巖窟王(上 その11)
アレクサンドル・デュマ著
黒岩涙香譯
巖窟王 : 一二一 神の言葉
「オヽ兄嫂阿淺も、蛭峰の私生兒辨太郎も、何か意外の災難にでも逢つたのか」と伯爵は靜かに問ふた。
春田路は殆ど泣き聲に爲り「お聞下さい、私は暮内法師に救はれると、直にコルしか[コルシカの誤り]へ立寄りましたが、家は燒けて了ツて焦げた地面のみ殘り、其處へ村人が集まツて、一個の死骸を棺に收めて居るのです、此れが阿淺の死骸です、村人どもは私の顏を見て『お前が一週間早く歸つたならば此樣な事も無かツたらうに』と口々に悔みました、能く聞きますと、辨太郎が他の惡友逹と共に阿淺を縛り、臍繰金を出せと云ひ、樣々に責て責殺し、爾して纔ばかりの品物や有金などを引攫つて、跡へ火を附けて逃亡したと云ふのです、其惡友逹は直に捕はれ、白状して刑に服しましたが、辨太郎だけは其切り何處へ行つたか今以て分らぬのです、私は泣く〳〵阿淺を葬ツて爾して貴方の許へ上ツたのですが、此んな恐ろしい事が又と世に在りませうか、私は思ひました『是れも全く蛭峰を殺した報である、蛭峰の私生兒が父の讐を私の兄嫂に返したのだ』と、ハイ斯う思ひ出してから私は自分の過越し方が恐ろしく、何うしても人間は善で無くては成らぬと感じ、時々心で蛭峰の靈に向ひ謝罪の祈りを捧げて居ました、其れだのに今夜丁度、其の蛭峰を殺した場所へ立歸る事になツたとは能々の事ですよ、或は斯うして私の立つて居る足の下にも、蛭峰の死骸が埋まつて居るかも知れません、オヽ伯爵、早く私を此家から連出して下さい、茲に落着いて居る心は致しません、逃る事の出來るものなら逃て了ひ度いと思ひます」
眞に逃も去らん程の状である、伯爵は少しも騷がぬ「コレ春田路、其れは其方の迷信と云ふものである、能く聞け、此世の事は善も惡も、罪も報も、總て神の配劑に出づるのだ、果して蛭峰は其まゝ死んだか、或は生返て猶だ此世に存へて居るか、其れは分らぬけれど、彼は短劍で刺される丈の罪が有つたので神が其方の手を以て刺させたのだらう、能くは知らぬが蛭峰と云ふ人は仲々の惡人と云ふ事だから、其方に刺された丈で果して罪が亡びたか、イヤ恐らくは未だ亡びまい、亡びぬとすれば、他日又誰かの手を以て更に相當の罰を與へるかも知れぬ、何も其方が彼を恐れ此家を恐れるには及ばぬ事、神は惡は惡を以て打ち、毒を以て毒を攻める、更に彼の辨太郎の如きも、實に珍しい惡人では有るが、必ず神の手で、他の珍しい惡人を懲すが爲に用ひられる時が有らう、今は行方が分らずとも、愈々神が彼を必要とする場合には、彼は何處からか現はれて來るかも知れぬ、此邊の理を能く考へれば別に恐れ戰く事も有るまい、己なども不肖ながら惡を懲して善を勸める神の道具に使はれゝば、其れほど有難い事は無いと信じて居る」
何とやら伯爵の言葉は、神の言葉の樣である、辨太郎の未だ生て居て、今何處かに居る事から、他日何の樣な場合に現はれるかまで知つてゐる樣に聞える、春田路は深く感じて「成ほど私の樣な者でも、蛭峰の惡を罰する道具に使はれたのなら、今更恐ろしくは有ません」と答へた、けれど猶ほ充分には恐れが消えぬ樣である。
伯爵は之より更に此家の總體を見廻して造作や修繕の事に付き春田路に詳しく差し圖を與へた末、エリシー街の本邸へ引上げた、此時は夜の十時過であつた。
* * * *
此日は伯爵が巴里へ着いた第一日で有るのに、朝の十時半から夜の十時後まで、間斷無しに働いて殆ど他人が一週間も掛かる程の仕事をしている、實に驚く可き根氣である、翌日からは何れほどの仕事をするだらう、併し未だ伯爵の此日の用事は之に盡きぬ、本邸へ着くと共に、又も其の造作を見廻つた上、多少の差し圖を發し、更に黒奴 亞黎を呼び「今から一時間の後、此家へ鞆繪姫の着くのは既に知らせて置いたが、姫の居間、寢間ともに己の差圖した通りに出來てゐるのか」と問ひ亞黎が點頭を待ち更に「其れから今まで姫に付いてゐる女中の外に、巴里の女を三人、侍女として雇ふて置く樣に命じたが、其れも好いのか」亞黎は又 點頭いた、伯爵「巴里の女が若しも色々の事を聞きたがり、姫の寢る時間を妨げては成らぬから其樣な事の無い樣に、爾して又希臘から來てゐる女中と巴里の女中と、決して雜談などせぬ樣に總て其方が取締れ」亞黎は一々呑み込んで退いた。
巖窟王 : 一二二 鼻でも切つて
巴里到着の第一日に野西次郎に面會した伯爵は、其第二日には段倉に面會するのである、第三日には多分最一人の敵に逢ふ積りだらう。
先づ逢つて、近附と爲つて置いて、其の上で初めて眞の仕事に取掛かるのだ、能く戰ふ者は先づ敵の陣營を呑込まねば成らぬ。
幸ひ昨日の次郎は、唯だ初對面で心服させた、イヤ實は初對面以前に既に其の息子武之助を山賊の巣窟から救ひ出して、心服を得て置いたのだ、段倉に對しても此通りである、初對面で彼の荒肝を奪はねば成らぬ、實の所、之も既に其れだけの準備を運んで有るのだ。
何の樣な準備かと云へば、外でも無い羅馬の富村銀行から、段倉銀行へ既に巖窟島伯爵の名を通じ、此方が巴里へ行つて貴行と取引を開く上は「無限」の信用を與へて呉れ、其れに對する責任は充分に當行で引受るとの保證状まで正式に送つて有るのだ、段倉に取つて是程驚くべき事件は無い、「無限」に信用せよとは、限り無く貸與へよと云ふ事である、此人の署名に對し幾等の金額でも支拂へと云ふに同じなのだ、今まで廣い取引の上に隨分一個人に對し五十萬圓貸越した事も有る、百萬圓の信用を與へた事も無いでは無い、唯「無限の貸越」「無限の信用」と云ふに至つては例が無いのだ、假にも無限の信用を受けるには無限の財力を持つた人で無くては成らぬ、此伯爵とやらには、果して無限の財力が有るのだらうか、無い者へ眞逆に富村銀行が無限の責任を負ふべくも無い。
全く段倉は不審に思ふて獨りで頭を惱まして居た、凡そ全歐羅巴の中で、百萬圓以上の取引をする人の名は悉く段倉の樣な銀行者には分つて居る、特別に其名簿まで出來て居る程のものだ、然るに巖窟島伯爵の名は其名簿にも無い、唯だ羅馬から歸つた野西武之助の話に何うやら其人の事を聞いた樣では有るが、責任の有る銀行者の噂に曾て其名の上つたのを聞かぬ、何の樣な人だらう、其れとも「無限」と云ふ一語に何か特別の意味でも有るのだらうか、何でも其人が此地へ着けば、直に逢つて直直に問ふて見ねば成らぬと、彼は自分の使つて居る會計長などへも話て居たと云ふ事である。
果して第二日の朝、レイシー街なる伯爵の邸の玄關へ立派な二頭立の馬車が着き、侍者が段倉男爵の名刺を以て伯爵へ面會を申込んだ、玄關蕃は直に斷つた「今日伯爵は御在邸ですけれども誰方にもお目に掛りません」段倉は全く驚いた、段倉の名刺が、在宅の人に拒絶されたのは初めてである、彼は馬車の窓から家の庭などと篤と窺き「ハテな、全く大金持か知らん、己の前へ大急ぎで出て來ぬとは、金を貴いとも思はぬ程の人で無くては成らぬ」不審に堪へぬ顏附で退いたが、其足で直に公證人の許へ寄り、此家が借物では無く、全く伯爵が買入れたものだと聞定め、更に不審を深くして家に歸つた。
伯爵は玄關脇の一室から段倉を窺いて居た、爾して彼が庭などを見廻す顏を見た時は、殆ど蝮蛇をでも見た樣に「オヽ彼の顏だ、彼の顏だ、見る丈でも胸が惡い」と呟いたが其後で直に家扶を呼んだ「これ春田路、其方に巴里第一等の馬を買入れよと命じたのに、己の馬は段倉の馬に及ばぬでは無いか」春田路「ハイ彼の馬は伯樂も話して居ました[、]一萬八千圓も出したとか云ひまして」伯爵「何故彼の馬を買はなんだ」春田路「既に段倉氏の所有に歸して居るものは致し方が有りません」伯爵「爾で無い、銀行家なと云ふ者は、儲けさへ有れば、自分の鼻でも切つて賣る、直ぐにこれから手を廻して彼の馬を買取れ、己は晝から馬車へ彼の馬を着けて外出するから」春田路は恐る〳〵「價は」伯爵「價は元の價を倍にせよ」春田路「三萬六千 法ですか」伯爵「爾だ、其れで可けずば三倍でも四倍でも好い」
金の力は驚く可きで有る、此日の午後伯爵が段倉の家へ出向く刻限には其馬が早伯爵の馬車に着いて玄關に待つて居た、伯爵は愈々出やうとして又春田路を呼び、二つの差圖を與へた、其一は「己の廏に居る殘らずの馬を鞆繪姫の居間の窓の所へ引出し、何れでも姫の氣に入つたのを姫の乘り料として選取らせよ」と云ふので有つた、其二は少し込入つてはゐるが「ノルマンデー海岸ハーブルとプーロンの間で極めて船着の便利な邊に、貴族の住む可き別莊を買入れ、何時でも行かれる樣に、其途中に十里毎に駿馬を配置し、又海の方へは、何時でも出帆の出來る樣に快駛船を艤せて置け」と云ふので有つた[、]巴里に貴族は多しと雖も、遠い自分の別莊へ、常に馬の橋を掛けて置く程の贅澤は企ても得ぬ所だらう、此差圖が濟むと共に伯爵は段倉の邸を差して、馬車を進めた。
巖窟王 : 一二三 其樣な僅な金高
若し世に無限の財産を持つた人が現はれたとすれば、誰でも驚かずには居られぬ、巖窟島伯爵が即ち其人なのだ、伯爵は段倉銀行に對して「無限」の保證状を持つてゐるが上に段倉銀行よりも老舖として知られてゐるラヒツト銀行へ、倫敦の有名なベヤリング銀行から出た同じ保證状、墺太利のエルスタインから世界一の富豪ロスチャイルドの銀行へ宛た同じ保證状を持つて居る。
「無限」の金額ならば一枚で澤山だのに、其れを三枚持つてゐるのは何故だらう、詰り一銀行では到底無限の責任を負切れぬから彿國第一流の三個の銀行を相手としたのだらう、三個の銀行、十個の銀行であツても實は「無限」の責任を負ふ力は無いと云つても好い。
誰でも驚く所だのに、況して金錢の外に貴いものを知らぬ段倉に取つては之ほど驚く可き事は無い、彼は今朝伯爵の家を訪ひ面會を拒絶せられて以來、唯「無限信用」と云ふ「無限」の意味をのみ考へてゐた、其の所へ伯爵の方から尋ねて來たのだ。
伯爵と段倉の對面とは、先づ非常な事である、伯爵の胸の中には定めし熱湯の煮え返る樣に烈しい思が動いて居やうけれど外面だけは何う見ても穩かな初對面である、眞に熱湯の煮え返る樣な場合は、此の後に別にある事と伯爵は期して居るらしい、頓て伯爵が、應接間に通され、壁に在る額を見てゐる所へ段倉は入つて來た、勿論恭しく挨拶して顏を對して着席したが、段倉は何と無く自分の位地が此人より降つてゐると云ふ感じが出た、今までに人に對して其樣な感じを抱いた事無く、毎も人を一呑みにして掛かる癖だけれど此伯爵には、呑み込む事の出來ぬ所があつて反對に自分の身が何だか太陽の前に出た螢火の樣な氣持に堪へぬ、先づ挨拶が濟んだ後で、何と云へば好からうかと、其れさへ思案に餘るうち、伯爵の方から、輕く「無論、富村銀行からの通知は、接手成さツたでせうネ」と問ふた、段倉「ハイ接手は到しましたが、何うも其意味が能く分りませぬので」伯爵「ハテな何處が分りません」段倉「無限の信用と云ふ事が」
伯爵は彼の怪しむのを怪しむ樣に「私は幾等金を使ふか分らぬので、毎も取引銀行から無限の信用を得て置くのが癖ですが」段倉「エ、癖、其れでも銀行の資本には限りが有りまして」伯爵「イヤ無論資本には限りが有りませう、貴方の段倉銀行の資本には限りが有ツても段倉銀行の信用は無限でせう、貴方が自分の信用を以て取引をすれば、幾等までの取引が出來るか、其れは御自身には分りますまい」段倉「其れは爾です」伯爵「ですから、併し貴方の銀行の資力が到底私の無限の信用に應じ得ぬと仰有るならば — 」
一銀行の資力を擧げて、一個人の力に及ばぬ筈のあるもので無い、段倉は我銀行の名譽を疑はれた樣な氣になり、殆ど奮然として「イヤ、私の銀行に其の資力が有るか無いかの問題では有りません、失禮ですが、貴方のお身に — 」伯爵は靜かに笑ひ「サア私の身に無限の信用が置かれるか否やが分らぬから富村銀行が保證状を作ツて居るのでは有りませんか」斯う云はれて返す言葉が無い、「成るほど爾では有りますけれど、大凡の所は何れほどです、成るほど富村銀行の樣な最も確實な銀行の指定ですから、五十萬圓でも、假しんば百萬圓でも貴方のお名前に對して支拂ひは致しますが」伯爵は、今度は聲を放ツて笑ツた「五十萬圓や、百萬圓、其樣な纔な金高の爲に何で無限などと大仰な語を用ひませう、百萬圓ならば私は一寸外出するにも持合せて居ぬ時はありません」とて衣嚢よりラヒツト銀行の五十萬圓の手形二枚を出し、塵紙をでも扱ふ樣に卓子の上に置いた、ラヒツトは段倉が毎も競爭を向ける銀行である「オヽ此銀行とも貴方はお取引がおありですか」伯爵「ハイ、折角巴里へ來ましたから、少しは金を使つて見度いと思ひ、財産の幾分を此巴里へ集める事にしてあります」と、言葉と共に又も二枚の保證状を取出した、段倉は息を吐き得ぬ程の驚き「ヤ、ヤ、私共へ來たのと同じ無限の信用状を、一通はラヒツトへ英國から、一通はロスチャイルドへ墺國から」伯爵「ハイ、未だ土耳古からも、海路府からも同じ樣なのが其れ〴〵の取引銀行へ來る筈です」最早や段倉は何とも云ひ得ぬ、深い、深い、嘆服の息を洩らして伯爵の顏を神の顏かとも仰ぎ見るのである。
巖窟王 : 一二四 美しい栃色
金に向ツて直にお辭宜するのは。金の有餘る富者である、金が無くて困ツて居る人間は、金持ちを見ても容易に平身低頭せぬけれど、金の有る人は自分より上の金持に逢ふ時は、一も二も無く平伏つて了ふ。
段倉は暫し伯爵の顏を神の顏かと眺めた末、がツくり折れて、殆ど詫入る樣な調子と爲つた。
「イヤ伯爵、ロスチャイルドに向ツてさへ是れほどの信用有る貴方が私の銀行をまで取引の中に加へて下さツたのは身に餘つ名譽です、私の信用の有る限りは必ず御用を勤めますから」と云ひ、又も伯爵の保證状を取上げて、墺太利や英國の銀行の署名を一々見直したが、勿論贋物に欺かれる樣な幼稚な眼で無い、何うして本物だと云ふことを見極めたが上にも見極めた「何うか伯爵、如何ほどの大金でも私の銀行からお引出し下さい、ですが先づ差し當りの所は何れほど御入用ですか、凡その所を伺つて置けば幸です」伯爵は却つて冷淡に「ナニ當座の小遣ですから澤山は要りません、今日六百萬圓も戴いて行きませうか」段倉「エ、當座の小遣ひが六百萬圓、何うして爾うお使ひです」伯爵は笑を帶びて「田舎者だから使ひ道は能く知りませんが、成るべく貴方がたに教へて戴き、餘り物笑に成らぬ樣に使ひ度いと思ひます」何たる鷹揚な言分だらう、「イヤ其れは何の樣にお使ひ成さツても物笑ひ[に]なるなどと、其樣な事はありませんが、併し六百萬圓を今日直にでは — 」伯爵「ハイ明日でも宜しい、何うか私の宅へ送附して下さい」段倉「心得ました、金貨ですか紙幣ですか」金貨でも紙幣でもと、其の實同じ事をば宛も別々に二重の融通を與へる力でもあるかの如くに云ふは、成る丈け伯爵に對して自力の金力を大きく見せたい爲でもある。
併し彼は猶だ不審の消えぬ所が有る、伯爵が「何方でも宜しい」と答ふるを待ちて恐る〳〵「ですが伯爵、貴方の如き大金持が今迄巴里の銀行家に知れずに居たのは不思議ですよ、失禮ですが、貴方の重なる財源は、鑛山ですか、海事ですか、其とも — 」伯爵「イヤ相續したのです、竒妙な事情ですが數百年前に取出す事の出來ぬ條件を以て或所へ大金を貯蓄して有ましたが、利に利が加はツて其れが驚く可き額に逹し、爾して私が其れを相續してから此頃に至り初めて使ツて可い期限が來たのです」段倉「成るほど數百年も利を重ねれば驚く可きほど増加しま」伯爵「伊國から東の銀行は大抵私の金で營業して居ます、外に鑛山では阿弗利加の夜光珠も有、船や山林、領地なども多少はありますけれど、三百年來使ふ事を禁じてありましたので、私共は纔に數年前から使ひ初めたのです、其れが爲め此國の人には未だ多くは知られませんが、念の爲めなら、東方は何處の銀行へお尋ね成さツても分ります」勿論尋ねる迄も無い、東方第一流の諸銀行が無限の信用を保證してゐるのだから。
何しろ段倉は、斯る大金滿家と此儘分れるを好まぬ、成る丈懇意を深くして此後の交通を容易ならしめ度いのだから、一應事務の話が濟むと共に、是非妻にも逢つて戴き度いと所望し、此事務所から庭續きに繋がツてゐる住居へ案内し、妻の室へ誘ふた、そも〳〵段倉の妻と云ふは有名な舊家の令孃で十七の年に、一度 糊菅男爵と云ふ人の妻と爲つたが、萬一年ほどにして其人に死に分れ暫く寡婦と爲つて居るうち、恰も先妻を失ふた段倉との間に縁談の事が熟し、雙方とも二度目の婚禮として式を擧げたのである、是れだけの事は段倉が自分の妻の血筋を誇るが爲めに案内する廊下の途中で、問はず語りに伯爵の耳に入れた。斯て伯爵が段倉男爵令夫人の室へ入ると茲には兼て人の口端で此夫人の情人などと云はれてゐる内閣官房長出部嶺が、夫人に向ひ、昨日逢つた巖窟島伯爵の金力勢力などを話てゐる所であつた、勿論夫人は喜んで伯爵を迎へた、爾して所天段倉の口から此伯爵が、少しの間に六百萬圓使ふ積りでゐられると云ふ事など聞いて、一層愛想を深くし、及ぶ限り伯爵を待遇し初めたが、丁度其所へ一人の侍女が急いで來て、夫人の耳へ二言三言 細語いた、夫人は痛く驚いた状で段倉ぬ向ひ「誠でせうか、ねえ貴方」と聞いた、段倉「誠とは何が」夫人「今、侍女の言つた事が」段倉「侍女が何を云つた」夫人「アノ、私の馬車の馬、栃色の一對が急に廏に見え無くなつたと云ひますが」段倉は客の前では言はせ度く無い問題に逢つた樣に「イヤ其事なら今云はずとも後に分るよ」押伏せる口調で云ふた、けれど夫人は躍起となり「其れでは貴方が又何うかしたのですネ、後で分るとて、先刻アノ馬を馬車へ着けたまゝ蛭峰夫人へ貸す約束してあります、後までは待たれません今分らねば」伯爵は腹の中で笑つて居る、それに引替へ段倉は心中必死の苦しみで「イヤ彼の栃色は二頭とも三歳で、揃ひも揃つた暴れ馬だ、女には迚も適當せぬから今朝私が外へ讓ツた」夫人は殆ど目を逆立て「讓るなら何故私へ相談しません、アノ樣な美しい栃色が二度と手に入るものではありません、私は伯爵に裁判して戴きます、ねえ巖窟島伯爵、お聞き下さい」段倉は益々 遽て「コレ初めてお出の伯爵へ、其樣な内所事を」と殆ど妻の口に手を當ぬ許りである、其暇に伯爵は、出部嶺に向ひ「栃色と云へば私も美しい栃色を得ましたが、迚も夫人のには叶ひますまいけれど一應出部嶺さん見て頂きませう、彼方の窓から見えませうから」とて窓の所へ出部嶺を連れて去つたは人の内所事に耳を傾けぬ作法として最も宜しきを得た仕打ちである、後に段倉は小聲になり「コレ妻、實は今朝アノ馬で十六萬 法儲けたよ、八萬 法は和女の小遣に遣る積りで居るのだから何も腹立る事は無い」夫人は流石に貴族の血を承けた人である「だから私は銀行家などは嫌ひだと云ふのです、金の力で妻の機嫌まで買へる樣に思つて居るから」眞に急所を突く言葉である、其 纔に終る所へ出部嶺は驚き歸り「夫人、夫人、眞に竒縁と云ふものですよ、先づ此方へ來て伯爵の馬を御覽成さい」夫人は引かれて窓に行つ[た]が、素より見違へる筈は無い、併し伯爵に對して、最早 斷念めぬ譯には行かぬ「イヤ伯爵、アノ馬が貴方のお手に落たなら、私は滿足します」と泣かぬ許りの笑顏を作つた、後で此笑顏は必ず幾倍の澁面と爲つて所天段倉に向ふに違ひ無い、若し伯爵が段倉の家内の平和を攪亂して彼の幸福を奪ふ目的でもあるのならば、既に此目的の逹する緒口を開いたものと云つて可なりだ、併し此場は何事も無く濟んで凡そ一時間ほどの後、伯爵は何時にても此家へ入り込み得る、許しの客の一人とは成ツて分れ去ツたが、更に一時間を經て、夫人の許へ伯爵から遣ひ物が來た、其は栃色の馬車馬一對今朝 所天が三十二萬圓に賣つたのを其儘である、所天の氣質と伯爵の心持とは實に雲泥の差ひといはねば成らぬ[、] 夫人は轉げるほど喜んですぐに其馬を檢めたが馬の額の飾り物へは、價にして馬の幾倍もする二個一對の夜光珠が入つて居る、「成るほど此伯爵は、少の間に六百萬圓使ふ方ですよ、貴方は此伯爵に賤しまれたら大變ですよ」と嚴重に所天へ言ひ渡した。
巖窟王 : 一二五 大手腕
昨日の唯一度の訪問で、子爵野西次郎の家へ、何時でも入込まれる「許しの客」と爲り、今日も唯一度の訪問で段倉家の「許しの客」と爲つた、誠に巖窟島伯爵の手際は人間業とも思はれぬ程であるが、實は限り無い金力と限り無き苦心との結果たるの外ならぬ、彼の美しい栃色の馬車馬に夜光珠の飾物を添へて返した事なども、唯だ馬鹿げた贅澤とのみ見ゆるけれど、實は何の樣な深い九品が籠つて居るかも知れぬ。
此翌日の夕方である、伯爵は彼のオーチウルなる吹上小路の別莊に行き、人待顏に時をのみ眺めて居たが頓て黒奴 亞黎を呼び「其方は阿弗利加で虎狩、獅子狩までもして長い罠を、走つて居る獸の足へ投掛るに妙を得て居ると云ふが、氣が狂ツて無暗に走つて居る馬をも同じ手段で引留る事が出來るのか」亞黎は肩を聳やかして「馬などは相手にも足りません」と云ふ如き身振を示した、伯爵「其れでは其方に、確と言附ける事が有る、今から此家の門へ出て見張つて居よ、間も無く巴里の方から二頭の馬が馬車を引き狂氣の樣に走つて來るから其馬を罠で以て即座に引留て呉れ、馬は昨朝 己が馬車に着けた、アノ栃色の一對だから、見違ひの無い樣に」
亞黎は嬉しげに衣嚢を叩き「茲に繩が入つて居ます」との意を示して門口に出た、實に彼に取つては此 繩が唯一の護身である、勿論初めての此國へ來たに就ては肌身離さず持つて居たのだ、斯て彼が凡そ半時間も待ち、聊か待兼て煙草を燻らせ初めた頃、遙か離れた所より婦人の泣叫ぶ聲と共に荒々しい馬蹄の音が聞え、常に靜かな町の状が急に騷々しくなツた、騷々しいのは「あれよ、あれよ」と遽てゝ逃惑ふ往來の人の聲で、泣叫ぶのは、馬車の中の婦人が助けを呼ぶのである。
眞に驀らとは此事だらう、栃色の駿馬二匹、身に車の着いて居る事をも忘れた状で、風を捲いて駈けて來る、必死に之を引留やうとする御者の手綱は早や切れて、御者其人は何處かで既に投落されたものと見え、御者臺が空である、中なる婦人は八九歳の男の兒を確と抱いて、馬車の天井に着いたり地に着いたり宛で搗き廻される樣に箱の中で躍ツて居る、是れほどの難儀、是れほどの危險が又と有らうか、若し此馬が向ふに見ゆる道の曲り角へ行けば馬車は必ず粉微塵になる、中の人は何の樣な大怪我をする事やら、思ひ遣るさへ恐ろしい。
道往く人の中には、何うか遮り留る工風は無いかと空しく氣を揉む人も初めは有ツたが、今は皆絶望して、唯だ喘ぎ喘ぎに馬車の後を追ふのみである、此樣を間近く見た黒奴 亞黎は、口に啣へた卷煙草を投捨てると見る間に早や投罠を取出して身構へた、此時遲く彼時早しである、馬が我前に來ると共に飄と投掛た手練は過たぬ、其身より向ふ側なる馬の前足を斜に縛ツて手前の馬の後足を餘れる繩に遮つて又躓かせた、爾して其身は力足らずして引倒され凡そ十間も大地を引摺られたけれど繩を放さぬ、引かるゝに從ツて益々 緊る罠の力に、先の馬は終に倒れ、手前の馬は之に邪魔せられて足を留た、後より追ふて來る氣を揉む人の口々から「〆めた、〆めた」との喝采が町中に響き渡ツた。
馬車の中なる婦人と子供は氣絶した儘で伯爵の手に抱卸され、別莊の玄關脇に在る一室へ横たへられた、併し婦人は直に目を開き「アヽ有難い、今の黒奴は何處の人です、何處の人です、全く私どもの命の親 — 」伯爵は傷はツて「イヤ少しも黒奴にお謝し成さる所は有ません、彼は私の奴隸です」婦人の心中には恐れと安心とが猶だ鬪ふて居る「本統に恐かツた、イヽエ最う懲り〳〵致しましたよ、段倉男爵の家の栃色が餘り名高いものだから、何の樣な歩み振か乘つて見たいと思ひ、私は夫人張子さんに請ふて借受け、町々を乘廻して居ました處、公園の角で、何か物にでも怯えたか急に走り初めまして」伯爵は驚いた状で「オヽ段倉家の栃色ですか、其れでは私が此災難の元を作つた樣なものです、實は昨朝、其れとも知らずに栃色を買入れまして、午後に及んで段倉男爵夫人の祕藏の馬だツたと分りましたので、直に返上致しましたが、若し其の時に返上さへせねば貴方を此樣な事にお逢はせ申さずに濟む所でしたのに」婦人は此の言葉を聞いて跳起きた、「オヽ其の話しは昨夜も今朝も張子さんに聞きました、其れでは貴方がアノ巖窟島伯爵とやらで居らツしやいますか」伯爵「ハイ巖窟島友久です」婦人は眞實の有難さを感じた容子で、「貴方に斯う救はれたのは私の名譽です、此のお禮は私の所天、大檢事蛭峰重輔から申させます、重輔が必ずお邸へ上る事に致します」
扨は馬港の檢事補であツた蛭峰重輔、ヴエンデタの爲に春田路に殺されたと見えた蛭峰重輔、猶ほ活て今は巴里の大檢事に成つて居るのだ、大檢事といへば殆ど人を生殺する國家の權利を托された樣な者、次郎や段倉に比べて決して劣る出世では無い、彼が此の樣に出世したとは讀者の、初めて知る所だけれど巖窟島伯爵に取つては勿論初めてでは無い、十年來彼の所行は、次郎段倉の所行と共に殆ど伯爵の目を離れなかつたのだ、昨日伯爵が、栃色を段倉夫人に返したなども、實は夫人の言葉の中に其馬を蛭峰夫人に借すとの一語があツた爲めである、今更ではないけれど、少しの機會をも取逃がさずに、總ての事を偶然の如く仕向けて往く大手腕は、此一事にも現はれて居る。
巖窟王 : 一二六 其んな恐しい毒藥が
親として子を忘れる筈は無いが、蛭峰夫人は非常な危險を救はれた嬉しさと、伯爵の親切を有難く思ふ心との爲に、須臾、ホンの須臾だけれど、愛兒の事を忘れた状で有ツた。
愛兒は氣絶したのか、閉ぢた目を未だ開かぬ「オヽ、何か藥を、イヤ水でも」と突然に夫人は叫んだ、伯爵「イヤ少しも驚き成さる事は有りません、最も適當な蘇生藥が有りますから」とて直に藥籠の如き箱を持つて來て開いた、中には四五個の瓶に、樣々の色の藥液が見えて居る。
伯爵は其の中の一を取り、唯だ一滴水に滴らして、兒の口に注いだが、全く效驗は神の如しだ、兒は直に目を開いた、夫人「何處か打ちはせなんだか、痛くは無いか」兒は平氣である「何處も打ちはしませんよ」と云ひつゝ、早手を差延べ、伯爵の持つて來た藥籠に手を掛けて「綺麗な色のお藥が澤山有りますねえ」とて其の中の一瓶を取出さうとするは餘ほど惡戲な質と見える。
伯爵は今までの總ての落着いた擧動に似ず殆ど顏色の變るほど遽てゝ「オヽ其の藥籠に手を着けては可ません、中には恐る可き毒藥なども入つて居ます、單に香氣が洩れる丈でも人の命に障る程のも有りますから」と云ひ藥籠に蓋をしつゝ、眼の角の方から密に夫人の顏を眺めた、知らず之は何の爲であらう。
何の爲だか、兎に角此夫人は毒藥と云ふ事に冷淡では無いと見える、香だけでも人を殺すと云つた伯爵の一語を確に耳に挾んだ、爾して何氣無き語調で「エ其の樣な恐ろしい毒藥が世に在りますか」伯爵「有ます、人を殺して何の痕跡も殘さぬなど、實に毒藥は樣々です」場合に不似合な問題であるけれど、夫人は之を不似合とは思はぬか猶も問を重ねて「貴方は餘ほど毒藥などの事にお詳しいと見えますね」伯爵「ハイ化學と藥學、殊に毒藥學の如くは最も私の深く極めた所です、但し毒藥を用ふる事は恐れますが、其れでも研究を初めると其れから其れと分ツて來て、實に止められぬ程の面白みがあるのです」
夫人は猶も耳を傾けた、けれど伯爵は此上毒藥の事など話す可き場合で無いと氣が附いた容子で忽ち語を轉じ「此お兒樣は — 」と問ひ掛けた、夫人「ハイ是れは蛭峰と私の間に出來た一人兒で名を重吉と申します、尤も蛭峰には先妻に生れた女の兒があり一緒に家に居ますけれど、何うしても腹の違ふ丈け、私を母とは思ふて呉れません」餘計な事まで述べ立てるた多分我家に對して不平のある爲なんだらう、伯爵は重吉頭を撫で「好いお兒だ歳は幾つ」重吉「十一に成つたんだよ」年に合せては發逹が遲い、漸く九歳位にしか見えぬ、母の身に取つては發逹の遲いだけ猶更可愛く思はれるであらう、伯爵「餘ほど賢さうなお生れ附です」母御「ハイ馬鹿では無い樣ですが何分にも惡戲で困ります」重吉は早飽きたと見え「阿母さん歸らうよ、歸らうよ」と母の膝を突初めた。
母御は甚く伯爵の人と爲りに感じたと見え未だ仲々歸り度く無い状である、併し伯爵の方で最早切り上げ時と思つたから「イヤ直にお送り申します、幸ひにもお馬車も馬も無事ですから」夫人は全く栃色に懲りて居て「イエ、無事でも彼の馬には」伯爵「ナニ大丈夫です、私の黒奴が御せば猫の樣に優しくなります」と云ひ早速 亞黎を呼び栃色を馬車に附け直して玄關の前に連來らせたが、何の樣な術のあるものか、眞に猫よりも從順に成り、鞭を當てゝさへ驚く容子が無い、伯爵は説明する樣に「是れは或る藥液を馬に飮ませた結果です、お宅まで行つて水を與へれば直に藥力が醒めて元の通りの氣質になります」夫人は初めて安心して之に乘つたが、愈々馬が歩み出す前に、伯爵へ重ねて云ふた「お禮には必ず夫重輔を伺はせます、貴方の常のお住居は何方ですか」伯爵「イヤ故々お出で下さツては痛み入りますが、私の常の住居は之に在ります」とて、エリシー街の番地を記した名刺一葉を夫人に渡した、是れで伯爵が蛭峰との面會の道も開けた、而かも其れが伯爵の巴里へ着いて唯だ三日目だとは實に驚く可き急速の進歩ではあるまいか。
巖窟王 : 一二七 世界の人
巖窟島伯爵が蛭峰夫人と其子重吉とを助けた事は、巴里中の大評判となつた。
勿論馬車の馬が物に驚いて狂奔する例しは幾等も有る、けれど突然黒奴が手に投罠を以て現はれ、阿弗利加の内地で獅子を獵る樣な手際を以て其の荒れ馬を引留るなどの例しは多くは無い、況して其黒奴は、既に交際場の一部分を驚かせた巖窟島伯爵の奴隸であつて、狂奔した其馬は第一流の銀行家の持物、助けられた其人は朝廷からも民間からも一方ならず尊敬せられてゐる大檢事の妻子である、眞に三拍子も四拍子も揃つた程の椿事だもの、到る所の評判と爲らずに止む筈が無い。
直に蛭峰夫人から段倉夫人へ委細の事を認めた手紙が來た、中には伯爵をば親子の命の親と記し、此後何うか屡伯爵にお目に掛る事の出來る樣に取計らひ呉れなどの依頼をも書添へてある、爾して此手紙は丁度官房長出部嶺や新聞記者猛田猛の來合せてゐる時に段倉夫人の許に屆いたので、此二人の口と筆から益々交際場裡にも新聞社會にも廣がつた。
此翌日である、大檢事蛭峰重輔は妻と子の助けられた禮の爲に、故々エリシー街なる伯爵の邸を尋ねた、抑も此人は職業が職業だけに、餘り素性の知れぬ人に交はらず、少しも犯罪などには關係の無いと見極めの附く朝廷の人や、貴族や、其他尊敬の高い人のみに限つて友として居るので、此人から訪問せらるるは、立派な鑑定状を着けられる樣なものである、其れを思へば伯爵も餘程有難く感ぜねば成らぬ筈だが而し伯爵は、其れよりも、此人に逢ふ道の意外に早く開けたのを喜ぶだらう、此人が取次の者に案内せあつれ、客間に入つて來た時、伯爵は其の片隅に地圖を開いて調べてゐたが、此人の足音と共に立ち、何氣なく迎へた、けれど其の何氣なく迎へるにも餘ほど自分の心を押沈めての上であつたらしい。
言葉は先づ蛭峰の口から出た、初對面の挨拶、今日の來意、爾して妻子の助けられたことを謝する旨など、凡て眞情を吐露するには餘り綺麗過ぎる語句であつた、けれど、其れでも其の綺麗過る語句の中に、交り氣の無い眞實の情が見えた、誰とて自分の妻、自分の子の命を救ふて呉れた人に、眞實の有難さを感ぜぬ譯には行かぬ、是等の言葉の續く間、伯爵は異樣に蛭峰の顏を眺めて居たが、頓て椅子を差出し、打解けた體度を以て對座した。
蛭峰は別に之と云ふ話の種も無いけれど云ふて直に辭し去る譯にも行かぬ、其れに多少は此伯爵の身分をも探り度い氣が有ると見え、何か話の緒口はと室中を見廻した末、伯爵の調べ掛けた地圖に目を留め「貴方は地理の學問に趣味をお持ち成さると見えますね」と問ひ初めた、伯爵も此人と分れ度くは無い、後々の戰ひの爲に一應の瀬踏は仕て置かねば成らぬ「ハイ私は何の學問にも相當の面白さを感じますが、併し地理に關係の無い學問は餘り有るまいと思ひます、譬へば貴方のお職務と爲さる法律の事なども — 」と水を向けた、蛭峰「オヤ貴方は法律の事までも」伯爵「ハイ勿論貴方の樣に深く究めては居ませずとても、其代り廣く渉つて居る事は多くの人に讓らぬと思ひます、殊に刑法の事に至ツては古書に隱見する神祕時代の事柄から、埃及、阿拉伯、印度、支那、日本等の法律まで調べましたが、詰る所、法律の根本は復讐から來て居ます、目を抉られたら目を抉り返せ、齒を折られたら齒を折り返せと云ふのが第一主義だらうと思ひます」妙に熱心を込めて云ふた。
餘り場合に似合しからぬ言葉だけれど、蛭峰は自分が法律家で、何の場合にも法律を思ひ出す人だけに、爾うは感ぜぬ、却つて當り前の事の樣に思ひ「イヤ、其樣な簡單なものならば法學者は頭が白髮に成る程心配も無いのです、復讐主義は昔の事で今は社會の安寧です、社會の安寧が法律の主眼です」親切に諭す樣な口調である、伯爵は笑を浮べ、「成るほど社會とか國家とか云ふ事も聞きますが、其れは貴方がたや又一般の世人の如く、社會の中、國家の中に住んで居る人の事です、私の如く、國家の外に住む者には國家と云ふ事は有りません」何たる大膽な言葉だらう、蛭峰は目を剥いた「エ、エ、國家の外とは」伯爵「ハイ、國家とは廣い世界を、窮屈に區別して茲から茲までが我國、何處から何處までが他の國と、無理に地球を小さく割ツた話でせう、其れだから己は彿國人だ、己は英國人だと、其れ其れ自分の分限を定めて居ます、私には其の樣な限りが無いのです、私は彿國人でも英國人でも、又米國人でも有りません、土耳古の人は私を土耳古人と思ひ、阿拉伯人は私を阿拉伯人と思ひ、私の使ツて居る黒奴は私をヌビヤ人と思ひ、家扶春田路は私を伊國の人だと思つて居ます、何故ならば私は地球に生れて地球を我郷里とする世界の人です、國の人では有りません、何の國の事でも一樣に知つて居ます、少しも限りが無いのです、遊ぶ區域にも、働く事柄にも、持つて居る財産にも、使ふ金にも決して際限を見ぬのです」
極めて不自然な事だけれど、極めて自然に云ふのだから、驚かぬ譯には行かぬ、蛭峰は歎息して「成ほど」と云ひ暫し考へ「イヤ、貴方の財産には限りが無いと段倉氏から聞きましたが、財産に限りが無ければ自然國家の區域なども忘れ、世界中何處でも自分の家と思ふ樣にも成りませうねえ、シテ見ると貴方にも最一つの限りが無い事が有ります、其れは安樂と云ふ事です、全く貴方は無限の安樂を得てゐます」伯爵は訝かる樣に「エ、安樂、貴方は私は仕事の無い人間とお思ひですか」鋭い程に問返した。
巖窟王 : 一二八 神の法律
「私は仕事の無い人間とお思ひですか」と鋭い程に問返した伯爵の言葉に、蛭峰は又驚いて「仕事が有つては貴方の樣に世界中を我家とし我郷里とし、行き度い所へ行つて仕度い事をするなどと其の樣な行ひは出來ぬ筈です」
伯爵は打笑ツた「仕事が有るから爾するのです、仕事が無ければ世界中を飛び廻るに及びません、其れこそ極安樂に、世間で云ふ貴族の樣に、唯 懶惰て日を送るのです、斯う貴方とお話してゐる中にも、私は我仕事の必要の爲に、直に世界の果へまで旅立せねば成らぬ樣な事が有るかも知れません」蛭峰「ハテ其の仕事とは何の樣な種類ですか」伯爵「云ふたとて分らぬ人には矢張り分らず、又私を信ぜぬ人は嘘としか思ひません、併し貴方は、法律を扱ふ方だけに分りませうが、私の職務も矢張り法律を扱ふに在るのです」蛭峰「エ、法律を」伯爵「ソレお驚き成さるでせう、けれど私の法律は貴方の法律と違ひます、貴方のは彿國と云ふ狹い國家の法律、私のは世界と云ふ廣い人類一般の法律、即ち先刻申した、目には目を報いよ齒には齒を報いよとの極めて公平な主義なんです」蛭峰「エ、公平、其の樣な主義を貴方は公平と云ふますか」伯爵「ハイ、少くとも之が人道です、神の法律です」
蛭峰は初めて少し笑を浮べ「成るほど神の法律、其法律は何に現はれて居るのですか」伯爵「何にとて、彿國の法律が拿翁律の文字に現はれて居る如く、誰にも讀める樣には現はれて居ないのです、現はれて居ないからこと神の法律です」蛭峰「成るほど其れは分らぬ人には幾等云ふても分らぬ筈です」伯爵「分らぬとて神の法律は無いとは云はれません、貴方は空氣が目に見えぬからとて空氣は無いと云ひますか、引力でも目には見えぬが其の嚴重な事は驚くべき程です、此樣な具合ひに、人間の行ひを賞罰する神の規則も見えぬ所に存して居るのです」蛭峰は聊か悟ツた風で「成るほど爾う仰有れば幾等か合點も行きますが、併し神の法律は神が行ひませう」貴方の樣な人間の仕事で有りますまいとの意を暗に含んで居る[、] 伯爵「ハイ、神が直接に行ふか、又は特別に人を選び其人に行はせるかの二つです、天に口無し人をして言はしむるではありませんか、天に手無し人をして行はしむるのです」
「成る程」と蛭峰は再び云ふた[、]爾して又、「爾すれば、此の人間の中に天の手、天の口として神に選ばれた人があると云ふのですネ」伯爵「爾ですとも、單に俗人の間に身を置き、俗人にのみ接して居ては分りませんが、一段 眼を高く注ぎ、國家などと云ふ詰らぬ區別を離れて逹觀する日には、何處に天意神意があツて、誰が之に選ばれて居るのか自ら分ります」蛭峰は異樣に深く感じた所があると見える、「イヤ、此樣な高尚な議論は初めて聞きました」
彼が如き法律一方の人間に斯る言葉に感心する筈は無さ相に思はれる、けれども其の實、心の底に暗い所のある人ほど弱い者は無い、其の暗い所が、恐れの蟠まツて居る所で、自分では恐れる積りが無くとも實は恐れて居ると云ふ樣な場合が多い、彼が異樣に感じた所のあるも或は斯る道理の爲ではあるまいか「私共には、誰が天意の行ふに選ばれて居るのか少しも分りませんから若し其樣な人に接する場合には、己が其人であるぞと先づ警報を與へて貰ひ度いと思ひます、爾うせぬと天の代理に向ひ何の樣な失禮をするかも知れませぬから」と之は聊か又笑ひを帶びて云ふた、伯爵「貴方は既に其警報に接して居るでは有りませんか」蛭峰「エツ」伯爵「今現に其警報に接して居るでは有りませんか、未だ御合點が行かぬなら私は茲で更ためて警報を發しませう、貴方は今 恰も天の代理に選ばれた人と對話して居るのです」
「エヽエ」と彼は驚き叫び「では貴方が天に代つて天の法律を行ふ人だと云ふのですか」伯爵「其の通りです、天が私を天の法律を行ふ者に選んだで無くば、何故私に限り無い財産を與へませう、何故私を國家より以上に置き、世界中を我家とする事の出來る身分にして呉れたのでせう、國家の主人は國王とか皇帝とか云ふ者でせう、けれど國王の領分には限りが有ります、譬へば彿國の國王ならば自分の法律を伊國へ行ふ事は出來ません、私は爾で無く、自分の領分に限りが無く、何の國の人をでも自分の法律に從はせ、善を賞し惡を罰する事が出來るのです、是が即ち神の法律を行ふて居る證據です[、] 神の法律の外に世界を悉く支配する法律が有りますか、私の外に其の法律と一致して何處へでも賞罰を下す力の有る人が有りますか」
殆ど神の言葉かと聞えるほど嚴かに云ふた、蛭峰は開いた口の塞がらぬ程であつたが漸くに「イヤ其れは危險と云ふものです私共が國家の法律を行ふに、數十萬の人を使ひ數百萬の金を使ひ、爾して綿密に取調べますけれど、其れでも時々裁判の間違ひと云ふ事が有ります、貴方は唯つた一人で、世界中の人を賞罰するなど、何うして爾う悉く此人は善、此人は惡と、見分ける事が出來ますか」伯爵「其れだから神の力だと云ふのです、神が分らせて呉れるのです、イヤ分る丈の力を私へ賜はツて居るのです、私が此國へ來たのは初めてゞ、今日が四日目で有りますけれど、既に知らねば成らぬ丈の人の事は悉く知つて居ます、國家の力で調べる事の出來る事まで私は調べて居ます、之が人間の力でせうか、又之を反對の方から見れば、斯うまで人の事を知る此の私の身の上は何人にも知られて居ぬのです、先刻も云ふ通り佛國人は申すに及ばず何の國の人とても私の身分を知る事は出來ません、神が私へ此通り人間には知る事の出來ぬ樣な深い身分を與へたのです、神が特別に與へたので無く、此樣な無限の金力を以て人からは少しも知られて居ぬ人間が出來ませうか、私の身分は全世界の政府が悉く連合して五年十年詮議したとて知る事は出來ぬのです」
成ほど只の人間では無い、眞逆に神に選ばれたと見えぬにしても、何だか人間以上の樣に聞える所も無いでは無いと、蛭峰は何だか五里霧中へ引込まれる樣な氣になつた。
巖窟王 : 一二九 一種の宣告
頻に神の法律を説く伯爵の言葉は實に蛭峰重輔に向ツて其れと無く言渡す一種の宣告である「我は天の手と爲り天の口と爲り今より汝の罪惡を罰するぞ」と暗に告げ知らせて置くのである。
蛭峰は爾と察する筈は無い、唯此伯爵の言葉も思想も勢力も人間界に絶する程ほど[注:ほどは不用か?]高く秀でてゐるに驚き、又其の素性、其の身分まで何と無く神の眞體の知り難きと相似るに驚き、思はず恐れと敬ひの念を生じ、若しも此世に、眞實神の代理として天から選ばれる人が有るなら成るほど此樣な人だらうかと思ふ迄に至ツた。
「けれど伯爵」と彼は恭しげに言掛た、伯爵との尊稱を彼が此人の向つて吐くのは初めてゞある「幾等貴方の金力や勢力智力などが無限にしても貴方の壽命には限りが有ります、限りある壽命を以て、限り無い天の裁判を何うして行ふ事が出來ますか」伯爵「イヤ限り無い天の裁判を悉く私が行ふと云ふのでは有りません、私が托されてゐるのは其の上の僅な一部分です」蛭峰「成程、併し一部分にしても人は老小不定です、貴方が先刻 何時用事の都合で世界の果へ立つて行かねば成らぬと仰有ツた通り、何時健康が損じて、働きの出來ぬ人と爲るかも知れません」伯爵「其れは無論です、併し私は確信します、天が私へ其れ丈の仕事を任せ、從ツて仕事相應の金力や身分を與へて下さツたのですから又仕事相應の健康と壽命とをも賜はツて有るに相違ないのです、今まで樣々の事を試みて私の健康が人に優り、充分天の意を行ふに堪へる事も分つて居ます、兎に角天は、私に、命じた丈の仕事を仕果せしめる迄は私の壽命を奪ひません、私の死ぬるのは必ず其の仕事が終つた後です」
蛭峰は最早異論を立てる餘地も無い爲暫し默然として考へたが、頓て又思ひ出した事が有る「今より數十年前の事ですが、丁度貴方と同じく、天から大任を授かつたと自信して、天の裁判を人間に行ふのだと揚言して居た人が有りました、一時は成るほど天の代理かとも思はれる樣に種々の仕事を初めましたが、其の成就せぬうちに、恐ろしいほど健康を奪はれて全くの廢疾と爲り今の猶ほ、手も足も動かぬ儘に唯命だけ存へて居るのです、其の人と貴方とを同一視するのではありませんけれど — 」伯爵「其れは誰です」蛭峰「私の父野々内です、今より二三十年前の、革命の頃を知つて居る人で、誰とて野々内彈正の名を知らぬ者はありますまい」
伯爵も其の野々内の名を覺えて居る、昔團友太郎が拿翁黨のベルトラヌ將軍から托された密書が即ち野々内へ屆けるべきものであツたのだ「オヽ其の野々内と云ふ名高い方が今は」蛭峰「ハイ十年ほど前に急激な中風症に襲はれ、手も足も口も利けず、體中で唯動く所は眼だけです、其後は引續いて、私の宅に寢て、私の今の妻や先妻の長女華子等に介抱を受けて居ますが、何うして此人が昔飛ぶ鳥を落す勢のあツた野々内だらうと怪しまれる許りです、何うか貴方も一日私の家に御出の上、野々内の容體を御覽下さい、天の命を受けたと自信して居た頃の面影は有りません」伯爵は最と眞面目に、殆ど堅く約束する樣に「ハイ是非伺ひます、併し蛭峰さん、未だ貴方は天の命を信ずる事が出來ぬと見えます、野々内氏が其樣に成つたのも必ず何か天意に出た事でせう、身體の働かぬ儘で居ても他日或は身體の動く人の爲し得ない樣な事をするかも知れません、健康の人よりも却つて不健康な人が天のお役に立つ事もあり、生て果し得ぬ天意を死んで果すと云ふ事もあります、兎に角私は遠からず野々内氏にお目に掛らせて戴きます」
話しは殆ど是れに盡きたが、果して我父野々内の如き廢疾の人が天の役に立つと云ふ事があるだらうかと、蛭峰は深く疑ひ、後に至ツて思ひ當る場合のあるまで信ずる事が出來なんだ。
併し蛭峰は、此伯爵を、何しろ人に秀た一種の異物として尊敬の念を起して分れ去ツた、其の後で伯爵は發と息して呟いた「アヽ是れで、次郎、段倉、蛭峰の三人に逢つた、三人共に不思議なほど出世して餘ほどの勢力を得て居ると云ふのも矢張天意のある所が分る、己の仕事は益々困難であるのだから、益々奮發せねば成らぬが、斯う惡人にのみ逢つては自分の心が怒りにのみ懲り過ぎて、公平な考へは出ぬ、暫し清い愛らしい状を見て、心を洗ひ清めねば、オヽそれにしては、是から鞆繪姫に逢ひ、次にはメズレー街七番館と聞いた森江眞太郎の一家を訪ふとしやう、此樣な人々と少しの間でも交はれば惡人から移された厭な臭氣が脱けて生れ代ツた心地になれる」呟き終つて春田路を呼び、馬車の用意を命じて置いて其間に二階なる鞆繪姫の室へ上ツて行つた、鞆繪姫とは伯爵が土耳古の後宮へ賣込まれる女奴隸の中から買取ツて其の後絶えず連れて居る彼の希臘風の美人である事は既に分ツて居る所であるが、唯だ此樣な女奴隸が、何の樣に伯爵の身に必要であるかは知り得ぬ所である。
巖窟王 : 一三〇 鞆繪
人間既に四十の聲を聞いて、妻も無く兒も無く、心を打明けて語り合ふ相手の無いのは決して幸福と云ふものでは無い、巖窟島伯爵の如きが即ち其れなのだ。
全く限り無き富と勢力とを以て、思ふ事意の如く成らぬは無しとは云へ、妻も無いのだ、唯だ一念、天の命を果すと云ふに懲り固まツて居るが爲に、一切妻も兒も慾しいと思はず、總て人間の情を打捨てた状態では有るけれど、生れ附いての木石では無い、元はと云へば人一倍多情多恨、愛も有り涙も有る眞の優しい氣質にて生れたけれど唯だ惡人の巧に罹り、人生の又と有り得ぬ悲慘の底に陷入つた爲め、自分で務めて一切の人情を捨て、傍目も振らぬ機械の樣な身には成つたのだ。
其の人情の無い所に、却つて深さの知れぬ程の人情が潛んで居る、雨の夕、風の晨、仕事の絶えて獨り物思ひに沈む時などは、潛める愛、潛める情の、溢るゝ許りに沸き起りて、最ど其の身と其の無限の富との果敢なさを感ずることの無いものか、我富は誰の爲ぞ、我が復讐は誰の爲ぞ、縱し何も彼にも思ふ通りに運んだとして、其の時に我が爲に喜んで呉れる人は何處に在る、誰に襃められ誰に喜ばるゝや、思へば餘りに張合の無い仕事では無いか、嗚呼世界を動かすほどの大機械も油を以て滑かにせねば熱の爲に燃え盡すのである、絶大の大英雄とても何の所にか、一點 情を以て柔げる所が無くて濟まふか、今伯爵が大なり仕事の間に、鞆繪姫を訪ひ又恩人森江良造の息子眞太郎の一家を訪ふと云ふのも此樣な爲では有るまいか、餘熱を拔き、心を靜かにして我身が我が仕事の爲に燒盡さるゝを防ぐ爲ではあるまいか。
兎に角も伯爵は二階に上ツた、茲は伯爵に家の内で最も神聖な所と云ふ可きである、室中の飾立ては女王を棲ましむかと疑はるゝ許りに、贅澤の極度を示してある、其の取附けの一室には巴里生拔の女中三人、鞆繪姫の腰元として控へて居る、其次に室は廊下を隔てゝ、之には希臘の女中が控へて居る、此女中が直々に姫の機嫌を伺つて巴里の女中に差圖するので、巴里の女中は直接に姫のお傍に行くことは出來ぬのだ、女は奴隸と云ふ賤しい名を以て斯まで厚く取扱はるゝ鞆繪姫は抑も何者であらう。
先づ伯爵は巴里の女中に向ひ「一時間ほど姫に逢ひ度いが、姫の都合を伺ツて呉れ」と請ふた、爾うして次の間より迎へに來た希臘女中の後に附き、姫の居間の入口まで進むと、中から足音を聞いて間の埀幕を開き、美しい顏を出したは、曾て野西武之助に、羅馬の劇場の棧敷で見られた彼の美人である、年は十七八か、顏は憂はしい色は見えるけれど、土耳古皇帝が絶世の美玉とで無くば取替へぬと云はれたのも尤もである、美玉は二個あらうとも此の清い顏は人間に又と無い、之れが鞆繪姫の顏である。
姫は伯爵を、情人として迎へるのか、兎も角も恐ろしい人とは思はぬと見え、伯爵の手に縋り「君主が女奴隸の許へ來るのに都合を伺ふに及びませうか」と詰る樣に云ふも優しい、伯爵は縋れる手を靜かに拂ひ、殆ど恭しい程の身振で姫を座に着かせ、其身も坐して「イヤ姫よ、此の佛國へ來た上は最う奴隸と云ふ事は有りません、御身は今から自由の身です」自由と云ふ語ほど奴隸に取つて嬉しい言葉は無い、孰れの奴隸も、唯だ自由を、自由をと、夢にまで見て居るのだけれど姫は唯怪しむのみで喜ぶ色は無い「エヽ自由、獨りで身を支えへる事さへ知らぬ私に、自由が何に成ませう」伯爵「イヤ、身を支へる心配は有ません、御身の自由の財産として、先刻銀行へ毎月相應の利子の有るだけの額を御身の名で預けて置きました、最う隨意に其金を引出して隨意に何處ででも行く事が出來るのです」姫は金の有難ささへも知らぬ、却つて顏を赤くして兩眼に涙を浮べ「私をお捨て成さるのでは有りますまいネ」幾分の恨みと心配を帶て問ふ樣は傷はしいほどに見える、伯爵「何う致しまして」姫「隨意にとて、私獨りで何處へ行かれません、幼い頃は父の顏と、今まで貴方のお顏とより外、男の顏を見た事も無い私が、貴方のお傍を離れては — 」伯爵「イヤ何も離れねば成らぬ譯では無いのです、唯だ此國では奴隸と云ふ事が禁ぜられて居ますから、奴隸で無いだけの備へを附けたのです、今までの通り私の手許に居るのも、立去るのも、出るのも入るのも總て御身の隨意だと唯だ其れだけをお知らせ申すのです」姫「隨意ならば今まで通りに仕て戴きます、奴隸で無くても、父母を失ふた上は貴方のお傍を離れては鞆繪の行く所が有りません」眞に憐れむ可き状である。
伯爵は飽くまで眞面目である「ハイ奴隸の實を解き捨て爾して今までの通りで居る事は素より私の本望です、けれど唯一つ貴女へのお願ひは此後、誰に逢ふとも決して御身の父母の名を知らさぬ樣に」姫「ハイ其れは貴方が仰有らずとも」伯爵「土耳古を引受て義戰した一國の君主の姫君が、時世時節とは云へ奴隸商人の手に掛り私の如きに救はれるとは」言掛けて伯爵の目には涙の露が輝いた、姫「貴方に救はれたればこそ斯うして何不自由も無く暮されるのです、貴方の恩には此身を碎いてもと思ひます」云ひつゝ再び伯爵の手を取つて朱い唇を之れに當てた、伯爵は此状に、深く心を掻亂されたと見え、今までの眞面目な態度を支へる力が無い「オヽ、憐れむ可き者よ」と云ひ姫の肩に手を添へた、素より情人の仲では無い、けれど他人としては又眞情の深過る程にも見える。
全く伯爵と鞆繪姫との間は、情人かと思はれるほど互に眞情の深いことは分ツて居る、併し爾る關係の無いことも亦分ツて居る、爾ればとて君主と奴隸との間柄でも勿論無い、何の爲に、何の樣に結ばツて居るかは後に至らねば分らぬだらう。
巖窟王 : 一三一 此財布が忘れられやうか
是より凡そ半時間ほども伯爵は姫の傍に居て、巴里の風俗や芝居の事などを話したが、其れが爲に自分の心も大に柔いだと見える、姫に分れて茲を立去る時は、先刻蛭峰に分れて茲へ入つて來た時より顏も最と柔和に見受けらた。
顏のみでは無く、心も餘ほど柔いだと見えて頓て二階を下り玄關に出て、先刻命じて置いた馬車に乘りつゝも「アゝ少しでも惡人等の事を忘れて居るほど心地の好いものは無い、此上森江眞太郎にも逢ひ又彼の妹夫婦の睦じい状を見れば氣が清々するだらう、今では森江の此の一家を我が骨肉と愛する外には、親しむ可き家は無いのだ」と呟いた、其中に馬車はメズレー街に着いたが、如何にも中央市街の雜踏を離れ、清い家庭の有り相な所である、殊に七番街は隣に草木の茂ツた廣い荒地が有ツて、靜かな中にも亦靜かである。
暫し伯爵は、青く常緑樹の被さツた入口に、懷かしげに佇んだ上、やをら其中に入ツた、出迎へたは昔 馬港で森江家の衰微の極に逹した頃、會計にまで登された小使木暮傳助と云ふ者である、彼は伯爵の家を見詰めたけれど、最早取る年と共に目も衰へた事と云ひ、勿論其頃の富村銀行の代理人と似て居るなどと思ふ筈は無い、伯爵は益々昔ゆかしい思ひしつゝ我が名札を差出す折しも、彼の荒地の方から、森江眞太郎が飛んで來て「オゝ珍しく馬車の音が聞えたから何方かと思へば伯爵貴方で有ましたか、御來訪下さるとは望外の幸です、サア何うか妹緑にも其夫江馬仁吉にもお逢ひ下さい」とて、顏に嬉しさを溢らせて迎へる樣は、名譽ある軍人と云ふよりも猶ほ單純な少年と云ふ可きである。
伯爵は此言葉に、成るほど其妹が緑孃と呼ばれた事をも思ひ出し、又此の眞太郎にも最早然る可き妻が無くてはなど我子を思ふ樣な事を思ひ、返事の言葉も容易には口に出ぬ、眞太郎「眞に伯爵、高貴な貴方をお迎へ申す樣な住居では有ませんが、其れでも妹夫婦は此家を極樂園の樣に思ふて居ます、其れに過日貴方の事を私より話しました所、富村銀行を知つて居る方なら、其れだけの爲にも是非お目に掛り度いものだなと夫婦共々に申して居ますから、お出と聞けば何れほど喜ぶか知れません」云ひつゝ庭を奧へ奧へと案内した。
間も無く但ある木の影に、白い女の服のチラリと見ゆるに、眞太郎は目を留て「アア妹が彼處に兒供を遊ばして居ますよ」と云ひ「緑、緑」と呼立て更に「先日話した巖窟島伯爵がお出で下さツた」と知らせた、當年の緑孃、今は早兩手に引いて居る男女兩兒の母と爲り、兄眞太郎より却つて年上かとも見えるけれど、浮世の濁りに染まぬ清い心は依然として其面に現はれて居る、今兄の呼んだ聲に、何氣なく木の此方に現はれたが、更に伯爵の來臨と聞きて、顏を赤くし「アレ兄さん、其樣な方のお出なら、一寸知らせて下されば、此樣な失禮な衣服を改めて來てお目に掛りますものを」恨んでも間には合はぬ、伯爵は早や進む寄り「イヤ其樣な御心配は却て困ります、何うか他人とせずに心置きなくお附合を」緑孃の江馬夫人は兒供二人を背後に居た女中に渡して「幸ひにも仁吉も家に居りますから、何うか座敷へ、イゝエお噂は兄から伺ひまして、是非とも富村銀行の事なども伺ひ度いと一同が申して居ますから」此家へ入つて早や二度まで富村銀行の事を聞くとは、一家の人々が如何に恩を感ずるに深いかゞ分つて居る、間も無く座敷へ通されて、第一に伯爵の目に着いたのは、煖爐の上の棚に、唯だ一個の飾物として載せてある古い紅革の財布と之れに結び附けた一粒の大い夜光珠である、此財布が見忘れられやうか、昔船主森江氏が團友太郎の父の室に置き、其後船乘新八が之に夜光珠を添へ緑孃の婚資として記して返した其の品である。
巖窟王 : 一三二 柳田卿とは誰
此の財布と此の夜光珠が、昔の儘に保存せられ而も斯く客間の棚の上に大事に置かれてあることゝは、伯爵の思ひ設けぬ所であらう、伯爵は我知らず眼を光らせ「オヤ那れは」と叫び掛けたが忽ち氣が付いて言葉を轉じ「仲々立派な夜光珠ですねえ」と言ひ紛らせた。
けれど江馬夫人は此言葉を聞流さぬ、直に其の尾に付き「餘り類の無い置物ゆゑ何方も怪しみますけれど、私共は朝夕此置物を拜まぬ許りにして居ます、先日から夫仁吉と共々に、貴方へお目に掛り度いと申して居ますのも、矢張り此置物に關係の有る事柄です」と云ふ中にも仁吉が來た、爾うして伯爵へ一通りの挨拶も濟んだ上で夫婦言葉を揃へて此置物の由來から、森江一家が富村銀行の書記と稱する英國人らしい旅商人から救はれた最と不思議の顛末を殘らず述べた、伯爵は聞くに從ひ、世には斯まで深く恩に感ずる正直な人も有るものかと一方ならず感心して殆ど夢中の状と爲り、時々 眼の底に涙を輝かす迄に至ツたが、頓て夫人が語を次で「今から五年ほど前ですが、昔其の巴丸に乘込んで居た水夫の頭、奈良垣と云ふ者が確に其の人を希臘の海岸で見た相です」と云ふに至り、伯爵は全く話に釣込まれて「ハテ希臘の海岸で」夫人「ハイ其の人が立派な遊山船へ乘込む所だツたと申します」伯爵は又我知らず「アア那の時なら」と口走ツた。
直に又氣が付いたけれど既に遲い、夫人は早や聞咎めて「何うも先程から、貴方が其方を知つて居らつしやるに違ひ無いと思ひますが」仁吉も爾思つたと見え「私も貴方の御容子で矢張り爾う思ひます」眞太郎も亦語を添へ「伯爵、貴方は希臘や伊國邊の事は能く御存じで、特に遊山船にでも乘る樣な人なら貴方のお知合で無い方は餘り有るまいと思ひます、若し何か其人らしく思はれるお心當りでも有れば、何うかお知らせを願ひます」三方から斯う言はれては何とか辨解せぬ譯に行かぬ「イヤ少しも心當りは有りませんが — 」夫人「でも今、那の時ならと仰有つたお言葉では」伯爵は萬止むを得ぬ場合に迫つた「實は英國の柳田卿と言ふが其の頃確か希臘邊で遊山船を乘廻して居ましたから」と答へた。
「柳田卿とは何の樣な方です」「何處に居られます」「其の後どう成さツたでせう」との問ひが三方から出た、眞に柳田卿とは何者だらう、確團友太郎が初めてモンテ、クリスト島から此國へ歸る時など柳田卿と言ふ人の名前に依り、船籍の登録や其の他の公の書類など作つた事が有ツた。
伯爵「イヤ、何の樣な人かと、人に問はれるを甚く厭ふ人で、常に誰にも隱れる樣にして居ますゆゑ尋ねる見當も私には附きませんが、若し其人が其の恩人なら、必ず何か森江家へ、爾するだけの義務でも有ツた爲でせう」眞太郎「イヽエ、其の時は森江家が、今妹の申した通り衰微の極點で少しでも義務の有る人には、悉く其義務を果させた後ですから、其樣な人の有る筈は有りません」伯爵「でも其人が若し貴方がたから恩を返して貰ふ氣があるなら、今までに現はれて來る筈です、多分其の人は自分のせねば成らぬだけの事をしたので、恩を掛たとは思はせずに居るのでせう、假しや恩とした所で若も貴方がたが此樣にまで有難がツて居ると知れば其の人も必ず滿足して其恩を返して貰ふに及ばぬと言ふでせう、詮索などせずに自然に任せて置くが好いでは有りませんか」夫人「イヽエ詮索せずには居られません、父良造の死ぬる時まで此事を氣に掛けて、是だけの大恩は到底 復す事が出來ぬけれど切ては其人の名だけも知り、孫子の末まで恩人として家に記録を殘さねば成らぬと云ひました」伯爵「でも全く心當りの無い事は如何とも仕方が無いでせう」夫人「ハイ其れは爾ですけれど、少しも心當りの無い人が其の樣な、世間にも例の無い程の親切を盡して呉れる筈も有りませず、父も絶間無く誰か彼かと考へて居りましたが、死際には、アヽ確に彼だ彼が何うかして牢の中から、生れ替はツて出て來たのだ、彼より外に、此樣な事をして呉れる者は無いと言ひました、ねえ兄さん」眞太郎「爾さ、爾して私が、父の耳に口を寄せ、彼とは誰ですかと聞きましたら、其時は最う口も利けませんでしたが、暫くして『團――友太郎――』と呟いて息を引取ました、是れが父の最期の言葉でした」伯爵「オヽ父上が臨終に、團友太郎と言ひましたか」伯爵の目からハラ〳〵と涙が出た。
(上卷終り)
Youtube モンテ・クリスト伯(巌窟王)43 朗読

