日本人と漢詩(071)

◎柏木如亭と洪駒父《こうくふ》
前回の続きで、不滅の中国四大美人、西施のミルクに例えられた、ふぐの話題。

「聯珠詩格」は、元の時代に出来上がった唐宋詩のアンソロジーだが、本場中国では逸亡したが、日本では、盛唐詩偏重の詩風が収まってきた江戸時代後期に本格的に復刻された。前回、登場した柏木如亭はその中から抜粋して、「訳注聯珠詩格」を享和元年(1801年)に出版した。宋・洪駒父の詩はその中には収められていないが、原著には目を通していたことだろう。

西施乳
蔞蒿短短荻芽肥 蔞蒿《ろうこう》短短《たんたん》として荻芽《てきが》肥《こ》ゆ
正是河豚欲上時  正に是れ河豚《かとん》上《のぼ》らんと欲《ほっ》する時
甘美遠勝西子乳 甘美 遠く西子が乳に勝《まさ》れり
吳王當日未曾知 呉王 当日 未だ曽《かつ》て知らず

蔞蒿:よもぎ、はこべ
荻芽:萩の若芽、竹の子に似ている
西子:西施のこと、平仄の関係で子とした
河豚の種類が違う中国では、食べ頃の旬が春とされたようだ。ヨモギが茂り、萩の芽がつく春に河をフグがさかのぼる春、西施のミルクに勝るとも劣らない。呉王の夫差は毒があるのも知らないで、西施に耽溺したので、自身の滅亡を知る由もなかった。

河豚 柏木如亭 「詩本草」より(続き)
關東賞以冬月。餘所以有雪園蘿菔自甘美、不待春洲生萩芽之句。(中略)至周紫芝平生所缺惟一死、可更杯中論鏌鎁、可謂先得吾心者矣。
関東、賞するに冬月を以てす。余が「雪園の蘿菔《らふく》自《おの》づから甘美。春洲《しゅんしゅう》萩芽《てきが》を生ずるを待たず」の句有る所以《ゆえん》なり。(中略)周紫芝《しゅうしし》が「平生《へいぜい》欠く所惟《た》だ一死。更に杯中鏌鎁《ばくや》を論ず可けんや」といふに至つては、先づ吾が心を得る者と謂ひつ可し。

蘿菔:大根のこと。当時の河フグの調理法として、みそ味で大根と一緒に煮た鍋物だっとらしい。
周紫芝:宋の詩人。如亭は彼を含む宋時代の絶句のアンソロジー「宋詩清絶」を出版した。
鏌鎁:春秋時代、呉の刀工の名で彼が鋳造した刀剣。

引用された如亭の七言絶句

冬日食河豚。河豚至冬日雪飛始肥江戶人時以爲珍雜蘿菔而爲羹味最美矣
冬日河豚食ふ。河豚は冬日、雪の飛ぶに至つて始めて肥ゆ。江戸の人、時を以て珍と為し、蘿菔を雑へて、羹《あつもの》と為《な》す。味、最も美なり
天下無雙西子乳 天下無双《むそう》西子乳《せいしにゅう》
百錢買得入貧家 百銭 買ひ得て 貧家《ひんか》に入る
雪園蘿菔自甘美 雪園の蘿菔《らふく》自《おの》づから甘美
不待春洲生萩芽 春洲《しゅんしゅう》萩芽《てきが》を生ずるを待たず
梅堯臣詩春洲生萩芽春岸飛楊花河豚當是時貴不數魚蝦 梅堯臣《ばいぎょうしん》の詩に「春洲萩芽を生じ、春岸楊花を飛ばす。河豚是の時に当たり、貴《とうと》きこと魚蝦《ぎょか》を数《かぞ》へず
魚蝦:サカナとエビ
貧乏人の家でも、フグは天下に並びないものなので、ここぞと奮発して、手に入れる。甘みのある大根と一緒に煮こむと絶品で、梅堯臣の言うように、春になり、萩が芽吹くのを待っていられない。

図は、Wikipedia より。この絵によると西施は細身で、楊貴妃に比べるとやや淡泊な印象。だとすると河豚のあっさりした味わいを表しているかもしれない。しかし、その身には毒が内在しているので、くわばらくわばら…
【参考文献】
・揖斐高「江戸漢詩の情景」(岩波新書)
・柏木如亭「詩本草」(岩波文庫)
・同「訳注聯珠詩格」(岩波文庫)
・同「柏木如亭詩集 1」(平凡社 東洋文庫)

日本人と漢詩(070)

◎柳川星巖と柏木如亭

もう一回、やや艶っぽい話題をもう一つ。

先日、瀬戸内海縁の親戚から、大ぶりの牡蠣を贈られてきた。そのまま、電子レンジで加温し、食するにとても美味だった。江戸時代にも、牡蠣は美味しい食材として重宝され、例えとして唐・楊貴妃の乳汁と例えられたようだ。(太真は、楊貴妃が道教寺院に在籍していた時の呼称)ちなみに河豚の肉は、同じ中国美人の西施の乳汁とういう意味で、「西施乳」という艶称がついている。

柳川星巖「太真乳」 七言古詩(一部)
君不見開元天子全盛日
日日後宮事嬉春
太真玉乳飽禄児
餘汁入海化不泯

君見ずや 開元の天子 全盛の日
日日 後宮 嬉春《きしゅん》を事とす
太真《たいしん》の玉乳《ぎょくにゅう》 禄児《ろくじ》を飽《あ》かしむ
余汁《よじゅう》 海に入りて化して泯《ほろ》びず

開元:唐の全盛期であった、玄宗在位中の元号。
禄児:その玄宗に反旗を翻した安禄山。楊貴妃のお気に入りだった。

河豚 柏木如亭 「詩本草」より
河豚美而殺人。一名西施乳。又猶之江搖柱名西施舌蠣房名太眞乳。皆佳艷之稱也。
河豚《かとん》、美にして人を殺す。一に西施乳《せいしにゆう》と名づく。又た、猶《な》ほこれ江揺柱《かうえうちゆう》の西施舌《せいしぜつ》と名づけ、蠣房《れいぼう》の太真乳《たいしんにゆう》と名づくるがごとし。皆な佳艶の称なり。
以下は、「フグ=西施乳」として別項にて紹介予定。

こうした伝説によると、今も楊貴妃の乳は今も海に流れ込んでいるらしい。そうすると牡蠣に舌鼓を打ったのは、その余沢にあずかったとも言えるだろう。

【参考文献】
・揖斐高「江戸漢詩の情景」(岩波新書)
・柏木如亭「詩本草」(岩波文庫)
図は、上村松園「楊貴妃」 Wikipedia より

日本人と漢詩(069)

◎江南先生と「六朝詩選俗訓」
普 無名氏・子夜歌十六首より
郞爲傍人取 郎 傍人に取られ
負儂非一事 儂《われ》に負くとこ一事に非ず
攤門不安橫 門を攤《たん》して横を安《ささ》ず
無復相關意 復《ま》た相ひ関する意無し

こちの人は よそのひとにとられた
わしを袖にさつしやること 一《イ》ちどや二どのことではなひ
門の戸をたてよせて くはんぬき《閂》をさゝぬ
もふしめくゝりするきもなひ

⚪関は、門にかけては関鎖とて門うぃしめること、人事にかけては関渉とてかゝりあふこと、又関束とて身帯などのしめくゝりすること、此《コ》詩関する意も無しと云《イツ》て、門戸をしめる心もなきと、かけかまふ意もなしと秀句せるなり。⚪又門を明離《アケハナ》しに横木《くわんぬき》をも安《さゝ》ずに置て何時皈《(帰)》られずとも郎の勝手次第にて置たがよひ。門を関《しめ》る意も無ひ、郎がことに相関《かまふ》意もなひ。郎が放埒を関束《しめくゝ》る意も、身帯家内の事に関鎖《しめくゝり》する意も無いと云。

三句、四句が若干、意味が取れない。門にカギをかける、かけないなどもうどうでもよいことなのか、カギをかけないとは、男に未練がまだ残っているのか、それとも両方の意味なのか?お判りいただければご教示願いたい。

もう一首、やや艶っぽい詩を紹介する。

擥枕北窻臥 枕を攬《とり》て北窓に臥す
郎來就儂嬉 郎来り儂《われ》に就《つ》きて嬉《き》す
小喜多唐突 小喜 多く唐突
相憐能幾時 相憐む 能《よ》く幾時《いくとき》ぞ

まくらをひきよせ なんどにねてゐれば
わしによりそいて ちわをする
ちとうれしいと思へば つかふどなことばかり
しつぽりとすることは よふどれあらふ

なんど:主に家の女性の居所。
ちわ:痴話喧嘩の「ちわ」
つかうど:不愛想。原文の「唐突」は、「つっかかる」くらいの意味。結構、多義的にも解釈できる。

「訳者」の江南先生は、本名は田中応清(1728-1780)、医学と漢学を学び、後者は荻生徂徠の流れを汲む。徂徠の主張は唐時代、それも盛唐の詩を模範とするもので、江南先生が、唐以前の南朝時代の詩、それも艶っぽい題材を選んだのはその後の「江戸情緒」の先触れとして興味深い。晩年は、京都、大阪で医術を生業として、本書を出版、岡山で客死した。

「東洋文庫」の解説で、一首が紹介されていた。
https://japanknowledge.com/articles/blogtoyo/entry.html?entryid=139

【参考文献】「六朝詩選俗訓」江南先生訓訳 都留春雄・釜谷武志校注

日本人と漢詩(068)

◎宋希璟と「老松堂日本行録」

少し、日本人と漢詩という括り方とは離れる。
「老松堂日本行録」は、1420年、室町時代に李徴朝鮮王朝使節として来日した宋希璟(송희경 1378-1446)の著作。足利義満の子、義持の時代、1429年、正式な使節団が朝鮮から派遣される以前のこと、前年には対馬(長崎県)を攻めた応永の外寇が起こっているから、政情はまだ不安定だったことだろう。その中で、往復9ヶ月をかけての、朝鮮・漢陽↔日本・京都の見聞記を序をつけての漢詩の体裁でまとめたのが本書である。その中では当時の日本での大衆の生活をなかなか鋭い観察眼で詩にまとめており、興味深い。おいおいその部分は紹介するが、まずは漢陽を出発するときの巻頭の七言絶句から。

是月十五日受命発京路上即事
特報綸音出漢陽
馬頭佳到柳初黄
此去忩(怱の異字)々人識未
好伝王語奏明光

是《こ》の月十五日命を受けて京を発する路上の即事《そくじ》
特に綸音《りんおん》を報じて漢陽を出ず
馬頭の佳到 柳初《はじ》めて黄なり
此《ここ》を去る怱々《そうそう》にして人識《し》ること未《いま》だし
好し王語を伝えて明光《めいこう》に奏せん

語釈
馬頭の佳到 馬上から見える佳い景色
柳初めて黄なり 李白「宮中行楽詩」柳の色は黄金の嫩《やわら》かに、梨の花は白雪の香《か》んばし
明光 朝鮮の宮廷を指すが、漢武亭の建てた宮殿に由来する 杜甫「壮遊」賦を奏して明光に入りぬ

とまずはこれからの旅路を見通して、その抱負を語る。

考えて見るに、日本と朝鮮半島の交流・外交関係は、直接に歴代中国王朝とのやりとりの中での間接的な折衝はあったにせよ、古代を除いてはそんなに緊密ではなかったようだ。その例外的な事象が、室町時代と江戸時代(途中、「文禄・慶長の役」という日本の侵略を挟む)に起こった。室町時代は、宋希璟の来日を先駆けとして、室町時代では、1429年以降3回、豊臣時代でも2回、江戸時代では計14回に上っている。(Wikipedia 朝鮮通信使)室町時代は、通信使への返礼として、禅僧を朝鮮に派遣したという。江戸時代は、そうした返礼はなかったところには、徳川政権のある種の「狡猾さ」があったのかもしれない。西洋世界にも明るかった新井白石ですら、朝鮮との関係を「朝衡」と「上から目線」でみていたのも象徴的である。もっとも対馬藩と縁が深かった雨森芳州(Wikipedia)は、通信使と対等な詩の応酬をしているのを見ると、関係はずいぶん成熟しているとも言える。
いずれにしても近代になってからの不幸な関係を考えれば、室町~江戸にかけての交流でくみ取れる教訓が存在していることは間違いない。

【参考文献】
・宋希璟「老松堂日本行録」 村井章介校注 岩波文庫
・三橋広夫「これならわかる 韓国・朝鮮の歴史」 大月書店
図は左「首全(李氏朝鮮首都漢陽[現在のソウル])全図 wikipedia より 右宋希璟の漢陽⇔京都での行程図