◎ シェイクスピア・坪内逍遥訳「リア王」(03)
リヤ王:第一幕 第三場 オルバニーの公爵館
ゴナリルと其家扶オズワルドが出る。王リヤは王位を婿二夫婦に讓って、自分は二百人の侍士を從へて、 最初に先づ長女ゴナリルの邸に同棲することにし、毎日のやうに出獵し、 贅澤と我儘の限りを盡すので、不孝者のゴナリルは忽ち其本性を現はして、冷遇しはじめる。
ゴナリ
ぢゃ、阿呆をしかったのが不埒だといって、吾邸の侍士を御打擲なすったの?
オズワ
はい、さやうでございます。
ゴナリ
毎日毎晩わたしをば困らせてばッかり。始終何かしら怖ろしい惡いことをなさるので、 邸中が引ッ繰返るやうな騷ぎです。もう忍耐しますまい。 お附きの侍士どもは亂暴になるし、 御自身はまた些細な事を原に口ぎたなくおっしゃるし。獵からお歸りになっても、 わたしァ御挨拶しますまい。病氣だとお言ひ。お前も、今までとは違ひ、 ずっと無奉公にしむけたがいゝよ。其責任はわたしが負ひますから。
奧にて角笛の聲が聞える。
オズワ
お歸館でございます。喇叭が聞えまする。
ゴナリ
面倒がって故とうッ棄っておくといふ樣子をしておいで、お前も、他の者も。 如何したのかと(不審がって)彼れ此れおっしゃるやうにしたいの。 お氣に染まなけりゃ、妹の處へいらっしゃるがいゝのさ、彼女の心も、 壓制させちゃおかないといふ點だけは、わたしと一致してゐます。役に立たずの老爺! 一旦讓っておきながら、いつまでも權力を振廻さうとするんだもの! ほんとに耄けると赤兒に復るんだから、 機嫌ばかり取ってると、増長して、しやうがない、時々叱りつけなくッちゃ不可ません。 今言ひつけたことを忘れまいよ。
オズワ
かしこまりました。
ゴナリ
お附きの侍士共に對しても、お前がた一同、冷淡な顏をしてゐるがいゝ。 如何なことが出來しようと、かまひません。同僚へさう指圖なさい。 わたしはそれを機にしようかと思ひます、是非、言ってのけるために。 妹へ直ぐに手紙をやって、わたしと同じ手段を取らせませう。食事の準備をしておゝき。
二人とも入る。
第一幕 第四場 同じ處の廣間。
追放されたケントが下人に變裝して出る。彼れは斯うして蔭ながら、王リヤを擁護しようとするのである。
ケント
持前でない聲色を使って、顏や形同樣に、言葉遣ひまでも變へッちまふことが出來るものなら、 かう變裝をして忠義をしようといふ目的を遂げることが出來るのだが。……さァ、 追放されたケントよ、若し構はれてゐるこの國で、(首尾よく)奉公することが出來りゃ、 汝が大事に思ふ御主人がさぞ調法がられることであらう。
奧にて角笛。リヤが大勢の武士や侍者を從へて出る。
リヤ
ちょッとも待てんぞ。直ぐに食事の準備をせいといへ。
侍者一人急いで入る。王はケントに目を著ける。
や!汝は何者ぢゃ?
ケント
へい、男で。
リヤ
何を職業にする?何を予に求める?
ケント
元値も掛値もありゃしませんや。信用して下さりますりゃァ實貞に御奉公いたします。 正直者は大好きです。聰明で口數の少ない人となら善く交際ひます。天道を畏れます。 よんどころなけりゃ喧嘩もします。魚は決して食ひません。
リヤ
何者ぢゃ汝は?
ケント
めっぽふ正直な野郎ですが、王樣と同じに貧乏でございまさ。
リヤ
王が王として貧乏なやうに、汝が臣下として貧乏なりゃ、成程、大分貧乏でもあらうな。 何を要めるんぢゃ?
ケント
御奉公を。
リヤ
だれに奉公がしたい?
ケント
あんたに。
リヤ
予を存じてをるか?
ケント
いゝえ、存じちゃゐません。が、あんたは、旦那と呼んで見たいお顏附の方でございます。
リヤ
といふのは?
ケント
威嚴があります。
リヤ
どんな勤務が出來る?
ケント
先づ、正しい祕密事ならきッと守ります、馬にも騎ります、走ります、七面倒な口上なら、 述べるうちに滅茶にしますが、只の御口上を、無潤色になら、傳へます。 竝の人間のすることは爲てのけます。第一の長所は勤勉なことでございます。
リヤ
幾齡になる?
ケント
唄が巧いからッて其女に惚れるほど若くもございませんが、 如何なことがあったって女に現を拔かすほど耄けてもをりません。 もう四十八年だけ背負ひ込みました。
リヤ
從いて來い、使ふて與すであらう。食事後にも、尚ほ予の氣に入ってをるやうなりゃ、 傍においてやる。……(奧に向ひて)食事ぢゃ、やい、食事ぢゃ!……小奴は何處にをる? 阿呆めは?……其方參って阿呆めを爰へ呼んで來い。……
侍者の一人が入る。
此時、オズワルドが、王の前へ、わざと知らぬ振をして、鼻唄をうたひながら、横切って去らうとする。
こりゃ、やい、我女は何處にをる?
オズワ
えゝ、失禮でございますが……
とオズワルド空ぶいて入る。
リヤ
何と言うた、彼奴?あの馬鹿者を呼び戻せ。
侍者の他の一人入る。
やァ~、阿呆めは何處にをる?世界中が熟睡ってしまうたか?
侍者の一人戻り來る。
どうぢゃ?あの犬めは何處にをる?
侍者
姫君は御不例の由に申しまする。
リヤ
なんで彼奴めは戻らなんだか、予が呼んだ時に?
侍者
へい、露骨に申しをります、厭ぢゃったと。
リヤ
厭ぢゃった!
侍者
御前、仔細は存じませんが、てまへ考へまするに、 殿下に對するお待遇が從前のやうに御懇ろでないやうに存ぜられまする。總體に冷淡に相成りましたのが、 公爵夫婦にも御家來衆の擧動にも、見えてをりまする。
リヤ
や!何と申す?
侍者
御前、平に御高免を願ひまする、萬一、存じ違へでござりましたなら。 君辱められたまふと存じながら、默してはをられませんゆゑに、申し上げましたので。
リヤ
予が心附いてゐたことを想ひ起させたに過ぎんわい。予も近來微かに其冷遇に心附いてをった。 なれども予はそれを以て彼等に不深切な下心あるが爲とは思はんで、寧ろ予の穿鑿過ぎた邪推であらうとばかり思ふてをった。 なほ善う檢べて見よう。それはさうと、阿呆めは何處にをる?此二日ばかりは彼奴の顏を見なんだ。
侍者
末姫さまがフランスへ御出立になりまして以來、阿呆は滅切元氣がなうなりました。
リヤ
もう其事はいふな、よう知ってをるわい。……其方參って我女に申せ、予が話したい事があると。……
侍者の一人が入る。又、他の一人に對ひて
其方は阿呆めを呼んで來い。……
此時、オズワルドが又出る。
おゝ、汝、いや、お前さん、こゝへ來て貰ひませう。……予は誰れでござるの?
オズワ
御奧樣のお父樣で。
リヤ
御奧樣のお父樣?御殿樣の奴隸めが!おのれ、取るにも足らん犬め!奴隸ッ!畜生ッ!
オズワ
さやうな者ぢゃございません、憚りながら。
リヤ
おのれ、予を睨み返しをったな?
王怒ってオズワルドを一つ打つ。オズワルドきッと其手ををさへて
オズワ
ぶたれちゃ居りませんぞ。
と手向かはうとする。途端に、ケントが横合から躍り入りて
ケント
顛覆されもせんだらうな、此 蹴鞠野郎め!
とオズワルドを蹴飛す。
リヤ
かなじけない。忠義を盡しをる。かはゆがってやるぞ。
ケント
さァ起きて去ッちまへ!上下の差別を教へてやらァ。去ッちまへ、去ッちまへ! 唐變木の尺がもう一度取りたけりゃァ、愚圖ついてゐろ。去ったはうがよからうぜ!さァ~。 聰明なら?……
オズワルドを奧へ突遣り
さう!
オズワルドへこたれて入る。
リヤ
さて、忠義な奴、かたじけない。汝の給料の手附ぢゃぞ。
王、ケントに貨幣を輿へる。
阿呆役出る。忠實な犬のやうに王に付隨してゐる弄臣、無禮な放言をも公許されてゐる役柄なので、 戲譃に事寄せて王を諫めたり、不幸の王女を罵ったりする。
阿呆
おれも其奴を傭ってやらァ。……さ、おれの鷄冠帽を與れてやらう。
かぶってゐる帽子を脱いでケントにさしつける。
リヤ
(阿呆に)どうぢゃ、かはゆい奴!どうした?
阿呆
(ケントに)おい~、お前、此鷄冠帽をかぶったはうがいゝぜ。
ケント
阿呆さん、どういふ理由で?
阿呆
どういふ理由?人氣の落ちた人の肩なんか持つからよ。 いゝえさ、風向き次第に白い齒を見せることが出來んやうぢゃァ、直に風を引くよ。 そら、此鷄冠帽を取んなよ。はァて、此人は女兒を二人逐ひ出しッちまって、 三番目の女兒に心にも無い祝福を與れたんだ。 如是人に附着いてると、鷄冠帽をかぶらんけりゃならんや。…… (リヤに)や、どうだい、小父たん?おらァ鷄冠帽が二つと女兒が二人欲しいや!
リヤ
何故ぢゃ?
阿呆
財産は悉皆女兒に與れても、おれの帽子だけは殘いとかァ。 それはおれのだ。他のを女兒さんにお貰ひ。
リヤ
氣を附けろ。笞ぢゃぞよ。
阿呆
あゝ、「眞實」は犬と同じだ、小舎の中へ逐ひ込まれなくちゃならん、牝犬御前さまが、 爐の傍で臭いにほひをお發しなさる時分に、笞でぴしゃり~打たれてなくちゃならん。
リヤ
えィ、氣持のわるいことを言ひをる!
阿呆
あい、お前に文句を教へてやらう。
リヤ
うん。
阿呆
聽いてゐな、小父たん。
(節をつけて)見せびらかすより多くを貯へ、
知ってるよりかも少く言うて、
有ってるよりかも少く貸して、
歩くよりかも餘計に騎って、
信ずるよりかも餘計に學び、
見込んだよりかも少く賭けて、
酒と女を封じ込め、
家内ばっかり居るならば、
利得は覿面、二つの十で、 二十よりも餘計が、儲かる~。
ケント
たわいのないことを、何にもならんわい。
阿呆
何にもならん?ぢゃァ只で傭った辯護士の陳述といふ格だ。何も與れないんだもの。…… 何にもならんものは何かにならんかい、小父たん?
リヤ
はて、ならんなう。無からは何者も生ぜん道理ぢゃ。
阿呆
(ケントに)頼むから、お前、あの人にさういっとくれよ、 あの人の地代が幾何になッちまったかといふことを。 阿呆のいふことには眞實にしないから。
リヤ
阿呆の癖に苦口ををきゝをる!
阿呆
おい、お前知っているかい、苦い阿呆と甘い阿呆の區別を?
リヤ
知らん。教へてくれ。
阿呆
(節をつけて)田地を與れいとお前に教へた其殿さんを
おいらの傍へ伴れておぢゃ。
お前が假に其人ぢゃ。
甘い阿呆と苦いのと
たちまち爰へ出て來ます。
一人は此處に斑の衣、
一人は其處にをりまする。
歌ひ了ると同時にリヤに指をさす。
リヤ
やい、おのしは俺を阿呆と呼んだな?
阿呆
でも、お前は、他の名は悉皆他に與ッちまったんだもの、 有って生れたのは悉皆。
ケント
こりゃ全然の阿呆ぢゃございませんわい。
阿呆
その通り。殿樣逹や偉い人逹が、おいら一人に、阿呆を任しといてくれないや。 おれが專賣權を有ってゐたって、衆人が株を分けてくれろと言はァ。 奧樣たちも同じくだ、阿呆をおれ一手で捌かせてくれないや、引ッ奪ってゆかァ。 小父たん、鷄卵を一つおくんな、すると、冠を二箇やらァ。
リヤ
どんな冠を?
阿呆
はて、鷄卵を中央で切って蛋黄を食ッちまふと、そら、 冠が二箇出來らァ。お前は、冠を二つに割って、二箇ながら與れッちまってさ、 泥田の中を驢馬を脊負してほッつきあるいてゐたらう。 金の冠を與れッちまった時分にゃ、其きんか頭の中にゃ根っから智慧がなかったんだね。 おい、おれの言ふことを阿呆らしいと眞先に氣の附いた奴ァ、ぶんなぐってくれ。
(節をつけて)今歳ゃ阿呆の外れ年だよ、
聰明な手合が阿呆になって、
智慧の使ひやうも御存じない程、
手ぶりも、そぶりも馬鹿らしい。
リヤ
やい、おのしは何時からさう澤山に唄を歌ふやうになった?
阿呆
小父たん、おれはお前が女兒ッ子らを阿母さんにしたんで、それで唄が好きになッちまった。 何故なら、お前は躾棒を女兒たちに渡して、お袴を脱いぢまったらう、其時によ……
(節をつけて)其時、彼等は嬉し泣き、
おれは悲しうて唄ふたうた。
こんな王さまが阿呆を相手に
いない~をさっしゃるかと思ふて。
頼むから、小父たん、教師を傭ッとくれよ、譃を吐くことを教へる教師を。俺は譃を吐くことが習ひたい。
リヤ
譃を吐くと、笞ぢゃぞよ。
阿呆
驚いたなァ、お前とあの女兒たちとは何て親類だらう! 彼の人たちは眞實の事を言ふからッて撲るし、お前は譃を吐くと撲ると言ふし、 どうかすると、默ってるからッて撲られる。おれはもう阿呆を止めッちまひたい。でも、小父たん、 おれァお前になるのは厭だ。お前は智慧の兩端を削ッちまって、 中央を空洞にしッちまった。…… あそこへ削り片の一片が來た。
ゴナリルがわざと不興氣にむづかしい顏をして出る。
リヤ
如何したのぢゃ、我女?何故額に八の字をこしらへてをるのぢゃ? 近頃は兎角むづかしい顏ばかりしてゐるやうに思ふ。
阿呆
女兒がむづかしい顏をしてゐようとも關はなかった時分は、可愛い人だったがなァ、 今ぢゃ數字なしの零だよ。俺のはうがましだ。 俺は阿呆だけれど、お前は何でもないんだ。
ゴナリルが阿呆を睨みつける。
へい~、默ります~。何もおっしゃらないでも解ります、お顏で。 むぐ~、むぐ~。
(節をつけて)硬麺麭も軟麺麭も有たないからは、
なんぼあぢきなうても
食はずにゃをられぬ。
(リヤへ指をさして)あれは空になった豆莢だ。
ゴナリ
あなた、無禮の許してある此阿呆ばかりぢゃありません、他の、不作法千萬な、 お附きの侍士衆が、始終のやうに罵りあふ、口論をする、 それは~、迚も忍耐の出來ませんやうな甚しい亂暴を働きます。 あなた、豫て此事は篤とお知らせ申した上で、きッと取締るやうにしたいと存じてをりましたが、 あなたがつい近頃おっしゃったことやなすった事から考へますと、どうやらあなたが御承知の上で、 後見をして、教唆していらっしゃるのぢゃァないかと心配になって參りました。萬一にも、 さういふやうでありますと、非難をまぬかれない御過失だらうと存じます、又、取締らずにおく譯にはまいりません、 で、彌々家國の爲に取締りを致す場合になりますと、自然御機嫌を損ねるやうなことにも立到りませうが、 必要上止むを得ませんことゆゑ、それは子たるものゝ恥辱ではなく、 却って賢明な處置ぢゃと人も稱しませうかと存じます。
阿呆
そりゃ其筈だよ、小父たん……
(節をつけて)垣根雀が閑古鳥をば
長う育てた其返禮に、
おのが首ッ玉喰ひ切られてしィまうた。
そこで燭がふっと消えて、あとは眞ッ暗の昏暗ぢゃ。
リヤ
(極めて皮肉に)お前さんは予の女兒か?
ゴナリ
もし、あなた。……あなたは御賢明でいらっしゃるんですから、其御賢明を利用あそばして、 近來折々お見受け申すやうな、御本性に似合しうないお振舞ひは、 どうかお止め遊ばすやうに致したうございます。
阿呆
驢馬だって知ってらァ、車が何時馬を牽くかといふことは。 おうい、ヂャックや、おらァおのしにおッ惚れたゞよ。
リヤ
こゝにをる者の中で、だれか俺を知ってをるか?これはリヤではない。 斯う歩いてをるのはリヤか?斯う言うてをるのがリヤか? 彼れの目は何處にある?智力が弱り、分別が昏睡したのぢゃらう。…… や!現か?いや、さうではない。俺は誰れぢゃ?だれか、知らしてくれ。……
阿呆
リヤの影法師だい。
リヤ
……それが知りたい。何故といへ、此、君主たる種々の目標や智識や理性で判斷をすれば、譃のやうぢゃが、(と極皮肉に)嘗て俺に女兒が有ったやうに思はれるからである。
阿呆
そのお前を、女さんたちが、孝行なお父さんにしようとしてらァ。
リヤ
(いよ~皮肉に)貴婦人さん、お前さんのお名前は?
ゴナリ
(極めて冷かに、侮蔑の調子で)さういふ故意らしい怪訝顏が、 あなたが近頃頻って遊ばす皮肉な惡戲と同じ脈なのでございます。 わたくしどもの趣意の在る所をよゥく會得していたゞきませう。 あなたは御高齡でいらせられますから、御賢明でなうてはならない筈です。 あなたは此處に百人の武士と侍士とをお伴れなされてゞございます、不秩序な、放逸な、 不作法千萬な人逹、わたくし共の邸内が、あの人逹の惡風に染って、まるで亂暴狼藉な旅館も同じこと、 酒と色との爲に、此莊嚴な館が料理屋か女郎屋のやうになります。恥辱を存じます以上は、 直ぐ樣矯治せねばなりません。さういふ次第でありますから、主人方の請願を……もし其請願をお聽きなさらなければ、 請願ひたさんで斷然取上げることになりますから……すなほにお聽きなさいまして、 少々お附きをお減しになるがよろしからうと存じます。さうして、殘ります者は、 何れも御老年のあなたに相當した、おのが身分柄をも、 あなたの境遇をも心得てをるものばかりに致したうございます。
リヤ
(赫となって)おゝ、おのれ~!予が乘馬に鞍を置け!家來共を呼び輯めい! ……道知らず妾腹めが!おのれが厄介にはならんわい。おれにはまだ一人女があるわい。
ゴナリ
あなたは邸の者を打擲なさる、あの大勢の亂暴者は、目上の者を家來同樣に扱はうとする……
公爵オルバニーが出る。
リヤ
あゝ~、後悔先きに立たずぢゃ、……(オルバニーに)おゝ、こなた御座ったか?これはこなたの意志でござるか? 返答が聽きたい。……乘馬の支度をせい。……あゝ、汝、 「背恩」といふ石心の大惡魔め、汝が實の子の心に宿りをった時は、 彼の海の妖怪よりも遙かに怖ろしう見ゆるわい!
オルバ
まァ~、お忍耐へ下さい。
王、ゴナリルを睨みて
リヤ
にッくき鳶め!譃を吐け。俺の家來は、何れも選拔の者共ばかりで、 臣下たる者の本分をよう心得、最も油斷なく武士の面目を支持する徒輩ぢゃ。 ……おゝ、小さい~過失が、どうしてコーディーリャの場合には醜惡に見えたぞい! 拷問機械か何ぞのやうに、其小さい過失めが予が本具の性情を正當の位置から捻ぢ曲げ、 予の心から悉く慈愛を拔き去り、苦い、酷い心ばかりを附加へをった。 おゝ、リーヤ、リーヤ、リーヤ!
自ら其顏を撲ちのめして
此門を撲て、馬鹿な根性を誘き入れて、大切な分別を逸しをった此門を!…… (奧に向ひて)さァ~、家來ども!
オルバ
(王の傍へ進みて)手前は全く存ぜんことでございます、どうして御立腹になったことやら、それすらも心得ません。
リヤ
さやうでもござらう。
と俄かに跪いて、天を仰いで、怒り猛りつゝ詛う。
聽けよ、造化の御神、聽こしめせ!若し此れなる女めをして予を産ましめたまはん御神慮にさふらはゞ、 其御意を止めさせられて、此奴が胎内には石婦の性を植ゑ附け、生殖の機關を涸渇せしめ、 此奴が墮落せる肉體よりは、ゆめ~母親の名譽となるべき嬰兒を生ぜしめたまふ勿れ! 是非とも子を産まねばならんうならば、憎しみよりこそ子種を作らしめたまへ、其子生ひたっては邪ま非道に振舞ひ、 母親を苦しめ惱しますやう!それが爲に、まだ若き我女めが、額には醜き皺を印し、 落す涙には其頬に溝を穿たしめたまへ、母親の心づかひをも、深切をも、悉く嘲弄に歸せしめたまへ、 恩を知らぬ子を有つ親の苦しみは、蝮蛇の牙に咬まるゝにもますことを、 此奴めに思ひ知らす爲に!……あッちへ、あッちへ!
跳び出すやうにして、猛り立って、王が入る。
オルバ
こりゃ、まァ、實際、如何したといふのです?
ゴナリ
氣にしてお訊問ねなさるにゃ及びませんのよ、老耄の所爲ですの。 氣任せにしといたはうがようござんす。
リヤ再び出る。無斷で侍士を半減されたのを初めて知って、憤激し、こらへかねて立戻って來たのである。
リヤ
えッ?俺の附きの者五十人を只一擧に(解職しをった)?まだ二週間にしかならんのに!
オルバ
どうなされたのでございます?
リヤ
その理由をいはう。……
と言ひかけて、覺えず落涙したが、やっと耐へて
(ゴナリルに)おのれ~!おのれのやうな奴めが、男子たる俺をば、此樣に泣かする力を有ちをるかと思ふと、 恥かしいわい、おのれの所爲で、 此熱い涙が、耐へようと思ふても、耐へきれなくなるかと思ふと、恥かしいわい。 あらゆる惡い病ひに罹りをれ、おのれ!父の呪詛に貫かれて、目といはず、 鼻といはず、おのれの感覺の有る限り、療治の叶はんやうな重傷を負へやい! えゝ、馬鹿眼め、二度と如是ことで泣きをると、ゑぐり取って抛棄り出し、無益に流しをる水と一しょに粘土をこねる役に立てるぞ。えィ、それ程までに? よろしい。俺はまだ外に女兒があるわい、彼女はきッと深切に慰めてくれる、 汝の此振舞ひを聞いたなら、爪で以て其狼顏を引ッ剥いでくれるに相違ない。 今に見ろ、永久に俺が打ッ棄ったとばかり思ふてをる其格式を取って見せるわ。 おのれ、今に見をれ。
リヤは又跳び出すやうにして入る、ケントも、其他の侍者らも從いて入る。
ゴナリ
あれですもの、あなた。
オルバ
ゴナリルどの、わたしは深くあなたをば愛してゐますが、あながちあなたのみ左袒して……
ゴナリ
まァさ、あなた。……(奧にむかひて)こらよ、オズワルド、こらよ!…… (阿呆に對ひて)其方は阿呆といふよりも惡漢です。主人に從いてゆけ。
阿呆
リヤの小父たん、リヤの小父たん、待ッとくれよ。阿呆を伴れてッとくれよ。
(節をつけて)狐を人が捕ったなら、……
それから、あんなお女をも……
縊め殺すのが定なれど、
おのれの帽子ぢゃ繩さへ買へぬ、
それで阿呆は尾いて行く。
阿呆入る。
ゴナリ
好い庭訓を得ましたのよ、あの人。……武士を百人も!事がありゃ直ぐ役に立つやうに、 武士を百人も附けておくといふのは、ほんに用心のいゝ、聰明な爲方です。 はい、聰明な爲方ですよ。たわいもない邪推や空想や噂や苦情の起るたびに、 氣に入らんことのあるたびに、あれらを老耄の後押に使はせて、 わたしどもに對する生殺與奪の權を握らせておくといふのは。……(奧にむかひて)オズワルドは居ませんか?
オルバ
それはちっと案じ過しでせう。
ゴナリ
信じ過ぎるよりは安全です。害を受けやしないかと思って、心配ばかりしてゐるよりは、 心配になる害を取除いたはうがよいと思ひます。父の肚は解ってゐます。 父の言はれたことは書面で妹へ知らせました。若しわたしの忠告に關らず、 彼女が父と其百人のお附きとを歡迎するやうなら……
オズワルド出る。
どうしました、オズワルド!え、妹への書面は認めましたか?
オズワ
認めましてございます。
ゴナリ
侶廻りを伴れて、早馬に乘って、よく、妹に、わたしの心配してゐる廉々をね、 一層明確にするためにお前さんの意見をも加へて、よく言ひ傳へて下さい。早く往って、早く戻って來て下さい。
オズワルド入る。
(オルバニーに)いゝえ~、あなた、あなたの其甘ったるい優しいなされかたを必ずしも惡いとは申しませんが、 併し失禮ながら、兎角それが爲に弊が生じますから、 世間では襃めるよりも寧ろ分別の足らん方のやうに申してゐます。
オルバ
貴女の先見がどの位ゐ當ってゐるか、わたしには預言が出來ない。 良うしようと力めて、却って惡くすることがありますから。
ゴナリ
いゝえ、そんならば……
オルバ
よろしい~。成行を見ませう。
二人とも入る。

