後退りの記(010)

◎ハインリッヒ・マン「アンリ四世の青春」
◎渡辺一夫「戦国明暗二人妃 Ⅰ 巷説・逆臣と公妃」(中公文庫)
◎「エプタメロンーナヴァール王妃の七日物語」(ちくま文庫)
◎堀田善衞 「ミシェル 城館の人 第一部」

今回は、二代ほど前の人物に遡ることにする。アンリ四世は、気質の面では、プロテスタント信仰に厳格であった母のナバラ女王ジャンヌ・ダルブレではなく、むしろ祖母のそれを受け継いだようだ。その祖母、マルグリット・ド・ナヴァール Wikipediaをめぐる人間関係も相当に複雑であったらしい。話題にしたいのは、四人の人物である。まず、マルグリッド、彼女は、フランソア一世 Wikipediaの姉であった。その母である、ルイーズ・ド・サヴォワ Wikipedia、一時期は、マルグリッドと相思相愛であった、シャルル3世 (ブルボン公) Wikipedia、マルグリッドに横恋慕するボニヴェ大提督 Wikipedia 英語版との人物配置である。愛憎関係は、これにとどまらず、ルイーズ・ド・サヴォワは、寵臣として、ボニヴェを重んじる一方、年齢の差をこえて、ブルボン公に、思いを寄せるが、かなわぬとならば、「可愛さ余って憎さ百倍」で、公をフランス王朝を裏切らせ、神聖ローマ帝国カール五世 Wikipedia側に寝返させた。母親のルイーズは、後のシャルル九世の母、カテリーナ・ド・メレディスのポジションに似る、当時の政局の黒幕的存在だったことを始めとして、この四人の丁々発止はなかなかに面白いが、結末はあっけなく、ボニヴェは、1525年、フランソア一世が捕虜となった、パヴィアの戦い Wikipediaで戦死。ブルボン公は、その2年後、ローマ劫掠直前に、狙撃され落命した。これがその後のカール五世軍の劫掠の引き金になったらしい。

堀田善衛の文章に「日本の代議士が、ローマ帝国廃墟跡を見て、『イタリアの戦後復興はまだまだじゃのう』と言ったとか、言わなかったとか…」というのがあったと記憶する。、代議士の蒙昧は、ひとまず置くとして、永遠の都ローマは、近世に入り、廃墟と化すほどの軍隊の侵略をうけた。ローマ劫掠 Wikipedia(ローマごうりゃく、イタリア語: Sacco di Roma)古代にも、ローマ帝国滅亡時には、ローマ略奪(ローマりゃくだつ、イタリア語: Sack di Roma)もあったが、1527年の劫掠も、それに劣らぬ規模であったので、代議士のトンチンカンな「誤解」も生まれたのだろう。

同じ年、マルグリット・ド・ナヴァールは、ナバラ王エンリケ2世と再婚し、アンリ四世の母を生んだ。ブルボン公を一刻もはやく忘れたかった、心の葛藤があったのかもしれない。王位を継いだあとは、ラブレーなどフマニストを保護するその頃では、開明的な文化政策をとり、自らも、「デカメロン」に見習って、「エプタメロン」という艶笑的なコント集を、死ぬ直前まで綴っていた。この第四話で、人物名は別にしているが、ボニヴェに暴力的に襲われかけたことを語っている。よほど「根に持っていた」に違いない。

「エプタメロン」は、偽善的なカトリック僧を揶揄するのは、吝かではないが、一方、プロテスタント的なリゴリズムからも一歩引いているおおらかさがあるようだ。アンリ四世へは「隔世遺伝」したことが分かろう。モンテーニュの故郷、ボルドーからも、ナヴァラは、そう遠くない距離で、しかも、学んだ学校もフマニストの陣容の教師群だというから、モンテーニュへの思想的な影響があったのかもしれない。もっとも、この頃のモンテーニュは、日常生活でも、ラテン語以外の言葉は禁止されるという父親からとんでもない「英才教育」を受けていたのだが…

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