テキストの快楽(011)その3

◎シュテイフター作 小島貞介訳「湖畔の処女・水晶」


[編者注記]
 シュテイフター(1805-1868)(Wikipedia)は、オーストリアの作家。
 小島貞介(1907-1946)(Wikipedia)は、戦前のドイツ文学者。敗戦後シベリア抑留中に栄養失調により38歳で死去した。彼も戦争犠牲者の一人と言えよう。

シュテイフテル(Adalbert Stifter, 1805-1868年)著,小島貞介(1907-1946年)譯「湖畔の處女・水晶」。
底本:ロマンチック叢書7「湖畔の處女・水晶」,青磁社, 昭和二十三年一月二十一日印刷,昭和二十三年一月二十五日發行,昭和二十四年七月三十日再版發行。
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湖畔の處女・水晶

シュテイフテル 原著

小島貞介 譯

目次

* 湖畔の處女
* 一 森の城
* 二 森の移動
* 三 森の家
* 四 森の湖
* 五 森の草地
* 六 森の巖
* 七 森の廢墟
* 水晶
* あとがき
湖畔の處女・水晶:湖畔の處女・一 森の城

小國オーストリアの北境三十哩にも渡つて森林がその薄色の帶を西へと曵いてゐる。 それはタイア川の水源地に起つてボヘミアの國土がオーストリアとバヴァリアに境を接するあの境界結節點にまで及ぶ。 昔この地點に、礦物結晶結成の際の針状體樣に、巨大な尾根又尾根の一群が衝突して屈強な山巓を盛り上げた。 この山嶺は三つの國土から遙かの彼方にその水色の森をのぞかせ、波打つ丘陵地と水量豐かな溪流とを四方に送り出す。 巓はこの種の山形によく見る樣に山脈の走路を阻み、かうして山脈はここから北に折れて數日の行程に渡つて連つてゐる。

廢絶した入江にも似たこの森林彎曲の地點こそここに語らうとする物語の舞臺である。 親愛なる讀者を直接事件の人物に招ずる前に、 先づ彼等が生活し活躍した右の幽麗な森林彎曲地帶中の二つの地點を手短かに紹介してみることにする。 神々の惠みを得て彼の地をさまようたその日以來私の胸に宿るあの物狂ほしくも麗しい溪谷の風景をばせめて千が一だけ描き得ればと思ふのみえある。 私逹は逍遙の途次天がすべての人に必ず一度は而も多くは一つの相として贈る彼の二重の夢、 青春の夢と初戀の夢とを、かの地に於いて夢みた。 それは一日ひとひ幾千の心の中より一の心を選み出でて未來永劫に私逹の所有ものとし又唯一のもの最も麗しいものとして魂の底深く刻むものであり、 更にその心が逍遙さまようた山野を眼前に髣髴として永遠に消ゆる事のない花園とそてふかくも又あたたかい不可思議の想像の扉へと投げかけるものである。
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テキストの快楽(011)その2

◎ シェイクスピア・坪内逍遥訳「リア王」(03)

リヤ王:第一幕 第三場 オルバニーの公爵館

ゴナリルと其家扶オズワルドが出る。王リヤは王位を婿二夫婦に讓って、自分は二百人の侍士を從へて、 最初に先づ長女ゴナリルのやしきに同棲することにし、毎日のやうに出獵し、 贅澤と我儘の限りを盡すので、不孝者のゴナリルは忽ち其本性を現はして、冷遇しはじめる。

ゴナリ
 ぢゃ、阿呆をしかったのが不埒だといって、吾邸うち侍士さむらひを御打擲なすったの?
オズワ
 はい、さやうでございます。
ゴナリ
 毎日毎晩わたしをば困らせてばッかり。始終何かしら怖ろしい惡いことをなさるので、 やしき中が引ッ繰返るやうな騷ぎです。もう忍耐がまんしますまい。 お附きの侍士さむらひどもは亂暴になるし、 御自身はまた些細な事をもとに口ぎたなくおっしゃるし。かりからお歸りになっても、 わたしァ御挨拶しますまい。病氣だとお言ひ。お前も、今までとは違ひ、 ずっと無奉公にしむけたがいゝよ。其責任はわたしが負ひますから。

奧にて角笛の聲が聞える。

オズワ
 お歸館かへりでございます。喇叭が聞えまする。
ゴナリ
 面倒がってわざとうッ棄っておくといふ樣子をしておいで、おまひも、他の者も。 如何どうしたのかと(不審がって)れおっしゃるやうにしたいの。 お氣に染まなけりゃ、妹の處へいらっしゃるがいゝのさ、彼女あれの心も、 壓制させちゃおかないといふ點だけは、わたしと一致してゐます。役に立たずの老爺ぢいさん! 一旦讓っておきながら、いつまでも權力を振廻さうとするんだもの! ほんとに耄けると赤兒あかんぼもどるんだから、 機嫌ばかり取ってると、増長して、しやうがない、時々叱りつけなくッちゃ不可いけません。 今言ひつけたことを忘れまいよ。
オズワ
 かしこまりました。
ゴナリ
 お附きの侍士さむらひ共に對しても、おまひがた一同、冷淡な顏をしてゐるがいゝ。 如何どんなことが出來しようと、かまひません。同僚へさう指圖なさい。 わたしはそれをしほにしようかと思ひます、是非、言ってのけるために。 妹へ直ぐに手紙をやって、わたしと同じ手段を取らせませう。食事の準備したくをしておゝき。

二人とも入る。

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テキストの快楽(013)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(005)

        第一編 明治以前

  第一章 唯物論への道を準備した人々

  第四節 みうら・ばいえん(三浦梅園)

    一 梅園の生涯

みうらばいえんという人はどんな人であったのであろう。梅園の人生観といったものをうかがえる書物の一つに『梅園叢書』という板本になった本がある。それの上巻の初に「詩を説いて道に志す人にさとす」という一節がある。そこのところで梅園はこう言っている。「身のけがれを露にぬるる如く、よくよく道のあるべきところをもとめん、欲をとどめては、誠に君子の人なるべし」。梅園という人物は、右の句(詩経)の解釈に出ているように、酒食や好色や好楽やの欲のためにうける「身の汚れ」「露にぬれる」というように言い表わしている。そのように清純であることは、梅園の倫理であって、また彼の好尚であった。彼の生涯の動き方をみると、どこをとってみても、そういう人物であろうとして努力した人だったことが知られる。
 さて、これは明治時代になってのことであるが、唯物論者とは欲望のけがらわしさをすべて身につけている畜生同様のものともくせられたことがあった。かりそめにも、そのような評価をうけたことのある唯物論者の世界観なり思想なりへの準備をすすめた人として、私は梅園を評論しようとするのであるから、或る人たちにとっては奇妙にひびくことであろうとおもわれる。私はそれが奇妙でないことをあきらかにせねばならない。
 梅園は享保八年(一七二三年)に生れ寛政元年(一七八九年)になくなっている<註(1)>。だから一八世紀の人である。ヨーロッパでも一八世紀は、一九世紀が科学の世紀であるのに対して産業技術がととのい且つ発展した時期である。日本の一八世紀は徳川三百年の中間のところを占めていて、学者たちが学問の自由を享有できたうえに産業技術も少しずつととのい始めた世紀である。彼が生れたころは、学問や産業をすすめてくれた吉宗がもう政権についていた。荻生徂徠のような大器が晩成しつつあったときだった。彼がなくなって間もなく、日本の北辺で国の防衛ということがやかましくなりはじめ、知力のある青年たちでオランダ文化に浸透しでゆくものが多くなったために、やがて偏狭な祖国主義が唱えられはじめたり、外国渡来の科学者(シーボルト)にスパイ嫌疑がかかったりする暗い時代が待ちかまえていた。そういう時代にさしかかる頃には、梅園はもうこの世を去っていた。だから、梅園は比較的に学問しやすい良い時代を生きたといえる。彼はのびのびと彼の学問を発展させることができ、世界観思想を十分にのばすことができた。学問なり思想の世界を自由な哲学者として経歴したことに、じつにそのところに、彼が唯物論思想が成立するのと同じ方向へとすすむ道がひらけつつあったのである。
 私はこの節の終りに梅園の『玄語げんご』を中心とする彼の著述のことを書いておかねばならない。私はかつて彼の生家、富永村の旧宅を訪ね、一か月余滞在したときに、感ずるところ深くて、梅園にむかって語るかたちで小文を書いたことがある。それをここに引用しようとおもう。<註(2)>
「日本人によって書かれた哲学書で何が最高峰にあるべべきかと聞かれますとき、私は躊躇なくあなたの主著のなかの主著、『玄語』を挙げます。あなたは『玄語』を二三年かかって二三度も根本的書き換えをなさいました。あなたは何という数多い書を書き換えせられたことでしょう。あなたが言われます二三度の換稿とは、根本的なものについてでした。部分的にあすこをここをと書き改められました草稿の数はいったいいくらあったのでしょう。今日あなたの『玄語』の原稿は六〇綴も残っています。あなたが『玄語』を書きはじめられましてからもう百八十何年にもなりますから、あなたの原稿はもう大部分散佚してしまったのでしょう。それでもしかし、あなたの子孫の方々ほど丁寧にあなたの原稿や手紙や蔵書や什器を保存せられた例は少いでしょう。これはあなたの哲学とあなたの人間的高さによるものでなくてはなりません。
 へーゲルは哲学書がほんとうに科学的なものであるためには七七度の推敲が重ねられねばならぬと言いました。そしてへーゲルにとってこれは理想であったことはいふまでもありません。へーゲルは自分の論理学を数度書き換えたのでした。私はあなたが、二三度換稿されてもまだ満足せられなかったことが、そして、あの例旨の終りの言葉が、強く私たちをつのを覚えます。『物大に事衆し。犬馬の歯、既に半百を過ぐ。鬢髪皤皤、之に加ふるに心胸の病を以てす。知らず、天之に年を仮し、将に其の業を卒へしめんとするか。将に其の志を奪はんとするか。是に於て感無きこと能はず。書して以て佗日を竣つ』
 あなたはいつの日にこの『玄語』が読まれ理解されるとお考えになっていたのでしょう。あなたは遠い「阿蘭陀」の文化に憧憬をよせられました。そのオランダをほぼ中心にしまして西洋の諸国の文化はあなたが亡くなられましてからほぼ一世紀くらいの間に更に長足の進歩をしました。そのなたが考えられましたような学問の世界が日本にも開けて来ました。日本の最高の学府としての東京帝国大学があなたの郷土、あなたの家の土蔵の中に、あなたの『玄語』が蔵せられていることを知って、借覧を申し出ました。それは明治三十二年でした。それでもしかし、あなたの『玄語』の哲学が理解され広く伝えられるということにならずにそれは終りました。そのうち明治四十五年にあなたの郷土の人たちはあなたのお徳を慕うのあまり、力をあわせ『梅園全集』を作りました。
 この数年になりまして、あなたの『玄語』を知ろうという学的要求が漸次高まって来ました。私もその要求を強くもっています一人なのです。あなたの学説は、これからの人たちがひきつけられて理解するような思想を、いっぱいにふくんで居ります。
 これからの人は学問の近代性を感受する力を具えて居ります。あなたは論理学として『玄語』をお書きになり、別に又『贅語ぜいご』をお書きになり、倫理学として『敢語かんご』をお書きになりました。この『梅園三語』を逆の順に言いますと、人倫の学としての『敢語』と、自然及び人間の学としての『贅語』と、人が自然及び人倫について思惟するその思想そのものの学としての『玄語』とを、お書きになりました。これはギリシア人がエティカとフィジカとロギカの学を整えましたこととほぼ相似ています。あなたは西洋哲学のいわゆる三部を整えられたことになります。そしてあなたは、『価原かげん』という著述を以て経済の学を展開されました。価の根源を衝かれました。あなたは物の根源を探らないではいられないかた方でした。天性のフィロゾォーフでいられました。尚又、あなたの詩学としての『詩轍してつ』というあなたの著述も、同様の根源性を示しています。あなたはあの時代の日本の学者の群をはるかにぬいて、右のような学問の『近代性』をはっきり示されました。私たちは驚嘆せずにはいられません」
 梅園の著述は『梅園全集』(上下二巻)に収めてある。略伝には三浦黄鶴のかいた『先府君攣山先生行状』がある。この『行状』は私の編著『三浦梅園集』(岩波文庫二二二九)に入っている。

  註(1)生れたのは八月二日で、なくなったのは三月十四日だった。今では大分県東国東郡西武蔵村であるが、当時は富永村とよばれた農村であった。
    (2) 『三浦梅園の哲学』八一一頁参照。

    二 條理学
 唯物論へのみちを準備した人たちとして、私はえっけん、そらい、ちゅうきの三人をあげたのであるが、梅園はこのなかの益軒と徂徠について彼の著述のなかで語っている。それのみでなく、梅園はこの二人を尊敬し、その影響をうけていたということができる。益軒の実学的な傾向、徂徠の中国古典への傾倒、この二つの精神は梅園において継承されているということができる。梅園の学問思想にはその先行者がなく、また後継者がないとしばしばいわれているが、それは益軒と徂徠にあるような学問のゆき方を梅園が科学的方法でもって発展させた点にあるのである。その点では、あとにもさきにも彼に匹敵するものがないといっていい。
 では、梅園の科学的方法とはどういうものをさすのであるか、これを明らかにすることが何よりも大切である。
 私たちは序説の三、四のところで、東洋では唯物論思想がそだたなかった理由を考えてみた。ほんとうは科学思想が発展しなかったことが問題なので、その問いが解ければ唯物論思想の成長しなかったわけもわかる、ということを私はのべた。理由をいえぱ議論はいくらでも出てくるが、要点をつかんでいうなら、東洋の学問思想が根ていにおいて「空」の思想、「無」の思想で貫かれていることにある。それがもとで発てんしているいろいろの、科学的でない思想がある。このことから題にしていかぬと、梅園の学問思想はあきらかにならない。それには益軒や徂徠をもう一度考えてみたい。
 さて、益軒はずいぶん博学であったし、庶民のためになる知識を提供した。けれども、日本でなぜ実学的傾向はそだたないかを反省はしなかったし、そのようなことを思索することに長じていたとはいえない。彼の『大疑録』は貴重な問題の提出であったが、解決ではなかった。益軒は産業や学術をすすめる役にたったが、彼が『大疑録』でのべているような哲学的な知識や思索とのれんかんは明らかにしていない。たくさんな物や知識をならべたことはならべたが、それの統一的見渡しはなかった。早くいえぱ、益軒では技術の学も、博物の学も、論理の学も、何ひとつととのってはいないのである。もちろん、それらの学問のれんらくなど考えられたことはなかった。ということは、日本に哲学がまだなかったということである。博物学的な物しりはだんだんふえた。そういうのを見てとって、梅園は「庶物の品類いまだ条理に合せず」といった。日本の学問はどれもみな科学的方法にかけて整理されていないものばかりだった。
 徂徠にしても、益軒と同じことがいえる。徂徠は、学とは何であり理論とは何であり、実践とは何であるかを明示してくれ、歴史や社会の意味について教えてくれはしたが、博学の力にまかせてそれらについての知識をくりひろげてみただけで、それらのものを思索的に深く汎理論的にはんりろんてき明瞭にしはしなかった。つまり、「物」たる文辞を論じても、ひとびとになっとくゆくように認識論的に論理学的に分析してみせはしなかった。そういうわけで、益軒にしても、徂徠にしても、東洋の学問のなかのほのぐらい点、洞穴的な神秘的なものへの反省をすることはなかった。梅園はこういうことをいっている、「空と曰ひ無と曰うふ、局を舎ててこまを譚する、妄に非ずして何ぞ」と。その土台となっているものをいわないで どうするのだと、いわば観念論的だんぎだけでは、何もわからないではないか、と従来の日本の、また東洋の学問註(2)のゆき方を批判したのである。
 以上のような、とっくにできていなければならぬ学問上の、また思想上の課題が、梅園の時代では、ようやく気づかれはじめた。しかし、気づかれただけで、少しも手はつけられていなかった。こうした課題を解く重荷が梅園のうえにふりかかっていた。梅園の主著『玄語』が難解なのは、こうしたところに理由があると考えられる。
 江戸時代のほとんどすべての儒者たちは、仏教のほうの学者思想家たちと同じように、東洋の学問の特長や欠点を知らなかった。ということは、それぞれ自分の立場でしか相手がわからなかった(その点では富永仲基は稀な存在だった)。そういうふうでは、科学思想が発展しようもない。したがって、そういう思想の道筋のうえでは唯物論思想がそだつはずもなかった。儒教と仏教との両方の考え方を批判的に理解することができるのでなければ、日本に学問のほんとうの道はひらけない。この道が梅園においてひらけはじめたのである。梅園が仏教と儒教とに加えた批判をここでのべる余裕がないから、東洋の学問にゆきわたっている把えどころのない茫洋たる性格を彼が批判したのを、ここに少しばかり紹介してみることにしたい。
 彼はヨーロッパの近代哲学の父といわれるデカルトがしたように、どんなに広い世界をおもってみても、その世界はひろがっているものそうでないものとに分けて考える。たとえていえば前者は物体で後者は精神だというように、または前者は空間で後者は時間だというようにである。ただし、デカルトとちがうのは塞がっているもの塞がっていないものとは固定的にきまってしまっているのでなくて、弁証法(「反観」)的にみられているので、かなり難解になっている。「露」と「没」、「立」と「活」、「物」と「人」、「塞」と「通」、といったようないくつもの対立概念がもうけられていて、それらの概念のつかい方はまことに細かくて思索的である。彼の思索の一つをあげてみるとこんなのがある。
「仏教では恒河沙ごうがしゃの世界ということをいう。いかにもことごとしく沢山あるように思われるけれども、恒河のすな沙の内にすでに恒河沙の世界をそなえているのであるから、天地は恒河沙をいくつかさねてもこれで天地ということにならない。これがつまり二の立場である。それを二の立場というのは、天地はかように紛紛として、又擾擾じょうじょうとして物が沢山あるように見えるけれども、実はかたちあるものがひとつ、かたちのないものがひとつ、これより外には何も物というものは存在しない。そのかたちのあるものを物といい、かたちのないものを気というのである。かたちのないものはいうまでもなく眼に入らないし手にわらないから、昔の人も誤解して、空である無であると考えてしまったのである。もちろん、地がレアル(「実」)であるに反して天はそのサブスタンス(「軆」)がきょであり、地のマテリアル(「実質」)であるに反して、天はマテリアルでないから、天は実質的でない。「実質なき」ところの虚のサブスタンスを「虚体」であるものと解釈するのはよいであろうけれども、そう解釈しないで、どこまでも虚無である、虚空であるととっては、たいへん間違いである。もし、その指示されているものが(すなわち天が)真の空無であるなら、太陽や月や星がそこにあるということはできない。そうすれば、われも物も存在するところがないことになろう。太陽も月も星もすべてその内にあり、物も我もすでにその内に遊動しているとすれば、そこに虚であるが軆があるとせねばならない。すでにあるのにもかかわらず、それを指して無というのは、それは間違ったことでなくてはならない。<註(3)>」
 またつぎのような批判もしている。「仏教では成住壊空じょうじゅうえくうなどということを言っている。空から漸次に天地ができあがり、終には壊れてゆき、無になる。それが空劫に帰するといわれているのである。次にそこから天地ができあがり又空無となってゆくというのである。邵康節などは混沌開闢の説に自分で幾分の考えを加えて天はひらけ、地は丑に、人は寅にひらける、そして丙のに天は閉じられ、戊の会で地が閉じられ、亥で人が閉じられるといったような、それぞれ勝手な杜撰な説をたてているが、みな条理を知らないので、自然〔天〕と人間〔人〕とをごっちゃにする妄説だといわねばならない<註(4)>。」
 梅園はオランダ語を多少は勉強したが、それによって直接にヨーロッパの学術を吸収はし得なかった。中国でできた天文書は大いによんだ。しかし哲学の本はなにひとつ中国にもまだきていなかったから、その影響をうけることはなかった。彼は一方で天文学や地学や数学やの知識をもとにし、他方では中国や仏教の古典を批判的によんで、そのうえで無類の思索力をもって考えていった。右の引用文にあるように、彼は「条理」ということを学問の生命と考えた。彼において条理とは法則のことである。自然と社会とのうちなる諸法則、それが条理である。けれども、それのみでなものにしている。彼はこういっている。「このゆへに条理の理は、古人の説ける理もその内に候へども、〔それとこれとは〕死活のへだたりある事に候」と。
 彼は「条理学」という呼び名を用いなかった。彼の弟子の矢野弘は明らかに梅園の学説を条理学と呼んだ。矢野は条理学のことを「自然(「天」)と社会(「人」)のぜんたいを見るための規矩準縄である」と理解した。聡明で、そして若くして死んだ弟子の矢野の理解としてうけとると、なお興味がある。

 註(1) 『玄語』天冊の「活部」参照。
   (2) これについては、第一章への補の「東洋の学問」をとくに参照のこと。
   (3) 三枝の著述『三浦梅園の哲学』一三七頁を参照。
   (4) 前掲書一四八頁参照。

    三 反観合一の論理
 私たちは第一節の「かいばらえっけん」のところで、彼はそらいとちがって庶民との交渉が多かったということを知った。梅園となると、もっと庶民との接触が密だった。
 (一)の「梅園の生涯」のところでのべたように、彼はむしろ農民のなかにいた。読書と思索は彼の日課の大部分を占めていたが、その余のひまはほとんど彼が愛する富永村(この村のことを彼は「寒郷」とか「寒村」といった)の人たちとの接触にあてられていたと思われる。みんなと相談して救荒(凶年で不作のため困った人たちをたすけること)事業として無尽なるものをはじめて、経営したり、郷社を美しくしたり、貧困の弟子を表彰したり、村の子弟を教えたりしたことが、いろいろの記録にのこっている。「一村のうちは、よき事あればうちよりて喜び、悪しき事あればうちよりて悲しむ」ことは、彼の生涯変らなかった社会生活の精神だった。
 さて、そういった梅園の生活の庶民性から、彼を唯物論への道を準備した人としてみることがひき出されるであろうか。それはできない。梅園は農民たちとともに生きたのみでなく、彼の世界観の根底には、人民大衆の生活を安心させることがほんとうの文化だという信念のゆるがぬものがあった。「道(文化)は衆を安んずるより大いなるはなく」といったのは彼である。しかし、そうではあるが、彼のこのような生活の実践から、彼が日本の唯物論思想への方向づけに役立ったとはいえない。士・農・工・商という身分的な社会秩序を固くまもっていた梅園としては、学問の方法は厳しく、青年の教育は規律正しく、村人むらびととの交わりは律儀で慈悲深かった。こうした人生観においては、ゆるぎなきものが彼のうちにできていた。彼の哲学とても、けっきょくは、ここにその地盤がなくてはならぬものだった。
 梅園の哲学は、彼の主著である『玄語げんご』のなかにまとまっているのであるが、彼は文字どおりの「形而上学者メタフィジカ―」ではない。スピノザやライプニッツのような哲学者ではなくて、むしろカントのように、認識論思想が特長をなしている。彼には論理的にさぐりもとめたものがあった。そのものは「げん」といったらよいものだった。「玄」は彼にとっては弁証法的にでなくては、とらえられないし、言い表わせぬものだった。彼がそれに考えついたのは、形而上的に古哲の用語をあやつり廻すことによってできたのではなかった。私の解釈では、二十才ぜんごからそれに没頭していた天文学や和算の研究がもとだったのではないかとおもう。その天文学はもうヨーロッパのそれの影響の十分あるものだった。とにかく、自然観察と思索とがもとだったということがいえる。彼は天球儀をもつくったし、素朴な顕微鏡もつくって、つかったのだった。そういう研究がもととなって、さきの「条理」の学ができたのだった。条理の学とはたんに自然や社会の法則性の学のことにとどまらないで、弁証法の論理であった。
 彼はこう説明している、「自然[「天地」]を洞察する道は外でもなく条理である。条理の真の方法[「条理の訣」]は、反のうちに合一を観ることであって、心の執するところを捨て、徴標を正しいところにとること[「反観合一。捨心之所執。依徴於正」]に外ならない。心の執するところを捨てるとは、習気しゅうきを離れることである。徴標を正しいところにとるとはどういうことであるか。見たところ徴標のようであるが、じつは徴標でないところのものがある。たとえば、太陽や月はたしかに西にゆくという徴標を人はつかむのであるが、実は東にゆくのである。……自然の道は陰陽であって、陰陽の実体[「体」]は戦いであって相反している。反するからそのために一に合するのである。これがすなわち自然の成立するところなのである<註>。
  一八世紀いごヨーロッパにおいて科学の精神といわれたものが、とにかく右の梅園の意見のうちに出ている。そして、そのうえになお弁証法の論理を見出すことができる。彼は「反観合一」については『玄語』のなかでくわしくのべている。彼は自然弁証法の提説者といってよい。「反観合一」につけての叙述は『玄語』の序論(「例旨」)にかいているが、反観合一の考えの実際はほとんど全巻にゆきわたっている。
 へーゲルはディアレクティークを明らかにするために、同一ということ、同等ということ、区別ということ、反対ということ、差別ということ、対立ということ、矛盾ということ、これらを順にのべて試みているが、梅園は、「対」には「反」というのと、「比」というのと、「互」というのと、「汎」というのと、「偶」というのがある、という具合にして、説明している。ディアレクティークの論理学が、少くともそのような学問が、ひとつもなかった日本の思想文化史のなかに、反観合一の説を見出すことは奇異な思いすらするほどである。
 レーニンはへーゲルの『論理の科学』の内容を批評したとき、「へーゲルは唯物論の黎明である」といった。これはレーニンがへーゲルのディアレクティークの思想のてってい性を高くかったためであった。論理の科学の伝統のなかった日本で、梅園の論理思想はヘーゲルのように組織的であることができなかったことを考えたうえで、私たちはこう言いたい。梅園は条理の学をはっきりさせることをして、学問や理論のすすむべき方向を示してくれた。この方向のなかに唯物論思想が発展したのだ、ということを。その範囲において、私たちは梅園を唯物論への道を準備したひとびとのうちに加えるのである。日本の思想史の特殊な事情を考えてである。

   註『多賀墨郷君にこたふる書』より。(『三浦梅園の哲学』一三二頁。)

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)
その他、「科学図書館」所収の、PDF も適時参照した。
なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用い、傍点は、太字表示の b タグ を用いた。

日本人と漢詩(120)

◎ 私と杜牧、李商隠

Zèng bié qí èr   Táng Dù mù
贈別 其二 唐・杜牧
Duō qíng què sì zǒng wú qíng
多 情 卻 似 總 無 情
Wéi jué zūn qián xiào bú chéng
唯 覺 罇 前 笑 不 成
Là zhú yǒu xīn huán xī biè
蠟 燭 有 心 還 惜 別
Tì rén chuí lèi dào tiān míng
替 人 垂 淚 到 天 明

 訓読、現代語訳などは、中国語スクリプト を参照のこと

Yè yǔ jì běi   Táng   Lǐ shāng yǐn
夜 雨 寄 北   唐 ・ 李 商 隠
Jūn wèn guī qī wèi yǒu qī
君 問 歸 期 未 有 期
Bā shān yè yǔ zhǎng qiū chí
巴 山 夜 雨 漲 秋 池
Hé dāng gòng jiǎn xī chuāng zhú
何 當 共 剪 西 窗 燭
Què huà bā shān yè yǔ shí
却 話 巴 山 夜 雨 時

 訓読、現代語訳などは、千秋詩話 23を参照のこと

 ピンインによる漢詩学習も、少し佳境に入ってきた。今回は、杜牧と李商隠を習った。比べてみると、二人は、ともに中唐~晩唐風だが、表現のニュアンスは随分違うように思われる。音楽に例えると、杜牧は、クラシックのコンチェルト調、李商隠は、ジャズのブルース調というのはどうであろう。ちなみに、前回習った、杜甫の「登高」は、シンフォニーに例えられようか?
 いずれにしても、これからは毎日、句毎に暗唱できるくらいになりたいものだ。

テキストの快楽(012)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(004)


    三 東洋にはなぜ唯物論哲学がなかったのであるか

 これは大きな問題である。
 なぜ東洋には早くから自然科学が発展しなかったのであるか、なぜ東洋には西洋ほどに産業技術が発達しなかったのであるか、という問いと、もちろん連けいする問題である。しかし、それらの疑問よりも、なぜ東洋には唯物論は出て来なかったか、という疑問のほうが、よりいっそう根本的なのであり、要点をついているのである。なぜかというと、東洋でも、数学の知識では早くから発達したものがあったし、自然科学的知識らしいものにしてもなかったとはいえぬし、まして産業技術となれば、原始的なもの・発展可能でないもの(というのは、単純な耕作技術や漁撈技術は昔もたいいして変りはないから)に限られてはいたが、それにしても、とにかく産業技術は世界共通の或る線までに達していなかったのではない。生産の技術が根っからなかったのだったら東洋人はどんな文化をもつくりあげることはできなかったであろう。だから、産業技術がなかったとか、学術が発達することがなかったということは言えない。しかし、唯物論哲学があったということ、このことに限って、東洋にはそれはなかったとしか言えないのである。唯物論とは、人がなにものかに対してあげた抗議的なひとつの世界観である。東洋では、インドにも中国にも共通したヨーロッパとは別のひとつの世界観が発展していた。この世界観を語ることがこの節の目的なのである。その世界観に支配されている諸民族においては、唯物論を必要とはしないのである。必要としないというのは、東洋は唯物論をぜんぜん容れる余地がなかったという意味ではない。いいかえると、唯物論の思想を容れる余裕をもたないほどに唯物論に対する別の世界観でもって中がいっぱいふさがっていたのではない。一個の世界観が中を充実していたからではない。この点が大切なのである。東洋人は充実した世界観思想を、だから他の世界観をはじきのけるほどの世界観を、うちに懐いていたのではない。その反対なのである。東洋の世界観は、確立しているとか、充実しているとか、その余のものを、排斥するとか、そういったような性格のものではないのである。むしろ東洋の思想が確立、充実、排他、そういう性質のものであったならば、かえって唯物論思想をそのなかから誘い出し、発展させたことだったであろう。幸か不幸か、東洋思想はそういう性格のものではなかった。東洋思想はそれ自身すでに、はなはだ把えにくいものなのである。このように始末におえぬものが、じつに東洋の思想の大きな特長なのである。中江兆民は「主義の確立」<註1>という文章をのこしているが、そのなかでこういうことを言っている。「欧羅巴ようろっぱまさりて亜細亜あじあが劣るといふのはほかのでもない。欧のやつは思い切つた事をする、亜のやつは何分にも、のろ臭ひ」と言っている。兆民は、ヨーロッパ人たちは、言う行うことにおいて、確立をするが、東洋人はこれを避けることを、東洋人は「のろ臭ひ」という言い方で表現したのである。確立ということは、考える場合や、ものを言う場合では、定立ていりつ(thesis)という用語で言い表わされる。ゆるぎなくはっきり立てることが定立である。何々は何々であると、言い切ることである。言い切られたものは、客観的なものとなって自立するのである。定立は知識の出方でかたのであり、知識の約束である。定立ということがおこなわれなくては、数学もまともには発展しないし、科学も発達しない。ヨーロッパでは、経験にてらしては定立をつくり、経験にてらしてはまた定立をつくった。そうしてできたものが、ほかならぬ科学なのである。そのやり方は、近代までヨーロッパでは古代ギリシア以来めんめんと続いている。東洋では、定立は嫌われたのである。『老子』のなかの思想は、けっきょくは「不言の教を行う」(行不言教)ということに外ならない。はっきり言い切り、はっきり考えをきめることは、定立なのであるが、これを避けて定立のないままに大衆を導こうというのが、東洋の賢者のやり方であった。もちろん、一つの定立には、必ず形に陰影があるように、一の反定立(anti-thesis)がついてくる。この二つの定立の間を行こうとする東洋人は、定立を嫌い、定立ができたらそれをすぐ崩すことを、むしろ心がけたのである。弁証法論理があきらかにしているように、定立をすれば、すぐに反定立がもう出てきているから、一方の側面と他の側面とが同等の資格で浮びあがってくるのは当りまえである。さて、そうしたとき、どちらの側にもつかず、固執せず、同時に二つの側がはたらいていることに眼をつけようとするのが、東洋である。それで、「二際をほろぼすのが、菩薩ほんとうにもののわかったひとのやり方だ*註(2)」というのは仏教の精神だが、老荘の考えとまったく通ずる考え方であって、東洋的な考え方の特色である。ヨーロッパ人は、ひとつの定立にたとい他の定立がひっついて出てこようとかまわない。それを処理する次の定立を企てるのである。だから、いっこうに定立を避けようとしない。だから、はっきりした定立がいくつも累々とがなるようにできて、ひとまとまりになってくる。それがつまり科学の体系である。もし、考えをはっきりきめつけたり、言い切ったりすることが、悪いものを伴ってくるなら、さらにもうひとつの定立をもうけて、その悪さをとり去ろうとする、それはヨーロッパ的やり方である。二際を亡ぼさないで、それどころか、それを大切に生かして、ともに定立させて、二つの定立が争うのを争わせ、そのなかに現われ出るものを期待し、それをさらに定立させようとする。このように、ヨーロッパの学問では学問はつねに学的に技術的である。だから、発展がある。東洋では定立が生れるとすぐ崩すことに努めたから、も、もなくなるのである。弁証法が東洋にないことはなかったが、それが論理学として確立しなかったのは、このためである。
  ヨーロッパには、弁証法論理が成長し、とともに、唯物論が成長したことを、ひき離さないで考察することが大切である。
 インドでは冥想から数学が生れたが、それがヨーロッパのように成長しなかった。定立をやらないからである。定立をはっきりやれば、自然にそれを書きとめるはずである。書きとめないと、ほんらい葦のように弱い人聞においては定立は崩れて消えてなくなる。インド人は書きとめることを、すなわち、記録することをやらない民族だった。このことは、インド人に数学が本当に伸びなかったことと深い関係がある。書きとめて確立することをしなかったから、あれ以上数学が発達しなかったのである。エジプト人やバビロニア人たちは、数の知識や石や板や練りものに刻んででも、確立を貴んだ。定立のために手段を講じたのである。技術だったのである。東洋人は、できてくる定立のいわば灯をすぐに吹き消した。闇のなかにほんとうに明るいものを見ぬこうとしたのだといっていい。零を数としてとりあつかったのは、インド人である。ギリシア人は長さや面積のような量をとりあつかうことから数学を発達させたが、インド人は数そのものを発達させた。ヨーロッパ人は定木じょうぎとコンパスという手段をつかったが、東洋人はこうした手段を確立しなかった。おかくら・てんしん(岡倉天心)がそのなかで「アジアは一つだ」の思想をのべている『東洋の理想』のなかで、「地中海やバルト海の諸民族」のことを、「手段を探求することを好むところの諸民族」だと規定しているのは、たしかに当っている。天心はヨーロッパ人の先人たちが、手段を好むことに対して「アジア民族共通に」「広い愛の拡がり」ということをあげている。天心は彼のこの著述を英語でかいて、ロンドンで発行したから、やむなく愛という文字をつかっているが、「愛」などという定立は、ほんとうはアジア人はやらなかった。明治時代でも「愛」などというと、多くの人(常識人)はてれたのである。「愛」の定立には「憎」の他の定立がすぐ浮び出てくるのを、東洋人は嫌ったのである。「愛憎もと一体」などという言い方は、おそらくヨーロッパ人にはわかりやすい思想ではないであろう。キリスト教における、そして、一般にヨーロッパ人の生活史における「愛」は、仏教のなかでそれにちょうどあたる|ことばは、見出されないほどである。仏教では愛は「愛欲」「愛着」「愛恋」としかとられてない。『涅槃経ねはんきょう』をみると、『ほんとうにものがわかり、ものにこだわらない人は、愛を離れている」ということを言っているが、おそらく仏教の真意であろう。仏教ではむしろ近代人のラブは「愛染あいぜん」であるだろう。人格のできあがるのに妨げとなるものである。
 東洋人は、定立をしない、確立を避ける、というやり方を、自然に対してもやっている。自然界をば、どうしなくてもおのずから(自)なるようになってゆく(然)というように、東洋人はうけとっていた。無神論者のあんどう・しょうえき(安藤昌益)ですら、「自然」という字を「ひとりする」とよませている。ヨーロッパ人にとっては、自然界(natura)は生れ出る(nasci)ことから成り立っている。生れたものは、成長するであろうし、成長するものならば、成長して成長させることができる。「生れる」とは、最初から人間的な言い方である。東洋では、生れてこない自然、どうしなくてもそのとおりである自然、これが東洋人の自然(おのずからしかるもの)である。ひとりするものであっては、これに対して手段のほどこしようはないのではあるまいか。中国や日本では、自然界に対して人間が人間の力を加えて開拓することを、「開物かいぶつ」とか「開化かいか」とかいってきた。開物や開化を主張したことは、東洋の古典のなかのほんの一部に限られていた。『天工開物てんこうかいぶつ』(一七世紀)という中国の書物は、ヨーロッパの学問が中国に入ってからのちの著作である。自然界を開化することは東洋人の仕事ではなかった。中江兆民は、このことを鋭くとらえて巧みに言い表わした。彼の言い方によると、わが国では、「人民が開化し往くと謂うよりは、寧ろ開化其物の中へ人民を追い込む(註3)」というのである。知識の定立をしない東洋人においては、自然を定立のなかに置くことができない。そうだとすると、自然科学も産業技術も発達しようがないのである。では、東洋人にとっては開化は一切ないのであったか。ないのではなかった。あったのである。しかしいつからあるというようなものでなくて、はじめからあるのである。どこかで始まりようはないのである。開化そのものは時間を越え、空間を越えてあるものであった。老子が「万物はおのずから化しようとる」といった彼の形而上学は、日本では人民教化にさえ巧みにとり入れられている。日本では、「自然」を説く老荘はかえって実践的に利用された。価値をもった哲学としてではなく、この道教のいわば野放図のほうずの教えがかえって実践化されたのである。まことに不思議な国である。
 これでは唯物論は芽ばえることからが、日本、いや東洋では、むつかしかったといわなければならない。
 ヨーロッパでは唯物論のはじめをきかれると、ほとんどみな一致してギリシアのデモクリトスをあげる。デモクリトス(前・四六〇―三七〇年)は、周知のように、世界のすべてのものはアトム(原子)から成るという説をたてた自然哲学者として知られている。デモクリトスの書いたものは断片的にのこっているし、またギリシアのその後の哲学者たちがデモクリトスの説として言いのこしているものがあるので、デモクリトスの学説といっていいものは今日もつたわっている。知識や学問について彼が語ったものは、今日からみても光っている。それらのなかで特にめだっている彼の意見をまとめて、その科学的意義を要約してみると、こういうことができる。すなわち、

    1 原子と空間より外にはほんとうに存在するものはない。
    2 このことは永遠であって、変ることがない。
    3 存在するものは、ないと否定されることができない。
    4 すべてのものはきかいてきな運動である。
    5 何ものも偶然に生じるものではない、すべてのものはそれのもとから、しかも必然性でもって生じている。

 デモクリトスは、このようにはっきり言いきった。つまり、テーシスをもうけたのである。
 右の五つの考えはたいそう簡単なものであるが、これくらい科学の精神をいってしまっているものはないといってよいであろう。今日の自然科学が主張しようとする大切なものはみんないってしまっている、といっていい。(もっとも今日はデモクリトスのいったような、まったくの空の空間があるとは自然科学者はいわないけれども)。今から二千四百何十年まえにこんな意見をデモクリトスがいっただけではなく、後の学者たちが、ことにギリシアのアリストテレスやエピクロス、ローマのルクレティウスなどが、デモクリトスの学説をさらに発展させつつ、言いつたえたのである。近世では、フランシス・ベーコンいらいたくさんの哲学者、科学者たちがデモクリトス風の説をひきついだ。じつは、そうした学説が承認されて、あとあとへひきつがれたことが、ヨーロッパに自然科学の伝統が確立されたわけなのであるといえる。
 私たちがいま問題にしているマテリアリズムは、そういう自然科学の伝統のなかにあって、ぜんじ発展した思想にほかならぬのである。東洋にそういう伝統がなかった。東洋人はたとえばデモクリトスのように、定立をすることを拒んだ。もともとインドの知者たちもデモクリトスが提説したような、ひとつの学問的真理に思いつかぬのではなかったろう。インドの哲学者たちは、広大なる自然、複雑な社会、総じて宇宙ぜんたいのことは、テーシスをつくってみたところで、ほんとうに究極のものはつかめぬ、それでつかめぬならば、そのようなやり方はやめてしまって、なんでもひとつのこさずつかめるような宇宙大の智恵がほしいものだという、とてつもない、永遠といえば永遠、悠遠といえぱ悠遠な思想をもつようになった。それが割合にまとまって結実したのが、インドの仏教哲学の知恵(般若)の論である。このことは世界の仏教研究者たちの通説である。日本人が深い影響をうけた仏教が、みんなそろってそのような「高遠」の仏教だったというのではないが、日本の各宗の開宗者たちは、右のような仏教の智恵の論はのこりなく共通に理解したひとびとである、ということはできる。日本人には、一般に東洋人には、どこかたががはずれたようなところ、どこかで要領が得られるだろうから自然まかせだといったようなところがある。唯物論思想が生れなかったということは、また科学思想が生れなかったということである。

  註(1)『警世放言』(再版、明治三十五年)一八〇頁。
   (2) 竜樹の『中論』の序(中国の人僧叡のかいた文章である。彼の文章は「二際を沈さざるは菩薩のうれいなり」となっている)。
   (3) 前掲書一九八頁。

        四 どうして東洋では唯物論哲学がおこらなかったか
 東洋は、世界観とか哲学ということになると、はじめから難題を背負っていたようである。というのは、東洋人は思索することでは、わかりにくいものを最初から手にかけたが、ヨーロッパ人はわかりやすいものから手がけていったといえるからである。ヨーロッパのどの哲学史をみても、タレース(前・六世紀)がまず出てくる。この世界の本源は何か?  という問いに彼は答えてくれている。「水」だというのである。この水とはかめの水、小川の水、湖の水、そんな個々の水のことではなくて、およそ水といわれるもの、さらに湿気的なもの、さらに拡げて、胎生のもとなる精なる液、つまり世界のぜんぶにゆきわたっているもの(物)、これがタレースのいう「水」なのである。その要点は、精神的なものをさがしていっているのでないところにある。もちろん、タレースが出てのちまもなくアナクサゴラス(前・五世紀)のような哲学者が出て、やや精神的なものを世界の本源だとする説をたてはした、またやがては、ソクラテス、プラトンのごとき哲学者があって、精神の面を明らかにしてゆくようになったのであるが、それしてにも、哲学史のはじめはタレース的な問いではじまっているのである。かんたんなところからはじまっている。そしてソクラテスやプラトンにしても、物のことについては、技術や数学の考えを通じてつねに問題をすすめたのである。すじの通ることしか求めなかった。とにかく、「私」とか「精神」とか「作用」といったものから離れて、それとは別に客観的なもの(物)を問題にし、それについて何かはっきりした知識をもつようになっていたのである。ところが、それが東洋ではどうであろう。インドの哲学のはじまりは『吠陀リグヴェーダ』の哲学的讃歌だが、その最初のインド人の問いでは讃歌のなかでヨーロッパのように物には向けられない。おもしろいことに、インドの哲学的讃歌のなかでも「水」のことが出てくるには出てくるのであるが、それは物としてはとらえられていない。せっかくの「水」の考えが、「ゆうもなかった、もなかった、くうの世界もなかった。それをおおうてんもなかった」というような冥想的な問いと答えでもって、すっかりつつまれているのである。
 かようにして、古代のインド人は最初から困難な課題を背負っていたのである。インド人は水や火や地のことを考えてもいるが、だから物について考え、物をもとにして考えているかに思えるところが察しられないではないが、その水や火がまた精神的なものでもあるかのように考えられていた。だからヨーロッパ流にいうと、物活論はあったが唯物論はなかったと言える。ヨーロッパ人たちにおいては、考える態度がまったく東洋とちがっている。彼らにおいては、問いがもうけられ答えが得られ、そして知識ができるにしても、その知識はやがて仕事をしたり技術を練ったりすることに役立つように(ことごとく役立ちはしなかったが、役立ち得るようにそういうように)持っていっているのである。だから、「万物のもとは水である」といい切り、または「万物のもとは地水火風である」といい切り、あるいはまた「万物はみなつりあいという関けいからきている」(ピタゴラス)といい切ったりする。ひとつひとつ片づいていく。ことにこの第三の定立の如きは、後々まで技術的な知識にとってたいへん役にたった。なぜなら、ピタゴラスのつりあいとは数的かんけいのことだったから、数学の発展をうながした。ところが、インドではそうではなかった。手に負えないものに初めから手をつけたのである。したがって、定立はできはしない。いや、できないよりも先に、定立することは好まなかったのである。
 中国はインドとは世界観の出発がややちがう。むしろ出発はいいのである。『詩経』や『易経』のような古典からすでに、「物」「百物」「万物」というような言い方をしている。物を複数でもってとらえている。もちろん、その「物」とは水や土や、山や沢に限られているのでないので、そのなかには人間だって入っているので、その点すでに古代ギリシア人のやり方とはちがっている。いうまでもなく、近代人が「物質」とか「物体」とかいう場合の物の意味にけっして限定されてはいなかったことは、注意を要する。「物あり則あり」(『詩経』)というようなはなはだ学問的な言い方をしても、その「物」には人間(たみ)のこともふくまれていたのである。古代インド人の考え方との大きな相違がここに見出される。古代の中国では「物」の意味内容のうちには、たとい人間や精神も入れていたにしても、物という言い方をすることは、インド人とちがって、定立することを避けていないことである。それどころか人間がものを考えるときの法式(つまりカテゴリー)に対して、すでに鋭く反省をしていたのである。Kategorie というヨーロッパのことばに対し日本では「範疇」の語があてられていることは、周知のことである。それは中国古代の『書経』の「洪範九疇」の文字からとったことでもわかる。古代の中国人ははじめはこのようなすべり出しをしたのであったが、それにしてもしかし、古代ギリシア人やローマ人のような考え方はとらぬようになっていった。老荘的な違ったものだった。古代ギリシア人たちの場合では、自然は生じた物としての自然(physis)をさすのであった。中国ではそうでなかった。そこで私たちは、つぎの老子の言葉に注意してみることにしよう。「人間は大地の上にあるものにもとづいてきまりをつくった。その大地の上にあるものは、天にしたがってそのきまりができた。そのまた天のきまりのもとは道なんだ。さらにその道のきまりは自然なのだ。<註(1)>」。この一連の語でみると、発想においては、つまり地上のものに着眼されているところでは、人間の経験が卒直に出ていて、私たちは具合いいと思うのである。古代のギリシア人の発想と共通しているとおもえるのである。ところが、老子では、地上にあるもののきまりのところで、「水」とか、「湿なるもの」とかいうところへはゆかず、「天」なるものへゆき、さらに「どう」にゆき、とうとう「しぜん自然」なるものへと行ってしまっている。こうなれば、この「自然」はギリシア人の自然 physis ではない。ローマ人たちのつかった自然 natura だって physis と同じで、おのずと生れ出た物だという意味をもっている。老子では、自然ということは人間や人間のことばにつけていわれていることが多い。老子は「わざとつくらないことばが自然だ<註(1)>」というようなことをいったり、「こまかいことをきめつけないで、悠然としていて、ことばを大切にしていれば、どうしなくても事は成就するものだ。そうなれば、きっと百姓(人民)たちは、わが自然だととっているにちがいない。<註(3)>」というようなことをいっている。「自然」ということをいっても、ギリシア人やローマ人が自然といったものとは異ったものをさしたのである。中国のえき易では私たちに大いにのぞみをもたせるような出発をしている。易では天・沢・火・雷・風・水・山・地(八卦)のことをいっているのだか問いのきっかけになったのである。がしかし、かなしいことに、そこに一線を画すことはしなくて、観念的なもの、形而上的なものを考えることへと、ひきつづいて発展してしまっているのである。
 自然の解釈が形而上学的になるとともに、物といわれるものは形而上学的な意味のものとなっていった。そうなっていったのは、産業上の技術のあり方や、生産物の分配の仕方や、ひいては政治の仕方が、ヨーロッパの場合とちがっていたことと関係しあってできたのであるが、とにかく「自然」の考えにしても、「物」の考えにしても、ぜんじに形而上学的なものへと発展したのである。中国では宋代になると、仏教の思想が滲透してきていて、一層この傾向は強まった。いわゆる宋学(程朱学)の思想家たちになると、論をおこすやすぐに「天地」とか「万物」とかいったのであるけれど、万物といっても、地上のいろいろの物がはっきりと複数でもってつかまれているわけではなかった。たとえば、程明道(一〇三二―八五年)は「天地万物はその理の上からみると、独立しているものはなく、みなついをなしている。どれも自然にそうなっている」(皆自然而然)といったふうである。こうした形而上学は、中国では宋学が代表的だといわれている。この宋学のように抽象的な思索の仕方だけで済ませていたのでは、ヨーロッパに発展した自然学はもちろんのこと、自然の記述(自然誌)のような科学を発達させることはできなかったのは当然である。むしろ、そうした傾向を塞ぐのが宋学の特長ですらあった。日本の儒学もそのような系統でもって栄えていた以上、自然物につ一四、五世紀になると、学者たちは宋学(程朱学)の空疎な性質から離れてゆこうとするふうが起った。王陽明の思想はその実例のうちで著しいほうであろう。陽明はこんなことをいっている。「考えてみるに、物理は自分の心の外では求められない。自分の心より外に物理を求めても、物理があるわけではない。<註(4)>」「物理」といっても、ヨーロッパでいう意味のものにはとられないが、「物理」という語のつかい方は用語例があって、心のことだけをいうのとは、おのずから違っている。とにかく、空疎な思想でいっぱいだった。
 以上のようにして、東洋では「自然」とか「物理」とかのことばはあったけれど、その内容は空疎でしかなかった。空疎というのは、そういう概念(すなわち「自然」や「物理」の概念)をふたたび自然のじっさいの世界に戻して、そこでもう一度、検討することがぜんぜんできないという意味である。このことは人間たちの日常の生産の生活と、ああした考え(概念)とにれんかんがなかったことでもあるのである。虚空の考えはあっても、「空間」の概念はできてこない。したがって、真空の概念も気圧の概念も成長してこない。つまり、自然界のじっさいのものに戻してみることがなかったからである。こうしたことは、東洋に唯物論の出てこなかった大きな理由である。

 ;註(1)「人法地。地法天。天法道。道法自然」
   (2) 「希言自然」
   (3) 「悠兮。其貴言。功成事遂。百姓皆謂我自然」
   (4) (夫物理不外於吾心。外吾心而求物理。無物理矣)

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)
その他、「科学図書館」所収の、PDF も適時参照した。
なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用い、傍点は、太字表示の b タグ を用いた。

テキストの快楽(010)その1

◎ ツルゲーネフ作 神西清訳「散文詩」(02)


  対 話
       ユングフラウもフィンステラ—ルホルンも、いまだ人の足跡をとどめない*。

アルプスのいただき。……そそり立つがけのつらなり。……山なみのきわまるところ。
山々のうえ、 無言で澄みかえる浅みどりの空。きびしく肌をさす寒気かんき。きらめき光る堅い雪はだ。その雪をつらぬいて、 風にさらされ氷におおわれ、荒々しく立つ岩また岩。
あまぎわに、相対してそびえ立つ二つの巨岳、ふたりの巨人。ユングフラウとフィンステラールホルンと。
さてユングフラウが、隣人に話しかける。「何か変ったことはなくて? あなたのほうが、よく見えるでしょう。下界はどんなふうなの?」
またたくまに過ぎる幾千年。さてフィンステラールホルンが、ごうごうと答える。「密雲が地面をおおっている。……まあお待ち!」
またたくまに過ぎる、またも幾千年。
「さあ、こんどはどう?」と、ユングフラウ。
「こんどは見える。下界はあい変らずだ。まだらで、せせこましい。水は青く、森は黒く、ごたごたと積んだ石は灰いろだ。そのまわりに、あい変らず虫けらどもがうごめいている。ほら、まだ一度もお前やおれを汚したことのない、あの二本足の虫けらさ。」
「人間のこと?」
「うん、その人間だ。」
またたくまに過ぎる幾千年。
「さあ、こんどはどう?」と、ユングフラウ。
「虫けらは、だいぶ減ったようだ」と、フィンステラールホルンがとどろく。「下界はだいぶ、はっきりしてきた。水はひいて、森もまぱらだ。」
またたくまに過ぎる、またも幾千年。
「何が見えて?」と、ユングフラウ。
「おれたちの近所は、さっぱりしてきたようだ」と、答えるフィンステラールホルン。「だが、遠くの谷あいには、まだらが残っていて、何やらうごめいている。」
「で、こんどは?」と、またたくまに幾千年をへて、ユングフラウがきく。
「やっと、せいせいした」と、答えるフィンステラールホルン。「どこもかしこも、さっぱりした。どこを見てもまつ白だ。……見わたすかぎり、おれたちの雪だ。いちめん雪と氷だ。みんなこおってしまった。これでいい、せいせいした。」
「よかったこと」と、ユングフラウが言う。「でもわたしたち、たんとおしゃべりしたから、ひと眠りするとしましょうよ、おじいさん。」
「うん、そうだ。」
巨山はねむる。みどりに澄んだ空も、永遠にもだした大地のうえに眠る。
       II. 1878

注]
*ユングフラウも…… この題辞は、一八七八年にあっては時代錯誤の感なしとしない。この頃までにユングフラウもフィンステラールホルンも、すでにたびたび踏破されていた。前者の初征服は一ハー一年八月、より険阻と伝えられる後者の初登舉でさえ、翌ー二年八月になされた。思うにこの題辞は、感星義作家カラムジーンの『ロシア旅行者の手紙』にもとづくものか。一七八九年八月の「手紙」のなかで、カラムジンはユングフラウにふれて言う。――「かしこにはいまだ人跡をとどめず」と。

テキストの快楽(011)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(003)


     二 なぜ日本では唯物論者が出てくることがむつかしかったか

 さて、誰が唯物論者であったかをきめることは、急がないほうがよい。それよりも、なぜ日本では唯物論者が出てくることが困難であったかを明らかにするほうが、たいせつである。この問いが解かれれば、唯物論者がほんとうはどんな人であるべきであるにせよ、とにかく、そういう人が出てくる余裕も機会も日本にはなかったことがわかる。そういうようにたずねてゆくことが、けっきょく日本における唯物論者のあり方を明らかにしてゆくことに、もっともかなうように思われる。
 唯物論者の出てくることのむつかしかった日本とは、どういう国であったか。ずっと旧いことはここでははぶくことにしょう。ヨーロッパでいうとルネサンスの直前のころに日本で書かれた、北畠親房ちかふさの『神皇正統記じんのうしょうとうき』(一三三九年)をとりあげることをしてみたい。この本に照らしてみて、日本はどういう国であったのか、それを考えてみることから始めよう。この書を批評して、歴史としては粗略、文明史としては一貫した理路を欠くというように考える人(たとえば山田孝雄)があるが、私はこの日本が近世においてどんな国でありはじめたかを知るには、じつに恰好の文献だとおもう。『日本開化小史』の著者田口卯吉はこの本の著者の着眼の鋭いことを称揚したことがあるが、私は田口説をとりたい。さて、この書は巻頭まず、「大日本おおやまとは神国なり」と規定する。「日神ひのかみがながくとうをつたえいる」という点で、異国に例がないと著者はいう。さらにすすんで、親房はこの国をば「君子不死の国」だといっている。不死の国とは、この国にすんでいる人間たちは、「天性柔順で、道をもって御し易い」という意味である。このように、親房が日本という国をつかんでみせていることは、それからまた、そうつかんでみられるようにイデオロギーが当時もその後もできていたことは、まず誤っていないと考えられる。この国はそういう教化を国民に植えつけたことを、親房はよく知っているのである。さらに重要なのは、それまで日本国内にあったいろいろの思想方向を一つに統一しようろん南朝のための募兵の志にあったかも知れぬが、それはそれでよい)。書き方をみると、彼として成功している。彼がこの本を書いたころは、いわゆる鎌倉仏教の宗祖たちはもうすでに一世紀も前にそれぞれ一宗をたてていたのだが、彼はそれらには触れなかった。「一宗に志ある人が、余の宗をそしり賎しむことは、大きな誤りである」といって、ひたすらに調和をはかっている。それどころか、いろいろの世界観人生観(仏教・儒教・道教)はもちろん、産業技術(彼はその例として「稼檣」や「紡績」や「工巧」などをあげている)や経済や文学や芸能などをあげて、それらがこぞって盛んになるのが「聖代」といわれるものだとして、文化の全体をとらえて、それをいわば国策にそわせようとしている。このように文化(「道」)のぜんたいをとらえて論述していることは、あとにもさきにもないことだった。とにかく、日本の「近世」がはじまるにさきがけて、早く親房が『神皇正統記』を書いたことは、歴史的にいって意義が大きい。これより後の多くの歴史家たちが、この本によっていわゆる「皇代記」を固めていったのである。「大日本帝国憲法」の発布の翌年に公判された『国史眼』にしても、天皇継統表はすべてこの本に拠っているのである。『神皇正統記』の著者が日本の国柄をつかんでみせたその歴史眼は、後の歴史家たちに大きな影響をあたえた。彼のあとに出た日本歴史家たちで統一をうたわない人はいないのである。江戸時代のなかごろの社会批評家の太宰春台は、彼の『封建論』(一七四五年)のなかで家康の「英武」をうたって、日本の「海内統一」を称揚しているし、幕末のすぐれた史論家としての伊達千広は、彼の『大勢三転考』のなかで、徳川幕府の政治のもとの「大小の国々必一つに和順」せる太平無事のさまを強調しているのである。水戸光圀や頼山陽のことはあげるまでもない。
 親房は、私たちの用語でいえぱ、文化のぜんたいをながめて考察している。政治・経済・産業はもちろんであるが、批評家としての文士(「坐して以て道を論ずるは文士の道なり」と彼はいっている)や算術や詩論や諸芸の人々のことすべてをあげておいて、人はその性来の器量がちがうのだから、その分にしたがうべきだという思想を示している。何につけても調和、何につけても統一、これが彼の論旨である。
 私たちにとって、もっとも重要なことはつぎのような思想である。すなわち、調和または統一の考えがたんに政治的なものでなくて、この著者が把えているように、その考え方は日本人の一つの世界観となっていることである。個人個人の性格や能力の相違についての見解が、底深い宿命的な形而上学に根をもっていることである。どんな人生観をもつ、どんな職業をもつ、どんなイデオロギーをもつかは、そのひと個人の生涯で完了しないのだ、という世界観的な思想を、彼のなかに私たちは見のがしてはならない。これは親房の思想であって、彼が日本民族のなかに見てとった、かなり仏教の影響からくる思想である。人は、このイデオロギーに共感するか、あのイデオロギーに共感するかの違いはあっても、そのこと自体は(どっちにつくか、どっちについたかどうかは)さほど重大のことでなくて、もっと大きいもっと広い関係において、それぞれの個人が役立っている、その立場というか、世界観というか、とにかく、その広大さについていうと、人がどの職業につき、どの階層につき、どの人生観をもつかは、それ自体だけで完結しているのではない。たがいに補い合っている。だから、うわべ<傍点>はちがっていていいというのである。彼はこういっている、「われはこの宗に帰し、人はかの宗に心ざす。ともに随分の益あるべし。これ今生一生の値遇にあらず」と。だから個人の生活は来世までのびている。七生の説は当然出ていいようになっているのである。
 ここに利益という思想が出ているが、これは見落すことができない。『神皇正統記』の著者は一方において、とてつもない広大な、人間の一生をそのなかに包んでいるような広大な世界をえがいている。このなかでは偉大な調和ができているという信念である。ところが他方において、そのように考えてゆくのが得だ、利益だという思想を、そこにひそませている。彼はこういっている。「政治家ともあるものは、あれこれの教えをみなとりいれ、また人民のほうもそれぞれの教養のあるものをすべて見落さぬようにすることだ。そうするほうが利益のあることを忘れてはいけない」(「国の主ともなり、輔政の人ともなりなば、諸教を捨てず、機を漏らさずして、得益の広からん事を思ひ給ふべき也」)。以上のように、一方では形而上学的なものをもって全体をつつみ、まことに庶民にとって深遠なるものを示しておき、他方では実践上の利得ということでしぼっているのである。この混濁は日本的イデオロギーとして見落せないものである。いったい、このようなやり方がヨーロッパの世界観の歴史や宗教的思想史のなかに見出されるであろうか。これは親房の仏教思想からきていると思えるが、じつは、このようなゆき方やり方は、日本化した仏教の一つの特質なのであると私はみたい。インドや中国の仏教のあり方と日本のそれとの相違は、こうしたところにあらわれている。つまり、親房のいっていること、すなわち彼が日本の歴史のなかに見てとっていることは、すべて日本的特色であるという結論を下してよいであろう。このようにして、彼は日本は「君子不死の国」であると過去の歴史を見てとり、さらにそのように日本を規定したのである。そしてさらに、この国の人民は「天性柔順で、道をもって御し易い」ということを、あの著述でもって明らかにしたのである。私たちが今日いうところの「文化」は、日本の旧い、ことばでいうと「どう」くらいしか相当するものがないのであるが、仏道にしても、儒道にしても、神道にしても、その他、芸道げいどうにしても、人民を「御する」道具なのであった。人民のものとして人民のなかからできあがった文化だとは、いいにくいのである。外国から入ってくるどんな文化も、人民を「制御する」道具としてとり入れられたもののようである。
 このような文化の国においては、その国の人民のなかから人民の抗議の声としての唯物論は芽ばえてくることはむつかしく、唯物論者が出てくることは至難だったことは当然であった、といわねばならない。
 さて、ある国、ある民族のうちから唯物論者が出てくることの困難な理由は、以上の考察で十分なのでは決してない。それどころか、以上の日本的なものを、じつは世界観的に思想的に基礎づけていたものがあり、それはヨーロッパの学問思想がそのぜんぶの幅をもって日本に入ってくるまで、ずっと成長し、発展したものであった。それを私のぜんぶの幅をもって日本に入ってくるまで、ずっと成長し、発展したものであった。それを私は、つぎの第三節で「東洋にはなぜ唯物論哲学がなかったかのであるか」という題でのべてみたい。

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)
その他、「科学図書館」所収の、PDF も適時参照した。
なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用い、傍点は、太字表示の b タグ を用いた。

テキストの快楽(010)その3

◎神西清訳 チェーホフ「シベリアの旅」(07)

     

 知識階級出の追放者が窓際に立つて、隣家の屋根を默って桃めてゐる姿は、實に厭なものである。かういふとき、彼は何を考へてゐるのだらう。また彼とつまらぬ世間話をしながら、 まるで「お前は歸って行ける。だが俺は駄目だ」とでも言ひたげた表情でじつと見つめられるのも、厭なものである。氣の毒で堪らなくなるから厭なのだ。
 今日、死刑はよくよくの場合でないと適用されないといふのは、屢〃耳にする言葉だが、これは必らずしも當つてゐない。死刑に代ったとされる最高の刑罰手段は孰れも、依然その最も重要且つ本質的な徵候を保ち續けてゐるのである。つまりそれは、終身性、無期性だ。そのどれを見ても、犯罪者を平常な人間社會から永久に<傍点>遠ざけるといふ、死刑直傳の使命を帯びてゐる。從つて重罪を犯した人間が、その裡に生を享け且つ成長した社會から葬り去られるといふ點では、死刑橫行時代と何の變りもないのである。割合に人道的とされてゐるわがロシャの法律では、刑事犯も懲治犯も共に最高の刑は殆どみな終身刑である。徒刑*は必然的に永久の追放を伴つてゐる。追放刑*が怖ろしいのは實にその終身性に依ってゐる。また懲役*に處せられた者は、刑期が滿ちたとき社會がもしその仲間入りを拒むなら、シベリヤに追放される。以上の場合宕ど總てを通じて、權利の剝奪は終身的性質を帶びてゐる、等々。このやうにして最高の刑罰手段は悉く、墓の中での安心をまで犯罪者に與へまいとする。それさへあれば、死刑に對する私の嫌惡感も一變されるであらう、墓場の中の平安をまで。また一方、終身性――つまり、より良い生活はもはや望み得ぬ、自分の裡の公民は永久に死に、幾ら努力しても自力では彼を蘇らせることは出來ぬといふ自覺 がある以上、ヨーロッパでもわが國でも死刑が實は廢止されたのではなく、ただほんの少し感じのいい別の衣裳を着せたに過ぎぬと考へて差支へない。ヨーロッパはあまり長らく死刑に慣れて來た。そのため、いつまでも思ひ切り惡く緣が切れないのである。
[訳注]
*徒刑、追放刑、懲役 譯後の不足を補ふため、 少し説明を加えて置く。當時ロシヤの習慣法によれば、刑の種類この三つに分たれてゐた。「徒刑」(Katorzhnye raboty)は刑事上の重罪犯に課せられるもの。卽ち、ネルチンスク、アム—ル、サガレン等に送られて烈しい労役(鐵道建設、鑛山等)に服する。「追放刑」(Ssylkama poselenie)は國事犯に課せられるもの。追放者は一定地方に警察の監視下に居住することを强ひられる。これに二種あって、一は法律の手續を經て、法廷で罪を宣告された者、他は單に內務大臣の「行政命令」により處分されるもの。この後者はロシヤ法律に固有の悪弊であつた。「懲役」(Arestantskie roty)とは普通の刑務所に短期間服役するもの。

 五十年乃至百年の後には、今私達が鼻孔を裂く刑や左手の指を落す刑を見ると同様の困惑と不快の眼差しで、現代の刑罰の終身性を眺めるやうになることを、私は信じて疑はない。また、この刑罰の終身性のやうな陋習が、舊式であり且つ偏見に滿ちたものであることを、よし私達がどんなに深くはっきり認識したとて、所詮はこの悲參に對して何等手の下しやうのないことも亦同じく認めざるを得ない。この終身性を、何かもっと合理的で公正なものに變へるには、現在の私達の知識や經驗ではとても足りず、從って勇氣も不足なわけである。またこの方面で、優柔不斷且つ一方的な試みをして見たところで、知識や經驗に基かぬ創始時代には共通の運命である、重大な過誤や極端に陷るのが落ちだらう。如何にも歎かはしくまた奇怪なことだが、監獄と流刑との孰れがロシヤに適はしいかといふ理代的な問題すら、决定する權利は私達にないのである。何故なら私達は、監獄とは何ぞ、 流刑とは何ぞといふことさへ、まるで知らずにゐるからだ。監獄や流刑の部門に於けるわが國の文獻を覗いて見給へ。何といふ貧弱さだらう。二三の小論、二三の名前。まるで口シヤには監獄も流刑も徒刑もないやうに、あとは空々漠々だ。もう二三十年來わが國の思索的インテリゲンチヤは、犯罪者は總て社會の產物なりといふ文句を繰り返してゐる。だがさう言ひながら、何とこの産物に無關心なことだらう。鐵窓につながれた人々や流刑に惱める人々に對するこれほどの冷淡さは、キリスト敎國としてまたキリス卜敎國の文獻として合點の行かぬことだが、その眞因はわが國の法學者の極度の蒙昧に根ざしてゐるのだ。彼の無學は固よりながら、 幟業的偏見に囚はれてゐる點でも、その播き散らす蕁麻いらくさ*の種子と何等擇ぶところはない。彼が大學の試驗を受けるのは、人間を審き、人間に下獄や流刑を宣吿するやうになりたいからである。役につき月給を貰つて、する事といへば審いて宜吿をするだけだ。犯罪者が判決の後て何處へ行くのか、更に監獄とは何ぞシベリヤとは何ぞといふことは、 固より知りもせす興味もない。これは彼の權限の外にあって、すでに赤鼻の護送吏と獄吏の仕事なのだ。
 話をする機會のあった土地の人々や官吏や、或ひは驛馬車乃至傭馬車の馭者のロから聞いたところでは、インテリ出の追放者達――つまり文書僞造、公金私消、詐欺などの罪でここへ送られて來た元士官とか冨とか、公證人とか會計士とか、或ひは貴公子くづれといつた人物だか、 彼等はみんなカ籠りかちの虔ましい生活をしてゐるといふ。例外はノズドリョフ*氣質の持主だけだ。この型の人間になると、場所を問はず年齡を間はず境遇を間はず、依然元のままの彼である。然し彼等は一つ所にじつとしてはゐず、シベリヤ狹しとヂブシー的遊牧生活を送って、そのめまぐるしい移動性に至っては殆ど端倪すべからざるものがある。ノズドリヨフ型のほか、インテリ出の「氣の毒な人達*」の中に、腐り切つた悖德漢卑劣漢を見掛けることも稀ではない。しかしこれは怡ど殘らず見當がついてゐて、唯一人知らぬ者はなく、皆の指弹を受けてゐる。繰り返していふが、 大多數は虔ましい生活をしてゐる。
[訳注]
*ノズドリョフ 『死せる魂』に描かれた地主の一タイプ。(第一卷第四章)。浪費好きで呑氣で賑かな暴れ者である彼は、由來ロシヤ地土には少からぬ陽性の完全な軆現者として、 醜悪を極める慾の俘、猜疑深い吝嗇漢ブリュ—シキンの陰性と見事な心理的對照を作してる。
*「氣の毒な人逹」 「内人たち」の意。ロシヤでは罪囚を明らさまな名で呼ぶことを禁じ、「氣の毒な人達」と呼ぶのが慣はしであった。

 迫放地に着いて最初のうち、インテリ達は途方に暮れて茫然としてゐる。おづおづと、まるで叩きのめされたやうな風に見える。彼等の多くは貧乏で、非力で、碌な敎育は受けてゐない。財產といったら字が書ける位なものだが、それとて往々にして使ひ途のない惡筆である。彼等は先づリンネルの肌着や、 敷布シーツ、ハンカチの類を小出しに賣り拂ひはじめる。そして二三年すると貧窮のどん底に落ちて死んで行く。(タガンログの稅關疑獄の主要人物だったクゾヴレフも、そんな風になって卜ムスクで死んだ。葬式の費用は、やはり追放者の或る氣前のいい人が持った。)これと違って、何かの仕事を手に入れて次第に地步を築き上げる人もある。商人になつたり、辯護士になったり、地方新聞に書いたり書記仲間にはいったりする。さういふ彼等の稼ぎも、月三十乃至三十五ルーブルを越すことは滅多にない。
 ここの彼等の生活は退屈だ。ロシヤの自然に親しんだ彼等には、シベリヤのそれは單調で、貧相で、鈍重なものに見える。キリスト昇天節はまだ嚴寒だ。五旬節*には水氣の多い雪が降る。町の貸間は穢らしく、街路はぬかるし、店の物はみんな高價で店曝しで、しかも乏しい。ヨーロッパ人が使ひ慣れた品物などは、幾ら金を出しても大抵は手に入らぬ。土地のインテリは、思想人もさうでないのも、朝から晚までヴォトカを飮む。醉ひもせず方圖も知らず、實に下品で亂暴で馬鹿げた飮み方をする。土地のインテリと話をして見給へ。二言目には「ひとつヴォトカでもやりませうか」と來るに極ってゐる。そこで追放者は、退屈まぎれにお附合ひをする。はじめは澁面を作る。やがて慣れて來る。仕舞には言ふまでもなくその道の常習犯になる。飮酒に就いて、追放者が土地者を悪化するといふのは當つてゐない。土地者が追放者を惡化するのである。
 ここの女も、シベリヤの自然に劣らず退屈だ。生彩もなく、薄情ではあり、着物の着方も知らず、歌も歌はす、笑顏も見せす、可愛気もない。ある土地の古顏が「手觸りが惡い」と話の序でに言つてゐたが、その通りである。生粹のシベリヤ兒の小說家や詩人が生れたとしても、その小說や詩の主人公は女ではあるまい。彼女が、救世とか或ひは「世界の涯までも」といったやうな高尙な活動力を、男性の裡にめざまし靈感させようとはとても思へない。下等な居酒屋、家族風呂、公然乃至祕密の夥しい魔窟などは、孰れもシベリヤの人間の大好物であるが、これを措いてはどの町にも何ーつ遊び場所はない。秋や冬の夜長を、追放者は自分の部屋に坐って過ごすか、ヴォトカを飮みに土地の古顏の所へ行く。二人でヴォトカを二本ビールを六本も倒すと、例によって「ひとつ繰り込むかね」と來る。言はずと知れた魔窟である。退屈、限りない退屈。何をして氣を紛らさうか。そこで追放者は、リボー*の『意志の障礙』といった類の、黴の生えた小册子を讀んで見る。春はじめての快晴の日に淡色のズボンを穿いて見る。それでお仕舞である。リボーは相當に退屈た。それに、自由ヴォーリヤのも無いのに意志ヴォーリヤの障礙に關する本を讀むのは、果して時宜を得たことたらうか。淡色のズボンでは寒い。だがとにかく單調は破つて災れる。
[訳注]
*五旬節 復活祭後第八の日曜日。またキリスト昇天節は、同じく復活祭後四十日目。
*リボー フランスの心理學者(一八三九――一九一七)。『記憶の障礙』(一ハ八一)、『意思の障礙』(一ハ八三)、『注意の心理學』(一ハ八八)など實驗心理學の論文が多く、その大部分はロシヤ譯されてゐる。なほ・ロシヤ語の volja には「意志」の義と「自由」の義とが並存してゐる。これを利用して數行先にチェーホフは洒落を飛ばしてゐる。

日本人と漢詩(119)

◎ 私と杜甫


 十年くらい前になるだろうか、中国・四川省(sì chuān shěng)の成都(chéng dōu)にある、杜甫草堂(dù fǔ cǎo táng)を訪れたことがある。その頃は、興味はあったが、本格的に拼音(ピンイン pīn yīn)までのめり込むとは思わなかったので、やや駆け足で広い庭園を見ただけであり、今ではすこし後悔している。
今日は、杜甫の有名どころの七言律詩「登高」を講義の一コマでご教示していただいた。律詩一首で精一杯というところだ。

dēng gāo   dù fǔ
登 高   杜 甫

fēng jí tiān gāo yuán xiào āi
風 急 天 高 猿 嘯 哀
zhǔ qìng shā bái niǎo fēi huí
渚 淸 沙 白 鳥 飛 廻
wú biān luò mù xiāo xiāo xià
無 邊 落 木 蕭 蕭 下
bú jìn cháng jiāng gǔn gǔn lái
不 盡 長 江 滾 滾 來
[xiāo xiāo xià、gǔn gǔn lái とはなんと美しい対句としての響きだろう。あとの、第3声が2つ連続するときは、はじめの3声は、2声になると習ったが、以下の Youtube では、3声の連続として聞こえるがどうなんだろう]
wàn lǐ bēi qiū cháng zuò kè
萬 里 悲 秋 常 作 客
bǎi nián duō bìng dú dēng tái
百 年 多 病 獨 登 臺
jiān nán kǔ hèn fán shuāng bìn
艱 難 苦 恨 繁 霜 鬢
liáo dǎo xīn tíng zhuó jiǔ bēi
潦 倒 新 停 濁 酒 杯

・読み下し文と語釈、訳文は、マナペディアなどを参照。
・ピンイン読みは、Youtubeなど参照。
写真は、杜甫草堂の入口(Wikipedia)から

日本人と漢詩(118)

◎ 私と杜牧

 一念発起し、某語学学校で、漢詩のピンインを習い始めた。ピンインの抑揚の仕方はもちろんのこと、発音の際の、口の形とそれを次の漢字につなげ形など実に丁寧にご教示いただいた。選んだ杜牧の詩は、いささや「軟派」調で、中国では、小学生の教材としては不適当とされているそうだ。

遣懷 おもいる qiǎn huái 杜牧  dù mù

落魄江湖載酒行 江湖に落魄らいはくし酒をせて行く luò pò jiāng hú zài jiǔ xíng
楚腰懺細掌中輕 楚腰は繊細にして掌中しょうちゅうに軽し chǔ yāo chàn xì zhǎng zhōng qīng
十年一覺揚州夢 十年ひとたびむ揚州の夢 shí nián yī jué yáng zhōu mèng
贏得靑樓薄倖名 あまし得たり青楼 薄倖はっこうの名 yíng dé qīng lóu bó xìng míng

 講師の出身地の上海では、漢詩のピンイン発音の CD や書籍が、300円くらいで売っているとのこと。日本でのアマゾンなどでの販売は、あまりなく、あっても、数千円もする。機会があれば、上海の観光に出かけたい気持ちである。