー九四五年一月十日)

 「土曜日」は、約一年の短い期間で、その幕を閉じた。「治安維持法」違反で、「土曜日」関係者が、収監されたからだ。中井は、その後保釈されたが、こうした文を読んでいると、当局の監視と強要は、わたしたちの想像以上に厳しかったようだ。どれも、中井正一の「本心」とは、考えられない文章が「橋頭保」に載っているが、到底読むに堪えないので、紹介はこの一編にとどめることとする。少なくとも、中井の「土曜日」創刊号と第2号の、理性に裏打ちされた明晰さと、包容力あふれた温もりは、戦時中の文には微塵も感じられない。こうした個人の内面まで踏みにじる、特高警察をはじめとする絶対性天皇制の野蛮さにあらためて満腔の怒りをもつとともに、今から思えば中井の「醜悪」な文章も、ことによると、「こんなことを繰り返してはならない」とする後世へのメッセージなのかもしれない。
 明日は、総選挙の日、日本が、二度とこんな日々を経験しないように、また明日への希望へと続く第一歩になるように、心から願っている。
 先日の期日前投票で、注文したいところは山程あるが、小選挙区では、日本共産党の候補者に、比例代表区では「日本共産党」と書いた。「イシバ知るモラルは弛み民怒り燃え出《いず》る秋になるかも」だったらいいのだが…

底本】
中井正一全集 4 「文化と集団の論理」 美術出版社

正岡子規スケッチ帖(012)


八月二日朝
射干《しゃが》 ヒアフギ[ひおうぎ]

熊坂といふ謡ききて
いと面白かりければ

ぬす人の昼も出る
てふ夏野|哉《かな》

みしか夜や
金商人《こかねあきんど》の
高いびき

夏草や
吉次《きちじ》を
ねらふ
小ぬす人

読書ざんまいよせい(047)

◎バルザック「農民」


 バルザックのほぼ「遺稿」となった長編小説、解説にもあるように、一言でいえば、バルザック版「桜の園」(チェーホフ怍)。とすれば、立ち位置は、そうとう、ずれるが、ラネーフスカヤ夫人は、さしずめモンコルネ将軍夫人に比されよう。
 エンゲルス曰く「彼の大作は、よき社会の避けられぬ没落に対する悲歌《エレジー》である。
 バルザックがある意味モデルとしたイギリスに遅れて、「資本の本源的蓄積」がフランスにおいて完了しようししていた時期、社会は、旧貴族、農民、新興ブルジョアジーの三階級にわかれての「階級闘争」だった。そのなかで、従来の農村小説にあるような牧歌的田園風景の記述は脇におかれている。登場する農民も、ごく少数の「肯定的な聖人」を除き、どちらかと言えば、バルザックらしい脂らぎった人物が生彩を放つ。
 ある一節で
「今日ある縣で重罪犯人の首が落ちるのに、一方その隣県ではそれと全然同一の罪、否、しばしは一層恐ろしい罪を犯してゐながら犯人の首が繫がっていることがあるといふ事実を、いかなる哲学者があへて否認しようとするだろう。人は生活において平等を欲する。しかも法律や死罪においては不平等が支配しているのである。……」
 現在においても、冤罪事件が痕を絶たないのを示唆しているようだ。

図は、岩波文庫「農民からの挿絵と架空の村「エーゲの荘園周辺地図」

 蛇足になるが、
ルカーチ「バルザックとフランス・リアリズム」にて曰く(「史的唯物論すぎる」のの評判はあるが、傾聴に値する、なかなか良質な解説ではある。)
 「バルザックは晩年の彼の最も注目すべきこの長篇小説において、貴族の大農地が没落してゆく悲劇を書こうとした。彼は一系列の作品群によって、抬頭する資本主義によるフランス貴族文化の解体を描いているが、この作品はそれらの結びとして書き起された。実際それはこの系列の終結となっている。というのはここにおいて、貴族階級の滅亡の直接の経済的諸原因が書き現わされているからである。これよりも前に、バルザックはパリや、或は辺鄙な地方都市における貴族階級の没落の姿を描いた。ここでは彼はわれわれを経済的戦場そのもの、すなわち貴族の大農地と農民階級とが対峙する戦場へと連れてゆくのである。
 バルザックはこの書を彼の決定的な作品の一つとみた。彼は言う、「私が書こうと決心した作品のうち最も重要なもので、私は八年間、何度これを放棄し、何度また改めて取り上げたか分りません…」。けれどもバ ルザックは、このように並外れて念の入った準備をしたにもかかわらず、又このように徹底的に腹案をねったにもかかわらず、実際は彼が意図したものとは全く正反対のものを描いてしまった。すなわち彼は分割農地の悲劇を書いてしまったのである。だが、腹案とでき上ったものとの間のこの矛盾、思想家、政治家バルザックと『人間喜劇』の作者との間のこの矛盾の中にこそ、彼の世界史的偉大さは存する。」

あらすじは、
「主軸となる筋立ては1820年代前半に置かれ、エーグという美しい領地が舞台となっている。エーグは架空の土地であるが、ブルゴーニュ地方に位置するとされる。モンコルネ将軍(伯爵)によってここが買収された。裏帳簿によって横領を続けていた管理人ゴーベルタンは以前の地主ラゲール嬢の死後、自らこの土地を入手しようと考えていたので目論見がはずれたのであった。モンコルネ夫人は愛人であるジャーナリストのエミール・ブロンデをこの地に招き、ブロンデは爽快な滞在の様子を同業者である友人ナタンに伝える。
ところが、一見朗らかな田園にしか見えないこの土地は、実は地元の農民によって日常的に収奪されていることが明らかになる。モンコルネ伯爵は地所の管理を厳格化するため、依然として使い込みを続けていた管理人のゴーベルタンを追放するが、ゴーベルタンやその仲間のブルジョワたちが農民に反乱をけしかけ、騒擾はやまない。農民たちの不法行為はさらにエスカレートし、忠実な番人のミショーを殺害するに至る。憎悪に満ち狡猾な不屈の敵陣に悩まされ続けた伯爵は、自分の側が敗北したことを悟り、元値割れで土地を手放す。十数年後、伯爵は死去し、富裕な未亡人となった夫人は当時絶望の淵にあったブロンデの妻となる。
ブロンデはその後知事に任命され、夫妻は工ーグの地に立ち寄るが、そこでは土地の極度の分割化が進み、往時の美しさは失われていた。」
名古屋大学学術機関リポジトリ バルザック『農民』 から

本職こぼれはなし(018)

 故中村哲さんのドキュメンタリー映画とペシャワール会の中山博喜さんの講演を拝視聴した。案内ビラから→

 「百の診療所より一本の用水路を」映画のキャッチフレーズに若干の違和感を持ったことは事実であるが、実際映画を観て、その真実がよく解った。現地の人たちの疾患の成り立ちが、もっと根源的な(それには人為的な戦火による環境破壊も大きな原因であるが…)、ものを立て直さない限り解決しないのだろう。その上に立って、診療所を!という意味なのだろう。
 医者というものは、誰しも「人の役に立ちたい」との懐いを多少なりともあると思う。でも、現実は、そううまくはいかない。中村医師は、自らの次男の死など乗り越えて現実に立ち向かった。そうした姿は、当方にとって遠い、遠い目標であるが、目標にあることには間違いないのかもしれない。
 そんなことを考え、少し気が重くなり、会場を後にした。

中井正一「土曜日」巻頭言(01)

 10年以上前に、中井正一の「土曜日」巻頭言の数編をアップしたことがありましたが、サーバーのHDD不調のため、今では閲覧できません。そこで改めて、「土曜日」復刻版から、OCR で復元できたものを、土曜日毎に掲載してゆきます。とりあえずは、Facebook にかろうじて残っていた、創刊号(1936年7月4日)巻頭言から…(この項は新字新かなです。)
 中井正一の経歴などは、Wikipedia 中井正一 を参照してください。また、青空文庫にも、彼の作品があります。

◎花は鉄路の盛り土の上にも咲く

 しぶく波頭と高い日の下に、一杯の自分の力を感じた冒険者の様に、かって人々は生きた事があった。今は冷いベトンの地下室で、単調なエンジンの音を聴きながら、黙々と与えられた部署に、終日を暮す生活が人々の生活となって来た。
 営みが巨大な機構の中に組入られて、それが何だか人間から離れて来た様である。明日への希望は失われ、本当の智慧が傷つけられまじめな夢がきえてしまった。しかし、人々はそれでよいとは誰も思っていないのである。何かが欠けていることは知っている。
 しかし、何が欠けているさだかには判っていないのである。人々が歪められた営みから解放された時間、我々が憩う瞬間、何を望み、何を知り、何を夢みてよいかさえも忘れられんとしているのである。それは自分に一等親しい自分の面影が想出せない淋しさである。
 美しいせせらぎ、可愛いい花、小さなめだかが走っている小川の上を覆うて、灰色の鉄道の線路が一直線に横切った時、ラスキンは凡ての人間の過去の親しいものが斜めに断切られてしまったかのように戦慄したのである。しかしテニソンはそのとき、芸術は自然の如く、その花をもって、鉄道の盛土を覆い得ると答えたのである。
 この鉄路の上に咲く花は、千鈞の力を必要としたのではない。日々の絶間なき必要を守ったのである。我我の生きて此処に今居ることをしっかり手離さないこと、その批判を放棄しないことに於いて、始めて、凡ての灰色の路線を、花をもって埋めることが出来るのである。
 『土曜日』は人々が自分達の中に何が失われているかを想出す午後であり、まじめな夢が瞼に描かれ、本当の智慧がお互に語合われ、明日のスケジュールが計画される夕である。はばかるところなき涙が涙ぐまれ、隔てなき微笑みが微笑まるる夜である。 土曜日

昭和十一年(1936年)七月四日(創刊号)

木下杢太郎「百花譜百選」より(014)

◎41 われもこう 吾亦紅

二分一 昭和癸未秋九月廿六 写于軽井沢旅舎
〔日記〕九月廿六日 日
晴。午前植物写生二種。〔…〕旅舎にかへり、夜半一時まで植物写生十数種。

Wikipedia ワレモコウ

【付】随筆集「荒庭の観察者」から「海国の葬礼」
 昨夕此地に来ました。
 Meiner Mutter Tod hat mich hierher abgeholt.【編集者注 原文ドイツ語、日本語訳:母の死が私を立ち直らせてくれた。】
 汽車中で藤村《とうそん》(1)さんの「家」を読み続けましたが、同じ日に汽車の窓から買って読んだ貴君の藤島(2)さんの絵の批評に思いあたる事が多くて自らほほ笑まずには居られませんでした。今度頼まれてあの「家」の紹介をしなければならぬ事になって居て困って居る。
 そんな事ゆえ白樺の展覧会(3)を見る機会を失ったのを残念に思って居ます。
 で到頭また「海」と話をするようになりました。「酒」や「女」の代わりに、ぼくには矢張《やはり》海という奴が切っても切れぬ縁なのでした。
 そうしてぼくはまたぼくで「海」のそばの一つの家の中へはいって行った。然し家も海も、もっと直接な人の生活も、人情も、悲哀も──ぼくには一度「芸術」と云う註解者がはいらねば心を動かす事が出来ないようになった。──という事を今つくづくと感じて居るところです。(12.Nov.11)

 一種のHofmannsthal(4)情調がまだどこかに残って居る。強い冬の斜日が柔い青石の壁にあたって、梅の古木の下には、磯蕗《いそぶき》の花がまっ黄色に光っている。海に近い町のある「家」の坪庭。
 裏の井戸のそば、蔵の廂《ひさし》の下、そこに一群の料理人があつまって赤い人参、牛旁《ごぼう》、里芋、それから蓮根、うす青い鑵詰の蕗などの皮を剝いでいる。そして小さい刺の指先に入ったのを事々しく話し立てています。一つの人生。
 「もう鶏がとまる時かな」と空の方を見あげながらまぶしい目をしている人がある。
 ぼくには、夫々《それぞれ》の小さい「歴史」というものが、ああ手まねをして、生々と「現在」で物語っているように見える。みんな少年時代や、一種の狂飇《きょうひょう》時代やそれから子供が出来たこと……などを知っている人々ですから。
 そしてまた畠の方へ出ると、仕切られた花壇の菊が萎れたままに並び……すると「海」を暗指する汽笛の音が、ぼおっと、おおどかに聞えるのです。
 店に集って居る人は「海」に親しい関係のものばかりでした。ですから蔵の前の人の、どう云う庖丁がよく切れるかなどと云う話とは違って、此には東京へ船をやる時の風の話、また帆の話、居眠って蒸気を陸《おか》へ乗し上げた、その癖よく熟れていた船長の話などです。
 それから何時となく三十年前の話が出て、漂着して来たギヤマン(5)の徳利を珍らしがったり、またそれに、三|分《ぶ》の値を附けたある天竺屋(凡《すべ》て売価の高いという事からのあざ名)の事、千両で頼んだ亜米利加《アメリカ》の機関手の話。
 一体くさやの干物はどうして作るか御存知ですか。あれは塩の少い大島で塩の倹約をする為めに、幾度も幾度も漬けたあとへまた漬けたのが始まりだ相です。また錨《いかり》はならし円に二貫目だそうです。
 彼等の多くは「海」に尋《つい》では「東京の河岸」に親しいのです。是等の人々から東京の河の生活、その情調の語られるのを聞くのは、心で思う人をほめられる時のような心持を味わしめる。

 今窓から見ると夕鳥が遠く紫灰色《しかいしょく》の山の方へと沈んでゆく。夕やけの空なのです。ぼくは昔からこういう時には屹度《きっと》出た情操の、もう明かに思い浮ばれぬのを見て、内と外との生活がうまく足並を合わせてくれねばならんと思ったのです。いつ迄もいつ迄も過ぎし日の情懐の輓歌《ひきうた》ばかりを歌っても居られますまい。
 伊豆の、形の小さい、そしてばかに甘い蜜柑でぼくの手はひどく鋭くにおって居ます。この香いも(貴君には想像だが)之から海国の初冬の情趣を想像して下さい。(13.Nov.11)

 夕方海岸に出ると、桐の花のような紫色に淀んだ水平線上の空に、遠くゆく船の帆が見えます。暖国の十一月の空気はこの上なく心地よいものと感ぜられました。
 幾たびか人に伝えようとして、いつでも作意の為めに害われた海の美貌、夕波のかすかな微笑……それが直ぐに心を古風にします。センチメンタルに。哀れっぽく。
 ぼくはそっと昔の唄を歌って見ました。すると女──酒などからかけ離れた生活をして居るぼくにも、その第一属性としての一条の情操を芽ましめるのです。それから特殊の生活(ルパナール(6)などの)、特殊の時代への回想から来る第二属の情調を伴うのです。
 静かに歌われる一節のメロディの中に海、波、船、遠里の灯などが溶ろけてゆく様に思われます。
 ぼくはそれから温泉へいっても、尚小さい声で歌い続けました。
 家に帰ると柩《ひつぎ》の傍で僧侶が経を誦して居た。そして香のにおい、かすけき灯に光る水晶の数珠《じゅず》、細く立つ煙などが見られた。
 店先では近所の人々がまだ大話をしています。また切株から吹く新芽を想像させる子供達が騒いでいます。また酒のかおり。
 こう云う人間らしさ。人情味などが、きょうつくづくと身にしみて感ぜられました。(13.Nov.11)

 田舎の「家」の生活は此上もなく装飾的です。もう四十、五十、六十のそれぞれ家を持った人々が──中には一生海と争った人も居ます。いくたびか事業を始め幾度か失敗し、また始めつつある人も居ます。危うく情海の波瀾を逃れて後顧的の半生を暮《おく》っている人も居ます──二十人近く莚《むしろ》の上に陣取って、丸く切った白紙に鋏《はさみ》を入れ、また金銀の紙を花弁に切り、それを丸い竹に巻いて、糸目で皺をつくり、牡丹の花、蓮の花またその葉、その蕚《うてな》を拵《こしら》えて居るのを見ると、何と云いましょうか、一種可憐の情に似た心持が油然と湧き出すのを感ずるのです。
 天井から二つの巻いた莚を弔《つる》し、その上に半成の牡丹花の茎が挿されるのです。そういう光景の間に手を動かす人々は実際の自然が永い月日の間に彫《きざ》み込んだいろいろの相貌の持主であると云うことを想像して下さい。──
 少時の中休みの間に土地の名物の蜜柑が配られる。人々の手の指があの濃い緑色にそまると、そこここが一体に鋭い酸い香の海とかわるのです。
 「海」──「葬礼の準備」──「銀紙の蛇」──そを罩《こ》むる雰囲気として「南国の黄なる木の実」──こういう蕪村の俳句のような連想は、実際その光景を見ない貴君にも、原物の味の幾分を彷彿せしむることが出来るでしょう。(14.Nov.11)
      (一九一一年二六歳)

1[藤村]島崎藤村(作家・詩人、一八七二─一九四三)。
2[藤島]藤島武二(洋画家、一八六七─一九四三)。
3[白樺の展覧会]雑誌「白樺」が主催した美術展。
4[Hofmannsthal]フーゴ・フォン・ホフマンスタール。オーストリアの新ロマン主義の作家・詩人(一八七四─一九二九)。
5[ギヤマン]ガラス。
6[ルパナール]娼館。