後退りの記(016)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の完成」
◎堀田善衛「城舘の人」
◎渡辺一夫「世間噺 後宮異聞」

前回は、モンテーニュの「サン・バルテルミの虐殺」について述べた。堀田善衛は「城館の人」でこう書くが、その一言で尽きるであろう。
「けれども、何も書かないということもまた、一つの表現であり、かつ一つの主張でもありうることを忘れてはならないであろう。」
それでも、間接的に事件に対して感慨を催すことは避けられない。モンテーニュの引用の繰り返しにはなるが、「エセー」から少しパラドキシカルな表現で…

〈平穏普通の時代には、人はただ平凡な事件に対して心積りをする。けれども、三十年もつづいて来た混乱の時代には、あらゆるフランス人が、個人としても全体としても、二六時中、いまにも己れの運命が全的にひっくり返りそうな状態に生きている。それだけに、心にいっそう強く、逞しい覚悟をしておかなければならない。運命がわれわれを、柔弱でもなければ無為でもない時代に生きさせてくれたことを感謝しよう。他の手立てでは有名になれそうもない人間でも、自分の不幸のせいで有名になれるかもしれないのである。〉
〈私は歴史のなかで、他の国々におけるこの種の混乱を読むたびに、自分がその現場にいていっそう詳しく考察することが出来なかったことを、いつも残念に思うのである。それほどにも好奇心が強いので、わが国家の死という、この目ざましい光景を、その徴候と状態とを、目のあたりに見ることを、私はいささか喜んでいる。また自分でこの死を遅らせることが出来ない以上、この場に臨んでそこから教えられる運命をになったことを満足に思っている。〉

またしても長い引用になってしまったが、話をアンリ寄りに、というより彼周辺の女性たちに戻そう。
彼をめぐる女性は、当時から話題に事欠かなかったようだが、とりあえず当方は5人を挙げることにする。まず、祖母にあたる、マルグリット・ド・ナヴァル、その娘で母に当たり、ナバラ女王となり、熱心なプロテスタントだったジャンヌ・ダルブレ、この二人は、DNA としてアンリに受け継がれたようだ。あとは、「配偶者」としての、マルグリット・ド・ヴァロワ(マルゴ王妃)、後に再婚し、ブルボン王朝歴代の王を残した、マリー・ド・メディシス、唯一、心を通わせたとされるガブリエル・デストレの三人であろう。マルゴ王妃は、以前触れたのと、マリー・ド・メディシスは、アンリ四世没後の話題になるので、省略するが、マルゴ王妃とは、アンリが一番苦しい時代(虐殺前後から三人のアンリが絡んでの内乱状態)に、案外とアンリのサポートになったのではないか?短い期間だったが、心の支えであったろうと推測される。
さて、取り上げるのは、ジャンヌ・ダルブレをめぐる様々な人間関係であるが、少し、年代的に「虐殺」後から「ナントの勅令」あたりまでのアンリ四世をめぐる年表を整理してみる。
1572年 マルグリット・ド・ヴァロワと結婚、直後にサンバートロミューの虐殺
1573年 本意ならず、新教から離脱、ルーブル宮殿に幽閉
1574年 シャルル九世死ぬ、アンリ三世即位
1576年 パリ脱出、新教に戻る
1580年 モンテーニュ「エセー」出版(~1588年)
1584年 マルゴ幽閉
1585年 三アンリの戦い(~1588年)
1588年 スペインの無敵艦隊、イギリスに敗戦。旧教同盟のリーダー、ギュイーズ公暗殺
1589年 アンリ三世暗殺。カテリーナ・ド・メディチ死ぬ
1590年 パリ包囲
1591年 ガリブエル・デストレと知り合う
1594年 新教を捨て、シャルトルで即位式、パリ入城
1598年 ナントの勅令
1599年 ガリブエル・デストレ死ぬ。マリー・ド・メディシスと婚約
ハインリッヒ・マン「アンリ四世の完成」より抜き書き
本邦では、織豊時代から、秀吉の「朝鮮侵略」をへて、家康の台頭、関ヶ原直前までの出来事である。

寵姫ガリブエルは、父の系統は、歴代バロア朝のフランス王に使えた武人、母の実家は、
「呪わなければなるまい、この手をば、
人類《ひとびと》に快楽を与えんとして
惜しげもなく、かくも見事な verces (からすえんどうを指すが、「淪落女」の意もあるという)をば
撒き散らすこの手をば。」
と当時の戯れ歌に唱われたほどだから、一家揃って、浮名を流したのだろう。母は、複数の男性と関係をもち、挙げ句の果て、1592年に惨殺されてしまった。ガリブエルは、こんな母と距離を保っていたようで、叔母イザベールが母の変わりに宮廷における「後見人」を勤めていたそうである。姪に似て、イザベールも相当な美形だったらしく、当時の宮廷詩人ロンサールもその艶色を称える詩篇を献呈した。ガリブエルは、一応、1571年が生年とされるので、「虐殺」後の世代だろう。のちの歴史家ミシュレによれば、
「その肌色は驚くほど白く繊細であり、かすかに薔薇色を帯びている。その眼差しには、何とも言えないところ、人の心を恍惚とさせずには措かないが、安堵もさせない veghezza (魅力)がある。」
と書くぐらいだから、相当魅惑的、かつちょっぴりリスキーな女性だったんだろう。アンリ三世の宮廷に出仕した頃には、のちのちまで腐れ縁となるベルガント公と深い仲になってしまうが、1589年にアンリ三世の暗殺後、法的にフランスの王位継承者となった、アンリ四世は、それを名実共にすることに奮闘と生来の艶色家で、色香に溺れていた過程で、ガリブエルと、そのベルガント公の紹介で出会う。彼女は、文才などなかったが、宗旨のこだわりも少なく、連戦つづきのアンリにとっての心の慰みとなったのだろう。その後、別人と結婚する目にはあったが、アンリの何回目の「改宗」の後、パリ攻略に成功、1594年3月22日に、無血入城となった。9月の入市式典の際には、正式な王妃に準ずる体裁だったとある。

あと、アンリ四世の知世は、曲がりなりにも「宗教的寛容」を唱った「ナントの勅令」まで一直線であるが、ガリブエルの存在が支えになったのかもしれない。後日、ガリブエルの動向と合わせて記する機会もあろう。

今の世界において、世界史の教科書でなかば無理矢理覚えさせられた「ナントの勅令」は、本当に有効なのだろうか?有効だとすれば誰が発令するのか、誰がそれを守らせるのか?すくなくとも「勅令」の効力はルイ十四世の時代まで、曲がりなりにも続いたとされる。数日間の危な気な停戦とは言わない。世代を越えた、恒久的な平和を切に望みたい。

添付した曲は、アンリ四世が、マリー・ド・メディシスと婚姻を遂げた時の、晩年にアンリの宮廷音楽家であったウスタシュ・デュ・コレア(Eustache du Caurroy)の祝典曲、2018年の「古楽の楽しみ」から、最初の1分ほどを採った。

本職こぼれはなし(006)


・夫婦連れで、コロナワクチン接種にやってきたFさん。
私-家の中で、偉いもん順で、注射しますね。どちらですか?
夫君ーそりゃもちろん、連れ合いですわ。いつも、感謝してます。
妻君-ちゃいます。この人です。いつも、頼りにしてます。
私-どっちやねん?家に帰ったら、揉めなや!毎日、今日言うたことをおたがいに言い合いなさい!
・時間が限られるので、問診は、「今日の体調は?」「以前ワクチンをして具合悪くなったか?」の二点に絞っている。ちょっと耳の遠いTさんに後の質問をすると、「へえ、なんにもあらしまへん」「Tさん、日頃の行いがええさかいにやで」とのリスポンスにも聞こえない様子だったが、顔付きが笑みを浮かべたので、満更でもなかったようだ。
写真は、コロナワクチン問診票とワクチンアンプルと注射器、。

日本人と漢詩(103)

◎河上肇と陸游と一海知義

先日、劇団きづがわの「貧乏物語(井上ひさし作)」を観てきた。戦争中に、彼なりに「非転向」を貫いた、マルクス主義経済学者・河上肇が獄中にあり、その留守家庭を守る五人の女性たちの「対話劇」である。

獄中などで、河上肇が傾倒した陸游の詩に

文能換骨余無法 文能《よ》く骨を換《か》う 余《ほか》に法なし
学但窮源自不疑 学んで但《た》だ源を窮《きわ》め 自《みずか》ら疑わざるなり
歯豁頭童方悟此 歯はぬけ頭《かみ》うすくして 方《はじ》めて此を悟る
乃翁見事可憐遅 乃翁《われ》の事を見ること 遅きを憐れむべし

また、河上肇の「注釈」として、

「骨とは、…基本的な人格である。文は学問…どういう法か…徹底的に…窮めつくして、もはや他人が何と云おうと、どんな目に逢おうと、絶対に揺ぐことのない確信を得ること、…放翁はこう云う、…私の年来の主張と符合する…」

「すべての学者は文学士なり。大いなる学理は詩の如し」
と書く。彼の志が、周囲の人々にどう浸透したのか、河上肇の妻・ひで役を演じた、和田さん等の熱演でよく伝わった。しかし、より多く観客と共感する点では、もう一工夫も二工夫も必要ではなかろうか。上演会場の制約もあってのことだが、舞台全体もあまりにも「リアリズム」すぎて、装置の書割など、もう少し現代にシフトするつもりで、もっとデフォルメでもよかったのでは、と思う。衣装も「和服」主体ではなく、普通の洋装で、河上肇の肖像も、照明的な効果で、劇の進行に合わせて、だんだんシルエット的に大ききなるとか?また、「引用」される芝居が、ゴーリキーの「どん底」(決して古臭くなったわけではないが)ではなく、唐十郎の「腰巻お仙」とまではいかないが、ベケットの「ゴドーを待ちながら」あたりでもいいのでは?そのほうがより「異化効果」があるかもしれない、いっそのこと、井上ひさしの戯曲の枠組みが、初めから決まっているなら、もう少し「崩して」もいいのではないか?彼の劇も、時代に合わせて書きあらためる時期になったのか、とふとそんな気もした。

河上肇の出獄後の詩から

天猶活此翁
昭和十三年十月二十日、第五十九回の誕辰を迎へて、五年前の今月今日を想ふ。この日、余初めて小菅刑務所に収容さる。当時雨降りて風強く、薄き囚衣を纏ひし余は、寒さに震えながら、手錠をかけ護送車に載りて、小菅に近き荒川を渡りたり。当時の光景今なほ忘れ難し。乃ち一詩を賦して友人堀江君に贈る。詩中奇書といふは、エドガー・スノウの支那に関する新著のことなり。今日もまた当年の如く雨ふれども、さして寒からず。朝、草花を買ひ来りて書斎におく。夕、家人余がために赤飯をたいてくれる
秋風就縛度荒川  秋風縛に就いて荒川を度りしは、
寒雨蕭々五載前  寒雨蕭々たりし五載の前なり。
如今把得奇書坐  如今奇書を把り得て坐せば、
盡日魂飛萬里天  尽日魂は飛ぶ万里の天。

青空文庫・河上肇「閉戸閑詠」

改めての注釈になるが、奇書とは、エドガー・スノウの「中国の赤い星」を指す。「奇書」の表現は、「三国志」「水滸伝」などの四大奇書の類ではなく、彼独特の韜晦だと、一海知義さんは言う。ちなみに河上肇は、アグネス・スメドレー「中国は抵抗する」にも涙したそうである。

もう一つ、一海知義「読書人漫語」の背表紙に、「渡頭」という陸游の自筆詩が載っていたので紹介。

蒼檜丹楓古渡頭  蒼き檜 丹(あか)き楓 古き渡頭(わたしば)
小橋橫處系孤舟 小橋 横たわる処に孤舟を繋ぐ
范寬只恐今猶在 范寛 只だ恐る 今猶お在りて
寫出山陰一片秋 山陰一片の秋を写し出だせりと

昔の絵に、陸游の詩が溶け込む、または、詩の背景に、昔の絵が浮かび出るような印象の、今の季節にふさわしい詩である。語釈などは略、Youtubeに、
「渡頭」陸游自書詩を読む という、書と詩の丁寧な解説があるので、参考のこち

参考】
一海知義「読書人漫語」(新評論)

日本人と漢詩(102)

◎小田実と沆姜(강항 カン・ハン)

小田実の「民岩太閤記」は、なかなかに読み応えのある小説である。本邦作家の「文禄・慶長の朝鮮侵略戦争」は、数多あるかもしれないが、そのほとんどが武将クラスの活動をあつかったそれで、この小説のように日本の一庶民をヒーローやヒロインを描いた小説はすくないのではないか?ただ、難点と言えば、小説が書かれた20世紀には「カシラが평양に住むクニ」には多少とも憧憬の念はあったかもしれないが、今世紀に至っては彼の体制はすっかり変わってしまったので、挿入された時事問題の「論評」の部分は今では鼻に衝く感もないではない。
有馬温泉在の百姓の兄と妹、トン坊とミン坊、ひょんなことから、「文禄・慶長の役」に駆り出され、半島に渡海、様々な日本人、明国人、高麗人と付き合いながら、数奇な運命をたどる。小説半ばより、二人の目指す志は微妙に食い違いはじめ、地理的にも離れ離れになってしまう。兄のトン坊は、「天下人」になる野心が抑えきれず、片やミン坊は、現地の人たちへの共感を育んでゆく。そして、そして、その結末は、すこしもの悲しい締めになっている。
結局、ミン坊の夢見た理想は何だったのか?彼女により添えなかったトン坊の嘆きの果てにあったのは何だったのか?そんな二人の思いの一環を、小説では、沆姜の漢詩で表現している。

滄海茫茫月欲沈 滄海は茫茫《ぼうぼう》として 月沈《しず》まんと欲す
淚和涼露濕羅衿 涙は涼露に和して 羅衿《らきん》を湿《うるお》す
盈盈一水相思恨 盈盈《えいえい》たる一水 相思の恨《うら》み
牛女應知此夜心 牛女 まさに知るべし 此の夜の心を

小説の中の訳文
滄海《そうかい》は茫として果てしなき月は沈まんとし
涙は冷露とともにうすぎぬの衿を濡らし
いたずらにひろがる海にあい思うの恨み
わぎもこよまさに知るべしこの夜のわが心を

沆姜は、慶長の役の際、藤堂高虎の軍に捕らえられ、捕囚として日本に連れて来られ、三年間にわたり日本で抑留された。(Wikipedia より)捕らえされた時、娘と息子の二人を失ったと言う。さぞかし、トン坊やミン坊と思いを一つにしたことだろう。そして、今になってなお続く侵略的ジェノサイドに対して、いかなる感慨を持ったことだろう。

沆姜の詩をもう二首、小説と彼の著書「看羊録」から。

半世經營土一杯 半世の経営 土一杯《いちぼう》
十層金殿謾崔嵬 十層の金殿 謾《いたずら》に崔嵬《さいき》たり
彈丸亦落他人手 弾丸も亦《また》他人の手に落つ
何事靑丘捲土來 何事ぞ 青丘に捲土《けんど》して来つるとは

そんなどえらい人がやったどえらいことも、ただの土くれ一杯にすぎず
死んだところに金殿玉楼をたてたところで、ただたかだかとむなしくそびえるだけ。
小さな弾丸のごときちっぽけな土地も他人の手に移る。
このていたらくで、何んでまた、青い丘のわが高麗の地に来るか。

「十層」は、小説では「十眉」となっているが、東洋文庫版により訂正。

萬臆千愁若蜜房 万臆の千愁 蜜房の若《ごと》く
年纔三十鬢如霜 年纔《わず》か三十にして 鬢は霜の如《ごと》し
豈縁鶏肋消魂骨 豈《あ》に鶏肋に縁《よ》りて 魂骨を消さんや
端龍眼阻爲渺茫 端《もっぱ》ら竜眼に阻《はばま》れて渺茫たり
平日讀書名義重 平日に読書するも名義重く
後來観史是非長 後来史を観るも是非長し
浮生不是遼東鶴 浮生は遼東の鶴を是《ぜ》とせず
等死須看海上羊 等死須《すべから》く海上の羊を看るべし
[訳文および注釈]
胸に蟠(わだかま)るばかりのこの愁いは、蜂の巣の蜜のように溢れ出て
年は三十でもう白髪まじり
どうして、鳥の肋骨のようなつまらないような、魂の骨を忽(ゆるが)せにすることができようか?
天子さまの眼でなかなか見通しもきかない
書を読むのも名分と正義を思うとほとほとつらく
将来の歴史に、事の是非の論議も長く続くだろう
はかない人生は遼東の鶴の故事(千年の時間を経て、丁令威という仙人が鶴に乗って空に登り、若者が矢をいかけたのを見て世を嘆いたとある)をよしとはしないだろう
死に値する我が身ながら、蘇武の故事(漢の時代、匈奴に捉えられていた蘇武は、十九年間砂漠で羊を飼らされていたが、敵に屈服しなかった)に見習って、この海の向こうで、羊を飼ってゆこう。

付け加えると、「看羊録」は、前述。「民岩」とは「民岩之可畏如此矣(民岩の畏《おそ》るべきは此のごとしや、元々「書経」の「用顧畏于民碞」からの用例)、結局、秀吉は「民岩」に敗れ去り、沆姜は、虜囚が解けて朝鮮へ帰国後は、二度と仕官の道は選ばなかったという。

その頃、本邦では、「関ヶ原」直前、遠く異国フランスでは、アンリ四世が、「三人のアンリ」の戦いを制して即位し、宗教的寛容を一応認めた、ナントの勅令発布の時期に当たる。どうする家康!どうするアンリ四世!

右図は、文禄の役『釜山鎮殉節図』(Wikipedia より)、左図は、「看羊録」東洋文庫表紙。

参考】
桂島宣弘「姜沆と藤原惺窩――十七世紀の日韓相互認識」
・沆姜「看羊録」(平凡社・東洋文庫)

本職こぼれはなし(005)

コロナ(COVID19)のトリアージと言っても、コロナ感染症、インフルエンザ感染症だけではなく、それこそ「ふるい分け」しなければならない方が受診される。先日も、31才の成人障がい者で受診された方がいた。幼少期に脳腫瘍の手術、現在に至るまで、コロナ(COVID19)のトリアージと言っても、コロナ感染症、インフルエンザ感染症だけではなく、それこそ「ふるい分け」しなければならない方が受診される。先日も、31才の成人障がい者で受診された方がいた。幼少期に脳腫瘍の手術、現在に至るまで、ほぼ全面介助の状態。発熱となんとなく日ごろの様子と違うので受診、コロナPCR:陰性、インフルエンザ迅速検査:陰性、酸素飽和度(SpO2)がわずかに低下、血液検査とレントゲンを撮ったところ、白血球増多、炎症反応が陽性、レントゲンにて右肺に全体に拡がる像を認めた。入院適応だが、さあそれからが大変。数件の病院に問い合わせるも断れた。N病院呼吸器内科へ貴院で手術を受けた旨の紹介状を書くも満床とのことで入院できないとの返事。診療所の待合室で待機していただくこと数時間、最後の手段で救急車を要請、救急隊へ入院先をあたってもらうことにした。車が出た後の連絡によると、入院先は、断られたN病院の小児科に決まったとのこと。こんなことになるなら、一番先に小児科を当たるべきだったと悔やむことしきり。到着後には、酸素飽和度(SpO2)がさらに大きく低下、CRPも上昇していたとのこと。本当に家に帰していたらどうなったか、薄氷を踏むおもいだった。 小児科時代から診て、成人となった障がい者はこのように、小児科と成人緒科の「谷間」になることも多くみられる。連続して診療できるような体制が切に望まれる。。発熱となんとなく日ごろの様子と違うので受診、コロナPCR:陰性、インフルエンザ迅速検査:陰性、酸素飽和度(SpO2)がわずかに低下、血液検査とレントゲンを撮ったところ、白血球増多、炎症反応が陽性、レントゲンにて右肺や全体に拡がる像を認めた。入院適応だが、さあそれからが大変。数件の病院に問い合わせるも断れた。N病院呼吸器内科へ貴院で手術を受けた旨の紹介状を書くも満床とのことで入院できないとの返事。診療所の待合室で待機していただくこと数時間、最後の手段で救急車を要請、救急隊へ入院先をあたってもらうことにした。車が出た後の連絡によると、入院先は、断られたN病院の小児科に決まったとのこと。こんなことになるなら、一番先に小児科を当たるべきだったと悔やむことしきり。到着後には、酸素飽和度(SpO2)がさらに大きく低下、CRPも急上昇していたとのこと。本当に家に帰していたらどうなったか、薄氷を踏むおもいだった。

小児科時代から診て、成人となった障がい者はこのように、小児科と成人緒科の「谷間」になることも多くみられる。連続して診療できるような体制が切に望まれる。

後退りの記(015)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎堀田善衛「城舘の人」
関根秀雄訳「モンテーニュ随想録」

前回は、アンリ四世とモンテーニュとの邂逅について触れたが、「アンリ四世の青春」訳者あとがきによれば、特に「サン・バルテルミの虐殺」以前のそれは、作者ハインリヒ・マン特有の、フィクション上の創作だそうだ。それにしても、よくできた創作であり、作品に奥深い味わいをもたらしている。彼らの実際の出会いは、モンテーニュの晩年になってかららしいが、その時二人は「十年来の知己を得た」思いだったに違いない。
ここでは、少し遡って、モンテーニュをめぐって「虐殺」前後までの歩みを振り返ってみる。

まず、堀田善衛は、モンテーニュは、「エセー」の中では。「虐殺」のことは一言も触れていない、と云う。ところが、「エセー」は、1572年、虐殺の年に第一稿が作られている。この事で、彼のスタンス、彼が語らないことで、おのずと語っていることが感じられるのは、当方だけであろうか?よくモンテーニュは「折衷主義」「現状肯定の保守派」とも評されるが、この「頑なさ」は、そうした評判とは相容れないことは確かであろう。

少し長くなるが、遡ること彼の勉学時代に、少し年上で無二の親友だったラ・ボエジーの言葉から…

「実際、すべての国々で、すべてのひとびとによって毎日なされていることは、ひとりの人間が十万ものひとびとを虐待し、彼等からその自由を奪っているということなのだ。これをもし目のあたりに見るのでなく、ただ語られるのを耳にするだけだったならば、誰がそれを信じようか。(中略)しかし、このただひとりの圧制者に対しては、それと戦う必要もなく、それを亡ぼす必要もない。その国が彼に対する隷従に同意しないだけで彼は自ら亡びるのだ。(中略)それ故、自分を食いものにされるにまかせ、またはむしろそうさせているのは民衆自身ということになる。隷従することをやめれば彼等はすぐそのような状態から解放されるのだろうから。民衆こそ自らを隷従させ、自らの咽喉をたち切り、奴隷であるか自由であるかの選択を行なってその自主独立を投げすて軛をつけ、自らに及ぶ害悪に同意を与え、またはむしろそれを追い求めているのだ。」

「あわれ悲惨なひとびとよ、分別のない民衆たちよ、自分たちの災厄を固執し、幸福に盲目である国民たちよ。諸君は諸君の面前でその収入のうち最も立派で明白な部分が、諸君から奪い去られてゆくままに放置している。(中略)そしてすべてのそのような損害、不幸、破壊は、数々の敵からではなくて、まさにひとりの敵、諸君が、それが今あるように大きく今あるように大きくしてしまっているその人間から来ているのだ。その人間のために諸君はあれほど勇敢に戦争に出かけて行き、その人間を偉大にするために、諸君は自分の身を死にさらすことを少しも拒まない。しかし、諸君をそれほどに支配しているその人間は、二つしか眼を持たず、二つしか手を持たず、一つしか身体を持たず、諸君の住む多数無数の都市の最もつまらない人間の持っているもの以外は持っていない。ただあるものは、諸君が自分たちを破壊するために、彼に与えている有利な地歩だけなのだ。」
「諸君は子供たちを養うが、それは彼が彼等に対してなし得る最良のこととして、彼等を自分の戦争へと連れ出し、殺戮の中へ送り込み、自分の貪慾の執行者、自分の復讐の実行者とするためなのだ。」
「獣すらも全然了解できないか、耐えられないほどの、かくも多くの卑劣な行為から、もし諸君がそう試みるならば諸君は脱出出来るのだ。それもそれから脱出しようと試みるのではなく、ただそうしようと望むだけでよい。もはや隷従するまいと決心したまえ。そうすればそれで諸君は自由なのだ。私は、諸君が彼を押したり揺らせたりするようにすればよいと言いたいのではない。ただ彼をもはや支えないようにしたまえ。そうすれば彼は、基礎をとりのけてしまった大きな巨大な人像のように、それ自身の重みによって崩れ、倒れ、砕けるのが見られるであろう。」

ラ・ボエジーは、むしろカソリックに近い立場を堅持した。その彼をして、こうしたプロテスト(抗議)を上げせしめたのは、フランス宗教戦争の悲惨さを前にして、止むに止まれぬ思いからであろう。再三に渡って述べるが、21世紀の現在の実状を訴えているわけではないが、自ずと重なって響くのは、悲しい現実だろう。

「虐殺」前は、カソリックとプロテスタントに政治的党派としてほぼ明確に別れていたが、その後はその色分けは、単純化されるどころか、政治的打算も重なって、プロテスタントめいたカソリック、またはその逆といったように混沌とも言える状況になってきた。モンテーニュは、心に期するものがあってか、シャルル九世、アンリ三世を中心とした王統派に近づきはするが、その親好は、プロテスタント寄りの知識人と結んでいた。そんな中で、アンリ四世との関わりはどうなっていくだろうか?次回は、1572年~1592年くらいの時期に触れたい。日本史で言えば、信長の台頭から、秀吉の朝鮮侵略くらいにあたる。

どうする、信長・秀吉・家康、どうする、三人のアンリたち、そしてモンテーニュ!