読書ざんまいよせい(056)

◎巖窟王(上 001)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
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2003年 12月 28日 初配布
2004年 10月 11日 34~61章追加
2025年 5月11日 文字コードを Unicode に変更など
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【はじめに】
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(中略)著作権が切れたテキストは、自由に配布していただいてかまいません。ただし誤植チェックに関してはまだ不十分です
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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)衣嚢《かくし》

~, ~゛: 踊り字
複数文字の繰り返しを意味する。
(例)おの~=おのおの。こと~゛く=ことごとく。

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巖窟王 : 目次

アレクサンドル・デュマ (Alexandre Dumas, 1802-1870) 著、黒岩涙香 (1862-1920) 譯、史外史傳 巖窟王 — モンテ・クリスト伯 — (Le Comte de Monte-Cristo, 1844-45)。
出版社:愛翆書房。上卷:昭和二十三年十一月十日印刷,十一月十五日發行,定價百八十圓。下卷:昭和二十四年三月十日印刷,三月十五日發行,定價二百圓。
史外史傳 巖窟王
アレクサンドル・デュマ 著
黒岩涙香 譯
目次

-目次
-前置
-上卷 主要人物
-一 團友太郎と段倉
-二 お露は情婦ではありません許婚です
-三 父と子、類は友
-四 お露と次郎
-五 次郎は青くなつた
-六 幾等でも奧の手を
-七 筆と紙、筆と紙
-八 婚禮の饗宴
-九 何時までの分れ
-一〇 蛭峰檢事補と米良田禮子
-一一 宛名は誰れ
-一二 危い處、危い處
-一三 人間の日 照らぬ所
-一四 梁谷法師
-一五 國王陛下へ宛て
-一六 出世と云ふ一語
-一七 國王の御前
-一八 青天の霹靂
-一九 天運か天道か
-二〇 顏中に黒い頬髭
-二一 其顏を此窓から
-二二 一種の優形紳士
-二三 百日間
-二四 監獄巡視
-二五 二人の囚人
-二六 例の五百萬圓
-二七 此外の處分なし
-二八 卅四號、廿七號
-二九 怨に相當の復讐
-三〇 自殺、自殺
-三一 例の物音
-三二 誰だ、誰だ
-三三 穴の向ふと此方とで
-三四 其穴から頭を
-三五 己は伊國の法師梁谷だ
-三六 何の樣な時節
-三七 教師と弟子
-三八 誰を怨めば好いでせう
-三九 脱獄の再擧
-四〇 藥を、藥を
-四一 恩を返す道
-四二 金貨にて凡そ二……
-四三 扨て其大金
-四四 一枚の白紙
-四五 天の口、天の手
-四六 第三囘の發病
-四七 恐ろしい新思案
-四八 袋の中
-四九 監獄の墓地
-五〇 一天墨の如く
-五一 チブレン島
-五二 我姿を鏡に寫した
-五三 時が來た
-五四 モンテ、クリスト島
-五五 巖窟
-五六 巖窟の祕密
-五七 一廉の紳士と爲つて
-五八 戀しい消息
-五九 印度邊の豪族
-六〇 竒癖の人
-六一 贈り物
-六二 暮内法師
-六三 赤い皮の財布
-六四 不正直のお蔭
-六五 野西子爵
-六六 嬉しいだらう
-六七 尋常の法師では
-六八 イヽエ即金で
-六九 其代りにお願が
-七〇 其れ程能く見破る事が
-七一 森江商會
-七二 無論金件です
-七三 一艘の帆前船
-七四 漏水が初まりました
-七五 海の雇人
-七六 船乘新八
-七七 神さへ見捨てた
-七八 一通の手紙を差出した
-七九 此の短銃を何う成さる
-八〇 一挺は私が用ひます
-八一 不思議
-八二 天の意
-八三 嗚呼無人島
-八四 此島に大變な豪い人が
-八五 昔話の境遇
-八六 心の誓ひ
-八七 不老不死の靈液
-八八 望遠鏡
-八九 鬼小僧
-九〇 猿の樣に身輕く傳ふて
-九一 正直者か
-九二 初めて怪物の顏を
-九三 明朝の九時を以て
-九四 巖窟島伯爵
-九五 意の如くする積です
-九六 辛い修業
-九七 立派な彿國語
-九八 何處に隱れて了つたか
-九九 山賊の陷穽
-一〇〇 捕はれて居るのは何處
-一〇一 土牢と云ふ言葉に
-一〇二 サンサバシヤンの山洞
-一〇三 伯爵の巴里乘込
-一〇四 五月廿一日
-一〇五 森江大尉は此人です
-一〇六 三個の碧精
-一〇七 人を驚かす人
-一〇八 金の捨て所
-一〇九 嗚呼何の樣な對面
-一一〇 戀か恨か
-一一一 子爵夫人露子
-一一二 窓から誰か
-一一三 田舍の別莊
-一一四 古い祕密が
-一一五 此梯子は人殺しの
-一一六 コルシカ人の仇討
-一一七 其箱を深く埋め
-一一八 美しい男の子
-一一九 衣嚢《かくし》に小犬
-一二〇 血の雨
-一二一 神の言葉
-一二二 鼻でも切つて
-一二三 其樣な僅な金高
-一二四 美しい栃色
-一二五 大手腕
-一二六 其んな恐しい毒藥が
-一二七 世界の人
-一二八 神の法律
-一二九 一種の宣告
-一三〇 鞆繪
-一三一 此財布が忘れられやうか
-一三二 柳田卿とは誰

巖窟王 : 前置

世に英雄は多いけれど拿翁《なぽれおん》の樣な其の出世の花々しい英雄は又と無い。爾《さう》して其亡び方の異樣に物凄い英雄も亦と無い。

彼は實に、第十九世紀の首途《かどで》に花を飾つた人である、第十九世紀と云ふ大舞臺に大活劇の幕を開いたのが彼だ。

彼は千七百六十九年に、殆《ほとん》ど人の振返つて見さへせぬ、地中海の小島に生れて、三十の歳には早や全 彿國《ふらんす》を足下に踏まえる大將で有つた、十九世紀の幕の開いた千八百〇一年には、既に議政官の長と爲つて、國王の無い國に國王と同じ身分に爲つて居た。

猛りに猛つた民權論の眞盛りに、革命の眞只中に出て直ぐに其の民權論を蹂躙し、殆ど全國民の生殺與奪の權を一手に握るとは何たる怪物だらう、彼が其國の歴史に例の無い「皇帝」と云ふ尊號を得たのが、彼の卅六歳の年、即ち千八百〇四年で、民權も革命も總て彼の前にお辭宜《じぎ》した、此時に當つてや彼は佛國の皇帝たるのみね無く、全歐洲の王である、殆ど人間の閻魔大王とも爲つて居た。日耳曼《ぜるまん》も、西班《すぺいん》も、阿蘭陀《おらんだ》も、墺太利《おうすとりい》も、皆彼の配下に立ち、北方の強と云ふ可き露西亞《ろしあ》までも彼の鼻息の下《もと》に慴伏《せふふく》して居た。海を隔てた英國《いぎりす》より外には彼の意の儘に成らぬは無かつた、歴史家が此時の彼を指して「空前の大野心の空前の大成功」と云つたのは無理は無い、實に空前のみならず絶後の大成功である。

自分の兄弟三人を、サツサと諸國の王に取立て、尚ほ不足する所は手下の軍人で補つた、亂暴は亂暴であるが「國王製造者」と云ふ無類の異名を得たのは千古の竒觀と云ふ可しだ、全く隨意に國王を製造して居たのだ、大抵の國で野心家の野心と云へば、小さいのは獵官ぐらゐ、大きいとても總理大臣と云ふには過ぎぬ、此人逹に比ぶれば、何たる懸隔、雲泥などゝ云ふ言葉では追着かぬ、兵隊を議場に入れ喇叭の聲で議員の怒聲を埋めて置いて、一蹶して國家の長と爲り、再蹶して皇帝と爲り、三蹶して皇帝の上の皇帝と爲つた。

爾《さう》して其の四蹶目が面白い、自分の生れたコルシカ島から遠くも無いエルバ島へ、皇帝と云ふ尊號を持つたまゝ流されて蜑戸《あま》の焚く火の侘寢《わびね》に夢を照される人とは爲つた。

けれど四蹶には終らぬ、五蹶してエルバ島を脱するや備への嚴重なグレノブルの關所を單身で越えんとして番兵の前に立ち「防禦の武噐の無き皇帝を、汝射殺すて功名するは今ぞ」と告げた、膽力天地を呑むとは此事だらう、番兵が彼の膝に、彼の足に、縋《すが》り附いたも宜《うべ》である、佛國全土の民は箪食《たんし》、壺漿《こしやう》せぬばかりに歡迎したのも宜《うべ》である、新王 路易《るい》十八世が一夜の中に夜逃げしたのも亦 宜《うべ》である。

是れと云ふのも畢竟は、天が此の逞しい俳優をして大詰の一幕ウヲーターローの敗軍から、英國の軍艦で、セントヘレナの孤島に流さるゝ英雄の末路を演じさせ「私慾より上に脱せざる人には永久の成功無し」と云ふ大なる教訓を遺《のこ》さんが爲で有つたのであらう、彼は多くの英雄豪傑と同じく、偶然の人間では無い、天意の道具に使はれた特製の圖面である。

-    -    -    -    -    -    -

茲《こゝ》に説き出す巖窟王の實談は、此の拿翁《なぽれおん》の話では無い、全く別の人、別の事柄であるけれど、拿翁《なぽれおん》と少からぬ關係がある、此話の始まるのが、丁度 拿翁《なぽれおん》がエルバ島を脱した千八百十五年二月廿九日の事で、此實談の主人公が、其島へ立寄つて拿翁《なぽれおん》に聲を掛けられて來た時からの話である。

而も此人や彼と同じく、亦偶然の人間では無く、天の意を圖解する天の道具かと怪しまれるのだ、拿翁《なぽれおん》が歴史の表面に活動する間に、此人は暗黒なる裏面に人間界の鬼の樣に働いて居た、爾《さう》して其一身の波瀾、其の閲歴と事功との光怪、殆ど拿翁《なぽれおん》と對す可き程の者で而も人物の天性、醇の醇なることに至つては、彼れ翁輩《をうばい》と比す可きで無い、唯翁は野心的に進み、此人は人情的に進んだ丈《だ》けに、翁は知られ、此人は隱れ、翁は輝き、此人は曇り、從つて舞臺も演劇も全く違つて居る、彼の人は雷の如く陽氣にして此人は地震の如く沈痛である。

唯だ發端の話頭《わとう》、聊《いさゝ》か翁がエルバ島を脱する時の事件と關聯する所が有つて、彼を知らねば之を解するの不便なるが爲めに、愈々《いよ~》話に入らうとする前に斯くは記して置くのである。

史外史傳「巖窟王」其の巖窟とてもエルバや、コルシカと同じ地中海の一島で又遠くは離れて居ぬ、舞臺とは、西洋から指して東洋と云ふ土耳古《とるこ》邊《へん》より伊國《いたりや》を經て佛國の中心歸して居る、或人は之れを「神侠傳」と云ひ或人は「復讐竒談」と云ひ、譯者は之を「巖窟王」と云ふ、孰《いづ》れの名も此人の一端を寫したに過ぎぬ、全體を讀終れば適當な概念が自ら讀者の胸に浮ぶであらう。

譯 者 識

巖窟王 : 上卷 主要人物

團《だん》友太郎《ともたらう》(エドモン・ダンテス)
數竒の運命とたゝかひぬく本篇の主人公。後の巖窟島伯爵(モンテ・クリスト伯)。
お露《つゆ》(メルセデス)
友太郎の許嫁、友太郎の入獄中次郎の妻となる。
次郎《じらう》(フエルナン)
スペイン村の漁師、後西班牙戰爭の功あつて野西子爵(モルセール子爵)となる。
野西《のにし》武之助《たけのすけ》(アルベール・ド・モルセール)
次郎とお露の間に生れた息子、若き子爵。
段倉《だんぐら》 喜平次《きへいじ》(ダングラール)
森江氏持船巴丸(フアラオン丸)の會計主任。後次郎と共に西班牙戰爭で巨利を博し大銀行家となり男爵を贖ふ。
蛭峰《ひるみね》重輔《しげすけ》(ヴイルフオール)
野々内彈正の息子で若き檢事補。父とは反對に熱心な王黨の支持者、後の檢事總長。
梁谷《はりや》法師(フアリヤ法師)
友太郎が獄中にて會える博學多才なイタリヤの司祭。友太郎生涯の恩師であり又恩人。
森江《もりえ》良造《りやうざう》(モレル)
マルセーユの船主、友太郎の主人にして又恩人。
森江《もりえ》眞太郎《しんたらう》(マクシミリヤン・モレル)
森江氏の長男で陸軍々人。
野々内《ののうち》彈正《だんじやう》(ノワルテイエ)
蛭峰の實父にてナポレオン黨の有力な鬪士。
粕場《かすば》毛太郎次《けたらうじ》(カドルツス)
友太郎の友人にてマルセーユの仕立屋、後に旅籠屋の主人。

巖窟王 : 一 團友太郎と段倉

拿翁《なぽれおん》がエルバの島に流されて早十ヶ月ほどを經た千八百十五年二月廿四日である、地中海の東岸から丁度そのエルバ島の附近を經て彿國《ふらんす》の港、馬耳塞《まるせーゆ》へ巴丸と云ふ帆前船が入つて來た。

是は此の土地で餘ほどの信用ある森江商店の主人森江氏の持船であるので、波止場に居合す人々が、立つてその近寄る状《さま》を見てゐると、既に港の口を入つてゐるのに何故か岸の傍《そば》へ來るのが遲い、何か船中に間違があつたに違ひないとの心配が言はず語らず人々の胸に滿ちた。

けれど船其ものに故障が出來たとは見受けられぬ、船は無事に前、中、後、三本の柱に帆を上げ、舳《みよし》には水先案内の傍に年十九か廿歳《はたち》ばかりの勇ましい一少年が立つて、殆ど船長かと見ゆる程の熟練を以て介々しく水夫等を差圖してゐる、それだのに何と無く尋常《たゞ》ならぬ所がある。

陸にゐた人々の中、一人は、最早氣遣はしさうに、空しく待つてはゐられぬと云ふ風で手早く岸の小船に飛び乘り、自分で漕いでその傍《かたはら》まで漕付けた、是れは此の巴丸の持主森江氏である、漕付けて上に居る彼の少年に聲を掛け、「マア團君か、何うしたんだ、船中總體が、何だか陰氣に鬱《ふさ》ぎ込んでゐる樣に見えるが — 」團と呼ばれた彼の少年は主人への敬禮に帽子を脱ぎ「オゝ森江さんですか誠に不幸な事が出來ました、船長 呉《くれ》氏が伊國《いたりや》沖で死なれました」船主森江は「シテ積荷は、積み荷は」團少年「それだけは御安心です、荷物は仔細ありませんけれど傷ましい呉船長は — 」森江「誤つて海にでも落ちたのか」團「イイエ急な腦膜炎で死なれました」いひつゝも少年は水夫を顧みて帆の事から錨の事にまで差圖を與ふるは、船長の死んだ爲め自分自身が差圖の役だけは勤めて居ねばならぬ爲であらう、差圖が濟むと又持主の方に向ひ「伊國《いたりや》の港を出るとき船長は港係の長官と長い間熱心に何かお話でしたが、其からといふものは甚く心配の御容子で、間もなく今申す腦膜炎と爲り、三日三夜苦しみ通して終《つひ》に最期を遂げられました。其 亡骸《なきがら》はギグリヨ島の影へ式《かた》の通り水葬しまして、勳章と劍だけを奧さんへ屆ける爲め吾々が持つて來ました、ホンに十年間も英國との戰爭に從事した人だと云ふに惜い事を致しました」森江氏は慰めて「嘆くな友太郎、誰だつて一度は死なねばならぬエゝ年取つた者が死なねば若い者が出世出來ぬ」言葉の中には暗に船長に取立てて遣るとの意が見えて居る。に尤も無理は無い所であるあ。

斯《かゝ》る中ににも此少年團友太郎が水夫を指揮する樣を見るに、規律が能く立つて宛《あたか》も自分の指を使ふ樣に自在である、森江氏「先《まづ》荷物に障《さは》りが無ければ」團友太郎「ハイ荷物の事は何うか荷物取締の段倉君からお聞下さい、今度の一航海は餘ほど儲かつたと云ふ事ですから」云ひつゝ船舷《ふなべり》に繩を卸せば森江氏は水夫も及ばぬほど巧に之を攀ぢ、直に甲板に上つて來た、そして團少年が猶も急がしく指圖してゐる間に茲《こゝ》へ出て來た荷物係の段倉といふ男に對《むか》つた。

段倉は團友太郎より年が五六歳も上であらうか眼《まなこ》に油斷の爲らぬ光のあるは何だかゴロ猫の樣に見え、何から何まで團とは大違ひである。團が水夫等に敬はれ愛せられてゐるのと同じ割合に段倉は憎まれ嫌はれてゐる、けれど主人の信用を得てゐることは團と似寄つたものと見える、森江氏「聞けば段倉君、呉船長が死んだ相だが」段倉は目下へ向つて非常に嚴しいと共に上に向つては非常に鄭重だ、先《まづ》聲から柔げて掛かり「ハイ何うも早お氣の毒に堪へません、森江商店の樣な大信用ある商社の船を管《あづか》るにはアノ樣な老練な方でなければ」と早團少年が船長に取立てられはせぬかと、主人の顏色を讀取つて嫉ましさに豫防してゐる、豫防と見せずに豫防するのが段倉の段倉たる所である、森江氏「ナニ船を管《あづか》ることは、友太郎は、慣れたものではないか」といひゝ團少年の方を見返れば、段倉は目に又も羨ましさの光を現はし「ハイ自分では一廉《ひとかど》出來る積でゐる樣です、少年と云ふ者は兎角自信に強い者で、船長が亡くなられると直に、誰にも相談せずに、自分が指圖役になつた所などは感心な者ですよ」何だか言葉の中に毒がある、其毒を甘い蜜の樣に聞かせるのだ、森江「勿論友太郎は船長の手助けに乘つてゐるのだから、船長の跡を取敢ず引受けるのがその義務といふもの、誰にも相談する必要はないのぢや」段倉「ハイそれは爾《さう》でせうとも、けれど其のお蔭で、エルバ島の所で船を一日後らせて了ひました」

エルバ島とは耳に着く言葉である、不斷なら何でもないが、時が時だけ耳に着くのだ、今に此島から天地も覆へる程の風雲が起りはせぬかと誰も氣にしてゐる所である、果して森江氏が耳を聳《そばだ》てた、「エ、彼のエルバ島で船を一日、何處か船體に損所でも出來て」段倉は得たりと「ナニ損所が出來ますものか、唯自分で上陸して見たいといふ詰らぬ望みの外には何の原因もないのです」是は船主としては聞捨難い所である、船の指圖を引受けた者が自分の慰みに一日の航路を後らせる法は無い、森江氏は友太郎の方に向ひ「團君、團君」と呼び立てた。

團少年は指圖の最中である、振向いて「少しお待ち下さい」といつた儘水先案内に力を合はせ水夫に錨を卸させてゐる、段倉は最《も》う主人の顏色を見て「我事成れり」と思つた樣子で荷倉の方へ引込んだ、其後へ、暫くして團少年は來た「何か御用事ですか」森江氏「用事とて、實はエルバ島へ一日船を着けてゐた仔細を聞き度いのだ」團少年は澱みもせずに「ハイ呉船長の遺言を果す爲でした、船長が死に際に、何だか小包物を私へ渡し、之をエルバ島にゐるベルトラン將軍に渡して呉れといはれました」呉船長は拿翁《なぽれおん》の下《もと》に戰つた人であるから、無論其黨派である、ベルトラン將軍とも何か氣脈を通じてゐたに違ひ無い、斯かる人を船長に雇ふて置く森江氏とても實は心を拿翁《なぽれおん》の方へ寄せてゐる人だから、此の返事を聞いて忽ち顏が晴渡つた樣である「シテ將軍に逢つたのか」友太郎「逢つて手渡し致しました」森江氏は邊《あた》りを見廻はしズツと聲を潛めて「皇帝には拜謁せなんだのか」皇帝とは無論 拿翁《なぽれおん》の事である、友太郎「ハイ私が將軍と逢つてゐる其 室《へや》へ突々《づか~》と皇帝がお出に成まして」森江氏「其ぢやお前は、皇帝と直々《ぢき~》にお話もしたのだな」

読書ざんまいよせい(055)

◎噫無情(001)


ヸクトル、ユーゴー 著
黒岩涙香 譯

噫無情 : 目次
タイトル:噫無情 (Les Misérables, 1862)
著者:ヸクトル、マリー、ユーゴー (Victor Hugo, 1802-1885)
譯者:黒岩涙香 (1862-1920)
底本:縮刷涙香集第二編縮刷『噫無情』
出版:扶桑堂
履歴:大正四年九月十五日印刷,大正四年九月十八日發行,大正七年七月十七日廿二版(實價金壱圓六拾錢)

目次
* 小引
* 一 一人の旅人《りよじん》
* 二 其家を窺《のぞ》き初めた
* 三 高僧と前科者
* 四 銀の皿、銀の燭臺
* 五 神の心と云ふ者だ
* 六 寢臺《ねだい》の上に起直り
* 七 社會の罪
* 八 恍として見惚《みと》れた
* 九 恐る可き分岐點
* 十 愚と云はふか、不幸と云はふか
* 十一 甚《ひど》いなア、甚《ひど》いなア
* 十二 華子
* 十三 小雪
* 十四 斑井《まだらゐ》の父老《ふらう》
* 十五 蛇兵太《じやびやうた》
* 十六 星部《ほしべ》父老《ふらう》
* 十七 死でも此御恩は
* 十八 夫がなくて兒供が
* 十九 責道具
* 二十 畜生道に落ちた
* 二十一 警察署
* 二十二 市長と華子
* 二十三 運命の網
* 二十四 本統の戎瓦戎《ぢやん、ばるぢやん》が
* 二十五 不思議な次第
* 二十六 難場の中の難場
* 二十七 永久の火
* 二十八 天國の惡魔、地獄の天人
* 二十九 運命の手
* 三十 聞けば兒守歌である
* 三十一 重懲役終身に
* 三十二 合議室
* 三十三 傍聽席 一
* 三十四 傍聽席 二
* 三十五 傍聽席 三
* 三十六 傍聽席 四
* 三十七 傍聽席 五
* 三十八 市長の就縛 一
* 三十九 市長の就縛 二
* 四十 市長の就縛 三
* 四十一 入獄と逃亡 一
* 四十二 入獄と逃亡 二
* 四十三 むかし話
* 四十四 再度の捕縛、再度の入獄
* 四十五 獄中の苦役
* 四十六 老囚人の最後
* 四十七 X節《クリスマス》の夜 一
* 四十八 X節《クリスマス》の夜 二
* 四十九 X節《クリスマス》の夜 三
* 五十 X節《クリスマス》の夜 四
* 五十一 X節《クリスマス》の夜 五
* 五十二 X節《クリスマス》の夜 六
* 五十三 X節《クリスマス》の夜 七
* 五十四 客と亭主 一
* 五十五 客と亭主 二
* 五十六 客と亭主 三
* 五十七 抑《そ》も此老人は何者
* 五十八 隱れ家 一
* 五十九 隱れ家 二
* 六十 隱れ家 三
* 六十一 隱れ家 四
* 六十二 落人《おちうど》 一
* 六十三 落人《おちうど》 二
* 六十四 何物の屋敷 一
* 六十五 何物の屋敷 二
* 六十六 尼寺 一
* 六十七 尼院 二
* 六十八 尼院 三
* 六十九 尼院 四
* 七十 本田圓《ほんだまるし》
* 七十一 父と子
* 七十二 本田守安 一
* 七十三 本田守安 二
* 七十四 ABC《アーベーセー》の友
* 七十五 第一、第二の仕事
* 七十六 異樣な先客
* 七十七 青年の富
* 七十八 公園の邂逅《めぐりあひ》
* 七十九 白翁《はくおう》と黒姫《くろひめ》
* 八十 白翁と黒姫 二
* 八十一 白翁と黒姫 三
* 八十二 白翁と黒姫 四
* 八十三 神聖な役目
* 八十四 四國兼帶の人 一
* 八十五 四國兼帶の人 二
* 八十六 四國兼帶の人 三
* 八十七 四國兼帶の人 四
* 八十八 四國兼帶の人 五
* 八十九 四國兼帶の人 六
* 九十 四國兼帶の人 七
* 九十一 四國兼帶の人 八
* 九十二 四國兼帶の人 九
* 九十三 陷穽《おとしあな》 一
* 九十四 陷穽《おとしあな》 二
* 九十五 陷穽《おとしあな》 三
* 九十六 陷穽《おとしあな》 四
* 九十七 陷穽《おとしあな》 五
* 九十八 陷穽《おとしあな》 六
* 九十九 陷穽《おとしあな》 七
* 百 陷穽《おとしあな》 八
* 百一 陷穽《おとしあな》 九
* 百二 町の子
* 百三 十七八の娘
* 百四 私しと一緒
* 百五 愛 一
* 百六 愛 二
* 百七 愛 三
* 百八 庭の人影 一
* 百九 庭の人影 二
* 百十 庭の人影 三
* 百十一 愛の天國
* 百十二 無慘
* 百十三 千八百三十二年
* 百十四 容子ありげ
* 百十五 疣子と手鳴田
* 百十六 家は空《から》である
* 百十七 死場所が出來た
* 百十八 一揆軍 一
* 百十九 一揆軍 二
* 百二十 軍中雜記 一
* 百二十 軍中雜記 一
* 百二十 軍中雜記 一
* 百二十一 軍中雜記 二
* 百二十一 軍中雜記 二
* 百二十一 軍中雜記 二
* 百二十一 軍中雜記 二
* 百二十一 軍中雜記 二
* 百二十二 軍中雜記 三
* 百二十二 軍中雜記 三
* 百二十二 軍中雜記 三
* 百二十二 軍中雜記 三
* 百二十二 軍中雜記 三
* 百二十三 軍中雜記 四
* 百二十四 軍中雜記 五
* 百二十五 軍中雜記 六
* 百二十六 軍中雜記 七
* 百二十七 軍中雜記 八
* 百二十七 軍中雜記 八
* 百二十八 軍中雜記 九
* 百二十八 軍中雜記 九
* 百二十八 軍中雜記 九
* 百二十八 軍中雜記 九
* 百二十八 軍中雜記 九
* 百二十九 蛇兵太の最後
* 百三十 守安の最後
* 百三十一 エンジラの最後
* 百三十二 堡壘の最後
* 百三十三 哀れ戎瓦戎 一
* 百三十四 哀れ戎瓦戎 二
* 百三十五 哀れ戎瓦戎 三
* 百三十六 哀れ戎瓦戎 四
* 百三十七 哀れ戎瓦戎 五
* 百三十八 哀れ戎瓦戎 六
* 百三十九 哀れ戎瓦戎 七
* 百四十 哀れ戎瓦戎 八
* 百四十一 哀れ戎瓦戎 九
* 百四十二 哀れ戎瓦戎 十
* 百四十三 哀れ戎瓦戎 十一
* 百四十四 哀れ戎瓦戎 十二
* 百四十五 哀れ戎瓦戎 十三
* 百四十六 哀れ戎瓦戎 十四
* 百四十七 哀れ戎瓦戎 十五
* 百四十八 最後 一
* 百四十九 最後 二
* 百五十 最後 三
* 百五十一 最後 四
* 百五十二 大團圓

噫無情 : 小引

■「噫無情」と題し茲に譯出する小説は、ヸクトル、マリー、ユーゴー先生の傑作『レ、ミゼラブル』なり
■著者ユーゴー先生は多くの人の知れる如く、佛國の多恨多涙の文學者にして又慷慨なる政治家なり、詩、小説、戯曲、論文等に世界的の傑作多し、先生千八百二年に生れ八十四歳の壽を以て千八百八十五年(明治十八年)に死せり
■『レ、ミゼラブル』は先生が國王ル井、ナポレオンの千八百五十年の非常政策の爲に國外に放逐せられ白耳義に流竄せる時に成りしと云へば、即ち五十歳以上の時の作なり、最も成熟せし著作と云ふ可し(先生が初めて文學者として世に著はれしは其十四歳の時に在り)
■「ミゼラブル」ちは、英國にては視るに忍びざる不幸の状態を指すの語なり、佛語にては多く『身の置所も無き人』と云ふ意味に用ゐらる、即ち社會より窘害せられて喪家の犬の如くなる状態に恰當する者の如し、我國の文學者が一般に『哀史』と云ふは孰れの意に取りたるやを知らずと雖も先生が之を作りたる頃の境遇より察すれば前の意よりも後の意に用ひたる者なるが如くに察せらる
■余先頃、ヂュマのモント、クリストーを巌窟王と題せしに或人は巌窟王の音が原音に似たりとて甚だ嘆稱せられたり、余は爾まで深く考へたるに非ざりしを、勿怪の幸ひと云ふ可し、今『レ、ミゼラブル』を『噫無情』と題し、又音の似通ひたりと云ふ人あり、然れども之も爾うまで考へしには非ず、唯だ社會の無上より、一個人が如何に苦めらるゝやを知らしめんとするが原著者の意なりと信じたれば、他に適切なる文字の得難さに斯くは命名したるなり
■原書はユーゴー先生の生存中に幾版をも重ねたれば先生親から幾度も訂せし者と見ゆ、英譯にも數種あり、余の有せる分のみにても四種に及ぶ、猶ほ耳に聞きて未だ手にせざる分も無きに非ず、是等を比較するに、或者は高僧ミリールの傳を初に置き、或る者はヂャン、ヷルヂャンを初めに置きたるが如き最も著るしき相違なり、思ふにミリールは先生が理想とせし人なる可ければ卷首に之を掲ぐるが當然なる可きも、晩年に及び讀者に與ふる感覺の如何に從ひて次章に移したるならんか、余は(新聞紙に掲ぐるには)後者の順序が面白かるべきを信じ、其れに從ふ事としたり
■譯述の體裁は余が今まで譯したる諸書と同く、余が原書を讀て余の自ら感じ得たるが儘を、余の意に從ひて述べ行く者なれば、飜譯と云はんよりも人に聞きたる話をば我が知れる話として人に話すが如き者なり、若し此を讀みて原書に引合せ、以て原書を解讀する力を得んと欲する人あらば失望す可し、斯かる人に對しては、余は切に社友山縣五十雄君の英文研究録を推薦す(内外出版會社の出版にて一册定價二十錢、英米の有名なる作者の詩歌及び短詩を親切に飜譯し註釋したる者なり)
■若し原書を句毎に譯述すれば五百回にも達す可し、少くとも三百回より以下なる能はず、然れども余は成る可く一般の讀者が初めの部分を記憶に存し得る程度を限りとし百五十回乃至二百回以内に譯し終らんことを期す
■ユゴー先生が此書に如何の意を寓したるやは余不肖にして能く知らざるなり、之を學[※;1文字不明。兄?]諸氏に質すに、社會組織の不完全にして一個人が心ならざる境遇に擠陷さるゝを慨したるなりと云ふ人多し、多分は然るなる可し、先生の自ら附記したる小序左の如し
△法律と習慣とを名として、社會の呵責が此文明の眞中に人工の地獄を作り、人の天賦の宿命をば人爲の不運を以て妨ぐることの有る限りは
△現世の三大問題、即ち勞働世界の組織不完全なるに因する男子の墮落、饑渇に因する女子の滅倫、養育の不足の爲の兒童の衰殘、を救ふの方法未だ解釋せられざる限りは
△心の饑渇の爲に衰死する者社會の或部分に存する限りは
△以上を約言して廣き見解に從ひ、世界が貧苦と無學とを作り出す限りは
則ち此種の書は必要無きこと能ばざる也
蓋しル井、ナポレオンが非常政策を發する前、佛國には社會主義の勃興あり、暗に政府及び朝廷を驚かしめたり、先生は是れより先き、文勲を以て貴族に列せられたるも深かく社會黨の運動に同情を寄せ、王黨を脱して共和黨に入り大に畫策する所ありたれば、社會下層の無智と貧困とを制度習慣の罪と爲し、其の如何に凄慘なるやを示さんと欲したる者ならんか、先生が流竄の禍を買ひたるも畢竟は斯る政治上の意見の爲なり、若し我が日本に『レ、ミゼラブル』の一書を飜譯する必要ありとせば、必ずや人力を以て社會に地獄を作り、男子は勞働の爲に健康を損し、女子は饑渇の爲に徳操を失し、到る處に無智と貧苦との災害を存する今の時にこそ在るなれ、唯だ余がユーゴー其人に非ざるを悲しむ可しとす
譯 者 識

噫無情 : 一 一人の旅人《りよじん》
縮刷 噫無情《ジーミゼラブル》(前篇)
佛國 ユーゴー先生 著
日本 黒岩涙香 譯
彿国《ふらんす》の東南端プロボンと云ふ一州にダイン(Digne)と稱する小都會がある
別に名高い土地では無いが、千八百十五年三月一日、彼の怪雄 拿翁《なぽれおん》がエルバの孤島を脱出《ぬけだ》してカン(Canes)の港に上陸し、巴里《ぱりー》の都を指して上つたとき、二日目に一泊した所である、彼れが檄文を印刷したのも茲《こゝ》、彼れの忠臣ベルトラン將軍が彼より先に幾度《いくたび》か忍び來て國情を偵察したのも茲《こゝ》である
此外に此小都會の多少人に知られて居るのは徳望限り無き高僧 彌里耳《みりいる》先生が過る十年來土地の教會を管して居る一事である

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今は其れより七ヶ月の後、同じ年の十月の初《はじめ》、或日の夕方、重い足を引摺つて漸く此地に歩み着た一人の旅人は、日に焦た黒い顏を、古びた破帽子に半ば隱し、確には分らぬが年頃四十六七と察せらる、靴も着物も其 筒袴《づぼん》もボロ/\に破れて居るは云ふに及ばず、埃《ほこ》りに塗《まみ》れた其の風體の怪さに、見る人は憐れみよりも恐れを催し、路を避ける程で有つたが、彼れは全く疲れ果て居ると見え、町の入口で、汗を拭き/\井戸の水を汲上げて呑み、又一二丁行きて町中の井戸で水を呑んだ、抑《そもそ》も彼れは何所《どこ》から來た、何所へ行く、何者である、來たのは多分、七ヶ月前に拿翁《なぽれおん》の來た南海の道からで有らう、行くのは市廳《しちやう》の方である、頓《やが》て彼れは市廳に着た、爾《さう》して最《も》う役人の退《ひ》けて了ッた其の中に歩み入つたが、當直の人にでも逢たのか凡《およ》そ半時間ほどにして又出て來た、是れで分ッた、彼れは何所かの牢で苦役を務め、出獄して他の土地へ行く刑餘の人である、途々神妙に役所へ立寄り、黄色い鑑札に認《みとめ》を印《しるし》て貰はねば再び牢屋へ引戻さるゝのだ、法律の上から『油斷のならぬ人間』と認められて居る奴である
市廳を出てから、彼れは又町を徘徊《さまよ》ふた時々人の家を窺《のぞ》き込む樣にするは、最早や空腹に堪へ兼ねて、食と宿りとを求め度いのであらう、其うちに土地で名高いコルバスと云ふ旅店の前に行た、入口から直《すぐ》に見通した料理場に、燃揚るほど炭の火が起ッて、其上に掛けた平鍋には兎の丸焼や雉の揚出が轉がッて脂のたぎる音が旨さうに聞え、得ならぬ匂が腸《はらわた》まで染透るほどに薫ッて居る、勿論彼れは此前を通り切れぬ、油揚に釣れる狐の状《さま》で踉々《よろ/\》と中に入ッた、
中には主人《あるじ》自ら忙しく料理の庖丁を操《とつ》て居たが、客の來た物音と知り、顏も揚げずに『好く入ッしやい、御用向はと』[誤:御用向は』と]問ふた、疲れた空腹の、埃《ほこり》だらけの旅人は答へた『夕餉と寢床《ねどこ》とを』主人『其れはお易い御用です』と云ひつゝ初めて顏を上げ、客の風體を見て案外に感じたが、忽ち澁々の聲と變ッて『エー、お拂ひさへ戴けば』と云足した、客は財布を出し掛けて、[『]金は持つて居るよ』主人『其れなら宜しい』と無愛想よりも稍《や》や當惑けである
客はがッかりと安心した體《てい》で、背《せな》に負つて居た行李《かうり》と懷中《ふところ》の財布と手に持た杖とを傍《かたへ》に置いた、其間に主人《あるじ》は帳場に在つた新聞紙の白い欄外を裂取て、鉛筆で走り書に何か書認《かきしたゝ》め、目配《めくばせ》を以て傍《そば》に居た小僧を呼び、二言三言其の耳に囁て今の紙切を手渡すと、小僧は心得た風で戸外《おもて》の方《かた》へ走り去た
十月の初《はじめ》だから夜に入ると聊《いさゝ》か寒い、殊に茲《こゝ》はアルプス山の西の裳野《すその》に當り、四時絶間無き頂邊《てうへん》の雪から冷切た風が吹下すので、外の土地とは違ふ、先刻まで汗を絞て居た旅人も早や火の氣が戀しく成たと見え、火鉢の方に手を延べて、少しも主人《あるじ》の仕た事に氣が附かず、唯だ空腹に攻られて『何うか食ふ物だけは急いで貰ひ度い』主人『少々お待ち下さい、唯今』と云ふ所へ小僧は又急いで歸り、返辭と見える紙切を主人に渡した、主人は之を讀んで眉を顰《ひそ》め、暫し思案に餘る體《てい》で、其紙切と客の横姿《よこすがた》とを彼是れ見較べる樣にして居たが、爾《さう》とも知らぬ客の方は、空腹の上に猶《ま》だ氣に掛る事でも有るのか、少しも心の引立たぬ景状《ありさま》で、首《かうべ》を垂れて考へ込んで居る、遂に主人は決心が着たと見え、突々《つか/\》と客の傍《そば》に寄り『何《ど》うも貴方《あなた》をお泊め申す譯に行きません』全く打て變たと云ふ者だ、客は半分顏を揚げ『エ、何だと、騙《かた》られるとでも思ふのか、では先拂に仕やう、金は持て居ると斷ッたのに』主人『イヽエ、室《へや》の空た所が有りませんゆゑ』客は未だ失望せぬ、最《い》と靜《しづか》に『室《へや》が無ければ馬屋で好い』主人『馬屋は馬が一ぱいです』客『では何の樣な隅ッこでも構はぬ、藁さへ有れば敷て寢るから、先《ま》ア兎も角も食事を濟ませてからの相談にしやう』主人『食事もお生憎樣です』客は初めて驚ろいた『其樣な事は無い、私しは日の出ぬ前から歩き通して、腹が空て死にさうだ、十二里も歩いて來たのだ、代は拂ふから食はせて貰はねば』主人『喰る物が無いのです』客は聲を立てゝ笑ッた、全く當の外れた笑ひである、爾《さう》して料理場に向き『喰る物が無いとな、彼の澤山あるのは何だ』主人『あれは總てお誂へです』客『誰の』主人『先客の』客『先客は何人ある』主人『ハイ、アノ、十――二――人』客『十二人、フム、二十人だッて食ひ切れぬ』云ひつゝ客は坐り直して更《あらた》めて腰を据ゑ『茲《こゝ》は宿屋だらう、此方《こつち》は腹の空た旅人だから、食事をするのだ』
主人《あるじ》は店口で高聲などするを好まぬ、客の耳に口を寄せ『今の中に立去て下さい』全くの拒絶である、放逐である、客は振向て何事かを言返さんとしたが、主人が其の暇を與へぬ、猶も其耳に細語《さゝや》いて『無言《だまつ》てお去り成さい、貴方《あなた》の名も知て居ます、云ひませうか、貴方《あなた》は戎《ぢやん》、瓦戎《ばるぢやん》』戎《ぢやん》、瓦戎《ばるぢやん》と云ふ奇妙な名に、客はギクリと驚いた