テキストの快楽(013)その1

◎ 三枝博音「日本の唯物論者」(005)

        第一編 明治以前

  第一章 唯物論への道を準備した人々

  第四節 みうら・ばいえん(三浦梅園)

    一 梅園の生涯

みうらばいえんという人はどんな人であったのであろう。梅園の人生観といったものをうかがえる書物の一つに『梅園叢書』という板本になった本がある。それの上巻の初に「詩を説いて道に志す人にさとす」という一節がある。そこのところで梅園はこう言っている。「身のけがれを露にぬるる如く、よくよく道のあるべきところをもとめん、欲をとどめては、誠に君子の人なるべし」。梅園という人物は、右の句(詩経)の解釈に出ているように、酒食や好色や好楽やの欲のためにうける「身の汚れ」「露にぬれる」というように言い表わしている。そのように清純であることは、梅園の倫理であって、また彼の好尚であった。彼の生涯の動き方をみると、どこをとってみても、そういう人物であろうとして努力した人だったことが知られる。
 さて、これは明治時代になってのことであるが、唯物論者とは欲望のけがらわしさをすべて身につけている畜生同様のものともくせられたことがあった。かりそめにも、そのような評価をうけたことのある唯物論者の世界観なり思想なりへの準備をすすめた人として、私は梅園を評論しようとするのであるから、或る人たちにとっては奇妙にひびくことであろうとおもわれる。私はそれが奇妙でないことをあきらかにせねばならない。
 梅園は享保八年(一七二三年)に生れ寛政元年(一七八九年)になくなっている<註(1)>。だから一八世紀の人である。ヨーロッパでも一八世紀は、一九世紀が科学の世紀であるのに対して産業技術がととのい且つ発展した時期である。日本の一八世紀は徳川三百年の中間のところを占めていて、学者たちが学問の自由を享有できたうえに産業技術も少しずつととのい始めた世紀である。彼が生れたころは、学問や産業をすすめてくれた吉宗がもう政権についていた。荻生徂徠のような大器が晩成しつつあったときだった。彼がなくなって間もなく、日本の北辺で国の防衛ということがやかましくなりはじめ、知力のある青年たちでオランダ文化に浸透しでゆくものが多くなったために、やがて偏狭な祖国主義が唱えられはじめたり、外国渡来の科学者(シーボルト)にスパイ嫌疑がかかったりする暗い時代が待ちかまえていた。そういう時代にさしかかる頃には、梅園はもうこの世を去っていた。だから、梅園は比較的に学問しやすい良い時代を生きたといえる。彼はのびのびと彼の学問を発展させることができ、世界観思想を十分にのばすことができた。学問なり思想の世界を自由な哲学者として経歴したことに、じつにそのところに、彼が唯物論思想が成立するのと同じ方向へとすすむ道がひらけつつあったのである。
 私はこの節の終りに梅園の『玄語げんご』を中心とする彼の著述のことを書いておかねばならない。私はかつて彼の生家、富永村の旧宅を訪ね、一か月余滞在したときに、感ずるところ深くて、梅園にむかって語るかたちで小文を書いたことがある。それをここに引用しようとおもう。<註(2)>
「日本人によって書かれた哲学書で何が最高峰にあるべべきかと聞かれますとき、私は躊躇なくあなたの主著のなかの主著、『玄語』を挙げます。あなたは『玄語』を二三年かかって二三度も根本的書き換えをなさいました。あなたは何という数多い書を書き換えせられたことでしょう。あなたが言われます二三度の換稿とは、根本的なものについてでした。部分的にあすこをここをと書き改められました草稿の数はいったいいくらあったのでしょう。今日あなたの『玄語』の原稿は六〇綴も残っています。あなたが『玄語』を書きはじめられましてからもう百八十何年にもなりますから、あなたの原稿はもう大部分散佚してしまったのでしょう。それでもしかし、あなたの子孫の方々ほど丁寧にあなたの原稿や手紙や蔵書や什器を保存せられた例は少いでしょう。これはあなたの哲学とあなたの人間的高さによるものでなくてはなりません。
 へーゲルは哲学書がほんとうに科学的なものであるためには七七度の推敲が重ねられねばならぬと言いました。そしてへーゲルにとってこれは理想であったことはいふまでもありません。へーゲルは自分の論理学を数度書き換えたのでした。私はあなたが、二三度換稿されてもまだ満足せられなかったことが、そして、あの例旨の終りの言葉が、強く私たちをつのを覚えます。『物大に事衆し。犬馬の歯、既に半百を過ぐ。鬢髪皤皤、之に加ふるに心胸の病を以てす。知らず、天之に年を仮し、将に其の業を卒へしめんとするか。将に其の志を奪はんとするか。是に於て感無きこと能はず。書して以て佗日を竣つ』
 あなたはいつの日にこの『玄語』が読まれ理解されるとお考えになっていたのでしょう。あなたは遠い「阿蘭陀」の文化に憧憬をよせられました。そのオランダをほぼ中心にしまして西洋の諸国の文化はあなたが亡くなられましてからほぼ一世紀くらいの間に更に長足の進歩をしました。そのなたが考えられましたような学問の世界が日本にも開けて来ました。日本の最高の学府としての東京帝国大学があなたの郷土、あなたの家の土蔵の中に、あなたの『玄語』が蔵せられていることを知って、借覧を申し出ました。それは明治三十二年でした。それでもしかし、あなたの『玄語』の哲学が理解され広く伝えられるということにならずにそれは終りました。そのうち明治四十五年にあなたの郷土の人たちはあなたのお徳を慕うのあまり、力をあわせ『梅園全集』を作りました。
 この数年になりまして、あなたの『玄語』を知ろうという学的要求が漸次高まって来ました。私もその要求を強くもっています一人なのです。あなたの学説は、これからの人たちがひきつけられて理解するような思想を、いっぱいにふくんで居ります。
 これからの人は学問の近代性を感受する力を具えて居ります。あなたは論理学として『玄語』をお書きになり、別に又『贅語ぜいご』をお書きになり、倫理学として『敢語かんご』をお書きになりました。この『梅園三語』を逆の順に言いますと、人倫の学としての『敢語』と、自然及び人間の学としての『贅語』と、人が自然及び人倫について思惟するその思想そのものの学としての『玄語』とを、お書きになりました。これはギリシア人がエティカとフィジカとロギカの学を整えましたこととほぼ相似ています。あなたは西洋哲学のいわゆる三部を整えられたことになります。そしてあなたは、『価原かげん』という著述を以て経済の学を展開されました。価の根源を衝かれました。あなたは物の根源を探らないではいられないかた方でした。天性のフィロゾォーフでいられました。尚又、あなたの詩学としての『詩轍してつ』というあなたの著述も、同様の根源性を示しています。あなたはあの時代の日本の学者の群をはるかにぬいて、右のような学問の『近代性』をはっきり示されました。私たちは驚嘆せずにはいられません」
 梅園の著述は『梅園全集』(上下二巻)に収めてある。略伝には三浦黄鶴のかいた『先府君攣山先生行状』がある。この『行状』は私の編著『三浦梅園集』(岩波文庫二二二九)に入っている。

  註(1)生れたのは八月二日で、なくなったのは三月十四日だった。今では大分県東国東郡西武蔵村であるが、当時は富永村とよばれた農村であった。
    (2) 『三浦梅園の哲学』八一一頁参照。

    二 條理学
 唯物論へのみちを準備した人たちとして、私はえっけん、そらい、ちゅうきの三人をあげたのであるが、梅園はこのなかの益軒と徂徠について彼の著述のなかで語っている。それのみでなく、梅園はこの二人を尊敬し、その影響をうけていたということができる。益軒の実学的な傾向、徂徠の中国古典への傾倒、この二つの精神は梅園において継承されているということができる。梅園の学問思想にはその先行者がなく、また後継者がないとしばしばいわれているが、それは益軒と徂徠にあるような学問のゆき方を梅園が科学的方法でもって発展させた点にあるのである。その点では、あとにもさきにも彼に匹敵するものがないといっていい。
 では、梅園の科学的方法とはどういうものをさすのであるか、これを明らかにすることが何よりも大切である。
 私たちは序説の三、四のところで、東洋では唯物論思想がそだたなかった理由を考えてみた。ほんとうは科学思想が発展しなかったことが問題なので、その問いが解ければ唯物論思想の成長しなかったわけもわかる、ということを私はのべた。理由をいえぱ議論はいくらでも出てくるが、要点をつかんでいうなら、東洋の学問思想が根ていにおいて「空」の思想、「無」の思想で貫かれていることにある。それがもとで発てんしているいろいろの、科学的でない思想がある。このことから題にしていかぬと、梅園の学問思想はあきらかにならない。それには益軒や徂徠をもう一度考えてみたい。
 さて、益軒はずいぶん博学であったし、庶民のためになる知識を提供した。けれども、日本でなぜ実学的傾向はそだたないかを反省はしなかったし、そのようなことを思索することに長じていたとはいえない。彼の『大疑録』は貴重な問題の提出であったが、解決ではなかった。益軒は産業や学術をすすめる役にたったが、彼が『大疑録』でのべているような哲学的な知識や思索とのれんかんは明らかにしていない。たくさんな物や知識をならべたことはならべたが、それの統一的見渡しはなかった。早くいえぱ、益軒では技術の学も、博物の学も、論理の学も、何ひとつととのってはいないのである。もちろん、それらの学問のれんらくなど考えられたことはなかった。ということは、日本に哲学がまだなかったということである。博物学的な物しりはだんだんふえた。そういうのを見てとって、梅園は「庶物の品類いまだ条理に合せず」といった。日本の学問はどれもみな科学的方法にかけて整理されていないものばかりだった。
 徂徠にしても、益軒と同じことがいえる。徂徠は、学とは何であり理論とは何であり、実践とは何であるかを明示してくれ、歴史や社会の意味について教えてくれはしたが、博学の力にまかせてそれらについての知識をくりひろげてみただけで、それらのものを思索的に深く汎理論的にはんりろんてき明瞭にしはしなかった。つまり、「物」たる文辞を論じても、ひとびとになっとくゆくように認識論的に論理学的に分析してみせはしなかった。そういうわけで、益軒にしても、徂徠にしても、東洋の学問のなかのほのぐらい点、洞穴的な神秘的なものへの反省をすることはなかった。梅園はこういうことをいっている、「空と曰ひ無と曰うふ、局を舎ててこまを譚する、妄に非ずして何ぞ」と。その土台となっているものをいわないで どうするのだと、いわば観念論的だんぎだけでは、何もわからないではないか、と従来の日本の、また東洋の学問註(2)のゆき方を批判したのである。
 以上のような、とっくにできていなければならぬ学問上の、また思想上の課題が、梅園の時代では、ようやく気づかれはじめた。しかし、気づかれただけで、少しも手はつけられていなかった。こうした課題を解く重荷が梅園のうえにふりかかっていた。梅園の主著『玄語』が難解なのは、こうしたところに理由があると考えられる。
 江戸時代のほとんどすべての儒者たちは、仏教のほうの学者思想家たちと同じように、東洋の学問の特長や欠点を知らなかった。ということは、それぞれ自分の立場でしか相手がわからなかった(その点では富永仲基は稀な存在だった)。そういうふうでは、科学思想が発展しようもない。したがって、そういう思想の道筋のうえでは唯物論思想がそだつはずもなかった。儒教と仏教との両方の考え方を批判的に理解することができるのでなければ、日本に学問のほんとうの道はひらけない。この道が梅園においてひらけはじめたのである。梅園が仏教と儒教とに加えた批判をここでのべる余裕がないから、東洋の学問にゆきわたっている把えどころのない茫洋たる性格を彼が批判したのを、ここに少しばかり紹介してみることにしたい。
 彼はヨーロッパの近代哲学の父といわれるデカルトがしたように、どんなに広い世界をおもってみても、その世界はひろがっているものそうでないものとに分けて考える。たとえていえば前者は物体で後者は精神だというように、または前者は空間で後者は時間だというようにである。ただし、デカルトとちがうのは塞がっているもの塞がっていないものとは固定的にきまってしまっているのでなくて、弁証法(「反観」)的にみられているので、かなり難解になっている。「露」と「没」、「立」と「活」、「物」と「人」、「塞」と「通」、といったようないくつもの対立概念がもうけられていて、それらの概念のつかい方はまことに細かくて思索的である。彼の思索の一つをあげてみるとこんなのがある。
「仏教では恒河沙ごうがしゃの世界ということをいう。いかにもことごとしく沢山あるように思われるけれども、恒河のすな沙の内にすでに恒河沙の世界をそなえているのであるから、天地は恒河沙をいくつかさねてもこれで天地ということにならない。これがつまり二の立場である。それを二の立場というのは、天地はかように紛紛として、又擾擾じょうじょうとして物が沢山あるように見えるけれども、実はかたちあるものがひとつ、かたちのないものがひとつ、これより外には何も物というものは存在しない。そのかたちのあるものを物といい、かたちのないものを気というのである。かたちのないものはいうまでもなく眼に入らないし手にわらないから、昔の人も誤解して、空である無であると考えてしまったのである。もちろん、地がレアル(「実」)であるに反して天はそのサブスタンス(「軆」)がきょであり、地のマテリアル(「実質」)であるに反して、天はマテリアルでないから、天は実質的でない。「実質なき」ところの虚のサブスタンスを「虚体」であるものと解釈するのはよいであろうけれども、そう解釈しないで、どこまでも虚無である、虚空であるととっては、たいへん間違いである。もし、その指示されているものが(すなわち天が)真の空無であるなら、太陽や月や星がそこにあるということはできない。そうすれば、われも物も存在するところがないことになろう。太陽も月も星もすべてその内にあり、物も我もすでにその内に遊動しているとすれば、そこに虚であるが軆があるとせねばならない。すでにあるのにもかかわらず、それを指して無というのは、それは間違ったことでなくてはならない。<註(3)>」
 またつぎのような批判もしている。「仏教では成住壊空じょうじゅうえくうなどということを言っている。空から漸次に天地ができあがり、終には壊れてゆき、無になる。それが空劫に帰するといわれているのである。次にそこから天地ができあがり又空無となってゆくというのである。邵康節などは混沌開闢の説に自分で幾分の考えを加えて天はひらけ、地は丑に、人は寅にひらける、そして丙のに天は閉じられ、戊の会で地が閉じられ、亥で人が閉じられるといったような、それぞれ勝手な杜撰な説をたてているが、みな条理を知らないので、自然〔天〕と人間〔人〕とをごっちゃにする妄説だといわねばならない<註(4)>。」
 梅園はオランダ語を多少は勉強したが、それによって直接にヨーロッパの学術を吸収はし得なかった。中国でできた天文書は大いによんだ。しかし哲学の本はなにひとつ中国にもまだきていなかったから、その影響をうけることはなかった。彼は一方で天文学や地学や数学やの知識をもとにし、他方では中国や仏教の古典を批判的によんで、そのうえで無類の思索力をもって考えていった。右の引用文にあるように、彼は「条理」ということを学問の生命と考えた。彼において条理とは法則のことである。自然と社会とのうちなる諸法則、それが条理である。けれども、それのみでなものにしている。彼はこういっている。「このゆへに条理の理は、古人の説ける理もその内に候へども、〔それとこれとは〕死活のへだたりある事に候」と。
 彼は「条理学」という呼び名を用いなかった。彼の弟子の矢野弘は明らかに梅園の学説を条理学と呼んだ。矢野は条理学のことを「自然(「天」)と社会(「人」)のぜんたいを見るための規矩準縄である」と理解した。聡明で、そして若くして死んだ弟子の矢野の理解としてうけとると、なお興味がある。

 註(1) 『玄語』天冊の「活部」参照。
   (2) これについては、第一章への補の「東洋の学問」をとくに参照のこと。
   (3) 三枝の著述『三浦梅園の哲学』一三七頁を参照。
   (4) 前掲書一四八頁参照。

    三 反観合一の論理
 私たちは第一節の「かいばらえっけん」のところで、彼はそらいとちがって庶民との交渉が多かったということを知った。梅園となると、もっと庶民との接触が密だった。
 (一)の「梅園の生涯」のところでのべたように、彼はむしろ農民のなかにいた。読書と思索は彼の日課の大部分を占めていたが、その余のひまはほとんど彼が愛する富永村(この村のことを彼は「寒郷」とか「寒村」といった)の人たちとの接触にあてられていたと思われる。みんなと相談して救荒(凶年で不作のため困った人たちをたすけること)事業として無尽なるものをはじめて、経営したり、郷社を美しくしたり、貧困の弟子を表彰したり、村の子弟を教えたりしたことが、いろいろの記録にのこっている。「一村のうちは、よき事あればうちよりて喜び、悪しき事あればうちよりて悲しむ」ことは、彼の生涯変らなかった社会生活の精神だった。
 さて、そういった梅園の生活の庶民性から、彼を唯物論への道を準備した人としてみることがひき出されるであろうか。それはできない。梅園は農民たちとともに生きたのみでなく、彼の世界観の根底には、人民大衆の生活を安心させることがほんとうの文化だという信念のゆるがぬものがあった。「道(文化)は衆を安んずるより大いなるはなく」といったのは彼である。しかし、そうではあるが、彼のこのような生活の実践から、彼が日本の唯物論思想への方向づけに役立ったとはいえない。士・農・工・商という身分的な社会秩序を固くまもっていた梅園としては、学問の方法は厳しく、青年の教育は規律正しく、村人むらびととの交わりは律儀で慈悲深かった。こうした人生観においては、ゆるぎなきものが彼のうちにできていた。彼の哲学とても、けっきょくは、ここにその地盤がなくてはならぬものだった。
 梅園の哲学は、彼の主著である『玄語げんご』のなかにまとまっているのであるが、彼は文字どおりの「形而上学者メタフィジカ―」ではない。スピノザやライプニッツのような哲学者ではなくて、むしろカントのように、認識論思想が特長をなしている。彼には論理的にさぐりもとめたものがあった。そのものは「げん」といったらよいものだった。「玄」は彼にとっては弁証法的にでなくては、とらえられないし、言い表わせぬものだった。彼がそれに考えついたのは、形而上的に古哲の用語をあやつり廻すことによってできたのではなかった。私の解釈では、二十才ぜんごからそれに没頭していた天文学や和算の研究がもとだったのではないかとおもう。その天文学はもうヨーロッパのそれの影響の十分あるものだった。とにかく、自然観察と思索とがもとだったということがいえる。彼は天球儀をもつくったし、素朴な顕微鏡もつくって、つかったのだった。そういう研究がもととなって、さきの「条理」の学ができたのだった。条理の学とはたんに自然や社会の法則性の学のことにとどまらないで、弁証法の論理であった。
 彼はこう説明している、「自然[「天地」]を洞察する道は外でもなく条理である。条理の真の方法[「条理の訣」]は、反のうちに合一を観ることであって、心の執するところを捨て、徴標を正しいところにとること[「反観合一。捨心之所執。依徴於正」]に外ならない。心の執するところを捨てるとは、習気しゅうきを離れることである。徴標を正しいところにとるとはどういうことであるか。見たところ徴標のようであるが、じつは徴標でないところのものがある。たとえば、太陽や月はたしかに西にゆくという徴標を人はつかむのであるが、実は東にゆくのである。……自然の道は陰陽であって、陰陽の実体[「体」]は戦いであって相反している。反するからそのために一に合するのである。これがすなわち自然の成立するところなのである<註>。
  一八世紀いごヨーロッパにおいて科学の精神といわれたものが、とにかく右の梅園の意見のうちに出ている。そして、そのうえになお弁証法の論理を見出すことができる。彼は「反観合一」については『玄語』のなかでくわしくのべている。彼は自然弁証法の提説者といってよい。「反観合一」につけての叙述は『玄語』の序論(「例旨」)にかいているが、反観合一の考えの実際はほとんど全巻にゆきわたっている。
 へーゲルはディアレクティークを明らかにするために、同一ということ、同等ということ、区別ということ、反対ということ、差別ということ、対立ということ、矛盾ということ、これらを順にのべて試みているが、梅園は、「対」には「反」というのと、「比」というのと、「互」というのと、「汎」というのと、「偶」というのがある、という具合にして、説明している。ディアレクティークの論理学が、少くともそのような学問が、ひとつもなかった日本の思想文化史のなかに、反観合一の説を見出すことは奇異な思いすらするほどである。
 レーニンはへーゲルの『論理の科学』の内容を批評したとき、「へーゲルは唯物論の黎明である」といった。これはレーニンがへーゲルのディアレクティークの思想のてってい性を高くかったためであった。論理の科学の伝統のなかった日本で、梅園の論理思想はヘーゲルのように組織的であることができなかったことを考えたうえで、私たちはこう言いたい。梅園は条理の学をはっきりさせることをして、学問や理論のすすむべき方向を示してくれた。この方向のなかに唯物論思想が発展したのだ、ということを。その範囲において、私たちは梅園を唯物論への道を準備したひとびとのうちに加えるのである。日本の思想史の特殊な事情を考えてである。

   註『多賀墨郷君にこたふる書』より。(『三浦梅園の哲学』一三二頁。)

底本】
三枝博音「日本の唯物論者」(英宝社・英宝選書)1954年6月30日初版)
その他、「科学図書館」所収の、PDF も適時参照した。
なお、底本中の、ふりがなは、ruby タグを用い、傍点は、太字表示の b タグ を用いた。

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