◎噫無情(001)
噫無情
ヸクトル、ユーゴー 著
黒岩涙香 譯
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噫無情 : 目次
タイトル:噫無情 (Les Misérables, 1862)
著者:ヸクトル、マリー、ユーゴー (Victor Hugo, 1802-1885)
譯者:黒岩涙香 (1862-1920)
底本:縮刷涙香集第二編縮刷『噫無情』
出版:扶桑堂
履歴:大正四年九月十五日印刷,大正四年九月十八日發行,大正七年七月十七日廿二版(實價金壱圓六拾錢)
目次
* 小引
* 一 一人の旅人
* 二 其家を窺き初めた
* 三 高僧と前科者
* 四 銀の皿、銀の燭臺
* 五 神の心と云ふ者だ
* 六 寢臺の上に起直り
* 七 社會の罪
* 八 恍として見惚れた
* 九 恐る可き分岐點
* 十 愚と云はふか、不幸と云はふか
* 十一 甚いなア、甚いなア
* 十二 華子
* 十三 小雪
* 十四 斑井の父老
* 十五 蛇兵太
* 十六 星部父老
* 十七 死でも此御恩は
* 十八 夫がなくて兒供が
* 十九 責道具
* 二十 畜生道に落ちた
* 二十一 警察署
* 二十二 市長と華子
* 二十三 運命の網
* 二十四 本統の戎瓦戎が
* 二十五 不思議な次第
* 二十六 難場の中の難場
* 二十七 永久の火
* 二十八 天國の惡魔、地獄の天人
* 二十九 運命の手
* 三十 聞けば兒守歌である
* 三十一 重懲役終身に
* 三十二 合議室
* 三十三 傍聽席 一
* 三十四 傍聽席 二
* 三十五 傍聽席 三
* 三十六 傍聽席 四
* 三十七 傍聽席 五
* 三十八 市長の就縛 一
* 三十九 市長の就縛 二
* 四十 市長の就縛 三
* 四十一 入獄と逃亡 一
* 四十二 入獄と逃亡 二
* 四十三 むかし話
* 四十四 再度の捕縛、再度の入獄
* 四十五 獄中の苦役
* 四十六 老囚人の最後
* 四十七 X節の夜 一
* 四十八 X節の夜 二
* 四十九 X節の夜 三
* 五十 X節の夜 四
* 五十一 X節の夜 五
* 五十二 X節の夜 六
* 五十三 X節の夜 七
* 五十四 客と亭主 一
* 五十五 客と亭主 二
* 五十六 客と亭主 三
* 五十七 抑も此老人は何者
* 五十八 隱れ家 一
* 五十九 隱れ家 二
* 六十 隱れ家 三
* 六十一 隱れ家 四
* 六十二 落人 一
* 六十三 落人 二
* 六十四 何物の屋敷 一
* 六十五 何物の屋敷 二
* 六十六 尼寺 一
* 六十七 尼院 二
* 六十八 尼院 三
* 六十九 尼院 四
* 七十 本田圓
* 七十一 父と子
* 七十二 本田守安 一
* 七十三 本田守安 二
* 七十四 ABCの友
* 七十五 第一、第二の仕事
* 七十六 異樣な先客
* 七十七 青年の富
* 七十八 公園の邂逅
* 七十九 白翁と黒姫
* 八十 白翁と黒姫 二
* 八十一 白翁と黒姫 三
* 八十二 白翁と黒姫 四
* 八十三 神聖な役目
* 八十四 四國兼帶の人 一
* 八十五 四國兼帶の人 二
* 八十六 四國兼帶の人 三
* 八十七 四國兼帶の人 四
* 八十八 四國兼帶の人 五
* 八十九 四國兼帶の人 六
* 九十 四國兼帶の人 七
* 九十一 四國兼帶の人 八
* 九十二 四國兼帶の人 九
* 九十三 陷穽 一
* 九十四 陷穽 二
* 九十五 陷穽 三
* 九十六 陷穽 四
* 九十七 陷穽 五
* 九十八 陷穽 六
* 九十九 陷穽 七
* 百 陷穽 八
* 百一 陷穽 九
* 百二 町の子
* 百三 十七八の娘
* 百四 私しと一緒
* 百五 愛 一
* 百六 愛 二
* 百七 愛 三
* 百八 庭の人影 一
* 百九 庭の人影 二
* 百十 庭の人影 三
* 百十一 愛の天國
* 百十二 無慘
* 百十三 千八百三十二年
* 百十四 容子ありげ
* 百十五 疣子と手鳴田
* 百十六 家は空である
* 百十七 死場所が出來た
* 百十八 一揆軍 一
* 百十九 一揆軍 二
* 百二十 軍中雜記 一
* 百二十 軍中雜記 一
* 百二十 軍中雜記 一
* 百二十一 軍中雜記 二
* 百二十一 軍中雜記 二
* 百二十一 軍中雜記 二
* 百二十一 軍中雜記 二
* 百二十一 軍中雜記 二
* 百二十二 軍中雜記 三
* 百二十二 軍中雜記 三
* 百二十二 軍中雜記 三
* 百二十二 軍中雜記 三
* 百二十二 軍中雜記 三
* 百二十三 軍中雜記 四
* 百二十四 軍中雜記 五
* 百二十五 軍中雜記 六
* 百二十六 軍中雜記 七
* 百二十七 軍中雜記 八
* 百二十七 軍中雜記 八
* 百二十八 軍中雜記 九
* 百二十八 軍中雜記 九
* 百二十八 軍中雜記 九
* 百二十八 軍中雜記 九
* 百二十八 軍中雜記 九
* 百二十九 蛇兵太の最後
* 百三十 守安の最後
* 百三十一 エンジラの最後
* 百三十二 堡壘の最後
* 百三十三 哀れ戎瓦戎 一
* 百三十四 哀れ戎瓦戎 二
* 百三十五 哀れ戎瓦戎 三
* 百三十六 哀れ戎瓦戎 四
* 百三十七 哀れ戎瓦戎 五
* 百三十八 哀れ戎瓦戎 六
* 百三十九 哀れ戎瓦戎 七
* 百四十 哀れ戎瓦戎 八
* 百四十一 哀れ戎瓦戎 九
* 百四十二 哀れ戎瓦戎 十
* 百四十三 哀れ戎瓦戎 十一
* 百四十四 哀れ戎瓦戎 十二
* 百四十五 哀れ戎瓦戎 十三
* 百四十六 哀れ戎瓦戎 十四
* 百四十七 哀れ戎瓦戎 十五
* 百四十八 最後 一
* 百四十九 最後 二
* 百五十 最後 三
* 百五十一 最後 四
* 百五十二 大團圓
噫無情 : 小引
■「噫無情」と題し茲に譯出する小説は、ヸクトル、マリー、ユーゴー先生の傑作『レ、ミゼラブル』なり
■著者ユーゴー先生は多くの人の知れる如く、佛國の多恨多涙の文學者にして又慷慨なる政治家なり、詩、小説、戯曲、論文等に世界的の傑作多し、先生千八百二年に生れ八十四歳の壽を以て千八百八十五年(明治十八年)に死せり
■『レ、ミゼラブル』は先生が國王ル井、ナポレオンの千八百五十年の非常政策の爲に國外に放逐せられ白耳義に流竄せる時に成りしと云へば、即ち五十歳以上の時の作なり、最も成熟せし著作と云ふ可し(先生が初めて文學者として世に著はれしは其十四歳の時に在り)
■「ミゼラブル」ちは、英國にては視るに忍びざる不幸の状態を指すの語なり、佛語にては多く『身の置所も無き人』と云ふ意味に用ゐらる、即ち社會より窘害せられて喪家の犬の如くなる状態に恰當する者の如し、我國の文學者が一般に『哀史』と云ふは孰れの意に取りたるやを知らずと雖も先生が之を作りたる頃の境遇より察すれば前の意よりも後の意に用ひたる者なるが如くに察せらる
■余先頃、ヂュマのモント、クリストーを巌窟王と題せしに或人は巌窟王の音が原音に似たりとて甚だ嘆稱せられたり、余は爾まで深く考へたるに非ざりしを、勿怪の幸ひと云ふ可し、今『レ、ミゼラブル』を『噫無情』と題し、又音の似通ひたりと云ふ人あり、然れども之も爾うまで考へしには非ず、唯だ社會の無上より、一個人が如何に苦めらるゝやを知らしめんとするが原著者の意なりと信じたれば、他に適切なる文字の得難さに斯くは命名したるなり
■原書はユーゴー先生の生存中に幾版をも重ねたれば先生親から幾度も訂せし者と見ゆ、英譯にも數種あり、余の有せる分のみにても四種に及ぶ、猶ほ耳に聞きて未だ手にせざる分も無きに非ず、是等を比較するに、或者は高僧ミリールの傳を初に置き、或る者はヂャン、ヷルヂャンを初めに置きたるが如き最も著るしき相違なり、思ふにミリールは先生が理想とせし人なる可ければ卷首に之を掲ぐるが當然なる可きも、晩年に及び讀者に與ふる感覺の如何に從ひて次章に移したるならんか、余は(新聞紙に掲ぐるには)後者の順序が面白かるべきを信じ、其れに從ふ事としたり
■譯述の體裁は余が今まで譯したる諸書と同く、余が原書を讀て余の自ら感じ得たるが儘を、余の意に從ひて述べ行く者なれば、飜譯と云はんよりも人に聞きたる話をば我が知れる話として人に話すが如き者なり、若し此を讀みて原書に引合せ、以て原書を解讀する力を得んと欲する人あらば失望す可し、斯かる人に對しては、余は切に社友山縣五十雄君の英文研究録を推薦す(内外出版會社の出版にて一册定價二十錢、英米の有名なる作者の詩歌及び短詩を親切に飜譯し註釋したる者なり)
■若し原書を句毎に譯述すれば五百回にも達す可し、少くとも三百回より以下なる能はず、然れども余は成る可く一般の讀者が初めの部分を記憶に存し得る程度を限りとし百五十回乃至二百回以内に譯し終らんことを期す
■ユゴー先生が此書に如何の意を寓したるやは余不肖にして能く知らざるなり、之を學[※;1文字不明。兄?]諸氏に質すに、社會組織の不完全にして一個人が心ならざる境遇に擠陷さるゝを慨したるなりと云ふ人多し、多分は然るなる可し、先生の自ら附記したる小序左の如し
△法律と習慣とを名として、社會の呵責が此文明の眞中に人工の地獄を作り、人の天賦の宿命をば人爲の不運を以て妨ぐることの有る限りは
△現世の三大問題、即ち勞働世界の組織不完全なるに因する男子の墮落、饑渇に因する女子の滅倫、養育の不足の爲の兒童の衰殘、を救ふの方法未だ解釋せられざる限りは
△心の饑渇の爲に衰死する者社會の或部分に存する限りは
△以上を約言して廣き見解に從ひ、世界が貧苦と無學とを作り出す限りは
則ち此種の書は必要無きこと能ばざる也
蓋しル井、ナポレオンが非常政策を發する前、佛國には社會主義の勃興あり、暗に政府及び朝廷を驚かしめたり、先生は是れより先き、文勲を以て貴族に列せられたるも深かく社會黨の運動に同情を寄せ、王黨を脱して共和黨に入り大に畫策する所ありたれば、社會下層の無智と貧困とを制度習慣の罪と爲し、其の如何に凄慘なるやを示さんと欲したる者ならんか、先生が流竄の禍を買ひたるも畢竟は斯る政治上の意見の爲なり、若し我が日本に『レ、ミゼラブル』の一書を飜譯する必要ありとせば、必ずや人力を以て社會に地獄を作り、男子は勞働の爲に健康を損し、女子は饑渇の爲に徳操を失し、到る處に無智と貧苦との災害を存する今の時にこそ在るなれ、唯だ余がユーゴー其人に非ざるを悲しむ可しとす
譯 者 識
噫無情 : 一 一人の旅人
縮刷 噫無情(前篇)
佛國 ユーゴー先生 著
日本 黒岩涙香 譯
彿国の東南端プロボンと云ふ一州にダイン(Digne)と稱する小都會がある
別に名高い土地では無いが、千八百十五年三月一日、彼の怪雄 拿翁がエルバの孤島を脱出してカン(Canes)の港に上陸し、巴里の都を指して上つたとき、二日目に一泊した所である、彼れが檄文を印刷したのも茲、彼れの忠臣ベルトラン將軍が彼より先に幾度か忍び來て國情を偵察したのも茲である
此外に此小都會の多少人に知られて居るのは徳望限り無き高僧 彌里耳先生が過る十年來土地の教會を管して居る一事である
* * * * *
今は其れより七ヶ月の後、同じ年の十月の初、或日の夕方、重い足を引摺つて漸く此地に歩み着た一人の旅人は、日に焦た黒い顏を、古びた破帽子に半ば隱し、確には分らぬが年頃四十六七と察せらる、靴も着物も其 筒袴もボロ〳〵に破れて居るは云ふに及ばず、埃りに塗れた其の風體の怪さに、見る人は憐れみよりも恐れを催し、路を避ける程で有つたが、彼れは全く疲れ果て居ると見え、町の入口で、汗を拭き〳〵井戸の水を汲上げて呑み、又一二丁行きて町中の井戸で水を呑んだ、抑も彼れは何所から來た、何所へ行く、何者である、來たのは多分、七ヶ月前に拿翁の來た南海の道からで有らう、行くのは市廳の方である、頓て彼れは市廳に着た、爾して最う役人の退けて了ッた其の中に歩み入つたが、當直の人にでも逢たのか凡そ半時間ほどにして又出て來た、是れで分ッた、彼れは何所かの牢で苦役を務め、出獄して他の土地へ行く刑餘の人である、途々神妙に役所へ立寄り、黄色い鑑札に認を印て貰はねば再び牢屋へ引戻さるゝのだ、法律の上から『油斷のならぬ人間』と認められて居る奴である
市廳を出てから、彼れは又町を徘徊ふた時々人の家を窺き込む樣にするは、最早や空腹に堪へ兼ねて、食と宿りとを求め度いのであらう、其うちに土地で名高いコルバスと云ふ旅店の前に行た、入口から直に見通した料理場に、燃揚るほど炭の火が起ッて、其上に掛けた平鍋には兎の丸焼や雉の揚出が轉がッて脂のたぎる音が旨さうに聞え、得ならぬ匂が腸まで染透るほどに薫ッて居る、勿論彼れは此前を通り切れぬ、油揚に釣れる狐の状で踉々と中に入ッた、
中には主人自ら忙しく料理の庖丁を操て居たが、客の來た物音と知り、顏も揚げずに『好く入ッしやい、御用向はと』[誤:御用向は』と]問ふた、疲れた空腹の、埃だらけの旅人は答へた『夕餉と寢床とを』主人『其れはお易い御用です』と云ひつゝ初めて顏を上げ、客の風體を見て案外に感じたが、忽ち澁々の聲と變ッて『エー、お拂ひさへ戴けば』と云足した、客は財布を出し掛けて、[『]金は持つて居るよ』主人『其れなら宜しい』と無愛想よりも稍や當惑けである
客はがッかりと安心した體で、背に負つて居た行李と懷中の財布と手に持た杖とを傍に置いた、其間に主人は帳場に在つた新聞紙の白い欄外を裂取て、鉛筆で走り書に何か書認め、目配を以て傍に居た小僧を呼び、二言三言其の耳に囁て今の紙切を手渡すと、小僧は心得た風で戸外の方へ走り去た
十月の初だから夜に入ると聊か寒い、殊に茲はアルプス山の西の裳野に當り、四時絶間無き頂邊の雪から冷切た風が吹下すので、外の土地とは違ふ、先刻まで汗を絞て居た旅人も早や火の氣が戀しく成たと見え、火鉢の方に手を延べて、少しも主人の仕た事に氣が附かず、唯だ空腹に攻られて『何うか食ふ物だけは急いで貰ひ度い』主人『少々お待ち下さい、唯今』と云ふ所へ小僧は又急いで歸り、返辭と見える紙切を主人に渡した、主人は之を讀んで眉を顰め、暫し思案に餘る體で、其紙切と客の横姿とを彼是れ見較べる樣にして居たが、爾とも知らぬ客の方は、空腹の上に猶だ氣に掛る事でも有るのか、少しも心の引立たぬ景状で、首を垂れて考へ込んで居る、遂に主人は決心が着たと見え、突々と客の傍に寄り『何うも貴方をお泊め申す譯に行きません』全く打て變たと云ふ者だ、客は半分顏を揚げ『エ、何だと、騙られるとでも思ふのか、では先拂に仕やう、金は持て居ると斷ッたのに』主人『イヽエ、室の空た所が有りませんゆゑ』客は未だ失望せぬ、最と靜に『室が無ければ馬屋で好い』主人『馬屋は馬が一ぱいです』客『では何の樣な隅ッこでも構はぬ、藁さへ有れば敷て寢るから、先ア兎も角も食事を濟ませてからの相談にしやう』主人『食事もお生憎樣です』客は初めて驚ろいた『其樣な事は無い、私しは日の出ぬ前から歩き通して、腹が空て死にさうだ、十二里も歩いて來たのだ、代は拂ふから食はせて貰はねば』主人『喰る物が無いのです』客は聲を立てゝ笑ッた、全く當の外れた笑ひである、爾して料理場に向き『喰る物が無いとな、彼の澤山あるのは何だ』主人『あれは總てお誂へです』客『誰の』主人『先客の』客『先客は何人ある』主人『ハイ、アノ、十――二――人』客『十二人、フム、二十人だッて食ひ切れぬ』云ひつゝ客は坐り直して更めて腰を据ゑ『茲は宿屋だらう、此方は腹の空た旅人だから、食事をするのだ』
主人は店口で高聲などするを好まぬ、客の耳に口を寄せ『今の中に立去て下さい』全くの拒絶である、放逐である、客は振向て何事かを言返さんとしたが、主人が其の暇を與へぬ、猶も其耳に細語いて『無言てお去り成さい、貴方の名も知て居ます、云ひませうか、貴方は戎、瓦戎』戎、瓦戎と云ふ奇妙な名に、客はギクリと驚いた
噫無情 : 二 其家を窺き初めた
宿屋の主人は、猶も彼の紙切を客の目の前に差附けて言葉を繼ぎ『戎、瓦戎が何者かと云ふ事も分て居る、茲で聲を立てゝ云ひませうか、サア云はぬ中に立去り成さい、私しは一目見た時に怪いと思たから直に小僧を警察へ走らせたら、此通りの返事です、讀めるなら自分で讀で見るが好い』旅客は纔に眼を揚げて其紙切を見た、主人は最後の一言を下した『私しはお客樣に丁寧だから…… サアお去り成りさい[誤?:成りなさい]』最う去らぬ譯に行かぬ、客は首を垂れたまゝ荷物を取上げて悄々と立去た、眞に喪家の犬よりも哀れむ可しである
立去て彼れは人の家の軒下を潛る樣にし何處と目指す頼りも無く歩んだ、首は依然と垂れて背後をも向かぬ、若し向たなら今の宿屋の門口に主人を初め多勢の人が立ち自分の背影に指さして喋々と噂して居る状をも見、從ッて戎、瓦戎と云ふ危險な男が此土地に入込だと云ふ噂が半時間と經ぬ中に此狹い町中に廣がる事に氣に附く所であッた彼れは少しも是等の状を見ぬ、彼れの樣な難儀の重荷を背負て居る者は振向きなどせぬ、振向かずとも自分の後へ不仕合のみ附て來ることを知過るほど知て居るのだ
唯だ絶望の餘りに彼れは幾時か夢中の状で歩だが、忽ち空腹の苦さが冴返つたので氣が附た、何處かで食と宿とを得ねば成らぬ、何うせ宿屋らしい宿屋では泊て呉れぬのだから、今度は何の樣な所でも好いと、首を擧げて見廻る目先に、ヂャフヲー街と記した安宿の看板が見えた、アヽ助かるのは茲である、直に彼れは歩み寄たが、中には矢張り旨さうな食物の匂がして幾人かの客が飲且食ひつゝ談話に興じて居る、入口は町の方へ開いて居るのに彼れは氣が退けて其所から得入らず、横手の潛りを開くと、喜んで迎へた主人『サア〳〵、丁度 最一人お客が傍へ來てお煖り成さい』全く助かッた想がして旅客は又も荷物を卸した
動搖めいて居た客の一同は何の樣な仲間が殖たかと此方を見たが、其中の一人は丁度先刻、彼のコルバスの宿屋へ馬を預け、此旅客の斷られる所を見、又其の悄々と立去る背影をも眺めて色々の噂を吐た一人である、彼れは今しも打寛がんとして居る新客の姿を篤と透して見て、此家の主人を手招き其耳に囁き告げた『此奴だよ、此奴だよ、戎、瓦戎と云ふ監視者は、何でも非常に危險な惡人だと云ふのだから』斯う語て居る中に新客は少しの安心が浮み掛て居る、頬の角張た邊りから眉骨の高い所、決心も有り元氣もある、一寸見れば打挫けて活智無くも見えるけれど隨分嚴しい相も有ッて殊に深い眼が、蹙んだ眉の底に光て居る状は、草叢の暗の奥から火の光の見る樣で何と無く物凄いけれど、彼は自分の事を囁かれて居るとも思はぬか頓て又 俯向た
今の囁きを聞終ッた主人は直に新客の許へ來て、無遠慮に其肩へ手を掛け『茲に居ては可なません、立去て貰ひませう』客は最ふ抵抗する氣力も無い、殆ど饑に死掛けて居る樣な者だ、低い聞[誤?:聲]で『エ、知て居るの』主人『知て居ます』客『彼方の宿屋でも斷られた』主人『だから此方の宿屋でも斷るのだ』客『では何所へ行けと云ふのだ』主人『何所へでも勝手に』憐れ此客は又荷物を取上げて、力無く外に出た、外には先刻の宿屋の邊からゾロ〳〵と後に附て來た兒供が待て居て、彼れの去る背後から、泥坊猫をでも追ふ樣に石を投げた、彼れは初て振向て、持て居る杖を振上げた、兒供は群鳥の樣に散ッた
彼れは此土地の監獄の前に出た、最う茲より外に彼の宿とす可き所は無い、其まゝ門の戸に垂れて居る案内の鎖に手を掛けて鈴を鳴した、番人が窓の戸を開けた、彼れは破帽子を脱で一禮し『お番人樣、何うか戸を開いて私しを牢の中へ、今夜だけお留め下さい』窮状も茲に至ては極度である、直に答への聲が聞えた『茲は宿屋では無いワイ、捕縛せられて來い、爾うすれば留めて遣る』聲と共に窓は閉ぢた
此上は何處へ行く、行く所は無いけれど行かねば成らぬ、彼れは但有る細道に入つた、茲には多くの庭の廣い屋敷が有て、中には低い生垣に圍まれて、飛越れば入ることの出來さうな庭も有る、彼れは此家彼家と見廻る中に、一軒、窓から燈光の差して居るが有た、彼れは先刻安宿を窺いた樣に、身體を傾けて、其の家を窺き初めた
噫無情 : 三 高僧と前科者
窺いて見ると、確に幸福な家庭らしい、主人と見ゆる四十恰好の莞爾な男が膝に兒を抱き、前面には妻と見ゆる若い女が之も兒を抱て乳を呑して居る、此の[※;一?]同の機嫌の好い状を見ると、定めし愛想の有る家庭らしい、茲ならばと旅人は近寄て戸を叩いた、二度叩いて三度目に主人が窓まで立て來て『何方』と問ふた、旅人『御免下さい、行暮れて難儀する旅の者ですが、何うかお情けに一夜の宿を、庭の隅でも何所でも宜しいのですから』主人『大通りへ行けばコルバスと云ふ宿屋が有るのに』旅人『ハイ其所へ行たけれど斷られまして』主人『ではシャフヲー街に安宿が有る』旅人『イエ、其安宿でも斷られて來たのです』此返事に主人は何か心附た樣に、急に旅人の風體を見直した、勿論怪しげな身姿だから驚いて『ヤ、ヤ、此人が先刻聞た彼の人だよ』と叫んだ、扨は油斷の成らぬ前科者と云ふ噂が早くも此靜な家に迄傳つて居るのだ、主人の叫びに妻も合點が行たと見え遽てゝ子供を確と抱〆め『早く追拂て下さいよ』と恐しげな聲を立てた、『去れ、去れ、野猫奴』と主人は言ひ捨てた
旅人『では後生ですから水を一ぱいお飲せ下さい』主人は床の間に在る獵銃を見返りつゝ『水より弾丸を振舞て遣らう』とて戸を閉ぢた、何處へ頼つても同じ事である泊て呉れる家は到底無い、又も旅人は茲を立去たが、寒さと空腹と交る〴〵身を攻る、攻ては一方だけでも逃れ度いと、猶も見廻して少し行くと或家の庭に、低い借小屋の樣な者が有る、多分は土方か何かゞ道具でも入れて置く爲に作て有るのだらう、此中で一夜を明せば風と霜の寒さ丈は凌れると、直に生垣を飛越て中に入た、小屋の入口は意外に小い、けれど彼れは潜り込だが、背の袋が邪魔に成るから、向き直して卸さうとすると、入口の外で嘈る樣な聲が聞えた、顏を上ると巨い番犬の頭が我が頭の邊に乘し掛けて居る、アヽ此小屋は犬小屋なんだ、グズ〳〵すれば何の樣な目に遭はうも知れぬ、直に彼は杖を正面に構へて犬を防ぎ眞に這々の體で逃出した
愈よ最う行く所が無い、アヽ犬でさへ小屋が有るのに『己は犬にも劣るのだ』と呟いたが此上は野か山で木蔭を頼む一方だ、又も蹌踉いて足を引摺り、今度は町の外へ出た、此時、日は既に暮果てゝ空も薄曇り、唯だ月の出やうとする山の端のみ幾等か明いかと思はれる、眞に夜半より却て心細く物凄い時刻である、町を外れて少し行くと横手に丘が有り丘には樹も茂て居る如く暗く見える、彼れは其の方を望だが身震ひした、眞逆に暗闇を恐しと思ふ樣な境涯では無からうけれど、景色が總て恐しく感ぜられる場合が有る、斯うなると人のみで無く天然までも情ないのだ
彼れは最う氣力が無い、又引返して町に戻ッた、爾して又も彷徨ひ歩むうち、教會堂の前に出た、此樣な身に取ては神も佛も有ッた者か、教會堂などゝ斯樣な者の立て居るさへ忌はしい、彼は拳を固め、其の屋根の方を睨み、叩き附ける樣な身眞似をした、實に無理も無い仕打である、其れから又歩まうとしたけれど足が利かぬ、少し離れた空地の樣な所に、腰を掛けごろの石が有ッた、彼れは其上に腰を卸した、胴から上を横にした、全く疲れ盡した状である
丁度此の所へ、教會堂から一人の老婦人が出て來た、暗い所に彼れの横はッて居る姿を見留め、怪んで傍に寄り『オヤ、此人は先ア、何をして居るの』と問ふた、彼れ『見られる通りです、寢るのです』婦人は流石に教會から出るほど有ッて憐みの心が深いと見え『エ、石の床に』彼れは自分の身を嘲けッて『ハイ十九年の間、冷い木の床に寢て來ました、今夜は石の床に有附きました』何と云ふ無慘な言葉だらう、婦人『では兵隊で有たの』彼れは其口に隨て『ヘイ兵隊でした』婦人『宿屋を尋れば好いのに』彼れは最う、宿屋で追拂はれた白状はせぬ、單に『錢が有りません』婦人は財布を探り『オヤ、何うしたら好らう、唯た四錢しか持て居無いが』彼れ『四錢でも好い、下さい』とて受取た、世間が最う、皆我に情ないと思へば此樣な心にも成るのだ、婦人『だつて是れ許りでは何うする事も出來ぬ、定めしお腹も空て居やう、寒くも有らう、何所か一夜の宿を惠んで呉れる家が有さうなもの』彼れ『有りません』婦人『乞ふて見たの』彼れ『ハイ泊て呉れやうと思ふ家は一軒殘らず、爾じて皆斷られて了ひました』
婦人は暫し思案の體で四邊を見廻し、頓て思ひ浮んだ樣に、此の空地の隅に當る屋根の低い家を見遣て『那の家へも願ッて見たの』彼れ『那の家ですか、イヽエ未だ』婦人『では願ッてお見な』『では願ッてお見な』との此短い一語が、後から思ふと眞に不思議な因縁を爲した、彼れは其の言葉に従ッて、指された家の戸を叩いた、中から直に『お入り成さい』との心好き返辭が聞えた
此家は抑も誰の家、篤行双び無しと稱せらるゝ彌里耳僧正の邸である、アヽ高僧と此の前科者、何の樣な對照だらう
噫無情 : 四 銀の皿、銀の燭臺
僧正とは僧侶の中で極高い身分である、當時此國の官制では陸軍大將の直次に位する格式と爲て居た
今旅人が戸を開けて入つた此家の主人が其の僧正なんだ、十年前に此地の寺領を管つて以來、彌里耳先生と云ふ名が殆ど慈善の神の樣に思はれて居る
齡は七十五歳、家族とては其身より十歳ほど年下なる妹子[誤?]妹御と老女一人である、初て此土地へ赴任して來た時、直に貧民病院を見廻り、其の建物の狹く穢くろしいのを見て、廣い立派な自分の官宅と取替た、何も三人の家族に廣い住居は要ぬから其れよりは多勢の貧い病人に裕りを與へるが好いとの意見に出たのだ、此一事でも大方其の人柄は察せられる、年々政府から得る俸給が一萬五千法(一 法は今の相場にて凡そ日本の四十錢)其内一萬四千 法までを年々悉く慈善事業に寄附し其身は單に一千 法と妹御の身に附た所得五百 法とで、極めて質素に暮して居る、是では餘り甚いからとの老女の苦情で、別に地方政廳から馬車代として年三千 法を受る事に運んだが、此三千 法も直に他の慈善事業へ一切寄附することに取極めた
是からと云ふ者は土地の人が徳に感じ、總て惠み金の類は此僧正の手に托する事になッた、之が爲め、年々僧正の手を經る金額は實に夥しい高である、けれど授ける豐な人よりは何うしても受る貧い人の方が多いから、一錢でも僧正の爲にはならぬ、のみならず時々分與へるに不足して自分の乏しい家計を割減す事がある
凡そ人の艱難病氣と有らば何の樣な危きを冒しても之を救ふ、此點では慈善家たるのみで無く勇者である、けれど世間一般の宗教家の樣に決して嚴しい意見は持たぬ、本來由緒ある家に生れ華美と贅澤の中に育た人で、唯だ革命の亂の爲に家を失ひ、亂を他國(伊國)へ避けて居るうちに最愛の妻に死なれて、其れが爲め痛く世を墓なみ、發心して宗教に歸したとの事である、だから若い時には普通の俗人と同じ樣な行をしたであらう、多少は過ちも有たであらう、其れは自分で常に云ふのだ、從つて人に説く意見も柔かで、無理が無い、先づ斯うだ『何でも人と云ふ者は肉體と云ふ重い荷物を脊負て居るのだ、此荷物が常に慾心や過の元と爲るから、油斷無く之を見張て居ねば成らぬ、出來る丈は之を抑へ附け、之に勝つ樣にして、萬々止を得ぬに至て之に從へ、從へば罪と爲るのだ、けれど全く止むを得ぬ場合ならば恕せられやう、轉で膝を突くのは仕方が無いから直に其の突膝で神に縋り、膝より上に墮落せぬ樣にせよ、完全と云ふ事は神より外に無いのだから人は望でも及ばぬ事、人は唯だ正直にせねばならぬ、過ちも、罪を犯しても其でも正直を忘れるな、一生懸命に罪を少くする樣に勉めるのが人の道だ、全く罪の無いのは神ばかりだ、罪とは肉體に籠て居る引力の樣な者だ』と能く人情を咀分けた穩かな意見である、人の服するも無理は無い
* * * * *
此夜僧正は夕方の散歩から歸り、室に閉籠て書ものをして居た、所へ、夜食の用意が出來たと見え、老女が來て戸棚から銀製の汁皿を出して行た、汁皿が銀製とは此の平民主義平等主義の僧正に不似合だけれど之は先祖から傳はッて居る大事の寶物で、僧正には此の銀の皿で汁を啜ふのが唯だ一つの贅澤である、皿の數は都合六枚の一組で、其外に銀の燭臺が二本ある、之も親類から遺身として受けたので、毎も煖爐の上の棚に一對揃ふて置てある、客の有る時には用ふるのだ
能く規則の行屆いた家だから、皿が出れば直に食事だ、僧正は爾と知ッて、書ものを罷めて勝手へ行くと、茲が食堂をも玄關をも兼て居る、戸を開けば直に往來だ、不都合な建て方では有るけれど貧民病院を其まゝ住居に用ひて居るのだから仕方が無い此時老女は、僧正の妹御に向ひ頻りに、宵に買物に出たとて町で聞て來た恐しい旅人の話をして居る『何でも十九年も長い間懲役に居た奴だと云ますから屹度今夜、何所へか泥坊に入りますよ、町中では最う皆な恐がつて戸を閉て居ます、此お家でも何うか入口の掛金と戸棚の錠前を拵へねば、銀の皿を盗まれては大變です』僧正は聞きつゝ卓子に向つて坐した、丁度此時である、外から旅人が戸を叩いたのは。直に僧正の口から『お入り成さい』との返辭が出た、之は誰彼の差別は無い、何の樣な場合でも音なふ者さへ有れば必ず同じ返辭をする、僧正の家には秘密も無い、都合も無い、難儀する人は救ひ、乞ふ人には與へ、自分の住居を自分の家とは思はず、財産にでも勞力にでも、全く自分と云ふ事を忘れて居るのが、誰にも眞似の出來ぬ所である、是であればこそ徳行なんだ
返辭に應じて入口の戸は開かれた、開いた人は殆ど決死の心とも云ふ可きだ、茲ではれねば救はれる所は無い、彼れは突と入ッた、背には嚢が有り手には杖を持て居る、風體の尋常ならぬは云ふに及ばず、野卑な、大膽な、疲勞した、爾して亂暴らしい顏が燈光の前に突出た
噫無情 : 五 神の心と云ふ者だ
全く此旅人は、其筋から銘を打たれて居る通り『油斷の爲らぬ奴』である、眞に恐る可き人間である
燈光の前に立た其顏の凄さ、其姿の恐ろしさ、老女も僧正の妹御も我知らず逃やうとする如く立上ッた、若し日頃から僧正の感化を受けて居なんだなら、必ず兩女とも叫び聲を發したゞらう、唯だ泰然と靜なのは僧正である、驚きも騒ぎもせぬ、僧正の此靜さに妹御は直ぐ席に復して僧正の顏を眺め、老女は立たまゝ棒の樣に成て居る
頓て僧正は來客に向ひ、穩かに其の顏を見て、問はんとした、客は問はるゝを待たぬ、遽てた樣な聲の、高い調子で『御覽下さい、私しの名は戎、瓦戎と云ひます、懲役人です、十九年の間ツーロンの獄で懲役を勤め四日前に牢から出されてポタリエと云ふ土地へ遣られる途です今日は朝から十二リーグ(約十七里)歩み、疲れ果て此土地へ着たけれど飯食ふ所も寢る所も有りません、行く先々で皆斷られ、仕方無しに此家の外の石の上に寢て居たら、教會から出た婦人が此家の戸を叩いて見よと教へて呉れました、其れだから叩きました、泊て呉ますか泊ませんか、此家は宿屋ですか、何す[誤:何]ですか錢は斯う見えても持て居るのですよ、十九年の間牢の中で溜つた工錢が百零九 法と十五錢、四日の旅で廿錢使つた丈です、宿賃は拂ひますが泊て呉れるのですか、呉れぬのですか』
此返辭を何より先に聞度いのだ、又も失望するが厭だから彼れは第一着に自分の履歴を晒け出した、僧正は人を斷た事が無い、返辭せずとも分つて居る、直に老女に向ひ例の通り靜に『サア皿を出してお呉れ』と云た、此者の爲に早や膳立を命ずるのだ、彼れに取ては實に意外だ、何にも問返さず、早や膳立とは何かの間違ひでは有るまいか、彼れは突々と又 一入燈光の傍に進んで忽然と踏止り『お待ち成さい、お待ち成さい、今私しの云た事が分りましたか、私しは懲役人ですよ、罪人ですよ、牢から出された許りですよ、此通り是れ黄色い鑑札を持て居ます、讀で御覽なさい、極めて危險な奴だと書附て有るのです』とて其鑑札を僧正の前に差附たが『イヤ貴方が讀ねば私しが正直に讀で聞せて上げませう、之でも牢の中の學校で十九年の間に讀書は覺えたのです、ハヽヽ四十六と云ふ年に成て自分の兇状を讀む事が出來るのだ』と物凄く自ら嘲ッて『ソレネ放免囚、戎、瓦戎と記して有ります、盗を犯して五年、在鑑中に破牢を企てし事四回、其罪の爲に刑期を延さるゝこと十四年、合せて十九年入獄したり、此者は最も危險なり、目を離す可からずと書て有る、全く此通りです、泊て呉れますか、最う腹が空て、疲れて、何か食ねば居られません、寢るのは馬屋の隅でも好いから、何うかねえ、一夜だけ』僧正は又老女に向ひ、『新しい白布を掛けて寢床の用意をも仕てお呉れ』
僧正の言附には、一言も無く老女は從ふのだ、唯々として次の室に去た、僧正は初めて戎、瓦戎に向ひ『サア貴君、此へ据てお煖り成さい、丁度私し共も是から食事を初める所ですから御一緒に致しませう』何と云ふ丁寧な言葉だらう、而も故とで無く自然である、戎、瓦戎は初めて泊て呉れる事と合點は行た、けれど貴君、[※;ハ?]ヽ貴君などゝ云はれるのは今まで覺えの無い事だ、泊を得たのは無論嬉しくも安心にも感ずるだらうが、其れよりは此待遇が怪しい、合點が行かぬ、殆ど恐ろしい、全く僧正の盛徳に打たれたのだ、彼れは暫しがほど口も利けぬ、何やら云はふとしたけれど吃て語を爲さぬ、殆ど狂人の言葉かとも思はれる
稍あつて彼れは切れ〳〵゛に『エ、泊て呉れる、エ、本統、エ、何と仰有ッた、私しをエ追拂ひもせずに、前科者を、貴君などゝ貴方は、誰でも此の野猫めなどゝ云ひますのに、有難い、有難い、何だか本統に泊て呉れる樣に見えるぞ、白い布で寢床の用意などゝ、オヽ十九年の間、寢床と云ふ者は知なんだ、有難い、貴方は善人だ、茲は宿屋ですか、宿屋の、貴方は御亭主ですか、立派な御亭主だなア、オヽ善人、善人全く宿屋の御亭主ですか』僧正『私しは茲に住む僧侶です』戎『オヽお棒樣、其れでは宿賃などは取ないんだ、成るほど着物を見れば分て居る、茲の教會の牧師さんでせう』僧正『爾です』戎は半信半疑、夢心地で有たけれど、初て合點が行た樣に背の嚢を卸し『アヽ善人だなア、牢屋へも時々牧師と云ふのが來たけれど何だか分らぬ事ばかり云て居たが、エお坊さん、牧師さん、牧師がズッと出世して登り詰ると僧正と云ふのに成りますよ』聞て居た妹御は思はず笑を催ほした、恐ろしさが稍や薄らいだ、戎は語を繼ぎ、『僧正と云ふのは十九年の間にたッた一度しか牢屋へは來ませなんだ、立派ですゼ、帽子なども金ぴかで、サ,何だッて陸軍大將の次に附くのだと云ひますもの、貴方の樣な、譯の分ッた方は僧正に成たッて可いや、牧師では勿體ない』と云ひつゝ篤と僧正の質素な姿を見直して『アヽ貴方は貧しい、未だ牧師にも成て居ぬワ、宿賃を拂ひませうか』僧正『其には及びません』答ふる聲には憐みが滿て居る
其中に老女は銀の皿を出して來た、戎、瓦戎は席に着た、僧正は老女に向ひ『何だか燈光が暗い樣だ』とは銀の燭臺を持て來いとの心だらう、老女が爾う心得て去らうとすると『皿も之では足りないだらう』と言ひ足した、六枚も殘らず出せとの謎である
此樣に盛徳限り無き高僧でも、兒供の樣な心が有る、尤も兒供の樣な心だから自然に其徳が高くなるので有らうけれど、皿と燭臺を客に見せるのを日頃から一方ならず歡ばしく感ずる容子である、此外には道樂に類した事が一つも無い、瓦戎は既に、『貴君』と呼ばれて異樣に心が鎔て居る上に斯樣な扱ひを受け、嬉さと怪さが何時終るか果が分らぬ『牧師さん――先ア追々牧師に出世成さるのだから、今から牧師さんと云て置ふねえ、牧師さん、貴方は世間の人の樣に、私しも追拂ひもせず、此通り銀の皿や銀の燭臺を出してお客扱ひにして下さッて私しも最う、何にも貴方には隱しませんよ』とて身上をでも語り相である、僧正は遮る樣に『ナニ、何にも私しへ話すには及びません、此家は私しの家では無く、私しが此家の主人では無いのですから』戎『エ、エ』僧正『此家は誰でも艱難する人の家です、行暮れて惱む人が此家の主人です』此言葉が若し心の底に浸込まねば人で無い、イヤ鬼ですらも無い、戎は『本統にねえ』と殆ど呆れた躰である、僧正『貴方の名前も聞ぬうちにから分ッて居ます』戎『エ、聞かぬうちから』僧正『ハイ吾々の同胞兄弟と云ふのです』アヽ此者を同胞兄弟、眞に僧正の心は、人の心で無く神の心と云ふ者だ
噫無情 : 六 寢臺の上に起直り
『兄弟』とまでに云はれて、其親切を感ぜずに居られやうか、戎、瓦戎は腸の底までも難有さが浸渡ッた樣に、首を垂れて呟いた『己は最う、食は無くッても可いや、寢無くッても可いや、餘り信切にされるから、空腹いのも忘れて了ッた』眞に感極まッたと云ふ者だら、とは云へ、頓て食事の用意が出來ると、彼れは餓えた獸の如くに貪り食ッた、けれど獻立は極めて質素だ、彼れは氣に附た樣に『あゝ牧師さん、貴方よりは馬方の方が、餘ぽど旨い物を食て居ます』僧正は穩かに『其れは馬方の方が私しより骨の折る仕事を仕て居るからです』僧正の言葉は總て神々しい
食事の間に僧正は幾度か憐みの眼を以て彼れの顏を見、竟に問ふた『隨分貴方は苦い想をしたでせうね』戎は嘲る樣に答へた『ヘン苦い想ひ、爾です、赤い着物で、獸の樣に首輪が嵌ッて、脚には鐵の鎖で重い大砲の丸を結び附けられ、何にもせぬのに鞭が降り、一言云へば密室監禁です、病氣で寢らとて鎖の離れる隙は無く、全く犬に劣ります、爾して長い十九年を勤めた揚句が此黄色の鑑札で、年は四十六に成りました、此鑑札の有る間は、何所へ行たとて人間の樣には思て呉れません……』苦い〳〵言葉である、僧正『けれど貴方が世を恨み人を憎む心を以て其境遇を出て來たならば、猶ほ惡人では無いのです、眞に憐む可き人と云ふ者です、若し更に不平を抱かず人を恨みず[誤?:恨まず]、却て慈悲の心を以て出て來たなら、貴方は何人も及ばぬ程の善人です』
此言葉が何の樣な感じを起させたかは分らぬ、猶ほ此後で樣々の話をしたけれど僧正は彼れに其身の墮落を耻ぢさせる樣な事は一切云はず、唯だ眞の兄弟を扱ふ樣に、打解けて最と親しく扱ッたのは此上も無い情である
頓て一同と共に食事も濟だ、老女は早速に食卓の上を片附け初めた、取分けて銀の皿を先に仕舞たのは仲々の用心である、僧正は戎、瓦戎に向ひ『サア最うお寢み成さい』とて、銀の燭臺の一個を與へ、殘る一個は自分が持つて丁寧に彼れの寢室に送り屆けた
寢室と云ふのは、此家の間取が宣く無い爲め僧正の居間を通らねば行かれぬのだ、戎、瓦戎は送られつゝも、深く考へ込む體であッたが、寢室に入てから何と思ッたのか、今まで僧正の徳に感じて綿の如く柔かで有ッたに引替へ忽ちに打て變つた樣な擧動を示した
幸ひに僧正を彼れと唯だ二人差向ひである、若しも此とき僧正の妹御か老女か居合せたなら必ず恐れ戰く所だッたあう、彼れ瓦戎は垂れた首を忽然として擧げ、僧正に向ひて立ち、兩の手を横柄に胸に組て、嚇す樣に僧正を睨み附けた、或は飛掛る積でゝも有るのだらうかと思はれた
何故彼れの容子は斯う變たのだらう、問ふ迄も無い、十九年も牢に居て荒びに荒びた心が、今漸く僧正の信切で治つて居たけれど、一時の力は本來の性に勝たず、暫し抑へた反動に其の性が跳返る樣に湧て起り、自分でも制する事が出來ぬのだらう、全く我を忘れた樣な者である、爾して嗄れ聲を立て『貴方は自分の寢る直に隣の室へ私しを寢かせて好いのですか』自分の聲の恐しい響きに、彼れは又心附たか、忽ち破顏して呵々と笑ッた、笑ひ聲の物凄さは得も云はれぬ
けれど僧正の態度は少しも變らぬ、戎は又云ふた『貴方は篤と考へての事ですか、私しが人を殺さぬと誰が云ひました』殆ど汝を殺すかも知れぬぞと云樣にも聞える、僧正は答へた『其れは神の知る事です』と、爾して戎を宥める樣に口の中で祈り、猶ほ片手を彼れの額の邊まで擧げ、神の惠の、彼れが身に加はる樣に撫で鎭めて、靜かに茲を去ッた
斯て僧正は自分の居間に入り、又暫し神前に禱を捧げて庭に出た、爾して森嚴な庭の景色に、天地の示せる深き秘密を考へつゝ逍遥した
之に引替へ瓦戎は、僧正の去た後に、柔かな寢臺の面を見廻した末、枕許に置た燭臺の火をば、牢の中で慣れて居る通りに鼻息を以て吹消し、其まゝ寢臺の[※※;上に?]身を横へ、眠りに就た、間も無く僧正も室へ歸り十二時に至つて之も寢た
一眠りの後、戎、瓦戎は目を覺して、やをら寢臺の上に起直り、四邊の容子に耳を澄したが閴として何の物音も無い、一家全く寢鎭ッた
噫無情 : 七 社會の罪
戎、瓦戎の目を醒したのは夜中の二時であつた、彼は寺の時計の音を聞た
纔に四時間 許りしか寢なんだけれど、少しの間にグッスリ眠る癖が牢の中で附て居ると見える、最う晝間の疲れも無くなつて居る、再び眠らうとしても眠られぬ、彼れには餘り寢床が柔か過るのだ、十九年の間板の間に寢た者には却て寢心の快く無い所がある、彼れは默然として考へた、無論此家の主人の信切から食物の旨かつた事まで思ひ出したが、其れよりも猶明かに彼れの心に遺つて居るのは六枚の銀の皿である、老女が匆々に之れを仕舞つた樣をも見た、其の仕舞つた處をも知て居る、六枚を殘らずならば捨賣にしても二百 法以上の物は有る、牢の中で十九年稼ぎ溜た工賃よりも一夜の間に二倍の稼が出來るのだ、[※※;彼れ?]は此の樣な事を考へ、胸の中で計算した、初は眞逆に實行しやうとは思はなんだが、考へるに從ひ益々慾が募た、けれど彼れは自分の慾心に抵抗した、容易には決し得なんだ、考へて考へ、竟に一時間を過した、三時の鐘が又聞へた、其の音が彼れの耳に『働くのは今だ』と云ふ樣に聞えた
彼れは靴のまゝ寢て居たが靴を脱いで自分の衣嚢に入れた、荷物の革嚢から鑿の樣な物を取出した、是れは僧正の室と自分の室との、間の戸を開るに用ふる積なんだらう、爾して嚢は背に負ひ、全く立去る用意を定めて寢臺を降りた、先づ忍び足で窓の所ろに行き庭の容子を見ると、薄月の明りに、塀の何の邊が最も乘り越て逃げ去るに都合が好いかとの見當も分る、彼れは再び考へたけれど、最う斯なつては『働く』と云ふより外に思案は出ぬ、ソッと僧正の室の戸の所に進み、耳を澄した、彼方に何の物音も無い、確に主人は眠ッて居る、彼れは先づ戸を推して見た、定し鑿を用ひねば開かぬ程の錠でも卸りて居るかと思たら、意外にも締が無い、戸は推すに従ッて音もせずに開いた、彼れの身は直に僧正の居間に入た
* * * * *
抑も此の戎、瓦戎は何者であるか、彼れは此國の都巴里府より遠くも有らぬブライと云ふ山里の木樵の息子で幼い時に父母を失ひ、近村へ縁附て居る自分の姉の家へ引取られて育てられた、所が姉の夫と云ふが又死で、姉は七人の子供を殘されて寡婦と爲た、子供は上が八歳で、末が當[誤?:十]歳の乳呑であつた、此時、戎。瓦戎は廿五歳、姉の家は貧しいのだから、自分が稼いで姉と七人の子を養はねば成らぬ事に成た、隨分彼れは働いた、日傭にも出れば道普請にも雇はれ、木挽もすれば獵にも出ると云樣な状で、本統に夜の目も寢ぬ程に稼だけれど、悲しい哉資本の無い者には生活を許さぬのが文明と云ふ此恐しい制度である、日一日に彼れ及び姉の一家に貧苦は迫ッた
世の常の男ならば、最早や多少は村の娘達にも彼れ是れ云はれ、苦い間にて又笑ッたり樂んだりする事の有る年頃だのに、彼れには其樣な折が無い、暇が無い、女の愛が何かと云ふ事は彼れも未だ知らぬ所である、其代りに彼れは七人の子を愛せねば成らぬ、實の所能く其子等を愛した、隨分姉が叱る場合などに、影に日向に、庇ひもし氣も附けもした、彼れは陰氣な無口な質では有るけれど、多少は深い愛の心を、持て生れた者と見える
次の年の冬、甚く雪が降り、日傭に雇うて呉れる人も無く、其外の手間仕事も全く絶えて、彼れは一家九人と共に餓ゑ且、凍えねば成らぬ樣な景状には落入た、眞に其日稼ぎの人に、惡い天氣や不景気の續くほど殘酷な者は無い、全く天道が人を殺すのだ、或る夜の事、其村に在る何某と云ふ麪屋の主人が、晝間賣殘ッた麪の片などを片附て居ると、外から窓の硝子を叩き破ッた者がある、主人が驚いて振向くと其の破ッた間から人の片手が出て、臺の上に在る一個の麪を取るより早く逃去ッた
直に主人は飛で出て、追掛けて捕押へたが、泥坊は早や麪を投捨て、何にも持て居ぬけれど、片手に硝子で切つた瘡が有ッて、血が流れて居る、勿論辯解の道は無い、直に警察へ引渡された、是が戎、瓦戎である、彼は七人の子の餓に泣くを見かね聞かね、終に一片の麪を盗む氣に成たのだ、彼れが盗だのだらうか、將た社會が彼れに盗ませたのだらうか、若し彼れにして、麪屋の主人に打明けて麪一個下さいと云たならば必ず呉れる所だッたのだらう、けれど彼れの氣質は其れが出來ぬ、爾う打明ける質で無く又爾う口が輕くなかッた
其が爲に到頭正式の裁判に附せられた、詮議の結果、彼れの家に一挺の獵銃が有ッた、獵銃は有るけれど鑑札が無い、鑑札が無ければ盗獵者である、盗獵する位の奴ならば外にも盗罪の有るはずだと認められた、全體鑑札を持たぬ獵師は世に幾等も有るけれど、盗獵と爲ると甚く上の方から憎まれる、其れに貴族の獵場や山林を荒らすとの懸念のためである、彼れは樣々に辯解したけれど通らぬ、盗んだ麪も直に投捨たけれど、戸締りの有る家へ亂入して盗を働らいたと云ふ箇條に當られた、未遂では無い、既に遂げた上に投捨てたのだ、遂に懲役五年の刑に處せられた
爾して縷繩で巴里に引かれ、他の多くの罪人と共に珠數繋に成つて、馬車の載せられ二十七日の長い道中を經てツーロンの獄に送られた、其あとで姉の一家は何う爲ただらう、其れは能く分らぬけれど、外に何うも成り樣が無い、通例斯る境涯の人達が成る樣に、一家離散して、乞食にもなれば養育院にも入り、尋ねる跡方も無くなつたのだらう、不幸な人を無慈悲に亡ぼすのが社會の仕組であるのだから、尤も母の方は末の乳呑を抱き、巴里に上つて下等な製本屋へ雇はれ、乞食同樣の景状に成つて居るのを見受けた人も有るとの事が、風の便りで獄中の戎、瓦戎に聞えたけれど、其れ切りの事で後は分らぬ、此後にも又と此話の上へは現はれぬ
今でも巴里の牢番を勤めた人で、戎、瓦戎が初めて都へ引れて來た時の状を覺えて居る者が有る、其れは戎の容子が他の囚人と違て居たから特に目に着たのだらう、其人の直話に依ると、五六十人珠數の樣になり、監獄の庭へ並んで腰を掛けさせられた中程に、髪の毛の長く延びた男が、身を悶へて泣て居た『アヽ己は獵師だ、親の代から山の物を採て正直に食て居るのだ、此樣な、重い仕置に遭ふ樣な、惡人では無い』と云ひ、頓て泣き止むと手を差し延べ、宛も背丈の揃ッて居る七人の子供の頭を撫でる樣に段々と其手を低くし、口の中で何やら呟いて居たので、扨は子供に未練が殘つて居るのかと、牢番の慣れた眼には察せられたとの事である
されば戎は入獄の後も、罪に合はせて自分の罰が重過るとの念が絶えず、服役の苦さに付け次第に人を憎み社會を恨む心とは成り、折さへ有れば牢を出やうと企てた、其れが爲に段々刑期が永くなつた、初めは四年目に逃出して二日目に捕へられ、三年の刑期を増されて八年と爲り、其翌年又逃たが今度は捕る時に役人に抵抗したとの罪まで加ッて五年を増され十有三年と爲り、次は十年目に又逃げ掛けて又三年を増された、都合で十六年とは成ッた、十三年目に又 隙が有ッたので最後の逃亡を企てたが、其結果は又三年を附加へられ十九年の刑期と爲るに終ッた、誠に愚な次第では有るが、憤慨が重ッて、終には利害など考へる事の出來ぬ樣な場合の有る捻けた頑な心に成て了たのだ、境遇が人を損ふのだ
兎も角も、餓に迫る子供の爲めに、一片の麪を盗み損ッた罪が本で、十九年の刑に服した
噫無情 : 八 恍として見惚れた
二十七歳から四十六まで、全く人間の盛りである、此の盛りを牢の中で過すとは、其れも大した罪の有る事か、麪一片を盗み損じた罰だとは、眞に無慘の極である、爾して漸くに牢を出れば、家も無い、食も無い、滿十九年の汗脂で稼ぎ溜た金が百 法の餘は有ても、世間の人が相手にして呉れず犬猫よりも劣て居る
此樣な人に、正しく心を持てと云ふは無理だ、彼れ戎、瓦戎は牢の中で既に心が捻けもし曇りもして、深く物の道理などを考へる事が出來なく成ッた、偶には考へもするけれど唯だ恨めしさが先に立ち、人間らしい思案は出ぬ、或時は自分で自分の境涯を夢の樣にも思ひ、亂暴でもすれば夢が破れて自由の身に成られるかと疑ふ事さへ有る、兎も角も自由が得たい、早く牢の外に出度いと、其れ許りを思ふから、逃られる折さへ有れば直に逃る、逃て逃果せられるや否や、又捕まれば前より刑期を延されはせぬや否や、などの事は考へて居られ無い、丁度檻の中に入られた獸の樣な者だ、檻の戸を隙間さへ有れば直に逃る
全く彼の心は獸の樣に、唯だ其時の衝動に從ふのだ、思案でも無い慾でも無い、單に逃げ度いから逃げ、奪ひ度いから奪ふ、深い考慮はして居られぬ、詰り十有九年の殘酷な境涯が人を獸にして了ッた
本來彼は力が強い、四人前の力は確かに有る、取分て背に物を負ふ力などは度々官吏や同囚の者を驚かせた、其上に又身の輕いことが驚く可き程である、牢の中には逃亡の學問が有て、少し刑期の長い囚人は、間がな隙がな之を勉強して居る、彼れは監獄の學校に入り讀書を勉強する外には、常に此の逃亡術を研究した、讀書の方は知識を得て世間の憎さを知り出獄の後に世間へ仇を復するに必要で、逃亡の方は早く其 仇を復す時を得るのに必要だと、此樣に思ふて居る、彼れは牢の中で他の囚人の登り得ぬ壁などに易々と上り、又塀を越え垣を飛ぶなどは最も得意だ、人が梯子を掛けても恐れる樣な高い煉瓦造りでも、彼れは其の隅の角に成て居る所を手足で挾み、巧に這登ッて二階へでも三階へでも、必要に依ては屋根へでも上つて行く、是れが却て彼れの身の仇と爲り、四 度も逃亡を企てゝ五年の刑期を十九年に引延される本とも爲り、又鑑札の表に危險極まる囚人として特に警察への注意を書入られる元とも成ッたのだ
斯くて十九年の刑期が漸く濟んで今度放免せられた時、『汝の身は今日より自由である』と言渡された言葉が、夢か現か分らぬ樣に彼れの耳には響いた、其れから在獄中の工錢を受取るに及び、彼れの腹の中で計算して二百 法の餘に爲て居る事と思ッて居た、所が纔に百 法の餘しか無い、是は多分休の日の分や、種々の費用を差引れた結果で有らうけれど、彼れは爾は思はぬ、確に役人に半分だけ盗まれた者と信じた、是に就けても世の中に憎さが増した
其れから牢を出て此地へまで來ると土木の工事が有たから、彼れは其れに雇はれた、只だ一日だけれど兼ての大力ゆゑ四五人分も働いた、爾して共に働いて居た人足に聞て見ると一日一人の賃錢が卅錢以上だと云ふ事である、牢の中の賃錢に比ると餘ほど割が好いので、彼れ心に喜んで居たが、其の所へ通り掛た警官が彼れの風體を怪み、姓名を取調べた、彼れは正直に答へて黄色い鑑札を示したが、警官は人足頭に何事をか呟いて立去つた、彼れは其翌日解傭せられた、爾して一日分の賃錢を請求すると、たつた十五錢しか渡されぬ、此樣な筈では無いと爭つたが『貴樣には其れで澤山だ』とて相手にせぬ、茲でも彼れは又自分の賃錢を盗まれた樣に感じた
世間は盗みで立て居るのだ、監獄の官吏も盗み、土木の人足頭も盗む、此の盗まれた丈は世間から盗み復すが當然だ、誰も皆盗みをするのに、自分獨り盗みするのが何で惡いと、彼れは其の曇た心の中で此樣に考へた、其れだから親切の限り無く深い僧正の家に寢ても亦銀の皿を盗まうと云ふ氣に成つた
尤も樣々の故障が、心に起らぬでは無かッた、第一は僧正の正直な親切な容子である、十九年絶て起た事の無い氣の毒と云ふ念が起た、斯う親切にして呉れる人へ恩を仇で返しては『濟まぬ』との針で突く樣な感じもした、何故彼の人の言葉が監獄吏の言葉の樣に横柄で無いのだらう、何故アノ顏が人足頭の樣な憎々しい顏で無いのだらうと、其れを聊か殘念にも思ふた、けれど自分で思ひ消した、人の顏附や言葉附を氣にして盗坊が出來る者かと、爾して第二には又も捕はれて再び牢へ引戻されはせぬだらうかと氣遣ッた、此の故障は前の故障よりも烈かッたけれど、ナニ監獄の官吏だッて盗む、人足の頭だつて盗む、との一念が又此故障を掻消した、其が爲に遂に僧正の室に忍入たのは何と云ふ不幸な奴だらう
僧正の室は暗い、彼 戎、瓦戎は盗坊には慣て居ぬ、其實之が眞の初てとも云ふ可きである、彼の皮嚢から取出した鑿の樣な道具とても、盗坊の用意では無い、牢の中で石の細工をするに用ひたのを其のまゝに持て來たのだ、其れは扨置き戸が開いて先づ嬉しやと一歩進む足許に小い臺が有ッた、其れが彼の足に掛つて倒れ、靜な室に異樣の物音を爲した、ピク〳〵して居る彼れの耳には殆ど警鐘を打たれた樣に感じ、身動きも爲し得で其まゝ蹙んだ、最う確に捕はれるのだとの心が一時に湧起り、目の前には十九年の長い苦役が歴々と見える樣に感じたアヽ最う駄目だ、再び牢屋へ引戻されるのだ
後悔など云ふ善念の最う凋び盡して居る彼れだけれど此ときのみは、強い強い後悔の念が出た、何故盗む氣に成たのだらう、何故此 室へ忍び込だゝらう、何故再び捕へられる恐しさを最と能く考へて見なんだらうと、けれど之は少しの間だッた、暫し蹙んで居る中に、誰も目を醒ました容子は無い、室の中は再び靜に成ッた、イヤ此身には猶だ盗運が附て居るのだ
彼れは又忍び足で進んで、爾して僧正の枕許に立ッた、僧正は確に熟睡して居る、其の寢息の平な事は宛も小兒の樣である、僧正の寢臺は窓の下だ、彼れは窓から指す薄明りに、ソッと僧正の顏を眺めた、此とき天にも意あるが如く、空を包んだ村雲が忽ち破れ、冴渡る秋の夜の月が僧正の顏を照した、同じ人間でありながらも監獄吏や人足頭などの顏と、何と云ふ相違だらふ、戎、瓦戎は此樣な顏を見た事が無い、唯だ恍として見惚れて了ッた
噫無情 : 九 恐る可き分岐點
心に何の罪も無い人の安々と眠れる顏ほど清い美しい者は無い、之に對すれば、對する人の心まで自然と清淨に成て來る
戎、瓦戎は僧正の寢顔に見惚れた、眞に何と云ふ穩かな容貌だらう、雪の樣な白髪が廣い額を隱し、童顏とも云ふ可き豐な頬の邊にまで掛ッて居て、顏一面に喜びが滿ちて居る、何の樣な夢を見て居るか知れぬけれど、殆ど人間の顏とは思はれぬ、神の顏である、多分は善を積み徳を重て、多年研き立てた良心の光りが、天國の光りと相映じて、一種の神々しい色を現すのだらう、而し僧正の天國は天に在るのでは無く心の中に在るのだから、内の光りで透通ッて居る樣にも見える、是れが此世の活神と云ふものだ、戎は今 活神の前に立て、其の威光と其の慈悲とに心の底まで浸されて居る樣な者なんだ
彼れは我知らず帽子を脱だ、彼れの額には脂汗が浮て居る、實に大變な違である、一方ならぬ恩を受けて其恩人に仇をしやうと云ふ罪の塊りと、全く惡人を信任して、自分の弟の樣に持做し少しの危險をも感ぜずに氣を安くして眠る人と、全く地獄と極樂との別が只此の咫尺の間に現れて居るのだ、餘りの事に戎は恐れを催した、何で此身に、斯くまで深く氣を許して呉れるだらう、人間 業で出來る事とは思はれぬ
寧そ此寢た人の頭を叩き割うか、其れとも此人の手を戴き平伏して謝罪やうか、戎の心は唯だ一髪に繋れて居る、今ならば何方へ振向く事も出來る、毫厘の差が千里の違を來すと云ふ恐る可き分岐點は茲では有るまいか、窓から差す月の餘光に、煖爐の棚の上に在る十字の像が、宛も兩手を差延べて、一方の平穩を祝し、一方の罪を解宥さんとする樣に見えて居る、戎は決然として又帽子を頭に置いた
再び僧正の顏に振向もせぬ、寢顏などに見惚るゝ自分の愚さに氣が附たのだらう、其まゝ去ッて宵に見た戸棚の所に行き、其戸を開けた、茲にも錠は卸りて居ぬ、爾して延上ッて銀の皿をば、其の入れた籠ぐるみ取出しつ脇に挾み、急いで自分の室に歸つた
室には携へて來た杖を殘してある、之を取るや否や窓を開き、輕く其の外に出て月の明りに皿を檢め、籠を捨てゝ皿だけを背の袋に入れ、宛も荒れた虎の如き、凄まじい勢で塀を乘越え、孰れとも無く逃失せた
* * * * *
翌朝僧正は毎もの如く庭に出て散歩した其の所へ遽だしく來たのが老女である『貴方樣は銀の皿を入れた籠を御存じ有りませんか』僧正は靜に『知つて居る、コレ茲に』とて昨夜 戎、瓦戎の捨て行た籠を取上て示した、老女『アレ籠では有りません、籠の中の銀の皿をですよ』僧正『皿ならば知らぬ』と云ひ、少しも氣に留めぬ體で、籠に敷かれて折れて居た草花を起し初めた、老女は狂亂とも云はまじき程の状で直ぐに馳せて家に入たが、無論 戎、瓦戎の寢た室を見廻つたのだらう、間も無く又馳せて來て『盗まれました、銀の皿を、昨夜の人は早や立ち去つた後ですよ、銀の皿を盗んで行きました』とて虚呂々々と四邊を見廻し『充ア驚いた、塀の彼所を乘越えて逃たのです、足痕も殘て居ます、何と云ふ呆れた遣るでせう、貴方樣の大恩を仇で返して』とて、悔しげに言葉に力を入れた、僧正は又も靜に振向いて『爾う云はずに先づ考へねば――第一 那の皿は此家の物だらうか、今まで私しが惜んで居たのが惡かッた、那れは當然に貧しい人の物である、昨夜の客は確に貧い人だらう』貧い人が持て行くのは當り前だとの意味が現はれて居る、何たる宏量な心だらう、何十年來、僧正の徳に服して一言も批評らしき言葉を吐た事の無い老女だけれど、餘り殘念だ『盗まれたとて私し共は構ひません、お妹御もお構ひは無いのでせう、けれど貴方樣が直にお困り成さるでは有りませんか、今朝は何の器でお汁をお召上りに成りますか』僧正『何か錫の皿でも有るだらう』老女『錫は臭ひます』僧正『では鐵の皿』老女『鐵は味が附ます』僧正『では木の皿』
間も無く僧正は朝餐の卓子に就た、妹御は何にも云はぬ、老女は猶だ口の中で何事をか頻に呟いて居る、僧正は兩人に吊ひ戯むれた『ハヽ此通り麪の片を乳に浸して直に喫れば木の皿さへも要らぬ、今まで氣の附かぬ事であッた』と、老女は腰を卸さぬ、立たまゝ卓子の邊りを前後に歩みつゝ、熟々と嘆嗟した『ホンに先ア、彼の樣な奴の宿を貸し、直に隣室へ寢せて遣て、でも銀の皿だけで濟だのは未しもです、命まで取られなんだのが運が好いのでせう、危い事危い事、思ひ出してもゾッとしますよ』斯くて漸く食事の濟だとき、外から戸を叩く人が在ッた、僧正は少しも躊躇せず、例の通りに『お入り成さい』と答へた
答へに應じて戸は開き、動搖々々と外から四人の人が入て來た、其の三人が一人の男の首筋を押へ、殆ど捻伏る樣にして居る、三人は即ち憲兵である、押へ附けられて居る、一人は誰でも無い戎、瓦戎だ、彼れは早や捕へられたのだ
噫無情 : 十 愚と云はふか、不幸と云はふか
何といふ間違た奴だらう、十九年の苦役が濟んで、今日が唯ッた五日目だのに、早や捕へられる樣な事を仕出來した、再び監獄へ引戻されるに極ッて居る、今度行けば又何の樣な事に成て、何時出られるか分らぬのだ、愚と云はふか不幸と云はふか、全く言はふ樣が無い
憲兵の中の長らしい一人が僧正の前に進み、先づ『閣下よ』と恭々しく呼掛けた、閣下とは尋常の人を呼び言葉では無い、尊敬の極度とも云ふ可きだ、捕へられて居る戎、瓦戎は此語を聞て驚きた、殆ど呆れた樣に顏を上げて呟いた『閣下とは、閣下とは、其では只の牧師さんでは無いのだ』憲兵は叱ッた『黙れ僧正閣下に向ッて』アヽ此人が僧正とは、今が今まで牧師よりも猶ほ下の人と思て居た戎、瓦戎に取ては意外とも何とも譬へ樣が無い、彼れは殆ど消え入る樣に畏縮した
僧正は直に立上つて戎、瓦戎の傍に行き『イヤお前さんか、好い所へ歸て來成さつたよ』と却て嬉しげに聲を掛け、更に『私しは燭臺をも一緒にお前さんへ遣たのに、那れも皿と同じく純銀だから二百 法には成るのだよ、何だつて燭臺を殘して皿ばかり持て行かれた』慈悲が溢れるとは此僧正の此心と此言葉である、戎は目を張開いて僧正の顏を見上げた、其の目附、其の容子は、到底人間の言葉に寫す事は出來ぬ
憲兵は少し張合ひの拔けた體で『イヤ其れでは――閣下よ、此者の申立が事實でせうか、拙官等は途中で此者に逢たのです、此者の走て行く容子が何うも怪く、何だか盗をして逃去る者の如く見えましたから、捕へたのです、爾したら銀の皿を持て居ましたので――』僧正は『分りました』とて笑を浮めつ『私しから貰ッたと云たでせう、其通りです、昨夜一夜の宿を貸して其品を與へたのです、其の言立が怪いから、茲へ詮議に連れて來られたのでせうが、お詮議に及びません』憲兵は顏の長を引延して『ハア、左樣でしたか、爾う云ふ事なら捕縛す可きで有りません直に放ッて遣らねば』僧正『勿論放たねば可ますまい』憲兵は押へ附けて居た戎の首筋を放した、戎は逡巡した
爾して云ふた『アヽ私しを、私しを許して下さるのですか、全くですか』全く夢を見て居る樣な言葉附だ、憲兵『爾さ、罪を犯したで無いから、勝手に立去て好いのだよ』僧正は又 戎に向ひ『アヽ立去るなら昨夜遣た燭臺を持て行くが好い』と云ひつゝ、急ぎて次の室に行き、彼の二個一對を持て來て『サア是もお前さんのだから』と云て差出して渡した、瓦戎は頭から足の先まで震ひつゝ受取ッた、殆ど何を受取るのか自分でも知らぬ程だから、僧正は云ひ足した『サア、機嫌宜うお行で、オヽ我友よ、今度歸て來る時は、何も塀を越るには及ばぬよ、毎でも入口の戸を推せば、錠は卸して無いのだから、總て入口から出入なさい』全く親友を遇するのだ、爾して又憲兵に向ひ『何うも御苦勞樣でした』憲兵は其意を領して立去ッた
瓦戎は燭臺を持たまゝ其 首を垂れたまゝ、身動きをも得さぬ、或は氣絶し相である、既に氣絶して居るのでは有るまいか、僧正は床より降りて彼れの前に立ッた『お前さん決して忘れては可ないよ、此燭臺や銀の皿を資本にして屹度と善人に立返ると私しに約束した事を』戎は其樣な約束をした覺へが無い、自分で忘れたのか知らんと唯だ當惑の體である、僧正は猶も言葉に力を込めて『コレ戎、瓦戎、コレ兄弟、お前さんは最う惡に從ッては成らぬよ、善の人だよ私しが斯うしてお前さんの魂を買取るのだから、ねえ兄弟、今から心を入れ替て、暗い考へや地獄に居る樣な思案を起して居ては可けぬ、明るい正直な人に成ッて能く神樣に縋らねば、好いかえ、分ッたかえ』是が分らずに居られる者か
人事不肖とは此時の戎、瓦戎の状だらう彼れは一言をも發せなんだが、忽然として逃出した
* * * * *
彼れは狂ふ獸の如くである、何處が道、何處が町とも知らぬ、唯早く人家の無い所へ行き度い、早く早くと氣の迫く儘に、曲角へ來ればキッと曲る、後戻をするのも知らぬ、けれど終に野原に出た、爾して彷徨ふで又 彷徨ふた、朝から一粒の食をも喫ぬけれど自分の空腹をも知らぬ、午前から午後に至た、心の中には樣々の感が湧た、或時は花の咲いた秋草の匂ひに、幼い頃、野の遊だ罪の無い状をも思ひ出した、廿年目に判て其樣な思が出たのだ、心の底に其れが微に殘て居たのが不思議であつた、或時は牢の中が却て無事だと思ひ、何故今朝引戻されなんだゝらうとも怪んだ、けれど總て切れ〳〵゛である、紊れ〳〵た心の中に取留ッた考への纒らう筈が無い、或時は自分の身が、自分の身か、人の身か、其れも知らぬ、疲れたのか疲れぬのか、竟に路傍の叢村の陰に腰を卸した、考へるでも無い、身動きもせずに唯だ眼を空に据ゑて幾時をか經た、爾して日は次第に沈で、地面に在る小石の影まで長くなッた頃、孰れよりか可愛い子供の聲で、歌を謠ふて來るのが聞えた
多分は近村の子でゞもあらう、使にでも行た歸りか、手に散ら錢を持ち、嬉しげに其れを投げ上げ、落て來るのを又受けて、手玉の樣に弄んで戎、瓦戎の前まで來た、瓦戎の顏は、先ほどから夕立の空とでも云ふ樣に曇り、陰氣に陰氣にと暗んで居たが彼の子供は茲まで來て其の手玉を取落して謠ッて居た歌は罷んだ、落ちたのは二 法の銀貨で、轉ッて瓦戎の足許に來た、瓦戎は直に足を擧げて踏附け、知らぬ顏で其銀貨を足の下へ隱した、エヽ彼れは又此樣な事をする

