南総里見八犬伝(023)

南總里見八犬傳第三輯卷之一第二十二回
東都 曲亭主人 編次
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濱路竊はまぢひそか親族しんぞくいた
糠助病ぬかすけやみ其子そのこおも

【挿絵説明】「豐嶋としま一族いちぞく管領家くわんれいけ三將さんせう池袋いけふくろたゝかふ」「煉馬平左衞門倍盛」「植杉刑部」「千葉ノ介より胤」
岩波文庫「南総里見八犬伝」(二)より

 再說大塚蟇六さてもおほつかひきろくは、信乃しのむかへとりてより、女房にようばう龜篠共侶かめさゝもろともに、いと愛々あい〳〵しく管待もてなすものから、只外聞たゞぐわいぶんを飾るのみ、こゝろにやいばぐ事多かり。そをいかにぞとたづぬれば、蟇六既に里人等さとひとらあざむきて、番作田ばんさくた橫領わうれうし、これはしも信乃が爲に、一毫いちがうも用ひざれども、いまだ村雨むらさめ大刀たちとらず。「これを手に入れてのち彼少年かのせうねん結果おしかたつけん。さるときは寶刀みたちによりて、わが身いよ〳〵發跡なりいづべく、又濱路には佳壻招よきむことりて、わが身ます〳〵老樂おいらくなるべし。しかはあれども、おもふに信乃が面魂つらたましひ凡庸よのつねわらべならぬに、はやりて事を爲損しそんぜば、毛をふききずを求め、はて原價もとねにしかたからん。只眞たゞまめやか款待もてなして、由斷ゆだんさするにますことなし」、と腹裡はらのうち深念しあんしつ、龜篠にのみ機密をつげて、斯謀かうはかるにぞありける。かゝれば信乃があやうきこと、石の下に生成うみな雞卵たまごたきゝ巢籠すこも雛禽ひなとりことならねども、親の先見遺訓せんけんいくんあり、くはうるに才器勇悍さいきゆうかん牛若うしわかをもあざむくべく、正行まさつらにもおとらざる、稀有けうの少年なりければ、そのぜうをよく知りて、片晌かたときも心をゆるさず、舊宅もとのいへにありし日より、伯母をばの宿所に移りし日より、くだん寶刀みたちは腰に離さず、るときはかたへにとりき、すときはまくらによせて、まもる事等閑なほざりならねば、偸ぬすひとひまあることなし。主客しゆかくいきほひかくの如くにして、一とせあまり送りつゝ、奸智かんちたけたる蟇六なれども、「なまじいに手をかけて、見咎みとがめられなば年來としごろ日ごろ、心盡こゝろつくしもあはきえて、わがうへならん」、とあやぶ*む程に、ぬすむこゝろの稍懈やゝおこたりて、今茲ことし又思ふやう、「村雨むらさめ大刀たち、手にいるとも、信乃が安穩あんおんでこゝにをらば、それを管領家くわんれいけまゐらするによしなし。よしや彼寶刀かのみたち、今わがものにならずとも、ぬしも物もこゝにあり。わが物にあらずとも、わがいへにあるなれば、つひにはわがものとなるべし。只管ひたすらこゝろはやればこそ、その謀施はかりことほどこしかたく、よろづ不便ふべんにして、なか〳〵にあやうし。女兒むすめ濱路は尙稚なほをさなきに、今よりして十年待とゝせまつとも、そのことの遲きにあらず。遠くはかれば長く利あり。短慮たんりよは功をなしかたし」、とやうやくに思ひかへしつ、龜篠かめさゝにも、そのこゝろを得させて、しばらぬすむの手をおさめ、たゞをり〳〵額藏がくざうに、信乃が意中ゐちうさぐらすれども、これはた便りを得たるにもあらず。さればまた、額藏は、くだんの事を、主夫婦あるじふうふとはるゝごとに、うヘには信乃をそしれども、害になるべき事をばいはず、そのとはれし事、こたへしよしを、ひそかつげざることのなければ、信乃はます〳〵由斷ゆだんせず、これもうへには伯母をばを慕ひて、小厮こものにひとしく使つかはれけり。

 かくて二氣荏苒くわういんじんぜんして、春と明け、秋と暮れ、流るゝ月日によどみなければ、文明ぶんめいもはや九年になりつ。この年信乃は十八歲、濱路は二ッ劣りにて、二八にはちの春を迎へしかば、花然はなもえんとして、月の前にかうばしく、柳翠やなぎみどりをまして、かすみひまそよぐに似たり。彼は奇才きさい弱冠わかうどなり、これ嬋娟せんけんたる少女をとめなり。そのその色、ひなにはまれ也。このをとこにしてこのつまあらんは、まこと天緣てんえんなるべしとて、里人さとびとこれをほめざるものなく、莊官夫婦せうくわんふうふを見るごとに、そのこんいんを催促す。蟇六ひきろくも龜篠も、かねていひつる事あれば、この返答に迷惑して、苦心こゝに再發さいはつし、ひそかに信乃を結果おしかたつけん、とこゝろ急ぎのせらるれども、十一二歲の時だにも、はかりかたき才子さいしなるに、今ははや丈をとこになりて、身長みのたけさく八九すん膂力ちからも定めて强かるべし。「二葉ふたはにしてつまざれば、つひをのもちふるとぞいふなる。はやくうしなふべかりしに、くやしき事をしてけり」、とほぞかめどもその甲斐なく「とやせまし、かくやせまし」、と案じわづらひたりける折、鄰鄕忽地騷動りんごうたちまちそうどうして、不慮ふりよの合戰起りにけり。

 緣故ことのもとたづぬるに、こゝ武藏國豐嶋郡豐嶋むさしのくにとしまのこふりとしま領主れうしゆに、豐嶋勘解由左衞門尉としまかげゆさゑもんのぜう平信盛たひらののぶもりといふ武士ありけり。させる大名たいめうならざれども、志しむら、十でふ尾久おく神宮かにはなンど、數鄕すうごう管領くわんれうし、そのおとゝ煉馬平左衞門倍盛ねりまのへいざゑもんますもりは、則煉馬すなはちねりまたちにあり。この餘、平塚圓塚ひらつかまるつかの一族まんゑんして、さかえめでたき舊家きうかなり。信盛兄弟、そのはじめは、兩管領りやうくわんれいに從ひしに、聊怨いさゝかうらむるよしありて、つひ胡越こゑつの思ひをなせり。しかるにこのころ、管領山內家やまのうちけの老臣、長尾判官平景春ながをのはふくわんたひらのかげはる越後上野兩國ゑちごかうつけりやうこく伐靡きりなびけて、既に自立じりうこゝろざしあり。よりて豐嶋としまを相かたらふに、信盛立地たちところ一味いちみ同意して、いよゝ管領に從はず。さる程に、山內扇谷やまのうちあふきがやつの兩管領、しのび〳〵に軍議をらし、敵の威勢徵いきほひびなるうちに、まづはや豐嶋をうたんとて、文明九年、四月うつき十三日、巨田備中介持資おほたびつちうのすけもちすけ植杉刑部少輔うへすぎぎやうぶのせうゆう千葉介自胤等ちばのすけよりたねらを大將にて、軍勢凡ぐんせいおよそ一千餘騎、不意におこり犇々ひし〳〵と、池袋いけふくろまで推寄おしよせたり。豐嶋がたには由斷ゆだんして、敵すべしとは思ひかけねど、一族いづれも近きにれば、鎧投被よろひなげかけ、馬騎走うまのりはしらし、彼此をちこちより集會つどゐしかば、摠大將さうたいせう信盛の一陣に、煉馬平塚圓塚の、軍兵合ぐんひやうあはせて三百餘騎、江古田えこた池袋に馳向はせむかひて、ときどつとあはせつゝ、征箭そやかくる程こそあれ、兩軍入紊いりみだれ、遣違やりちがへ、うつうたれつ、火花ひはなをちらして、半日あまりたゝかふたり。豐嶋は小勢こせいなりけれども、初度しよどの戰ひに、千葉植杉を殺崩きりくづして、しきりかつに乘るものから、事不用意にして、腰兵粮こしひやうらうたづさえず、士卒漸々しだい飢渴きかつつかれて、引退ひきしりぞかんとする程に、寄手よせての大將備中介持資、ざいうちふりて味方をはげまし、短兵たんへいきう攻立せめたつれば、豐嶋がた辭易へきゑきして、うたるゝものその數をしらず。千葉植杉等、これに氣を得て、魚鱗ぎよりんに備へ、十文字じうもんじに駈かけちらし、息をつかせずもふだりければ、豐嶋の士卒は算をみだして、悉砍伏ことことくきりふせられ、あまさへ信盛倍盛も、亂軍のうちうたれにけり。あはれむべし、豐嶋煉馬の兩大將、一朝いつちやううらみによりて、强弱の勢ひをはからず、一族郞黨いちぞくらうどうかずつくして、舊家忽きうかたちまちほろびにけり。

 これによりて世閒且よのなかしばらしづかならず、菅菰大塚すがもおほつかの里までも人のこゝろのおだやかならねば、又只またたゞ蟇六龜篠等ひきろくかめさゝらは、これを幸ひの事に思ひて、「かくては子どもの婚こんいんも、今茲ことしは整ひかたかるべし。明年めうねん波風おさまらば、かならず濱路をめあはして、信乃に村長むらおさゆづらん」とて、里人等さとひとらにもよしをつげ且一界まづいつかいのがれたり。

 さればまた蟇六が養女濱路は、八九歲やつこゝのつころよりして、二親ふたおやの口づから、「信乃はをとこよ。つまよし、といひはやしたる言葉の露を、實事まことうけ海士あまむ、なまこゝろつきしより、よにはづかはしくよろこばしく、それとはなしにその人に、物いはるゝも樂しくて、心にしめて仕へたり。しかるも彼二親かのふたおやは、やしなむすめといふよしを、濱路にはつげもしらせず、只生育たゞうみの子のごとくすなれど、ひそかつぐるものありて、まことの親は煉馬ねりまの家臣、某なにがしといふものにて、はらからもあるよしを、濱路がほのか傳聞つたへきゝしは、年十二三のころなるべし。「これにて思ひあはすれば、現在の親達が、人にはめづるごとく見すれど、口と心は表裏うらうへにて、かたへに人のなき折は、さもなき事を罵辱のりはづかしめ、さすると見せて撮縮つめること、をさなきときは、しば〳〵なりき。そのはぐゝみの恩、淺きにあらねど、現生げになさぬ親子ばかり、いとも悲しきものはなし。そもそもわがまことの親は、煉馬殿ねりまとのの家臣にて、なによばるゝ人やらん。又同胞はらからもありといふなる、わが爲には兄欤弟欤あにかおとゝか、姉なるべきいもとさへ、ありやなしや」、と人傳ひとつてに、とふよしたえて淚のそでを、親には見せず親をおもふ、こゝろ筑紫つくしはてならぬ、故鄕こけうは三里に足らずと聞く。しかはあれどもわが爲には、鞍馬くらま九折つゞらをりならで、近くて遠き物思ひ、春のまうけ牽出ひきいだす、馬の背で來る土蘿蔔つちおほね、煉馬と聞けば戀しきに、思ひかけなき憂ひをまして、今茲ことし煉馬家滅亡し、一族豐嶋平塚はさら也、從類士卒大じゆうるいしそつおほかたならず、うたれたり、と聞えしかば、濱路は哀しさやるかたなく、「さあらんにはわがまことの、親胞兄弟はらからのがれ給はじ。なほ母うへのまします婦女子をなこは助けらるゝ共、よるべなくこそをはすめれ。こゝろ得かたし、やし親達おやたち吾儕わなみ實父母じつふぼあるよしを、白地いさゝめつげ給ふとも、襁褓むつきうちよりやしなはれし、恩愛をあだにやはすべき。しらざりし日は是非もなし。親胞兄弟はらからのあるよしを、ほのかきゝつゝ名もしらず、その陣沒うちしにあとをしも、弔ふことならぬは身ひとつに、かゝ過世すくせの惡報あくほうか。さてなにとせん」、とばかりに、啼音憚なくねはゞか白晝ひる草蟲むしかこつや袖の露乾つゆほして、泣㒵なきがほ人に見られじ、となほす化粧けはひ朝霜あさしもの、とけおつるは淚也。

南総里見八犬伝現代語訳サイト(第二十二回)

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